李琰之
李琰之は、 字 を景珍といい、小字を默蠡といい、隴西狄道の人であり、 司空 李韶の族弟である。早くから盛名があり、当時の人は神童と称した。従父の 司空 李沖は大いに嘆異し、常に「我が宗を興す者は、この児であろうか」と言った。常に必要なものを資給し、己が子同様に愛した。
弱冠にして秀才に挙げられたが、行かなかった。かつて河内の北山に遊び、隠遁の志を抱いた。時に彭城王元勰が行臺参軍に辟召し、苦しく敦引した。まもなく 侍中 李彪の啓により著作郎を兼ね、国史を修撰した。次第に国子博士に遷り、 尚書 儀曹郎中を領し、 中書 侍郎・司農少卿・黄門郎に転じ、国史を修した。国子祭酒に遷り、秘書監・兼七兵尚書に転じた。太常卿に遷った。孝莊帝の初め、 太尉 元天穆が北へ葛栄を討つに当たり、琰之に御史中尉を兼ねさせ、北道軍司とした。還って、征東将軍を除され、引き続き太常を兼ねた。
衛将軍・荊州 刺史 として出向した。間もなく、尚書左 僕射 ・三荊二郢大行臺を兼ねた。まもなく 散騎常侍 を加えられた。琰之は儒素をもって自ら業としていたが、常に人に言って「我が家は代々将種であり、関西の気風をなお保っている」と自称した。州に至ってからは、大いに射猟を好み、威武を示した。尒朱兆が 洛陽 に入ると、南陽太守趙脩延は琰之が荘帝の外戚であることを理由に、琰之が蕭衍のもとへ奔ることを企てたと誣告し、州城を襲撃して囚われの身とし、脩延は自ら州事を行った。城内の者が脩延を斬り、琰之を推して州の任に復させた。出帝の初め、侍中・車騎大将軍・左光禄大夫・儀同三司を兼ねて召された。永熙二年に 薨去 した。侍中・驃騎大将軍・ 司徒 公・雍州刺史を追贈され、 諡 して文簡といった。
琰之は若い頃から機警で、談話を得意とし、経史百家に通じないものはなく、朝廷の疑わしい事柄について多く訪ね質された。常に「崔は博だが精でなく、劉は精だが博でない。私は精にしてかつ博であり、両者の学を兼ねている」と言った。崔光と劉芳のことを指すのである。論者はその博を認めたが、精を認めなかった。当時の世論は、皆彼を宗仰した。また自ら文章を誇り、従姨兄の常景は笑って認めなかった。休暇の際には常に門を閉じて読書し、人と交わらなかった。かつて人に言った。「私が読書を好むのは、死後の名声を求めるためではなく、ただ異なる見聞が心の願うところであり、それゆえに孜孜として探求し、やめることができないのである。どうして名声のために七尺の身体を労することがあろうか。これは天性であり、力ずくでするものではない。」前後二度史職に就いたが、編纂したものはなかった。安豊王元延明は博聞多識であったが、疑義があると常に琰之のもとへ赴き弁析を求め、自ら及ばないと思った。二子の李綱と李恵は、ともに出帝に従って関中に入った。
祖瑩
祖瑩は、字を元珍といい、范陽遒の人である。曾祖の祖敏は、 慕容 垂に仕えて平原太守となった。太祖が中山を平定すると、安固子の爵を賜り、尚書左丞に任じられた。卒し、 并州 刺史を追贈された。祖の祖嶷は、字を元達といった。平原征討に従軍した功により侯爵に進み、馮翊太守の位に至り、幽州刺史を追贈された。父の祖季真は、前人の言行に多く通じ、中書侍郎の位に至り、安遠将軍・鉅鹿太守の任で卒した。
祖瑩は八歳で詩書を誦することができ、十二歳で中書学生となった。学を好み書に耽り、昼夜を問わず読書したので、父母は病気になるのを恐れて禁じたが止められず、常に密かに灰の中に火種を隠し、童僕を追いやり、父母が寝静まった後に火を起こして読書し、衣や布団で窓を塞ぎ、光が漏れて家人に気付かれるのを恐れた。これにより名声は大いに高まり、内外の親族は「聖小児」と呼んだ。特に文章を綴ることを好み、 中書監 の高允は常に嘆じて「この子の才器は諸生の及ぶところではなく、いずれ遠大なところに至るであろう」と言った。
時に中書博士の張天龍が尚書を講じ、祖瑩が都講に選ばれた。生徒が皆集まったが、瑩は夜通し読書して疲労し、夜が明けたことに気付かなかった。講義の催促が切迫していたため、誤って同室の趙郡の李孝怡の『曲礼』の巻を取って上座に着いた。博士は厳格であったため、取りに戻ることができず、礼の書を前に置き、尚書三篇を一字も漏らさず誦した。講義が終わると、孝怡はこれを怪しみ、博士に話したところ、学中の者皆驚いた。後に高祖がこれを聞き、召し入れて五経の章句を誦させ、また大義を述べさせると、帝は嘆賞した。瑩が退出した後、高祖は盧昶に戯れて言った。「昔、共工を幽州の北裔の地に流したが、どうして突然このような子が現れたのか。」昶は答えて「まさに才が世のために生まれたのでしょう」と言った。才名により太学博士に任じられた。 司徒 ・彭城王元勰の法曹行参軍に徴されて署された。高祖は顧みて勰に言った。「蕭賾は王元長を子良の法曹としたが、今、汝が祖瑩を用いるのは、まさに匹敵するものではないか。」勰の書記を掌るよう勅命した。瑩は陳郡の袁翻と並び称され優れており、当時の人は「京師に楚楚たるは、袁と祖。洛中に翩翩たるは、祖と袁」と言った。再び尚書三公郎に遷った。 尚書令 の王粛がかつて省中で悲 平城 の詩を詠じ、「悲平城、馬を駆って雲中に入る。陰山には常に雪晦く、荒松には風罷まず」と言った。彭城王元勰はその美しさを大いに嘆賞し、王粛にもう一度詠ませようとして、誤って「王公の吟詠は情性に富み、声律が殊に佳い。もう一度悲彭城の詩を誦していただけないか」と言った。王粛は勰に戯れて「どうして悲平城を悲彭城とするのか」と言った。勰は恥じ入った。瑩が座にいたが、すぐに「悲彭城という詩はありますが、王公はまだご覧になっていないだけです」と言った。王粛が「誦してくれ」と言うと、瑩は即座に「悲彭城、楚歌四面より起こる。屍は石梁亭に積み、血は睢水の裏に流る」と誦した。王粛は大いに嘆賞した。勰も大いに喜び、退いて瑩に言った。「まさに神口である。今日、卿がいなければ、ほとんど呉子(王粛)に屈するところであった。」
冀州鎮東府長史となったが、賄賂の事が発覚して除名された。後に侍中崔光が推挙して国子博士とし、引き続き尚書左戸部を領させた。李崇が 都督 として北討するに当たり、瑩を長吏に引き立てた。軍資を横領した罪で除名された。間もなく、散騎侍郎となった。孝昌年間、広平王の邸宅で古い玉印が掘り出され、瑩と黄門侍郎李琰之を召してどの時代のものか弁別させた。瑩は「これは于闐国王が晋の太康年間に献上したものです」と言った。墨を塗って字を見ると、果たして瑩の言う通りであり、当時の人は博物と称した。累進して国子祭酒に至り、給事黄門侍郎、幽州大中正、起居事を監し、また議事を監した。元顥が洛陽に入ると、瑩を殿中尚書とした。荘帝が宮中に還ると、元顥のために詔を作り、尒朱栄の罪状を述べた罪に坐して免官された。後に秘書監を除され、中正は元の通りであった。律暦の参議に功があり、容城県子の爵を賜った。事に坐して廷尉に繋がれた。前廃帝の時に車騎将軍に遷った。初め、荘帝の末、尒朱兆が洛陽に入り、軍人が楽署を焼き払ったため、鐘石管弦はほとんど残らなかった。瑩に録尚書事長孫稚・侍中元孚とともに金石雅楽を造ることを命じ、三年かけて完成した。事は『楽志』にある。車騎大将軍に遷った。出帝が即位すると、瑩は太常として礼を行い、文安県子に封じられた。天平の初め、 鄴 に遷都しようとした時、斉献武王( 高歓 )が瑩を召してこれを議した。功により儀同三司に遷り、爵を伯に進めた。薨去し、尚書左僕射・ 司徒 公・冀州刺史を追贈された。
常瑩は文学をもって重んぜられ、常に人に語って云う、「文章は必ず自ら機杼を出し、一家の風骨を成すべきであり、どうして他人と同じ生活を共にできようか」と。これは世の人が好んで他人の文章を窃盗し、己が用と為すことを譏ったものである。而して常瑩の筆札もまた天才に乏しきにあらず、但し均調を失い、玉石を兼ね備え、製裁の体は袁・常に減ずる。性は爽侠にして節気あり、士に窮厄ある者あれば、命を以てこれに帰し、必ず存拯を見る。時に亦これをもって多くす。その文集は世に行わる。子の珽、字は孝徴、襲封す。
常景
常景、字は永昌、河内の人である。父は文通、天水太守。常景は少にして聡敏、初め論語・毛詩を読み、一度受けて便ち覧る。長じてより才思あり、雅に文章を好む。廷尉公孫良が挙げて律博士と為し、高祖自らその名を得、既にしてこれを用う。後に門下録事・太常博士と為る。正始初め、詔して尚書・門下に金墉中書外省において律令を考論せしめ、勅して常景に参議せしむ。
世宗の季舅護軍将軍高顕が卒す。その兄右僕射高肇は私に常景及び尚書邢巒・ 并 州刺史高聡・通直郎徐紇に各々碑銘を作ることを託し、並びに以て御覧に呈す。世宗は悉く侍中崔光に付してこれを簡ぶ。崔光は常景の造れるものを最も優れりとし、乃ち奏して曰く、「常景の名位は諸人の下に処るも、文は諸人の上に出づ」と。遂に常景の文を以て石に刊す。高肇は平陽公主を尚ぶ。未だ幾ばくもせずして公主薨ず。高肇は公主の家令をして廬に居りて制服せしめんと欲し、学官に付して議正して施行せしむ。尚書また以て常景に訪う。常景は婦人に国を専らにする理なく、家令には純臣の義あるべからずとし、乃ち議を執りて曰く、「喪紀の本は、実に物に称して以て情を立つ。軽重の因る所も、亦情に縁りて以て礼を制す。理は盛衰に関わり、事は今古を経るも、而して制作の本、降殺の宜は、その実一なり。是の故に臣の君の為にする所以は、敬を資し重を崇ぶなり。君の母妻の為にする所以は、服に従いて義を制するなり。然れども諸侯大夫の君と為る者は、その地土有り、吏属有るを謂い、服文無きは、その世爵に非ざるを言うなり。今王姫降適す。爵命を加うと雖も、事は君邑に非ず、理は列土に異なり。何となれば、諸王国を開くには、臣吏を備え立て、生には趨奉の勤有り、死には致喪の礼を尽くす。而して公主の家令は、唯だ一人有るのみ。その丞已下は、命の属官たり。既に接事の儀無く、実に臣たるの礼を闕く。原るに公主の貴き所以に家令を立つるは、蓋し主の内事脱た関外に須うれば、理自ら達する無く、必ず人に因らん。然らば則ち家令は唯だ内外の職を通じ、及び主家の事を典るのみ。君臣の理、名義の分に関わる無し。是れに推すに、家令は純臣と為すべからず、公主は正君と為すべからざる明らかなり。且つ女人の君と為り、男子の臣と為るは、古礼に載せず、先朝に未だ議せず。而して四門博士裴道広・孫栄乂等は公主を以てこれが君と為し、家令を以てこれが臣と為し、斬を以て制服せしむ。乖謬甚だし。又た張虚景・吾難羈等は、君臣の分を推さず、致服の情を尋ねず、猶その議に同じくし、母に準じて斉を制す。名実に求めれば、理未だ允ならず。窃かに謂う、公主の爵は、既に食菜の君に非ず。家令の官は、又た純臣の式無し。若し母の如くに附せば、則ち情義施す所無し。若し小君に準ぜば、則ち服に従う拠り所無し。案ずるに経礼の如く、事成文無し。即ち愚見に之れば、服すべからずと謂う」と。朝廷これに従う。
常景は門下に淹滞すること積年、顕官に至らず。蜀の司馬相如・王褒・厳君平・揚子雲等の四賢は、皆高才有りて重位無きを以て、乃ち意を託して以てこれを讃す。その司馬相如を讃えて曰く、「長卿艶才あり、直ちに致して群れぬ性。鬱として春煙の挙ぐるが若く、皎として秋月の映ずるが如し。梁に遊ぶは仁を好むと雖も、漢に仕えて常に病と称す。清貞は我が事に非ず、窮達は 天命 に委ぬ」と。その王子淵を讃えて曰く、「王子秀質に挺で、逸気青雲を干す。明珠既に俗を絶ち、白鵠信に群を驚かす。才世苟も合わざれば、遇否途自ずから分かる。空しく碧鶏の命を枉げ、徒らに金馬の文を献ず」と。その厳君平を讃えて曰く、「厳公体は沈静、志を立てて霜雪を明らかにす。道を味わい微言を綜べ、端蓍して妙説を演ず。才は羅仲の口に屈し、位は李強の舌に結ぶ。素尚は金貞に邁り、清標は玉徹に陵ぐ」と。その揚子雲を讃えて曰く、「蜀江清流を導き、揚子余休を挹す。含光後彦を絶ち、覃思前修に邈る。世軽く久しく賞せず、玄談物求むる無し。当途権寵に謝し、酒を置きて独り閑遊す」と。
常景は枢密に在ること十余年、侍中崔光・盧昶・游肇・元暉に特に知賞せらる。累遷して積射将軍・給事中と為る。延昌初め、東宮建つ。兼ねて太子屯騎 校尉 と為り、録事は皆旧の如し。その年勅を受けて門下詔書を撰す。凡そ四十巻。尚書元萇は出でて安西将軍・雍州刺史と為り、常景を請うて司馬と為さんとす。常景の階次及ばざるを以て、録事参軍・襄威将軍を除し、 長安 令を帯ぶ。甚だ恵政有り、民吏これを称す。
先に、太常劉芳が常景等と朝令を撰すも、未だ班行に及ばず。別に儀注を典め、多く草創する所あり。未だ成らずして劉芳卒す。常景これを纂成す。世宗崩ずるに及び、常景を召して京に赴かしめ、還りて儀注を修めしむ。謁者僕射を拝し、寧遠将軍を加う。又た本官を以て兼ねて中書舎人と為る。後に歩兵 校尉 を授け、仍って舎人たり。又た勅を受けて太和以後朝儀已に施行する者を撰す。凡そ五十余巻。時に霊太后詔して漢世の陰鄧二后の故事に依り、親しく廟祀を奉じ、帝と交献せんとす。常景乃ち正に拠りて以て儀注を定む。朝廷是とす。
正光初め、龍驤将軍・中散大夫を除し、舎人は旧の如し。時に粛宗国子寺において講学の礼を行い、 司徒 崔経を執り、勅して常景と董紹・張徹・馮元興・王延業・鄭伯猷等をして倶に録義たらしむ。事畢り、又た釈奠の礼を行い、並びに詔して百官に釈奠詩を作らしむ。時に常景の作を以て美と為す。
是の年九月、 蠕蠕 の主阿那瓌闕に帰す。朝廷その位次を疑う。高陽王元雍常景に訪う。常景曰く、「昔咸寧中、南単于来朝す。晋世これを王公・特進の下に処す。今日班を為すには、宜しく蕃王・儀同三司の間に在るべし」と。元雍これに従う。朝廷の典章、疑いて決せざれば、則ち時に常景に訪いて行う。
初め、平斉の後、光禄大夫高聡は北京に徙る。 中書監 高允これが為に妻を娉し、その資宅を給う。高聡後高允が為に碑を立て、毎に云う、「吾この文を以て徳に報ゆ、足る」と。 豫 州刺史常綽は未だその美を尽くさざるを以てす。常景は高允の才器を尚び、先ず遺徳頌を作る。 司徒 崔光聞きてこれを観、尋味すること良久くして、乃ち云う、「高光禄平素毎にその文を矜り、自ら允の徳に報ゆるを許す。今常生の此の頌を見るに、高氏独りその美を擅にすべからず」と。侍中崔光・安豊王延明は詔を受けて服章を議定し、勅して常景にその事に参修せしむ。尋いで号を進めて冠軍将軍と為す。
阿那瓌が帰国するにあたり、国境付近で遷延し、なお困窮を陳述した。尚書左丞元孚を派遣して詔を奉じ振恤させたが、阿那瓌は元孚を捕らえて柔玄を過ぎ、漠北に奔った。 尚書令 李崇、御史中尉兼右僕射元纂を派遣して追討させたが、及ばなかった。そこで常景に命じて塞を出て、瓫山を経て、瀚海に臨み、敕勒の衆に宣べさせて帰還させた。常景は山水を経巡り、感慨にふけって古を懐かしみ、劉琨の扶風歌に擬して十二首を作った。
征虜将軍の号を進めた。孝昌の初め、給事黄門侍郎を兼ねた。まもなく左将軍、太府少卿に任じられ、なおも舍人であった。少卿を固辞して拝受せず、 散騎常侍 に改めて授けられ、将軍はもとのままとした。徐州刺史元法僧が叛いて蕭衍に降り、蕭衍はその 豫 章王蕭綜を派遣して彭城を占拠させた。時に安豊王元延明が大 都督 、大行臺となり、臨淮王元彧らの諸軍を率いてこれを討った。やがて蕭綜が降伏し、徐州は清復され、常景を兼尚書として派遣し、節を持ち行臺、 都督 のもとに馳せさせて機を観て部分させた。常景が洛汭を経たとき、銘を作った。この時、 尚書令 蕭宝夤、 都督 崔延伯、 都督 北海王元顥、 都督 車騎将軍元恒芝らがそれぞれ出討し、詔して常景に諸軍に赴き旨を宣べ慰労させた。帰還し、本将軍をもって徐州刺史に任じた。
杜洛周が燕州で反乱を起こすと、常景を兼尚書として行臺とし、幽州 都督 平北将軍元譚とともにこれを防がせた。常景は上表して、幽州諸県の民をすべて古城に入れさせ、山路で賊に通じる所には、臨時に兵夫を発し、適宜に戍を置いて防遏とすべきことを求めた。また、近頃兵を徴発するも、強壮な者を尽くさず、今の三長は皆豪門の丁の多い者がこれに任じているので、今は臨時にこれを発して兵としたいと求めた。粛宗は皆これに従った。平北将軍の号を進めた。別に元譚に勅して西は軍都関から、北は盧龍塞に至り、この二つの険要を拠えて賊の出入りの路を杜せしめた。また詔して常景に山中の険路の所を悉く捍塞させた。常景は府録事参軍裴智成を派遣して范陽の三長の兵を発し白㠈を守らせ、 都督 元譚は居庸下口を拠った。まもなく安州の石離、冗城、斛塩の三戍の兵が反乱し、杜洛周と結び、二万余落の衆をもって松岍より賊に赴いた。元譚は別将崔仲哲らを率いて軍都関でこれを遮り待った。崔仲哲は戦没し、杜洛周もまた外から応じ、腹背に敵を受けて元譚は大敗し、諸軍は夜に散った。詔して常景の配下の別将李琚を 都督 とし、元譚に代えて下口を征せしめ、常景を後将軍に降格し、州の任を解き、なお詔して常景を幽安玄□四州行臺とした。賊は南に出て薊城を鈔掠したので、常景は統軍梁仲礼に命じて兵士を率いて邀撃させ、これを破り、賊の将で禦夷鎮軍主の孫念恒を獲た。 都督 李琚は賊に攻められ、薊城の北で軍敗れて死んだ。常景は属城の人を率いてこれを防ぎ、賊は敢えて逼ることをしなかった。杜洛周は上谷を拠り還った。常景に平北将軍、光禄大夫を授け、行臺はもとのままとした。杜洛周はその 都督 王曹紇真、馬叱斤らを派遣して衆を率い薊南に至り、人や穀物を掠めようとしたが、連雨に遇い、賊衆は疲労した。常景は 都督 于栄、刺史王延年とともに兵を粟園に置き、その退路を邀えて大いにこれを破り、曹紇真を斬った。杜洛周が衆を率いて南に范陽に向かうと、常景は王延年及び于栄とともに再びこれを破った。また別将を派遣して州西の虎眼泉で重ねてこれを破り、生け捕り斬首し溺死する者甚だ多かった。後に杜洛周が南より范陽を囲むと、城中の人が翻って降り、刺史王延年及び常景を捕らえて杜洛周に送った。杜洛周はまもなく葛栄に吞まれると、常景はまた葛栄に入った。葛栄が破れると、常景は朝廷に還ることができた。
永安の初め、詔して本官を復し、黄門侍郎を兼ね、また著作を摂させたが、固辞して就かなかった。二年、中軍将軍、正黄門に任じられた。先に、正光壬子暦の参議に与り、ここに至って高陽子の爵を賜った。元顥が内に逼り、荘帝が北巡すると、常景は侍中大司馬安豊王元延明とともに禁中で諸親賓を召し、京師を安慰した。元顥が洛に入ると、常景はなお本位に居た。荘帝が宮に還ると、黄門を解かれた。普泰の初め、車騎将軍、右光禄大夫、秘書監に任じられた。詔命の労に預かった功により、濮陽県子に封じられた。後に例により追奪された。永熙二年、議事を監した。
常景は少より老に至るまで、常に事任に居た。清儉を自ら守り、産業を営まず、衣食に至るまで、取って済ますのみであった。経史に耽好し、文詞を愛玩し、もし新異の書に遇えば、殷勤に求訪し、あるいはまた質買し、価の貴賂を問わず、必ず得るを期とした。友人刁整が常に言うには、「卿は清徳を以て自ら居り、家業に事えず、儉約は尚ぶべきも、将に何を以て自ら済さんとするか。吾は恐らくは摯太常が方に栢谷で餧えんとするのみ」と。そこで衛将軍羊深とともにその乏しきを矜み、乃ち刁雙、司馬彦邕、李諧、畢祖彦、畢義顕らを率いて各々千文を出し、馬を買ってやった。
天平の初め、鄴に遷都するにあたり、常景は匹馬で従駕した。この時詔下って三日、戸四十万が狼狽して道に就き、百官の馬を収め、尚書丞郎以下で陪従しない者は皆驢に乗った。斉献武王は常景の清貧を以て、特に車牛四乗を給し、妻子ようやく鄴に達することができた。後に儀同三司に任じられ、本将軍はもとのままとした。武定六年、老疾を以て官を去った。詔して曰く、「几杖を礼とし、安車を以て養を致すは、歯を敬い賢を尊ぶこと、その来り尚い。常景は芸業該通し、文史淵洽し、三京に事え、年五紀を弥ぎ、朝章言帰し、禄俸余り無く、家徒に壁立す。宜しく哀恤に従い、以て元老を旌ぐべし。特右光禄の事力を給し、その身を終わらしむべし」と。八年に薨じた。
常景は人と交わることを善くし、終始一つの如く、その遊処する者は皆その深遠の度に服し、未だ曾てその矜吝の心を見たことがなかった。酒を飲むことを好み、栄利に澹泊し、自ら懐抱を得て、権門に事えなかった。性は和厚恭慎であった。毎に書を読みて、韋弦の事、深薄の危きを見るに、乃ち古昔の鑒戒とすべきことを図り、事を指して象と為し、讃してこれを述べて曰く。
常景の著述する所数百篇、世に行わる。晋 司空 張華の博物志を刪正し、及び儒林、列女伝を撰すること各数十篇という。
長子の常昶、少より学識有り、文才有り。早卒。
常昶の弟の常彪之、永安年中、 司空 行参軍。
【論】
史臣曰く、常琰之は好学博聞、鬱として邦彦と為る。祖瑩は幹能芸用、実に時良と曰う。常景は文義を以て宗と見られ、美を当世に著す。その遺稿を覧るに、尚ぶべきと称す。
校勘記