魏書

卷89 酷吏:于洛侯 胡泥 李洪之 高遵張赦提 羊祉 崔暹 郦道元

卷89 酷吏:于洛侯 胡泥 李洪之 高遵張赦提 羊祉 崔暹 郦道元

序

原文序

淳朴な風俗が既に失われ、奸智狡猾な者が萌生し、法令はますます煩雑となり、刑罰禁令が多く設けられた。官吏には仁恕の誠が稀で、官職にある者は威猛をもって事を成すとした。魏氏は戎馬をもって王業を定め、武功をもって海内を平定し、政治は刑罰を任じ、厳格峻烈を根本とした。猛酷の輩を、ここに今史に列する所以である。

原文淳風既喪,姦黠萌生;法令滋章,刑禁多設。為吏罕仁恕之誠,當官以威猛為濟。魏氏以戎馬定王業,武功平海內,治任刑罰,肅厲為本,猛酷之倫,所以列之今史。

于洛侯

原文于洛侯

于洛侯は代の人である。功労と旧臣として秦州刺史となったが、貪婪で残酷、安んじて残忍を事とした。州人富熾が民呂勝の脛纏(脚絆)一具を奪った。洛侯は直ちに富熾を百回鞭打ち、その右腕を切断した。百姓王隴客が民王羌奴・王愈の二人を刺殺したが、律に依れば死罪に当たるのみである。洛侯は生きながら隴客の舌を抜き、その舌の付け根を刺し、さらに胸腹に二十余りの傷を刺した。隴客は苦痛に耐えられず、刃に合わせて震動した。そこで四本の柱を立ててその手足を磔にし、命が絶えようとする時になって初めてその首を斬り、四肢を切り離し、分けて道路に懸け示した。これを見る者は誰もが傷み悲しみ、州中は驚き震え、人々は怨憤を抱いた。百姓王元寿らが一時に反乱を起こした。有司が糾弾した。高祖は使者を州の刑が行われた場所に派遣し、兵民に宣告させた後、洛侯を斬って百姓に謝罪させた。

原文于洛侯,代人也。以勞舊為秦州刺史,而貪酷安忍。州人富熾奪民呂勝脛纏一具,洛侯輒鞭富熾一百,截其右腕。百姓王隴客刺殺民王羌奴、王愈二人,依律罪死而已,洛侯生拔隴客舌,刺其本,并刺胸腹二十餘瘡。隴客不堪苦痛,隨刀戰動。乃立四柱磔其手足,命將絕,始斬其首,支解四體,分懸道路。見之者無不傷楚,闔州驚震,人懷怨憤。百姓王元壽等一時反叛。有司糾劾。高祖詔使者於州刑人處宣告兵民,然後斬洛侯以謝百姓。

胡泥

原文胡泥

胡泥は代の人である。官歴を経て司衛監に至り、永城侯の爵位を賜った。泥は禁中の統率に当たり、豪族貴族をも憚らなかった。殿中尚書叔孫侯頭が内直に応じるべきところ一時的に欠けたので、泥は法をもってこれを糾した。侯頭は寵愛を恃み、遂に口論となった。高祖はこれを聞いて賞賛し、泥に衣服一揃えを賜った。出て幽州刺史となり、范陽公を仮された。北平の陽尼が学識豊かであったので、上表してこれを推薦した。平東将軍・定州刺史に遷った。暴虐で、刑罰が残酷に濫用され、賄賂を受け取ったため、召還されて誅殺された。法に就かんとする時、高祖は太華殿に臨んで引見し、侍臣を遣わして詔を宣し責めさせ、遂にその家で自尽を賜った。

原文胡泥,代人也。歷官至司衞監,賜爵永城侯。泥率勒禁中,不憚豪貴。殿中尚書叔孫侯頭應內直而闕於一時,泥以法繩之。侯頭恃寵,遂與口諍。高祖聞而嘉焉,賜泥衣服一襲。出為幽州刺史,假范陽公。以北平陽尼碩學,遂表薦之。遷平東將軍、定州刺史。以暴虐,刑罰酷濫,受納貨賄,徵還戮之。將就法也,高祖臨太華殿引見,遣侍臣宣詔責之,遂就家賜自盡。

李洪之

原文李洪之

李洪之は本名を文通といい、恒農の人である。若くして沙門となり、晩年に還俗した。真君年間(440-451)、狄道護軍となり、安陽男の爵位を賜った。時に永昌王拓跋仁が世祖(太武帝)に従って南征し、元后(文成帝の乳母?)の姉妹二人を得た。洪之は宗族の者としてひそかに贈り物をし、兄弟の契りを結び、遂に親族のようになった。元后の南方にいる兄弟の名前をかなり知り得て、そこで名を洪之と改めた。やがて仁が罪に坐して誅されると、元后は宮中に入り、高宗(文成帝)の寵愛を得て、顕祖(献文帝)を生んだ。元后が臨終に際し、昭太后(文成帝の皇后馮氏)がその親族を尋ねたので、洪之を兄であると述べた。互いに別れを告げるのに一日を費やし、南方の諸兄珍之らを詳しく列挙し、手ずから洪之に託した。そこで顕祖の実の舅と称された。太安年間(455-459)、珍之ら兄弟が都に至り、洪之と相見え、元后の平生の旧事を語り、年長幼少を計って兄弟とした。

原文李洪之,本名文通,恒農人。少為沙門,晚乃還俗。真君中,為狄道護軍,賜爵安陽男。會永昌王仁隨世祖南征,得元后姊妹二人。洪之以宗人潛相餉遺,結為兄弟,遂便如親。頗得元后在南兄弟名字,乃改名洪之。及仁坐事誅,元后入宮,得幸於高宗,生顯祖。元后臨崩,昭太后問其親,因言洪之為兄。與相訣經日,具條列南方諸兄珍之等,手以付洪之。遂號為顯祖親舅。太安中,珍之等兄弟至都,與洪之相見,敍元后平生故事,計長幼為昆季。

外戚として河内太守となり、任城侯に爵位を進められ、威儀は刺史と全く同じであった。河内は北は上党に連なり、南は武牢に接し、地は険しく人は悍ましく、しばしば略奪害悪が行われ、長吏はこれを禁じることができなかった。洪之が郡に至ると、厳しく禁令を設け、賊を斬る者を募って重賞を与え、農を勧めて本務に務めさせたため、盗賊は止み息んだ。奸党を誅鋤するのに、過ぎて酷虐であった。

原文以外戚為河內太守,進爵任城侯,威儀一同刺史。河內北連上黨,南接武牢,地險人悍,數為劫害,長吏不能禁。洪之至郡,嚴設科防,募斬賊者便加重賞,勸農務本,盜賊止息。誅鋤姦黨,過為酷虐。

後に懐州刺史となり、汲郡公に封ぜられ、召されて内都大官に拝された。河西の羌胡が部落を率いて反乱した。顕祖が親征し、洪之に侍中・東郡王陸定と共に諸軍を総統するよう命じた。輿駕が并州に至ると、詔により洪之を河西都将として山胡を討たせた。賊は皆要害を守って戦いを拒んだ。洪之は石楼の南の白鶏原に堡塁を築いてこれに対した。諸将は皆進攻を欲したが、洪之は大いなる信義を示して門を開き、その生業に復することを許したので、胡人は遂に降伏した。顕祖はこれを嘉し、尚書外都大官に遷任した。

原文後為懷州刺史,封汲郡公,徵拜內都大官。河西羌胡領部落反叛,顯祖親征,命洪之與侍中、東郡王陸定總統諸軍。輿駕至并州,詔洪之為河西都將討山胡。皆保險拒戰。洪之築壘於石樓南白鷄原以對之。諸將悉欲進攻,洪之乃開以大信,聽其復業,胡人遂降。顯祖嘉之,遷拜尚書外都大官。

後に使持節・安南将軍・秦益二州刺史となった。治所に至り、奸を禁ずる制度を設け、刃物を帯びて行く者があれば、その罪は強盗と同じとし、軽重の等級にそれぞれ条章があった。そこで大いに州中の豪傑長老を饗応し、法制を示した。そして夜ひそかに騎兵を分遣して諸要路を覆い、禁令を犯す者があれば、直ちに捕らえて州に送り、宣告して斬決した。そのうちに冤罪で殺害された者は百数を数えた。赤葩渴郎羌は深く山谷に住み、羈縻はされていたが、朝廷の人はめったに到らなかった。洪之は山を切り開いて道とし、広さ十余歩とし、軍勢が行く勢いを示して、軍を興してその境に臨んだ。山人は驚愕した。洪之は数十騎を率いてその村里に至り、その妻子を撫で、苦しみを問い、資財を贈った。諸羌は喜び、編戸となり課税されることを求め、収入は常の十倍となった。洪之は戎夷を統御するのに巧みで、威厳と恩恵があったが、苛酷な害悪を行うという名声は朝野に聞こえた。

原文後為使持節、安南將軍、秦益二州刺史。至治,設禁姦之制,有帶刃行者,罪與劫同,輕重品格,各有條章。於是大饗州中豪傑長老,示之法制。乃夜密遣騎分部覆諸要路,有犯禁者,輒捉送州,宣告斬決。其中枉見殺害者百數。赤葩渴郎羌深居山谷,雖相羈縻,王人罕到。洪之芟山為道,廣十餘步,示以軍行之勢,乃興軍臨其境。山人驚駭。洪之將數十騎至其里閭,撫其妻子,問所疾苦,因資遺之。眾羌喜悅,求編課調,所入十倍於常。洪之善御戎夷,頗有威惠,而刻害之聲聞於朝野。

初め、洪之が微賤の時、妻張氏は洪之を助けて資産を経営し、貧しきより貴きに至るまで、多く補益するところがあり、男女数十人を儲けた。洪之は後に劉氏を得た。劉芳の従妹である。洪之は欽慕尊重し、張氏を疎遠に薄遇して、二つの宅に別居させ、劉の室を偏って厚くした。これにより二つの妻は嫉妬して争い、互いに訴え呪い、二つの宅の母子は往来するも仇のようであった。西州(秦益二州)に臨む時は、劉氏を従えて行った。

原文初,洪之微時,妻張氏助洪之經營資產,自貧至貴,多所補益,有男女幾十人。洪之後得劉氏,劉芳從妹。洪之欽重,而疏薄張氏,為兩宅別居,偏厚劉室。由是二妻妬競,互相訟詛,兩宅母子,往來如讎。及莅西州,以劉自隨。

洪之は元来清廉ではなく、常に多く収賄した。時に高祖(孝文帝)が初めて禄制を建て、法禁は厳峻で、司察の聞くところは、ことごとく窮めて糾弾した。そこで洪之を鎖して京に赴かせた。高祖は太華殿に臨み、庭に群官を集め、有司が洪之の贓物収受が狼藉であり、また酷暴であると奏上した。高祖は親臨してその罪を数え上げ、大臣であることを以て、家で自裁することを許した。洪之の志性は慷慨で、多く耐え忍ぶところがあり、疹病の灸治療で、艾炷の囲みが二寸ほどになり、手足十余箇所に一度に下しても、談笑自若で、賓客への応対を絶やさなかった。自尽に臨む時、沐浴して衣を換えた。防卒が扶持し、出ようとしてまた入り、家庭を遍く巡り、このように再三し、泣き嘆くこと久しく、そして臥して薬を引いた。

原文洪之素非廉清,每多受納。時高祖始建祿制,法禁嚴峻,司察所聞,無不窮糾。遂鎖洪之赴京。高祖臨太華,庭集羣官,有司奏洪之受贓狼藉,又以酷暴。高祖親臨數之,以其大臣,聽在家自裁。洪之志性慷慨,多所堪忍,疹疾灸療,艾炷圍將二寸,首足十餘處,一時俱下,而言笑自若,接賓不輟。及臨自盡,沐浴換衣。防卒扶持,將出却入,遍遶家庭,如是再三,泣歎良久,乃臥而引藥。

初め洪之は元后の兄と仮託し、公私に外戚と同じくしていた。この罪に至った後、高祖はようやく百官に対していささかその誣偽を弁明したが、諸李(李氏一族)はなお善く互いに見守り、恩情は親族のようであった。洪之が初めて元后に会った時、年齢を計算して兄とした。珍之らが至ると、洪之は元后がかつて定めた長幼に従い、その呼びかけ・拝礼・座席は皆家族のようであった。晩年しばしば彼らを招き連れて宴飲し、酔い酣れた後、彼らが時として本末(元后との関係の始末)に言及すると、洪之は起立して一層敬い、笑語は自若であった。富貴は赫奕として、舅戚の家に当たったので、遂に宗族を棄てて専ら珍之らに附いた。後には本属(本来の李氏一族)をかなり救済したが、なお顕然とはしなかった。劉氏の四子、長子李神は別に伝がある。

原文始洪之託為元后兄,公私自同外戚。至此罪後,高祖乃稍對百官辨其誣假,而諸李猶善相視,恩紀如親。洪之始見元后,計年為兄。及珍之等至,洪之以元后素定長幼,其呼拜坐皆如家人。暮年數延攜之宴飲,醉酣之後,攜之時或言及本末,洪之則起而加敬,笑語自若。富貴赫弈,當舅戚之家,遂棄宗專附珍之等。後頗存振本屬,而猶不顯然。劉氏四子,長子神自有傳。

高遵

原文高遵

高遵は、字を世禮といい、勃海郡蓚縣の人である。父の濟は、滄水太守であった。遵は賤しい身分の出であり、兄の矯らは常に彼を欺侮した。父が亡くなると、喪の席に居させなかった。遵は平城に馳せ赴き、從祖兄の中書令允に歸順した。允は遵の父のために哀悼の禮を舉げ、遵を喪主とし、京邑の者はみな弔問に集い、朝貴も皆彼を知った。やがて歸郷して喪に赴いた。喪が明けると、允は官途を整え、樂浪王侍郎に補されることとなった。遵はこの恩に感じ、允を諸父のように仕えた。

原文高遵,字世禮,勃海蓚人。父濟,滄水太守。遵賤出,兄矯等常欺侮之。及父亡,不令在喪位。遵遂馳赴平城,歸從祖兄中書令允。允乃為遵父舉哀,以遵為喪主,京邑無不弔集,朝貴咸識之。徐歸奔赴。免喪,允為營宦路,得補樂浪王侍郎。遵感成益之恩,事允如諸父。

文史に涉獵し、筆札に長け、中書侍郎に進んだ。長安に詣で、燕宣王廟碑を刊し、安昌子に爵を進めた。新たに衣冠が制定され、高祖が宗廟に恭しく薦める際、遵は形貌が莊重で清潔、音聲が雄壯で流暢であったため、常に太祝令を兼ね、跪いて禮事を贊し、俯仰の節度を爲し、大體儀矩に合った。これにより高祖は彼を識り待遇した。後に游明根・高閭・李沖と共に律令を議し、御坐に親しく對し、時に陳奏した。積年の勞により、粟帛牛馬を賜った。立忠將軍・齊州刺史として出向した。建節して本州を歷訪すると、宗郷の者は改觀したが、矯らはますます妬み誹謗した。

原文涉歷文史,頗有筆札,進中書侍郎。詣長安,刊燕宣王廟碑,進爵安昌子。及新製衣冠,高祖恭薦宗廟,遵形貌莊潔,音氣雄暢,常兼太祝令,跪贊禮事,為俯仰之節,粗合儀矩。由是高祖識待之。後與游明根、高閭、李沖入議律令,親對御坐,時有陳奏。以積年之勞,賜粟帛牛馬。出為立忠將軍、齊州刺史。建節歷本州,宗鄉改觀,而矯等彌妬毀之。

遵の性質は廉清ではなく、中書に在った時、山東に假歸する度に、必ず騾馬を借り備え、従者を百餘人引き連れた。民家に屯逼して絲縑を求め、不満足なら罵詈して去らず、強いて徴求した。旬月の間に、縑布は千數に及んだ。邦邑はこれを苦しんだ。州を臨むに及んでも、本意は止まず、僚吏を選び召し、多く取納した。またその妻明氏の家が齊州にあり、母弟や舅甥らが共に依憑し嘱託し、貨利を爭って求め、嚴暴で非理であり、殺害すること甚だ多かった。貪酷の評判は、帝にもよく聞こえた。車駕が鄴に幸した時、遵は州から來朝し、赦宥があった。遵が州に還る際、行宮で帝に辭請し、引見されて譴責された。遵は自ら負うところ無しと陳べたが、帝は厲聲して言った、「もし遷都の赦が無ければ、必ずや高遵は居ないであろう。又、卿は貪婪なるのみならず、刑法にも虐であり、濟陰王の如きでさえ法を免れず、卿は何人ぞ、かくの如き行いを爲すか。今より自ら謹約すべし」と。州に還っても、なお悔い改めなかった。齊州人孟僧振が洛に至り遵を訟った。詔して廷尉少卿劉述に窮めて鞫せしめたところ、訴えの通りであった。先に、沙門道登が遵を訪ね、遵は道登が高祖の寵を受けているのを頼み、多く貨を奉り、深く依仗した。道登はしばしば言の次に遵の救いを申し啓したが、帝は省みず納れず、遂に詔して劉述に遵を賜死させた。時に遵の子元榮が洛に詣で冤を訟ったが、なお道登を恃み、時を移さず還赴しなかった。道登は事が決したのを知り、ようやく彼を遣わした。遵はその妻を恨み、訣別せず、別の場所で沐浴し、椒を引いて死んだ。

原文遵性不廉清,在中書時,每假歸山東,必借備騾馬,將從百餘。屯逼民家求絲縑,不滿意則詬罵不去,強相徵求。旬月之間,縑布千數。邦邑苦之。遵既臨州,本意未弭,選召僚吏,多所取納。又其妻明氏家在齊州,母弟舅甥共相憑屬,爭求貨利,嚴暴非理,殺害甚多。貪酷之響,帝頗聞之。及車駕幸鄴,遵自州來朝,會有赦宥。遵臨還州,請辭帝於行宮,引見誚讓之。遵自陳無負,帝厲聲曰:「若無遷都赦,必無高遵矣!又卿非惟貪惏,又虐於刑法,謂何如濟陰王,猶不免於法。卿何人,而為此行!自今宜自謹約。」還州,仍不悛革。齊州人孟僧振至洛訟遵。詔廷尉少卿劉述窮鞫,皆如所訴。先是,沙門道登過遵,遵以道登荷寵於高祖,多奉以貨,深託仗之。道登屢因言次申啟救遵,帝不省納,遂詔述賜遵死。時遵子元榮詣洛訟冤,猶恃道登,不時還赴。道登知事決,方乃遣之。遵恨其妻,不與訣,別處沐浴,引椒而死。

元榮は、學識と文才があり、几案の文書に長じた。位は尚書右丞を兼ね、西道行臺となり、高平鎮に至り、城が翻って害に遇った。

原文元榮,學尚有文才,長於几案。位兼尚書右丞,為西道行臺,至高平鎮,遇城翻被害。

遵の弟次文は、位官は無いが貲産は巨萬であった。遵はしばしばその財を責め、また遵に恨みを結び、吉凶の際にも往来しなかった。時の論はこれを責めた。

原文遵弟次文,雖無位官而貲產巨萬。遵每責其財,又結憾於遵,吉凶不相往反。時論責之。

張赦提

原文張赦提

張赦提は、中山郡安喜縣の人である。性質雄武で、規畫があった。初め虎賁中郎となった。時に京畿の盜賊の首魁が自ら豹子・虎子と稱し、共に弓馬に優れ、遂に逃亡者や諸々の畜牧者を率い、各々部帥となり、靈丘・雁門の間に聚まって劫掠の害を爲した。人を斬ってその首とし、口を射、臍を刺し、腸を引き出して樹に遶らせて共に射るなど、戲笑とした。暴酷なることかくの如しであった。軍騎が掩襲しても、久しく獲ることができず、行く者はこれを患った。赦提は防遏追窮の計を設け、宰司はこれを善しとし、赦提を逐賊軍將とした。驍勇を求めて追わせ、間もなく虎子・豹子及びその黨與を獲た。悉く京師に送り、闕下で斬り、これより清靜となった。靈丘の羅思祖は宗門豪溢で、家は隘險に處し、多く亡命者を止宿させ、彼らと劫掠を爲した。顯祖はこれを怒り、妻子を戮した。しかし思祖の家黨は相率いて寇盗した。赦提は募に應じて捕逐を求め、赦提を游徼軍將とし、前後して禽獲し、殺し略盡した。これにより濫りに屠害し、特に忍酷であった。既に前の稱譽に資し、又この功を藉りて、冠軍將軍・幽州刺史に除され、安喜侯を假された。

原文張赦提,中山安喜人也。性雄武,有規畫。初為虎賁中郎。時京畿盜魁自稱豹子、虎子,並善弓馬,遂領逃連及諸畜牧者,各為部帥,於靈丘、雁門間聚為劫害。至乃斬人首,射其口,刺人臍,引腸遶樹而共射之,以為戲笑。其為暴酷如此。軍騎掩㨞,久弗能獲,行者患焉。赦提設防遏追窮之計,宰司善之,以赦提為逐賊軍將。乃求驍勇追之,未幾而獲虎子、豹子及其黨與。盡送京師,斬於闕下,自是清靜。其靈丘羅思祖宗門豪溢,家處隘險,多止亡命,與之為劫。顯祖怒之,孥戮其家。而思祖家黨,相率寇盜。赦提應募求捕逐,乃以赦提為游徼軍將,前後禽獲,殺之略盡。因而濫有屠害,尤為忍酷。既資前稱,又藉此功,除冠軍將軍、幽州刺史,假安喜侯。

赦提は己を克し約を厲して、清稱があった。後に頗る妻の段氏を縱し、多く受納し、僧尼に事に因って通請させ、貪虐の聲が流聞した。中散李真香が幽州に使いし、牧守の政績を採訪した。真香はその罪を驗案し、赦提は死を懼れて逃げようとした。その妻の姑は太尉・東陽王丕の妻であり、丕の親貴を恃み、自ら丕に申訴して助けを求めることを許し、赦提に謂って曰く、「訴え理めんと當てり、幸いに申雪を得ば、願わくは暫く憂いを寬げ、異計を爲さざれ」と。赦提はこれにより稍々自ら解慰した。段氏は真香が昔、假を因って幽州を過ぎ、赦提の良き牛を知り、求めても果たせなかったことを陳列した。今、臺使が前事に協心し、故に部下を威逼し、拷楚を過極にし、横に無辜を以て、誣罪を證成するのだと。執事は不盡を恐れ、駕部令趙秦州をして重ねて往き究訊させた。事は前の如く伏し、赦提を大辟に處した。高祖は詔して第にて賜死させた。將に盡きんとするに、妻を召して責めて曰く、「貪濁して吾を穢すは卿なり、又吾を安んじて禍を免れしめ得ず、九泉の下にて仇讎と爲らん」と。

原文赦提克己厲約,遂有清稱。後頗縱妻段氏,多有受納,令僧尼因事通請,貪虐流聞。中散李真香出使幽州,採訪牧守政績。真香驗案其罪,赦提懼死欲逃。其妻姑為太尉、東陽王丕妻,恃丕親貴,自許詣丕申訴求助,謂赦提曰:「當為訴理,幸得申雪,願且寬憂,不為異計。」赦提以此差自解慰。段乃陳列真香昔嘗因假而過幽州,知赦提有好牛,從索不果。今臺使心協前事,故威逼部下,拷楚過極,橫以無辜,證成誣罪。執事恐有不盡,使駕部令趙秦州重往究訊。事伏如前,處赦提大辟。高祖詔賜死於第。將就盡,召妻而責之曰:「貪濁穢吾者卿也,又安吾而不得免禍,九泉之下當為仇讎矣。」

また華山太守趙霸がおり、酷暴で非理であった。大使崔光が霸を奏して云く、「憲度に遵わず、威虐を任情にし、吏人を手ずから撃つに至り、僚屬は奔走す。君人として下を字し、軌物に納むるに足らず、輒ち州に禁止す」と。詔して居官を免じた。

原文又有華山太守趙霸,酷暴非理。大使崔光奏霸云:「不遵憲度,威虐任情,至乃手擊吏人,僚屬奔走。不可以君人字下,納之軌物,輒禁止在州。」詔免所居官。

羊祉

原文羊祉

羊祉は、字を靈祐といい、太山郡鉅平縣の人で、晉の太僕卿琇の六世孫である。父の規之は、宋の任城令であった。世祖が南討して鄒山に至ると、規之は魯郡太守崔邪利及びその屬縣の徐通・愛猛之らと共に降り、爵を鉅平子と賜り、雁門太守に拜された。

原文羊祉,字靈祐,太山鉅平人,晉太僕卿琇之六世孫也。父規之,宋任城令。世祖南討至鄒山,規之與魯郡太守崔邪利及其屬縣徐通、愛猛之等俱降,賜爵鉅平子,拜雁門太守。

祉の性質は剛愎で、刑名を好み、司空令輔國長史となり、爵を鉅平子を襲い、公資を侵盜し、私に居宅を營み、有司が案じて死罪に當たったが、高祖は特に恕して遠方に徙した。後に還った。景明の初め、將作都將となり、左軍將軍を加えられた。四年、節を持ち梁州軍司となり、叛氐を討った。正始二年、王師が蜀を伐つに當たり、祉を假節・龍驤將軍・益州刺史とし、劍閣を出たが還った。また本將軍を以て秦梁二州刺史となり、征虜將軍を加えられた。天性酷忍で、また清潔ではなかった。人を掠めて奴婢とするに坐し、御史中尉王顯に彈劾されて免官された。高肇が南征するに及び、祉は再び起用されて光祿大夫・假平南將軍となり、節を持ち歩騎三萬を領して先驅し涪に趣いた。未だ至らぬうちに世宗が崩じ、班師した。夜中に軍を引き、山に二つの徑があり、軍人は迷って道を失った。祉は便ち隊副の楊明達を斬り、首を梟して路傍に掲げた。中尉元昭に劾せられ、赦に會って免じられた。後に平北將軍を加えられたが、拜せられずして卒した。安東將軍・兗州刺史を贈られた。

原文祉性剛愎,好刑名,為司空令輔國長史,襲爵鉅平子。侵盜公資,私營居宅,有司案之抵死,高祖特恕遠徙。後還。景明初,為將作都將,加左軍將軍。四年,持節為梁州軍司,討叛氐。正始二年,王師伐蜀,以祉假節、龍驤將軍、益州刺史,出劍閣而還。又以本將軍為秦梁二州刺史,加征虜將軍。天性酷忍,又不清潔。坐掠人為奴婢,為御史中尉王顯所彈免。高肇南征,祉復被起為光祿大夫、假平南將軍,持節領步騎三萬先驅趣涪。未至,世宗崩,班師。夜中引軍,山有二徑,軍人迷而失路。祉便斬隊副楊明達,梟首路側。為中尉元昭所劾,會赦免。後加平北將軍,未拜而卒。贈安東將軍、兗州刺史。

太常少卿の元端と博士の劉臺龍が諡を議して言うには、「祉は志に埋輪を存し、強禦を避けず。及びて戎律を賛し、熊武斯く裁き、節を仗して藩を撫し、辺夷徳を識し、化殊類に沾い、襁負仁を懐く。謹んで諡法に依るに、徳を行い剛を布くを『景』と曰う。宜しく景と諡すべし」。侍中の侯剛と給事黄門侍郎の元纂らが駁して言うには、「臣聞く、名と器のみは、妄りに仮すべからず、諡を定めるに行いを準え、必ず其の跡に当つべし。案ずるに祉の志性は急酷にして、所在に威を過ごし、徳を布くこと罕に聞こえ、暴声屡発す。然るに礼官虚述し、之を『景』と諡す。直ちに一人を失うのみならず、実に朝則を毀つ。請う、還して外に付し準行せしめ、更に虚実を量らしむべし」。霊太后令して曰く、「駁に依り更に議せよ」。元端と臺龍上言して曰く、「窃かに惟うに、諡は行いの跡、状は跡の称なり。然れども尚書は銓衡を司どり、庶物を釐品す。若し状と跡乖けば、応に抑えて受けず、其の実状を録し、然る後に寺に下し、諡法に依り状を準えて科上すべし。豈に行跡を捨て、外に求め、状を去り称を去りて、将に何をか準えん。祉を検するに、母老を以て藩を辞す。乃ち手詔を降して云う、『卿綏撫年有り、声実兼ね著わり、辺を安んじ境を寧んずるは、実に朝望に称えり』。及び其の歿するや、又た顕贈を加え、祉誠累朝に著わり、効内外に彰る、岷区に牧を作し、萌を字むの績驟に聞こゆ、と。詔冊褒美し、倫望に替えず。然れども君子人を使うに器の義あり、徳に備を求めず。数徳有り優劣同じからず、剛にして能く克つも、亦た徳と為す。謹んで諡法に依るに、徳を行い剛を布くを『景』と曰う。前議を允と謂う」。司徒右長史の張烈と主簿の李瑒が刺して称す、「案ずるに祉は累朝に歴宦し、官に当るの称有り。西南を委捍し、辺隅靖遏す。行いを準えて名を易え、奬誡の攸在り。窃かに謂う、体例を虧かさずと」。尚書の李韶又た奏を述べて府寺を允と為す。霊太后其の奏を可す。

原文太常少卿元端、博士劉臺龍議諡曰:「祉志存埋輪,不避強禦。及贊戎律,熊武斯裁,仗節撫藩,邊夷識德,化沾殊類,襁負懷仁。謹依諡法,布德行剛曰『景』,宜諡為景。」侍中侯剛、給事黃門侍郎元纂等駁曰:「臣聞惟名與器,弗可妄假,定諡準行,必當其迹。案祉志性急酷,所在過威,布德罕聞,暴聲屢發。而禮官虛述,諡之為『景』,非直失於一人,實毀朝則。請還付外準行,更量虛實。」靈太后令曰:「依駁更議。」元端、臺龍上言:「竊惟諡者行之迹,狀者迹之稱。然尚書銓衡是司,釐品庶物,若狀與跡乖,應抑而不受,錄其實狀,然後下寺,依諡法準狀科上。豈有捨其行迹,外有所求,去狀去稱,將何所準?檢祉以母老辭藩,乃降手詔云:『卿綏撫有年,聲實兼著,安邊寧境,實稱朝望。』及其歿也,又加顯贈,言祉誠著累朝,效彰內外,作牧岷區,字萌之績驟聞。詔冊褒美,無替倫望。然君子使人器之義,無求備德。有數德優劣不同,剛而能克,亦為德焉。謹依諡法,布德行剛曰『景』,謂前議為允。」司徒右長史張烈、主簿李瑒刺稱:「案祉歷宦累朝,當官之稱。委捍西南,邊隅靖遏。準行易名,奬誡攸在。竊謂無虧體例。」尚書李韶又述奏以府寺為允,靈太后可其奏。

祉は官に当るより、強禦を憚らず、朝廷以て剛断と為し、時に検覆有れば、毎に使いに出ださしむ。名利を好慕し、頗る深文を為し、経る所の処、人号して天狗下と曰う。及び出で将として州に臨むも、並びに恩潤無く、兵民其の厳虐を患う。

原文祉自當官,不憚強禦,朝廷以為剛斷,時有檢覆,每令出使。好慕名利,頗為深文,所經之處,人號天狗下。及出將臨州,並無恩潤,兵民患其嚴虐焉。

崔暹

原文崔暹

崔暹、字は元欽、本は云う、清河東武城の人なり。家を滎陽・潁川の間に世す。性猛酷にして、少しく仁恕無く、姦猾利を好み、能く勢家に事う。初め秀才を以て累遷して南兗州刺史と為り、官瓦を盗用し、贓污狼藉し、御史中尉の李平に糾せられ、官を免ぜらる。後に豫州の事を行い、尋いで即真す。子を遣わして戸を析ち、三県に分隸し、田宅を広く占め、官奴を蔵匿し、陂葦を障吝し、公私を侵盗するに坐し、御史中尉の王顕に弾せられ、官を免ぜらる。後に累遷して平北将軍・瀛州刺史と為る。貪暴安忍、民庶之を患う。嘗て州北に出でて猟し、単騎にて民村に至る。井に汲水の婦人有り、暹馬に飲ましめ、因りて問いて曰く、「崔瀛州は何如」。婦人其の暹たるを知らず、答えて曰く、「百姓何の罪か有りて、かくの如き癩児刺史を得ん!」暹黙然として去る。職に称せざるを以て解かれて還京す。武川鎮反す。詔して暹を都督と為し、大都督の李崇に隷して之を討たしむ。崇の節度に違い、賊に敗れ、単騎潜かに還る。廷尉に禁ず。女妓園田を以て元叉に貨し、免るることを獲。建義初め河陰に遇害す。司徒公・冀州刺史を贈り、武津県公を追封す。

原文崔暹,字元欽,本云清河東武城人也。世家于滎陽、潁川之間。性猛酷,少仁恕,姦猾好利,能事勢家。初以秀才累遷南兗州刺史,盜用官瓦,贓污狼藉,為御史中尉李平所糾,免官。後行豫州事,尋即真。坐遣子析戶,分隸三縣,廣占田宅,藏匿官奴,障吝陂葦,侵盜公私,為御史中尉王顯所彈,免官。後累遷平北將軍、瀛州刺史。貪暴安忍,民庶患之。嘗出獵州北,單騎至於民村。井有汲水婦人,暹令飲馬,因問曰:「崔瀛州何如?」婦人不知其暹也,答曰:「百姓何罪,得如此癩兒刺史!」暹默然而去。以不稱職被解還京。武川鎮反,詔暹為都督,隸大都督李崇討之。違崇節度,為賊所敗,單騎潛還。禁於廷尉。以女妓園田貨元叉,獲免。建義初遇害於河陰。贈司徒公、冀州刺史,追封武津縣公。

子の瓚、字は紹珍。位は尚書左丞を兼ね、卒す。瓚の妻は、荘帝の妹なり、後に襄城長公主を封ぜられ、故に特ちて瓚に冀州刺史を贈る。子の茂、字は祖昂、祖の爵を襲ぐ。

原文子瓚,字紹珍。位兼尚書左丞,卒。瓚妻,莊帝妹也,後封襄城長公主,故特贈瓚冀州刺史。子茂,字祖昂,襲祖爵。

酈道元

原文酈道元

酈道元、字は善長、范陽の人なり。青州刺史の範の子。太和中、尚書主客郎と為る。御史中尉の李彪、道元の法を秉し清勤なるを以て、引きて治書侍御史と為す。累遷して輔国将軍・東荊州刺史と為る。威猛を以て治と為し、蛮民闕に詣でて其の刻峻を訟え、坐して官を免ぜらる。久しくして河南尹を行い、尋いで即真す。粛宗、沃野・懐朔・薄骨律・武川・撫冥・柔玄・懐荒・禦夷諸鎮を並びに州に改め、其の郡県戍の名は古城邑に準ぜしめんと令す。詔して道元に節を持し黄門侍郎を兼ねしめ、都督の李崇と籌宜し置立し、去留を裁減し、兵を儲え粟を積み、以て辺備と為さしむ。未だ幾ばくもあらずして、安南将軍・御史中尉を除く。

原文酈道元,字善長,范陽人也。青州刺史範之子。太和中,為尚書主客郎。御史中尉李彪以道元秉法清勤,引為治書侍御史。累遷輔國將軍、東荊州刺史。威猛為治,蠻民詣闕訟其刻峻,坐免官。久之,行河南尹,尋即真。肅宗以沃野、懷朔、薄骨律、武川、撫冥、柔玄、懷荒、禦夷諸鎮並改為州,其郡縣戍名令準古城邑。詔道元持節兼黃門侍郎,與都督李崇籌宜置立,裁減去留,儲兵積粟,以為邊備。未幾,除安南將軍、御史中尉。

道元素より厳猛の称有り。司州牧・汝南王の悦、左右の丘念を嬖近し、常に臥起を共にす。及び州官を選ぶや、多く念に由る。念は悦の第に匿れ、時に其の家に還る。道元念を収めて獄に付す。悦、霊太后に啓して之を全んぜんことを請い、赦を敕す。道元遂に其の命を尽くし、因りて以て悦を劾す。是の時、雍州刺史の蕭宝夤反状稍く露わる。悦等朝廷に諷して遣わし関右大使と為さしめ、遂に宝夤に害せられ、陰盤の驛亭に死す。

原文道元素有嚴猛之稱。司州牧、汝南王悅嬖近左右丘念,常與臥起。及選州官,多由於念。念匿於悅第,時還其家,道元收念付獄。悅啟靈太后請全之,敕赦之。道元遂盡其命,因以劾悅。是時雍州刺史蕭寶夤反狀稍露,悅等諷朝廷遣為關右大使,遂為寶夤所害,死於陰盤驛亭。

道元好学にして、奇書を歴覧す。水経四十巻を撰注し、本志十三篇を為し、又た七聘及び諸文を為し、皆世に行わる。然れども兄弟篤穆すること能わず、又多に嫌忌有り、時論之を薄しむ。

原文道元好學,歷覽奇書。撰注水經四十卷、本志十三篇,又為七聘及諸文,皆行於世。然兄弟不能篤穆,又多嫌忌,時論薄之。

谷楷

原文谷楷

谷楷、昌黎の人、濮陽公の渾の曾孫。稍く遷りて奉車都尉と為る。時に沙門の法慶冀州に反す。大軍討ち破るといえども、妖帥未だ梟除せず。詔して楷を冀州に詣で追捕せしめ、皆之を擒獲す。楷は一目眇めども性甚だ厳忍にして、前後使を奉ずる皆酷暴を以て名と為す。時人号して「瞎虎」と曰う。尋いで城門校尉と為り、卒す。

原文谷楷,昌黎人,濮陽公渾曾孫。稍遷奉車都尉。時沙門法慶反於冀州,雖大軍討破,而妖帥尚未梟除。詔楷詣冀州追捕,皆擒獲之。楷眇一目而性甚嚴忍,前後奉使皆以酷暴為名。時人號曰「瞎虎」。尋為城門校尉,卒。