張寔
張寔、 字 は安遜、安定郡烏氏県の人である。父の軌、字は士彦、 散騎常侍 であった。晋室の多難を以て、密かに河西を保拠せんと図り、涼州を求めたところ、持節・護 羌 校尉 ・涼州 刺史 に任ぜられた。桓帝が西方を攻略した際、軌は使者を遣わしてその地方の産物を貢献した。晋は安西将軍の号を加え、安楽郷侯に封じ、邑一千戸を賜った。永嘉五年、晋は軌を鎮西将軍・ 都督 隴右諸軍事とし、霸城侯に封じた。まもなく車騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。愍帝が即位すると、 司空 に進み、西平公に封ぜられ、邑三千戸を賜った。後に 侍中 ・ 太尉 ・涼州牧に任ぜられた。軌は年老いて病多く、寔を撫軍大将軍とし、涼州刺史を副えた。ほどなく、軌は風病を患い数年、二子が州の事務を代行し、音信を絶って閉ざし、知る者はいなかった。軌は天文に通じており、州内に賊が起こるたび、病を押して仰ぎ観て曰く「害を為すこと能わず」と。終にその言の如くであった。
寔が代わって任を統べると、愍帝は彼を使持節・ 都督 涼州諸軍事・西中郎将・涼州刺史・領護羌 校尉 ・西平公に任じた。劉曜が 長安 を陥落させると、寔は自ら侍中・ 司空 ・大 都督 ・涼州牧を称し、制を承けて事を行った。この時天下は喪乱し、秦雍の民は死者十八九に及び、ただ涼州のみが全うされた。寔は衆の強さを恃み、転じて驕恣となった。平文皇帝四年、寔は左右の閻沙らによって殺害された。先に謡があり「蛇利砲、蛇利砲、公の頭地に墜つるも覚えず」と。寔の住む室の梁の間に人の像がありながら頭がなく、久しくして消滅した。寔はこれを忌み嫌い、まもなく殺害された。寔の弟の茂が任を統べた。
茂、字は成遜、私的に使持節・ 都督 涼州諸軍事・平西将軍・護羌 校尉 ・涼州牧・西平公を署した。閻沙ら百余人を誅殺した。使者を遣わして朝貢した。茂の妻の弟の賈模兄弟が茂を謀害せんとし、茂は彼らを殺した。劉曜が隴に上ると、茂は懼れて降伏し、曜は彼を太師・涼王とした。茂が卒し、子がなく、寔の子の駿が任を統べた。
駿、字は公庭、自ら使持節・大将軍・護羌 校尉 ・涼州牧・西平公を称した。使者を遣わして朝貢した。煬帝の時、隴西の人辛晏が枹罕を以て降伏したので、駿は遂に河南の地を有し、狄道に至り、石勒と境を分けた。
駿は南城を築き、その中に謙光殿を建て、珍巧を窮め、また四面に各々一殿を建て、東を宜陽青殿、南を朱陽赤殿、西を正徳白殿、北を玄武黒殿と称し、服章器物は皆色に依り四時に随ってこれに居り、その傍らに直省寺署があり、一様に方色に依った。その奢侈僭上のこと此の如く、民は労役を以て怨んだ。駿は石田を治めることを議し、参軍の索孚が諫めて曰く「凡そ治を為す者は、動いて天機に逆らわず、作して地徳を破らざるなり。昔、后稷が百穀を播くも、磐石を墾かず、禹が江河を決するも、流勢に逆らわず。今、石を徙して田と為し、土を運んで穀を殖えんと欲す。計らば損ずる所の用、畝に百石を盈たし、収むる所は三石に過ぎず、窃かに未だ安からずとす」と。駿は怒り、孚を伊吾都尉に出した。石が破胡に隕ち、焦げて碎け、声は鼓を撃つが如く、七百里に聞こえた。その処の気は上りて黒きこと煙の如く、煙の首は赤飊の如し。駿は若くして淫佚、常に夜出微行し、邑里を姦乱し、少年は皆これに化した。性また貪惏なり。秦隴を図る意あり。穀帛を民に付し、歳に倍利を収め、利充たざる者は、簿に田宅を売らしめた。
武威・武興・西平・張掖・酒泉・ 建康 ・西海・西郡・湟河・晋興・広武の十一郡を分けて涼州とし、長子の重華を刺史とした。興晋・金城・武始・南安・永晋・大夏・武城・漢中の八郡を河州とし、その寧戎 校尉 張瓘を刺史とした。敦煌・晋昌・高昌、西域都護・戊己 校尉 ・玉門大護軍、三郡三営を沙州とし、西胡 校尉 楊宣を刺史とした。駿は私的に大 都督 ・大将軍・仮涼王・督摂三州を署した。始めて諸祭酒・郎中・大夫・舎人・謁者の官を置き、官号は皆天朝に擬し、而して微かにその名を弁じた。六佾の舞を舞い、豹尾を建て、車服旌旗は一に王者の如し。軌が涼州を保ったのは陰澹の力による。駿は陰氏の門宗が強盛なるを以て、これを忌み、乃ち澹の弟の鑒を逼って自殺を命じ、ここに大いに人心を失う。駿は病に就きて後、鑒が祟りを為すを見、遂に死す。時に建国九年なり。子の重華が任を統べた。
重華、字は太林。私的に使持節・大 都督 ・太尉公・護羌 校尉 ・涼州牧・西平公・仮涼王を署した。石虎が麻秋に衆を率いさせて河を渡り、長最に城す。涼州震動す。司馬の張耽が主簿の謝艾を重華に薦め、重華はこれを任用した。艾は秋の将の綦毌安らを撃ち斬り、俘斬一万五千人。重華は使者を遣わして朝貢し、自ら丞相・涼王・領秦雍涼三州牧を署した。重華死し、子の曜霊が任を統べた。
曜霊、年十歳。自ら大司馬・涼州牧を称し、重華の兄の祚を撫軍将軍として政を輔えさせた。祚は先に重華の母の馬氏と私通し、密かに馬氏に曜霊の幼弱なるを説き、長君を立てるを須いとし、馬氏これに従い、遂に曜霊を廃して祚を立てた。曜霊はまもなく祚によって殺害された。
祚、字は太伯。任を統べるや、自ら大将軍・涼州牧・涼公を称した。専ら姦虐を為し、駿及び重華の子女で未だ嫁がざる者を皆淫し、涼州の人士は咸く牆茨を賦した。初め、重華の末年、螽斯の虫が安昌門外に集まり、壁に縁りて逆行す。都尉の常據が諫めて曰く「螽斯は祚の小字なり、今乃ち逆行す、災の大なる者なり、願わくはこれを出ださんことを」と。重華曰く「子孫繁昌の徴なり、何を以て災と為さん。吾、昨夢に祚が位を摂るを見、方に周公の事を委ね、世子を輔翼せんとす」と。而して祚は終に曜霊を殺す。
自ら涼王を署し、宗廟を立て、百官を置き、号して和平元年とす。使者を遣わして朝貢す。また軌以下に王号を追加す。酒泉において謝艾を濫殺す。郎中の丁琪が祚の僭窃を諫め、祚は琪を闕下にて斬る。諸神祀を廃し、山川枯竭す。五都尉を置き、人の姦過を司らしむ。四品以下は繒帛を衣することを得ず、庶人は奴婢を畜し、車馬に乗ることを得ざるを禁ず。百姓怨憤す。光ありて状は車蓋の如く、声は雷の如く、城邑を震動す。仲夏に霜降る。神降りて自ら「玄冥」と称し、人と交語す。祚は日夜これを祈り、神は其の福利を言う。祚これ信ず。衆は祚の必ず敗るるを知るも、祚は暴虐ますます甚だし。
明年、祚の河州刺史張瓘が兵を起こして祚を討ち、 驍 騎将軍の宋混が衆を率いて瓘に応ず。混は姑臧を進攻す。祚は侍中の索孚を遣わして瓘を伐たしむ。王鸞なる者有り、「師出でて必ず敗る」と云い、 并 せて祚の三不道を陳ぶ。祚は妖言を以て衆を惑わすとし、これを斬る。鸞は刑に臨みて曰く「我が死したる後、軍は外に敗れ、王は内に死す」と。祚はその族を誅す。宋混、姑臧に至る。領軍の趙長らが宮門を開いてこれに応ず。殿に入りて万歳を称す。祚は長らが混を破りしと以為い、出でてこれを労う。長は槊を以て祚を刺し額に中つ。祚は奔り入り、厨士の徐黒によって殺され、尸を道左に暴く。城内咸く万歳を称す。瓘らは重華の少子の玄靖を立てて任を統べさせた。
玄靖、字は元安。自ら使持節・大 都督 ・大将軍・涼王を署す。瓘を 尚 書 令・涼州牧として政を秉らせ、宋混を尚書 僕射 とした。
張瓘は猜疑心が強く悪辣であり、賞罰はすべて好悪によって行われ、もはや綱紀はなかった。郎中の殷郇が損益を陳べ、張瓘を諫めたが、張瓘は言うには「虎は生まれて三日で肉を食らう、人に教わる必要はない」と。これにより言う者はなくなった。張瓘が玄靖と参乗して城を出ると、城北大橋の三つの梁がすべて折れた。張瓘はこれを忌み嫌い、そこで日々に銭帛をばら撒き、私的な恩恵を施したが、都の街では殺人が絶えず、朝ごとに途絶えることがなかった。乱を思う者は十軒に九軒に及んだ。東苑の大きな塚の上に突然池水が現れ、城東の大沢では、地が突然に火を噴いて燃え上がり、広さ数里に及んだ。そこで宿怨のある牛旋らを殺して水火の変異に応じた。張瓘は諸宋を誅殺し、玄靖を廃して自立しようと謀った。先に、太白星が輿鬼を守り、占う者は州の分界とし、暴兵があるはずだとし、故に張瓘はこれを鎮めようとした。ここにおいて宋混が衆を率いて張瓘を誅し、張瓘は先に妻子三十人を殺し、そして自殺した。
玄靖は宋混を驃騎大將軍・ 尚書令 とした。宋混が病死すると、弟の玄安が代わって政を補佐した。旱魃のため帯石山に祈ると、玄安は登ろうとしたが、弟(名は世宗の 諱 に触れる)が言うには「世の人はこの山に登る者は家を破り身を亡ぼすと言う」と。玄安は言うには「どうしてそんなことがあろうか」と。策馬して登ると、馬が倒れて足を傷つけた。御史房の屋柱が自然に燃えて焦げ折れ、ある者は言うには「柱という字は、左に木、右に主であり、『宋』の字は木を含む。木が焦げれば、宋は破れて主は存する、災いの大きいものであり、これを防ぐべきである」と。また乗っていた五匹の馬が、一夜のうちに鬣と尾が禿げ、人は言うには「尾という字は、尸の下に毛であり、毛が去れば尸となる、絶滅の兆しである」と。玄安は言うには「吉凶は天にあり、知ったところでどうしようもない」と。間もなく、玄安の司馬張邕が兵を起こして玄安を殺し、宋氏をことごとく誅殺した。先に謡があった「宋を滅ぼす者は田土子なり」と。
張邕、一名は野。張邕は刑殺が度を過ぎ、内外ふたたび乱を思うようになり、張駿の末子の天錫が民心に乗じて兵を起こし張邕を殺し、冠軍大將軍として政を補佐した。玄靖の庶母郭氏は天錫が権を擅にするのを以て、張氏の疏族と謀ってこれを誅殺しようとしたが、事が発覚し、天錫は玄靖を殺して自立した。
天錫、字は純嘏、一名は公純。私的に使持節・大 都督 ・大將軍・護羌 校尉 ・涼州牧・涼王を署任した。泥中に火が燃えることがあった。天錫は驕り放恣で淫らで愚かであり、民の務めを顧みず、元日には寵愛する者とみだらに飲んだ。既にして。□□群臣が朝賀したが、またその母を省みなかった。從事中郎の張慮が棺を車に載せて切に諫め、かつ大覲を求めたが、天錫は受け入れなかった。昭成帝の末、苻堅が将の苟萇を遣わして涼州を伐ち、これを破り、天錫は苟萇に降った。初め張駿の時に謡があった「劉新婦が米を簸ぎ、石新婦が羖を炊き、羝が蕩滌し、張兒を簸ぎ、張兒がこれを食らうに口正に披く」と。この時、姑臧および諸郡国の童児が皆これを歌い、劉曜・石虎がともに涼州を伐って克たず、苻堅に至って降ったのである。天錫は長安に至り、苻堅は尚書に拝した。苻堅が壽春で敗れると、天錫は建康に奔った。
乞伏國仁
鮮卑 の乞伏國仁は、隴西より出る。その先祖の如弗は漠北より南に出た。五代祖の祐隣は諸部を併合し、部衆は次第に盛んとなった。父の司繁は部落を擁して苻堅に降り、南単于とされ、また鎮西將軍に拝され、勇士川を鎮守した。司繁が死ぬと、國仁が代わって任を統べた。苻堅が司馬昌明を伐つに当たり、國仁を前將軍とし、騎兵の先鋒を領させた。苻堅の敗北に及び、國仁の叔父の歩頹が隴右で叛き、苻堅は國仁にこれを討たせたが、歩頹は大いに喜び、迎えてこれを推し、部落を招集し、衆十余万を得た。太祖の時、私的に大 都督 ・大將軍・大単于・秦州河州牧を署し、年号を建義と号し、官属を署置し、部内を分けて十一郡とし、勇士城を築いてこれに都した。
國仁が死ぬと、弟の乾帰が事を統べ、自ら大 都督 ・大將軍・大単于・河南王を署し、年号を太初と改め、百官を署した。登国年間中、金城に遷った。南門が自ら壊れ、乾帰はこれを忌み嫌い、苑川に遷った。まもなく姚興に破られ、また枹罕に奔り、ついに姚興に降り、姚興は河州刺史に拝し、帰義侯に封じた。まもなく苑川に還った。乾帰はついに姚興に背き、私的に秦王を称し、百官を置き、年号を更始とした。使者を遣わして援軍を請うと、太宗はこれを許した。後、乾帰が五谿で狩猟していると、梟がその手に集まり、まもなく兄の子の公府に殺された。子の熾磐が公府を殺し、代わって位を統べた。
熾磐は、自ら大將軍・河南王を称し、年号を永康と改めた。後、楽都において禿髮傉檀を襲い、これを滅ぼし、ついに私的に秦王を署し、百官を置き、年号を建洪と改めた。後、その尚書郎の莫胡・積射將軍の乞伏又寅らを遣わして黄金二百斤を貢ぎ、 赫連 昌を伐つことを請うと、世祖はこれを許した。世祖が統万を平定するに及び、熾磐はその叔父の平遠將軍の泥頭・弟の安遠將軍の度質を京師に遣わし、またその 中書 侍郎の王愷・丞相從事中郎の烏訥闐を使わして表を奉り方物を貢いだ。熾磐が死ぬと、子の暮末が任を統べた。
暮末、字は安石跋。即位すると、年号を永洪と改めた。その尚書隴西の辛進はかつて熾磐に従って後園に遊んだことがあり、進が鳥丸を弾いた際、誤って暮末の母の顔面を傷つけ、この時に至って進の五族二十七人を殺した。暮末の弟の殊羅が熾磐の左夫人の禿髮氏と密通し、暮末は知ってこれを禁じた。殊羅は恐れ、叔父の什夤と謀って暮末を殺そうとした。禿髮氏が内から門の鍵を盗んだが、鍵が合わず、門番が暮末に告げ、その党与を捕らえてことごとく殺した。什夤を鞭打とうとすると、什夤は言うには「我は汝に死を負うとも、汝の鞭には負わない」と。暮末は怒り、その腹を刳り、屍を河に投げた。什夤の同母弟の白養および去列が頗る怨言があったので、またこれを殺した。政刑は残酷で濫り、内外は崩れ離れ、部民は多く叛き、人は乱を思った。後、赫連定に逼迫され、王愷・烏訥闐を遣わして世祖に迎えを請うと、世祖は安定以西・平涼以東を封ずることを以て許した。暮末はついに城邑を焼き、宝器を毀ち、一万五千戸を率いて高田谷に至ったが、赫連定に拒まれたため、ついに南安を保った。世祖が使者を遣わして迎えると、暮末の 衞 將軍の吉毗が固く諫め、内徙すべきではないとし、暮末はこれに従った。赫連定がその北平公の韋伐に衆一万を率いさせて南安を攻めると、城内は大いに飢え、人々は互いに食らった。神䴥四年、暮末および宗族五百余人が出て降り、上邽に送られた。
禿髮烏孤
鮮卑の禿髮烏孤は、八世祖の匹孤が塞北より河西に遷った。その地は東は麥田・牽屯に至り、西は濕羅に至り、南は澆河に至り、北は大漠に接する。匹孤が死ぬと、子の壽闐が任を統べた。初め母が壽闐を孕んだ時、寝ているうちに被の中で産んだため、禿髮と名付け、その俗では被覆の意味である。五世祖の樹機能は壮健で果断、謀略多く、晋の泰始年間中、萬斛堆において秦州刺史の胡烈を殺し、金山において涼州刺史の蘇愉を破った。咸寧年間中、また丹嶺において涼州刺史の楊欣を斬り、涼州の地をことごとく有した。後、部民の没骨に殺され、従弟の務丸が任を統べた。務丸の曾孫の思復犍は、部衆がやや盛んとなり、すなわち烏孤の父である。
思復犍が死ぬと、烏孤が任を統べた。皇始初年、呂光は烏孤を益州牧・左賢王に拝した。烏孤は私的に大 都督 ・大將軍・大単于・西平王を署し、年号を太初とした。天興初年、烏孤はまた武威王を称し、治めを楽都に移し、車騎將軍以下を置き、郡県を分立した。烏孤は酒のため馬を走らせ、馬が倒れて脇腹を傷つけ、笑って言うには「危うく呂光父子に喜ばれるところであった」と。まもなくして死んだ。
弟の涼州牧・西平公の利鹿孤が統任し、治所を西平に移し、年号を建和と改めた。使者を遣わして朝貢した。弟の車騎将軍の傉檀を派遣して呂纂を防がせた。呂纂の兵馬は精鋭であり、軍人は大いに恐れたが、傉檀は馬から下りて胡牀に据わり、衆の心を安んじた。そして甲冑を貫いて交戦し、呂纂の軍を破り、二千余級を斬った。利鹿孤は私的に百官を置き、丞相以下を任命した。
利鹿孤が死ぬと、傉檀が統任し、私的に涼王を称した。楽都に還って居住し、年号を洪昌とした。使者を遣わして朝貢した。
天賜年間、傉檀は偽って姚興に降り、姚興は傉檀を涼州刺史とし、ついに姑臧を占拠した。沮渠蒙遜と均石で戦い、蒙遜に敗れた。傉檀はまた赫連屈丐に陽武で破られ、数千騎で南山に奔り、追騎に捕らえられそうになった。東西の敵の来襲を恐れ、三百里内の民を姑臧に移した。姚興は隙に乗じて将の姚弼らを城下に派遣した。傉檀は野に牛羊を放ち、姚弼の兵が掠奪に夢中になっているところを分かち撃ちして大破し、姚弼は退却した。傉檀はまた自ら涼王を称し、百官を置き、年号を嘉平と改めた。永興年間、全軍を挙げて沮渠蒙遜を討ったが、窮泉で蒙遜に敗れ、単騎で姑臧に帰った。蒙遜に滅ぼされることを恐れ、楽都に遷った。蒙遜は兵を率いてこれを包囲し、家屋を築き耕作に戻り、持久の計をとった。傉檀は子の保周を蒙遜に人質として差し出し、蒙遜はようやく兵を引いた。
神瑞初年、傉檀は騎兵を率いて乙弗虜を撃ち、多くを捕獲したが、乞伏熾磐が虚に乗じて楽都を襲撃し陥落させ、傉檀の子の虎臺以下を捕らえた。傉檀はこれを聞いて言った。「もし熾磐のもとに帰れば、奴僕となるのだ。どうして妻子が他人の懐にいるのを見るに忍びようか」と。衆を率いて西に向かったが、衆は皆離散した。傉檀は言った。「蒙遜も熾磐も昔は我に委質した者である。今彼らに帰するのは、あまりに卑しいではないか。四海の広さに身を容れる所がないとは、なんと痛ましいことか」。やがて嘆いて言った。「我は老いた。寧ろ妻子に会って死のう」。ついに熾磐に降り、熾磐は上賓の礼をもって遇し、驃騎大将軍に任じ、左南公に封じた。一年余り後、毒殺した。傉檀の末子の賀は、後に来奔したが、別に伝がある。
李暠
李暠は、字を玄盛、小字を長生といい、隴西狄道の人で、漢の前将軍李広の後裔である。曾祖父の柔は、晋の相国従事中郎・北地太守であった。祖父の太は、張祚の武衛将軍であった。父の昶は早くに亡くなり、李暠は遺腹子である。皇始年間、呂光の建康太守段業が自ら涼州牧を称し、敦煌太守の孟敏を沙州刺史とし、李暠を効穀令とした。孟敏が死ぬと、敦煌護軍の郭謙らが李暠を推して寧朔将軍・敦煌太守とした。段業が私的に涼王を称すると、李暠は偽って段業に臣従し、段業は李暠を鎮西将軍とした。天興年間、李暠は私的に大 都督 ・大将軍・護羌 校尉 ・秦涼二州牧・涼公を称し、年号を庚子とし、敦煌に居て、使者を遣わして朝貢した。天賜年間、年号を建初と改め、酒泉に遷り、毎年職貢を修めた。李暠が死ぬと、子の歆が統任した。
歆は、字を士業といい、自ら大 都督 ・大将軍・護羌 校尉 ・涼州牧・涼公を称し、年号を嘉興元年とした。鮮支澗で沮渠蒙遜を大破し、七千余級を獲た。使者を遣わして朝貢した。歆は蒙遜が南伐して乞伏を討つと聞き、兵を起こして張掖を攻めた。その母の尹氏が歆に言った。「汝の国は新たに造られたばかりで、地は狭く民は少ない。蒙遜は勇猛で武に長け、汝はその敵ではない。我が観るに、彼は数年この方、謀略を巡らし、併呑の志がある。また天時と人事は、彼に帰するかのようだ。徳を量り力を度るは、春秋の義である。先王の遺令に『兵戦を深く慎み、境を保ち民を寧んじ、時を待って動くべし』と言う。その言葉がまだ耳に残っているのに、どうして忘れるのか。汝が必ず行くならば、軍が敗れるのみならず、国もまた亡びるであろう」。歆は従わず、ついに歩騎三万を率いて東伐し、都瀆澗に駐屯した。蒙遜は浩舋から出て歆を防ぎ、懐城で戦い、蒙遜に敗れた。左右は歆に酒泉に還るよう勧めたが、歆は言った。「我は太后の明らかな教えに背き、遠征して敗北と辱めを受けた。この胡(蒙遜)を殺さずして、どうして母に顔を合わせられようか」。衆を率いて再び戦ったが、蓼泉で敗れ、蒙遜に殺され、蒙遜はついに酒泉を陥落させた。歆がまだ敗れる前、一匹の大蛇が南門から入り、歆の恭徳殿の前に至り、一対の雉が飛び出した。宮内の通りの大樹の上で烏と鵲が巣を争い、鵲が烏に殺された。敦煌の父老の令狐熾が、白頭の公が帢衣を着て現れ、「南風動き、長木を吹く。胡桐椎、轂に中らず」と言う夢を見た。言い終わると、忽然として見えなくなった。歆の小字は桐椎であり、ここに至って滅んだのである。
歆の弟の敦煌太守の恂が、また敦煌で自立し、冠軍将軍・涼州刺史を称した。蒙遜は敦煌で恂を攻め、三面に堤を築き、水で城を灌漑した。恂は降伏を請うたが、許されなかった。城が陥落し、恂は自殺し、蒙遜は敦煌を陥落させた。恂の兄の翻の子の宝は後に国(北魏)に入り、別に伝がある。
沮渠蒙遜
胡の沮渠蒙遜は、本来臨松盧水の出身で、その先祖は 匈奴 の左沮渠であったため、官を氏とした。蒙遜は滑稽で権変に富み、天文に通暁し、諸胡の帰するところとなった。呂光がその伯父の西平太守の羅仇を殺すと、蒙遜は万余人の衆を集め、金山に屯し、従兄の晋昌太守の男成と共に建康太守の段業を推して使持節・大 都督 ・龍驤大将軍・涼州牧・建康公とし、年号を神璽元年とした。段業は蒙遜を張掖太守とし、臨池侯に封じ、男成を輔国将軍とし、軍国の任を委ねた。段業は自ら涼王を称し、蒙遜を尚書左丞としたが、蒙遜の威名を忌み、次第に遠ざけた。天興四年、蒙遜は内心安からず、安西太守となることを請うた。蒙遜はその衆を怒らせようと、密かに男成が叛逆したと誣告し、段業は男成を殺した。蒙遜は泣きながら衆に告げ、復讐を志すことを述べた。男成は平素より恩信があり、衆情は怨み憤り、泣いてこれに従った。蒙遜はこれにより兵を挙げて段業を攻め殺し、私的に使持節・大 都督 ・大将軍・涼州牧・張掖公を称し、年号を永安とし、張掖に居た。
永興年間、蒙遜は姑臧を陥落させ、遷って居住した。年号を玄始元年と改め、自ら河西王を称し、百官の丞郎以下を置き、頻繁に使者を遣わして朝貢した。蒙遜が新台で寝ていると、宦官の王懐祖が蒙遜を斬りつけて足を傷つけた。蒙遜の妻の孟氏が王懐祖を捕らえて斬った。蒙遜は劉裕が姚泓を滅ぼしたと聞き、大いに怒り、校書郎が事を言上すると、蒙遜は言った。「汝は劉裕が関中に入ったと聞いて、敢えて妍妍然(得意げに)としているのか」。遂にこれを殺した。その峻烈暴虐はこのようなものであった。泰常年間、蒙遜は李歆を破り、まもなく敦煌を滅ぼした。後に年号を承玄と改めた。
神䴥年間(北魏太武帝の年号)、尚書郎の宗舒・左常侍の高猛を遣わして朝貢し、上表して曰く、「伏して惟うに、陛下は天が叡聖を縦し給い、徳は百王を超え、陶育は二儀(天地)に斉しく、洪基は三代(夏殷周)に隆し。然れども鍾運多難にして、九服紛擾し、神旗暫く擁するも、車書未だ同じからず。上霊降祐し、祚は有道に帰す。純風一鼓し、殊方革面す。群生幸甚、率土斉欣す。臣、誠に弱才にして、効は録すべき無し。幸いに重光に遇い、竭力命を思う。自ら老いに投ずるを欣び、盛化を覩るを得たり。余年を終わるを冀い、皇極に憑倚す。前後奉表し、貢使相望む。去る者は杳然として、寂として旋返無し。未だ審らかにせず、津塗の寇険、竟に仰達せず、天朝高遠なるが為に、未だ歯録を蒙らざるか。屏営戦灼し、地無く自ら措く。往年、侍郎郭祇等還り、詔書を奉被し、三接の恩始めて隆く、万里の心有り頼む。今、極難の余、開泰唯だ始まる。誘勧既に加わり、引納弥に篤し。老臣見存し、遐外棄てられず、仰いで愷悌の仁を荷い、俯して康哉の詠に蹈む。然れども商胡後至し、公卿の書を奉り、歴数安危の機を援引し、竇融知命の美を以て厲す。顧みて惟うに、情願実に深く悚惕す。何者ぞ。臣自ら揆えず、遠く大蔭に託し、庶幾くは微誠上宣し、天鑒下降せんことを。若し万国来庭し、百辟陛賀せば、高蹈先至の端をし、独歩知機の首を歩む。但だ世難尚ほ殷く、情願未だ遂げず、章表頻りに修め、滞懐暢かならず、身を国に許し、款誠表れ莫し。群后を致惑し、公卿に貽慮し、辞旨紛紜し、抑引重沓し、同奬の例に在らず、拱辰の心に達せず、首を延べて一隅にし、四極に低回す。臣歴観符瑞し、候察天時す。未だ皇魏に過ぎ、陛下に踰ゆる無し。加うるに霊聖姿を啓し、幼く天位に登り、美詠は成康に侔し、道化は文景に踰ゆ。方に将に神綱を振って六合を掩い、玄沢を洒いで八荒を潤さんとす。況んや秦隴荼炭の余に在りては、直に是れ老臣尽効の会なり。」
後に蒙遜は子の安周を内侍として遣わし、世祖は兼太常の李順に節を持たせ、蒙遜を仮節・侍中・ 都督 涼州西域羌戎諸軍事・ 太傅 ・行征西大将軍・涼州牧・涼王に拝することを命じた。冊書に曰く、「昔、我が皇祖は黄軒(黄帝)より冑し、群才を総御し、戎夏を摂服し、曜を疊ね光を重ね、其の旧を殞さず。太祖に逮び、期に応じ運に協い、大業唯だ新たにし、区宇を奄有し、命を受けて魏を作す。太宗に降り及び、崇基を広く闢き、政和み民阜す。朕、天緒を承け、宇県を廓さんと思う。然れども時運或いは否み、雰霧四張し、赫連は関西に跋扈し、大檀は漠北に陸梁し、戎夷は阻に負い、江淮未だ賓せず。是を用いて東より西に徂き、戎軒屡駕す。宗廟霊長に頼り、将士力に宣び、兇渠を克く翦い、強獷を震服し、四方漸く泰し、表裏塵無し。王は先ず機運を識り、経略深遠にして、朕と協同し、厥の功洪茂なり。当今、運は時季に鍾し、僭逆は陵に憑り、土有る者は莫く一隅に跨峙せず、民有る者は莫く其の私号を栄さず、衆星極を拱するの道に遵わず、細流海に帰するの義を慕わず。而るに王は大體を深く悟り、典章に率由し、土に任じて珍を貢ぎ、愛子をして入侍せしむ。勳義著はれり、道業存せり。惟うに王の乃祖乃父は土有り民有り、功徳を論ずれば則ち当時に二無く、氏族を言えば則ち始め世爵に因る。古先帝王、賢を褒め徳を賞するに、莫く土を胙し民を分ち、藩輔と為して建つ。是を以て周成は太公を命じて東海を表し、襄王は 晉 文に錫いて大いに南陽を啓く。是を用いて涼州の武威・張掖・敦煌・酒泉・西海・金城・西平の七郡を割き、王を封じて涼王と為す。茲の素土を受け、白茅を以て苴し、冢社を建て、魏室の藩輔と為し、盛衰存亡、魏と升降を同じくす。夫れ功高ければ則ち爵尊く、徳厚ければ則ち任重し。又た命を加えて王をして百揆に入り賛せしめ、幃幄に謀謨せしめ、出征して懐かず、侯伯を登摂せしむ。其れ太傅を行い征西大将軍と為し、鉞を仗り旄を秉り、河右に鷹揚し、遠く王略を祛き、荒隅を懐柔し、北は窮髪に尽き、南は庸岷に極まり、西は崐嶺に被り、東は河曲に至る。王実に之を征し、以て皇室を夾輔せよ。又た王に命じて国を建てしむ。将相群卿百官を署し、制を承り仮授し、文官刺史已還・武官撫軍以下を除く。天子の旌旗を建て、出入に警蹕し、漢初諸侯王の故事の如くせよ。欽け哉惟れ時、往きて乃ち職を践み、朕が命を祗服し、天工に協亮し、俾くは九徳咸く事え、庶官に忝かざらしめ、以て爾が顕徳を終え、我が皇祖の休烈に対揚せしめよ。」(これは崔浩の文辞である。)
蒙遜は又た義和元年と改称した。延和二年四月、蒙遜死す。使いを遣わして喪事を監護し、 諡 して武宣王と曰う。蒙遜は性淫忌にして、刑戮に忍び、閨庭の中、略々風礼無し。
第三子の牧犍が任を統べ、自ら河西王と称し、使いを遣わして朝命を請う。
先に、世祖は李順を遣わして蒙遜の女を迎え夫人と為さんとしたが、会に蒙遜死す。牧犍は蒙遜の遺意を受け、妹を京師に送り、右昭儀に拝せられる。承和元年と改称す。世祖は又た李順を遣わし、牧犍を使持節・侍中・ 都督 涼沙河三州西域羌戎諸軍事・車騎将軍・開府儀同三司・領護西戎 校尉 ・涼州刺史・河西王に拝す。牧犍は功無くして賞を受くるを以て、乃ち順を留め、表を上りて安・平の一号を乞う。優詔して許さず。牧犍は世祖の妹の武威公主を 尚 り、其の相の宋繇に表謝せしめ、馬五百匹・黄金五百斤を献ず。繇は又た表を上りて公主及び牧犍の母妃の后定の号を請う。朝議に謂う、礼は母は子を以て貴く、妻は夫の爵に従う。牧犍の母は宜しく河西国太后と称すべく、公主は其の国内に於いては王后と称すべく、京師に於いては則ち公主と称すべしと。詔して之に従う。牧犍は其の将軍の沮渠旁周を遣わして京師に朝せしめ、世祖は侍中の古弼・尚書の李順を遣わして其の侍臣に衣服を賜うこと差有らしめ、 并 せて世子の封壇を徴して入侍せしむ。牧犍は乃ち封壇を遣わして京師に朝せしむ。
太延五年(439年)、世祖(太武帝)は尚書の賀多羅を涼州に派遣し、その実情を観察させた。牧犍は外見上は臣従して貢物を献じていたが、内実は多く背反していたので、親征することとした。公卿に命じて書を草し、牧犍を責めて言うには、「王は外では 正朔 に従いながら、内では僭称を捨てず、これが罪の第一である。民籍と地図を公府に登録せず、土地の産物を貢納としても司農に入れず、これが罪の第二である。既に王爵を受けながら、また偽りの官職をも受け、両端の栄誉を取り、二つなき寵愛を求め、これが罪の第三である。朝廷が遠方を懐柔しようと志していることを知りながら、固く聖略に背き、商胡に重税を課して行旅を断ち、これが罪の第四である。西戎に向かって大言し、自ら驕り高ぶり、これが罪の第五である。自ら封土を肥やすことに専念し、入朝しようとせず、これが罪の第六である。北は叛虜に頼り、南は仇池を引き入れ、谷軍を頼みとして、手を携えて奸計を巡らし、これが罪の第七である。詔勅の期限を過ぎても、勝手に征・鎮の官を仮授し、これが罪の第八である。敵の全きを喜び、我が敗れを幸いとし、王人を侮り慢って、供応を礼をもってせず、これが罪の第九である。既に帝室と婚姻し、功労ある旧臣を超える寵愛を受けながら、欲望を恣にし、その嫂を蒸淫し、これが罪の第十である。既に夫婦の体に背き、婚姻の義を篤くせず、公然と毒を用い、公主を害そうと図り、これが罪の第十一である。王人を厳重に防備し、関所や要地を守り候し、あたかも寇讎の如くし、これが罪の第十二である。臣としてこのようである、どうして許すことができようか!先に令を下し後に誅するは、王者の典である。もし自ら群臣を率い、贄を委ねて郊外で迎え、馬首に謁拜するならば、上策である。六軍が既に臨んだならば、面縛して輿櫬を携えるは、またその次である。もし迷いを守って窮城に籠り、時に及んで悔い改めなければ、身は死に族は滅び、世の大いなる戮となる。その中をよく考え、自ら多福を求めるがよい。」
官軍が黄河を渡ると、牧犍は言った、「どうしてこのようなことがあるのか!」と。その左丞姚定国の計を用い、出迎えようとせず、 蠕蠕 に救援を求め、また弟の董来に命じて兵一万余りを率いさせ、官軍を城南で防がせたが、戦って退いた。車駕が姑臧に至ると、使者を遣わして牧犍に出るよう諭させた。牧犍は蠕蠕が善無に侵入したと聞き、車駕が引き返すことを幸いとして、遂に城に籠って自ら守った。牧犍の兄の子の祖が城を越えて出降し、その事情を詳しく知ったので、世祖は諸軍を率いて進攻した。牧犍の兄の子の万年が麾下を率いてまた降って来た。城が陥落すると、牧犍は左右の文武と共に面縛して罪を請うた。詔してその縛を解かせた。涼州の民三万余家を京師に移した。
初め、太延年間(435-440年)、一人の父老が敦煌城の東門に書を投げ入れ、忽然として見えなくなった。その書は紙一枚に八字で、文に曰く、「涼王三十年、若七年」と。また、雷電の際に得た石に、丹書で「河西、河西三十年、破帯石、楽七年」とあった。帯石は山の名で、姑臧の南山の祀の傍らにあり、泥で陥没して通じなかった。牧犍の征南大将軍董来が言うには、「祀に何の知ることがあろうか!」と。遂に祀を壊し木を伐り、道を通して行った。牧犍が立ってから、果たして七年で滅び、その言の如くであった。牧犍は嫂の李氏を淫し、兄弟三人が伝えいて寵愛した。李は牧犍の姉と共に公主に毒を盛った。上は解毒医を駅伝で走らせて公主を救い、全快させた。上は李氏を召し出そうとしたが、牧犍は遣わさず、厚く送って酒泉に住まわせた。上は大いに怒った。既に征服した後も、なお妹婿として遇した。その母が死ぬと、王太妃の礼をもって葬った。また蒙遜のために守墓の家三十戸を置いた。牧犍を改めて征西大将軍に任じ、王は元の如くとした。
初め、官軍が入城する前の間、牧犍は人を使い府庫を切り開かせ、金銀珠玉及び珍奇な器物を取らせ、再び封鎖しなかった。小民がこれに乗じて盗みに入り、大小となく蕩然として尽きた。有司が賊を求めたが得られなかった。真君八年(447年)、その親しい者及び蔵を守る者が告発したので、上は遂にその事を窮め、その家中を捜索して、蔵匿していた器物を悉く得た。また、牧犍父子が多く毒薬を蓄え、前後隠れて窃かに人を殺すこと百数に及んだこと、姉妹は皆左道に走り、徒党を組んで淫佚を行い、少しも恥じる様子がなかったことを告げた。初め、罽賓の沙門で曇無讖という者が、東に進んで鄯善に入り、自ら「鬼を使い病を治し、婦人に多く子を産ませることができる」と言い、鄯善王の妹の曼頭陀林と私通した。発覚し、逃亡して涼州に奔った。蒙遜はこれを寵愛し、「聖人」と号した。曇無讖は男女交接の術を婦人に教授し、蒙遜の諸女や子の婦は皆これを受法した。世祖は行く人々から曇無讖の術のことを聞き、乃ち曇無讖を召し出そうとした。蒙遜は遣わさず、遂にその事を暴露し、拷問して殺した。この時、帝はこのことを知り、そこで昭儀の沮渠氏に死を賜い、その宗族を誅した。ただ万年と祖は以前に先だって降ったので免れた。この年、また人が告発して、牧犍がなお旧臣民と交通して謀反を図っていると言った。詔して 司徒 の崔浩を公主の邸に遣わし、牧犍に死を賜うた。牧犍は公主と訣別し、良久にして自ら裁断した。王礼をもって葬り、諡して哀王とした。公主が薨じると、詔して牧犍と合葬させた。公主に男子はなく、女子があった。国甥として親寵を受け、母の爵を襲って武威公主となることを得た。
蒙遜の子の秉、字は季義。世祖はその父の故をもって、東雍州刺史に拝した。険詖で手段多く、真君年間(440-451年)中、遂に河東の蜀の薛安都と謀って叛逆した。京師に至り、その兄弟に付して扼殺させた。
万年と祖は共に先に降ったので、万年は安西将軍・張掖王に拝し、祖は広武公となった。万年は後に冀・定二州刺史となったが、また謀反の罪に坐し、祖と共に死んだ。
初め、牧犍が敗れた時、弟の楽都太守安周は南に吐谷渾に奔った。世祖は鎮南将軍の奚眷を遣わしてこれを討たせた。牧犍の弟の酒泉太守無諱は晋昌に奔った。そこで弋陽公の元絜をして酒泉を守らせた。真君初年(440年)、無諱が酒泉を包囲すると、絜はこれを軽んじ、城を出て語らったが、無諱に捕らえられた。絜の配下の者は相率いて固守したが、無諱はなおこれを包囲し、糧尽きて無諱に陥落させられた。無諱はまた張掖を包囲したが、陥とすことができず、退いて臨松を保ち、遂に還った。世祖は詔を下してこれを諭した。時に永昌王の健が涼州を鎮守していた。無諱はその中尉の梁偉を健のもとに遣わし、酒泉を奉じることを求め、また絜及び統帥の兵士を健の軍に送った。二年(441年)の春、世祖は兼鴻臚を遣わし、節を持たせ策書を授けて無諱を征西大将軍・涼州牧・酒泉王に拝した。間もなく無諱がまた叛逆を企てたので、再び鎮南将軍・南陽公の奚眷を遣わして酒泉を討たせ、これを陥とした。
無諱は遂に流沙を渡ることを謀り、安周を遣わして西に鄯善を撃たせた。鄯善王は恐懼して降伏しようとしたが、たまたま魏の使者が来て拒守するよう勧めた。安周は遂に連戦したが、陥とすことができず、退いて東城を保った。三年(442年)の春、鄯善王の比龍が西に且末に奔ると、その世子は安周に従い、鄯善は大いに乱れた。無諱は遂に流沙を渡ったが、士卒の渇死する者大半に及び、なお鄯善を占拠した。
先に、高昌太守の闞爽が李宝の舅の唐契に攻められ、無諱が鄯善に至ったと聞き、使者を遣わして詐降し、無諱に唐契と相撃たせようとした。無諱は安周を鄯善に留め置き、焉耆の東北から高昌に向かった。たまたま蠕蠕が唐契を殺し、爽は無諱を拒んだ。無諱の将の 衞 興奴が詐って爽を誘い出し、遂にその城を屠り、爽は蠕蠕に奔った。無諱は因って高昌に留まった。五年(444年)の夏、無諱は病没し、安周が代わって立った。後、蠕蠕国に併合された。
【論】
史臣曰く、周の徳の衰えし時、七雄競い跱ち、皆神州を分割し、尊極を睥睨す。ここに至り、張寔らは人外に介在し、地は実に戎墟たり。大いに鵄張を争い、潜かに不遜を懐く。その量を知らざること固より甚だしきものなり。蛇虺相い 噬 み、終に擒滅せらるるは、宜なるかな。
校勘記