巻100

高句麗

高句麗は、夫餘より出で、自らその先祖を朱蒙と称す。朱蒙の母は河伯の女にして、夫餘王に室中に閉ざされ、日に照らされ、身を引いてこれを避くれば、日影また逐う。既にして孕み、一卵を生むこと五升の如し。夫餘王これを犬に棄つるも、犬食わず;豕に棄つるも、豕また食わず;路に棄つるも、牛馬これを避く;後に野に棄つるも、衆鳥毛を以てこれを覆う。夫餘王これを割き剖くも、破ること能わず、遂にその母に還す。その母物を以てこれを裹き、暖かなる処に置けば、一男有りて殼を破りて出づ。その長ずるに及び、これを あざな して朱蒙と曰う。その俗に「朱蒙」と曰うは、善く射るなり。夫餘の人朱蒙を人の生みしに非ずとし、将に異志有らんとし、請うてこれを除かんとす。王聴かず、命じて馬を養わしむ。朱蒙毎に私に試み、善悪有るを知り、駿なる者は食を減じて痩せしめ、駑なる者は善く養いて肥えしむ。夫餘王肥える者を以て自ら乗じ、痩せる者を以て朱蒙に給す。後に田に狩すに、朱蒙の善く射るを以て、これを一矢に限る。朱蒙矢少なきと雖も、獣を殪すこと甚だ多し。夫餘の臣また謀りてこれを殺さんとす。朱蒙の母陰に知り、朱蒙に告げて曰く、「国将に汝を害せんとす。汝の才略を以てすれは、宜しく四方に遠適すべし。」朱蒙乃ち烏引・烏違等二人とともに、夫餘を棄て、東南に走る。中道一大水に遇い、渡らんと欲して梁無し。夫餘の人これを追うこと甚だ急なり。朱蒙水に告げて曰く、「我は日子、河伯の外孫なり。今日逃走し、追兵垂に及ばんとす。如何にしてか渡るを得ん。」ここにおいて魚鼈並びに浮き、これが為に橋を成す。朱蒙渡るを得、魚鼈乃ち解く。追騎渡るを得ず。朱蒙遂に普述水に至り、三人に遇う。その一人は麻衣を著、一人は納衣を著、一人は水藻衣を著、朱蒙とともに紇升骨城に至り、遂にここに居す。号して高句麗と曰い、因って以て氏となす。

初め、朱蒙夫餘に在りし時、妻孕みを懐く。朱蒙逃げたる後、一子を生む。字して始閭諧と曰う。長ずるに及び、朱蒙国主たるを知り、即ち母とともに亡びてこれに帰る。これを名づけて閭達と曰い、国事をこれに委ぬ。朱蒙死す。閭達代わりて立つ。閭達死す。子の如栗代わりて立つ。如栗死す。子の莫来代わりて立つ。乃ち夫餘を征し、夫餘大いに敗れ、遂に統属す。莫来子孫相伝え、裔孫の宮に至る。生まれながらにして目を開き能く視る。国人これを悪む。長ずるに及び凶虐にして、国以て残破す。宮の曾孫位宮もまた生まれながらにして視る。人その曾祖の宮に似たるを以て、故に名づけて位宮と為す。高句麗相似を「位」と曰う。位宮もまた勇力有り、弓馬に便ず。魏の正始年中、遼西の安平に入り寇し、幽州 刺史 しし の毋丘儉に破られる。その玄孫乙弗利、利の子の釗、烈帝の時 慕容 ぼよう 氏と相攻撃す。建国四年、慕容元真衆を率いてこれを伐ち、南陝より入り、木底に戦い、大いに釗の軍を破り、勝に乗じて長駆し、遂に丸都に入る。釗単馬にて奔竄す。元真釗の父の墓を掘り、その屍を載せ、並びにその母妻・珍宝・男女五万余口を掠め、その宮室を焚き、丸都城を毀ちて還る。この後より釗使いを遣わして来朝すれども、寇讎に阻隔され、自ら達すること能わず。釗後百済に殺さる。

世祖の時、釗の曾孫の璉始めて使者の安東を遣わし、表を奉り方物を貢ぎ、並びに国 いみな を請う。世祖その誠款を嘉し、詔して帝系の名諱をその国に下し、員外散騎侍郎の李敖を遣わし璉を拝して 都督 ととく 遼海諸軍事・征東将軍・領護東夷中郎将・遼東郡開国公・高句麗王と為す。敖その居する平壤城に至り、その方事を訪うれば、云う、遼東より南一千余里、東は柵城に至り、南は小海に至り、北は旧夫餘に至る。民戸は前に参倍す。魏の時、その地東西二千里、南北一千余里。民皆土著し、山谷に随いて居り、布帛及び皮を衣る。土田薄塉にして、蚕農自ら供うるに足らず、故にその人飲食を節す。その俗淫にして、歌舞を好み、夜は則ち男女群聚して戯れ、貴賤の節無し。然れども潔浄自ら喜ぶ。その王は宮室を治むるを好む。その官名に謁奢・太奢・大兄・小兄の号有り。頭に折風を著け、その形弁の如く、旁らに鳥羽を挿し、貴賤差有り。立つときは則ち反拱し、跪拝は一脚を曳き、行歩は走るが如し。常に十月を以て天を祭り、国中大いに会す。その公会には、衣服皆錦繡、金銀を以て飾りと為す。蹲踞を好む。食は俎几を用う。三尺の馬を出す。云う、本は朱蒙の乗りし所、馬種は即ち果下なり。後貢使相尋い、歳ごとに黄金二百斤、白銀四百斤を致す。

時に馮文通衆を率いてこれに奔る。世祖 散騎常侍 さんきじょうじ の封撥を遣わし、璉に詔して文通を送らしめんとす。璉上書して称す、当に文通とともに王化を奉ずべしと。竟に送らず。世祖怒り、往きてこれを討たんと欲す。楽平王の丕等議して後の挙を待つ。世祖乃ち止む。而して文通亦まもなく璉に殺さる。

後に文明太后、顕祖の六宮未だ備わらざるを以て、璉に勅してその女を薦めしむ。璉表を奉りて云う、女已に出嫁す、弟の女を以て旨に応ぜんことを求むと。朝廷これを許す。乃ち安楽王の真・ 尚書 しょうしょ の李敷等を遣わし、境に至りて幣を送る。璉その左右の説に惑わされ、云う、朝廷昔 馮氏 ふうし と婚姻し、未幾にしてその国を滅ぼす。殷鑒遠からず、宜しく方便を以てこれを辞すべしと。璉遂に上書し妄りに女の死せると称す。朝廷その矯詐を疑い、又仮の 散騎常侍 さんきじょうじ の程駿を遣わしこれを切責す。若し女審かに死する者は、更に宗淑を選ぶを聴かんと。璉云う、「若し天子その前愆を恕さば、謹んで当に詔を奉らん。」会に顕祖崩ず。乃ち止む。

高祖の時に至り、璉の貢献前に倍し、その報賜も亦稍く加えらる。時に光州海中に於いて璉の遣わしし蕭道成に詣る使の余奴等を得て闕に送る。高祖璉を詔責して曰く、「道成親しくその君を殺し、号を江左に窃む。朕方に旧邦に於いて滅国を興し、劉氏に於いて絶世を継がんと欲す。而るに卿は境を越えて外交し、遠く篡賊に通ず。豈に藩臣の節を守るの義ならんや。今一過を以て卿の旧款を掩わず。即ち還して藩に送る。その感恕して愆を思い、祗ち明憲を承け、所部を輯寧し、動静以て聞かしむべし。」

太和十五年、璉死す。年百余歳。高祖東郊に於いて哀を挙げ、謁者 僕射 ぼくや の李安上を遣わし策を贈りて車騎大将軍・ 太傅 たいふ ・遼東郡開国公・高句麗王とし、 おくりな して康と曰う。又大鴻臚を遣わし璉の孫の雲を拝して使持節・ 都督 ととく 遼海諸軍事・征東将軍・領護東夷中郎将・遼東郡開国公・高句麗王と為し、衣冠服物車旗の飾りを賜う。又詔して雲に世子を遣わし入朝せしめ、郊丘の礼に及ばしめんとす。雲上書して疾を辞す。惟だその従叔の升于を使いに随いて詣闕せしむ。厳しくこれを責む。ここより歳常に貢献す。正始年中、世宗東堂に於いてその使の芮悉弗を引見す。悉弗進みて曰く、「高麗天極に係誠し、累葉純誠、地産土毛、王貢に愆ること無し。但だ黄金は夫餘より出で、珂は則ち涉羅の産する所なり。今夫餘は勿吉に逐われ、涉羅は百済に併さる。国王臣の雲惟だ絶を継ぐの義を継ぎ、悉く境内に遷す。二品の所以に王府に登らざるは、実に両賊是れ為すなり。」世宗曰く、「高麗世に上将を荷い、専制海外に在り、九夷の黠虜、実にこれを征するを得たり。瓶罄れて罍耻ず、誰が咎ぞ。昔方貢の愆は、責むるに連率に在り。卿宜しく朕の旨を卿の主に宣べ、務くんば威懐の略を尽くし、害群を揃披し、東裔を輯寧し、二邑をして旧墟に還復せしめ、土毛常貢を失わざらしむべし。」

神龜年間(518–520)、雲が死去すると、霊太后は東堂において哀悼の儀を執り行い、使者を遣わして車騎大將軍・領護東夷 校尉 こうい ・遼東郡開國公・高句麗王を追贈した。また、その世子の安を安東將軍・領護東夷 校尉 こうい ・遼東郡開國公・高句麗王に任じた。正光初年(520)、光州がまた海中において蕭衍(梁の武帝)が授けた安寧東將軍の衣冠・剣佩、および使者の江法盛らを捕らえ、京師に送った。安が死ぬと、子の延が立った。出帝(孝武帝)の初め、詔を下して延に使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・車騎大將軍・領護東夷 校尉 こうい ・遼東郡開國公・高句麗王を加え、衣冠・服物・車旗の飾りを賜った。天平年間(534–537)、詔を下して延に 侍中 じちゅう ・驃騎大將軍を加え、その他は全て従前の通りとした。延が死ぬと、子の成が立った。武定末年(550)に至るまで、その貢ぎの使者は毎年訪れることがなかった。

百済

百済国は、その先祖は夫餘より出づ。その国は北に高句麗を去ること千余里、小海(黄海)の南に位置す。その民は土着し、地は多く低湿にして、概ね山に居す。五穀あり、その衣服・飲食は高句麗と同じ。

延興二年(472)、その王の餘慶が初めて使者を遣わし上表して曰く、「臣は国の東の果てに建て、豺狼(高句麗)が路を隔て、世々霊化を承けながらも、藩として奉ずる由なく、雲闕(朝廷)を瞻望し、馳せる思い極まりなし。涼風微かに応じ、伏して惟うに皇帝陛下は天休に協和し、仰ぎ慕う情に勝えず、謹んで私に任ずる冠軍將軍・駙馬都尉弗斯侯、長史餘禮、龍驤將軍・帯方太守・司馬張茂等を遣わし、舫に投じて波の阻みを越え、径を搜めて玄津に至り、自然の運に命を託し、万一の誠を進らしむ。冀くは神祇感に垂れ、皇霊広く覆い、克く天庭に達し、臣が志を宣暢せしめ、たとえ朝に聞きて夕に没すとも、永く余恨無からん」。又云く、「臣と高句麗は源を夫餘に出づ、先世の時、旧款を篤く崇ぶ。その祖の釗が隣好を軽んじ廃し、親しく士衆を率い、臣が境を陵ぎ践む。臣が祖の須は旅を整えて電邁し、機に応じて馳撃し、矢石暫く交わるや、釗の首を梟斬す。爾来より、敢えて南顧する者なし。馮氏(北燕)の数終わりしより、余燼奔竄し、醜類漸く盛んとなり、遂に陵逼を見、怨を構え禍を連ねること三十余載、財殫力竭し、転じて自ら孱踧す。若し天慈曲に矜み、遠く外無きに及び、速やかに一将を遣わし、来たりて臣が国を救わば、当に鄙女を奉送し、後宮に掃を執り、 へい せて子弟を遣わし、外廐を牧圉せん。尺の壤、匹夫も敢えて自ら有せず」。又云く、「今、璉(高句麗王)罪有り、国自ら魚肉す。大臣強族、戮殺已む無く、罪盈ち悪積み、民庶崩離す。是れ滅亡の期、仮手の秋なり。且つ馮族の士馬は、鳥畜の恋有り。楽浪諸郡は、首丘の心を懐く。天威一挙すれば、征有りて戦無し。臣は不敏と雖も、志を效し力を畢げ、当に率いる所の統を以て、風を承けて響応せん。且つ高麗は不義にして、逆詐一に非ず、外には隗囂の藩卑の辞を慕い、内には兇禍豕突の行を懐く。或いは南に劉氏(宋)に通じ、或いは北に 蠕蠕 じゅんじゅん 柔然 じゅうぜん )に約し、共に脣歯を相し、王略を陵がんと謀る。昔、唐堯は至聖と雖も、丹水に罰を致し、孟常(孟軻)は仁を称すと雖も、塗詈を捨てず。涓流の水は、宜しく早く壅塞すべし。今若し取らざれば、将に後悔を貽さん。庚辰年(440)の後、臣が西界の小石山北の国海中に屍十余を見、 へい せて衣器・鞍勒を得たり。之を視るに高麗の物に非ず、後に聞くに是れ王人(北魏の使者)の臣が国に降り来たる者なり。長蛇(高句麗)路を隔て、以て海に沈む。未だ当たるを委ねずと雖も、深く憤恚を懐く。昔、宋は申舟を戮し、楚荘は徒跣し、鷂は鳩を撮みて放ち、信陵は食わず。敵に克ち名を建つるは、美隆已む無し。夫れ区々たる偏鄙を以てすら、猶お万代の信を慕う。況んや陛下は天地に気を合し、勢は山海を傾けんや。豈に小竪をして、天逵を跨ぎ塞がしめんや。今、上る所の鞍一を以て、実験と為す」。

顕祖(献文帝)はその僻遠にして、険を冒して朝献するを以て、礼遇優厚にし、使者の邵安をその使と共に還らしむ。詔して曰く、「表を得て之を聞く、恙無く甚だ善し。卿は東隅に在り、五服の外に処し、山海を遠しとせず、魏闕に誠を帰す。欣嘉の至意、用いて懐に戢む。朕は万世の業を承け、四海に君臨し、群生を統御す。今、宇内清一、八表帰義し、襁負して至る者称数す可からず。風俗の和、士馬の盛、皆な餘禮等の親しく聞見する所なり。卿は高麗と穆せず、屡々陵犯を致す。苟くも能く義に順い、之を仁を以て守らば、亦た何ぞ寇讎を憂えんや。前に遣わしし使は、海を浮かびて以て荒外の国を撫す。従来積年、往きて返らず、存亡達否、未だ審悉す能わず。卿の送る所の鞍は、旧乗に比校するに、中国の物に非ず。疑似の事を以て、必然の過を生ずべからず。経略の権要は、已に別旨に具す」。又詔して曰く、「高麗の強を阻み、卿が土を侵軼し、先君の旧怨を修め、息民の大徳を棄て、兵累載に交わり、難荒辺に結ぶを知る。使は兼ねて申胥の誠を申し、国は楚越の急有り。乃ち応に義を展べ微を扶け、機に乗じて電挙すべし。但だ高麗は先朝に藩を称し、職を供すること日久し。彼に於いては自昔の釁有りと雖も、国に於いては犯令の愆未だ有らず。卿が使命始めて通ずるや、便ち伐を致さんことを求め、事会を尋討するも、理亦た未だ周からず。故に往年、禮等を平壌に遣わし、其の由状を験せんと欲す。然るに高麗の奏請頻煩にして、辞理俱に詣り、行人其の請を抑うる能わず、司法其の責を成すに以て無し。故に其の啓く所を聴き、詔して禮等を還らしむ。若し今また旨に違わば、則ち過咎益々露わにし、後自ら陳ずるも、罪を逃るる所無からん。然る後師を興して之を討てば、義に於いて得たりと為す。九夷の国は、世々海外に居し、道暢なれば則ち藩を奉じ、惠戢なれば則ち境を保つ。故に羈縻は前典に著しく、楛貢は歳時に曠る。卿は強弱の形を備え陳べ、往代の迹を具え列す。俗殊なり事異なり、擬貺衷に乖く。洪規大略、其の致猶お在り。今、中夏平一、宇内虞無く、毎に東極に威を陵ぎ、域表に旌を懸け、偏方の荒黎を拯い、遠服に皇風を舒がんと欲す。良に高麗の即敕するに由り、未だ卜征に及ばず。今若し詔旨に従わざれば、則ち卿が来たり謀る所、載せて朕が意に協い、元戎行を啓けば、将に遠からずと云わん。便ち予め率を同興し、具えて事を待つべく、時に報使を遣わし、速やかに彼の情を究むべし。師挙ぐの日、卿は郷導の首と為り、大捷の後、又た元功の賞を受けん。亦た善からずや。献ずる所の錦布・海物は悉く達せずと雖も、卿が至心を明らかにす。今、雑物を賜うこと別の如し」。又、璉に詔して安等を護送せしむ。

安等が高句麗に至ると、璉は昔餘慶と讐有りと称し、東過するを許さず。安等は是に於いて皆な還る。乃ち詔を下して之を切責す。五年(471)、安等をして東萊より海を浮かび、餘慶に璽書を賜い、其の誠節を褒む。安等が海濱に至り、風に遇い飄蕩し、竟に達せずして還る。

勿吉

勿吉国は、高句麗の北にあり、旧くは粛慎国である。邑落はそれぞれ長を有し、互いに統括しない。その人は勁悍にして、東夷の中で最も強い。言語は独自に異なる。常に豆莫婁等国を軽んじ、諸国もまたこれを患う。 洛陽 らくよう より五千里。和龍より北二百余里に善玉山があり、山より北へ十三日行くと祁黎山に至り、また北へ七日行くと如洛瓌水に至り、水の幅は一里余り、また北へ十五日行くと太魯水に至り、また東北へ十八日行くとその国に到る。国に大水あり、幅三里余り、名を速末水という。その地は低湿で、城を築き穴居し、屋の形は塚に似て、上に開口し、梯子で出入りする。その国には牛がなく、車馬があり、耕作には偶耕し、車は歩いて推す。粟及び麦・穄があり、菜には葵がある。水気が鹹く凝り、塩が樹上に生じ、また塩池もある。猪多く羊なし。米を噛み酒を醸し、飲んで酔いに至ることができる。婦人は布の裙、男子は猪・犬の皮裘を着る。初婚の夕べ、男は女の家に就き、女の乳を執ってやめ、直ちに定めと為し、夫婦となる。俗に人の小便で手や顔を洗う。頭に虎豹の尾を挿す。射猟に長け、弓の長さ三尺、箭の長さ一尺二寸、石を以て鏃とする。その父母が春夏に死ねば、立ち埋めにし、冢の上に屋を作り、雨に濡れさせない。もし秋冬ならば、その屍を以て貂を捕らえ、貂がその肉を食うのを多く得る。常に七、八月に毒薬を造り箭鏃に塗り、禽獣を射れば、当たれば即ち死に、薬を煮る毒気もまた人を殺すことができる。国の南に徒太山あり、魏の言葉で「大白」といい、虎・豹・羆・狼が人を害し、人は山上で小便・汚物をしてはならず、山を行く者は、皆物を以て盛る。

去る延興年間に、使いの乙力支を遣わして朝献した。太和の初め、また馬五百匹を貢いだ。乙力支が称えるには、初めその国を発ち、船に乗り難河を遡って西上し、太𣳅河に至り、船を水中に沈め、南に出て陸行し、洛孤水を渡り、契丹の西界から和龍に達したという。自ら云うには、その国は先に高句麗の十落を破り、密かに百済と謀り、水路から力を併せて高句麗を取ろうとし、乙力支を使いとして大国に遣わし、その可否を請うたという。詔勅して、三国は同じく藩附であるから、宜しく和順を共にし、互いに侵擾すべからずと。乙力支は乃ち還った。その来たった道から、本船を取り、浮かんでその国に達した。九年、また使いの侯尼支を遣わして朝献した。明年また入貢した。

その傍らに大莫盧国、覆鍾国、莫多回国、庫婁国、素和国、具弗伏国、匹黎尒国、抜大何国、郁羽陵国、庫伏真国、魯婁国、羽真侯国があり、前後してそれぞれ使いを遣わして朝献した。

太和十二年、勿吉はまた使いを遣わして楛矢と方物を京師に貢いだ。十七年、また使いの人婆非ら五百余人を遣わして朝献した。景明四年、また使いの俟力帰らを遣わして朝貢した。これより正光に至るまで、貢使は相継いだ。その後、中国は紛擾し、しばしば来ないこともあった。興和二年六月、使いの石久雲らを遣わして方物を貢ぎ、武定年間まで絶えなかった。

失韋

失韋国は、勿吉の北千里にあり、洛陽より六千里。道は和龍より北千余里に出で、契丹国に入り、また北へ十日行くと啜水に至り、また北へ三日行くと蓋水があり、また北へ三日行くと犢了山があり、その山は高大で、周囲三百余里、また北へ三日行くと大水あり名を屈利といい、また北へ三日行くと刃水に至り、また北へ五日行くとその国に到る。大水が北より来たり、幅四里余り、名を㮈水という。国土は低湿である。言葉は庫莫奚、契丹、豆莫婁国と同じ。粟・麦及び穄がややあり、ただ猪・魚を食い、牛馬を養い、俗にまた羊なし。夏は城に居り、冬は水草を逐う。また貂皮が多い。丈夫は索髪する。角弓を用い、その箭は特に長い。女婦は髪を束ね、叉手髻を作る。その国には窃盗少なく、盗めば一を徴して三とし、人を殺せば馬三百匹を責める。男女皆白鹿皮の襦袴を衣る。麹で酒を醸す。俗に赤珠を愛し、婦人の飾りと為し、頸に穿ち掛け、多いことを以て貴しとし、女はこれが得られなければ、遂に嫁がず。父母が死ねば、男女衆く三年哭し、屍は則ち林樹の上に置く。武定二年四月、初めて使いの張焉豆伐らを遣わしてその方物を献じ、武定末に至るまで、貢使は相継いだ。

豆莫婁

豆莫婁国は、勿吉国の北千里にあり、洛陽より六千里、旧くは北扶余である。失韋の東に在り、東は海に至り、方二千里。その人は土着し、宮室倉庫がある。山陵広沢多く、東夷の域の中で最も平敞である。地は五穀に適し、五果は生じない。その人は長大で、性質強勇、謹厚にして、寇抄しない。その君長は皆六畜を以て官の名とし、邑落には豪帥がある。飲食にも俎豆を用いる。麻布の衣があり、制は高麗に類するが幅が大きく、その国の大人は、金銀でこれを飾る。刑を用いること厳急で、人を殺せば死に、その家人を没して奴婢とする。俗に淫で、特に妬婦を悪み、妬む者はこれを殺し、屍をその国の南山の上に置いて腐るに至らしめる。女の家が得ようとすれば、牛馬を輸送して初めてこれを与える。或いは言う、本は穢貊の地であると。

地豆于

地豆于国は、失韋の西千余里にある。牛羊多く、名馬を出し、皮を以て衣服とし、五穀なく、ただ肉酪を食う。延興二年八月、使いを遣わして朝貢し、太和六年に至るまで、貢使は絶えなかった。十四年、頻りに来たり塞を犯し、高祖は詔して征西大将軍、陽平王頤にこれを撃ち走らせた。その後時々京師に朝し、武定末に至るまで、貢使は絶えなかった。

庫莫奚

庫莫奚国の先は、東部宇文の別種である。初め慕容元真に破られ、遺落した者は松漠の間に竄匿した。その民は潔浄でなく、しかも射猟に長け、寇鈔を好む。登国三年、太祖自ら出でて討ち、弱洛水の南に至り、大いにこれを破り、その四部落を獲、馬牛羊豕十余万を得た。帝曰く、「この羣狄諸種は徳義を知らず、互いに侵盗し、王略を犯す有り、故に往きてこれを征す。且つ鼠窃狗盗、何ぞ患いと為さん。今中州大乱す、吾先ずこれを平らげ、然る後にその威懐を張らば、則ち服さざるなし」と。既にして車駕は南還して雲中し、燕趙を懐服した。十数年の間、諸種と庫莫奚もまた皆滋盛した。及び遼海を開き、戍を和龍に置くと、諸夷は震懼し、各々方物を献じた。高宗、顕祖の世、庫莫奚は歳ごとに名馬文皮を致した。高祖の初め、使いを遣わして朝貢した。太和四年、輒ち塞内に入り、地豆于の鈔掠を畏れるを以て辞し、詔書を以てこれを切責した。二十二年、安州を寇し、営燕幽三州の兵数千人を以てこれを撃ち走らせた。後また款附し、毎度塞に入り、民と交易を求めた。世宗詔して曰く、「庫莫奚は去る太和二十一年以前、安・営二州の辺民と参居し、交易往来し、並びに疑貳無し。二十二年叛逆以来に至り、遂に爾く遠竄す。今款附すと雖も、猶塞表に在り、毎度塞に入り民と交易を請う。若し抑えて許さざれば、その帰向の心に乖く。聴いて虞わざれば、或いは万一の警有らん。先の如くその交易を任ずるは容れず、事は節を限るに宜しく、交市の日は、州は上佐を遣わしてこれを監すべし」と。是より已後、歳常に朝献し、武定末に至るまで絶えなかった。

契丹

契丹国は、庫莫奚の東にあり、種族は異なるが同類であり、ともに松漠の間に逃げ隠れていた。登国年間(386–396年)に、国軍がこれを大いに破り、遂に逃散し、庫莫奚と分かれて背を向けた。数十年を経て、次第に繁殖し、部落を有するに至り、和龍の北数百里にあり、多くは寇盗を働いた。真君(440–451年)以来、朝献を求め、毎年名馬を貢いだ。顕祖(献文帝、466–471年)の時、莫弗紇何辰を使者として奉献させ、諸国の末席に班饗されることを得た。帰国して互いに語り合い、国家の美を言い、心皆歓喜して慕い、ここにおいて東北の群狄これ聞き、服従を思わざるはなかった。悉萬丹部、何大何部、伏弗郁部、羽陵部、日連部、匹絜部、黎部、吐六于部など、各々その名馬と文皮を以て天府に入献し、遂に恒例となることを求めた。皆和龍と密雲の間で交市することを得、貢献は絶えなかった。太和三年(479年)、高句麗が密かに蠕蠕と謀り、地豆于を取ってこれを分かたんと欲した。契丹はその侵軼を懼れ、その莫弗賀勿于が部落の車三千乗、衆万余口を率い、雑畜を駆り立てて徙らし、内附を求め、白狼水の東に止まった。ここより毎年常に朝貢した。後に飢饉を告げ、高祖(孝文帝)これを憐れみ、関市に入って糴することを聴した。世宗(宣武帝)、粛宗(孝明帝)の時に至り、恒に使いを遣わして方物を貢いだ。熙平年間(516–518年)、契丹の使人祖真ら三十人が還るに当たり、霊太后はその俗、嫁娶の際に青氈を上服とすることを以て、人ごとに青氈二匹を与え、その誠款の心を賞し、その余は旧式のままとした。朝貢は斉が禅を受けるまで常に絶えなかった。

烏洛侯

烏洛侯国は、地豆于の北にあり、代都を去ること四千五百余里。その土地は低湿で、霧気多くして寒く、民は冬には地を穿って室と為し、夏には原阜に随って畜牧する。豕多く、穀麦有り。大君長無く、部落の莫弗は皆世襲である。その俗は髪を縄じ、皮服を着し、珠を以て飾りと為す。民は勇を尚び、姦窃を行わず、故に蔵を慢にし野に積むも寇盗無し。狩猟射撃を好む。楽器に箜篌有り、木槽に革面を施し九弦を張る。その国の西北に完水有り、東北に流れて難水に合し、その地の小水は皆難水に注ぎ、東に海に入る。また西北に二十日行くと于巳尼大水有り、いわゆる北海である。世祖(太武帝)の真君四年(443年)に来朝し、その国の西北に国家の先帝の旧墟有り、石室は南北九十歩、東西四十歩、高さ七十尺、室に神霊有り、民多く祈請すと称した。世祖は 中書 ちゅうしょ 侍郎李敞を遣わして告祭せしめ、祝文を室の壁に刊して還った。

【論】

史臣曰く、夷狄の中国に対するは、羈縻するのみである。高麗は歳ごとに貢職を修め、東藩の冠たり、栄哀の礼は天朝より致す、亦優れたり。その他碌碌たるもの、皆款貢を知る、豈に牛馬の内に向かい、東風の律に入る者ならんや。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻100