氐
氐とは、西夷の別種であり、白馬と号す。三代の際、蓋し自ら君長有り、而して世に一朝見す、故に詩に「彼の氐 羌 より、敢へて来王せざる莫し」と称す。秦漢以来、世に岐隴の南、漢川の西に居り、自ら豪帥を立てる。漢武帝は中郎将郭昌・衛広を遣わして之を滅ぼし、其の地を以て武都郡と為す。汧渭より 巴蜀 に至るまで、種類実に繁く、或いは之を白氐と謂ひ、或いは之を故氐と謂ひ、各々侯王有り、中国の封拝を受く。
漢の建安の中、楊騰と云ふ者有り、部落の大帥と為る。騰は勇健にして計略多く、始めて仇池に徙り居す。仇池は方百頃、因りて以て号と為し、四面斗絶し、高さ七里余、羊腸の蟠道三十六回、其の上に豊水泉有り、土を煮て塩を成す。騰の後、千万と名有る者、魏に百頃氐王と拝せらる。千万の孫、飛龍と名有り、漸く強盛に、晋武帝は平西将軍を仮す。子無く、外甥の令狐茂搜を養ひ子と為す。恵帝の元康の中、茂搜は自ら輔国将軍・右賢王と号し、群氐之を推して以て主と為す。関中の人士流移する者多く之に依る。愍帝は之を以て驃騎将軍・左賢王と為す。茂搜死し、子の難敵位を統べ、弟の堅頭と部曲を分つ。難敵は自ら左賢王と号し、下辨に屯し;堅頭は右賢王と号し、河池に屯す。難敵死し、子の毅立ち、自ら使持節・龍驤将軍・左賢王・下辨公と号し、堅頭の子の盤を以て使持節・冠軍将軍・右賢王・河池公と為す。晋に臣し、晋は毅を征南将軍と為す。三年、毅の族兄の初、襲ひて毅を殺し、併せて其の衆を有し、自ら仇池公と立ち、石虎に臣し、後に晋に藩を称す。永和十年、初を改めて天水公と為す。十一年、毅の小弟の宋奴、姑の子の梁三王をして侍直に因りて手を刃して初を殺さしむ、初の子の国、左右を率ひて三王及び宋奴を誅し、復た自ら仇池公と立つ。桓温は国を表して秦州 刺史 と為し、国の子の安を武都太守と為す。十二年、国の従叔の俊、復た国を殺して自立す。国の子の安、苻生に叛き、俊を殺し、復た晋に藩を称す。安死し、子の世自ら仇池公と立つ。晋の太和三年、世を以て秦州刺史と為し、弟の統を武都太守と為す。世死し、統は世子の纂を廃して自立す。統は一名を徳とす。纂は党を聚めて統を襲ひ殺し、自ら仇池公と立ち、使を簡文帝に詣らしめ、纂を以て秦州刺史と為す。
晋の咸安元年、苻堅は楊安を遣わして纂を伐ち、之を克ち、其の民を関中に徙し、百頃の地を空しうす。宋奴の死に、二子の仏奴・仏狗、苻堅に逃げ奔る。堅は女を以て仏奴の子の定に妻せしめ、 尚書 ・領軍に拝す。苻堅の敗れに、関右擾乱し、定は力を堅に尽くす。堅死し、乃ち衆を率ひて隴右に奔る。治を歴城に徙し、仇池を去ること百二十里、倉儲を百頃に置く。夷夏を招きて千余家を得、自ら龍驤将軍・仇池公と称し、晋に藩を称す。孝武は即ち其の自号を以て之に仮し、後秦州刺史と為す。登国四年、遂に秦州の地を有ち、自ら隴西王と号す。後乞伏乾帰に殺さる、子無し。仏狗の子の盛、先づ監国と為り、仇池を守る、乃ち事を統べ、自ら征西将軍・秦州刺史・仇池公と号し、定を武王と 諡 す。諸の氐羌を分ちて二十部護軍と為し、各々鎮戍と為し、郡県を置かず。遂に漢中の地を有ち、仍て晋に藩を称す。天興初、使を遣わして朝貢し、詔して盛を征南大将軍・仇池王と為す。姚興に隔礙せられ、歳を通じて貢使するを得ず。盛は兄の子の撫を平南将軍・梁州刺史と為し、漢中を守らしむ。
劉裕の永初中、盛を封じて武都王と為す。盛死し、私に諡して惠文王と曰ひ、子の玄位を統ぶ。玄は 字 を黄眉とし、征西大将軍・開府儀同三司・秦州刺史・武都王と号し、劉義隆に藩を称すと雖も、仍て晋の義熙の号を奉じ、後に始めて義隆の元嘉の 正朔 を用ふ。初め、盛玄に謂ひて曰く、「吾年已に老ゆ、当に終に晋の臣と為るべし、汝善く宋帝に事へよ」と、故に玄之を奉ず。玄は士を待つに善くし、流旧の懐かしむ所と為る。始光四年、世祖は大鴻臚公孫軌を遣わし玄を征南大将軍・ 都督 ・梁州刺史・南秦王に拝す。玄は表を上りて内藩に比せんことを請ふ、之を許す。
玄死し、私に諡して孝昭王と曰ひ、子の保宗位を統ぶ。初め、玄臨終に、弟の難当に謂ひて曰く、「今境候未だ寧かならず、方に撫慰を須ふ、保宗沖昧なり、吾卿に国事を授く、其れ先勳を墜すこと無かれ」と。難当固く辞し、保宗を立てて之を輔はんことを請ふ。保宗既に立ち、難当の妻姚氏難当に謂ひて曰く、「国険なれば宜しく長君を立つべし、反つて孺子に事ふるは、久しき計に非ず」と。難当之に従ひ、保宗を廃して自ら立ち、劉義隆に藩を称す。難当は保宗を拝して鎮南将軍と為し、石昌に鎮し、次子の順を以て鎮東将軍・秦州刺史と為し、上邽を守らしむ。保宗謀りて難当を襲はんとす、事泄れて繫はる。
是に先立ち、四方の流人、仇池の豊実なるを以て、多く往きて依附す。流人に許穆之・郝惔之の二人有りて難当に投ず、並びに姓を改めて司馬と為し、穆之は自ら名を飛龍と云ひ、惔之は自ら名を康之と云ひ、是れ晋室の近戚なりと云ふ。康之は尋ひて人の為に殺さる。
時に劉義隆の梁州刺史甄法護、刑政理めず、義隆は刺史蕭思話を遣わして代任せしむ。難当は思話未だ至らざるを以て、将を遣わし兵を挙げて梁州を襲ひ、白馬を破り、遂に漢中の地を有つ。尋ひて思話其の司馬蕭承之をして先駆して進討せしむ、向ふ所克捷し、遂に梁州を平げ、因りて又義隆に附す。
難当後ち保宗を釈き、董亭に鎮せしむ。保宗は兄の保顕と共に京師に帰る。世祖は保宗を征南大将軍・秦州牧・武都王に拝し、公主を尚へしめ;保顕を鎮西将軍・晋寿公と為す。後ち大鴻臚崔賾を遣わし難当を征南大将軍・儀同三司・領護西羌 校尉 ・秦梁二州牧・南秦王に拝す。難当後ち自ら大秦王と立ち、年号を建義と曰ひ、妻を立てて王后と為し、世子を太子と為し、百官を置き、具に天朝に擬す。然れども猶ほ劉義隆に貢献して絶えず。尋ひて其の国大旱し、災異多く、大秦王を降して復た武都王と為す。太延初、難当上邽に鎮を立て、世祖は車騎大将軍・楽平王丕等を遣わし河西高平の諸軍を督して上邽を取り、又詔して難当を諭す。難当詔を奉じて摂守す。
尋ひて国を傾けて南寇し、蜀土を有たんと規り、義隆の益州を襲ひ、涪城を攻め、又巴西を伐ち、雍州の流人七千余家を獲て仇池に還る。義隆怒り、将の裴方明等を遣わして之を伐たしむ。難当は方明に敗れ、仇池を棄て、千余騎と共に上邽に奔る。世祖は中山王辰を遣わし之を迎へて行宮に赴かしむ。方明既に仇池を克ち、保宗の弟の保熾をして之を守らしむ。河間公斉之を撃ち走らす。
先に、詔により保宗を上邽に鎮守させ、また詔により駱谷に鎮守させ、その本国を回復させた。保宗の弟文德は先に氐中に逃れており、そこで保宗を説いて反逆させようとしたが、事が漏れ、齊が保宗を捕らえて京師に送り、詔により難當に殺させた。氐羌は文德を立て、濁水に屯した。文德は自ら征西将軍・秦河梁三州牧・仇池公を号し、義隆に援軍を求めた。義隆は文德を武都王に封じ、偏将の房亮之らを派遣してこれを助けた。齊が逆撃し、亮之を捕らえた。文德は葭蘆に奔って守り、武都・陰平の氐の多くがこれに帰した。詔により淮陽公皮豹子らが諸軍を率いてこれを討ち、文德は漢中に逃走し、その妻子・僚属・資糧を収め、また保宗の妻である公主を京師に送り、賜死させた。初め、公主は保宗に反逆を勧め、人が問うて言うには、「父母の邦を背くのはいかがなものか」と。公主は言うには、「礼によれば、婦人は外に成り、夫によって栄えるものである。事が立ち、一方を拠守すれば、我もまた一国の母であって、どうして小県の主と比べられようか」と。これによって罪を得た。
高宗の時、難當を営州刺史に拝し、還って外都大官となった。卒し、諡して忠と言う。子和は父に従って帰国し、別に爵を仇池公と賜う。子の徳が難當の爵を襲い、早く卒した。子の小眼が襲い、例により公に降格され、天水太守に拝し、卒した。子の大眼は別に伝がある。小眼の子公熙が爵を襲いだ。正光年中、尚書右丞の張普惠が行臺となり、租を南秦・東益に送り、普惠は公熙をともに行かせるよう上啓した。南秦に至り、氐が反逆したため進めず、公熙を先に派遣して氐を慰撫させた。東益州刺史の魏子建は公熙が険薄であるとして、密かに訪察させたところ、公熙は果たして密謀があり、叛乱を起こそうとしていた。子建はそこで普惠に報せ、その摂録を命じた。普惠が急ぎ追ったが、公熙はついに赴こうとせず、東に出て漢中に入った。普惠は表を上ってその事を列挙したが、公熙は大いに賄賂を行い、ついに罪を免れた。後に仮節・別将となり、 都督 の元志とともに岐州を守ったが、秦の賊の莫折天生に捕らえられ、秦州で死んだ。
文德は後に漢中から入って汧隴を統べ、ついに陰平・武興の地を有したが、後に劉義隆の荊州刺史劉義宣に殺された。
保宗が捕らえられた時、子の元和は義隆に奔り、武都・白水太守とされた。元和は城を拠って帰順したので、高宗はこれを嘉し、征南大将軍・武都王に拝し、内徙して京師に住まわせた。元和の従叔の僧嗣がまた葭蘆で自ら武都王を称した。僧嗣が死ぬと、従弟の文度が自ら武興王と立ち、使者を派遣して帰順したので、顕祖は文度を武興鎮将に授けた。既にしてまた叛いた。高祖の初め、征西将軍の皮歓喜が葭蘆を攻めてこれを破り、文度の首を斬った。
文度の弟の弘は、小名を鼠といい、顕祖の廟 諱 に犯すため、小名で称した。鼠は自ら武興王となり、使者を派遣して表を奉り謝罪し、その方物を貢いだので、高祖はこれを受け入れた。鼠は子の苟奴を入侍させ、鼠を 都督 ・南秦州刺史・征西将軍・西戎 校尉 ・武都王に拝した。鼠が死ぬと、従子の後起が統任し、高祖はまた鼠の爵をこれに授けた。
鼠の子の集始は白水太守となり、後起が死ぬと、集始を征西将軍・武都王とした。集始は後に京師に朝し、 都督 ・南秦州刺史・安南大将軍・領護南蛮 校尉 ・漢中郡侯・武興王に拝され、車旗・戎馬・錦綵・繒纊などを賜った。まもなく武興に還り、鎮南将軍に号を進め、寧・湘など五州諸軍事の督を加えられた。後に仇池鎮将の楊霊珍が武興を襲撃して破り、集始はついに蕭賾に入った。
景明の初め、集始が来降し、爵位を還授され、武興を守ることに帰った。死ぬと、子の紹先が立ち、 都督 ・南秦州刺史・征虜将軍・漢中郡公・武興王に拝された。集始には車騎大将軍・開府儀同三司を贈り、諡して安王と言う。紹先は幼少であったため、事を二叔の集起・集義に委ねた。夏侯道遷が漢中を以て帰順した時、蕭衍の白馬戍主の尹天保が衆を率いてこれを包囲した。道遷が集起・集義に援軍を求めたが、二人は辺藩を保つのみを貪り、これを救おうとせず、ただ集始の弟の集朗が功を立てることを心に願い、衆を率いて天保を破り、漢川を全うしたのは、集朗の力であった。集義は梁益が既に定まったのを見て、武興が久しく外藩たり得ないことを恐れ、そこで諸氐を扇動し、紹先を推して大号を僭称させ、集起・集義はともに王を称し、外に蕭衍を引き込んで援軍とした。安西将軍の邢巒が建武将軍の傅竪眼を派遣して武興を攻め、これを克ち、紹先を捕らえて京師に送り、ついにその国を滅ぼし、武興鎮とし、また鎮を改めて東益州とした。前後の鎮将の唐法楽、刺史の杜纂・邢豹は、威恵が衷を失い、氐の豪族の仇石柱らが相率いて反叛した。朝廷は西南を憂えた。正光年中、詔により魏子建を刺史とし、恩信をもって招撫したところ、風化が大いに行われ、遠近が款附し、内地のようであった。後に唐永が子建に代わって州となったが、まもなく、氐人が悉く反逆し、永は城を棄てて東に逃走し、ここから再び氐の地となった。その後、紹先は奔還して武興に至り、再び自ら王と立った。
吐谷渾
吐谷渾は、本来遼東の 鮮卑 の徒河の渉帰の子である。渉帰は一名を弈洛韓といい、二人の子があり、庶長を吐谷渾といい、少子を若洛廆という。渉帰が死ぬと、若洛廆が代わって部落を統べ、別に 慕容 氏となった。渉帰の存命中、七百戸を分けて吐谷渾に与えた。吐谷渾と若洛廆の二部の馬が鬬って相傷つき、若洛廆は怒り、人を遣わして吐谷渾に言うには、「先公の処分では、兄とは異部とされた。どうして遠ざからず、馬が鬬って相傷つくのか」と。吐谷渾は言うには、「馬は畜生である。草を食み水を飲み、春気が発動するので、鬬うのである。鬬いは馬にあるのに怒りが人に及ぶとは、別れるのは甚だ容易である。今、汝から万里の外に去ろう」と。若洛廆は後悔し、旧老と長史の七那楼を遣わして追い謝め留めようとした。吐谷渾は言うには、「我が乃祖以来、遼右に徳を樹て、先公の世には、卜筮の言葉に、二人の子ありて福祚を享け、ともに子孫に流れると言う。我は卑庶であり、理として並び大なることはない。今、馬によって乖離を致すのは、天の啓く所であろう。諸君、試みに馬を駆って東に向かわせよ。馬もし東に還れば、我もまた従って去ろう」と。即ち従騎に命じて馬を擁して回らせると、数百歩で、忽ち悲鳴し、突走して西に向かい、声は山の頽るるが如く、このようなことが十余度もあり、一回ごとに迷った。楼は力尽き、跪いて言うには、「可汗、これはもはや人の為すことではありません」と。渾はその部落に言うには、「我が兄弟子孫はともに昌盛すべきであり、廆は子及び曾玄孫に伝え、その間は百余年に及ぶであろう。我は玄孫の間になって初めて顕れるであろう」と。ここにおいて遂に西に附いて陰山に至り、後に道を仮りて上隴した。若洛廆は吐谷渾を追思し、阿干の歌を作った。徒河では兄を阿干というのである。子孫が僭号するに及び、この歌を輦後の鼓吹の大曲とした。
吐谷渾は遂に上隴に徙り、枹罕および甘松に止まり、南は昂城・龍涸を界とし、洮水の西南から白蘭に極まる数千里の中、水草を逐い、廬帳に住み、肉酪を糧とした。西北の諸種はこれを阿柴虜と呼んだ。
吐谷渾が死ぬと、六十人の子があった。長子の吐延は、身長七尺八寸、勇力は人に優れ、性質は苛烈で、昂城の羌酋である姜聰に刺された。剣はなお体に刺さったまま、子の葉延を呼び、その大将の紇抜埿に言うには、「我が気絶し、棺に納め終わったならば、速やかに去って白蘭を保て。その地は険遠であり、また土俗は懦弱で、制御しやすい。葉延は小児であるが、余人に授けようとすれば、恐らく慌ただしくて終には制することができぬであろう。今、葉延を汝に託す。股肱の力を尽くしてこれを輔けよ。孺子が立つことができれば、我に恨みはない。」剣を抜いて死んだ。十二人の子があった。
葉延は幼くして勇猛果断であり、十歳の時、草を縛って人形とし、これを姜聰と号し、毎朝これに射かけ、射中れば号泣して涙を流した。その母が言うには、「仇賊の諸将はすでに屠り膾にした。汝は年が幼いのに、どうして毎朝自ら苦しむ必要があろうか。」葉延は嗚咽して堪えられぬ様子で、母に答えて言うには、「確かに無益であると知っているが、尽きることなき心が、その痛みに耐えられないのである。」性質は至孝であり、母が病んで三日間食べなければ、葉延も食べなかった。書伝をよく読み、自ら言うには、曾祖の弈洛韓が初めて昌黎公に封ぜられた。我は公孫の子である。礼を案ずるに、公孫の子は王父の字をもって氏とすることができる。そこで吐谷渾をもって氏とした。
葉延が死に、子の碎奚が立った。性質は淳朴で謹直であったが、三人の弟が専権をふるい、碎奚は制することができず、諸大将が共にこれを誅した。奚は憂い悲しんで再び政事を摂らず、遂に子の視連を世子として立て、事を委ね、「莫賀郎」と号した。これは華語で父という意味である。碎奚は遂に憂い死んだ。視連が立つと、父の憂いを思って、遊び楽しみ酒宴にふけることはしなかった。十五年で死に、弟の視羆が立った。死ぬと、子の樹洛干らは皆幼く、弟の烏紇提が立って樹洛干の母を妻とし、二人の子、慕璝と利延を生んだ。烏紇提は一名を大孩といい、死ぬと、樹洛干が立った。自ら車騎将軍と号した。この年は晋の義熙の初めである。樹洛干が死に、弟の阿豺が立った。自ら驃騎将軍・沙州刺史と号した。部内に黄沙があり、周囲数百里、草木が生えず、よって「沙州」と号した。
阿豺は羌・氐を併合し、地方数千里、強国と号された。西強山で狩猟し、墊江の源流を観て、群臣に問うて言うには、「この水は東に流れるが、何という名か。どの郡国を通り、どの水に入るのか。」その長史の曾和が言うには、「この水は仇池を経て、晋寿を過ぎ、宕渠に出て、墊江と号し、巴郡に至って江に入り、広陵を渡って海に会します。」阿豺は言う、「水でさえなお帰る所を知っている。我は塞外の小国とはいえ、ただ帰る所がないことがあろうか。」使者を遣わして劉義符に通じ、その方物を献じた。義符はこれを澆河公に封じた。拝受に及ばぬうちに、劉義隆の元嘉三年、また除命を加えた。また使者を遣わして朝貢しようとしたが、暴病にかかり、臨終に諸子弟を召して告げて言うには、「先公の車騎将軍(樹洛干)はその子の虔を捨てて大業を我に属した。我どうして先公の挙を忘れて私的に緯代に与することができようか。慕璝をもって事を継がせよ。」阿豺には二十人の子があり、緯代は長子である。阿豺はまた言う、「汝らはそれぞれ我が一隻の矢を奉じ、これを地に折れ。」やがて同母弟の慕利延に命じて言う、「汝は一隻の矢を取って折れ。」慕利延がこれを折った。また言う、「汝は十九隻の矢を取って折れ。」延は折ることができなかった。阿豺は言う、「汝らは知っているか。単なるものは折れやすく、衆は摧き難い。力を合わせ心を一つにすれば、その後 社稷 は固く保たれる。」言い終わって死んだ。兄の子の慕璝が立った。
先に阿豺の時、劉義隆の命はついに届かぬうちに死んだが、慕璝はまた表を奉じて義隆に通じ、義隆はまた隴西公に授けた。慕璝は秦・涼の亡業の人および羌戎雑夷の衆を招集して五六百落に至り、南は蜀漢に通じ、北は涼州・ 赫連 と交わり、部衆は次第に盛んとなった。
世祖(太武帝)の時、慕璝は初めてその侍郎の謝大寧を遣わして表を奉じて帰国し、まもなく赫連定を討ち捕らえて、これを京師に送った。世祖はこれを嘉し、使者を遣わして策を下し、慕璝を大将軍・西秦王に拝した。慕璝は上表して言う、「臣は誠に庸弱ではありますが、敢えて情款を尽くし、僭逆を俘禽して、王府に捷を献じました。爵秩は崇くはなりましたが、土地は増え広がらず、車旗は飾られましたが、財貨は賞に周りません。どうか垂れ鑑察され、その単款(誠実な心情)を明らかにしてください。臣は近ごろ寇逆に接し、疆境の人は賊に掠われ、流転して東下しました。今、皇化が混一されましたので、郷土に還ることを求めます。乞佛日連・窟略寒・張華ら三人の家弱がここにおりますが、分かれて離れているのは憐れむべきです。どうか併せて勅を下し使者を遣わされ、恩沢が遐荒にまで行き渡り、存亡ともに感戴いたします。」
世祖は詔して公卿を朝会に集め、議して答えて施行させた。 太尉 の長孫嵩および議郎・博士二百七十九人が議して言うには、「以前、有司が処置として、秦王は荒外の君であり、本来政教の及ぶところではなく、来ればこれを受け、去れば禁じないものとした。皇威が遠く被わり、西秦王は義に慕い威を畏れ、臣を称し貢を納め、爵号を受けることを求めた。議者は、古来、要荒の君は、人土が衆広であっても、爵は華夏に擬することはないと考えた。陛下は王官に寵を加え、常分を越え、車旗を容飾し、班列を上国と同じくされた。繒絮の多少については、旧典にはなく、皆臨時に制して豊かさ寡さを定めるべきである。漢魏以来、荒遐を撫接するには、かなり故事がある。呂后が単于に御車二乗・馬二駟を遺し、単于は馬千匹で答えた。その後、 匈奴 と和親し、敵国が繒絮を遺すのは数百を過ぎず、呼韓邪が臣を称し、身自ら入朝した時、初めて万匹に至った。今、西秦王がもし土に桑蠶がないなら、便ち上請すべきであり、『財不周賞』と言うべきではない。昔、周室が衰微し、齊侯の小白が天下を一匡した時、胙を賜う命はあっても、益土の賞はなかった。 晉 侯の重耳が楚を城濮で破った時、唯だ南陽の田を受けて朝宿の邑としただけである。西秦の致すところは、唯だ定(赫連定)を送っただけである。塞外の人は、時により便に乗じて、秦・涼に侵入したのであって、経略して境を拓いた勲はなく、爵は上国に登り、秦・涼・河・沙の四州の地を統べながら、『土不増廓』と言う。聖朝を弱き周になぞらえ、自らを五覇に同ずるとは、飽くことなき情、その極まることあろうか。西秦王の朝廷に対する忠款を考え、その本情を推し量れば、必ずやここに至ることはない。あるいは左右の者が聡明でなく、これによってこの累(過失)を致したのであろう。西秦の流人で賊の時に掠われた者を調べると、皆蒲坂におります。今、既に藩を称し、四海は皆泰平であり、天下一家です。秦州に勅して京師に送らせ、その後、遣還させればよい。請うところの乞佛ら三人は、昔、賓国の使として王庭に来た者であり、国が破れ家が遷れば、即ち臣妾となります。聴許する必要はありません。」制して言うには、「公卿の議は、体を失っていない。西秦王の収めたる金城・枹罕・隴西の地は、彼が自ら取ったものであり、朕が即ちこれを与えたのは、便ち裂土である。どうしてまた廓(拡大)する必要があろうか。西秦の款(誠意)が至れば、綿絹は使者の疏数(頻度)に随ってこれを増益する。一匹だけではない。」これより慕璝の貢献は甚だ簡略となり、また劉義隆に通じ、義隆はこれを隴西王に封じた。
太延二年(436年)、慕璝が死去し、弟の慕利延が立つ。詔を下して使者を派遣し、慕璝に策諡して恵王と曰う。後に慕利延を鎮西大将軍・儀同三司に拝し、西平王に改封する。慕璝の子元緒を撫軍将軍とした。時に慕利延はまた劉義隆(宋の文帝)に通じ、義隆は彼を河南王に封じた。世祖(太武帝)が涼州を征すると、慕利延は懼れ、遂にその部人を率いて西に沙漠へ遁走した。世祖は慕利延の兄(慕璝)が赫連定を擒らえた功績があることを以て、使者を遣わしてこれを宣諭すると、乃ち還った。後に慕利延は使者を遣わして表を奉り謝し、上奏されると、乃ち詔を下してこれを褒賞した。慕利延の兄の子緯代は慕利延が己を害することを懼れ、使者と謀り帰国しようとしたが、慕利延はこれを察知して殺した。緯代の弟叱力延ら八人が京師に逃げ帰り、兵を請うて慕利延を討たんとした。世祖は叱力延を帰義王に拝し、詔して晋王伏羅に諸将を率いてこれを討たしめた。軍が大母橋に至ると、慕利延の兄の子拾寅は河西に走り、伏羅は将を遣わしてこれを追撃し、五千余級を斬首した。慕利延は白蘭に走った。慕利延の従弟伏念・長史䳕鳩黎・部大崇娥らが衆一万三千落を率いて帰降した。後にまた征西将軍・高涼王那らを遣わして白蘭においてこれを討たしめると、慕利延は遂に于闐国に入り、その王を殺し、死者数万人に及んだ。南征して罽賓を討つ。使者を遣わして劉義隆に通じ援を求め、烏丸帽・女国金酒器・胡王金釧等の物を献じ、義隆はこれに牽車を賜った。七年(441年)、遂に旧土に還る。
慕利延が死ぬと、樹洛干の子拾寅が立ち、始めて伏羅川に邑を構え、その居止出入はひそかに王者に擬す。拾寅は貢職を奉修し、朝廷の正朔を受け、また劉義隆の封爵を受け、号して河南王と為す。世祖は使者を遣わして鎮西大将軍・沙州刺史・西平王に拝した。後に拾寅は険遠を恃み、頗る命に恭しからず、劉彧(宋の明帝)に使いを通じ、善馬・四角羊を献じ、彧はこれに官号を加えた。高宗(文成帝)の時、定陽侯曹安が表して曰く、拾寅は今白蘭を保ち、多く金銀牛馬あり、若しこれを撃てば、大いに獲るべしと。議する者皆、先帝が拾寅兄弟の和せざるを忿り、晋王伏羅・高涼王那をして再征せしめ、竟に克つ能わざりしを以て、拾寅は復た遠遁すと雖も、軍も亦疲労せり。今白蘭に在りて、王塞を犯さず、人の患と為さず、国家の急と為す所に非ず。若し使者を遣わして招慰せば、必ず臣妾たらんことを求め、労せずして定むべし。王者の四荒に対するは、羈縻するのみ、何ぞ必ずしもその国を屠りその地を有たんやと。安曰く、「臣昔者澆河の戍将たりし時、これに相近くし、その意勢を明らかにす。若し軍を分かちてその左右に出でば、拾寅必ず南山に走り保たん。十日を過ぎずして、牛馬草尽き、人食う所無く、衆必ず潰叛すべし。一挙にして定むべし」と。これに従い、詔して陽平王新成・建安王穆六頭らに南道より出で、南郡公李惠・給事中公孫抜及び安に北道より出でてこれを討たしむ。拾寅は南山に走り、諸軍は河を渡ってこれを追う。時に軍多く病み、諸将議して曰く、賊既に遠遁し、軍容已に振う。今疲病の卒を駆りて、難きを要する功を冀うは、亦過ちならずやと。衆以て然りと為し、乃ち引き還る。駝馬二十余万を獲たり。顕祖(献文帝)復た詔して上党王長孫観らに州郡の兵を率いて拾寅を討たしむ。軍曼頭山に至り、拾寅来たりて逆戦す。観ら兵を縦してこれを撃ち破り、拾寅は夜遁す。ここにおいて思い悔い、復た藩職を修め、別駕康盤龍を遣わして表を奉り朝貢す。顕祖はこれを幽し、その使に報いず。拾寅の部落大いに饑え、屡々澆河を寇す。詔して平西将軍・広川公皮歓喜に敦煌・枹罕・高平諸軍を率いて前鋒と為し、 司空 ・上党王長孫観を大 都督 としてこれを討たしむ。観ら軍拾寅の境に入り、その秋稼を芻う。拾寅窘怖し、子を遣わして軍に詣り、表して改過を求む。観ら以て聞く。顕祖は将士を重ねて労するを以て、乃ち詔を下してこれを切責し、その任子を徴す。拾寅は子斤を遣わして入侍せしむ。顕祖尋いで斤を還し遣わす。拾寅後復た辺人を擾掠し、その将良利を遣わして洮陽・枹罕の統ぶる所を守らしむ。枹罕鎮将・西郡公楊鍾葵、拾寅に書を貽してこれを責む。拾寅表して曰く、「詔を奉りて臣に旧土に還るを聴く。故に良利を遣わして洮陽を守らしむ。若し前恩を追わずば、令して洮陽にその土物を貢せしめんことを求む」と。辞旨懇切なり。顕祖これを許す。ここより歳ごとに職貢を修む。
太和五年(481年)、拾寅が死に、子の度易侯が立つ。その侍郎時真を遣わして方物を貢ぎ、表を提上して嗣事を称す。後に度易侯が宕昌を伐つ。詔してこれを譲り、錦綵一百二十匹を賜い、悛改を令するを諭す。掠めたる宕昌の口累は部をして時に送り還らしむ。易侯並びに詔を奉ず。死す。子の伏連籌が立つ。高祖(孝文帝)は入朝せしめんと欲す。表して疾病を称し、輒ち洮陽・泥和城を修めて戍を置く。文明太后崩ず。人をして凶を告げしむ。伏連籌、命を拝するに恭しからず。有司伐つことを請う。高祖許さず。群臣、その詔を受くるに敬せざるを以て、献ずる所を納むべからずとす。高祖曰く、「拝受礼を失うは、乃ち告責を加うべし。献ずる所の土毛は、乃是れ臣の常道なり。献ずる所を杜棄するは、便ち是れこれを絶つなり。縦え改悔せんと欲すとも、その路無からん」と。詔して曰く、「朕哀疚の中に在りて、未だ征討有らず。而して去春枹罕の表、その洮陽・泥和の二戍を取る。時にこれ既に辺将の常と為すを以て、即ち便ち聴許す。及び偏師致討するに及び、二戍風に望んで請降し、訊を執ること二千余人、又婦女九百口を得たり。子婦は悉くこれを還すべし」と。伏連籌乃ち世子賀魯頭を遣わして京師に朝せしむ。礼錫加うる有り。伏連籌を使持節・ 都督 西垂諸軍事・征西将軍・領護西戎中郎将・西海郡開国公・吐谷渾王に拝し、麾旗章綬の飾り皆備え給う。後に兼員外 散騎常侍 張礼を遣わして伏連籌に使せしむ。伏連籌礼に謂いて曰く、「昔宕昌と通和し、恒に大王と称せられ、己れは則ち自ら名のる。今忽ち僕と名のりてこの使を拘執す。将に命じて偏師を往かせてその意を問わんとす」と。礼曰く、「君と宕昌と並びに魏の藩と為り、而して比来輒ち興動有り、殊に臣節に違う。発するの日、宰輔以て為く、君若し反迷して罪を知らば、則ち克く藩業を保ち、脱し愚を守りて改めざれば、則ち禍難将に至らんと。伏連籌遂に黙然たり。及び高祖崩ず。使を遣わして哀に赴き、その誠敬を尽くす。
伏連籌は内に職貢を修め、外に戎狄を併せ、塞表の中、強富と号せらる。天朝に準擬し、官司を樹置し、諸国に制を称して、以て自ら誇大す。世宗(宣武帝)の初め、詔してこれを責めて曰く、「梁州の表、卿の報ずる宕昌への書を送る。梁弥邕と卿と並びに辺附と為り、その国を語れば則ち隣藩、その位を論ずれば則ち同列なり。而して書を称して表と為し、名けて報ずるを旨と為す。有司国に常刑有るを以て、殷勤に討を請う。朕険遠多く虞有るを慮い、軽々しく相構惑するを以て、故に先ずこの意を宣ぶ。善く三思せよ」と。伏連籌上表自ら申し、辞誠懇至なり。世宗の世より正光に至るまで終わり、犛牛蜀馬及び西南の珍、歳として至らざる無し。
後に秦州城人莫折念生反す。河西路絶つ。涼州城人万于菩提ら東に応じて念生に応じ、刺史宋穎を囚う。穎密かに伏連籌に援を求む。伏連籌親しく大衆を率いてこれを救い、遂に保全を獲たり。爾より以後、関徼通ぜず、貢献路絶つ。
伏連籌が死ぬと、子の夸呂が立ち、初めて自ら可汗と号し、伏俟城に居住した。この城は青海の西十五里にあり、城郭はあるが居住せず、常に穹廬に住み、水草に従って畜牧した。その地は東西三千里、南北千余里である。官には王公・ 僕射 ・尚書および郎将・将軍の称号があった。夸呂は椎髻に毦珠を飾り、皂を以て帽とし、金師子牀に坐した。その妻を「恪尊」と号し、織成の裙を衣、錦の大袍を披き、辮髮を後に垂れ、首に金花冠を戴いた。その習俗は、丈夫の衣服は略々華夏と同じく、多くは羅冪を以て冠とし、また繒を以て帽とする。婦人は皆珠貝を貫き、髪を束ね、多いことを貴んだ。兵器には弓・刀・甲・矟がある。国には常賦がなく、必要があれば富室・商人に税を課して用を充てた。その刑罰は、人を殺し及び馬を盗む者は死罪とし、その他は物を徴収して罪を贖わせ、また事の軽重を量って杖罰を決する。刑人には必ず氈で頭を蒙り、石を持って高所からこれを撃つ。父兄が死ねば、後母及び嫂などを妻とするのは、突厥の習俗と同じである。婚姻に至っては、貧しくて財を備えられない者は、しばしば女を盗んで去る。死者も皆埋葬する。その服制は、葬儀が終われば除く。性質は貪婪で、殺害に忍び、射猟を好み、肉・酪を糧食とする。また田を耕すことを知り、大麦・粟・豆を栽培するが、その北界は気候が寒く、ただ蕪菁・大麦を得るのみである。故にその習俗は貧多く富少ない。青海は周囲千余里で、海中に小山があり、毎冬氷が結んだ後、良牝馬をこの山に置き、来春にこれを収めると、馬は皆孕み、生まれる駒は龍種と号し、必ず多く駿異である。吐谷渾がかつて波斯の草馬を得て、海に放ったところ、驄駒が生まれ、一日に千里を行くことができた。世に伝える青海驄はこれである。土産には犛牛・馬があり、鸚鵡が多く、銅・鉄・朱沙に富む。地は鄯善・且末を兼ねる。
興和年間、斉の献武王が宰相となり、荒遠の地を招き懐かせると、 蠕蠕 が既に国に帰附したので、夸呂は使者を遣わして敬意を表した。献武王は大義を説き、その朝貢を求めた。夸呂は使者の人趙吐骨真を遣わし、蠕蠕を経由して頻繁に来朝させ、また従妹を薦めたので、静帝はこれを納れて嬪とした。員外 散騎常侍 傅靈㯹を遣わしてその国に使わした。夸呂はまた婚姻を請うたので、済南王匡の孫娘を広楽公主として妻とさせた。この後、朝貢は絶えなかった。
吐谷渾の北に乙弗勿敵国がある。習俗・風俗は吐谷渾と同じである。五穀を知らず、ただ魚及び蘇子を食う。蘇子の形状は中国の苟𣏌子のようである。
北にまた阿蘭国がある。鳥獣と同じく、戦闘を知らず、異人を見ると、挙国して走る。土地には産物がなく、大いに群畜を養う。体が軽く走ることに巧みで、これを追っても得られない。
北にまた女王国がある。女を以て主とし、人の至らない所で、その伝承はこう言う。
宕昌羌
宕昌羌とは、その祖先は三苗の胤であり、周の時に庸・蜀・微・盧などの八国と共に武王に従って商を滅ぼした。漢には先零・焼当などがあり、代々辺境の患いとなった。その地は東は中華に接し、西は西域に通じ、南北数千里である。姓別に自ら部落をなし、酋帥は皆土地の分け前を持ち、互いに統轄しない。宕昌はその一つである。習俗は皆土着で、居住には屋宇があり、その屋は犛牛の尾及び羖羊の毛を織って覆う。国には法令がなく、また徭役・賦税もない。ただ戦伐の時のみ、互いに屯聚し、そうでなければ各々生業に従い、互いに往来しない。皆裘褐を衣る。犛牛・羊・豕を牧養してその食を供える。父子・伯叔・兄弟が死ねば、即ち継母・世叔母及び嫂・弟婦などを妻とする。習俗に文字がなく、ただ草木の栄枯を候って、その歳時を記す。三年に一度集まり、牛・羊を殺して天を祭る。
梁懃という者がおり、代々酋帥となり、羌の豪族の心を得て、自ら王と称した。懃の孫の弥忽は、世祖の初めに、子の弥黄を遣わして表を奉り内附を求めた。世祖はこれを嘉し、使者を遣わして弥忽を宕昌王に拝し、弥黄に甘松侯の爵を賜った。弥忽が死ぬと、孫の虎子が立った。その地は仇池以西、東西千里、席水以南、南北八百里で、地には山阜が多く、人二万余落である。代々職貢を修めたが、しばしば吐谷渾によって断絶された。虎子が死ぬと、弥治が立った。虎子の弟の羊子は先に吐谷渾に奔り、吐谷渾は兵を遣わして羊子を送り、弥治の位を奪おうとした。弥治は使者を遣わして救援を請うたので、顕祖は武都鎮将の宇文生にこれを救わせ、羊子は退走した。弥治が死ぬと、子の弥機が立ち、その司馬の利住を遣わして表を奉り方物を貢いだ。楊文度の叛き、武都を囲んだ時、弥機はその二兄を遣わして衆を率い武都を救い、文度を破って走らせた。高祖の時、使者の子橋を遣わして表を奉り朱沙・雌黄・白石胆を各百斤貢いだ。この後、毎年これを常とし、朝貢が相継いだ。後に高祖は鴻臚の劉帰・謁者の張察を遣わし、弥機を征南大将軍・西戎 校尉 ・梁益二州牧・河南公・宕昌王に拝した。後に京師に朝したが、全く礼儀がなかった。朝罷の後、高祖は左右を顧みて言った、「『夷狄に君ありとも、諸夏の亡きに如かず』。宕昌王は辺方の主ではあるが、中国の一吏にも及ばない」。そこで領護西戎 校尉 ・霊州刺史に改めて授け、王は元のままとし、車騎・戎馬・錦綵などを賜って国に還らせた。
高昌
高昌とは、車師前王の故地で、漢の前部の地である。東西二千里、南北五百里、四面は大山が多い。あるいは言う、昔、漢の武帝が兵を遣わして西討した時、師旅がその中で疲弊し、特に困窮した者が住み着いたという。地勢が高く開け、人庶が昌盛であったので、「高昌」と言うようになった。また、その地に漢の時の高昌塁があるので、国号としたとも言う。東は 長安 から四千九百里離れ、漢の西域長史・戊己 校尉 は共にここに居住した。晋はその地を高昌郡とし、張軌・呂光・沮渠蒙遜が河西を占拠した時は、皆太守を置いてこれを統治した。敦煌から十三日の行程である。国に八城があり、皆華人がいる。地には石磧が多い。気候は温暖で、その土は良く肥沃であり、穀麦は一年に二度熟し、蚕に適し、五果が多く、また漆に富む。羊刺という草があり、その上に蜜が生じて味が甚だ佳い。水を引いて田を灌漑する。赤塩を産し、その味は甚だ美しい。また白塩があり、その形は玉のようで、高昌人はこれを取って枕とし、中国に貢いだ。葡萄酒が多い。習俗は天神を祀り、兼ねて仏法を信じる。国中の羊馬は、寇を避けるために隠僻な所に牧し、貴人でなければその場所を知らない。北に赤石山がある。七十里に貪汗山があり、夏に積雪があり、この山の北は鉄勒の境界である。
世祖の時、闞爽という者がおり、自ら高昌太守となった。太延年間、散騎侍郎の王恩生らを遣わして高昌に使わしたが、蠕蠕に捕らえられた。真君年間、爽は沮渠無諱に襲撃され、奪い取られた。無諱が死ぬと、弟の安周が代わって立ち、和平元年、蠕蠕に併合された。蠕蠕は闞伯周を高昌王とした。その王と称するのはこれから始まる。太和の初め、伯周が死ぬと、子の義成が立ったが、一年余りで、その兄の首帰に殺され、首帰が自ら高昌王となった。
五年(506年)、 高車 王可至羅が首帰兄弟を殺害し、敦煌の人張孟明を王とした。後に国人に殺され、馬儒を立てて王とし、鞏顧礼・麴嘉を左右長史とした。二十一年(522年)、司馬王体玄を遣わして表を奉じて朝貢し、軍を派遣して迎えを請い、挙国を内遷させたいと求めた。高祖(宣武帝)はこれを容れ、明威将軍韓安保に千余騎を率いて赴かせ、伊吾の五百里を割き、馬儒をそこに居住させようとした。羊榛水に至り、馬儒は顧礼・麴嘉に歩騎一千五百を率いて韓安保を迎えさせたが、高昌から四百里のところで韓安保は到着しなかった。顧礼らは高昌に戻り、韓安保も伊吾に帰還した。韓安保は使者韓興安ら十二人を高昌に遣わし、馬儒はまた顧礼にその世子義舒を率いさせて韓安保を迎えさせた。白棘城に至り、高昌から百六十里のところで、高昌の旧人らは故郷を恋しみ、東遷を望まず、共謀して馬儒を殺し、麴嘉を立てて王とした。
麴嘉は字を霊鳳といい、金城郡榆中県の人である。即位すると、また蠕蠕( 柔然 )の那蓋に臣従した。顧礼と義舒は韓安保に従って 洛陽 に至った。蠕蠕の主伏図が高車に殺害されると、麴嘉はまた高車に臣従した。初め、前部(車師前国)の胡人は悉く高車に移住させられ、焉耆に入ったが、焉耆はまた嚈噠に破られ滅亡し、国人は分散し、衆は自立できず、麴嘉に王を請うた。麴嘉は第二子を焉耆王として派遣し、これを統治させた。永平元年(508年)、麴嘉は兄の子で私署の左衛将軍・田地太守である麴孝亮を京師に朝貢させ、なおも内遷を求め、軍を派遣して迎え援護することを請うた。そこで龍驤将軍孟威を遣わし涼州兵三千人を発してこれを迎えさせたが、伊吾に至り、期日に遅れて帰還した。その後十余回にわたり使者を遣わし、珠像・白黒の貂裘・名馬・塩枕などを献上し、誠意を尽くしたが、朝廷は優れた詔勅を賜るのみで、ついに再び迎えには向かわなかった。三年(510年)、麴嘉は使者を遣わして朝貢し、世宗(宣武帝)はまた孟威を遣わして詔を賜り労った。延昌年間(512-515年)、麴嘉を持節・平西将軍・瓜州刺史・泰臨県開国伯に任じ、私署の王は従前の通りとした。熙平初年(516年)、使者を遣わして朝献した。詔して曰く、「卿の地は関山に隔てられ、境は荒漠に接し、頻りに朝廷の援けを請い、国を挙げて内遷せんとす。その来誠は嘉すべしと雖も、即ち理に於いて未だ妥ならず。何となれば、彼の氓庶は、これ漢魏の遺黎にして、晋氏の綱紀なきより、艱難に因り播越し、家を成し国を立て、世を積むこと已久し。徒るを悪み遷るを重んじ、人は恋旧を懐く。今若し之を動かさば、恐らくは異同の変、爰に肘腋に在りて、便ち来表の如くには得ざるべし」。神亀元年(518年)冬、麴孝亮が再び上表して内遷の援けを求めたが、朝廷は許さなかった。正光元年(520年)、粛宗(孝明帝)は仮の員外将軍趙義らを麴嘉のもとに遣わした。麴嘉の朝貢は絶えなかった。また使者を遣わして表を奉り、辺境の遠方にあり典誥に習熟しないことを理由に、五経・諸史の借用を求め、併せて国子助教劉変を博士として派遣してくれるよう請うた。粛宗はこれを許した。
麴嘉が死ぬと、鎮西将軍・涼州刺史を追贈され、子の麴堅が立った。その後、関中に賊乱が起こり、使者の往来は遂に絶えた。普泰初年(531年)、麴堅は使者を遣わして朝貢し、平西将軍・瓜州刺史・泰臨県伯に任じられ、王は従前の通りとされ、さらに衛将軍を加えられた。永熙年間(532-534年)に至り、特に儀同三司を授けられ、郡公に進封された。後に遂に隔絶した。
鄧至
鄧至とは、白水羌のことであり、代々羌の豪族として、地名を号とし、自ら鄧至と称した。その地は亭街より東、平武より西、汶嶺より北、宕昌より南である。風土習俗も宕昌と同じである。その王像舒治が使者を遣わして内附し、高祖(孝文帝)は龍驤将軍・鄧至王に任じ、朝貢は絶えなかった。
鄧至の西に赫羊など二十国があり、時に使者を遣わして朝貢し、朝廷は皆これに雑号将軍・子男・渠帥の名を授けた。
蛮
蛮の種類は、蓋し盤瓠の後裔であり、その由来は久しい。習俗として叛服を繰り返すことは、前史に詳しい。江淮の間に在り、険阻な地に依拠し、部落は蔓延り、数州に分布し、東は寿春に連なり、西は上洛に通じ、北は汝潁に接し、往々にして存在した。魏氏の時代には、甚だ患いとはならなかったが、晋の末に至り、次第に繁昌し、漸く寇暴となるようになった。劉石の乱後より、諸蛮は忌憚する所なく、故にその族類は次第に北遷し、陸渾以南、山谷に満ち、宛洛は蕭条として、略々丘墟のようになった。
太祖(道武帝)が中山を平定した後、声教は河表に及んだ。泰常八年(423年)、蛮王梅安が渠帥数千を率いて京師に朝し、留め置きの質子を求めて忠誠を示した。始光年間(424-428年)、梅安の侍子(人質として仕えた子)の梅豹を安遠将軍・江州刺史・順陽公に任じた。興光年間(454年)、蛮王文竜武が降伏を請うた。詔してこれを褒め慰め、南雍州刺史・魯陽侯に任じた。
延興年間(471-476年)、大陽蛮の酋長桓誕が沔水以北、滍水・葉県以南の八万余落を擁し、使者を遣わして内属した。高祖(孝文帝)はこれを嘉し、桓誕を征南将軍・東荊州刺史・襄陽王に任じ、自ら郡県を選ぶことを許した。桓誕は字を天生といい、桓玄の子である。初め桓玄が西奔して枚回洲に至り、殺害された時、桓誕は数歳で、大陽蛮の中に流れ逃れ、遂にその習俗に慣れた。成長すると、智謀多く、群蛮の帰するところとなった。桓誕が内属した後、朗陵に治めた。太和四年(480年)、王師が南伐すると、桓誕は先鋒となることを請い、そこで使持節・南征西道大 都督 を授けられ、義陽を討ったが、成果なく帰還した。十年(486年)、潁陽に移住した。十六年(492年)、例により王から公に降格された。十七年(493年)、征南将軍・中道大 都督 を加えられ、竟陵を征討しようとしたが、遷都洛陽に遇い、出兵は停止した。この時、蕭賾(南斉の武帝)の征虜将軍・直閤将軍である蛮酋の田益宗が部曲四千余戸を率いて内属した。襄陽の酋長雷婆思ら十一人が千余戸を率いて内徙し、大和川に居住することを求め、詔して食糧を給与した。後に南陽を開拓し、沔北の地を領有させた。蛮人は安堵し、寇賊とはならなかった。十八年(494年)、桓誕が入朝し、賞遇は厚かった。卒去し、諡して剛といった。子の桓暉は字を道進といい、位は龍驤将軍・東荊州刺史となり、爵を襲った。
景明初年(500年)、大陽蛮の酋長田育丘ら二万八千戸が内附し、詔して四郡十八県を設置した。桓暉が卒去すると、冠軍将軍を追贈した。三年(502年)、魯陽蛮の魯北鷰らが衆を聚めて潁川を攻め逼った。詔して左衛将軍李崇に討伐平定させ、一万余家を河北諸州及び六鎮に移住させた。間もなく叛いて南走し、所在で追討し、河に至るまでに皆殺し尽くした。四年(503年)、東荊州蛮の樊素安が反逆し、帝号を僭称した。正始元年(504年)、樊素安の弟の樊秀安がまた反逆し、李崇・楊大眼が悉く討伐平定した。二年(505年)、蕭衍の沔東太守田清喜が七郡三十一県、一万九千戸を擁し、使者を遣わして内附し、師を請うて蕭衍を討たんことを求めた。その雍州以東、石城以西五百余里の水陸の援路を、自ら部曲を率いて断つことを請うた。四年(507年)、蕭衍の永寧太守文雲生が六部を率いて漢東より使者を遣わし帰附した。
永平(508–512)の初め、東荊州が上表して言うには、囗囗太守桓叔興が前後して大陽蛮を招き慰撫し、帰順した者が一万七百戸に及ぶので、十六郡・五十県を設置することを請うた。詔して前鎮東府長史酈道元に検行させてこれを置かせた。叔興はすなわち桓暉の弟である。延昌元年(512)、南荊州刺史に拝され、安昌に駐屯し、東荊州に隷属した。三年(513)、蕭衍が兵を遣わして江沔を討ち、諸蛮を破り掠め、百姓は動揺した。蛮は自ら督率し二万余人となり、しばしば統帥を請い、声勢と為さんとした。叔興は一統(の称号)と威儀を与え、彼らのために節度し、蛮人はついに安堵した。その年、蕭衍の雍州刺史蕭藻がその将蔡令孫ら三将を遣わして南荊州の西南を寇し、襄沔の上下に沿って諸蛮を破り掠めた。蛮の酋長で蕭衍の龍驤将軍楚石廉が蕭衍に叛いて来援を請うたので、叔興は石廉とともに蛮・夏二万余りを督集してこれを撃退し、令孫ら三将を斬った。蕭藻はまたその新陽太守邵道林を遣わし、沔水の南、石城の東北に清水戍を立て、抄掠の拠点とした。叔興は諸蛮を遣わしてこれを撃破した。四年(514)、叔興は上表して東荊州に隷属しないことを請い、許された。蕭衍が寇抄するたびに、叔興は必ずこれを摧破した。
正光(520–525)の中頃、叔興は配下を擁して南に叛いた。蛮の首長成龍強が数千戸を率いて内附し、刺史に拝された。蛮の帥田午生が二千戸を率いて揚州に内徙し、郡守に拝された。蕭衍の義州刺史・辺城王文僧明、鉄騎将軍・辺城太守田官徳らが一万余戸を率いて州を挙げて内属し、僧明を平南将軍・西 豫 州刺史に拝し、開封侯に封じ、官徳を龍驤将軍・義州刺史とした。その他も封授にそれぞれ差等があった。僧明・官徳はともに朝廷に入朝し、蛮は山を出て辺城・建安に至る者が八九千戸あった。義州はまもなく蕭衍の将裴邃によって陥落された。蕭衍の定州刺史田超秀もまた使者を遣わして帰附を求め、累年にわたり援軍を請うたが、朝廷は軽々しく辺境の戦役を招くことを恐れ、これを許さなかった。ちょうど超秀が死に、その部曲が相率いて内附し、六鎮・秦隴に移されたが、移された先で反乱を起こした。二荊・西郢では、蛮が大いに騒動し、三鵶路を断ち、 都督 を殺し、寇盗は襄城・汝水にまで及び、百姓は多くその害を受けた。蕭衍は将を遣わして広陵を包囲し、樊城の諸蛮はともに前駆となり、汝水以南では、いたるところで鈔劫し、暴掠をほしいままにした。連年攻討したが、散じてはまた合し、その暴虐はますます甚だしくなった。
また冉氏・向氏という者がおり、村落が特に盛んで、その他は大きいものは一万家、小さいものは千戸あり、互いに崇僭し、王侯を称し、三峡を屯拠し、水路を断ち遮り、荊・蜀の行く人には道を借りる者さえあった。
獠
獠とは、南蛮の別種であり、漢中から邛崍・笮都の川洞の間に至るまで、所在するところ全てにいる。種類は甚だ多く、山谷に散居し、氏族の別はほとんどない。また名前もなく、生まれた男女は、ただ長幼の順序によって呼ぶ。その男子は阿謩・阿段と称し、婦人は阿夷・阿等の類いであり、皆言葉の順序による称謂である。樹に依り木を積み重ね、その上に居住し、これを「干蘭」と名づける。干蘭の大小は、その家の人口の数に従う。しばしば一人の長者を推して王と為すが、遠くまで統轄することはできない。父が死ねば子が継ぎ、中国の貴族のようである。獠王はそれぞれ鼓角一対を持ち、その子弟に自ら吹き打たせる。互いに殺害することを好み、多くは遠くへ行くことを敢えてしない。水底に臥し、刀を持って魚を刺すことができる。口で食物を噛み、また鼻で飲む。死者は棺を立てて埋める。性質は禽獣と同じで、忿怒に至れば、父子であっても互いに避けず、ただ手に兵刃を持つ者を先に殺す。もしその父を殺したならば、逃げ去り、一匹の狗を求めてその母に謝罪する。母が狗の謝罪を得れば、再び恨み嫌うことはない。もし怨みを報いて互いに攻撃するならば、必ず殺して食べる。平常は劫掠し、猪や狗を売り取るだけである。親戚や隣人を、指さして授け合って売り、売られた者は号泣して服従せず、逃げ隠れするので、買い手が捕らえ追いかけ、逃亡・反逆者のように指さす。捕らえれば縛り上げる。一旦縛られた者は、即ち賤隷として服従し、良民と称することを敢えてしない。児女を亡くしても、一哭して止み、再び追い思うことはない。ただ盾を執り矛を持ち、弓矢は識らない。竹を用いて簧と為し、群れ集まってこれを打ち鳴らし、音節と為す。細布を織ることができ、色は極めて鮮やかで清浄である。大狗一頭で、生口(奴隷)一人を買う。その習俗は鬼神を畏れ、特に淫祀を尚ぶ。殺した人で、美しい鬢髯のある者は必ずその面皮を剥ぎ、竹籠に入れ、乾燥したならば、これを「鬼」と号し、鼓舞して祀り、福利を求める。兄弟や妻子奴隷を売り尽くす者さえあり、自ら売って供祭に充てる。銅を鋳て器と為し、大口で腹の広いものを「銅爨」と名づけ、薄くかつ軽く、食物を煮るのに容易である。
建国(338–376)の中頃、李勢が蜀に在った時、諸獠が初めて巴西・渠川・広漢・陽安・資中から出て、郡県を攻め破り、益州の大患となった。李勢は内外敵を受けたため、滅亡したのである。桓温が蜀を破った後は、力をもって制することができず、また蜀人が東流したため、山険の地は多く空き、獠は遂に山に挟まれ谷に沿って居住した。夏人と雑居する者はかなり租賦を納めたが、深山にいる者は依然として編戸とはならなかった。蕭衍の梁・益二州は歳々獠を伐ち、自らを裨益潤沢し、公私ともにこれを利とすることに頼った。
正始(504–508)の中頃、夏侯道遷が漢中を挙げて内附し、世宗(宣武帝)は尚書邢巒を梁益二州刺史として遣わしこれを鎮撫させた。夏人に近い者は安堵して楽業し、山谷にいる者は寇すことを敢えてしなかった。後に羊祉を梁州と為し、傅豎眼を益州と為した。羊祉は性質酷虐で、物情を得られなかった。蕭衍の輔国将軍范季旭が獠王趙清荊とともに衆を率いて孝子谷に屯したので、羊祉は統軍魏胡を遣わしてこれを撃退した。後に蕭衍の寧朔将軍姜白が再び夷獠を擁して南城に入屯し、梁州人の王法慶がこれと通謀し、衆は固門川に屯したので、羊祉は征虜将軍囗囗を遣わして討ち破った。傅豎眼は恩を施し信を布き、大いに獠の和を得た。後に元法僧が傅豎眼に代わって益州となったが、法僧は任にあって貪残であり、獠は遂に反叛し、蕭衍の軍を勾引して晋寿を包囲逼迫した。朝廷はこれを憂い、豎眼が先に物情を得ていたので、再び駅伝に乗って往き撫することを命じた。獠は豎眼の到着を聞き、欣びない者はなく、道で拝迎し、ここにおいて平定した。元恒・元子真が相継いで梁州となったが、ともに徳績がなく、諸獠はこれに苦しんだ。
その後、朝廷は梁州と益州が険阻で遠方を統制することを鑑み、巴州を立てて諸獠を統べさせ、後に巴の酋長厳始欣を刺史とした。また隆城鎮を立て、これに管轄される獠は二十万戸に及び、彼らは北獠と呼ばれ、毎年租布を納め、また外部の人々と交通貿易を行った。巴州の生獠は皆従順ではなく、その諸頭王は時節ごとに刺史を謁見するのみであった。孝昌の初め、諸獠は始欣の貪欲で暴虐な行いを理由に相次いで反乱を起こし、巴州を攻囲した。山南行臺が慰撫して諭すと、即時に解散して引き上げた。これ以降、獠の諸頭王が相次いで行臺に詣でる者が続き、子建は手厚く労って褒美を与えた。始欣は中国に多難があるのを見て、また彼らの心を失い、罪を責められることを憂慮した。時に蕭衍の南梁州刺史陰子春が辺境を扇動し惑わしていたので、始欣は南へ叛こうと謀った。始欣の族子の愷は当時隆城鎮将であり、密かにこれを知り、厳しく斥候を配置した。そこで蕭衍の使者を捕らえ、併せて始欣への詔書、鉄券、刀剣、衣冠の類を封じて、行臺に上表して送った。子建は鎮を南梁州とし、愷を刺史とすることを上奏し、使者を発して始欣を捕らえ、南鄭に囚禁した。子建が交代するに当たり、梁州刺史傅豎眼が引き続き行臺となった。豎眼は長く病んでおり、その子の敬紹が始欣からの多額の賄賂を受け取ったため、始欣は州に戻ることができた。始欣はそこで兵を起こして愷を攻撃し、これを屠滅して城を占拠し南へ叛き、蕭衍の将軍蕭玩が兵を率いて援護した。時に梁州と益州は共に将を遣わしてこれを討ち、巴州を陥落させ、始欣を捕らえ、遂に蕭玩の軍を大破した。そして蕭玩を斬り、傅曇表を刺史とした。後に元羅が梁州に在ったが、その地は陥落し、これ以降は遂に絶えた。
【論】
史臣が曰く、氐、羌、蠻、獠は、風俗がそれぞれ異なり、嗜欲も同じではなく、言語も通じない。聖人は時に応じて教えを設け、その志を達しその俗を通じさせる所以である。しかしながら、外に寧んずれば必ず内に憂いあり、これを覧る者は戒め慎まざるべからざるなり。
校勘記