【序】
大義は至聞より重く、自ら日人より慕う者は蓋し希にして、之を行ふ者は實に寡し。輕生して節を蹈み、難に臨んで歸するが如く、身を殺して仁を成し、死して悔ひ無きに至りては、自ら耿介苦心の人、鬱怏激氣の士に非ざれば、亦何ぞ能く斯の若くならんや。僉に列傳に列ね、名節義と云ふ。
于簡
于簡、 字 は什門、代人なり。太宗の時に謁者と爲り、馮跋を諭さしむる爲に使す。和龍に至る及び、外舍に住みて入らず、人をして跋に謂はしめて曰く、「大魏皇帝詔有り、須らく馮主出でて受くべし、然る後に敢へて入らん」と。跋人をして牽逼して令め入らしむ。跋を見て拜せず、跋人をして其の項を按ぜしむ。什門曰く、「馮主拜して詔を受くれば、吾自ら賓主として致敬す、何ぞ苦しみて見逼せらるるを須ひんや」と。跋と往復し、聲氣厲然として、初より撓屈せず。既にして跋什門を止む。什門羣衆の中に於て、身を回らして跋に背き、袴の後襠を被りて以て之を辱しむ。拘留せらるるを見てより、随身の衣裳敗壞略盡し、蟣虱體に被る。跋衣服を遺るも、什門拒みて受けず。和龍の人皆歎じて曰く、「古の烈士と雖も、以て過ぐる無からん」と。二十四年を歷て、後馮文通表を上りて臣と稱し、乃ち什門を送りて歸す。治書侍御史を拜す。世祖詔を下して曰く、「什門和龍に奉使し、狂豎肆虐するに值ひ、勇志壯厲にして、屈節せず、昔の蘇武と雖も何を以て之に加へん」と。羊千口・帛千匹を賜ひ、進めて上大夫と爲し、策を以て宗廟に告げ、天下に頒示し、咸しからしむるに聞かしむ。
段進
段進、何許の人なるかを知らず。世祖の初め、白道の守將と爲る。 蠕蠕 の大檀塞に入り、之を圍み、力屈して執へらる。進聲を 抗 して大罵し、遂に賊の爲に殺さる。世祖之を愍み、追贈して安北將軍と爲し、爵を賜ひて顯美侯とし、 諡 して莊と曰ふ。
石文德
石文德、河中蒲坂の人なり、行義有り。真君の初め、縣令黃宣任に在りて喪亡す。宣單貧にして期親無く、文德の祖父苗家財を以て 殯 葬し、服を持すること三年、宣の妻を奉養すること二十餘載。亡するに及び、又衰絰を以て斂祔し、禮に率ひて闕無し。苗より文德に逮ぶまで、 刺史 守令官に卒する者、制服して之を送る。五世同居し、閨門雍睦なり。
又梁州上言す、天水白石縣人趙令安・孟蘭彊等、四世同居し、行州里に著る。詔して並びに門閭を標牓せしむ。
汲固
汲固、東郡梁城の人なり。兗州の從事と爲る。刺史李式事に坐して收めらる。吏民皆河上に送る。時に式子憲生まるること始めて滿月、式大いに眾に言ひて曰く、「程嬰・杵臼何如なる人ぞ」と。固曰く、「今古豈に殊ならんや」と。遂に便ち潜かに還り、復た回顧せず、徑ち來りて城に入り、式の婦の閨に於て憲を抱き歸り藏す。捕者憲の屬を收むるに及び、一婢男を産む有り、母婢兒を以て之に授く。事尋いで泄る。固乃ち憲を攜へ逃遁し、赦に遇ひて始めて歸る。憲即ち固の爲に長育せられて十餘歲に至り、恒に固夫婦を呼んで郎婆と爲す。後高祐兗州刺史と爲り、固の節義を嘉し、以て主簿と爲す。
王玄威
王玄威、恒農北陝の人なり。顯祖崩ず。玄威州城門外に草廬を立て、衰裳蔬粥し、哭踴時無し。刺史苟頹事を以て表聞す。詔して狀を問はしむ。玄威稱して曰く、「先帝萬國を統御し、慈澤蒼生に被る。含氣の類仰賴せざる莫し。玄威悲慕に勝へず、中心此れを知るも、禮式を知らず」と。詔して玄威の訴へむと欲する所を問ふ。表列するを聽す。玄威云く、「 諱 を聞きて悲號す。竊に臣子同例と謂ひ、求謁する所無し」と。百日に及びて、乃ち自ら家財を竭し、四百人の齋會を設く。忌日、又百僧の供を設く。大除日に至り、詔して白紬袴褶一具を送り、玄威と釋服せしめ、州に下して異を表はさしむ。婁提、代人なり。顯祖の時に内三郎と爲る。顯祖暴崩す。提人に謂ひて曰く、「聖主升遐す、安んぞ活くを用ゐん」と。遂に佩刀を引いて自ら刺し、幾くんか死に至らんとす。文明太后詔して帛二百匹を賜ふ。
時に敕勒部の人蛭拔寅の兄地于有り、官馬を盜み食ふに坐し、制に依りて死を命ず。拔寅自ら誣ひて己れ殺せりとし、兄又云く實に弟の殺すに非ずと。兄弟死を爭ひ、辭定むること能はず。高祖詔して之を原す。
劉渴侯
劉渴侯は、何処の者とも知れぬ。性質は剛烈であった。太和年間(北魏)、徐州後軍となり、力戦して死闘を繰り広げたが、衆寡敵せず、遂に捕らえられた。目を瞋らして大いに罵り、終に降伏屈従せず、賊に殺された。高祖(孝文帝)は立忠将軍・平州刺史・上庸侯を追贈し、絹千匹・穀千斛を賜った。
嚴季という者あり、また軍 校尉 となり、渴侯と共に戦い、勢い窮まって捕らえられたが、終に降伏屈従せず、後に逃げ帰ることができた。立節将軍に任じられ、爵位五等男を賜った。
朱長生及び于提は、共に 代郡 の人である。高祖(孝文帝)の時、長生を員外 散騎常侍 とし、提と共に 高車 に使わした。その庭(王庭)に至ると、高車の主阿伏至羅は長生らに拝礼を求めたが、長生は拒んで言った、「我は天子の使臣なり、安んぞ下土の諸侯に拝せんや」。阿伏至羅は礼をもって遇さなかった。長生は金銀の宝器を奉ったが、至羅が献上を受け取ると、長生は言った、「臣として内附するならば、臣たる礼を尽くすべきである。どうして口では再拝と言いながら、実は拝礼しないのか」。呼び出して帳の外に至らせ、大衆の中で拝礼させようとした。阿伏至羅は臣下の面前で恥をかかされ、大いに怒って言った、「帳中で何故我に拝礼せよと教えず、大衆の前で我を辱しめるのか」。長生らの献上物を奪い、叢石の中に囚え、兵で脅して言った、「我が臣となれば生かしてやる。もし降らなければ、殺す」。長生と于提は目を瞋らし声を厲して責めて言った、「天子の使臣が汝ら夷狄に拝する事があろうか。我らは寧ろ魏の鬼となるとも、汝の臣とはならぬ」。至羅はますます怒り、飲食を絶った。従行者三十人皆降伏したので、至羅は肉と酪を与えたが、長生と提のみは従わず、遂にそれぞれ別々に移し囚えた。三年を経て、ようやく帰還できた。高祖は長生らの節操を守ることを遠く蘇武に同じくするとして、大いに賞賛し、長生を河内太守に、于提を隴西太守に任じ、共に爵位五等男を賜った。従者は皆、令・長となった。
馬八龍は、武邑郡武強県の人である。財を軽んじ義を重んじた。友人武遂県の尹霊哲が軍中で亡くなると、八龍は聞くや即ち駆けつけ、屍を背負って帰り、家財を以て殯葬し、緦服を制した。その孤児遺族を撫育し、恩は実子の如くであった。州郡が上表して列挙すると、詔して門閭を表彰した。
門文愛は、汲郡山陽県の人である。早く孤児となり、伯父母を供養して孝謹をもって知られた。伯父が亡くなり、喪服も終わらぬうちに、伯母もまた亡くなった。文愛は喪に居り、喪服を着すること六年、哀毀して骨立った。郷人の魏中賢ら相謀ってその孝義を標榜した。
晁清
晁清は、遼東の人である。祖父の暉は、済州刺史・潁川公であった。清は祖父の爵を襲い、例により伯に降格された。梁城の戍将となった。蕭衍が攻囲し、糧尽きて城は陥落、清は節を 抗 い屈せず、賊に殺された。世宗(宣武帝)は褒め称え、楽陵太守を追贈し、諡して忠といった。子の栄賓が襲爵した。劉侯仁は、 豫 州の人である。城人白早生が刺史司馬悦を殺し、城を拠て南に叛いた。悦の息子朏は、逃れて侯仁に投じた。賊は重く賞金をかけ募り、また厳しく捶撻したが、侯仁は終に漏洩せず、朏は遂に禍を免れた。事が収まると、有司がその操行を奏上し、府籍を免じて一小県に叙することを請うた。詔して可とした。
石祖興は、常山郡九門県の人である。太守田文彪・県令和真らが亡くなると、祖興は自ら家の絹二百余匹を出し、喪事を営み護った。州郡が上表して列挙すると、高祖はこれを嘉し、爵二級を賜い、上造とした。後に寧陵令に任じられ、卒した。吏部 尚書 李韶がその節義を奏し、贈諡を加えて来者を奨励することを請うた。霊太后は令してその奏の如くせしめた。有司が諡して恭といった。
邵洪哲
邵洪哲は、上谷郡沮陽県の人である。県令范道栄は先に朐城より帰順して県令に任じられたが、道栄の郷人徐孔明が妄りに公府に訴え、道栄に勲功なしと訟えたため、道栄は罪に坐して除名された。羇旅孤貧にして、自ら理を訴えることができなかった。洪哲は義憤に堪えず、遂に道栄に代わって京師に赴き、曲直を明らかにし申し立てた。寒暑を経ても、労苦を厭わず、道栄は遂に冤罪を雪ぐことができた。また北鎮が反乱すると、道栄は孤単で、帰附する所がなかった。洪哲の兄伯川が再び郷人を率いて来迎え、幽州まで送り届けた。道栄はその誠節に感じ、省に訴えて上聞させた。詔が州郡に下り、その里閭を標榜した。
王栄世
王栄世は、陽平郡館陶県の人である。三城の戍主・方城県子となった。蕭衍が攻囲し、力尽きて全うできないと知ると、先ず府庫を焼き、後に妻妾を殺した。賊が城を陥とすに及んで、戍副の鄧元興らと共に屈せずして害された。粛宗(孝明帝)は詔を下し忠節を褒め称え、栄世の爵を伯に進め、斉州刺史を追贈した。元興には開国子を贈り、洛州刺史を追贈した。
胡小虎
胡小虎は、河南郡河陰県の人である。若くして武気有り。正光末年(北魏)、晋寿において統軍となった。孝昌年中、蕭衍の将樊文熾らが辺境を寇すと、益州刺史邴虬は長史和安に命じて小剣を固守させ、文熾がこれを包囲した。虬は小虎に命じ、統軍崔珍宝と共に防ぎ拒ましめた。文熾は小虎・珍宝を掩襲し、共に擒えた。文熾は小剣を攻めて未だ陥さず、珍宝を城下に連れて行き、和安に謂わしめて言った、「南軍強盛にして、北の救い来たらず。帰順して富貴を取るに若くはない」。和安は射させたので、退いた。再び小虎を逼り和安と交言させようとした。小虎は慷慨として安に謂って言った、「我が柵は防がず、賊の虜となる。其の兵士を観るに、勢いは言うに足らず。努力して堅守せよ。魏の行臺より梁州に遣わされた将軍は已に至れり」。賊は刀で殴打し、言を終わらせず、遂に害した。三軍、其の壮節を歎かずとなく、其の死亡を哀しまざるはなかった。賊は間もなく敗走し、其の次将蕭世澄・陳文緒ら十一人を擒えた。行臺魏子建は其の気概を壮とし、世澄を以て其の屍柩を 購 うことを啓上し、乃ち骸骨を得て帰葬した。
孫道登
孫道登は、彭城郡呂県の人である。永安(北魏孝荘帝の年号)の初め、蕭衍(梁の武帝)の将軍韋休らに捕らえられ、縛られたまま刃を前にし、遠近の村塢を巡らされ、郷里の人々を招降せよと命じられた。道登は声を張り上げて叫んだ、「ただ力を尽くせ、賊にできることなどない」と。賊は遂に彼を屠戮した。
また荊州が包囲された時、行臺の宗霊恩が使者の宗女ら四人を城内に入れて諭させたが、賊将に捕らえられ、宗女らを城の周りに引き回して、言葉を改めさせようとした。宗女らは大声で言った、「天軍(朝廷の軍)がまさに到らんとしている、堅守して降るな」と。賊は憤り、それぞれその腹を刳り、それから首を斬った。二州(孫道登と宗女らの事績があった州)は彼らの節義を上表し、道登らには並びに五品郡(五品の郡太守相当の位か)と五等子爵を賜り、子弟による承襲を許した。使者をその地に遣わして弔祭させた。
李几は、博陵郡安平県の人である。七世が共に居住し財産を共有し、家に二十二房、一百九十八口があり、長幼秩序正しく、風儀礼節で知られ、役務に就く時は、年少の者も進んで従事した。郷里の人々は感嘆し称賛し、その門閭に標榜した。
張安祖は、河陽県の人である。世襲の爵位である山北侯を襲封した。時に元承貴という者がおり、かつて河陽県令を務め、家が貧しく、尚書省に赴いて選任を求めようとしたが、天候が非常に寒く、遂に路傍で凍死した。一子は幼く、屍は門前の路に放置され、棺を調え 殯 を行う当てがなかった。安祖は悲しみ慟哭して礼を尽くし、木材を買って棺とし、自ら手を下して作り、殯斂を整え周囲に施しを与えた。朝野は称賛し嘆賞した。尚書省がこれを聞き上奏し、その門閭に標榜した。
王閭は、北海郡密県の人である。数世が同居し、百口を数えた。また太山郡の劉業興は四世同居し、魯郡の蓋儁は六世同居し、並びに財産を共有し、家門は和やかで睦まじかった。郷里の人々は敬服し異と為した。有司が上奏し申し上げ、皆その門閭に標榜した。
【史評】
史臣が曰く、于什門らは或いは危険に臨んで屈せず、死を見ること帰するが如くし、或いは険に赴くこと平地の如く、ただ義の在る所に従った。その大なるものは国を光らせ家を興し、その小なるものは己を損ねて物を利した。故にその盛んな功績が顕著となり、河海と争って流れ、峻厳な節義が標榜され、松柏と共に茂ったのである。並びに実践履行によって至ったところであり、身は歿しても名は立ち、豈に徒然たることであろうか。
校勘記