魏書

卷91 術藝:晁崇 張淵 殷紹 王早 耿玄 劉靈助 江式等

卷91 術藝:晁崇 張淵 殷紹 王早 耿玄 劉靈助 江式等

およそ小道といえども必ず見るべきものあり、まして往聖は暦数の術を標し、先王は卜筮の典を垂れた。論察には法があり、占候は相伝え、類に触れてこれを長じ、その流れ遂に広し。工芸は紛綸たり、理として抑止すべからず、今篇に列するも、また以て聞見を広むる所以なり。

原文蓋小道必有可觀,況往聖標曆數之術,先王垂卜筮之典,論察有法,占候相傳,觸類長之,其流遂廣。工藝紛綸,理非抑止,今列於篇,亦所以廣聞見也。

晁崇は、字を子業といい、遼東襄平の人である。家は代々史官であった。崇は天文術数を善くし、時に知名なり。慕容垂の太史郎となった。慕容宝に従い参合で敗れ、崇は捕らえられたが、後に赦された。太祖はその伎術を愛し、甚だ親遇された。中原平定に従い、太史令に拝され、詔して崇に渾儀を造らせ、日月星辰の象を歴せしめた。中書侍郎に遷り、令は元の如し。天興五年、月暈し、左角蝕み尽きんとす。崇奏して曰く、「占うに角獣将に死すと為す」と。時に太祖は既に柴壁にて姚平を克ちたるも、崇の言の徴を以て、遂に諸軍に命じて車を焚きて還った。牛果たして大いに疫し、輿駕の乗する巨犗数百頭もまた同日に路傍に斃れ、その余は首尾相継いだ。この歳、天下の牛の死するもの十の七八に及び、麋鹿もまた多く死せり。

原文晁崇,字子業,遼東襄平人也。家世史官。崇善天文術數,知名於時。為慕容垂太史郎。從慕容寶敗於參合,獲崇,後乃赦之。太祖愛其伎術,甚見親待。從平中原,拜太史令,詔崇造渾儀,歷象日月星辰。遷中書侍郎,令如故。天興五年,月暈,左角蝕將盡,崇奏曰:「占為角蟲將死。」時太祖既克姚平於柴壁,以崇言之徵,遂命諸軍焚車而反。牛果大疫,輿駕所乘巨犗數百頭亦同日斃於路側,自餘首尾相繼。是歲,天下之牛死者十七八,麋鹿亦多死。

崇の弟の懿は、明弁なるも才は崇に及ばず。北人の語を善くするを以て内侍左右となり、黄門侍郎となり、兄弟並びに顕る。懿は容儀を矜り、被服は度を僭し、言音は太祖に類す。左右その声を聞く毎に、驚竦せざるはなし。太祖知りてこれを悪んだ。後にその家奴が崇と懿が叛き、また□臣の王次多と潜かに通じ、姚興を招き引きしと告ぐ。太祖これを銜んだ。及んで興が平陽を寇すや、車駕これを撃破す。太祖は奴の言を実と為し、還って晋陽に次いで、崇兄弟を執りて並びに賜死せしめた。

原文崇弟懿,明辯而才不及崇也。以善北人語內侍左右,為黃門侍郎,兄弟並顯。懿好矜容儀,被服僭度,言音類太祖。左右每聞其聲,莫不驚竦。太祖知而惡之。後其家奴告崇與懿叛,又與□臣王次多潛通,招引姚興,太祖銜之。及興寇平陽,車駕擊破之。太祖以奴言為實,還次晉陽,執崇兄弟並賜死。

崇の兄の子は暉なり。太祖の時、諸曹に給事し、稍く給事中に遷り、長平侯の爵を賜う。征虜将軍・済州刺史、仮に寧東将軍・穎川公となる。劉駿が東平郡を鎮め、戍を近境に徙すや、暉は表を上りてこれを撃たんことを求めしも、高宗は許さず。暉は乃ち書を為し大義を以てこれを責めたり。卒す。

原文崇兄子暉。太祖時給事諸曹,稍遷給事中,賜爵長平侯。征虜將軍、濟州刺史,假寧東將軍、穎川公。劉駿鎮東平郡,徙戍近境,暉上表求擊之,高宗不許。暉乃為書以大義責之。卒。

子の林、爵を襲ぐ。林卒し、子の清襲ぐ。事は節義伝に在り。

原文子林,襲爵。林卒,子清擊。事在節義傳。

暉の従弟は継なり。太祖の時、稍く中書侍郎・給事中・中堅将軍に遷り、襄平子の爵を賜う。魏郡太守を除す。卒す。

原文暉從弟繼,太祖時稍遷中書侍郎、給事中、中堅將軍,賜爵襄平子。除魏郡太守。卒。

子の世宗、爵を襲ぐ。卒し、子の元和襲ぐ。卒す。

原文子世宗,襲爵。卒,子元和襲。卒。

張淵は、何れの許の人なるかを知らず。占候に明るく、内外の星分に暁る。自ら云う、嘗て苻堅に事え、堅が南征して司馬昌明を伐たんと欲するに、淵は行かざるを勧めしも、堅は従わず、果たして敗れたり。また姚興父子に仕え、霊台令となった。姚泓滅び、赫連昌に入る。昌また淵及び徐辯を以て対として太史令となす。世祖が統万を平ぐるや、淵と辯は俱に見獲された。世祖は淵を以て太史令と為し、数え見訪問せらる。神䴥二年、世祖将に蠕蠕を討たんとす。淵と徐辯は皆な行くべからずと謂い、崔浩と世祖の前で争う。語は浩伝に在り。淵は専ら常占を守りて、深くを鈎し遠きを致す能わず、故に浩に及ばず。後に驃騎軍謀祭酒となり、嘗て観象賦を著す。曰く、

原文張淵,不知何許人。明占候,曉內外星分。自云嘗事苻堅,堅欲南征司馬昌明,淵勸不行,堅不從,果敗。又仕姚興父子,為靈臺令。姚泓滅,入赫連昌,昌復以淵及徐辯對為太史令。世祖平統萬,淵與辯俱見獲。世祖以淵為太史令,數見訪問。神䴥二年,世祖將討蠕蠕,淵與徐辯皆謂不宜行,與崔浩爭於世祖前,語在浩傳。淵專守常占,而不能鈎深致遠,故不及浩。後為驃騎軍謀祭酒,嘗著觀象賦曰:

先に太祖・太宗の時の太史令王亮・蘇坦、世祖後に和龍を破り、馮文通の太史令閔盛を得、高祖の時の太史令趙樊生、並びに天文を知る。後に太史趙勝・趙翼・趙洪慶・胡世栄・胡法通等の二族、世業天官たる者あり。また容城令徐路は占候を善くす。世宗の時、事に坐して冀州の獄に繋がる。別駕崔隆宗、禁に就きて慰問す。路曰く、「昨夜驛馬星流れ、計らくに赦即時に応じて至るべし」と。隆宗先ずこれを信じ、遂に人を遣わし、試みに城を出て候わしむるに、俄かに赦至る。時に人これを重んず。永安中、詔して恒州の民高崇祖は天文を善くし、毎に吉凶を占いて験あるを以て、特には中散大夫を除す。永熙中、詔して通直散騎常侍孫僧化と太史令胡世栄・張龍・趙洪慶及び中書舎人孫子良等をして、門下外省に在りて天文書を校比せしむ。甘・石二家の星経及び漢魏以来二十三家の経占を集め、五十五巻に集む。後に諸家の撮要を集め、前後所上の雑占を、類を以て相従え、日月五星・二十八宿・中外官図、合わせて七十五巻と為す。

原文先是太祖、太宗時太史令王亮、蘇坦,世祖後破和龍,得馮文通太史令閔盛,高祖時太史令趙樊生,並知天文。後太史趙勝、趙翼、趙洪慶、胡世榮、胡法通等二族,世業天官者。又有容城令徐路善占候。世宗時坐事繫冀州獄,別駕崔隆宗就禁慰問,路曰:「昨夜驛馬星流,計赦即時應至。」隆宗先信之,遂遣人、試出城候焉,俄而赦至。時人重之。永安中,詔以恒州民高崇祖善天文,每占吉凶有驗,特除中散大夫。永熙中,詔通直散騎常侍孫僧化與太史令胡世榮、張龍、趙洪慶及中書舍人孫子良等,在門下外省校比天文書。集甘、石二家星經及漢魏以來二十三家經占,集為五十五卷。後集諸家撮要,前後所上雜占,以類相從,日月五星、二十八宿、中外官圖,合為七十五卷。

孫僧化

原文孫僧化

僧化は、東莞の人なり。星分を識り、天占を案じて災異を言い、時に中ることあり。普泰中、尒朱世隆その多言を悪み、遂に廷尉に繋ぎ、官を免ず。永熙中、出帝僧化を召し、中散大夫孫安都と共に兵法を撰せしむ。未だ成らずして帝関に入り、遂に罷む。元象中、晋陽にて死す。

原文僧化者,東莞人。識星分,案天占以言災異,時有所中。普泰中,尒朱世隆惡其多言,遂繫於廷尉,免官。永熙中,出帝召僧化與中散大夫孫安都共撰兵法,未就而帝入關,遂罷。元象中死於晉陽。

時に河間の信都芳あり、字は王琳、学を好み天文算数を善くし、甚だ安豊王延明に知らる。延明の家には群書あり、五経の算事を抄集して五経宗と為し、及び古今の楽事を楽書と為さんと欲す。また渾天・欹器・地動・銅烏漏刻・候風の諸巧事を聚め、併せて図画して器準と為さんとす。並びに芳をしてこれを算せしむ。会に延明南奔す。芳は乃ち自ら撰注す。後に并州楽平の東山に隠る。太守慕容保楽聞きてこれを召す。芳已むを得ずして見ゆ。ここにおいて保楽の弟紹宗、これを斉献武王に薦む。以て中外府田曹参軍と為す。芳は性清儉質朴、物と和せず。紹宗その騾馬を給うも、乗騎を肯わず。夜に婢を遣わして侍らせてこれを試みるに、芳忿呼して毆撃し、己に近づくを聴かず。狷介自ら守り、物に求むることなし。後また差勾股に注し、復た史宗を撰し、仍自らこれを注し、数十巻を合わせる。武定中卒す。

原文時有河間信都芳,字王琳,好學善天文算數,甚為安豐王延明所知。延明家有羣書,欲抄集五經算事為五經宗及古今樂事為樂書;又聚渾天、欹器、地動、銅烏漏刻、候風諸巧事,并圖畫為器準。並令芳算之。會延明南奔,芳乃自撰注。後隱於并州樂平之東山。太守慕容保樂聞而召之,芳不得已而見焉。於是保樂弟紹宗薦之於齊獻武王,以為中外府田曹參軍。芳性清儉質樸,不與物和。紹宗給其騾馬,不肯乘騎;夜遣婢侍以試之,芳忿呼毆擊,不聽近己。狷介自守,無求於物。後亦注重差勾股,復撰史宗,仍自注之,合數十卷。武定中卒。

殷紹は長楽の人である。幼少より聡明で、陰陽術数を好み、諸方を遊学し、九章・七曜に通じた。世祖の時に算生博士となり、東宮西曹に給事し、その芸術をもって恭宗に知られた。太安四年の夏、四序堪輿を上表し、表して曰く、「臣は姚氏の世に、伊川で学問を行い、時に遊遁の大儒成公興に遇い、九章の要術を求めた。興は字を広明といい、自ら膠東の人と称した。山に居て跡を隠し、世間に現れることは稀であった。興は時に臣を率いて南の陽翟九崖巖の沙門釈曇影の許に至った。興は直ちに北へ帰り、臣は独り留まって、影の居所に依り止まり、九章を請い求めた。影はまた臣を長広の東山に連れて行き、道人法穆に会わせた。法穆は時に影と共に臣のために九章の数家の雑要を開き述べ、章次の意況と大旨を披瀝し解釈した。また隠審の五蔵六府心髓血脉を演じ、商功大算の端部、変化する玄象、土圭・周髀を究めた。精を練り思を鋭くし、四年間蘊習し、穆より聞いたところは、おおよそその概略を得た。穆らは仁愛に富み、特に憂い憐れみを垂れ、さらに先師和公の注した黄帝四序経文三十六巻、合わせて三百二十四章、専ら天地陰陽の根本を説くものを伝授した。その第一は孟序、九巻八十一章、陰陽配合の根源を説く。第二は仲序、九巻八十一章、四時の気の旺・休・殺・吉凶を解く。第三は叔序、九巻八十一章、日月辰宿の交会し相生して表裏となることを明らかにする。第四は季序、九巻八十一章、六甲の刑禍福德を詳しく解釈する。このような文を臣に伝授した。山神の禁制が厳しく、持ち出すことを得ず、経年を尋究し、おおよそ綱要を挙げた。山居は険難で、自ら供給する術なく、窘迫に堪えず、心に懈怠を生じた。甲寅の年、日は鶉火に在り、月は林鍾にあり、景気鬱盛にして、物に感懐して帰らんことを思い、影らに辞を奉った。爾来より今に至るまで、四十五載である。時俗の堪輿八会を歴観するに、世を経ること既に久しく、伝写謬誤し、吉凶禁忌、備悉することができず。或いは良日を考うるも悪会に値い、吉を挙げて凶を用い、多く殃咎に逢う。また史遷・郝振は中古の大儒であり、各々撰注して世に流行している。大小を配会し、陰陽を序述するも、本経に依るも、なお欠くところがある。臣が前に東宮に在った時、状を以て奏聞し、景穆皇帝の聖詔を奉り、臣に撰録を勅し、その要最を集めしめられた。明旨を仰ぎ奉り、謹んで先に見た四序経文を審らかにし、要略を抄撮し、当世に須いる吉凶挙動を、一巻に集成した。上は天子より、下は庶人に至るまで、また貴賤の階級・尊卑の差別・吉凶の用いる所、畢備せざるはない。未だ内に呈せざるに、先帝晏駕した。臣は時に狼狽し、幾ばくか不測に至らんとした。停廃されて以来、八年を経過し、上聞せんと思えども、自ら徹する能わず。加うるに年は夕べに歯頽れ、余齢は旦暮にあり、毎に殂殞し溝壑に填仆するを懼れ、先帝の遺志、宣行するを得ず。夙夜悲憤し、理として違匿し難く、先に撰録した奏に依り、謹んで以て上聞する。中祕の通儒達士に付し、その得失を定められんことを請う。事若し施行すべきあらば、乞うらくは即ち班用せられんことを。」その四序堪輿は遂に大いに世に行われた。

原文殷紹,長樂人也。少聰敏,好陰陽術數,游學諸方,達九章、七曜。世祖時為算生博士,給事東宮西曹,以藝術為恭宗所知。太安四年夏,上四序堪輿,表曰:「臣以姚氏之世,行學伊川,時遇游遁大儒成公興,從求九章要術。興字廣明,自云膠東人也。山居隱跡,希在人間。興時將臣南到陽翟九崖巖沙門釋曇影間。興即北還,臣獨留住,依止影所,求請九章。影復將臣向長廣東山見道人法穆。法穆時共影為臣開述九章數家雜要,披釋章次意況大旨。又演隱審五藏六府心髓血脉,商功大算端部,變化玄象,土圭、周髀。練精銳思,蘊習四年,從穆所聞,粗皆髣髴。穆等仁矜,特垂憂閔,復以先師和公所注黃帝四序經文三十六卷,合有三百二十四章,專說天地陰陽之本。其第一孟序,九卷八十一章,說陰陽配合之原;第二仲序,九卷八十一章,解四時氣王休殺吉凶;第三叔序,九卷八十一章,明日月辰宿交會相生為表裏;第四季序,九卷八十一章,具釋六甲刑禍福德:以此等文傳授於臣。山神禁嚴,不得齎出,尋究經年,粗舉綱要。山居險難,無以自供,不堪窘迫,心生懈怠。以甲寅之年,日維鶉火,月呂林鍾,景氣鬱盛,感物懷歸,奉辭影等。自爾至今,四十五載。歷觀時俗堪輿八會,逕世已久,傳寫謬誤,吉凶禁忌,不能備悉。或考良日而值惡會,舉吉用凶,多逢殃咎。又史遷、郝振,中古大儒,亦各撰注,流行於世。配會大小,序述陰陽,依如本經,猶有所闕。臣前在東宮,以狀奏聞,奉被景穆皇帝聖詔,敕臣撰錄,集其要最。仰奉明旨,謹審先所見四序經文,抄撮要略,當世所須吉凶舉動,集成一卷。上至天子,下及庶人,又貴賤階級、尊卑差別、吉凶所用,罔不畢備。未及內呈,先帝晏駕。臣時狼狽,幾至不測。停廢以來,逕由八載,思欲上聞,莫能自徹。加年夕齒頹,餘齡旦暮,每懼殂殞,填仆溝壑,先帝遺志,不得宣行。夙夜悲憤,理難違匿,依先撰錄奏,謹以上聞。請付中祕通儒達士,定其得失。事若可施,乞即班用。」其四序堪輿遂大行於世。

王早は勃海南皮の人である。陰陽九宮及び兵法に明るく、特に風角を善くした。太宗の時、喪乱の後、多く互いに殺害し合った。ある者が早の許に来て勝術を問い求めると、早は法を設け、各々咎無からしめた。これにより州里に称された。時に東莞の鄭氏がおり、同県の趙氏に殺された。その後鄭氏は仇人趙氏を捕らえ、また明晨に宗族を会し、墓所に就いてこれを刑せんとした。趙氏は早に救いを求め、早は占候し、併せて一符を授けて曰く、「君は今且く還り、壮士七人を選び、一人を主者とし、この符を佩かせ、鶏鳴の時に仇家の宅の東南二里許に伏せよ。平旦に、十人が相随い、西北に向かって行く者あらん。中に二人黒牛に乗る者あり、一つの黒牛最も前に在り、一つの黒牛は第七に応ず。ただ第七の者を捉え取って還れば、事必ず他無からん。」趙氏これに従うと、果たしてその言の如く、これは鄭氏の五男の父であった。諸子並びにその族に宗敬せられた故、二家を和解させ、趙氏は竟に免れた。

原文王早,勃海南皮人也。明陰陽九宮及兵法,尤善風角。太宗時,喪亂之後,多相殺害。有人詣早求問勝術,早為設法,令各無咎。由是州里稱之。時有東莞鄭氏,因為同縣趙氏所殺。其後鄭氏執得讎人趙氏,又剋明晨會宗族,當就墓所刑之。趙氏求救於早,早為占候,并授以一符,曰:「君今且還,選壯士七人,令一人為主者,佩此符,於雞鳴時伏在仇家宅東南二里許。平旦,當有十人相隨,向西北行,中有二人乘黑牛,一黑牛最在前,一黑牛應第七。但捉取第七者將還,事必無他。」趙氏從之,果如其言,乃是鄭氏五男父也。諸子並為其族所宗敬,故和解二家,趙氏竟免。

後に早は客と清晨に門内に立ち、卒風が樹を振るうに遇った。早は客に語って曰く、「法に依れば千里外の急使あるべし。日中に、二匹の馬、一白一赤、西南より来たらん。至れば即ち我を取らん、我を逼り、妻子と別するを聴かざらん。」語り終わって便に入り、家人隣里を召して別れを告げた。語り終わり、浴し、書嚢を帯び、日中に門を出て使を待った。期の如く、果たして二馬、一白一赤、涼州より至り、即ち早を捉えて馬上に載せ、遂に行宮に詣った。時に世祖は涼州を囲み未だ抜かず、故に許彦がこれを薦めた。早は彦の師である。至るに及び、詔して問う、「何時に当たってこの城を得るや。」早対えて曰く、「陛下但だ西北角に移り据わらば、三日の内に必ず克つ。」世祖これに従うと、期の如くにして克った。輿駕都に還る時、久しく雨が降らなかった。世祖早に問うて曰く、「何時に当たって雨あらんや。」早曰く、「今日申時に必ず大雨あらん。」未時に至るまで比べても、なお一片の雲も無く、世祖早を召して詰めた。早曰く、「願わくは更に少時を。」申時に至ると、雲気四方より合し、遂に大雨滂沱たり。世祖は甚だこれを善しとし、而して早は疾を苦にして辞し、郷里に帰ることを乞うた。詔してこれを許した。遂に家に終わった。或いは言う、許彦はその術が勝るを以て、恐らく終に己を妨げんと、故に譎りて帰らしめたと。

原文後早與客清晨立於門內,遇有卒風振樹。早語客曰:「依法當有千里外急使。日中,將有兩匹馬,一白一赤,從西南來。至即取我,逼我,不聽與妻子別。」語訖便入,召家人隣里辭別。語訖,浴,帶書囊,日中出門候使。如期,果有二馬,一白一赤,從涼州而至,即捉早上馬,遂詣行宮。時世祖圍涼州未拔,故許彥薦之。早,彥師也。及至,詔問何時當得此城。早對曰:「陛下但移據西北角,三日內必克。」世祖從之,如期而克。輿駕還都,時久不雨。世祖問早曰:「何時當雨?」早曰:「今日申時必大雨。」比至未時,猶無片雲,世祖召早詰之。早曰:「願更少時。」至申時,雲氣四合,遂大雨滂沲。世祖甚善之,而早苦以疾辭,乞歸鄉里,詔許之。遂終於家。或言許彥以其術勝,恐終妨己,故譎令歸耳。

耿玄は鉅鹿宋子の人である。卜占を善くした。室内に坐すと、客が門を叩くも、玄は既にその姓字並びに所持する物及び来問の意を知っていた。その卜筮は、十中八九であった。別に林占あり、世に或いはこれを伝えた。而して性は俗に和せず、時に王公その筮を求めんとする者あれば、玄は拒んで許さず、毎に云う、「今既に貴し、更に何を求めて復た卜せんとするや、意外を望むか。」代京の法禁厳切にして、王公これを聞き、驚悚して退かざるはなかった。故に玄は多く憎忿せられ、貴勝に親しまれず。官は鉅鹿太守に至った。

原文耿玄,鉅鹿宋子人也。善卜占。坐於室內,有客扣門,玄已知其姓字并所齎持及來問之意。其所卜筮,十中八九。別有林占,世或傳之。而性不和俗,時有王公欲求其筮者,玄則拒而不許,每云:「今既貴矣,更何所求而復卜也,欲望意外乎?」代京法禁嚴切,王公聞之,莫不驚悚而退。故玄多見憎忿,不為貴勝所親。官至鉅鹿太守。

顕祖・高祖の時に勃海の高道埏・清河の趙法逞あり、並びに世に名があった。世宗・粛宗の時に奉車都尉清河の魏道虔・奉車都尉周恃・魏郡太守章武の高月光・月光の弟明月・任玄智・雍州人の潘捺あり、並びに陰陽卜筮に長じた。故に玄は日者の中最も優洽であった。冠軍将軍・濮陽の賈元紹・章武の呂肫・済北の馮道安・河内の馮懷・海東郡の李文殊は並びに法術に工であり、而して道虔・月光・文殊が優れ、その余は及ばなかった。浮陽の孟剛・饒安の王領郡は風角の銓録を善くし、章武の顔悪頭は卜筮を善くし、また耿玄の林占を用い、当時最も知名であった。范陽人の劉弁もまた世に名があった。

原文顯祖、高祖時有勃海高道埏、清河趙法逞並有名於世。世宗、肅宗時奉車都尉清河魏道虔、奉車都尉周恃、魏郡太守章武高月光、月光弟明月、任玄智、雍州人潘捺,並長於陰陽卜筮。故玄於日者之中最為優洽。冠軍將軍、濮陽賈元紹、章武呂肫、濟北馮道安、河內馮懷、海東郡李文殊並工於法術,而道虔、月光、文殊為優,其餘不及。浮陽孟剛、饒安王領郡善銓錄風角,章武顏惡頭善卜筮,亦用耿玄林占,當時最知名。范陽人劉弁亦有名於世。

劉霊助は燕郡の人である。劉弁に師事し、陰陽占卜を好んだが、粗疏で頼むに足らず、常に燕恒の界を去来し、或いは時に負販し、或いはまた劫盗し、術を巿に売った。後に代より秀容に至り、事により尒朱栄に仕えた。栄は性卜筮を信じ、霊助の占うところ屡中したので、遂に親待され、栄の府の功曹参軍となった。

原文劉靈助,燕郡人。師事劉弁,好陰陽占卜,而粗疏無賴,常去來燕恒之界,或時負販,或復劫盜,賣術於巿。後自代至秀容,因事尒朱榮。榮性信卜筮,靈助所占屢中,遂被親待,為榮府功曹參軍。

建義の初め、爾朱栄が河陰において王公卿士をことごとく屠害した時、奉車都尉盧道虔兄弟もまた相率いて行宮に朝したが、霊助は彼らが同州の郷里であることを以て、これを護衛し、これにより朝士と諸盧が相随って害を免れた者は数十人に及んだ。爾朱栄が京師に入ると、超えて光禄大夫に拝し、長子県開国伯に封ぜられ、食邑七百戸を賜り、まもなく爵を進めて公と為し、邑を増して通前千戸とした。後に爾朱栄に従って葛栄を討ち擒え、特除して散騎常侍・撫軍将軍・幽州刺史となった。また大将軍・上党王元天穆に従って邢杲を討った。時に幽州の流民で盧城の者が最も凶悍であったため、霊助に尚書を兼ねさせ、軍前においてこれを慰労させた。事が平らぎ、元顥が洛に入り、天穆が河を渡った。霊助は先に太行において爾朱栄と会した。河内を攻めんとする時、霊助に筮わせた。霊助は「未の時に必ず克つ」と言った。時既に中に向かっていたが、士衆は疲労怠惰であった。霊助は「時至れり」と言った。栄が鼓を打つと、将士は騰躍し、即ち克ち陥れた。北中に至り、栄が城を攻めて獲ず、時は盛暑であることを以て、議して暫く還り、秋涼を待たんとした。荘帝は詔して霊助に筮わせた。霊助は「必ず賊を破るべし」と言った。詔して「何日か」と問うと、霊助は「十八日、十九日の間」と言った。果たしてその言の如くであった。車駕が宮に還ると、幽州大中正を領し、まもなく征東将軍を加えられ、邑五百戸を増やされ、爵を進めて燕郡公と為り、詔してその父僧安を幽州刺史として贈った。まもなく尚書左僕射を兼ね、濮陽・頓丘において幽州流民を慰労し、民を率いて北還した。都督侯淵らと共に葛栄の余党韓婁を討ち、薊においてこれを滅ぼした。引き続き州務を治め、車騎将軍を加えられ、また幽・平・営・安四州行台となった。

原文建義初,榮於河陰王公卿士悉見屠害。時奉車都尉盧道虔兄弟亦相率朝於行宮,靈助以其州里,衞護之,由是朝士與諸盧相隨免害者數十人。榮入京師,超拜光祿大夫,封長子縣開國伯,食邑七百戶,尋進爵為公,增邑通前千戶。後從榮討擒葛榮,特除散騎常侍、撫軍將軍、幽州刺史。又從大將軍、上黨王天穆討邢杲。時幽州流民盧城人最為兇捍,遂令靈助兼尚書,軍前慰勞之。事平而元顥入洛,天穆渡河。靈助先會尒朱榮於太行。及將攻河內,令靈助筮之。靈助曰:「未時必克。」時已向中,士眾疲怠,靈助曰:「時至矣。」榮鼓之,將士騰躍,即便克陷。及至北中,榮攻城不獲,以時盛暑,議欲且還,以待秋涼。莊帝詔靈助筮之。靈助曰:「必當破賊。」詔曰:「何日?」靈助曰:「十八、十九間。」果如其言。車駕還宮,領幽州大中正,尋加征東將軍,增邑五百戶,進爵為燕郡公,詔贈其父僧安為幽州刺史。尋兼尚書左僕射,慰勞幽州流民於濮陽、頓丘,因率民北還。與都督侯淵等討葛榮餘黨韓婁,滅之於薊。仍釐州務,加車騎將軍,又為幽、平、營、安四州行臺。

爾朱栄が死に、荘帝が幽閉されて崩ずると、霊助は元来寒微の身であったが、一朝にしてここに至り、自ら方術をもって衆を動かし得ると謂った。また爾朱氏に誅滅の兆しあるを見て、霊助は遂に自ら燕王・車騎大将軍・開府儀同三司・大行台を号し、荘帝のために義兵を挙げた。霊助は大鳥を馴養し、己の瑞であると称し、妄りに図讖を説き、劉氏が王となるべきと言い、また「世を避けんと欲すれば鳥村に入れ」とも言った。遂に氈を刻んで人象と為し、桃木に画いて符書と為し、詭道厭祝の法を行った。民多くこれを信じた。時に河西の人紇豆陵歩藩が兵を挙げて晋陽に逼り、爾朱兆が頻りに戦って利あらず、故に霊助は唱えて「爾朱は自然に滅ぶべし、我が兵を須いず」と言った。これにより幽・瀛・滄・冀の民は悉くこれに従った。従う者は夜悉く火を挙げて号と為し、火を挙げざる村は諸村共にこれを屠った。普泰元年三月、衆を率いて博陵の安国城に至り、叱列延慶・侯淵・爾朱羽生らと戦い、戦いに敗れて擒えられ、定州において斬られ、首は洛陽に伝えられ、体は分断された。初め、霊助は常に「三月の末、我必ず定州に入り、爾朱も亦必ず滅ぶ」と言っていた。将に戦わんとする時、霊助自ら筮うと、卦成って吉ならず、手をもって蓍を折り、これを地に棄てて「此れ何を知らんや」と言った。まもなく擒えられるを見、果たして三月に定州に入り、而して斉献武王が明年閏二月に韓陵山において四胡を破り、遂に兆らを滅ぼした。永熙二年、使持節・散騎常侍・都督幽瀛冀三州諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射・開府儀同三司・幽州刺史を贈られ、諡して恭と言う。

原文及尒朱榮死,莊帝幽崩。靈助本寒微,一朝至此,自謂方術堪能動眾。又以尒朱有誅滅之兆,靈助遂自號燕王、車騎大將軍、開府儀同三司、大行臺,為莊帝舉義兵。靈助馴養大鳥,稱為己瑞,妄說圖讖,言劉氏當王,又云「欲知避世入鳥村」。遂刻氈為人象,畫桃木為符書,作詭道厭祝之法。民多信之。於時河西人紇豆陵步藩舉兵逼晉陽,尒朱兆頻戰不利,故靈助唱言:「尒朱自然當滅,不須我兵。」由是幽、瀛、滄、冀之民悉從之。從之者夜悉舉火為號,不舉火者諸村共屠之。以普泰元年三月,率眾至博陵之安國城,與叱列延慶、侯淵、尒朱羽生等戰,戰敗被擒,斬於定州,傳首洛陽,支分其體。初,靈助每云:「三月末,我必入定州,尒朱亦必滅。」及將戰,靈助自筮之,卦成不吉,以手折蓍,棄之於地,云「此何知也」。尋見擒,果以三月入定州,而齊獻武王以明年閏二月破四胡於韓陵山,遂滅兆等。永熙二年,贈使持節、散騎常侍、都督幽瀛冀三州諸軍事、驃騎大將軍、尚書左僕射、開府儀同三司、幽州刺史,諡曰恭。

子の宗輝、襲封した。興和年間に開府し、斉が禅を受けるに属し、例により降格した。

原文子宗輝,襲。興和中開府,屬齊受禪,例降。

江式、字は法安、陳留郡済陽県の人である。六世の祖瓊、字は孟琚、晋の馮翊太守で、虫篆と詁訓に善くした。永嘉の大乱に、瓊は官を棄てて西に張軌に投じ、子孫は涼土に居を定め、世々家業を伝えた。祖の彊、字は文威、太延五年、涼州が平らぎ、内徙して代京に住んだ。三十余法の書を上書し、各々体例有り、また経史諸子千余巻を献上し、これにより抜擢されて中書博士に拝された。卒し、敦煌太守を贈られた。父の紹興、高允が奏して秘書郎と為し、国史を掌ること二十余年、謹厚を以て称された。趙郡太守の任に卒した。

原文江式,字法安,陳留濟陽人。六世祖瓊,字孟琚,晉馮翊太守,善蟲篆、詁訓。永嘉大亂,瓊棄官西投張軌,子孫因居涼土,世傳家業。祖彊,字文威,太延五年,涼州平,內徙代京。上書三十餘法,各有體例,又獻經史諸子千餘卷,由是擢拜中書博士。卒,贈敦煌太守。父紹興,高允奏為祕書郎,掌國史二十餘年,以謹厚稱。卒於趙郡太守。

式は少くして家学を専らにした。数年の中に、常に二人の人が時に相教授する夢を見、乃ち覚めて、毎に記識有り。初め司徒長兼行参軍・検校御史に拝され、まもなく殄寇将軍・符節令を除された。書をもって文昭太后の尊号諡冊を書き、特除して奉朝請と為り、仍って符節令であった。式は篆体に特に巧みで、洛京宮殿の諸門の板題は、皆式の書である。

原文式少專家學。數年之中,常夢兩人時相教授,乃寤,每有記識。初拜司徒長兼行參軍、檢校御史,尋除殄寇將軍、符節令。以書文昭太后尊號諡冊,特除奉朝請,仍符節令。式篆體尤工,洛京宮殿諸門板題,皆式書也。

延昌三年三月、式は上表して曰く。

原文延昌三年三月,式上表曰:

詔して曰く「請の如く可とす。并就いて太常に、兼ねて八書史を教えしむべし。其の須うる所は、請に依りて之を給す。名目は書成るを待ち重ねて聞かん」。

原文詔曰:「可如所請,并就太常,冀兼教八書史也。其有所須,依請給之。名目待書成重聞。」

式は是に於いて字書を撰集し、号して古今文字と曰い、凡そ四十巻、大體許氏の説文を本と為し、上は篆、下は隷とした。また宣威将軍・符璽郎を除され、まもなく軽車将軍を加えられた。正光年中、驍騎将軍・兼著作佐郎を除され、正史中の字を正した。四年に卒し、右将軍・巴州刺史を贈られた。其の書は竟に成る能わず。

原文式於是撰集字書,號曰古今文字,凡四十卷,大體依許氏說文為本,上篆下隸。又除宣威將軍、符璽郎,尋加輕車將軍。正光中,除驍騎將軍、兼著作佐郎,正史中字。四年卒,贈右將軍、巴州刺史。其書竟未能成。

式の兄の子、征虜将軍順和も亦篆書に巧みであった。先に太和年中、兗州の人沈法会は隷書に能くし、世宗が東宮に在った時、法会に侍書を命じた。已後に隷書の迹が閭里に知られた者は甚だ衆かったが、崔浩の妙には及ぶ者無かりき。

原文式兄子征虜將軍順和,亦工篆書。先是太和中,兗州人沈法會能隸書,世宗之在東宮,敕法會侍書。已後隸迹見知於閭里者甚眾,未有如崔浩之妙。

周澹、京兆鄠県の人である。人となり多方術に為り、特に医薬に善くし、太醫令となった。太宗嘗て風頭眩に苦しんだが、澹が治療して癒えしめ、これにより寵見され、位は特進に至り、爵を成徳侯として賜った。神瑞二年、京師飢饉に、朝議鄴に遷都せんとした。澹は博士祭酒崔浩と計を進め、不可の意を論じ、太宗大いに之を然とし、「唯だ此の二人、朕が意と同じし」と言った。詔して澹・浩に妾各一人、御衣一襲、絹五十匹、綿五十斤を賜った。泰常四年に卒し、諡して恭と言う。

原文周澹,京兆鄠人也。為人多方術,尤善醫藥,為太醫令。太宗嘗苦風頭眩,澹治得愈,由此見寵,位至特進,賜爵成德侯。神瑞二年,京師飢,朝議將遷都於鄴。澹與博士祭酒崔浩進計,論不可之意,太宗大然之,曰:「唯此二人,與朕意同也。」詔賜澹、浩妾各一人,御衣一襲,絹五十匹、綿五十斤。泰常四年卒,諡曰恭。

時に河南の人陰貞有り、家世医を為し、澹と並び封爵を受けた。清河の李潭も亦善く鍼を以て知られた。

原文時有河南人陰貞,家世為醫,與澹並受封爵。清河李潭亦以善鍼見知。

子の驢駒、襲封し、術を伝えた。延興年中、位は散令に至った。

原文子驢駒,襲,傳術。延興中,位至散令。

李脩、字は思祖、本は陽平郡館陶県の人である。父の亮、少くして医術を学んだが、未だ精究せず。世祖の時、彭城の劉義隆に奔り、又沙門の僧坦に就いて衆方を研習し、略く其の術を尽くし、針灸薬を授くるに、効無きこと莫かりき。徐兗の間において、多く救恤し、四方の疾苦の者は、千里を遠しとせず、竟いに往きてこれに従った。亮は大いに廳事を為して病人を舎し、車輿を其の下に停め、時に死者有れば、則ち就いて棺殯し、親しく往きて弔視した。其の仁厚此の若き有り。累遷して府参軍となり、本郡を督護し、士門の宿官は、皆相交昵し、車馬金帛を以て酬賚し、貲する所無かりき。脩の兄元孫は畢衆敬に随って平城に赴き、亦父の業を遵ったが及ばず。功を以て爵を義平子として賜り、奉朝請に拝された。

原文李脩,字思祖,本陽平館陶人。父亮,少學醫術,未能精究。世祖時,奔劉義隆於彭城,又就沙門僧坦研習眾方,略盡其術,針灸授藥,莫不有效。徐兗之間,多所救恤,四方疾苦,不遠千里,竟往從之。亮大為廳事以舍病人,停車輿於下,時有死者,則就而棺殯,親往弔視。其仁厚若此。累遷府參軍,督護本郡,士門宿官,咸相交昵,車馬金帛,酬賚無貲。脩兄元孫隨畢眾敬赴平城,亦遵父業而不及。以功賜爵義平子,拜奉朝請。

李脩の事績は兄とほぼ同じである。後に代京に入り、中散令の官位を歴任し、功績により下蔡子の爵位を賜り、給事中に昇進した。太和年間、常に禁中に侍した。高祖(孝文帝)や文明太后が時に病に臥せると、李脩は鍼と薬を奉じて侍し、治療は多く効果があった。賞賜は累加され、車服や邸宅は鮮麗と称された。諸学士や書を能くする者百余人を集め、東宮において諸薬方を百余巻撰し、皆世に行われた。先に咸陽公高允は年齢百歳に近かったが、気力はなお健やかであり、高祖や文明太后は時に李脩に診察させた。ある日、奏上して言うには、高允の脈は尽き気は微かで、寿命は遠くないと。間もなく果たして亡くなった。洛陽遷都後、前軍将軍となり、太醫令を兼任した。後数年して卒去し、威遠将軍・青州刺史を追贈された。

原文脩略與兄同。晚入代京,歷位中散令,以功賜爵下蔡子,遷給事中。太和中,常在禁內。高祖、文明太后時有不豫,脩侍鍼藥,治多有效。賞賜累加,車服第宅,號為鮮麗。集諸學士及工書者百餘人,在東宮撰諸藥方百餘卷,皆行於世。先是咸陽公高允雖年且百歲,而氣力尚康,高祖、文明太后時令脩診視之。一旦奏言,允脉竭氣微,大命無遠。未幾果亡。遷洛,為前軍將軍,領太醫令。後數年,卒,贈威遠將軍、青州刺史。

子の天授は爵位を継承した。汶陽県令となったが、医術はまた父に及ばなかった。

原文子天授,襲。汶陽令。醫術又不逮父。

徐謇は、字を成伯といい、丹陽の人である。家は本来東莞にあり、兄の文伯らと共に皆医薬を善くした。徐謇は青州に至った際、慕容白曜が東陽を平定し、彼を捕らえ、上表して京師に送った。顕祖(献文帝)はその能力を試そうと、病人たちを幕中に置き、徐謇に隔てて脈を取らせたところ、深く病状を得、併せて気色の候をも知った。そこで寵遇を受けることとなった。中散となり、次第に内侍長に昇進した。文明太后の時は時に治療法を問うたが、李脩のように任用されるには及ばなかった。徐謇が薬剤を調合し、治療救済の効果は、李脩よりも精妙であったが、性格は甚だ秘密を好み猜疑心が強く、承奉がその意に沿わない者は、貴く王公であっても治療を施さなかった。高祖(孝文帝)は後にその才能を知り、洛陽遷都後、次第に寵愛を加えた。自身が少し不調の時や、寵愛する馮昭儀が病んだ時、皆彼に処置治療させた。また中散大夫に任じ、転じて右軍将軍・侍御師となった。徐謇は高祖のために金丹を合成し、延年の法を致そうとした。そこで崧高(嵩山)に入り住み、その材料を採り営んだが、数年を経ても成すところなく、遂に中止した。

原文徐謇,字成伯,丹陽人。家本東莞,與兄文伯等皆善醫藥。謇因至青州,慕容白曜平東陽,獲之,表送京師。顯祖欲驗其所能,乃置諸病人於幕中,使謇隔而脉之,深得病形,兼知色候。遂被寵遇。為中散,稍遷內侍長。文明太后時問治方,而不及李脩之見任用也。謇合和藥劑,攻救之驗,精妙於脩,而性甚祕忌,承奉不得其意者,雖貴為王公,不為措療也。高祖後知其能,及遷洛,稍加眷幸。體小不平,及所寵馮昭儀有疾,皆令處治。又除中散大夫,轉右軍將軍、侍御師。謇欲為高祖合金丹,致延年之法。乃入居崧高,採營其物,歷歲無所成,遂罷。

太和二十二年、高祖が懸瓠に行幸した際、病が大いに重くなり、駅伝を馳せて徐謇を召し、水路を行所に赴かせ、一日一夜に数百里を行った。到着し、診察治療したところ、果たして大いに効果があった。高祖の体は少し快方に向かい、内外慶賀した。九月、車駕は豫州を発ち、汝水のほとりに駐留した。そこで大いに徐謇のために太官の珍膳を設け、百官を集め、特に徐謇を上席に座らせ、前に肴や杯を並べ、左右の者に命じて徐謇が危篤を救い摂理し、振るい救済した功績を宣べさせ、応じて報酬を与えるべきであるとした。そこで詔を下して言うには、「神は方なく出で、形は障りを受けることを稟け、憂喜が適わず乖けば、理として必ず生を傷つく。朕は万機を覧み、長く革運に鍾り、思うこと茫々として怠ることなく、身は忽ちとして労を興す。仲秋に痾を動かし、心容頓ちに竭き、気体羸瘠し、玉几に在りて慮う。侍御師・右軍将軍徐成伯は太室に輪を馳せ、汝蕃に進み療し、方に丹英を窮め、薬に芝石を尽くし、誠と術と両つながら輸し、忠と妙と俱に至り、乃ち沈痾をして勝ちて愈えさせ、篤瘵克く痊えしむ。勤を論じ効を語れば、実に褒め録すべし。昔、晋の武帝が暴疾に罹った時、程和は応じて封を増やされ、辛疚数朝の時、錢爵大いに墜ちたり。況んや疾は曩辰より深く、業は疇日に難きにおいて、重ねて陟賞を加えざるを得ざるか。宜しく群望に順い、山河を以て錫うべし。且つその旧くは高秩に逕り、中暫く解退す。比に雖く銓用せらるれど、猶未だ囗囗たり。旧を準え今を量れば、事顕進に合う。鴻臚卿、金郷県開国伯と為し、食邑五百戸を賜い、銭一万貫を賜うべし」。また詔して言うには、「銭府未だ充たず、須らく雑物を以てすべし。絹二千匹、雑物一百匹、四十匹は御府より出だす。穀二千斛。奴婢十口。馬十匹、一匹は驊騮より出だす。牛十頭」。賜った雑物・奴婢・牛馬は皆内に呈された。諸親王の咸陽王元禧らは各別に賜い有り、皆千匹に至った。従って鄴に行き、高祖はなお自ら発作を起こし、徐謇は朝夕左右に侍した。翌年、馬圈に詣でるに従い、高祖の病勢は遂に甚だしくなり、戚戚として怡ばず、毎度切に誚りを加え、また鞭捶を加えようとしたが、幸いにして免れた。高祖が崩御すると、徐謇は梓宮に随って洛陽に還った。

原文二十二年,高祖幸懸瓠,其疾大漸,乃馳驛召謇,令水路赴行所,一日一夜行數百里。至,診省下治,果有大驗。高祖體少瘳,內外稱慶。九月,車駕發豫州,次于汝濱。乃大為謇設太官珍膳,因集百官,特坐謇于上席,遍陳餚觴于前,命左右宣謇救攝危篤振濟之功,宜加酬賚。乃下詔曰:「夫神出無方,形禀有礙,憂喜乖適,理必傷生。朕覽萬機,長鍾革運,思芒芒而無怠,身忽忽以興勞。仲秋動痾,心容頓竭,氣體羸瘠,玉几在慮。侍御師、右軍將軍徐成伯馳輪太室,進療汝蕃,方窮丹英,藥盡芝石,誠術兩輸,忠妙俱至,乃令沉勞勝愈,篤瘵克痊,論勤語效,實宜褒錄。昔晉武暴疾,程和應增封;辛疚數朝,錢爵大墜。況疾深於曩辰,業難於疇日,得不重加陟賞乎?宜順羣望,錫以山河。且其舊逕高秩,中暫解退,比雖銓用,猶未囗囗,準舊量今,事合顯進。可鴻臚卿,金鄉縣開國伯,食邑五百戶,賜錢一萬貫。」又詔曰:「錢府未充,須以雜物:絹二千匹、雜物一百匹,四十匹出御府;穀二千斛;奴婢十口;馬十匹,一匹出驊騮;牛十頭。」所賜雜物、奴婢、牛馬皆經內呈。諸親王咸陽王禧等各有別賚,並至千匹。從行至鄴,高祖猶自發動,謇日夕左右。明年,從詣馬圈,高祖疾勢遂甚,戚戚不怡,每加切誚,又欲加之鞭捶,幸而獲免。高祖崩,謇隨梓宮還洛。

徐謇は常に薬餌や呑服する道符を用い、年齢八十に垂んとしても、鬢髪は白くならず、力も多く衰えなかった。正始元年、老齢を以て光禄大夫と為し、平北将軍を加えられ、卒去した。延昌初年、安東将軍・齊州刺史を追贈され、諡して靖といった。

原文謇常有藥餌及吞服道符,年垂八十,鬢髮不白,力未多衰。正始元年,以老為光祿大夫,加平北將軍,卒。延昌初,贈安東將軍、齊州刺史,諡曰靖。

子の踐は、字を景升といい、小名を霊宝といい、爵位を継承した。官職を歴任し、兗州平東府長史・右中郎将・建興太守となった。

原文子踐,字景升,小名靈寶,襲爵。歷官兗州平東府長史、右中郎將、建興太守。

踐の弟の知遠は、給事中となった。

原文踐弟知遠,給事中。

成伯(徐謇)の孫の之才は、孝昌初年、蕭衍の豫章王蕭綜の北府主簿となり、蕭綜に従って彭城を鎮守した。蕭綜が降伏すると、その下僚属は皆奔散し、之才はこれにより国(北魏)に入った。武定年間、大将軍・金紫光禄大夫・昌安県開国侯となった。

原文成伯孫之才,孝昌初,為蕭衍豫章王蕭綜北府主簿,從綜鎮彭城。綜降,其下僚屬並奔散,之才因入國。武定中,大將軍、金紫光祿大夫、昌安縣開國侯。

王顕は、字を世栄といい、陽平郡楽平県の人である。自ら言うには、本来は東海郡郯県の人で、王朗の後裔であると。祖父は延和年間に南奔し、魯の郊外に居住し、また彭城に住んだ。伯父の安上は、劉義隆(宋の文帝)の時に板授により館陶県令を代行した。世祖(太武帝)が南討すると、安上は県を棄てて帰順し、父母と共に平城に移住し、例により陽都子に叙され、広寧太守に任じられた。王顕の父の安道は、若くして李亮と同師につき、共に医薬を学び、その術を粗く究めたが、李亮には及ばなかった。安上は楽平の家に還り、頗る士流に参じた。

原文王顯,字世榮,陽平樂平人,自言本東海郯人,王朗之後也。祖父延和中南奔,居于魯郊,又居彭城。伯父安上,劉義隆時板行館陶縣。世祖南討,安上棄縣歸命,與父母俱徙平城,例敍陽都子,除廣寧太守。顯父安道,少與李亮同師,俱學醫藥,粗究其術,而不及亮也。安上還家樂平,頗參士流。

王顕は若くして本州の従事を歴任し、医術をもって自ら通じたが、明敏で決断の才用があった。初め、文昭皇太后が世宗(宣武帝)を懐妊した時、太陽に追われる夢を見、龍に化けて后を取り巻き、后は覚めて驚き悸い、遂に心疾となった。文明太后は詔を下して徐謇や王顕らを召し后の脈を診させた。徐謇は微風が臓に入ったものと言い、湯薬を進め鍼を加えるべきと言った。王顕は言うには、「三部の脈を按ずるに、心疾にあらず、将に是れ懐妊して男を生む象なり」と。果たして王顕の言う通りであった。久しくして、侍御師・尚書儀曹郎に補任され、幹事と称された。世宗は幼少より微疾があり、久しく癒えなかったが、王顕が摂理治療して効果があり、これにより次第に顧み識られるようになった。

原文顯少歷本州從事,雖以醫術自通,而明敏有決斷才用。初文昭皇太后之懷世宗也,夢為日所逐,化而為龍而繞后,后寤而驚悸,遂成心疾。文明太后敕召徐謇及顯等為后診脉。謇云是微風入藏,宜進湯加針。顯云:「案三部脉非有心疾,將是懷孕生男之象。」果如顯言。久之,召補侍御師、尚書儀曹郎,號稱幹事。世宗自幼有微疾,久未差愈,顯攝療有效,因是稍蒙眄識。

また六輔が廃止された初め、王顕は領軍の于烈の間で規策を通じ、密かな功績が頗るあった。累進して游撃将軍となり、廷尉少卿に拝任され、なお侍御に在り、進御する薬を営み、禁中に出入りした。本州の臨任を乞うと、世宗はかつてこれを許したが、積年授からず、これにより名声が遠近に伝わった。王顕は毎度人に語り、時の旨は既に決し、必ず刺史となると言った。遂に平北将軍・相州刺史に任じられた。間もなく詔により駅伝を馳せて還京し、再び薬を掌り、また州に還遣された。元愉が叛逆を為すと、王顕はこれを討ったが利あらず。入朝して太府卿・御史中尉に任じられた。

原文又罷六輔之初,顯為領軍于烈間通規策,頗有密功。累遷游擊將軍,拜廷尉少卿,仍在侍御,營進御藥,出入禁內。乞臨本州,世宗曾許之,積年未授,因是聲問傳于遠近。顯每語人,言時旨已決,必為刺史。遂除平北將軍、相州刺史。尋詔馳驛還京,復掌藥,又遣還州。元愉作逆,顯討之不利。入除太府卿、御史中尉。

王顕は前後官職を歴任し、所在において称賛され、諸々の獄訟を糾弾し折衝し、その奸回を究め、出納を惜しみ慎み、国を憂うること家の如しであった。憲台(御史台)を領するに及んで、多く弾劾し、百官は肅然とした。また中尉の属官が悉く職に称さないことを以て、諷諫して更換を求めた。詔により改選を委ねられ、務めて才能を尽くすべきであったが、王顕の挙げる者には時に請託によるものもあり、皆人を得たとは言えず、ここにおいて衆口喧譁し、声望を損なうに至った。後、世宗は詔して王顕に薬方三十五巻を撰せしめ、天下に班布して諸疾を療せしめた。東宮が既に建てられると、太子詹事と為し、委任は甚だ厚かった。世宗が毎度東宮に行幸すると、王顕は常に迎え侍した。禁中に出入りし、なお医薬を奉じた。賞賜は累加され、館宇を立てられ、寵は当時に振るった。延昌二年秋、営み治療の功により、衞南伯に封ぜられた。

原文顯前後歷職,所在著稱,糾折庶獄,究其姦回,出內惜慎,憂國如家。及領憲臺,多所彈劾,百僚肅然。又以中尉屬官不悉稱職,諷求更換。詔委改選,務盡才能,而顯所舉或有請屬,未皆得人,於是眾口喧譁,聲望致損。後世宗詔顯撰藥方三十五卷,班布天下,以療諸疾。東宮既建,以為太子詹事,委任甚厚。世宗每幸東宮,顯常迎侍。出入禁中,仍奉醫藥。賞賜累加,為立館宇,寵振當時。延昌二年秋,以營療之功,封衞南伯。

四年正月、世宗が夜中に崩御し、肅宗が践祚した。賈顕は璽策を奉じ、従って臨哭に加わり、内心憂懼を抱いた。賈顕は既に任用され遇され、かつ法官を兼ねており、勢いに恃み威を振るったため、当時の人々に憎まれた。朝宰は侍療が無効であったことを口実に、彼を禁中に拘束し、詔によって爵位を削除した。拘束される際に冤罪を叫ぶと、直閤が刀の鐶でその腋下を突き、傷が深く吐血し、右衞府に至って一晩で死んだ。初め賈顕が布衣で諸生であった時、ある沙門が賈顕の相を見て後に富貴になると言い、吏官になるなと戒め、吏官になれば必ず敗れると言った。このため世宗の時、時に彼をして吏部を摂行させようとしたが、賈顕は常に熱心にそれを避けた。世宗が崩御し、肅宗が夜に即位し、璽冊を受け取る儀式において、太尉及び吏部を兼ねる必要があったが、倉卒のことで百官が揃わず、賈顕に吏部行事を兼務させたのである。

原文四年正月,世宗夜崩,肅宗踐祚。顯參奉璽策,隨從臨哭,微為憂懼。顯既蒙任遇,兼為法官,恃勢使威,為時所疾。朝宰託以侍療無效,執之禁中,詔削爵位。臨執呼冤,直閤以刀鐶撞其腋下,傷中吐血,至右衞府一宿死。始顯布衣為諸生,有沙門相顯後當富貴,誡其勿為吏官,吏官必敗。由是世宗時或欲令其遂攝吏部,每殷勤避之。及世宗崩,肅宗夜即位,受璽冊,於儀須兼太尉及吏部,倉卒百官不具,以顯兼吏部行事矣。

崔彧は、字を文若といい、清河郡東武城県の人である。父の勲之は、字を寧国といい、大司馬外兵郎の位にあり、通直郎を追贈された。崔彧は兄の相如と共に南朝から魏に入国した。相如は才学で知られ、早世した。崔彧は若い頃に青州を訪れたことがあり、隠逸の沙門に逢い、素問九巻及び甲乙経を教えられ、そこで医術に長じるようになった。中山王元英の子の略がかつて病にかかり、王顕らが治療できなかったが、崔彧が鍼をすると、鍼を抜くとすぐに癒えた。後に冀州別駕の位に至り、累進して寧遠将軍となった。性質は仁恕で、疾苦を見ると、好んでこれを治療した。広く門生を教え、多く救療するよう命じた。その弟子の清河の趙約、勃海の郝文法の徒もまた皆有名であった。

原文崔彧,字文若,清河東武城人。父勳之,字寧國,位大司馬外兵郎,贈通直郎。彧與兄相如俱自南入國。相如以才學知名,早卒。彧少嘗詣青州,逢隱逸沙門,教以素問九卷及甲乙,遂善醫術。中山王英子略曾病,王顯等不能療,彧針之,抽針即愈。後位冀州別駕,累遷寧遠將軍。性仁恕,見疾苦,好與治之。廣教門生,令多救療。其弟子清河趙約、勃海郝文法之徒咸亦有名。

崔彧の子の景哲は、豪放で率直であり、また医術で知られた。太中大夫、司徒長史となった。

原文彧子景哲,豪率,亦以醫術知名。為太中大夫、司徒長史。

蔣少游は、楽安郡博昌県の人である。慕容白曜が東陽を平定した時、捕虜となり平城に入り、平斉戸に充てられ、後に雲中に配属されて兵士となった。性質は機巧で、絵画や彫刻にかなり長じていた。文才があり、吟詠の際、時に短篇を作った。そこで平城に留まり寄寓し、書物の傭写を業としたが、名声はなお鎮にあった。

原文蔣少游,樂安博昌人也。慕容白曜之平東陽,見俘入於平城,充平齊戶,後配雲中為兵。性機巧,頗能畫刻。有文思,吟咏之際,時有短篇。遂留寄平城,以傭寫書為業,而名猶在鎮。

後に召し出されて中書写書生となり、高聰と共に高允に寄寓した。高允はその文才を愛し、そこで二人を共に推薦し、高聰と共に中書博士に補任された。中書に在って以来、常に李沖の兄弟子姪の門に庇護を求めた。初め北方では青州の蔣氏一族を詳しく知らず、ある者は蔣少游は本来人士ではないと言い、また蔣少游はわずかに工芸によって自ら出世したので、公私の声望は重んじられなかった。ただ高允と李沖だけが曲げて理解し、蔣少游の舅の崔光と李沖の従叔父の李衍が向かい合って婚姻関係にあったためである。高祖と文明太后は常に密宴の席で、百官に言った。「元来は蔣少游は職人に過ぎないと思っていたが、高允の老爺が彼を人士だと言う。」このように眷顧と認識された。しかしなお急に引見を命じられ、忙しく禁闥に出入りし、規矩や刻繢を務めとしたため、これによって大いに恩賜を受け、等級を超えて備位したが、やはり昇進はしなかった。

原文後被召為中書寫書生,與高聰俱依高允。允愛其文用,遂並薦之,與聰俱補中書博士。自在中書,恒庇李沖兄弟子姪之門。始北方不悉青州蔣族,或謂少游本非人士,又少游微因工藝自達,是以公私人望不至相重。唯高允、李沖曲為體練,由少游舅氏崔光與李沖從叔衍對門婚姻也。高祖、文明太后常因密宴,謂百官曰:「本謂少游作師耳,高允老公乃言其人士。」眷識如此。然猶驟被引命,屑屑禁闥,以規矩刻繢為務,因此大蒙恩錫,超等備位,而亦不遷陟也。

詔によって尚書李沖が馮誕、游明根、高閭らと禁中で衣冠を議定するに当たり、蔣少游は巧思があったので、これに主管させ、また劉昶にも諮問した。二つの意見が相乖離し、時に諍競を招き、六年を積んでようやく完成し、初めて百官に頒賜した。冠服の完成には、蔣少游の功績があった。後に平城で太廟と太極殿を営造することになり、蔣少游を駅伝で洛陽に派遣し、魏晉の基址を測量し基準とした。後に散騎侍郎となり、李彪に副えて江南に使した。高祖が船乗りを整備するに当たり、その多くの思慮と能力を認め、都水使者に任じ、前将軍、兼将作大匠に昇進し、引き続き水池や湖の遊覧用舟船の具を管轄した。華林殿や池沼の修復と増築、金墉門楼の改築に至るまで、皆その意匠に係り、妍美と称された。

原文及詔尚書李沖與馮誕、游明根、高閭等議定衣冠於禁中,少游巧思,令主其事,亦訪於劉昶。二意相乖,時致諍競,積六載乃成,始班賜百官。冠服之成,少游有效焉。後於平城將營太廟、太極殿,遣少游乘傳詣洛,量準魏晉基趾。後為散騎侍郎,副李彪使江南。高祖修船乘,以其多有思力,除都水使者,遷前將軍、兼將作大匠,仍領水池湖泛戲舟楫之具。及華林殿、沼修舊增新,改作金墉門樓,皆所措意,號為妍美。

文藻はあったが、その才用を伸ばすことができず、常に彫刻刀や墨縄、細かく煩わしい雑事に追われ、園池や城殿の傍らを彷徨い、識者はそのために慨嘆した。しかし彼は平然としてこれを己が任とし、疲れや恥を訴えなかった。また太常少卿を兼ね、都水の職は元の通りであった。景明二年に卒去し、龍驤将軍、青州刺史を追贈され、諡を質といった。文集十巻余りがあった。蔣少游はまた太極殿の模型を作り、董尒、王遇らと共に参画して建立したが、皆完成せずに卒去した。

原文雖有文藻,而不得伸其才用,恒以剞劂繩尺,碎劇怱怱,徙倚園湖城殿之側,識者為之歎慨。而乃坦爾為己任,不告疲耻。又兼太常少卿,都水如故。景明二年卒,贈龍驤將軍、青州刺史,諡曰質。有文集十卷餘。少游又為太極立模範,與董尒、王遇等參建之,皆未成而卒。

初め、高宗の時、郭善明は非常に機巧に富み、北京(平城)の宮殿は多くがその製作によるものであった。高祖の時、青州刺史の侯文和もまた巧みさで知られ、快速な船を作り、水中に立って射撃した。滑稽で知恵が多く、言葉に端緒がなく、特に浅俗な巷の言葉に長じ、甚だしく冗談が言えた。楽陵、済南二郡の太守の位にあった。

原文初,高宗時,郭善明甚機巧,北京宮殿,多其製作。高祖時,青州刺史侯文和亦以巧聞,為要舟,水中立射。滑稽多智,辭說無端,尤善淺俗委巷之語,至可玩笑。位樂陵、濟南二郡太守。

世宗、肅宗の時、豫州人の柳儉、殿中將軍の関文備、郭安興は共に機巧であった。洛中に永寧寺の九層仏塔を造営したが、郭安興が工匠であった。

原文世宗、肅宗時,豫州人柳儉、殿中將軍關文備、郭安興並機巧。洛中製永寧寺九層佛圖,安興為匠也。