およそ小道といえども必ず見るべきものあり、まして往聖は暦数の術を標し、先王は卜筮の典を垂れた。論察には法があり、占候は相伝え、類に触れてこれを長じ、その流れ遂に広し。工芸は紛綸たり、理として抑止すべからず、今篇に列するも、また以て聞見を広むる所以なり。
晁崇は、 字 を子業といい、遼東襄平の人である。家は代々史官であった。崇は天文術数を善くし、時に知名なり。 慕容 垂の太史郎となった。慕容宝に従い参合で敗れ、崇は捕らえられたが、後に赦された。太祖はその伎術を愛し、甚だ親遇された。 中原 平定に従い、太史令に拝され、詔して崇に渾儀を造らせ、日月星辰の象を歴せしめた。 中書 侍郎に遷り、令は元の如し。天興五年、月暈し、左角蝕み尽きんとす。崇奏して曰く、「占うに角獣将に死すと為す」と。時に太祖は既に柴壁にて姚平を克ちたるも、崇の言の徴を以て、遂に諸軍に命じて車を焚きて還った。牛果たして大いに疫し、輿駕の乗する巨犗数百頭もまた同日に路傍に斃れ、その余は首尾相継いだ。この歳、天下の牛の死するもの十の七八に及び、麋鹿もまた多く死せり。
崇の弟の懿は、明弁なるも才は崇に及ばず。北人の語を善くするを以て内侍左右となり、黄門侍郎となり、兄弟並びに顕る。懿は容儀を矜り、被服は度を僭し、言音は太祖に類す。左右その声を聞く毎に、驚竦せざるはなし。太祖知りてこれを悪んだ。後にその家奴が崇と懿が叛き、また□臣の王次多と潜かに通じ、姚興を招き引きしと告ぐ。太祖これを銜んだ。及んで興が平陽を寇すや、車駕これを撃破す。太祖は奴の言を実と為し、還って 晋陽 に次いで、崇兄弟を執りて並びに賜死せしめた。
崇の兄の子は暉なり。太祖の時、諸曹に給事し、稍く給事中に遷り、長平侯の爵を賜う。征虜将軍・済州 刺史 、仮に寧東将軍・穎川公となる。劉駿が東平郡を鎮め、戍を近境に徙すや、暉は表を上りてこれを撃たんことを求めしも、高宗は許さず。暉は乃ち書を為し大義を以てこれを責めたり。卒す。
子の林、爵を襲ぐ。林卒し、子の清襲ぐ。事は節義伝に在り。
暉の従弟は継なり。太祖の時、稍く中書侍郎・給事中・中堅将軍に遷り、襄平子の爵を賜う。魏郡太守を除す。卒す。
子の世宗、爵を襲ぐ。卒し、子の元和襲ぐ。卒す。
張淵は、何れの許の人なるかを知らず。占候に明るく、内外の星分に暁る。自ら云う、嘗て苻堅に事え、堅が南征して司馬昌明を伐たんと欲するに、淵は行かざるを勧めしも、堅は従わず、果たして敗れたり。また姚興父子に仕え、霊台令となった。姚泓滅び、 赫連 昌に入る。昌また淵及び徐辯を以て対として太史令となす。世祖が統万を平ぐるや、淵と辯は俱に見獲された。世祖は淵を以て太史令と為し、数え見訪問せらる。神䴥二年、世祖将に 蠕蠕 を討たんとす。淵と徐辯は皆な行くべからずと謂い、崔浩と世祖の前で争う。語は浩伝に在り。淵は専ら常占を守りて、深くを鈎し遠きを致す能わず、故に浩に及ばず。後に驃騎軍謀祭酒となり、嘗て観象賦を著す。曰く、
先に太祖・太宗の時の太史令王亮・蘇坦、世祖後に和龍を破り、馮文通の太史令閔盛を得、高祖の時の太史令趙樊生、並びに天文を知る。後に太史趙勝・趙翼・趙洪慶・胡世栄・胡法通等の二族、世業天官たる者あり。また容城令徐路は占候を善くす。世宗の時、事に坐して冀州の獄に繋がる。別駕崔隆宗、禁に就きて慰問す。路曰く、「昨夜驛馬星流れ、計らくに赦即時に応じて至るべし」と。隆宗先ずこれを信じ、遂に人を遣わし、試みに城を出て候わしむるに、俄かに赦至る。時に人これを重んず。永安中、詔して恒州の民高崇祖は天文を善くし、毎に吉凶を占いて験あるを以て、特には中散大夫を除す。永熙中、詔して通直 散騎常侍 孫僧化と太史令胡世栄・張龍・趙洪慶及び中書舎人孫子良等をして、門下外省に在りて天文書を校比せしむ。甘・石二家の星経及び漢魏以来二十三家の経占を集め、五十五巻に集む。後に諸家の撮要を集め、前後所上の雑占を、類を以て相従え、日月五星・二十八宿・中外官図、合わせて七十五巻と為す。
孫僧化
僧化は、東莞の人なり。星分を識り、天占を案じて災異を言い、時に中ることあり。普泰中、尒朱世隆その多言を悪み、遂に廷尉に繋ぎ、官を免ず。永熙中、出帝僧化を召し、中散大夫孫安都と共に兵法を撰せしむ。未だ成らずして帝関に入り、遂に罷む。元象中、晋陽にて死す。
時に河間の信都芳あり、字は王琳、学を好み天文算数を善くし、甚だ安豊王延明に知らる。延明の家には群書あり、五経の算事を抄集して五経宗と為し、及び古今の楽事を楽書と為さんと欲す。また渾天・欹器・地動・銅烏漏刻・候風の諸巧事を聚め、併せて図画して器準と為さんとす。並びに芳をしてこれを算せしむ。会に延明南奔す。芳は乃ち自ら撰注す。後に 并州 楽平の東山に隠る。太守慕容保楽聞きてこれを召す。芳已むを得ずして見ゆ。ここにおいて保楽の弟紹宗、これを斉献武王に薦む。以て中外府田曹参軍と為す。芳は性清儉質朴、物と和せず。紹宗その騾馬を給うも、乗騎を肯わず。夜に婢を遣わして侍らせてこれを試みるに、芳忿呼して毆撃し、己に近づくを聴かず。狷介自ら守り、物に求むることなし。後また差勾股に注し、復た史宗を撰し、仍自らこれを注し、数十巻を合わせる。武定中卒す。
殷紹は長楽の人である。幼少より聡明で、陰陽術数を好み、諸方を遊学し、九章・七曜に通じた。世祖の時に算生博士となり、東宮西曹に給事し、その芸術をもって恭宗に知られた。太安四年の夏、四序堪輿を上表し、表して曰く、「臣は姚氏の世に、伊川で学問を行い、時に遊遁の大儒成公興に遇い、九章の要術を求めた。興は字を広明といい、自ら膠東の人と称した。山に居て跡を隠し、世間に現れることは稀であった。興は時に臣を率いて南の陽翟九崖巖の沙門釈曇影の許に至った。興は直ちに北へ帰り、臣は独り留まって、影の居所に依り止まり、九章を請い求めた。影はまた臣を長広の東山に連れて行き、道人法穆に会わせた。法穆は時に影と共に臣のために九章の数家の雑要を開き述べ、章次の意況と大旨を披瀝し解釈した。また隠審の五蔵六府心髓血脉を演じ、商功大算の端部、変化する玄象、土圭・周髀を究めた。精を練り思を鋭くし、四年間蘊習し、穆より聞いたところは、おおよそその概略を得た。穆らは仁愛に富み、特に憂い憐れみを垂れ、さらに先師和公の注した黄帝四序経文三十六巻、合わせて三百二十四章、専ら天地陰陽の根本を説くものを伝授した。その第一は孟序、九巻八十一章、陰陽配合の根源を説く。第二は仲序、九巻八十一章、四時の気の旺・休・殺・吉凶を解く。第三は叔序、九巻八十一章、日月辰宿の交会し相生して表裏となることを明らかにする。第四は季序、九巻八十一章、六甲の刑禍福德を詳しく解釈する。このような文を臣に伝授した。山神の禁制が厳しく、持ち出すことを得ず、経年を尋究し、おおよそ綱要を挙げた。山居は険難で、自ら供給する術なく、窘迫に堪えず、心に懈怠を生じた。甲寅の年、日は鶉火に在り、月は林鍾にあり、景気鬱盛にして、物に感懐して帰らんことを思い、影らに辞を奉った。爾来より今に至るまで、四十五載である。時俗の堪輿八会を歴観するに、世を経ること既に久しく、伝写謬誤し、吉凶禁忌、備悉することができず。或いは良日を考うるも悪会に値い、吉を挙げて凶を用い、多く殃咎に逢う。また史遷・郝振は中古の大儒であり、各々撰注して世に流行している。大小を配会し、陰陽を序述するも、本経に依るも、なお欠くところがある。臣が前に東宮に在った時、状を以て奏聞し、景穆皇帝の聖詔を奉り、臣に撰録を勅し、その要最を集めしめられた。明旨を仰ぎ奉り、謹んで先に見た四序経文を審らかにし、要略を抄撮し、当世に須いる吉凶挙動を、一巻に集成した。上は天子より、下は庶人に至るまで、また貴賤の階級・尊卑の差別・吉凶の用いる所、畢備せざるはない。未だ内に呈せざるに、先帝晏駕した。臣は時に狼狽し、幾ばくか不測に至らんとした。停廃されて以来、八年を経過し、上聞せんと思えども、自ら徹する能わず。加うるに年は夕べに歯頽れ、余齢は旦暮にあり、毎に殂殞し溝壑に填仆するを懼れ、先帝の遺志、宣行するを得ず。夙夜悲憤し、理として違匿し難く、先に撰録した奏に依り、謹んで以て上聞する。中祕の通儒達士に付し、その得失を定められんことを請う。事若し施行すべきあらば、乞うらくは即ち班用せられんことを。」その四序堪輿は遂に大いに世に行われた。
王早は勃海南皮の人である。陰陽九宮及び兵法に明るく、特に風角を善くした。太宗の時、喪乱の後、多く互いに殺害し合った。ある者が早の許に来て勝術を問い求めると、早は法を設け、各々咎無からしめた。これにより州里に称された。時に東莞の鄭氏がおり、同県の趙氏に殺された。その後鄭氏は仇人趙氏を捕らえ、また明晨に宗族を会し、墓所に就いてこれを刑せんとした。趙氏は早に救いを求め、早は占候し、併せて一符を授けて曰く、「君は今且く還り、壮士七人を選び、一人を主者とし、この符を佩かせ、鶏鳴の時に仇家の宅の東南二里許に伏せよ。平旦に、十人が相随い、西北に向かって行く者あらん。中に二人黒牛に乗る者あり、一つの黒牛最も前に在り、一つの黒牛は第七に応ず。ただ第七の者を捉え取って還れば、事必ず他無からん。」趙氏これに従うと、果たしてその言の如く、これは鄭氏の五男の父であった。諸子並びにその族に宗敬せられた故、二家を和解させ、趙氏は竟に免れた。
後に早は客と清晨に門内に立ち、卒風が樹を振るうに遇った。早は客に語って曰く、「法に依れば千里外の急使あるべし。日中に、二匹の馬、一白一赤、西南より来たらん。至れば即ち我を取らん、我を逼り、妻子と別するを聴かざらん。」語り終わって便に入り、家人隣里を召して別れを告げた。語り終わり、浴し、書嚢を帯び、日中に門を出て使を待った。期の如く、果たして二馬、一白一赤、涼州より至り、即ち早を捉えて馬上に載せ、遂に行宮に詣った。時に世祖は涼州を囲み未だ抜かず、故に許彦がこれを薦めた。早は彦の師である。至るに及び、詔して問う、「何時に当たってこの城を得るや。」早対えて曰く、「陛下但だ西北角に移り据わらば、三日の内に必ず克つ。」世祖これに従うと、期の如くにして克った。輿駕都に還る時、久しく雨が降らなかった。世祖早に問うて曰く、「何時に当たって雨あらんや。」早曰く、「今日申時に必ず大雨あらん。」未時に至るまで比べても、なお一片の雲も無く、世祖早を召して詰めた。早曰く、「願わくは更に少時を。」申時に至ると、雲気四方より合し、遂に大雨滂沱たり。世祖は甚だこれを善しとし、而して早は疾を苦にして辞し、郷里に帰ることを乞うた。詔してこれを許した。遂に家に終わった。或いは言う、許彦はその術が勝るを以て、恐らく終に己を妨げんと、故に譎りて帰らしめたと。
耿玄は鉅鹿宋子の人である。卜占を善くした。室内に坐すと、客が門を叩くも、玄は既にその姓字並びに所持する物及び来問の意を知っていた。その卜筮は、十中八九であった。別に林占あり、世に或いはこれを伝えた。而して性は俗に和せず、時に王公その筮を求めんとする者あれば、玄は拒んで許さず、毎に云う、「今既に貴し、更に何を求めて復た卜せんとするや、意外を望むか。」代京の法禁厳切にして、王公これを聞き、驚悚して退かざるはなかった。故に玄は多く憎忿せられ、貴勝に親しまれず。官は鉅鹿太守に至った。
顕祖・高祖の時に勃海の高道埏・清河の趙法逞あり、並びに世に名があった。世宗・粛宗の時に奉車都尉清河の魏道虔・奉車都尉周恃・魏郡太守章武の高月光・月光の弟明月・任玄智・雍州人の潘捺あり、並びに陰陽卜筮に長じた。故に玄は日者の中最も優洽であった。冠軍将軍・濮陽の賈元紹・章武の呂肫・済北の馮道安・河内の馮懷・海東郡の李文殊は並びに法術に工であり、而して道虔・月光・文殊が優れ、その余は及ばなかった。浮陽の孟剛・饒安の王領郡は風角の銓録を善くし、章武の顔悪頭は卜筮を善くし、また耿玄の林占を用い、当時最も知名であった。范陽人の劉弁もまた世に名があった。
劉霊助は燕郡の人である。劉弁に師事し、陰陽占卜を好んだが、粗疏で頼むに足らず、常に燕恒の界を去来し、或いは時に負販し、或いはまた劫盗し、術を巿に売った。後に代より秀容に至り、事により尒朱栄に仕えた。栄は性卜筮を信じ、霊助の占うところ屡中したので、遂に親待され、栄の府の功曹参軍となった。
建義の初め、 爾朱栄 が河陰において王公卿士をことごとく屠害した時、奉車都尉盧道虔兄弟もまた相率いて行宮に朝したが、霊助は彼らが同州の郷里であることを以て、これを護衛し、これにより朝士と諸盧が相随って害を免れた者は数十人に及んだ。爾朱栄が京師に入ると、超えて光禄大夫に拝し、長子県開国伯に封ぜられ、食邑七百戸を賜り、まもなく爵を進めて公と為し、邑を増して通前千戸とした。後に爾朱栄に従って葛栄を討ち擒え、特除して 散騎常侍 ・撫軍将軍・幽州刺史となった。また大将軍・上党王元天穆に従って邢杲を討った。時に幽州の流民で盧城の者が最も凶悍であったため、霊助に 尚書 を兼ねさせ、軍前においてこれを慰労させた。事が平らぎ、元顥が洛に入り、天穆が河を渡った。霊助は先に太行において爾朱栄と会した。河内を攻めんとする時、霊助に筮わせた。霊助は「未の時に必ず克つ」と言った。時既に中に向かっていたが、士衆は疲労怠惰であった。霊助は「時至れり」と言った。栄が鼓を打つと、将士は騰躍し、即ち克ち陥れた。北中に至り、栄が城を攻めて獲ず、時は盛暑であることを以て、議して暫く還り、秋涼を待たんとした。荘帝は詔して霊助に筮わせた。霊助は「必ず賊を破るべし」と言った。詔して「何日か」と問うと、霊助は「十八日、十九日の間」と言った。果たしてその言の如くであった。車駕が宮に還ると、幽州大中正を領し、まもなく征東将軍を加えられ、邑五百戸を増やされ、爵を進めて燕郡公と為り、詔してその父僧安を幽州刺史として贈った。まもなく尚書左 僕射 を兼ね、濮陽・頓丘において幽州流民を慰労し、民を率いて北還した。 都督 侯淵らと共に葛栄の余党韓婁を討ち、薊においてこれを滅ぼした。引き続き州務を治め、車騎将軍を加えられ、また幽・平・営・安四州行台となった。
爾朱栄が死に、荘帝が幽閉されて崩ずると、霊助は元来寒微の身であったが、一朝にしてここに至り、自ら方術をもって衆を動かし得ると謂った。また爾朱氏に誅滅の兆しあるを見て、霊助は遂に自ら燕王・車騎大将軍・開府儀同三司・大行台を号し、荘帝のために義兵を挙げた。霊助は大鳥を馴養し、己の瑞であると称し、妄りに図讖を説き、劉氏が王となるべきと言い、また「世を避けんと欲すれば鳥村に入れ」とも言った。遂に氈を刻んで人象と為し、桃木に画いて符書と為し、詭道厭祝の法を行った。民多くこれを信じた。時に河西の人紇豆陵歩藩が兵を挙げて晋陽に逼り、 爾朱兆 が頻りに戦って利あらず、故に霊助は唱えて「爾朱は自然に滅ぶべし、我が兵を須いず」と言った。これにより幽・瀛・滄・冀の民は悉くこれに従った。従う者は夜悉く火を挙げて号と為し、火を挙げざる村は諸村共にこれを屠った。普泰元年三月、衆を率いて博陵の安国城に至り、叱列延慶・侯淵・爾朱羽生らと戦い、戦いに敗れて擒えられ、定州において斬られ、首は 洛陽 に伝えられ、体は分断された。初め、霊助は常に「三月の末、我必ず定州に入り、爾朱も亦必ず滅ぶ」と言っていた。将に戦わんとする時、霊助自ら筮うと、卦成って吉ならず、手をもって蓍を折り、これを地に棄てて「此れ何を知らんや」と言った。まもなく擒えられるを見、果たして三月に定州に入り、而して斉献武王が明年閏二月に韓陵山において四胡を破り、遂に兆らを滅ぼした。永熙二年、使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 幽瀛冀三州諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射・開府儀同三司・幽州刺史を贈られ、 諡 して恭と言う。
子の宗輝、襲封した。興和年間に開府し、斉が禅を受けるに属し、例により降格した。
江式、字は法安、陳留郡済陽県の人である。六世の祖瓊、字は孟琚、晋の馮翊太守で、虫篆と詁訓に善くした。永嘉の大乱に、瓊は官を棄てて西に張軌に投じ、子孫は涼土に居を定め、世々家業を伝えた。祖の彊、字は文威、太延五年、涼州が平らぎ、内徙して代京に住んだ。三十余法の書を上書し、各々体例有り、また経史諸子千余巻を献上し、これにより抜擢されて中書博士に拝された。卒し、敦煌太守を贈られた。父の紹興、高允が奏して秘書郎と為し、国史を掌ること二十余年、謹厚を以て称された。趙郡太守の任に卒した。
式は少くして家学を専らにした。数年の中に、常に二人の人が時に相教授する夢を見、乃ち覚めて、毎に記識有り。初め 司徒 長兼行参軍・検校御史に拝され、まもなく殄寇将軍・符節令を除された。書をもって文昭太后の尊号諡冊を書き、特除して奉朝請と為り、仍って符節令であった。式は篆体に特に巧みで、洛京宮殿の諸門の板題は、皆式の書である。
延昌三年三月、式は上表して曰く。
詔して曰く「請の如く可とす。 并 就いて太常に、兼ねて八書史を教えしむべし。其の須うる所は、請に依りて之を給す。名目は書成るを待ち重ねて聞かん」。
式は是に於いて字書を撰集し、号して古今文字と曰い、凡そ四十巻、大體許氏の説文を本と為し、上は篆、下は隷とした。また宣威将軍・符璽郎を除され、まもなく軽車将軍を加えられた。正光年中、 驍 騎将軍・兼著作佐郎を除され、正史中の字を正した。四年に卒し、右将軍・巴州刺史を贈られた。其の書は竟に成る能わず。
式の兄の子、征虜将軍順和も亦篆書に巧みであった。先に太和年中、兗州の人沈法会は隷書に能くし、世宗が東宮に在った時、法会に侍書を命じた。已後に隷書の迹が閭里に知られた者は甚だ衆かったが、崔浩の妙には及ぶ者無かりき。
周澹、京兆鄠県の人である。人となり多方術に為り、特に医薬に善くし、太醫令となった。太宗嘗て風頭眩に苦しんだが、澹が治療して癒えしめ、これにより寵見され、位は特進に至り、爵を成徳侯として賜った。神瑞二年、京師飢饉に、朝議 鄴 に遷都せんとした。澹は博士祭酒崔浩と計を進め、不可の意を論じ、太宗大いに之を然とし、「唯だ此の二人、朕が意と同じし」と言った。詔して澹・浩に妾各一人、御衣一襲、絹五十匹、綿五十斤を賜った。泰常四年に卒し、諡して恭と言う。
時に河南の人陰貞有り、家世医を為し、澹と並び封爵を受けた。清河の李潭も亦善く鍼を以て知られた。
子の驢駒、襲封し、術を伝えた。延興年中、位は散令に至った。
李脩、字は思祖、本は陽平郡館陶県の人である。父の亮、少くして医術を学んだが、未だ精究せず。世祖の時、彭城の劉義隆に奔り、又沙門の僧坦に就いて衆方を研習し、略く其の術を尽くし、針灸薬を授くるに、効無きこと莫かりき。徐兗の間において、多く救恤し、四方の疾苦の者は、千里を遠しとせず、竟いに往きてこれに従った。亮は大いに廳事を為して病人を舎し、車輿を其の下に停め、時に死者有れば、則ち就いて棺殯し、親しく往きて弔視した。其の仁厚此の若き有り。累遷して府参軍となり、本郡を督護し、士門の宿官は、皆相交昵し、車馬金帛を以て酬賚し、貲する所無かりき。脩の兄元孫は畢衆敬に随って 平城 に赴き、亦父の業を遵ったが及ばず。功を以て爵を義平子として賜り、奉朝請に拝された。
李脩の事績は兄とほぼ同じである。後に代京に入り、中散令の官位を歴任し、功績により下蔡子の爵位を賜り、給事中に昇進した。太和年間、常に禁中に侍した。高祖(孝文帝)や文明太后が時に病に臥せると、李脩は鍼と薬を奉じて侍し、治療は多く効果があった。賞賜は累加され、車服や邸宅は鮮麗と称された。諸学士や書を能くする者百余人を集め、東宮において諸薬方を百余巻撰し、皆世に行われた。先に咸陽公高允は年齢百歳に近かったが、気力はなお健やかであり、高祖や文明太后は時に李脩に診察させた。ある日、奏上して言うには、高允の脈は尽き気は微かで、寿命は遠くないと。間もなく果たして亡くなった。洛陽遷都後、前軍将軍となり、太醫令を兼任した。後数年して卒去し、威遠将軍・青州刺史を追贈された。
子の天授は爵位を継承した。汶陽県令となったが、医術はまた父に及ばなかった。
徐謇は、字を成伯といい、丹陽の人である。家は本来東莞にあり、兄の文伯らと共に皆医薬を善くした。徐謇は青州に至った際、慕容白曜が東陽を平定し、彼を捕らえ、上表して京師に送った。顕祖(献文帝)はその能力を試そうと、病人たちを幕中に置き、徐謇に隔てて脈を取らせたところ、深く病状を得、併せて気色の候をも知った。そこで寵遇を受けることとなった。中散となり、次第に内侍長に昇進した。文明太后の時は時に治療法を問うたが、李脩のように任用されるには及ばなかった。徐謇が薬剤を調合し、治療救済の効果は、李脩よりも精妙であったが、性格は甚だ秘密を好み猜疑心が強く、承奉がその意に沿わない者は、貴く王公であっても治療を施さなかった。高祖(孝文帝)は後にその才能を知り、洛陽遷都後、次第に寵愛を加えた。自身が少し不調の時や、寵愛する馮昭儀が病んだ時、皆彼に処置治療させた。また中散大夫に任じ、転じて右軍将軍・侍御師となった。徐謇は高祖のために金丹を合成し、延年の法を致そうとした。そこで崧高(嵩山)に入り住み、その材料を採り営んだが、数年を経ても成すところなく、遂に中止した。
太和二十二年、高祖が懸瓠に行幸した際、病が大いに重くなり、駅伝を馳せて徐謇を召し、水路を行所に赴かせ、一日一夜に数百里を行った。到着し、診察治療したところ、果たして大いに効果があった。高祖の体は少し快方に向かい、内外慶賀した。九月、車駕は 豫 州を発ち、汝水のほとりに駐留した。そこで大いに徐謇のために太官の珍膳を設け、百官を集め、特に徐謇を上席に座らせ、前に肴や杯を並べ、左右の者に命じて徐謇が危篤を救い摂理し、振るい救済した功績を宣べさせ、応じて報酬を与えるべきであるとした。そこで詔を下して言うには、「神は方なく出で、形は障りを受けることを稟け、憂喜が適わず乖けば、理として必ず生を傷つく。朕は万機を覧み、長く革運に鍾り、思うこと茫々として怠ることなく、身は忽ちとして労を興す。仲秋に痾を動かし、心容頓ちに竭き、気体羸瘠し、玉几に在りて慮う。侍御師・右軍将軍徐成伯は太室に輪を馳せ、汝蕃に進み療し、方に丹英を窮め、薬に芝石を尽くし、誠と術と両つながら輸し、忠と妙と俱に至り、乃ち沈痾をして勝ちて愈えさせ、篤瘵克く痊えしむ。勤を論じ効を語れば、実に褒め録すべし。昔、晋の武帝が暴疾に罹った時、程和は応じて封を増やされ、辛疚数朝の時、錢爵大いに墜ちたり。況んや疾は曩辰より深く、業は疇日に難きにおいて、重ねて陟賞を加えざるを得ざるか。宜しく群望に順い、山河を以て錫うべし。且つその旧くは高秩に逕り、中暫く解退す。比に雖く銓用せらるれど、猶未だ囗囗たり。旧を準え今を量れば、事顕進に合う。鴻臚卿、金郷県開国伯と為し、食邑五百戸を賜い、銭一万貫を賜うべし」。また詔して言うには、「銭府未だ充たず、須らく雑物を以てすべし。絹二千匹、雑物一百匹、四十匹は御府より出だす。穀二千斛。奴婢十口。馬十匹、一匹は驊騮より出だす。牛十頭」。賜った雑物・奴婢・牛馬は皆内に呈された。諸親王の咸陽王元禧らは各別に賜い有り、皆千匹に至った。従って鄴に行き、高祖はなお自ら発作を起こし、徐謇は朝夕左右に侍した。翌年、馬圈に詣でるに従い、高祖の病勢は遂に甚だしくなり、戚戚として怡ばず、毎度切に誚りを加え、また鞭捶を加えようとしたが、幸いにして免れた。高祖が 崩御 すると、徐謇は梓宮に随って洛陽に還った。
徐謇は常に薬餌や呑服する道符を用い、年齢八十に垂んとしても、鬢髪は白くならず、力も多く衰えなかった。正始元年、老齢を以て光禄大夫と為し、平北将軍を加えられ、卒去した。延昌初年、安東将軍・齊州刺史を追贈され、諡して靖といった。
子の踐は、字を景升といい、小名を霊宝といい、爵位を継承した。官職を歴任し、兗州平東府長史・右中郎将・建興太守となった。
踐の弟の知遠は、給事中となった。
成伯(徐謇)の孫の之才は、孝昌初年、蕭衍の 豫 章王蕭綜の北府主簿となり、蕭綜に従って彭城を鎮守した。蕭綜が降伏すると、その下僚属は皆奔散し、之才はこれにより国(北魏)に入った。武定年間、大将軍・金紫光禄大夫・昌安県開国侯となった。
王顕は、字を世栄といい、陽平郡楽平県の人である。自ら言うには、本来は東海郡郯県の人で、王朗の後裔であると。祖父は延和年間に南奔し、魯の郊外に居住し、また彭城に住んだ。伯父の安上は、劉義隆(宋の文帝)の時に板授により館陶県令を代行した。世祖(太武帝)が南討すると、安上は県を棄てて帰順し、父母と共に平城に移住し、例により陽都子に叙され、広寧太守に任じられた。王顕の父の安道は、若くして李亮と同師につき、共に医薬を学び、その術を粗く究めたが、李亮には及ばなかった。安上は楽平の家に還り、頗る士流に参じた。
王顕は若くして本州の従事を歴任し、医術をもって自ら通じたが、明敏で決断の才用があった。初め、文昭皇太后が世宗(宣武帝)を懐妊した時、太陽に追われる夢を見、龍に化けて后を取り巻き、后は覚めて驚き悸い、遂に心疾となった。文明太后は詔を下して徐謇や王顕らを召し后の脈を診させた。徐謇は微風が臓に入ったものと言い、湯薬を進め鍼を加えるべきと言った。王顕は言うには、「三部の脈を按ずるに、心疾にあらず、将に是れ懐妊して男を生む象なり」と。果たして王顕の言う通りであった。久しくして、侍御師・尚書儀曹郎に補任され、幹事と称された。世宗は幼少より微疾があり、久しく癒えなかったが、王顕が摂理治療して効果があり、これにより次第に顧み識られるようになった。
また六輔が廃止された初め、王顕は領軍の于烈の間で規策を通じ、密かな功績が頗るあった。累進して游撃将軍となり、廷尉少卿に拝任され、なお侍御に在り、進御する薬を営み、禁中に出入りした。本州の臨任を乞うと、世宗はかつてこれを許したが、積年授からず、これにより名声が遠近に伝わった。王顕は毎度人に語り、時の旨は既に決し、必ず刺史となると言った。遂に平北将軍・相州刺史に任じられた。間もなく詔により駅伝を馳せて還京し、再び薬を掌り、また州に還遣された。元愉が叛逆を為すと、王顕はこれを討ったが利あらず。入朝して太府卿・御史中尉に任じられた。
王顕は前後官職を歴任し、所在において称賛され、諸々の獄訟を糾弾し折衝し、その奸回を究め、出納を惜しみ慎み、国を憂うること家の如しであった。憲台(御史台)を領するに及んで、多く弾劾し、百官は肅然とした。また中尉の属官が悉く職に称さないことを以て、諷諫して更換を求めた。詔により改選を委ねられ、務めて才能を尽くすべきであったが、王顕の挙げる者には時に請託によるものもあり、皆人を得たとは言えず、ここにおいて衆口喧譁し、声望を損なうに至った。後、世宗は詔して王顕に薬方三十五巻を撰せしめ、天下に班布して諸疾を療せしめた。東宮が既に建てられると、太子詹事と為し、委任は甚だ厚かった。世宗が毎度東宮に行幸すると、王顕は常に迎え侍した。禁中に出入りし、なお医薬を奉じた。賞賜は累加され、館宇を立てられ、寵は当時に振るった。延昌二年秋、営み治療の功により、 衞 南伯に封ぜられた。
四年正月、世宗が夜中に崩御し、肅宗が 践祚 した。賈顕は璽策を奉じ、従って臨哭に加わり、内心憂懼を抱いた。賈顕は既に任用され遇され、かつ法官を兼ねており、勢いに恃み威を振るったため、当時の人々に憎まれた。朝宰は侍療が無効であったことを口実に、彼を禁中に拘束し、詔によって爵位を削除した。拘束される際に冤罪を叫ぶと、直閤が刀の鐶でその腋下を突き、傷が深く吐血し、右 衞 府に至って一晩で死んだ。初め賈顕が布衣で諸生であった時、ある沙門が賈顕の相を見て後に富貴になると言い、吏官になるなと戒め、吏官になれば必ず敗れると言った。このため世宗の時、時に彼をして吏部を摂行させようとしたが、賈顕は常に熱心にそれを避けた。世宗が崩御し、肅宗が夜に即位し、璽冊を受け取る儀式において、 太尉 及び吏部を兼ねる必要があったが、倉卒のことで百官が揃わず、賈顕に吏部行事を兼務させたのである。
崔彧は、字を文若といい、清河郡東武城県の人である。父の勲之は、字を寧国といい、大司馬外兵郎の位にあり、通直郎を追贈された。崔彧は兄の相如と共に南朝から魏に入国した。相如は才学で知られ、早世した。崔彧は若い頃に青州を訪れたことがあり、隠逸の沙門に逢い、素問九巻及び甲乙経を教えられ、そこで医術に長じるようになった。中山王元英の子の略がかつて病にかかり、王顕らが治療できなかったが、崔彧が鍼をすると、鍼を抜くとすぐに癒えた。後に冀州別駕の位に至り、累進して寧遠将軍となった。性質は仁恕で、疾苦を見ると、好んでこれを治療した。広く門生を教え、多く救療するよう命じた。その弟子の清河の趙約、勃海の郝文法の徒もまた皆有名であった。
崔彧の子の景哲は、豪放で率直であり、また医術で知られた。太中大夫、 司徒 長史となった。
蔣少游は、楽安郡博昌県の人である。慕容白曜が東陽を平定した時、捕虜となり平城に入り、平斉戸に充てられ、後に雲中に配属されて兵士となった。性質は機巧で、絵画や彫刻にかなり長じていた。文才があり、吟詠の際、時に短篇を作った。そこで平城に留まり寄寓し、書物の傭写を業としたが、名声はなお鎮にあった。
後に召し出されて中書写書生となり、高聰と共に高允に寄寓した。高允はその文才を愛し、そこで二人を共に推薦し、高聰と共に中書博士に補任された。中書に在って以来、常に李沖の兄弟子姪の門に庇護を求めた。初め北方では青州の蔣氏一族を詳しく知らず、ある者は蔣少游は本来人士ではないと言い、また蔣少游はわずかに工芸によって自ら出世したので、公私の声望は重んじられなかった。ただ高允と李沖だけが曲げて理解し、蔣少游の舅の崔光と李沖の従叔父の李衍が向かい合って婚姻関係にあったためである。高祖と文明太后は常に密宴の席で、百官に言った。「元来は蔣少游は職人に過ぎないと思っていたが、高允の老爺が彼を人士だと言う。」このように眷顧と認識された。しかしなお急に引見を命じられ、忙しく禁闥に出入りし、規矩や刻繢を務めとしたため、これによって大いに恩賜を受け、等級を超えて備位したが、やはり昇進はしなかった。
詔によって尚書李沖が馮誕、游明根、高閭らと禁中で衣冠を議定するに当たり、蔣少游は巧思があったので、これに主管させ、また劉昶にも諮問した。二つの意見が相乖離し、時に諍競を招き、六年を積んでようやく完成し、初めて百官に頒賜した。冠服の完成には、蔣少游の功績があった。後に平城で太廟と太極殿を営造することになり、蔣少游を駅伝で洛陽に派遣し、魏 晉 の基址を測量し基準とした。後に散騎侍郎となり、李彪に副えて江南に使した。高祖が船乗りを整備するに当たり、その多くの思慮と能力を認め、都水使者に任じ、前将軍、兼将作大匠に昇進し、引き続き水池や湖の遊覧用舟船の具を管轄した。華林殿や池沼の修復と増築、金墉門楼の改築に至るまで、皆その意匠に係り、妍美と称された。
文藻はあったが、その才用を伸ばすことができず、常に彫刻刀や墨縄、細かく煩わしい雑事に追われ、園池や城殿の傍らを彷徨い、識者はそのために慨嘆した。しかし彼は平然としてこれを己が任とし、疲れや恥を訴えなかった。また太常少卿を兼ね、都水の職は元の通りであった。景明二年に卒去し、龍驤将軍、青州刺史を追贈され、諡を質といった。文集十巻余りがあった。蔣少游はまた太極殿の模型を作り、董尒、王遇らと共に参画して建立したが、皆完成せずに卒去した。
初め、高宗の時、郭善明は非常に機巧に富み、北京(平城)の宮殿は多くがその製作によるものであった。高祖の時、青州刺史の侯文和もまた巧みさで知られ、快速な船を作り、水中に立って射撃した。滑稽で知恵が多く、言葉に端緒がなく、特に浅俗な巷の言葉に長じ、甚だしく冗談が言えた。楽陵、済南二郡の太守の位にあった。
世宗、肅宗の時、 豫 州人の柳儉、殿中將軍の関文備、郭安興は共に機巧であった。洛中に永寧寺の九層仏塔を造営したが、郭安興が工匠であった。
高祖の時、范寧児という者が囲碁に長じていた。かつて李彪と共に蕭賾に使いし、蕭賾は江南の上品である王抗に范寧児と対局させた。(范寧児は)勝って帰還した。また浮陽の高光宗という者が樗蒲に長じていた。趙国の李幼序、洛陽の丘何奴は共に握槊に巧みであった。これは胡の遊戯で、近頃中国に入り、胡の王に弟一人が罪を得て、殺されようとした時、弟が獄中からこの遊戯を作って王に献上し、意味は独りでは死にやすいということだという。世宗以後、大いに当時に盛行した。
史臣が言う。陰陽や卜祝の事柄は、聖哲の教えの中に存する。専らにすべきではないが、また廃することもできない。これに従う者は過ちがないわけではなく、利に厚い者は必ず害がある。詩書礼楽は、失うところが少ないので、先王はその徳を重んじた。方術伎巧は、失うところが深いので、往哲はその芸を軽んじた。方術に通じながら俗に背かず、伎巧を習いながら必ず礼を踏む者は、大雅の君子に近い。故に昔の通賢は、妄作を戒めたのである。晁崇、張淵、王早、殷紹、耿玄、劉霊助は皆、術芸の士である。その占候や卜筮、推歩や盈虚の推算、幽微に通じ洞察し、近くは鬼神の情状を知るのを見よ。周澹、李脩、徐謇、王顕、崔彧は方薬に特に妙を得、各々一時の美である。蔣少游は彫刻刀の技で知られ、その学問と思索は埋もれ、芸が完成しても下位にあり、これに近いのではないか。
校勘記