巻80

朱瑞

朱瑞、 あざな は元龍、 代郡 だいぐん 桑乾の人である。祖父の就は、字を祖成といい、沛県令の任中に卒した。父の恵は、字を僧生といい、行太原太守となり、卒した。永安年間(528-530)、朱瑞が貴顕となると、就は平東将軍・斉州 刺史 しし を、恵は使持節・冠軍将軍・恒州刺史を追贈された。

朱瑞は温厚で質朴正直であり、人を敬愛した。孝昌末年(527)、尓朱栄が彼を召し出してその府の戸曹参軍とし、また大行台郎中としたが、甚だ栄に親任された。建義初年(528)、黄門侍郎に任じられ、引き続き 中書 ちゅうしょ 舎人を兼ねた。尓朱栄は朝廷の事柄について意を汲み得ぬことを恐れたので、敢えて彼を門下に置き、腹心として託したのである。前後の勲功を録して、陽邑県開国公に封じられ、食邑一千戸を与えられた。間もなく、また 散騎常侍 さんきじょうじ ・安南将軍に任じられ、黄門侍郎は元の如くであった。父の喪に服し、官を去った。詔により復職を命じられ、青州大中正に任じられた。元顥が内に迫った時、朱瑞は北幸を勧める上奏をし、それに従って河陽に車駕に随い、 侍中 じちゅう ・征南将軍・吏部 尚書 しょうしょ を兼ね、北海郡開国公に改封され、食邑一千戸を加増された。荘帝が 洛陽 らくよう に還ると、衛将軍・左光禄大夫を加えられ、また楽陵郡開国公に改封され、引き続き侍中であった。朱瑞は尓朱栄に委任されていたが、朝廷の間柄を巧みに処し、荘帝もまた彼を賞遇し、かつて侍臣に謂って曰く、「人臣たる者は忠実でなければならぬ。朱元龍の如き者に至っては、朕もまた余人と異なる扱いはしない」と。

朱瑞は上奏して、三従(父・己・子)の範囲内の一族を全て滄州楽陵郡に属させることを乞い、詔はこれを許し、引き続き滄州大中正に転じた。朱瑞は初め青州楽陵に朱氏がいることを以て、帰属させたいと考え、故に青州中正を求めたのであるが、また滄州楽陵にも朱氏がおり、かつ河北を好んだので、遂に移属を乞うたのである。間もなく車騎将軍を加えられた。

尓朱栄が死ぬと、朱瑞は世隆と共に北へ逃走した。既にして、荘帝が自分を平素より厚く遇していたこと、また世隆らに雄才が無く、終には敗亡するであろうことを見て、途中で帰還した。帝は大いに喜び、その手を執って曰く、「 社稷 しゃしょく の忠臣は、まさにこの如くでなければならぬ」と。尓朱天光が関右に衆を擁すると、帝は彼を招き入れようとし、朱瑞を尚書左 僕射 ぼくや を兼ねて西道大行台とし、以て慰労させた。 長安 ちょうあん に到着した後、尓朱兆が洛陽に入ったのに会い、再び京師に還った。 都督 ととく 斛斯椿は先に朱瑞と不和があり、しばしば世隆に彼を讒言した。世隆は性来猜疑心が強く、かつ以前の離反を以て、忿恨は更に甚だしく、普泰元年(531)七月、遂に彼を誅殺した。時に年四十九。太昌初年(532)、使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・青州刺史を追贈され、 おくりな して恭穆といった。

子の孟胤は、封を襲った。斉が禅譲を受けると、例により降格された。

朱瑞の弟の珍は、字を多宝という。 太尉 たいい ・上党王天穆の録事参軍となった。卒した。

珍の弟の騰は、字を神龍という。建義初年(528)、龍驤将軍・大 都督 ととく 司馬となった。また涇陽県開国男に封じられ、食邑二百戸を与えられた。累進して中軍将軍・光禄大夫となった。朱瑞と共に害に遇った。太昌初年(532)、滄州刺史を追贈された。

騰の弟の慶賓は、光禄大夫の任中に卒した。

子の清は、武定末年(550)、斉王開府中兵参軍となった。

叱列延慶

叱列延慶は、代の西部の人であり、代々酋帥であった。曾祖父の鍮石は、世祖(太武帝)の末年に車駕に従って瓜歩に至り、臨江伯の爵を賜った。父の億弥は、祖父の爵を襲い、高祖(孝文帝)の時に越騎 校尉 こうい となった。

延慶は若い頃より弓馬に熟達し、胆力があった。正光末年(524)、直後に任じられ、大 都督 ととく 李崇に隷属して北伐した。後に尓朱栄に従って洛陽に入り、引き続き栄に従って相州で葛栄を討った。延慶は世隆の姉婿であり、栄に親遇された。葛栄が既に捕らえられると、使持節・撫軍将軍・光禄大夫・仮鎮東将軍・ 都督 ととく ・西部第一 領民酋長 りょうみんしゅうちょう に任じられ、永寧県開国伯に封じられ、食邑五百戸を与えられた。永安二年(529)、本官の将軍のまま恒州刺史に任じられた。普泰初年(531)、世隆が志を得ると、特に委任され重用され、 散騎常侍 さんきじょうじ ・車騎将軍・儀同三司に遷り、また驃騎大将軍・開府に進み、その他の官は元の如くであった。間もなく 都督 ととく 恒雲燕朔四州諸軍事・大 都督 ととく ・兼尚書左僕射・山東行台、北海郡開国公に任じられ、邑五百戸を与えられた。

時に幽州刺史劉霊助は、荘帝が幽閉され 崩御 ほうぎょ したことを以て、挙兵して義を唱え、諸州の豪族は皆相結んでこれに附した。霊助は定州の安固に進んで駐屯した。世隆は前廃帝(節閔帝)に上奏し、延慶に大 都督 ととく 侯淵と定州で会合させ、以て霊助を討たせた。侯淵は延慶に謂って曰く、「劉霊助は卜占に長け、百姓は信じて惑わされ、所在でこれに呼応している。容易に図ることはできぬ。万一戦いに利鈍あれば、則ち大事去らん。未だ西に入って関を拠え険に拒み、その変を待つに如かず」と。延慶曰く、「劉霊助は庸人である。天道は深遠にして、豈に彼の識る所ならんや。大兵一たび臨めば、彼らは皆その妖術を恃み、坐して符厭を見るのみで、寧くも力を尽くして死に至り、吾と勝負を争わんや。吾が計る所は、正に営を城外に出し、詭りて西帰すると言わんと欲するのである。霊助これを聞けば、必ず信じて自ら緩み、潜かに軍を往かせて襲えば、一往にして擒らえることができよう」と。侯淵はこれに従い、乃ち出て城西に頓し、声を揚げて将に還らんとすと云った。精騎一千を選び夜に出発し、明朝に霊助の塁に至り、城北で戦い、遂にこれを破り擒らえた。引き続き尚書左僕射を兼ね、恒・雲・燕・朔四州行台となった。また使持節・侍中・ 都督 ととく 恒雲燕朔定五州諸軍事・定州刺史に任じられ、その他の官は元の如くであった。

尓朱兆らと共に韓陵で義旗( 高歓 こうかん の軍)に抗したが、戦いに敗れ、延慶は尓朱仲遠と共に走り石済を渡った。仲遠は南へ竄走し、延慶は北へ降って斉献武王(高歓)に附いた。王と共に洛陽に入り、引き続き王に従って 并州 へいしゅう に在った。後に洛陽に赴き、出帝(孝武帝)は彼を中軍大 都督 ととく とした。延慶は既に尓朱氏に親昵し、また権佞に与していたので、出帝が西走し、斉献武王が洛陽に入ると、罪を以て誅殺された。

延慶の兄の子の平は、武定の末年に、儀同三司・右衛将軍・廮陶県開国侯となった。

斛斯椿

斛斯椿は、字を法寿といい、広牧富昌の人である。父の敦は、粛宗の時に左牧令となった。時に河西で賊が起こり、牧民は安堵せず、椿は家を率いて尓朱栄に投じた。栄は椿をその 都督 ととく 府鎧曹参軍を兼ねさせた。栄に従って征伐し功績があり、表上されて厲威将軍を授けられた。次第に中散大夫に昇進し、外兵事を署理した。椿は佞巧な性格で、栄の心を大いに得、軍の密謀にも多く関与した。

粛宗が崩御すると、椿は栄に従って洛陽に入った。荘帝の初め、陽曲県開国公に封ぜられ、食邑千戸を与えられ、 散騎常侍 さんきじょうじ ・平北将軍司馬に転じ、まもなく尓朱栄の大将軍府司馬を拝命した。葛栄を平定することに従い、功により上党太守を授けられた。元顥が洛陽に入ると、椿は栄に従って荘帝を奉迎し、ついで顥を攻撃することに従った。顥が敗れると、安北将軍・建州刺史に転じ、深沢県に改封され、鎮東将軍・徐州刺史に転じ、さらに征東将軍・東徐州刺史に転じた。

尓朱栄が死ぬと、椿は大いに憂慮し恐れた。時に蕭衍が汝南王悦を魏の主とし、兵馬を資して国境に駐屯させた。椿はこれを聞いて大いに喜び、ついに配下を率いて州を棄てて悦に帰順した。悦は椿に使持節・侍中・大将軍・領軍将軍・領左右・尚書左僕射・ 司空 しくう 公を授け、霊丘郡開国公に封じ、邑一万戸を与え、また大行台前駆 都督 ととく とした。尓朱兆が洛陽に入ると、椿は再び配下を率いて悦に背き兆に帰順した。

尓朱世隆が前廃帝を立てた時、椿はその謀議に参与し、策定の功により、侍中・驃騎大将軍・儀同三司・京畿北面大 都督 ととく を拝し、城陽郡開国公に改封され、邑五百戸を加増され、前の分と合わせて一千五百戸となり、まもなく開府を加えられた。時に椿の父の敦は先に秀容におり、突然敦の死の報せが伝わったので、椿は自らの官階を減じて父に贈るよう請い、自ら襄威将軍から超贈で車騎将軍・恒州刺史となった。まもなく父がなお生存していることを知り、詔により椿の官を復し、あわせてその父を車騎将軍・揚州刺史とした。世隆が椿を厚遇したのはこのようなものであった。

椿は尓朱度律・仲遠らと北に斉の献武王を防ぎ、陽平に駐屯した。尓朱兆と度律らが互いに疑い合って遁走したので、椿は 都督 ととく の賈顕智らに言った。「もし先に尓朱らを捕らえなければ、我々は生き残れないであろう。」ついに顕智らと夜に桑の下で盟約を結び、倍の速さで行軍した。椿は北中城に入り、尓朱の部曲を捕らえてことごとく殺し、長孫稚・賈顕智らに数百騎を率いさせて尓朱世隆・彦伯兄弟を襲撃し、閶闔門外で斬った。椿が洛陽に入ると、世隆兄弟の首をその門の木に懸けた。椿の父が出てきて見て、椿に言った。「お前は尓朱と兄弟の約を交わしたのに、今どうしてその首を家の門に懸けることを忍びるのか。天地に恥じないのか。」椿はついに世隆らの首を伝送し、あわせて度律・天光を囚えて、斉の献武王のもとに送った。出帝は椿に侍中・儀同開府を拝させた。

初め、献武王が洛陽に入った時、邙山に頓軍し、尓朱仲遠の帳下 都督 ととく の橋寧・張子期が滑台から来た。献武王は寧らを責めて言った。「お前たちは仲遠に仕え、その栄利を擅にし、百重の盟約を結び、生死を共にすると誓った。以前仲遠が徐州で逆を為した時、お前たちはその頭目であった。今仲遠が南に走ったのに、お前たちはまた彼に背いた。臣下の節義からすれば不忠であり、人に仕えることからすれば信がない。犬馬でさえ恩養を識るのに、お前たちは今や犬馬にも及ばない。」ついに彼らを斬った。椿は自ら幾度も反覆したことを思い、寧らの死を見て、常に心中安からず。ついに密かに間隙を構え、出帝を説いて閤内 都督 ととく 部曲を置かせ、また武直の人数を増やさせ、自直閤以下の員それぞれ数百人とし、みな天下の軽剽な者を選んでこれに充てた。また帝にしばしば出遊行幸し、号令を部曲に下し、別に行陣を為し、椿自らがこれを統制し、その間で指揮するよう勧めた。これ以後、軍謀朝政はすべて椿によって決せられた。また帝に兵を徴発し、南征と偽称して、斉の献武王を討伐しようと勧め、帝はこれに従った。ついに兵を城西に陳べ、北は邙山に接し、南は洛水に至り、帝は明朝に戎服を着て椿とともに臨閲した。献武王は椿が政を乱すとして、これを誅殺しようとした。椿の讒説が既に行われたため、これによって互いに恐れ動揺した。出帝は河橋で兵を統率し、椿を前軍とし、邙山の北に営させた。まもなく椿に歩騎数千を率いさせて虎牢を鎮守させた。椿の弟の 州刺史元寿と 都督 ととく の賈顕智が滑台を守ったが、献武王は相州刺史の竇泰に命じてこれを撃破させた。椿は自ら免れ難いことを恐れ、また出帝に上啓し、遊説して脅迫した。帝はこれを信じ、ついに関中に入り、椿もまた西に長安へ走った。椿は狡猾で事を好み、乱を楽しみ禍を喜び、時に干し国を敗らせ、朝野これに仇み憎まない者はなかった。元寿はまもなく部下に殺された。

賈顕度

賈顕度は、中山無極の人である。父の道監は、沃野鎮の長史であった。顕度は形貌偉壮で、志気があった。初め別将となり、薄骨律鎮を防守した。正光の末、北鎮が擾乱し、賊に攻囲された。顕度は長らく拒んで守ったが、賊の勢いが転じて熾んになり、長く立てこもれないと判断し、ついに鎮民を率いて河を下った。秀容に到達すると、尓朱栄に留められた。まもなく表上されて直閤将軍・左中郎将を授けられた。

建義の初め、汲郡太守を拝し、平東将軍を仮授された。尓朱栄に従って葛栄を破り、また撫軍将軍・光禄大夫・ 都督 ととく を拝し、石艾県開国公に封ぜられ、邑一千戸を与えられた。上党王天穆に従って邢杲を破った。元顥が洛陽に入ると、天穆とともに河を渡り河内の行宮に赴いた。顥が平定されると、本官の将軍として広州刺史・仮鎮南将軍を拝し、南兗州刺史に転じた。尓朱栄が死ぬと、顕度は心中安からず、南に蕭衍に奔り、衍は彼を厚遇した。

普泰の初め、朝廷に還り、衛大将軍・儀同三司・左光禄大夫を授けられ、また済州の事務を行った。再び尓朱度律らに従って北で義旗に抗し、韓陵で敗れ、斛斯椿及び弟の顕智らとともに衆を率いて先に河橋を占拠し、尓朱氏を誅殺した。出帝の初め、尚書左僕射を拝し、まもなく驃騎大将軍・開府儀同三司・定州大中正を加えられた。間もなく、本官のまま徐州刺史・東道大行台を行った。永熙三年五月、雍州刺史・西道大行台に転じた。関中で没した。

弟の智は、字を顕智といい、若くして胆決があった。孝昌年中、毛謐らの謀反を告発し、霊太后はこれを嘉して、伏波将軍・冗従僕射を授け、直斎を領させた。

蕭衍の将軍の夏侯夔が郢州を攻めると、智を龍驤将軍・別将としてこれを討たせた。到着すると夔は退き、智はそのまま城に入った。刺史の元顕達が城を挙げて蕭衍に降ると、智は城人の叛きたくない者を統率して顕達と交戦し、相率いて朝廷に帰った。後に 都督 ととく となり、太宰・上党王天穆に隷属して邢杲を征し、戦陣で流れ矢が胸に当たったが、なお戦いを止めなかった。元顥が洛陽に入ると、天穆に従って河を渡り、河内で荘帝に朝見した。尓朱兆とともに先に河を渡り顥の軍を破り、勲功により持節・征南将軍・金紫光禄大夫を授けられ、義陽県開国伯に封ぜられ、邑五百戸を与えられた。衛将軍を仮授され、行台の樊子鵠とともに東徐州で呂文欣を討ち、これを平定した。侍中・驃騎大将軍を加えられ、邑三百戸を増加された。まもなく東中郎将を行い、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。

尓朱仲遠が徐州刺史となると、賀抜智は仲遠に隷属し、彭城に赴いた。尓朱栄が死ぬと、仲遠は兵を挙げて洛陽に向かったが、智はこれに従わず、部下を擁して清水の東に出て、州民を招集し、これと相対して撃ち合った。孝荘帝はこれを聞いて善しとし、右光禄大夫・武衛将軍に任じ、侯爵に進め、封邑を二百戸増やし、以前の分と合わせて一千戸とし、徐州を鎮守させた。

普泰の初め、洛陽に戻った。仲遠は彼が背いたことを憤り、殺そうと謀った。智の兄の顕度は先に尓朱世隆に厚遇されており、世隆が説得して助命を得た。時に趙脩延が荊州で反乱を起こし、蕭衍が兵を派遣して援護したので、世隆は智に功績をもって自ら効力を示させようとし、智を派遣してこれを討たせ、使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・車騎大将軍・左光禄大夫・仮驃騎大将軍・荊州大 都督 ととく に任じ、公爵に進めた。出発しようとした時、荊州で脩延の首が斬られて送られてきたので、行かなかった。

また尓朱度律に従って北へ進み、義軍を防ぎ、尓朱兆と陽平で合流した。兆と度律は互いに疑心暗鬼となり、退却した。驃騎大将軍に任じられた。後に度律らに従って韓陵で敗れた後、智は兄の顕度や斛斯椿と謀って尓朱氏を誅殺しようとした。椿と顕度は北中城を守り、智らを京師に入らせ、世隆兄弟を捕らえた。

出帝の初め、 散騎常侍 さんきじょうじ ・本官の将軍・開府儀同三司・滄州刺史に任じられた。州では貪欲で放縦であり、民の害となったので、出帝は彼を京師に召還した。まもなく侍中を加授され、本官の将軍として済州刺史に任じられた。兵を率いて東郡に到着したが、そこで留まって進まず、長寿津で相州刺史の竇泰に撃破され、洛陽に戻った。天平の初め、 晋陽 しんよう に赴いた。智は去就が定まらず、後に罪に坐して死んだ。時に四十五歳。

子の羅侯は、秘書郎となった。

樊子鵠

樊子鵠は、代郡 平城 へいじょう の人である。その先祖は荊州の蛮族の首長で、代に移住させられた。父の興は、平城鎮の長史、帰義侯となった。普泰年間、子鵠が顕貴となったため、父は征虜将軍・荊州刺史を追贈された。

子鵠は北鎮の擾乱に遭い、南へ へい 州に至り、尓朱栄に召されて 都督 ととく 府倉曹参軍となった。孝昌三年の冬、栄は子鵠を使者として京師に遣わした。霊太后は彼に会い、栄の兵勢を問うと、子鵠の応対は意に適うものであったので、太后はこれを賞賛した。直斎に任じ、南和県開国子に封じられ、邑三百戸を与えられ、栄のもとに戻るよう命じられた。栄は彼を行台郎中とし、上党郡を治めさせた。栄が洛陽に向かう時、仮節・仮平南将軍・ 都督 ととく 河東正平軍事・行唐州事に任じた。刺史の崔元珍は城門を閉ざして守ったが、子鵠はこれを攻め落とした。

建義の初め、平北将軍・晋州刺史に任じられ、永安県開国伯に封じられ、食邑千戸を与えられ、また尚書行台を兼ねた。治政に威信があり、山胡は従った。元顥が洛陽に入ると、薛脩義および降蜀の陳双熾らが顥の命令を受け、兵を率いて州城を攻めた。子鵠は出て戦い、これを大破し、さらに土門で脩義らを破った。功により撫軍将軍に任じられた。まもなく召されて都官尚書・西荊州大中正となった。後に右僕射を兼ね、行台となり、賈智らを督率して東徐州の呂文欣を討ち、平定した。帰還後、車騎将軍・左光禄大夫に任じられ、南陽郡開国公に進封され、戸数六百を増やされ、尚書の官は元のままとし、なお仮驃騎大将軍を加え、配下を率いて 都督 ととく となった。時に尓朱栄は晋陽におり、京師の政事には子鵠が深く参与し委任されたため、台閣にあって征官を解かれなかった。後に出て 散騎常侍 さんきじょうじ ・本官の将軍・殷州刺史となった。旱魃と凶作の年であったため、子鵠は民の流亡を恐れ、穀物を持つ家に命じて貧者に分け与えさせ、また人と牛を交換して労力を補い、二麦(大麦・小麦)を多く植えさせ、州内はこれによって安寧を得た。

尓朱栄が死ぬと、世隆らは書を送って子鵠を招き、共に京師に向かおうとしたが、子鵠は従わなかった。母が晋陽にいたため、河南に移鎮することを願い出た。孝荘帝はこれを嘉し、車騎大将軍・ 州刺史・仮驃騎大将軍・ 都督 ととく 郢三州諸軍事・兼尚書右僕射・二 郢潁四州行台に任じた。子鵠が相州に到着すると、さらに絹五百匹を下賜するよう詔があった。行って汲郡に達した時、尓朱兆が洛陽に入ったと聞き、黄河を渡って仲遠に会いに行った。仲遠は彼を汲郡に鎮守させた。兆は子鵠を召して洛陽に赴かせ、会うと、背いたことを責め、その部衆を奪い、晋陽に連れ戻そうとした。紇豆陵歩藩が起こると、子鵠を 都督 ととく とし、兵糧と武器を徴発させた。元曄は彼を侍中・御史中尉・中軍大 都督 ととく とし、曄に従って洛陽に向かわせた。普泰の初め、元の官職に任じられた。趙脩延が荊州で反乱すると、詔により子鵠は三鵶道を通って帰還した。母の喪に服して職を去ったが、前廃帝は彼が洛陽に宅がなく、葬儀の費用が足りないと聞き、絹四百匹、粟五百石を下賜し、元の官職で起用した。

太昌の初め、尚書左僕射・東南道大行台を兼ね、大 都督 ととく 杜德らを総督して尓朱仲遠を追討した。仲遠はすでに蕭衍に奔っていたので、その兵馬と甲冑武器を収めた。時に蕭衍が元樹を派遣して侵入させ、譙城を陥落させ占拠した。詔により子鵠は徳と共にこれを討った。樹は梁国に兵を駐屯させ、迎え撃とうとしたが、子鵠の軍勢が盛んなのを見て、夜に退却して譙に戻った。子鵠は兵を率いて追撃し、樹はまた城を背にして陣を布いた。子鵠は兵を率いて直ちに城下に向かい、騎兵を放って突撃させると、樹の軍は大敗し、城門に奔り込んだが、城門が狭く塞がり、多くが自害した。ここにおいて千余級を斬り、馬数百匹を獲、鎧や武器を多く収め、遂に城を包囲した。儀同三司を加えられた。樹は兵を率いて出戦したが、その度に打ち破られたので、遂に出ることを敢えず、自守するのみであった。子鵠は蕭衍が援軍を派遣するのを恐れ、兵を分けて衍の苞州・然州・宕州・大澗・蒙県などの五城を攻撃すると、皆風の便りに逃げ散った。樹は外援がなく、策も尽き、子鵠がさらに人を遣わして説得したので、樹は遂に衆を率いて南に帰り、土地を国に返還することを請うた。子鵠らはこれを許し、共に盟約を結んだ。樹の軍の半数が出た時、子鵠は中から撃ち、これを破り、樹および衍の譙州刺史朱文開を生け捕りにし、捕虜や斬首は甚だ多かった。軍を返すと、出帝は馬を下賜した。吏部尚書に転じ、さらに尚書右僕射に転任した。まもなく驃騎大将軍・開府を加えられ、選挙を掌った。

初め、青州の人耿翔が衆を集めて反乱し、蕭衍に亡奔した。衍は彼に兵を与え、膠州を密かに占拠させた。子鵠は使持節・侍中・青膠大使に任じられ、済州刺史蔡雋を督してこれを討った。軍が青州に達すると、翔は城を捨てて逃走した。軍中で病に罹り、詔により医者を遣わして薬を与えた。なお兗州刺史に任じられ、他の官は元のままとし、そのまま任地に赴いた。子鵠は先に腹心を民間に遣わし、得失を探察させていた。任地に入境すると、泰山太守の彭穆が参候の儀礼を失ったので、子鵠は穆を責め、その罪状を数え上げると、穆は全て認めた。ここにおいて州内は震え恐れた。

出帝が関中に入ると、子鵠は城を拠って逆を為した。南青州刺史の大野抜、徐州の人劉粹がそれぞれ衆を率いて子鵠に合流した。天平の初め、儀同三司の婁昭らが衆を率いてこれを討った。子鵠は先に前膠州刺史の厳思達を遣わして東平郡を鎮守させていたが、昭はこれを攻め落とし、引き続き兵を率いて子鵠を包囲した。城は長く陥ちず、昭は水を引いて城を水攻めにした。静帝は慰撫して降伏させようとし、 散騎常侍 さんきじょうじ の陸琛、兼黄門郎の張景徴を使者として璽書を持たせて子鵠を労い、大野抜がこれに会見する機会に、左右の者が子鵠を斬って降伏した。

賀抜勝

賀抜勝は、字を破胡といい、神武の尖山の人である。祖父の爾逗は、北辺の防備に選抜されて赴き、武川に家を構えた。 蠕蠕 じゅんじゅん を偵察し、かつ戦功があったため、顕祖より龍城男の爵位を賜り、本鎮の軍主となった。父の度抜は爵位を継いだ。正光の末、沃野の人破落汗抜陵が徒党を集めて反乱を起こすと、度抜は三子と郷里の豪勇を率いて懐朔鎮を救援し、賊の王衛可瓌を殺した。度抜はまもなく賊に害されたが、孝昌年間に安遠将軍・肆州刺史を追贈された。

度抜が死ぬと、勝は兄弟とともに恒州刺史広陽王淵のもとに奔った。勝は弓馬に長け、武勇の才幹があり、淵は手厚く遇し、強弩将軍に上表し、帳内軍主を兼ねさせた。恒州が陥落すると、尓朱栄に帰順し、積射将軍に転じ、別将となり、さらに 都督 ととく を兼ねた。栄が洛陽に入ると、義挙に参画した功績により、易陽県開国伯に封ぜられ、邑四百戸を賜り、直閤将軍に任ぜられ、まもなく通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・平南将軍・光禄大夫を加えられ、安南将軍の号を進められた。まもなく撫軍将軍に任ぜられ、大 都督 ととく として井陘を出て中山を鎮守した。元顥が洛陽に入ると、勝は東路より騎兵三百を率いて河梁の行宮に赴いた。栄は勝と尓朱兆に先に渡河を命じ、顥の子の冠受および顥の大 都督 ととく 陳思保を破って捕らえた。荘帝が宮中に還ると、功により邑六百戸を加増され、さらに通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・征北将軍・金紫光禄大夫・武衛将軍を加えられ、真定県開国公に改封された。まもなく衛将軍に任ぜられ、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。

尓朱栄が死ぬと、勝は田怙らとともに栄の邸宅に駆けつけた。当時、宮殿の門は厳重に防備されておらず、怙らはただちに門を攻めることを議した。勝はこれを制止して言った、「天子がすでに大事を行われた以上、必ずやさらに奇策があるであろう。我々の兵は多くない、どうして軽率に動けようか。ただ城を出て、別の計略を立てるがよい。」怙はやめた。世隆が夜に逃走すると、勝はついに従わず、荘帝は大いにこれを称賛した。仲遠が東郡に迫ると、詔により勝は本官のまま驃騎大将軍を仮授され東征 都督 ととく となり、軍を率いて鄭先護と合流してこれを討った。先護に疑われ、営外に置かれ、人馬は休息を得られなかった。まもなく仲遠の軍が到着し、勝はこれと交戦して利あらず、ついに降伏した。

普泰の初め、右衛将軍に任ぜられ、車騎大将軍・右光禄大夫・儀同三司の号を進められた。尓朱仲遠・度律とともに北へ義軍を防ぎ、ともに敗走した。事は尓朱兆伝にある。後にともに韓陵で敗れ、勝はこれにより斉の献武王に降った。太昌の初め、領軍将軍に任ぜられ、その他の官はもとのままとし、さらに侍中に任ぜられた。出帝が斛斯椿らの讒言を容れ、斉献武王を謀ろうとし、勝の弟の岳が関西に軍を擁しているのを利用して、さらに広く勢力の援けとしようと、勝を使持節・侍中・ 都督 ととく 三荊二郢南襄南雍七州諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・荊州刺史に任じた。

勝は襄陽を図り、蕭衍の下迮戍を攻めてこれを陥落させ、その戍主の尹道玩と戍副の庫峩を捕らえた。また人を遣わして蛮王の問道期を誘い動かすと、道期は種族を率いて義兵を起こした。衍の雍州刺史蕭続は軍を遣わして道期を撃ったが、道期に敗れ、漢水の南は大いに驚いた。勝はまた軍を遣わして均口を攻め、衍の将の荘思延を捕らえ、さらに馮翊・安定・沔陽・酇陽城を攻めて、すべて平定した。続は将の柳仲礼を穀城に遣わして守らせたが、勝はこれを攻め落とせず、ついに軍を返した。沔水の北は荒廃して丘墟と化した。衍は続に書を下し、「賀抜勝は北朝の ぎょう 将である、汝は慎重に対処し、鋒を争ってはならない」と命じた。彼がこのように畏れられていたのである。琅邪郡公に爵位を進めた。

出帝の末、詔により勝は軍を統率して北へ京師に赴かんとした。軍が汝水に駐屯したとき、出帝は関中に入った。勝は配下を率いて武関より長安へ向かおうとした。析陽まで行き、斉献武王が潼関を平定し毛鴻賓を捕らえたと聞き、勝は恐れ、再び荊州へ走ったが、城中の者は門を閉じて入れなかった。時に献武王はすでに行臺の侯景と大 都督 ととく の高敖曹を遣わしてこれを討たせており、勝は戦いに敗れ、流れ矢に当たり、左右の五百余騎を率いて蕭衍のもとに奔った。翌年、間道より宝炬(西魏の文帝)のもとに身を寄せた。勝は小策を弄することを好み、志は大きいが胆力は薄く、南北を周章して、ついに何も成すことができず、賊中に没することとなった。

勝の兄の可泥は、永熙年間に太尉公となり、燕郡王に封ぜられた。

勝の弟の岳は、字を阿斗泥という。初め太学生となり、成長して弓馬を事とした。父兄とともに懐朔鎮を救援に赴き、賊の王衛可瓌が城西二百余歩のところにいたとき、岳は城に乗ってこれを射、矢は瓌の臂に当たり、賊衆は大いに驚いた。後に恒州に帰り、広陽王淵は帳内軍主とし、強弩将軍に上表した。州が陥落すると、尓朱栄に投じ、栄は別将とし、 都督 ととく に進めた。

永安の初め、安北将軍・光禄大夫・武衛将軍に任ぜられ、樊城郷男の爵位を賜った。事に坐して官爵を失ったが、二年、詔によりともに復された。まもなく使持節・仮衛将軍・西道 都督 ととく に任ぜられ、尓朱天光に隷属して左廂大 都督 ととく となり、万俟醜奴を討った。天光はかねてより岳を知っており、同行を得て喜び、何事につけ論議し相談した。まもなく衛将軍・仮車騎将軍を加えられ、その他の官はもとのままとした。岳が長安に到着すると、栄は兵を続けて派遣した。時に万俟醜奴はその大行臺の尉遅菩薩を武功に向かわせ、南へ渭水を渡り、柵を攻囲させた。天光は岳に騎兵一千を率いて馳せ往き救援に赴かせたが、菩薩はすでに柵を陥落させ、岐州へ引き返していた。岳は軽騎八百を率いて北へ渭水を渡り賊を捕らえ、民を殺掠させて菩薩を挑発した。菩薩は果たして歩騎二万余人を率いて渭水の北岸に至った。岳は軽騎数十で菩薩と水を隔てて言葉を交わし、岳は国威を称揚し、菩薩は自らの強盛を言い、往復数度に及んだ。菩薩はついに驕り、省事(属官)に言葉を伝えさせた。岳は怒って言った、「私は菩薩と話しているのだ、卿は何者で、私と対等に語るのか!」省事は水を頼みにし、無礼な返答をした。岳は弓を挙げてこれを射ると、弦の響きに応じて倒れた。時はすでに暮れに迫り、ここでそれぞれ引き揚げた。岳は密かに渭水の南岸に沿って精騎を配置し、四十、五十騎を一単位とし、地形に従って便利な場所に連続して置いた。翌日、自ら百余騎を率い、水を隔てて賊と相見え、ともに東へ行った。岳は次第に前進し、先に配置した騎兵が岳に従って集まった。騎兵が次第に増えるにつれ、賊はその多寡を測ることができなくなった。二十里余り行くと、浅瀬で渡れる場所に至り、岳は馬を馳せて東に出て、逃走するふりをした。賊は岳が逃げたと思い、歩兵を捨てて南へ渭水を渡り、軽騎で岳を追った。岳は東へ十余里行き、横たわる岡に依って伏兵を待ち受けた。賊は路が険しく前進できず、前後に続いて到着し、半ばが岡の東に渡った。岳はそこで戦いを返し、自ら士卒に先んじて急撃すると、賊は退走した。岳は配下に号令し、賊で馬から下りた者は皆殺すなと命じた。賊はこれを見ると、悉く馬を棄てた。まもなく三千人を虜獲し、馬も一匹残さず捕らえた。ついに渭水の北岸を渡り、歩兵一万余人を降し、その輜重を収めた。その地の民は、すべて労って帰した。醜奴はまもなく岐州を棄て、北の安定へ逃走した。

その後、侯伏侯元進を破り、侯機長貴を降し、醜奴・蕭宝夤・王慶雲・万俟道洛を擒え、宿勤明達を敗走させた。事は尓朱天光伝にある。天光は元帥であったが、岳の功績が多かった。車騎将軍を加えられ、邑二千戸を増やされ、樊城県開国伯に進封された。まもなく詔により岳は 都督 ととく 涇・北豳・二夏四州諸軍事・本将軍・涇州刺史に任ぜられ、公に爵位を進められ、清水郡公に改封された。

尓朱天光が洛陽に入ると、賀抜岳に雍州の事務を行わせた。元曄が立つと、驃騎大将軍に任じられ、封邑を五百戸増やされ、その他の官職は従前の通りであった。普泰の初め、二岐・東秦の三州諸軍事、儀同三司、岐州刺史を 都督 ととく した。まもなく侍中を加えられ、後部鼓吹を与えられ、引き続き開府を詔された。ほどなく尚書左僕射、隴右行臺を兼ね、引き続き高平に駐屯した。後に隴中にまだ従わぬ土民がいたため、岳は侯莫陳悅を助けてその地を討ち平定した。二年、岳に三雍・三秦・二岐・二華の諸軍事、雍州刺史、関西行臺を 都督 ととく することを加え、その他の官職は従前の通りであった。尓朱天光が軍勢を率いて洛陽へ赴き、斉の献武王に対抗しようとした時、岳は侯莫陳悅と共に隴を下って雍州へ赴き、義旗に応じた。

永熙の初め、引き続き開府、僕射・大行臺・雍州刺史を兼ね、封邑を千戸増やされた。二年、詔により岳は雍・華・北華・東雍・二岐・豳・四梁・二益・巴・二夏・蔚・寧・南益・涇の二十州諸軍事を 都督 ととく し、大 都督 ととく となった。岳は自ら北境に赴き、辺境の防備を整え、部衆を率いて涇州平涼の西界に急ぎ、数十里にわたって営を布き、諸軍の兵士に涇州で耕作させた。自らは壮勇を率い、牧馬を託かりとして、原州の北で万俟受洛干らを招き、また遠近の州鎮で集結する者たちをも招いた。霊州刺史曹泥が自ら岳の軍に赴き交代を請うたので、岳は前洛州刺史の元季海を刺史とした。その民は従わず、季海の部下を撃破し、ただ季海だけを聴き入れた。(闕)三年正月、岳は侯莫陳悅を高平に呼び会し、これを討とうとし、悅に前駆を命じて、北へ霊州へ向かわせた。渴波隘中の河水がまだ解けていないと聞き、そこへ向かおうとした。

岳は大軍を総べ、関右を制圧すると、その強勢を恃んで驕り高ぶり、臣下の心を持たなかった。斉の献武王はその専横を憎み、悅にこれを謀らせた。悅は平素より岳の威略に服しており、密旨を受けると、ひそかに計略を練った。時に岳は悅に先行させたので、悅は夜通し東進し、夜明けに至ると、岳が行軍して前進し悅と相見えた。悅は岳を誘って営中に入れ、坐して兵事を論じた。悅は腹痛と偽り、起きてゆっくり歩き、悅の娘婿の元洪景が刀を抜いて岳を斬った。後に岳の部下が岳の屍を収め、雍州北の石安原に葬った。六月、大将軍・ 太保 たいほう ・録尚書事を追贈され、 都督 ととく ・刺史・開国はすべて従前の通りであった。

侯莫陳悅

侯莫陳悅は、代郡の人である。父の婆羅門は駝牛都尉であったため、悅は河西で育った。狩猟を好み、騎射に長じていた。牧子の乱に遭い、尓朱榮に帰順し、榮は彼を 都督 ととく 府長流参軍に引き立て、やがて大 都督 ととく に昇進した。孝荘帝の初め、征西将軍・金紫光禄大夫に任じられ、栢人県開国侯に封じられ、封邑五百戸を与えられた。

尓朱天光が関西を討伐した時、榮は悅を天光の右廂大 都督 ととく とし、本官は従前の通りであった。西征での勝利と捕獲は、すべて天光や賀抜岳とほぼ同じ功労であった。本将軍のまま鄯州刺史に任じられ、その他の官職は従前の通りであった。尓朱榮の死後、天光に従って隴を下った。元曄が立つと、車騎大将軍・渭州刺史に任じられ、爵位は公に進み、白水郡に改封され、封邑を五百戸増やされた。天光が洛陽に向かった時、悅に華州の事務を行わせた。普泰年間、驃騎大将軍・儀同三司・秦州刺史に任じられた。天光が東に出て義旗に対抗しようとした時、悅は岳と共に隴を下って斉の献武王に応じ、雍州に至った時、尓朱氏の敗北に遭遇した。永熙の初め、開府、隴右諸軍事 都督 ととく を加えられ、引き続き秦州刺史であった。

永熙三年正月、岳は悅を呼び共に霊州を討とうとした。悅は岳を誘い出して斬り、岳の左右の者は散り散りに逃げた。悅は人を遣わして慰撫し、「私は別に意旨を受けており、対象は一人だけである。諸君は恐れるな」と言った。衆は皆畏服し、敢えて拒む者も違う者もなかった。悅の心は躊躇し、直ちに慰撫して取り込むことをせず、隴に戻り、水洛城に留まった。

岳の配下の者は平涼に集結し、悅を討ち取る計画を立て、夏州刺史の宇文黒獺を追って呼び寄せた。黒獺が到着すると、岳の部衆とその家族をまとめて高平城に入れ、自らの安泰を図った。そして軍勢を率いて隴に入り悅を征討した。悅はこれを聞き、城を捨て、南の山水の険しい地に拠り、陣を設けて戦いを待った。黒獺が到着し、遠くから悅を見ると、明日決戦しようと待った。悅は先に南秦州刺史の李景和を呼び寄せたが、その夜、景和は人を遣わして黒獺のもとに行き、密かに降伏を約束した。日暮れに、景和は配下の者を督励して驢駝に乗せ、「儀同(侯莫陳悅)に命があり、秦州に戻って賊を防ぐためである」と言い、軍人に厳重に備えさせた。景和はさらに悅の陣営の者たちを欺いて言った、「儀同は秦州に戻ろうとしている。お前たちはなぜ準備しないのか」。衆は本当だと思い、次々に驚き、人心は惶惑して止めることができず、皆散り散りに逃げて秦州へ向かった。景和が先駆けて城に至り、城門を占拠して衆を慰撫し集めた。

悅の部衆は離散し、傍らを疑い畏れ、左右の者を近づけず、二人の弟と息子、そして岳を謀殺した者ら八九人と共に軍を捨てて逃走した。数日のうちに、あちこちをうろつき回り、どこへ行くべきか分からなかった。左右の者は霊州へ向かうよう勧めたが、悅は決断できず、隴を下った後、人に見られることを恐れると言った。そして山中で従者にすべて徒歩を命じ、自らは一頭の騾に乗り、霊州へ向かおうとした。途中で、追撃の騎兵が迫り、それを見ると、遂に野中で縊死した。弟、息子、部下はすべて捕らえられ殺され、ただ先に岳を謀殺した者である悅の中兵参軍の豆盧光だけが霊州へ逃げ、後に晋陽へ奔った。悅は岳を殺して以来、神情が恍惚とし、平常の状態ではなく、常に言った、「私は少し眠るとすぐに岳が夢に現れて『兄はどこへ行くのか』と言い、私について離れない」。このためますます不安を抱き、敗滅に至ったのである。

侯淵

侯淵は、神武の尖山の人である。機敏で胆略があった。孝明帝の末年、六鎮が飢えて乱れると、淵は杜洛周に従って南へ寇掠した。後に妻の兄の念賢と共に洛周を背いて尓朱榮に帰順した。道中で賊に遭い、粗末な衣を着ていたが、榮は衣服と帽子を与え、厚く待遇し、淵を中軍副 都督 ととく とした。常に征伐に従い、しばしば戦功を挙げた。

孝荘帝が即位すると、領左右に任じられ、厭次県開国子に封じられ、封邑四百戸を与えられた。後に榮に従って滏口で葛榮を討ち、戦功が特に多かった。榮は淵を驃騎将軍・燕州刺史とするよう上奏した。時に葛榮の別帥の韓楼・郝長らが数万の衆を擁し、薊城に屯拠していた。尓朱榮は淵と賀抜勝にこれを討たせた。ちょうど元顥が洛陽に入ったため、榮は勝を召し出して南の大軍に赴かせ、淵だけを留めて中山を鎮守させた。

孝荘帝が宮中に還ると、榮は淵に韓楼を進討させたが、配された兵卒は非常に少なかった。ある者がこれを言うと、榮は言った、「侯淵は機に臨んで変を設けるのがその長所である。もし大衆を総べさせても、必ずしも使いこなせないだろう。今この賊を撃つには、これで十分平定できるはずだ」。わずか七百騎を与えただけだった。淵は広く軍勢の威を示し、多くの供応の具を設け、自ら数百騎を率いて、深く韓楼の境域に入り、通行人を捕らえて虚実を問おうとした。薊から百余里のところで、賊帥の陳周の歩騎一万余に出会った。淵はひそかに潜伏してその背後を衝き、大いにこれを破り、その兵卒五千余人を捕虜とした。まもなくその馬と武器を返し、城に入ることを許して解放した。左右の者が諫めて言った、「既に賊衆を捕らえたのに、なぜ再び資材を与えて遣わすのですか」。淵は言った、「我が兵は少ないので、力戦はできない。計略を用いて彼らに隙を作らねばならない」。淵は彼らが既に城に着いたと推し量り、騎兵を率いて夜に集結し、夜明けにその城門を叩いた。韓楼は果たして降伏した兵卒が淵の内応だと疑い、遂に逃げ走り、追撃してこれを捕らえた。功績により爵位は侯に進み、封邑を八百戸増やされた。まもなく詔により淵は本将軍のまま平州刺史・大 都督 ととく とされ、引き続き范陽を鎮守した。

尓朱栄が死ぬと、范陽太守の盧文偉は侯淵を誘い出して狩猟させ、城門を閉じて彼を拒絶した。侯淵は部曲を率いて郡の南に駐屯し、尓朱栄のために哀悼の礼を行い、兵を整えて南進した。孝荘帝は東萊王元貴平を使者とし、燕薊を慰労させた。侯淵は偽って降伏し、貴平はこれを信じ、遂に貴平を捕らえて従わせた。中山まで進軍すると、行臺僕射の魏蘭根が邀撃したが、侯淵に敗れた。ちょうど元曄が立つと、侯淵はこれに帰順しようとした。常山太守の甄楷が井陘に駐屯して拠っていたが、侯淵はまたこれを撃破した。元曄は侯淵に驃騎大将軍・儀同三司・定州刺史・左軍大 都督 ととく ・漁陽郡開国公を授け、邑一千戸を与えた。前廃帝が立つと、引き続き開府を加えられ、その他の官爵はもとのままだった。幽州刺史の劉霊助が義兵を挙げ、安国城に駐屯すると、侯淵は叱列延慶らと共にこれを破り捕らえた。後に尓朱兆に従って広阿で義軍を防ぎ、兆が敗走すると、侯淵は斉献武王(高歓)に降り、後に王に従って韓陵で尓朱氏を破った。永熙初年、斉州刺史に任じられ、その他の官爵はもとのままだった。

出帝(孝武帝)の末年、侯淵は兗州刺史の樊子鵠、青州刺史の東萊王元貴平と密書を往来させ、互いに連絡を取り合い、また間使を遣わして献武王に誠意を通じさせた。出帝が関中に入ると、またもや傍観の態度をとった。汝陽王元暹が斉州刺史に任じられ、城西に到着したが、侯淵は部曲を擁して城を占拠し、すぐには迎え入れなかった。民の劉桃符らが密かに元暹を引き入れて西城を占拠させると、侯淵は城門を争ったが勝てず、騎兵を率いて出奔し、妻子と部曲は元暹に捕らえられた。広里まで行き着くと、ちょうど詔命により侯淵が青州の事務を行なうことになった。斉献武王もまた侯淵に書を送り、「卿は部曲が少ないからといって、東進を難しく思うな。斉の民は薄情で、ただ利に従うだけだ。斉州の城民ですら汝陽王を迎え入れることができたのだから、青州の民がどうして卿のために門を開いて待たないことがあろうか。ただ努めるがよい」と言った。侯淵はそこで引き返し、元暹はようやくその部曲を返した。しかし貴平は自ら斛斯椿の党とみなされ、また交代を受け入れなかった。侯淵は進軍して高陽郡を襲撃し、これを陥落させ、部曲と家族を城中に置き、自らは軽騎を率いて外で遊撃略奪した。貴平はその長子に軍勢を率いさせて高陽を攻撃させ、南青州刺史の茹懐朗は兵を遣わしてこれを助けた。当時、青州の城民が糧食を運ぶ者は前後相継いでいた。侯淵は自ら騎兵を率いて夜間に青州へ急行し、糧食を運ぶ者に偽って言った、「官軍がすでに到着し、皆殺しにした。私は世子(貴平の子)の下僕だが、今は逃げて城に戻る途中だ。お前たちはなぜまた行くのか」と。人々はその言葉を信じ、糧食を棄てて逃走した。夜明け頃、また通行人に言った、「官軍は昨夜すでに高陽に到着した。私は前鋒だが、今ここに着いたばかりだ。侯公(貴平)が結局どこにいるか、よく知っているか」と。城の民は恐れおののき、遂に貴平を捕らえて出降した。侯淵は自ら反覆を考え、安泰を得られぬことを憂い、遂に貴平を斬り、その首を京師に伝送し、斛斯椿とは異なることを明らかにしようとした。

樊子鵠が平定されると、詔により封延之を青州刺史とした。侯淵は州の任を得られず、心中また恐れをなして、広川まで行き着くと、遂に光州の武器庫の兵を奪って反逆した。騎兵を平原に遣わし、前膠州刺史の賈璐を捕らえた。夜間に青州の南外城を襲撃し、前廷尉卿の崔光韶を劫略し、人心を惑わそうとした。郡県を攻撃略奪した。その部下の督帥が叛いて拒むと、侯淵は騎兵を率いて蕭衍のもとへ奔ったが、途中で逃亡散逸し、南青州の南境まで行き着き、売漿者(飲み物売り)に斬られ、その首は京師に伝送され、家族は配流・没官された。

史臣が言う。朱瑞は本に背き義に向かったため、罪を許されなかった。延慶は旧主に党して順逆に違ったため、常刑が及んだ。斛斯椿は心に姦佞を抱き、口からは讒言と悪意を吐き、蒼蠅に譬えられるように、四方の国を交えて乱し、豺虎に投げ与えられ、天が実にこれを棄てたのである。賈智、侯淵は反覆して斃れることを取った。破胡(可朱渾元)は器量が小さく謀りごとが大きく、ついに転倒した。子鵠は機を見誤り算が少なく、ついに殲滅された。岳(賀抜岳)は力を恃んで謀がなく、一剣によって制せられた。悦(侯莫陳悦)は果断に行うも慮りが浅く、死ぬまでに足を返す暇もなかった。その滅亡を見れば、自ら取ったものである。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻80