巻93

巧言令色を弄し、真情を偽り容貌を飾り、顧眄の利を求め、咳唾の私を射んとするは、これ苟もに進みを求める者の常態なり。故に甚だしきは身を刑し子を し、次は痔を舐め癰を嘗むるあり、況んや金を散じて秦の貨とし、銭を輸して漢の爵を得るや、また何ぞ怪しまんや。若し地は尊貴に窮まり、嗜欲これに攻められば、聖達すら猶お諸れを病む、中庸固より免るる能わず。男女の性態、その はかりごと はこれ一なり、二代の亡ぶる、皆この物なり。天下の図を握り、海内の命を持し、顧指如意、高下心に在り、これ乃ち夏桀・殷紂の二邦を喪い、秦母・呂雉の両国を穢す所以なり。魏の世、王叡は太和の初めに幸せられ、鄭儼は孝昌の末に寵せらる。主は前に幼く、君は後に稚く、間隙に乗じて淫を宣べ、殆ど忌憚無く、朋党を列ね樹て、天聡を蔽塞す。高祖は明聖外に彰れ、 人神繫 かか りて仰ぎ、これを御するに術あり、宗社墜つること無し。粛宗は言わずして垂拱し、潜かに済うに方無く、六合淆然として、隕覆に至る。且つ顔色を承け、光寵を窃み、勢は秋風に等しく、気は夏日に同じきも、また何れの世にか有らざらんや。これ周公旦の以てその朋を誡むる所以、詩人の以て羣小を疾むる所以なり。太宗の時、王・車の徒は、幸念と云うと雖も、皆夷険に力を宣べ、誠効兼ねて存し、趙脩等の如く近習趨走の地より出で、坐して威刑を擅にし、勢都鄙を傾け、之を得るに道無きにはあらず。君子の以てこれを賤しむ所以なり。その変態を書き、禍福の由を備う。

王叡

王叡は、 あざな を洛誠といい、自ら太原郡 しん 陽県の人と称す。六世の祖の横は、張軌の参軍なり。 しん の乱に、子孫因って武威郡姑臧県に居住す。父の橋は、字を法生といい、天文卜筮を解す。涼州平定後、京に入り、家貧しく、術を以て自ら生計を立てる。歴仕して終に侍御中散となる。天安初年に卒す。平遠将軍・涼州 刺史 しし ・顕美侯を追贈され、 おくりな して敬という。

叡は少にして父の業を伝え、姿貌偉麗なり。恭宗の東宮に在りし時、これを見て奇とす。興安初年、太卜中散に抜擢され、稍く遷って令となり、太史を領す。承明元年、文明太后朝に臨み、叡は縁故により見幸せられ、超遷して給事中となる。俄かに 散騎常侍 さんきじょうじ 侍中 じちゅう ・吏部 尚書 しょうしょ となり、爵を太原公と賜う。ここにおいて内に機密に参じ、外に政事に預かり、愛寵日増しに隆く、朝士憚るる所となる。太和二年、高祖及び文明太后は百僚と諸方の客を率い虎圈に臨む。逸虎有りて門閣道に登り、幾くばくか御座に至らんとす。左右の侍御皆驚き靡く。叡独り戟を執りてこれを禦ぎ、虎乃ち退き去る。故に親任転た重し。三年春、詔して叡と東陽王丕とをして八議に同入せしめ、永く復除を受く。四年、 尚書令 しょうしょれい に遷り、爵を中山王に封じ、鎮東大将軍を加えらる。王官二十二人を置き、 中書 ちゅうしょ 侍郎鄭羲を傅とし、郎中令以下皆当時の名士なり。また叡の妻丁氏を妃と拝す。沙門法秀の謀逆に及び、事発し、多く牽引する所あり。叡曰く、「不辜を殺すに与するよりは、寧ろ有罪を赦すべし。首悪を梟斬し、余は疑赦に従うは、亦善からずや」と。高祖これに従い、免るるを得る者千余人。

叡は帷幄に出入りし、太后密かに珍玩繒綵を賜う。人知る能わず、率常に夜帷車に載せて往き、閹官防致し、前後巨万、数うるに勝えず、これに田園・奴婢・牛馬・雑畜を加え、並びに良美を尽くす。大臣及び左右これによりて賚錫を受け、外に私せざるを示す。費やす所また万を以て計る。疾病に及び、高祖・太后毎に親しく疾を視、侍官省問し、道に相望む。疾篤くに及び、上疏して曰く、

尋いで薨ず。時に年四十八。高祖・文明太后親しく臨み哀慟し、温明祕器を賜い、宕昌公王遇に喪事を監護せしむ。 えい 大将軍・太宰・ 并州 へいしゅう 牧を追贈し、諡して宣王という。内侍長董醜奴に墳墓を営ませ、城東に葬らんとす。高祖城楼に登りてこれを望む。京都の文士哀詩及び誄を作る者百余人。乃ち詔して叡の祀を都南二十里大道の右に立て、廟を起こして時に祭薦し、並びに碑銘を立て、守祀五家を置く。また詔して叡を褒め、その虎を捍ぐ状を諸殿に図し、高允に命じてこれが讃を作らしむ。京都の士女叡の美を諂称し、新声を造りて絃歌し、名づけて中山王楽という。詔して楽府に班し、楽を合わせてこれを奏す。

初め叡の女は李沖の兄の子延賓に妻し、次女はまた趙国の李恢の子華に適す。女の将に行かんとするや、先ず宮中に入り、その礼略ね公主・王女の儀の如し。太后親しく太華殿に御し、その女を別帳に寝かしめ、叡と張祐侍坐し、叡の親族及び両李家の丈夫婦人東西の廊下に列す。車引き起こさるるに及び、太后中路を過ぎて送る。時に人窃かに天子・太后の女を嫁すと謂う。叡の葬りに、親姻義旧を仮り、衰絰縞冠して喪を送る者千余人、皆声を挙げて慟泣し以て栄利を求め、時にこれを義孝と謂う。叡貴しくなりて乃ち言う、家は本より太原 しん 陽なりと。遂に属を移す。故にその兄弟の封爵は移して へい 州郡県とす。薨後、重ねて叡の父橋に侍中・征西将軍・左光禄大夫・儀同三司・武威王を追贈し、諡して定といい、叡の母賈氏を追策して妃とし、墓の左に碑を立てしむ。父子並びに城東に葬る。相去ること里余。洛に遷りて後、更に太原 しん 陽に徙葬す。

子の襲は、字を元孫という。年十四、父の任により中散に擢げられ、仍って中部を総べる。叡薨じ、高祖詔して襲に代わって都曹を領せしめ、 尚書令 しょうしょれい と為し、吏部曹・中部を領せしめ、その品職の如く、典に依り承襲せしむ。文明太后令して曰く、「都曹尚書曹は百僚の首、民の具瞻する所なり。襲年少く、智思未だ周からず。その都曹 尚書令 しょうしょれい は権らく記し、政事に閑習せしめ、後に用うるも晩からず」と。太后の世終わるまで、寵念初めの如し。王爵を襲ぐも、例に降りて公となる。太后 崩御 ほうぎょ 後、襲は仍って高祖の左右に在りしも、然れども礼遇稍く薄く、復た時事に関与せず。久しくして出でて鎮西将軍・秦州刺史と為り、又転じて へい 州刺史と為る。十七年、輿駕洛に詣で、路その治を幸す。供帳粗く辦じ、境内清静なり。高祖頗るこれを嘉す。而して民庶多く為に銘を立て、大路に置き、虚しく相称美す。或いは襲の教うる所なりと曰う。高祖聞きてこれを問う、実を以て対えず。これにより面して責譲を受く。尚書奏してその官を免ぜんとす。詔して唯だ号を二等降す。二十年、事有りて中尉に糾さる。赦に会い免る。語は常景伝に在り。景明二年卒す。平南将軍・ 州刺史を追贈し、諡して質という。

子の忻、爵を襲ぎ、 太尉 たいい ・汝南王悦の記室参軍と為る。建義初年、河陰にて害に遇う。 散騎常侍 さんきじょうじ ・安北将軍・肆州刺史を追贈し、諡して穆という。

子の子暄、爵を襲ぐ。武定末、齊州驃騎府功曹参軍。齊、禅を受く。例に降ず。

忻の弟の誕は、字を永安という。龍驤将軍・正平太守。亦た河陰にて害に遇う。撫軍将軍・ へい 州刺史を追贈す。

子の希雲、秀才に挙げられ、早く亡ぶ。

誕の弟の殖は、字を永興という。 司空 しくう 城局参軍。

子の祖幹、 司徒 しと 行参軍、 へい 州刺史。

殖の弟の永業、 司空 しくう 参軍事。

襲の弟の椿は、字を元壽という。若くして父の任官により秘書中散に拝され、まもなく父の喪により職を去った。後に羽林監・謁者 僕射 ぼくや に除せられたが、母の喪により解任された。正始の初め、中散に拝され、出て太原太守となり、鎮遠将軍を加えられたが、事に坐して免ぜられた。椿は僮僕千余人を有し、園宅は華麗で広大、声妓を以て自ら楽しみ、時に乏しきことがなかった。或いは椿に仕官を勧める者があれば、椿は笑って答えなかった。雅に巧思あり、凡そ営み造る所は、後世の法と為すべきものであった。これにより正光の中、元叉が明堂・辟雍を営まんとし、椿を将作大匠に徴しようとしたが、椿は聞いて病を以て固く辞した。

孝昌の中、尒朱榮が既に へい 州・肆州を占拠し、汾州の胡が逆らったため、椿に征虜将軍・ 都督 ととく を加えることを上表し、汾胡を慰労させた。汾胡は椿と州を接し、その声望に服し、所在で降伏した。事が平らぎ、右将軍・太原太守を授けられた。荘帝を立てた功労に預かり、遼陽県開国子に封ぜられ、食邑三百戸を賜い、まもなく真定県開国侯に転封され、食邑七百戸となった。持節・本将軍・華州刺史を除せられた。まもなく使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・殷州刺史に転じた。元曄が立つと、都官尚書を除せられたが、固辞して拝さなかった。永熙の中、冀州の事を行い、まもなく使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・車騎将軍・瀛州刺史を除せられた。

時に風雹の変異があり、詔書を下して広く讜言を訪ねたので、椿は上疏して曰く、「伏して詔書を奉じますに、風雹が威を励まし、上は天の眷顧を動かし、百辟に讜辞を訪ね、四海に輿誦を詔しておられます。宸衷懇切にして、備わって絲綸に在り、謹んで承り兢り感ずるも、心焉に措く所なし。伏惟うに、陛下は籙を啓き期に応じ、万物を馭育し、綴旒の艱運を承け、纖絲の危緒を纂ぎ、食を忘れて日は昃れ、衣を求めて未だ明けず、上帝をして下臨せしめ、茲の荼蓼を愍み、永く溝壑を済わしめんとされます。然るに滄浪降り戾り、害を中秋に作す。上帝照臨し、義として虚しく変ずることはありません。窃かに惟うに、風は号令と為し、皇天の示威する所、雹は気の激するもの、陰陽の交諍する所であります。恐らくは行令に節を殊にし、舒急中を失うに致る所なのでしょう。昔、澍雨千里は、実に教祀の誠に縁り、炎精三舎は、寧ろ善言の力に非ずや。譴は空しく発せず、徴は謬りて応ぜず、誰か蓋し高しと謂えども、実に人事に符するのです。伏して願わくは、陛下曲く覧みに留め意を垂れ、遠く察するに神を垂れ、賢を礼し士を登用し、博く挙げて官を審かにし、滞怨を擢げ申し、窮を振るい役を省き、夫の滋水川を没するの彦をして、畢く朝右に居らしめ、儀表丹青の位を、未だ或いは虚しく加えざらしめ、圜土に五毒の民を絶ち、揆日に千門の費を息ましめ、巖巖たる廊署に、遇わざる士無く、忪忪たる惸独、酒帛の恩を荷うに至らしめ給わんことを。然らば物は昭蘇を見、人は休泰を知り、徐ろに薰風の曲を奏し、鴻雁の歌を論ぜず、豈に天人幸甚、鬼神咸く抃せざらんや」。

椿の性質は厳しく明察で、下の奸悪を容れず、所在の吏民は、重足してこれを畏れた。天平の末、任期満了して郷里に還った。初め椿は宅に廳事を構え築き、極めて高く壮麗であった。時に人は忽ち云う、「これは太原王の宅であって、豈に王太原の宅であろうか」と。椿はかつて本郡の太守であったので、世は皆これを王太原と呼んだ。未だ幾ばくもせず、尒朱榮が椿の宅に居り、榮は太原王に封ぜられた。斉の献武王が しん 陽に居り、覇朝の所在として人士が輻湊するに至って、椿は親知を礼敬し、多く拯い接した。後に老病のため、遂に病を辞して客居し趙郡の西の鯉魚祠山に住んだ。興和二年春に卒し、時に年六十二。使持節・ 都督 ととく 冀瀛二州諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射・太尉公・冀州刺史を贈られ、諡して文恭といった。葬られる時、斉の献武王自ら弔送した。

椿の妻は鉅鹿の魏悅の次女で、明達にして遠大な操行があり、往行前言を多く識っていた。夫に従って華州に在った時、兄の子の建が洛で患いに遇い、聞いて星夜馳せ赴き、膚容を損なうまでに至り、親類は歎きこれを尚んだ。尒朱榮の妻の北郷郡長公主は深く礼敬した。永安の中、詔により南和県君と為された。内は財に足り、華飾を意としなかった。兄の子の收を撫でる情は己が子と同じくし、親類を存し拯うこと、所在で周渉であった。椿の名位の終始には、魏氏の力があった。元象の中に卒し、鉅鹿郡君を贈られた。椿には子がなく、兄の孫の叔明を後嗣とした。

叔明は、太尉参軍事・儀同開府祭酒であった。 しん 陽で死に、子がなかったので、弟の子の暄の子を後嗣とした。

叡の弟の諶は、字を厚誠という。給事中・安南将軍・祠部尚書となり、上党公の爵を賜った。 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、太史事を領した。例により侯に降格された。太常卿に遷った。出て持節・安東将軍・兗州刺史となった。還り、光禄大夫を除せられ、官にて卒した。帛五十匹を贈られた。

子の翔は、字を元鳳という。若くして聡敏で循良であったため、詔により内侍に充てられた。太和の初めより、李沖らと共に庶事を奏決し、十六年に至るまで、賞賜は前後累ねて千万に及んだ。この時政事は多く文明太后に決せられ、后は細察を好んだが、翔は恭謹慎密で、甚だ知任された。洛に遷都し、給事黄門侍郎・尚書左丞を兼ねた。爵を襲い、輔国将軍・太府少卿に遷った。出て済州刺史となった。卒し、大将軍・肆州刺史を贈られた。

子の超が襲封した。超は、字を和善という。奉朝請・ へい 州治中であった。超は人物を愛好し、財を軽んじ義を重んじた。性豪華で、能く自ら奉養し、毎食必ず水陸の味を窮めた。年三十四で卒した。

子の景覧が襲封した。武定の中、衛将軍・右光禄大夫であった。斉が禅を受けると、例により降格された。

景覧の弟の景招は、開府集曹参軍であった。

超の弟の穆は、字を思泰という。元象の中、上党太守であった。卒した。

穆の弟の綽は、字を思和といい、員外散騎侍郎であった。上党王天穆が北道行臺郎中とした。尒朱榮が天穆に代わって大行臺となると、仍って吏部郎となった。荘帝を奉じた勲功に預かり、猗氏県開国侯に封ぜられ、邑五百戸を賜った。永安の末、征西将軍・豳州刺史を除せられたが、之に赴任しなかった。元曄が立つと、転じて驃騎大将軍・ へい 州刺史を除せられた。興和の中に卒した。

綽の弟の爽は、 司徒 しと 中兵参軍であった。

諶の弟の魏誠は、東宮学生となり、給事中に拝され、中都侯の爵を賜い、龍驤将軍を加えられた。卒し、安南将軍・冀州刺史を贈られ、諡して恭といった。

子の静は、字を元安といい、若くして公務の才能があった。中散に拝され、爵位を襲い、例により伯に降格された。員外郎・羽林監・兼尚書郎を除された。明法により廷尉評に除された。游撃将軍に転じ、冠軍将軍・岐州刺史を加えられた。趙郡王の謐が虐害を加えたため、城民が怨んで叛き、詔により静は駅伝で慰撫し説得し、皆降伏した。使命を奉じて旨に適うことを以て、帛五百匹を賜った。趙郡太守に除されたが、母が老齢であることを理由に固辞して拝命しなかった。また征虜将軍・廷尉少卿を授けられ、官職に相応しいと称された。公事に坐して中散大夫に左遷され、母の喪により職を去った。孝昌初年、兼廷尉卿を詔され、まもなく定州の事務を行ったが、ともに固辞して起たなかった。二年の夏、長兼廷尉卿に除され、まもなく定州の事務を行った。冬に至り病没した。五十七歳。撫軍将軍・ へい 州刺史を追贈され、諡して貞といった。子がなく、従子の伯 を後嗣とした。

は爵位を襲いだ。武定年間、冀州開府録事参軍となった。斉が禅譲を受けると、例により降格された。

魏誠の弟の亮は、字を平誠という。承明初年、中散に抜擢された。沙門の法秀の謀反を告げ、冠軍将軍に遷り、永寧侯の爵を賜り、給事中を加えられた。出て安西将軍・泰州刺史となった。後に陝州刺史に転じたが、事に坐して免官された。家で卒した。亮の子の洪寿は早世した。

子の元景は、正光年間に先の爵位を復することを許され、伯に降格された。卒し、子がなかった。

洪寿の弟の嶷は、字を安寿という。奉朝請に除され、次第に中散大夫に遷った。病により郷里に帰り、遂に上党に移り住んだ。七十一歳で卒した。

子の夷は、字を景預という。文才があり、若くして詩詠をよくし、当世に知られた。官に就かずして卒した。

叡の叔父の隆保は、冠軍将軍・姑臧侯であった。卒し、安東将軍・ へい 州刺史・鉅鹿公を追贈され、諡して靖といった。

王仲興

王仲興は、趙郡南欒の人である。父の天德は、微賤より起り、殿中尚書に至った。仲興は幼くして端正で謹厳であり、父の任により早くより左右に給事した。太和年間、殿内侍御中散・武騎侍郎・給事中となった。禁内に出入りすること十数年、冗従僕射に転じたが、なお密近に参じ、斎帥となった。駕に従って新野を征し功があり、折衝将軍・屯騎 校尉 こうい に除された。また命を受けて千余騎を率い鄧城で賊を破った。振威将軍・越騎 校尉 こうい に除され、帛千匹を賜った。

高祖が馬圏におられた時、御不 から大漸に至り崩御するまで、仲興は大いに侍護に預かった。魯陽に達し、世宗が即位すると、左中郎将に転じ、なお斎帥であった。帝が親政すると、趙脩とともに寵任を受け、光禄大夫に遷り、武衛将軍を領した。仲興は脩と並ぶものの、畏慎して自ら退き、脩の如く傲慢無礼ではなかった。咸陽王の禧が出奔した時、当時上下少しばかり驚き震えた。世宗は乾脯山において仲興に馳せ入って金墉城を慰撫させた。後に領軍の于勁とともに機要に参じ、馬圏での侍疾と金墉城入りの功を自ら理め、元の賞と同じくすることを乞い、遂に上党郡開国公に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。武衛を拝してから封を受ける日まで、車駕はしばしばその宅に臨んで饗宴した。世宗が遊幸する時、仲興は常に侍従し、左右を離れず、外事は直ちに聞くことができ、百官もまた身を竦めて承望した。兄の可久は、仲興の故をもって自ら散爵となり徐州征虜府長史となり、彭城太守を帯びた。仲興は代々趙郡に居住したが、自ら寒微を以て、旧くは京兆霸城より出たと云い、故に雍州大中正となった。

尚書は後に仲興が開国公となったことを、賞報が過ぎて優厚であるとした。北海王の詳が嘗て面啓して降減を奏請したが、事は久しく決しなかった。可久は徐州において、仲興の寵勢を恃み、司馬・梁郡太守の李長寿を軽侮し、遂に忿諍に至った。彭城の諸沙門が共に和解したが、間もなく、また争うところがあった。可久は乃ち僮僕に命じて長寿を邀え撃ち毆らせ、遂にその脇を折った。州は表して上聞した。北海王の詳は百官が朝集するに因り、厲色して大言し、「徐州は名藩にして先帝の重んじるところ、朝廷は如何なる上佐を簡用したか、遂にこの紛紜を致し、荒外に徹するに至った、豈に国の醜辱とならざらんや!」といった。衆もまた応ずる者なかった。仲興は是より後次第に疎んぜられ、左右に直ちに入ることができなくなった。世宗は乃ち詔を下してその封邑を奪い、出して平北将軍・ へい 州刺史に除した。卒し、安東将軍・青州刺史を追贈された。

寇猛

寇猛は、上谷の人である。祖父は 平城 へいじょう 。猛は若くして姿形と体幹により虎賁に充てられ、次第に羽林中郎に遷った。高祖に従って南陽を征し、賊を撃って進まなかったことを以て免官された。世宗が 践祚 せんそ すると、復た叙用され、その膂力を愛でられて左右に置かれ、千牛備身となり、歴転して遂に武衛将軍に至った。禁中に出入りし、拘忌する所がなかった。自ら上谷の寇氏を以て、燕州大中正に補されることを得たが、士庶を甄別することはできなかった。家は次第に富み侈り、宅宇は高く華麗で、妾隷が充溢した。微かに栄えて弟や姪もいたが、茹皓・仲興には及ばなかった。卒し、平北将軍・燕州刺史を追贈された。

趙脩

趙脩は、字を景業といい、趙郡房子の人である。父の恵安は、後に名を謐と改め、都曹史となり、労を積んで陽武令に補された。脩が貴くなると、威烈将軍・本郡太守を追贈され、葬るに及び、また龍驤将軍・定州刺史を追贈された。脩は元来東宮に給事し、白衣左右となり、頗る膂力があった。世宗が践祚すると、なお禁中の侍衛に充てられ、寵遇日増しに隆盛となった。しかし天性暗愚で、書疏に通ぜず、是故に文墨に参じなかった。世宗が親政すると、旬月の間に頻りに転授され、員外通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・鎮東将軍・光禄卿を歴任した。毎度除授を受けると宴を設け、世宗は親しくその宅に幸し、諸王公卿士百官悉く従い、世宗は親しくその母に会った。脩は劇飲することができ、逼って觴爵を勧めるに至っては、北海王の詳・広陽王の嘉らも亦免れず、必ず困乱に致した。毎に郊廟に適う時、脩は常に驂乗して陪従した。華林園に出入りし、常に馬に乗って禁内に至った。咸陽王の禧が誅せられると、その家の財貨は多く高肇及び脩に賜わった。

脩が父を葬るにあたり、百官は王公以下、弔祭せざる者なく、酒や犢(子牛)などの祭奠の具が門街を填塞した。京師において碑銘を造り、石獣・石柱はすべて民の車牛を徴発し、本県まで伝送した。財用の費用はすべて公家から出た。凶事・吉事の車乗は百両に近く、道路の供給もまたすべて官から出た。時に馬射を行おうとし、世宗は脩を留めてこれに臨んだ。帝が射宮に至ると、脩はまた驂乗し、輅車の旒竿が東門に触れて折れた。脩は葬日に間に合わぬことを恐れ、駅伝で窆期に赴き、左右で従うことを求めた者および特遣の者は数十人に及んだ。脩は道中で嬉戯し、ほとんど悲しみの容色がなく、あるいは賓客とともに婦女を姦掠して裸で観覧し、従者は噂𠴲して喧譁し、詬詈に節度なく、畏れ憎まざる者はなかった。この年、また脩のために宅舎を広く増築し、多くを併せ兼ね、洞門高堂、房廡は周博にして、その崇麗は諸王に擬した。その四面の隣居で、その地を賂によって入った者である侯天盛兄弟は、越次して出補し、長史・大郡となった。

脩は賤伍より起こり、暴に富貴を得て、奢傲にして礼なく、物情の疾むところとなった。その在外に因り、左右あるいはその罪を諷糾した。その父を葬り還って以来、旧来の寵遇は少し薄くなった。初め、王顯は脩に祗附していたが、後に忿鬩に因り、密かにその過失を窺い、これを陥れて誅戮せんと図った。しかし脩は過短であり、まったく悔い改め防ぐところがなかった。顯はその前後の愆咎を積み、脩が父を葬る時の路中における淫乱不軌を列挙し、また 長安 ちょうあん の人趙僧𢶏と謀って玉印を匿めたことを云った。高肇・甄琛らがその罪を構成し、密かに以て聞かせた。初め琛および李憑らは曲く脩に事え、至らざるところなく、互いに連及することを懼れ、争って共に糾摘し、攻めてこれを治めるのを助けた。遂に詔して曰く、「小人は育ち難く、朽ちた棘は彫らず、悪を長じて悛めず、豈に撫養を容れんや。 散騎常侍 さんきじょうじ ・鎮東将軍・扈左右を領す趙脩は、昔東朝に在りし時、選ばれて臺皂に充てられ、幼少より経見し、長じてこれを遺し難し。故に業を纂ぐの初め、仍って西禁に引き入れり。地は微にして器は陋く、採るに宜しきに非ざれども、然れども識は早く生を念い、遂に名級を陞す。洗濯を蒙りしより、兇昏日甚だしく、驟佞は驕を薦め、恩は軽慢に加わる。人倫の体を識らず、深浅の方(道)を悟らず、王侯を陵獵し、卿相を軽触し、門賓巷士には、拝叩せども接せず、囂気豪心、仍って鄙塞を懐く。比来、父を葬るを聴き、侈暴継いで聞こゆ。京に居りて宅を造り、徒旅を残虐す。又形勢を広く張り、妄りに矯託を生じ、雍州の人趙僧𢶏らと陰に相伝納し、玉印を受くるを許す。不軌不物、日月に滋甚なり。朕は猶おその宿隸を愍み、毎に覆護を加うるに、擅に威を弄び勢を弄び、侏張已まず。法家の耳目、並びに憲網を求め、捨てんと欲すれども、辟(刑)実に爽(違)い難し。然れども楚の履既に墜ち、江君徘徊す。鍾牛一声、東向いて釁を改む。脩は小人と雖も、昔に承侍し、極辟の奏、加えんと欲して未だ忍びず。鞭すべし一百、敦煌に徙して兵と為す。その家宅作徒は即ち仰いで停罷せしむ。親しく内に在る者は悉く出禁せしむべし。朕は物を処することに昧く、この豺虎を育つ。往時の謬りを顧み尋ぬれば、臣民に愧じあり。便ち時に勅して申没し、以て朝野に謝すべし」。

この日、脩は領軍于勁の邸に詣でてこれと樗蒲し、籌未だ畢わざるに、羽林数人が相続いて至り、詔を称してこれを呼んだ。脩は驚き起きて随い出で、路中で脩の馬を執り引いて領軍府に詣でた。琛と顯がその罰を監決し、先ず問事の有力者五人を具えて更迭してこれを鞭ち、占って必ず死すべしと令した。旨は百鞭と決したが、実際は三百であった。脩は素より肥壮で、腰背博碩にして、楚毒に堪え忍び、少しも転動しなかった。鞭ち畢わり、即ち驛馬を召し、促して発たしめた。城の西門を出で、自ら勝ち挙ぐること能わず、縛って鞍の中に置き、急ぎ駆馳せしめた。その母と妻は追随したが、語ることを得なかった。八十里を行って乃ち死んだ。初め于后が入内したのは、脩の力によるものであった。脩の死後、領軍于勁は猶お旧意を追感し、その家を経恤したが、その余の朝士で昔宗承した者は、悉くこれを棄絶し、己の疏遠なるを示した。

茹皓

茹皓、字は禽奇、旧くは呉の人である。父の譲之、本名は要、劉駿の巴陵王休若に従って将となり、彭城に至った。この時、南土は飢乱し、遂に淮陽上党に寓居した。皓は年十五六、県の金曹吏となり、姿貌有り、謹みで聡明であった。南徐州刺史沈陵これを見て善しとし、自ら随って 洛陽 らくよう に入り、挙げて高祖の白衣左右に充てた。

世宗が践祚すると、皓は禁中に侍直し、次第に寵接された。世宗嘗て山陵を拝し、路中で同車に引かんと欲し、皓は衣を奮って昇らんとしたが、黄門侍郎元匡が切諫して乃ち止んだ。世宗が親政すると、皓の眷賚日隆となった。また馬圈の労により、員外将軍に補せんと擬した。時に趙脩もまた寵幸を受け、これを妬害し、皓を出して外守と為さんことを求めた。皓もまた危禍を見ることを慮り、内官を楽しまず、遂に超授して濮陽太守とし、厲威将軍を加えた。その父は皓の旧勳を訟理するに因り、先に兗州陽平太守を除かれ、子爵を賜った。父子が名邦に剖符し、郡境相接し、皓は内を去ることを忻然とし、疏外を以て憂いとしなかった。趙脩らの敗れた後、竟に全免を獲た。微細より起るも、守と為っては乃ち清簡にして事寡く、世宗が ぎょう に幸して講武するに、皓は朝趨を求め啓し、郡を解き、左中郎将を授かり、直閤を領した。寵待は前の如し。皓は官達した後、自ら云う、本は雁門に出づと。雁門人の諂附する者乃ち因りて皓を 司徒 しと に薦め、肆州大中正たることを請うた。府・省以て聞こえ、詔して特に依許せしむ。驃騎将軍に遷り、華林諸作を領す。皓は性微かに工巧に長け、多く興立す。天淵池の西に山を為り、北邙及び南山の佳石を採掘す。竹を汝潁より徙し、其の間に羅蒔す。楼館を経構し、上下に列す。草を樹え木を栽え、頗る野致有り。世宗心これを悦び、時に臨幸す。冠軍将軍に遷り、仍って ぎょう 騎将軍。

皓の貴寵日昇し、政事に関与す。 太傅 たいふ ・北海王詳以下、咸く祗憚してこれに附した。皓の弟は年尚二十、抜擢補せられて員外郎となる。皓は僕射高肇の従妹を娶り、世宗にとっては従母にあたる。迎納の日、詳親しくこれに詣で、馬物を以て礼とした。皓は又弟のために安豊王延明の妹を聘わんとし、延明は旧流に非ざるを恥じて、許さず。詳が強いてこれを勧めて云う、「官職を覓めんと欲すれば、如何ぞ茹皓と婚姻せざるや」と。延明乃ちこれに従う。皓は頗る敏慧にして、節を折りて下人に接す。然しながら潜かに自ら経営し、陰に納受有り、貨産盈積す。宮の西に宅を起し、朝貴これに及ばず。この時、世宗は万務に親しむと雖も、皓は率常に内に居り、留宿して還らず、門下に奏事を伝可す。未だ幾ばくもなく、光禄少卿に転じ、意殊に已まず、方に馬圈に従い先帝の労を陳べ、更に進挙を希わんと欲す。

初め、脩・皓の寵、北海王詳は皆これに附納した。又直閤将軍劉冑は本より詳の薦めし所、常に詳の恩を感し、密かに相承望し、並びに共に来往す。高肇は素より諸王を疾み、常に陷害を規る。詳と皓らが交関して昵しむを知るや、乃ちこれを世宗に構え、云う、皓ら将に異謀有らんと。世宗乃ち中尉崔亮を召し、皓・冑・常季賢・陳掃静の四人が擅勢して賄を受け、及び私に諸事を乱るを奏せしめ、即日皓らを執えて皆南臺に詣でしむ。翌日、罪を処するを奏し、その晩家に就いてこれを殺す。皓の妻は髪を被いて堂に出で、哭いて皓を迎う。皓は径ちに入り哭別し、椒を食して死す。

皓の子懐朗、仕えて南青州刺史に至る。興和の初め、罪に因りて賜死し、子姪は辺に徙る。

冑は、字を元孫といい、河間の人である。初め北海王元詳に推挙された。六輔の時、本郡を守るために出向し、茹皓と共に鄴宮に赴いて講武を行い、自らも留まることを請うた。洛陽に至ったが、長らく叙用されなかった。元詳がまた上啓し、ようやく遅れて将軍直閤に任ぜられた。

季賢は主馬の身分から起り、世宗(宣武帝)が初めて騎乗を好んだため、これによって寵愛を得た。位は殿中將軍・司薬丞に至り、引き続き厩閑を主管した。茹皓と共に諸事を通じて知り、勢威と声望は次第に高まった。その兄を朝請・直寝に引き入れ、武昌王元鑒の妹を娶らせた。季賢はまた洛州刺史元抜の娘を娶らんとし、共に帝戚と結託して栄えある後ろ盾としたという。

掃静と徐義恭は、共に彭城の旧営の人である。掃静は世宗のために櫛や梳を整えることができ、義恭は衣服を執ることを善くし、共に巧みで便利なため、朝夕宮中にあり、寵愛と幸いは等しく、官位の叙任も異ならなかった。掃静の妻は義恭の姉であるが、情は薄く、家内は和諧しなかった。義恭は常にこれを憤り恨み、自ら世宗に経て、その欺侮を訴えた。世宗は左右の者として、両者を庇護した。二人は共に茹皓に承奉し、また共に接遇と眷顧を加えられたが、掃静は特に親密とされ、茹皓と常に左右にあり、ほとんど帰休しなかった。茹皓が敗れると、掃静もまた家で死んだ。義恭は小心謹慎で、謙退して言葉少なかった。茹皓らが死んだ後、ますます幸信され、長く左右に侍し、秘密を典掌した。世宗が不 の時、義恭は昼夜扶侍し、その懐中で崩御した。霊太后が臨朝称制すると、義恭は元叉に諂い附き、また淫宴も多くその宅にあった。嘗薬次御を務め、出て東秦州刺史となった。建義の後、内外の顕職を歴任した。武定初年、驃騎大将軍・左光禄大夫の任で卒した。

趙邕

趙邕は、字を令和といい、自ら南陽の人と称した。潔白で眉目が明らかであり、恭順で敏速であった。 司空 しくう 李沖が貴寵であった時、趙邕は少年で端謹であったため、その家に出入りし、よく按摩奔走の役を務めた。李沖もまた深く接念を加え、諸子と遊び処させるようにした。人が帯を整えて李沖に謁する者があると、時に彼を託して自ら通じた。高祖(孝文帝)の太和年間、左右に給事し、殿中監に至った。世宗が即位し親政しても、なお本任に居た。趙脩と微かに宗援を結んだが、あまり附かずもなかった。趙邕は次第に殿中將軍に遷り、なお監職を帯びた。

趙邕の父趙怡は、太和年間に郢州刺史を歴任し、家に停まって久しく、趙邕の寵により召されて太常少卿に任ぜられた。まもなく荊州大中正となり、出て征虜将軍・荊州刺史を除かれた。趙怡はその母の喪を致し、宛城の南、趙氏の旧墟に葬った。老いて州任を解くことを乞い、遷って光禄大夫に任ぜられ、金紫光禄に転じた。卒し、鎮東将軍・相州刺史を追贈された。

世宗が郊廟に出入りする度に、趙脩は常に常侍・侍中として陪乗し、趙邕は兼ねて奉車都尉として轡を執り同載した。当時の人々は窃かに論じ、「二趙」と号した。趙氏が南陽を出て、荊州に属するようになったため、趙邕は給事中・南陽中正に転じたが、父が荊州大中正となったため、罷められた。転じて長兼散騎侍郎・領左右・直長となり、禁中に出入りした。再び荊州大中正となった。趙邕の弟趙尚は、中書舎人となり、出て南陽太守を除かれた。趙怡が荊州を辞した時、趙尚は郡の解任を請い、父と共に還った。京師に至らぬうちに、逆に歩兵 校尉 こうい を除かれた。趙邕の祖父趙嶽は旧く代京に葬られていたが、喪を平城から還して南陽に葬り、平遠将軍・青州刺史を追贈された。

世宗が崩御すると、趙邕は兼給事黄門となり、まもなく太府卿に転じた。出て平北将軍・幽州刺史を除かれた。州にあって貪欲で放縦であった。范陽の盧氏と婚姻を結ぼうとし、娘の父は早く亡くなり、その叔父が許諾したが、母は従わなかった。母の北平陽氏が娘を連れて家に隠れ避け、免れようと図ったので、趙邕は陽叔を拷掠し、遂に死に至らしめた。陽氏が冤を訴え、臺は中散大夫孫景安を遣わして事状を研検させ、趙邕は死罪に処せられたが、赦いに会って免れ、なお除名されるべきであった。自ら理を経ること数年、臨淮王元彧が当時廷尉であったが、長く断決しなかった。孝昌初年に卒した。

侯剛

侯剛は、字を乾之といい、河南洛陽の人で、その先祖は代人である。元は寒微の出で、若い頃より鼎爼(調理)を善くし、進餁(食事の世話)して出入りした。久しくして中散に任ぜられ、累遷して冗従僕射・嘗食典御となった。世宗はその質直さを以て、名を剛と賜った。次第に奉車都尉・右中郎将・領刀劍左右に遷り、游撃将軍・城門 校尉 こうい を加えられた。武衛将軍に遷り、引き続き典御を領し、また通直 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。詔して曰く、「太和の末、蟻寇が疆を侵し、先皇は不 の中にあって、師を命じて出討させられた。戎を撫でて暴露し、触御乖和した。朕は監国に当たり、随侍するを得ず、而して左右の服事は、唯だ忠勤に藉るのみであった。侯剛は違和の中にあって、辛勤して行餁した。遠きを追い誠を録するは、宜しく先ず推敍すべきである。其れ侯剛を以て右衛大将軍とせよ。」後に太子中庶子を領した。

世宗が崩御すると、侯剛は侍中崔光と共に東宮で粛宗(孝明帝)を迎えた。まもなく衛尉卿を除かれ、武陽県開国侯に封ぜられ、邑千二百戸を賜った。俄かに侍中・撫軍将軍・恒州大中正となった。衛将軍に遷り、表して侍中を譲ったが、詔して許さなかった。爵を公に進め、給侍の労を以て、散伯の賞を加えられた。熙平初年、左衛将軍を除かれ、その他の官は元の如しであった。侍中游肇が出て相州となった時、侯剛は霊太后に言上して曰く、「昔、高氏が権を擅にした時、游肇は抗衡して屈せず、先帝の知るところであり、四海同じく見るところです。而るに出て一藩を牧することは、その美を尽くさず、宜しく還り引入れて、聖主を輔けさせるべきです。」太后はこれを善しとした。侯剛の寵任が既に隆くなると、江陽王元継・尚書長孫稚は皆、娘をその子に娶せた。 司空 しくう ・任城王元澄は、その起りが膳宰によることを以て、頗る窃かにこれを侮り、「此の者は近く我が為に食を挙ぐる者なり」と言った。然れども公座で対集するに当たっては、敬遇を欠かさなかった。

後に侯剛は試射羽林を掠め殺した罪に坐し、御史中尉元匡に弾劾され、廷尉は侯剛を大辟に処した。 尚書令 しょうしょれい ・任城王元澄が霊太后に為に言って、侯剛は前朝に歴仕し、取るべき事績があり、繊芥の疵は、未だ宜しく便ち法に致すべからずと説いた。霊太后は乃ち廷尉卿裴延儁・少卿袁翻を宣光殿に引見し、問うて曰く、「侯剛は公事によって人を掠め、邂逅(偶然)に致死せしめた。律文には坐せず。卿らが其れを大辟に処するは、竟に何に依るか。」袁翻対えて曰く、「律を案ずるに、邂逅に坐せざるとは、情理既に露わにされ、而して隠避して引かず、必ず箠撻を須い、其の款言を取るを謂い、撾撻を以て理に類するものを謂う。此の人に至っては、問えば則ち具に首し、正に犯に依って結案すべきであり、横に箠扑を加うべからず。兼ねて侯剛は口に打殺を唱え、撾築は理に非ず、本より殺心あり、事は邂逅に非ず。之を大辟に処するは、憲典に乖かず。」太后曰く、「卿等暫く還れ、当に別に判あらん。」ここにおいて令して曰く、「廷尉が侯剛を執り処するは、法に於いて猛し。侯剛は既に意は公に在り、未だ宜しく便ち執る所に依るべからず。但だ民命を軽く勦るは、理として全く捨つる無し。封三百戸を削り、嘗食典御を解くべし。」侯剛はここにおいて頗る失意した。侯剛は太和年間より進食し、遂に典御となり、両都・三帝・二太后に歴り、将に三十年、ここに至って初めて解かれた。未だ幾ばくもなく、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。御史中尉元匡が廃された時、太后は代わる者を訪ね、侯剛は太傅・清河王元懌に挙げられ、遂に車騎将軍を除かれ、御史中尉を領し、常侍・衛尉は元の如しであった。

及び領軍元叉が政権を執り権勢を擅にして、親族や党与を結びつけると、剛の長子は、叉の妹婿であったので、乃ち剛を引いて侍中・左衛将軍と為し、尚食典御を兼ねて領せしめ、以て枝援と為す。俄かに車騎大将軍・領左右を加え、復た前の削封を除く。尋いで儀同を加え、復た御史中尉を領す。剛啓して軍旅稍く興り、国用足らず、封邑の俸粟を以て征人を賑給せんことを求め、粛宗之を許す。孝昌元年、領軍を除し、余官は元の如し。初め元叉が領軍を解かれた時、霊太后は叉の腹心尚ほ多きを以て、恐らく卒に制し難からんと、故に権に剛を以て之に代え、以て其の意を安んぜしむ。尋いで出でて 散騎常侍 さんきじょうじ ・冀州刺史・将軍・儀同三司と為る。剛が道を行くに、詔して曰く、「剛は時会に因縁し、恩隆ること久し、凡品より擢で、越えて顕爵を昇る。往には微勤を以て、賞は利建に同じくし、寵霊の極み、夷等を超絶す。曾て犬馬の主を識るの誠無く、方に梟鏡の返 ぜい の志を懐く。権臣元叉と婚姻朋党し、典制を虧違し、長く禁中に直し、一出一入、迭りに姦防と為る。又た劉騰と共に心膂と為り、二宮を間隔し、内外を逼脅す。且つ位は繩憲に居り、糾察是れ司なり、宜しく格言を立て、勢は鷹隼に同じくすべし。方に楚撻を厳にし、貞良を枉げて服せしめ、専ら凶威を任じ、直を以て曲と為す。忠ならず道ならず、深く民聴に暴く。下に附き上を罔し、事幽顕に彰る。莫大の罪、宥原に従い難く、封爵の科、理宜く貶奪すべし。征虜将軍と為す可く、余は悉く削黜せよ。」と。剛は家に終わる。永安中、 司徒 しと 公を贈る。

剛の長子詳は、奉朝請より稍く遷りて通直散騎侍郎・冠軍将軍・主衣都統と為る。剛は上谷に先ず侯氏有るを以て、是に於いて始めて家す。正光中、又た詳を以て燕州刺史と為さんことを請い、将軍は元の如く、家世の基と為さんと欲す。尋いで後将軍に進む。五年、 司徒 しと 左長史を拝し、嘗薬典御・燕州大中正を領す。興和中、驃騎将軍・殷州刺史と為る。朝に還り、久しくして卒す。

鄭儼

鄭儼は、字を季然と云い、 滎陽 けいよう の人なり。容貌壮麗なり。初め 司徒 しと 胡国珍の行参軍と為り、因縁して霊太后の幸する所と為り、時人は未だ之を知らざりき。員外散騎侍郎・直後に遷る。霊太后廃せられ、蕭宝夤西征するに、儼を以て開府属と為す。孝昌初、太后政に反り、儼使いを請いて朝に還り、復た寵待を見る。諫議大夫・中書舎人を拝し、嘗食典御を領す。昼夜禁中にあり、寵愛尤も甚だし。儼毎に休沐するに、太后常に閹童を遣わして随侍せしめ、儼其の妻を見るに、唯だ家事を言うを得るのみ。徐紇と俱に舎人と為る。儼は紇に智数有るを以て、仗りて謀主と為し、紇は儼寵幸既に盛んなるを以て、身を傾けて承接す。共に表裏を相し、勢内外を動かす。城陽王徽微かに之と合し、当時の政令は儼等に帰す。通直郎・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・平東将軍・武衛将軍・華林都将・右衛将軍・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・中軍将軍・中書令・車騎将軍に遷り、舎人・常侍は元の如し。粛宗崩ずるや、事倉卒に出で、天下咸く儼の計なりと云う。尒朱栄兵を挙げて洛に向かうに、儼・紇を以て辞と為す。栄京師を逼るに及び、儼走りて郷里に帰る。儼の従兄仲明先に 滎陽 けいよう 太守と為り、是に至り、儼仲明と郡を拠りて衆を起さんと欲す。尋いで其の部下の為す所に殺され、仲明と俱に首を洛陽に伝う。子文寛は、出帝に従い関西に歿す。

徐紇

徐紇は、字を武伯と云い、楽安博昌の人なり。家世寒微なり。紇少くして学を好み、名理に通じ、頗る文詞を以て称せらる。孝廉を察し、対策上第にて、高祖抜きて主書と為す。世宗初、中書舎人を除す。趙脩に諂附し、通直散騎侍郎に遷る。及び脩誅せらるるに及び、党に坐して枹罕に徙る。徒役に在りと雖も、志気撓まず。故事に、逃役流兵五人を捉うれば、流者は免を聴すと有り、紇是を以て還るを得。久しくして、復た中書舎人を除す。太傅・清河王懌又た文翰を以て之を待つ。及び領軍元叉の懌を害するや、出でて雁門太守と為る。紇母老ゆるを称し、郡を解きて郷に還る。家に至り未だ幾ばくもあらず、尋いで洛に入り、貌を飾りて叉に事え、大いに叉の意を得。及び叉の父継西鎮潼関するに、紇を以て従事中郎と為す。尋いで母憂を以て郷里に帰る。

霊太后政に反るに及び、紇曾て懌の顧待せし所と為りしを以て、復た起きて中書舎人と為す。紇又た曲く鄭儼に事え、是を以て特被信任せらる。俄かに給事黄門侍郎に遷り、仍って舎人を領し、中書門下の事を総摂し、軍国の詔命、之より由らざる莫し。時に急速有るも、数友に筆を執らしめ、或いは行き或いは臥し、人別に之を占め、造次に俱に成り、事理を失わず、雅裁無しと雖も、亦情を通ずる可し。時に黄門侍郎太原王遵業・琅邪王誦並びに文学と称せらるるも、亦免れずして紇の為に筆を秉ぎ、其の指授を求む。尋いで鎮南将軍・金紫光禄大夫を加え、黄門・舎人は元の如し。

紇機辯有り智数有り。公に当り断決するに、終日之を労と為さず。長く禁中に直し、略く休息無し。時に復た沙門と講論し、或いは宵を分かち曙に達すと雖も、而も心力怠ること無く、道俗之を歎服す。然れども性浮動にして、権利を慕い、外は謇正に似て、内は実に諂諛なり。時に豪己に勝る者あれば、必ず相陵駕し、書生貧士には、意を矯めて之を礼す。其の詭態此の若き有り、識有る者は之を鄙薄す。

紇既に腹心に処り、機密に参断し、勢一時に傾き、遠近填湊す。鄭儼・李神軌と寵任相亞ぎ、時に徐鄭と称す。然れども経国の大體無く、小数を行うを好み、霊太后に説きて鉄券を以て尒朱栄の左右を間せしめ、栄知り、深く之を憾と為し、啓して之を誅せんことを求む。栄将に洛に入らんとし、既に河梁を克つに及び、紇詔を矯めて夜殿門を開き、驊騮の御馬十匹を取り、東に兗州に走る。紇の弟献伯は北海太守と為り、献伯の弟季彦は先に青州長史と為る。紇人をして之に告げしめ、亦家を将いて南に走らんとす。羊侃時に太山太守と為り、紇往きて之に投じ、侃を説きて兵を挙げしむ。侃之に従い、遂に兵を聚めて反し、紇と共に兗州を囲む。孝庄初、侍中于暉を行臺と為し、斉献武王と諸軍を督して之を討たしむ。紇免れ難からんことを慮り、侃を説きて蕭衍に師を乞わんことを請う。侃之を信じ、遂に衍に奔る。文筆駁論数十巻有り、多く遺落し、時に或いは世に存す。

史臣曰く。〈闕〉

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻93