【序】

【序】

侯を廃し守を置くこと、年歴久しく、方牧をもって統べ、なお世々相循り、以て寛猛を用い、民を庇ひ俗を調ふ。但だ廉平なる常の跡は、声問高く難く、時に適ひ務に応ずれば、響きを招くこと必ず速し。是の故に摶撃して侯と為るは、起つこと踵を旋らず、儒弱にして咎を貽すは、録用する時無し。此れ則ち已に前世に然るなり。後の吏と為る者、世と浮沈し、季叔澆漓にして、姦巧緒多し、以て蒲・密無為の化は、其の人を見ること難し。魏初に中州を拓き、疆域を兼 へい し、河南・関右、遺黎未だ純ならず、節を擁し符を分つこと、多く豊沛より出づ。政術治風、未だ咸く允ならず、大戮を貽すを動かすと雖も、貪虐未だ悛まず、亦た網漏れて舟を吞むに由り、時に一目を掛く。高祖綱紀を粛明し、賞罰必ず行はれ、旧軌を肇革し、時に法を奉ずること多し。世宗優遊として治め、寛政遂に往き、太和の風、頗る以て陵替す。肅宗運を馭し、天下淆然たり、其の風を移し俗を革すの美、虎を浮かべ珠を還すの政に於ては、九州百郡、聞く所無し。且つ其の時に称せらるる者を書き、以て良吏を著はさんと云ふのみ。

張恂

張恂、 あざな は洪讓、上谷沮陽の人なり。兄袞に従ひ国に帰り、代王の軍事に参ず。恂、太祖に言ひて曰く、「金運御を失ひ、劉石紛紜し、 慕容 ぼよう 山東に号を窃み、苻姚秦隴に器を盗み、遂に三霊響き乏しく、九域君を曠くす。大王玄朔に基を樹て、重明積聖、北より南にし、化燕趙に被る。今中土の遺民、雲を望み潤ひを冀ふ。宜しく斯の会に因り、以て大業を建つべし」と。太祖深く器異し、厚く礼を加ふ。皇始初、 中書 ちゅうしょ 侍郎に拝し、幃幄の密謀、頗る参議に預る。将軍奚牧に従ひ晋川の地を略し、鎮遠将軍に拝し、爵を平臯子と賜ふ。出でて広平太守と為る。恂離散を招集し、農桑を勧課し、民之に帰する者千戸。常山太守に遷る。恂学校を開建し、儒士を優顕す。吏民歌詠す。時に喪乱の後、克く厲むこと罕にして、惟だ恂官に当り清白、仁恕を以て下に臨み、百姓之を親愛し、其の治め当時第一と為る。太祖聞きて嘉歎す。太宗即位し、帛三百匹を賜ひ、徴して太中大夫に拝す。神瑞三年卒す、年六十九。恂性清儉、産業を営まず、身死するの日、家に余財無し。太宗悼惜し、征虜将軍・ 并州 へいしゅう 刺史 しし ・平臯侯を贈り、 おくりな して宣と曰ふ。

子純、字は道尚、爵を襲ぐ。鎮遠将軍・平臯子。事に坐し爵除かる。

純の弟代、字は定燕。陳留・北平二郡太守。卒し、冠軍将軍・営州刺史を贈られ、諡して恵侯と曰ふ。代歴官する所清称著しく、父の遺風有り。

代の子長年、中書博士。出でて寧遠将軍・汝南太守と為る。郡民劉崇之兄弟分析し、家貧しく惟だ一牛有り、之を争ひ決せず、郡庭に訟ふ。長年之を見て、悽然として曰く、「汝曹一牛を以ての故に、此の競を致す、脱し二牛有らば、各応に一を得べく、豈に訟ふる理有らんや」と。即ち家の牛一頭を以て之に賜ふ。是に於て郡境の中各相誡約し、咸く敬譲を敦くす。太和初、家に卒す。

子琛、字は寶貴、少くして孝行有り。武騎常侍・羽林監・太子翊軍 校尉 こうい を歴任す。卒す。

子略、武定中、左光禄大夫。

鹿生

鹿生、済陰乗氏の人。父寿興、沮渠牧犍の庫部郎。生再び済南太守と為り、治称有り。顕祖其の能を嘉し、特ち季秋の馬射に徴して赴かしめ、驄馬を賜ひ、青服を加へ、其の廉潔を彰す。前後在任十年。時に三齊始めて附き、人苟且を懐き、蒲博終朝し、頗る農業を廃す。生制を立てて之を断つ、聞く者善しと嗟く。後徐州任城王澄・広陵侯元衍の征東・安南二府長史を歴任し、淮陽太守・郯城鎮将を帯ぶ。年七十四、正始中卒す。龍驤将軍・兗州刺史を追贈す。

張応

張応、何れの許の人なるかを知らず。延興中、魯郡太守と為る。応履行貞素、声績著聞す。妻子樵採を以て自ら供す。高祖深く其の能を嘉し、京兆太守に遷す。所在清白、吏民の忻心を得たり。

宋世景

宋世景、広平の人、河南尹翻の第三弟なり。少くより自ら修立し、親に事ふるに孝を以て聞こゆ。弟道璵と帷を下ろし誦読し、羣言を博覧し、尤も経義に精し。族兄弁甚だ之を重んず。秀才に挙げられ、策に対し上第、国子助教に拝し、彭城王勰の開府法曹行参軍に遷る。勰其の才学を愛し、雅く相器敬す。高祖亦之を嘉す。 司徒 しと 法曹行参軍に遷る。

宋世景は刑罰の道理を明らかにし、律令を制定し、疑わしい訴訟を裁決し、判決を流れるように下した。 尚書 しょうしょ 祠部郎に転任した。彭城王元勰はしばしば彼を称えて言った、「宋世景は識見が精鋭であり、尚書 僕射 ぼくや の才である」と。尚書省の疑わしい事案は、右僕射高肇が常に彼に委ねた。世景は政務を執る才能に長けている上に、早くから勤勉で怠らず、数曹を兼務し、称賛に値する業績を大いに挙げた。しばしば左僕射源懐に引き立てられて行臺郎となった。州鎮十余箇所を巡察し、官吏の罷免・昇進・賞罰はすべて適切であった。七つの鎮を移転させ、別に諸戍を設置し、亭候を明らかに設けて、北虜に備えた。源懐は大いに彼を重用して委任した。帰還して世宗に推薦して言った、「宋世景の文武の才略は、当今匹敵する者が少なく、清廉公平で忠直な点も、比べる者が少ない。陛下もし機要の任に用いられれば、終に李沖に劣ることはないでしょう」と。世宗は言った、「朕も聞いている」と。 尚書令 しょうしょれい 広陽王元嘉、右僕射高肇、吏部尚書中山王元英が共に世景を国子博士に推薦し、まもなく尚書右丞に推薦した。王顕は宋弁と不和があり、世宗に彼を誹謗したので、事は取り止められ返答がなかった。

まもなく伏波将軍を加えられ、 滎陽 けいよう 太守を代行した。鄭氏は豪族で横暴であり、治め難いと称されていた。済州刺史鄭尚の弟の遠慶は先に苑陵県令となり、多くの賄賂を受け取り、百姓はこれを苦しんでいた。世景が着任すると、彼を召し出して言った、「卿とは親しい間柄であるから、便宜を図るべきであろう。私が着任する前のことは一切問わないが、今日以後は、決して見逃さない」と。しかし遠慶は相変わらず勝手に振る舞った。世景は法によって彼を糾弾したので、遠慶は恐れて官を棄てて逃亡した。これにより官僚たちは威を畏れ、改めて謹厳とならぬ者はなかった。終日、役所の政務室に坐り、寝る暇もなかった。県の役人、三正および諸々の細民に至るまで、来ればすぐに面会し、朝晩の区別はなかった。来訪者は皆その心中を尽くして語り、世景は恩情ある顔色で接し、人を退けて密談した。民間の事柄は、大小必ず知り、悪事を暴き隠れた罪を摘発することは、神の如くであった。かつて一人の吏が休暇を終えて郡に戻る際、人の鶏と豚を食べた。また一人の幹が人の帽子一頂を受け取り、さらに鶏二羽を食べた。世景は彼らを叱責して言った、「汝らはどうして甲乙の鶏豚を食べ、丙丁の帽子を取ったのか!」と。吏と幹は頭を叩いて罪を認めた。これにより上下震え恐れ、敢えて禁令を犯す者はなかった。弟の道璵の事件に連座して除名された。

世景の兄弟愛の情は、人並み外れて厚く、道璵が死ぬと、哀切に泣き、その悲しみは道行く人をも感動させ、容貌は憔悴し衰え、見る者は皆嘆き哀れんだ。一年余り後、母が喪に服し、遂に哀しみに耐えられずに亡くなった。世景はかつて晋書を撰述したが、遂に完成させることができなかった。

子の季儒は遺腹子として生まれた。弱冠にして、太守崔楷が功曹に辟召し、初官は太学博士・明威将軍となった。かつて譙宋の地に行き、嵇康を弔う文を作ったが、非常に道理と情趣があった。後に夜寝ている時、家屋が崩壊して押し潰され、二十五歳で亡くなった。当時の人々は皆、傷み惜しんだ。

路邕

路邕は、陽平郡清淵県の人である。世宗の時、功労を積み重ね、斉州東魏郡太守に任じられ、善政を施した。霊太后は詔して言った、「路邕は政務に清廉勤勉で、よく民俗を安んじる。近年凶作が続き、郡内は飢饉に陥り、民衆は嗷嗷として、溝壑に転落せんとしていたが、路邕は自ら家の粟を出して、貧窮した者を救済し賜い、民はこれによって救われた。古の良き太守と雖も、どうしてこれに勝ろうか。恩恵を与えるべきであり、奨励の模範として後世に伝えるべきである。龍厩の馬一匹、衣一襲、被褥一具を賜うことを許す。州鎮に布告し、皆に知らしめよ」と。路邕は民を善く治めたことで、次第に昇進して南青州刺史となり、そこで亡くなった。

閻慶胤

閻慶胤は、どこの人か知られていない。東秦州敷城太守となった。在任五年、清廉勤勉で風俗を励ました。連年の飢饉に際し、慶胤は毎年常に家の粟千石を以て貧窮者を救済し、民はこれによって救われた。その管轄下の民である楊宝龍ら一千余人が、その善政を訴え出た。有司が上奏して言った、「慶胤がこの郡に着任して以来、恵み深い政治で知られ、また自らの粟を以て飢饉を救済し、まさに民を子のように愛する義がある。もし少しも優れた褒賞を加えなければ、あの貪婪残酷な者たちを戒めることができない。また、斉州東魏郡太守路邕は、郡を治める能力において彼と匹敵し、その救済の点でもまた異ならないが、聖旨は優遇して衣と馬を賜っている。実情を考え道理を求めれば、同じく賞すべきであると言えよう」と。霊太后は結局褒賞を与えなかった。

明亮

明亮は、字を文德といい、平原郡の人である。性格は方正で篤実、識見と実務能力があった。給事中から員外常侍を歴任した。延昌年間、世宗が朝堂に臨み、自ら官吏の罷免・昇進を行い、亮に勇武将軍を授けた。亮は進み出て言った、「臣の本来の官は常侍であり、これは第三の清官である。今、臣に勇武将軍を授けられるが、その称号は極めて濁官である。しかも文武はまた異なる。どうか改めて授けてください」と。世宗は言った、「今は功労に応じて賞を行い、清濁は論じない。卿はどうしてまた清濁を口実にするのか」と。亮は言った、「聖明なる天子が上におられるので、清濁は分かれるのです。臣は聖明に属しておりますので、敢えて申し上げるのです」と。世宗は言った、「九流の内にあって、人は皆君子である。文武の称号は異なれども、政治を補佐する点では同じである。卿はどうして独り衆に背き、妄りに清濁を分けようとするのか。請うところは認められない。ただ前の通り授ける」と。亮は言った、「今、江左は未だ帰順せず、文字と軌道を統一すべき時です。まさに陛下のために命を授かり前駆となり、呉会を平定拓定しようとしています。官爵は陛下の軽んじられるところ、卑しい命は微臣の重んじるところです。陛下がまさに重んじられるものを収めようとされるのに、どうして軽んじられるものを惜しまれましょうか」と。世宗は笑って言った、「卿は朕のために江表を平定拓定し、蕭衍を討ち平らげようというのか。討ち平らげ平定拓定することは、勇武なくしてはできない。今授けるところは、卿の言葉に副うものである。勇と武を辞退するのは、自ら矛盾している」と。亮は言った、「臣は仰いで聖なる御計画を承り、計略を巡らして平定したいと思います。どうして勇武を借りて、初めて成功する必要がありましょうか」と。世宗は言った、「謀略と勇武の二つは、本来互いに必要とするものである。もし勇があって謀がなければ、勇は独りで挙げられない。もし謀があって勇がなければ、謀は独りで行えない。必ず両者を兼ね備えて、初めて勝利を制することができる。どうして偏って謀略のみ必要とし、再び勇を借りないと言えようか」と。亮は言った、「平遠将軍に改めて授けてください」と。世宗は言った、「謀略を用い武力を用いて、その後遠方の人々が初めて平定される。卿はただ武力を用いてこれを平定せよ。どうして平遠を得られないことを憂えようか」と。亮はようやく陳謝して退いた。

後に陽平太守に任じられ、清廉で民を愛し、非常に恵み深い政治を行い、名声と業績の美しさは、当時に顕著であった。朝廷はその教化を嘉した。汲郡太守に転じ、治績は前の通りであり、誉れは遠近に宣べ伝えられた。二郡の民と吏は、今に至るまで彼を追慕している。孝昌初年に亡くなり、左将軍・南青州刺史を追贈された。

初め、亮が陽平にいた時、相州刺史中山王元熙が兵を起こして元叉を討とうとした事件に遭遇した。当時、 へい 州刺史城陽王元徽も使者を亮のもとに遣わし、密かに元熙と謀議を同じくした。元熙が敗れると、亮はその使者の言葉を偽って報告したため、これによって元徽の音信は罪を免れることができた。二年、詔して以前の功績を追認し、重ねて平東将軍・済州刺史を追贈し、その子の希遠を奉朝請に任じた。

亮の従弟の遠は、儀同開府従事中郎であった。

杜纂

杜纂は、字を栄孫といい、常山国九門県の人である。若くして清貧苦節をもって自立した。当時、県令の斉羅が死亡したが、親族がなく収葬する者がいなかったので、纂は私財を以て葬儀を行い埋葬した。これにより郡県はその門に表彰を掲げた。後に父の喪に服する際、礼を尽くした。郡が孝廉に推挙し、 州司士に補された。

やがて積弩将軍に任ぜられる。兵を率いて淮水に赴き、降伏した民の楊箱らを迎える。楚鎮を修築し、山岳の蛮族李天保ら五百戸を招き入れる。新野征討に従軍し、騎都尉に任ぜられる。また寿春の行幸に従い、淮水沿いを巡って慰労するよう命ぜられる。 州刺史田益宗が戸口を率いて帰順すると、広陵に派遣され新たに帰順した者を慰撫し、田地と食糧を支給する。新野征討に従い、南陽平定の功により井陘男の爵位を賜り、帛五百匹を賞与される。数日のうちに、知己や友人に分け与える。当時の人々はこれを称賛した。また赭陽・武陰の二郡に赴き、公田の耕作を監督し、軍費に充てる。南秦州武都太守に任ぜられる。正始年間、漢陽太守に転じ、いずれも清廉潔白で名を知られる。また 都督 ととく 楊椿らに従って南秦の軍前に赴き、反逆した てい 族を招き慰撫する。帰還し、虎賁中郎将に任ぜられ、太倉令を兼ねる。母の喪に服し職を去る。しばらくして伏波将軍に任ぜられ、再び太倉令となる。まもなく寧遠将軍・陰陵戍主に任ぜられる。延昌年間、都が凶作となると、京倉を監督して民に食糧を賑給するよう命ぜられる。粛宗の初め、征虜将軍・清河内史に任ぜられる。質素倹約を旨とし、特に貧しい老人を愛し、民の疾苦を問うては涙を流した。農桑を奨励監督し、自ら視察し、勤勉な者には物や帛を賞与し、怠惰な者には罪を加えて譴責した。死者を弔い生者を問い、恩情と規律に富んだ。帰還し、本官の将軍のまま東益州刺史に任ぜられる。辺境を防衛する威略に欠け、諸氐が反乱を起こす。民心を失ったとして召還される。太府少卿に転じ、平陽太守・後将軍・太中大夫に任ぜられる。

正光の末、清河の人房通ら三百人が纂の徳政を称え、再び郡に臨むことを請うた。詔してこれを許す。孝昌年間、葛栄に包囲されると、纂は郡を挙げて栄に降伏する。栄は纂を信都に入れて慰撫説得させようとするが、 都督 ととく 李瑾は斬ろうとし、刺史元孚は纂を徳として許し帰す。出ると、また栄に水攻めを勧め、栄はついに纂を常山太守とする。郡に着任して間もなく、栄は滅びる。定州刺史薛曇尚は纂が旧臣であるとして、博陵・鉅鹿の二郡を管轄させようとするが、纂は病気を理由に辞退する。ほどなくして家で卒去する。

纂が歴任した地では、小さな恩恵を行い、粗食に粗衣で、多くは偽りや虚飾にわたるが、財を軽んじ己を清くし、終始贈り物を受け取らず、百姓に慕われ、良守と称された。永熙年間、平北将軍・殷州刺史を追贈される。天平四年、本官の将軍・定州刺史を重ねて追贈される。

裴佗

裴佗、字は元化、河東郡聞喜県の人。先祖は晋の乱を避けて涼州に移住した。苻堅が河西を平定すると、東に帰って故郷に戻り、解県に居住した。父の景は、恵州の別駕であった。

佗は容貌魁偉で、堂々たる器量と声望があった。若くして春秋杜氏注・毛詩・周易を学び、その奥義を究めた。秀才に挙げられ、成績優秀で中書博士に任ぜられ、 司徒 しと 参軍・ 司空 しくう 記室・揚州任城王澄の開府倉曹参軍に転じる。内に入って尚書倉部郎中となり、河東郡の事務を代行する。在任地で称賛される実績を挙げる。帰還し、尚書考功郎中・河東邑中正に任ぜられる。世宗が朝堂に臨み、員外 散騎常侍 さんきじょうじ に任ぜられ、中正は元のままとする。司州治中に転じ、風聞により御史の弾劾を受けるが、まもなく赦免にあう。征虜将軍・中散大夫に転じる。趙郡太守として、統治に方策があり、威厳と恩恵が著しく、狡猾な官吏や奸悪な民もみな改心して畏服した。得た俸禄は、貧窮者を救済するために分け与えた。前将軍・東荊州刺史に転じ、郡民は慕い仰ぎ、郡境を挙げて見送り、今に至るまで追慕されている。まもなく平南将軍を加えられる。蛮族の首長田盤石・田敬宗らの部落一万余家は、勢いを頼み険阻に拠り、朝廷に従わず、前後の長官はたびたび征討したが、降伏させることができなかった。佗が州に着任すると、単身で使者を派遣して慰撫し、利害を説いて示した。敬宗らは佗の昔からの徳望を聞き、相次いで帰順した。ここにいたって全境が平穏となり、賊寇や盗賊は静まり、辺境の民はこれを慕い、幼児を背負って来る者が千余家に及んだ。まもなく撫軍将軍を加えられ、また中軍将軍に転じる。州に数年いて、病気により帰還を請う。永安二年に卒去する。遺言で追贈を請うこと、葬儀の贈り物を受け取ることを許さず、諸子は皆これに従った。

佗の性質は剛直で、俗人との交遊を好まず、気の合う者は必ず当時の名士であった。清廉で真実を重んじ、家産を営まず、宅地は三十歩を超えず、田園もなかった。暑い日にも傘をささず、寒い日にも皮衣を着ず、その貞節と倹約はこのようなものであった。六人の子があった。

譲之、字は士礼。武定の末、中書侍郎となる。

譲之の弟の諏之、字は士正、早くから才学があった。 司徒 しと 記室参軍となる。天平の末、関西に入る。

竇瑗、字は世珍、遼西郡遼陽県の人。自ら言うには、もと扶風郡平陵県の人で、漢の大将軍竇武の曾孫の崇が遼西太守となり、子孫はここに住み着いたという。曾祖父の堪は、慕容氏の漁陽太守であった。祖父の表は、馮文通の成周太守となり、後に国(北魏)に入った。父の冏は秀才に挙げられたが、早くに亡くなった。普泰の初め、瑗は自身の官位階級をもって父の追贈を請う上表をし、詔して征虜将軍・平州刺史を追贈された。

瑗は十七歳で、早くも書物を背負って師に従った。遊学すること十年、ようやく御史となる。奉朝請・兼太常博士に転じ、大将軍・太原王尒朱栄の官に任ぜられ、これによって栄に知られると、ついに上表して瑗を北道大行臺左丞に留任させた。軍功により陽洛男の爵位を賜り、員外 散騎常侍 さんきじょうじ に任ぜられる。瑗は栄の官に任ぜられた功により、新昌男の爵位を賜る。栄に従って東進し葛栄を討ち、平定後、容城県開国伯に封ぜられ、食邑五百戸を与えられる。後、征虜将軍・通直 散騎常侍 さんきじょうじ に任ぜられ、左丞は元のままとする。瑗は容城伯の爵位を兄の叔珍に譲ることを請い、詔して新昌男の爵位を転じて授けることを許し、叔珍はこれによって太山太守の位に至った。

尒朱世隆らが長広王曄を立てて主とし、南へ 洛陽 らくよう に向かう。東郭の外に至ると、世隆らは瑗を遣わしてその廃位を奏上させた。瑗は鞭を執って単身で禁中に入り、奏上して言う、「天人の望みは、皆広陵(孝荘帝)にあります。どうか堯舜の譲位の故事を行われますように」。曄はついに禅譲した。これによって征南将軍・金紫光禄大夫に任ぜられる。奏上する様子は侃々としており、前廃帝は大いにこれを重んじた。出帝の時、廷尉卿となる。釈奠の講義が開かれると、瑗は 散騎常侍 さんきじょうじ 温子昇・給事黄門侍郎魏季景・通直 散騎常侍 さんきじょうじ 李業興とともに、摘句を担当した。天平年間、鎮東将軍・金紫光禄大夫に任ぜられる。まもなく広宗太守に任ぜられ、統治に清廉の称があった。広宗の民情は凶暴で、前後の長官はみな訴訟を起こされた。ただ瑗一人が、終始清廉潔白を全うした。中山太守に転じ、征東将軍を加えられる。名声は非常に高く、官吏や民に慕われた。斉献武王( 高歓 こうかん )が州郡に文書を発し、牧守や令長を戒め諭した際、瑗の政績を称え、励みとすべき模範とした。後に使持節・本官の将軍・平州刺史を授かる。州での政治は郡を治めた時と同様であった。また斉献武王丞相府右長史となる。瑗には軍府を裁断する才能がなく、あまり職に適さなかった。また晋州の事務を代行する。

都に戻ると、上表して言う。

詔を尚書に付し、三公郎の封君義が判を立てて云う、「身体髪膚は、これを父母に受く、我を生みて労悴せしめ、継ぐことこれより大なるはなし。子の父母に於けるは、気を同じくして息を異にし、天を終るまで報ゆることなく、情に在りては一なり。今忽ちその尊卑を論じ、その優劣を弁ぜんと欲すれども、心を推すに未だ忍びず、古を訪うるに拠るところなし。母その父を殺せば、子また母を告ぐ、母は告ぐるによりて死す、すなわち是れ子の殺すなり。天下に母なき国あることなく、この子の将に何くにか之かんとするを知らず。春秋を案ずるに、荘公元年、即位を称せず、文姜出づる故なり。服虔の注に云う、『文姜は兄の斉襄に通じ、公を殺すに与りて反らず。父を殺し母出づ、隠痛深く いみな す。期にして中練、思慕少しく殺ぎ、母に至りて念う。故に経に書す、三月夫人斉に遜る』と。既に母を念い深く諱すの文あり、明らかに讎疾して告列するの理なきなり。且つ聖人の法を設くるは、淫を防ぎ暴を禁じ、善悪を極言し、知りてこれを避けしむる所以なり。若し事に臨みて刑を議せば、則ち罪に陥ること多からん。悪の甚だしきは、父を殺し君を害す、これを律令に著し、百王革むることなし。この制何の嫌かあらん、独り削去を求むる。既に法に違うことなく、事に害あらず、宣布すること年有り、改むるに宜しからずと謂う」と。瑗また難じて云う。

事遂に停寝す。

大宗正卿を除し、尋いで衛将軍を加う。宗室その寒士なるを以て、相与にこれを軽んず。瑗法に案じて推治し、顧避することなく、甚だ讎疾せらる。官は通顕なれども、貧窘初めの如く、清尚の操、時に重んぜらる。本州大中正を領し、本官を以て廷尉卿を兼ね、官に卒す。本将軍・太僕卿・済州刺史を贈られ、諡して明と曰う。

羊敦

羊敦、字は元礼、太山鉅平の人、梁州刺史祉の弟子なり。性閑素を尚び、学書史に渉る。父霊引が王事に死するを以て、給事中を除す。出でて本州別駕と為る。公平正直にして、非法有るを見れば、敦終に判署せず。後に尚書左侍郎・徐州撫軍長史と為る。永安中、転じて廷尉司直と為り、拝せず。洛陽令を拝す。後に鎮南将軍・金紫光禄大夫と為り、太府少卿に遷り、転じて衛将軍・広平太守と為る。治に能名有り、姦吏跼蹐し、秋毫も犯さず。雅性清儉にして、歳饑饉に属し、家餽未だ至らず、人をして外に陂澤を尋ねしめ、藕根を採りてこれを食わしむ。疾苦有るに遇えば、家人衣を解きて米を質し以てこれを供す。然れどもその治を為すも、亦威厳を尚ぶ。朝廷その清白を以て、穀一千斛・絹一百匹を賜う。興和初めに卒す、年五十二。吏民奔哭し、悲慟せざる莫し。 都督 ととく 徐兗二州諸軍事・衛大将軍・吏部尚書・兗州刺史を贈られ、諡して貞と曰う。

武定初め、斉献武王、敦及び中山太守蘇淑の官に在りて法を奉じ、清約自ら居るを以て、宜しく追褒を見るべく、以て天下を厲すべしとし、乃ち上言して旌録を加うることを請う。詔して曰く、「昔五袴謡を興し、両岐詠を致すは、皆仁千里に覃き、化一邦に洽うによる。故広平太守羊敦・故中山太守蘇淑、並びに器業和隠、幹用貞済、善政国に聞こえ、清誉民に在り。方に良才に藉り、遂に高秩に登らんとすれども、先後凋亡し、朝野傷悼す。清徳を追旌するは、蓋し旧章による、各帛一百匹・穀五百斛を賞すべし、郡国に班下し、咸に聞知せしむべし」と。

子隠、武定末、開府行参軍。

蘇淑

蘇淑、字は仲和、武邑の人なり。性敦謹を立て、頗る経伝に渉る。兄寿興、事に坐して閹官と為る。寿興後に河間太守と為り、爵を 晋陽 しんよう 男に賜う。寿興将に卒せんとするに及び、遂に淑を養子と為すことを冒す。淑、熙平中その爵を襲ぎ、 司空 しくう 士曹参軍を除す。尋いで転じて太学博士・厲威将軍・員外散騎侍郎と為る。転じて奉車都尉と為り、殿中侍御史を領す。冀州に使するに因り、高乾邕刺史元嶷を執し城を拠りて起義するに会い、淑その事を賛成す。乾邕淑を以て武邑郡を行わしむ。未だ幾ばくもせず、尒朱汝帰兵を率いて将に至らんとす、淑郡に於いて逃れて京師に還る。後に左将軍・太中大夫・行河陰令を除す。出でて楽陵内史を除す。淑郡に在りて綏撫し、甚だ民誉有り。始め二周を径て、病を謝し解くことを乞う、詔有りてこれを聴す、民吏老幼淑を訴乞する者甚だ衆し。後に歴て 滎陽 けいよう 太守と為り、亦能名有り。中軍将軍・ 司徒 しと 従事中郎を加う。興和二年、中山太守を拝す。三年、郡に卒す。淑心を清くして下を愛し、歴る所三郡、皆吏民の思う所と為り、当時良二千石と称せらる。武定初め、衛大将軍・都官尚書・瀛州刺史を贈られ、諡して懿と曰う。斉献武王清操を追美し、羊敦と同しく優賞を見る。

子子且、襲ぐ。武定中、斉献武王廟丞。

【史評】

史臣曰く。〈闕〉

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻88