【序】

【序】

右に賢を置き左に戚を置き、徳を めと び功を尊ぶことは、国を有つ者が以て天下を治むる所以なり。殷は王業を肇むるに、莘氏を藉りて佐と為すことなく、周は大業を成すに、姒姓を聞かずして輔と為せり。漢世に至りては、外戚特に重く、身を殺し族を傾け、相継ぐこと両京に於いて、乃至その鼎璽を移し、その邦国を乱すに至れり。魏の文帝は深く以て誡めと為し、明帝は尚ほ頑騃を封ず。晋の楊駿は、尋いで夷宗に至る。上に居りて至公を以て物に任ぜず、下に在りて徒に私寵を用いて栄を要むるは、繭犢大車を引き、弱質厚棟に任ずるが如く、所謂愛するが故に以てこれを害するなり。太祖の初め、賀訥は部衆の業有り、皇祚を翼成し、その余は或いは労勤に以て、或いは恩沢に縁り、咸その迹を序し、外親の盛衰を挙げて云うのみ。

賀訥

賀訥は代の人、太祖の元舅、献明后の兄なり。その先世は君長と為り、四方附国の者数十部。祖の紇は、始めて国に勳有り、平文の女を尚ぶ。父の野干は、昭成の女遼西公主を尚ぶ。昭成崩じ、諸部乖乱す、献明后と太祖及び えい ・秦の二王、訥に依る。時に苻堅、 劉庫仁 りゅうこじん をして国事を分摂せしむ、ここにおいて太祖は還りて独狐部に居す。訥は東部を総摂して大人と為り、大寧に遷居し、その恩信を行い、衆多くこれに帰し、庫仁に侔えり。苻堅、訥に鷹揚将軍を仮す。

後に劉顯の謀逆するや、太祖これを聞き、軽騎にて北帰し訥に至る。訥、太祖を見て、驚喜して拝し曰く「官家復国の後は当に老臣を念うべし」と。太祖笑いて答えて曰く「誠に舅の言の如し、要するに忘れざるなり」と。訥の中弟染干は粗暴にして、太祖を忌み、常に逆を図ることを謀るも、毎に皇姑遼西公主の擁護する所と為り、故に染干はその禍心を肆にすること能わず。ここにおいて諸部の大人、訥兄弟に請いて太祖を挙げて主と為らんことを求む。染干曰く「我が国中に在りて、何ぞ爾ることを得んや」と。訥曰く「帝は大国の世孫、先業を興復するは、我が国中の福なり。常に相持奬し、継統の勲を立てん、汝尚ほ異議を有す、豈に臣節たるべけんや」と。遂に諸人とともに勧進し、太祖は代王の位に登ることを牛川にてす。

太祖が吐突隣部を討つに及び、訥兄弟遂に異図を懐き、諸部を率いてこれを救う。帝これを撃ち、大いに潰え、訥は西に遁る。 えい 辰、子の直力鞮を遣わして訥を征す。訥は告急して降を請い、太祖は精騎二十万を簡びてこれを救う。遂に訥の部落及び諸弟を徙してこれを東界に処す。訥また 慕容 ぼよう 垂に通じ、垂は訥を以て帰善王と為す。染干、訥を殺して代わりに立たんと謀り、訥遂に染干と相攻む。垂、子の麟を遣わしてこれを討ち、染干を牛都に破り、訥を赤城に破る。太祖は師を遣わして訥を救い、麟乃ち引き退く。訥は太祖に従い 中原 ちゅうげん を平らげ、安遠将軍に拝せらる。

その後諸部を離散し、土を分かち定住せしめ、遷徙を聴かず、その君長大人は皆編戸と同じ。訥は元舅を以て、甚だ尊重せらるるも、然れども統領無し。寿を以て家に終わる。

訥の弟の盧もまた中原平定に従い、功を以て爵を遼西公と賜う。太祖は盧を遣わして えい 王の儀と会し ぎょう を伐たしむるも、盧は自ら太祖の季舅を以て、儀の節度を受くるを肯わず。太祖は使を遣わしてこれを責む、盧遂に忿恨す。儀の司馬丁建と構えてその嫌を成し、弥く猜忌を加う。時に太祖、儀に勅して鄴を去らしむ、盧もまた引き帰る、太祖は盧を以て広川太守と為す。盧は性雄豪にして、冀州 刺史 しし 王輔の下に居るを恥じ、輔を襲い殺し、慕容徳に奔る。徳はこれを以て 并州 へいしゅう 刺史、広寧王と為す。広固敗れ、盧もまた没す。

訥の従父弟の悦。初め、太祖の 賀蘭部 がらんぶ の下に居するや、人情未だ甚だ附かず、唯だ悦のみ部を挙げて随従す。また密かに太祖の為に天神を祈祷し、大業の成るを請う、誠至に出づ。太祖これを嘉し、甚だ寵待せらる。後に中原を平らげ、功を以て爵を鉅鹿侯と賜い、進めて北新公と為す。卒す。

子の泥、爵を襲ぎ、後に降りて肥如侯と為る。太祖崩じ、京師草草たり、泥は出でて烽を挙ぐること安陽城の北、賀蘭部の人皆これに赴く。太宗即位し、乃ち罷む。詔して泥と元渾ら八人をして拾遺左右せしむ。北新侯の安同と節を持ちて へい ・定の二州を行き、 へい 州刺史の元六頭らを劾奏し皆罪に伏す、州郡粛然たり。後に世祖に従い 赫連 かくれん 昌を征し、功を以て爵を進めて琅邪公と為し、軍国の大議、毎に参預す。また 蠕蠕 じゅんじゅん を征し、別道将と為り、賊を逐いて進まず、虜の級を詐りて増すに坐し、斬に当たり、贖いて庶人と為る。久しくして、光禄勲に拝し、外都大官と為り、本爵を復す。官に卒す。子の醜建襲ぐ。

劉羅辰

劉羅辰は代の人、宣穆皇后の兄なり。父の眷は、北部大人と為り、部落を帥いて国に帰す。羅辰は智謀有り、眷に謂いて曰く「従兄の顯は、忍人なり、願わくは早くこれを図らん」と。眷は以て意とせず。後に庫仁の子の顯、眷を殺して代わりに立ち、また謀逆す。太祖即位するに及び、馬邑に於いて顯を討ち、弥沢に追い至り、大いにこれを破る。後に慕容麟に奔り、麟これを中山に徙す、羅辰は騎を率いて太祖に奔る。顯は部衆の強きを恃み、毎に逆を謀るも、羅辰は輒ち先んじて聞奏し、これに以て特にもって寵念を蒙る。尋いで南部大人に拝す。中原平定に従い、前後の勲を以て爵を永安公と賜い、軍功を以て征東将軍・定州刺史を ゆる く。卒す。 おくりな して敬と曰う。

子の殊暉、爵を襲ぐ。位は へい 州刺史。卒す。

子の求引、位は武 えい 将軍。卒す。諡して貞と曰う。

子の爾頭、位は魏昌・廮陶の二県令、鉅鹿太守を贈らる。子の仁之は、自ら伝有り。

姚黄眉

姚黄眉は、姚興の子であり、太宗昭哀皇后の弟である。姚泓が滅びると、黄眉は間道を通って帰順し、太宗は厚礼をもってこれを遇し、爵位を隴西公と賜い、陽翟公主を娶り、駙馬都尉に任じられ、隸戸二百を賜った。世祖が即位すると、内都大官に遷り、後に太常卿に任じられた。卒去し、雍州刺史・隴西王を追贈され、諡を献と曰い、金陵に陪葬された。黄眉は寛和で温厚であり、得失を語ることは稀であった。世祖はこれを悼み惜しみ、故に追贈に加礼を加えた。

杜超

杜超は、 あざな を祖仁といい、魏郡鄴の人であり、密皇后の兄である。若くして節操があった。泰常年間、相州別駕となった。京師に使者として赴いた時、当時の法禁により后と通問することができなかった。始光年間、世祖は舅氏を思い、超を陽平公とし、南安長公主を娶らせ、駙馬都尉に任じ、大鴻臚卿の位に就けた。車駕はしばしばその邸を訪れ、巨万の賞賜を与えた。神䴥三年、超を行征南大将軍・太宰とし、爵位を王に進め、鄴を鎮守させた。父の豹に鎮東大将軍・陽平景王を、母に鉅鹿恵君の称号を追贈した。真君五年、超は帳下の者に害され、世祖はその喪に臨み、久しく哀慟した。諡を威王と曰う。

長子の道生は、城陽侯の爵位を賜った。後に秦州刺史となり、爵位を河東公に進めた。

道生の弟の鳳皇は、超の爵位を襲い、 侍中 じちゅう ・特進を加えられた。世祖は超を追思して止まず、鳳皇を定州刺史にしようとしたが、鳳皇は朝廷を離れることを望まず、そこで取りやめになった。

鳳皇の弟の道儁は、発干侯の爵位を賜い、枋頭を鎮守し、兗州刺史に任じられた。

超が薨じた後、超の従弟の遺に侍中・安南将軍・開府・相州刺史を授けた。内都大官に入り、爵位を広平王に進めた。遺は性質忠厚で、頻繁に州郡を歴任し、在任地で称賛された。薨じ、 太傅 たいふ を追贈され、諡を宣王と曰う。

長子の元宝は、 司空 しくう の位に至った。元宝の弟の胤宝は、司隸 校尉 こうい となった。元宝はさらに爵位を京兆王に進めた。帰還して父の遺が喪中であることを知り、翌日入朝して謝恩すべきところ、元宝は上表して奏聞しようとした。高宗は遺の 薨去 こうきょ を知らず、その遅れを怪しんで召した。元宝が入朝しようとした時、ある人がこれを止めて言った、「家の憂いを以て自ら辞すべきである」と。元宝は寵遇を見せようとして従わず、遂に哀悼の期間中であることを顧みずに入朝した。間もなく謀反の罪で誅殺され、親族や従者は皆斬られ、ただ元宝の子の世衡だけが逃れて免れた。当時、朝廷で超の爵位を追削しようとする議論があったが、 中書 ちゅうしょ 令の高允が上表してこれを弁護した。

後に兗州の旧吏である汲宗らは、道儁が人々に遺愛を残していること、以前に連座して誅殺され、骸骨が土中に委ねられていることを理由に、収葬を求めた。上書が奏上されると、詔はその義を認めてこれを許した。 散騎常侍 さんきじょうじ ・安南将軍・南康公を追贈し、諡を昭と曰う。世衡は遺の公爵を襲った。

賀迷

賀迷は、代の人である。従兄の娘が世祖の敬哀皇后であり、皇后は恭宗を生んだ。初め、后は幼くして孤となり、父や兄の近親がいなかったため、ただ迷が従父の縁故により長郷子の爵位を賜った。卒去し、光禄大夫・五原公を追贈された。

閭毗

閭毗は、代の人である。本来は蠕蠕の人で、世祖の時にその国から来て降った。毗は即ち恭皇后の兄である。皇后は高宗を生んだ。高宗の太安二年、毗を平北将軍とし、河東公の爵位を賜い、弟の紇を寧北将軍とし、零陵公の爵位を賜った。その年、ともに侍中を加えられ、爵位を王に進めた。毗は、征東将軍・評 尚書 しょうしょ 事となり、紇は、征西将軍・中都大官となった。その他の子弟で爵位を王として賜った者は二人、公は五人、侯は六人、子は三人、同時に任官を受けた。これにより舅氏を隆盛にし、当世はこれを栄誉とした。和平二年、后の祖父の延に定襄康公を、父の辰に定襄懿王を追諡した。毗が薨じると、 太尉 たいい を追贈し、毗の妻に河東王妃を追贈した。子の恵が襲封した。紇が薨じると、 司空 しくう を追贈した。

子の豆は、後に名を庄と賜った。太和年間、初めて三長制を立てた時、庄を定戸籍大使とし、大いに時誉があった。十六年、例により爵位を降格し、後に七兵尚書となり、卒去した。

紇の弟の染は、外都大官・冀州刺史・江夏公の位にあり。卒す。

先に高宗は乳母の常氏に保護の功があったため、即位すると、保太后と尊び、後に皇太后と尊んだ。興安二年、太后の兄の英、字は世華、肥如令より超えて 散騎常侍 さんきじょうじ ・鎮軍大将軍となり、遼西公の爵を賜う。弟の喜は、鎮東大将軍・祠曹尚書・帯方公。三妹はいずれも県君に封ぜられ、妹婿の王睹は平州刺史・遼東公となる。英の祖父・父を追贈し、苻堅の扶 ふう 太守であった亥を鎮西将軍・遼西簡公とし、勃海太守の澄を侍中・征東大将軍・太宰・遼西献王とし、英の母の許氏を博陵郡君とする。兼太常の盧度世を使者として節を持たせ、献王を遼西に改葬し、碑を立て廟を建て、守冢百家を置いた。

太安初年、英は侍中・征東大将軍・太宰となり、爵を王に進める。喜は左光禄大夫となり、燕郡に改封される。従兄の泰は安東将軍・朝鮮侯となる。訢の子の伯夫は 散騎常侍 さんきじょうじ ・選部尚書、次子の員は金部尚書。喜の子の振は太子庶子。三年、英は太師・評尚書事・内都大官を領し、伏・宝・泰等州の刺史を兼ねる。五年、詔して太后の母の宋氏を遼西王太妃とする。和平元年、喜は洛州刺史となる。初め、英は宋氏に仕えて謹ましくなかったが、睹は宋氏に仕えて甚だ至れり尽くせりであった。和龍に食を求めて行った時、車牛がなく、宋氏は疲れて進めなかったので、睹は笈に宋氏を背負った。この時至って、宋氏は英らには薄く、睹の篤実さには及ばなかった。太后に謂って言うには、「何故王睹を王とせず、英を退けぬのか」。太后は言う、「英は長兄であり、門戸の主である。家内の些細な不順は、追って計うに足らぬ。睹は力を尽くすとはいえ、もとより他姓である。どうして英の上に置けようか。本州・郡公をもって、既に報いるに足る」。天安年中、英は平州刺史となり、訢は幽州刺史となり、伯夫は爵を范陽公に進める。英は貨を けが し、燉煌に徙される。

諸常は興安よりこの時に至るまで、皆、親疏によって爵を授かり田宅を賜い、当時隆盛を極めた。後に伯夫は洛州刺史となったが、贓汚・欺妄の罪により京師に徴されて斬られた。承明元年、英を徴して官に復す。薨じ、諡して遼西平王という。初め英が徴された時、夢に日がその居る黄山の下の水に墜ち、村人が車牛で引き出そうとしたが出せず、英ひとりが抱き載せて帰った。聞く者これを異とした。

後に員は伯夫の子の禽可と共に飛書を作り、朝政を誣謗した。事が発覚し、有司が法を執り行い、刑は五族に及ぼうとした。高祖は昭太后の故をもって、罪を一門に止めた。訢は年老いていたので赦免して家に帰し、その孫一人を恕して扶養させ、奴婢田宅を与えた。その家の僮僕で没入した者は百人、金錦布帛は数万に及び、尚書以下、宿衛以上に賜うた。その女婿および親従で朝に在る者は、皆免官して本郷に帰した。十一年、高祖・文明太后は昭太后の故をもって、その家の前後に没入した婦女を悉く出し、喜の子の振を試守正平郡とした。卒す。

馮熙

馮熙、字は晋昌、長楽信都の人、文明太后の兄である。祖父の文通は、海夷伝に語られている。世祖が遼海を平定すると、熙の父の朗は内徙し、官は秦雍二州刺史・遼西郡公に至ったが、事に坐して誅された。文明太后が臨朝すると、仮黄鉞・太宰・燕宣王を追贈し、 長安 ちょうあん に廟を立てた。

熙は長安に生まれ、姚氏の魏母に養われた。叔父の楽陵公邈が戦いにより蠕蠕に入ったため、魏母は熙を携えて てい きょう の中に逃避し、撫育した。十二歳で弓馬を好み、勇幹あり、氐羌は皆これに帰附した。魏母はその様子を見て、長安に還ろうとした。始めて博士に就いて学問し、師について孝経・論語を受け、陰陽兵法を好んだ。長ずると、華陰・河東二郡の間を遊歴した。性は広く愛し、小節に拘わらず、人に士庶の別なく、来ればこれを納れた。

熙の姑は先に掖庭に入り、世祖の左昭儀となった。妹は高宗文成帝の后、すなわち文明太后である。人を遣わして外に訪ねさせ、熙の所在を知り、京師に徴し赴かせ、冠軍将軍に拝し、肥如侯の爵を賜うた。恭宗の女の博陵長公主に めあわ せ、駙馬都尉に拝す。出でて定州刺史となり、爵を昌黎王に進める。顕祖が即位すると、太傅となり、累ねて内都大官に拝す。

高祖が即位し、文明太后が臨朝すると、王公貴人で登進する者が多かった。高祖は皇太后の旨を承け、熙を侍中・太師・ 中書監 ちゅうしょかん ・領秘書事とした。熙は頻りに師傅の職を履み、また中宮の寵を受けたため、群情に おどろ かされ、心に自ら安んぜず、外任への転出を乞うた。文明太后もまた然りと認めた。ここにおいて車騎大将軍・開府・ ただ ととく ・洛州刺史を ゆる し、侍中・太師はもとの如し。 洛陽 らくよう は破乱を経たとはいえ、旧い三字石経が宛然としてなお在ったが、熙と常伯夫が相継いで州となってからは、廃毀して分用し、大いに頽落した。熙は政を行うに仁厚ならず、仏法を信じ、自ら家財を出して諸州鎮に仏図精舎を建て、合わせて七十二箇所、一切経十六部を写した。名徳の沙門を延致し、日々に講論し、精勤して倦まず、費やすところもまた はか り知れなかった。しかし諸州に営んだ塔寺は多く高山秀阜にあり、人牛を傷殺した。沙門がこれを止めさせようと勧めたが、熙は言う、「成就した後、人はただ仏図を見るのみで、どうして人牛を殺したかを知ろうか」。その北邙寺の碑文は、中書侍郎賈元寿の詞である。高祖は頻りに北邙寺に登り、親しく碑文を読み、佳作と称した。熙は州にあって、事に因りて人の子女を取って奴婢とし、容色ある者を幸いて妾とした。子女数十人あり、貪縦と号された。後に求めて入朝し、内都大官を授けられ、太師はもとの如し。熙は魏母に仕えて孝謹、生母に仕えるが如くであった。魏母が卒すると、乃ち髪を散らし跣足となり、水漿を三日口にせず。詔して服することを聴さず、熙は表して趙氏の孤に依ることを求む。高祖は熙の情を奪い難しとして、斉衰期の服を聴す。後に例により降格し、京兆郡公に改封される。

高祖はその女を納れて后とし、言う、「『白虎通』に云う、『王の臣とせざる所、数に三あり』。妻の父母は、その一つを抑えて言う。これは所謂、宗廟を供承するに私心を奪わざらんとする所以である。然れども吾が季は『春秋』に著わり、臣無きは往牒に証す。既に通体の一を許し、以て至尊の敬を開く。長秋の極に配し、陰政既に敷かるるに比べ、未だ有司の斯の のっと を陳奏するを聞かず。詔して太師に臣たるを輟め礼に従わしむべし」。また集書に勒して儀を造り外に付す。高祖は前後して熙の三女を納れ、二は后とし、一は左昭儀とした。ここにより 馮氏 ふうし の寵貴ますます隆く、賞賜累巨万。高祖は毎度詔して熙に上書して臣とせず、入朝して拝せしめず。熙は上書は旧の如くであった。

馮熙は後に病を得て、四年にわたり床に臥した。詔を下して医師を遣わして見舞わせ、道中には使者が相望み、車駕もまた幾度も臨幸した。洛陽に遷都せんとするに当たり、高祖は自ら馮熙と別れ、その病篤きを見て、歔欷して涙を流した。密かに宕昌公王遇に勅して言うには、「太師に万一のことがあれば、直ちに喪事を監護せよ」と。太和十九年、代で薨去した。車駕は淮南におり、留臺が表を奉って聞かせ、徐州に還り着いてからようやく哀悼の礼を挙げた。緦服の制を定め、詔して有司に凶儀を予め整えさせ、併せて魏京( 平城 へいじょう )の墓を開き、公主の柩と共に伊洛に向かわせた。営送に関する一切は、全て公家が備えた。また勅して代に前後六千匹の綵帛を給し、以て凶事の用に供せしめた。皇后は代都に赴いて哭し、太子元恂もまた代に赴いて哭弔した。葬送に臨み、仮黄鉞・侍中・ 都督 ととく 十州諸軍事・大司馬・太尉・冀州刺史を追贈し、黄屋左纛を加え、九 たま を備え、前後部の羽葆鼓吹を賜り、全て晋の太宰・安平献王の故事に依った。有司が諡を奏上すると、詔して言うには、「威強を以て遠きを恢めしを『武』と曰うべし、公に奉諡せよ」と。柩が洛陽の七里澗に至ると、高祖は衰服を着て往迎し、霊前に叩頭して悲慟し拝礼した。葬日の当日、墓所まで送り臨み、自ら誌銘を作った。公主は二子を生み、馮誕・馮脩である。

馮誕は字を思政とし、馮脩は字を宝業といい、共に姿質が妍麗であった。年齢わずか十余歳の時、文明太后は二人を共に禁中に引き入れ、教誡を加えたが、経史を習読することができず、故に兄弟共に学術はなく、ただ容儀を整え飾り、寛雅で恭謹であるのみであった。馮誕は高祖と同年で、幼少より書学に侍し、引き続き親しく遇された。帝の妹である楽安長公主を めと り、駙馬都尉・侍中・征西大将軍・南平王に拝された。馮脩は、侍中・鎮北大将軍・尚書・東平公となった。また馮誕を儀曹尚書に除し、殿中の事を掌らせた。庶姓の王が罷められると、馮誕は侍中・ 都督 ととく 中外諸軍事・中軍将軍・特進となり、改めて長楽郡公に封ぜられた。馮誕が官を拝する時、高祖は庭に立ち、遥かにその拝礼を受け、終わると室に還った。馮脩は侯に降格された。

馮誕と馮脩は共に宮禁で育ったが、性格と趣向は乖離していた。馮誕の性質は淳朴で篤実であったが、馮脩は浮薄で競争心が強かった。馮誕もまたその過ちを おし ただ すことはできなかったが、時に太后に言上した。高祖は厳しく馮脩を責め、 むち で打つに至った。これにより馮脩は陰に毒恨を懐き、遂に左右で馮誕に遺恨を持つ者と結託し、薬を求め、食事に因って馮誕を害さんとした。事が発覚し、高祖自ら詰問し、詳細に情状を得た。馮誕は過ちを引き受け謝罪し、馮脩の命を全うすることを乞うた。高祖は馮誕の父(馮熙)が老齢であること、またその意向を重んじ、法に致さず、百余回打ち据え、平城の百姓に貶した。馮脩の妻は、 司空 しくう 穆亮の娘であったが、離婚を求め、官を免じられることを請うた。高祖は管叔・蔡叔の故事を引き、いずれも許さなかった。

高祖は馮誕を寵愛し、常に馮誕と同輿に乗り、同案で食し、同席で坐臥した。彭城王元勰・北海王元詳は、禁中に直すことがあっても、親近の度合いは及ばなかった。太和十六年、馮誕を 司徒 しと とした。高祖は既に馮誕を深く愛していたので、官を除く日に、自ら三譲の表と啓を作り、拝官に臨んでは、またその謝恩の章を作った。まもなく車騎大将軍・太子太師を加えた。太和十八年、高祖はその師傅として奨励導く ふう がないと述べると、馮誕は深く自ら誨責した。

車駕に従って南伐した。太和十九年、鍾離に至り、馮誕は病を得て侍従することができなかった。高祖は日々見舞い、医薬を備え加えた。時に高祖は臨江に鋭意していたが、六軍に命じて鍾離より南轅(南進)させ、馮誕と泣いて訣別した。左右の者皆入り、涙を掩わざる者なし。時に馮誕は既に惙然(病篤く)としており、強いて坐り、高祖を見つめ、悲しんで涙を流すこともできず、夢に太后が臣を呼びに来たと言った。高祖は嗚咽し、手を執って出て、遂に行った。この日、鍾離を去ること五十里余り。黄昏時、馮誕の薨去の報が告げられ、高祖は哀しみ自ら勝つことができなかった。時に崔慧景・裴叔業の軍は中淮におり、駐屯地から百里を超えなかった。高祖は軽駕して西還し、従者は数千人に及んだ。夜に馮誕の薨去した所に至り、屍を撫でて哀慟し、至親を喪うが如く、夜明けまで声と涙が絶えなかった。従者もまた声を挙げて哭した。明けて蕭鸞の鍾離戍主である蕭惠休に告げた。惠休はその太守を遣わして慰めを奉らせた。詔して城中に棺を求めた。及んで おさめ 送るに当たり、高祖は自ら着用していた衣㡊(きぬ)を以て おくりもの に充て、自ら臨視し、楽を撤き膳を去った。六軍に宣勅し、臨江の車駕を止めた。高祖自ら北へ渡り、慟哭して極めて哀しんだ。詔して侍臣一人に大鴻臚を兼ねさせ、柩を京師まで送らせた。礼物と轜儀は、徐州で備え造らせた。陵兆と葬事は、下洛で待ち設けさせた。喪が洛陽に至った時、車駕はなお鍾離にあった。詔して留守に賜い、賻物として布帛五千匹・穀五千斛を賜い、以て葬事に供せしめた。仮黄鉞・使持節・大司馬を追贈し、領 司徒 しと ・侍中・ 都督 ととく ・太師・駙馬・公は元の如しとした。殊礼を加え、九命の錫を備え、晋の大司馬・斉王司馬攸の故事に依った。有司が諡を奏上すると、詔して言うには、「諡法を案ずるに、善行仁徳を『元』と曰い、柔克にして光有るを『懿』と曰う。昔、貞恵兼ねて美しく、三諡の栄を受け、忠武双びて しるし 有り、両号の さかえ たま わる。前跡に準え のっと り、宜しく具瞻に かな うべし。既に少より 綢繆 ちゅうびゅう たり、之を知るは惟朕のみ。行いを案じて名を定め、諡して元懿と曰う」と。帝はまた自ら碑文及び挽歌を作り、詞は皆美を窮め哀を尽くし、事はその厚きに過ぎた。車駕が京師に還ると、詔して言うには、「馮大司馬は既に墳塋に就き、永く幽室に潜む。宿草の哭、何ぞ能く之を忘れんや」と。遂に自ら馮誕の墓に臨み、車を停めて哭した。彭城王元勰を使わし、詔して群官に朱衣を脱ぎ、単衣と介幘を着け、 司徒 しと に陪哭せしめ、貴き者は朋友を示し、微なる者は僚佐の如く示した。公主は貞厚にして礼度有り、二男を産み、長子は馮穆である。

馮穆は、字を孝和といい、馮熙の爵を襲った。皇子元愉の封と避 いみな し、改めて扶風郡公となった。高祖の女である順陽長公主を尚り、駙馬都尉に拝され、員外 散騎常侍 さんきじょうじ ・通直 散騎常侍 さんきじょうじ を歴任した。馮穆は叔父の馮輔興と不和であった。馮輔興が亡くなり、相州刺史を追贈された。祖載(出棺の儀)が庭にあるのに、馮穆は 高車 こうしゃ と良馬に乗り、恭しく職命を受け、宴談が満堂に満ちる中、忻笑自若としており、御史中尉東平王元匡に弾劾された。後に位は金紫光禄大夫に至り、河陰の変で遇害した。 司空 しくう ・雍州刺史を追贈された。

子の馮冏は、字を景昭といい、昌黎王の爵を襲った。まもなく庶姓として王を罷められ、引き続き扶風郡公を襲った。

子の馮峭は、字を子漢という。斉が禅譲を受けると、例により爵位を降格された。

馮穆の弟の馮顥は、父馮誕の長楽郡公の爵を襲った。

馮脩の弟の馮聿は、字を宝興といい、廃后(幽后)の同産兄である。位は黄門郎・信都伯に至った。後に妹の廃后に連坐し、免官されて長楽の百姓となった。世宗の時に河南尹として卒した。

馮聿の同産弟の馮風は、幼くして宮中で養育され、文明太后は特に愛念を加えた。数歳で爵を北平王に至らせ、太子中庶子に拝され、禁闥に出入りし、寵愛は二人の兄に並んだ。高祖が親政した後、恩寵は次第に衰え、爵を侯に降格された。幽后が立つと、乃ち復た叙用された。后が死ぬと、また冗散となった。卒し、青州刺史を追贈された。

崔光が黄門侍郎を兼ねた時、馮聿と共に直していた。崔光は常に彼に言うには、「君の家は富貴が盛ん過ぎる、終には必ず衰敗するであろう」と。馮聿は言うには、「我が家は何ぞ四海に負うところあらん、乃ち我を呪うのか」と。崔光は言うには、「古を以て推すに、慎まざるべからず」と。時に馮熙は 太保 たいほう 、馮誕は 司徒 しと ・太子太傅、馮脩は侍中・尚書、馮聿は黄門であった。廃后が在位し、礼愛は弛んでいなかった。この後一年余りして、馮脩は罪により棄てられ、馮熙・馮誕は喪亡し、后は廃され、馮聿は退いた。時に人は盛んなれば必ず衰えると以為った。

李峻

李峻、字は珍之、梁国蒙県の人、元皇后の兄である。父は方叔、劉義隆の済陰太守であった。高宗が密使を遣わして諭すと、峻は五人の弟の誕・嶷・雅・白・永らと前後して京師に帰った。峻を鎮西将軍・涇州刺史・頓丘公に拝した。雅・嶷・誕らは皆公に封ぜられ位は顕赫であった。後に峻の爵を王に進め、太宰として召し出されたが、薨去した。

李惠

李惠は中山の人、思皇后の父である。父の蓋は、若くして名を知られ、殿中・都官の二尚書、左将軍、南郡公を歴任した。初め、世祖の妹の武威長公主は、故涼王沮渠牧犍の妻であった。世祖が涼州を平定した際、公主が密計を通じてこれを助けたことが多かったので、寵遇はやや厚かった。詔して蓋に尚ばせた。蓋の妻の与氏は、このために出された。その後、蓋は侍中、駙馬都尉、殿中・都官尚書、左 僕射 ぼくや を加えられ、官に卒した。征南大将軍・定州刺史・中山王を追贈され、諡して莊といった。

惠は弱冠にして父の爵を襲い、襄城王韓頹の女を妻とし、二女を生んだ。長女が即ち后である。惠は 散騎常侍 さんきじょうじ ・侍中・征西大将軍・秦益二州刺史を歴任し、爵を王に進め、雍州刺史・征南大将軍に転じ、長安鎮大将を加えられた。

惠は思察に長けていた。雍州の庁事において、燕が巣を争い、闘いが既に数日に及んでいた。惠は人に命じて捕えさせ、試みに綱紀に断じさせたが、皆辞して言うには、「これは上智の測る所であり、下愚の知る所ではありません」と。惠はそこで卒に弱竹で両方の燕を弾かせたところ、やがて一羽は去り一羽は留まった。惠は笑って吏属に謂って言うには、「この留まる者は自ら巣作りに功が多いと計算し、あの去る者は既に楚痛を経ているので、理として留まる心はない」と。群下はその聡察に伏した。塩を負う者と薪を負う者がおり、共に重い荷を下ろし、樹陰で休んでいた。二人が行こうとする時、一枚の羊皮を争い、それぞれが背中に敷いていた物だと言った。惠は争う者を外に出させ、州の綱紀を顧みて言うには、「この羊皮は拷問して主を知ることができるか」と。群下は戯言と思い、皆答える者はなかった。惠は人に命じて羊皮を蓆の上に置かせ、杖でこれを打たせると、少しの塩屑が見えた。曰く、「実を得た」と。争う者に見させると、薪を負う者が伏して罪に就いた。凡そ察究する所は、多くこの類いであった。これにより吏民は敢えて欺き犯す者はなかった。

後に開府儀同三司・青州刺史となり、王は元の如くであった。歴政において美しい績があった。惠は元来文明太后に忌まれ、惠が南に叛こうとしていると誣告され、誅殺された。惠の二人の弟、初と樂は、惠の諸子と共に戮された。後妻の梁氏も青州で死んだ。その家財を全て没収した。惠は本来咎められるべき点がなかったので、天下は冤しく惜しんだ。

惠の従弟の鳳は、定州刺史・安楽王長楽の主簿であった。後に長楽は罪により賜死されたが、時に卜筮者河間の邢瓚が供述して鳳を引き合いに出し、「長楽が軌を踏まず、鳳が謀主であった」と言い、誅殺された。ただ鳳の弟の道念と鳳の子及び兄弟の子は皆逃れて免れ、後に赦令に遇って初めて出た。太和十二年、高祖が舅氏に爵位を与えようとし、詔して存命者を訪ねさせた。しかし惠の諸従兄弟は再び孥戮に罹ったため、応命するのは難しかった。ただ道念のみが敢えて先に闕に詣で、后の妹及び鳳の兄弟の子女の存命者を申し上げた。ここにおいて鳳の子の屯に柏人侯の爵を賜い、安祖に浮陽侯、興祖に安喜侯、道念に真定侯、従弟の寄生に高邑子を賜い、皆将軍号を加えた。十五年、安祖の昆弟四人が、外戚として引見され、詔して謂うには、「卿の先世は、内外に犯す所があり、時に罪を得た。しかし官は必ず才を用い、親であることを以て興邦の選とはしない。外氏の寵は、末葉を超えている。今より以後、奇才でなければ、再び外戚として誤って班列を抽き挙げることはできない。既に殊能がないので、今しばらく還るがよい」と。後に例に従って爵を降格し、安祖らは侯から伯に改め、併せて軍号を去った。高祖は馮氏に奉ずることを過厚にし、李氏に対しては過薄で、舅家は全く叙用されなかった。朝野の人士がひそかに議論する所以であり、太常高閭が禁中で顕かに言上した。世宗が外家の寵を隆くし、皆顕位に居らせた時、ただ高祖の舅氏が存命でありながら恩沢に霑らなかったことを思い、景明末、特に詔して興祖を中山太守とした。正始初、詔して惠を追崇して使持節・驃騎将軍・開府儀同三司・定州刺史・中山公とした。太常が考行し、上言して、諡法を案ずるに武にして遂げざるを「莊」というとし、諡して莊公とした。興祖は中山より燕州刺史に遷った。卒し、兄安祖の子の侃晞を後とし、襲封させた。先に南郡王に封ぜられていたが、後に庶姓として王を罷め、博陵郡公に改めた。

侃晞は莊帝に親幸された。 散騎常侍 さんきじょうじ ・嘗食典御に拝された。帝が尒朱栄を図った時、侃晞は魯安らと共に禁内において刀を持ち、栄を殺した。莊帝が蒙塵すると、侃晞は蕭衍に奔った。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻83上