巻98

蕭道成

島夷たる蕭道成は、 あざな を紹伯といい、 しん 陵武進の楚である。僭晋の時に、武進の東城を以て蘭陵郡県と為し、遂に蘭陵の人となる。父の承之は、常に同族の蕭思話に従って征伐し、久しくして初めてその横野司馬を得、軍功を以て劉義隆に仕え、位は右軍将軍に至る。

道成は若くして武事を好み、初め散冗に従い、毎度征役に充てられ、前後して蛮族討伐の小帥と為り、勤労劇務に堪えることを以て知られる。思話が襄陽を鎮守する時、自らに随従するよう上奏し、統戍を任せられる。次第に左軍中兵参軍に遷り、毎に疆埸に在りては辺民を擾動し、曾て談堤に至り、大敗して逃走す。劉駿の時に間関して偽職に至り、建業令となる。駿が死ぬと、子業は後軍将軍・直閤と為す。

子業が死ぬと、劉彧は右軍将軍に除す。時に子業の江州 刺史 しし しん 安王の子勛、会稽太守・尋陽王の子房等並びに挙兵す。彧は道成に輔国将軍を加えて東討せしめ、諸県を平定す。 しん 陵太守の袁摽、呉郡太守の顧琛、呉興太守の王雲生は皆郡を棄てて奔走す。時に徐州刺史の薛安都が従子の索児に鋭衆を率いさせて淮を渡らせ、道成を徴してこれを拒がしむ。功を以て西陽県開国侯に封ぜられ、食邑六百戸。子勛は臨川内史の張淹を東嶠より入らせ、三呉を擾動せんと図る。劉彧は道成に三千人を率いさせ、軍主の沈思仁に張淹を拒がしめ、張淹は即ち奔走す。張永・沈攸之が彭城にて大敗す。劉彧は道成を冠軍将軍と為し諸軍事を督せしめ、節を仮し、淮陰を戍守せしむ。

彧が死ぬと、子の昱は道成を右衛将軍と為し、衛尉を領し、兵五百人を加え、 尚書 しょうしょ 令の 袁粲 えんさん ・護軍の褚淵・領軍の劉勔と共に朝事を参掌せしむ。間もなく衛尉を解き、 侍中 じちゅう を加え、石頭城を戍守す。劉休範が挙兵し、王道隆等を討つを名とし、数日厳しく治め、便ち大衆を率いて席卷して下る。道成等は衆を率いて拒戦す。事平らぎ、道成を 散騎常侍 さんきじょうじ ・中領軍・ 都督 ととく 南兗兗徐青冀五州・鎮軍将軍・南兗州刺史と為し、持節・侯は故の如し。後に爵を進めて公と為し、邑二千戸を増す。

劉昱の凶虐日甚だしきに、道成は直閤の王敬則・昱の左右の楊玉夫と共謀して昱を殺し、弟の準を迎えて立て、年号を昇明と改む。時に太和元年なり。道成は東城に移鎮し、甲仗五十人を以て殿に入り、位を進めて侍中・ 司空 しくう ・録尚書事・驃騎大将軍・持節・ 都督 ととく ・刺史と為し、故の封に竟陵郡公五千戸を加え、班剣三十人を与え、又進んで 司二州を督す。荊州刺史の沈攸之が挙兵して道成を討つ。道成は衆を率いて朝堂に入り鎮守す。 司徒 しと 袁粲 えんさん は先に石頭を鎮守し、城に拠り 尚書令 しょうしょれい の劉秉・前湘州刺史の王蘊と謀りて道成を討ち、密信を以て攸之に速やかに下るよう求め、内応せんとす。成らず、粲は子の最と共に死に、秉父子は城を踰えて頟檐湖に走り、王蘊は鬬場に向かって走り、並びに擒えられる。攸之は夏口に至り、敗走し、第三子の 中書 ちゅうしょ 郎太和と単騎南奔して華容県に至り、共に自縊死す。道成は又 太尉 たいい と為り、封三千戸を増し、班剣四十人、甲仗百人を以て殿に入る。

道成将に大志有らんとす。準の侍中王儉が間を請い、これを勧む。道成曰く「卿の言は何ぞ。我今当に事に依りて相い啓すべし」と。言辞は厳しけれども、意色甚だ悦ばし。儉が在位の者を諷動し、乃ち道成に黄鉞・ 都督 ととく 中外諸軍事・ 太傅 たいふ ・領揚州牧を加え、剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名と為し、左右長史・司馬、従事中郎・掾・属各四人を置き、使持節・侍中・太尉・驃騎大将軍・録尚書・南徐州刺史は故の如し。道成は殊礼を詐り辞す。前命を重申し、剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名と為す。位を進めて相国と為し、百揆を総べ、十郡を封じて斉公と為し、九錫の礼を備え、璽紱・遠遊冠を加え、位は諸王の上に在り、相国・緑綟綬を加え、その驃騎大将軍・揚州牧・南徐州刺史は故の如し。ここに於いて斉台を建て、百官を置き、東府を以て斉宮と為し、又十郡を増封し、公を進めて王と為す。間もなく大号を僭称し、その主劉準を汝陰王に封ず。未だ幾ばくもなくして死す。

ここに於いて高祖、詔して梁郡王の嘉に二将を督せしめて淮陰より出で、隴西公の元琛に三将を率いしめて広陵より出で、河東公の薛虎子に三将を率いしめて寿春より出で、以てこれを討たしむ。元琛等その馬頭戍を攻め、これを克つ。道成その徐州刺史の崔文仲を遣わして茌眉戍を攻め陥れしむ。詔して尚書の游明根を遣わしてこれを討たしむ。又平南将軍の郎大檀に三将を率いしめて昫城より出で、将軍の白吐頭に二将を率いしめて海西より出で、将軍の元泰に二将を率いしめて漣口より出で、将軍の封延に三将を率いしめて角城より出で、鎮南将軍の賀羅を下蔡より出でしむ。道成の梁州刺史の崔慧景、長史の裴叔保を遣わし衆を率いしめて武興関城を寇す。 てい 帥の楊鼠これを撃破す。叔保は南鄭に還る。梁郡王の嘉、道成の将の盧紹之・玄元度を昫山に破る。下蔡戍主は城を棄て遁走す。又詔して昌黎王の馮熙を西道 都督 ととく と為し、征南将軍の桓誕と義陽より出でしめ、鎮南将軍の賀羅を下蔡より東出して鍾離に出でしめ、道成の游撃将軍の桓康を淮陽に破る。道成の 州刺史の垣崇祖、下蔡を寇す。昌黎王の馮熙これを撃破す。梁郡王の嘉、大いに道成の将を破り、俘獲二万余口を京師に送る。

道成、後軍参軍の車僧朗を遣わして朝貢す。先に、劉準、使者の殷霊誕・苟昭先を遣わすも、未だ反せざるに道成僭立す。僧朗の至るに及び、朝廷これを霊誕の下に処す。僧朗と霊誕と前後を競う。降人の解奉君、遂に朝会に於いて僧朗を刃する。詔して殯斂を加え、喪を送りて還らしむ。

道成死す。子の賾、僭立し、年号を永明と改む。賾、その ぎょう 騎将軍の劉纘・前将軍の張謨を遣わして朝貢す。八年、又兼員外 散騎常侍 さんきじょうじ の司馬憲・兼員外散騎侍郎の庾習を遣わして朝献す。九年、輔国将軍の劉纘・通直郎の裴昭明を遣わして朝貢す。十年、又昭明と冠軍参軍の司馬迪之を遣わして朝貢す。

賾、初め太子たりし時、特に奢侈なり。道成毎にこれを廃せんと欲すも、王敬則の和諧に頼る。賾の性貪惏にして、常に人に謂いて曰く「唯だ崔慧景のみ我が貧しきを知る」と。賾嘗てその益州刺史の劉悛の宅に至りて晝臥す。覚め、悛自ら金澡盤(面広さ三尺)を捧げ、愛姫金澡灌(四升を受く)を執りて以て沃盥に充て、因りて以て奉献す。賾これを納る。その利を好むこと此の若し。賾遊獵無度。その殿中将军の邯鄲超、表を上りて諫む。賾これを殺す。

十三年、平南参軍顔幼明・冗従 僕射 ぼくや 劉思效を遣わして朝貢す。十四年、賾(武帝蕭賾)の巴東王子響が長史劉寅・司馬席恭穆を殺し、賾を謀殺せんとし、賾は丹陽尹蕭順之を遣わして討ち殺させた。十五年二月、員外 散騎常侍 さんきじょうじ 裴昭明・員外散騎侍郎謝竣を遣わして朝貢す。九月、また 司徒 しと 参軍蕭琛・范縝を遣わして朝貢す。十六年、再び琛と 司徒 しと 参軍范雲を遣わして朝貢し、また車騎功曹庾蓽・南 州別駕何憲を遣わして朝貢す。十七年、賾の雍州刺史王奐が南蛮長史劉興祖と衆罪を論じ、賾は興祖を獄に付し、建業に送還せしめんとした。奐は獄中で勝手にこれを殺し、自死と称した。賾は怒り、その直閤将軍曹道剛・梁州刺史曹虎を遣わして奐を収めさせたが、奐は門を閉めて戦いを拒んだ。司馬黄瑤起が城内で兵を起こして奐を攻め、これを殺した。奐の子で秘書丞の蕭粛・粛の弟の蕭秉が降って来た。

賾の子の長懋が死に、その孫の南郡王昭業を立てて皇太孫とした。賾が病に罹り一時気絶した時、その子の竟陵王子良は殿内におり、昭業はまだ入っていなかった。中書郎王融は戎服を着て中書省の閤口に立ち、東宮の仗が進めぬよう遮り、子良を立てようとした。賾が蘇生すると、昭業が殿に入った。融は子良が立たぬと知り、服を脱いで省に還った。

賾が死に、昭業が立った。十数日後、王融を収めて廷尉に付し殺した。昭業は生まれてからその叔父の子良に養われた。しかし、情を矯め詐りを飾り、陰に鄙しき悪意を懐き、左右の無頼の群小二十人ほどと衣食を共にし、同じく臥起した。妻の何氏はその中から美貌の者を選んで交わらせた。密かに富商大賈に赴き、数え切れぬほどの銭を取った。子良と同居していた時は、思いのままにできなかった。子良が西邸に移ると、昭業は独り西州に住み、毎日暮れ夜になると、輒ち後閤を開け、諸小人と共に諸営署に至り、淫宴を恣にした。凡そ不逞の輩は皆、次々に爵位を加えられ、南面の日(即位の日)には即座に施行することを許され、皆、官位名号を黄牋紙に書き記して与えられ、各々囊に盛り、肘後に帯びた。昭業の師の史仁祖・侍書の胡天翼がこれを聞き、互いに謀って言うには、「もし二宮(皇帝と皇太子)に言えば、その事は容易ならず、もし営署で異人に殴打され、あるいは犬物に傷つけられでもすれば、ただ一身の罪に止まらず、必ず全家に禍が及ぼう。我々は年も既に七十余り、命など惜しむに足らぬ。」数日後、仁祖・天翼は共に自殺した。

昭業の父の長懋が病み及び死ぬまで、昭業は侍奉して憂い哀しみ、号泣して礼を過ぎたが、私室に還ると、親愛する者と共に欣笑して酣に飲み、諸々の甘き滋味を備えた。葬儀が終わると、皇太孫に立てられた。壁を截って閤とし、母の房内から何氏の部屋へ通じ、毎回入ると長時間出て来なかった。賾が東宮に至ると、昭業は迎え拝して号慟し、絶えて後蘇生した。賾は自ら輿を下りてこれを抱き持つなど、寵愛は隆重であった。初め、昭業が西州にいた時、女巫の楊氏に命じて祈祷させ、速やかに天位を求め、その父が死ぬと、楊氏の力によるものとして、倍加して敬信した。楊氏の子の珉もまた美貌があり、何氏は特にこれを愛で喜んだ。昭業は楊氏を婆と呼んだ。劉氏(宋)以来、民間でも楊婆児の歌を作ったが、蓋しこのためである。東宮に在った時、賾が病むと、楊氏に日夜祈祷させ、賾を早く死なせようとした。何氏に送る手紙には、紙の中に大きな「喜」の字を書き、小さな「喜」の字三十六個でこれを囲んだ。賾は彼が必ずや大業を負荷できると思い、言うには、「五年以来、一切宰相に委ねてきたが、汝は多く意に反するだろう。五年以後、再び人に委ねるな。」臨終に際し、昭業の手を執って言うには、「阿奴、もし わし を憶うなら、よく行いなさい。」このように二度言って死んだ。子良は当時中書省におり、昭業は疑い畏れ、虎賁中郎将潘淑に百人を率いさせ、太極殿西階に駐屯させてこれを防がせた。大殮の始めに、賾の伎人を呼び集めて衆楽を挙げさせた。諸伎は威に畏れて事に従うものの、哽咽して涙を流さぬ者はなかった。成服の後、諸王を悉く邸に還らせた。子良は固く乞い、賾の葬儀を過ぎるまで留まることを求めたが、許されなかった。

昭業は元来より狗馬を好み、立って十日と経たぬうちに、早くも賾の建てた招婉殿を壊し、その殿材を宦官の徐龍駒に与えて邸宅を造らせ、その場所に馬埒を設け、馳せ走って馬から墜ち、顔面と額を共に傷つけ、病と称して数日間出なかった。多くの名鷹・快犬を集め、梁肉をもってこれに奉じた。賾が葬られようとする時、喪車がまだ端門を出ないうちに、昭業は早くも病と称して内に還り、閤に入るや、直ちに内で胡伎の音楽を奏させ、鞞鐸の音声が内外に震響した。時に 司空 しくう 王敬則が射声 校尉 こうい 蕭坦之に問うて言うには、「この様子では、慌ただしくならぬはずがあろうか。」坦之は言う、「これは丁度、内人の哭聲が響き渡っているだけでしょう。」賾の葬儀の後、昭業は微服して出て、里市を遊走し、また多くその父母の陵隧の中に往き、群小と共に鄙わざを行い、泥を投げ賭け跳び、鷹を放ち狗を走らせるなど諸々の雑狡獪をなし、日々に往き、これを常とした。朝政の大小は、皆、 尚書令 しょうしょれい 蕭鸞が断じた。初め蕭賾が銭を蓄え、上庫は五億万に至り、斎庫もまた三億万を出し、金銀布帛絲綿は称計すべからざるほどであったが、この歳末に至り、用いたる所は過半に及び、皆、左右の厮卒の徒に賜与した。廃黜されるに及んで、府庫は空尽した。昭業は内におり、常に紫の綿に紅の繍を施した雑衣あるいは錦の帽を着用した。

年号を隆昌と改めた。黄門郎周奉叔を冠軍将軍・青州刺史とした。奉叔は諂諛を事とし、昭業はこれを甚だ悦んだが、専恣跋扈して忌憚するところなく、常に単刀二十口を従え、禁闥を出入りし、門 えい は敢えて呵止する者もなかった。毎に人に語って言うには、「周郎の刀は君を識らぬ。」徐龍駒は東宮の斎師として便佞をもって寵愛を受け、姦邪を構え造り、容媚を取った。凡そ諸々の鄙黷なる雑事は、皆、龍駒が勧誘したものである。昭業は龍駒のために美女伎楽を置き、常に含章殿に住まわせ、黄綸の帽を着け、貂裘を被り、南面して机に向かい、昭業に代わって勅を画し、左右に侍直する様は、昭業と異ならなかった。蕭鸞は固く請うてこれを誅殺せしめ、楊珉とその母もまた共に獄に下して死なせた。珉とその母は昭業に寵愛され、恩情は特に隆く、賞賜は府蔵を傾けた。珉は何氏に寵愛され、常に宮中内侍にあった。蕭鸞は初め、 えい 尉蕭諶・征北諮議蕭坦之に命じて珉の誅殺を請わせた。何氏は昭業と同席して坐り、涙を流して顔を覆い、坦之に言うには、「楊郎は良い若者で、罪はない。どうして枉しく殺せようか。」坦之は乃ち昭業に耳打ちして言うには、「この事には別の意味があります。人に聞かせてはなりません。」昭業は何氏を呼んで言うには、「阿奴、暫く立ち去れ。」坦之は乃ち言う、「外間では皆、楊珉が皇后と情を通じていると云い、その噂は遠近に聞こえています。この事は古来無く、恐らく必ずや官事(朝廷の事)を誤らせましょう。」昭業は已むを得ず、乃ちこれを許したが、俄かに勅してこれを赦そうとした時には、既に刑は執行されていた。益州刺史劉悛が罷任して還ると、昭業はその饋奉が豊かでないとして、収めて廷尉に付し、大辟を加えんとした。悛の弟で中書郎の劉絵が身を以て代わることを乞い、死を免れ、終身禁錮に処された。昭業はその父の寵姫霍氏と淫通し、これを後宮に納れた。蕭鸞はその廃立を謀り、衆を率いて入った。時に昭業は裸身で霍氏と相対し、兵の至るを聞くと、剣を抜き起きて鸞に拒んだが、鸞が自らこれを殺した。左右で死んだ者は十余人であった。

蕭鸞はその弟昭文を立て、自らは使持節・ 都督 ととく 揚南徐二州・驃騎大将軍・開府・録尚書事・揚州刺史となり、班剣三十人を加えられ、宣城郡公に封ぜられ、二千戸を食んだ。兵五千人を率いて東城に出鎮した。その鄱陽王蕭鏘・随王蕭子隆を殺した。中護軍王玄邈を遣わして昭文の南兗州刺史・安陸王蕭子敬を殺させ、 州刺史王広之は江州刺史・晋安王蕭子懋を殺し、また湘州刺史・南平王蕭鋭、郢州刺史・晋熙王蕭銶、南 州刺史・宜都王蕭鑑を殺した。蕭鸞は黄鉞を加えられ、 都督 ととく 中外諸軍・太傅・領大将軍・揚州牧に進授された。班剣四十人を増やされ、前後部の羽葆鼓吹を賜り、剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名を許された。宣城郡王に封ぜられ、食邑五千戸となった。使持節・ 中書監 ちゅうしょかん ・録尚書はもとのままとした。また昭文の桂陽王蕭鑠・衡陽王蕭鈞・江夏王蕭鋒・廬陵王蕭子卿・建安王蕭子真・巴陵王蕭子倫を殺した。ついに昭文を廃して海陵王とし、まもなく死んだ。蕭鸞は僭位して立った。

蕭鸞は字を景栖という。その叔父蕭道成は彼を寵愛し、諸子を超えていた。蕭賾の末年、尚書左僕射となり、甚だ親しく委任された。蕭賾が死ぬと、ついに朝政を執った。昭業を殺した後、権を専らにして酷暴であり、蕭賾らの子孫を屠滅した。やがて自立し、時は太和十八年であり、年号を建武と称した。その宣徳太僕劉朗之・游撃将軍劉璩之は兄の子を養わず、母に随って他に嫁がせた罪に坐し、免官・禁錮に処せられた。時の論者は薄義の原因は実に蕭鸞に始まると謂った。

蕭鸞の雍州刺史曹虎が襄陽を拠りいて降伏を請うた。高祖は詔して征南将軍薛真度に行わせて四将を督して襄陽より出撃させ、大将軍劉昶は義陽より出撃し、徐州刺史元衍は鍾離より出撃し、平南将軍劉藻は南鄭より出撃させ、車駕は南伐した。十九年、蕭鸞の龍陽県開国侯王朗が渦陽より来降した。左将軍元麗は大いに蕭鸞の将を破り、その寧州刺史董蛮を擒えた。車駕は淮を渡り、八公山に幸した。淮に沿って東に巡り、鍾離を発し、江水に臨まんとしたが、 司徒 しと 馮誕が薨じたので、ついに詔して班師し、使者を遣わして江に臨み蕭鸞の罪悪を数えさせた。

蕭鸞はその西陽王蕭子明・南海王蕭子罕・邵陵王蕭子真を殺した。

二十一年、車駕は蕭鸞を討った。蕭鸞の前将軍韓季方・弋陽太守王嗣之・後将軍趙祖悦ら十五将が来降した。江北において蕭鸞軍を大破し、その将軍王伏保らを獲た。車駕はついに沔東を巡って還った。蕭鸞の将王曇紛ら一万余が南青州を寇したが、黄郭戍主崔僧淵がこれを撃破し、その衆を悉く虜にした。また新野城を克ち、蕭鸞の輔国将軍・新野太守劉忌を斬った。蕭鸞の湖陽戍主蔡道福、赭陽戍主成公期及び軍主胡松、舞陰戍主・輔国将軍・西汝南北義陽二郡太守黄瑶起及び直閤将軍・軍主鮑挙、南郷太守席謙は皆戍を棄てて走り、瑶起・鮑挙を擒えた。

蕭鸞はまたその河東王蕭鉉・臨賀王蕭子岳・西陽王蕭子文・衡陽王蕭子珉・湘東王蕭子建・南郡王蕭子夏・巴陵王蕭昭秀・桂陽王蕭昭粲を殺した。

車駕は南陽に幸し、宛北城を攻撃し、これを抜いた。冠軍将軍・南陽太守房伯玉は城を以て降った。また鄧城において蕭鸞の平北将軍崔慧景・黄門郎蕭衍を大敗させ、斬獲した首虜は二万有余であった。蕭鸞は憂怖し、ついに病が甚だしくなった。そこで大赦を行い、年号を永泰と改めた。その大司馬王敬則が会稽において兵を挙げ、蕭鸞を誅せんとした。鎮北諮議謝朓は敬則の女婿であったが、これを告げたので、敬則は敗れて死んだ。

蕭鸞が死ぬと、子の宝巻が僭立した。二十三年春、宝巻は元号を永元と改め、その太尉陳顕達に崔慧景を率いさせて馬圏城を攻撃させた。詔して前将軍元英にこれを討たせた。宝巻は将を遣わして順陽を寇したので、詔して振威将軍 慕容 ぼよう 平城 へいじょう に騎兵を率いてこれを討たせた。顕達は馬圏城を陥落させた。車駕は南伐し、詔して鎮南大将軍・広陽王元嘉に均口を断たせた。顕達は戦いに敗れ、囲みを潰して夜遁した。その左軍将軍張子順を斬り、賊将蔡道福・成公期ら数万人は順陽を棄てて遁走した。

宝巻は昏狂であり、政は群竪より出た。その始安王蕭遙光が東府に拠りいて反したが、克たずして殺された。またその右僕射蕭坦之・左衛将軍曹虎・領軍将軍劉暄を殺した。まもなく 司空 しくう 徐孝嗣・左僕射沈文季・前撫軍長史沈昭略を殺した。その太尉・江州刺史陳顕達が兵を挙げて建業を襲ったが、果たさずして死んだ。

景明初め、宝巻の 州刺史裴叔業が寿陽を以て降った。宝巻はその衛尉蕭懿を征虜将軍・ 州刺史とし、歩道より寿陽を伐ち、軍を小峴に頓した。詔して軍司李煥及び統軍奚康生・楊大眼らに衆を率いて寿陽に入らせた。驃騎大将軍・彭城王元勰、車騎将軍王肅は歩騎十万を率いてこれに赴いた。宝巻は将胡松・李居士に衆万余を率いさせて死虎に屯させ、陳伯之の水軍に淮を溯らせて上り、寿春を逼らせた。元勰・王肅はこれを大破し、斬首は万数を数えた。陳伯之はまた淮南を寇したが、元勰は肥口においてこれを破った。 州刺史田益宗は宝巻の将呉子陽・鄧元起を長風において破った。

宝巻は侍中崔慧景に諸軍を率いさせて広陵より水路、寿陽に赴かんとした。慧景は宝巻の狂虐を見て、もはや自ら保つことができず、専征を得ると、欣然として路に就いた。慧景の子蕭覚は時に直閤であり、彼と密かに期した。慧景が広陵に至ると、蕭覚はついに出奔した。慧景は広陵を過ぎて数十里にして回軍して還った。時に広陵は鎮を欠いており、司馬崔恭がこれを納れた。そこで衆を率いて江を渡り、ついに建業を攻撃した。宝巻は城に拠って自ら守った。宝巻の 州刺史蕭懿が慧景を撃破し、これを擒えて殺した。

慧景が死ぬと、宝巻は自ら得志し、忌憚するところなく、日々出遊した。愛幸の茹法珍・梅虫児ら及び左右の応勅・捉御刀の徒が並びに国命を専らにし、民間ではこれを「刀勅」と謂った。宝巻は常に軽騎で戎服し、これら諸家に往き、彼らと讌飲した。これらは吉凶がある毎に、宝巻は往って弔慶し、人に見られまいとして百姓を駆斥し、ただ空宅を置くのみであった。往くところは定所なく、官司は常に罪を得ることを慮り、東に行けば西面の人を駆り、南に出れば北面の人を駆った。朝に出るべきとあれば、夜に駆遣し、吏司は奔馳し、叫呼は路に満ち、老少は震驚し、啼号は路を塞ぎ、処々に禁断され、適う所を知らなかった。疾患困篤の者は悉く輿で去らせ、輿する人のない者は道側に匍匐し、主司はまた捶打を加え、絶命する者が相継いだ。還宮の時は常に半夜に至り、左右は富室に入り物を取って蕩尽した。前魏興太守王敬賓は新たに死んで未だ殮されず、家人は駆られて守視することができず、家人が還った時には鼠が敬賓の両眼を食い尽くしていた。このようなことは一例ではなかった。宝巻の酷乱はますます甚だしく、その 尚書令 しょうしょれい 蕭懿は大勲があっても忌んでこれを殺し、その弟の衛尉卿蕭暢をも殺した。

世宗は詔して冠軍将軍・南 州刺史席法友に三万人を率いさせ、宝巻の輔国将軍・北新蔡・安豊二郡太守胡景略を建安城に囲ませ、これを克ち、景略を擒えた。

宝卷の雍州刺史蕭衍が襄陽に拠り、兵を挙げてこれを伐ち、荊州行事蕭穎冑が蕭衍に応じた。三月、穎冑は宝卷に叛き、南康王宝融を天子と為した。ここにおいて宝融は僭位して帝位に即いた。穎冑は侍中・ 尚書令 しょうしょれい となり、蕭衍は左僕射・ 都督 ととく 征討諸軍事・征東大将軍となり、使持節はもとの如しであった。穎冑は宝卷を虞陽県侯に封じることを請うたが、宝融は許さず、また涪陵王に封じた。穎冑は八州諸軍事を監し、荊州刺史を代行した。蕭衍に黄鉞を仮授した。蕭衍の軍は沔口に至り、郢州は城を嬰して自ら守った。

宝卷はまた巴陵王昭冑・永新侯昭秀・黄門郎蕭寅を殺した。宝卷の昏暴は日増しに甚だしく、内外堪えず、その前南譙太守王霊秀らが石頭において宝卷の弟宝夤を迎え、城内の文武を率いてその台城に向かい、百姓で空手で随従する者は万数を数えた。日暮れに会し、城門が閉じ、果たせなかった。蕭衍の兵が建業に至ると、所在の者が宝卷を棄ててこれに降った。蕭衍の兵が宮中に入ると、宝卷は含徳殿におり、笙を吹き歌い『女兒子』を作り、臥して未だ眠らず。兵の入るを聞き、北戸に趨り出で、後宮に還らんと欲したが、清曜閤は既に閉じられていた。閹人禁防の黄泰平が刀を以てその膝を傷つけ、地に仆す。顧みて曰く「奴、反すなり」と。直後の張斉が首を斬り蕭衍に送った。蕭衍はこれを追封して東昏侯とし、その皇后・太子を廃して庶人とした。蕭衍は宝卷の弟湘東王宝晊を殺し、また邵陵王宝攸・晋熙王宝松・桂陽王宝貞を殺した。その建安王宝夤は来奔した。尋いで宝融を逼って己に禅位せしめ、これを封じて巴陵王とし、姑熟に宮した。宝融は尋いで暴死した。

蕭衍

島夷の蕭衍、字は叔達、また晋陵武進の楚なり。父は順之、蕭賾の光禄大夫。蕭衍は少にして軽薄にして口弁あり、王儉の衛軍府戸曹属を歴任し、累遷して蕭鸞の黄門侍郎・太子中庶子となった。太和二十二年、高祖南伐し、諸軍に詔して襄陽を囲ませた。蕭衍は時に衆を率いて来援したが、武衛将軍宇文福に破られ、単騎で走り免れた。

蕭鸞の末、出でて輔国将軍・雍州刺史となった。蕭鸞が死に、子の宝卷が立つと、蕭衍の兄の懿を殺し、巴西・梓潼二郡太守劉山陽を西上させ、郡に赴くと言いながら、実は蕭衍を襲わせようとした。山陽が荊州に至り、蕭穎冑に殺された。景明二年、蕭衍は遂に穎冑と共に宝卷の弟の荊州刺史宝融を推して主と為し、年号を中興と号し、兵を挙げて宝卷を伐った。その年の十二月、建業を克ち、宝卷とその妻子を殺した。蕭衍は大司馬・録尚書事・揚州刺史・建安郡公となり、邑一万戸を賜った。三年、また自ら相国・揚州牧と為り、十郡を封じて梁王となった。

蕭衍は尋いで僭立し、自ら梁と称し、年号を天監と号した。五月、揚州小峴戍主の党法宗が蕭衍の大峴戍を襲い、これを破り、その龍驤将軍邾菩薩を擒えて京師に送った。蕭衍はまた将の張囂を遣わして揚州を寇したが、州軍がこれを撃破し、二千余級を斬った。四年三月、揚州刺史任城王澄が長風戍主の奇道顕を遣わして蕭衍の陰山戍を攻め、これを破り、その龍驤将軍・都亭侯梅興祖を斬った。引き続き白藁戍を攻め、またこれを破り、その寧朔将軍呉道爽らを斬り、数千級を獲た。蕭衍はまたその徐州長史潘伯憐を遣わして淮陵に軍を屯め、徐州刺史司馬明素がまた九山に拠った。澄は軍を遣わして併せてこれを撃破し、伯憐を斬り、明素を擒えた。蕭衍の将呉子陽が白沙を寇すと、中山王英がこれを大破し、千数を擒斬した。蕭衍の梁州刺史平陽県開国侯翟遠・徐州刺史永昌県開国侯陳虎牙が来降した。

正始元年正月、蕭衍の将趙祖悦が東関に屯拠したが、江州刺史陳伯之がこれを撃破した。二月、蕭衍の将姜慶真が寿春外郭を襲い陥落させたが、州軍がこれを撃ち走らせた。中山王英が蕭衍の鍾離を囲んだ。蕭衍は冠軍張恵紹を遣わし衆軍を率いて鍾離に糧を送らせた。任城王澄は統軍の王足・劉思祖を遣わし邵陽において邀撃し、これを大破し、恵紹を生擒し、併せてその ぎょう 騎将軍祁陽県開国男趙景悦ら十将を獲、斬獲数千級に及んだ。恵紹は蕭衍の舅の子なり。蕭衍は乃ち書を移してこれを求め、朝議は威懐を示さんと欲し、遂に恵紹らの還るを聴した。三月、元英が樊城において蕭衍の将王僧炳を破った。八月、英はまた蕭衍の義陽を攻め、これを克ち、蕭衍の将馬仙琕を破り、その冠軍将軍蔡霊恩ら十余将を擒えた。九月、蕭衍の霍州刺史田道龍・義州刺史張宗之が使者を遣わして内附した。

十二月、蕭衍の梁秦二州行事夏侯道遷が漢中に拠り内附した。詔して尚書邢巒に衆を率いて赴かしめた。二年四月、巒は頻りに蕭衍の軍を破り、遂に剣閣に入り、その輔国将軍范始男を執って京師に送った。巒はまた統軍の王足を遣わし蕭衍の諸将を破り、その輔国将軍馮文豪らを斬った。六月、蕭衍は将の王超宗を遣わして辺境を寇したが、揚州刺史薛真度がこれを大破し、三千級を俘斬した。七月、王足はまた蕭衍の衆を大破し、その秦梁二州刺史魯方達・王明達ら三十余将を斬り、二千五百人を俘虜した。九月、蕭衍の湘州刺史楊公則が衆を率いて寿春を寇したが、揚州刺史元嵩がこれを撃破し、数千級を斬獲した。

三年正月、蕭衍の徐州刺史昌義之が梁城を寇し、江州刺史王茂先が荊州を寇し、河南城に屯した。平南将軍陳伯之が義之を撃ち、平南将軍楊大眼が茂先を撃ち、共にこれを大破し、その輔国将軍王花を斬り、二千を俘斬した。茂先は逃れて潰え、漢水に至るまで追撃し、その五城を抜いた。将軍宇文福が蕭衍の司州を略し、千余口を俘獲して還った。五月、蕭衍の将蕭昞が淮陽を寇し、張恵紹が宿 を寇し、蕭密が梁城を寇し、韋叡が合肥を寇した。平南将軍奚康生が恵紹を破り、その徐州刺史宋黒を斬った。七月、蕭衍の徐州刺史王伯敖が陰陵に入寇したが、中山王英がこれを大破し、将二十五人を斬り、首虜五千を得た。蕭衍はまた将の桓和を遣わして孤山に屯し、冠軍将軍桓方慶を固城に屯し、龍驤将軍矯道儀を蒙山に屯させた。八月、安東将軍邢巒が桓和を撃ち、これを破った。将軍元恒が固城を攻克し、統軍畢祖朽が蒙山を攻克し、斬獲及び沂水に赴いて死する者四千有余を得た。蕭衍はまた張恵紹を遣わして宿 に屯し、蕭昞を淮陽に屯させた。九月、 都督 ととく 邢巒がこれを大破し、その大将藍懐恭ら三十余人を斬った。恵紹・蕭昞は共に戍を棄てて南走し、数万級を追斬した。蕭衍の中軍大将軍・臨川王蕭密、右僕射柳惔、徐州刺史昌義之らが梁城に屯拠したが、中山王英がこれを大破し、蕭密らは城を棄てて淮に沿い東走し、馬頭に至るまで追撃した。蕭衍の冠軍将軍・馬頭戍主朱思遠は城を棄てて走り、蕭衍の将三十余人を擒え、五万有余を斬獲した。十月、蕭衍の征虜将軍馬仙琕が衆三万を率いて義陽を寇したが、郢州刺史婁悦が州軍を以てこれを撃ち走らせた。

永平元年十月、懸瓠城の民白早生が州を拠りて反叛し、蕭衍は将軍斉苟仁ら四将を派遣してこれを助けた。詔して尚書邢巒に騎兵を率いて討たしむ。巒は懸瓠を攻め落とし、早生を斬り、苟仁を擒え、蕭衍の軍衆三千余人を俘虜とした。初め、早生の反するや、世宗は主書董紹に詔を銜ませて宣撫せしめたが、紹は早生に捕らえられ、蕭衍のもとに送られた。蕭衍は厚く資財を与えて紹を送り返し、今、書を奉じて朝廷に請い、宿 を割譲して内属させ、以て和好を求む。時に朝議に異同ある者あり、世宗は蕭衍の言辞は恭順ながらも藩を称さざるを以て、有司に詔して許さしめず。十二月、蕭衍の寧朔将軍張凝らが衆を率いて楚城を寇し、中山王英これを破り擒えた。蕭衍の将馬仙琕が金山を占拠す。郢州刺史婁悦これを撃ち走らす。

二年正月、中山王英は蕭衍の長薄戍を攻め落とし、殺傷数万。引き続き武陽関を攻め抜き、蕭衍の雲騎将軍・松滋県開国侯馬広、冠軍将軍・遷陵県開国子彭瓫、 ぎょう 騎将軍・当陽県開国伯徐元秀ら二十六将を擒え、俘虜七千余人を獲たり。また黄峴西関を攻め、蕭衍の将軍馬仙琕は西関を棄て、李元履は黄峴を棄てて遁走せり。

四年春三月、蕭衍の琅邪郡の民王万寿らが蕭衍の輔国将軍・琅邪東莞二郡太守・昫山戍主を兼ねる劉晣及び将士四十余人を斬り、城をもって内属す。徐州刺史盧昶は兼郯城戍副張天恵に衆を率いて赴かしむ。然るに蕭衍の郁洲より既に二軍を派遣して天恵を拒ぎしも、天恵は万寿らと内外より斉しく撃ち、数百を俘斬す。昶はなお琅邪戍主傅文驥を遣わして城に入り拠り守らしむ。蕭衍はまた将軍張稷・馬仙琕らを派遣して文驥を攻囲す。詔して昶に衆を率いて赴かしむ。然るに文驥は糧尽きて蕭衍に降る。昶は遂に利を得ずして還る。

延昌二年二月、郁洲の徐玄明が蕭衍の鎮北将軍・青冀二州刺史張稷の首を斬り送り、州をもって内附す。三年六月、蕭衍は衆を派遣して九山を寇し、荊州刺史桓叔興これを大破し、その虎旅将軍蔡令孫・冠軍将軍席世興・貞義将軍藍次孫を斬る。四年二月、蕭衍の寧州刺史任太洪が衆を率いて関城を寇し、益州長史成興孫これを撃破す。

熙平元年正月、蕭衍はその恒農太守王定世らを派遣して辺境を寇し、 都督 ととく 元志これを破り、定世を斬り、その衆を悉く俘虜とす。蕭衍の 州刺史趙祖悦が衆数万を率いて硤石を密かに占拠す。詔して鎮南将軍崔亮・鎮軍将軍李平に討たしめこれを克ち、祖悦を斬り、首を京師に伝う。蕭衍の衡州刺史張斉が益州を寇し、刺史傅豎眼これを討ち、その将任太洪を斬る。張斉は遁走す。初め、蕭衍は毎に兵を称して境上に臨み、辺境の隙を窺うも、常に諸将に摧破され、進趣の計を懐くも、勢力これに従わず。遂に浮山にて淮を堰き、寿春を害せんと図る。粛宗、詔して征南蕭宝夤に諸将を率いて討たしむ。淮北にて蕭衍の衆を大破す。秋九月、堰自ら潰決し、その淮に沿う城戍・居民・村落十余万口を漂わせ、海に流入す。

正光元年、蕭衍は普通と改元す。三年に至り、その弟子西豊侯正徳が蕭衍を棄てて来奔す。尋ねてまた亡帰す。蕭衍初めこれを忿り、その姓を背氏と改む。既にしてまた元に復し、臨賀王に封ず。五年九月、蕭衍の将裴邃・虞鴻が寿春の外郭を襲い占拠す。刺史長孫稚これを撃ち走らす。

孝昌元年正月、徐州刺史元法僧が城南に拠りて叛す。蕭衍は 章王綜を派遣して彭城を鎮守せしむ。綜は蕭宝巻の遺腹子なり。初め、蕭衍が建業を平定せし時、その母呉氏を納る。呉氏は先に身ごもり、後に綜を生む。蕭衍はこれを己が子と謂い、甚だ寵愛す。綜既に長ずるに及び、母密かに綜に告ぐ。綜は遂に潜かに蕭衍に叛くを図る。既に彭城を鎮守し、大軍の討ち往くに及び、綜は乃ち身を抜きて来奔す。余の将は退走す。国軍は追躡し、獲ること万計。蕭衍初めこれを聞き、慟哭して気絶し、甚だ慚惋す。猶その子と云い、その風病による所なりと言う。時に人皆これを笑う。

三月、蕭衍はその北梁州長史錫休儒・司馬魚和・上庸太守姜平洛らを派遣して直城に侵入寇す。梁州刺史傅豎眼は息子敬紹に衆を率いさせてこれを大敗し、三千人を擒斬す。休儒らは遁走す。四月、蕭衍の益州刺史蕭淵猷は将軍樊文熾らを派遣して衆を率い小剣戍を囲む。益州刺史邴虬は子の子達を遣わし、行臺魏子建は別将淳于誕を派遣してこれを拒撃す。五月、誕らは文熾を大破し、二万を俘斬し、その次将蕭世澄ら十二人を擒う。文熾は走りて免る。是の歳、蕭衍はまた年号を大通と改む。

二年七月、蕭衍の将元樹・湛僧珍らが寿春を寇す。また新野を攻め逼る。詔して 都督 ととく 魏承祖に討たしめこれを破る。三年二月、蕭衍の将成景儁が彭城を寇す。行臺崔孝芬が諸将を率いてこれを撃ち走らす。

建義元年、蕭衍はその将曹義宗を派遣して荊州を寇す。大 都督 ととく 費穆これを大破し、義宗を生擒し、檻車にて京師に送る。初め、尒朱栄が洛に入るや、北海王顥が蕭衍に奔る。蕭衍は顥を以て魏主とし、顥に士馬を資し、その大将陳慶之に部率して顥を送らしむ。永安二年夏、遂に 洛陽 らくよう に入る。車駕還りて討ち、これを破り走らす。唯慶之一身走りて免る。自余の部衆は皆俘執を見る。閏月、巴州刺史厳始欣が州を拠りて蕭衍に入る。蕭衍は将軍蕭玩・張鴻らを派遣して衆を率いて赴援せしむ。 都督 ととく 元景夏が益梁二州の軍を率いてこれを討つ。三年正月、始欣を斬る。蕭衍の衆は敗走す。また蕭玩らの首を斬り、俘虜万余を獲たり。

普泰元年春、南青州刺史茹懐朗は部将何宝に歩騎三千を率いさせて蕭衍の守将を琅邪に撃ち、その雲麾将軍・徐兗二州刺史沈預を擒え、その宣猛将軍・斉州刺史劉相如を斬る。

永熙元年夏、蕭衍はその ぎょう 王元樹及び譙州刺史朱文開を派遣して譙城に入り占拠せしむ。東南道行臺樊子鵠が諸軍を率いてこれを攻め落とし、元樹・文開らを擒えて京師に送る。

天平元年十月、蕭衍の雄信将軍紀耕が衆を率いて[山尃]嵣に侵入寇す。 都督 ととく 曹仲尼これを破り走らし、その軍主沈達・閔庄らを斬る。二年正月、蕭衍の将湛僧珍が南兗州を寇す。州軍これを撃破す。行臺元晏はまた項城にて湛僧珍らを破り、その□□刺史楊㬓を虜う。二月、蕭衍の司州刺史陳慶之・郢州刺史田朴特らが辺境を寇す。 州刺史堯雄これを撃ち走らす。五月、蕭衍の仁州刺史黄道始が北済陰を寇す。徐州刺史任祥これを討ち破る。十月、蕭衍の将梁秉儁が単父を寇す。祥またこれを大敗し、俘斬万余。十一月、蕭衍の雍州刺史蕭恭が将軍柳仲礼を派遣して荊州を寇す。刺史王元軌これを牛飲にて破り、その将張殖・王世興を斬る。是年、蕭衍はまた号を中大通と改む。三年五月、 州刺史堯雄が蕭衍の白苟堆鎮を攻め、これを克ち、その北平太守苟元曠を擒う。十月、行臺侯景が蕭衍の楚城を攻め陥し、その楚州刺史桓和兄弟を獲たり。四年九月、蕭衍の青冀二州刺史徐子彦が圉城を寇す。南青州刺史陸景元これを撃ち走らす。

先に、益州刺史の傅和が城を挙げて蕭衍に降り、蕭衍は傅和に資財を与えて送り、斉の献武王( 高歓 こうかん )に意を伝えさせ、交誼を通じることを求めた。献武王は辺境遠方を安んじようと志し、ついにこれを許すよう請うた。四年(536年)の冬、蕭衍はその 散騎常侍 さんきじょうじ の張臯、通直常侍の劉孝儀、通直常侍の崔曉を遣わして朝貢させた。二年(538年)の夏、また 散騎常侍 さんきじょうじ の沈山卿、通直常侍の劉研を遣わして朝貢させた。興和二年(540年)の春、また 散騎常侍 さんきじょうじ の柳豹、通直常侍の劉景彥を遣わして朝貢させた。その年の冬、また 散騎常侍 さんきじょうじ の陸晏子、通直常侍の沈景徽を遣わして朝貢させた。この年、蕭衍は年号を大同と改めた。三年(541年)の夏、また 散騎常侍 さんきじょうじ の明少遐、通直郎の謝藻を遣わして朝貢させた。四年(542年)の春、また 散騎常侍 さんきじょうじ の袁狎、通直常侍の賀文發を遣わして朝貢させた。その年の冬、また 散騎常侍 さんきじょうじ の劉孝勝、通直常侍の謝景を遣わして朝貢させた。

武定元年(543年)の夏、また 散騎常侍 さんきじょうじ の沈衆、通直常侍の殷德卿を遣わして朝貢させた。その年の冬、また 散騎常侍 さんきじょうじ の蕭確、通直常侍の陸緬を遣わして朝貢させた。三年(545年)の秋、また 散騎常侍 さんきじょうじ の徐君房、通直常侍の庾信を遣わして朝貢させた。四年(546年)の夏、また 散騎常侍 さんきじょうじ の蕭瑳、通直常侍の賀德瑒を遣わして朝貢させた。五年(547年)の春、また 散騎常侍 さんきじょうじ の謝藺、通直常侍の鮑至を遣わして朝貢させた。朝廷(東魏)もまた使者を遣わしてこれに報いた。十餘年の間、南境は平穏であった。

六年(548年)、蕭衍はまた年号を中大同と改め、その年また太清と改めた。この歳、 司徒 しと の侯景が反乱し、使者を蕭衍のもとに通わせ、その救援を請うた。蕭衍は侯景の遊説に惑わされ、ついに貢使を断った。蕭衍の子の蕭綱および朝臣は皆、切に諫めて不可と為したが、蕭衍は従わなかった。そこでその兄の子である 州刺史・貞陽侯蕭淵明、北兗州刺史の胡貴孫らを遣わして徐州を侵逼させ、侯景と相呼応し、さらに泗水に堰を築いて彭城を水攻めにした。斉の文襄王(高澄)は行臺の慕容紹宗、儀同三司の高岳、潘相楽らを遣わして軍を率いてこれを討たせた。紹宗は蕭衍の境内に檄文を飛ばして言うには、

冬十二月、紹宗、高岳らは蕭衍の軍を寒山で大破し、淵明、貴孫らを生け捕りにし、五万を捕虜とし斬り、その凍死・溺死・焼死した者は数えきれなかった。蕭衍はすでに慚愧し後悔し、六年(549年)、また使者の羊珍孫を遣わして関に款き和を乞い、併せて斉の文襄王に弔書を修めた。文襄王は威徳をもってこれを懐柔しようと欲し、その通交を許したが返書はしなかった。蕭衍はそこでその 散騎常侍 さんきじょうじ の謝珽、通直常侍の徐陵を遣わして闕下に朝貢させた。

謝珽らがまだ戻らないうちに侯景が挙兵して蕭衍を襲い、密かに蕭衍の弟の子である臨賀王蕭正徳と内通し、彼を推戴して主とすると約した。侯景が横江に至ると、蕭衍は正徳に命じて軍を率いて侯景を防がせたが、正徳はかえってこれを迎え入れた。侯景は江を渡り、正徳を主として立て、建業に向かった。蕭衍は人に己にへつらうことを好み、末年には特に甚だしく、ある者が国家が強盛であると言えば、たちまち忿怒し、朝廷が衰弱していると言えば、かえって喜んだ。このためその朝臣左右は皆その風旨を承け、敢えて正言する者はいなかった。初め侯景が江を渡らんとした時、蕭衍の沿道の軍戍は皆啓上して報告したが、中領軍の朱异は蕭衍の意に逆らうことを恐れ、また侯景は渡れないだろうと思い、ついに聞こえさせなかった。侯景が嵫湖に至って、ようやく大いに驚き恐れ、その太子の蕭綱に中書省を守らせ、軍事は全て彼に委ねた。また居民を城内に追い込み、百姓は互いに略奪しあい、禁止することができなかった。蕭衍は直従監の俞景茂に命じて二冶、尚方、銭署の罪人および 建康 けんこう 、廷尉の諸囚を赦免し、彼らを駆り立てて城内に入れ、防衛に充てようとした。諸囚徒は火を放って冶所を焼き、一時に散り走った。蕭衍は憂悶して計なく、ただその王公以下に命じて諸門を分かれて屯させた。諸寺の蔵銭を収め集めて皆徳陽堂に入れ、軍実に充てた。

侯景が到着すると、すぐにその城を包囲し、火を放って焼き、長囲を掘り、土山を築いて蕭衍を攻めた。蕭衍もまた城内に山を築いてこれに対応した。蕭衍は文武の官に土を運ばせ、一人に二十石を責め立てた。ここにおいてその王侯朝貴は皆自ら担いだ。蕭綱もまた自ら担ごうとしたが、皆の議論ではあまりに逼迫し屈辱的であるとして、やめさせた。蕭衍はしばしば人を募って出戦させたが、平素から号令がなく、初めは一時的に勝つこともあったが、後には必ず敗走した。侯景は「城中には菜がないわけではないが、ただ醤がないだけだ」と宣言し、これを嘲弄した。蕭衍の太官および軍人に薪がなく、ついに尚書省、武庫、左右蔵を発取して用に充てた。蕭衍の州鎮の外援は到着する者もあったが、侯景の包囲柵は深く固く、内外は断絶した。蕭衍はたびたび人を募って出戦させたが、常に侯景に捕らえられた。一人の小児が飛鳶を用いて消息を伝えようと請うたので、蕭綱は数千丈の縄を作り、その端に紙の鳶をつけ、その背に書を縛り付け、また鳶の口に「もし鳶を得て援軍に送る者あれば、銀百両を賞す」と題した。蕭綱は太極殿から出て、西北風に乗せてこれを揚げ、たびたび数鳶を放ったが、侯景は走馬をさせて射取らせ、ついに達することはできなかった。

蕭衍の城内は大いに飢え、人々は互いに食らい合い、米一斗は八十万、皆人肉に牛馬を混ぜて売った。軍人は共に徳陽堂の前に市を立て、牛一頭を屠ると絹三千匹を得、狗一匹を売ると銭二十万を得た。皆鼠を燻し雀を捕えて食い、ここに至って雀鼠も皆尽き、死者は枕を重ねた。初めに池の魚を盗み取る者があった時、蕭衍はなおも大いに怒り、廷尉に付すよう勅したが、やがて一夜のうちに全て尽きてしまった。その事の道理を弁えぬこと、このようなものであった。

侯景は久しく攻めて抜けず、蕭衍の外援は多くはあったが、それぞれが乖離し、統制する者がなく、互いに妬み忌み、奮って撃とうとしなかった。ただ蕭衍の子の邵陵王蕭綸のみが再び鍾山で決戦し、戦いに敗れて逃走した。侯景の兵糧が少なくなると、ついに蕭衍を欺いて和を求めた。蕭衍はこれを信じ、江西の四州を割いて侯景に授け、寿陽王に封じ、その朝貢を遣わした。部下と共に歃血して盟を結び終えると、侯景は偽って軍を率いて石頭に還った。蕭衍はそこで援軍に命じて下るよう勅したが、諸軍は初めは詔を受けず、後に重ねて勅してようやく従った。蕭衍はまた援軍に命じて船三百艘を侯景に与えさせたが、侯景はなお少ないと嫌い、また二百艘を付すよう勅した。蕭衍の永安侯蕭確、直閤将軍の趙威方は頗る勇略があり、侯景に畏れられた。侯景はそこで蕭衍に言うには、「蕭確と趙威方がたびたび対岸から罵っており、『天子は自ら汝と和するが、我は終に汝を置かぬ!』と言う。我は今や敢えて行くことができない。もしこの二人を召し入城させるならば、我は囲みを解こう」と。蕭衍はまた使者を遣わして蕭確らを徴したが、蕭確らは従わなかった。蕭衍はまた諸軍に手書を送り、「蕭確がもし入らぬならば、軍法をもってこれを送るべし」と言った。蕭確らは已むを得ず、ついに蕭衍のもとに赴いた。侯景はまた蕭衍に言うには、「西からの手紙が届き始め、北軍がすでに寿春、鍾離を攻略した。我は今や足を置く所がなく、広陵、譙州を一時借り受け、両城を征伐して回復した後、この州を返還したい」と。蕭衍はまたこれを許した。侯景は外では和を欲すると言い、その懈怠を窺い、蕭衍君臣上下は侯景の欺詐を信じ、所有の戦具を悉く収め去った。後になって真実でないと知り、更に狼狽して設備したが、初めよりも甚だしかった。城は次第に危急となり、蕭衍らは計窮まり、また使者を侯景のもとに遣わした。侯景はまた詭弁を弄して言うには、「今は暑い時節であり、すぐには去ることができない。ちょうど京師に留まることを乞い、朝廷のために功を立てたい」と。そして全力で大攻撃を加え、七年(549年)三月、ついにこれを陥落させた。

侯景は建業に至ってから、軍士に前後して略奪をさせ、倉庫の所有物は皆地を掃うように尽き果てた。侯景はそこで数百騎を従えて蕭衍に会い、すすり泣いて涙を流し、香火を請うて義児となし、蕭衍を主君に戻した。蕭正徳に命じて啓を通じさせた、「以前は侯景に捕らえられ、四海を摂政せよと命じられたが、辞退して免れず、一時的に万機を総べた。今、侯景が既に入朝して輔弼するので、僭上の濫りを解き、王として邸に還ることを乞う」と。侯景が建業を包囲して以来、城中には腫病が多く、死者は相次ぎ、板木が再び無くなったので、柱を刳り貫いて棺とした。雲龍門・神虎門の外から、横たわる屍は重なり合い、血汁が漂流して、通行の道は無くなった。侯景が城に入ると、屍を悉く集めて焼き、煙気は天を覆い、臭気は数十里に聞こえた。初め、城中の男女は十余万人であったが、陥落した時には、生き残った者は僅か二三千人で、また皆病気を帯びており、天がこれを亡ぼしたのであろう。蕭衍は間もなく侯景に餓死させられた。蕭衍が侯景に攻囲されて百余日を経る間、蕭衍の子である荊州刺史・湘東王蕭繹と、益州刺史・武陵王蕭紀はそれぞれ兵を擁して自守し、蕭衍の危急を座視して、遂に奔赴しなかった。侯景が江を渡ってから城が陥落するまで、江南の民および蕭衍の王侯・妃主・世冑の子弟で侯景の軍人に掠められ、あるいは自ら売り買いされ、国に漂流入った者は数十万口に及び、これに飢饉と死亡が加わり、所在の地は塗炭に陥り、江左は遂に丘墟となった。

初め、蕭衍は仏道を崇信し、建業に同泰寺を建立し、また故宅に光宅寺を立て、鍾山に大愛敬寺を立て、兼ねて長干の二寺を営み、皆窮極の工巧を尽くし、財力を殫め尽くしたので、百姓はこれを苦しんだ。かつて斎会を設け、自ら身を施して同泰寺の奴となったが、その朝臣が三度上表して許さず、そこで内外の百官が共に珍宝を集めて彼を贖った。蕭衍は毎回仏を礼する時、その法服を捨て、乾陀袈裟を着た。その王侯子弟に皆仏戒を受けさせ、仏事に精励苦行する者があれば、直ちに菩薩の号を加えた。その臣下が奏表上書する時も、蕭衍を皇帝菩薩と称した。蕭衍の管轄する刺史・郡守で初めて官に至る者は、皆上礼として物を献上することを求め、多い者は便ち称職と言い、貢ぎ物が少ない者は、弱惰であると言った。故にその牧守は、在官中皆競って聚斂に事とし、細民を劫掠剥奪して、自ら封殖し、多くの妓妾・粱肉・金綺を有した。百姓は怨み苦しみ、皆生を聊かすことができなかった。また兵士を召集する時は、皆鎖械を必要とし、そうでなければ直ちに逃散した。その王侯貴人は、奢淫無度で、兄弟子姪は、侍妾が千数に及ぶ者もあり、互いに贈り物をすることさえあった。その風俗は頽喪し、綱維が挙がらないのはこのようであった。蕭衍は自ら持戒しているとして、その祖禰を祭る時でさえ、牢牲を設けず、当時の人々は皆密かに言った、僭上して王者の司をなしているが、その宗廟は実に血食していない、と。蕭衍が敗れる前、その同泰寺に災いが起こり、蕭衍の祖父の墓前の石麟が一旦亡失し、識者は皆その将に滅びんとすることを知った。侯景はまた蕭衍の子蕭綱を立てたが、間もなく再びこれを殺した。蕭衍の親属は皆屠害された。

【史評】

史臣が曰く、二蕭(蕭衍・蕭繹)は塗泥の中で競い、蝸角の戦いを同じくし、ある者は年わずか三紀、ある者は身終わりを得ず、しかも江の辺境で名を盗み、自ら王者に擬する。遂古にこれを考うれば、未だ前に聞かざるところである。昔、句踐は貢を致して世を延ばし、夫差は長を争って後に死せり。両寇(二蕭)を呉越に比すれば、劣らざるか。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻98