宦官の族は、閽寺に置かれ、天象を則り取り、事は百王に歴たり。身は全品に乖き、事を宮掖に任じ、親は褻狎より由り、恩は趨走より生じ、便僻俯仰、寵に当たり権を擅にする。これ即ち伊戾・豎刁の両国を禍したる由縁、石顕・張讓の二京を翦したる所以なり。豈に形質既に虧け、生命忽にし易きに非ずや、胥靡に譬うれば、高きに登るを懼れざるが如し。これ亦苟且の事、変より已まざる由縁なり。王者殷鑒とす、往轍を改むべく、然るに後庭の婉孌たる遊宴の地、椒壼に留連し、終に見任使せらる。巧佞これよりして自ら達し、権幸俄然として復た帰す。斯れ蓋し其の由来遠く、一朝一世に非ざるなり。
魏氏に至っては、宗愛が帝を殺し王を害し、劉騰が后を廃し相を戮す。其の間、官爵を窃み、財賄を盗み、勢に乗じ気を使いて朝野の患と為る者、何ぞ勝げて挙げん。今謹んで其の尤も顕かなるを録す。
宗愛
宗愛は、其の由来を知らず、罪を以て閹人と為り、碎職を歴て中常侍に至る。正平元年正月、世祖江上に大会し、群臣に班賞し、愛を以て秦郡公と為す。
恭宗の国を監るや、毎事精察す。愛は天性険暴にして、行多く非法、恭宗毎に之を銜む。給事仇尼道盛・侍郎任 平城 等、事を東宮に任じ、微かに権勢を為し、世祖頗る之を聞く。二人は愛と並びに睦まず。道盛等其の事を案ずるを懼れ、遂に其の罪を構えて告ぐ。詔して道盛等を都街に斬る。時に世祖震怒し、恭宗遂に憂いて薨ず。
是の後、世祖恭宗を追悼す。愛誅を懼れ、遂に逆を謀る。二年春、世祖暴崩す、愛の為す所なり。 尚書 左 僕射 蘭延・ 侍中 呉興公和疋・侍中太原公薛提等、秘して喪を発せず。延・疋の二人議して高宗の沖幼を以て、長子を立てんと欲し、秦王翰を徴して秘室に置く。提は高宗に世嫡の重き有るを以て、宜しく立つ所を廃して更に君を求むべからずとす。延等猶予して未だ決せず。愛其の謀を知る。初め愛は東宮に罪を負い、而して呉王余と素より協う。乃ち密かに余を迎え中宮の便門より入らしめ、皇后の令を矯りて延等を徴す。延等は愛の素より賤しきを以て、之を疑わず、皆之に随いて入る。愛先に閹豎三十人をして仗を宮内に持たしめ、延等の入るに及び、次第に収縛し、殿堂に斬る。秦王翰を執り、永巷に之を殺して余を立てる。余は愛を以て大司馬・大将軍・太師・ 都督 中外諸軍事と為し、中秘書を領し、馮翊王に封ず。
愛既に余を立て、位元輔に居り、三省を録し、兼ねて戎禁を総べ、坐して公卿を召し、権恣日甚だしく、内外之を憚る。群情咸く愛に必ず趙高・閻楽の禍有らんと為す。余之を疑い、遂に其の権を奪わんと謀る。愛憤怒し、小黄門賈周等をして夜に余を殺さしむ。事は余伝に在り。高宗立ち、愛・周等を誅し、皆五刑を具え、三族を夷す。
仇洛齊
仇洛齊は、中山の人、本姓は侯氏。外祖父仇款は、始め馮翊重泉より出づ。款は、石虎の末に 鄴 南枋頭に徙り、 慕容 暐に仕えて烏丸護軍・長水 校尉 と為る。二子を生む、長きを嵩と曰い、小きを騰と曰う。嵩は慕容垂に仕え、中山に遷居し、位は殿中侍御史。嵩に二子有り、長きを広と曰い、小きを盆と曰う。洛齊は生めて男に非ず、嵩之を養いて子と為し、因りて之が為に姓を仇とす。
初め嵩の長女姿色有り、冉閔の宮闈に充つ。閔破れ、慕容儁に入り、又転じて盧豚に賜う。子魯元を生む。世祖に寵有り、而して外祖嵩既に死し、唯三舅有るを知り、毎に世祖に言う。世祖其の舅を訪わんと為す。是の時東方に仕うる者罕なり。広・盆皆平城に入るを楽しまず。洛齊独り行かんことを請い曰く、「我は養子、兼ねて人道全からず、当に兄弟の為に禍福を試みん」と。乃ち驢に乗り京に赴く。魯元将に至らんとするを知りて候い、従者百余騎を結び、桑乾河に迎え、見て下拝し、従者も亦同じく敬意を致す。入りて世祖に言う。世祖其の才用の宜しき所を問い、将に之に官を授けんとす。魯元曰く、「臣の舅不幸にして生めて閹人と為る。唯陛下と宮闈を守るに合うのみ」と。而して其の養子たるを言わず。世祖之を矜み、奴馬を賜い、引見す。尋いで武衛将軍を拝し、俄かに爵を文安子に賜い、稍く給事黄門侍郎に遷る。
魏初め禁網疏闊にして、民戸隠匿漏脱する者多し。東州既に平らぎ、綾羅戸の民楽葵是に因りて漏戸を採り、綸綿を供せんことを請う。此れより後、逃戸占めて細繭羅縠と為る者一に非ず。是に於て雑・営戸帥天下に遍く、守宰に属せず、賦を発する輕易にして、民多く私附し、戸口錯乱し、検括す可からず。洛齊奏議して之を罷め、一に郡県に属せしむ。
涼州を平ぐるに従い、功を以て 散騎常侍 に超遷し、又 中書 令・寧南将軍を加え、爵を零陵公に進む。侍中・平遠将軍・冀州 刺史 を拝し、内都大官と為る。興安二年卒す。 諡 して康と曰う。
養子儼、襲ぐ。柔和敦敏にして、長者の風有り。太和中、虎牢鎮将と為る。初め洛齊貴盛の後、広・盆他事に坐して誅せらる。世祖其の仇氏の子に非ざるを以て、与せず。還りて侯家の近属を取り、儼を以て子と為す。後本に還らんと欲す。而して広に女孫有り南安王楨に配し、章武王彬を生む。即ち中山王英の弟なり。仇妃聞きて儼に請い曰く、「我が仇家より富貴此に至る。奈何ぞ一旦孤背して恩養を背かんや」と。楨時に内都に在りて主として品臣を司どる。儼楨に隷し、之を畏憚し、遂に敢えず。九年卒す。諡して静と曰う。子振襲ぐ。稍く中堅将軍・長水 校尉 に遷る。
広・盆並びに産業を営むに善く、中山に家し、巨富と号せらる。子孫仕進して州主簿に至る。
騰の曾孫儁、位は龍驤将軍・ 驍 騎将軍・楽平男に至る。
段霸
段霸は、雁門郡原平県の人である。父の段乾は、慕容垂の広武県令であった。太祖( 拓跋 珪 )が初めて騎兵を派遣して略地し雁門に至った時、段霸は幼くして捕らえられ、それにより宮刑に処せられた。段乾はまもなく郷里の部衆を率いて雲中に帰順した。
段霸は若い頃から謹厳で機敏であることを認められ、次第に昇進して中常侍・中護軍将軍・殿中尚書となり、寿安少府を兼任し、武陵公の爵位を賜った。外任として安東将軍・定州刺史となった。世祖(太武帝)は内外の官吏を自ら考課し、賞罰を明らかにした。前定州治中の張渾屯が、段霸が以前定州に在任中に賄賂を取り財貨を濫りに求め、便法を用いて財を致し、それを郷里に送ったと告発した。段霸を召喚して対質させたが、段霸は自ら罪を認めようとしなかった。世祖は段霸が近臣でありながら実情を尽くさないとして、これによりますます怒り、彼を斬ろうとした。恭宗(景穆帝)が進み出て請うたので、遂に段霸を免官して庶人とした。
段霸の従弟の段栄は、雍州別駕となった。兄弟や諸々の従兄弟たちは遂に代々広武城に居住し、身を修め飾って士人の風儀があった。
王琚
王琚は、高平郡の人であり、自ら言うには本来太原郡の人であるという。高祖の王始は、晋の 豫 州刺史であった。
王琚は泰常年間(416-423)に刑罰を受けて宮禁に入り、小心に節操を守り、久しくしてようやく叙用された。次第に昇進して礼部尚書となり、広平公の爵位を賜り、寧南将軍を加えられた。高祖(孝文帝)は王琚が先朝に歴代仕え、公正を志しているとして、 散騎常侍 を授けた。後に侍中・征南将軍・冀州刺史となり、広平王を仮授された。召還されて征南将軍に進み、爵位を高平王に進め、侍中はもとのままとし、冀州に還遣された。高祖と文明太后が冀州を東巡した際、自らその家に幸し、行き届いた慰問をされた。都に戻り、その年老いたことを以て、 散騎常侍 を拝し、家で老養させた。前後して賜った車馬・衣服・雑物は数えきれないほどであった。後に爵位を公に降格し、老いた身を支えながら平城から洛邑への遷都に従った。高祖はその朝廷の旧臣であることを以て、左右の者を遣わして労問させた。王琚は別に上表して、初めて家に戻った時は物資が乏しかったが、帛二百匹を賜ったことを蒙ったと自ら述べた。常に牛乳を飲んでいたので、顔色は処子のようであった。太和二十年(496)の冬に卒去した。時に九十歳。征南将軍・冀州刺史を追贈され、諡を靖といった。
養子の王寄生は、爵位を継承せずに亡くなった。
子の王蓋海は、祖父王琚の爵位を継承した。初め王琚が七十余歳の時、世祖(太武帝)の時の宮人郭氏を賜った。彼女は本来鍾離の人で、明らかで厳格で母としての徳があり、内外の婦人や孫たち百口は、厳かな君主のように彼女を敬い仕え、家内はよく治まった。蓋海は官位が青州楽陵太守に至った。
趙黑
趙黑は、 字 を文静といい、初めの名は海といった。本来涼州の隷戸(隷属民)である。自ら言うには、その先祖は河内郡温県の人であり、五世の祖の趙術が、晋の末年に平遠将軍・西夷 校尉 となり、酒泉郡安弥県に居住したという。
趙海が生まれて間もなく涼州が平定され、没官されて宦官となり、それにより名を黒と改めた。容貌があり、恭しく謹み深く小心であった。世祖(太武帝)が御膳を進めることを命じ、出入りして奉仕したが、初めから過失はなかった。侍御に遷り、監蔵(倉庫管理)を管掌し、安遠将軍を拝し、睢陽侯の爵位を賜った。選部尚書に転じ、自ら謹み励み、官職に当たり人物を推挙任用するのに、かなり適任者を得た。侍中を加えられ、爵位を河内公に進めた。
顕祖(献文帝)が京兆王拓跋子推に位を譲ろうとした時、群臣に諮問した。百官は唯々とするばかりで、敢えて先に言う者はなかった。ただ源賀らが言葉と道理を正しくし、詔を奉じようとしなかった。顕祖は怒り、顔色を変え、また趙黒に問うた。趙黒は言った。「臣は愚かで識見がなく、真情のままに率直に申し上げます。伏して考えるに、陛下は御年齢がまさに盛んで、太陽が中天にあるが如く、天下はその盛んな明るさを喜び、万物はその光輝を慕い、民衆の心は、万歳まで(御在位を)願っております。もし聖なる御性質が深遠で、精神を養い道の味わいを楽しもうとされるのであれば、臣趙黒は死をもって皇太子を奉戴し、他のことは知りません。」顕祖はしばらく黙然としていたが、遂に高祖(孝文帝)に位を譲った。
趙黒は両宮(顕祖と文明太后)の寵愛を受け、禄賜は厚かった。この時、尚書の李訢もまた顕祖に寵愛され、趙黒とともに選部を統括した。李訢は中書侍郎の崔鑒を東徐州刺史に、北部主書郎の公孫処顕を荊州刺史に、選部監の公孫蘧を幽州刺史に奏任した。皆、有能であると言ったが、実は私心があった。趙黒はその選挙の体面を損ない乱すことを憎み、遂に殿庭で争って言った。「功績によって官を授け、爵位によって禄を与えるのは、国の常典です。中書侍郎・尚書主書郎・諸曹監は、勲功と能力をともに備えても、せいぜい郡太守に過ぎません。今、李訢は皆を方州(州刺史)に用いようとしています。臣は実に惑います。」顕祖はこれを疑い、「公孫蘧の件はひとまず止めよ」と言った。公孫蘧は最も李訢と親密であった。ここにおいて趙黒と李訢は深い確執を生じた。李訢はついに趙黒が監蔵の時に多くの物資を横領したと列挙して告発した。以前は法禁が緩やかで、百官の管掌する所は、官物とともに食していたので、損耗が多かった。趙黒は遂に罷免されて門士(門衛)とされた。趙黒は李訢に陥れられたと思い、終日嘆き恨み、寝食を忘れ、以前の怨みに報いようと図った。一年余り後、再び入朝して侍御・ 散騎常侍 ・侍中・尚書左僕射となり、以前のように選部を兼ねた。趙黒が李訢の専横恣意を告発したので、李訢は遂に徐州刺史として出された。そして李訢が罪を得ようとした時、趙黒は罪状を構成して彼を誅殺させた。その後は食事も甘く寝も安らかで、職務に志を注いだ。
外任として仮節・鎮南大将軍・儀同三司・定州刺史となり、爵位を王に進めた。己を律し清廉倹約で、公私の救済に心を砕いた。時に私的な賄賂を行おうとする者がいたが、趙黒は言った。「高官で禄も厚く、自ら給するには十分である。公を売って私を営むことは、本来望むところではない。」終に受け取ることはなかった。高祖と文明太后が中山に幸した時、これを聞き、帛五百匹・穀一千五百石を賜った。冀州刺史に転じた。太和六年(482)の秋、任地で 薨去 した。詔により絹四百五十匹・穀一千斛・車牛二十乗を賜り、柩を都まで送らせた。 司空 公を追贈され、諡を康といった。趙黒は族弟の趙奴の第四子の趙熾を養子として後嗣とした。
良の子は熾。
熾は、字を貴楽という。初め中散となり、黒の爵位を襲い、後に公に降格された。官は揚州安南府長史に至り、平遠将軍を加えられた。元嵩が寿春で死んだとき、熾は処置を施して安んじ集め、わずかに称賛する声があった。神龜年間に卒去し、光州刺史を追贈された。黒が定州にいたとき、熾のために鉅鹿の魏幹の娘を娶り、二人の子があった。
長子は揆、字を景則という。父の侯爵を襲い、官は楽陵太守に至った。卒去し、左将軍・滄州刺史を追贈された。
揆の弟は儁之、字を仲彥といい、軽薄で品行がなかった。給事中となり、転じて謁者僕射となり、劉騰の養子となった。なおも宦官としての余禄をもって、権門に賄賂を贈り、たびたび顕官を歴任して卒去した。
孫小は、字を茂翹といい、咸陽郡石安県の人である。父の瓚は、姚泓の安定護軍であった。 赫連 屈丐に侵攻され、人々は危険を恐れ、逃亡する者が相次いだが、瓚はただ一人で衆を率いて防ぎ守り、殺害された。小は宮刑に没収された。ちょうど魏が統万を平定したので、平城に移され、東宮に内侍した。聡明な識見と智略があると称された。
間もなく、西臺中散に転じ、しばしば征伐に従い、たびたび戦功を立て、多くの賞賜を得た。世祖が瓜歩に行幸したとき、北寇の憂いを慮り、小に左衛将軍を加え、泥陽子の爵位を賜り、留臺将軍に任じた。車駕が都に還ると、給事中に遷り、太僕曹を統轄した。そこで父の瓚の贈諡を請い、改葬を求めた。詔して振威将軍・秦州刺史・石安県子を追贈し、諡を戴といった。小を転じて駕部を領させたが、管理に方策があり、畜牧は繁殖した。出て冠軍将軍・ 并州 刺史となり、中都侯に爵位を進め、州内の四郡百余人が宮廷に赴きその政治教化を称えた。後に冀州刺史に遷ったが、称賛の声は以前よりやや少なかった。しかし、在任地では清廉で倹約し、当時の州牧・方伯で及ぶ者はいなかった。性格はかなり残忍で冷酷であり、養った子息を駆り立て鞭打ち、仇敵のように扱った。小が 并 州にいたとき、郭祚を主簿とし、祚の門地と才能を重んじ、兼任で書記を務めさせた。当時の人はこれを称えた。
張宗之。
張宗之は、字を益宗といい、河南郡鞏県の人で、家柄は寒微であった。父の孟舒は、劉裕が西征したとき、仮の 洛陽 令となった。宗之が貴幸となると、高宗は孟舒に平南将軍・洛州刺史・鞏県侯を追贈し、諡を貞といった。
初め、緱氏の宗文邕が伊闕で徒党を集めて謀反し、孟舒らを脅迫した。文邕が敗れると、孟舒は逃れて免れ、宗之は捕らえられて京に入り、腐刑に充てられた。忠厚で謹慎であることから、侍御中散に抜擢され、鞏県侯の爵位を賜り、ついに右将軍、中常侍、儀曹・庫部二曹尚書を歴任し、中秘書を領し、彭城公に爵位を進めた。出て 散騎常侍 ・寧西将軍・東雍州刺史となった。在官中に称賛があったため、入って内都大官となった。出て 散騎常侍 ・鎮東将軍・冀州刺史に任じられた。また例により侯に降格された。太和二十年に卒去、六十九歳。建節将軍・懐州刺史を追贈し、諡を敬といった。
宗之の兄の鸞旗は、中書侍郎・東宮中庶子となり、宿衛給事を兼ねた。寧遠将軍を加えられ、洛陽男の爵位を賜った。殿中給事に転じた。出て 散騎常侍 ・冠軍将軍・涇州刺史となり、侯に爵位を進めた。再び殿中給事・中常侍となった。卒去し、洛州刺史を追贈され、諡を靖といった。
初め宗之は、南方から来た殷孝祖の妻蕭氏を娶った。蕭氏は、劉義隆の儀同三司思話の弟、思度の娘で、婦人の儀礼や装飾の故事に詳しかった。太和年間、初めて六宮の服章の制度が定められたとき、蕭は命を受けて内廷で諮問に参与し、たびたび賜与を受けた。蕭の兄の子の超業(後に名を彦と改める)は、幼くして姑に従って国に入った。李洪の娘を娶り、その給与と援助に頼って自らを助けた。 太尉 長史・武衛将軍・齊州刺史・ 散騎常侍 ・中軍将軍・金紫光禄大夫の位を歴任した。彦は時に蕭宝夤のもとを往来し、敬意を表して名を称え、彼を尊と呼んだ。彦は河陰で害に遭い、車騎将軍・儀同三司・徐州刺史を追贈された。子の百年は、西河太守となった。
宗之は兄の子の襲を養子として爵位を継がせた。襲は、字を子業という。高祖の初め、主文中散に任じられ、次第に員外郎、京兆王大農に遷った。長くして義陽太守に任じられ、 司空 劉騰の諮議参軍・ 散騎常侍 ・平東将軍・光禄大夫となった。太昌初年に卒去、七十七歳。驃騎大将軍・儀同三司・冀州刺史を追贈された。
子の顥は、邵郡太守となった。卒去し、荊州刺史を追贈された。
顥の弟の璟は、中散大夫となった。
璟の弟の瑋は、武定年間、 豫 州征西府長史となった。諸宦官は皆、家が衰えたが、ただ趙黒と宗之の後裔のみ、家僮数百人を有し、士流と交際した。
劇鵬
劇鵬は高陽の人である。経史を大まかに読み、吏事に通暁していた。王質らとともに宦官となり、性質は率直で、閹人であることを恥じなかった。文明太后の時にも寵遇を受け、給事中となった。高祖が洛陽に遷都すると、常に宮官として幽后に仕えた。后が薩菩薩に惑わされた時、鵬は密かに諫めて止めさせようとしたが、聞き入れられず、憤慨して卒去した。
兄の買奴もまた宦者となった。幽州刺史の官位を歴任したが、才志は鵬には遠く及ばなかった。
この時、李豊ら数人がおり、皆寵愛を受け、禁闈に出入りし、名位を得て、財産を巨万に積み、邸宅は華麗で壮麗であった。文明太后が 崩御 した後、次第に衰微した。
張祐
張祐は、字を安福といい、安定郡石唐県の人である。父の成は扶風太守であった。世祖(太武帝)の末年に罪に坐して誅殺され、祐は腐刑に処せられた。功労を積んで曹監・中給事に至り、黎陽男の爵位を賜った。次第に 散騎常侍 に昇進し、内蔵曹を総管した。当時、文明太后が朝政を臨み、宦官が権力を握っていた。祐は左右に奉仕して意に適い、諸宦官の中で最も寵幸を受け、特に尚書に昇進し、安南将軍を加えられ、爵位は隴東公に進み、引き続き内蔵曹を総管した。間もなく都曹を監督し、侍中を加えられ、王叡らとともに八議に入った。太后はその忠誠を嘉し、邸宅を造営させた。邸宅が完成すると、高祖と太后は自ら文武の官を率いて宴会を催した。 散騎常侍 ・鎮南将軍・尚書左僕射に任じられ、爵位は新平王に進み、太華庭で職務を受け、宮城の南で威儀を整え、見る者をして栄誉と感じさせた。高祖と太后は自らその邸宅に行幸し、百官を饗応した。祐は性質が恭順で周密であり、機密の禁中に出入りすること二十余年、過失が一度もなかった。これにより特に恩寵を受け、年月を経て賞賜され、家財は巨万に累積した。王質ら十七人とともに金券を賜り、不殺を許された。太和十年に薨去、時に四十九歳。高祖は自ら臨み、詔して鴻臚に喪事を監督させた。帛千匹を賜り、征南大将軍・ 司空 公を追贈され、諡して恭といった。葬送の日、車駕は自ら郊外まで見送った。
祐の養子の顕明(後に慶と改名)は、若くして内職を歴任した。容貌が美しく、江陽王元継が娘を娶らせた。爵位を継ぎ、隴東公に降格され、さらに侯に降格された。洛陽遷都後、二十余年廃され、空位の爵位のみであった。
熙平初年、員外常侍・兼 衞 尉少卿となった。元叉の姉婿であったため、順序を越えてこれを授けられた。神亀二年の冬、霊太后が粛宗のために名家の娘を選ぶと、慶の娘が世婦に選ばれ、間もなく嬪となり、すなわち叉の甥であった。正光三年、正少卿となり、まもなく将軍・高平鎮将として出向した。卒去し、子の迥洛が爵位を継いだ。
抱嶷
抱嶷は、字を道德といい、安定郡石唐県の人で、直谷に居住した。自らその祖先は杞姓であったと称し、漢の霊帝の時に杞匡が安定太守となり、董卓の時に誅殺を恐れて、これにより氏を改め、当地に家を定めたという。確かめることはできない。幼少時、隴東の張乾王が反乱し、家はその逆賊に連座した。乾王が敗れると、父の睹生は逃亡して免れ、嶷は母とともに京都の内廷に没官され、宦官となった。小心で慎み深く、恭順して上に仕え、冗散な地位に沈み、十九年を経た。後に忠謹をもって抜擢され、累進して中常侍・安西将軍・中曹侍御・尚書となり、安定公の爵位を賜った。
納言を総管して以来、職務は機密に近く、諸々の奏議は必ず率直であった。高祖と文明太后はこれを嘉し、殿中侍御とし、尚書として中曹を管轄することを従前通りとし、宿衛を統率させた。まもなく 散騎常侍 を加えられた。高祖と太后が遊幸される度に、嶷は多く陪乗し、入れば後宮を導引した。太后は彼を寵愛し、その父睹生を召し出して太中大夫に任じ、衣馬を賞賜した。睹生が帰還する際、皇信堂で謁見した。高祖は手を執って言った、「老人の帰路、幾日で到着できるか、行路を慎むがよい」。太和十二年、都曹に転じ、侍中・祭酒を加えられ、尚書として中曹・侍御を管轄した。後に爵位を侯に降格された。睹生が卒去すると、秦州刺史を追贈され、諡して靖といった。黄金八十斤・繒綵及び絹八百匹を賜り、喪事の費用とし、別に使者を遣わして労慰した。嶷に大長秋卿を加えた。嶷は老病のため、外職を請うたので、鎮西将軍・涇州刺史とし、特に右光禄大夫を加えた。州に赴任する際、高祖は西郊の楽陽殿で餞別し、御白羽扇を賜った。十九年、詔を受けて洛陽に赴き、刺史として従駕して南征し、常に左右に侍した。嶷が耆旧であるため、度々労問し、しばしばその正直を称えた。 司徒 馮誕と同例で、馬に乗って行宮の禁中に出入りすることを許した。軍が帰還すると州に戻った。
自ら故老の前宦として、政治を行うに多く旧法を守り、新制を用いることができなかった。旧族を侮慢し、接遇の礼を簡略にした。天性酷薄で、弟・姪・甥・婿といえども、ほとんど顧みる潤いがなかった。後数年、州で卒去した。先に従弟の老寿を後継としたが、また太師馮熙の子次興を養子とした。嶷の死後、二人が後継を争った。嶷の妻張氏は長年訴訟を起こし、熙の子を後継とすることができた。老寿もなお訴え続け、ついに爵位を継承した。次興は本族に戻り、奴婢三十口を与えられた。嶷は前後して賜った奴婢牛馬は数百千に及び、他の物品もこれに相当した。
老寿は凡庸で薄情、酒色に身を任せた。御史中尉王顕が上奏して言う、「風聞によれば、前洛州刺史陰平子石栄・積射将軍抱老寿は放蕩で軌道を外れ、妻妾を取り換えて姦淫し、醜聞は朝野に広まり、悪評は道行く人にまで及んでいる。即座に取り調べたところ、皆風聞と相違ない。礼を犯し教化を傷つける、老寿らが主犯である。謹んで案ずるに、石栄の籍は兵卒にあり、地位は宦官の流れと隔たり、世に在って朝廷に入る期なく、生きて冠冕を望むことは絶えていた。時の運に遭い、順序を越えた抜擢を受け、犬馬の情をもって慈しみを受け、簪履の恩念により、微賤より貴顕に至り、位は方岳に至った。恩徳を感じて天の施しに報いることができず、かえって咎は遠近に顕れ、京墟に穢れを放った。老寿はその種族を聞かず、氏姓も記されず、刑余の家に乞い、閹人の室に養われた。国の殊恩を受け、爵位の班序に預かり、正しくは家を治め内を整え、閨庭を教誡すべきである。まさにその淫姦を恣にし、妻妾を取り換えた。石栄は以前洛州におり、遠く老寿の妻常氏を迎え、兵士を千里にわたり疲弊させた。老寿は梁にある破れた笱のごとく、原(疑)の別なきがごとく、男女三人、誰の子か知れない。人倫の聞くところではなく、鳥獣にも及ばない。請う、現事をもって官を免じ廷尉に付して罪を理め、鴻臚に爵位を削除させたい」。詔して許可した。老寿の妻常氏は、万敵の弟の娘である。老寿の死後、家業を整理し、次第に旧に復し、奴婢はなお六七百人いた。三人の娘は皆貴室に嫁いだ。老寿の祖父のために皆碑銘を造り、洛陽から郷里に赴いて建立した。西方では、直谷より二人の貴人を出したという。
石栄は、主書から次第に昇進して州刺史となった。弾劾された後、廃退してしまった。子の長宣は、武定年間に南兗州刺史となり、侯景に与して反乱し、法に伏して誅殺された。
王遇
王遇は、字を慶時といい、本名は他悪、 馮翊郡 李潤鎮の 羌 である。雷氏・党氏・不蒙氏とともに羌中の強族であった。自らその先祖は王姓であったが、後に氏を鉗耳に改め、世宗の時に再び王に改めたという。晋代以来、常に渠長であった。父の守貴は郡の功曹となり、卒した。遇が貴顕となって後、安西将軍・秦州刺史・澄城公を追贈された。
遇は事に坐して腐刑に処せられ、中散となり、内行令・中曹給事中に遷り、員外 散騎常侍 ・右将軍を加えられ、爵を富平子と賜わった。 散騎常侍 ・安西将軍に遷り、爵を宕昌公に進めた。尚書に拝され、吏部尚書に転じ、引き続き常侍を兼ねた。例により侯に降格された。外任として安西将軍・華州刺史となり、 散騎常侍 を加えられた。幽后が廃される前、遇はしばしばその過失を言上した。後に后が寵愛を受けるようになると、高祖は李沖らに対し后に咎はないと述べ、遇の誹謗の罪を称した。沖が言うには、「もしそうであれば、遇は死罪に当たります」。高祖は言った、「遇は旧臣である、情けをかけ尽くすには忍びない、止むを得ず罷免・廃棄するのみだ」。そこで御史を駅伝で派遣して遇の官を免じ、その爵を奪い、衣冠を収め、庶民として私邸に帰らせた。世宗の初め、将作大匠を兼ねた。間もなく、光禄大夫に拝されたが、再び爵位を奪われた。
廃后 馮氏 が尼となった時、公私ともに供給・憐れみを与える者は稀であった。遇は自ら常に奉仕し接していたことを思い、往来して恭しく謁見し、旧来の敬意を怠らず、衣食雑物を、しばしば献上した。后は皆これを受け、辞退しなかった。またその館に至ると、遇夫妻は迎え送りし、伏して謁し、侍立して臣妾の礼を執った。
遇は性質が巧妙で、部署・指揮に強かった。北都の方山霊泉の道俗の居宅や文明太后の陵廟、洛京東郊の馬射壇殿、文昭太后の墓園の修築拡張、太極殿及び東西両堂・内外諸門の制度は、皆遇が監督して造営した。年老いても、朝夕倦むことなく、鞍を跨いで駆け巡り、少壮者と労逸を同じくした。また人事に長け、酒食の間を留意し、僚友旧知に逢う毎に、肴果を整え、酒食は精緻で豊かであった。しかし栄利を競い、勢家の門に趨り求めた。趙脩が寵愛を受けた時、遇は往来して宗仰承順し、勅命を受けてその邸宅を監督造営し、本来の趣旨を超えて増築し、作人を鞭打ったので、誰もが嘆き怒った。官のまま卒した。初め、遇が病んだ時、 太傅 ・北海王と太妃が共に臨問し、その危篤な様子を見て、そのために涙を流した。諸貴人に善く奉仕したことにより、このように互いに悲悼されたのである。使持節・鎮西将軍・雍州刺史を追贈され、侯の爵は元の通りであった。
初め遇は抱嶷と共に文明太后に寵愛され、前後して奴婢数百人を賜わり、馬牛羊その他の物品もこれに相当し、二人共に富室と号された。
遇は弟子の厲を養子とし、厲は本郡の太守となった。次第に昇進して右軍将軍に至り、爵を宕昌侯として襲い、産業は遇の時代を超えるものがあった。
苻承祖
苻承祖は、略陽の 氐 人である。事により宦官となり、文明太后に寵愛され、御厩令から中部給事中・ 散騎常侍 ・輔国将軍に遷り、爵を略陽侯と賜わり、選部事を兼ねて典め、中部は元の通りであった。吏部尚書に転じ、引き続き中部を領した。高祖は甲第を造営し、しばしば臨幸した。爵を略陽公に進め、安南将軍とし、侍中を加えられ、都曹事を知った。初め太后は承祖が腹心の任にあるため、不死の詔を許した。後に承祖は贓罪に坐して死に当たったが、高祖はこれを許し、官職を削り自宅に禁錮し、悖義将軍・佞濁子を授けた。一ヶ月余りで遂に死んだ。
王質
王質は、字を紹奴といい、高陽郡易県の人である。その家が事に坐し、幼くして蠶室に入れられた。書学をよく理解し、中曹吏・内典監となった。次第に昇進して秘書中散となり、寧朔将軍を加えられ、爵を永昌子と賜わり、監御を領した。侍御給事に遷り、また選部・監御の二曹事を領し、さらに特に前将軍を加えられ、爵を魏昌侯に進めた。選部尚書に転じ、員外 散騎常侍 を加えられた。
外任として鎮遠将軍・瀛州刺史となった。質は州に十年在任し、風化はおおよそ行き渡り、奸を察し悪を糾し、その情状を究め、民衆は畏服した。しかし刑政は厳刻峻烈で、多く鞭打ち殺戮し、威酷と号された。高祖はその忠勤と旧臣であることを大いに思い、行幸や留まる重大な事柄、馮 司徒 の死去、馮后の廃立、陸叡・穆泰らの事件など、常に質に璽書を賜い、自筆の文はことごとく委細に至り、外戚貴人と同等であった。質は皆これを宝として掌中に収め栄誉とした。入朝して大長秋卿となったが、間もなく卒した。
李堅
李堅は、字を次壽といい、高陽郡易県の人である。高宗の初め、事により宦官となった。文明太后が朝政に臨むと、次第に昇進して中給事中に至り、爵を魏昌伯と賜わった。小心謹慎で、常に左右にあり、王遇・王質らには及ばないが、やはり任用された。高祖が洛陽に遷都すると、転じて委任され、太僕卿となり、牧産を検査・考課し、多くの増殖があった。世宗の初め、外任として安東将軍・瀛州刺史となり、本州の栄誉は王質と同じであった。任地において収賄し、家産は巨万に上った。京兆王愉が冀州で反乱を起こすと、堅は衆を率いて愉を征討したが、愉に撃破された。交代で帰還し、風疾にかかり、光禄大夫に拝され、数年して卒した。撫軍将軍・相州刺史を追贈され、葬儀の絹帛五百匹を賜わった。弟子の曇景を後継ぎとし、爵を魏昌伯として襲い、羽林監・直後となった。
秦松
秦松は、その出自は知られていない。太和の末、中尹となり、長秋卿に遷り、爵を高都子と賜わった。罪があって免官された。世宗はその爵を回復し、光禄大夫として起用し、中常侍を領させた。平北将軍に遷り、長秋卿を領した。外任として 散騎常侍 ・安北将軍・ 并 州刺史となった。卒し、大将軍・肆州刺史を追贈され、諡を定といった。
白整もまた、事に坐して腐刑に処せられた。年少より宮掖の雑務を掌り、恭順かつ機敏なることで称され、次第に中常侍に昇進した。
太和の末、長秋卿となり、爵を雲陽男に賜う。世宗はその妻王氏を□□県君に封じた。卒すと、平北将軍・ 并 州刺史を追贈された。
劉騰
劉騰は、字を青龍といい、もとは平原の城民であったが、南兗州の譙郡に属するよう移された。幼時に事に坐して刑を受け、小黄門に補せられ、中黄門に転じた。高祖が懸瓠におられた時、騰は使いとして行在所に詣でた。高祖が宮中の事情を問うと、騰は幽后の私的な隠事を詳しく述べ、陳留公主の告げたことと符合した。これにより冗従僕射に進み、なお中黄門のままであった。
後に茹皓とともに徐・兗に使いし、民女を召し集めた。帰還すると、中給事に遷り、次第に中尹・中常侍に昇進し、特に龍驤将軍を加えられた。後に大長秋卿・金紫光禄大夫・太府卿となった。
肅宗が 践祚 した初め、騰が宮衛に預かっていた功により、開国子に封じられ、食邑三百戸を賜う。この年、霊太后が臨朝すると、于忠とともに保護した功績により、崇訓太僕に任じ、中侍中を加えられ、長楽県開国公に改封され、食邑一千五百戸を賜う。その妻の時氏を鉅鹿郡君に拝し、しばしば内裏に引き入れ、賞賜を受けることは諸主や外戚に次いだ。養子とした二人の子は、郡守・尚書郎となった。騰がかつて病篤かった時、霊太后はもし救えないかと慮り、衛将軍・儀同三司に遷し、その他の官職はもとのままとした。後に病は癒えた。騰が拝命する時、肅宗は臨軒すべきであったが、その日は大風が甚だ寒く、取りやめとなり、使者に節を持たせて授けたのである。騰は幼くして宮役に充てられ、手は書を解さず、ただ署名を知るのみであった。奸謀には余裕があり、人の意を射るのに長けていた。霊太后の臨朝に際し、特に寵愛を受け進められ、多くの事を請託し、内外の細かな事柄に忙しく、倦むことを知らなかった。洛北の永橋、太上公・太上君及び城東の三寺は、いずれもその修営を主管した。
吏部はかつて騰の意を窺い、その弟を郡守とし戍を帯びさせようと奏上したが、人の資質に乖離があり、清河王元懌が抑えて与えなかった。騰はこれを恨みに思い、遂に領軍の元叉とともに懌を害した。霊太后を宣光殿に廃し、宮門は昼夜閉ざされ、内外は断絶した。騰自ら管鑰を執り、肅宗も会うことができず、ただ伝食を聞くのみであった。太后は服膳ともに廃され、飢寒を免れなかった。また中常侍の賈粲に命じ、肅宗の書を侍ると偽らせ、密かに監察させた。叉は騰を 司空 公とし、表裏で権を擅にし、互いに樹立した。叉は外を防ぎ、騰は内を守り、禁闥に迭り直し、ともに刑賞を裁断した。騰は遂に崔光とともに詔を受けて歩輓に乗り、殿門を出入りした。四年の間、生殺の威権は、叉と騰の手に決した。八坐・九卿は、朝に騰の宅を訪れ、その顔色を参り、その後ようやく省府に赴くありさまで、数日経っても会えない者もあった。公私の請託は、ただ財貨に在った。舟車の利、水陸に遺すところなく、山沢の饒は、所在で固く護り、六鎮を剥削し、互市に交通した。歳に入る利息は巨万を以て数えた。また頗る嬪御を役し、時に徴求があり、婦女の器物を公然と受け納めた。隣居を逼奪し、室宇を広く開いた。天下みなこれを患い苦しんだ。
正光四年三月、位において薨じ、年六十。賵として帛七百匹・銭四十万・蠟二百斤を賜う。鴻臚少卿が喪事を護った。宦官が義息となり、衰絰する者四十余人。
騰が初めて宅を治める時、奉車都尉の周特がこれのために筮い、吉ならずとし、深く諫めて止めさせたが、騰は怒って用いなかった。特は人に告げて言うには、「必ずや三月・四月の交わりに困るであろう」と。ここに至って果たして死に、廳事が成ったばかりで、その下に屍を陳べた。使持節・驃騎大将軍・太尉公・冀州刺史を追贈された。騰の葬日のこと、宦官が義服し、杖絰衰縞する者百数を数え、朝貴は皆従い、軒蓋は郊野に填塞し相属した。魏初以来、権閹の存亡における盛んなるもの、これに及ぶものはなかった。
霊太后が政に反すと、爵位を追奪し、その冢を発き、骸骨を散露させ、財産を没収した。後に騰の養子の一人が叛いて蕭衍に入ると、太后は大いに怒り、騰の残りの養子を北裔に徙し、尋いで密使を遣わして汲郡においてこれを追殺させた。
賈粲
賈粲は、字を季宣といい、酒泉の人である。太和年中、事に坐して腐刑に処せられた。書記に頗る涉猟した。世宗の末、次第に知遇を受け、内侍に充つるを得た。崇訓丞より長兼中給事中・中嘗薬典御となり、長兼中常侍に転じた。光禄少卿・光禄大夫に遷った。
霊太后の廃されるに際し、粲は元叉・劉騰らとともに帝の動静を窺った。右衛の奚康生が叉を謀殺しようとした時、霊太后と肅宗はともに宣光殿に昇り、左右の侍臣は皆西階の下に立った。康生が既に囚われ捕らえられると、粲は太后を欺いて言うには、「侍官らは恐れを懐き安からず、陛下は親しく慰撫すべきです」と。太后はこれを信じ、階を下りようとした時、粲は便ち肅宗を東序に扶け、前に進んで顯陽殿に御し、還って太后を宣光殿に閉じ込めた。粲は既に叉の党与であり、威福もまた京邑に震うた。自ら武威の出身なりと云い、魏の太尉賈詡(文和)の後裔であるとし、遂に家屬をそこに移した。時に武威太守の韋景は粲の意を受け、その兄の緒を功曹とした。緒は時に年七十に近かった。間もなく、また緒を西平太守とし、景が代わって下る頃には、既に武威太守に転じていた。
霊太后が政に反すと、粲を誅殺しようとしたが、叉・騰の党与が一様でないことを以て、内外を驚動させることを恐れ、やめた。粲を出して済州刺史とし、間もなく、武衛将軍の刁宣を馳驛して遣わし、これを殺させ、資財は県官に没収された。
楊範
楊範は、字を法僧といい、長楽郡広宗県の人である。高宗の時、同族の者が賊を劫掠した罪に連座して誅殺され、範は宮刑に処せられ、王琚に養われて、父子のような恩愛を受け、その家に出入りした。範は中謁者となり、転じて黄門・中謁者僕射・中給事中・射声 校尉 を歴任し、寧遠将軍を加えられ、中尹となった。世宗が崩御すると、高陽王元雍が政務を総覧し、範は外任として白水郡太守となり、龍驤将軍を加えられた。
霊太后が臨朝すると、召し出されて常侍・崇訓太僕卿となり、中嘗薬典御を兼ね、爵位を華陰子と賜った。平西将軍・華州刺史となった。宦官内侍で貴い者は、霊太后は皆その地方長官(方岳)となることを許したが、範は年長で、拝跪が困難であったため、担当官庁が重要でないとし、故に早くその願いを遂げさせた。父子で賄賂を受け取り、兵士や民衆を労役させたため、御史に糾弾された。子の遂は逃亡し、範の事は散逸した。京師に赴き、遂に家で廃された。
後に霊太后は範の旧功を思い、範を中侍中・安南将軍とし、まもなく鎮南将軍・崇訓太僕・華州大中正に進めた。死去すると、征西将軍・秦州刺史を追贈された。
成軌
成軌は、字を洪義といい、上谷郡居庸県の人である。若くして罪により刑を受け、宮掖に仕え、謹厚と称された。中謁者僕射に任じられた。高祖が何かを望まれると、軌はその容色を伺い、時に奏上を発すると、常に帝の心に合った。車駕に従って南征し、専ら御食を進めた。当時高祖は御不 豫 で、常に禁中に居り、昼夜怠ることがなかった。車駕が還ると、帛百匹を賜った。
景明年間、嘗食典御丞となり、僕射は元の通りであった。転じて中給事中・歩兵 校尉 となり、勅命により東宮に侍した。延昌末年、中常侍・中嘗食典御・光禄大夫に遷り、始平伯を賜り、京染都將を統率し、転じて崇訓太僕少卿となった。母の喪に遭うと、詔により主書常顕景が弔慰した。また元の官に起用され、安東将軍・崇訓衛尉卿に進んだ。久しくして、超遷して中侍中・撫軍将軍となり、典御・崇訓は元の通りであった。まもなく中軍将軍・燕州大中正に任じられた。孝昌二年、旧功により始平県開国伯に封ぜられ、食邑三百戸を賜った。粛宗の寵愛を受けた潘嬪は、軌を仮父とし、大いに宦官たちに敬憚された。建義初年、軌は河陰で出迎え、詔により宮内を慰撫せしめられ、爵位を侯に進められ、三百戸を増やされ、前の分と合わせて六百戸となり、衛将軍に遷った。その年八月に卒去し、車騎大将軍・雍州刺史を追贈され、諡を孝惠といった。
養子の弟の子仲慶が襲封した。鎮軍将軍・光禄大夫の位を歴任した。卒去した。
子の朏が襲封した。斉が禅譲を受けると、例により降格された。
王温は、字を桃湯といい、趙郡欒城県の人である。父の冀は高邑県令で、事に坐して誅殺された。温は兄の継叔と共に宦官に充てられた。高祖はその謹慎さにより、中謁者・小黄門に補し、転じて中黄門・鈎盾令となった。次第に中嘗食典御・中給事中に遷り、東宮に給事し、左中郎将を加えられた。
世宗が崩御すると、群官は東宮で粛宗を迎えた。温は臥所から粛宗を起こし、保母と共に粛宗を扶抱し、入って帝位に即かせた。高陽王元雍が冢宰となると、宦官の朋党を憂慮し、外任として鉅鹿郡太守とし、龍驤将軍を加えた。
霊太后が臨朝すると、召還されて中常侍・光禄大夫となり、爵位を欒城伯と賜り、安東将軍となり、崇訓太僕少卿を兼ねた。特に使持節・ 散騎常侍 ・撫軍将軍・瀛州刺史に任じられた。還ると、中侍中に任じられ、鎮東将軍・金紫光禄大夫の号に進んだ。車騎将軍・左光禄大夫・光禄勲卿に遷り、侍中は元の通りであった。孝昌二年、欒城県開国侯に封ぜられ、邑六百戸を賜った。温は後に自ら本籍は陽平郡武陽県であると陳述し、そこで武陽県開国侯に改封され、邑は元の通りであった。建義初年、河陰で害に遇い、六十六歳であった。永安初年、驃騎大将軍・儀同三司・雍州刺史を追贈された。
養子の冏哲が襲封した。斉が禅譲を受けると、例により降格された。
孟鸞
孟鸞は、字を龍児といい、何れの出身か知られていない。事に坐して閹人に充てられた。文明太后の時、王遇が寵愛を受け、鸞は謹敏をもって遇の側近となり、方山に往来して諸寺舎を営んだ。これにより次第に認められ知られるようになった。
霊太后が臨朝すると、左中郎将・中給事中となった。平素より病を患い、顔色は常に暗黒く、九龍殿下で急病を発し、半身が動かず、車に載せて帰宅し、その夜に亡くなった。鸞が初めて出た時、霊太后はこれを聞き、「鸞は必ず助からない、私はそのことを憂える」と言った。その死が奏上されると、そのために涙を流し、「彼は私にこのように仕えていたのに、私の一日の歓楽する時を見ることができなかった」と言った。そこで帛三百匹・黄絹十匹を賜って喪の用に供させた。七日後、霊太后は二百僧の斎を設け、助施として五十匹を賜った。同類の者はこれを栄誉とした。
平季
平季、字は稚穆、燕国薊の人である。祖父の済は武威太守であった。父の雅は州の秀才となり、沙門法秀と謀反を企て、誅殺された。季は腐刑に連座し、宮掖に仕えた。久しくして小黄門に任じられ、詔旨に逆らったため潞県令に出され、拝命しなかった。そのまま奉朝請に任じられた。霊太后が政権を回復すると、寧朔将軍・長水 校尉 を授けられ、黄門令を兼ねた。前軍将軍・中給事中に転じた。当時四方多事であり、太后はしばしば季を外に派遣した。
後に西軍を慰労し、潼関に帰還したところ、華州の羌人舜明らが険阻な地を占拠して叛乱を起こし、 都督 姜道明は討伐を進められなかった。ちょうど舜明が十余人を偽って降伏させ道明の軍に入らせた。〈欠文〉遂に散じた。
新興太守に出された。粛宗が崩御すると、尒朱栄らと共に荘帝を立てることを議した。荘帝が即位すると、平北将軍・肆州刺史に起用され拝された。まもなく撫軍将軍・中侍中に任じられた。参謀の功績により、元城県開国侯に封ぜられ、食邑七百戸を与えられた。そのまま金紫光禄大夫・幽州大中正を加えられ、まもなく燕・安・平・営の中正を兼ねた。前廃帝は車騎将軍・右光禄大夫とし、中侍中はもとの通りとした。永熙年間、驃騎将軍を加えられた。季が病に罹ると、詔を下して使者を遣わし見舞わせた。三年九月に卒去した。天平初年、使持節・ 都督 幽燕安平四州諸軍事・儀同三司・幽州刺史を追贈され、中侍中・将軍・侯はもとの通りとした。初め季は兄の叔良を以て爵を継がせた。卒去した。
子の世冑が襲封した。斉が禅譲を受けると、例により降格された。
封津
封津、字は醜漢、勃海蓨の人である。祖父の羽は真君年間に薄骨律鎮副将となり、貪汙の罪で死を賜った。父の令徳は党宝の娘を娶ったが、宝が誅殺されると、令徳は連座して法に従った。津は刑罰を受け、宮掖に給事した。
官を積み重ねて久しくして、中謁者僕射に任じられ、奉車都尉に遷った。粛宗の初め、冀州で大乗の賊が起こると、詔により津が慰労した。津は代々郷里に住まなかったため、州郷の帰依するところとならなかった。霊太后は津に粛宗の書を侍らせた。常山太守に遷った。孝昌初年、中侍中に任じられ、征虜将軍を加えられ、そのまま崇訓太僕に任じられ、宮室都将を兼ね、冀州大中正となった。金紫光禄大夫に超拜された。二年、東光県開国子に封ぜられ、食邑二百戸を与えられ、鎮南将軍、兼中関右慰労大使となった。 散騎常侍 ・征東将軍・済州刺史に出された。永安初年、中侍中・衛将軍となり、まもなく大長秋・左光禄大夫に転じた。太昌初年、驃騎大将軍・儀同三司となった。津は幼少より宮闈に育ち、左右に給事し、時情を窺うことに長け、機悟と号された。
天平初年、開府儀同三司・本将軍・懐州刺史に任じられた。元象初年、再び中侍中・大長秋卿となり、そのまま開府儀同三司となった。夏に薨去、六十二歳。 都督 冀瀛幽安四州諸軍事・本将軍・ 司徒 公・冀州刺史を追贈され、諡して孝惠といった。
養兄の子の長業が爵を継いだ。斉が禅譲を受けると、例により降格された。
津の兄の憑、字は元寄。当時逃げ隠れしたが、後に赦令に遇い免罪された。太和年間、奉朝請となり、冀州趙郡王幹の田曹参軍・定州彭城王勰の水曹参軍・給事中・越騎 校尉 となった。大乗討伐の功により左中郎将に任じられ、龍驤将軍・中散大夫に遷った。孝昌年間、恒農・武邑二郡太守を歴任した。まもなく征虜将軍・光州刺史に任じられた。帰還し、平東将軍・光禄大夫となり、鎮南将軍・金紫光禄大夫に転じた。衛将軍・右光禄大夫に任じられた。初め津は勅命を受けて出帝の父広平王の陵を営んだ。永熙年間、陵営造の功により、津は城陽県開国子に封ぜられ、邑三百戸を与えられた。津は自ら封邑を持っていたため、憑に転封するよう上奏した。後に衛大将軍・左光禄大夫に任じられた。興和三年夏に卒去、六十七歳。憑に他に才芸はなく、終始の資歴は全て津によるものであった。津が卒去した後、憑も追贈を受けなかった。
子の霊素が襲封した。斉が禅譲を受けると、例により降格された。
津の従兄の荅、光禄大夫。
子の宗顕、 司徒 掾。
劉思逸、平原の人。父の直は武邑太守であった。元愉と信都で反乱を起こし、誅殺された。思逸は幼少にして腐刑に処せられた。初め中小史となり、寺人に転じた。久しくして小黄門に任じられ、奉朝請を拝したが、事に坐して免官された。後に東莞太守に任じられた。思逸は身は閹寺にあっても、性質は頗る豪放で率直、軽薄にして品行がなく、朋遊を結ぶことを好んだ。また左将軍・大長秋卿に任じられ、中侍中・平東将軍に遷った。武定年間、元瑾らと謀反を企て、誅殺された。
また張景嵩・毛暢という者がおり、ともに宦官として肅宗の側近にあり、ともに聡明で機転が利き、大いに知遇を得た。ともに小黄門となり、しばしば隙を見て肅宗に元叉の悪事を述べた。元叉が外されるにあたり、景嵩・暢は大いに力を尽くした。霊太后が政権に復帰したが、すぐには元叉を誅殺しなかった。当時内外に喧伝され、「元叉がまた入朝して政事を執る」と。暢らは禍が己に及ぶことを恐れ、肅宗に啓上し、右衛将軍楊津に密かに命じて元叉を殺させようとした。詔書はすでに成ったが、まだ出されていなかった。元叉の妻がこれを知り、太后に告げて言うには、「景嵩・暢は清河王の息子の巶と謀り、太后を廃そうとしています」と。太后はこれを信じ、暢を責めた。暢は詔書の草稿を出し、太后に呈した。太后がこれを読むと、己を廃する内容がないことを知り、気持ちは少し和らいだ。しかし元叉の妻が構え続けたため、遂に疑惑を招いた。間もなく、暢を頓丘太守として出させた。後にまた景嵩を魯郡太守として出した。そして密かに御史に命じて暢を襲わせたが、暢は逃れて免れ、まもなく捕らえて殺した。景嵩は都に入ったが、太后は暢と共謀したことを数え上げ、大いに嫌疑をかけ責めた。後に陽城・ 滎陽 二郡の太守となった。孝静帝の時、位は中侍中に至り、事に坐して死んだ。
史臣が曰く。〈欠〉
校勘記