魏書

卷98 島夷蕭道成 島夷蕭衍

卷98 島夷蕭道成 島夷蕭衍

蕭道成

原文蕭道成

島夷たる蕭道成は、字を紹伯といい、晉陵武進の楚である。僭晋の時に、武進の東城を以て蘭陵郡県と為し、遂に蘭陵の人となる。父の承之は、常に同族の蕭思話に従って征伐し、久しくして初めてその横野司馬を得、軍功を以て劉義隆に仕え、位は右軍将軍に至る。

原文島夷蕭道成,字紹伯,晉陵武進楚也。僭晉時,以武進之東城為蘭陵郡縣,遂為蘭陵人。父承之,常隨宗人蕭思話征伐,久乃得為其橫野司馬,以軍功仕劉義隆,位至右軍將軍。

道成は若くして武事を好み、初め散冗に従い、毎度征役に充てられ、前後して蛮族討伐の小帥と為り、勤労劇務に堪えることを以て知られる。思話が襄陽を鎮守する時、自らに随従するよう上奏し、統戍を任せられる。次第に左軍中兵参軍に遷り、毎に疆埸に在りては辺民を擾動し、曾て談堤に至り、大敗して逃走す。劉駿の時に間関して偽職に至り、建業令となる。駿が死ぬと、子業は後軍将軍・直閤と為す。

原文道成少好武事,初從散冗,每充征役,前後為討蠻小帥,以堪勤劇見知。思話之鎮襄陽,啟之自隨,任以統戍。稍遷左軍中兵參軍,每在疆埸,擾動邊民,曾至談堤,大敗而走。劉駿時間關偽職,至建業令。駿死,子業以為後軍將軍、直閤。

子業が死ぬと、劉彧は右軍将軍に除す。時に子業の江州刺史・晉安王の子勛、会稽太守・尋陽王の子房等並びに挙兵す。彧は道成に輔国将軍を加えて東討せしめ、諸県を平定す。晉陵太守の袁摽、呉郡太守の顧琛、呉興太守の王雲生は皆郡を棄てて奔走す。時に徐州刺史の薛安都が従子の索児に鋭衆を率いさせて淮を渡らせ、道成を徴してこれを拒がしむ。功を以て西陽県開国侯に封ぜられ、食邑六百戸。子勛は臨川内史の張淹を東嶠より入らせ、三呉を擾動せんと図る。劉彧は道成に三千人を率いさせ、軍主の沈思仁に張淹を拒がしめ、張淹は即ち奔走す。張永・沈攸之が彭城にて大敗す。劉彧は道成を冠軍将軍と為し諸軍事を督せしめ、節を仮し、淮陰を戍守せしむ。

原文子業死,劉彧除右軍將軍。時子業江州刺史、晉安王子勛,會稽太守、尋陽王子房等並舉兵。彧加道成輔國將軍東討,平定諸縣。晉陵太守袁摽、吳郡太守顧琛、吳興太守王雲生皆棄郡奔走。時徐州刺史薛安都遣從子索兒率銳眾度淮,徵道成拒焉。以功封西陽縣開國侯,食邑六百戶。子勛遣臨川內史張淹自東嶠入,規欲擾動三吳,劉彧遣道成率三千人統軍主沈思仁拒淹,淹便奔走。張永、沈攸之大敗於彭城,劉彧以道成為冠軍將軍督諸軍事,假節,戍淮陰。

彧が死ぬと、子の昱は道成を右衛将軍と為し、衛尉を領し、兵五百人を加え、尚書令の袁粲・護軍の褚淵・領軍の劉勔と共に朝事を参掌せしむ。間もなく衛尉を解き、侍中を加え、石頭城を戍守す。劉休範が挙兵し、王道隆等を討つを名とし、数日厳しく治め、便ち大衆を率いて席卷して下る。道成等は衆を率いて拒戦す。事平らぎ、道成を散騎常侍・中領軍・都督南兗兗徐青冀五州・鎮軍将軍・南兗州刺史と為し、持節・侯は故の如し。後に爵を進めて公と為し、邑二千戸を増す。

原文彧死,子昱以道成為右衞將軍,領衞尉,加兵五百人,與尚書令袁粲、護軍褚淵、領軍劉勔參掌朝事。尋解衞尉,加侍中,戍石頭城。劉休範舉兵,以討王道隆等為名,治嚴數日,便率大眾席卷而下。道成等率眾拒戰。事平,以道成為散騎常侍、中領軍、都督南兗兗徐青冀五州、鎮軍將軍、南兗州刺史,持節、侯如故。後進爵為公,增邑二千戶。

劉昱の凶虐日甚だしきに、道成は直閤の王敬則・昱の左右の楊玉夫と共謀して昱を殺し、弟の準を迎えて立て、年号を昇明と改む。時に太和元年なり。道成は東城に移鎮し、甲仗五十人を以て殿に入り、位を進めて侍中・司空・録尚書事・驃騎大将軍・持節・都督・刺史と為し、故の封に竟陵郡公五千戸を加え、班剣三十人を与え、又進んで豫司二州を督す。荊州刺史の沈攸之が挙兵して道成を討つ。道成は衆を率いて朝堂に入り鎮守す。司徒の袁粲は先に石頭を鎮守し、城に拠り尚書令の劉秉・前湘州刺史の王蘊と謀りて道成を討ち、密信を以て攸之に速やかに下るよう求め、内応せんとす。成らず、粲は子の最と共に死に、秉父子は城を踰えて頟檐湖に走り、王蘊は鬬場に向かって走り、並びに擒えられる。攸之は夏口に至り、敗走し、第三子の中書郎太和と単騎南奔して華容県に至り、共に自縊死す。道成は又太尉と為り、封三千戸を増し、班剣四十人、甲仗百人を以て殿に入る。

原文劉昱凶虐日甚,道成與直閤王敬則、昱左右楊玉夫同謀殺昱,迎弟準立之,改年為昇明,時太和元年也。道成移鎮東城,以甲仗五十人入殿,進位侍中、司空、錄尚書事、驃騎大將軍、持節、都督、刺史,加故封竟陵郡公五千戶,給班劍三十人,又進督豫司二州。荊州刺史沈攸之舉兵討道成,道成率眾入鎮朝堂。司徒袁粲先鎮石頭,據城與尚書令劉秉、前湘州刺史王蘊謀討道成,密信要攸之速下,將為內應。不克,粲與子最俱死,秉父子踰城走於頟檐湖,王蘊走向鬬場,並見擒。攸之至于夏口,敗走,與第三子中書郎太和單騎南奔華容縣,俱自縊死。道成又為太尉,增封三千戶,班劍四十人,甲仗百人入殿。

道成将に大志有らんとす。準の侍中王儉が間を請い、これを勧む。道成曰く「卿の言は何ぞ。我今当に事に依りて相い啓すべし」と。言辞は厳しけれども、意色甚だ悦ばし。儉が在位の者を諷動し、乃ち道成に黄鉞・都督中外諸軍事・太傅・領揚州牧を加え、剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名と為し、左右長史・司馬、従事中郎・掾・属各四人を置き、使持節・侍中・太尉・驃騎大将軍・録尚書・南徐州刺史は故の如し。道成は殊礼を詐り辞す。前命を重申し、剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名と為す。位を進めて相国と為し、百揆を総べ、十郡を封じて斉公と為し、九錫の礼を備え、璽紱・遠遊冠を加え、位は諸王の上に在り、相国・緑綟綬を加え、その驃騎大将軍・揚州牧・南徐州刺史は故の如し。ここに於いて斉台を建て、百官を置き、東府を以て斉宮と為し、又十郡を増封し、公を進めて王と為す。間もなく大号を僭称し、その主劉準を汝陰王に封ず。未だ幾ばくもなくして死す。

原文道成將有大志,準侍中王儉請間,勸之,道成曰:「卿言何?我今當依事相啟。」言辭雖厲,而意色甚悅。儉諷動在位,乃加道成黃鉞、都督中外諸軍事、太傅、領揚州牧,劍履上殿、入朝不趨、贊拜不名,置左右長史、司馬,從事中郎、掾、屬各四人,使持節、侍中、太尉、驃騎大將軍、錄尚書、南徐州刺史如故。道成詐辭殊禮。重申前命,劍履上殿、入朝不趨、贊拜不名。進位相國,總百揆,封十郡為齊公,備九錫之禮,加璽紱、遠遊冠,位在諸王上,加相國、綠綟綬,其驃騎大將軍、揚州牧、南徐州刺史如故。於是建齊臺,置百官,以東府為齊宮,又增封十郡,進公為王。尋僭大號,封其主劉準為汝陰王,未幾而死。

ここに於いて高祖、詔して梁郡王の嘉に二将を督せしめて淮陰より出で、隴西公の元琛に三将を率いしめて広陵より出で、河東公の薛虎子に三将を率いしめて寿春より出で、以てこれを討たしむ。元琛等その馬頭戍を攻め、これを克つ。道成その徐州刺史の崔文仲を遣わして茌眉戍を攻め陥れしむ。詔して尚書の游明根を遣わしてこれを討たしむ。又平南将軍の郎大檀に三将を率いしめて昫城より出で、将軍の白吐頭に二将を率いしめて海西より出で、将軍の元泰に二将を率いしめて漣口より出で、将軍の封延に三将を率いしめて角城より出で、鎮南将軍の賀羅を下蔡より出でしむ。道成の梁州刺史の崔慧景、長史の裴叔保を遣わし衆を率いしめて武興関城を寇す。氐帥の楊鼠これを撃破す。叔保は南鄭に還る。梁郡王の嘉、道成の将の盧紹之・玄元度を昫山に破る。下蔡戍主は城を棄て遁走す。又詔して昌黎王の馮熙を西道都督と為し、征南将軍の桓誕と義陽より出でしめ、鎮南将軍の賀羅を下蔡より東出して鍾離に出でしめ、道成の游撃将軍の桓康を淮陽に破る。道成の豫州刺史の垣崇祖、下蔡を寇す。昌黎王の馮熙これを撃破す。梁郡王の嘉、大いに道成の将を破り、俘獲二万余口を京師に送る。

原文於是高祖詔梁郡王嘉督二將出淮陰,隴西公元琛三將出廣陵,河東公薛虎子三將出壽春以討之。元琛等攻其馬頭戍,克之。道成遣其徐州刺史崔文仲攻陷茬眉戍,詔遣尚書游明根討之。又遣平南將軍郎大檀三將出昫城,將軍白吐頭二將出海西,將軍元泰二將出漣口,將軍封延三將出角城,鎮南將軍賀羅出下蔡。道成梁州刺史崔慧景遣長史裴叔保率眾寇武興關城,氐帥楊鼠擊破之,叔保還南鄭。梁郡王嘉破道成將盧紹之、玄元度於昫山。下蔡戍主棄城遁走。又詔昌黎王馮熙為西道都督,與征南將軍桓誕出義陽,鎮南將軍賀羅自下蔡東出鍾離,道成游擊將軍桓康於淮陽,破之。道成豫州刺史垣崇祖寇下蔡,昌黎王馮熙擊破之。梁郡王嘉大破道成將,俘獲二萬餘口送京師。

道成、後軍参軍の車僧朗を遣わして朝貢す。先に、劉準、使者の殷霊誕・苟昭先を遣わすも、未だ反せざるに道成僭立す。僧朗の至るに及び、朝廷これを霊誕の下に処す。僧朗と霊誕と前後を競う。降人の解奉君、遂に朝会に於いて僧朗を刃する。詔して殯斂を加え、喪を送りて還らしむ。

原文道成遣後軍參軍車僧朗朝貢。先是,劉準遣使殷靈誕、苟昭先,未反而道成僭立。及僧朗至,朝廷處之靈誕之下,僧朗與靈誕競前後,降人解奉君遂於朝會刃僧朗。詔加殯斂,送喪令還。

道成死す。子の賾、僭立し、年号を永明と改む。賾、その驍騎将軍の劉纘・前将軍の張謨を遣わして朝貢す。八年、又兼員外散騎常侍の司馬憲・兼員外散騎侍郎の庾習を遣わして朝献す。九年、輔国将軍の劉纘・通直郎の裴昭明を遣わして朝貢す。十年、又昭明と冠軍参軍の司馬迪之を遣わして朝貢す。

原文道成死,子賾僭立,改年為永明。賾遣其驍騎將軍劉纘、前將軍張謨朝貢。八年,又遣兼員外散騎常侍司馬憲、兼員外散騎侍郎庾習朝獻。九年,遣輔國將軍劉纘、通直郎裴昭明朝貢。十年,又遣昭明與冠軍參軍司馬迪之朝貢。

賾、初め太子たりし時、特に奢侈なり。道成毎にこれを廃せんと欲すも、王敬則の和諧に頼る。賾の性貪惏にして、常に人に謂いて曰く「唯だ崔慧景のみ我が貧しきを知る」と。賾嘗てその益州刺史の劉悛の宅に至りて晝臥す。覚め、悛自ら金澡盤(面広さ三尺)を捧げ、愛姫金澡灌(四升を受く)を執りて以て沃盥に充て、因りて以て奉献す。賾これを納る。その利を好むこと此の若し。賾遊獵無度。その殿中将军の邯鄲超、表を上りて諫む。賾これを殺す。

原文賾初為太子時,特奢侈,道成每欲廢之,賴王敬則和諧。賾性貪惏,常謂人曰:「唯崔慧景知我貧。」賾嘗至其益州刺史劉悛宅晝臥,覺,悛自捧金澡盤面廣三尺,愛姬執金澡灌受四升,以充沃盥,因以奉獻。賾納之。其好利若此。賾遊獵無度,其殿中將軍邯鄲超上表諫,賾殺之。

十三年、平南参軍顔幼明・冗従僕射劉思效を遣わして朝貢す。十四年、賾(武帝蕭賾)の巴東王子響が長史劉寅・司馬席恭穆を殺し、賾を謀殺せんとし、賾は丹陽尹蕭順之を遣わして討ち殺させた。十五年二月、員外散騎常侍裴昭明・員外散騎侍郎謝竣を遣わして朝貢す。九月、また司徒参軍蕭琛・范縝を遣わして朝貢す。十六年、再び琛と司徒参軍范雲を遣わして朝貢し、また車騎功曹庾蓽・南豫州別駕何憲を遣わして朝貢す。十七年、賾の雍州刺史王奐が南蛮長史劉興祖と衆罪を論じ、賾は興祖を獄に付し、建業に送還せしめんとした。奐は獄中で勝手にこれを殺し、自死と称した。賾は怒り、その直閤将軍曹道剛・梁州刺史曹虎を遣わして奐を収めさせたが、奐は門を閉めて戦いを拒んだ。司馬黄瑤起が城内で兵を起こして奐を攻め、これを殺した。奐の子で秘書丞の蕭粛・粛の弟の蕭秉が降って来た。

原文十三年,遣平南參軍顏幼明、冗從僕射劉思效朝貢。十四年,賾巴東王子響殺長史劉寅、司馬席恭穆,謀殺賾,賾遣丹陽尹蕭順之討殺之。十五年二月,遣員外散騎常侍裴昭明、員外散騎侍郎謝竣朝貢。九月,又遣司徒參軍蕭琛、范縝朝貢。十六年,復遣琛與司徒參軍范雲朝貢,又遣車騎功曹庾蓽、南豫州別駕何憲朝貢。十七年,賾雍州刺史王奐與南蠻長史劉興祖論眾罪,賾以興祖付獄,令送還建業。奐輒於獄殺之,而云自死。賾怒,遣其直閤將軍曹道剛、梁州刺史曹虎收奐,奐閉門拒戰。司馬黃瑤起於城內起兵攻奐,殺之,奐子祕書丞肅、肅弟秉來降。

賾の子の長懋が死に、その孫の南郡王昭業を立てて皇太孫とした。賾が病に罹り一時気絶した時、その子の竟陵王子良は殿内におり、昭業はまだ入っていなかった。中書郎王融は戎服を着て中書省の閤口に立ち、東宮の仗が進めぬよう遮り、子良を立てようとした。賾が蘇生すると、昭業が殿に入った。融は子良が立たぬと知り、服を脱いで省に還った。

原文賾子長懋死,立其孫南郡王昭業為太孫。賾遇疾暫絕,其子竟陵王子良在殿內,昭業未入。中書郎王融戎服於中書省閤口斷東宮仗不得進,欲立子良。賾既蘇,昭業入殿。融知子良不得立,乃釋服還省。

賾が死に、昭業が立った。十数日後、王融を収めて廷尉に付し殺した。昭業は生まれてからその叔父の子良に養われた。しかし、情を矯め詐りを飾り、陰に鄙しき悪意を懐き、左右の無頼の群小二十人ほどと衣食を共にし、同じく臥起した。妻の何氏はその中から美貌の者を選んで交わらせた。密かに富商大賈に赴き、数え切れぬほどの銭を取った。子良と同居していた時は、思いのままにできなかった。子良が西邸に移ると、昭業は独り西州に住み、毎日暮れ夜になると、輒ち後閤を開け、諸小人と共に諸営署に至り、淫宴を恣にした。凡そ不逞の輩は皆、次々に爵位を加えられ、南面の日(即位の日)には即座に施行することを許され、皆、官位名号を黄牋紙に書き記して与えられ、各々囊に盛り、肘後に帯びた。昭業の師の史仁祖・侍書の胡天翼がこれを聞き、互いに謀って言うには、「もし二宮(皇帝と皇太子)に言えば、その事は容易ならず、もし営署で異人に殴打され、あるいは犬物に傷つけられでもすれば、ただ一身の罪に止まらず、必ず全家に禍が及ぼう。我々は年も既に七十余り、命など惜しむに足らぬ。」数日後、仁祖・天翼は共に自殺した。

原文賾死,昭業立。十數日,收融付廷尉殺之。昭業生而為其叔子良所養。而矯情飾詐,陰懷鄙慝,與左右無賴羣小二十許人共衣食,同臥起。妻何氏擇其中美貌者與交通。密就富商大賈取錢無數。既與子良同居,未得肆意。子良移西邸,昭業獨住西州,每至昏夜,輒開後閤,與諸小人共至諸營署恣淫宴。凡諸不逞,皆迭加爵位,許以南面之日,便即施行,皆疏官位名號於黃牋紙與之,各各囊盛,帶之肘後。昭業師史仁祖、侍書胡天翼聞之,相與謀曰:「若言之二宮,則其事未易,若於營署為異人所毆打,及為犬物所傷殘,豈直罪止一身,亦當盡室及禍。年各已七十餘,生寧足吝也。」數日,仁祖、天翼皆自殺。

昭業の父の長懋が病み及び死ぬまで、昭業は侍奉して憂い哀しみ、号泣して礼を過ぎたが、私室に還ると、親愛する者と共に欣笑して酣に飲み、諸々の甘き滋味を備えた。葬儀が終わると、皇太孫に立てられた。壁を截って閤とし、母の房内から何氏の部屋へ通じ、毎回入ると長時間出て来なかった。賾が東宮に至ると、昭業は迎え拝して号慟し、絶えて後蘇生した。賾は自ら輿を下りてこれを抱き持つなど、寵愛は隆重であった。初め、昭業が西州にいた時、女巫の楊氏に命じて祈祷させ、速やかに天位を求め、その父が死ぬと、楊氏の力によるものとして、倍加して敬信した。楊氏の子の珉もまた美貌があり、何氏は特にこれを愛で喜んだ。昭業は楊氏を婆と呼んだ。劉氏(宋)以来、民間でも楊婆児の歌を作ったが、蓋しこのためである。東宮に在った時、賾が病むと、楊氏に日夜祈祷させ、賾を早く死なせようとした。何氏に送る手紙には、紙の中に大きな「喜」の字を書き、小さな「喜」の字三十六個でこれを囲んだ。賾は彼が必ずや大業を負荷できると思い、言うには、「五年以来、一切宰相に委ねてきたが、汝は多く意に反するだろう。五年以後、再び人に委ねるな。」臨終に際し、昭業の手を執って言うには、「阿奴、もし翁(わし)を憶うなら、よく行いなさい。」このように二度言って死んだ。子良は当時中書省におり、昭業は疑い畏れ、虎賁中郎将潘淑に百人を率いさせ、太極殿西階に駐屯させてこれを防がせた。大殮の始めに、賾の伎人を呼び集めて衆楽を挙げさせた。諸伎は威に畏れて事に従うものの、哽咽して涙を流さぬ者はなかった。成服の後、諸王を悉く邸に還らせた。子良は固く乞い、賾の葬儀を過ぎるまで留まることを求めたが、許されなかった。

原文昭業父長懋自患及死,昭業侍奉憂哀,號毀過禮,及還私室,與所親愛欣笑酣飲,備諸甘滋。葬畢,立為皇太孫。截壁為閤,於母房內往何氏間,每入輒彌時不出。賾至東宮,昭業迎拜號慟,絕而後蘇,賾自下輿抱持之,寵愛隆重。初,昭業在西州,令女巫楊氏禱祝,速求天位,及其父死,謂由楊氏之力,倍加敬信。楊氏子珉亦有美貌,何氏尤愛悅之。昭業呼楊氏為婆。劉氏以來,民間亦作楊婆兒歌,蓋為此也。及在東宮,賾有疾,令楊氏日夕祈禱,令賾早死。與何氏書,於紙中作一大「喜」字,作小「喜」三十六字遶之。賾謂其必能負荷大業,謂曰:「五年已來,一委宰相,汝多庴意。五年以後,勿復委人。」臨死,執昭業手曰:「阿奴若憶翁,當好作。」如此者再而死。子良時在中書省,昭業疑畏,使虎賁中郎將潘淑領百人屯太極殿西階以防之。大斂之始,呼賾伎人備舉眾樂,諸伎雖畏威從事,莫不哽咽流涕。及成服,悉遣諸王還第。子良固乞留過賾葬,不許。

昭業は元来より狗馬を好み、立って十日と経たぬうちに、早くも賾の建てた招婉殿を壊し、その殿材を宦官の徐龍駒に与えて邸宅を造らせ、その場所に馬埒を設け、馳せ走って馬から墜ち、顔面と額を共に傷つけ、病と称して数日間出なかった。多くの名鷹・快犬を集め、梁肉をもってこれに奉じた。賾が葬られようとする時、喪車がまだ端門を出ないうちに、昭業は早くも病と称して内に還り、閤に入るや、直ちに内で胡伎の音楽を奏させ、鞞鐸の音声が内外に震響した。時に司空王敬則が射声校尉蕭坦之に問うて言うには、「この様子では、慌ただしくならぬはずがあろうか。」坦之は言う、「これは丁度、内人の哭聲が響き渡っているだけでしょう。」賾の葬儀の後、昭業は微服して出て、里市を遊走し、また多くその父母の陵隧の中に往き、群小と共に鄙わざを行い、泥を投げ賭け跳び、鷹を放ち狗を走らせるなど諸々の雑狡獪をなし、日々に往き、これを常とした。朝政の大小は、皆、尚書令蕭鸞が断じた。初め蕭賾が銭を蓄え、上庫は五億万に至り、斎庫もまた三億万を出し、金銀布帛絲綿は称計すべからざるほどであったが、この歳末に至り、用いたる所は過半に及び、皆、左右の厮卒の徒に賜与した。廃黜されるに及んで、府庫は空尽した。昭業は内におり、常に紫の綿に紅の繍を施した雑衣あるいは錦の帽を着用した。

原文昭業素好狗馬,立未十日,便毀賾所起招婉殿,以殿材乞閹人徐龍駒造宅,於其處為馬埒,馳走墜馬,面額並傷,稱疾不出者數日。多聚名鷹快犬,以粱肉奉之。賾將葬,喪車未出端門,昭業便稱疾還內,裁入閤,便於內奏胡伎,鞞鐸之聲,震響內外。時司空王敬則問射聲校尉蕭坦之曰:「便如此,不當怱怱邪?」坦之曰:「此政當是內人哭聲響徹耳。」自賾葬後,昭業微服而出,遊走里市,又多往其父母陵隧中,與羣小共作鄙藝,擲塗賭跳,放鷹走狗諸雜狡獪,日日輒往,以此為常。朝事大小,皆斷於尚書令蕭鸞。初蕭賾聚錢,上庫至五億萬,齋庫亦出三億萬,金銀布帛絲綿不可稱計,至此歲末,所用過半,皆賜與左右厮卒之徒。及至廢黜,府庫空盡。昭業在內,常着紫綿紅繡雜衣或錦帽。

年号を隆昌と改めた。黄門郎周奉叔を冠軍将軍・青州刺史とした。奉叔は諂諛を事とし、昭業はこれを甚だ悦んだが、専恣跋扈して忌憚するところなく、常に単刀二十口を従え、禁闥を出入りし、門衞は敢えて呵止する者もなかった。毎に人に語って言うには、「周郎の刀は君を識らぬ。」徐龍駒は東宮の斎師として便佞をもって寵愛を受け、姦邪を構え造り、容媚を取った。凡そ諸々の鄙黷なる雑事は、皆、龍駒が勧誘したものである。昭業は龍駒のために美女伎楽を置き、常に含章殿に住まわせ、黄綸の帽を着け、貂裘を被り、南面して机に向かい、昭業に代わって勅を画し、左右に侍直する様は、昭業と異ならなかった。蕭鸞は固く請うてこれを誅殺せしめ、楊珉とその母もまた共に獄に下して死なせた。珉とその母は昭業に寵愛され、恩情は特に隆く、賞賜は府蔵を傾けた。珉は何氏に寵愛され、常に宮中内侍にあった。蕭鸞は初め、衞尉蕭諶・征北諮議蕭坦之に命じて珉の誅殺を請わせた。何氏は昭業と同席して坐り、涙を流して顔を覆い、坦之に言うには、「楊郎は良い若者で、罪はない。どうして枉しく殺せようか。」坦之は乃ち昭業に耳打ちして言うには、「この事には別の意味があります。人に聞かせてはなりません。」昭業は何氏を呼んで言うには、「阿奴、暫く立ち去れ。」坦之は乃ち言う、「外間では皆、楊珉が皇后と情を通じていると云い、その噂は遠近に聞こえています。この事は古来無く、恐らく必ずや官事(朝廷の事)を誤らせましょう。」昭業は已むを得ず、乃ちこれを許したが、俄かに勅してこれを赦そうとした時には、既に刑は執行されていた。益州刺史劉悛が罷任して還ると、昭業はその饋奉が豊かでないとして、収めて廷尉に付し、大辟を加えんとした。悛の弟で中書郎の劉絵が身を以て代わることを乞い、死を免れ、終身禁錮に処された。昭業はその父の寵姫霍氏と淫通し、これを後宮に納れた。蕭鸞はその廃立を謀り、衆を率いて入った。時に昭業は裸身で霍氏と相対し、兵の至るを聞くと、剣を抜き起きて鸞に拒んだが、鸞が自らこれを殺した。左右で死んだ者は十余人であった。

原文改年為隆昌。以黃門郎周奉叔為冠軍將軍、青州刺史。奉叔諂諛為事,昭業甚悅之,而專恣跋扈,無所忌憚,常從單刀二十口,出入禁闥,門衞莫敢訶止。每語人云:「周郎刀不識君。」徐龍駒自東宮齋師以便佞見寵,構造姦邪,以取容媚,凡諸鄙黷雜事,皆龍駒所勸誘也。昭業為龍駒置美女伎樂,常住含章殿,著黃綸帽,被貂裘,南面向案,代昭業畫敕,左右侍直,與昭業不異。蕭鸞固請誅之,楊珉及母亦並下獄死。珉及母為昭業所寵,恩情特隆,賞賜傾府藏。珉為何氏所幸,常居中內侍。蕭鸞初令衞尉蕭諶、征北諮議蕭坦之請誅珉,何氏與昭業同席坐,流涕覆面,謂坦之曰:「楊郎好年少,無罪,何可枉殺!」坦之乃耳語於昭業曰:「此事別有一意,不可令人聞。」昭業呼何氏曰:「阿奴暫起去。」坦之乃曰:「外間並云楊珉與皇后有情,聞彰遐邇,此事自古所無,恐必誤官事。」昭業不得已,乃許之,俄敕原之,已行刑矣。益州刺史劉悛罷任還,昭業以其饋奉不豐,收付廷尉,將加大辟。悛弟中書郎繪乞以身代,得不死,禁錮終身。昭業與其父寵姬霍氏淫通,納之後宮。蕭鸞謀廢之,率眾而入。時昭業裸身與霍氏相對,聞兵至,拔劍起拒鸞,鸞自殺之。左右死者十餘人。

蕭鸞はその弟昭文を立て、自らは使持節・都督揚南徐二州・驃騎大将軍・開府・録尚書事・揚州刺史となり、班剣三十人を加えられ、宣城郡公に封ぜられ、二千戸を食んだ。兵五千人を率いて東城に出鎮した。その鄱陽王蕭鏘・随王蕭子隆を殺した。中護軍王玄邈を遣わして昭文の南兗州刺史・安陸王蕭子敬を殺させ、豫州刺史王広之は江州刺史・晋安王蕭子懋を殺し、また湘州刺史・南平王蕭鋭、郢州刺史・晋熙王蕭銶、南豫州刺史・宜都王蕭鑑を殺した。蕭鸞は黄鉞を加えられ、都督中外諸軍・太傅・領大将軍・揚州牧に進授された。班剣四十人を増やされ、前後部の羽葆鼓吹を賜り、剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名を許された。宣城郡王に封ぜられ、食邑五千戸となった。使持節・中書監・録尚書はもとのままとした。また昭文の桂陽王蕭鑠・衡陽王蕭鈞・江夏王蕭鋒・廬陵王蕭子卿・建安王蕭子真・巴陵王蕭子倫を殺した。ついに昭文を廃して海陵王とし、まもなく死んだ。蕭鸞は僭位して立った。

原文鸞立其弟昭文,自為使持節、都督揚南徐二州、驃騎大將軍、開府、錄尚書事、揚州刺史,加班劍三十人,封宣城郡公,二千戶。以兵五千人出鎮東城。殺其鄱陽王鏘、隨王子隆。遣中護軍王玄邈殺昭文南兗州刺史、安陸王子敬,豫州刺史王廣之殺江州刺史、晉安王子懋,又殺湘州刺史、南平王銳,郢州刺史、晉熙王銶,南豫州刺史、宜都王鑑。鸞加黃鉞,進授都督中外諸軍、太傅、領大將軍、揚州牧;增班劍四十人,前後部羽葆鼓吹;劍履上殿,入朝不趨,贊拜不名;封宣城郡王,食邑五千戶;使持節、中書監、錄尚書並如故。又殺昭文桂陽王鑠、衡陽王鈞、江夏王鋒、廬陵王子卿、建安王子真、巴陵王子倫。乃廢昭文為海陵王,尋死。鸞僭立焉。

蕭鸞は字を景栖という。その叔父蕭道成は彼を寵愛し、諸子を超えていた。蕭賾の末年、尚書左僕射となり、甚だ親しく委任された。蕭賾が死ぬと、ついに朝政を執った。昭業を殺した後、権を専らにして酷暴であり、蕭賾らの子孫を屠滅した。やがて自立し、時は太和十八年であり、年号を建武と称した。その宣徳太僕劉朗之・游撃将軍劉璩之は兄の子を養わず、母に随って他に嫁がせた罪に坐し、免官・禁錮に処せられた。時の論者は薄義の原因は実に蕭鸞に始まると謂った。

原文鸞,字景栖。其叔父道成寵愛之,過於諸子。蕭賾末,為尚書左僕射,甚親委之。賾死,遂秉朝政。既殺昭業,專權酷暴,屠滅賾等子孫。既而自立,時太和十八年也,號年建武。其宣德太僕劉朗之、游擊將軍劉璩之坐不贍給兄子,致使隨母他嫁,免官禁錮,時論者謂薄義之由,實自鸞始。

蕭鸞の雍州刺史曹虎が襄陽を拠りいて降伏を請うた。高祖は詔して征南将軍薛真度に行わせて四将を督して襄陽より出撃させ、大将軍劉昶は義陽より出撃し、徐州刺史元衍は鍾離より出撃し、平南将軍劉藻は南鄭より出撃させ、車駕は南伐した。十九年、蕭鸞の龍陽県開国侯王朗が渦陽より来降した。左将軍元麗は大いに蕭鸞の将を破り、その寧州刺史董蛮を擒えた。車駕は淮を渡り、八公山に幸した。淮に沿って東に巡り、鍾離を発し、江水に臨まんとしたが、司徒馮誕が薨じたので、ついに詔して班師し、使者を遣わして江に臨み蕭鸞の罪悪を数えさせた。

原文鸞雍州刺史曹虎據襄陽請降,高祖詔行征南將軍薛真度督四將出襄陽,大將軍劉昶出義陽,徐州刺史元衍出鍾離,平南將軍劉藻出南鄭,車駕南伐。十九年,鸞龍陽縣開國侯王朗自渦陽來降。左將軍元麗大破鸞將,擒其寧州刺史董蠻。車駕濟淮,幸八公山。巡淮而東,發鍾離,將臨江水,司徒馮誕薨,乃詔班師,遣使臨江數鸞罪惡。

蕭鸞はその西陽王蕭子明・南海王蕭子罕・邵陵王蕭子真を殺した。

原文鸞殺其西陽王子明、南海王子罕、邵陵王子真。

二十一年、車駕は蕭鸞を討った。蕭鸞の前将軍韓季方・弋陽太守王嗣之・後将軍趙祖悦ら十五将が来降した。江北において蕭鸞軍を大破し、その将軍王伏保らを獲た。車駕はついに沔東を巡って還った。蕭鸞の将王曇紛ら一万余が南青州を寇したが、黄郭戍主崔僧淵がこれを撃破し、その衆を悉く虜にした。また新野城を克ち、蕭鸞の輔国将軍・新野太守劉忌を斬った。蕭鸞の湖陽戍主蔡道福、赭陽戍主成公期及び軍主胡松、舞陰戍主・輔国将軍・西汝南北義陽二郡太守黄瑶起及び直閤将軍・軍主鮑挙、南郷太守席謙は皆戍を棄てて走り、瑶起・鮑挙を擒えた。

原文二十一年,車駕討鸞,鸞前將軍韓季方、弋陽太守王嗣之、後將軍趙祖悅等十五將來降。大破鸞軍於江北,獲其將軍王伏保等。車駕遂巡沔東而還。鸞將王曇紛等萬餘人寇南青州,黃郭戍主崔僧淵擊破之,悉虜其眾。又克新野城,斬鸞輔國將軍、新野太守劉忌。鸞湖陽戍主蔡道福,赭陽戍主成公期及軍主胡松,舞陰戍主、輔國將軍、西汝南北義陽二郡太守黃瑤起及直閤將軍、軍主鮑舉,南鄉太守席謙並委戍走,擒瑤起、鮑舉。

蕭鸞はまたその河東王蕭鉉・臨賀王蕭子岳・西陽王蕭子文・衡陽王蕭子珉・湘東王蕭子建・南郡王蕭子夏・巴陵王蕭昭秀・桂陽王蕭昭粲を殺した。

原文鸞又殺其河東王鉉、臨賀王子岳、西陽王子文、衡陽王子珉、湘東王子建、南郡王子夏、巴陵王昭秀、桂陽王昭粲。

車駕は南陽に幸し、宛北城を攻撃し、これを抜いた。冠軍将軍・南陽太守房伯玉は城を以て降った。また鄧城において蕭鸞の平北将軍崔慧景・黄門郎蕭衍を大敗させ、斬獲した首虜は二万有余であった。蕭鸞は憂怖し、ついに病が甚だしくなった。そこで大赦を行い、年号を永泰と改めた。その大司馬王敬則が会稽において兵を挙げ、蕭鸞を誅せんとした。鎮北諮議謝朓は敬則の女婿であったが、これを告げたので、敬則は敗れて死んだ。

原文車駕幸南陽,進攻宛北城,拔之,冠軍將軍、南陽太守房伯玉以城降。又大敗鸞平北將軍崔慧景、黃門郎蕭衍於鄧城,斬獲首虜二萬有餘。鸞憂怖,遂疾甚。乃大赦,改年為永泰。其大司馬王敬則於會稽舉兵,將以誅鸞,鎮北諮議謝眺,敬則女夫也,告之,敬則敗而死。

蕭鸞が死ぬと、子の宝巻が僭立した。二十三年春、宝巻は元号を永元と改め、その太尉陳顕達に崔慧景を率いさせて馬圏城を攻撃させた。詔して前将軍元英にこれを討たせた。宝巻は将を遣わして順陽を寇したので、詔して振威将軍慕容平城に騎兵を率いてこれを討たせた。顕達は馬圏城を陥落させた。車駕は南伐し、詔して鎮南大将軍・広陽王元嘉に均口を断たせた。顕達は戦いに敗れ、囲みを潰して夜遁した。その左軍将軍張子順を斬り、賊将蔡道福・成公期ら数万人は順陽を棄てて遁走した。

原文鸞死,子寶卷僭立。二十三年春,寶卷改元為永元,遣其太尉陳顯達率崔慧景攻馬圈城,詔前將軍元英討之。寶卷遣將寇順陽,詔振威將軍慕容平城率騎討之。顯達攻陷馬圈城,車駕南伐,詔鎮南大將軍、廣陽王嘉斷均口。顯達戰敗,潰圍夜走,斬其左軍將軍張子順賊將蔡道福、成公期等數萬人棄順陽遁走。

宝巻は昏狂であり、政は群竪より出た。その始安王蕭遙光が東府に拠りいて反したが、克たずして殺された。またその右僕射蕭坦之・左衛将軍曹虎・領軍将軍劉暄を殺した。まもなく司空徐孝嗣・左僕射沈文季・前撫軍長史沈昭略を殺した。その太尉・江州刺史陳顕達が兵を挙げて建業を襲ったが、果たさずして死んだ。

原文寶卷昏狂,政出羣竪。其始安王遙光據東府反,不克,見殺。并殺其右僕射蕭坦之、左衞將軍曹虎、領軍將軍劉暄。尋殺司空徐孝嗣、左僕射沈文季、前撫軍長史沈昭略。其太尉、江州刺史陳顯達舉兵襲建業,不果而死。

景明初め、宝巻の豫州刺史裴叔業が寿陽を以て降った。宝巻はその衛尉蕭懿を征虜将軍・豫州刺史とし、歩道より寿陽を伐ち、軍を小峴に頓した。詔して軍司李煥及び統軍奚康生・楊大眼らに衆を率いて寿陽に入らせた。驃騎大将軍・彭城王元勰、車騎将軍王肅は歩騎十万を率いてこれに赴いた。宝巻は将胡松・李居士に衆万余を率いさせて死虎に屯させ、陳伯之の水軍に淮を溯らせて上り、寿春を逼らせた。元勰・王肅はこれを大破し、斬首は万数を数えた。陳伯之はまた淮南を寇したが、元勰は肥口においてこれを破った。豫州刺史田益宗は宝巻の将呉子陽・鄧元起を長風において破った。

原文景明初,寶卷豫州刺史裴叔業以壽陽降,寶卷遣其衞尉蕭懿為征虜將軍、豫州刺史,步道伐壽陽,頓軍小峴。詔遣軍司李煥及統軍奚康生、楊大眼等率眾入壽陽。驃騎大將軍、彭城王勰,車騎將軍王肅率步騎十萬赴之。寶卷遣將胡松、李居士率眾萬餘屯死虎,陳伯之水軍泝淮而上,以逼壽春。勰、肅大破之,斬首萬數。陳伯之又寇淮南,勰破之肥口。豫州刺史田益宗破寶卷將吳子陽、鄧元起於長風。

宝巻は侍中崔慧景に諸軍を率いさせて広陵より水路、寿陽に赴かんとした。慧景は宝巻の狂虐を見て、もはや自ら保つことができず、専征を得ると、欣然として路に就いた。慧景の子蕭覚は時に直閤であり、彼と密かに期した。慧景が広陵に至ると、蕭覚はついに出奔した。慧景は広陵を過ぎて数十里にして回軍して還った。時に広陵は鎮を欠いており、司馬崔恭がこれを納れた。そこで衆を率いて江を渡り、ついに建業を攻撃した。宝巻は城に拠って自ら守った。宝巻の豫州刺史蕭懿が慧景を撃破し、これを擒えて殺した。

原文寶卷遣侍中崔慧景率諸軍自廣陵水路,欲赴壽陽。慧景見寶卷狂虐,不復自保,及得專征,欣然即路。慧景子覺時為直閤,與之密期。慧景至廣陵,覺遂出奔。慧景過廣陵數十里便回軍還,時廣陵闕鎮,司馬崔恭納之,因率眾濟江,遂攻建業。寶卷嬰城自守。寶卷豫州刺史蕭懿擊破慧景,擒殺之。

慧景が死ぬと、宝巻は自ら得志し、忌憚するところなく、日々出遊した。愛幸の茹法珍・梅虫児ら及び左右の応勅・捉御刀の徒が並びに国命を専らにし、民間ではこれを「刀勅」と謂った。宝巻は常に軽騎で戎服し、これら諸家に往き、彼らと讌飲した。これらは吉凶がある毎に、宝巻は往って弔慶し、人に見られまいとして百姓を駆斥し、ただ空宅を置くのみであった。往くところは定所なく、官司は常に罪を得ることを慮り、東に行けば西面の人を駆り、南に出れば北面の人を駆った。朝に出るべきとあれば、夜に駆遣し、吏司は奔馳し、叫呼は路に満ち、老少は震驚し、啼号は路を塞ぎ、処々に禁断され、適う所を知らなかった。疾患困篤の者は悉く輿で去らせ、輿する人のない者は道側に匍匐し、主司はまた捶打を加え、絶命する者が相継いだ。還宮の時は常に半夜に至り、左右は富室に入り物を取って蕩尽した。前魏興太守王敬賓は新たに死んで未だ殮されず、家人は駆られて守視することができず、家人が還った時には鼠が敬賓の両眼を食い尽くしていた。このようなことは一例ではなかった。宝巻の酷乱はますます甚だしく、その尚書令蕭懿は大勲があっても忌んでこれを殺し、その弟の衛尉卿蕭暢をも殺した。

原文慧景既死,寶卷便自得志,無所忌憚,日日出遊。愛幸茹法珍、梅虫兒等及左右應敕、捉御刀之徒並專國命,民間謂之「刀敕」。寶卷每常輕騎戎服,往此諸家,與之讌飲。此等每有吉凶,寶卷輒往弔慶,不欲令人見之,驅斥百姓,惟置空宅而已。所往之處,既無定所,官司常慮得罪,東行驅西面人,南出驅北面人,旦或應出,夜便驅遣,吏司奔馳,叫呼盈路,老少震驚,啼號塞路,處處禁斷,不知所適。疾患困篤者悉輿去之,其有無人輿者,匍匐道側,主司又加捶打,絕命者相繼。還宮之時,常至半夜,左右輒入富室取物蕩盡。前魏興太守王敬賓新死未斂,家人被驅,不得守視,及家人還,鼠食敬賓兩眼都盡,如此者非一。寶卷酷亂逾甚,其尚書令蕭懿雖有大勳,忌而殺之,并殺其弟衞尉卿蕭暢。

世宗は詔して冠軍将軍・南豫州刺史席法友に三万人を率いさせ、宝巻の輔国将軍・北新蔡・安豊二郡太守胡景略を建安城に囲ませ、これを克ち、景略を擒えた。

原文世宗詔冠軍將軍,南豫州刺史席法友三萬人圍寶卷輔國將軍北新蔡、安豐二郡太守胡景略於建安城,克之,擒景略。

宝卷の雍州刺史蕭衍が襄陽に拠り、兵を挙げてこれを伐ち、荊州行事蕭穎冑が蕭衍に応じた。三月、穎冑は宝卷に叛き、南康王宝融を天子と為した。ここにおいて宝融は僭位して帝位に即いた。穎冑は侍中・尚書令となり、蕭衍は左僕射・都督征討諸軍事・征東大将軍となり、使持節はもとの如しであった。穎冑は宝卷を虞陽県侯に封じることを請うたが、宝融は許さず、また涪陵王に封じた。穎冑は八州諸軍事を監し、荊州刺史を代行した。蕭衍に黄鉞を仮授した。蕭衍の軍は沔口に至り、郢州は城を嬰して自ら守った。

原文寶卷雍州刺史蕭衍據襄陽,舉兵伐之,荊州行事蕭穎冑應衍。三月,穎冑叛寶卷,以南康王寶融為天子。於是寶融僭即帝位。穎冑為侍中、尚書令;衍為左僕射、都督征討諸軍、征東大將軍,使持節如故。穎冑請封寶卷為虞陽縣侯,寶融不許,又封涪陵王。穎冑監八州諸軍事、行荊州刺史。假衍黃鉞。蕭衍軍至沔口,郢州嬰城自守。

宝卷はまた巴陵王昭冑・永新侯昭秀・黄門郎蕭寅を殺した。宝卷の昏暴は日増しに甚だしく、内外堪えず、その前南譙太守王霊秀らが石頭において宝卷の弟宝夤を迎え、城内の文武を率いてその台城に向かい、百姓で空手で随従する者は万数を数えた。日暮れに会し、城門が閉じ、果たせなかった。蕭衍の兵が建業に至ると、所在の者が宝卷を棄ててこれに降った。蕭衍の兵が宮中に入ると、宝卷は含徳殿におり、笙を吹き歌い『女兒子』を作り、臥して未だ眠らず。兵の入るを聞き、北戸に趨り出で、後宮に還らんと欲したが、清曜閤は既に閉じられていた。閹人禁防の黄泰平が刀を以てその膝を傷つけ、地に仆す。顧みて曰く「奴、反すなり」と。直後の張斉が首を斬り蕭衍に送った。蕭衍はこれを追封して東昏侯とし、その皇后・太子を廃して庶人とした。蕭衍は宝卷の弟湘東王宝晊を殺し、また邵陵王宝攸・晋熙王宝松・桂陽王宝貞を殺した。その建安王宝夤は来奔した。尋いで宝融を逼って己に禅位せしめ、これを封じて巴陵王とし、姑熟に宮した。宝融は尋いで暴死した。

原文寶卷又殺巴陵王昭冑、永新侯昭秀、黃門郎蕭寅。寶卷昏暴日甚,內外不堪,其前南譙太守王靈秀等於石頭迎寶卷弟寶夤率城內文武向其臺城,百姓空手隨從者萬數。會日暮,城門閉,不克。衍兵至建業,所在棄寶卷降之。衍兵入宮,寶卷在含德殿,吹笙歌作女兒子,臥未及睡。聞兵入,趨出北戶,欲還後宮,清曜閤已閉。閹人禁防黃泰平刀傷其膝,仆地,顧曰:「奴反也!」直後張齊斬首送衍,衍追封東昏侯,廢其皇后、太子為庶人。衍殺寶卷弟湘東王寶晊,衍又殺邵陵王寶攸、晉熙王寶松、桂陽王寶貞,其建安王寶夤來奔。尋逼寶融禪位於己,封為巴陵王,宮于姑熟。寶融尋暴死。

蕭衍

原文蕭衍

島夷の蕭衍、字は叔達、また晋陵武進の楚なり。父は順之、蕭賾の光禄大夫。蕭衍は少にして軽薄にして口弁あり、王儉の衛軍府戸曹属を歴任し、累遷して蕭鸞の黄門侍郎・太子中庶子となった。太和二十二年、高祖南伐し、諸軍に詔して襄陽を囲ませた。蕭衍は時に衆を率いて来援したが、武衛将軍宇文福に破られ、単騎で走り免れた。

原文島夷蕭衍,字叔達,亦晉陵武進楚也。父順之,蕭賾光祿大夫。衍少輕薄有口辯,歷王儉衞軍府戶曹屬,累遷為蕭鸞黃門侍郎、太子中庶子。太和二十二年,高祖南伐,詔諸軍圍襄陽,衍時率眾來援,為武衞將軍宇文福所破,單騎走免。

蕭鸞の末、出でて輔国将軍・雍州刺史となった。蕭鸞が死に、子の宝卷が立つと、蕭衍の兄の懿を殺し、巴西・梓潼二郡太守劉山陽を西上させ、郡に赴くと言いながら、実は蕭衍を襲わせようとした。山陽が荊州に至り、蕭穎冑に殺された。景明二年、蕭衍は遂に穎冑と共に宝卷の弟の荊州刺史宝融を推して主と為し、年号を中興と号し、兵を挙げて宝卷を伐った。その年の十二月、建業を克ち、宝卷とその妻子を殺した。蕭衍は大司馬・録尚書事・揚州刺史・建安郡公となり、邑一万戸を賜った。三年、また自ら相国・揚州牧と為り、十郡を封じて梁王となった。

原文蕭鸞末,出為輔國將軍、雍州刺史。鸞死,子寶卷立,殺衍兄懿,遣巴西、梓潼二郡太守劉山陽西上,聲云之郡,實令襲衍。山陽至荊州,為蕭劉冑所殺。景明二年,衍乃與冑冑推寶卷弟荊州刺史寶融為主,號年中興,舉兵伐寶卷。其年十二月,克建業,殺寶卷及其妻子。衍為大司馬、錄尚書事、揚州刺史,建安郡公,邑萬戶。三年,又自為相國、揚州牧,封十郡為梁王。

蕭衍は尋いで僭立し、自ら梁と称し、年号を天監と号した。五月、揚州小峴戍主の党法宗が蕭衍の大峴戍を襲い、これを破り、その龍驤将軍邾菩薩を擒えて京師に送った。蕭衍はまた将の張囂を遣わして揚州を寇したが、州軍がこれを撃破し、二千余級を斬った。四年三月、揚州刺史任城王澄が長風戍主の奇道顕を遣わして蕭衍の陰山戍を攻め、これを破り、その龍驤将軍・都亭侯梅興祖を斬った。引き続き白藁戍を攻め、またこれを破り、その寧朔将軍呉道爽らを斬り、数千級を獲た。蕭衍はまたその徐州長史潘伯憐を遣わして淮陵に軍を屯め、徐州刺史司馬明素がまた九山に拠った。澄は軍を遣わして併せてこれを撃破し、伯憐を斬り、明素を擒えた。蕭衍の将呉子陽が白沙を寇すと、中山王英がこれを大破し、千数を擒斬した。蕭衍の梁州刺史平陽県開国侯翟遠・徐州刺史永昌県開国侯陳虎牙が来降した。

原文衍尋僭立,自稱曰梁,號年天監。五月,揚州小峴戍主党法宗襲衍大峴戍,破之,擒其龍驤將軍邾菩薩送京師。衍又遣將張囂寇揚州,州軍擊破之,斬二千餘級。四年三月,揚州刺史、任城王澄遣長風戍主奇道顯攻衍陰山戍,破之,斬其龍驤將軍、都亭侯梅興祖;仍攻白藁戍,又破之,斬其寧朔將軍吳道爽等,獲數千級。衍又遣其徐州長史潘伯憐屯軍淮陵,徐州刺史司馬明素又據九山,澄遣軍並擊破之,斬伯憐,擒明素。衍將吳子陽寇白沙,中山王英大破之,擒斬千數。衍梁州刺史平陽縣開國侯翟遠、徐州刺史、永昌縣開國侯陳虎牙來降。

正始元年正月、蕭衍の将趙祖悦が東関に屯拠したが、江州刺史陳伯之がこれを撃破した。二月、蕭衍の将姜慶真が寿春外郭を襲い陥落させたが、州軍がこれを撃ち走らせた。中山王英が蕭衍の鍾離を囲んだ。蕭衍は冠軍張恵紹を遣わし衆軍を率いて鍾離に糧を送らせた。任城王澄は統軍の王足・劉思祖を遣わし邵陽において邀撃し、これを大破し、恵紹を生擒し、併せてその驍騎将軍祁陽県開国男趙景悦ら十将を獲、斬獲数千級に及んだ。恵紹は蕭衍の舅の子なり。蕭衍は乃ち書を移してこれを求め、朝議は威懐を示さんと欲し、遂に恵紹らの還るを聴した。三月、元英が樊城において蕭衍の将王僧炳を破った。八月、英はまた蕭衍の義陽を攻め、これを克ち、蕭衍の将馬仙琕を破り、その冠軍将軍蔡霊恩ら十余将を擒えた。九月、蕭衍の霍州刺史田道龍・義州刺史張宗之が使者を遣わして内附した。

原文正始元年正月,衍將趙祖悅屯據東關,江州刺史陳伯之擊破之。二月,衍將姜慶真襲陷壽春外郭,州軍擊走之。中山王英圍衍鍾離。衍遣冠軍張惠紹率眾軍送糧於鍾離,任城王澄遣統軍王足、劉思祖邀擊於邵陽,大破之,生擒惠紹,并其驍騎將軍祁陽縣開國男趙景悅等十將,斬獲數千級。惠紹,衍舅子也。衍乃移書求之,朝議欲示威懷,遂聽惠紹等還。三月,元英破衍將王僧炳於樊城。八月,英又攻衍義陽,克之,破衍將馬仙琕,擒其冠軍將軍蔡靈恩等十餘將。九月,衍霍州刺史田道龍、義州刺史張宗之遣使內附。

十二月、蕭衍の梁秦二州行事夏侯道遷が漢中に拠り内附した。詔して尚書邢巒に衆を率いて赴かしめた。二年四月、巒は頻りに蕭衍の軍を破り、遂に剣閣に入り、その輔国将軍范始男を執って京師に送った。巒はまた統軍の王足を遣わし蕭衍の諸将を破り、その輔国将軍馮文豪らを斬った。六月、蕭衍は将の王超宗を遣わして辺境を寇したが、揚州刺史薛真度がこれを大破し、三千級を俘斬した。七月、王足はまた蕭衍の衆を大破し、その秦梁二州刺史魯方達・王明達ら三十余将を斬り、二千五百人を俘虜した。九月、蕭衍の湘州刺史楊公則が衆を率いて寿春を寇したが、揚州刺史元嵩がこれを撃破し、数千級を斬獲した。

原文十二月,衍梁秦二州行事夏侯道遷據漢中內附,詔尚書邢巒率眾赴之。二年四月,巒頻破衍軍,遂入劍閣,執其輔國將軍范始男送京師。巒又遣統軍王足破衍諸將,斬其輔國將軍馮文豪等。六月,衍遣將王超宗寇邊,揚州刺史薛真度大破之,俘斬三千級。七月,王足又大破衍眾,斬其秦梁二州刺史魯方達、王明達等三十餘將,俘虜二千五百人。九月,衍湘州刺史楊公則率眾寇壽春,揚州刺史元嵩擊破之,斬獲數千級。

三年正月、蕭衍の徐州刺史昌義之が梁城を寇し、江州刺史王茂先が荊州を寇し、河南城に屯した。平南将軍陳伯之が義之を撃ち、平南将軍楊大眼が茂先を撃ち、共にこれを大破し、その輔国将軍王花を斬り、二千を俘斬した。茂先は逃れて潰え、漢水に至るまで追撃し、その五城を抜いた。将軍宇文福が蕭衍の司州を略し、千余口を俘獲して還った。五月、蕭衍の将蕭昞が淮陽を寇し、張恵紹が宿豫を寇し、蕭密が梁城を寇し、韋叡が合肥を寇した。平南将軍奚康生が恵紹を破り、その徐州刺史宋黒を斬った。七月、蕭衍の徐州刺史王伯敖が陰陵に入寇したが、中山王英がこれを大破し、将二十五人を斬り、首虜五千を得た。蕭衍はまた将の桓和を遣わして孤山に屯し、冠軍将軍桓方慶を固城に屯し、龍驤将軍矯道儀を蒙山に屯させた。八月、安東将軍邢巒が桓和を撃ち、これを破った。将軍元恒が固城を攻克し、統軍畢祖朽が蒙山を攻克し、斬獲及び沂水に赴いて死する者四千有余を得た。蕭衍はまた張恵紹を遣わして宿豫に屯し、蕭昞を淮陽に屯させた。九月、都督邢巒がこれを大破し、その大将藍懐恭ら三十余人を斬った。恵紹・蕭昞は共に戍を棄てて南走し、数万級を追斬した。蕭衍の中軍大将軍・臨川王蕭密、右僕射柳惔、徐州刺史昌義之らが梁城に屯拠したが、中山王英がこれを大破し、蕭密らは城を棄てて淮に沿い東走し、馬頭に至るまで追撃した。蕭衍の冠軍将軍・馬頭戍主朱思遠は城を棄てて走り、蕭衍の将三十余人を擒え、五万有余を斬獲した。十月、蕭衍の征虜将軍馬仙琕が衆三万を率いて義陽を寇したが、郢州刺史婁悦が州軍を以てこれを撃ち走らせた。

原文三年正月,衍徐州刺史昌義之寇梁城,江州刺史王茂先寇荊州,屯河南城。平南將軍陳伯之擊義之,平南將軍楊大眼擊茂先,並大破之,斬其輔國將軍王花,俘斬二千,茂先逃潰,追奔至於漢水,拔其五城。將軍宇文福略衍司州,俘獲千餘口而還。五月,衍將蕭昞寇淮陽,張惠紹寇宿豫,蕭密寇梁城,韋叡寇合肥。平南將軍奚康生破惠紹,斬其徐州刺史宋黑。七月,衍徐州刺史王伯敖入寇陰陵,中山王英大破之,斬將二十五人,首虜五千。衍又遣將桓和屯孤山,冠軍將軍桓方慶屯固城,龍驤將軍矯道儀屯蒙山。八月,安東將軍邢巒擊桓和,破之。將軍元恒攻克固城,統軍畢祖朽攻克蒙山,斬獲及赴沂水死者四千有餘。衍又遣張惠紹屯宿豫,蕭昞屯淮陽。九月,都督邢巒大破之,斬其大將藍懷恭等三十餘人,惠紹、蕭昞並棄戍南走,追斬數萬級。衍中軍大將軍、臨川王蕭密,右僕射柳惔,徐州刺史昌義之等屯據梁城,中山王英大破之,密等棄城沿淮東走,追奔至於馬頭,衍冠軍將軍、馬頭戍主朱思遠棄城走,擒衍將三十餘人,斬獲五萬有餘。十月,衍征虜將軍馬仙琕率眾三萬寇義陽,郢州刺史婁悅以州軍擊走之。

永平元年十月、懸瓠城の民白早生が州を拠りて反叛し、蕭衍は将軍斉苟仁ら四将を派遣してこれを助けた。詔して尚書邢巒に騎兵を率いて討たしむ。巒は懸瓠を攻め落とし、早生を斬り、苟仁を擒え、蕭衍の軍衆三千余人を俘虜とした。初め、早生の反するや、世宗は主書董紹に詔を銜ませて宣撫せしめたが、紹は早生に捕らえられ、蕭衍のもとに送られた。蕭衍は厚く資財を与えて紹を送り返し、今、書を奉じて朝廷に請い、宿豫を割譲して内属させ、以て和好を求む。時に朝議に異同ある者あり、世宗は蕭衍の言辞は恭順ながらも藩を称さざるを以て、有司に詔して許さしめず。十二月、蕭衍の寧朔将軍張凝らが衆を率いて楚城を寇し、中山王英これを破り擒えた。蕭衍の将馬仙琕が金山を占拠す。郢州刺史婁悦これを撃ち走らす。

原文永平元年十月,懸瓠城民白早生據州反叛,衍遣將齊苟仁等四將以助之。詔尚書邢巒率騎討之,巒攻克懸瓠,斬早生,擒苟仁,俘衍眾三千餘人。初,早生之反也,世宗遣主書董紹銜詔宣慰,紹為早生所執,送之於衍。衍乃厚資遣紹,今奉書朝廷,請割宿豫內屬,以求和好。時朝議或有異同,世宗以衍辭雖款順,而不稱藩,詔有司不許。十二月,衍寧朔將軍張凝等率眾寇楚城,中山王英破擒之。衍將馬仙琕據金山,郢州刺史婁悅擊走之。

二年正月、中山王英は蕭衍の長薄戍を攻め落とし、殺傷数万。引き続き武陽関を攻め抜き、蕭衍の雲騎将軍・松滋県開国侯馬広、冠軍将軍・遷陵県開国子彭瓫、驍騎将軍・当陽県開国伯徐元秀ら二十六将を擒え、俘虜七千余人を獲たり。また黄峴西関を攻め、蕭衍の将軍馬仙琕は西関を棄て、李元履は黄峴を棄てて遁走せり。

原文二年正月,中山王英攻克衍長薄戍,殺傷數萬;仍攻拔武陽關,擒衍雲騎將軍、松滋縣開國侯馬廣,冠軍將軍、遷陵縣開國子彭瓫,驍騎將軍、當陽縣開國伯徐元秀等二十六將,俘獲七千餘人;又進攻黃峴西關,衍將軍馬仙琕棄西關,李元履棄黃峴遁走。

四年春三月、蕭衍の琅邪郡の民王万寿らが蕭衍の輔国将軍・琅邪東莞二郡太守・昫山戍主を兼ねる劉晣及び将士四十余人を斬り、城をもって内属す。徐州刺史盧昶は兼郯城戍副張天恵に衆を率いて赴かしむ。然るに蕭衍の郁洲より既に二軍を派遣して天恵を拒ぎしも、天恵は万寿らと内外より斉しく撃ち、数百を俘斬す。昶はなお琅邪戍主傅文驥を遣わして城に入り拠り守らしむ。蕭衍はまた将軍張稷・馬仙琕らを派遣して文驥を攻囲す。詔して昶に衆を率いて赴かしむ。然るに文驥は糧尽きて蕭衍に降る。昶は遂に利を得ずして還る。

原文四年春三月,衍琅邪郡民王萬壽等斬衍輔國將軍、琅邪東莞二郡太守、帶昫山戍主劉晣并將士四十餘人,以城內屬。徐州刺史盧昶遣兼郯城戍副張天惠率眾赴之,而衍郁洲已遣二軍以拒天惠,天惠與萬壽等內外齊擊,俘斬數百。昶仍遣琅邪戍主傅文驥入城據守,衍又遣將張稷、馬仙琕等攻圍文驥。詔昶率眾赴之,而文驥以糧盡降衍,昶遂失利而還。

延昌二年二月、郁洲の徐玄明が蕭衍の鎮北将軍・青冀二州刺史張稷の首を斬り送り、州をもって内附す。三年六月、蕭衍は衆を派遣して九山を寇し、荊州刺史桓叔興これを大破し、その虎旅将軍蔡令孫・冠軍将軍席世興・貞義将軍藍次孫を斬る。四年二月、蕭衍の寧州刺史任太洪が衆を率いて関城を寇し、益州長史成興孫これを撃破す。

原文延昌二年二月,郁洲徐玄明斬送衍鎮北將軍、青冀二州刺史張稷首,以州內附。三年六月,衍遣眾寇九山,荊州刺史桓叔興大破之,斬其虎旅將軍蔡令孫、冠軍將軍席世興、貞義將軍藍次孫。四年二月,衍寧州刺史任太洪率眾寇關城,益州長史成興孫擊破之。

熙平元年正月、蕭衍はその恒農太守王定世らを派遣して辺境を寇し、都督元志これを破り、定世を斬り、その衆を悉く俘虜とす。蕭衍の豫州刺史趙祖悦が衆数万を率いて硤石を密かに占拠す。詔して鎮南将軍崔亮・鎮軍将軍李平に討たしめこれを克ち、祖悦を斬り、首を京師に伝う。蕭衍の衡州刺史張斉が益州を寇し、刺史傅豎眼これを討ち、その将任太洪を斬る。張斉は遁走す。初め、蕭衍は毎に兵を称して境上に臨み、辺境の隙を窺うも、常に諸将に摧破され、進趣の計を懐くも、勢力これに従わず。遂に浮山にて淮を堰き、寿春を害せんと図る。粛宗、詔して征南蕭宝夤に諸将を率いて討たしむ。淮北にて蕭衍の衆を大破す。秋九月、堰自ら潰決し、その淮に沿う城戍・居民・村落十余万口を漂わせ、海に流入す。

原文熙平元年正月,衍遣其恒農太守王定世等寇邊,都督元志破之,斬定世,悉俘其眾。衍豫州刺史趙祖悅率眾數萬,偷據硤石,詔鎮南將軍崔亮、鎮軍將軍李平討克之,斬祖悅,傳首京師。衍衡州刺史張齊寇益州,刺史傅豎眼討之,斬其將任太洪,齊遁走。初,衍每欲稱兵境上,窺伺邊隙,常為諸將摧破,雖懷進趣之計,而勢力不從。遂於浮山堰淮,規為壽春之害。肅宗詔征南蕭寶夤率諸將討之,大破衍眾於淮北。秋九月,堰自潰決,漂其緣淮城戍居民村落十餘萬口,流入於海。

正光元年、蕭衍は普通と改元す。三年に至り、その弟子西豊侯正徳が蕭衍を棄てて来奔す。尋ねてまた亡帰す。蕭衍初めこれを忿り、その姓を背氏と改む。既にしてまた元に復し、臨賀王に封ず。五年九月、蕭衍の将裴邃・虞鴻が寿春の外郭を襲い占拠す。刺史長孫稚これを撃ち走らす。

原文正光元年,衍改稱普通,至三年,其弟子西豐侯正德棄衍來奔,尋復亡歸,衍初忿之,改其姓為背氏,既而復焉,封為臨賀王。五年九月,衍將裴邃、虞鴻襲據壽春外郭,刺史長孫稚擊走之。

孝昌元年正月、徐州刺史元法僧が城南に拠りて叛す。蕭衍は豫章王綜を派遣して彭城を鎮守せしむ。綜は蕭宝巻の遺腹子なり。初め、蕭衍が建業を平定せし時、その母呉氏を納る。呉氏は先に身ごもり、後に綜を生む。蕭衍はこれを己が子と謂い、甚だ寵愛す。綜既に長ずるに及び、母密かに綜に告ぐ。綜は遂に潜かに蕭衍に叛くを図る。既に彭城を鎮守し、大軍の討ち往くに及び、綜は乃ち身を抜きて来奔す。余の将は退走す。国軍は追躡し、獲ること万計。蕭衍初めこれを聞き、慟哭して気絶し、甚だ慚惋す。猶その子と云い、その風病による所なりと言う。時に人皆これを笑う。

原文孝昌元年正月,徐州刺史元法僧據城南叛,衍遣豫章王綜鎮彭城,綜,蕭寶卷之遺腹子也。初,衍平建業,因納其母吳氏,吳氏先有孕,後生綜,衍謂為己子,甚寵愛之。綜既長,母密告綜,綜遂潛圖叛衍,既鎮彭城,及大軍往討,綜乃拔身來奔。餘將退走,國軍追躡,所獲萬計。衍初聞之,慟哭氣絕,甚為慚惋,猶云其子,言其病風所致,時人咸笑之。

三月、蕭衍はその北梁州長史錫休儒・司馬魚和・上庸太守姜平洛らを派遣して直城に侵入寇す。梁州刺史傅豎眼は息子敬紹に衆を率いさせてこれを大敗し、三千人を擒斬す。休儒らは遁走す。四月、蕭衍の益州刺史蕭淵猷は将軍樊文熾らを派遣して衆を率い小剣戍を囲む。益州刺史邴虬は子の子達を遣わし、行臺魏子建は別将淳于誕を派遣してこれを拒撃す。五月、誕らは文熾を大破し、二万を俘斬し、その次将蕭世澄ら十二人を擒う。文熾は走りて免る。是の歳、蕭衍はまた年号を大通と改む。

原文三月,衍遣其北梁州長史錫休儒、司馬魚和、上庸太守姜平洛等入寇直城,梁州刺史傅豎眼遣息敬紹率眾大敗之,擒斬三千人,休儒等遁走。四月,衍益州刺史蕭淵猷遣將樊文熾等率眾圍小劍戍,益州刺史邴虬遣子子達,行臺魏子建遣別將淳于誕拒擊之。五月,誕等大破文熾,俘斬二萬,擒其次將蕭世澄等十二人,文熾走免。是歲,衍又改年為大通。

二年七月、蕭衍の将元樹・湛僧珍らが寿春を寇す。また新野を攻め逼る。詔して都督魏承祖に討たしめこれを破る。三年二月、蕭衍の将成景儁が彭城を寇す。行臺崔孝芬が諸将を率いてこれを撃ち走らす。

原文二年七月,衍將元樹、湛僧珍等寇壽春。又攻逼新野,詔都督魏承祖討破之。三年二月,衍將成景儁寇彭城,行臺崔孝芬率諸將擊走之。

建義元年、蕭衍はその将曹義宗を派遣して荊州を寇す。大都督費穆これを大破し、義宗を生擒し、檻車にて京師に送る。初め、尒朱栄が洛に入るや、北海王顥が蕭衍に奔る。蕭衍は顥を以て魏主とし、顥に士馬を資し、その大将陳慶之に部率して顥を送らしむ。永安二年夏、遂に洛陽に入る。車駕還りて討ち、これを破り走らす。唯慶之一身走りて免る。自余の部衆は皆俘執を見る。閏月、巴州刺史厳始欣が州を拠りて蕭衍に入る。蕭衍は将軍蕭玩・張鴻らを派遣して衆を率いて赴援せしむ。都督元景夏が益梁二州の軍を率いてこれを討つ。三年正月、始欣を斬る。蕭衍の衆は敗走す。また蕭玩らの首を斬り、俘虜万余を獲たり。

原文建義元年,衍遣其將曹義宗寇荊州,大都督費穆大破之,生擒義宗,檻送京師。初,尒朱榮入洛,北海王顥奔於衍,衍以顥為魏主,資顥士馬,令其大將陳慶之部率送顥。永安二年夏,遂入洛陽,車駕還討,破走之,唯慶之一身走免,自餘部眾皆見俘執。閏月,巴州刺史嚴始欣據州入衍,衍遣將蕭玩、張鴻等率眾赴援,都督元景夏率益梁二州軍討之。三年正月,斬始欣,衍眾敗走,又斬蕭玩等首,俘獲萬餘人。

普泰元年春、南青州刺史茹懐朗は部将何宝に歩騎三千を率いさせて蕭衍の守将を琅邪に撃ち、その雲麾将軍・徐兗二州刺史沈預を擒え、その宣猛将軍・斉州刺史劉相如を斬る。

原文普泰元年春,南青州刺史茹懷朗遣部將何寶率步騎三千擊衍守將於琅邪,擒其雲麾將軍、徐兗二州刺史沈預,斬其宣猛將軍、齊州刺史劉相如。

永熙元年夏、蕭衍はその鄴王元樹及び譙州刺史朱文開を派遣して譙城に入り占拠せしむ。東南道行臺樊子鵠が諸軍を率いてこれを攻め落とし、元樹・文開らを擒えて京師に送る。

原文永熙元年夏,衍遣其鄴王元樹及譙州刺史朱文開入據譙城,東南道行臺樊子鵠率諸軍攻克之,擒元樹、文開等送於京師。

天平元年十月、蕭衍の雄信将軍紀耕が衆を率いて[山尃]嵣に侵入寇す。都督曹仲尼これを破り走らし、その軍主沈達・閔庄らを斬る。二年正月、蕭衍の将湛僧珍が南兗州を寇す。州軍これを撃破す。行臺元晏はまた項城にて湛僧珍らを破り、その□□刺史楊㬓を虜う。二月、蕭衍の司州刺史陳慶之・郢州刺史田朴特らが辺境を寇す。豫州刺史堯雄これを撃ち走らす。五月、蕭衍の仁州刺史黄道始が北済陰を寇す。徐州刺史任祥これを討ち破る。十月、蕭衍の将梁秉儁が単父を寇す。祥またこれを大敗し、俘斬万余。十一月、蕭衍の雍州刺史蕭恭が将軍柳仲礼を派遣して荊州を寇す。刺史王元軌これを牛飲にて破り、その将張殖・王世興を斬る。是年、蕭衍はまた号を中大通と改む。三年五月、豫州刺史堯雄が蕭衍の白苟堆鎮を攻め、これを克ち、その北平太守苟元曠を擒う。十月、行臺侯景が蕭衍の楚城を攻め陥し、その楚州刺史桓和兄弟を獲たり。四年九月、蕭衍の青冀二州刺史徐子彦が圉城を寇す。南青州刺史陸景元これを撃ち走らす。

原文天平元年十月,衍雄信將軍紀耕率眾入寇[山尃]嵣,都督曹仲尼破走之,斬其軍主沈達、閔莊等。二年正月,衍將湛僧珍寇南兗州,州軍擊破之。行臺元晏又破湛僧珍等於項城,虜其□□刺史楊㬓。二月,衍司州刺史陳慶之、郢州刺史田朴特等寇邊,豫州刺史堯雄擊走之。五月,衍仁州刺史黃道始寇北濟陰,徐州刺史任祥討破之。十月,衍將梁秉儁寇單父,祥又大敗之,俘斬萬餘人。十一月,衍雍州刺史蕭恭遣將柳仲禮寇荊州,刺史王元軌破之於牛飲,斬其將張殖、王世興。是年,衍又改號為中大通。三年五月,豫州刺史堯雄攻衍白苟堆鎮,克之,擒其北平太守苟元曠。十月,行臺侯景攻陷衍楚城,獲其楚州刺史桓和兄弟。四年九月,衍青冀二州刺史徐子彥寇圉城,南青州刺史陸景元擊走之。

先に、益州刺史の傅和が城を挙げて蕭衍に降り、蕭衍は傅和に資財を与えて送り、斉の献武王(高歓)に意を伝えさせ、交誼を通じることを求めた。献武王は辺境遠方を安んじようと志し、ついにこれを許すよう請うた。四年(536年)の冬、蕭衍はその散騎常侍の張臯、通直常侍の劉孝儀、通直常侍の崔曉を遣わして朝貢させた。二年(538年)の夏、また散騎常侍の沈山卿、通直常侍の劉研を遣わして朝貢させた。興和二年(540年)の春、また散騎常侍の柳豹、通直常侍の劉景彥を遣わして朝貢させた。その年の冬、また散騎常侍の陸晏子、通直常侍の沈景徽を遣わして朝貢させた。この年、蕭衍は年号を大同と改めた。三年(541年)の夏、また散騎常侍の明少遐、通直郎の謝藻を遣わして朝貢させた。四年(542年)の春、また散騎常侍の袁狎、通直常侍の賀文發を遣わして朝貢させた。その年の冬、また散騎常侍の劉孝勝、通直常侍の謝景を遣わして朝貢させた。

原文先是,益州刺史傅和以城降衍,衍資送和,令申意於齊獻武王,求通交好,王志綏邊遠,乃請許之。四年冬,衍遣其散騎常侍張臯、通直常侍劉孝儀、通直常侍崔曉朝貢。二年夏,又遣散騎常侍沈山卿、通直常侍劉研朝貢。興和二年春,又遣散騎常侍柳豹、通直常侍劉景彥朝貢。其年冬,又遣散騎常侍陸晏子、通直常侍沈景徽朝貢。是年,衍改號大同。三年夏,又遣散騎常侍明少遐、通直郎謝藻朝貢。四年春,又遣散騎常侍袁狎、通直常侍賀文發朝貢。其年冬,又遣散騎常侍劉孝勝、通直常侍謝景朝貢。

武定元年(543年)の夏、また散騎常侍の沈衆、通直常侍の殷德卿を遣わして朝貢させた。その年の冬、また散騎常侍の蕭確、通直常侍の陸緬を遣わして朝貢させた。三年(545年)の秋、また散騎常侍の徐君房、通直常侍の庾信を遣わして朝貢させた。四年(546年)の夏、また散騎常侍の蕭瑳、通直常侍の賀德瑒を遣わして朝貢させた。五年(547年)の春、また散騎常侍の謝藺、通直常侍の鮑至を遣わして朝貢させた。朝廷(東魏)もまた使者を遣わしてこれに報いた。十餘年の間、南境は平穏であった。

原文武定元年夏,又遣散騎常侍沈眾、通直常侍殷德卿朝貢。其年冬,又遣散騎常侍蕭確、通直常侍陸緬朝貢。三年秋,又遣散騎常侍徐君房、通直常侍庾信朝貢。四年夏,又遣散騎常侍蕭瑳、通直常侍賀德瑒朝貢。五年春,又遣散騎常侍謝藺、通直常侍鮑至朝貢。朝廷亦遣使報之。十餘年間,南境寧息。

六年(548年)、蕭衍はまた年号を中大同と改め、その年また太清と改めた。この歳、司徒の侯景が反乱し、使者を蕭衍のもとに通わせ、その救援を請うた。蕭衍は侯景の遊説に惑わされ、ついに貢使を断った。蕭衍の子の蕭綱および朝臣は皆、切に諫めて不可と為したが、蕭衍は従わなかった。そこでその兄の子である豫州刺史・貞陽侯蕭淵明、北兗州刺史の胡貴孫らを遣わして徐州を侵逼させ、侯景と相呼応し、さらに泗水に堰を築いて彭城を水攻めにした。斉の文襄王(高澄)は行臺の慕容紹宗、儀同三司の高岳、潘相楽らを遣わして軍を率いてこれを討たせた。紹宗は蕭衍の境内に檄文を飛ばして言うには、

原文六年,衍又改號為中大同,其年又改為太清。是歲,司徒侯景反,遣使通衍,請其拯援。衍惑景遊說,遂絕貢使。衍子綱及朝臣並切諫以為不可,衍不從。乃遣其兄子豫州刺史、貞陽侯淵明,北兗州刺史胡貴孫等寇逼徐州,與侯景為聲援,仍堰泗水以灌彭城。齊文襄王遣行臺慕容紹宗、儀同三司高岳、潘相樂等率眾討之。紹宗檄衍境內曰:

冬十二月、紹宗、高岳らは蕭衍の軍を寒山で大破し、淵明、貴孫らを生け捕りにし、五万を捕虜とし斬り、その凍死・溺死・焼死した者は数えきれなかった。蕭衍はすでに慚愧し後悔し、六年(549年)、また使者の羊珍孫を遣わして関に款き和を乞い、併せて斉の文襄王に弔書を修めた。文襄王は威徳をもってこれを懐柔しようと欲し、その通交を許したが返書はしなかった。蕭衍はそこでその散騎常侍の謝珽、通直常侍の徐陵を遣わして闕下に朝貢させた。

原文冬十二月,紹宗、高岳等大破衍眾寒山,擒淵明、貴孫等,俘斬五萬,其凍溺燒之而死,不可勝數。衍既慚悔,六年,復遣使羊珍孫款關乞和,并修弔書於齊文襄王。文襄王欲以威德懷之,許其通而不復其書。衍於是遣其散騎常侍謝珽、通直常侍徐陵詣闕朝貢。

謝珽らがまだ戻らないうちに侯景が挙兵して蕭衍を襲い、密かに蕭衍の弟の子である臨賀王蕭正徳と内通し、彼を推戴して主とすると約した。侯景が横江に至ると、蕭衍は正徳に命じて軍を率いて侯景を防がせたが、正徳はかえってこれを迎え入れた。侯景は江を渡り、正徳を主として立て、建業に向かった。蕭衍は人に己にへつらうことを好み、末年には特に甚だしく、ある者が国家が強盛であると言えば、たちまち忿怒し、朝廷が衰弱していると言えば、かえって喜んだ。このためその朝臣左右は皆その風旨を承け、敢えて正言する者はいなかった。初め侯景が江を渡らんとした時、蕭衍の沿道の軍戍は皆啓上して報告したが、中領軍の朱异は蕭衍の意に逆らうことを恐れ、また侯景は渡れないだろうと思い、ついに聞こえさせなかった。侯景が嵫湖に至って、ようやく大いに驚き恐れ、その太子の蕭綱に中書省を守らせ、軍事は全て彼に委ねた。また居民を城内に追い込み、百姓は互いに略奪しあい、禁止することができなかった。蕭衍は直従監の俞景茂に命じて二冶、尚方、銭署の罪人および建康、廷尉の諸囚を赦免し、彼らを駆り立てて城内に入れ、防衛に充てようとした。諸囚徒は火を放って冶所を焼き、一時に散り走った。蕭衍は憂悶して計なく、ただその王公以下に命じて諸門を分かれて屯させた。諸寺の蔵銭を収め集めて皆徳陽堂に入れ、軍実に充てた。

原文珽等未及還而侯景舉兵襲衍,密與衍弟子臨賀王正德交通,許推為主。景至橫江,衍令正德率軍拒景,正德因而迎之。景濟江,立以為主,以趣建業。衍好人佞己,末年尤甚,或有云國家強盛者,即便忿怒,有云朝廷衰弱者,因致喜悅。是以其朝臣左右皆承其風旨,莫敢正言。初景之將渡江也,衍沿道軍戍,皆有啟列,而中領軍朱异恐忤衍意,且謂景不能渡,遂不為聞。景至嵫湖,方大驚駭,乃令其太子綱守中書省,軍事悉以委之。又逼居民入城,百姓因相剝掠,不可禁止。衍令直從監俞景茂赦二冶、尚方、錢署罪人及建康、廷尉諸囚,欲押令入城以充防捍。諸徒囚放火燒冶,一時散走。衍憂懣無計,唯令其王公已下分屯諸門;攝諸寺藏錢皆入聚德陽堂,以充軍實。

侯景が到着すると、すぐにその城を包囲し、火を放って焼き、長囲を掘り、土山を築いて蕭衍を攻めた。蕭衍もまた城内に山を築いてこれに対応した。蕭衍は文武の官に土を運ばせ、一人に二十石を責め立てた。ここにおいてその王侯朝貴は皆自ら担いだ。蕭綱もまた自ら担ごうとしたが、皆の議論ではあまりに逼迫し屈辱的であるとして、やめさせた。蕭衍はしばしば人を募って出戦させたが、平素から号令がなく、初めは一時的に勝つこともあったが、後には必ず敗走した。侯景は「城中には菜がないわけではないが、ただ醤がないだけだ」と宣言し、これを嘲弄した。蕭衍の太官および軍人に薪がなく、ついに尚書省、武庫、左右蔵を発取して用に充てた。蕭衍の州鎮の外援は到着する者もあったが、侯景の包囲柵は深く固く、内外は断絶した。蕭衍はたびたび人を募って出戦させたが、常に侯景に捕らえられた。一人の小児が飛鳶を用いて消息を伝えようと請うたので、蕭綱は数千丈の縄を作り、その端に紙の鳶をつけ、その背に書を縛り付け、また鳶の口に「もし鳶を得て援軍に送る者あれば、銀百両を賞す」と題した。蕭綱は太極殿から出て、西北風に乗せてこれを揚げ、たびたび数鳶を放ったが、侯景は走馬をさせて射取らせ、ついに達することはできなかった。

原文景既至,便圍其城,縱火燒爇,掘長圍,築土山以攻衍。衍亦於城內起山以應之。衍令文武運土,人責二十石,於是其王侯朝貴皆自負檐。蕭綱亦欲自負,僉議以為太示迫屈,乃止。衍每募人出戰,素無號令,初或暫勝,後必奔背。景宣言曰「城中非無菜,但無醬耳」,以戲侮之。衍太官及軍人無柴,乃發取尚書省、武庫、左右藏以充用。衍州鎮外援雖有至者,而景圍柵深固,內外斷絕。衍數募人出戰,常為景所執獲。有一小兒請以飛鵄傳致消息,綱乃作數千丈繩,綴紙鵄於繩端,縛書其背,又題鵄口:「若有得鵄送援軍者賞銀百兩。」綱出太極殿,因西北風而颺之,頻放數鵄,景令走馬射取之,竟不能達也。

蕭衍の城内は大いに飢え、人々は互いに食らい合い、米一斗は八十万、皆人肉に牛馬を混ぜて売った。軍人は共に徳陽堂の前に市を立て、牛一頭を屠ると絹三千匹を得、狗一匹を売ると銭二十万を得た。皆鼠を燻し雀を捕えて食い、ここに至って雀鼠も皆尽き、死者は枕を重ねた。初めに池の魚を盗み取る者があった時、蕭衍はなおも大いに怒り、廷尉に付すよう勅したが、やがて一夜のうちに全て尽きてしまった。その事の道理を弁えぬこと、このようなものであった。

原文衍城內大饑,人相食,米一斗八十萬,皆以人肉雜牛馬而賣之。軍人共於德陽堂前立市,屠一牛得絹三千匹,賣一狗得錢二十萬。皆燻鼠捕雀而食之,至是雀鼠皆盡,死者相枕。初有盜取其池魚者,衍猶大怒,敕付廷尉,既而宿昔都盡。其不識事宜如此。

侯景は久しく攻めて抜けず、蕭衍の外援は多くはあったが、それぞれが乖離し、統制する者がなく、互いに妬み忌み、奮って撃とうとしなかった。ただ蕭衍の子の邵陵王蕭綸のみが再び鍾山で決戦し、戦いに敗れて逃走した。侯景の兵糧が少なくなると、ついに蕭衍を欺いて和を求めた。蕭衍はこれを信じ、江西の四州を割いて侯景に授け、寿陽王に封じ、その朝貢を遣わした。部下と共に歃血して盟を結び終えると、侯景は偽って軍を率いて石頭に還った。蕭衍はそこで援軍に命じて下るよう勅したが、諸軍は初めは詔を受けず、後に重ねて勅してようやく従った。蕭衍はまた援軍に命じて船三百艘を侯景に与えさせたが、侯景はなお少ないと嫌い、また二百艘を付すよう勅した。蕭衍の永安侯蕭確、直閤将軍の趙威方は頗る勇略があり、侯景に畏れられた。侯景はそこで蕭衍に言うには、「蕭確と趙威方がたびたび対岸から罵っており、『天子は自ら汝と和するが、我は終に汝を置かぬ!』と言う。我は今や敢えて行くことができない。もしこの二人を召し入城させるならば、我は囲みを解こう」と。蕭衍はまた使者を遣わして蕭確らを徴したが、蕭確らは従わなかった。蕭衍はまた諸軍に手書を送り、「蕭確がもし入らぬならば、軍法をもってこれを送るべし」と言った。蕭確らは已むを得ず、ついに蕭衍のもとに赴いた。侯景はまた蕭衍に言うには、「西からの手紙が届き始め、北軍がすでに寿春、鍾離を攻略した。我は今や足を置く所がなく、広陵、譙州を一時借り受け、両城を征伐して回復した後、この州を返還したい」と。蕭衍はまたこれを許した。侯景は外では和を欲すると言い、その懈怠を窺い、蕭衍君臣上下は侯景の欺詐を信じ、所有の戦具を悉く収め去った。後になって真実でないと知り、更に狼狽して設備したが、初めよりも甚だしかった。城は次第に危急となり、蕭衍らは計窮まり、また使者を侯景のもとに遣わした。侯景はまた詭弁を弄して言うには、「今は暑い時節であり、すぐには去ることができない。ちょうど京師に留まることを乞い、朝廷のために功を立てたい」と。そして全力で大攻撃を加え、七年(549年)三月、ついにこれを陥落させた。

原文景久攻未拔,而衍外援雖多,各各乖張,無有總制,更相妬忌,不肯奮擊。唯衍子邵陵王綸再於鍾山決戰,戰敗而走。景糧既少,遂譎衍求和。衍信之,乃割江西四州授景,封為壽陽王,遣其朝貢。與部下歃血盟訖,景詐引軍還石頭。衍乃敕援軍令下,諸軍初不受詔,後重敕乃從。衍又令援軍以船三百艘給景,景猶嫌其少,又敕付二百。衍永安侯蕭確、直閤將軍趙威方頗有勇略,為景所憚。景乃謂衍曰:「確與威方頻隔岸見罵,云:『天子自與汝和,我終不置汝!』我今便不敢去,若召此二人入城者,吾當解圍。」衍復遣使徵確等,確等不從。衍又為手書與諸軍,云:「確若不入者,宜以軍法送之。」確等不得已,乃赴衍。景復謂衍曰:「始有西信至,北軍已克壽春、鍾離,我今便無委足處,求權借廣陵、譙州,待征復兩城,還以此州相歸。」衍又許之。景外云欲和,伺其懈怠,衍君臣上下信景欺詐,所有戰具,悉皆收去。後知非實,更狼狽設備,有甚於初。城轉危急,衍等計窮,乃復遣使詣景。景又詭云:「今時既熱,便不能得去,正當乞留京師,為朝廷立效耳。」而悉力大攻,七年三月遂拔之。

侯景は建業に至ってから、軍士に前後して略奪をさせ、倉庫の所有物は皆地を掃うように尽き果てた。侯景はそこで数百騎を従えて蕭衍に会い、すすり泣いて涙を流し、香火を請うて義児となし、蕭衍を主君に戻した。蕭正徳に命じて啓を通じさせた、「以前は侯景に捕らえられ、四海を摂政せよと命じられたが、辞退して免れず、一時的に万機を総べた。今、侯景が既に入朝して輔弼するので、僭上の濫りを解き、王として邸に還ることを乞う」と。侯景が建業を包囲して以来、城中には腫病が多く、死者は相次ぎ、板木が再び無くなったので、柱を刳り貫いて棺とした。雲龍門・神虎門の外から、横たわる屍は重なり合い、血汁が漂流して、通行の道は無くなった。侯景が城に入ると、屍を悉く集めて焼き、煙気は天を覆い、臭気は数十里に聞こえた。初め、城中の男女は十余万人であったが、陥落した時には、生き残った者は僅か二三千人で、また皆病気を帯びており、天がこれを亡ぼしたのであろう。蕭衍は間もなく侯景に餓死させられた。蕭衍が侯景に攻囲されて百余日を経る間、蕭衍の子である荊州刺史・湘東王蕭繹と、益州刺史・武陵王蕭紀はそれぞれ兵を擁して自守し、蕭衍の危急を座視して、遂に奔赴しなかった。侯景が江を渡ってから城が陥落するまで、江南の民および蕭衍の王侯・妃主・世冑の子弟で侯景の軍人に掠められ、あるいは自ら売り買いされ、国に漂流入った者は数十万口に及び、これに飢饉と死亡が加わり、所在の地は塗炭に陥り、江左は遂に丘墟となった。

原文景自至建業,縱軍士前後虜掠,倉庫所有皆掃地盡矣。景乃從數百騎見衍,歔欷流涕,因請香火為作義兒,還以衍為主。令正德通啟云:「前為景所擒,使攝四海,辭不獲免,權總萬機,今景既入輔,乞解僭濫,以王還邸。」自景圍建業,城中多有腫病,死者相繼,無復板木,乃刳柱為棺。自雲龍、神虎門外,橫屍重沓,血汁漂流,無復行路。及景入城,悉聚尸焚之,煙氣張天,臭聞數十里。初,城中男女十餘萬人,及陷,存者纔二三千人,又皆帶疾病,蓋天亡之也。衍尋為景所餓殺。自衍為景攻圍歷百餘日,衍子荊州刺史、湘東王繹,益州刺史、武陵王紀各擁兵自守,坐看衍之懸危,竟不奔赴。始景渡江至陷城之後,江南之民及衍王侯妃主、世冑子弟為景軍人所掠,或自相賣鬻,漂流入國者蓋以數十萬口,加以飢饉死亡,所在塗地,江左遂為丘墟矣。

初め、蕭衍は仏道を崇信し、建業に同泰寺を建立し、また故宅に光宅寺を立て、鍾山に大愛敬寺を立て、兼ねて長干の二寺を営み、皆窮極の工巧を尽くし、財力を殫め尽くしたので、百姓はこれを苦しんだ。かつて斎会を設け、自ら身を施して同泰寺の奴となったが、その朝臣が三度上表して許さず、そこで内外の百官が共に珍宝を集めて彼を贖った。蕭衍は毎回仏を礼する時、その法服を捨て、乾陀袈裟を着た。その王侯子弟に皆仏戒を受けさせ、仏事に精励苦行する者があれば、直ちに菩薩の号を加えた。その臣下が奏表上書する時も、蕭衍を皇帝菩薩と称した。蕭衍の管轄する刺史・郡守で初めて官に至る者は、皆上礼として物を献上することを求め、多い者は便ち称職と言い、貢ぎ物が少ない者は、弱惰であると言った。故にその牧守は、在官中皆競って聚斂に事とし、細民を劫掠剥奪して、自ら封殖し、多くの妓妾・粱肉・金綺を有した。百姓は怨み苦しみ、皆生を聊かすことができなかった。また兵士を召集する時は、皆鎖械を必要とし、そうでなければ直ちに逃散した。その王侯貴人は、奢淫無度で、兄弟子姪は、侍妾が千数に及ぶ者もあり、互いに贈り物をすることさえあった。その風俗は頽喪し、綱維が挙がらないのはこのようであった。蕭衍は自ら持戒しているとして、その祖禰を祭る時でさえ、牢牲を設けず、当時の人々は皆密かに言った、僭上して王者の司をなしているが、その宗廟は実に血食していない、と。蕭衍が敗れる前、その同泰寺に災いが起こり、蕭衍の祖父の墓前の石麟が一旦亡失し、識者は皆その将に滅びんとすることを知った。侯景はまた蕭衍の子蕭綱を立てたが、間もなく再びこれを殺した。蕭衍の親属は皆屠害された。

原文初,衍崇信佛道,於建業起同泰寺,又於故宅立光宅寺,於鍾山立大愛敬寺,兼營長干二寺,皆窮工極巧,殫竭財力,百姓苦之。曾設齋會,自以身施同泰寺為奴,其朝臣三表不許,於是內外百官共斂珍寶而贖之。衍每禮佛,捨其法服,著乾陀袈裟。令其王侯子弟皆受佛誡,有事佛精苦者,輒加以菩薩之號。其臣下奏表上書亦稱衍為皇帝菩薩。衍所部刺史郡守初至官者,皆責其上禮獻物,多者便云稱職,所貢微少,言為弱惰。故其牧守,在官皆競事聚斂,劫剝細民,以自封殖,多妓妾、粱肉、金綺。百姓怨苦,咸不聊生。又發召兵士,皆須鎖械,不爾便即逃散。其王侯貴人,奢淫無度,弟兄子姪,侍妾或及千數,至乃回相贈遺。其風俗頹喪,綱維不舉若此。衍自以持戒,乃至祭其祖禰,不設牢牲,時人皆竊云,雖僭司王者,然其宗廟實不血食矣。衍未敗前,災其同泰寺,衍祖父墓前石麟一旦亡失,識者咸知其將滅也。景又立衍子綱,尋復殺之。衍之親屬並見屠害矣。