巻83下

高肇

高肇は あざな を首文といい、文昭皇太后の兄である。自らは本来勃海郡蓨県の人と称し、五世の祖の顧は、晋の永嘉年間に乱を避けて高麗に入った。父の颺は字を法脩という。高祖(孝文帝)の初め、弟の乗信および同郷の韓内・冀富らと共に国(北魏)に入り、厲威将軍・河間子に任ぜられ、乗信は明威将軍に任ぜられ、ともに客礼をもって遇され、奴婢・牛馬・綵帛を賜った。やがて颺の娘を娶り、これが文昭皇后となり、世宗(宣武帝)を生んだ。

颺が没した。景明初年、世宗は舅氏を追慕し、高肇兄弟らを召し出した。録 尚書 しょうしょ 事・北海王元詳らが上奏して言うには、「颺は左光禄大夫を追贈し、勃海公の爵を賜り、 おくりな を敬とすべきである。その妻の蓋氏は清河郡君を追封すべきである」。詔してこれを認めた。また詔して、颺の嫡孫の猛に勃海公の爵を継がせ、高肇を平原郡公に封じ、高肇の弟の顕を澄城郡公に封じた。三人は同日に封を受けた。初め世宗は舅氏と接しておらず、爵を授けようとして、衣と幘を賜り、華林都亭で高肇・顕を引見した。二人は皆ひどく恐れおののき、挙動に儀を失った。数日のうちに富貴は赫奕たるものとなった。この年、咸陽王元禧が誅殺され、財物・珍宝・奴婢・田宅の多くが高氏に入った。まもなく、高肇は尚書左 僕射 ぼくや ・吏部を領・冀州大中正となり、世宗の姑である高平公主を娶り、 尚書令 しょうしょれい に遷った。

高肇は夷地の出身であったため、当時の声望は軽んじられていた。要職に就くと、百揆(政務)に心を留め、孜々として倦むことなく、世間は皆これを有能と称した。世宗の初め、六輔が政権を専らにしたが、後に咸陽王元禧が事なくして逆を構えたため、これにより高肇を信任して委ねた。高肇は親族がいないため、大いに朋党を結び、これに附く者は旬月のうちに超昇し、これに背く者は大罪に陥れた。北海王元詳が自分の上位にいるのを妬み、これを陥れて殺させた。また世宗に諸王を防衛させ、ほとんど囚禁の如くにした。時に順皇后が急に 崩御 ほうぎょ し、世間の議論は高肇がやったのだと言った。皇子の昌が薨じたとき、皆が王顕が医療を誤ったのだと言い、高肇の意を受けたものだとされた。京兆王元愉が冀州 刺史 しし として出向したとき、高肇の恣意専断を恐れ、ついに不軌に至った。高肇はまた彭城王元勰を讒言して殺させた。これにより朝野は側目し、皆これを畏れ憎んだ。このため権を専らにし、与奪を己の任とした。またかつて清河王元懌と雲龍門外の廡下で、突然激しく争い、大いに紛糾した。 太尉 たいい ・高陽王元雍が和解させて止めた。高后が立つと、ますます寵信を受けた。高肇は既に衡軸(政権の中枢)に当たり、何事も己の任とし、もとより学識がなく、動くごとに礼度に背き、先朝の旧制を改めることを好み、勝手な思い付きで妄りに作り、封秩を減削し、勲人を抑え黜けた。これにより怨嗟の声が路に満ちた。延昌初年、 司徒 しと に遷った。貴く台鼎に登ったが、なお要職を去ったことを怏怏として辞色に現した。衆人は皆これを嗤笑した。父兄の封贈は久しいのに、ついに改葬しなかった。三年、ようやく詔して改葬を命じた。高肇は自ら臨赴せず、ただ兄の子の猛に喪服を改めさせて代わりに赴かせ、故郷に改葬させた。当時の人は高肇に識見がないとして、嘲笑したが責めはしなかった。

その年、大いに蜀を征伐することとなり、高肇を大将軍とし、諸軍を 都督 ととく してその節度とした。 都督 ととく の甄琛ら二十余人と共に東堂で世宗に面会して辞し、親しく規略を奉った。この日、高肇の乗った駿馬が神虎門外に停まっていたが、理由もなく驚いて倒れ、転がって渠の中に臥し、鞍や具が瓦解した。衆人は皆怪異に思った。高肇は出て、これを嫌った。

四年、世宗が崩御し、赦して征軍を罷めた。粛宗(孝明帝)は高肇および征南将軍の元遙らに書を送り、 いみな (宣武帝の崩御)を称して凶問を告げた。高肇は変事を承けて哀愕し、ただ仰慕するのみならず、またひそかに身の禍を憂い、朝夕悲泣し、羸悴に至った。都に至らんとして、瀍澗の駅亭に宿ったが、家人が夜迎えて見舞っても、皆目を合わせようとしなかった。ついに宮闕の下に至り、喪服を着て号哭し、太極殿に昇り、喪に奉じて哀を尽くした。

太尉の高陽王(元雍)は先に西柏堂におり、庶事を専決し、領軍の于忠と密かに高肇を除こうと謀った。ひそかに壮士の直寝の邢豹・伊瓫生ら十余人を舍人省の下に備えた。高肇が梓宮に哭し終わり、百官の前で西廊に導き入れられると、清河王元懌・任城王元澄および諸王らは皆ひそかに言い目で合図した。高肇が省に入ると、壮士がその首を扼し引き倒して殺した。詔を下してその罪悪を暴き、また刑書が及ばぬうちに自ら尽きたとし、その余の親党は全て追問せず、職爵を削除し、士礼をもって葬った。日が暮れてから、厠門からその尸を出して家に帰した。初め、高肇が西征したとき、函谷に至り、車軸が中折した。従者は皆、吉をもって還ることができないと思った。霊太后が臨朝すると、特に営州刺史を追贈するよう命じた。永熙二年、出帝(孝武帝)は使持節・ 侍中 じちゅう ・中外諸軍事・太師・大丞相・太尉公・録尚書事・冀州刺史を追贈した。

高肇の子の植。 中書 ちゅうしょ 侍郎から済州刺史となり、州軍を率いて元愉を討ち破り、別将として功があった。封賞を受けるべきであったが、受けず、「家は重恩を荷い、国のために力を尽くすはその常節であり、どうして進陟の報いに応じられようか」と言った。懇惻たる思いは至誠から発していた。青・相・朔・恒の四州刺史を歴任し、卒した。植は五州に頻繁に臨み、皆清廉有能で称され、当時良刺史と号された。安北将軍・冀州刺史を追贈された。

高肇の長兄の琨は早くに卒した。颺の封である勃海郡公を襲い、 都督 ととく 五州諸軍事・鎮東大将軍・冀州刺史を追贈された。詔してその子の猛に嗣がせた。

猛は字を豹児という。長楽公主を娶った。これは世宗の同母妹である。駙馬都尉に任ぜられ、中書令の位を歴任した。出て雍州刺史となり、有能の名があった。入って殿中尚書となった。卒し、 司空 しくう ・冀州刺史を追贈された。出帝の時、さらに太師・大丞相・録尚書事を追贈された。公主に子がなかった。猛は先に外に男子をもうけていたが、主(公主)に知らせることを敢えてせず、臨終に至ってようやく言い出し、年は三十に近かった。そこで召して喪の主とし、まもなく卒し、後が絶えた。

琨の弟の偃は字を仲游という。太和十年に卒した。正始年間、安東将軍・ 都督 ととく ・青州刺史を追贈され、諡を荘侯といった。景明四年、世宗はその女を貴嬪とした。順皇后が崩じた後、永平元年に皇后に立てた。二年、八座が上奏して后の母の王氏を武邑郡君に封じた。

偃の弟の寿は早くに卒した。寿の弟がすなわち高肇である。

高肇の弟の顕は、侍中・高麗国大中正となり、早くに卒した。

于勁

于勁は字を鍾葵といい、太尉の于拔の子である。頗る武略があった。功臣の子であり、また功績により、沃野鎮将の位に至り、富昌子の爵を賜り、征虜将軍に任ぜられた。世宗はその女を后とし、太原郡公に封じた。妻の劉氏は章武郡君となった。後に征北将軍・定州刺史に任ぜられた。卒し、 司空 しくう を追贈され、諡を恭荘公といった。于栗磾から于勁に至るまで、累世貴盛で、一皇后、四贈公、三領軍、二 尚書令 しょうしょれい 、三開国公を出した。于勁は后の父となったが、順后が早く崩じたため、ついに公輔(三公・宰相)の位には居らなかった。

子暉は、字を宣明といい、後母の弟である。若くして気概と才幹があった。爵位を襲い、汾州刺史の位に至る。暉は人に仕えることを巧みにし、尓朱栄に親しまれ、娘をその子の長孺に娶せた。侍中・河南尹を歴任し、後に尚書僕射・東南道行臺を兼ねた。斉献武王とともに兗州で羊侃を討ち平らげた。元顥が 洛陽 らくよう に入ると、彼を害した。

勁の弟、天恩は、内行長・遼西太守の位に至った。没後、平東将軍・燕州刺史を追贈された。

天恩の子、仁生は、太中大夫の位に至った。

仁生の子、安定は、平原郡太守・高平郡都將となった。没した。

胡國珍

胡國珍は、字を世玉といい、安定郡臨涇県の人である。祖父の略は、姚興の渤海公姚逵の平北府諮議参軍であった。父の淵は、 赫連 かくれん 屈丐の給事黄門侍郎であった。世祖(太武帝)が統万を攻略すると、淵は降伏の功により武始侯の爵位を賜った。後に河州刺史に任ぜられた。

國珍は若くして学問を好み、清廉倹約を尊んだ。太和十五年(491年)に爵位を襲い、例により伯に降格された。娘が後宮に選ばれ、肅宗(孝明帝)を生んだ。これが霊太后である。肅宗が即位すると、國珍を光禄大夫とした。霊太后が臨朝すると、侍中を加えられ、安定郡公に封ぜられ、甲第を賜り、帛・布・綿・縠・奴婢・車馬・牛を非常に厚く賜った。國珍の妻の皇甫氏を追尊して京兆郡君とし、墓守十戸を置いた。 尚書令 しょうしょれい ・任城王の澄が上奏して言うには、「安定公は身分が尊く声望が高く、親族・賢者・群臣の注目するところであり、禁中に出入りし、重大な政務に参与し諮問されるべきである」と。詔して許可された。そこで萬機を裁決することを命じられた。まもなく 中書監 ちゅうしょかん ・儀同三司に進み、侍中はもとのままとし、賞賜は累万に及んだ。また毎年絹八百匹を賜い、妻の梁氏には四百匹を賜い、男女の兄弟姉妹にもそれぞれ差等があり、皆極めて豊かであった。國珍は太師・高陽王の雍、 太傅 たいふ ・清河王の懌、 太保 たいほう ・広平王の懐とともに、門下に入り、ともに庶政を治めた。詔して漢の車千秋、晋の安平王の故事に倣い、歩輓車一乗を与え、掖門から宣光殿まで出入りすることを許し、机と杖を備えさせた。後に侍中の崔光とともに帝に経書を授け、禁中に侍直した。國珍はまもなく上表して、刑政の適切なあり方を述べた。詔して全て施行された。熙平(516-518年)初め、國珍に使持節・ 都督 ととく ・雍州刺史・驃騎大将軍・開府を加えた。霊太后は國珍が年老いているため、外任させたくなく、また方面の栄誉を示したいと思い、結局赴任させなかった。 司徒 しと 公に転じ、侍中はもとのままとし、邸宅で拝命させた。霊太后と肅宗は百官を率いてその邸に臨幸し、宴会は極めて歓楽であった。また京兆郡君を追尊して秦太上君とした。太上君は景明三年(502年)に洛陽で薨じ、この時まで十六年が経っていた。太后は太上君の墳墓が低く狭いとして、さらに増広し、塋域・門闕・碑表を造営した。侍中の崔光らが上奏して言うには、「漢の高祖の母は初め昭霊夫人と諡され、後に昭霊后となり、薄太后の母は霊文夫人といい、いずれも園邑三百家を置き、長・丞を置いて奉守させた。今、秦太上君には尊い諡号がなく、陵寝が孤立している。秦君の名に即し、終わりを称えるべきであり、併せて掃除と守衛を設け、情理と典拠を慰めるべきである。尊諡を孝穆と上り、暫定的に園邑三十戸を置き、長・丞を立てて奉守させてください」と。太后はこれに従った。國珍の後妻の梁氏を趙平郡君に封じ、元叉の妻を拝して女侍中とし、新平郡君に封じ、また馮翊君に改封した。國珍の子の祥の妻は 長安 ちょうあん 県公主で、すなわち清河王の懌の娘である。

國珍は年こそ老いていたが、仏法を深く敬い、時には斎戒潔斎し、自ら進んで礼拝した。出入りの侍従に至るまで、なお馬に跨り鞍に据わることができた。神亀元年(518年)四月七日、自ら建立した佛像に歩いて従い、邸から閶闔門まで四五里を行った。八日、また観像を立て、晩になってようやく座ることを肯んじた。疲労と熱が増し甚だしくなり、そこで病に臥した。霊太后は自ら薬膳に侍った。十二日に薨じ、八十歳であった。東園の温明祕器・五時の朝服各一具・衣一襲を与え、布五千匹・銭一百万・蠟千斤を追贈した。大鴻臚が持節して喪事を監護した。太后は宮に還り、九龍殿で喪服を着け、そこで九龍の寝室に居住した。肅宗は小功の喪服を着け、太極東堂で哀悼の意を表した。また詔して、薨じた初めから七七(四十九日)まで、毎回千僧の斎を設け、七人を出家させよと命じた。百日には万人の斎を設け、十四人を出家させよと。先に巫覡が凶事があると言い、厭勝の法を行うよう勧めたが、國珍は拒んで従わず、「吉凶は定まった分があり、ただ徳を修めてこれを除くのみである」と言った。臨終に太后と訣別して言うには、「母子でよく天下を治め、万人の心をもってせよ。大臣の顔色を見るな」と。懇ろに再三に及んだ。またその子の祥に及んで言うには、「我にただ一子あり。死後、近ごろのように威圧して抑えるな」と。霊太后は彼が遊戯を好むため、時に威厳をもって訓戒していた。國珍は故にこのように言ったのである。

初め國珍は祖父・父の西の故郷に葬られることを望んだが、後に前世の諸胡が多く洛陽に葬られていることを縁として、洛陽に終わる心を抱いた。崔光がかつて太后の前で國珍に問うた、「公は萬年後、ここに安葬されるか、長安に帰られるか」と。國珍は天子の山陵に陪葬すべきであると言った。病危篤に及んで、太后が後事を請うと、ついに安定に還ると言い、言葉はやがて昏然とした。太后が清河王の懌と崔光らに、去留について議させた。懌らは皆、病による混乱であるとして、先の言葉に従うよう請うた。太后はなお崔光がかつて國珍に言ったことを覚えており、遂に洛陽に墓を営んだ。太后は外見上は衆議に従ったが、臨終の言葉を深く思い、「我が公が遠く二親を慕うは、また我が父母を思うと同じである」と言った。

仮黄鉞・使持節・侍中・相国・ 都督 ととく 中外諸軍事・太師・領太尉公・司州牧を追贈し、太上秦公の号を賜い、九錫を加えた。葬儀は殊礼をもってし、九旒の鑾輅を給し、虎賁・班剣百人、前後の部の羽葆鼓吹、轀輬車を備えた。諡して文宣公といった。物三千段・粟一千五百石を賜った。また詔して國珍の祖父・兄、父・兄から、従子に至るまで、皆封職を追贈した。持節して安定に赴き喪事を監護させた。霊太后は太上君の神柩を迎えて邸に還し、國珍とともに葬り、贈り物は國珍と同じものを一つ与えた。國珍の神主が廟に入るとき、詔して太常に暫定的に軒懸の楽と六佾の舞を給するよう命じた。初め國珍に男子がなく、兄の真の子の僧洗を養子として後継ぎとしたが、後に趙平君を娶り、子の祥を生んだ。

祥は、字を元吉といい、封を襲いだ。故事によれば、世襲は例皆封邑を減らすが、ただ祥のみが全封を得た。趙平君が薨じると、東園の祕器を給し、肅宗は小功の喪服を着け、東堂で哀悼の意を表した。霊太后は斉衰の喪服を着けた。太上君の墓の左に葬り、合葬はしなかった。祥は殿中尚書・ 中書監 ちゅうしょかん ・侍中を歴任し、東平郡公に改封された。薨じ、開府儀同三司・雍州刺史を追贈され、諡して孝景といった。

僧洗は、字を湛輝という。爰徳県公に封ぜられ、 中書監 ちゅうしょかん ・侍中の位に至り、濮陽郡公に改封された。僧洗は永安(528-530年)の後、廃棄され、朝政に参与しなかった。天平四年(537年)に薨じ、詔して東園の祕器を給し、太師・太尉公・録尚書事・雍州刺史を追贈され、諡して孝といった。

真の長子の寧は、字を恵帰という。國珍の先の爵位を襲い、臨涇伯に改められ、後に公に進んだ。岐州・涇州の二州刺史を歴任した。卒し、諡して孝穆といった。娘は清河王の亶の妃となり、孝静皇帝を生んだ。武定(543-550年)初め、太師・太尉公・録尚書事を追贈され、諡して孝昭といった。

子虔は、字を僧敬という。元叉が霊太后を廃したとき、虔は千牛備身にあり、備身の張車渠らと謀って叉を殺そうとした。事が発覚し、叉は車渠らを殺し、虔は遠流に処せられた。霊太后が政権に復すると、吏部郎中として召された。太后は親族と家人の礼で宴戯するのを好んだが、虔は常に諫めたため、以後の宴謔には多く預からなかった。出て涇州刺史となり、安陽県侯に封ぜられた。興和三年、帝の母方の伯父として 司空 しくう 公に超遷した。薨じ、太傅・太尉公・尚書僕射・徐州刺史を追贈され、諡を宣といった。葬送の日、百官が会葬し、乗輿が郭外まで送った。子に長粲がある。

李延寔

李延寔は、字を禧といい、隴西の人で、尚書僕射李沖の長子である。性質は温良で、若くして太子舎人となった。世宗の初め、父の爵である清泉県侯を襲った。累遷して左将軍・光州刺史となった。荘帝が即位すると、母方の伯父の尊さにより、侍中・太保に超授され、濮陽郡王に封ぜられた。延寔は太保が祖諱に触れること、また王爵は庶姓の宜しくするところではないとして、抗表して固く辞した。濮陽郡公に徙封され、太傅に改授された。まもなく 司徒 しと 公に転じ、出て使持節・侍中・太傅・録尚書事・青州刺史となった。尒朱兆が洛陽に入り、乗輿が幽閉されると、延寔は外戚であるため、州の館舎で害された。出帝の初め、洛陽に帰葬された。使持節・侍中・太師・太尉公・録尚書事・ 都督 ととく ・雍州刺史を追贈され、諡を孝懿といった。

長子の彧は、字を子文といい、荘帝の姉の豊亭公主を娶った。東平郡公に封ぜられ、侍中・左光禄大夫・ 中書監 ちゅうしょかん ・驃騎大将軍・開府儀同三司・広州刺史の位に至った。彧は任侠で交遊を好み、軽薄で行いがなかった。尒朱栄の死に際しては、武毅の士は皆彧が推挙した者であった。孝静帝の初め、罪により棄市に処せられた。

【論】

史臣が曰く、三五の哲王は、深く防ぎ遠く慮った。舅甥の国では、めったに鈞衡を執らず、母后の家では、傾敗を聞くことがなかった。後世に及んで、覆る者が跡を継いだ。およそ礼をもって進めなかったからこそ、その斃れるのも速かったのである。その中に旧基を泯ぼさず、先構を損なわない者があったのは、道をもって処し、権力から遠ざけたことによるものであろう。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻83下