序
経典に云う、「孝は徳の本なり」、「孝悌の至りは、神明に通ず」と。これは生ける者の大なるものなり。淳風既に遠く、世情薄しといえども、孔門には錦衣を責むる所以あり、詩人は素冠を思う所以なり。且つ生を尽くして色養の天を全うし、終に哀思の地に極むる。もし泉魚に誠達し、鳥獣に感通するは、事常倫にあらず、これ希なり。温床扇席、灌樹負土に至っては、時に人に加わるも、皆俗を度す。今趙琰らを書して孝感を目となす。
趙琰
趙琰、 字 は叔起、天水の人なり。父の温は楊難当の司馬となれり。初め、苻氏の乱に、琰は乳母に連れられて寿春に奔る。年十四にして乃ち帰る。孝心色養、飪熟の節は必ず自ら調う。皇興中、京師に倹あり、婢が粟を簡びて糶すを、琰遇い見て切責し、軽粃を留むるを敕す。嘗て子を送りて冀州の娉室に応ぜしむ。従者路に於いて偶々一羊を得たり。三十里を行きて琰之を知り、本の処に送るを令す。又た路傍に過ぐ。主人羊羹を設く。琰訪いて盗殺を知り、卒に辞して食わず。人を遣わして耜刃を買わしむ。六耜余るを得たり。即ち刃主に送還するを令す。刃主之を高しとし、義として受けず。琰命じて之を委ねて去る。初め兗州司馬となり、転じて団城鎮副将となる。京に還り、淮南王他の府長史となる。時に禁制甚だ厳しく、旧兆に越関して葬るを聴かず。琰三十余年を積み、二親を葬るを得ず。及び蒸嘗の拜献に、未だ嘗て嬰慕して事を卒えざるはなし。時に於いて毎に、子孫の慶賀を受けず。年余り耳順にして、孝思弥だ篤し。歳月の推移を慨し、遷窆の期無きを、乃ち塩粟を絶ち、諸の滋味を断ち、麦を食うのみ。年八十にして卒す。都を 洛陽 に遷す。子の応ら乃ち郷に還りて葬る。
応の弟の煦、字は賓育。音律を好み、善歌を以て世に聞こゆ。位は秦州 刺史 。
長孫慮
長孫慮、代の人なり。母飲酒に因りて、其の父の真之を呵叱し、誤って杖を以て撃つ。便ち即ち死に致す。真県に囚執せられ、重坐を以て処せらる。慮 尚書 に辞を列ねて云う、「父母忿争、本余悪無し。直に謬誤を以て、一朝横禍を蒙る。今母喪未だ殯せず、父命旦夕に迫る。慮兄弟五人、並びに各幼稚なり。慮身長に居り、今年十五、一女弟有り、始めて四歳に向かう。更相鞠養し、保全する能わず。父若し就刑せば、交々溝壑に墜つ。乞う、身を以て老父の命に代わり、嬰弱の衆孤をして存立を蒙らしめん」と。尚書奏して云う、「慮父に於いては孝子、弟に於いては仁兄なり。情状を尋究すれば、特だ矜感すべし」と。高祖詔して特に其の父の死罪を恕し、遠流に従わしむ。
乞伏保
乞伏保、 高車 部の人なり。父の居、顕祖の時に 散騎常侍 となり、牧曹尚書を領じ、寧国侯の爵を賜う。忠謹慎密を以て、常に左右に在り、詔命を出内す。宮人河南宗氏を賜う。亡びたる後、宮人申氏を賜う。宋の太子左率申坦の兄の女なり。歳余りして居卒す。申伏保を撫養す。性厳肅、捶罵切至なり。而して伏保奉事孝謹、初め恨色無し。父の侯爵を襲ぐ。例に降りて伯と為る。稍く左中郎将に遷る。毎に禄賜を請う。在外の公私尺丈の用いる所、白知せざる無し。出でて鄯善鎮将と為る。申年余り八十、伏保手づから馬輿を製し、自ら扶接す。申欣然として之に随う。申亡び、伏保官を解き、喪を奉じて洛に還る。復た長となり、南中郎将を兼ぬ。卒す。
孫益徳
孫益徳、楽安の人なり。其の母人の為に害せらる。益徳童幼にして母の為に復讐す。家に還り、殯に哭して県官を待つ。高祖・文明太后其の幼くして孝決なるを以てし、又た罪を逃れざるを、特に之を免す。
董洛生
董洛生、代の人なり。父喪に居るに礼を過ぐ。詔して秘書中散温紹伯を遣わし璽書を奉じて之を慰め、自ら抑割して以て孝道を全うするを令す。又た其の宗親に詔し、相喻奬せしめ、滅性の譏有る勿らしむ。
楊引
楊引、郷郡襄垣の人なり。三歳にして父に喪う。叔の養う所と為る。母年九十三にして卒す。引年七十五、哀毀礼を過ぐ。三年服畢り、父を識らざるを恨み、追服して斬衰し、粥を食い粗服し、終身の命を誓う。十三年を終え、哀慕改めず。郡県郷閭三百余人上状して美を称す。有司奏して宜しく旌賞すべく、其の一門を復し、其の純孝を樹つべしと。詔して別に集書に敕し楊引の至行を標し、又た散員の名を以て仮すべしと。
閻元明
閻元明は、河東郡安邑県の人である。幼少の頃より至孝で、その行いは郷里に顕著であった。太和五年(481年)、北随郡太守に任ぜられた。元明は親の養育から離れることを悲しみ慕い、母もまた慈愛の念に駆られ、涙を流して目が見えなくなった。元明は悲嘆の声をあげて上訴し、帰郷して母に仕えることを許された。母に一目会うと、母の目はたちまち開いた。刺史の呂寿恩がその状況を上奏して聞かせると、詔が州郡に下り、孝行の家として表彰され、その租調と兵役を免除し、母の天寿を全うさせることとなった。母が亡くなると、喪に服し終えた後も、心の喪に服すること数年、毎回の命日には悲しみ慟哭して近隣を動かした。兄弟は仲睦まじく、尊卑は和やかで、貧しさに安んじて道を楽しみ、白髪になるまで共に過ごした。
また、猗氏県の者、令狐仕は、兄弟四人で、早くに父を亡くし、十年にわたり泣き慕い、母を養い、孝行が郷里に顕著であった。そして田畑を耕して粟を蓄え、広く施しをやめなかった。
また、河東郡の者、楊風ら七百五十人は、楽戸の皇甫奴兄弟を称えて、兵卒の身分に沈んでいても操り志向はますます高く、継母を養い、恭順と孝行の称賛が甚だ顕著であると列挙して述べた。
また、東郡小黄県の者、董吐渾と兄の養は、親に仕えること至孝で、三世が同居し、家門に礼節があった。景明(500–503年)の初め、畿内大使の王凝が彼らを表彰するよう奏上し、詔はこれに従った。
呉悉達
呉悉達は、河東郡聞喜県の人である。兄弟三人は、年齢ともに幼く、父母が人に殺され、四季を通じて泣き慕い、その悲しみは郷里の人々を感動させた。成長して仇を討ち、永安の地に避難した。兄弟は四十余年にわたり同居し、家門は和睦し、安逸を譲り労苦を競った。凶作の年には粥さえ続かぬこともあったが、賓客が通りかかれば必ず所有するものを尽くしてもてなした。毎回、地方官の葬儀があれば、私的に車牛を調達し、葬送の地まで送った。隣人の孤貧で困窮する者には、衣服を解き食糧を分けて救済しなかった者はなかった。郷里の五百余人が州に赴いて彼らを称賛した。刺史は悉達兄弟の行いが郷里に顕著であるとして、板書により悉達の父に勃海太守を追贈した。悉達は後に改葬しようとしたが、墳墓の所在が分からず、探し求めても得られず、号哭の声は昼夜止まず、神祇に訴えた。すると突然、悉達の足元の地が陥没し、父の墓誌銘を得た。そこで曾祖以下、三世九人の遺骸を改葬し、 資 産を傾け尽くし、他人に頼ることなく、哀痛のあまり憔悴し、初めて喪に服した時を上回った。役所が上奏して聞かせると、里門に表彰し賦役を免除し、孝義を顕彰した。
時に、斉州の者、崔承宗がいた。その父は宋の時代に漢中に仕え、母が亡くなり、そこに葬られた。後に青州・徐州が北魏に帰順したため、遂に隔絶された。承宗は性、至孝であり、万里の険路を冒し、密かに道を通って母の遺骸を背負い都に帰還した。黄門侍郎の孫恵蔚がこれを聞き、「私はこの人に廉范の情けを見た」と言った。そこで弔問と贈り物を礼を尽くして行い、旧知の間柄のようであった。
王続生
王続生は、 滎陽 郡京県の人である。継母の喪に遭い、喪に服して杖をついてから起き上がった。喪の礼制を終えると、鬢の毛が全て落ちた。役所が上奏して聞かせると、世宗(宣武帝)は詔を下し、里門に表彰し、その徭役を免除した。
李顕達
李顕達は、潁川郡陽翟県の人である。父の喪に際し、七日間、水さえ口にせず、鬢の毛が落ち、体は枯れ衰えた。六年にわたり墓の傍らに廬を結び、声を絶やさず泣き、ほとんど命を絶つほどであった。州牧の高陽王元雍がその状況を奏上すると、霊太后は詔を下し、その里門を表彰した。
張昇
張昇は、 滎陽 の人である。父母の喪に服し、鬢の毛が落ち、水さえ口にせず、数升の血を吐いた。詔が下り、里門を表彰した。
倉跋
倉跋は、 滎陽 郡京県の人である。母を喪い、水漿を口に入れず五日、数升の血を吐き、憂いに居て毀瘠し、州里に称された。有司が奏聞し、出帝(孝武帝)が詔して門閭を標した。
王崇
王崇は、字を乾邕といい、陽夏郡雍丘県の人である。兄弟ともに孝をもって称された。身をもって稼穡に勤し、二親を養った。梁州鎮南府の主簿に仕えた。母が亡くなると、杖にすがって後やっと立ち上がり、鬢の髪が堕落した。未だ葬に及ばず、仮に宅の西に殯した。王崇は殯所に廬し、昼夜哭泣し、鳩や鴿が群れ来た。一羽の小鳥あり、素質に墨眸、形は雀の如く大で、王崇の廬に棲み、朝夕去らなかった。母の喪が始めて闋け、また父の憂いに遭い、哀毀して礼を過ごした。この年、陽夏に風雹あり、過ぐる所の禽獣は暴死し、草木は摧折した。王崇の田畔に至ると、風雹は便ち止み、禾麦十頃、竟に損落無く、王崇の地を過ぎると、風雹は初めの如くであった。皆、至行の感ずる所と称した。王崇は服を除いた後も、なお墓側に居た。その室の前に草が一本生え、茎葉甚だ茂り、人識る者無し。冬中に至り、また烏が王崇の屋に巣を作り、三子を乳養し、毛羽成長し、馴れて驚かず。守令これを聞き、自ら臨視した。州が奏聞し、その門閭を標した。
郭文恭
郭文恭は、太原郡平遙県の人である。太平県令として仕えた。年七十を踰え、父母喪亡す。文恭は孝慕極まり無く、乃ち祖父の墓次に居り、晨夕に拜跪した。跣足で土を負い、祖父と父の二墓を培い、寒暑に力を竭し、積年已まず、見る者哀歎せざるは無し。尚書が聞奏し、その門閭を標した。
史評
史臣曰く、天地を塞ぎ四海を横たうるは、唯孝のみなり。然らば則ち始めは孝敬の方(道)を敦くし、終わりに哀思の道を極むる、其れ亦多緒なりと雖も、其の心は一なり。蓋し上智は自然の質を禀け、中庸は企及の義有り、其の名を成すに及びては、其の美は一なり。趙琰等は或いは公卿の緒より出で、礼教を 籍 て以て 資 り、或いは茅簷の下より出で、奬勸の得る所に非ず。乃ち土を負いて墳を成し、毀滅性に致す者有り、先王の典制に乖くとは雖も、亦過ちを観て仁を知るなり。
校勘記