世宗宣武皇帝は、 諱 を恪といい、高祖孝文皇帝の第二子である。母は高夫人と申し上げる。初め、夢に日輪に追われ、床下に避けたところ、日が龍と化し、己を数回取り巻いた。目覚めて驚き動悸がし、やがて懐妊した。太和七年閏四月、帝は 平城 宮で生まれた。二十一年正月甲午、皇太子に立てられた。
太和二十三年
二十三年夏四月丁巳、魯陽において皇帝の位に即き、天下に大赦を行った。帝は諒闇(喪に服す期間)にあり、政務を宰輔に委ねた。
五月丙子朔、高麗国が使者を遣わして朝貢した。
六月乙卯、侍臣を分遣して郡国を巡行させ、民の疾苦を問い、守令を考察し、幽明(善悪)を黜陟し、文武の応求(求めに応じる者)や道が丘園に著しい者は、皆褒礼を加えた。戊辰、皇妣を追尊して文昭皇后と称した。
秋八月戊申、遺詔に従い、高祖の三夫人以下は悉く家に帰した。癸丑、宮臣の位を一級増した。癸亥、南徐州 刺史 沈陵が南へ叛いた。
冬十月辛未、鄧至国の王像舒彭が来朝した。丙戌、車駕は長陵を謁した。丁酉、太廟に事(祭祀)があった。
十一月、幽州の民王惠定が衆を聚めて反し、自ら明法皇帝と称した。刺史李肅が捕らえて斬った。
景明元年
景明元年春正月壬寅、車駕は長陵を謁した。乙巳、大赦を行い、年号を改めた。丁未、蕭宝巻の 豫 州刺史裴叔業が寿春を以て内属した。驃騎大将軍・彭城王勰が車騎十万を帥いてこれに赴いた。
二月戊戌、再び彭城王勰を 司徒 とした。宝巻の将胡松・李居士が衆万余を率いて宛に屯し、陳伯之の水軍が淮を溯って上り、寿春を逼った。
夏四月丙申、彭城王勰・車騎将軍王肅がこれを大破し、斬首すること万数に及んだ。己亥、皇弟恌が薨じた。
五月甲寅、北鎮に大飢饉があったため、兼 侍中 楊播を遣わして巡撫し賑恤した。
六月丙子、 司徒 ・彭城王勰は位を進めて大司馬とし、車騎将軍王肅には開府儀同三司を加えた。癸未、大陽蛮の酋長田育丘らが戸を率いて内附した。
秋七月、宝巻はまた陳伯之を遣わして淮南を寇した。庚子、吐谷渾国が使者を遣わして朝献した。
八月乙酉の日、彭城王元勰が肥口において陳伯之を撃破す。乙未の日、高麗国より使いを遣わして朝貢す。
九月乙丑の日、東 豫 州刺史田益宗が長風において蕭宝巻の将軍呉子陽・鄧元起を破る。斉州の民柳世明が徒党を集めて反乱を起こす。
冬十月丁卯朔の日、車駕(天子)長陵を謁す。庚寅の日、斉・兗二州の兵が柳世明を討ち、これを平定す。丁亥の日、彭城王元勰を改めて 司徒 ・録 尚書 事に任ず。甲午の日、詔して寿春に四万人の兵を置く。
十一月己亥の日、荊州刺史桓道進が蕭宝巻の下笮戍を攻め、これを抜き、降伏する者二千余戸。丁巳の日、陽平王元頤薨ず。
この年、十七州に大飢饉あり、使者を分遣して倉を開き賑恤す。この冬、島夷(南朝)の蕭衍が兵を起こして東下し、その主君蕭宝巻を伐つ。
景明二年
二年春正月丙申朔の日、車駕長陵を謁す。庚戌の日、帝(宣武帝)初めて親政す。遺詔に従い、 司徒 ・彭城王元勰が王として邸に帰ることを聴す。 太尉 ・咸陽王元禧は 太保 に進み、 司空 ・北海王元詳は大将軍・録尚書事となる。丁巳の日、太極前殿において群臣を引見し、政務を覧る旨を告ぐ。辛酉の日、高麗国より使いを遣わして朝献す。壬戌の日、太保・咸陽王元禧に太尉を領せしめ、大将軍・広陵王元羽を 司徒 とす。詔して曰く、「朕幼くして宝曆を承け、艱憂疚に在り、庶事親しまず、風化未だ洽わず。今始めて政務を覧るに、義は惟新に協い、四方の風従い率いて善きを思わしめんとす。大使を分遣し、幽明を黜陟すべし」。
二月庚午の日、宿衛の官は位一級を進む。甲戌の日、天下に大赦す。
三月乙未朔の日、詔して曰く、「比年以來、軍旅連なり、役務既に多く、百姓彫弊す。時に矜量し、以て民瘼を拯うべし。正調の外、諸の妨害損民は一時に蠲罷すべし」。辛亥の日、詔して曰く、「諸州刺史、民事に親しまず、督察に緩やかにして、郡県稽逋し、旬月の間、纔かに一覧決す。獄淹え訟久しく、動もすれば時序を延び、百姓怨嗟し、方に困弊を成す。尚書は明らかに条制し、四方に申し下し、日々に庶事に親しみ、守宰を厳勒し、因循し、寛怠して政を虧くことなからしむべし」。壬戌の日、詔して曰く、「治は簡静を尚び、任は応事を貴ぶ。州府の佐史、板を除くこと稍々多く、方に損弊を成し、政道に益なし。又京師の百司、僚局殷雑にして、官に閑長ある者も、亦此の例に同じ。苟も称要に非ざれば、悉く蠲省に従うべし」。青・斉・徐・兗の四州に大飢饉あり、民死する者一万余口。この月、蕭衍が蕭宝巻の弟南康王蕭宝融を立てて主とし、年号を中興とし、東して建業に赴く。
夏五月壬子の日、広陵王元羽薨ず。壬戌の日、太保咸陽王元禧謀反し、死を賜う。
六月丁亥の日、諸州刺史を考課し、以て黜陟を加う。
秋七月乙巳の日、 蠕蠕 が塞を犯す。乙未の日、東 豫 州刺史田益宗が赤亭において蕭宝巻の将軍黄天賜を破る。辛酉の日、天下に大赦す。壬戌の日、車騎将軍・儀同三司王肅薨ず。
九月丁酉の日、畿内の夫五万人を発し、京師に三百二十三坊を築き、四旬にして罷む。己亥の日、皇后于氏を立つ。乙卯の日、寿春の営戸を免じて揚州の民とす。
冬十月丁卯の日、吐谷渾国より使いを遣わして朝献す。辛未の日、蕭宝巻の零陵戍主華候が戸を率いて内属す。
十一月丙申の日、驃騎大将軍穆亮を 司空 とす。丁酉の日、大将軍・北海王元詳を 太傅 とし、 司徒 を領せしむ。壬寅の日、伊水の陽に円丘を改めて築く。乙卯の日、 仍 其事(祭祀)あり。
十二月、高麗国が使者を遣わして朝貢した。この月、宝巻の直後張斉がその主宝巻を殺して蕭衍に降り、衍は建業を攻略した。
景明三年
三年春二月戊寅、詔して曰く、「比来陽旱が長く続き、農民は耕作を廃し、思うに増して慚愧し、朕に良く多し。州郡に申し下せ、骸骨暴露する者あれば、悉く埋瘞すべし」。
三月、魯陽の蛮が反した。蕭宝巻の弟建安王宝夤が来降した。
夏四月、詔して撫軍将軍李崇に魯陽の反蛮を討たしむ。この月、蕭衍またその主宝融を廃して僭立し、自ら梁と称す。
閏月丁巳、 司空 穆亮薨ず。
五月、揚州小峴戍の主党法宗、蕭衍の大峴戍を襲い、これを破り、その龍驤将軍邾菩薩を擒らえ、京師に送る。
秋七月癸酉、于闐国が使者を遣わして朝献す。詔して文官の征討に従い顕著なる宿衛者に二階、閑散なる者に一階を加う。
八月癸卯、蕭宝融の鎮南大将軍・江州刺史陳伯之、使者を遣わして降を請う。乙卯、前太傅・平陽公丕を以て三老と為す。
九月丁巳、車駕行幸して 鄴 に至る。丁卯、詔して使者を遣わし殷の比干の墓を弔う。戊寅、鄴の南にて武を閲す。庚辰、武興国の世子楊紹先、使者を遣わして朝献す。
冬十月庚子、帝自ら射、遠く一里五十歩に及び、群臣射所に銘を勒す。甲辰、車駕宮に還る。
十有一月己卯、詔す、「京洛兵乱に荒れ、歳十紀を踰えたり。先皇旧都に定鼎し、惟れ魏曆を新たにし、榛荒を翦掃し、茲に雲構を創め、鴻功茂績、規模長遠なり。今廟社すでに建ち、宮極斯く崇し、便ち来月中旬を以て、吉日を蠲きて徙御すべし。遺意を仰ぎ尋ね、感慶衷に交わる。既に礼は周宣の斯干の制に盛んにして、事は漢祖の壮麗の儀に高し、典故に依り、茲に考告を備え、以て遐邇人臣の望に称すべし」。
十有二月戊子、詔して曰く、「民は本農桑にあり、国は蠶籍を重んず、粢盛の憑る所、冕織の寄する所なり。比京邑初めて基づき、耕桑暫く缺けたり、遺規往旨、宜しく必ず祗修すべし。今寝殿顕成し、移御維れ始め、春郊遠からず、羽を拂うに辰あり。便ち表に千畝を営み、宮壇を開設し、耒を秉り筐を援き、躬から億兆を勧むべし」。壬寅、群臣を太極前殿に饗し、布帛を差等ありて賜う、初めて成れるを以てなり。甲辰、揚州蕭衍の将張囂之を破り、二千級を斬る。
是歳、疏勒・罽賓・婆羅捺・烏萇・阿喻陁・羅婆・不崙・陁拔羅・弗波女提・斯羅・噠舍・伏耆奚那太・羅槃・烏稽・悉萬斤・朱居槃・訶盤陁・撥斤・厭味・朱沴洛・南天竺・持沙那斯頭の諸国並びに使者を遣わして朝貢す。河州大いに飢え、死者二千余口。
景明四年
四年の春正月乙亥、車駕は千畝において籍田の礼を行う。梁州の 氐 の楊会が反乱を起こす。詔して梁州行事の楊椿・左将軍の羊祉にこれを討たしむ。
三月己巳、皇后は北郊において先蠶の礼を行う。庚辰、揚州が蕭衍の将を陰山において破り、その龍驤将軍の呉道爽ら数千級を斬る。
夏四月癸未朔、蕭宝夤を鎮東将軍・東揚州刺史と為し、丹陽郡開国公・斉王に封ず。庚寅、南天竺国が辟支仏牙を献ず。戊戌、詔して曰く「酷吏の禍は、古より同じく患う。孝婦に淫刑を加え、東海は焦土と化す。今、雨降らざること十旬、意うに冤獄あるか。尚書は京師の見囚を鞫し、務めて聴察の理を尽くせ」。己亥、帝は旱魃のため膳を減じ懸を徹す。辛丑、澍雨大いに洽う。
五月甲戌、楊椿・羊祉が反氐を大破し、数千級を斬首す。
六月壬午朔、皇弟の悦を汝南王に封ず。丙戌、冀・定・瀛・相・ 并 ・済の六州より二万人・馬千匹を発し、寿春に増配す。
秋七月乙卯、三老・平陽公の丕薨ず。庚午、詔して塩池の利を収めて公に入るるを還す。辛未、彭城王の勰を太師と為す。
八月庚子、吏部尚書の元英に鎮南将軍を仮し、蕭衍の義陽を攻めしむ。勿吉国が楛矢を貢ぐ。辛丑、行幸して河南城の離宮に至る。
冬十一月壬子、揚州が蕭衍の軍を大破し、その徐州刺史の潘佃憐を斬り、司馬の明素を擒る。己未、武興国の世子の楊紹先をその国王と為す。癸亥、詔して尚書左 僕射 の源懐に代都・北鎮を撫労し、方に随い拯恤せしむ。乙亥、鎮南将軍の元英が蕭衍の将の呉子陽を白沙において大破し、千数を擒斬す。
十二月庚寅、詔して鎮南将軍の李崇に東荊の反蛮を討たしむ。丙申、詔して曰く「先朝は軌式を制立し、諸事惟れ允なり。但し歳積り人移り、物情乖惰す。比に或いは擅に増損有り、廃墜して行わず。或いは旧を守りて宜を遺し、時に舛妨有り。或いは職分錯乱し、互いに推委す。其れ百司に下し、其の疑闕を列し、速やかに以て奏聞せしめよ」。癸卯、蕭衍の梁州刺史・平陽県開国侯の翟遠・徐州刺史・永昌県開国侯の陳虎牙降る。
正始元年
正始元年春正月庚戌、江州刺史の曲江公の陳伯之が蕭衍の将の趙祖悦を東関において破る。丙辰、東荊州刺史の楊大眼が群蛮の樊季安らを大破す。丙寅、大赦し、年を改む。
二月戊子、蕭衍の将の姜慶真が寿春の外郭を襲い陥す。州軍これを撃ち走らす。丁酉、揚州統軍の劉思祖が衍の衆を邵陽において大破し、その冠軍将軍・邵陽県開国侯の張恵紹、 驍 騎将軍・祁陽県開国男の趙景悦ら十将を擒え、数千級を斬獲す。
三月壬申、元英が衍の将の王僧炳を樊城において破る。
夏四月辛卯、高麗国が使いを遣わし朝献す。
五月丁未朔、太傅・北海王の詳、罪により廃せられ庶人と為る。
六月、旱魃のため音楽を廃し、饗膳を減ずる。癸巳の日、詔して曰く、「朕は徳なく、政刑多く誤り、陽旱旬を歴て、京郊枯瘁す。予が責に在り、夙宵疚みを懐く。有司は旧典に循い案じ、六事を祗行すべし。囹圄の冤滞は平らかに処決し、庶尹の廃職は量りを加えて修挙し、鰥寡困窮は在所に存恤し、役賦の殷煩は咸く加えて蠲省し、賢良讜直は礼を以て進め、貪残佞諛は時に加えて屏黜し、男女の怨曠は務めて媾会せしめよ。朕が意に称えよ」と。甲午の日、帝は旱魃のため親しく太廟に薦享す。戊戌の日、詔して首陽山に周旦・夷斉の廟を立てしむ。庚子の日、旱魃のため公卿以下に引見し、咎を引き躬を責む。また京師の見囚を録し、殊死以下皆一等を減じ、鞭杖の坐は悉く原ゆ。
秋七月癸丑の日、蕭衍の角城戍主柴慶宗、城を以て来降す。李崇、諸蛮の帥樊素安を大破す。
八月丙子の日、元英、蕭衍の将馬仙琕を義陽にて破る。詔して 洛陽 令に大事有れば面を敷き奏するを聴す。乙酉の日、元英、義陽を攻め、これを抜き、蕭衍の冠軍将軍蔡霊恩等十余将を擒えて送る。辛卯の日、英また衍の将を大破し、仍て三関を清む。丁酉の日、元英を中山王に封ず。戊戌の日、西 羌 の宋万、戸四千を率いて内附す。
九月丙午の日、詔して淮の南北に縁る所在の鎮戍に、皆秋に麦を播き、春に粟稻を種えしめ、その土宜に随い、水陸兼用し、必ず地に遺利無く、兵に余力無からしめ、来稔に比して、公私俱に済わしむべしと。また詔して諸州に徭役を蠲停し、横に徴発有ること無からしむ。甲子の日、詔して中山王英の執へし蕭衍の冠軍将軍・監司州事蔡霊恩等を才に随い擢敍せしむ。乙丑の日、蕭衍の霍州刺史田道龍・義州刺史張宗之、使者を遣わして内附す。蠕蠕、塞を犯す。詔して左僕射源懐に討たしむ。
冬十月乙未の日、詔して群官の白衣募吏を断つ。
十有一月戊午の日、詔して曰く、「古の哲王、業を創え統を垂れ、民を安んじ化を立つるに、膠序を崇建し、国冑を開訓し、三礼を昭宣し、四術を崇明して、道を群邦に暢にし、風流を万宇にせざるは莫し。皇基徙構し、中区に光宅してより、軍国の務殷く、未だ経建に遑あらず。靖言これを思うに、古烈に慚有り。有司に勅し、漢魏の旧章に依り、国学を営繕すべし」と。
十有二月丙子の日、苑牧の公田を分ちて代遷の戸に賜う。己卯の日、詔して群臣に律令を議定せしむ。己亥の日、行幸して伊闕に至る。
閏月癸卯朔の日、蕭衍の行梁州事夏侯道遷、漢中に拠り来降す。尚書邢巒に鎮西将軍を仮し、衆を率いてこれに赴かしむ。乙丑の日、驃騎大将軍・高陽王雍を 司空 と為し、 尚書令 ・広陽王嘉に儀同三司を加う。
正始二年
二年春正月丙子の日、宕昌国の世子梁弥博をその国王と為す。鄧至国、使者を遣わして朝貢す。
二月、梁州の氐、反し、漢中の運路を絶つ。刺史邢巒、頻りにこれを大破す。
夏四月己未の日、城陽王鸞薨ず。乙丑の日、詔して曰く、「賢を任じ治を明らかにすることは、昔より通規なり。風を宣べ務を賛することは、実に多士に惟る。而るに中正の銓する所は、但だ門第を存し、吏部の彝倫は、仍って才挙せず。遂に英徳の昇る罕にして、司務多く滞る。その選を精にせずんば、将に何を以てか考陟せん。八座は往代の貢士の方、賢を擢ぐの体を審議し、必ず才学並びに申し、資望兼ねて致すべし」と。丙寅の日、仇池の氐の叛くに因り、詔して光禄大夫楊椿に平西将軍を仮し、衆を率いてこれを討たしむ。邢巒、統軍王足を遣わし西伐せしめ、頻りに蕭衍の諸軍を破り、遂に剣閣に入り、衍の輔国将軍范始男を執えて京師に送る。
五月辛巳の日、氐賊□虎、衆を率いて降る。
六月己丑の日、詔して曰く、「先朝の勲臣、或いは身譴黜に罹り、子孫沈滞す。或いは宦途失次し、旧流に替わり、これに因りて採らずんば、何を以てか奬勧せん。前績を言念すれば、情に親疏有り。宗及び庶族、祖曾の功績紀す可くして朝官無く、官有りて才優引に堪うる者は、才に随い銓授せよ」と。甲寅の日、蕭衍の冠軍将軍李畋等、営を始平郡東、涪水の北に置く。王足、逆撃してこれを敗り、衍の冠軍将軍張湯、輔国将軍馬市、寧朔将軍李当・姜見祖、輔国将軍馮文豪、龍驤将軍何営之等を斬る。甲子の日、詔して尚書李崇・太府卿于忠・ 散騎常侍 游肇・諫議大夫鄧羨に、崇・忠は使持節並びに侍中を兼ね、羨は黄門を兼ね、俱に大使と為し、外州畿内を糾断せしむ。その守令の徒咎失彰露する者は、即ち便ち施決し、州鎮の重職は、表聞を為すを聴す。乙丑の日、蕭衍の冠軍将軍王景胤・輔国将軍魯方達等、竹亭を攻む。王足、これを大破し、その輔国将軍王明達・龍驤将軍張方熾を斬る。丁卯の日、揚州刺史薛真度、蕭衍の将王超宗を大破し、俘斬三千級。戊辰の日、蕭衍の将魯方達、新城に屯戍す。足また統軍盧祖遷等を遣わし撃ちてこれを敗り、衍の冠軍将軍楊伯仁・寧朔将軍任安定を斬る。
秋七月甲戌の日、詔して曰く、「朕は宝曆を纂馭し、今に至るまで七載、徳澤未だ敷かず、鑒遠を燭せず、人の冤瘼、所在猶お滋し。而るに糾察の獄未だ下に暢せず、賢愚分たず、皂白均しく貫く。これ民の耳目を革め、善悪をして心を励ましむる所以に非ず。今大使を分遣し、方に省み巡検し、その愆負と風響と符節する者に随い、即ち糾黜を加え、以て雷霆の威を明らかにし、以て旄軒の挙を申べ、因りて以て風を観じ俗を辨し、功過を採訪し、賢者を褒賞し、淫慝を糾罰し、弊を理め窮め恤み、以て朕が心に称えよ」と。戊子の日、王足、蕭衍の軍を撃ち破り、その龍驤将軍喻増暉・寧朔将軍庫保寿・輔国将軍魯天恵・建武将軍王文標を斬る。王足、涪城に逼る。壬辰の日、蕭衍の巴西太守庾域、冠軍将軍・統軍主李畋等、逆戦す。足、これを撃ち破り、俘斬千数。
八月壬寅の日、詔して中山王元英に襄・沔を南討せしむ。庚戌の日、王足は統軍紀洪雅・盧祖遷らを遣わし、衍の軍を攻め破り、その秦梁二州刺史魯方達ら十五人を斬る。壬子の日、王足はまた統軍盧祖遷らを遣わし、衍の軍を撃ち破り、その 都督 ・冠軍将軍・梓潼県開国子の王景胤、劉達ら二十四将軍を斬る。甲寅の日、揚州は羊石において衍の将姜慶真を撃ち、これを破る。この月、衍の沔東太守田青喜、郡七・県三十一・戸一万九十を率いて内附す。
九月己巳の日、揚州刺史元嵩、衍の湘州刺史楊公則らを撃ち破り、数千を斬獲す。
冬十一月戊辰朔、武興国王楊紹先の叔父集起、謀反す。詔して光禄大夫楊椿にこれを討たしむ。王足、涪城を囲む。益州諸郡の戍、降る者十二三、民、編籍を送る者五万余戸。既にして足は軍を引きて退く。
十二月庚申の日、また詔して驃騎大将軍源懐慎に、武興の反氐を討たしむ。
正始三年
三年春正月丁卯朔、皇子生まる。大赦天下す。壬申の日、梁秦二州刺史邢巒、氐賊を連破し、武興を克つ。蕭衍の冀州刺史桓和、南青州に侵入寇す。州軍これを撃ち走らす。秦州の民王灋智ら、衆二千を聚めて自ら王公と号し、尋いで秦州主簿呂苟児を推して主と為し、年号を建明とす。己卯の日、楊集起兄弟相率いて降る。
二月丙辰の日、詔して曰く、「昔、虞は面従を戒め、昌言屡進す。周は諫輔を任じ、王闕必ず箴む。朕、仰いで鴻基を纘ぎ、伏して 宝暦 に膺り、庶績を康んぜんと思い、一日万幾なり。是をもって忠言を側望し、讜直を虚求す。而るに良策進まず、規画聞こえず。豈に元首を弼諧し、不逮を匡救する者と謂うべきや。王公以下に詔すべし。其れ嘉謀深図・直言忠諫・国に利し民に便し、時に矯い俗を厲する者有らば、咸に事を指して陳奏せしめよ。或いは依違する無かれ」。戊午の日、詔して右衛将軍元麗らに呂苟児を討たしむ。乙丑の日、平南将軍陳伯之、梁城において蕭衍の徐州刺史昌義之を破る。この月、衍の将蕭昞、衆五万を率いて淮陽を寇す。
三月己巳の日、戎旅大いに興るを以て、詔して諸作を罷む。己卯の日、詔して荊州刺史趙怡・平南将軍奚康生を淮陽に赴かしむ。楽良王長命、人を殺すに坐し、死を賜い、国除かる。戊子の日、皇子を名づけて昌と曰う。庚寅の日、平南将軍・曲江県開国公陳伯之、梁城より南奔す。
夏四月乙未の日、詔して塩池の禁を罷む。甲辰の日、詔して使者を遣わし、北辺の酋庶を巡慰せしむ。庚戌の日、中山王元英を征南将軍・揚徐二道諸軍事 都督 と為し、辺将を指授す。蕭衍の江州刺史王茂先、荊州を寇し、河南城に屯す。詔して平南将軍楊大眼にこれを討たしむ。辛酉の日、大いにこれを破り、その輔国将軍王花を斬り、首虜二千余。河南城を進攻す。茂先逃潰し、漢水に至るまで追奔し、その五城を抜く。将軍宇文福、衍の司州を略し、俘獲千余口して還る。
五月乙丑朔、詔して尚書に義陽初附の戸を拯わしむ。丙寅の日、詔して曰く、「骼を掩い胔を埋むるは、古の令典なり。辰に順い令を修むるは、朝の恒式なり。今、時沢未だ降らず、春稼已に旱し。或いは孤老餒疾にして、人無く贍救せざるにより、以て死に致し、溝塁に暴露する者有らば、洛陽部尉、法に依り棺埋せよ」。壬申の日、蕭衍の将張恵紹、侵入寇し、宿 豫 を陥す。乙亥の日、衍の将蕭容、梁城を陥す。辛巳の日、衍の将韋叡、合肥城を陥す。壬午の日、詔して尚書元遙に衆を率いて南討せしむ。癸未の日、秦隴未だ平らかならざるを以て、詔して征西将軍于勁に諸軍を節度せしむ。己丑の日、衍の将、また羊石・霍丘の二城を陥す。
六月辛丑の日、また小峴戍を陥す。乙巳の日、安西将軍元麗、秦賊を大破し、賊帥王灋智ら五人を斬り、六千を梟首す。丁未の日、仮の平南将軍奚康生、蕭衍の将張恵紹を破り、その徐州刺史宋黒を斬る。丁巳の日、詔して尚書邢巒に出でて徐兗を討たしむ。
秋七月丙寅の日、衍の将桓和、孤山を寇し、固城を陥す。庚辰の日、元麗、秦賊を大破し、呂苟児及びその王公三十余人を降し、秦涇二州平る。戊子の日、中山王元英、陰陵において衍の徐州刺史王伯敖を大破し、その将二十五人を斬り、首虜五千有余。己丑の日、詔して定・冀・瀛・相・ 并 ・肆の六州十万人を発し、以て南軍を済わしむ。
八月壬寅の日、安東将軍邢巒、孤山において蕭衍の将桓和を破り、首級万余を斬る。将軍元恒、別に固城を克ち、衍の冠軍将軍桓方慶を斬る。統軍畢祖朽、別に蒙山を克ち、衍の龍驤将軍矯道儀らを斬り、賊及び沂に赴きて死する者四千余人を斬る。兗州平る。己酉の日、詔して平南将軍・安楽王元詮に後発諸軍を督せしめ、淮南に赴かしむ。壬戌の日、涪・秦・岐・涼・河の五州を曲赦す。
九月癸酉の日、邢巒、宿 豫 において衍軍を大破し、その大将藍懐恭ら四十余人を斬る。張恵紹は宿 豫 を棄て、蕭昞は淮陽を棄てて南走す。数万級を追斬す。徐州平る。己丑の日、中山王元英、淮南において衍軍を大破す。衍の中軍大将軍・臨川王蕭宏、尚書右僕射柳惔、徐州刺史昌義之ら、梁城を棄てて淮に沿い東走す。馬頭に次ぎて追奔す。衍の冠軍将軍・戍主朱思遠、城を棄てて宵遁す。衍の将四十余人を擒えて送り、士卒五万有余を斬獲す。英、遂に鍾離を攻む。高麗国、使いを遣わして朝貢す。蕭衍、将士卒三万を遣わして義陽を寇す。丁酉の日、夜遁走す。郢州刺史婁悦、追撃してこれを破る。戊申の日、蠕蠕国、使いを遣わして朝貢す。己未の日、征虜将軍趙遐、灙城桑坪において衍の衆を大破す。
十一月甲子の日、帝、式乾殿において京兆王元愉・清河王元懌・広平王元懐・汝南王元悦のために孝経を講ず。庚寅の日、詔して曰く、「往年、隴右逆を扇ぎ、合境民ならず。其中に猶よく自ら守り、釁乱に与せざる卒有り。疾風勁きを知る、誠に嘉すべきなり。尚書、甄量して賞を報い、以て誠義を表すべし」。この月、梁州、再び反獠を破る。
正始四年
四年春二月丙午、吐谷渾・宕昌国がともに使者を遣わして朝貢し献上する。己未、勿吉国が楛矢を貢ぐ。
三月丙子、疊伏羅国が使者を遣わして朝貢する。
夏四月戊戌、鍾離に大水あり。中山王元英が敗北して帰還する。壬寅、吐谷渾・鳩磨羅・阿抜磨抜切磨勒・悉萬斤の諸国がともに使者を遣わして朝貢し献上する。
六月己丑朔、詔して曰く、「高祖(孝文帝)の徳は両儀に及び、明らかさは日月と並び、文教を播いて遠人を懐け、礼学を調えて俊造を旌し、県を中区に移し、天邑に光宅し、霜露の均しくする所を総べ、洛水の畔において周の卜を一つにしたが、軍事と土木を兼ねて興し、儒教に遑がなかった。朕は鴻緒を継ぎ、宝暦に君臨し、聖なる規を模し、先志を述べて遵おうと思う。今、天地平らかに寧らかで、四方に事なく、有司に勅して前の式を訪い準え、国子を置き、太学を立て、四門に小学を樹てよ。」丙午、蕭衍の龍驤将軍・馮翊太守宇文子生ら七郡が相率いて内附する。丁未、社蘭達那羅・捨弥・比羅直の諸国がともに使者を遣わして朝貢し献上する。
秋八月辛卯、契丹国が使者を遣わして朝貢し献上する。己亥、中山王元英・斉王蕭宝夤は鍾離での敗退の罪により、ともに除名されて民とされる。庚子、庫莫奚・宕昌・吐谷渾の諸国が使者を遣わして朝貢し献上する。辛丑、敦煌の民が飢え、倉を開いて賑恤する。
九月己未、詔して曰く、「朕は暦を秉り天を承け、年を履みて将に紀に至らんとし、宮極を正に徙し、歳は余りに帰して満つ。台輔の懿親は、謹んで勤めて久しく;列司の英彦は、功績未だ酬いられず。これ所謂、功有る者知られ、賞は時に及ぶというに非ず。 司空 ・高陽王元雍を以て太尉と為し、 尚書令 ・広陽王元嘉を 司空 と為し、百官は悉く位を一級進めよ。」庚申、夏州長史曹明が謀反し、誅せられる。甲子、斜谷の旧道を開く。疏勒・車勒阿駒・南天竺・婆羅等の諸国が使者を遣わして朝貢し献上する。丙戌、司州の民が飢え、倉を開いて賑恤する。
閏月甲午、大司馬門に車馬の出入りを禁ずる。
冬十月丁巳、高麗・半社・悉萬斤・可流伽・比沙・疏勒・于闐等の諸国がともに使者を遣わして朝貢し献上する。丁卯、皇后于氏崩ず。戊辰、疏勒国が使者を遣わして朝貢する。庚午、淮陽太守安楽が城南を以て叛く。辛未、嚈噠・波斯・渴槃陁・渴文提不那杖忸杖提等の諸国が、ともに使者を遣わして朝貢し献上する。乙酉、順皇后を永泰陵に葬る。
十有一月丁未、河南に牝馬を飼うことを禁ずる。碣石より剣閣に至るまで、東西七千里、二十二の都尉を置く。己酉、阿與陁・呵羅槃・陁跋吐羅の諸国がともに使者を遣わして朝貢し献上する。
十有二月戊午、詔して、兵士で鍾離に没落した者は、一房の田租を三年間免除する。辛酉、特那杖提莎鉢離阿失勒摩致鉢の諸国が使者を遣わして朝貢する。甲子、蠕蠕・ 高車 の民、他莫孤が部を率いて来降する。丁丑、鉢崙・波利伏佛冑善・乾達の諸国が使者を遣わして朝貢する。
永平元年
永平元年春正月戊戌、潁川太守王神念が蕭衍に奔る。
二月辛未、勿吉・南天竺国がともに使者を遣わして朝貢し献上する。
三月戊子、皇子元昌薨ず。己亥、斯羅・阿陁・比羅・阿夷义多・婆那伽・伽師達・于闐の諸国がともに使者を遣わして朝貢し献上する。丙午、去年の旱魃と凶作のため、使者を遣わして所在で賙恤する。
夏四月、阿伏至羅国が使者を派遣して朝貢した。
五月癸未、高麗国が使者を派遣して朝献した。辛卯、帝は旱魃のため、膳を減らし懸楽を撤いた。
六月壬申、詔して曰く、「獄を慎み刑を重んずることは、往昔の誥命に明らかである。朕はこの宝暦を御し、明らかな鑑戒は遠くないが、煩雑な疑獄を断決することに、実に愧じることがある。洛陽の旧図に依り、聴訟観を修造せよ。農閑期に工事を起こし、冬の令に及んで完成させよ。王公卿士とともに親臨して録問するであろう」。癸酉、高車国が使者を派遣して朝貢した。
秋七月辛卯、高車、契丹、汗畔、罽賓の諸国がともに使者を派遣して朝献した。甲午、夫人高氏を皇后とした。乙未、詔して曰く、「獄を察するには情実により、五聴をもって審らかにし、枷や杖の大小は、それぞれ基準を定めるべきである。しかし近ごろ廷尉、司州、河南、洛陽、河陰および諸獄官の、訊問の理は、矜み恕すことを尽くさず、掠拷の苦しみは、しばしば甚だ酷く、これは憲法を敬い衷情を量り、刑を慎み命を重んずる所以ではない。濫りを推し枉を究めることは、まことに朕の懐を痛める。尚書に付して枷杖の制に違うゆえんを精しく検査させ、罪を断じて奏聞せよ」。
八月癸亥、冀州刺史、京兆王元愉が州を拠って反した。乙丑、尚書李平に鎮北将軍を仮し、冀州事を行わせてこれを討たせた。丁卯、大赦し、年号を改めた。庚午、吐谷渾、庫莫奚国がともに使者を派遣して朝貢した。
九月辛巳朔、李平が草橋で元愉を大破した。丙戌、前中山王元英の本来の封を回復した。壬辰、蠕蠕国が使者を派遣して朝貢した。定州刺史、安楽王元詮が信都の北で元愉を大破した。戊戌、侍中、太師、彭城王元勰を殺した。辛丑、詔して冀州の民で雑工役に従事し元愉に誑かされた者を赦し、その逆党を斬獲する能力ある者は、別に優賞を加えると宣した。癸卯、李平が信都を攻克し、元愉は北へ逃走し、その任命した冀州牧韋超、右衛将軍睦雅、尚書僕射劉子直、吏部尚書崔朏らを斬った。統軍叔孫頭が元愉を捕らえて信都に送った。群臣は元愉を誅するよう請うたが、帝は許さず、京師に送るよう詔した。冀州は平定された。庚子、郢州司馬彭珍、治中督栄祖らが謀叛し、ひそかに蕭衍の兵を引き入れて義陽に入らせたが、郢州刺史婁悦がこれを撃退した。将軍胡季智、屈祖らに詔して南へ義陽に赴かせた。三関の戍主侯登、陽鳳省らが城を以て南に叛き、婁悦は城に拠って固守した。中山王元英に歩騎三万を督させてこれに赴かせた。
冬十月丁巳、詔して故北海王元詳の本来の封を回復し、王礼をもって葬った。 豫 州彭城の人白早生が刺史司馬悦を殺し、城を拠って南に叛き、蕭衍は将軍斉苟仁ら四将を派遣してこれを助けた。詔して尚書邢巒に行 豫 州事とし、将軍崔暹に騎兵を率いさせてこれを討たせた。丙子、邢巒が鮑口で早生および苟仁の軍を大破した。丁丑、前宿 豫 戍主成安楽の子景儁が宿 豫 戍主厳仲賢を殺し、城を以て南に叛いた。
十一月庚寅、詔して安東将軍楊椿に兵四万を率いさせて宿 豫 を攻撃させた。
十二月己未、邢巒が懸瓠を攻克し、白早生を斬り、斉苟仁らを生け捕りにし、蕭衍の兵卒三千余人を捕虜とし、王公以下に分け与えた。癸亥、中山王元英が楚城で蕭衍の将を破り、蕭衍の寧朔将軍張疑らを生け捕りにした。郢州刺史婁悦が金山で蕭衍の将馬仙琕を破った。壬申、漢東の蛮民一万七千戸が相率いて内附した。丙子、高麗国が使者を派遣して朝献した。
この年、高昌国王麴嘉がその兄の子で私署左衛将軍の孝亮を派遣して表を奉じて来朝させ、内徙を求め、師を乞うて迎接を請うた。
永平二年
二年春正月、蕭衍が王神念を派遣して南兗を寇掠した。詔して輔国将軍長孫稚に平南将軍を仮し 都督 とし、統軍邴虬ら五軍を率いさせてこれを討たせた。丁亥、胡密、歩就磨、忸密、槃是、悉万斤、辛豆那、越抜忸の諸国がともに使者を派遣して朝献した。壬辰、嚈噠、薄知国が使者を派遣して来朝し、白象一頭を貢献した。乙未、高昌国が使者を派遣して朝貢した。丙申、中山王元英が蕭衍の長薄戍に進撃し、戊戌、夜潰させ、殺傷は千数に及んだ。丁酉、武陽関を抜き、蕭衍の雲騎将軍、松滋県開国侯馬広、冠軍将軍、遷陵県開国子彭瓫生、 驍 騎将軍、当陽県開国伯徐元季ら二十六将を生け捕りにし、七千余人を捕虜とした。黄峴、西関を進攻した。蕭衍の将馬仙琕は西関を棄て、李元履は黄峴を棄てて遁走した。この月、涇州の沙門劉慧汪が衆を集めて反した。詔して華州刺史奚康生にこれを討たせた。
二月乙卯、詔して曰く、「近ごろ軍役が頻繁に起こり、兵器は多く毀損し、庫にある戎器は、現にあるものは僅かである。安きに危うきを忘れずとは、古人の戒めであり、五兵の器は、事充積を須い、経造は既に殷盛であるが、衆なければ挙げられない。今、四万人分の雑仗を量り造るべし」。
三月癸未、磨豆羅、阿曜社蘇突闍、地伏羅の諸国がともに使者を派遣して朝献した。
夏四月己酉、詔して武川鎮が飢えたため、倉を開いて賑恤した。甲子、詔して曰く、「聖人は世を済うに、物の汚隆に随い、或いは正し、或いは権なり、理は恒に在るものではない。先朝は雲駕が遷り、嵩基が始めて構えられた時、河洛の民庶は、旧地から移りまだ安からず、代来の新宅は、なお就くことができなかった。伊闕の西南には、群蛮が充満し集結し、沔陽の賊城は、邑を連ねて戍と為し、蠢爾たる愚かな巴は、心純粋に款服していなかった。故に暫く造育の仁を抑え、権に姦を粛する法を緩めた。今、京師は天の如く固く、昔と異なる。楊、郢、荊、益は、皆ことごとく我が有と為し、険を保つ諸蛮は、帰附せざるはなく、商洛の民情は、誠に往日に倍する。ただ樊襄以南は、仁政に乖き道政であり、教化に拘隔され、民の咎ではない。しかるに無頼の徒が、軽々しく劫掠し、良善を屠害し、人の父兄を離散させる。蕭衍の為す酷さは、実にまた深い。すみやかにかの掠められた民を放ち、大いなる恵みを示し、この残賊を赦し、未だ令せざる過ちを責めよ。併せて縁辺の州鎮に勅し、今より以後、境外の寇盗を容認せず、犯す者は境内と同罪とせよ。もし州鎮の主将が、知りながら糾さない場合は、律に坐する如くにせよ」。
五月、高麗国が使者を遣わして朝貢した。辛丑の日、帝は旱魃のため、食事を減らし懸楽を撤去し、屠殺を禁断した。甲辰の日、華林都亭に幸し、自ら囚徒を録し、死罪に犯した者以下一等を降した。
六月、高昌国が使者を遣わして朝貢した。辛亥の日、詔して曰く、「江海は方に同じく、車書は宜しく一にすべし。諸州の軌轍、南北等しからず。今四方に申し敕し、遠近二つ無からしむべし」。
秋七月癸未、契丹国が使者を遣わして朝貢した。
八月丁未、鄧至国が使者を遣わして朝貢した。戊申、鄧至国の世子像覧蹄を以てその国王と為す。高昌、勿吉、庫莫奚の諸国並びに使者を遣わして朝貢した。
九月辛巳、故北海王の子顥を封じて北海王と為す。壬午、詔して諸門闥の名を定む。
冬十月癸丑、 司空 ・広陽王嘉を以て 司徒 と為す。庚午、郢州七宝牀を献ず。詔して納れず。
十有一月甲申、詔して含孕の屠殺を禁じ、以て永制と為す。己丑、帝、式乾殿に於いて諸僧・朝臣の為に維摩詰経を講ず。
十有二月、詔して曰く、「五等諸侯、比に選式無し。其の同姓の者は出身す:公正六下、侯従六上、伯従六下、子正七上、男正七下。異族の出身:公従七上、侯従七下、伯正八上、子正八下、男従八上。清修の出身:公従八下、侯正九上、伯正九下、子従九上、男従九下。此れに依りて之を敍すべし」。疊伏羅、弗菩提、朝陁咤、波羅の諸国並びに使者を遣わして朝貢した。
永平三年
三年春二月丙午、高昌・鄧至国並びに使者を遣わして朝貢した。壬子、秦州の沙門劉光秀謀反す。州郡捕え斬る。癸亥、秦州隴西の羌、鎮将趙儁を殺し、兵を阻み反叛す。州軍討ち平げ之。
三月丙戌、皇子生まる。大赦天下す。高麗、吐谷渾、宕昌の諸国並びに使者を遣わして朝貢した。
夏四月、平陽郡の禽昌・襄陵の二県大疫有り。正月より此の月に至るまで、死者二千七百三十人。
五月丁亥、詔して冀・定の二州旱儉を以て、倉を開き賑恤す。
六月壬寅、詔して天下に遺書を重ねて求む。丁卯、皇子の名を詡と曰う。
閏月己亥、吐谷渾、高麗、契丹の諸国各使者を遣わして朝貢す。
秋七月己未、吐谷渾国が使者を遣わして朝貢した。
八月己卯、勿吉国が使者を遣わして朝貢した。
九月壬寅、烏萇・伽秀沙尼などの諸国がそろって使者を遣わして朝献した。丙辰、高車の別帥可略汗らが衆一千七百を率いて内属した。
冬十月辛卯、中山王元英が 薨去 した。丙申、詔して曰く、「朕は天に乗り暦を御し、年は一紀を周る。しかるに道は撃壤に謝し、教えは刑措に慚ず。下民の煢鰥疾苦に至っては、心常にこれを愍む。これを恤わざれば、豈に民の父母の意たるべけんや。太常に勅して閑敞の処に別に一館を立て、京畿内外の疾病の徒をして咸らに居処せしむべし。医署を厳しく勅し、師を分かち療治せしめ、その能否を考へて賞罰を行ふべし。齢数期有りといへども、修短分定まるといへども、然れども三疾同じからず、或いは針石に頼る。秦扁の言、庶幾くは今日に理験あらんことを。又、経方浩博にして、流伝処広く、病に応じて薬を投ずるも、卒に窮究し難し。更に有司に令し、諸の医工を集め、篇を尋ね簡を推し、務めて精要を存し、三十余巻を取り、以て九服に班ち、郡県備写して郷邑に布下し、救患の術を知らしむべし」。戊戌、高車・亀茲・難地・那竭・庫莫奚などの諸国がそろって使者を遣わして朝献した。
十二月己卯、高麗・比沙杖国が使者を遣わして朝献した。辛巳、江陽王元継は事に坐して除名された。甲申、詔して青州に高祖廟を立てしむ。殿中侍御史王敞が謀反し誅せられた。
永平四年
四年春正月丁巳、汾州の劉龍駒が衆を聚めて反した。詔して諫議大夫薛和に衆を率いてこれを討たしむ。甲子、阿悦陁・不数羅国がそろって使者を遣わして朝献した。
二月壬午、青・斉・徐・兗の四州の民、飢え甚だし。使者を遣わして賑恤す。
三月癸卯、婆比幡弥・烏萇・比地・乾達などの諸国がそろって使者を遣わして朝献した。壬戌、 司徒 ・広陽王元嘉が薨去した。
夏四月、琅邪の民王万寿が蕭衍の輔国将軍・琅邪東莞二郡太守劉晣の首を斬り、朐山をもって来降した。徐州刺史盧昶は琅邪の戍主傅文驥を遣わし衆を率いてこれを拠らしむ。甲戌、薛和、山胡を大破す。蕭衍、その鎮北将軍張稷及び馬仙琕を遣わし朐山を寇す。詔して盧昶に衆を率いてこれに赴かしむ。
五月己亥、代京の銅龍を遷して天淵池に置く。丙辰、詔して天文の学を禁ず。
六月乙亥、乾達・阿婆羅・達舍・越伽使密・不流沙などの諸国がそろって使者を遣わして朝献した。
秋七月辛酉、吐谷渾・契丹国がそろって使者を遣わして朝献した。
八月辛未、阿婆羅・達舍・越伽使密・不流沙などの諸国がそろって使者を遣わして朝献した。癸巳、勿吉国が楛矢を献ず。
九月甲寅、蕭衍の九山戍主苟仁、戍をもって来降した。嚈噠・朱居槃・波羅・莫伽陁・移婆僕羅・倶薩羅・舍弥・羅楽陁などの諸国がそろって使者を遣わして朝献した。
冬十月丁丑、婆比幡彌・烏萇・比地・乾達等の諸国が皆使いを遣わして朝貢した。
十有一月甲午、宕昌国が使いを遣わして朝貢した。己亥、詔して李崇・奚康生らに寿春で兵を治めさせ、朐山の賊を分断させた。戊申、難地・伏羅国が共に使いを遣わして朝貢した。朐城が陥落し、盧昶は大敗して帰還した。
十有二月壬申、詔して曰く、「善を進め悪を退けるは、治の通規なり。三載の考察は、政の明典なり。正始二年以来、今に至るまで未だ考せず、功過斉し難く、豈に昇降無からんや。景明二年より永平四年に至るまでを通考して聞かせよ」。戊子、大羅汗・婆来伽国が使いを遣わして朝貢した。
延昌元年
延昌元年春正月乙巳、水旱の災害が頻発し、百姓が飢え困窮したため、使者を分遣して倉を開き賑恤した。戊申、疏勒国が使いを遣わして朝貢した。丙辰、車騎大将軍・ 尚書令 の高肇を 司徒 公とし、光禄大夫・清河王の懌を 司空 とし、司州牧・広平王の懐に驃騎大将軍・儀同三司の号を進めた。
三月辛卯朔、渴槃陁国が使いを遣わして朝貢した。甲午、十一の州郡に大水があり、詔して倉を開き賑恤した。京師の穀物が高価なため、倉粟八十万石を出して貧者を賑った。己未、安楽王の詮が薨じた。
夏四月、旱魃の故に、粟を食う家畜を全て断つことを詔した。丁卯、詔して曰く、「京を嵩県に遷してより、年将に二紀に及ぶ。虎闈に唱演の音を闕き、四門に講誦の業を絶つ。博士は端然として、虚禄に歳祀を送り、貴遊の冑は、子衿に同じきを歎く。靖言これを念うに、兼ねて愧慨有り。厳しく有司を敕し、国子学は孟冬に成らしめ、太学・四門は明年の暮春に就かしむべし」。戊辰、旱魃のため、詔して尚書に群司と共に獄訟を鞠理せしめ、詔して河北の民に燕・恒二州で穀物を得させた。辛未、詔して飢民に六鎮で穀物を得させた。丁丑、帝は旱魃の故に、膳を減らし懸楽を撤いた。癸未、詔して曰く、「肆州に地震が起こり地が陥裂し、死傷甚だ多し。毀没を言念するに、酸楚の懐抱有り。亡者は復追うべからず、生病の徒は宜しく療救を加うべし。太医・折傷医を遣わし、併せて須う所の薬を与え、就いてこれを治すべし」。乙酉、大赦し、年号を改めた。理訴殿・申訟車を立て、冤窮の理を尽くすことを詔した。
五月辛卯、疏勒及び高麗国が共に使いを遣わして朝貢した。丙午、詔して天下の粟有るの家に、年の供えの外は、悉く飢民に貸与せしめた。二月より雨降らず、是の晦に至る。
六月壬申、時雨が大いに潤した。戊寅、河南の牝馬の禁を解いた。己卯、詔して曰く、「去歳は水災、今春は炎旱にて、百姓飢餒し、救命の寄る所無し。蚕月を経ると雖も、養績すること能わず。今秋の輸将に及び、郡県は責めの弁ずるを期す。尚書は諸州を厳しく勒し、民の資産を量り、明らかに検校を加え、以て艱弊を救うべし」。庚辰、詔して太倉粟五十万石を出し、以て京師及び州郡の飢民を賑った。
秋七月、吐谷渾・契丹国が共に朝貢した。
八月壬戌、吐谷渾国が使いを遣わして朝貢した。丁亥、勿吉国が楛矢を貢献した。
冬十月乙亥、皇子の詡を立てて皇太子とした。是の月、嚈噠・于闐・高昌及び庫莫奚の諸国が皆使いを遣わして朝貢した。
十有一月丙申、詔して曰く、「朕は天の休を運承し、宸宇を統御す。太子は霊明を体藉し、宮華を肇建す。明両既に孚き、三善方に洽わんとす。宜しく沢を率土に均しくし、栄を庶胤に汎くすべし。天下の父後たる者に爵一級を賜い、孝子・順孫・廉夫・節婦は門閭を旌表し、粟帛を量りて給せよ」。
十有二月己巳、詔して、守宰で御史の弾劾に遇い赦免された者、及び考課が中第にある者は、皆代えさせた。
延昌二年
二年春正月戊戌、帝は申訟車に臨み、自ら冤罪の訴訟を裁く。高麗国が使者を遣わして朝貢し献上する。
二月丙辰朔、京師の貧民を救済し施しを与える。甲戌、六鎮が大飢饉に陥ったため、倉を開いて救済し養う。己卯、太尉・高陽王元雍が位を進めて太保となる。庚辰、蕭衍の郁州の民徐玄明らが、衍の鎮北将軍・青冀二州刺史張稷の首級を斬って送り、州を率いて内属した。詔して前南兗州刺史樊魯に命じ、衆を率いてこれに赴かせる。
閏二月辛丑、苑牧の地を代遷の民で田なき者に賜う。癸卯、奴と良民の制度を定め、景明年間を限界とする。
三月丙寅、高昌国が使者を遣わして朝貢し献上する。この春、民は飢え、餓死者数万口に及ぶ。
夏四月庚子、絹十五万匹をもって河南郡の飢民を救済し施しを与える。
五月、寿春に大水あり、平東将軍奚康生らに命じ、歩騎数千を率いてこれに赴かせる。高麗国が使者を遣わして朝貢し献上する。
六月乙酉、青州の民が飢える。詔して使者に命じ、倉を開いて救済し施しを与える。甲午、揚州を曲赦する。辛亥、帝は申訟車に臨み、自ら冤罪の訴訟を裁く。この夏、十三の州郡に大水あり。
秋八月辛卯、詔して曰く、「近頃水害と旱害が互いに侵し、連年飢饉と不作が続き、百姓は困窮し、多く罪に陥っている。煩雑な刑罰の愧じるところ、朕はこれを用いて懼れる。殺人・人を掠め売る者・群盗の首魁、および首魁でなくとも財主を殺傷し、かつて再犯し公的に裁断された道路で行人を劫奪した者は、法に依って処刑せよ。その余は死罪を恕す。徒刑・流刑以下の者は各々準じて減刑・降刑せよ」。庚戌、嚈噠・于闐・槃陁及び契丹・庫莫奚の諸国が並びに使者を遣わして朝貢し献上する。
九月丙辰、貴族豪門が奢侈を尊び習うことを以て、詔して尚書に厳しく限級を立てさせ、その放縦を節制させる。この月、勿吉・吐谷渾・鄧至国が並びに使者を遣わして朝貢する。
冬十月、恒州・肆州で地震があり、民多く死傷したため、詔して両河の一年の租賦を免除する。十二月丙戌、洛陽・河陰の二県の租賦を免除する。乙巳、恒州・肆州で地震があり、民多く災害に遭ったため、詔して課丁が尽く没し、老幼単身で辛苦し、家に租税免除の恩典を受けられない者があれば、各々穀物を賜って来年の収穫まで繋がせる。高麗国が使者を遣わして朝貢し献上する。
延昌三年
三年春二月乙未、詔して曰く、「肆州秀容郡敷城県・雁門郡原平県は、ともに去年四月以来、山が鳴り地震が起こり、今に至るまで止まず、天の譴責と過ちの顕現が示されている。朕は甚だ懼れる。畏れ慎み兢兢として、淵谷に臨むが如し。病苦を恤れ刑を寛げて、災いの譴責に応えよ」。
三月、三関の別将李世哲が群蛮を大破し、蕭衍の龍驤将軍文思之・文天生を斬る。
夏四月、青州の民が飢える。辛巳、倉を開いて救済し施しを与える。乙巳、上は申訟車に臨み、自ら冤罪の訴訟を裁く。
六月、南荊州刺史桓叔興が九山において蕭衍軍を大破し、その虎旅将軍・新豊県開国子蔡令孫、冠軍将軍席世興、貞義将軍藍次孫を斬る。
秋七月丙子、勿吉国が使者を遣わして朝貢した。
八月甲申、帝は朝堂に臨み、百官を考課して昇進・降格を加えた。
九月、吐谷渾・契丹・勿吉の諸国がともに使者を遣わして朝貢した。
冬十月庚辰、詔して 驍 騎将軍馬義舒に蠕蠕を慰諭させた。庫莫奚国が使者を遣わして朝貢した。
十一月庚戌、南天竺・佐越費実の諸国がともに使者を遣わして朝献した。辛亥、詔して 司徒 高肇を大将軍・平蜀大 都督 とし、歩騎十万をもって西征させた。益州刺史傅竪眼は巴北より出撃し、平南将軍羊祉は涪城より出撃し、安西将軍奚康生は綿竹より出撃し、撫軍将軍甄琛は剣閣より出撃した。乙卯、中護軍元遥を征南将軍・東道 都督 とし、梁楚を鎮撫させた。丁巳、幽州の沙門劉僧紹が徒党を集めて反乱を起こし、自らを浄居国明法王と号した。州郡がこれを捕らえて斬った。甲戌、高麗国が使者を遣わして朝献した。
十二月庚寅、詔して明堂を建立することを命じた。
延昌四年
四年春正月甲寅、帝は御不例となり、丁巳、式乾殿にて 崩御 した。時に年三十三。
二月甲戌朔、尊 諡 を宣武皇帝とし、廟号を世宗と奉った。甲午、景陵に葬られた。
帝は幼少より大度あり、喜怒は色に表さなかった。天性、質素倹約を好んだ。初め、高祖(孝文帝)は諸子の志尚を観ようと、多くの宝物を並べて、取るに任せた。京兆王元愉らは皆、珍玩を競って取ったが、帝はただ骨の如意を取ったのみであった。高祖は大いにこれを奇とした。庶人元恂が徳を失った時、高祖は彭城王元勰に言った、「我はもとよりこの児に非凡の志相あるを疑っていたが、今や果たしてそうであった」と。かくて皇太子に立てられた。経史を愛好し、特に仏教の義理に長じ、講論に至っては、夜を徹しても疲れを忘れた。風儀に優れ、容貌美しく、朝政に臨んでは沈黙して深遠、端厳として神の如く、人君の器量があった。
【論】
史臣曰く、世宗は聖考(孝文帝)の徳業を継ぎ、天下はその教化を想望した。垂衣拱手して無為の治を行い、辺境は服従した。しかし寛容をもって下を統べ、悠揚として決断せず、太和の風は衰えた。漢代の元帝・成帝・安帝・順帝の類と比べるべきであろうか。
校勘記