孝莊皇帝は 諱 を子攸といい、彭城王勰の第三子、母は李妃という。肅宗の初め、勰に魯陽を翼衛した勲功があったため、武城県開国公に封ぜられた。幼くして肅宗に侍し、禁中で書を学んだ。成長すると、風神秀慧にして姿貌甚だ美しかった。 中書 侍郎・城門 校尉 ・兼給事黄門侍郎に拝され、雅く肅宗に親待され、長く禁中に直した。 散騎常侍 ・御史中尉に遷った。孝昌二年八月、長楽王に進封された。 侍中 ・中軍将軍に転じた。三年十月、兄の彭城王劭の事により、衛将軍・左光禄大夫・ 中書監 に転じ、実は出されたのである。
永安元年
武泰元年春二月、肅宗が 崩御 すると、大 都督 尓朱栄が京師に向かおうとし、廃立を謀った。帝の家に忠勲があり、かつ民望を兼ねていたので、密かに帝と通じ、栄はついに衆を率いて来赴した。
夏四月丙申、帝は兄弟とともに夜に北へ黄河を渡った。丁酉、河陽において栄と会した。戊戌、南へ黄河を渡り、即ち帝位に即いた。兄の彭城王劭を無上王とし、弟の覇城公子正を始平王とした。栄を使持節・侍中・ 都督 中外諸軍事・大将軍・ 尚書 令・領軍将軍・領左右とし、太原王に封じた。己亥、百官相率い、有司が璽綬を奉じ、法駕を備え、河梁において奉迎した。庚子、車駕は河を巡り、西は陶渚に至った。栄は兵権が己に在るを以て、遂に異志を抱き、霊太后及び幼主を害し、次いで無上王劭・始平王子正を害し、また丞相高陽王雍・ 司空 公元欽・儀同三司元恒芝・儀同三司東平王略・広平王悌・常山王巶・北平王超・任城王彝・趙郡王毓・中山王叔仁・斉郡王温を害し、公卿以下二千余人に及んだ。騎兵を列ねて帝を衛し、便幕に遷した。既にして栄は悔い、稽顙して謝罪した。語は栄伝にある。
辛丑、車駕は宮に入り、太極殿に御し、詔して曰く、「太祖は誕命して期に応じ、燕代に龍飛し、累世重光し、帝緒を載隆す。冀くはこの洪業を闡き、永く無窮に在らんことを欲す。豈に図らんや多難にして、この百六に遭い、致使って妖悖四起し、内外競い侵し、朝に恤政の臣無く、野に怨酷の士多く、実に女主の朝に専らなるにより、この顛覆を致す。孝明皇帝は大情沖順にして、深く隠忍を存し、奄かに万国を棄つるに、衆用いて疑う。苟くも胡出を求め、入りて神器を守る、凡そ厥の心あるもの、解せざる莫き。太原王栄は、世に忠孝を抱き、功は古今に格り、義に赴きて 晋陽 に在り、河洛に大会し、乃ち朕が躬を推翼し、この大命に応ず。徳は少康に謝し、道は前緒に愧じ、猥りに眇身を以て、万国に君臨す、淵海に渉るが如く、済う所を知らず。天下を大赦し、武泰を改めて建義元年と為すべし。太原王に従う将軍士は、普く五階を加えよ。在京の文官は両階、武官は三級。天下の租役を三年復す。」
壬寅、太原王尓朱栄が上表し、無上王を追 諡 して皇帝と為すことを請うた。その他河陰に死した者、諸王・ 刺史 は三司を贈り、三品の者は令僕とし、五品の者は刺史とし、七品以下及び民郡・鎮とする。諸々の死者の子孫は、後を立てることを聴し、封爵を授けよ。詔してこれに従う。癸卯、前 太尉 公・江陽王継を太師・司州牧と為す。驃騎大将軍・開府・儀同三司・相州刺史・北海王顥を 太傅 ・開府と為し、仍って刺史とす。平東将軍・光禄大夫・清淵県開国侯李延寔を 太保 と為し、陽平王に進封し、尋いで太傅に転ず。安南将軍・ 并州 刺史元天穆を太尉公と為し、上党王に封ず。侍中・車騎大将軍・儀同三司楊椿を 司徒 公と為す。車騎大将軍・儀同三司・頓丘郡開国公穆紹を 司空 公と為し、 尚書令 を領し、進めて王と為す。使持節・車騎大将軍・雍州刺史・上党公長孫稚を驃騎大将軍・開府儀同三司と為し、進めて王と為し、尋いで馮翊王に改封す。中軍将軍・殿中尚書元諶を儀同三司・尚書左 僕射 と為し、魏郡王に封ず。中軍将軍・給事黄門侍郎元頊を東海王と為す。金紫光禄大夫・広陵王恭を儀同三司と為す。甲辰、故広陽王淵・故楽安 王鑒 の爵を追復す。通直 散騎常侍 ・敷城王坦を咸陽王と為し、諫議大夫元貴平を東莱王と為し、直閣将軍元粛を魯郡王と為し、秘書郎中元曄を長広王と為し、 馮翊郡 開国公源紹景は先の爵隴西王を復し、扶風郡開国公馮冏・東郡公陸子彰・北平公長孫悦は並びにその先の王爵を復し、北平王超を還して安定王と為す。丁未、詔して内外に解厳す。庚戌、大将軍尓朱栄の次子叉羅を梁郡王に封ず。詔して 蠕蠕 主阿那瓌は拝に名を称せず、上書に臣と称せず。
この月、汝南王悦・北海王顥・臨淮王彧は前後して蕭衍に奔り、郢州刺史元願達は城を拠てて南に叛した。
五月丁巳朔、大将軍尓朱栄に北道大行台を加う。尚書右僕射元羅を東道大使と為し、征東将軍・光禄勲元欣を副えとし、方を巡りて黜陟し、先に行い後聞かしむ。辛酉、大将軍尓朱栄は晋陽に還り、帝は邙陰において餞した。丙寅、詔して曰く、「孝昌の末より、法令昏泯し、忠を懐き素を守るも、擁隔して申ぶる莫く、深怨宿憾、控告する所靡し。其れ事を通途に在りて、横に疑異を被り、名例に爽い無く、枉って排抑を見、或いは選挙平ならず、或いは賦役煩苛なる、諸々此の如きの者は具説す可からず。其れ訴人公車に経て注合わざる者は、悉く華林東門に集めよ、朕当に冤獄を親理し、以て積滞を申さん。」己巳、斉州郡の民賈皓が衆を聚めて反し、夜に州城を襲うも、会明して退走す。乙亥、晋州刺史樊子鵠が唐州を克ち、刺史崔元珍・行台酈惲を斬り、首を伝えて京師に至る。壬午、詔して德行・文芸・政事強直なる者を求め、県令・太守・刺史は皆その志業を敍し、具に表を以て聞かしむ。三人以上を得れば、県令・太守・刺史は一階を賞す。挙ぐるにその人に非ざれば、亦た一階を黜す。又、旧に軍勲を敍するは征虜を過ぎず、今より以後は宜しく前式以上に依るべく、余の階は積みて品と為す。其れ輿駕に従い北来の徒は、此の例に在らず。悉く品を破りて階を受け、階を破りて帛を請うることを聴かず。
先に、蕭衍がその将曹義宗を遣わして荊州を寇す。癸未、中軍将軍・吏部尚書費穆を使持節・ 都督 南征諸軍事と為し、荊州刺史王羆を節度して以てこれを討たしむ。
六月丁亥朔、兄の真定県開国公子直を追封して陳留王と為す。庚寅、鎮軍将軍・金紫光禄大夫李虔を車騎大将軍・儀同三司・特進と為す。辛卯、南荊州刺史李志が城を拠てて南に叛す。通直 散騎常侍 高乾邕及び弟等は、流民を率い合せ、斉州の平原に起兵し、頻りに州軍を破る。詔して東道大使元欣に旨を諭さしむ。乃ち降る。
この月、葛栄は食糧に窮し、その僕射任褒に車三万余乗を率いさせて南に寇し、沁水に至った。癸卯、高昌王の世子光を平西将軍・瓜州刺史とし、爵を襲わせて泰臨県開国伯・高昌王とした。太尉公・上党王天穆を大 都督 ・東北道諸軍事とし、 都督 宗正珍孫・奚毅・賀抜勝・尒朱陽都らを率いて任褒を討たせた。帝は寇難が未だ平らかでないことを以て、正殿を避け、躬を責めて膳を撤いた。また募格を班し、忠勇を収集した。直言正諫の士、敢決徇義の夫、国家の利害を陳べる謀、君親の危難に赴く節を有する者は、華林園に集まり、面して事を論ぜしめた。
幽州平北府主簿河間の邢杲、河北の流民十余万戸を率いて青州の北海に於いて反し、自ら漢王を署し、年号を天統と号した。戊申、征東将軍・金紫光禄大夫李叔仁を車騎大将軍・儀同三司とし、衆を率いてこれを討たせた。詔して直寝紀業に節を持たせて新たに免ぜられた牧戸を募らしめ、名を投じて力を効する者には九品の官を授けしめた。己酉、詔して諸に私の馬仗を持って戎に従う者あり、職人は優に両大階、また実官を授け、白民は出身し、外に優に両階、また実官を授く。若し武藝超倫の者は、私馬無くとも、前条に依る。超倫せずとも、但だ射槊翹関の一藝にして胆略施す所ある者は、第に依り出身する外、特優に一大階し、実官を授く。若し姓第無き者は、八品より出身し、階は前に依り加え、特実官を授く。辛亥、詔して曰く、「朕まさに親しく六戎を御し、燕代を掃静せん。大将軍・太原王尒朱栄は精甲十万を率いて左軍と為り、上党王天穆は衆八万を総べて前軍と為り、 司徒 公楊椿は兵十万を勒して右軍と為り、 司空 公穆紹は卒八万を統べて後軍と為らん。」
この月、葛栄の衆退きて相州の北に屯す。
秋七月丁巳、詔して四品以上従征する者は優階を得ず、正四品の者は一階を優す。軍級従三品以上従征する者、四品の者は一大階を優す。正五品以下は、還って前格に依り、若し征階十余あれば、四品・三品に計入す。限り五階を授く。己未、詔して前試守東郡太守唐景宣を持節・ 都督 と為し、東郡に於いて僑居の流民二千人を召募し、河を渡りて便に柵を為し、台軍を準望せしむ。この月、斉献武王、 鄴 の西北に於いて葛栄の別帥で王を称する者七人、衆万余を慰諭し、これを降す。乙丑、大将軍尒朱栄に柱国大将軍・録尚書事を加う。辛巳、尚書奏して百官の公給する衣冠・剣佩・綬舄を断つ。壬子、光州の人劉挙、衆数千を聚めて濮陽に於いて反し、自ら皇武大将軍と称す。この月、高平鎮の人万俟醜奴、大位を僭称し、百官を署置す。この月、臨淮王彧、江南より朝に還る。
八月、太山太守羊侃、郡に拠りて蕭衍の将軍王辯を引き、兗州を攻む。甲辰、詔して大 都督 宗正珍孫に南広州刺史・ 都督 鄭先護を率いさせ、濮陽に於いて劉挙を討たしめ、これを破り平らぐ。侍中・驃騎大将軍・臨淮王彧を儀同三司と為す。
この月、葛栄、衆を率いて相州を囲む。九月乙丑、詔して太尉公・上党王天穆に葛栄を討たしめ、朝歌の南に次す。己巳、征東将軍・斉州刺史元欣を沛郡王と為す。壬申、柱国大将軍尒朱栄、騎七万を率いて滏口に於いて葛栄を討ち、これを破り擒らえ、余衆悉く降る。冀・定・滄・瀛・殷の五州平らぐ。乙亥、葛栄を平らげたことを以て、大赦天下し、改めて永安元年と為す。辛巳、柱国大将軍太原王尒朱栄を大丞相・ 都督 河北畿外諸軍事と為し、栄の子平昌郡開国公の文殊・昌楽郡公の文暢を並びに進めて爵を王と為し、 司徒 公楊椿を太保と為し、城陽王徽を 司徒 と為す。
冬十月丁亥、尒朱栄、葛栄を檻車に載せて京師に送る。帝、閶闔門に臨み、栄は稽顙して罪を謝し、都市にて斬る。丙申、撫軍将軍・太常卿・太原王世子菩提を使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司と為す。丁酉、冀州の長楽、相州の南趙、定州の博陵、滄州の浮陽、平州の遼西、燕州の上谷、幽州の漁陽の七郡、各万戸を以て、太原王尒朱栄の封を増やして太原国と為す。戊戌、また栄に太師を加う。庚戌、侍中・鎮南将軍・太原郡開国公于暉に尚書左僕射を兼ねさせ、行台と為し、斉献武王とともに羊侃を討たしむ。壬子、太師・江陽王継薨ず。癸丑、膠東県開国侯李侃希にその祖の爵たる南郡王を復せしむ。
この月、車騎大将軍・儀同三司李叔仁、濰水に於いて邢杲を討つも、利あらずして還る。大 都督 費穆、蕭衍軍を大破し、その将曹義宗を擒らえ、檻車に載せて京師に送る。蕭衍、北海王顥を以て魏主と為し、年号を孝基と号し、南兗の銍城に入り拠る。
十有一月戊午、無上王の世子韶を彭城王と為し、陳留王の子寛を陳留王と為し、寛の弟剛を浮陽王と為し、剛の弟質を林慮王と為す。癸亥、斉献武王・行台于暉、徐兗行台崔孝芬・大 都督 刁宣とともに瑕丘に於いて羊侃を大破し、侃は蕭衍に奔る。兗州平らぐ。戊寅、上党王天穆を大将軍・開府と為し、世襲して 并 州刺史と為す。前将軍・太中大夫元凝を封じて東安王と為す。
十有二月庚子、詔して行台于暉に師を回らせて邢杲を討たしめ、歴下に次す。
この歳、葛栄の余党韓楼、復た幽州を拠りて反す。
永安二年
二年春正月甲寅、于暉の所部 都督 彭楽、二千余騎を率いて北に韓楼に走る。乃ち師を班す。
二月癸未朔、詔して諸の禁衛の官で戎に従い功有り及び傷夷する者は、選に赴き先に叙せしむ。甲午、皇考を尊びて文穆皇帝と為し、廟号を肅祖とし、皇妣を文穆皇后と為す。燕州の民王慶祖、上党に衆を聚め、自ら王と称す。柱国大将軍尒朱栄、これを討ち擒らう。壬寅、詔して 散騎常侍 済陰王暉業に行台尚書を兼ねさせ、 都督 李徳龍・丘大千を督して梁国を鎮守せしむ。
三月壬戌、詔して大将軍・上党王天穆に斉献武王とともに邢杲を討たしむ。
夏四月癸未、肅祖文穆皇帝及び文穆皇后の神主を太廟に遷し、内外の百官に一律に一級を加えた。畿内を曲赦し、死罪より流人に至るまで一等を減じ、徒刑以下は悉く免じた。庚子、詔して太原王尓朱栄の麾下の将士に一律に二級を加えた。辛丑、上党王天穆・斉献武王が邢杲を斉州の済南において大破し、杲は降伏し、京師に送られ、都市において斬られた。元顥が考城を攻め陥とし、行台元暉業・ 都督 丘大千を捕らえた。
五月壬子朔、元顥が梁国を攻略した。丁巳、撫軍将軍・前徐州刺史楊昱を使持節・鎮東将軍・東南道大 都督 とし、衆を率いて 滎陽 を鎮守せしめ、尚書僕射尓朱世隆に虎牢を鎮守せしめ、侍中尓朱世承に崿岅を鎮守せしめた。辛酉、詔して私馬・仗を従軍する者に優階を授け官とした。壬戌、また詔して募士を葛栄征討の例に準じた。甲子、また詔して職人及び民が馬を出す者に優階をそれぞれ差等を以て与えた。乙丑、内外戒厳した。癸酉、元顥が 滎陽 を陥とし、楊昱を捕らえた。尓朱世隆は虎牢を棄て遁走して還った。甲戌、車駕北巡し、乙亥、河内に幸した。丙子、元顥が洛に入った。丁丑、城陽県開国公元祉を進めて平原王とし、安昌県開国侯元鷙を華山王とし、ともに儀同三司を加えた。戊寅、行台崔孝芬・大 都督 刁宣が元顥の後軍 都督 侯暄を梁国において破り、これを斬り、その卒三千人を擒えた。侍中・車騎将軍・尚書右僕射尓朱世隆を使持節・行台僕射・本将軍・相州刺史とし、 鄴城 を鎮守せしめ、便宜を以て事を行わせた。また詔して上党において百歳以下九十歳以上には三品郡を板授し、八十歳以上には四品郡を、七十歳以上には五品郡を授けた。太原王尓朱栄が車駕と長子において会し、即日に反斾した。上党王天穆は北に渡り、車駕と河内において会した。
六月己丑、儀同三司費穆が顥のために害された。壬寅、河内を攻略し、太守元襲・ 都督 宗正珍孫を斬った。
秋七月戊辰、 都督 尓朱兆・賀抜勝が硤石より夜に渡河し、顥の子冠受及び安豊王延明の軍を破り、元顥は敗走した。庚午、車駕は華林園に入居し、大夏門に昇り、天下に大赦した。使持節・車騎将軍・ 都督 ・潁川郡開国公尓朱兆を車騎大将軍・儀同三司とした。詔して前朝の勲書は多く窃冒があるので、宜しく一切焼棄すべく、若し効を立てたことが灼然として時に知られる者は、別に科賞を加えるとした。蕃客及び辺境の酋長で城を翻して降り、勲功ありながら未だ叙されざる者は、焼断の限りに在らずとした。北来の軍士及び車駕に随従する文武・馬渚において義を立てた者には、一律に五級を加え、河北の執事の官には二級を、河南において義を立て及び車駕を迎えた官、 并 びに中途で扈従した者にも二級を加えた。壬申、柱国大将軍・太原王尓朱栄を天柱大将軍とし、前後部の羽葆・鼓吹を加えた。癸酉、臨潁県の卒江豊が元顥を斬り、首を京師に伝えた。甲戌、大将軍・上党王天穆を太宰とし、 司徒 公・城陽王徽を大司馬・太尉公とした。乙亥、天柱大将軍尓朱栄・上党王天穆及び北来の督将を都亭において宴労し、宮人三百・繒錦雑綵数万匹を出し、班賜に差等有り。また諸州郡より使者を遣わし奉表を行宮する者は、皆一大階を加えた。丁丑、元顥の弟頊を獲て、都市において斬った。詔して元顥より爵賞・階級を受けた者は、悉くこれを追奪した。己卯、鎮東将軍・南青州刺史元旭を襄城王とし、平南将軍・南兗州刺史元暹を汝陽王とした。
閏月辛巳、帝初めて宮内に居した。辛卯、車騎将軍・兼吏部尚書楊津を 司空 とした。巴州刺史厳始欣が州を拠り南に叛き、蕭衍はその将蕭玩・張鴻・江茂達等を遣わし衆を率いて赴援せしめた。
八月庚戌朔、詔して公私の債負ある者は、一銭以上巨万に至るまで、悉く皆禁断し、徴責することを得ずとした。己未、侍中・太傅李延寔を 司徒 公とした。丁卯、瓜州刺史元太栄を東陽王に封じた。甲戌、侍中・太保楊椿が致仕した。乙亥、詔して車騎将軍・右光禄大夫奚毅に板授せしめ、天柱大将軍尓朱栄・太宰天穆の麾下の勲功及び祖父叔伯の耆年に達する者に牧守を差等を以て授けしめた。
九月、大 都督 侯淵が薊において韓楼を討ち、破ってこれを斬った。幽州平らぐ。万俟醜奴が東秦城を攻め、これを陥とし、刺史高子朗を殺した。
冬十月丁丑、前 司空 公・丹陽王蕭賛を 司徒 公とした。
十有一月己卯、就徳興が営州より自ら使者を遣わし降伏を請うた。丁亥、詔して群官で休停して外に在る者を皆闕に赴かしめ、程会に差等有り。丙午、大司馬・太尉公・城陽王徽を太保とし、 司徒 公・丹陽王蕭賛を太尉公とし、開府儀同三司・雍州刺史長孫稚を 司徒 公とした。
十有二月辛亥、蕭衍の兗州刺史張景邕・荊州刺史李霊起・雄信将軍蕭進明が来降した。
永安三年
三年春正月己丑、益州刺史長孫寿・梁州刺史元儁等、将を遣わし征巴州 都督 元景夏と共に厳始欣を討ち、これを斬った。蕭衍の 都督 蕭玩・何難尉・陳愁は敗走し、玩の首を斬り、俘獲一万余人を得た。辛丑、東徐州の城民呂文欣・王赦等が刺史元太賓を殺し、城を拠りて反した。撫軍将軍・都官尚書樊子鵠を兼右僕射とし、行台と為し、征南将軍・ 都督 賈顕智、征東将軍・徐州刺史厳思達を督してこれを討たしめた。
二月甲寅、これを攻略した。東徐州平らぐ。
三月、醜奴の大行台尉遅菩薩が岐州を寇し、大 都督 賀抜岳・可朱渾道元がこれを大破した。
夏四月丁巳、侍中・太尉公・丹陽王蕭賛を使持節・ 都督 斉済兗三州諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・斉州刺史とした。丁卯、雍州刺史尓朱天光が安定において醜奴・蕭宝夤を討ち、破りこれを擒え、囚として京師に送った。甲戌、関中平らぐを以て、天下に大赦した。醜奴は都市において斬られ、宝夤は駝牛署において死を賜った。
六月戊午の日、詔して胡氏の親属で朝廷より爵を受けた者を罷めて編民に附す。嚈達国が師子一頭を献上す。
是の月、白馬龍涸の胡王慶雲、水洛城にて大位を僭称し、百官を署置す。
秋七月丙子の日、天光、水洛城を平定し、慶雲を擒え、其の城民一万七千を坑う。癸巳の日、蕭衍の民革虬・卜湯世、堡聚を率いて内附す。庚子の日、車騎大将軍・儀同三司李叔仁、事に坐して除名され民と為る。
九月辛卯の日、天柱大将軍尒朱栄・上党王天穆、晋陽より来朝す。戊戌の日、帝、明光殿にて栄・天穆及び栄の子儀同三司菩提を殺す。乃ち閶闔門に昇り、詔して曰く。
蓋し天道は盈を忌み、人倫は悪を嫉む、疎にして漏らさず、刑を捨つること無し。是を以て呂霍の門は、禍譴の伏す所と為り、梁董の家は、咎徴の斯に在り。頃者孝昌の末、天歩甚だ艱しく、女主政を乱し、監国主無し。尒朱栄、爰に晋陽より、王室を同じく憂え、義旗の建つるや、盟津に大会し、世と推挙を楽み、共に鴻業を成す。其の始図を論ずれば、労効無きに非ず。但し遠きに致さんには泥むを恐れ、終わるは実に難く、未だ崇朝せずして、豺声已に露わる。河陰の役、安んぞ忍んで親無からんや。王公卿士、一朝にして塗地し、宗戚遺ること靡く、内外倶に尽くす。天威を仮弄し、殆ど神器を危うくす。時事倉卒にして、未だ遑あらずして罪を問う。尋いで葛賊横行し、馬首南に向かうに及び、過を捨てて責成し、用いて醜虜を平げしむ。及び元顥鼎を問い、大駕北巡するに及び、復た勤王を致し、力を展べて行在所に効す。此を以て功を論ずれば、且つ過を補うべし。
既に位は宰衡に極まり、地は斉・魯を踰え、容養の至り、豈に復た是れ過ぎんや。但し心は猛火の如く、山林以て其の暴を供する無く、意は漏巵に等しく、江河以て其の溢るるを充す無し。既に金革稍々寧んずるを見、方隅漸く泰なるに及び、天功を推さず、専ら己が力と為し、与奪情に任せ、臧否意に肆し、君無き跡、日月以て甚だし。発を抜きて罪を数うれば、蓋し称するに足らず、竹を斬りて愆を書けば、豈に能く尽くすと云わんや。方に復た朝宗と託名し、陰に釁逆を図り、天居を睥睨し、聖暦を窺覗す。乃ち冠を裂き冕を毀つ心有り、将に本を抜き源を塞がん事と為さんとす。天既に乱を厭い、人亦た禍を悔い、同悪の臣、密かに来り投告す。将に而して必ず誅し、罪は容れて捨つる無し。
又た元天穆は宗室の末属、名望素より微にして、際会に遭逢し、頗る義挙に参ず。其の忠誠を竭くして以て家国に奉ずる能わず、乃ち復た本を棄てて末を逐い、同を背きて即ち異にし、之が謀主と為り、彼の禍心を成す。是を忍ぶべくんば、孰れか恕すべからざらんや。並びに以て辜に伏し、自ら伊戚を貽す。元悪既に除かれ、人神慶泰す、便ち大赦天下すべし。
武 衞 将軍奚毅・前燕州刺史崔淵を遣わし、兵を率いて北中を鎮守せしむ。
是の夜、僕射尒朱世隆・栄の妻郷郡長公主、栄の部曲を率いて西陽門を焚き、出でて河陰に屯す。己亥の日、河橋を攻め、途に於いて毅等を擒え、之を害し、北中城を拠り、南に京邑を逼る。詔して驃騎大将軍・雍州刺史・広宗郡開国公尒朱天光を以て侍中・儀同三司と為し、侍中・ 司空 公楊津を以て使持節・ 并 肆燕恒雲朔顕汾蔚九州諸軍事 都督 ・驃騎大将軍・ 并 州刺史・兼 尚書令 ・北道大行台と為し、 并 肆を経略せしむ。庚子の日、詔して諸の旧代の人を華林園に赴かしめ、帝将に親しく簡叙せんとす。撫軍将軍・金紫光禄大夫高乾邕を以て侍中・河北大使と為し、 驍 勇を招集せしむ。
冬十月癸卯朔、安南将軍・大鴻臚卿元宝炬を封じて南陽王と為し、大宗正卿・汝陽県開国公元脩を平陽王と為し、通直 散騎常侍 ・龍驤将軍・新陽県開国伯元誕を昌楽王と為す。復た通直 散騎常侍 ・琅邪県開国公と為す。李叔仁の官爵を復し、仍って使持節・大 都督 と為し、以て世隆を討たしむ。魏郡王諶を以て徙封して趙郡王と為し、諶の弟子趙郡王寘を改封して平昌王と為す。儀同三司李虔薨ず。丁未の日、河橋攻撃の募格を班し、賞帛授官各差有り。戊申の日、皇子生る、大赦天下し、文武百僚汎二級す。平南将軍・中書令魏蘭根を以て兼尚書左僕射と為し、河北行台と為し、定相殷三州は蘭根の節度に禀る。
乙卯の日、通直 散騎常侍 ・仮平西将軍・ 都督 李苗、火船を以て河橋を焚き、尒朱世隆退走す。丙辰の日、詔して大 都督 ・兼尚書僕射・行台源子恭に歩騎一万を率いさせ西道より出で、行台楊昱に 都督 李侃希等の部募勇士八千を領せしめて東路より往き、之を防討せしむ。子恭仍って太行丹谷に鎮す。世隆建州に至り、刺史陸希質拒守すも、城陷り、尽く之を屠り、唯だ希質のみ免るるを得。中軍将軍・前東荊州刺史元顕恭を以て使持節・ 都督 晉 建南汾三州諸軍事・鎮西将軍・ 晉 州刺史・兼尚書左僕射と為し、征西道行台と為し、 都督 薛善楽・薛修義・裴元儁・薛崇礼・薛憘族等を節度せしむ。丁卯の日、詔して世隆の北叛、河内の固守に因り、其在城の督将文武に普く二級を加え、兵士に復を給すること三年とす。
壬申の日、尒朱世隆建興の高都に停まり、尒朱兆晋陽より来り之に会し、共に太原太守・行 并 州刺史長広王曄を推して主と為し、其の部に大赦し、年号を建明とし、普く四級を汎す。徐州刺史尒朱仲遠反し、衆を率いて京師に向かう。
十有一月癸酉朔、詔して車騎将軍・左 衞 将軍鄭先護を以て使持節・大将軍・大 都督 と為し、 都督 李侃希を行台楊昱に赴かせて以て之を討たしむ。乙亥の日、使持節・兼 尚書令 ・西道大行台・ 司徒 公長孫稚を以て太尉公と為し、侍中・ 尚書令 ・驃騎大将軍・開府儀同三司・臨淮王彧を 司徒 公と為す。丙子の日、驃騎大将軍・儀同三司・雍州刺史・広宗郡開国公尒朱天光に開府を許し、爵を進めて王と為す。丁丑の日、尒朱仲遠西兗州を陥し、刺史王衍を執る。癸未の日、右 衞 将軍賀抜勝を以て東征 都督 と為す。壬辰の日、又た左 衞 将軍・大 都督 鄭先護を以て兼尚書左僕射と為し、行台と為し、勝と並び仲遠を討たしむ。戊戌の日、詔して魏蘭根の行台を罷め、後将軍・定州刺史薛曇尚を以て使持節・兼尚書と為し、北道行台と為し、機に随い召発せしむ。行 豫 州刺史元崇礼、後行州事陰導和を殺し、擅かに 豫 州を摂す。庚子の日、賀抜勝仲遠と滑台東に戦い、利あらず、仍って之に奔る。
十二月壬寅の朔、尒朱兆が丹谷を寇し、 都督 崔伯鳳は戦死し、 都督 羊文義・史五龍は兆に降り、大 都督 源子恭は奔退す。甲辰、尒朱兆・尒朱度律は富平津より上り、騎を率いて渡河し、以て京城を襲う。事は倉卒に出で、禁 衞 守らず。帝は雲龍門を出づ。兆は帝を逼りて永寧仏寺に幸せしめ、皇子を殺し、 并 せて 司徒 公・臨淮王彧、左僕射・范陽王誨を殺す。戊申、元曄は大赦を天下に行う。尒朱度律は自ら京師を鎮む。甲寅、尒朱兆は帝を晋陽に遷す。甲子、城内の三級仏寺に崩ず。時に年二十四。 并 せて陳留王寛を害す。
是の月、河西の人紇豆陵歩蕃・破落韓常、秀容において尒朱兆を大いに破る。斉州城の人趙洛周、西城を拠りて反し、尒朱兆に応ず。刺史・丹陽王蕭贊は城を棄てて走る。南陽太守趙脩延、荊州刺史李琰之を執り、自ら州事を行ふ。
中興二年、武懐皇帝と諡す。太昌元年、また孝荘皇帝と諡し、廟号を敬宗とす。十一月、静陵に葬る。
【論】
史臣曰く、魏は孝昌の末より、天下淆然たり。外侮内乱し、神器固に将に主無からんとす。荘帝は潜かに変化を思ひ、勤王を招納す。時に事孔棘と雖も、而して卒に四海を有つ。猾逆既に翦はれ、権強命を擅にす。抑も是れ謀を兆し智を運らすの秋、労謙して夕惕するの日なり。未だ長轡の策を聞かず、遽かに負刺の恐れを深くす。謀謨術罕にして、任を授くるに方に乖れ、猜嫌を行ひて戮し、禍は踵を旋らさず。嗚呼、胡醜の釁を為すや、豈に周衰・晋末のみならんや。高祖の祀らず、武宣の廟を享くるに至りては、三后降鑒し、福祿固より永からず。
校勘記