『夏書』に「西戎即序」と称し、班固は云う、就いてこれを序す、威武を盛んにして、その貢物を致すにあらず、と。漢氏は初め西域を開き、三十六国あり。その後五十五王に分立し、 校尉 ・都護を置きてこれを撫納す。王莽が位を 簒 すや、西域は遂に絶つ。後漢に至り、班超の通ずる所五十余国、西は西海に至り、東西万里、皆来朝貢し、また都護・ 校尉 を置きて相統摂す。その後或いは絶え或いは通じ、漢朝は以て中国を労弊すと為し、その官は時に置き時に廃す。魏・晋の後に至り、互いに吞滅し、復た詳しく記すべからず。
太祖の初め、 中原 を経営し、未だ四表に及ぶ暇あらず。既にして西戎の貢至らず、有司奏して漢氏の故事に依り、西域を通ずるを請う、以て荒外に威徳を振るい、また天府に奇貨を致すべしと。太祖曰く、「漢氏は境を保ち人を安んぜず、乃ち遠く西域を開き、海内を虚耗せしむ、何の利かあらん。今若しこれを通ぜば、前の弊復た百姓に加わらん」と。遂に従わず。太宗の世を歴て、竟に招納せず。
太延の中、魏の徳益々遠く聞こえ、西域の亀茲・疏勒・烏孫・悦般・渇槃陁・鄯善・焉耆・車師・粟特諸国の王始めて使いを遣わして来献す。世祖、西域は漢世に通ずと雖も、求むれば則ち卑辞して来たり、欲なきときは則ち驕慢にして王命に従わず、これはその自知すらく絶遠にして、大兵の至るべからざる故なりと為す。若し報使往来せば、終に益あること無からん、使いを遣わさんと欲す。有司奏す、九国は遐嶮を憚らず、遠く方物を貢す、まさにその進むに与すべく、安んぞ預め後来を抑えんや、と。乃ちこれに従う。ここにおいて始めて行人王恩生・許綱らを西使せしむ。恩生は流沙に出で、 蠕蠕 に執らるるも、竟に果たして達せず。また散騎侍郎董琬・高明らを遣わし、多く錦帛を齎し、鄯善に出で、九国を招撫し、厚くこれを賜う。初め、琬ら詔を受く、便道の国は往きて赴くべしと。琬は九国を過ぎ、北行して烏孫国に至る。その王、朝廷の賜う所を得て、拝受し甚だ悦び、琬に謂いて曰く、「破洛那・者舌は皆魏の徳を思い、臣と称し貢を致さんと欲すと伝聞す。但だその路に由無きを患うるのみ。今使君ら既にここに到る、二国に往くべし、その慕仰の誠に副わん」と。琬ここにおいて自ら破洛那に向かい、明を遣わして者舌に使わしむ。烏孫王は導訳を発して二国に達せしむ。琬ら詔を宣し慰賜す。已にして琬・明東還す。烏孫・破洛那の属、使いを遣わし琬と俱に来り貢献する者十有六国。この後相継ぎて来たり、歳を間わず、国使もまた数十輩なり。
初め、世祖、西域に使いを遣わす毎に、常に河西王沮渠牧犍に詔して護送せしむ。姑臧に至れば、牧犍は恒に使いを発して路を導き流沙より出でしむ。後、使者西域より還り、武威に至る。牧犍の左右、使者に謂いて曰く、「我が君、蠕蠕の呉提の妄説を承け、云う、『去歳魏の天子自ら来たりて我を伐つ、士馬疫死し、大敗して還る。我その長弟楽平王丕を禽す』と。我が君大いに喜び、国中に宣言す」と。また聞く、呉提使いを遣わし西域諸国に告げ、称して「魏すでに削弱す、今天下唯だ我を以て強しと為す。若し更に魏使あれば、復た恭奉するなかれ」と。西域諸国にもまた貳する者あり。牧犍、主に事えること稍々慢惰なり。使い還り、具に状を以て聞こゆ。世祖遂に牧犍を討たんと議す。涼州既に平らぎ、鄯善国は「脣亡びて歯寒し、自然の道なり。今武威魏に滅ぼされ、次は我に及ばん。若しその使人を通ぜば、我が国事を知り、亡を取ること必ず近し。絶つに如かず、以て久しく支うべし」と為し、乃ち行路を断塞す。西域の貢献、歴年入らず。後に鄯善を平らげ、行人復た通ず。
初め琬ら使い還り京師に至り、凡そ経見し及び伝聞する傍国のことを具に言う。云く、西域は漢の武帝の時五十余国、後稍々相併す。太延の中に至り、十六国と為り、その地を四域に分つ。葱嶺以東、流沙以西を一域と為す。葱嶺以西、海曲以東を一域と為す。者舌以南、月氏以北を一域と為す。両海の間、水沢以南を一域と為す。内の諸小渠長、蓋し百数を以てす。その西域に出づる本二道あり、後更に四と為る。玉門より出で、流沙を渡り、西行二千里鄯善に至るを一道と為す。玉門より流沙を渡り、北行二千二百里車師に至るを一道と為す。莎車より西行一百里葱嶺に至り、葱嶺西一千三百里伽倍に至るを一道と為す。莎車より西南五百里葱嶺に至り、西南一千三百里波路に至るを一道と為す。琬の伝えざる所にして更に朝貢する者あり、その名を紀すも、国俗を具にすること能わず。前使と異なる所を録す。
鄯善
鄯善国、都は扜泥城、古の楼蘭国なり。代より七千六百里を去る。都する城方一里。地多く沙鹵、水草少なく、北は即ち白龍堆の路なり。太延の初めに至り、始めて使いを遣わし来献す。四年、その弟素延耆を遣わし入侍す。世祖涼州を平らげるに及び、沮渠牧犍の弟無 諱 、敦煌に走り保つ。無諱後、流沙を渡らんと謀り、その弟安周を遣わし鄯善を撃たしむ。王比龍恐懼して降らんと欲す。会うこと魏の使者天竺・罽賓より還り、俱に鄯善に会し、比龍を勧めてこれを拒がしむ。遂に連戦す。安周克つこと能わず、退き東城を保つ。後、比龍懼れ、衆を率いて西に奔り且末す。その世子乃ち安周に応ず。鄯善人頗るこれを剽劫し、通ぜしめず。世祖、 散騎常侍 ・成周公万度帰に詔し、伝に乗り涼州の兵を発してこれを討たしむ。度帰敦煌に到り、輜重を留め、軽騎五千を以て流沙を渡り、その境に至る。時に鄯善の人衆野に布く。度帰吏卒に勅し侵掠することあるべからずと。辺守これに感じ、皆旗を望み稽服す。その王真達、面縛して出で降る。度帰その縛を解き、軍を留め屯守せしめ、真達と俱に京都に詣る。世祖大いに悦び、厚くこれを待つ。この歳、交趾公韓抜を仮節・征西将軍・領護西戎 校尉 ・鄯善王に拝し、以てこれを鎮め、その人に賦役し、郡県に比す。
且末
且末国、都は且末城、鄯善の西に在り、代より八千三百二十里を去る。真君三年、鄯善王比龍、沮渠安周の難を避け、国人の半を率いて且末に奔る。後、鄯善に役属す。且末の西北方、流沙数百里、夏日に熱風あり行旅の患と為る。風の至る所、唯だ老駝これを予め知り、即ち鳴きて聚い立ち、その口鼻を沙中に埋む。人は毎に以て候と為し、また即ち氈を将いて鼻口を擁蔽す。その風迅駛にして、斯須にして過ぎ尽くす。若し防がざれば、必ず危斃に至らん。
于闐
于闐国は、且末の西北、葱嶺の北二百余里に在る。東は鄯善まで千五百里、南は女国まで二千里、西は朱俱波まで千里、北は亀茲まで千四百里、代まで九千八百里である。その地は千里に亘り、連山相次ぐ。都城は方八九里、部内に大城五、小城数十を有す。于闐城の東三十里に首抜河有り、中より玉石を出す。土は五穀及び桑麻に適し、山には美玉多く、良馬・駱駝・騾有り。その刑法は、人を殺す者は死に、その他の罪は各々軽重に随ってこれを懲罰す。外は風俗物産、亀茲と略同じ。俗は仏法を重んじ、寺塔僧尼甚だ衆く、王は特に信尚し、斎日を設くる毎に、必ず自ら灑掃し饋食す。城南五十里に贊摩寺有り、即ち昔の羅漢比丘盧旃が其の王の為に覆盆浮図を造りし所なり、石上に辟支仏の跣処有り、双跡猶存す。于闐西五百里に比摩寺有り、老子が胡を化して仏と成りし所なりと云う。俗に礼義無く、盗賊多く、淫縱なり。高昌以西より、諸国の人等は深目高鼻なり、唯だ此の一国のみ、貌甚だ胡ならず、頗る華夏に類す。城東二十里に大水有りて北に流る、号して樹枝水と曰い、即ち黄河なり、一名計式水。城西五十五里にも亦た大水有り、名づけて達利水と曰い、樹枝水と会し、倶に北に流る。
真君年中、世祖は詔して高涼王那に吐谷渾の慕利延を撃たしむ。慕利延懼れて、其の部落を駆りて流沙を渡る。那は進軍して急ぎ之を追う。慕利延遂に西に入り于闐に至り、其の王を殺し、死者甚だ衆し。顕祖の末、蠕蠕が于闐を寇す。于闐之を患え、使者素目伽を遣わして上表して曰く、「西方諸国は、今皆已に蠕蠕に属す。奴は世に大国に奉じ、今に至るまで異無し。今蠕蠕の軍馬城下に到る。奴は兵を聚めて自ら固め、故に使者を遣わして奉献し、救援を延望す。」顕祖は詔して公卿に之を議らしむ。公卿奏して曰く、「于闐は京師を去ること幾万里、蠕蠕の性は、唯だ野掠を習い、城を攻むる能わず。若し拒まれたる為には、当に已に旋らん。師を遣わさんと欲すと雖も、勢い及ぶ所無し。」顕祖は公卿の議を其の使者に示す。使者も亦た然りと為す。是に於て之に詔して曰く、「朕は天を承けて物を理め、万方をして各々其の所に安からしめんと欲す。諸軍を敕して以て汝の難を拯わんと応す。但だ汝を去ること遐阻なるを以て、復た援を遣わすと雖も、当時の急を救わず。已に師を停めて行かず。汝宜しく之を知るべし。朕今甲を練り卒を養い、一二歳の間当に躬より猛将を率い、汝が為に患を除かん。汝其れ謹み警めて候し、大挙を待て。」是に先立ち、朝廷は使者韓羊皮を遣わして波斯に使わす。波斯王は使を遣わして馴象及び珍物を献ず。于闐を経るに、于闐の中于王秋仁、輒ち之を留め、寇有りて達せざるを慮うと仮言す。羊皮状を言う。顕祖怒り、又た羊皮を遣わし詔を奉じて之を責譲す。自後毎に使を遣わして朝献す。
蒲山・悉居半・権於摩・渠莎
蒲山国は、故の皮山国なり。皮城に居し、于闐の南に在り、代を去ること一万二千里。其の国の西南三里に凍凌山有り。後に于闐に役属す。
悉居半国は、故の西夜国なり、一名子合。其の王は子と号し、呼犍を治む。于闐の西に在り、代を去ること一万二千九百七十里。太延の初、使を遣わして来献す。自後貢使絶えず。
権於摩国は、故の烏秅国なり。其の王は烏秅城に居し、悉居半の西南に在り、代を去ること一万二千九百七十里。
渠莎国は、故の莎車城に居し、子合の西北に在り、代を去ること一万二千九百八十里。
車師・且弥
車師国は、一名前部。其の王は交河城に居す。代を去ること一万五十里、其の地は北に蠕蠕に接す。本より通使交易す。世祖の初、始めて使を遣わして朝献す。詔して行人王恩生・許綱等をして出使せしむ。恩生等始めて流沙を度るに、蠕蠕に執えらる。恩生蠕蠕の呉提に見え、魏の節を持して之が為に屈せず。後世祖切に呉提を譲る。呉提懼れて、乃ち恩生等を帰遣す。許綱は敦煌に到り、病にて死す。朝廷其の節を壮とし、 諡 を賜いて貞と曰う。初め、沮渠無諱兄弟の流沙を渡るや、遺人を鳩集し、車師国を破る。真君十一年、車師王車夷落、使琢進・薛直を遣わし上書して曰く、「臣が亡父は塞外に僻処し、天子の威徳を仰慕し、使を遣わし表献し、歳に空しからず。天子降りて念い、賜遺甚だ厚し。及び臣継ぎ立ちしより、亦た常貢を闕かず。天子垂矜し、亦た前世に異ならず。敢えて至恩に縁り、輒ち私艱を陳す。臣が国は無諱の攻撃する所より、今に経ること八歳、人民饑荒し、以て存活すべからず。賊今臣を攻むること甚だ急なり。臣自ら全うする能わず、遂に国を捨てて東に奔り、三分の一を免る。即日に已に焉耆の東界に到る。天闕に帰らんことを思い、幸ひに賑救を垂れたまえ。」是に於て詔を下して之を撫慰し、焉耆の倉を開きて之に給す。正平の初、子を遣わして入侍す。自後毎に使を遣わして朝貢す。
且弥国は、天山東于大谷に都し、車師の北に在り、代を去ること一万五百七十里。本より車師に役属す。
焉耆
焉耆国は、車師の南に在り、員渠城に都す。白山の南七十里、漢時の旧国なり。代を去ること一万二百里。其の王は姓は龍、名は鳩尸卑那、即ち前涼の張軌の討ちし龍熙の胤なり。都城は方二里、国内凡そ九城有り。国小さく人貧しく、綱紀法令無し。兵に弓刀甲矟有り。婚姻は略華夏に同じ。死亡する者は皆焚きて後に葬り、其の服制は満七日なれば則ち之を除く。丈夫は並びに髪を翦りて以て首飾と為す。文 字 は婆羅門と同じ。俗は天神を事え、並びに仏法を崇信す。特に二月八日・四月八日を重んず。是の日なり、其の国咸く釈教に依り、斎戒行道す。気候寒く、土田良く沃れ、穀に稻粟菽麦有り、畜に駱駝馬有り。蚕を養うも以て絲と為さず、唯だ綿纊に充つ。俗は蒲萄酒を尚び、兼ねて音楽を愛す。南は海を去ること十余里、魚塩蒲葦の饒有り。東は高昌を去ること九百里、西は亀茲を去ること九百里、皆沙磧なり。東南は瓜州を去ること二千二百里。
地の険多きを恃み、頗る中国の使を剽劫す。世祖之を怒り、詔して成周公万度帰に之を討たしむ。軽糧を約齎し、路次に食を取る。度帰焉耆の東界に入り、其の辺守左回・尉犁の二城を撃ちて之を抜き、進軍して員渠に向かう。鳩尸卑那は四五万人を以て城を出で険を守りて以て拒ぐ。度帰は壮勇を募り、短兵を以て直ちに往き衝く。鳩尸卑那の衆大いに潰え、尽く之を虜い、単騎にて山中に走り入る。度帰進みて其の城を屠り、四鄙の諸戎皆降服す。焉耆国と為り、斗絶一隅に在り、乱れざること日久し。其の珍奇異玩、殊方譎詭識らざる物を獲、橐駝馬牛雑畜巨万。時に世祖陰山北宮に幸す。度帰の焉耆を破れる露板至る。世祖省み訖り、 司徒 崔浩に書を賜いて曰く、「万度帰は五千騎を以て万有余里を経、焉耆の三城を抜き、其の珍奇異物及び諸の委積を獲ること勝えず数うべからず。古より帝王は西戎を即序すと云うと雖も、指注するが如く、控引すること能わざりき。朕今手に把りて之を有つ。如何。」浩上書して称美す。遂に度帰を命じて其の人を鎮撫せしむ。初め鳩尸卑那山中に走るも、猶城の抜かれざるを覬い、其の国に還ることを得んとす。既に尽く度帰の克する所と為るを見て、乃ち亀茲に奔る。亀茲は其の壻を以て、厚く之を待つ。
亀茲
亀茲国は、尉犂の西北、白山の南一百七十里にあり、延城を都とし、漢代からの旧国である。代都より一万二百八十里を隔てる。その王は白姓を称し、後涼の呂光が立てた白震の後裔である。その王は頭に綵帯を結び、後ろに垂らし、金の師子牀に坐す。居住する城は方五六里である。その刑法は、人を殺せば死罪とし、盗賊は一臂を断ち、かつ一足を刖ぐ。税賦は土地に準じて租を徴し、田なき者は銀銭を税す。風俗・婚姻・喪葬・物産は焉耆とほぼ同じであるが、ただ気候がやや温暖な点が異なる。また細氈を産し、銅・鉄・鉛・麖皮・氍毹・鐃沙・塩緑・雌黄・胡粉・安息香・良馬・犎牛などに富む。東に輪臺があり、これは漢の貳師将軍李広利が屠った所である。その南三百里に大河あり東流し、計式水と号し、即ち黄河である。東は焉耆まで九百里、南は于闐まで一千四百里、西は疏勒まで一千五百里、北は突厥の牙帳まで六百余里、東南は瓜州まで三千一百里である。その東に〈闕〉城戍あり。寇盗は一度ならず。世祖は万度帰に詔して騎兵一千を率いてこれを撃たしめ、亀茲は烏 羯 目提らを遣わして兵三千を領して防戦させたが、度帰はこれを撃ち走らせ、二百余級を斬り、駝馬を多く獲て還った。俗に性淫なること多く、女市を設け、男子の銭を収めて官に入れる。土には孔雀多く、群れをなして山谷間に飛び、人はこれを捕らえて養い食し、鶏鴨の如くに孳乳し、その王家には常に千余隻を有するという。その国の西北の大山中に膏の如きものあり、流れ出て川となり、数里行って地に入り、䬾餬の如く、甚だ臭く、これを服すれば髪歯の落ちた者も更に生えさせ、病人の服すれば皆癒える。その後、毎度使者を遣わして朝貢した。
姑默国は、南城に居し、亀茲の西にあり、代都より一万五百里を隔てる。亀茲に役属す。
温宿国は、温宿城に居し、姑默の西北にあり、代都より一万五百五十里を隔てる。亀茲に役属す。
尉頭国は、尉頭城に居し、温宿の北にあり、代都より一万六百五十里を隔てる。亀茲に役属す。
烏孫・疏勒・悦般
烏孫国は、赤谷城に居し、亀茲の西北にあり、代都より一万八百里を隔てる。その国はたびたび蠕蠕に侵され、西に遷って葱嶺山中にあり、城郭なく、畜牧に従い水草を逐う。太延三年、使者の董琬らを遣わしてその国に至らしめ、その後、毎度使者を遣わして朝貢した。
疏勒国は、姑默の西、白山の南百余里にあり、漢代からの旧国である。代都より一万一千二百五十里を隔てる。高宗の末、その王は使者を遣わして釈迦牟尼仏の袈裟一領を送った。長さ二丈余。高宗はこれが真に仏衣であるか審らかにし、霊異あるべきか、遂にこれを焼いて虚実を験そうとし、猛火の上に置いたところ、一日経っても燃えず、見る者皆悚然として恐れ、心身ともに肅然とした。その王は金の師子冠を戴く。土には稲・粟・麻・麦・銅・鉄・錫・雌黄・錦・綿多く、毎年常に突厥に供送す。その都城は方五里、国内に大城十二、小城数十あり。人の手足は皆六指にして、子を産みて六指ならざる者は育てない。勝兵二千人。南に黄河あり、西は葱嶺を帯び、東は亀茲まで千五百里、西は鏺汗国まで千里、南は朱俱波まで八九百里、東北は突厥の牙帳まで千余里、東南は瓜州まで四千六百里である。
悦般国は、烏孫の西北にあり、代都より一万九百三十里を隔てる。その先祖は、 匈奴 の北単于の部落である。漢の車騎将軍竇憲に逐われ、北単于は金微山を渡り、西に走って康居に至り、その羸弱にして去れざる者は亀茲の北に住んだ。地方数千里、衆およそ二十余万。涼州の人なお「単于王」と謂う。その風俗言語は 高車 と同じであるが、その人は胡よりも清潔である。俗に髪を剪りて眉に斉しくし、醍醐を塗り、昱昱として光沢あり、日に三度澡漱し、然る後に飲食す。その国の南界に火山あり、山傍の石は皆燋鎔し、地に流れて数十里にして凝堅し、人はこれを取って薬とす、即ち石流黄である。
蠕蠕と結好し、その王は嘗て数千人を将いて蠕蠕国に入り、大檀と相見えんとした。その界に入ること百余里、その部人の衣を浣わず、髪を絆せず、手を洗わず、婦人が器物を舌で舐めるのを見て、王はその従臣に謂いて曰く、「汝ら我を誑いてこの狗国に入らしめた!」と。乃ち馳せて還った。大檀は騎兵を遣わして追ったが及ばず、これより仇讎とし、たびたび征討し合った。真君九年、使者を遣わして朝献した。併せて幻人を送り、人々の喉脈を断ち切り、人の頭を撃って骨を陥没させ、皆血を出させ、或いは数升或いは盈斗に及び、草薬をその口中に入れ、嚼み咽がせると、須臾にして血止み、瘡を養うこと一月にして復常し、また痕瘢なしと称した。世祖はその虚実を疑い、乃ち死罪の囚を取って試みたところ、皆験があった。中国の諸名山には皆この草があると言い、乃ち人をしてその術を受けしめ、厚く遇した。またその国に大術者あり、蠕蠕が来て抄掠すると、術人は霖雨・狂風・大雪及び行潦を作り、蠕蠕の凍死漂亡すること十二三に及ぶと言う。是歳、再び使者を遣わして朝貢し、官軍と東西相呼応して蠕蠕を討たんことを求めた。世祖はその志を嘉し、中外諸軍に命じて戒厳せしめ、淮南王他を前鋒として、蠕蠕を襲わしめた。仍て有司に詔して、その鼓舞の節を楽府に施さしめた。その後、毎度使者を遣わして貢献した。
者至抜国は、者至抜城を都とし、疏勒の西にあり、代都より一万一千六百二十里を隔てる。その国東に潘賀那山あり、美鉄及び師子を出す。
迷密国は、迷密城を都とし、者至抜の西にあり、代都より一万二千六百里を隔てる。正平元年、使者を遣わして一峯の黒橐駝を献じた。その国東に山あり、名を郁悉満と曰い、山は金玉を出し、また鉄多し。
悉万斤国は、悉万斤城を都とし、迷密の西にあり、代都より一万二千七百二十里を隔てる。その国南に山あり、名を伽色那と曰い、山は師子を出す。毎度使者を遣わして朝貢す。
忸密国は、忸密城を都とし、悉万斤の西にあり、代都より二万二千八百二十八里を隔てる。
洛那国は、故の大宛国である。貴山城を都とし、疏勒の西北にあり、代都より一万四千四百五十里を隔てる。太和三年、使者を遣わして汗血馬を献じ、これより毎度使者を遣わして朝貢した。
粟特
粟特国は葱嶺の西にあり、古の奄蔡にして、一名を温那沙という。大沢に居り、康居の西北に在り、代都より一万六千里。先に、匈奴その王を殺してその国を有ち、王忽倪に至るまで既に三世である。その国の商人は先に多く涼土に詣でて販貨し、姑臧を克つに及んで、悉く虜と為る。高宗の初め、粟特王使いを遣わしてこれを贖わんことを請う、詔して聴く。以後より使いの朝献無し。
波斯
波斯国は宿利城に都し、忸密の西に在り、古の条支国なり。代都より二万四千二百二十八里。城は方十里、戸十余万、河その城中を経て南に流る。土地平正にして、金・銀・鍮石・珊瑚・琥珀・車渠・馬脳を出し、多大なる真珠・頗梨・瑠璃・水精・瑟瑟・金剛・火斉・鑌鉄・銅・錫・朱砂・水銀・綾・錦・疊・毼・氍毹・毾㲪・赤麞皮、及び薰陸・鬱金・蘇合・青木等の香、胡椒・畢撥・石蜜・千年棗・香附子・訶梨勒・無食子・塩緑・雌黄等の物を出す。気候暑熱にして、家自ら氷を蔵す。地は多く沙磧にして、水を引きて灌漑す。その五穀及び鳥獣等は中夏と略同じく、唯だ稲及び黍・稷無し。土は名馬・大驢及び駝を出し、往々として日に七百里を行く者有り。富室に至っては数千頭有る。また白象・師子・大鳥卵を出す。鳥有り、形橐駝の如く、両翼有り、飛ぶも高く能わず、草と肉を食い、亦火を噛む能う。
その王は姓は波氏、名は斯。金羊牀に坐し、金花冠を戴き、錦袍・織成帔を衣、真珠宝物を以て飾る。その俗、丈夫は髪を剪り、白皮帽を戴き、貫頭衫を着し、両廂近く下りてこれを開き、亦巾帔有り、織成を以て縁どる。婦女は大衫を服し、大帔を披ぎ、その髪は前に髻と為し、後にこれを披き、金銀花を以て飾り、仍て五色珠を貫き、これを膊に絡う。王はその国内に、別に小牙十余所有り、中国の離宮の如し。毎年四月に出遊してこれに処り、十月に乃ち還る。王即位の後、諸子の中に賢者を択び、密かにその名を書き、これを庫に封じ、諸子及び大臣皆これを知らず。王死すれば、衆乃ち書を発してこれを視、その封内に名有る者を、即ち立てて以て王と為し、余の子は出でて各々辺任に就き、兄弟更に相見えず。国人王を号して「医囋」と曰い、妃を「防歩率」と曰い、王の諸子を「殺野」と曰う。大官に摸胡壇有り、国内の獄訟を掌る。泥忽汗有り、庫蔵開禁を掌る。地卑有り、文書及び衆務を掌る。次に遏羅訶地有り、王の内事を掌る。薛波勃有り、四方の兵馬を掌る。その下皆属官有り、分かれてその事を統ぶ。兵に甲矟円排剣弩弓箭有り、戦には兼ねて象に乗じ、百人これに随う。その刑法、重罪は諸竿に懸けて、射殺す。次は則ち獄に繋ぎ、新王立つに乃ちこれを釈す。軽罪は則ち劓刖若しくは髠し、或いは半鬢を剪り、及び牌を項に繋ぎ、以て恥辱と為す。強盗を犯す者は、これを繋いで終身とす。貴人の妻を姦す者は、男子は流し、婦人はその耳鼻を割く。賦税は則ち地に準じて銀銭を輸す。
俗に火神・天神を事う。文字は胡書と異なる。多くは姉妹を以て妻妾と為し、自余の婚合も、亦尊卑を択ばず、諸夷の中で最も醜穏である。百姓の女、年十歳以上姿貌有る者は、王これを収養し、功勲有る人に即ち以て分賜す。死者は多く屍を山に棄て、一月服を著す。城外に人別居有り、唯だ喪葬の事を知り、号して不浄人と為し、若し城市に入れば、鈴を振って自ら別つ。六月を以て歳首と為し、尤も七月七日・十二月一日を重んじ、その日人庶以上各々相命召し、会を設け楽を作し、以て歓娯を極む。又毎年正月二十日、各々その先死者を祭る。
神龜年中、その国使いを遣わし上書して物を貢ぎ、云う、「大国の天子、天の生む所、願わくは日出ずる処常に漢中の天子と為らんことを。波斯国王居和多千万敬拝す。」朝廷嘉してこれを納る。これより毎使い朝献す。
伏盧尼国は伏盧尼城に都し、波斯国の北に在り、代都より二万七千三百二十里。石を累ねて城と為す。東に大河南流有り、中に鳥有り、その形人に似、亦橐駝・馬の如き者有り、皆翼有り、常に水中に居り、水を出づれば便ち死す。城北に云尼山有り、銀・珊瑚・琥珀を出し、多く師子有り。
色知顕国は色知顕城に都し、悉万斤の西北に在り、代都より一万二千九百四十里、土平にして、多く五果有り。
伽色尼国は伽色尼城に都し、悉万斤の南に在り、代都より一万二千九百里。土は赤塩を出し、多く五果有り。
薄知国は薄知城に都し、伽色尼の南に在り、代都より一万三千三百二十里。多く五果有り。
牟知国は牟知城に都し、忸密の西南に在り、代都より二万二千九百二十里。土平にして、禽獣草木中国に類す。
阿弗太汗国は阿弗太汗城に都し、忸密の西に在り、代都より二万三千七百二十里。土平にして、多く五果有り。
呼似密国は呼似密城に都し、阿弗太汗の西に在り、代都より二万四千七百里。土平にして、銀・琥珀を出し、師子有り、多く五果有り。
諾色波羅国は波羅城に都し、忸密の南に在り、代都より二万三千四百二十八里。土平にして、稲麦に宜しく、多く五果有り。
早伽至国は早伽至城に都し、忸密の西に在り、代都より二万三千七百二十八里。土平にして、田植少なく、隣国より稲麦を取り、五果有り。
伽不単国は、伽不単城を都とし、悉万斤の西北にあり、代( 平城 )まで一万二千七百八十里である。土地は平坦で、稲や麦に適し、五種の果樹がある。
者舌国は、もと康居国であり、破洛那の西北にあり、代まで一万五千四百五十里である。太延三年(437年)、使者を遣わして朝貢し、以後絶えることがなかった。
伽倍国は、もと休密翕侯である。和墨城を都とし、莎車の西にあり、代まで一万三千里である。人々は山谷の間に居住する。
折薛莫孫国は、もと双靡翕侯である。双靡城を都とし、伽倍の西にあり、代まで一万三千五百里である。人々は山谷の間に居住する。
鉗敦国は、もと貴霜翕侯である。護澡城を都とし、折薛莫孫の西にあり、代まで一万三千五百六十里である。人々は山谷の間に居住する。
弗敵沙国は、もと肸頓翕侯である。薄茅城を都とし、鉗敦の西にあり、代まで一万三千六百六十里である。人々は山谷の間に居住する。
閻浮謁国は、もと高附翕侯である。高附城を都とし、弗敵沙の南にあり、代まで一万三千七百六十里である。人々は山谷の間に居住する。
大月氏国
大月氏国は、盧監氏城を都とし、弗敵沙の西にあり、代まで一万四千五百里である。北は蠕蠕と接し、しばしば侵されたため、遂に西へ遷って薄羅城を都とし、弗敵沙から二千一百里である。その王寄多羅は勇武であり、遂に兵を起こして大山を越え、南の北天竺を侵し、乾陁羅以北の五国をことごとく服属させた。世祖(太武帝)の時、その国の人が京師で商売し、自ら石を熔いて五色の瑠璃を造ることができると言った。そこで山中で鉱石を採り、京師でこれを鋳造した。完成すると、その光沢は西方から来たものより美しかった。そこで詔して行殿を造らせ、百余人を収容し、光色が透き通り、見る者は皆驚き、神の業と思った。これ以降、中国の瑠璃は価が下がり、人々はもはや珍重しなくなった。
安息国
安息国は、葱嶺の西にあり、蔚搜城を都とする。北は康居、西は波斯と相接し、大月氏の西北にあり、代まで二万一千五百里である。
大秦国
大秦国は、一名を黎軒といい、安都城を都とする。条支から西へ海曲を渡ること一万里、代まで三万九千四百里である。その海は傍らに湧き出て、渤海のようであり、東西は渤海と相望む、これは自然の理であろう。土地の広さは六千里、二つの海の間に位置する。その地は平坦で、人々の居住は星のように散らばる。その王の都城は五つの城に分かれ、各々五里四方、周囲六十里である。王は中城に居る。城には八人の臣を置いて四方を統べ、王城にも八臣を置き、四つの城を分掌させる。国事を謀り、あるいは四方で決まらないことがあれば、四城の臣が王の居所に集まって議し、王自らこれを聴き、その後施行する。王は三年に一度出て風俗教化を観察し、冤屈を訴えて王に訴訟する者がいれば、当該方角の臣を、軽ければ譴責し、重ければ罷免し、賢人を挙げて代えさせる。その人々は端正で背が高く、衣服・車・旗は中国の儀礼に倣うため、外域ではこれを大秦と呼ぶ。その土地は五穀や桑麻に適し、人々は養蚕や農耕に励み、多くは璆琳・琅玕・神亀・白馬朱鬣・明珠・夜光璧を産する。東南は交趾に通じ、また水路で益州の永昌郡に通じ、多くの異物を産出する。大秦の西の海水の西に河があり、河は西南へ流れる。河西に南・北の山があり、山の西に赤水があり、西に白玉山がある。玉山の西に西王母山があり、玉で堂を造ったという。安息の西の境界から海曲に沿っても大秦に至り、一万余里を回る。その国で日月星辰を観察すると、中国と異なることはなく、前史に条支の西へ百里行くと日の入る所とあるのは、誤りが甚だしい。
阿鈎 羌 国は、莎車の西南にあり、代まで一万三千里である。国の西に県度山があり、その間四百里の中に、しばしば桟道があり、下は測り知れぬ深淵に臨み、人は行くに縄索を頼りに持ち合って渡るため、この名がある。土地には五穀や諸種の果物がある。市では銭を貨幣とする。居住には宮室を建てる。兵器を持つ。土地には金や真珠を産する。
波路国は、阿鈎羌の西北にあり、代まで一万三千九百里である。その地は湿熱であり、蜀馬がおり、土地は平坦で、物産や国の風俗は阿鈎羌と同じである。
小月氏国
小月氏国は、都を富楼沙城に置く。その王は本来、大月氏の王寄多羅の子である。寄多羅が匈奴に追われて西に移った後、その子にこの城を守らせたため、小月氏と称するようになった。波路の西南にあり、代(平城)まで一万六千六百里。かつては西平・張掖の間に居住し、衣服は羌族とかなり似ている。その習俗は金銀銭を通貨とする。牧畜に従って移住する点も匈奴に似る。その城の東十里に仏塔があり、周囲三百五十歩、高さ八十丈。仏塔が初めて建てられた時から武定八年まで数えると、八百四十二年になる。いわゆる「百丈仏図」である。
罽賓国
罽賓国は、都を善見城に置く。波路の西南にあり、代まで一万四千里二百里。四つの山の中に位置する。その地は東西八百里、南北三百里。地は平らで温暖である。苜蓿・雑草・奇木・檀・槐・梓・竹がある。五穀を栽培し、園田に肥料を施す。地は低湿で、稲が生える。冬には生菜を食べる。その国の人は技巧に優れ、彫文・刻鏤・織罽を行う。金・銀・銅・錫を用いて器物を作る。市場では銭を用いる。その他の家畜は諸国と同じである。たびたび使者を派遣して朝貢する。
吐呼羅国
吐呼羅国は、代まで一万二千里。東は范陽国に至り、西は悉万斤国に至り、その間は二千里。南は連山に至るが、その名は知らない。北は波斯国に至り、その間は一万里。国中に薄提城があり、周囲六十里。城の南に西へ流れる大河があり、漢楼河という。土地は五穀に適し、良馬・駱駝・騾馬がいる。その王はかつて使者を派遣して朝貢した。
副貨国
副貨国は、代まで一万七千里。東は阿副使且国に至り、西は没誰国に至り、その間は一千里。南には連山があるが、その名は知らない。北は奇沙国に至り、その間は一千五百里。国中に副貨城があり、周囲七十里。五穀・葡萄に適し、馬・駱駝・騾馬のみがいる。国王には黄金の殿があり、殿下に金の駱駝七頭があり、各々高さ三尺。その王は使者を派遣して朝貢した。
南天竺
南天竺国は、代まで三万一千五百里。伏醜城があり、周囲十里、城中から摩尼珠・珊瑚が出る。城の東三百里に抜頼城があり、城中から黄金・白真檀・石蜜・葡萄が出る。土地は五穀に適する。世宗(宣武帝)の時、その国王婆羅化が使者を派遣して駿馬・金・銀を献上し、これ以降たびたび使者を派遣して朝貢する。
疊伏羅国
疊伏羅国は、代まで三万一千里。国中に勿悉城がある。城の北に塩奇水があり、西へ流れる。白象がおり、また阿末黎があり、その木の皮で布を織る。土地は五穀に適する。世宗の時、その国王伏陀末多が使者を派遣して方物を献上し、これ以降たびたび使者を派遣して朝貢する。
拔豆国
拔豆国は、代まで五万一千里。東は多勿当国に至り、西は旃那国に至り、その間は七百五十里。南は罽陵伽国に至り、北は弗那伏且国に至り、その間は九百里。国中から金・銀・雑宝・白象・水牛・牦牛・葡萄・五果が出る。土地は五穀に適する。
嚈噠
嚈噠国は、大月氏の種族であり、また高車の別種とも称され、その起源は塞北に発する。金山より南にあり、于闐の西に位置し、都は烏許水の南二百余里にあり、 長安 より一万一百里を隔てる。その王都は抜底延城にあり、これは王舎城である。その城は方十里余りで、多くの寺塔があり、皆金で飾られている。風俗は突厥とほぼ同じである。その習俗として兄弟が一つの妻を共有し、夫に兄弟がない場合はその妻は一角の帽をかぶり、もし兄弟がある場合はその数の多少に応じて、さらに角を加える。衣服は纓絡を加える類である。頭は皆髪を切る。その言葉は蠕蠕・高車及び諸胡とは異なる。人口はおよそ十万。城邑はなく、水草に従って移動し、氈をもって屋とし、夏は涼しい土地に移り、冬は暖かい場所を求める。その諸妻を分け、各々別の場所におき、互いに二百里あるいは三百里離れている。その王は巡歴して行き、毎月一箇所に滞在し、冬の寒い時は、三月間移動しない。王位は必ずしも子に伝えるわけではなく、子弟で任に堪える者があれば、死ぬとこれを授ける。その国には車はなく輿がある。駱駝と馬が多い。刑罰は厳しく急であり、窃盗は多少を問わず皆腰斬し、盗んだ一に対し十倍を責める。死者は、富者は石を積んで蔵とし、貧者は地を掘って埋め、身につけていた諸物は、皆冢内に置く。その人は凶悍で、よく戦う。西域の康居・于闐・沙勒・安息及び諸小国三十余りは皆これに服属し、大国と号した。蠕蠕と婚姻関係にある。太安以後より、毎度使節を派遣して朝貢した。正光末、使節を派遣して獅子一頭を貢献したが、高平に至り、万俟醜奴の反乱に遭遇し、そこでこれを留めた。醜奴が平定されると、京師に送られた。永熙以後、朝献は遂に絶えた。その国は南に漕国より千五百里、東に瓜州より六千五百里を隔てる。
初め、熙平年間に、粛宗は王伏子に命じて宋雲・沙門法力らを西域に派遣し、仏経を訪ね求めた。時に沙門慧生という者もこれと共に行き、正光年間に帰還した。慧生が経由した諸国については、その本末及び山川の里数を知ることができず、おおよそその略を挙げるものである。
朱居国は、于闐の西にある。その人は山中に住む。麦があり、林果が多い。皆仏を奉ずる。言葉は于闐と類似する。嚈噠に服属する。
渴槃陁国は、葱嶺の東、朱駒波の西にある。河がその国を経て、東北に流れる。高山があり、夏でも霜雪が積もる。また仏道を奉ずる。嚈噠に附する。
鉢和国は、渴槃陁の西にある。その土地は特に寒く、人畜が同居し、穴を掘って住む。また大雪山があり、銀の峰のように見える。その人はただ餅麨を食べ、麦酒を飲み、氊裘を着る。二つの道があり、一つの道は西に向かって嚈噠へ行き、一つの道は西南に向かって烏萇へ至る。また嚈噠に統べられる。
波知国は、鉢和の西南にある。土地は狭く人は貧しく、山谷に依拠し、その王は統轄できない。三つの池があり、伝えによると大池には龍王がおり、次には龍婦がおり、小池には龍子がおり、通行人がこれを経る時は、祭祀を設けて初めて通り過ぎることができ、祭祀をしないと多く風雪の難に遭うという。
賒弥国は、波知の南にある。山中に住む。仏法を信ぜず、専ら諸神を奉ずる。また嚈噠に附する。東に鉢盧勒国があり、道は険しく、鉄鎖に縁って渡り、下は底が見えない。熙平年間、宋雲らは遂に到達できなかった。
烏萇国は、賒弥の南にある。北に葱嶺があり、南は天竺に至る。婆羅門の胡がその上族である。婆羅門は多く天文吉凶の術を解し、その王は行動する時はこれに訪ねて決断する。土地には林果が多く、水を引いて田を灌漑し、稲麦が豊かである。仏を奉じ、多くの寺塔があり、その事は極めて華麗である。人に争訟があれば、薬を飲ませ、曲がった者は発狂し、正しい者は無事である。法として殺さず、死罪を犯した者はただ霊山に移すだけである。西南に檀特山があり、山上に寺を立て、驢数頭で食糧を運び、山下には人も制御せず、自ら往来を知る。
乾陀国は、烏萇の西にあり、本来の名は業波であったが、嚈噠に破られたため、これにより改めた。その王は本来は敕勒であり、国を治めて既に二世である。征戦を好み、罽賓と戦い、三年にわたって止まず、人は怨み苦しむ。戦象七百頭があり、十人が一頭の象に乗り、皆兵器を持ち、象の鼻に刀を縛り付けて戦う。都とする城の東南七里に仏塔があり、高さ七十丈、周囲三百歩、これが所謂「雀離仏図」である。
康国は、康居の後裔である。遷徙は定まらず、恒常の故地はなく、漢以来、相承して絶えない。その王は本来の姓は温で、月氏の人である。旧くは祁連山北の昭武城に居住したが、匈奴に破られたため、西に葱嶺を越え、遂にその国を得た。枝族は各々分かれて王となり、故に康国の左右の諸国は、皆昭武を姓とし、本を忘れないことを示す。王の字は世夫畢で、人となり寛厚であり、甚だ衆心を得る。その妻は突厥の達度可汗の娘である。薩宝水上の阿祿迪城に都し、多くの人が居住する。大臣三人が共に国事を掌る。その王は索髪で、七宝の金花を冠し、綾・羅・錦・繡・白疊を衣とす;その妻は髻があり、皂巾で覆う。丈夫は髪を切り、錦の袍を着る。強国と称され、西域諸国の多くはこれに帰属する。米国・史国・曹国・何国・安国・小安国・那色波国・烏那曷国・穆国は皆これに帰附する。胡律があり、祅祠に置き、罰を決しようとする時は、これを取って断ずる。重い者は族滅し、次ぐ罪は死、賊盗はその足を截つ。人は皆深目・高鼻・多髯である。商賈に長け、諸夷の交易は多くその国に集まる。大小の鼓・琵琶・五弦箜篌がある。婚姻喪制は突厥と同じ。国に祖廟を立て、六月にこれを祭り、諸国は皆助祭する。仏を奉じ胡書を用いる。気候は温暖で、五穀に適し、園蔬を勤めて修め、樹木は滋茂する。馬・駱駝・驢・犎牛・黄金・硇沙・𧵊香・阿薛那香・瑟瑟・麞皮・氍毹・錦・疊を産する。蒲萄酒が多く、富家は或いは十石を貯え、連年腐敗しない。太延年間、初めて使節を派遣して方物を貢献し、後には遂に絶えた。
【論】
史臣曰く、西域は魏氏に通じたとはいえ、中原始めて平らぎ、天子は混一を心とし、未だ征伐に遑あらず。その信使の往来は、深く羈縻して絶やさざるの道を得たのみである。
校勘記