魏書

卷90 逸士:眭誇 馮亮 李謐 鄭修

卷90 逸士:眭誇 馮亮 李謐 鄭修

【序】

原文【序】

およそ世を兼ねて済わすことと独り善くすることとは、顕れることと晦ますことの違いであり、その事柄は同じではなく、由来久しい。昔、夷・斉は周の武王によって全うされ、華・矞は太公に容れられなかった。それは何故か。その心を求める者は、貪りを激する用を許し、その跡を督める者は、束教の風と為すからである。しかして肥遁して反らざる者は、代々に人あり。夷の情は得喪を忘れ、累を懐かず。夫れ徳を邁し道を弘め、俗を匡し民を庇うに比べれば、小と為すべく、忽せにすべからざるなり。叔世に澆浮してより、淳風殆んど尽き、錐刀の末、競いて群れを成す。而して能く心を物表に冥し、介然として俗を離れ、古を望みて独り適し、友を千齢に求むるは、亦異人なり。何ぞ必ずしも霞を御し雲に乗りて日月を追い、天地を窮め極めて、始めて超遠と為さんや。今、眭夸らを録して逸士伝と為す。

原文蓋兼濟獨善,顯晦之殊,其事不同,由來久矣。昔夷齊獲全於周武,華矞不容於太公,何哉?求其心者,許以激貪之用;督其迹者,以為束教之風。而肥遁不反,代有人矣。夷情得喪,忘懷累有。比夫邁德弘道,匡俗庇民,可得而小,不可得而忽也。自叔世澆浮,淳風殆盡,錐刀之末,競入成羣,而能冥心物表,介然離俗,望古獨適,求友千齡,亦異人矣。何必御霞乘雲而追日月,窮極天地,始為超遠哉。今錄眭夸等為逸士傳。

眭夸

原文眭夸

眭夸、一名は昶、趙郡高邑の人なり。祖父の邁は、晋の東海王越の軍謀掾となり、後に石勒に没して徐州刺史と為る。父の邃は、字は懐道、慕容宝の中書令なり。夸は少にして大度有り、小節に拘わらず、志を書伝に耽け、未だ嘗て世務を以て心に経ること無し。酒を飲むを好み、浩然として物表に在り。年二十にして父の喪に遭い、鬚鬢を致して白く、一たび悲哭する毎に、聞く者之が為に流涕す。高尚にして仕えず、情を丘壑に寄す。同郡の李順、交わらんと願うも、夸は拒みて許さず。邦国の少長、之を憚らざる莫し。

原文眭夸,一名昶,趙郡高邑人也。祖邁,晉東海王越軍謀掾,後沒石勒為徐州刺史。父邃,字懷道,慕容寶中書令。夸少有大度,不拘小節,耽志書傳,未曾以世務經心。好飲酒,浩然物表。年二十遭父喪,鬚鬢致白,每一悲哭,聞者為之流涕。高尚不仕,寄情丘壑。同郡李順願與之交,夸拒而不許。邦國少長莫不憚之。

少くして崔浩と莫逆の交わりを為す。浩、司徒と為り、奏して之を徴して其中郎と為さんとし、疾を辞して赴かず。州郡逼遣するも、已むを得ず、京都に入る。浩と相見え、数日を延留すれども、惟だ酒を飲み平生を談叙するのみにして、世利に及ばず。浩、毎に之を論屈せんと欲すれども、竟に発言すること能わず。其の敬憚せらるること此の如し。浩、後遂に詔書を夸の懐に投ぐるも、亦口を開かず。夸曰く「桃簡、卿已に司徒と為る。何ぞ足らんや此を以て国士を労するに。吾便ち此に於いて将に別れんとす」と。桃簡は、浩の小名なり。浩、夸の即ち還らんことを慮る。時に一騾に乗り、更に兼騎無し。浩乃ち夸の騾を以て之を廐中に内れ、相維縶せんことを冀う。夸遂に郷人の租を輸する者に託し、謬りて車を御するを為し、乃ち出関するを得たり。浩知りて歎じて曰く「眭夸は独行の士、本より小職を以て之を辱すべからず。又其の人をして策を仗ちて復路せしむ。吾当に何の辞を以て之に謝せん」と。時に朝法甚だ峻し。夸既に私に還る。将に私帰の咎有らんとす。浩仍って相左右し、始めて坐する無きを得たり。年を経て、夸に本の騾を送り、兼ねて以て乗する所の馬を遺し、書を為りて之に謝す。夸更に其の騾馬を受けず、亦復た書せず。及て浩誅せらるるに及び、之が為に素服し、郷人の弔唁を受け、一時を経て乃ち止む。歎じて曰く「崔公既に死す。誰か能く更に眭夸を容れん」と。遂に朋友篇を作り、辞義時人の称する所と為る。

原文少與崔浩為莫逆之交。浩為司徒,奏徵為其中郎,辭疾不赴。州郡逼遣,不得已,入京都。與浩相見,延留數日,惟飲酒談敍平生,不及世利。浩每欲論屈之,竟不能發言。其見敬憚如此。浩後遂投詔書於夸懷,亦不開口。夸曰:「桃簡,卿已為司徒,何足以此勞國士也。吾便於此將別。」桃簡,浩小名也。浩慮夸即還。時乘一騾,更無兼騎,浩乃以夸騾內之廐中,冀相維縶。夸遂託鄉人輸租者,謬為御車,乃得出關。浩知而歎曰:「眭夸獨行士,本不應以小職辱之。又使其人仗策復路,吾當何辭以謝也。」時朝法甚峻,夸既私還,將有私歸之咎。浩仍相左右,始得無坐。經年,送夸本騾,兼遺以所乘馬,為書謝之。夸更不受其騾馬,亦不復書。及浩誅,為之素服,受鄉人弔唁,經一時乃止。歎曰:「崔公既死,誰能更容眭夸!」遂作朋友篇,辭義為時人所稱。

婦の父鉅鹿の魏攀は、当時名達の士なり。未だ嘗て婿の礼を備えず、情朋好に同じ。或る人夸に謂いて曰く「吾聞く、大才有る者は必ず貴仕に居ると。子何ぞ独り桑楡に在るや」と。遂に知命論を著して以て之を釈く。年七十五にして卒す。葬の日、会に赴く者市の如し。子無し。

原文婦父鉅鹿魏攀,當時名達之士。未嘗備壻之禮,情同朋好。或人謂夸曰:「吾聞有大才者必居貴仕,子何獨在桑榆乎?」遂著知命論以釋之。年七十五卒。葬日,赴會者如市。無子。

馮亮

原文馮亮

馮亮、字は霊通、南陽の人、蕭衍の平北将軍蔡道恭の甥なり。少くして諸書を博覧し、又篤く仏理を好む。道恭に随いて義陽に至り、中山王英の義陽を平らげるに会して而して之を獲たり。英素より其の名を聞き、礼を以て待接す。亮、性清浄、洛に至り、崧高に隠居す。英の徳に感じ、時を以て勤めを展ぶ。英の亡ぶるに及び、亮奔赴し、其の哀慟を尽くす。

原文馮亮,字靈通,南陽人,蕭衍平北將軍蔡道恭之甥也。少博覽諸書,又篤好佛理。隨道恭至義陽,會中山王英平義陽而獲焉。英素聞其名,以禮待接。亮性清淨,至洛,隱居崧高,感英之德,以時展勤。及英亡,亮奔赴,盡其哀慟。

世宗嘗て召して以て羽林監と為し、中書舎人を領せしめ、将に令して十地諸経を侍講せしめんとす。固く辞して拝せず。又衣幘を以て入見せしめんと欲す。亮、苦しくして幅巾を以て朝に就かんことを求め、遂に強逼せず。山に還ること数年、僧徒と礼誦を以て業と為し、蔬食飲水、終焉の志有り。逆人王敞の事発するに会し、山中の沙門に連なり、而して亮は執えられて尚書省に赴く。十余日、詔して特ちに免雪す。亮敢えて山に還らず、遂に景明寺に寓居す。勅して衣食及び其の従者数人を給す。後其の旧居を思い、復た山室に還る。亮既に山水を雅愛し、又巧思を兼ね、巖林に結架し、甚だ栖游の適を得、頗る此を以て聞こゆ。世宗其の工力を給し、令して沙門統僧暹・河南尹甄琛等と、崧高の形勝の処を周視せしめ、遂に閑居仏寺を造る。林泉既に奇なり、営製又美なり、山居の妙を曲尽す。亮時に京師に出づ。延昌二年冬、因って篤疾に遇う。世宗勅して馬輿を以て送り令して山に還らしめ、崧高道場寺に居らしむ。数日にして卒す。詔して帛二百匹を贈り、以て凶事に供せしむ。遺誡して兄の子綜に、衣㡊を以て斂め、左手に板を持ち、右手に孝経一巻を執り、尸を盤石の上に置き、人を去ること数里外とす。十余日を積み、乃ち山に於いて焚く。灰燼の処を以て、仏塔経蔵を起す。

原文世宗嘗召以為羽林監,領中書舍人,將令侍講十地諸經,固辭不拜。又欲使衣幘入見,亮苦求以幅巾就朝,遂不強逼。還山數年,與僧徒禮誦為業,蔬食飲水,有終焉之志。會逆人王敞事發,連山中沙門,而亮被執赴尚書省,十餘日,詔特免雪。亮不敢還山,遂寓居景明寺。敕給衣食及其從者數人。後思其舊居,復還山室。亮既雅愛山水,又兼巧思,結架巖林,甚得栖游之適,頗以此聞。世宗給其工力,令與沙門統僧暹、河南尹甄琛等,周視崧高形勝之處,遂造閑居佛寺。林泉既奇,營製又美,曲盡山居之妙。亮時出京師。延昌二年冬,因遇篤疾,世宗敕以馬輿送令還山,居崧高道場寺。數日而卒。詔贈帛二百匹,以供凶事。遺誡兄子綜,斂以衣㡊,左手持板,右手執孝經一卷,置尸盤石上,去人數里外。積十餘日,乃焚於山。以灰燼處,起佛塔經藏。

初め、亮、盛冬に喪す。時に連日驟雪、窮山荒澗、鳥獸飢窘し、僵尸山野、防護する所無し。時に寿春の道人惠需、毎旦其の屍を見往き、塵霰を拂い去る。禽虫の迹、左右に交横すれども、而して初め侵毀無く、衣服本の如く、惟だ風㡊巾を吹くのみ。又亮の旧の南方法師信を識るを以て、大栗十枚を言いて之を期し将来の十地果報と為し、亮の手を開きて以て把の中に置く。宿を経て、乃ち虫鳥の盗食する所と為り、皮殼地に在りて、而も亦肌体を傷つけず。焚燎の日、素霧蓊鬱有り、其の傍に回繞し、地より天に属し、朝に弥ぎて絶えず。山中の道俗営助する者百余り、異とせざる莫し。

原文初,亮以盛冬喪,時連日驟雪,窮山荒澗,鳥獸飢窘,僵尸山野,無所防護。時壽春道人惠需,每旦往看其屍,拂去塵霰。禽蟲之迹,交橫左右,而初無侵毀,衣服如本,惟風吹㡊巾。又以亮識舊南方法師信大栗十枚,言期之將來十地果報,開亮手以置把中。經宿,乃為蟲鳥盜食,皮殼在地,而亦不傷肌體。焚燎之日,有素霧蓊鬱,迴繞其傍,自地屬天,彌朝不絕。山中道俗營助者百餘人,莫不異焉。

李謐

原文李謐

李謐、字は永和、趙郡の人、相州刺史安世の子なり。少くして学を好み、諸経に博通し、百氏を周覧す。初め小学博士孔璠に師事す。数年の後、璠還りて就き謐に業を請う。同門生之が為に語りて曰く「青は藍より成り、藍は青に謝す。師何ぞ常ならん、明経に在りて」と。謐、公子を以て徴されて著作佐郎に拝せられんとすれども、辞して以て弟の郁に授けしむ。詔して之を許す。州再び秀才を挙げ、公府二たび辟くも、並びに就かず。惟だ琴書を以て業と為し、世を絶つ心有り。考工記・大戴礼盛徳篇を覧て、明堂の制同じからざるを以て、遂に明堂制度論を著して曰く。

原文李謐,字永和,趙郡人,相州刺史安世之子。少好學,博通諸經,周覽百氏。初師事小學博士孔璠。數年後,璠還就謐請業。同門生為之語曰:「青成藍,藍謝青,師何常,在明經。」謐以公子徵拜著作佐郎,辭以授弟郁,詔許之。州再舉秀才,公府二辟,並不就。惟以琴書為業,有絕世之心。覽考工記、大戴禮盛德篇,以明堂之制不同,遂著明堂制度論曰:

謐は酒を飲まず、音律を好み、山水を愛楽し、高尚の情、長じて弥く固し。一たび其の賞に遇えば、悠爾として帰るを忘る。乃ち神士賦を作り、歌いて曰く「周孔は儒教を重んじ、荘老は無為を貴ぶ。二途雖も異なる如しも、一是は声児を買う。生くるや意愜わず、死名用いて何をか施さん。心に可なれば聊か自ら楽しみ、終に人の為に移されじ。脱びて余が志を尋ぬる者有らば、陶然として正に斯の若し」と。延昌四年に卒す。年三十二。遐邇之を悼惜す。

原文謐不飲酒,好音律,愛樂山水,高尚之情,長而彌固,一遇其賞,悠爾忘歸。乃作神士賦,歌曰:「周孔重儒教,莊老貴無為。二途雖如異,一是買聲兒。生乎意不愜,死名用何施。可心聊自樂,終不為人移。脫尋余志者,陶然正若斯。」延昌四年卒,年三十二,遐邇悼惜之。

その年、四門小学博士の孔璠ら学官四十五人が上書して言うには、「ひそかに見ますに、故処士趙郡の李謐は、十歳で父を喪い、哀号して隣人の相(弔問)をやめさせ、幼くして兄の瑒に仕え、恭順にして友于(兄弟仲の良さ)の誠を尽くした。十三歳で孝経・論語・毛詩・尚書に通じ、暦数(天文暦法)の術には特にその長を極め、州閭郷党に神童の号があった。十八歳で学に詣でて業を受け、時の博士は即ち孔璠であった。始めを覧て終わりを要し、論の端を究めて緒を極め、授ける者は皆その言を欣んだ。ここにおいて諸経を鳩集し、広く同異を校し、三伝の事例に比して、名づけて『春秋叢林』十二巻とした。璠らのために隠伏を判析し、垂れること百条に盈ちた。滞るも常に滞らず、繊毫も必ず挙げ、通ずるも長く通ぜず、枉(曲がり)あれば斯れを屈した。苟(かりそめ)にも経に違うことを言わず、飾り辞を以て理に背かず、辞気磊落、観る者は疲れを忘れた。常に曰く、『丈夫書を擁すること万巻、何ぞ南面して百城を仮(か)るを仮(か)らん』と。遂に跡を絶ちて幃を下ろし、門を杜(とざ)して掃(はら)いを却け、産を棄てて書を営み、手ずから刪削し、巻に重複なきもの四千有余となった。なお専門家を括次し、讜議を搜比し、隆冬には曙に達し、盛暑には通宵した。仲舒の園を窺わず、君伯の戸を閉ざし、高氏の漂を遺し、張生の食を忘るるも、この人に方(くら)ぶれば、未だ以て譬えと為すに足らざるなり。謐は嘗て故太常卿の劉芳に詣でて音義を推問し、語り中代興廃の由に及ぶと、芳は乃ち歎じて曰く、『君若し高祖に遇わば、侍中・太常は僕有に非ざるなり』と。前河南尹・黄門侍郎の甄琛は内に近機を賛し、朝野傾目する所であったが、時に親識官を求むる者に答えていうには、『趙郡の李謐は学に耽り道を守り、時に悶(もだ)えず、常に言を致さんと欲するも、但だ次第未だあらざるのみ。諸君何ぞ軽々しく自ら媒衒(ばいげん)するや』と。その子に謂っていうには、『昔、鄭玄・盧植は数千里を遠しとせず扶風の馬融に詣でた。今、汝が明師は甚だ邇(ちか)し、何ぞ就業せざるや』と。また朝士に謂っていうには、『甄琛の行いは時に愧じず、但だ李謐を薦めざるを以て、此れを以て朝廷に負うのみ』と。また宇を結んで巌に依り、崖に憑りて室を鑿ち、方(まさ)に彼の青衿(学生)を訓(おし)え、墳典を宣揚し、西河の教の重ねて興り、北海の風の墜ちざらんことを冀(こいねが)わんとした。而るに祐善は空しく聞くのみで、暴疾にて卒した。邦国は殄悴(てんすい)の哀を銜(ふく)み、儒生は摧梁(さいりょう)の慕いを結ぶ。況んや璠らは或いは議を服して下風にあり、或いは親しく音旨を承けたり、師儒の義、其れ黙することを得んや」と。事が奏上されると、詔して曰く、「謐は屡(しばしば)徴辟を辞し、志は沖素を守り、儒隠の操り、深く嘉美すべきなり。遠くは恵(林宗)・康(成)に傍(なら)い、近くは玄晏(皇甫謐)に準じて、諡して貞静処士と曰い、併せて其の門閭を表し、以て高節を旌(あらわ)せ」と。謁者を遣わして冊を奉らせ、ここにおいて其の門を文徳、里を孝義と表した。

原文其年,四門小學博士孔璠等學官四十五人上書曰:「竊見故處士趙郡李謐:十歲喪父,哀號罷隣人之相;幼事兄瑒,恭順盡友于之誠。十三通孝經、論語、毛詩、尚書,歷數之術尤盡其長,州閭鄉黨有神童之號。年十八,詣學受業,時博士即孔璠也。覽始要終,論端究緒,授者無不欣其言矣。於是鳩集諸經,廣校同異,比三傳事例,名春秋叢林,十有二卷。為璠等判析隱伏,垂盈百條。滯無常滯,纖毫必舉;通不長通,有枉斯屈。不苟言以違經,弗飾辭而背理。辭氣磊落,觀者忘疲。每曰:『丈夫擁書萬卷,何假南面百城。』遂絕跡下幃,杜門却掃,棄產營書,手自刪削,卷無重複者四千有餘矣。猶括次專家,搜比讜議,隆冬達曙,盛暑通宵。雖仲舒不闚園,君伯之閉戶,高氏之遺漂,張生之忘食,方之斯人,未足為喻。謐嘗詣故太常卿劉芳推問音義,語及中代興廢之由,芳乃歎曰:『君若遇高祖,侍中、太常非僕有也。』前河南尹、黃門侍郎甄琛內贊近機,朝野傾目,于時親識求官者,答云:『趙郡李謐,耽學守道,不悶于時,常欲致言,但未有次耳。諸君何為輕自媒衒?』謂其子曰:『昔鄭玄、盧植不遠數千里詣扶風馬融,今汝明師甚邇,何不就業也?』又謂朝士曰:『甄琛行不媿時,但未薦李謐,以此負朝廷耳。』又結宇依巖,憑崖鑿室,方欲訓彼青衿,宣揚墳典,冀西河之教重興、北海之風不墜。而祐善空聞,暴疾而卒。邦國銜殄悴之哀,儒生結摧梁之慕。況璠等或服議下風,或親承音旨,師儒之義,其可默乎!」事奏,詔曰:「謐屢辭徵辟,志守沖素,儒隱之操,深可嘉美。可遠傍惠、康,近準玄晏,諡曰貞靜處士,并表其門閭,以旌高節。」遣謁者奉冊,於是表其門曰文德,里曰孝義云。

鄭脩

原文鄭脩

鄭脩は北海の人である。少くして岐州の南、几谷の中に隠れ、巌に依って宇を結び、独り処して淡然とし、人事に屏迹し、世俗と交わらず、耕して食い水を飲み、皮冠草服、経史を雅好し、玄門(老荘の学)に専意した。前後の州将は、毎度徴しても至らなかった。岐州刺史の魏蘭根は頻りに致命を遣わしたので、脩は已むを得ず、暫く出でて蘭根に会い、尋(まもなく)山舎に還った。蘭根は表を申して脩を薦めたので、粛宗は詔して雍州刺史の蕭宝夤に付し、実情を訪れて奏聞させた。会(たまたま)宝夤が逆を為したので、事は行われなかった。

原文鄭脩,北海人也。少隱於岐南几谷中,依巖結宇,獨處淡然,屏迹人事,不交世俗,耕食水飲,皮冠草服,雅好經史,專意玄門。前後州將,每徵不至。岐州刺史魏蘭根頻遣致命,脩不得已,暫出見蘭根,尋還山舍。蘭根申表薦脩,肅宗詔付雍州刺史蕭寶夤訪實以聞。會寶夤作逆,事不行。