魏書

卷88 良吏:張恂 鹿生 張應 宋世景 路邕 閻慶胤 明亮

卷88 良吏:張恂 鹿生 張應 宋世景 路邕 閻慶胤 明亮

【序】

原文【序】

侯を廃し守を置くこと、年歴久しく、方牧をもって統べ、なお世々相循り、以て寛猛を用い、民を庇ひ俗を調ふ。但だ廉平なる常の跡は、声問高く難く、時に適ひ務に応ずれば、響きを招くこと必ず速し。是の故に摶撃して侯と為るは、起つこと踵を旋らず、儒弱にして咎を貽すは、録用する時無し。此れ則ち已に前世に然るなり。後の吏と為る者、世と浮沈し、季叔澆漓にして、姦巧緒多し、以て蒲・密無為の化は、其の人を見ること難し。魏初に中州を拓き、疆域を兼并し、河南・関右、遺黎未だ純ならず、節を擁し符を分つこと、多く豊沛より出づ。政術治風、未だ咸く允ならず、大戮を貽すを動かすと雖も、貪虐未だ悛まず、亦た網漏れて舟を吞むに由り、時に一目を掛く。高祖綱紀を粛明し、賞罰必ず行はれ、旧軌を肇革し、時に法を奉ずること多し。世宗優遊として治め、寛政遂に往き、太和の風、頗る以て陵替す。肅宗運を馭し、天下淆然たり、其の風を移し俗を革すの美、虎を浮かべ珠を還すの政に於ては、九州百郡、聞く所無し。且つ其の時に称せらるる者を書き、以て良吏を著はさんと云ふのみ。

原文罷侯置守,歷年永久,統以方牧,仍世相循,所以寬猛為用,庇民調俗。但廉平常迹,聲問難高;適時應務,招響必速。是故摶擊為侯,起不旋踵;儒弱貽咎,錄用無時。此則已然於前世矣。後之為吏,與世沉浮,季叔澆漓,姦巧多緒,所以蒲、密無為之化,難見其人。有魏初拓中州,兼并疆域,河南、關右,遺黎未純,擁節分符,多出豐沛。政術治風,未能咸允,雖動貽大戮,而貪虐未悛,亦由網漏吞舟,時挂一目。高祖肅明綱紀,賞罰必行,肇革舊軌,時多奉法。世宗優遊而治,寬政遂往,太和之風,頗以陵替。肅宗馭運,天下淆然,其於移風革俗之美,浮虎還珠之政,九州百郡,無所聞焉。且書其為時所稱者,以著良吏云爾。

張恂

原文張恂

張恂、字は洪讓、上谷沮陽の人なり。兄袞に従ひ国に帰り、代王の軍事に参ず。恂、太祖に言ひて曰く、「金運御を失ひ、劉石紛紜し、慕容山東に号を窃み、苻姚秦隴に器を盗み、遂に三霊響き乏しく、九域君を曠くす。大王玄朔に基を樹て、重明積聖、北より南にし、化燕趙に被る。今中土の遺民、雲を望み潤ひを冀ふ。宜しく斯の会に因り、以て大業を建つべし」と。太祖深く器異し、厚く礼を加ふ。皇始初、中書侍郎に拝し、幃幄の密謀、頗る参議に預る。将軍奚牧に従ひ晋川の地を略し、鎮遠将軍に拝し、爵を平臯子と賜ふ。出でて広平太守と為る。恂離散を招集し、農桑を勧課し、民之に帰する者千戸。常山太守に遷る。恂学校を開建し、儒士を優顕す。吏民歌詠す。時に喪乱の後、克く厲むこと罕にして、惟だ恂官に当り清白、仁恕を以て下に臨み、百姓之を親愛し、其の治め当時第一と為る。太祖聞きて嘉歎す。太宗即位し、帛三百匹を賜ひ、徴して太中大夫に拝す。神瑞三年卒す、年六十九。恂性清儉、産業を営まず、身死するの日、家に余財無し。太宗悼惜し、征虜将軍・并州刺史・平臯侯を贈り、諡して宣と曰ふ。

原文張恂,字洪讓,上谷沮陽人也。隨兄袞歸國,參代王軍事。恂言於太祖曰:「金運失御,劉石紛紜,慕容竊號山東,苻姚盜器秦隴,遂使三靈乏響,九域曠君。大王樹基玄朔,重明積聖,自北而南,化被燕趙。今中土遺民,望雲冀潤。宜因斯會,以建大業。」太祖深器異,厚加禮焉。皇始初,拜中書侍郎,幃幄密謀,頗預參議。從將軍奚牧略地晉川,拜鎮遠將軍,賜爵平臯子。出為廣平太守。恂招集離散,勸課農桑,民歸之者千戶。遷常山太守。恂開建學校,優顯儒士。吏民歌詠之。於時喪亂之後,罕能克厲,惟恂當官清白,仁恕臨下,百姓親愛之,其治為當時第一。太祖聞而嘉歎。太宗即位,賜帛三百匹,徵拜太中大夫。神瑞三年卒,年六十九。恂性清儉,不營產業,身死之日,家無餘財。太宗悼惜之,贈征虜將軍、并州刺史、平臯侯,諡曰宣。

子純、字は道尚、爵を襲ぐ。鎮遠将軍・平臯子。事に坐し爵除かる。

原文子純,字道尚,襲爵。鎮遠將軍、平臯子。坐事爵除。

純の弟代、字は定燕。陳留・北平二郡太守。卒し、冠軍将軍・営州刺史を贈られ、諡して恵侯と曰ふ。代歴官する所清称著しく、父の遺風有り。

原文純弟代,字定燕。陳留、北平二郡太守。卒,贈冠軍將軍、營州刺史,諡曰惠侯。代所歷著清稱,有父之遺風。

代の子長年、中書博士。出でて寧遠将軍・汝南太守と為る。郡民劉崇之兄弟分析し、家貧しく惟だ一牛有り、之を争ひ決せず、郡庭に訟ふ。長年之を見て、悽然として曰く、「汝曹一牛を以ての故に、此の競を致す、脱し二牛有らば、各応に一を得べく、豈に訟ふる理有らんや」と。即ち家の牛一頭を以て之に賜ふ。是に於て郡境の中各相誡約し、咸く敬譲を敦くす。太和初、家に卒す。

原文代子長年,中書博士。出為寧遠將軍、汝南太守。有郡民劉崇之兄弟分析,家貧惟有一牛,爭之不決,訟於郡庭。長年見之,悽然曰:「汝曹當以一牛,故致此競,脫有二牛,各應得一,豈有訟理。」即以家牛一頭賜之。於是郡境之中各相誡約,咸敦敬讓。太和初,卒於家。

子琛、字は寶貴、少くして孝行有り。武騎常侍・羽林監・太子翊軍校尉を歴任す。卒す。

原文子琛,字寶貴,少有孝行。歷武騎常侍、羽林監、太子翊軍校尉。卒。

鹿生

原文鹿生

鹿生、済陰乗氏の人。父寿興、沮渠牧犍の庫部郎。生再び済南太守と為り、治称有り。顕祖其の能を嘉し、特ち季秋の馬射に徴して赴かしめ、驄馬を賜ひ、青服を加へ、其の廉潔を彰す。前後在任十年。時に三齊始めて附き、人苟且を懐き、蒲博終朝し、頗る農業を廃す。生制を立てて之を断つ、聞く者善しと嗟く。後徐州任城王澄・広陵侯元衍の征東・安南二府長史を歴任し、淮陽太守・郯城鎮将を帯ぶ。年七十四、正始中卒す。龍驤将軍・兗州刺史を追贈す。

原文鹿生,濟陰乘氏人。父壽興,沮渠牧犍庫部郎。生再為濟南太守,有治稱。顯祖嘉其能,特徵赴季秋馬射,賜以驄馬,加以青服,彰其廉潔。前後在任十年。時三齊始附,人懷苟且,蒲博終朝,頗廢農業。生立制斷之,聞者嗟善。後歷徐州任城王澄、廣陵侯元衍征東、安南二府長史,帶淮陽太守、郯城鎮將。年七十四,正始中卒。追贈龍驤將軍、兗州刺史。

張応

原文張應

張応、何れの許の人なるかを知らず。延興中、魯郡太守と為る。応履行貞素、声績著聞す。妻子樵採を以て自ら供す。高祖深く其の能を嘉し、京兆太守に遷す。所在清白、吏民の忻心を得たり。

原文張應,不知何許人。延興中,為魯郡太守。應履行貞素,聲績著聞。妻子樵采以自供。高祖深嘉其能,遷京兆太守。所在清白,得吏民之忻心焉。

宋世景

原文宋世景

宋世景、広平の人、河南尹翻の第三弟なり。少くより自ら修立し、親に事ふるに孝を以て聞こゆ。弟道璵と帷を下ろし誦読し、羣言を博覧し、尤も経義に精し。族兄弁甚だ之を重んず。秀才に挙げられ、策に対し上第、国子助教に拝し、彭城王勰の開府法曹行参軍に遷る。勰其の才学を愛し、雅く相器敬す。高祖亦之を嘉す。司徒法曹行参軍に遷る。

原文宋世景,廣平人,河南尹翻之第三弟也。少自修立,事親以孝聞。與弟道璵下帷誦讀,博覽羣言,尤精經義。族兄弁甚重之。舉秀才,對策上第,拜國子助教,遷彭城王勰開府法曹行參軍。勰愛其才學,雅相器敬。高祖亦嘉之。遷司徒法曹行參軍。

宋世景は刑罰の道理を明らかにし、律令を制定し、疑わしい訴訟を裁決し、判決を流れるように下した。尚書祠部郎に転任した。彭城王元勰はしばしば彼を称えて言った、「宋世景は識見が精鋭であり、尚書僕射の才である」と。尚書省の疑わしい事案は、右僕射高肇が常に彼に委ねた。世景は政務を執る才能に長けている上に、早くから勤勉で怠らず、数曹を兼務し、称賛に値する業績を大いに挙げた。しばしば左僕射源懐に引き立てられて行臺郎となった。州鎮十余箇所を巡察し、官吏の罷免・昇進・賞罰はすべて適切であった。七つの鎮を移転させ、別に諸戍を設置し、亭候を明らかに設けて、北虜に備えた。源懐は大いに彼を重用して委任した。帰還して世宗に推薦して言った、「宋世景の文武の才略は、当今匹敵する者が少なく、清廉公平で忠直な点も、比べる者が少ない。陛下もし機要の任に用いられれば、終に李沖に劣ることはないでしょう」と。世宗は言った、「朕も聞いている」と。尚書令広陽王元嘉、右僕射高肇、吏部尚書中山王元英が共に世景を国子博士に推薦し、まもなく尚書右丞に推薦した。王顕は宋弁と不和があり、世宗に彼を誹謗したので、事は取り止められ返答がなかった。

原文世景明刑理,著律令,裁決疑獄,剖判如流。轉尚書祠部郎。彭城王勰每稱之曰:「宋世景精識,尚書僕射才也。」臺中疑事,右僕射高肇常以委之。世景既才長從政,加之夙勤不怠,兼領數曹,深著稱績。頻為左僕射源懷引為行臺郎。巡察州鎮十有餘所,黜陟賞罰莫不咸允。遷徙七鎮,別置諸戍,明設亭候,以備北虜。懷大相委重。還而薦之於世宗曰:「宋世景文武才略,當今寡儔,清平忠直,亦少其比。陛下若任之以機要,終不減李沖也。」世宗曰:「朕亦聞之。」尚書令、廣陽王嘉,右僕射高肇,吏部尚書、中山王英共薦世景為國子博士,尋薦為尚書右丞。王顯與宋弁有隙,毀之於世宗,故事寢不報。

まもなく伏波将軍を加えられ、滎陽太守を代行した。鄭氏は豪族で横暴であり、治め難いと称されていた。済州刺史鄭尚の弟の遠慶は先に苑陵県令となり、多くの賄賂を受け取り、百姓はこれを苦しんでいた。世景が着任すると、彼を召し出して言った、「卿とは親しい間柄であるから、便宜を図るべきであろう。私が着任する前のことは一切問わないが、今日以後は、決して見逃さない」と。しかし遠慶は相変わらず勝手に振る舞った。世景は法によって彼を糾弾したので、遠慶は恐れて官を棄てて逃亡した。これにより官僚たちは威を畏れ、改めて謹厳とならぬ者はなかった。終日、役所の政務室に坐り、寝る暇もなかった。県の役人、三正および諸々の細民に至るまで、来ればすぐに面会し、朝晩の区別はなかった。来訪者は皆その心中を尽くして語り、世景は恩情ある顔色で接し、人を退けて密談した。民間の事柄は、大小必ず知り、悪事を暴き隠れた罪を摘発することは、神の如くであった。かつて一人の吏が休暇を終えて郡に戻る際、人の鶏と豚を食べた。また一人の幹が人の帽子一頂を受け取り、さらに鶏二羽を食べた。世景は彼らを叱責して言った、「汝らはどうして甲乙の鶏豚を食べ、丙丁の帽子を取ったのか!」と。吏と幹は頭を叩いて罪を認めた。これにより上下震え恐れ、敢えて禁令を犯す者はなかった。弟の道璵の事件に連座して除名された。

原文尋加伏波將軍,行滎陽太守。鄭氏豪橫,號為難治。濟州刺史鄭尚弟遠慶先為苑陵令,多所受納,百姓患之。世景下車,召而謂之曰:「與卿親,宜假借。吾未至之前,一不相問,今日之後,終不相捨。」而遠慶行意自若。世景繩之以法,遠慶懼,棄官亡走。於是僚屬畏威,莫不改肅。終日坐於廳事,未嘗寢息。縣史、三正及諸細民,至即見之,無早晚之節。來者無不盡其情抱,皆假之恩顏,屏人密語。民間之事,巨細必知,發姦摘伏,有若神明。嘗有一吏,休滿還郡,食人鷄[單斤];又有一幹,受人一帽,又食二鷄。世景叱之曰,汝何敢食甲乙鷄[單斤],取丙丁之帽!吏幹叩頭伏罪。於是上下震悚,莫敢犯禁。坐弟道璵事除名。

世景の兄弟愛の情は、人並み外れて厚く、道璵が死ぬと、哀切に泣き、その悲しみは道行く人をも感動させ、容貌は憔悴し衰え、見る者は皆嘆き哀れんだ。一年余り後、母が喪に服し、遂に哀しみに耐えられずに亡くなった。世景はかつて晋書を撰述したが、遂に完成させることができなかった。

原文世景友于之性,過絕於人,及道璵死,哭之哀切,酸感行路,形容毀悴,見者莫不歎愍。歲餘,母喪,遂不勝哀而卒。世景嘗撰晉書,竟未得就。

子の季儒は遺腹子として生まれた。弱冠にして、太守崔楷が功曹に辟召し、初官は太学博士・明威将軍となった。かつて譙宋の地に行き、嵇康を弔う文を作ったが、非常に道理と情趣があった。後に夜寝ている時、家屋が崩壊して押し潰され、二十五歳で亡くなった。当時の人々は皆、傷み惜しんだ。

原文子季儒,遺腹生。弱冠,太守崔楷辟為功曹,起家太學博士、明威將軍。曾至譙宋之間,為文弔嵇康,甚有理致。後夜寢,室壞壓殞,年二十五,時人咸傷惜之。

路邕

原文路邕

路邕は、陽平郡清淵県の人である。世宗の時、功労を積み重ね、斉州東魏郡太守に任じられ、善政を施した。霊太后は詔して言った、「路邕は政務に清廉勤勉で、よく民俗を安んじる。近年凶作が続き、郡内は飢饉に陥り、民衆は嗷嗷として、溝壑に転落せんとしていたが、路邕は自ら家の粟を出して、貧窮した者を救済し賜い、民はこれによって救われた。古の良き太守と雖も、どうしてこれに勝ろうか。恩恵を与えるべきであり、奨励の模範として後世に伝えるべきである。龍厩の馬一匹、衣一襲、被褥一具を賜うことを許す。州鎮に布告し、皆に知らしめよ」と。路邕は民を善く治めたことで、次第に昇進して南青州刺史となり、そこで亡くなった。

原文路邕,陽平清淵人。世宗時,積功勞,除齊州東魏郡太守,有惠政。靈太后詔曰:「邕莅政清勤,善綏民俗。比經年儉,郡內饑饉,羣庶嗷嗷,將就溝壑,而邕自出家粟,賑賜貧窘,民以獲濟。雖古之良守,何以尚茲。宜見霑錫,以垂奬勸。可賜龍厩馬一匹、衣一襲、被褥一具。班宣州鎮,咸使聞知。」邕以善治民,稍遷至南青州刺史而卒。

閻慶胤

原文閻慶胤

閻慶胤は、どこの人か知られていない。東秦州敷城太守となった。在任五年、清廉勤勉で風俗を励ました。連年の飢饉に際し、慶胤は毎年常に家の粟千石を以て貧窮者を救済し、民はこれによって救われた。その管轄下の民である楊宝龍ら一千余人が、その善政を訴え出た。有司が上奏して言った、「慶胤がこの郡に着任して以来、恵み深い政治で知られ、また自らの粟を以て飢饉を救済し、まさに民を子のように愛する義がある。もし少しも優れた褒賞を加えなければ、あの貪婪残酷な者たちを戒めることができない。また、斉州東魏郡太守路邕は、郡を治める能力において彼と匹敵し、その救済の点でもまた異ならないが、聖旨は優遇して衣と馬を賜っている。実情を考え道理を求めれば、同じく賞すべきであると言えよう」と。霊太后は結局褒賞を与えなかった。

原文閻慶胤,不知何許人。為東秦州敷城太守。在政五年,清勤厲俗。頻年饑饉,慶胤歲常以家粟千石賑恤貧窮,民賴以濟。其部民楊寶龍等一千餘人,申訟美政。有司奏曰:「案慶胤自莅此郡,惠政有聞,又能自以己粟贍恤饑饉,乃有子愛百姓之義。如不少加優賚,無以厲彼貪殘。又案齊州東魏郡太守路邕,在郡治能與之相埒,語其分贍又亦不殊,而聖旨優隆賜以衣馬,求情即理,謂合同賞。」靈太后卒無褒賞焉。

明亮

原文明亮

明亮は、字を文德といい、平原郡の人である。性格は方正で篤実、識見と実務能力があった。給事中から員外常侍を歴任した。延昌年間、世宗が朝堂に臨み、自ら官吏の罷免・昇進を行い、亮に勇武将軍を授けた。亮は進み出て言った、「臣の本来の官は常侍であり、これは第三の清官である。今、臣に勇武将軍を授けられるが、その称号は極めて濁官である。しかも文武はまた異なる。どうか改めて授けてください」と。世宗は言った、「今は功労に応じて賞を行い、清濁は論じない。卿はどうしてまた清濁を口実にするのか」と。亮は言った、「聖明なる天子が上におられるので、清濁は分かれるのです。臣は聖明に属しておりますので、敢えて申し上げるのです」と。世宗は言った、「九流の内にあって、人は皆君子である。文武の称号は異なれども、政治を補佐する点では同じである。卿はどうして独り衆に背き、妄りに清濁を分けようとするのか。請うところは認められない。ただ前の通り授ける」と。亮は言った、「今、江左は未だ帰順せず、文字と軌道を統一すべき時です。まさに陛下のために命を授かり前駆となり、呉会を平定拓定しようとしています。官爵は陛下の軽んじられるところ、卑しい命は微臣の重んじるところです。陛下がまさに重んじられるものを収めようとされるのに、どうして軽んじられるものを惜しまれましょうか」と。世宗は笑って言った、「卿は朕のために江表を平定拓定し、蕭衍を討ち平らげようというのか。討ち平らげ平定拓定することは、勇武なくしてはできない。今授けるところは、卿の言葉に副うものである。勇と武を辞退するのは、自ら矛盾している」と。亮は言った、「臣は仰いで聖なる御計画を承り、計略を巡らして平定したいと思います。どうして勇武を借りて、初めて成功する必要がありましょうか」と。世宗は言った、「謀略と勇武の二つは、本来互いに必要とするものである。もし勇があって謀がなければ、勇は独りで挙げられない。もし謀があって勇がなければ、謀は独りで行えない。必ず両者を兼ね備えて、初めて勝利を制することができる。どうして偏って謀略のみ必要とし、再び勇を借りないと言えようか」と。亮は言った、「平遠将軍に改めて授けてください」と。世宗は言った、「謀略を用い武力を用いて、その後遠方の人々が初めて平定される。卿はただ武力を用いてこれを平定せよ。どうして平遠を得られないことを憂えようか」と。亮はようやく陳謝して退いた。

原文明亮,字文德,平原人。性方厚,有識幹。自給事中歷員外常侍。延昌中,世宗臨朝堂,親自黜陟,授亮勇武將軍。亮進曰:「臣本官常侍,是第三清。今授臣勇武,其號至濁。且文武又殊,請更改授。」世宗曰:「今依勞行賞,不論清濁,卿何得乃復以清濁為辭!」亮曰:「聖明在上,清濁故分。臣既屬聖明,是以敢啟。」世宗曰:「九流之內,人咸君子,雖文武號殊,佐治一也。卿何得獨欲乖眾,妄相清濁。所請未可,但依前授。」亮曰:「今江左未賓,書軌宜一。方為陛下授命前驅,拓定吳會。官爵陛下之所輕,賤命微臣之所重,陛下方收所重,何惜所輕。」世宗笑曰:「卿欲為朕拓定江表,揃平蕭衍,揃平拓定,非勇武莫可。今之所授,是副卿言。辭勇及武,自相矛盾。」亮曰:「臣欲仰禀聖規,運籌而定,何假勇武,方乃成功。」世宗曰:「謀勇二事,體本相須。若勇而無謀,則勇不獨舉;若謀而無勇,則謀不孤行。必須兼兩,乃能制勝,何得云偏須運籌而不復假勇乎?」亮曰:「請改授平遠將軍。」世宗曰:「運籌用武,然後遠人始平,卿但用武平之,何患不得平遠也。」亮乃陳謝而退。

後に陽平太守に任じられ、清廉で民を愛し、非常に恵み深い政治を行い、名声と業績の美しさは、当時に顕著であった。朝廷はその教化を嘉した。汲郡太守に転じ、治績は前の通りであり、誉れは遠近に宣べ伝えられた。二郡の民と吏は、今に至るまで彼を追慕している。孝昌初年に亡くなり、左将軍・南青州刺史を追贈された。

原文後除陽平太守,清白愛民,甚有惠政,聲績之美,顯著當時。朝廷嘉其風化。轉汲郡太守,為治如前,譽宣遠近。二郡民吏,迄今追思之。卒孝昌初,贈左將軍、南青州刺史。

初め、亮が陽平にいた時、相州刺史中山王元熙が兵を起こして元叉を討とうとした事件に遭遇した。当時、并州刺史城陽王元徽も使者を亮のもとに遣わし、密かに元熙と謀議を同じくした。元熙が敗れると、亮はその使者の言葉を偽って報告したため、これによって元徽の音信は罪を免れることができた。二年、詔して以前の功績を追認し、重ねて平東将軍・済州刺史を追贈し、その子の希遠を奉朝請に任じた。

原文初,亮之在陽平,屬相州刺史、中山王熙起兵討元叉。時并州刺史城陽王徽亦遣使詣亮,密同熙謀。熙敗,亮詭其使辭,由是徽音獲免。二年,詔追前效,重贈平東將軍、濟州刺史,拜其子希遠奉朝請。

亮の従弟の遠は、儀同開府従事中郎であった。

原文亮從弟遠,儀同開府從事中郎。

杜纂

原文杜纂

杜纂は、字を栄孫といい、常山国九門県の人である。若くして清貧苦節をもって自立した。当時、県令の斉羅が死亡したが、親族がなく収葬する者がいなかったので、纂は私財を以て葬儀を行い埋葬した。これにより郡県はその門に表彰を掲げた。後に父の喪に服する際、礼を尽くした。郡が孝廉に推挙し、豫州司士に補された。

原文杜纂,字榮孫,常山九門人也。少以清苦自立。時縣令齊羅喪亡,無親屬收瘞,纂以私財殯葬。由是郡縣標其門閭。後居父喪盡禮。郡舉孝廉,補豫州司士。

やがて積弩将軍に任ぜられる。兵を率いて淮水に赴き、降伏した民の楊箱らを迎える。楚鎮を修築し、山岳の蛮族李天保ら五百戸を招き入れる。新野征討に従軍し、騎都尉に任ぜられる。また寿春の行幸に従い、淮水沿いを巡って慰労するよう命ぜられる。豫州刺史田益宗が戸口を率いて帰順すると、広陵に派遣され新たに帰順した者を慰撫し、田地と食糧を支給する。新野征討に従い、南陽平定の功により井陘男の爵位を賜り、帛五百匹を賞与される。数日のうちに、知己や友人に分け与える。当時の人々はこれを称賛した。また赭陽・武陰の二郡に赴き、公田の耕作を監督し、軍費に充てる。南秦州武都太守に任ぜられる。正始年間、漢陽太守に転じ、いずれも清廉潔白で名を知られる。また都督楊椿らに従って南秦の軍前に赴き、反逆した氐族を招き慰撫する。帰還し、虎賁中郎将に任ぜられ、太倉令を兼ねる。母の喪に服し職を去る。しばらくして伏波将軍に任ぜられ、再び太倉令となる。まもなく寧遠将軍・陰陵戍主に任ぜられる。延昌年間、都が凶作となると、京倉を監督して民に食糧を賑給するよう命ぜられる。粛宗の初め、征虜将軍・清河内史に任ぜられる。質素倹約を旨とし、特に貧しい老人を愛し、民の疾苦を問うては涙を流した。農桑を奨励監督し、自ら視察し、勤勉な者には物や帛を賞与し、怠惰な者には罪を加えて譴責した。死者を弔い生者を問い、恩情と規律に富んだ。帰還し、本官の将軍のまま東益州刺史に任ぜられる。辺境を防衛する威略に欠け、諸氐が反乱を起こす。民心を失ったとして召還される。太府少卿に転じ、平陽太守・後将軍・太中大夫に任ぜられる。

原文稍除積弩將軍。領眾詣淮,迎降民楊箱等。修立楚鎮,超納山蠻李天保等五百戶。從征新野,除騎都尉。又從駕壽春,敕纂緣淮慰勞。豫州刺史田益宗率戶歸國,使纂詣廣陵安慰初附,賑給田廩。從征新野,及南陽平,以功賜爵井陘男,賞帛五百匹。數日之中,散之知友。時人稱之。又詣赭陽、武陰二郡,課種公田,隨供軍費。除南秦州武都太守。正始中,遷漢陽太守,並以清白為名。又隨都督楊椿等詣南秦軍前,招慰逆氐。還,除虎賁中郎將,領太倉令。遭母憂去職。久之,除伏波將軍,復為太倉令。尋除寧遠將軍、陰陵戍主。延昌中,京師儉,敕纂監京倉賑給民廩。肅宗初,拜征虜將軍、清河內史。性儉約,尤愛貧老,至能問民疾苦,對之泣涕。勸督農桑,親自檢視,勤者賞以物帛,惰者加以罪譴。弔死問生,甚有恩紀。還,以本將軍除東益州刺史。無御邊威略,羣氐反叛。以失民和徵還。遷太府少卿,除平陽太守、後將軍、太中大夫。

正光の末、清河の人房通ら三百人が纂の徳政を称え、再び郡に臨むことを請うた。詔してこれを許す。孝昌年間、葛栄に包囲されると、纂は郡を挙げて栄に降伏する。栄は纂を信都に入れて慰撫説得させようとするが、都督李瑾は斬ろうとし、刺史元孚は纂を徳として許し帰す。出ると、また栄に水攻めを勧め、栄はついに纂を常山太守とする。郡に着任して間もなく、栄は滅びる。定州刺史薛曇尚は纂が旧臣であるとして、博陵・鉅鹿の二郡を管轄させようとするが、纂は病気を理由に辞退する。ほどなくして家で卒去する。

原文正光末,清河人房通等三百人頌纂德政,乞重臨郡。詔許之。孝昌中,為葛榮圍逼,纂以郡降榮。榮令纂入信都慰喻,都督李瑾欲斬,刺史元孚德纂,還。出,又勸榮以水灌城,榮遂以纂為常山太守。至郡未幾,榮滅。定州刺史薛曇尚以纂老舊,令護博陵、鉅鹿二郡,纂以疾辭。少時卒於家。

纂が歴任した地では、小さな恩恵を行い、粗食に粗衣で、多くは偽りや虚飾にわたるが、財を軽んじ己を清くし、終始贈り物を受け取らず、百姓に慕われ、良守と称された。永熙年間、平北将軍・殷州刺史を追贈される。天平四年、本官の将軍・定州刺史を重ねて追贈される。

原文纂所歷任,好行小惠,蔬食弊衣,多涉誣矯,而輕財潔己,終無受納,為百姓所思,號為良守。永熙中,贈平北將軍、殷州刺史。天平四年,重贈本將軍、定州刺史。

裴佗

原文裴佗

裴佗、字は元化、河東郡聞喜県の人。先祖は晋の乱を避けて涼州に移住した。苻堅が河西を平定すると、東に帰って故郷に戻り、解県に居住した。父の景は、恵州の別駕であった。

原文裴佗,字元化,河東聞喜人。其先因晉亂避地涼州。苻堅平河西,東歸桑梓,因居解縣焉。父景,惠州別駕。

佗は容貌魁偉で、堂々たる器量と声望があった。若くして春秋杜氏注・毛詩・周易を学び、その奥義を究めた。秀才に挙げられ、成績優秀で中書博士に任ぜられ、司徒参軍・司空記室・揚州任城王澄の開府倉曹参軍に転じる。内に入って尚書倉部郎中となり、河東郡の事務を代行する。在任地で称賛される実績を挙げる。帰還し、尚書考功郎中・河東邑中正に任ぜられる。世宗が朝堂に臨み、員外散騎常侍に任ぜられ、中正は元のままとする。司州治中に転じ、風聞により御史の弾劾を受けるが、まもなく赦免にあう。征虜将軍・中散大夫に転じる。趙郡太守として、統治に方策があり、威厳と恩恵が著しく、狡猾な官吏や奸悪な民もみな改心して畏服した。得た俸禄は、貧窮者を救済するために分け与えた。前将軍・東荊州刺史に転じ、郡民は慕い仰ぎ、郡境を挙げて見送り、今に至るまで追慕されている。まもなく平南将軍を加えられる。蛮族の首長田盤石・田敬宗らの部落一万余家は、勢いを頼み険阻に拠り、朝廷に従わず、前後の長官はたびたび征討したが、降伏させることができなかった。佗が州に着任すると、単身で使者を派遣して慰撫し、利害を説いて示した。敬宗らは佗の昔からの徳望を聞き、相次いで帰順した。ここにいたって全境が平穏となり、賊寇や盗賊は静まり、辺境の民はこれを慕い、幼児を背負って来る者が千余家に及んだ。まもなく撫軍将軍を加えられ、また中軍将軍に転じる。州に数年いて、病気により帰還を請う。永安二年に卒去する。遺言で追贈を請うこと、葬儀の贈り物を受け取ることを許さず、諸子は皆これに従った。

原文佗容貌魁偉,隤然有器望。少治春秋杜氏、毛詩、周易,並舉其宗致。舉秀才,以高第除中書博士,轉司徒參軍、司空記室、揚州任城王澄開府倉曹參軍。入為尚書倉部郎中,行河東郡事。所在有稱績。還,拜尚書考功郎中、河東邑中正。世宗親臨朝堂,拜員外散騎常侍,中正如故。轉司州治中,以風聞為御史所彈,尋會赦免。轉征虜將軍、中散大夫。為趙郡太守,為治有方,威惠甚著,猾吏姦民莫不改肅。所得俸祿,分恤貧窮。轉前將軍、東荊州刺史,郡民戀仰,傾境餞送,至今追思之。尋加平南將軍。蠻酋田盤石、田敬宗等部落萬餘家,恃眾阻險,不賓王命,前後牧守雖屢征討,未能降款。佗至州,單使宣慰,示以禍福。敬宗等聞佗宿德,相率歸附。於是闔境清晏,寇盜寢息,邊民懷之,襁負而至者千餘家。尋加撫軍將軍,又遷中軍將軍。在州數載,以疾乞還。永安二年卒。遺令不聽請贈,不受賻襚。諸子皆遵行之。

佗の性質は剛直で、俗人との交遊を好まず、気の合う者は必ず当時の名士であった。清廉で真実を重んじ、家産を営まず、宅地は三十歩を超えず、田園もなかった。暑い日にも傘をささず、寒い日にも皮衣を着ず、その貞節と倹約はこのようなものであった。六人の子があった。

原文佗性剛直,不好俗人交游,其投分者必當時名勝。清白任真,不事家產,宅不過三十步,又無田園。暑不張蓋,寒不衣裘,其貞儉若此。六子。

譲之、字は士礼。武定の末、中書侍郎となる。

原文讓之,字士禮。武定末,中書侍郎。

譲之の弟の諏之、字は士正、早くから才学があった。司徒記室参軍となる。天平の末、関西に入る。

原文讓之弟諏之,字士正,早有才學。司徒記室參軍。天平末,入於關西。

竇瑗、字は世珍、遼西郡遼陽県の人。自ら言うには、もと扶風郡平陵県の人で、漢の大将軍竇武の曾孫の崇が遼西太守となり、子孫はここに住み着いたという。曾祖父の堪は、慕容氏の漁陽太守であった。祖父の表は、馮文通の成周太守となり、後に国(北魏)に入った。父の冏は秀才に挙げられたが、早くに亡くなった。普泰の初め、瑗は自身の官位階級をもって父の追贈を請う上表をし、詔して征虜将軍・平州刺史を追贈された。

原文竇瑗,字世珍,遼西遼陽人。自言本扶風平陵人,漢大將軍竇武之曾孫崇為遼西太守,子孫遂家焉。曾祖堪,慕容氏漁陽太守。祖表,馮文通成周太守,入國。父冏,舉秀才,早卒。普泰初,瑗啟以身階級為父請贈,詔贈征虜將軍、平州刺史。

瑗は十七歳で、早くも書物を背負って師に従った。遊学すること十年、ようやく御史となる。奉朝請・兼太常博士に転じ、大将軍・太原王尒朱栄の官に任ぜられ、これによって栄に知られると、ついに上表して瑗を北道大行臺左丞に留任させた。軍功により陽洛男の爵位を賜り、員外散騎常侍に任ぜられる。瑗は栄の官に任ぜられた功により、新昌男の爵位を賜る。栄に従って東進し葛栄を討ち、平定後、容城県開国伯に封ぜられ、食邑五百戸を与えられる。後、征虜将軍・通直散騎常侍に任ぜられ、左丞は元のままとする。瑗は容城伯の爵位を兄の叔珍に譲ることを請い、詔して新昌男の爵位を転じて授けることを許し、叔珍はこれによって太山太守の位に至った。

原文瑗年十七,便荷帙從師。遊學十載,始為御史。轉奉朝請、兼太常博士,拜大將軍、太原王尒朱榮官,因是為榮所知,遂表留瑗為北道大行臺左丞。以軍功賜爵陽洛男,除員外散騎常侍。瑗以拜榮官,賞新昌男。因從榮東討葛榮,事平,封容城縣開國伯,食邑五百戶。後除征虜將軍、通直散騎常侍,仍左丞。瑗乞以容城伯讓兄叔珍,詔聽以新昌男轉授之,叔珍由是位至太山太守。

尒朱世隆らが長広王曄を立てて主とし、南へ洛陽に向かう。東郭の外に至ると、世隆らは瑗を遣わしてその廃位を奏上させた。瑗は鞭を執って単身で禁中に入り、奏上して言う、「天人の望みは、皆広陵(孝荘帝)にあります。どうか堯舜の譲位の故事を行われますように」。曄はついに禅譲した。これによって征南将軍・金紫光禄大夫に任ぜられる。奏上する様子は侃々としており、前廃帝は大いにこれを重んじた。出帝の時、廷尉卿となる。釈奠の講義が開かれると、瑗は散騎常侍温子昇・給事黄門侍郎魏季景・通直散騎常侍李業興とともに、摘句を担当した。天平年間、鎮東将軍・金紫光禄大夫に任ぜられる。まもなく広宗太守に任ぜられ、統治に清廉の称があった。広宗の民情は凶暴で、前後の長官はみな訴訟を起こされた。ただ瑗一人が、終始清廉潔白を全うした。中山太守に転じ、征東将軍を加えられる。名声は非常に高く、官吏や民に慕われた。斉献武王(高歓)が州郡に文書を発し、牧守や令長を戒め諭した際、瑗の政績を称え、励みとすべき模範とした。後に使持節・本官の将軍・平州刺史を授かる。州での政治は郡を治めた時と同様であった。また斉献武王丞相府右長史となる。瑗には軍府を裁断する才能がなく、あまり職に適さなかった。また晋州の事務を代行する。

原文尒朱世隆等立長廣王曄為主,南赴洛陽。至東郭外,世隆等遣瑗奏廢之。瑗執鞭獨入禁內,奏曰:「天人之望,皆在廣陵,願行堯舜之事。」曄遂禪焉。由是除征南將軍、金紫光祿大夫。敷奏侃然,前廢帝甚重之。出帝時,為廷尉卿。及釋奠開講,瑗與散騎常侍溫子昇、給事黃門侍郎魏季景、通直散騎常侍李業興,並為摘句。天平中,除鎮東將軍、金紫光祿大夫。尋除廣宗太守,治有清白之稱。廣宗民情凶戾,前後累政咸見告訟。惟瑗一人,終始全潔。轉中山太守,加征東將軍。聲譽甚美,為吏民所懷。及齊獻武王班書州郡,誡約牧守令長,稱瑗政績,以為勸厲焉。後授使持節、本將軍、平州刺史。在州政如治郡。又為齊獻武王丞相府右長史。瑗無軍府斷割之才,不甚稱職。又行晉州事。

都に戻ると、上表して言う。

原文既還京師,上表曰:

詔を尚書に付し、三公郎の封君義が判を立てて云う、「身体髪膚は、これを父母に受く、我を生みて労悴せしめ、継ぐことこれより大なるはなし。子の父母に於けるは、気を同じくして息を異にし、天を終るまで報ゆることなく、情に在りては一なり。今忽ちその尊卑を論じ、その優劣を弁ぜんと欲すれども、心を推すに未だ忍びず、古を訪うるに拠るところなし。母その父を殺せば、子また母を告ぐ、母は告ぐるによりて死す、すなわち是れ子の殺すなり。天下に母なき国あることなく、この子の将に何くにか之かんとするを知らず。春秋を案ずるに、荘公元年、即位を称せず、文姜出づる故なり。服虔の注に云う、『文姜は兄の斉襄に通じ、公を殺すに与りて反らず。父を殺し母出づ、隠痛深く諱す。期にして中練、思慕少しく殺ぎ、母に至りて念う。故に経に書す、三月夫人斉に遜る』と。既に母を念い深く諱すの文あり、明らかに讎疾して告列するの理なきなり。且つ聖人の法を設くるは、淫を防ぎ暴を禁じ、善悪を極言し、知りてこれを避けしむる所以なり。若し事に臨みて刑を議せば、則ち罪に陥ること多からん。悪の甚だしきは、父を殺し君を害す、これを律令に著し、百王革むることなし。この制何の嫌かあらん、独り削去を求むる。既に法に違うことなく、事に害あらず、宣布すること年有り、改むるに宜しからずと謂う」と。瑗また難じて云う。

原文詔付尚書,三公郎封君義立判云:「身體髮膚,受之父母,生我勞悴,續莫大焉。子於父母,同氣異息,終天靡報,在情一也。今忽欲論其尊卑,辨其優劣,推心未忍,訪古無據。母殺其父,子復告母,母由告死,便是子殺。天下未有無母之國,不知此子將欲何之!案春秋,莊公元年,不稱即位,文姜出故。服虔注云:『文姜通兄齊襄,與殺公而不反。父殺母出,隱痛深諱。期而中練,思慕少殺,念至於母。故經書:三月夫人遜於齊。』既有念母深諱之文,明無讎疾告列之理。且聖人設法,所以防淫禁暴,極言善惡,使知而避之。若臨事議刑,則陷罪多矣。惡之甚者,殺父害君,著之律令,百王罔革。此制何嫌,獨求削去。既於法無違,於事非害,宣布有年,謂不宜改。」瑗復難云:

事遂に停寝す。

原文事遂停寢。

大宗正卿を除し、尋いで衛将軍を加う。宗室その寒士なるを以て、相与にこれを軽んず。瑗法に案じて推治し、顧避することなく、甚だ讎疾せらる。官は通顕なれども、貧窘初めの如く、清尚の操、時に重んぜらる。本州大中正を領し、本官を以て廷尉卿を兼ね、官に卒す。本将軍・太僕卿・済州刺史を贈られ、諡して明と曰う。

原文除大宗正卿,尋加衞將軍。宗室以其寒士,相與輕之。瑗案法推治,無所顧避,甚見讎疾。官雖通顯,貧窘如初,清尚之操,為時所重。領本州大中正,以本官兼廷尉卿,卒官。贈本將軍、太僕卿、濟州刺史,諡曰明。

羊敦

原文羊敦

羊敦、字は元礼、太山鉅平の人、梁州刺史祉の弟子なり。性閑素を尚び、学書史に渉る。父霊引が王事に死するを以て、給事中を除す。出でて本州別駕と為る。公平正直にして、非法有るを見れば、敦終に判署せず。後に尚書左侍郎・徐州撫軍長史と為る。永安中、転じて廷尉司直と為り、拝せず。洛陽令を拝す。後に鎮南将軍・金紫光禄大夫と為り、太府少卿に遷り、転じて衛将軍・広平太守と為る。治に能名有り、姦吏跼蹐し、秋毫も犯さず。雅性清儉にして、歳饑饉に属し、家餽未だ至らず、人をして外に陂澤を尋ねしめ、藕根を採りてこれを食わしむ。疾苦有るに遇えば、家人衣を解きて米を質し以てこれを供す。然れどもその治を為すも、亦威厳を尚ぶ。朝廷その清白を以て、穀一千斛・絹一百匹を賜う。興和初めに卒す、年五十二。吏民奔哭し、悲慟せざる莫し。都督徐兗二州諸軍事・衛大将軍・吏部尚書・兗州刺史を贈られ、諡して貞と曰う。

原文羊敦,字元禮,太山鉅平人,梁州刺史祉弟子也。性尚閑素,學涉書史。以父靈引死王事,除給事中。出為本州別駕。公平正直,見有非法,敦終不判署。後為尚書左侍郎、徐州撫軍長史。永安中,轉廷尉司直,不拜。拜洛陽令。後為鎮南將軍、金紫光祿大夫,遷太府少卿,轉衞將軍、廣平太守。治有能名,姦吏跼蹐,秋毫無犯。雅性清儉,屬歲饑饉,家餽未至,使人外尋陂澤,採藕根而食之。遇有疾苦,家人解衣質米以供之。然其為治,亦尚威嚴。朝廷以其清白,賜穀一千斛、絹一百匹。興和初卒,年五十二。吏民奔哭,莫不悲慟。贈都督徐兗二州諸軍事、衞大將軍、吏部尚書、兗州刺史,諡曰貞。

武定初め、斉献武王、敦及び中山太守蘇淑の官に在りて法を奉じ、清約自ら居るを以て、宜しく追褒を見るべく、以て天下を厲すべしとし、乃ち上言して旌録を加うることを請う。詔して曰く、「昔五袴謡を興し、両岐詠を致すは、皆仁千里に覃き、化一邦に洽うによる。故広平太守羊敦・故中山太守蘇淑、並びに器業和隠、幹用貞済、善政国に聞こえ、清誉民に在り。方に良才に藉り、遂に高秩に登らんとすれども、先後凋亡し、朝野傷悼す。清徳を追旌するは、蓋し旧章による、各帛一百匹・穀五百斛を賞すべし、郡国に班下し、咸に聞知せしむべし」と。

原文武定初,齊獻武王以敦及中山太守蘇淑在官奉法,清約自居,宜見追褒,以厲天下,乃上言請加旌錄。詔曰:「昔五袴興謠,兩歧致詠,皆由仁覃千里,化洽一邦。故廣平太守羊敦、故中山太守蘇淑,並器業和隱,幹用貞濟,善政聞國,清譽在民。方藉良才,遂登高秩,先後凋亡,朝野傷悼。追旌清德,蓋惟舊章,可各賞帛一百匹、穀五百斛,班下郡國,咸使聞知。」

蘇淑

原文蘇淑

蘇淑、字は仲和、武邑の人なり。性敦謹を立て、頗る経伝に渉る。兄寿興、事に坐して閹官と為る。寿興後に河間太守と為り、爵を晋陽男に賜う。寿興将に卒せんとするに及び、遂に淑を養子と為すことを冒す。淑、熙平中その爵を襲ぎ、司空士曹参軍を除す。尋いで転じて太学博士・厲威将軍・員外散騎侍郎と為る。転じて奉車都尉と為り、殿中侍御史を領す。冀州に使するに因り、高乾邕刺史元嶷を執し城を拠りて起義するに会い、淑その事を賛成す。乾邕淑を以て武邑郡を行わしむ。未だ幾ばくもせず、尒朱汝帰兵を率いて将に至らんとす、淑郡に於いて逃れて京師に還る。後に左将軍・太中大夫・行河陰令を除す。出でて楽陵内史を除す。淑郡に在りて綏撫し、甚だ民誉有り。始め二周を径て、病を謝し解くことを乞う、詔有りてこれを聴す、民吏老幼淑を訴乞する者甚だ衆し。後に歴て滎陽太守と為り、亦能名有り。中軍将軍・司徒従事中郎を加う。興和二年、中山太守を拝す。三年、郡に卒す。淑心を清くして下を愛し、歴る所三郡、皆吏民の思う所と為り、当時良二千石と称せらる。武定初め、衛大将軍・都官尚書・瀛州刺史を贈られ、諡して懿と曰う。斉献武王清操を追美し、羊敦と同しく優賞を見る。

原文蘇淑,字仲和,武邑人也。立性敦謹,頗涉經傳。兄壽興,坐事為閹官。壽興後為河間太守,賜爵晉陽男。及壽興將卒,遂冒養淑為子。淑,熙平中襲其爵,除司空士曹參軍。尋轉太學博士、厲威將軍、員外散騎侍郎。轉奉車都尉,領殿中侍御史。因使於冀州,會高乾邕執刺史元嶷據城起義,淑贊成其事。乾邕以淑行武邑郡。未幾,尒朱汝歸率兵將至,淑於郡逃還京師。後除左將軍、太中大夫、行河陰令。出除樂陵內史。淑在郡綏撫,甚有民譽。始逕二周,謝病乞解,有詔聽之,民吏老幼訴乞淑者甚眾。後歷滎陽太守,亦有能名。加中軍將軍、司徒從事中郎。興和二年,拜中山太守。三年,卒於郡。淑清心愛下,所歷三郡,皆為吏民所思,當時稱為良二千石。武定初,贈衞大將軍、都官尚書、瀛州刺史,諡曰懿。齊獻武王追美清操,與羊敦同見優賞。

子子且、襲ぐ。武定中、斉献武王廟丞。

原文子子且,襲。武定中,齊獻武王廟丞。