巻9

粛宗孝明皇帝、 いみな は詡、世宗宣武皇帝の第二子、母は胡充華という。永平三年三月丙戌、帝は宣光殿の東北に生まれた。庭中に光が照った。延昌元年十月乙亥、皇太子に立てられた。

延昌四年

四年春正月丁巳の夜、即ち皇帝の位に即く。戊午、天下に大赦す。己未、西を討ち東を防ぐ諸軍を徴発す。庚申、詔して 太保 たいほう ・高陽王雍をして西栢堂に入居せしめ、庶政を決せしむ。また詔して任城王澄を 尚書 しょうしょ 令と為し、百官は己を総べて二王に聴かしむ。己巳、勿吉・達槃・地豆和・尼歩伽・抜但・佐越費実等の諸国、使いを遣わして朝献す。

二月庚辰、皇后高氏を尊びて皇太后と為す。辛巳、 司徒 しと 高肇、京師に至り、罪を以て死を賜う。蕭衍の寧州 刺史 しし 任太洪、衆を率いて関城を寇す。益州長史成興孫、これを撃ち破る。癸未、太保・高陽王雍、位を進めて 太傅 たいふ 太尉 たいい を領す。 司空 しくう ・清河王懌、 司徒 しと と為る。驃騎大将軍・広平王懐、 司空 しくう と為る。己亥、胡充華を尊びて皇太妃と為す。宕昌国、使いを遣わして朝献す。

三月甲辰朔、皇太后、俗を出でて尼と為り、金墉に徙御す。丙辰、詔して宮臣の位を一級進む。先だって、蕭衍、浮山に於いて淮を堰き、揚州・徐州の害を図る。詔して平南将軍楊大眼をしてこれを討たしむ。乙丑、文武の群官の位を一級進む。

夏四月、梁州刺史薛懐古、沮水に於いて反 てい を破る。

五月甲寅、南秦州刺史崔暹、氐賊を撃ち破り、武興の囲みを解く。

六月、沙門法慶、衆を聚めて冀州に於いて反し、阜城令を殺し、自ら大乗と称す。

秋七月癸卯、 蠕蠕 じゅんじゅん 国、使いを遣わして朝献す。丁未、詔して右光禄大夫元遙に征北大将軍を仮し、法慶を攻討せしむ。宕昌国、使いを遣わして朝献す。

八月乙亥、領軍于忠、詔を矯って左 僕射 ぼくや 郭祚・尚書裴植を殺し、太傅・太尉を領す高陽王雍の官を免じ、王をして第に還らしむ。丙子、皇太妃を尊びて皇太后と為す。己卯、吐谷渾国、使いを遣わして朝献す。庚辰、蕭衍の定州刺史田超秀、衆三千を率いて降を請う。戊子、帝、宣光殿に於いて皇太后に朝し、天下に大赦す。己丑、 司徒 しと ・清河王懌、位を進めて太傅、太尉を領す。 司空 しくう ・広平王懐、太保、 司徒 しと を領す。驃騎大将軍・任城王澄、 司空 しくう と為る。庚寅、車騎大将軍于忠、 尚書令 しょうしょれい と為る。特進崔光、車騎大将軍と為り、並びに儀同三司。壬辰、前の江陽王継の本国を復す。済南王彧を以て先の封を復し、臨淮王と為す。群臣、奏請して皇太后の臨朝称制を請う。

九月乙巳、皇太后、親しく万機を覧る。詔して曰く、「高祖は礼を革めて治を成し、遺沢民に在り。世宗は丕業を纂承し、聖徳昭かに達す。朕は沖孺を以て、宝図に当たらんとす。洪基至って重し、薄氷を履むが若し。王公百辟・群牧庶官、皆先朝に遇いを受け、寵栄昔より自り、宜しく各々勉めて崇め、共に世道を康んじ、力を勠し誠を竭くして、以て不逮を匡輔すべし。道を丘園に懐き、跡を板築に昧み、山に栖み谷に飲み、舒巻時に従う者有らば、宜しく戔帛を広くし、鼎餁を緝和すべし。能く讜言直諫し、世を済い時を益する者有らば、在所にて聞こえしめ、当に不次の位を以て待つべし。孝子・順孫・義夫・節婦は、その門閭を表し、以てその美を彰すべし。高年孤独自ら存すること能わざる者は、粟帛を以て贍う。若し飢えに因りて業を失い、天属流離し、或いは男女を売り鬻ぎて以て僕隷と為す者有らば、各々帰還を聴す。比来冀方未だ粛ならず、徐城寇擾し、将統久しく労し、士卒疲弊す。並びに撫慰を遣わし、衣馬を以て賜う。辺境の州鎮、固く捍ぐの労、朔方の酋庶、北面に委ぬる所、また労賚を令し、以てその心に副うべし。先朝の旧事寝て挙げざる有り、頃来便習軌式に依らざる者有らば、並びに疏を以て聞こえしめ、当に覧み裁すべし。若し時を益し治に利し、常制に拘わらざる者は、自ら別例に依れ。明らかに相申し約し、朕が意に称えよ。」甲寅、征北元遙、法慶及び渠帥百余りを破り斬り、首を京師に伝う。安定王爕薨ず。庚申、高昌・庫莫奚・契丹諸国、並びに使いを遣わして朝献す。蕭衍の将趙祖悦、硤石を襲い拠る。癸亥、詔して定州刺史崔亮に鎮南将軍を仮し、諸将を率いてこれを討たしむ。冀州刺史蕭宝夤を鎮東将軍と為し、淮堰に次がしむ。戊辰、鄧至国、使いを遣わして朝貢す。

冬十月庚午朔、勿吉国、楛矢を貢ぐ。壬午、高麗・吐谷渾国、並びに使いを遣わして朝献す。乙酉、安定公胡国珍を以て 中書 ちゅうしょ 監・儀同三司と為す。甲午、蕭衍の弘化太守杜桂、郡を挙げて内属す。

十二月辛丑、高陽王雍を太師と為す。己酉、鎮南崔亮、祖悦を破り、遂に硤石を囲む。丁卯、帝・皇太后、景陵に謁す。 高車 こうしゃ 国、使いを遣わして朝献す。

熙平元年

熙平元年春正月戊辰朔、大赦し、年を改む。荊沔 都督 ととく 元志、大いに蕭衍軍を破り、その恒農太守王世定等を斬る。吏部尚書李平を鎮軍大将軍兼尚書右僕射と為し、行臺と為し、硤石を討つ諸軍を節度せしむ。

二月乙巳、鎮東将軍蕭宝夤が淮北において蕭衍の将を大破す。癸亥、初めて秀才に対策を聴き、第が中上以上に在る者を叙す。乙丑、鎮南将軍崔亮・鎮軍将軍李平等が硤石を攻略し、蕭衍の 州刺史趙祖悦を斬り、その首を京師に伝え、その衆を悉く俘虜とす。是の月、吐谷渾・宕昌・鄧至等の諸国並びに遣使して朝貢す。

三月辛未、揚州刺史李崇を以て驃騎将軍・儀同三司と為す。壬辰、硤石の俘虜を分ちて百僚に賜う。

夏四月戊戌、瀛州の民飢うるを以て、倉を開き賑恤す。高昌・陰平国並びに使を遣わして朝献す。

五月丁卯朔、詔して曰く「炎旱積辰、苗稼萎悴し、比は微澍有りと雖も、猶未だ霑洽せず、晩種納れず、企望憂労す。予が責に在り、思うに自ら兢厲すべし。尚書は獄犴を釈恤し、其の淹枉を察し、軽重を簡量し、事に随ひて以て聞こえしむべし。一人も怨嗟する無く、和気を増傷せしむる無からしむべし。土木の作役は、権に皆休罷し、農を勧め務を省み、力を田疇に肆はしむべし。庶幾くは嘉沢近く降り、豊年必ず有らんことを」。蕭衍の衡州刺史張齊、益州を寇す。復た傅豎眼を以て刺史と為し、之を討たしむ。頻りに賊軍を破り、其の将任太洪の首を斬る。庚午、詔して華林の野獣を山沢に放つ。丙戌、吐谷渾使を遣わして朝献す。

秋七月庚午、牛を殺すの禁を重ねて申す。丙子、詔して兵士硤石に征する者は租賦を一年復す。傅竪眼、張齊を大破し、齊遁走す。乙酉、高昌国使を遣わして朝献す。

八月乙巳、 侍中 じちゅう 中書監 ちゅうしょかん ・儀同三司・安定郡開国公胡国珍を以て 都督 ととく 雍涇岐華東秦豳六州諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・雍州刺史と為す。丙午、詔して曰く「先賢列聖、道は生民を冠し、仁風盛徳、煥乎として図史に在り。歴数永く終わり、迹は物に随ひて変じ、陵𡑞沓藹、鞠として茂草と為る。古帝諸陵、多く践藉を見る。明らかに所在に勅し、諸に帝王の墳陵有る者は、四面各五十歩、耕稼を聴く勿れ」。宕昌国使を遣わして朝貢す。

九月丁丑、淮堰破れ、蕭衍の縁淮の城戍村落十余万口、皆海に漂入す。

十二月癸巳、詔して 洛陽 らくよう ・河陰及び諸曹雑人の年七十以上、鰥寡貧困自ら存すること能わず、及び年は少なきと雖も痼疾長く廃し、窮苦済まざる者、実を研ぎ具に列して以て聞こえしむ。

熙平二年

二年春正月、大乗の余賊復た相集結し、瀛州を攻む。刺史宇文福之を討平す。甲戌、大赦天下す。戊子、勿吉国使を遣わして朝貢す。庚寅、詔して大使を遣わし四方を巡行せしめ、疾苦を問ひ、孤寡を恤み、幽明を黜陟す。又詔して曰く「選曹人を用うるに、務めて才を得るに在り、広く栖遁を求め、共に治道を康せしむべし。州鎮の城隍、各令して厳固ならしむ。斎会聚集し、妖諠を糾執すべし。囹圄皆令して屋を造り、桎梏は務めて軽小を存すべし。工巧浮迸、隠藏するを得ず。絹布繒綵、長短は式に合すべし。軍階を偷竊するも、亦悉く沙汰す。籍貫実ならず、普く糾案せしめ、自ら帰首するを聴き、逋違すれば罪を加う」。詔して中尉元匡に権衡を考定せしむ。癸丑、地伏羅・罽賓国並びに使を遣わして朝献す。

二月庚子、契丹・鄧至・宕昌等の諸国並びに使を遣わして朝献す。丁未、御史中尉元匡を封じて東平王と為す。

三月甲戌、吐谷渾国使を遣わして朝献す。丁亥、太保・領 司徒 しと ・広平王懐薨ず。

夏四月甲午、高麗・波斯・疏勒・嚈噠等の諸国並びに使を遣わして朝献す。丁酉、詔して京尹の統ぶる所、百年以上には大郡の板を賜ひ、九十以上には小郡の板を賜う。戊申、 中書監 ちゅうしょかん ・開府儀同三司胡国珍を以て 司徒 しと 公と為し、特進・汝南王悦を以て 中書監 ちゅうしょかん ・儀同三司と為す。乙卯、皇太后伊闕石窟寺に幸す、即日宮に還る。安定王超、改めて封ぜられて北平王と為す。

五月辛酉、詔して曰く「揚州硤石・荊山・新淮・酇城の兵士戦没する者は、追ひて斂財を給し、一房五年を復す。若し妻子無くば、其の家一人二年を復す。身三創を被る者は、一階を賞す。一創と雖も四体廃落する者も、亦此の賞に同じ」。庚辰、天文の禁を重ねて申し、犯す者は大辟を以て論ず。乙酉、鄧至国使を遣わして朝貢す。

秋七月乙丑、地伏羅・罽賓国並びに使を遣わして朝献す。乙亥、 中書監 ちゅうしょかん ・儀同三司・汝南王悦、人を殺すに坐し免官し、王を以て第に還る。己巳、車駕太廟に事有り。

八月戊戌の日、太祖以来の宗室で十五歳以上の者を顕陽殿に宴し、家人の礼を述べた。己亥の日、詔して庶族の子弟で年十五に満たない者は仕官を許さないとした。詔して曰く、「皇魏は基を開き、道は周漢に邁り、二都に蝉連し、徳は百祀に盛んである。帝胤は蕃衍すれども、親賢並びに茂るも、なお素履に沈屈し、巾褐衡門にあり、広く戚族を命じ、王室を翼屏する所謂に非ず。今、世の近遠に依り、之を列位に叙すべし」。庚子の日、詔して咸陽王・京兆王の子女を還らせて属籍に附せしめた。壬寅の日、吐谷渾国が使いを遣わして朝献した。丁未の日、詔して侍中・太師・高陽王元雍をして門下に入居せしめ、尚書の奏事を参決せしめた。己酉の日、契丹国が使いを遣わして朝貢した。

九月辛酉の日、吐谷渾国が使いを遣わして朝貢した。丙寅の日、詔して曰く、「訟を察し冤を理することは、実に政の首なり。躬親して聴覧することは、民の信の由る所なり。比日、諒闇の中にありて、治綱未だ振わず、獄犴繁広く、嗟訴驟に聞こゆ。司存と曰うも、毎に誣壅多し。曾て是れ寡徳にして、実に深く矜慨す。今月の望より、当に暫く城闉を出で、親しく滞枉を納れん。主者は諸の近遠に宣べ、咸に聞知せしむべし」。是の月、青・斉・兗・涇・平・営・肆の七州の治する所の東陽・歴城・瑕丘・平涼・肥如・和龍・九原の七城を築いた。

冬十月庚寅の日、幽・冀・滄・瀛の四州に大饑あり、尚書長孫稚を遣わし、尚書鄧羨・元纂を兼ねて等しく巡撫して百姓を撫し、倉を開き賑恤した。丁酉の日、勿吉国が楛矢を貢した。戊戌の日、光州の饑弊により、使いを遣わして賑恤した。乙卯の日、詔して曰く、「北京は根旧にして、帝業の基く所なり。南遷して二紀、猶お留住する者有り。本を懐い故を楽しみ、未だ自ら遣わす能わず。未だ遷らざる者は、悉く其の仍停するを聴くべし、安堵して永業せしむべし。門才術藝、時に応じて求むる者は、自ら別に徴引すべく、斯の例に在らず。周の子孫、漢の劉族、海内に遍く、咸に蕃衍を致す。豈に南北千里のみを拘わんや」。

十一月甲子の日、蕭衍の平西将軍・巴州刺史牟漢寵が使いを遣わして降を請うた。

十二月丁未の日、蠕蠕国が使いを遣わして朝貢した。

神亀元年

神亀元年春正月甲子の日、詔して氐の酋長楊定を陰平王とした。丙寅の日、特進・江陽王元継を驃騎大将軍・儀同三司とした。壬申の日、詔して曰く、「朕沖昧にして運を撫すも、政道未だ康からず。民の疾苦、遑あらずして紀恤せず、夙宵矜慨し、鑒寐深く懐う。彼の百齢を眷み、茲の六極を悼む。京畿の百年以上には大郡の板を給し、九十以上には小郡の板を給し、八十以上には大県の板を給し、七十以上には小県の板を給す。諸州の百姓、百歳以上には小郡の板を給し、九十以上には上県の板を給し、八十以上には中県の板を給す。鰥寡孤独自ら存する能わざる者には、粟五斛・帛二匹を賜う」。庚辰の日、詔して雑役の戸或いは清流に冒入する者あり、所在の職人は皆五人相保たしめ、人保に任ずる者なきは官を奪い役に還すべしとした。乙酉の日、特進・汝南王元悦に儀同三司を加えた。秦州の きょう が反した。幽州に大饑あり、民の死者三千七百九十九人、詔して刺史趙邕に倉を開き賑恤せしめた。

二月戊申の日、嚈噠・高麗・勿吉・吐谷渾・宕昌・疏勒・久末陁・末久半の諸国、並びに使いを遣わして朝献した。己酉の日、詔して神亀の瑞を表すを以て、大赦し年号を改めた。東益州の氐が反した。蠕蠕国が使いを遣わして朝貢した。

三月辛酉の日、尚書右僕射于忠を儀同三司とした。辛巳の日、儀同三司・尚書右僕射于忠が薨じた。南秦州の氐が反し、龍驤将軍崔襲を遣わし節を持たせて之を諭した。吐谷渾国が使いを遣わして朝貢した。

夏四月丁酉の日、 司徒 しと 胡国珍が薨じた。甲辰の日、江陽王元継は京兆王に改封された。辛亥の日、舍摩国が使いを遣わして朝献した。

五月、高麗・高車・高昌の諸国並びに使いを遣わして朝貢した。正月より雨なくして六月辛卯に至り、澍雨乃ち降る。

秋七月、河州の民却鉄怱が衆を聚めて反し、自ら水池王と称した。詔して行臺源子恭に之を討たしめた。

閏月戊戌の日、吐谷渾国が使いを遣わして朝貢した。甲辰の日、恒州銀山の禁を開き、民と之を共にした。丁未の日、波斯・疏勒・烏萇・亀茲の諸国並びに使いを遣わして朝献した。

八月癸丑朔の日、詔して曰く、「朕沖昧にして曆を纂ぐも、未だ政道に閑かず。皇太后殷憂疚に在り、始めて万幾を覧る。故に獄犴淹枉し、百姓冤弊す。繁刑を言念し、降省を思存す。京師の見囚、殊死以下は悉く一等を減ずべし」。丁巳の日、詔して曰く、「頃年以來、戎車頻りに動き、服制未だ終わらざるに、哀を奪いて役に従う。罔極の痛み申さず、鞠育の恩報い靡し、敦崇至道の所謂に非ず。今より雖も金革の事有るとも、皆起居喪を請うことを得ず」。甲子の日、勿吉国が使いを遣わして朝貢した。鉄怱は相率いて行臺源子恭に降った。

九月癸未朔の日、右光禄大夫劉騰を えい 将軍・儀同三司とした。戊申の日、皇太后高氏が瑤光寺にて崩じた。

冬十月丁卯、尼を北邙に礼葬す。

十二月辛未、詔して曰く、「民生には終わりあり、下は兆域に帰す。京邑は隠賑にして、口は億万に盈つ。貴賤の憑る所、未だ定所なし。民の父母として、特に存恤すべし。今、乾脯山以西を制し、九原と為さんことを擬す」と。

神龜二年

二年春正月丁亥、詔して曰く、「朕は沖眇を以て、宝位を纂承し、夙夜惟寅、淵海に渉るが若し。皇太后の慈仁に頼り、夙訓を被る。朝に臨み極に践りてより、歳将に半紀、天平地成し、四海寧乂なり。天道は高遠にして、巍巍として名づけ難し。猶以て撝挹を自ら居とし、称号備わらず。是れ坤元を崇奉し、億兆に允協する所以に非ず。宜しく旧典に遵い、宇内に詔称し、以て黎蒸元元の望に副うべし」と。是の月、文昭皇太后高氏を改葬す。

二月乙丑、斉郡王祐薨ず。庚午、羽林千余人、征西将軍張彝の第を焚き、彝を毆傷し、其の子始均を焼殺す。吐谷渾・宕昌国並びに使いを遣わして朝貢す。乙亥、大赦天下す。丁丑、直言を求むる詔を下し、諸に上書する者、密封して通奏するを聴す。壬寅、詔して曰く、「農要の月、時沢応ぜず、嘉穀未だ納れず、三麦枯悴す。徳の感ずる無きを、歎懼兼ねて懐う。可く内外に勅し、旧に依りて雩祈し、率ねて祀典に従え。獄を察し冤を理し、胔を掩い骼を埋めよ。冀瀛の境は、往て寇暴を経、死者既に多く、白骨道に横たわる。可く専ら令を遣わし収葬せしめよ。窮を賑い寡を恤い、疾を救い老を存し、前式を準訪し、務めて周備ならしめよ」と。

三月甲辰、澍雨大いに洽う。

夏四月乙丑、嚈噠国使いを遣わして朝貢す。

五月戊戌、 司空 しくう ・任城王澄を以て 司徒 しと と為し、驃騎大将軍・儀同三司・京兆王継を 司空 しくう と為す。

秋八月己未、御史中尉・東平王匡、事に坐し官爵を削除さる。辛未、左光禄大夫皇甫集を征西将軍・儀同三司と為す。

九月庚寅、皇太后崧高山に幸す。癸巳、宮に還る。瀛州の民劉宣明、謀反を図り、事覚えて誅せらる。

冬十一月乙酉、蠕蠕の莫縁梁賀侯豆、男女七百人を率いて来降す。

十二月癸丑、 司徒 しと ・任城王澄薨ず。庚申、大赦天下す。淫祀を除き、諸の雑神を焚く詔を下す。

是歳、高麗王雲死す。世子安を以て其の国王と為す。

正光元年

正光元年春正月乙酉、詔して曰く、「国を建て民を緯むるは、教を立つるを本と為す。師を尊び道を崇ぶるは、此の典昔より自りあり。来歳仲陽、節和気潤し、孔顔に釈奠するは、乃ち其の時なり。有司は預め国学を繕い、聖賢を図飾し、官を置き牲を簡び、吉を択び礼を備うべし」と。

夏四月丙辰、詔して尚書長孫稚をして北藩を巡撫せしめ、風俗を観察せしむ。

五月辛巳、詔して曰く、「朕は寡薄を以て、運に宝図を膺け、未だ衣を求めて明かならずとも、終日惕懼す。而るに闇昧多く闕け、炎旱災を為し、予に在るの愧、寝食を忘れず。今、刑獄繁多にし、囹圄尚お積む。宜しく仁恵を敷き、以て斯の民を済うべし。八座は推鞠して囚を見、務めて枉濫を申すべし」。癸未、詔して曰く、「災を攘ぎ応を招くは、政を修むるを本と為す。民は乃ち神の主、実に率先すべし。刺史・守令は朕と天下を共に治む。宜しく哀矜して喜ばず、民を視ること傷の如くすべし。況んや今、炎旱時に歴り、万姓彫弊す。而して窮冤を撫恤せず、庶獄を理決せざるや。厳に州郡を敕し、善く綏隠を加え、務めて聡明を尽くし、之に祗肅を加え、必ず事をして人神に允ならしめ、時に霊応を致さしむべし。其の賦役民に便ならざる者は、具に状を以て聞かしめ、便ち当に蠲罷すべし」。

秋七月丙子、侍中元叉・中侍中劉騰、帝を奉じて前殿に幸し、皇太后の詔を矯りて曰く、「魏天下有り、奕葉重光す。高祖孝文皇帝は、英聖を以て天を馭し、京を徙し鼎を定む。世宗宣武皇帝は、睿明を以て業を承け、区夏を廓寧す。而るに鴻勳未だ半ばならず、早く已に登遐す。乃ち車書同じからず、鯨寇尚お熾なり。幼主稚弱にして、夙に宝曆を纂ぐ。曾て是れ宗祏、克く祗奉すべからず。朕の群請に敬順し、朝に臨み総政する所以なり。帝年以て長じ、久しく退身を思う。往歳殷勤にして、具に情旨を陳へし所以、百官内外已に此の懷を照らす。而るに僉爾衆意、苦く勤奪を見、僶俛事に従事し、以て茲に迄る。此の春より以来、先疾屡発し、薬石摂療すれども、善く瘳ゆる能わず。夏首より今に及び、数え動劇を加え、便ち日万務を釐し、巨細兼ね省するに堪えず。帝歯周星紀に及び、識学躋を踰え、日に就き月に将り、人君の道茂く、以て万邦を撫緝し、百揆を諧決するに足る。朕当に前志に率い、敬って別宮に遜り、遠く惟うに復子明辟の義に、以て自ら綏養す。実に群公黎庶に逮るまで、深く斯の理を鑒むるを望む。此くの如くせば、則ち上下休嘉し、天地清晏し、魏道熙隆し、人神慶悦す。其れ善からずや」。乃ち皇太后を北宮に幽し、太傅・領太尉・清河王懌を殺し、禁旅を総勒し、事を殿中に決す。辛卯、帝元服を加え、大赦し、年を改め、内外百官位一等を進む。

八月甲寅、相州刺史・中山王熙、兵を挙げて叉・騰を誅せんと欲し、果さずして殺さる。

九月壬辰、蠕蠕の主阿那瓌来奔す。戊戌、太師高陽王雍を以て丞相と為し、後部羽葆・鼓吹・班剣四十人を加う。

冬十月乙卯、驃騎大将軍・儀同三司・汝南王悦を以て太尉公と為す。

十有一月己亥、詔して曰く、「蠕蠕世に朔方に雄たり、漠裔を制するを擅にし、上国に隣通すること、百有餘載。神鼎南に底してより、累紀茲に于る。虔貢違うと雖も、辺燧静息し、心を憑せて象魏し、潜款弥だ純なり。今其の主阿那瓌、時難に属離し、邦分かれ親析け、万里遠馳し、有道に命を庇う。悲しみ申・伍に同じく、忠孝矜るに足る。方に興滅の師を存し、以て継絶の挙を隆せんとす。宜しく且く賓礼を以て優し、之を期して功を立てしめ、爵を疏け土を胙し、大いに河岳を啓くべし。朔方郡開国公・蠕蠕王に封じ、食邑一千戸、衣冕を錫い、軺車を以て加え、禄恤儀 えい 、戚蕃に同じくすべし」。

十有二月壬子、詔して曰く、「蠕蠕王阿那瓌、寇禍に遭離し、遠く来たりて投庇す。邦分かれ衆析けて、猶定主無し。而るに永く北風を懐い、還りて綏集せんことを思う。情切に訴啓し、良く愍然たり。夫れ存亡して敗を恤うは、古より通典なり。国使及び彼の前後三介を差し、阿那瓌に相随わしむべし。 へい せて懐朔 都督 ととく を敕し、鋭騎二千を簡び、躬自ら率護し、境首に送達せしめ、機を観て招納せしむべし。若し彼候迎せば、宜しく筐篚車馬の属を錫い、務めて優隆ならしめ、礼餞して返すべし。如し容受せざれば、任せて還闕せしむべし。其の行装資遣は、尚書に付して量りて給せしむべし」。辛酉、 司空 しくう ・京兆王継を以て 司徒 しと 公と為す。

正光二年

二年春正月、南秦州の氐反す。

二月庚戌、光禄大夫邴虬に仮に撫軍将軍を以てして之を討たしむ。癸亥、車駕国子学に幸し、孝経を講ず。

三月庚午、帝国子学に幸し孔子を祠り、顔淵を以て配す。甲午、右衛将軍奚康生、禁内に於いて将に元叉を殺さんとす。果さず、叉の矯りて害する所と為る。儀同三司劉騰を以て 司空 しくう 公と為す。

夏四月庚子、 司徒 しと 京兆王継位を進めて太保と為す。壬寅、車騎大将軍・儀同三司崔光を 司徒 しと 公と為す。蕭衍の義州刺史文僧明、衆を率いて内属す。

五月辛巳、南荊州刺史桓叔興、安昌より自ら南叛す。乙酉、烏萇国使いを遣わして朝貢す。

閏月丁巳、居密・波斯国並びに使いを遣わして朝貢す。

六月己巳、高昌国が使者を遣わして朝貢した。癸巳、勿吉国が使者を遣わして朝貢した。

秋七月癸丑、詔して曰く、「時雨降らず、禾稼損じ、朕が責に在り、夙夜震懼す。躬を克くして撤降すと雖も、仍感を招く無し。有司は旧典を修め案じ、六事を祗行すべし。圄犴に枉淹するは、随速に鞫決すべし。庶尹職を廃するは、量りて修厲を加うべし。鰥独困窮するは、在所に存恤すべし。役賦民を煩わすは、咸く蠲省を加うべし。賢良讜直なるは、時に以て升進せしめ、貪残邪佞なるは、即ち就きて屏黜すべし。男女怨曠するは、務めて会偶せしむべし。庶幾くは止懲違を革め、災沴を弭する有らん」と。

八月己巳、伏羅国が使者を遣わして朝貢した。蠕蠕の後主郁久閭侯匿伐が来奔して懐朔鎮に至る。

十一月乙未朔、高昌国が使者を遣わして朝貢した。戊申、衛大将軍・儀同三司皇甫集薨ず。癸丑、侍中・車騎大将軍侯剛に儀同三司を加える。

十二月甲戌、詔して 司徒 しと 崔光・安豊王延明等に服章を議定せしむ。庚辰、東益・南秦の氐が反すを以て、詔して中軍将軍・河間王琛に討たしむも、利を得ず。

正光三年

三年春正月辛亥、帝籍田を耕す。

夏四月庚辰、高車国主覆羅伊匐を鎮西将軍・西海郡開国公・高車王となす。

六月己巳、詔して曰く、「朕沖昧を以て、夙に宝歴を纂ぐも、上霊を祗奉し、和気を感延する能わず、致して炎旱頻歳、嘉雨洽わず、百稼燋萎し、晩種未だ下らず、将に災年と成らんとす。秋稔覬ふ莫し。朕が責に在り、憂懼震懐す。今は旧に依りて分ち有司を遣わし、馳せて嶽瀆及び諸山川の雲雨を興す能ふ百神に祈らしめ、其の虔粛を尽くし、必ず感降せしむべし。玉帛牲牢は、応に随ひ薦享すべし。上下の群官は、躬を側めて自ら厲し、冤獄を理め、土功を止め、膳を減じ懸を撤し、屠殺を禁止すべし」と。

秋七月壬子、波斯・不漢・亀茲諸国が使者を遣わして朝貢した。

冬十月己巳、吐谷渾国が使者を遣わして朝貢した。

十一月乙巳、車駕円丘に事有り。丙午、詔して曰く、「歴を治め時を明らかにするは、前王の茂軌なり。辰を考へ律を正すは、奕代の通規なり。是を以て北平は漢年に定を革め、楊偉は魏世に算を草す。皇運肇基より以来、典章猶ほ缺け、推歩晷曜、未だ其の理を尽くさず。先朝仍世、毎に慨然たり。神龟中に至り、始めて儒官を命じ、疏踳を改創し、回度憲を易へ、始めて琁衡に会す。今天正斯に始まり、陽煦将に開かんとし、品物初めて萌え、宜しく耳目を変ふべし。所謂、魏は旧邦と雖も、其の歴維新なりと謂ふものなり。便ち内外に班宣し、号して正光歴と曰ふべし。又首節嘉辰、丘禘を展ぶるを得、神人交和し、理幽顕に契ひ、億兆と此の維新を共にせんと思ふ。大赦天下すべし」と。

十二月癸酉、左光禄大夫皇甫度を儀同三司となす。乙酉、車騎大将軍・尚書右僕射元欽を儀同三司となし、太保・京兆王継を太傅とし、 司徒 しと 崔光を太保となす。丁亥、牧守妄りに碑頌を立て、輒ち寺塔を興し、第宅豊侈、店肆商販するを以て、詔して中尉に端衡せしめ、威風を肅厲し、見事を以て糾劾せしむ。七品・六品は、禄耕に代ふるに足れり、亦錮貼店肆し、城市に利を争ふを聴かず。

正光四年

四年春二月壬辰、故咸陽王禧を追封して敷城王とし、京兆王愉を臨洮王とし、清河王懌を范陽王となし、礼を以て葬を加ふ。丁丑、河間王琛・章武王融、並びに貪汙を以て爵を削り名を除く。己卯、蠕蠕主阿那瓌衆を率ひて塞を犯すを以て、尚書左丞元孚を遣わし尚書を兼ね、北道行臺と為し、節を持ちて之を諭さしむ。蠕蠕後主侯匿伐来朝して京師に至る。宕昌国が使者を遣わして朝貢した。 司空 しくう 劉騰薨ず。

夏四月、阿那瓌は元孚を捕らえ、畜産を駆り立てて北へ遁走した。甲申の日、詔を下して驃騎大將軍・ 尚書令 しょうしょれい の李崇と、中軍將軍・兼尚書右僕射の元纂に騎兵十万を率いて蠕蠕を討たせ、塞を出ること三千余里に及んだが、追いつけずに還った。

秋七月辛亥の日、詔して曰く、「尊ぶべきはここにあり、齢もその一つに預かる。黄耇を崇敬することは、先代の通訓である。故に方叔は元老として位に処し、充国は自強を縁として留め置かれた。七十歳で官を致すは、典故に明らかなりといえども、徳を以て尚壮なる者は、その縶維を許す。今、庶僚の中に、或いは年齢が懸車に迫り、礼に循って退くべき者あり。しかし、少しばかりその力を収め、老いてその身を棄つるは、勤旧を思いやれば、眷然として未だ忍びず。或いは白髪を戴いて朝に在り、未だ外任に当たらざる者あり。或いは私に停まりて歴紀、甫かに考級を受けたる者あり。かかるの徒は、七十歳に満つるも、その民に莅むことを聴き、以て常限を終わらしむべし。或いは新たに郡県を解き、或いは外佐を始めて停まり、既に七十歳に満ちて、方に更なる叙任を求むる者は、吏部は令に依りて奏上せずとも可なり。高名俊徳・老成髦士・灼然として顕達し、時に知られたる者は、この例に拘わらず。若し才秀異ならず、現に朝官に在り、令に依りて解くべき者は、本官の半禄を与え、以てその身を終わらしむべし。辞朝の叟をして、閭巷に帰るを恨ましめざらしむるなり」。

八月己巳の日、詔して曰く、「狂蠢暴を肆い、北垂を陵窃す。軍威時に接するも、賊徒は懾遁す。然れども獯虐の過ぐる所、多くその禍に離る。この弊を思いやれば、深く懐に軫る。北道行臺に勅し、使を遣わして巡検せしめ、寇に遭いし処、饑餌粒ならざる者は、厚く賑恤を加え、務めて存済せしむべし」。戊寅の日、詔して曰く、「朕は眇闇を以て、鴻緒を忝く承け、祖宗の基に因り、王公の上に託る。毎に鑑寐属慮し、億兆を康んぜんとす。比来雨旱時に愆り、星運舛錯し、政理和を闕き、霊祇異を表す。永く夕惕を尋ね、載せて懐に恧む。宜しく百司に詔し、各々その職に勤めしむべし。諸に鰥寡窮疾冤滞申さざる者あれば、並びに釈恤を加うべし。若し孝子順孫・廉貞義節・才学超異・独行高時の者は、具に以て言上せしめよ。朕将に親しく覧み、旌命を加えん」。癸未の日、故范陽王懌を追復して清河王とす。

九月丁酉の日、庫莫奚国使いを遣わして朝献す。詔して侍中・太尉・汝南王悦をして門下に入居せしめ、丞相・高陽王雍と尚書奏事を参決せしむ。

冬十一月丙申の日、趙郡王謐薨ず。丁酉の日、太保崔光薨ず。

十二月、蕭衍将を遣わして辺を寇す。詔して征南將軍崔延伯に仮しこれを討たしむ。太尉・汝南王悦を太保とす。徐州刺史・北海王顥は貪污に坐して官爵を削除せらる。

正光五年

五年春正月辛丑の日、車駕南郊に事あり。

閏二月癸巳の日、嚈噠国使いを遣わして朝貢す。

三月、沃野鎮の人破落汗拔陵、衆を聚めて反し、鎮将を殺し、真王元年と号す。詔して臨淮王彧を鎮軍將軍とし、征北將軍を仮し、 都督 ととく 北征諸軍事としてこれを討たしむ。

夏四月、高平の酋長胡琛反し、自ら高平王と称し、鎮を攻めて拔陵に応ず。別将盧祖遷これを撃破し、琛は北へ遁走す。

五月、臨淮王彧は五原にて敗れ、官爵を削除せらる。壬申の日、詔して 尚書令 しょうしょれい 李崇を大 都督 ととく とし、広陽王淵らを率いて北討せしむ。

六月、秦州城人莫折太提、城に拠りて反し、自ら秦王と称し、刺史李彦を殺す。詔して雍州刺史元志にこれを討たしむ。南秦州城人孫掩・張長命・韓祖香、城に拠りて反し、刺史崔遊を殺して太提に応ず。太提は城人卜朝を遣わし高平を襲撃して陥れ、鎮将 赫連 かくれん 略・行臺高元栄を殺す。太提間も無く死し、子の念生代わって立ち、僭って天子を称し、天建と号し、百官を置立す。丁酉の日、大赦す。

秋七月甲寅の日、詔して吏部尚書元脩義に尚書僕射を兼ねしめ、西道行臺として諸将を率い西討せしむ。戊午の日、河間王琛・臨淮王彧の本封を復す。 都督 ととく 崔暹は白道にて利を失い、大 都督 ととく 李崇は衆を率いて 平城 へいじょう に還る。長史祖瑩が軍資を截沒したるに坐し、官爵を免除せらる。丁丑の日、念生はその 都督 ととく 楊伯年・樊元・張朗らを遣わし仇鳩・河池の二戍を攻む。東益州刺史魏子建は将尹祥・黎叔和を遣わしこれを撃破し、樊元の首を斬り、賊千余人を殺す。この月、涼州の幢帥于菩提・呼延雄、刺史宋穎を執り州に拠りて反す。念生はその兄高陽王天生を遣わし隴東を下りて寇す。

八月甲午の日、元志は隴東にて大敗し、岐州に退き守る。丙申の日、詔して曰く、「賞は宿労を貴ぶは、明主の恒徳なり。恩は旧績に沾うは、哲后の常範なり。太祖道武皇帝は期に応じて乱を撥い、大いに区夏を造る。世祖太武皇帝は戎を纂ぎ丕緒を継ぎ、王業を光闡し、躬ら六師を率い、逋穢を掃清す。諸州鎮の城人は、本より牙爪を充たし、征旅に服勤し、行間に契闊し、労劇を備嘗せり。顕祖献文皇帝に逮り、北より南に被り、淮海乂を思うや、便ち強族を差割し、方鎮を分 えい せしむ。高祖孝文皇帝は、遠く盤庚に遵い、将に嵩洛に遷らんとし、北疆を規遏し、南境を蕩闢せんとして、良家の酋胕を選び、朔垂の戍を増し、戎捍の寄する所、実にこの等に惟る。先帝はその誠効既に亮かなるを以て、方に酬錫を加えんとす。会に宛郢烽を馳せ、朐泗警を告げ、軍旗頻りに動き、兵連ねて積歳す。この恩仍く寝し、用いて今に迄る。怨叛の興る、頗るこれに由る。朕は乾曆を叨承し、宇宙を撫馭し、風を調え政を布き、恵液を広めんとす。宜しく前恩を追述し、茲に後の施を敷くべし。諸州鎮の軍貫にして、元より犯配に非ざる者は、悉く免じて民と為し、鎮を改めて州とし、旧に依りて称を立てしむ。この等は世に干戈を習い、率ね勁勇多し。今既に甄抜せらるれば、報效を思うべし。三々五々簡発し、かの沙隴を討たしむべし。人をしてその力を斉うせしめ、奮撃して先駆せしめば、妖党狂醜は必ず蕩滌すべし。衝鋒斬級は、自ら恒賞に依るべし」。丁酉の日、南秀容の牧子于乞真反し、太僕卿陸延を殺す。別将尒朱栄これを討ち平らぐ。戊戌の日、莫折念生はその 都督 ととく 竇双を遣わし盤頭郡を攻む。東益州刺史魏子建は将竇念祖を遣わしこれを討ち、双を斬り、千余人を擒斬す。

九月壬申の日、詔して尚書左僕射・斉王蕭寶夤を西道行臺大 都督 ととく とし、征西将軍・ 都督 ととく 崔延伯を率いさせ、また詔して撫軍将軍・北海王顥の官爵を復し、 都督 ととく とし、ともに諸将を率いて西征させた。乙亥の日、帝は明堂に幸し、宝夤らを餞別した。この月、蕭衍は将裴邃・虞鴻を遣わして寿春外城を襲撃占拠させたが、刺史長孫稚がこれを撃退し、邃は退いて黎漿に駐屯した。詔して河間王琛に総べてこれを救援させた。衍はまた将を遣わして淮陽を侵寇したので、詔して秘書監・安楽 王鑒 おうかん に衆を率いてこれを討たせた。吐谷渾主伏連籌が兵を発して涼州を討ち、于菩提は城を棄てて逃走したが、追撃してこれを斬り、城民趙天安が再び宋穎を推して刺史とした。

冬十月、営州城人劉安定・就徳興が城を拠って反逆し、刺史李仲遵を捕らえた。城人王悪児が安定を斬って降伏した。徳興は東走し、自ら燕王と号した。胡琛はその将宿勤明達を遣わして豳・夏・北華の三州を侵寇させた。壬午の日、詔して 都督 ととく 北海王顥に諸将を率いてこれを討たせた。

十一月戊申の日、莫折天生が岐州を攻め陥とし、 都督 ととく 元志及び刺史裴芬之を捕らえた。高平人が卜朝を攻め殺し、共に胡琛を迎えた。

十二月壬辰の日、詔して太傅・京兆王継を太師・大将軍とし、諸将を率いてこれを討たせた。嚈噠・契丹・地豆于・庫莫奚の諸国がともに使者を遣わして朝貢した。汾州正平・平陽の山胡が叛逆した。詔して征東将軍章武王融の封爵を復し、大 都督 ととく として衆を率いてこれを討たせた。山南行臺東益州刺史魏子建が南秦の氐民を招き降し、六郡十二戍を回復し、また賊王韓祖香を斬った。南秦の賊王張長命は逼迫を畏れ、ついに蕭宝夤に降伏を告げた。この月、莫折念生が兵を遣わして涼州を攻め、城人趙天安が再び刺史を捕らえてこれに応じた。

孝昌元年

孝昌元年春正月庚申の日、徐州刺史元法僧が城を拠って反逆し、行臺高諒を害し、自ら宋王と称し、年号を天啓とし、その子景仲を遣わして蕭衍に帰順させた。衍はその将胡龍牙・成景雋・元略らを遣わして衆を率いて彭城に赴かせた。詔して秘書監安楽 王鑒 おうかん に軍を回してこれを討たせたが、鑒は彭城の南で元略を撃ち、これを大破し、その衆をことごとく捕虜とした。その後備えを怠り、法僧に敗れた。衍はその 章王綜を遣わして彭城に入らせ守らせた。法僧はその僚属・守令・兵戍及び郭邑の士女一万余口を擁して南に入った。詔して鎮軍将軍・臨淮王彧、尚書李憲を 都督 ととく とし、衛将軍・国子祭酒・安豊王延明を東道行臺とし、また儀同三司李崇の官爵を復し、東道大 都督 ととく として、ともに徐州を討たせた。崇は病を理由に行かなかった。癸亥の日、蕭宝夤・崔延伯が秦の賊を黒水で大破し、数万を斬り捕らえ、天生は退走して隴西に入り、涇・岐及び隴東はことごとく平定された。太師・大将軍・京兆王継を太尉とし、その他の官はもとのままとした。

二月、領軍将軍元叉を驃騎大将軍・儀同三司とした。詔して楽良王長命の本爵を追復し、その子忠に継がせた。侍中・特進・衛大将軍穆紹を儀同三司とした。戊戌の日、大赦を行った。壬辰の日、莫折念生が 都督 ととく 楊鮓・梁下弁・姜斉らを遣わして仇池郡城を攻めさせたが、行臺・東益州刺史魏子建が将盛遷を遣わしてこれを撃破し、下弁・斉らの首を斬った。壬寅の日、詔して曰く、「善を勧め悪を退けるは、国を治める盛んなる法典である。毎年終わりごとに、郡守は令長を列挙し、刺史は守相を列挙して、考課を定め、その能否を弁別せよ。もし濫謬があれば、考功の失衷を以て論ずる。」この月、斉州魏郡の民房伯和が衆を集めて反逆したが、赦令に遇い、散じた。

三月己巳の日、詔して太尉・西道 都督 ととく ・京兆王継に軍を返させた。壬申の日、詔して曰く、「丞相高陽王は、道徳淵く広く、明允篤誠にして、太階の儀形たり、風を下国に垂れ、実に予違うに汝弼する所以、治を致し責成するものなり。宜しく新制を班し、これを遐邇に宣べしむべし。その州郡先に 司徒 しと に上る公文は、悉く改めて相府に上り施行すべく、符告もまた皆これの如くせよ。」甲戌の日、詔して曰く、「衆を選びて挙ぐるは、その来ること昔よりす。朕大業を纘承し、万機を綜理し、賢を求めて治を致さんとし、心焉に渇くが若し。人を知るは則ち哲なり、古を振るうも難き所なり。宜しく公卿に博く訪い、この声実を採るべし。第一品以下五品以上の者に、各々その知る所を薦めさせよ。素より身居職を限らず。必ずや精しく器芸を弁じ、具にその能う所を注し、然る後に牒に依り簡擢し、才に随い収敍せしめよ。庶幾くは済々の美、往時に替えず、謇謇の直、この歳に申さんことを。」蕭衍はその北梁州長史錫休儒・司馬魚和・上庸太守姜平洛らを遣わして直城を侵寇させたが、梁州刺史傅竪眼が息子の敬紹を遣わして衆を率いて拒撃し、これを大破し、三千余人を生け捕り斬った。休儒らは逃走して魏興に帰った。この月、斉州清河の民崔畜が太守董遵を殺し、広川の民傅堆が太守劉莽を捕らえて反逆した。青州刺史・安楽 王鑒 おうかん がこれを討ち平定した。この月、破落汗抜陵の別帥王也不盧らが懐朔鎮を攻め陥とした。

夏四月、蕭衍の益州刺史蕭淵猷が将樊文熾・蕭世澄らを遣わして衆を率いて小劍戍を包囲させた。益州刺史邴虬は子の子達を、行臺魏子建は別将淳于誕を遣わしてこれを拒撃させた。辛卯の日、皇太后が再び朝に臨み政を摂し、群臣を引いて面と向かって得失を陳べさせた。詔して曰く、「朕寡昧を以て、夙に天歴を承け、茫として海に渉るが若く、済う所を知らず。実に宗社の降祐の霊に憑り、庶幾くは幼志を勉め、以て世道を康せんとす。然るに神龟の末、権臣命を擅にし、元叉・劉騰陰に相影響し、遂に皇太后をして後宮に幽隔せしめ、太傅・清河王をして辜無くして害を致さしめ、相州刺史・中山王熙を横に夷滅せられ、右衛将軍奚康生仍に見誅翦せらる。此れより已後、畏懼忌憚する所無く、諸の侵求を恣にし、与奪する所に任ず。君無きの心、積習稍く久しく、臣ならざるの迹、事に縁り弥く彰る。耳目の明を蔽い、生殺の柄を専らにし、天下此れが為に康ならず、四郊茲に由りて多壘なり。此れを忍ぶべくんば、孰れか懐うべからざらん。屡たび赦宥を経るも、未だ法に致すを容れず。猶宜しく弁正し、以て朝野に謝すべし。騰は身既に往けり、爵位を追削すべし。叉の罪状は、誠に徽纆に合すべし。但だ宗枝舅戚を以ての故に、特く全貸を加え、名を除きて民とすべし。」壬辰の日、征西将軍・ 都督 ととく 崔延伯が涇川で大敗し、戦死した。

五月戊辰の日、淳于誕らが蕭衍の軍を大破し、俘斬すること万を数え、蕭世澄ら十一将を生け捕りにし、文熾は僅かに身をもって免れ、成都に逃走した。戊子の日、驃騎大将軍・儀同三司李崇が薨じた。

六月癸未の日、大赦を行い、年号を改めた。詔して文武の官、軍に従うこと二百日に及ぶ者は、文官は一級を優し、武官は二級を優せしめよ。蠕蠕主阿那瓌が衆を率いて抜陵を大破し、その将孔雀らを斬った。諸将が彭城に迫ると、蕭綜は夜ひそかに出て降伏し、蕭衍の諸将は奔走退却し、衆軍が追撃し、免れた者は十の一二であった。

秋八月癸酉の日、詔して遠近の珍麗を貢献することを断ち、違う者は官を免ぜしめよ。柔玄鎮人杜洛周が衆を率いて上谷で反逆し、年号を真王と号し、郡県を攻め没し、南に燕州を包囲した。戊子の日、莫折念生が 都督 ととく 杜黒児・杜光らを遣わして仇池郡を攻めさせた。行臺魏子建が将成遷を遣わしてこれを撃破し、杜光の首を斬った。

九月乙卯、詔して天下の諸調の半を減ず。丙辰、詔して左将軍・幽州刺史常景を行台と為し、征虜将軍元譚を 都督 ととく と為し、以て洛周を討たしむ。辛酉、詔して曰く、「功を追い徳を表せば、善を為す者勧む。祖宗の功臣、銘を王府に勒し、而して子孫廃替し、凡民に淪ち、爵位聞こえず、遷流失い有り。潁川の名守、重泉の令宰、恵風美政、民心に結び、而して猶同く常品の如く、未だ褒陟を蒙らず、是れ所謂甘棠に愛及び、彝倫の攸に敍する者に非ざるなり。其の功臣名将にして先朝に知られ、子孫屈塞して齒敍に見えざる者、牧守令長にして聲稱卓然なる者は、皆仰せて有司に具に名を以て聞かしむべし。朕将に彼の幽滯を振い、用て治風を闡かんとす」と。壬戌、詔して百官五品已上に、各おの知る所を挙げしむ。辛未、曲赦して南・北両秦州す。

冬十月、蠕蠕国主阿那瓌使いを遣わして朝貢す。是の月、吐谷渾国復た趙天安を討ち、之を降す。河州長史元永平・治中孟賓等嚈噠使主高徽を推して州事を行わしむ。而して前刺史梁釗の子景進攻めて之を殺し、景進又自ら州事を行ふ。

十有一月辛亥、詔して曰く、「大孝は親を栄す、之を昔典に著す、故に安平耄耋、諸子満朝す。今より諸に父母年八十以上なる者有らば、皆官に居り禄を以て養い、朝夕を温清するを聴すべし」と。時に四方事多く、諸蛮復た反す。

十有二月壬午、詔して曰く、「高祖は大明を以て功を定め、世宗は下武を以て乱を寧んず、声朔南に溢れ、化中宇に清く、業隆周に盛んに、祚七百を延ぶ。朕幼齢に曆を纂ぎ、夙に鴻基を馭す、戦戦兢兢、淵谷に臨むが若し。治道に闇く、政刑未だ孚らず、権臣命に擅り、我が朝式を乱る。致して西秦跋扈し、朔漠妖を構え、蠢爾たる荊蛮、氛埃息まず。孔熾甚だしきは涇陽に於けるより、出軍切なるは細柳に於けるに切なり。而して師旅盤桓し、留滞して進まず、北淯懸危に、南陽急を告ぐ、将に荊沔の地を虧き、以て蹙国の憂いを致さんとす。今茅轂扼腕し、爪牙歎憤し、並びて封豕を摧挫し、長蛇を剿截せんと欲し、人神両泰せしめ、幽明吉を献ぜしめんとす。朕将に躬六師を馭し、逋穢を掃蕩せん。其れ衣を六軍に配し、分ちて熊虎に隷し、前駆後隊、左翼右師、必ず将帥雄果、軍吏明済、糧仗車馬、時に須うるに速度せしむべし。其れ律を失い軍を亡い、兵戍逃叛し、盗賊劫掠し伏竄して山沢する者有らば、其の往咎を免じ、其の後効を録し、別に募格を立て、其の自新を聴し、広く州郡に下し、軍所に赴かしむべし。今先ず荊蛮を討ち、南服を疆理し;戈旗東に指し、淮外を掃平せん。然る後に七萃を西戎に奮い、五牛を北狄に騰せ;躬乱離の苦を撫し、面饑寒の患を恤はん。爾して乃ち還蹕して嵩宇し、廟庭に飲至し、璧を河洛に沈め、成を泰岱に告げ、豈盛ならずや!百官内外・牧守軍宰、宜しく各おの肅勤し、以て爾が職を明らかにすべし」と。山胡劉蠡升反し、自ら天子と称し、官僚を置く。是の月、臨淮王彧を征南大将軍と為し、衆を率いて魯陽蛮を討たしむ。

孝昌二年

二年春正月庚戌、広平王懐の庶長子・太常少卿誨を封じて范陽王と為す。壬子、太保・汝南王悦をして太尉を領せしむ。是の月、 都督 ととく 元譚軍都に次ぐ、洛周に敗れらる。五原降戸鮮于脩礼定州に於いて反し、号して魯興元年とす。詔して左光禄大夫長孫稚を使持節・仮驃騎将軍・大 都督 ととく ・北討諸軍事と為し、 都督 ととく 河間王琛と将を率いて之を討たしむ。

二月甲申、帝・皇太后大夏門に臨み、親しく冤訟を覧る。是の月、疊伏羅国使いを遣わして朝貢す。

三月庚子、驃騎大将軍・徐州刺史・安豊王延明を儀同三司と為す。中山王熙の本爵を追復し、子叔仁之を紹ぐ。甲寅、西部敕勒斛律洛陽桑乾に於いて反し、西は河西牧子と通連す。別将尒朱栄之を撃破す。

夏四月、大赦天下す。癸巳、侍中・車騎大将軍・城陽王徽を儀同三司と為す。朔州城人鮮于阿胡・厙狄豊楽城を拠りて反す。丁未、 都督 ととく 李琚薊城の北に次ぐ、又た洛周に敗れらる、琚戦沒す。戊申、驃騎大将軍・開府・斉王宝夤を儀同三司と為す。北討 都督 ととく 河間王琛・長孫稚利を失い奔還す、詔して琛・稚の官爵を免ず。庫莫奚国使いを遣わして朝貢す。

五月丁未、車駕将に北討せんとす、内外戒厳す。前給事黄門侍郎元略蕭衍より朝に還り、義陽王に封ず。丞相・高陽王雍を大司馬と為す;吏部尚書・広陽王淵を驃騎大将軍・儀同三司と為し、尋ちて大 都督 ととく と為し、 都督 ととく 章武王融を率いて北に脩礼を討たしむ。戊申、燕州刺史崔秉衆を率いて城南より走り中山す。乙丑、安西将軍・光禄大夫・宗正珍孫を 都督 ととく と為し、汾州の反胡を討たしむ。

六月己巳、曲赦して斉州す。絳蜀陳双熾衆を聚めて反し、自ら始建王と号す。曲赦して平陽・建興・正平三郡す。詔して鎮西将軍・ 都督 ととく 長孫稚に仮り双熾を討たしめ、之を平ぐ。丙子、義陽王略改めて東平王に封ず。 えい 大将軍・西道 都督 ととく 元恒芝を車騎大将軍・儀同三司と為す。戊寅、詔して京兆王継の本封江陽王を復す。戊子、詔して曰く、「運艱棘に属し、歴載茲に於るより、烽驛交馳し、旌鼓息まず、祖宗の盛業、危きこと綴旒の若く、 社稷 しゃしょく の鴻基、殆く将に淪墜せんとす。朕が威徳遠く被う能わず、経略遠く及ぶ無く、俾ち蒼生をして此の塗炭に罹らしむ、何を以てか苟くも黄屋に安んじ、黔黎に愧じざらん。今便ち正殿を避居し、蔬餐素服す。当に自ら招募し、忠勇を収集すべし。其れ直言正諫の士、敢て決し徇義の夫有らば、二十五日悉く華林東門に集め、人別に引見し、共に得失を論ぜしむ。班告内外し、咸しく聞知せしむべし」と。乙未、 えい 将軍・東平王略を左光禄大夫・儀同三司と為す。

秋七月丙午、杜洛周其の別帥曹紇真を遣わし幽州を寇掠す。行台常景 都督 ととく 于栄を遣わし粟園に邀え、大いに之を破り、紇真を斬り、三十余級を獲、牛驢二万余頭を得。戊申、恒州陥ち、行台元纂冀州に奔る。甲子、蕭衍の将元樹・湛僧珍等寿春を寇す。

八月丙子、広川県開国公元巶を進めて常山王と為す。驃騎大将軍・東道行台・臨淮王彧を儀同三司と為す。戊寅、帝南石窟寺に幸し、即日宮に還る。戊子、 散騎常侍 さんきじょうじ ・御史中尉・武城県開国公子攸を進めて長楽王と為す。 都督 ととく 伊瓫生巴を討ち、利を失い戦歿す。癸巳、賊帥元洪業鮮于脩礼を斬り、降を請う、賊党葛栄に殺さる。 都督 ととく 尒朱栄肆州に於いて刺史尉慶賓を執り、其の従叔羽生をして州事を統せしむ。

九月辛亥(の日)、葛栄が 都督 ととく 広陽王淵(元淵)・章武王融(元融)を博野の白牛邏において破り、融は陣中にて戦死した。栄は自ら天子を称し、国号を斉とし、年号を広安と称した。甲申(の日)、常景がまた洛周を破り、その武川王賀抜文興・別帥侯莫陳升を斬り、男女四百口を生け捕り、牛・驢五千余頭を捕獲した。就徳興が平州を攻め陥れ、刺史王買奴を殺害した。この月、莫折天生が降伏を請い、蕭宝夤が行台左丞崔士和を派遣して秦州に入り占拠させた。天生は再び叛き、士和を胡琛のもとに送り、これを殺害した。

冬十一月戊戌(の日)、杜洛周が幽州を攻め陥れ、刺史王延年および行台常景を捕らえた。丙午(の日)、京師の田租を課し、一畝につき五升とする。公田を借り賃す者は、一畝につき一斗とする。

閏月、市に出入りする者より一人につき一銭を課し、店舗・宿屋を五等に分けた。斉州平原の民劉樹・劉蒼生が徒党を集めて反乱を起こし、州軍がこれを撃破して敗走させ、劉樹は蕭衍のもとに奔った。衍の将元樹が寿春を脅かし、揚州刺史李憲が力尽きて、城を以てこれに降った。初め、州・郡・県および長史・司馬・戍主・副の質子を京師に留め置いた。衍はまた将を派遣して新野を攻め脅かしたので、詔して 都督 ととく 魏承祖にこれを討たせた。詔して曰く、「近頃旧京は陥覆し、 中原 ちゅうげん は喪乱し、宗室の子女で、属籍が七廟の内にある者が、雑戸濫門に拘束され辱めを受けている者は、全て離絶することを聴許する」。

孝昌三年

三年春正月甲戌(の日)、 司空 しくう 公皇甫度を 司徒 しと とし、儀同三司蕭宝夤を 司空 しくう とし、車騎将軍北海王顥を車騎大将軍・儀同三司とした。徐州の民任道棱が徒党を集めて反乱を起こし、蕭城を襲撃して占拠し叛いた。州軍がこれを討伐平定した。辛巳(の日)、葛栄が殷州を陥とし、刺史崔楷は節を固守してこれに死し、遂に東進して冀州を包囲した。甲申(の日)、詔して銭を鋳造する制度を厳格にした。蕭宝夤・元恒芝が涇州において大敗し、大隴 都督 ととく ・南平王仲冏、小隴 都督 ととく 高聿は相次いで退散し、東秦州刺史潘義淵は汧城を以て賊に降った。高平の虜賊が岐州を脅かし、城中の者が刺史魏蘭根を捕らえ、城を以てこれに応じた。豳州刺史畢祖暉・行台羊深はともに敗走し、祖暉は陣中にて戦死した。北海王顥もまもなく敗走した。賊帥胡引祖は北華州を占拠してこれに応じた。賊帥叱干騏麟が豳州に入り占拠した。関西および正平・平陽・建興を曲赦した。戊子(の日)、 司徒 しと 皇甫度を太尉とした。己丑(の日)、四方未だ平定せずとして、詔して内外に戒厳を敷き、将に親しく出討せんとした。辛卯(の日)、蕭衍の将湛僧珍が東 州を包囲したので、詔して 散騎常侍 さんきじょうじ 元暐を 都督 ととく としてこれを討たせた。この月、衍はまた将彭羣・王辯らを派遣し数万の兵を率いて琅邪を脅かしたので、詔して青州・南青の二州にこれを討たせた。

二月丁酉(の日)、詔して曰く、「関隴は寇難に遭い、燕趙は賊逆が憑陵し、蒼生は波流し、耕農は業なく、これに諸々の転運を加え、労役は既に甚だしい。州倉の儲蓄は実っており、懸けて匱乏すべきではない。輸送を奨励する格を開かずして、どうして漕運の煩わしさを止められようか。凡そ能く粟を瀛・定・岐・雍の四州に輸送する者は、官斗二百斛ごとに一階を賞する。二華州に入れる者は、五百石ごとに一階を賞する。多少を限らず、粟を輸送し終えたら官職を授ける」。虜賊が潼関を占拠した。丁未(の日)、故東平王匡の爵位を追復し、済南王に改封した。庚申(の日)、東郡の民趙顕徳が反乱を起こし、太守裴烟を殺害し、自ら 都督 ととく を号し、その兄の子を立てて太守とし、詔して 都督 ととく 李叔仁にこれを討たせた。この月、蕭衍の将成景雋が彭城を寇掠したので、詔して員外常侍崔孝芬を行台とし、将を率いてこれを撃退した。

三月甲子(の日)、詔して西征せんとし、中外に戒厳を敷いた。虜賊が逃走し、潼関を回復した。戊辰(の日)、詔して車駕を回して北征せんとし、詔して金紫光禄大夫源子邕を大 都督 ととく として、葛栄を討たせた。辛未(の日)、斉州広川の民劉鈞が清河太守邵懐を捕らえ、徒党を集めて反乱を起こし、自ら大行台を称した。清河の民房須は自ら大 都督 ととく を称し、昌国城に屯して占拠した。

夏四月、別将元斌之が東郡を討ち、顕徳を斬った。己酉(の日)、蠕蠕国が使者を派遣して朝貢した。

六月、蠕蠕国が使者を派遣して朝貢した。この月、詔して 都督 ととく 李叔仁に劉鈞を討たせ、これを平定した。

秋七月、陳郡の民劉獲・鄭辯が西華において反乱を起こし、年号を天授と号した。州軍がこれを討伐平定した。相州刺史・安楽王鑑が州を拠りて反乱を起こした。己丑(の日)、天下に大赦を行った。この月、青州刺史・彭城王劭、南青州刺史胡平が将を派遣して蕭衍の将彭羣の首を斬り、二千余人を捕虜とした。

八月、 都督 ととく 源子邕・李軌・裴衍が ぎょう を攻撃した。丁未(の日)、鑑を斬り、相州は平定された。引き続き子邕らに葛栄を討たせた。

九月辛卯(の日)、東 州刺史元慶和が城南において叛いた。戊子(の日)、蠕蠕国が使者を派遣して朝貢した。秦州の城民杜粲が莫折念生を殺害し、自ら州事を行った。南秦州の城民辛琛が自ら州事を行い、使者を派遣して罪に帰した。

冬十月戊申(の日)、恒農以西、河北・正平・平陽・邵郡および関西諸州を曲赦した。辛亥(の日)、衛将軍・討虜大 都督 ととく 尒朱栄を車騎将軍・儀同三司とした。甲寅(の日)、雍州刺史蕭宝夤が州を拠りて反乱を起こし、自ら斉と号し、年号を隆緒と称した。詔して尚書右僕射長孫稚にこれを討たせた。

十一月己丑(の日)、葛栄が冀州を攻め陥れ、刺史元孚を捕らえ、居民を追い出し、凍死者は十の六七に及んだ。

十二月戊申(の日)、 都督 ととく 源子邕・裴衍が葛栄と戦い、陽平東北の漳水の曲において敗れ、ともに戦死した。この月、杜粲が駱超に殺害され、超は使者を派遣して罪に帰した。

武泰元年

武泰元年春正月癸亥、北海王元顥を驃騎大将軍・開府儀同三司・相州刺史に任ず。乙丑、定州が杜洛周に陥落せられ、刺史楊津を捕らわる。瀛州刺史元寧、城を以て洛周に降る。皇女生まる。皇子と秘かに言う。丙寅、大赦を行い、元号を改む。丙子、長孫稚、潼関を平定す。丁丑、雍州の城人侯終德、相率いて元宝夤を攻む。宝夤、南陽公主及び子を携え、百余騎と渭水を渡って逃走す。雍州平らぐ。

二月、長孫稚を車騎大将軍・開府儀同三司・雍州刺史・兼尚書僕射・西道行臺と為す。群盗、鞏県以西、関口以東、公路澗以南を焼き劫う。詔して武衛将軍李神軌を 都督 ととく と為し、これを討伐平定せしむ。癸丑、帝、顕陽殿にて 崩御 ほうぎょ す。時に年十九。甲寅、皇子即位し、天下に大赦す。皇太后詔して曰く、「皇家は暦を握り図を受け、年将に二百に及ばんとす。祖宗累聖、社稷安んず。高祖は文思を以て天に先んじ、世宗は武を以て世を経営す。股肱良く、元首穆穆たり。大行皇帝御宇の時、重ねて寛仁を以てし、奉養は率由し、温明恭順たり。朕寡昧を以て、親しく万国に臨むも、識は塗山に謝し、徳は文母に慚ず。妖逆の属、遞りに興り、四郊多故なるに属す。実に穹霊の降祐を望み、麟趾の衆繁を冀う。潘充華椒宮に孕みありてより、儲両の誕生を冀うも、熊羆の兆無く、維虺遂に彰る。時に直ちに国歩未だ康ならざるを以て、仮りに統胤と称し、物情を底定し、宸極を係仰せんと欲す。何ぞ図らん一旦にして、弓劍追ふ莫く、国道中微し、大行祀を絶つ。皇曾孫故臨洮王宝暉の世子釗、体は高祖に自り、天表卓異なり。大行平素養愛特深く、義は若子に斉しく、事は当璧に符す。翊日愈えず、大漸弥留するに及び、乃ち青蒲に延入し、玉几に命を受く。衣を庭に陳するに及び、策に登る及ばず、大宝に允膺し、即日 践祚 せんそ す。朕是を用いて惶懼忸怩し、心焉に洎むこと靡し。今喪君有君、宗祏惟だ固し。宜しく卿士を賞崇し、爰に百辟に及び、凡そ厥の位に在る者、並びに陟叙を加うべし。内外の百官文武・督将征人、艱に遭い府を解く者は、普く軍功二階を加う。其の禁衛武官、直閤以下直従以上及び主帥は、軍功三階を可とす。其の官を亡い爵を失える者は、封位を復するを聴す。謀反大逆削除の者は、此の限に在らず。清議禁錮も、亦悉く蠲除す。若し二品以上自ら受くる能わざる者は、児弟に授くるを任す。遠邇に班宣し、咸しく之を知らしむべし」。乙卯、幼主即位す。儀同三司・大 都督 ととく 尒朱栄、表を抗して入朝奔赴を請い、兵を勒して南す。是の月、杜洛周、葛栄に併せらる。

三月癸未、葛栄、滄州を攻め陥とし、刺史薛慶之を捕らえ、居民の死者十に八九。甲申、上って尊 おくりな して孝明皇帝と曰う。乙酉、定陵に葬る。廟号を肅宗とす。

夏四月戊戌、尒朱栄、河を渡る。庚子、皇太后・幼主崩ず。

【論】

史臣曰く、魏は宣武已後、政綱張らず。肅宗沖齢にて業を統べ、霊后婦人の専制、非人を委用し、賞罰乖舛す。ここに於いて釁四方に起こり、禍畿甸に延び、卒に享国長からず。抑亦淪胥の始めなり、嗚呼。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻9