【序】

【序】

文の用を為すこと、その来ること久し。昔より聖達の作、賢哲の書、統理を成して章と為し、気を蘊みて致を標すこと莫からず。その流れ広く変じ、諸れ一貫に非ず、文質推移し、時と倶に化す。淳于は斉に出でて、雕龍の目有り。霊均は楚に逐われて、嘉禍の章を著す。漢の西京に於いては、馬揚を首称と為し、東都の下に於いては、班張を雄伯と為す。曹植は魏世の英を信じ、陸機は則ち晋朝の秀たり、同時に並列すと雖も、途を分かちて遠くを争う。永嘉の後、天下分崩し、夷狄交馳し、文章殄滅す。昭成・太祖の世、南に燕趙を収め、俊乂を網羅す。高祖天を馭するに逮び、鋭く情を文学に寄せ、蓋し漢徹に頡頏し、曹丕を掩踔せんとし、気韻高豔、才藻独構す。衣冠仰止し、咸く新風を慕う。粛宗位を歴て、文雅大いに盛んに、学者牛毛の如く、成る者麟角の如し。孔子曰く「才難し、其れ然らざるか」と。

袁躍

袁躍、 あざな は景騰、陳郡の人、 尚書 しょうしょ 袁翻の弟なり。博学儁才、性俗を矯めず、交友に篤し。翻、毎に人に謂いて曰く「躍は我が家の千里駒と謂うべし」と。褐を釈けて 司空 しくう 行参軍となり、位を歴て尚書都兵郎中、員外 散騎常侍 さんきじょうじ を加えらる。明堂を立たんとす。躍乃ち議を上す。当時其の博洽を称す。 蠕蠕 じゅんじゅん の主阿那瓌、亡破して来奔す。朝廷之を矜み、送りて其の国を復せしむ。既にして毎に使を遣わして朝貢すれども、辞旨頗る礼を尽くさず。躍、朝臣の為に書を瓌に与え、禍福を以て陳べ、言辞甚だ美なり。後に車騎将軍・ 太傅 たいふ ・清河王懌の文学に遷り、雅く懌に愛賞せらる。懌の文表は多く躍に出づ。卒す。冠軍将軍・吏部郎中を贈らる。制する所の文集世に行わる。子無し。兄翻、子聿脩を以て継がしむ。

聿脩、字は叔徳、七歳にして喪に遭い、居処の礼成人の若し。九歳、州に辟せられて主簿と為る。性沈深、鑑識有り、清靖寡欲、物と競わず。姨夫尚書崔休深く知賞す。年十八、本州中正を領し、兼ねて尚書度支郎中と為る。斉、禅を受く。太子庶子を除かれ、本官を以て博陵太守を行ふ。

裴敬憲

裴敬憲、字は孝虞、河東聞喜の人なり。益州 刺史 しし 裴宣の第二子。少より志行有り、学博く才清し。諸弟を撫訓し、専ら読誦を以て業と為す。栄利に澹く、風気俊遠なり。郡功曹を徴すれども就かず。諸府辟命有れば、先ず其の弟を進む。世人之を歎美す。司州牧・高陽王雍、秀才を挙げ、射策高第し、太学博士を除かる。性和雅、未だ嘗て人に失色せず。隷草に工み、音律を解し、五言の作、時に独り擅る。名声甚だ重く、後進共に宗慕す。中山王部に之かんとす。朝賢河梁に送り、詩を賦して別を言ふ。皆敬憲を以て最と為す。其の文は贍逸すること能わずと雖も、清麗の美有り。少より気病有り。年三十三にして卒す。人物甚だ之を悼む。敬憲、世に仁義を郷里に有す。孝昌中、蜀賊陳双熾過ぐる所残暴なりと雖も、敬憲の宅に至れば、輒ち相約束し、焚焼することを得ず。物に伏せらるること此の如し。永興三年、 中書 ちゅうしょ 侍郎を贈られ、 おくりな して文と曰ふ。

盧観

盧観、字は伯挙、范陽涿の人なり。少より好学、儁才有り。秀才に挙げられ、射策甲科し、太学博士・著作佐郎を除かる。太常少卿李神儁・光禄大夫王誦等と尚書上省に在りて朝儀を撰定し、尚書儀曹郎中を拝す。孝昌元年卒す。

封肅

封肅、字は元邕、勃海の人、尚書封回の兄の子なり。早くより文思有り、経史に博く渉り、太傅崔光見て賞す。位は太学博士、起居注を修め、兼ねて廷尉監と為る。還園賦を為り、其の辞甚だ美なり。正光中、京兆王西征し、引きて大行臺郎中と為し、書記を委ぬ。還りて尚書左中兵郎中を除かれ、卒す。肅、性恭儉、妄りに交遊せず、唯だ崔励及び励の従兄鴻と尤も相親善す。製する所の文章多く亡失し、存する者十余巻。

邢臧

邢臧、字は子良、河間の人、光禄少卿邢虬の長孫なり。幼くして孤、早く操尚を立て、博学藻思有り。年二十一、神龜中、秀才に挙げられ、策を問うこと五条、上第に考へられ、太学博士と為る。正光中、明堂を立つるを議す。臧は裴頠の一室の議を為し、事は行はれずと雖も、当時其の理博を称す。出でて本州中従事と為り、雅く郷情に附せらる。永安初、金部郎中に徴さるれども、疾を以て赴かず。転じて東牟太守を除かる。時に天下多事、在職少なく能く廉白なること有らず。臧独り清慎に法を奉じ、吏民之を愛す。隴西李延寔、庄帝の舅、太傅を以て出でて青州を除かれ、臧を啓して属と為し、楽安内史を領せしむ。恵政有り。後に濮陽太守を除かれ、尋いで安東将軍を加えらる。臧、和雅信厚、長者の風有り、時人の愛敬する所と為る。特進甄琛の行状を為り、世其の工を称す。裴敬憲・盧観兄弟と並びに交わり分を結び、曾て回文集を共に読む。臧独り先ず之を通ず。古来の文章を撰び、併せて作者の氏族を敍し、号して文譜と曰ふ。未だ就かず、病にて卒す。時賢之を悼惜す。其の文筆凡そ百余篇。鎮北将軍・定州刺史を贈られ、諡して文と曰ふ。

子の恕、学に渉り識悟有り。

裴伯茂

裴伯茂は河東の人であり、 司空 しくう 中郎裴叔義の第二子である。若くして風采と声望があり、学問は諸書に渉り、文藻豊かであった。官に就いて奉朝請となった。大将軍・京兆王元継が西征するに当たり、鎧曹参軍に抜擢した。南征して絳蜀の陳双熾を討つに当たり、行台長孫承業の行台郎中となった。承業が京師に還ると、伯茂を留めてなお行台の事務を執らしめた。薛鳳賢らを平定した功により平陽伯に叙された。再び 散騎常侍 さんきじょうじ に遷り、起居注を掌った。太昌の初め、中書侍郎となった。永熙年間、出帝の兄の子広平王元賛が盛んに賓僚を選ぶに当たり、伯茂を文学とし、後に中軍大将軍を加えた。

伯茂は酒を好み、やや疎放で傲慢であり、長らく官職が遷らず、かつて豁情賦を作り、その序に大略曰く、「余は養生を誤り、服餌の術に乏しく、春より夏に至るまで、三たび病に罹る。たとえ桐君の上薬も、時に効を致すことはあれど、草木の下性は、実に襟懐を縈らす。故にまた莊生を究め覧て、斉物の具体に及び、物我両忘し、是非ともに遣わす、斯の人の達する所、吾が師とすべきなり。故にこの賦を作り、以て名を豁情に託し、風謠に寄す」と。天平の初め ぎょう に遷都するに当たり、また遷都賦を作ったが、文は多く載せない。

二年、内宴の際、伯茂が殿中尚書・章武王元景哲を侮慢したため、景哲は遂に啓上して、「伯茂はその本列を棄て、監と同行し、梨を以て案を撃ち、傍らに冠服を汚し、禁庭の内にて人に衣を提げしむ」と称した。詔して所司に付したが、後についに罪には問われなかった。伯茂は先に出てその伯父の仲規の後を継ぎ、兄の景融とは別居した。景融は貧窮していたが、伯茂は少しも賑恤せず、ほとんど行路の人の如くであった。世間はこれをもって彼を貶し軽んじた。三十九歳で卒し、知己旧友は歎惜した。

伯茂は末年、激しく飲酒を止めず、ついに性情を損ない、過失多くあった。没する前数日、忽然として「吾は密信を得たり、収掩されんとす」と言い、妻と車に乗り西へ逃避した。後に壁中を顧み指さして、官人が追いかけると言い、妻は初めてその病を知った。卒後、家園に殯し、友人常景・李渾・王元景・盧元明・魏季景・李騫ら十数人が墓傍に酒を設け祭を営み、哀哭涕泣し、一飲み一たび酹して曰く、「裴中書の魂霊あらば、吾らを知らん」と。乃ち各々詩一篇を賦した。李騫は魏收もまた彼と友であったので、詩を寄せて示した。収は時に 晋陽 しんよう におり、乃ち同じく作して伯茂を論じ叙し、その十字に「風に臨みて玄度を想い、酒に対して公榮を思う」と云う。時に人は伯茂の性侮傲なるを以て、収の詩は頗る事実を得たりと謂った。 散騎常侍 さんきじょうじ えい 將軍・度支尚書・雍州刺史を贈られ、重ねて吏部尚書を贈られ、諡して文と曰う。伯茂はかつて晋書を撰したが、ついに完成できなかった。子なく、兄景融が第二子孝才を継がせた。

邢昕

邢昕は字を子明といい、河間の人であり、尚書邢巒の弟邢偉の子である。幼くして孤となり、祖母李氏に愛された。学を好み、早くから才情があった。蕭寶夤が車騎大将軍として開府し関中を討つに当たり、子明を東閤祭酒とし、文翰を委ねた。軍中において盪寇将軍に任官し、累遷して 太尉 たいい 記室参軍となった。吏部尚書李神儁が昕に起居注を修めさせた。太昌の初め、中書侍郎に除され、平東将軍・光禄大夫を加えられた。時に官級を冒窃したと言われ、中尉に弾劾され免官となり、乃ち述躬賦を作った。間もなく、詔を受けて秘書監常景と儀注事を典した。出帝が釈奠の礼を行うに当たり、昕は校書郎裴伯茂らとともに録義となった。永熙の末、昕は侍読として入朝し、溫子昇・魏收とともに文詔を参掌した。鄴に遷都すると、河間に帰った。天平の初め、 侍中 じちゅう の従叔邢子才・魏季景・魏收とともに徴されて都に赴いた。間もなく郷里に還った。既にしてまた徴された。時に蕭衍の使い兼 散騎常侍 さんきじょうじ 劉孝儀らが朝貢に来たので、詔して昕に兼正員郎を以て境上に迎えさせた。 司徒 しと 孫騰が中郎に引いた。間もなく通直常侍に除され、中軍将軍を加えられた。才藻ある上に、幾案の務にも長じていた。孝昌以後、天下多事となり、世人は競って吏工を以て達し、文学は大いに衰えた。司州中从事宋遊道は公断をもって知られ、時に昕と嘲謔した。昕これに謂って曰く、「世事は文学の外なるを知る」と。遊道は慚色あり。興和年間、本官を以て李象の副使として蕭衍に使した。昕は物に逆らい好み、人はこれを牛と謂った。この行に当たり、談者はこれを江南における牛象の闘いと謂った。斉の文襄王が選事を摂ると、昕を 司徒 しと 右長史に擬したが、奏上せず、疾に遇い卒した。士友これを悲しんだ。車騎将軍・都官尚書・冀州刺史を贈られ、諡して文と曰う。著した文章は、自ら集録がある。

溫子昇

溫子昇は字を鵬挙といい、自ら云うには太原の人、晋の大将軍溫嶠の後裔であるという。代々江左に居住した。祖父の恭之は、劉義隆の彭城王劉義康の戸曹となり、難を避けて帰国し、済陰冤句に家し、因ってその郡県の人となった。家世は寒素であった。父の暉は、兗州左将軍府長史となり、済陰郡の事務を行った。

子昇は初め崔霊恩・劉蘭に学を受け、精勤し、夜を日に継ぎ、昼夜倦むことなかった。長じて乃ち百家を博覧し、文章は清婉であった。広陽王元淵の賤客となり、馬坊で諸奴子に書を教えた。侯山祠堂碑文を作ると、常景これを見て善しとし、故に淵を詣でて謝した。景曰く、「近頃溫生を見る」と。淵怪しんで問うと、景曰く、「溫生は大才士なり」と。淵はこれにより漸く之を知った。

熙平の初め、中尉・東平王元匡が広く辞人を召し、御史に充てようとし、同時に射策した者八百余人、子昇と盧仲宣・孫搴ら二十四人が高第となった。時に選に預かる者は争って引決しようとしたが、匡は子昇にこれを当たらせると、皆屈して去った。搴は人に謂って曰く、「朝来旗靡え轍乱るる者は、皆子昇の逐北する所なり」と。遂に御史に補され、時に年二十二。台中の文筆は皆子昇がこれを為した。憂いにより任を去り、服闋して、還って朝請となった。後、李神儁が荊州の事務を行うに当たり、兼録事参軍に引いた。省に徴し赴かせようとしたが、神儁は表して留めて遣わさなかった。吏部郎中李奬が表を退けて許さず、曰く、「昔し伯瑜の留まらざるに応ぜざるは、王朗の歎きを発する所以なり。速やかに遣わし赴かしめ、彦雲の前失を踵ぐことなかれ」と。ここに於いて省に還った。

正光の末、広陽王元淵が東北道行台となると、郎中に召し、軍国の文翰は皆その手に出た。ここに於いて才名転じて盛んとなった。黄門郎徐紇は四方の表啓を受け、敏速に答えたが、淵に対してのみ独り沈思して曰く、「彼には溫郎中あり、才藻畏るべし」と。 高車 こうしゃ が破れて走り、珍実盈満したが、子昇は絹四十匹を取った。淵が葛栄に害されると、子昇もまた拘執された。栄の下の 都督 ととく 和洛興は子昇と旧識であり、数十騎を以て密かに子昇を送り、冀州に達し得た。京に還ると、李楷その手を執りて曰く、「卿今免るるを得、夷甫をして徳に慚じしむるに足る」と。ここより宦情復たなく、門を閉ざし書を読み、精を励みて已まなかった。

建義の初め、南主客郎中となり、起居注を修めた。かつて一日、出仕せず、上党王元天穆が当時録尚書事として、これを捶撻せんとし、子昇は遂に逃げ隠れた。天穆は甚だ怒り、人を奏して代えさせようとした。荘帝は言った、「当世の才子は数人に過ぎず、どうしてこのようなことで、便りに放黜せんや」と。乃ちその奏を寝かせた。天穆が邢杲を討たんとするに及び、子昇を召して同行せしめようとしたが、子昇は敢えて応じなかった。天穆は人に謂って言った、「我はその才用を収めんと欲するのであって、どうして前の忿りを懐かんや。今また来なければ、便りに南は越に走り、北は胡に走るのみ」と。子昇は已むを得ずしてこれに会った。伏波将軍を加えられ、行臺郎中となり、天穆は深くこれを賞した。元顥が洛に入ると、天穆は子昇を召して問うて言った、「即ち京師に向かわんとするか、我に随って北に渡るか」と。対えて言うには、「主上は虎牢の失守により、この狼狽を致した。元顥は新たに入り、人情未だ安からず、今往きてこれを討てば、必ず征有りて戦無し。王若し京師を克復し、大駕を奉迎すれば、桓文の挙なり。これを捨てて北に渡るは、窃かに大王のためこれを惜しむ」と。天穆はこれを善しとしながらも用いることができなかった。子昇を遣わして洛に還らせ、顥はこれをもって中書舎人とした。荘帝が宮に還ると、顥に任ぜられた使者は多く廃黜されたが、子昇は復た舎人となった。天穆は毎に子昇に謂って言った、「卿の前の計を用いざりしを恨む」と。正員郎に除され、仍って舎人であった。

帝が尒朱栄を殺すに及び、子昇は謀に預かり、当時の赦詔は、子昇の詞であった。栄が内に入り、子昇に遇い、詔書を把って問うて何の文書ぞと、子昇は顔色変ぜず、曰く「勅なり」と。栄はこれを見なかった。尒朱兆が洛に入ると、子昇は禍を懼れて逃げ隠れた。永熙年中、侍読兼舎人・鎮南将軍・金紫光禄大夫となり、 散騎常侍 さんきじょうじ ・中軍大将軍に遷り、後に本州大中正を領した。

蕭衍は張皐を使わして子昇の文筆を写させ、江外に伝えた。衍はこれを称して言った、「曹植・陸機が北土に復た生まれた。我が辞人を恨む、数窮まりて百六なり」と。陽夏太守傅標が吐谷渾に使いし、その国の主の牀頭に書数巻有るを見るに、乃ち子昇の文であった。済陰王元暉業は嘗て云う、「江左の文人、宋には顔延之・謝霊運有り、梁には沈約・任昉有り、我が子昇は以て顔を陵ぎ謝を轢き、任を含み沈を吐くに足る」と。楊遵彦は文徳論を作り、古今の辞人は皆才を負いて行いを遺し、澆薄にして険忌なりと為し、唯だ邢子才・王元景・温子昇のみ彬彬として徳素有りと為した。

斉の文襄王は子昇を引いて大将軍府諮議参軍とした。子昇は前に中書郎となり、嘗て蕭衍の客館に詣でて国書を受け、自ら容止を修めざるを以て、人に謂って言った、「詩章は作り易く、逋峭は為し難し」と。文襄の館客元僅は言った、「諸人は賀すべし」と。子昇を推して辞を陳ぶるに合せしめた。子昇は久しく忸怩とし、乃ち陸操を推した。元僅・劉思逸・荀済等が乱を為すに及び、文襄は子昇がその謀を知れるを疑った。方にこれを使わして献武王の碑文を作らしめ、既に成りて、乃ち諸を晋陽の獄に餓えさせ、弊襦を食らって死に、尸を路隅に棄て、その家口を没した。太尉長史宋遊道がこれを収葬し、又その文筆を集めて三十五巻と為した。子昇は外は恬静にして、物と競わず、言に準的有り、妄りに毀誉せず、而して内は深険であった。事故の際、好んでその間に預かり、以て終に禍敗を致した所以である。又永安記三巻を撰した。子無し。

【史評】

史臣曰く、古の人の貴ぶ所、名の朽ちざる者は、蓋し言を重んじて尚存し、又これに才名を加うれば、その貴顕なるは、固より其れ宜なり。余は或いは位下にして人微なり、居常また何ぞ能く自ら達せん。その霊蛇握るべく、天網俱に頓くに及び、並びに緗素に編まれ、咸に儒林に貫かる。其の位は下ぐべく、其の身は殺すべしと雖も、千載の後、貴賤一なり。此の道に非ざれば、孰れか能く致すと云わん。凡そ百の士子、務めざるべけんや。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻85