巻103

蠕蠕 じゅんじゅん

蠕蠕は、東胡の苗裔なり、姓は郁久閭氏。初め神元帝の末、掠騎にて一奴を得たり、髪始めて眉に齊し、本の姓名を忘れ、其の主之に あざな して木骨閭と曰ふ。「木骨閭」とは、首禿ぐるなり。木骨閭と郁久閭は聲相近し、故に後子孫因りて以て氏と為す。木骨閭既に壯に成り、奴より免れて騎卒と為る。穆帝の時、後期に坐して斬に當たるべく、亡匿して廣漠の谿谷の間に在り、逋逃を收め合せて百餘人を得、紇突隣部に依る。木骨閭死し、子の車鹿會雄 つよ にして、始めて部眾有り、自ら 柔然 じゅうぜん と號し、而して國に役屬せり。後世祖其の無知なるを以て、狀蟲に類するが故に、其の號を改めて蠕蠕と為す。

車鹿會既に部帥と為り、歲貢として馬畜・貂豽皮を獻じ、冬は則ち うつ りて漠南に度り、夏は則ち還りて漠北に居る。車鹿會死し、子の吐奴傀立つ。吐奴傀死し、子の跋提立つ。跋提死し、子の地粟袁立つ。地粟袁死し、其の部分かれて二と為る。地粟袁の長子匹候跋は父を繼ぎて東邊に居り、次子縕紇提は別れて西邊に居る。昭成帝崩ずるに及び、縕紇提は えい 辰に附きて我に貳す。登國年中之を討つ。蠕蠕部を移して遁走す。之を追ひ、大磧南の牀山下に及び、大いに之を破り、其の半部を とりこ ふ。匹候跋及び部帥の屋擊各餘落を收めて遁走す。長孫嵩及び長孫肥を遣はして之を追はしめ、磧を渡る。嵩は平望川に至り、大いに屋擊を破り、之を とら へ、斬りて以て徇す。肥は涿邪山に至り、匹候跋に及び、跋落を舉げて降を請ふ。縕紇提の子曷多汗及び曷多汗の兄詰歸之・社崘・斛律等 へい びに宗黨數百人を獲、 これ 部に分配す。縕紇提西に遁れ、將に えい 辰に歸らんとす。太祖之を追ひ、跋那山に至り、縕紇提復た降る。太祖撫慰すること舊の如し。

九年、曷多汗と社崘と部眾を率ひ其の父を棄てて西走す。長孫肥輕騎を以て之を追ひ、上郡の跋那山に至り、曷多汗を斬り、其の眾を盡く殪す。社崘は數百人と匹候跋に奔る。匹候跋之を南鄙に處し、其の庭を去ること五百里、其の子四人をして之を監せしむ。既にして社崘其の私屬を率ひ匹候跋の四子を執りて叛き、匹候跋を襲ふ。諸子餘眾を收め、亡きて 高車 こうしゃ の斛律部に依る。社崘兇狡にして權變有り、月餘にして、乃ち匹候跋を釋き、其の諸子に歸し、 あつ めて之を殲さんと欲す。密かに兵を舉げて匹候跋を襲ひ、匹候跋を殺す。子の啟拔・吳頡等十五人太祖に歸す。社崘既に匹候跋を殺し、王師の討つを懼れ、乃ち五原以西の諸部を掠め、北に大漠を度る。太祖拔・頡を以て安遠將軍・平棘侯と為す。社崘は姚興と和親す。太祖材官將軍の和突を遣はし黜弗・素古延の諸部を襲はしむ。社崘騎を遣はし素古延を救ふ。突 むか 擊して之を破る。

社崘遠く漠北に遁れ、高車を侵し、其の地に深入りし、遂に諸部を へい せ、凶勢益々振ふ。北に弱洛水に徙り、始めて軍法を立てる。千人を軍と為し、軍に將一人を置き、百人を幢と為し、幢に帥一人を置く。 あらかじ 登する者は虜獲を以て賜ひ、退懦する者は石を以て首を擊ちて之を殺し、或は臨時に捶撻す。文記無く、將帥は羊屎を以て粗く兵數を計る。後頗る木を刻みて記と為すを知る。其の西北に 匈奴 きょうど の餘種有り、國尤も富強にして、部帥を拔也稽と曰ふ。兵を舉げて社崘を撃つ。社崘頞根河に於て逆戰し、大いに之を破り、後盡く社崘に へい せらる。號して強盛と為す。水草に隨ひて畜牧し、其の西は則ち焉耆の地、東は則ち朝鮮の地、北は則ち沙漠を渡り、瀚海を窮め、南は則ち大磧に臨む。其の常に會する庭は則ち敦煌・張掖の北なり。小國皆其の寇抄を苦しめ、羈縻して之に附く。是に於て自ら丘豆伐可汗と號す。「丘豆伐」は猶ほ魏の ことば にて駕馭開張の義、「可汗」は猶ほ魏の言にて皇帝の義なり。蠕蠕の俗、君及び大臣其の行能に因りて即ち稱號と為し、若し中國の おくりな を立てるが如く、既に死したる後は、復た追稱せず。太祖 めと しょうしょ の崔玄伯に謂ひて曰く、「蠕蠕の人、昔來頑嚚と號せられ、每に來りて抄掠し、牸牛を駕して奔遁し、犍牛を驅りて之に隨ふ。牸牛伏して前に行く能はず。異部の人其の犍牛を以て之に易へんことを教ふる者有り。蠕蠕曰く『其の母尚ほ行く能はざるに、況んや其の子をや』と。終に易へず、遂に敵の虜と為る。今社崘中國に學び、法を立て戰陳を置き、卒に邊害を成す。道家の言ふ、聖人生れば大盜起る、信なり」と。

天興五年、社崘太祖の姚興を征するを聞き、遂に塞を犯し、參合陂に入り、南は豺山及び善無の北澤に至る。時に常山王遵を遣はし萬騎を以て之を追はしむ。及ばず。天賜年中、社崘の從弟悅代・大那等謀りて社崘を殺し大那を立てんとす。發覺し、大那等來奔す。大那を以て冠軍將軍・西平侯と為し、悅代を越騎 校尉 こうい ・易陽子と為す。三年夏、社崘邊を寇す。永興元年冬、又た塞を犯す。二年、太宗之を討つ。社崘遁走し、道に死す。其の子度拔年少にして、未だ眾を御ふる能はず。部落社崘の弟斛律を立て、號して藹苦蓋可汗と曰ふ。魏の言にて姿質美好の義なり。

斛律北に賀術也骨國を へい せ、東に譬曆辰部落を破る。三年、斛律の宗人悅侯咄觝干等數百人來降す。斛律威を畏れて自ら守り、敢へて南侵せず、北邊安靜なり。神瑞元年、馮跋と和親し、跋斛律の女を聘して妻と為し、將に交婚せんとす。斛律の長兄の子步鹿真、斛律に謂ひて曰く、「女小にして遠く適すは、憂思疾を生ず。大臣の樹黎・勿地延等の女を遣はして媵と為すべし」と。斛律許さず。步鹿真出でて、樹黎等に謂ひて曰く、「斛律汝が女をして媵と為さしめ、遠く他國に至らしめんと欲す」と。黎遂に共に謀を結び、勇士をして夜に斛律の穹廬に就き、其の出づるを候ひ伺ひて之を執らしめ、女と俱に和龍に嬪せしむ。乃ち步鹿真を立てる。

步鹿真立ち、政を樹黎に ゆだ ぬ。初め、高車の叱洛侯なる者は其の渠帥に叛き、社崘を導きて諸部落を破らしむ。社崘之を德とし、以て大人と為す。步鹿真は社崘の子社拔と共に叱洛侯の家に至り、其の少妻を淫す。妻步鹿真に告げて曰く、叱洛侯大檀を舉げて主と為さんと欲し、大檀に金馬 ととの を遺して信と為すと。步鹿真之を聞き、歸りて八千騎を發し往きて叱洛侯を圍む。叱洛侯其の珍寶を焚き、自刎して死す。步鹿真遂に大檀を掩ふ。大檀軍を發し步鹿真及び社拔を執り、絞めて之を殺す。乃ち自立す。

大檀は、社崘の季父(末の叔父)僕渾の子であり、もと別部を統率し、西境に鎮守し、衆心を得ることができたので、国人が推戴して、牟汗紇升蓋可汗と号した。これは魏の言葉で制勝という意味である。斛律父子が和龍に至ると、馮跋は彼らを上谷侯に封じた。大檀は衆を率いて南に移り塞を侵犯したので、太宗(明元帝)はみずから討伐し、大檀は恐れて遁走した。山陽侯奚斤らを派遣して追撃させたが、寒雪に遭い、士卒の凍死や指を落とす者が十の二三に及んだ。太宗が 崩御 ほうぎょ し、世祖(太武帝)が即位すると、大檀はこれを聞いて大いに喜び、始光元年(424年)の秋、雲中を寇掠した。世祖はみずから討伐し、三日二夜で雲中に至った。大檀の騎兵が世祖を五十余重に包囲し、騎兵が馬首に迫り、次々と壁のようであった。士卒は大いに恐れたが、世祖の顔色は自若としており、衆情はようやく安まった。先に、大檀の弟大那が社崘と国を争って敗れ、来奔していた。大檀は大那の子於陟斤を部帥としたが、軍士が於陟斤を射殺したので、大檀は恐れて撤退した。二年(425年)、世祖は大挙して征伐し、東西五道より並進した。すなわち、平陽王長孫翰らは黒漠より、汝陰公長孫道生は白黒両漠の間より、車駕(天子)は中道より、東平公娥清は次いで西より粟園より、宜城王奚斤・将軍安原らは西道より爾寒山より進んだ。諸軍が漠南に至り、輜重を捨て、軽騎で十五日分の糧食を携え、漠を越えて討伐すると、大檀の部落は驚愕して北走した。神䴥元年(428年)八月、大檀は子に騎兵一万余を率いさせて塞内に入り、辺境の民を殺掠して逃走させた。附国(従属国)の高車が追撃してこれを破った。広寧より還るとき、追撃したが及ばなかった。

二年(429年)四月、世祖は南郊で兵を練り、大檀を襲撃しようとした。公卿大臣は皆行くことを望まず、術士の張淵・徐辯が天文をもって世祖を制止しようとしたが、世祖は崔浩の計に従って出撃した。ちょうど江南の使者が還り、劉義隆が河南を侵犯しようとしていると称し、使者に言うには、「汝は速やかに還って魏主に告げよ。我が河南の地を返還すれば、直ちに兵を罷めよう。さもなければ、我が将士の力を尽くすまでだ」と。世祖はこれを聞いて大笑し、公卿に告げて言うには、「亀鼈の小竪(取るに足らぬ小者)め、自ら救う暇もないのに、何ができようか。仮に来ることができたとしても、もし先に蠕蠕を滅ぼさなければ、すなわち坐して寇の来るを待ち、腹背に敵を受けることとなり、上策ではない。我が行いは決した」と。ここにおいて車駕は東道より黒山に向かい、平陽王長孫翰は西道より大娥山に向かい、ともに賊の本拠で会合することとした。五月、沙漠の南に駐屯し、輜重を捨てて軽装で襲撃し、栗水に至ると、大檀の衆は西に奔った。弟の匹黎は先に東部の部落を統率しており、大檀に赴こうとしたが、長孫翰の軍に遭遇し、長孫翰は騎兵を放ってこれを撃ち、その大人(部族長) しばしば 百人を殺した。大檀はこれを聞いて震え怖れ、その族党を率い、廬舎を焼き払い、跡を絶って西走し、どこへ行ったかわからなくなった。ここにおいて国(部族連合)の部落は四散し、山谷に竄伏し、畜産が野に満ちたが、収穫し看守する者はいなかった。世祖は栗水に沿って西行し、漢の将軍竇憲の故壘を過ぎた。六月、車駕は兔園水に駐屯した。 平城 へいじょう から三千七百里の距離である。軍を分けて搜索討伐し、東は瀚海に至り、西は張掖水に接し、北は燕然山を渡り、東西五千余里、南北三千里に及んだ。高車諸部は大檀の同類を殺し、前後して帰降する者三十余万、捕虜とした首級および戎馬百余万匹を得た。八月、世祖は東部高車が巳尼陂に屯し、人畜が甚だ多く、官軍から千余里離れていると聞いた。そこで左 僕射 ぼくや 安原らを派遣して討伐させた。巳尼陂に至ると、高車諸部は軍を見て降伏する者数十万であった。

大檀の部落は衰弱し、病を発して死んだ。子の呉提が立ち、敕連可汗と号した。これは魏の言葉で神聖という意味である。四年(431年)、使者を派遣して朝献した。先に、北辺の斥候騎兵が呉提の南 まさ を偵察する者二十余人を捕らえ、世祖は衣服を賜って帰還させた。呉提の上下はその徳を感じたので、朝貢したのである。世祖はその使者を手厚くもてなして帰した。延和三年(434年)二月、呉提が西海公主を娶ることにし、また使者を派遣して呉提の妹を夫人として迎え入れ、さらに左昭儀に進めた。呉提はその兄の禿鹿傀および側近数百人を派遣して来朝させ、馬二千匹を献上した。世祖は大いに喜び、賜物を分け与えること甚だ厚かった。太延二年(436年)に至り、和を絶って塞を侵犯した。四年(438年)、車駕は五原に行幸し、ついでこれを征伐した。楽平王丕・河東公賀多羅が十五将を督して東道より出撃し、永昌王健・宜都王穆寿が十五将を督して西道より出撃し、車駕は中道より出撃した。浚稽山に至り、中道をさらに二道に分け、陳留王崇は大沢より涿邪山に向かい、車駕は浚稽より北に向かい天山に向かった。西に登って白阜に至り、石に刻んで行跡を記し、蠕蠕を見ずして還った。この時、漠北は大旱であり、水草がなく、軍馬多く死んだ。五年(439年)、車駕は西伐して沮渠牧犍を討ち、宜都王穆寿が景穆太子を補佐して居守し、長楽王嵇敬・建寧王崇が二万人で漠南を鎮守し、蠕蠕に備えた。呉提は果たして塞を侵犯し、穆寿は平素から防備を設けていなかったので、賊が七介山に至ると、京邑は大いに驚き、争って中城に奔った。 司空 しくう 長孫道生が吐頽山でこれを防いだ。呉提の寇掠に際し、その兄の乞列帰を留めて北鎮諸軍と相守させていたが、嵇敬・崇らが陰山の北で乞列帰を破り、これを捕らえた。乞列帰は嘆いて言うには、「沮渠(牧犍)が我を陥れたのだ」と。その伯父の他吾無鹿胡および将帥五百人を捕らえ、首級万余を斬った。呉提はこれを聞いて遁走し、長孫道生がこれを追い、漠南に至って還った。真君四年(443年)、車駕は漠南に行幸し、四道に分かれた。すなわち、楽安王範・建寧王崇が各々十五将を統率して東道より出撃し、楽平王が十五将を督して西道より出撃し、車駕は中道より出撃し、中山王辰が十五将を率いて中軍の後継となった。車駕が鹿渾谷に至ると、賊の将と遭遇し、呉提は遁走した。頞根河まで追撃してこれを撃破した。車駕は石水に至って還った。五年(444年)、再び漠南に行幸し、呉提を襲撃しようとしたが、呉提は遠く遁走したので、還った。

呉提が死に、子の吐賀真が立ち、処可汗と号した。これは魏の言葉で ただ という意味である。十年(449年)正月、車駕は北伐し、高涼王那が東道より出撃し、略陽王 けつ 児が西道より出撃し、車駕は景穆太子とともに中道より出て涿邪山に向かった。吐賀真の別部の帥である尒綿他抜らが千余家を率いて来降した。この時、軍は数千里を行き、吐賀真は新たに立ったばかりで、恐れて遠く遁走した。九月、車駕は北伐し、高涼王那が東道より出撃し、略陽王羯児が中道より出撃し、諸軍と地弗池で会合を期した。吐賀真は国の精鋭をことごとく動員し、軍資甚だ盛んで、高涼王那を数十重に包囲した。那は長い塁を掘って堅守し、数日相持した。吐賀真がたびたび挑戦したが、つねに利あらず、那の兵が少ないのに堅固なのを見て、大軍が来るのではと疑い、包囲を解いて夜遁した。那は軍を率いてこれを追い、九日九夜、吐賀真はますます恐れ、輜重を棄て、穹隆嶺を越えて遠く遁走した。那はその輜重を収め、軍を率いて還り、車駕と広沢で会合した。略陽王羯児はその人戸畜産百余万をことごとく収穫した。ここにおいて吐賀真はついに単弱となり、遠く竄走し、辺疆の警報は止んだ。太安四年(458年)、車駕は北征し、騎兵十万、車十五万台、旌旗千里に連なり、ついに大漠を渡った。吐賀真は遠く遁走し、その莫弗(部族長)の烏朱駕頽が数千落の衆を率いて来降した。そこで石に刻んで功を記し還った。世祖の征伐の後、休 を意とし、蠕蠕もまた威を怖れて北に竄走し、敢えて再び南に来ることはなかった。

和平五年(464年)、吐賀真が死去し、子の予成が立ち、号を受羅部真可汗と称した。これは魏の言葉で「恵み」を意味する。自ら永康元年と称し、部衆を率いて辺境を侵犯したが、北鎮の遊撃軍がその衆を大いに撃破した。皇興四年(470年)、予成が辺境を侵犯したため、車駕(皇帝)は北征した。京兆王の子推、東陽公の元丕が諸軍を監督して西道より出撃し、任城王の雲らが軍を監督して東道より出撃し、汝陰王の賜、済南公の羅烏抜が軍を監督して前鋒となり、隴西王の源賀が諸軍を監督して後継となった。諸将は女水のほとりで車駕と会し、顕祖(献文帝)は自ら衆に誓いを立て、諸将に詔して言った、「用兵は奇策にあり、多勢にあるにあらず。卿らは朕のために力戦せよ。方略はすでに朕の心にある」。そこで精兵五千人を選んで挑戦し、多くの奇兵を設けてこれを惑わした。虜の衆は奔り潰え、北に三十余里を逐い、五万級を斬首し、降る者一万余人、戎馬・器械は数えきれなかった。十九日の間に、往復六千余里し、女水を武川と改称し、ついに北征頌を作り、石に刻んで功績を記した。

延興五年(475年)、予成が婚姻を通じることを求めた。有司は予成がたびたび辺塞を侵犯していることを理由に、その使者を断ち、兵を発して討つことを請うた。顕祖は言った、「蠕蠕は譬えば禽獣のごとく、貪欲にして義を失っている。朕はまさに信誠をもって物に臨むべきであり、抑えて断つことはできない。予成は以前の過ちを悔い、使者を遣わして和を請い、婚姻による支援を結ぼうと求めてきている。どうしてその誠意を孤立させることができようか」。そこで詔を下して答えて言った、「論じられた婚事については、今ようやく返答する。事理を まも ねてみると、まだその中道を得ていない。そもそも男が女に下ることは、爻象に明らかであり、初婚の吉は、礼聘を重んじることにあり、君子が人倫の根本を重んじる所以である。その初めを敬わなければ、終わりを全うすることは難しい」。予成は常に譎 いつわ を抱き、顕祖の世が終わるまで、再び婚姻を求めなかった。太和元年(477年)四月、莫何去汾の比抜らを遣わして良馬・貂裘を献上させた。比抜らは、「天朝の珍宝が華麗で非常に豊富であると承っているので、一見させてほしい」と称した。そこで有司に命じて、御府の珍玩・金玉・文繡の器物、御厩の文馬・奇禽・異獣、および人間が用いるにふさわしいものを京の市に並べさせ、彼らに遍く見させた。比抜はこれを見て、互いに言った、「大国の富と麗しさは、生まれて初めて見るものである」。二年(478年)二月、また比抜らを遣わして朝貢させ、まもなく再び婚姻を請うた。高祖(孝文帝)は招き受け入れることを志し、これを許した。予成は歳貢を絶やさなかったが、誠意ある約束は明らかでなく、婚事もまた停止した。

九年(485年)、予成が死去し、子の豆崘が立ち、号を伏古敦可汗と称した。これは魏の言葉で「恒常」を意味する。自ら太平元年と称した。豆崘は性質が残暴で殺戮を好み、その臣の侯醫垔・石洛候がたびたび忠言をもってこれを諫め、また国と通和し、中国を侵さないよう勧めた。豆崘は怒り、石洛候に謀反の罪を着せてこれを殺し、その三族を誅滅した。十六年(492年)八月、高祖は陽平王の頤、左僕射の陸叡をともに 都督 ととく とし、将軍の斛律桓ら十二将、七万騎を率いさせて豆崘を討たせた。部内の高車の阿伏至羅が十余万落の衆を率いて西走し、自立して主となった。豆崘は叔父の那蓋と二手に分かれてこれを追い、豆崘は浚稽山の北より出て西に向かい、那蓋は金山より出た。豆崘はたびたび阿伏至羅に敗れ、那蓋は累次にわたって勝利を得た。国人はみな那蓋が天に助けられていると考え、那蓋を主に推そうとした。那蓋は従わず、衆が強いるので、那蓋は言った、「私は臣たるもできぬのに、どうして主となれようか」。衆はついに豆崘母子を殺し、その屍を那蓋に見せたので、那蓋は位を襲った。

那蓋は号を候其伏代庫者可汗と称し、これは魏の言葉で「悦楽」を意味する。自ら太安元年と称した。那蓋が死去し、子の伏図が立ち、号を他汗可汗と称した。これは魏の言葉で「緒」を意味する。自ら始平元年と称した。正始三年(506年)、伏図は使者の紇奚勿六跋を遣わして朝献し、通和を請求した。世宗(宣武帝)はその使者に返答せず、有司に命じて勿六跋に勅して言った、「蠕蠕の遠祖の社崘は大魏の叛臣である。かつては包 ゆる し、一時的に通使を許した。今、蠕蠕は衰微し、かつての日に比べて損なわれている。大魏の徳は、まさに周漢のように隆盛し、 中原 ちゅうげん ほこ ぎ据え、八表を清めることを指向している。ただ江南が未だ平定されていないため、北の掠奪を一時的に寛容にしているのであり、通和の事は、まだ相許すことはできない。もし藩礼を修め、款誠が明らかであるならば、そなたを孤立させることはないであろう」。永平元年(508年)、伏図はまた勿六跋を遣わして函書一通を奉り、貂裘を献上したが、世宗は受け取らず、前の例に従って諭して帰らせた。

伏図は高車を西征したが、高車王の いよいよ 俄突に殺された。子の醜奴が立ち、号を豆羅伏跋豆伐可汗と称した。これは魏の言葉で「彰制」を意味する。自ら建昌元年と称した。永平四年(511年)九月、醜奴は沙門の洪宣を遣わして珠像を奉献させた。延昌三年(514年)冬、世宗は ぎょう 騎将軍の馬義舒を醜奴のもとに使わそうとしたが、出発しないうちに世宗が崩御したため、事は遂に停止した。醜奴は壮健で、兵を用いることに長けていた。四年(515年)、使者の俟斤の尉比建を遣わして朝貢させた。熙平元年(516年)、高車を西征してこれを大破し、その王の弥俄突を生け捕りにして殺し、叛く者をことごとく併合したので、国は遂に強盛となった。二年(517年)、また俟斤の尉比建、紇奚勿六跋、鞏顧礼らを遣わして朝貢させた。神亀元年(518年)二月、粛宗(孝明帝)は顕陽殿に臨み、顧礼ら二十人を殿下に引き入れ、 中書 ちゅうしょ 舎人の徐紇に詔を宣せしめ、蠕蠕の藩礼が備わっていないことを責めた。

初め、豆崘が死んだとき、那蓋が主となり、伏図は豆崘の妻の候呂陵氏を娶り、醜奴・阿那瓌ら六人を生んだ。醜奴が立った後、あるとき一人の子、名を祖惠という者が忽然と行方不明になり、懸賞をかけて探したが見つからなかった。屋引副升牟の妻で豆渾地万という者がおり、年齢は二十歳ほどで、医巫を業とし、神鬼を仮託していた。以前から常に醜奴に信じられており、出入りしていたが、この児は今天上におり、自分が呼び戻すことができると言った。醜奴母子は喜んだ。その年の仲秋、大沢の中に帳屋を設け、七日間潔斎して、天上に祈請した。一晷を経て、祖惠が忽然と帳中に現れ、自分は常に天上にいると言った。醜奴母子はこれを抱いて悲喜し、国人を大いに集め、地万を聖女と号し、可賀敦として娶り、その夫の副升牟に爵位を授け、牛馬羊三千頭を賜った。地万は左道の術を操る一方、容色もあり、醜奴は非常に重んじて愛し、その言を信用して国政を乱した。このように数年が経ち、祖惠が年長になると、その母が尋ねたところ、祖惠は言った、「私は常に地万の家におり、天上に行ったことはありません。天上に行ったというのは地万の教えです」。その母は詳しく状況を醜奴に告げたが、醜奴は言った、「地万は遠い事柄を明らかに見通すので、信じないわけにはいかない。讒言を用いてはならない」。まもなく地万は恐れをなして、祖惠を醜奴に讒言し、醜奴は密かに祖惠を殺した。

正光(520年)の初め、醜奴の母が莫何去汾の李具列らを遣わして地万を絞殺させた。醜奴は怒り、具列らを誅殺しようとした。また、阿至羅が醜奴を侵犯し、醜奴がこれを撃ったが、軍は敗れた。帰還後、母とその大臣によって殺され、醜奴の弟の阿那瓌が立てられた。立って十日ほど経ったとき、その族兄の俟力発の示発が数万の衆を率いて阿那瓌を討伐し、阿那瓌は戦いに敗れ、弟の乙居伐とともに軽騎で南走して国(北魏)に帰順した。阿那瓌の母の候呂陵氏とその二人の弟はまもなく示発に殺されたが、阿那瓌はまだそのことを知らなかった。

九月、阿那瓌が到着せんとするに当たり、粛宗は兼 侍中 じちゅう 陸希道を使いの主とし、兼 散騎常侍 さんきじょうじ 孟威を使いの副として、近畿に迎え慰労させた。 司空 しくう 公・京兆王元継を北中に至らせ、侍中崔光・黄門郎元纂を近郊に置き、共に宴を設けて慰労し、門闕の下に導いた。十月、粛宗は顕陽殿に臨御し、従五品以上の清官・皇族・藩国の使客らを殿庭に列せしめ、王公以下及び阿那瓌らを入らせ、庭中で北面させた。位が定まると、謁者が王公以下を導いて殿上に昇らせ、阿那瓌の位は藩王の下に置き、また命を伝える官及び阿那瓌の弟と二人の叔父を群官の下に導いた。中書舎人曹道を遣わして詔を宣し慰労の言葉をかけさせると、阿那瓌は啓して云う、「陛下の優遇は厚く、臣の弟や叔父らに殿上に昇って会に預からしめ給うが、臣には従兄がおり、北に在った時、官は二人の叔父よりも高かった。どうか命じて殿上に昇らせ給わんことを乞う」と。詔してこれを ゆる し、阿那瓌の弟の下、二人の叔父の上に位を置いた。宴も終わらんとする時、阿那瓌は啓を執って座の後に立ち、詔して舎人常景を遣わして何を言わんとするかを問わせると、阿那瓌は殿前に詣でることを求め、詔してこれを導かしめた。阿那瓌は再拝して跪きて曰く、「臣が先代の源由は、大魏より出でます」と。詔して曰く、「朕は既にこれを知っている」と。阿那瓌は起ち上がって言う、「臣の先祖は、草を逐い牧畜し、遂に漠北に居を定めました」と。詔して曰く、「卿の言は尽きていない。詳しく陳べよ」と。阿那瓌はまた言う、「臣の先祖以来、代々北土に居住し、山や川で隔てられてはいるが、心は教化を慕っております。時に宣べることができなかったのは、正に高車が悖逆し、臣の国が擾乱し、遠く誠意を宣べる使者を遣わす暇がなかったからです。近年以前より、漸く高車を平定しました。臣の兄が主となった時、故に鞏顧礼らを遣わして大魏に使いさせ、実に虔しく藩礼を修めようとしたのです。それ故に曹道芝が北使した日、臣と主君である兄は即ち大臣五人を遣わして詔命を拝受させました。臣兄弟の本心は未だ上に徹しませんでした。しかし高車がこれに従って侵暴し、中に姦臣がおり、乱に乗じて逆を為し、臣の兄を殺し、臣を立てて主としました。わずか十日余り過ぎただけで、臣は陛下の恩慈が天の如きことを思い、それ故に慌ただしく軽々しく身を投じて国に帰し、陛下に帰命したのです」と。詔して曰く、「卿の陳べたことは、理が未だ尽きていない。更に言え」と。阿那瓌は再拝して詔を受け、起ち上がって言う、「臣は家難のため、軽々しく来て朝廷に投じましたが、老母は彼方におり、万里も離れ離れとなり、本国の臣民は皆既に逃げ散っております。陛下の隆恩は天地を過ぎるものがあります。兵馬を求め乞い、本国に還り、叛逆を誅 し、亡散した者を収集したいと存じます。陛下の慈念をもって、兵馬を賜り借り受けたい。老母がもし生きていれば、生きて相見え、母子の恩を申し述べることができましょう。もし死んでいれば、即ち仇を報い、大いなる恥を雪ぐことができましょう。臣は残りの者を統臨し、陛下に奉事し、四時の貢ぎ物を欠かすことは致しません。陛下の聖顔は拝し難いが、敢えて おお 陳いたします。ただ言わんとすることは口では尽くせません。別に辞啓があります。謹んでこれを仰ぎ呈し、昭覧を垂れ給わんことを願います」と。 って啓を舎人常景に付し、具にこれを奏聞させた。間もなく阿那瓌を朔方郡公・蠕蠕王に封じ、衣冕を賜い、これに軺車と傘蓋を加え、禄従・儀衛は戚藩と同じとした。

十二月、粛宗は阿那瓌の国に定まった主がなく、還って綏撫し集めたいとの思いから、啓請が切実であるとして、詔してこれを議させた。時に朝臣の意見には同異があり、或いは還すことを聴くべしと言い、或いは不可と言った。領軍元叉が宰相であったが、阿那瓌は密かに金百斤を贈って賄賂し、遂に北に帰ることとなった。二年正月、阿那瓌ら五十四人が辞去を請うた。粛宗は西堂に臨御し、阿那瓌及びその伯叔兄弟五人を引見し、階を昇らせて座を賜い、中書舎人穆弼を遣わして慰労の言葉を宣べさせた。阿那瓌らは拝辞し、詔して阿那瓌に細明光の人馬鎧二具、鉄の人馬鎧六具を賜う。露糸銀纏の槊二張に白眊を付け、赤漆の槊十張に白眊を付け、黒漆の槊十張に幡を付ける。露糸の弓二張に箭を付け、朱漆の柘弓六張に箭を付け、黒漆の弓十張に箭を付ける。赤漆の盾六幡に刀を付け、黒漆の盾六幡に刀を付ける。赤漆の鼓角二十具。五色錦の被二領、黄紬の被褥三十具。私府の繡袍一領に帽を付け、内者の緋納の襖一領。緋袍二十領に帽を付け、内者の雑綵千段。緋納の小口袴褶一具、内中に宛具す。紫納の大口袴褶一具、内中に宛具す。百子帳十八具、黄布の幕六張。新乾飯一百石、麦麨八石、榛麨五石。銅烏錥四枚、柔鉄烏錥二枚、各二斛を受ける。黒漆竹榼四枚、各二升を受ける。婢二口。父草の馬五百匹、駱駝百二十頭、牝牛一百頭、羊五千口。朱画の盤器十合。粟二十万石。鎮に至ってこれを給う。詔して侍中崔光・黄門元纂に郭外で慰労し送らせた。

阿那瓌が来奔した後、その従父兄の俟力発婆羅門が数万人を率いて示発を討ち入り、これを破った。示発は地豆于に走奔し、その者らに殺された。婆羅門を推して主とし、号して弥偶可社句可汗と曰う、魏の言葉で安静という意味である。時に安北将軍・懐朔鎮将の楊鈞が上表して云う、「伝聞するに彼の者らは既に主を立てたという。これは阿那瓌の同堂の兄弟である。夷人は獣の心であり、既に君長として相対している。恐らくは兄を殺した者を以て、その弟を郊迎することは肯んじないであろう。軽々しく往って空しく返るのは、徒らに国威を損なうのみである。広く兵衆を加えなければ、その者を北に入らせることはできない」と。二月、粛宗は詔し、旧より蠕蠕に使いしたことのある牒云具仁を、婆羅門の下に往かせて阿那瓌を迎え藩に復させる意を諭させた。婆羅門は殊の外自ら驕慢で、遜って避ける心がなく、具仁に礼敬を責めたが、具仁は節を執って屈しなかった。婆羅門は大官の莫何去汾・俟斤丘升頭ら六人に兵二千を将いて具仁に随い阿那瓌を迎えさせた。五月、具仁は鎮に還り、彼の地の情勢を論じた。阿那瓌は恐れて入ることを敢えず、表して京に還ることを求めた。時に婆羅門が高車に逐われ、十部落を率いて涼州に詣でて帰降したため、ここに蠕蠕数万が相率いて阿那瓌を迎えた。七月、阿那瓌が啓して云う、「投化した蠕蠕の元退社・渾河旃ら二人が今月二十六日に鎮に到着し、国土が大いに乱れ、姓姓別々に住み、互いに抄略し合い、当今北人は鵠の如く望み救いを待っていると申します。今、前の恩に依り、精兵一万を賜い給い、還って督率させて臣を磧北に送り、荒人を撫定させてください。もし蒙る所の請いがあれば、事は必ず成し遂げられましょう」と。詔して尚書・門下に付して広く議させた。八月、詔して兼 散騎常侍 さんきじょうじ 王遵業を馳駅させて旨を宣し阿那瓌を慰め、併せて賜賚を申し述べさせた。

九月、蠕蠕の後主俟匿伐が懐朔鎮に来奔す。阿那瓌の兄なり。列を成して軍を乞い、併せて阿那瓌を請うと称す。十月、録尚書事高陽王雍・ 尚書令 しょうしょれい 李崇・侍中侯剛・尚書左僕射元欽・侍中元叉・侍中安豊王延明・吏部尚書元脩義・尚書李彦・給事黄門侍郎元纂・給事黄門侍郎張烈・給事黄門侍郎盧同等、奏して曰く、「窃かに聞く、漢は南・北単于を立て、晋は東・西の称あり、皆な相い つな ぎて難を ふせ ぎ、国の 藩籬 まがき と為すと。今臣等参議す、懐朔鎮の北、土名無結山吐若奚泉、敦煌の北西海郡は即ち漢晋の旧障なり、二処は寛平にして、原野は いよいよ ゆ。阿那瓌は西の吐若奚泉に置くべく、婆羅門は西海郡に置くべし、各おの部落を総率せしめ、離散を収め あつ めしむべし。その爵号及び資給の もと むる所は、唯だ恩裁を以て処せらるべし。彼の臣下の官は、その旧俗に任すべし。阿那瓌の居る所は、既に境外なれば、宜しく少しく優遣し、以て威刑を示すべし。沃野・懐朔・武川鎮に各おの二百人を差し、当鎮の軍主に監率せしめ、その糧仗を給し、前所に送致し、 なお 彼に於いてその造構を為さしめ、功成りて還るを ゆる すべし。 これ 北より来り、婆羅門の前に投化する者は、州鎮の上佐に程に したが ひて糧を給し、懐朔の阿那瓌に送詣せしめ、鎮は使人と量りて食廩を給すべし。京館に在る者はその去留に任すべし。阿那瓌は草創にして、 あらかじ め儲積無し、朔州の麻子乾飯二千斛を給せんことを請う、官駝を以て運送すべし。婆羅門は西海に居り、既に境内なれば、資 えい はこれと同うすべからず。阿那瓌等は新たに藩屏を造る、宜しく各おの使を遣わし、節を持ち馳驛して先ず詣り慰諭せしめ、併せて経略を ゆだ ぬべし」と。肅宗これに従う。十二月、詔して安西将軍・廷尉元洪超に尚書行臺を兼ねさせ、敦煌に詣り婆羅門を安置せしむ。婆羅門は まも なく部衆と謀り叛き嚈噠に投ず。嚈噠の三妻は、皆な婆羅門の姊妹なり。 って州軍に討たれ、これを とら う。

三年十二月、阿那瓌は表を上り粟を乞うて田種と為さんとす。詔して万石を給す。四年、阿那瓌の衆大いに飢え、塞に入り寇抄す。肅宗、詔して尚書左丞元孚に行臺尚書を兼ねさせ節を持ちてこれを諭さしむ。孚、阿那瓌に会見し、その為めに執られ、孚を自ら随え、良口二千を駆掠し、公私の驛馬牛羊数十万を北に遁れ、孚を放ち還すを謝す。詔して驃騎大将軍・ 尚書令 しょうしょれい 李崇等に騎十万を率いてこれを討たしむ。塞を出ること三千余里、瀚海に至り、及ばずして還る。俟匿伐、 洛陽 らくよう に至る。肅宗、西堂に臨み、これを引見す。五年、婆羅門、洛南の館にて死す。詔して使持節・鎮西将軍・秦州 刺史 しし ・広牧公を贈る。

是歳、沃野鎮の人破六韓抜陵反す。諸鎮相応ず。孝昌元年春、阿那瓌、衆を率いてこれを討つ。詔して牒云具仁を遣わし雑物を もた らしめて阿那瓌を労賜す。阿那瓌、詔命を拝受し、衆十万を ととの え、武川鎮より西に向かい沃野に至り、頻りに戦いて克捷す。四月、肅宗、また兼通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・中書舎人馮儁を遣わし阿那瓌に使せしめ、宣労し班賜すること差等あり。阿那瓌の部落既に和し、 士馬稍 ようや く盛んにして、乃ち号して敕連頭兵豆伐可汗と曰う。魏の ことば 把攬 はらん なり。十月、阿那瓌、また郁久閭弥娥を遣わし朝貢す。三年四月、阿那瓌、使人鞏鳳景等を遣わし朝貢す。及び還るに及び、肅宗これに詔して曰く、「北鎮の羣狄、逆を為して まず、蠕蠕主は国の為に忠を立て、誅討を助加す。その誠心を 言念 ことね すれば、寢食忘るること無し。今知る、朔垂に停まり、尒朱栄と隣接すと。その部曲を いかめ 勒し、相い暴掠すること無かれ。又近く蠕蠕主の啓を得たり、更に国の為に東討せんと欲すと。但し蠕蠕主は世に北漠に居り、炎夏に宜しからず。今は且く停まるべく、後敕を待つを ゆる せ」と。蓋し朝廷その反覆を慮るなり。此の後頻りに使を遣わし朝貢す。

建義初、孝莊、詔して曰く、「勲高き者は賞重く、徳厚き者は名隆し。蠕蠕主阿那瓌は北藩を鎮 えい し、朔表に侮を ふせ ぎ、遂に陰山に警を ませ、弱水に塵無からしめ、跡を狼山に きざ み、功を瀚海に銘す。至誠既に篤く、 勲緒酬 むく うる莫し。故に宜しく殊礼を以て しる すべく、何ぞ常式を以て ただ すを ゆる さんや。自今以後、讚拜に名を言わず、上書に臣を称せず」と。太昌元年六月、阿那瓌、烏句蘭樹什伐等を遣わし朝貢し、併せて長子の為に公主を めあわ せんことを請う。永熙二年四月、出帝、詔して范陽王誨の長女琅邪公主を以てこれに許す。未だ婚せずして、帝関に入る。斉献武王、使を遣わしこれを説く。阿那瓌、使を遣わし朝貢し、婚を求む。 献武王方 まさ に四遠を招かんとし、常山王の妹楽安公主を以てこれに許し、改めて蘭陵公主と為す。瓌、馬千匹を奉りて娉礼と為し、公主を迎う。詔して宗正元寿に公主を送りて北に往かしむ。是より 朝貢相尋 つぎつぎ なり。瓌、斉献武王の威徳日盛んなるを以て、愛女を王に致さんことを請う。静帝、詔して王にこれを納れしむ。此より塞外塵無し。

宇文莫槐

匈奴の宇文莫槐は、遼東塞外より出ず。その先は南単于の遠属なり。世に東部大人と為る。その語は 鮮卑 せんび と頗る異なり。人皆な髪を りてその頂上を留め、以て首飾と為す。長さ数寸を過ぐれば則ちこれを截ち短くす。婦女は長襦を おお いて足に及び、而して裳無し。秋に烏頭を収めて毒薬と為し、以て禽獣を射る。

莫槐その民を虐用し、部人の為めに殺さる。更にその弟普撥を立てて大人と為す。普撥死し、子の丘不勤立つ。平文の女を めと る。丘不勤死し、子の莫廆立つ。本名は太祖の いみな を犯す。莫廆、弟の屈雲を遣わし 慕容 ぼよう 廆を攻む。廆これを撃ち破る。又別部の素延を遣わし棘城に於いて慕容廆を伐つ。復た慕容廆の為めに破らる。時に莫廆の部衆強盛にして、自ら単于と称し、塞外の諸部皆なこれを畏憚す。莫廆死し、子の遜昵延立つ。衆を率いて棘城に於いて慕容廆を攻む。廆の子の翰、 あらかじ め外に戍る。遜昵延その衆に謂いて曰く、「翰は素より果勇、必ず人の患と為らん。宜しく先ずこれを取るべし。城は憂うるに足らず」と。乃ち騎数千を分かちて翰を襲わしむ。翰これを聞き、人を使い いつわ りて段末波の使者と為し、遜昵延に むか って謂いて曰く、「翰は しばしば 吾が患と為り、久しくこれを除かんと思う。今来たりて討つと聞く、甚だ善し。戒厳して相い待つ。宜しく路を兼ねて早く赴くべし」と。翰、伏を設けてこれを待つ。遜昵延これを信然と為し、長駆して備えず、伏する所に至り、翰の為めに とりこ にせらる。翰、使いを馳せて廆に告ぐ。勝に乗じて遂に進み、 あした に及びて至る。廆も亦た鋭を尽くしてこれに応ず。遜昵延これを見て まさ いかめ しく、衆を率いて逆戦す。前鋒始めて交わるや、而して翰は已にその営に入り、火を放ちてこれを やす。衆乃ち大いに潰え、遜昵延単馬にて奔り還る。その衆を悉く とりこ にす。遜昵延父子世に漠北に雄たり、 又先 あらかじ め玉璽三紐を得たり。自ら天の相うる所と言い、 つね に自ら大いに ほこ る。この敗に及びて、乃ち卑辞厚幣を以てし、使を遣わし昭帝に朝献す。帝これを嘉し、女を以てこれに妻とす。

遜昵延死し、子の乞得龜立つ。復た慕容廆を伐つ。廆これを拒ぐ。恵帝三年、乞得龜、澆水に屯保し、壘を固めて戦わず。その兄の悉跋堆を遣わし栢林に於いて廆の子の仁を襲わしむ。仁これを逆撃し、悉跋堆を斬る。廆又た乞得龜を攻めてこれを克つ。乞得龜単騎にて夜奔す。その衆を悉く とりこ にす。勝に乗じて長駆し、その国城に入り、資財を収むること億計、部民数万戸を うつ して以て帰る。是に先立ち、海より大龜出で、平郭に枯死す。是に至りて乞得龜敗る。

別部の者逸豆帰が乞得亀を殺して自立し、慕容晃と相攻撃し、その国相莫渾を遣わして晃を伐たせたが、莫渾は酒に荒み狩りに耽り、晃に破られ、死者は一万余人に及んだ。建国八年、晃が逸豆帰を伐つと、逸豆帰はこれを拒んだが、晃に敗れ、その ぎょう 将の渉亦干を殺された。逸豆帰は遠く漠北に遁れ、遂に高麗に奔った。晃はその部衆五千余落を昌黎に移し、ここに散滅した。

段就六眷

徒何の段就六眷は、本来遼西より出づ。その伯祖の日陸眷は、乱に因り漁陽の烏丸大の庫辱官の家奴として売られた。諸大人が幽州に集まるとき、皆唾壺を持ったが、ただ庫辱官のみが持たず、乃ち日陸眷の口中に唾した。日陸眷はこれに因り之を嚥み、西に向かって天を拝して曰く、「願わくは主君の智慧禄相、尽く我が腹中に移入せんことを」と。その後漁陽に大飢饉あり、庫辱官は日陸眷を つよ しとして、之を将いて遼西に詣り食を逐わしめ、亡叛を招誘せしめたところ、遂に強盛に至った。日陸眷が死ぬと、弟の乞珍が代わって立った。乞珍が死ぬと、子の務目塵が代わって立ち、これが就六眷の父である。遼西の地を拠有し、晋に臣従した。その統べる所は三万余家、控弦上馬するもの四五万騎。穆帝の時、幽州刺史の王浚は段氏が数度己のために用いられたことを以て、深く之を徳とし、乃ち表して務目塵を遼西公に封じ、大単于の印綬を仮授した。浚は務目塵に万余騎を率いさせ、常山の封龍山の下において石勒を伐たせ、大いにこれを破った。

務目塵が死ぬと、就六眷が立った。就六眷は弟の匹磾、従弟の末波らと共に五万余騎を率い、襄国において石勒を包囲した。勒が城に登ってこれを望むと、将士が皆仗を解き寝臥し、警備の意無きを見た。勒はその懈怠に因り、勇健を選募し、城を穿って突出し、直ちに末波を衝き、生け捕りにした。之を座の上に置き、飲宴を尽くして歓び、父子と約し、盟誓してこれを遣わした。末波は既に免れるを得ると、就六眷らは遂に軍を摂して還り、再び浚に報いることなく、遼西に帰った。この後より、末波は常に南に向かって溲(小便)することを敢えてせず、人がその故を問うと、末波は曰く、「吾が父は南に在り」と。その勒が己を害さざりしことを感ずること、かくの如し。

就六眷が死ぬと、その子は幼弱であった。匹磾は劉琨の世子の劉羣と共に喪に奔った。匹磾は陰に甲を巻いて往き、その従叔の羽鱗及び末波を殺してその国を奪わんと欲した。末波らこれを知り、軍を遣わして逆撃し、匹磾と劉羣は末波に捕えられた。匹磾は走って薊に還り、琨に捕えられることを懼れ、琨に宴会を請い、因りて之を執り害した。匹磾は既に劉琨を殺すと、羽鱗、末波と自ら相攻撃し、部衆は乖離した。その衆を擁して上谷に徙り保たんと欲し、軍都の険に阻まれて、以て末波らを拒がんとした。平文帝これを聞き、陰に精騎を厳めて将に之を撃たんとした。匹磾は恐懼し、南に楽陵に奔った。後、石勒が石虎を遣わして楽陵において段文鴦を撃たしめ、これを破り、文鴦を生け捕りにした。匹磾は遂にその属及び諸塢壁を率いて石勒に降った。

末波は自ら幽州刺史と称し、遼西に屯した。末波が死ぬと、国人は日陸眷の弟の護遼を立てて主とした。烈帝の時、護遼に驃騎大将軍・幽州刺史・大単于・北平公を仮授し、弟の鬱蘭に撫軍将軍・冀州刺史・勃海公を仮授した。建国元年、石虎が遼西において護遼を征すると、護遼は平岡山に奔り、遂に慕容晃に投じたが、晃は之を殺した。鬱蘭は石虎に奔り、徙らせられた鮮卑五千人をこれに配し、令支に屯せしめた。鬱蘭が死ぬと、子の龕がこれに代わった。冉閔の乱に及んで、龕は衆を率いて南移し、遂に斉の地を拠有した。慕容儁は弟の玄恭に衆を帥わせて広固において龕を伐たしめ、龕を執り薊に送り、儁はその目を毒して殺し、その徒三千余人を坑った。

高車

高車は、蓋し古の赤狄の余種なり。初めは狄歴と号し、北方では勑勒と為し、諸夏では高車・丁零と為す。その語は略匈奴と同じくして時に小異あり。或いは云う、その先は匈奴の甥なりと。その種に狄氏・袁紇氏・斛律氏・解批氏・護骨氏・異奇斤氏あり。俗に云う、匈奴の単于が二女を生み、姿容甚だ美しく、国人皆神と為す。単于曰く、「吾に此の女あり、安んぞ人に配せん、将に天に与えんとす」と。乃ち国北の人の無き地に高台を築き、二女を其上に置き、曰く、「天自ら之を迎えんことを請う」と。三年を経て、その母之を迎えんと欲す。単于曰く、「不可、未だ徹せざる間のみ」と。さらに一年を経て、乃ち一匹の老狼が昼夜台を守りて嘷呼し、因りて台下を穿ちて空穴と為し、時を経ても去らず。その小女曰く、「吾が父我を此に処す、以て天に与えんと欲す。今狼来る、或いは神物か、天これを然らしむ」と。将に下りてこれに就かんとす。その姉大いに驚きて曰く、「これは畜生なり、父母を辱しむるに無からんや」と。妹は従わず、下りて狼の妻と為りて子を産み、後遂に滋繁して国を成す。故にその人は声を引き長く歌うことを好み、また狼の嘷くに似たり。

都統大帥無く、当種それぞれに君長あり。性は粗猛を為し、党類は同心にして、寇難に至れば、翕然として相依う。闘うに行陳無く、頭別に衝突し、乍出乍入して、堅く戦うこと能わず。その俗は蹲踞褻黷にして、忌避する所無し。婚姻には牛馬を用いて納聘し、以て栄と為す。結言既に定まれば、男党は車を営み馬を かこ い、女党に恣に取らしめ、上馬して袒乗し闌を出づ。馬主は闌外に立ち、手を振りて馬を驚かし、墜ちざる者を即ち取る。墜ちれば則ち更に取り、数満ちて乃ち止む。俗に穀無く、酒を作らず、婦を迎うる日、男女相将い、馬酪熟肉を持ち節解す。主人賓を延うるにも行位無く、穹廬の前に叢坐し、飲宴終日し、復たその宿を留む。明日、婦を将いて帰る。既にして夫党を将いて還りその家の馬群に入り、極めて良馬を取る。父母兄弟は惜しむと雖も、終に言う者無し。寡婦を取ることを頗る諱みて優にこれを憐れむ。その畜産は自ら記識あり、 かこ いを はな ち野に在ると雖も、終に妄りに取ること無し。俗は清潔ならず。震霆を致すことを喜び、震う毎に則ち叫呼して天を射ち、これを棄てて移り去る。来歳の秋に至り、馬肥ゆると、復た相率いて震うる所に候い、羖羊を埋め、火を燃やし、刀を抜き、女巫が祝説す。中国の祓除の如くにして、群隊は馬を馳せて旋繞し、百帀して乃ち止む。人各一束の柳桋を持ち、回ってこれを竪て、以て乳酪を灌ぐ。婦人は皮を以て羊骸を裹み、之首上に戴き、髪鬢を縈屈してこれに綴じ、軒冕に似たり。その死亡葬送には、地を掘りて坎を作り、屍を其中に坐らせ、臂を張り弓を引き、刀を佩き矟を挟み、生に異なること無くして、坎を露わにし掩わず。時に震死及び疫癘あるときは、則ち之が為に祈福す。若し安全にして他無ければ、則ち報賽を為す。雑畜を多く殺し、骨を焼きて以て燎と為し、馬を走らせて遶旋し、多きは数百帀に及ぶ。男女大小を問わず皆集会し、平吉の人は則ち歌舞して楽を作し、死喪の家は則ち悲吟して哭泣す。その遷徙は水草に随い、皮を衣て肉を食い、牛羊畜産は尽く蠕蠕と同じ。ただ車輪高大にして、輻の数至って多し。

その後、鹿渾海の西北百余里に移り住み、部落は強大となり、常に蠕蠕と敵対し、またしばしば国家を侵掠した。太祖は自ら襲撃し、その諸部を大いに破った。後に太祖は再び弱洛水を渡り、西行して鹿渾海に至り、車駕を停めて軽騎を選び、西北に百余里行き、これを襲撃して破り、生口・馬・牛・羊二十余万を虜獲した。さらに狼山においてその余種を討ち、大いにこれを破った。車駕が巡幸し、諸将を分けて東西二道とし、太祖は自ら六軍を率いて中道より、駁髯水の西北より、その部を攻略し、諸軍は同時に雲のごとく合し、その雑種三十余落を破った。衛王儀は別に将を督して西北より漠を絶ち千余里、さらにその遺迸七部を破った。ここにおいて高車は大いに恐れ、諸部は震駭した。太祖は牛川より南に引き、大いに校猟し、高車を以て囲いとし、騎兵と徒歩兵が列を遮り、周囲七百余里、雑獣をその中に集めた。そこでこれを駆り立てて平城に至り、すなわち高車の衆を以て鹿苑を築き、南は台陰に因り、北は長城に距り、東は白登を包み、これを西山に属せしめた。まもなく高車の姪利曷莫弗敕力犍がその九百余落を率いて内附し、敕力犍を揚威将軍に拝し、司馬・参軍を置き、穀物二万斛を賜った。後に高車の解批莫弗幡豆建がまたその部三十余落を率いて内附し、これも威遠将軍に拝し、司馬・参軍を置き、衣服を賜い、毎年廩食を給した。

蠕蠕の社崘が破敗した後、部落を收拾し、広漠の北に転徙し、高車の地に侵入した。斛律部の部帥倍侯利はこれを憂え、言うには「社崘は新たに集まり、兵は貧しく馬は少ない、容易に対処できる」と。そこで衆を挙げて掩撃し、その国落に入った。高車は利に昧き、後患を顧みず、その廬室を分け、その婦女を妻とし、安息して寝臥し起きなかった。社崘が高みに登って望見し、亡散を招集して千人を得、朝に掩殺し、逃れて脱した者は十二三であった。倍侯利は遂に来奔し、爵を孟都公と賜った。倍侯利は質直で勇健人に過ぎ、戈を奮って陣を陥れ、衆に異なるものがあった。北方の人で嬰児の啼くのを畏れる者は、「倍侯利が来る」と言えば、止んだ。処女の歌謡に云う、「良夫を求むるには、倍侯の如きに当たるべし」と。その衆を服させることこのようであった。五十本の蓍を用いて吉凶を筮うことを善くし、毎度当たったので、親幸を得、賞賜は豊厚で、その少子曷堂に命じて内侍させた。倍侯利が卒すると、太祖は悼惜し、国礼を以て葬り、諡して忠壮王と曰う。後に詔して将軍伊謂に二万騎を帥いて北に高車の余種袁紇・烏頻を襲撃させ、これを破った。太祖の時、諸部を分散したが、ただ高車はその類が粗獷で、使役に任じられないため、別に部落と為すことを得た。

後世、世祖が蠕蠕を征し、これを破って還り、漠南に至り、高車の東部が巳尼陂におり、人畜が甚だ多く、官軍より千余里離れていると聞き、左僕射安原らを遣わしてこれを討たせようとした。 司徒 しと 長孫翰・ 尚書令 しょうしょれい 劉潔らが諫めたが、世祖は聞き入れず、安原らを遣わし、併せて新たに附いた高車を発して合せて一万騎とし、巳尼陂に至らせた。高車諸部が軍を見て降伏した者は数十万落、獲た馬牛羊もまた百余万に及び、皆漠南千里の地に徙置した。高車に乗り、水草を逐い、畜牧は蕃息し、数年後、漸く粒食を知り、毎年献貢を致すようになり、これにより国家の馬及び牛羊は遂に賤しくなるに至り、氈皮は委積した。高宗の時、五部の高車が合聚して天を祭り、衆は数万に至った。大会し、走馬し牲を殺し、遊遶して歌吟し忻忻たり、その俗に称えて前世以来これより盛んなるはなしと言う。時に車駕が臨幸し、忻悦せざる者はなかった。後に高祖が高車の衆を召して車駕に随い南討させると、高車は南行を願わず、遂に袁紇樹者を推して主と為し、相率いて北に叛き、金陵を遊践した。 都督 ととく 宇文福が追討したが、大敗して還った。また詔して平北将軍・江陽王継を 都督 ととく としてこれを討たせ、継は先に人を遣わして樹者を慰労した。樹者は蠕蠕に入ったが、まもなく悔い、相率いて降った。

高車の族には、また十二姓がある。一に泣伏利氏、二に吐盧氏、三に乙旃氏、四に大連氏、五に窟賀氏、六に達薄干氏、七に阿崘氏、八に莫允氏、九に俟分氏、十に副伏羅氏、十一に乞袁氏、十二に右叔沛氏。先に、副伏羅部は蠕蠕に役属されていたが、豆崘の世、蠕蠕は乱離し、国部は分散し、副伏羅阿伏至羅は従弟の窮奇とともに高車の衆十余万落を統領した。太和十一年、豆崘が塞を犯すと、阿伏至羅らは固く諫めたが従わず、怒り、率いる所の衆を率いて西に叛き、前部の西北に至り、自立して王と為り、国人はこれを「候婁匐勒」と号した。これは魏の言う大天子に当たる。窮奇は「候倍」と号した。これは魏の言う儲主に当たる。二人は和穆し、分かれて部を立て、阿伏至羅は北に居り、窮奇は南に在った。豆崘が追討したが、頻りに阿伏至羅に敗れ、乃ち衆を引いて東に徙った。十四年、阿伏至羅は商胡の越者を京師に遣わし、二本の箭を奉って貢ぎ、云うには「蠕蠕は天子の賊であり、臣が諫めても従わず、遂に叛き来たりここに至りて自ら豎立した。当に天子のために蠕蠕を討除すべし」と。高祖はこれを信じず、使者于提を遣わして虚実を観させた。阿伏至羅と窮奇は使者薄頡を遣わして于提に随い来朝し、その方物を貢いだ。詔して員外散騎侍郎可足渾長生を復た于提とともに高車に使わし、各々繍袴褶一具、雑綵百匹を賜った。窮奇は後に嚈噠に殺され、その子弥俄突らを虜われ、その衆は分散し、或いは来奔附し、或いは蠕蠕に投じた。詔して宣威将軍・羽林監孟威を遣わして降人を撫納し、これを高平鎮に置いた。阿伏至羅の長子は阿伏至羅の余妻を蒸し、阿伏至羅を謀害しようとしたので、阿伏至羅はこれを殺した。

阿伏至羅はまた残暴で、大いに衆心を失い、衆は共にこれを殺し、その宗人跋利延を立てて主とした。歳余りして、嚈噠が高車を伐ち、弥俄突を納れんとすると、国人は跋利延を殺し、弥俄突を迎えて立てた。弥俄突が立つと、復た朝貢を遣わし、また表を奉って金方一・銀方一・金杖二・馬七匹・駝十頭を献じた。詔して使者慕容坦に弥俄突に雑綵六十匹を賜わしめた。世宗は詔して曰く「卿は遠く沙外に据わり、頻りに誠款を申し、忠志を覧揖し、特に欽嘉する。蠕蠕・嚈噠・吐谷渾が交通する所以は、皆高昌に路より、掎角相接している。今、高昌が内附し、使者を遣わして迎引するに及び、蠕蠕の往来の路は絶え、姦勢。妄りに群小をして敢えて陵犯せしめ、王人を擁塞することを得ず、罪は赦さず」と。弥俄突はまもなく蠕蠕の主伏図と蒲類海の北で戦い、伏図に敗れ、西に三百余里走った。伏図は伊吾の北山に次いだ。先に、高昌王麴嘉が表して内徙を求め、世宗は孟威を遣わしてこれを迎えさせた。伊吾に至ると、蠕蠕は威の軍を見て、怖れて遁走した。弥俄突はその離駭を聞き、追撃して大いにこれを破り、伏図を蒲類海の北で殺し、その髪を割き、孟威に送った。また使者を遣わして龍馬五匹・金銀貂皮及び諸方物を献じ、詔して東城子于亮にこれを報わせ、楽器一部、楽工八十人、赤紬十匹、雑綵六十匹を賜った。弥俄突はその莫何去汾屋引叱賀真を遣わしてその方物を貢いだ。

粛宗の初め、彌俄突は蠕蠕の主醜奴と戦って敗れ捕らえられ、醜奴はその両足を駑馬に縛り付け、引きずり回して殺し、その首を漆塗りにして飲器とした。その部衆はすべて嚈噠に入った。数年を経て、嚈噠は彌俄突の弟伊匐を帰国させることを許した。伊匐は国を回復すると、使者を遣わして上表し、そこで詔により使者の谷楷らを派遣し、鎮西将軍・西海郡開国公・高車王に拝した。伊匐はまた蠕蠕を大破し、蠕蠕の主婆羅門は涼州に逃げ込んだ。正光年間、伊匐は使者を遣わして朝貢し、朱塗りの歩挽車一台と幔褥、鞦䩛一組、傘扇各一枚、青曲蓋五枚、赤漆扇五枚、鼓角十枚を求めた。詔によりこれを給した。伊匐は後に蠕蠕と戦って敗れて帰還すると、その弟の越居が伊匐を殺して自立した。天平年間、越居はまた蠕蠕に撃破され、伊匐の子の比適がまた越居を殺して自立した。興和年間、比適はまた蠕蠕に撃破された。越居の子の去賓が蠕蠕から来奔し、斉の献武王は遠方の人を招き入れようとし、上言して去賓を高車王に封じ、安北将軍・肆州刺史に拝した。ほどなく病死した。

初め、太祖の時、吐突隣部があり、女水のほとりにあり、常に解如部と唇歯の関係で、職事に供さなかった。登国三年、太祖はみずから西征し、弱洛水を渡り、さらに西行してその国に向かい、女水のほとりに至り、解如部落を討ってこれを破った。翌年春、その部落の畜産をことごとく略奪し移して還った。

また紇突隣があり、紇奚と世々同じ部落であったが、それぞれ大人長帥を有し、種類を擁集して、常に意辛山で寇掠を行った。登国五年、太祖は衆を率いてみずからこれを討ち、慕容驎が師を率いて来会し、これを大破した。紇突隣の大人屋地鞬、紇奚の大人庫寒らは皆、部を挙げて帰降した。皇始二年、車駕は中山を伐ち、栢肆に軍を駐めた。慕容宝が夜来して営を攻め、軍人は驚き走って国に還ろうとし、路は 并州 へいしゅう を通り、ついに反し、 晋陽 しんよう を攻めようとしたが、 へい 州刺史の元延がこれを討平した。紇突隣部の帥匿物尼、紇奚部の帥叱奴根らがまた党を聚めて陰館で反し、南安公の元順がこれを討ったが勝てず、死者数千人に及んだ。太祖はこれを聞き、安遠将軍の庾岳を還らせて匿物尼らを討たせ、ことごとく殄滅した。

また侯呂隣部があり、衆一万余口、常に険阻に依って畜牧していた。登国年間、その大人の叱伐が苦水河で寇掠を行った。八年の夏、太祖はこれを大破し、その別帥の焉古延らをも捕らえた。

薛干部は、常に三城の間に屯聚していた。衛辰を滅ぼした後、その部帥の太悉伏は軍を見て帰順し、太祖はこれを撫安した。車駕が還ると、衛辰の子の屈丐がその部に奔った。太祖はこれを聞き、使者を遣わして詔し、太悉伏に屈丐を執って送るよう命じた。太悉伏は屈丐を出して使者に示し、「今窮して我に投じた者を、寧ろ共に亡ぼすとも、どうして忍んでこれを送ることができようか」と言い、ついに遣わさなかった。太祖は大いに怒り、車駕みずからこれを討った。時に太悉伏は先に出撃して曹覆寅を撃っていたので、官軍は虚に乗じ、ついにその城を屠り、太悉伏の妻子と珍宝を獲、その人を移して還った。太悉伏は来赴したが及ばず、ついに姚興に奔り、間もなく嶺北に亡帰した。上郡以西の諸鮮卑・雑胡はこれを聞いて皆これに応じた。天賜五年、屈丐はことごとく劫掠し総べてこれを服した。統万を平定すると、薛干の種類は皆、編戸と為すことを得た。

また牽屯山の鮮卑別種の破多蘭部は世々主部落を伝え、木易干に至って武力壮勇があり、左右を劫掠し、西は金城に及び、東は安定を侵し、数年間、諸種はこれを患とした。天興四年、常山王の遵を遣わして高平でこれを討ち、木易干は数千騎を将いて国を棄て遁走し、その人をことごとく京師に移した。余種は分迸し、その後、 赫連 かくれん 屈丐によって滅ぼされた。

また黜弗・素古延等の諸部は、富みながら恭しくなかった。天興五年、材官将軍の和突が六千騎を率いて襲撃し、これを獲た。

また越勒倍泥部は、永興五年、跋那山の西に転牧した。七月、奚斤を遣わしてこれを討ち破り、その人を移して還った。

【論】

史臣曰く、周の獫狁、漢の匈奴、その中国に害をなすこと固より久し。魏晋の世、種族瓜分し、去来は沙漠の陲、窺擾は鄣塞の際、なお皆な東胡の余緒、冒頓の枝葉なり。蠕蠕の如きに至りては、匈奴の裔、根本尋ねる莫く、刑を逃れ醜を集め、小より大と為り、風馳し鳥赴き、倐来忽往し、代京これによりて屡駭し、戎車ここに由りて寧からず。是の故に魏氏の祖宗は威を揚げ武を曜かし、その畜産を駆り、その部落を収め、これを窮髮の野に翦り、これを無人の郷に逐う。豈に好んで兵を肆にし鋭を極め、凶器を戢えざらんや、蓋し亦た病を急ぎ悪を除く、事已むを得ざるに然るなり。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻103