魏書

卷79 成淹 範紹 劉桃符 劉道斌 董紹 馮元興 鹿悆 張熠

卷79 成淹 範紹 劉桃符 劉道斌 董紹 馮元興 鹿悆 張熠

成淹

原文成淹

成淹、字は季文、上谷郡居庸県の人である。自ら言うには、晋の侍中成粲の六世の孫であるという。祖父の成昇は北海に家を構えた。父の成洪は、名が顕祖(献文帝)の廟諱に触れるため、劉義隆(宋の文帝)に仕え、撫軍府中兵参軍となった。早くに死去した。成淹は文学を好み、気概と節操があった。劉子業(宋の前廃帝)の輔国府刑獄参軍事となり、劉彧(宋の明帝)は員外郎とし、仮の龍驤将軍を加え、軍主を領せしめ、東陽・歴城を救援させた。皇興年間(467-471)、慕容白曜に降り、朝廷に赴き、兼著作郎を授けられた。時に顕祖は仲冬の月に、漠北を巡幸しようとされたが、朝臣は寒さが甚だしいと固く諫め、皆容れられなかった。成淹が『接輿釈遊論』を上奏すると、顕祖はこれを見て、尚書の李訢に詔して言われた、「卿ら諸人は成淹の論のようではなく、人の意をよく理解している」と。そこで行幸を停止するよう命じられた。

原文成淹,字季文,上谷居庸人也。自言晉侍中粲之六世孫。祖昇,家於北海。父洪,名犯顯祖廟諱,仕劉義隆,為撫軍府中兵參軍。早卒。淹好文學,有氣尚。劉子業輔國府刑獄參軍事,劉彧以為員外郎,假龍驤將軍,領軍主,令援東陽、歷城。皇興中,降慕容白曜,赴闕,授兼著作郎。時顯祖於仲冬之月,欲巡漠北,朝臣以寒甚,固諫,並不納。淹上接輿釋遊論,顯祖覽之,詔尚書李訢曰:「卿等諸人不如成淹論,通釋人意。」乃敕停行。

太和年間(477-499)、文明太后が崩御すると、蕭頤(南斉の武帝)はその散騎常侍裴昭明・散騎侍郎謝竣らを派遣して弔問させ、朝服で儀式を行おうとした。主客がこれを制止し、「弔問には定められた方式があり、どうして朱衣(朝服)で山陵の庭に入ることができようか」と言った。昭明らは言った、「本来朝廷の命令を受けており、変更は許されない」と。このようなことが数度あり、主客の意志は変わらなかった。高祖(孝文帝)は尚書の李沖に命じ、学識ある者を選んでさらに論争させるよう命じ、李沖は成淹を派遣するよう上奏した。昭明は言った、「魏朝が朝服で礼を行わせない理由が分からない。その根拠はどの典籍にあるのか」と。成淹は言った、「吉事と凶事は異なり、礼には定められた数がある。玄冠(吉服の冠)で弔問しないことは、子供でも知っている。昔、季孫が行く際に、喪に遭う場合の礼を問うたことは、千年の後になってもなお称えられている。卿は遠く江南より慰問に来たのに、定められた事柄に従うことができず、かえって『どの典籍に根拠があるのか』と議論するとは、使者の得失について、なんと異なることか」と。昭明は言った、「二国が和睦して久しく、南北ともに基準とすべきものがある。斉の高帝が崩御した時、魏は李彪を派遣して弔問させたが、その時は初めから喪服ではなかった。斉朝もこれを疑わなかったのに、どうして苦しめて強要するのか」と。成淹は言った、「李彪が弔問した時、朝廷の命令で喪服を携行していたが、そちら(斉)が高宗(武帝)の追慕の情に従わず、一ヶ月を過ぎて吉服に戻したのである。李彪が弔問した時、斉の君臣は皆、鳴玉が庭に満ち、貂璫が日を輝かせ、内外の百官は朱服で鮮やかであった。李彪は使者として主人の命令を受けず、どうしてただ一人で喪服を着て衣冠の間に身を置くことができようか。そちらの要求は高いが、聞き入れることはできない。我が皇帝は仁孝の性、有虞(舜)に等しく、諒闇(喪中)にあって以来、百官は冢宰(宰相)に聴いている。卿はどうしてこれを以て彼と比べることができようか」と。昭明は膝を揺すりながら言った、「三皇も礼は同じでなく、どうして得失の帰するところを知ることができようか」と。成淹は言った、「もし卿の言う通りなら、卿は虞舜や高宗を非とするのか」と。昭明は遂に顔を見合わせて笑い、「孝でない者は、宣尼(孔子)が既に責めている。使者もまた敢えて言わない。主人が弔服を裁断することを望み、使者には袴褶のみを持たせてほしい。これは既に戎服であり、弔問には用いることができない。幸いにも緇衣㡊(黒い喪服の上衣)を借りて、国命を申し上げたい。今、魏朝に迫られ、指示に背き、南に帰った日には、必ず本朝に罪を得るであろう」と。成淹は言った、「そちらに君子がいるなら、卿は使命を折衷し、南に帰った日には高い賞を受けるべきである。もし君子がいないなら、ただ国に光誉をもたらすことを命じられ、たとえ理不尽に罪を得ても、また何を嫌おうか。南史や董狐が、自ら直筆するであろう」と。やがて、高祖は李沖を遣わして成淹に昭明の言葉を問わせ、成淹は状況を答えた。高祖は李沖に詔して言われた、「我が用いた人は適任であった」と。そこで衣㡊を昭明らに与えるよう命じ、果物や食物を賜った。翌朝、昭明らを引き入れ、皆に文武の哀悼を尽くさせた。後に正侍郎となった。高祖は成淹が清貧であるとして、絹百匹を賜った。

原文太和中,文明太后崩,蕭頤遣其散騎常侍裴昭明、散騎侍郎謝竣等來弔,欲以朝服行事。主客執之,云:「弔有常式,何得以朱衣入山庭!」昭明等言:「本奉朝命,不容改易。」如此者數四,執志不移。高祖敕尚書李沖,令選一學識者更與論執,沖奏遣淹。昭明言:「未解魏朝不聽朝服行禮,義出何典?」淹言:「吉凶不同,禮有成數,玄冠不弔,童孺共聞。昔季孫將行,請遭喪之禮,千載之下,猶共稱之。卿遠自江南奉慰,不能式遵成事,方謂議出何典,行人得失,何其異哉!」昭明言:「二國交和既久,南北皆須準望。齊高帝崩,魏遣李彪通弔,於時初不素服,齊朝亦不以為疑,那得苦見要逼。」淹言:「彪通弔之日,朝命以弔服自隨,而彼不遵高宗追遠之慕,乃踰月即吉,彪行弔之時,齊之君臣皆已鳴玉盈庭,貂璫曜日,百僚內外,朱服煥然,彪行人不被主人之命,復何容獨以素服間衣冠之中?來責雖高,未敢聞命。我皇帝仁孝之性,侔於有虞,處諒闇以來,百官聽於冢宰,卿豈得以此方彼也。」昭明乃搖膝而言:「三皇不同禮,亦安知得失所歸。」淹言:「若如來談,卿以虞舜、高宗為非也?」昭明遂相顧而笑曰:「非孝者,宣尼有成責,行人亦弗敢言。希主人裁以弔服,使人唯齎袴褶,比既戎服,不可以弔,幸借緇衣㡊,以申國命。今為魏朝所逼,違負指授,還南之日,必得罪本朝。」淹言:「彼有君子也,卿將命折中,還南之日,應有高賞;若無君子也,但令有光國之譽,雖復非理見罪,亦復何嫌。南史、董孤,自當直筆。」既而,高祖遣李沖問淹昭明所言,淹以狀對。高祖詔沖曰:「我所用得人。」仍敕送衣㡊給昭明等,賜淹果食。明旦引昭明等入,皆令文武盡哀。後正侍郎。高祖以淹清貧,賜絹百匹。

太和十六年(492)、蕭賾(南斉の武帝)はその散騎常侍庾蓽・散騎侍郎何憲・主書邢宗慶を派遣して朝貢させた。時に朝廷は明堂の儀式があり、それに乗じて霊台に登って雲物を観察した。高祖は成淹に命じて庾蓽らを館の南に導き、行礼を望見させた。儀式が終わると、外館に戻り、酒食を賜った。宗慶は成淹に言った、「南北が連和して久しいのに、近ごろ信義を捨てて友好を絶ち、利益のために動くとは、大国の善隣としての義であろうか」と。成淹は言った、「王者たるものは、小さな節に拘らない。中原には菽(豆)があり、巧みに採る者が多く獲る。どうして尾生の信を固く守ることに執着しようか。かつて斉の先主(蕭道成)は宋朝に歴事し、恩恵を数世にわたって受けていた。それなのにすぐに欺いて奪うことがあろうか」と。宗慶・庾蓽および従者は皆顔を見合わせて色を失った。何憲は成淹がかつて南方から来たことを知っており、手で目を覆いながら言った、「卿はどうして于禁にならず、魯肅になったのか」と。成淹は言った、「私は危険を捨てて順応し、陳平・韓信を追跡しようとしたのであり、于禁のようではなかった」と。何憲もまた答えなかった。

原文十六年,蕭賾遣其散騎常侍庾蓽、散騎侍郎何憲、主書邢宗慶朝貢,值朝廷有事明堂,因登靈臺以觀雲物。高祖敕淹引蓽等館南矚望行禮,事畢,還外館,賜酒食。宗慶語淹言:「南北連和既久,而比棄信絕好,為利而動,豈是大國善隣之義?」淹言:「夫為王者,不拘小節。中原有菽,工採者獲多,豈眷眷守尾生之信。且齊先主歷事宋朝,荷恩積世,當應便爾欺奪?」宗慶、庾蓽及行者皆相顧失色。何憲知淹昔從南入,而以手掩目曰:「卿何為不作于禁,而作魯肅?」淹言:「我捨危効順,欲追蹤陳、韓,何于禁之有!」憲亦不對。

王肅が帰国した時、高祖は成淹がかつて江南に官職にあったことを以て、詔してその是非を観察させた。そこで王肅のもとを訪れて語り、帰って実情を奏上した。当時の議論は紛紜としており、なお未だ確かでないと言われた。高祖は言われた、「明日引き入れて、私が語れば、自ずと分かるであろう」と。そして鑾輿が行幸する時、王肅は多く扈従し、成淹に命じて案内させ、もし古跡があれば、皆に知らせた。朝歌に行き着くと、王肅はこれが何の城かと問うた。成淹は紂の都の朝歌城であると言った。王肅は言った、「やはり殷の頑民がいるはずだ」と。成淹は言った、「昔、武王が紂を滅ぼし、皆河洛に住んだが、中頃に劉石が華夏を乱し、やがて司馬氏に従って東渡した」と。王肅は成淹が青州に寓居していたことを知り、笑って成淹に言った、「青州の間にどうしてその残りの種族がいないことがあろうか」と。成淹は王肅が本来徐州に属していたことを以て、言った、「青州は本来その地ではなく、徐州の間に今日重ねて来たのであり、知るところではない」と。王肅は遂に馬上に伏して口を覆って笑い、侍御史の張思寧を顧みて言った、「さっきはただ戯言に因っただけで、言葉に溺れることになった」と。思寧は馬を馳せて奏上した。高祖は大いに喜び、彭城王の元勰に言われた、「成淹のこの段は、十分に勝ちを制するに足る」と。輿駕が洛陽に至ると、王肅は侍宴した。高祖は王肅に戯れて言われた、「近ごろ行幸の途次、朝歌で成淹が卿と大いにやり取りしたと聞いた。卿は試みにそれを重ねて述べてみよ」と。王肅は言った、「臣は先日、朝歌で成淹に困らされましたが、このことが陛下の耳に入るとは思いませんでした。臣はあの日失言し、一度ですら甚だしいのに、どうして再び言えましょうか」と。遂に皆大笑した。高祖はまた王肅に言われた、「成淹は卿を制することができる。その才もまた困窮しない」と。王肅は言った、「成淹の才と弁舌はまことに得難いものであり、聖朝は叙進すべきです」と。高祖は言われた、「もしこれによって成淹を進めるなら、卿を辱めることがかえって甚だしくなる恐れがある」と。王肅は言った、「臣が己を屈して人を達せしめるのは、正に臣の美を顕わすことができます」と。高祖は言われた、「卿は既に人に屈せられたのに、己を屈した名を求めようとするのは、また卿に対してあまりにも優遇しすぎる」と。王肅は言った、「成淹が進められれば、臣は己を屈して人を伸ばすことができ、これはいわゆる陛下が恵みを与えて費用を費やさないことです」と。遂に酣笑して止んだ。そこで成淹に龍廐の上馬一匹、ならびに鞍勒や宛具、朝服一襲を賜い、謁者僕射に転じた。

原文王肅歸國也,高祖以淹曾官江表,詔觀是非。乃造肅與語,還奏言實。時議紛紜,猶謂未審。高祖曰:「明日引入,我與語,自當知之。」及鑾輿行幸,肅多扈從,敕淹將引,若有古跡,皆使知之。行到朝歌,肅問此是何城。淹言紂都朝歌城。肅言:「故應有殷之頑民也。」淹言:「昔武王滅紂,悉居河洛,中因劉石亂華,仍隨司馬東渡。」肅知淹寓於青州,乃笑而謂淹曰:「青州間何必無其餘種。」淹以肅本隸徐州,言:「青州本非其地,徐州間今日重來,非所知也。」肅遂伏馬上掩口而笑,顧謂侍御史張思寧曰:「向者聊因戲言,遂致辭溺。」思寧馳馬奏聞,高祖大悅,謂彭城王勰曰:「淹此段足為制勝。」輿駕至洛,肅因侍宴。高祖戲肅曰:「近者行次朝歌,聞成淹共卿殊有往覆,卿試重敍之。」肅言:「臣前朝歌為淹所困,不謂此事仰聞聽覽。臣爾日失言,一之已甚,豈宜再說。」遂皆大笑。高祖又謂肅曰:「淹能制卿,其才亦不困。」肅言:「淹才詞便為難有,聖朝宜應敍進。」高祖言:「若因此進淹,恐辱卿轉甚。」肅言:「臣屈己達人,正可顯臣之美。」高祖曰:「卿既為人所屈,欲求屈己之名,復於卿太優。」肅言:「淹既蒙進,臣得屈己伸人,此所謂陛下惠而不費。」遂酣笑而止。乃賜淹龍廐上馬一匹,并鞍勒宛具、朝服一襲,轉謁者僕射。

時に遷都があり、高祖は成淹の家に行く資産がないことを以て、給事の力を与え、洛陽まで送らせ、併せて休暇を与えて家族を連れて行かせた。霊丘に至った時、蕭鸞(南斉の明帝)が使者を派遣したことに属し、駅馬を以て成淹を召すよう命じられた。車駕が淮を渡ると、成淹は路傍で拝謁を請い、高祖は車駕を停めて彼を進ませた。成淹は言った、「蕭鸞は悖虐であり、幽明ともに見捨てられています。陛下は人神に応じ、江辺に剣を按じられますが、敵を侮ってはなりません。蜂や蠆にも毒がある。まして国においてはどうでしょうか。深く聖明が万全の策を保たれることを願います」と。詔して言われた、「これは前車の轍であり、慎まざるを得ようか」と。成淹は言った、「洛陽を発って以来、諫言する者は皆、官を解かれ職を奪われたと伏して聞きます。これは聖明が下を容れる義ではないかと恐れます」と。高祖は言われた、「これは我が命令である。卿は斧鉞に干渉してはならない」と。成淹は言った、「昔、文王は芻蕘に諮り、晋の文公は輿人の誦を聴きました。臣は卑賤ではありますが、敢えて匹夫と同じくいたします」と。高祖は寛大にこれを容れ、詔して絹百匹を賜った。

原文時遷都,高祖以淹家無行資,敕給事力,送至洛陽,并賜假日與家累相隨。行次靈丘,屬蕭鸞遣使,敕驛馬徵淹。車駕濟淮,淹於路左請見,高祖竚駕而進之。淹曰:「蕭鸞悖虐,幽明同棄,陛下俯應人神,按劍江涘,然敵不可小,蜂蠆有毒,而況國乎?深願聖明保萬全之策。」詔曰:「此前車之轍,得不慎乎!」淹曰:「伏聞發洛已來,諸有諫者,解官奪職,恐非聖明納下之義。」高祖曰:「此是我命耳,卿不得為干斧鉞。」淹曰:「昔文王詢於芻蕘,晉文聽輿人之誦,臣雖卑賤,敢同匹夫。」高祖優而容之,詔賜絹百匹。

高祖(孝文帝)が徐州に行幸された時、成淹に閭龍駒らと共に舟船の管理を命じ、泗水から黄河に入り、流れを遡って洛陽に還る予定であった。軍が碻磝に駐屯した時、成淹は黄河の流れが深く急なのを慮り、転覆の危険を憂いて上疏して諫めた。高祖は成淹に詔して言った、「朕は恒州・代地には運漕の路が無いため、京邑の民が貧しい。今、伊水・洛水の地に遷都し、四方への運漕を通じようとしているが、黄河は急流で、人々は皆渡るのを難しとしている。朕はこのためにこの行幸を行い、必ずや流れに乗らねばならぬ。それは百姓の心を開くためである。卿の至誠は知っているが、今は受け入れることができない。」詔して驊騮馬一匹と衣冠一襲を賜う。羽林監に任じ、主客令を領し、威遠将軍を加えられた。

原文高祖幸徐州,敕淹與閭龍駒等主舟檝,將汎泗入河,泝流還洛。軍次碻磝,淹以黃河浚急,慮有傾危,乃上疏陳諫。高祖敕淹曰:「朕以恒代無運漕之路,故京邑民貧。今移都伊洛,欲通運四方,而黃河急浚,人皆難涉。我因有此行,必須乘流,所以開百姓之心。知卿至誠,而今者不得相納。」敕賜驊騮馬一匹,衣冠一襲。除羽林監,領主客令,加威遠將軍。

当時、宮殿の造営が始まったばかりで、経始(事業開始)は広範を務め、兵士や民衆が材木を運ぶ日々の数は万を数えた。伊水・洛水の流れは氷が解けかけており、渡渉が困難であったので、成淹は上啓して都水に浮橋を造らせるよう請うた。高祖はこれを賞して受け入れ、衆人の前で成淹を栄誉あるものにしようとし、朔旦(一日)の朝受けの際、百官が在位する中で、帛百匹を賜い、左右二都水の事務を管掌させた。世宗(宣武帝)の初め、司徒・彭城王元勰が言った、「先帝(高祖)には元々成されたお考えがあり、成淹には帰国(北魏への帰順)の誠意があり、また歴官して称賛されるので、優れた昇進を加えるべきである。高祖は既に崩御されたが、詔はなお耳に残っている。」そこで選曹に伝え、成淹に右軍将軍を加え、左右都水を領せしめ、引き続き主客令とした。さらに驍騎将軍を授け、輔国将軍を加え、都水・主客の職は元の通りとした。

原文于時宮殿初構,經始務廣,兵民運材,日有萬計,伊洛流澌,苦於厲涉,淹遂啟求,敕都水造浮航。高祖賞納之,意欲榮淹於眾,朔旦受朝,百官在位,乃賜帛百匹,知左右二都水事。世宗初,司徒、彭城王勰曰:「先帝本有成旨,淹有歸國之誠,兼歷官著稱,宜加優陟。高祖雖崩,詔猶在耳。」乃相聞選曹,加淹右軍,領左右都水,仍主客令。復授驍騎將軍,加輔國將軍,都水、主客如故。

成淹は小心で法を畏れ、典客(主客令)を十年間務め、四方からの貢ぎ物や聘問の品には全て私的な贈り物があったが、毫釐たりとも受け取らず、ついに衣食も満たされなくなった。そこで外任の禄を乞う上啓をした。景明三年、出向して平陽太守に任じられ、将軍の号は元の通りであった。朝廷に還り、病没した。本官の将軍と光州刺史を追贈され、諡を定といった。

原文淹小心畏法,典客十年,四方貢聘,皆有私遺,毫釐不納,乃至衣食不充。遂啟乞外祿。景明三年,出除平陽太守,將軍如故。還朝,病卒。贈本將軍、光州刺史,諡曰定。

子の成霄は、字を景鸞といった。学問にも通じ、詩文を詠むことを好んだが、詞采に秩序がなく、多くは鄙俗であった。河東の姜質らと交友して親しくし、詩賦をしばしば作った。知音の士は共にこれを嗤笑したが、里巷の浅識な者たちは称え諷誦して群をなし、ついに世に大いに流行した。治書侍御史を歴任して没した。

原文子霄,字景鸞。亦學涉,好為文詠,但詞彩不倫,率多鄙俗。與河東姜質等朋遊相好,詩賦間起。知音之士,共所嗤笑;閭巷淺識,頌諷成羣,乃至大行於世。歷治書侍御史而卒。

范紹

原文范紹

范紹は、字を始孫といい、敦煌郡龍勒県の人である。幼少より聡明であった。十二歳の時、父が学問に就くよう命じ、崔光に師事した。父の喪で学業を廃したが、母がまた戒めて言った、「汝の父が亡くなった日、汝を遠く崔生(崔光)の下に就かせ、成立することを望んだ。今は既に期限を過ぎている。成命に従うべきである。」范紹は還って学問に赴いた。

原文范紹,字始孫,敦煌龍勒人。少而聰敏。年十二,父命就學,師事崔光。以父憂廢業,母又誡之曰:「汝父卒日,令汝遠就崔生,希有成立。今已過期,宜遵成命。」紹還赴學。

太和の初め、太学生に充てられ、算生に転じ、経史に広く涉猟した。十六年、高祖に選ばれて門下通事令史となり、録事に遷り、奏上文書の案を掌ることを命じられ、高祖はこれを良しとした。また侍中李沖と黄門侍郎崔光に認められ、宮中出入りの文書奏上は多く彼に委ねられた。高祖はかつて近臣に言った、「崔光が従容としているのは、范紹の力である。」次第に強弩将軍・積弩将軍・公車令に遷り、給事中を加えられ、羽林監に遷った。

原文太和初,充太學生,轉算生,頗涉經史。十六年,高祖選為門下通事令史,遷錄事,令掌奏文案,高祖善之。又為侍中李沖、黃門崔光所知,出內文奏,多以委之。高祖曾謂近臣曰:「崔光從容,范紹之力。」稍遷強弩將軍、積弩將軍、公車令,加給事中,遷羽林監。

揚州刺史・任城王元澄が鍾離征討を請うた時、詔により范紹は寿春に赴き、共に進退を計った。元澄は言った、「兵十万が必要で、往復百日かかる。渦陽・鍾離・広陵・廬江へ、数道より同時に進軍したいが、兵糧と軍資は朝廷が速やかに派遣する必要がある。」范紹は言った、「十万の軍勢を計れば、往復百日で、百日分の兵糧が必要である。今、秋も末に向かい、これから徴兵しようとしている。兵士と兵器は集められるが、兵糧は届き難いのではないか。兵があって糧がなければ、どうして敵に勝てようか。願わくは王よ善く考え、社稷のため深く慮られたい。」元澄は長く沈思して言った、「実に卿の言う通りである。」使いとして還り、詳しく状況を上奏した。後に元澄はついに鍾離を征したが、功無くして返った。

原文揚州刺史、任城王澄請征鍾離,敕紹詣壽春,共量進止。澄曰:「須兵十萬,往還百日,渦陽、鍾離、廣陵、廬江,欲數道俱進,但糧仗軍資,須朝廷速遣。」紹曰:「計十萬之眾,往還百日,須糧百日。頃秋以向末,方欲徵召,兵仗可集,恐糧難至。有兵無糧,何以克敵?願王善思,為社稷深慮。」澄沉思良久曰:「實如卿言。」使還,具以狀聞。後澄遂征鍾離,無功而返。

まもなく長兼奉車都尉に任じられ、右都水使者に転じ、録事は元の通りであった。母の喪で職を去った。義陽が初めて回復した時、范紹を起用して寧遠将軍・郢州龍驤府長史に任じ、義陽太守を帯びさせた。その年の冬、使いとして都に還り、朝廷に南征の計画があるのに当たり、河北数州の田兵二万五千人を発し、淮水沿いの戍兵五万余人と合わせ、広く屯田を開いた。八座が上奏して范紹を西道六州営田大使とし、歩兵校尉を加えた。范紹は勧農に勤め、連年大いに収穫を得た。また詔により范紹は鍾離に赴き、都督・中山王元英と共に鍾離攻撃の形勢を論じた。元英は固く必ず攻克できると言った。范紹はその城の防備を見て、陥落させられない恐れがあると考え、撤兵を勧めたが、元英は従わなかった。范紹は還り、詳しく状況を上奏した。間もなく元英は敗れた。詔により徐豫二州の境は民が稀で土地が広いため、范紹に場所を測量させ、新たに一州を立てることとした。范紹は譙城が地形の要衝であるとして、ここに州を置くのが便利であるとし、ついに南兗州を立てた。

原文尋除長兼奉車都尉,轉右都水使者,錄事如故。丁母憂去職。值義陽初復,起紹除寧遠將軍、郢州龍驤府長史,帶義陽太守。其年冬,使還都,值朝廷有南討之計,發河北數州田兵二萬五千人,通緣淮戍兵合五萬餘人,廣開屯田。八座奏紹為西道六州營田大使,加步兵校尉。紹勤於勸課,頻歲大獲。又詔紹詣鍾離,與都督、中山王英論攻鍾離形勢,英固言必克。紹觀其城隍防守,恐不可陷,勸令班師,英不從。紹還,具以狀聞。俄而英敗。詔以徐豫二境,民稀土曠,令紹量度處所,更立一州。紹以譙城形要之所,置州為便,遂立南兗。

入朝して主衣都統となり、中堅将軍を加えられ、前軍将軍に転じた。営田の功労を追賞され、游撃将軍に任じられた。龍驤将軍・太府少卿に遷り、都統は元の通りであった。長兼太府卿に転じた。范紹は功績を量り費用を節約し、煩雑を選別して簡素に就き、賜与するものは千匹以上になると、全て別に覆奏してから支出した。霊太后はその心遣いを嘉し、詔して范紹に毎月参内することを許し、国に益し民に利する事があれば、全て面陳するよう命じた。出向して安北将軍・并州刺史に任じられた。清く慎み法を守り、民の和をよく得た。山胡が来寇した時、これを撃つことができず、これによって声望を損なった。再び入朝して太府卿となった。荘帝の初め、河陰で害に遇った。

原文入為主衣都統,加中堅將軍,轉前軍將軍。追賞營田之勤,拜游擊將軍。遷龍驤將軍、太府少卿,都統如故。轉長兼太府卿。紹量功節用,甄煩就簡,凡有賜給,千匹以上,皆別覆奏,然後出之。靈太后嘉其用心,敕紹每月入見,諸有益國利民之事,皆令面陳。出除安北將軍、并州刺史。清慎守法,頗得民和。值山胡來寇,不能擊,以此損其聲望。復入為太府卿。莊帝初,遇害河陰。

劉桃符

原文劉桃符

劉桃符は、中山国盧奴県の人である。生まれて父を知らず、九歳で母を喪った。性質は恭謹で、学問を好んだ。孝廉に挙げられ、射策で甲科に及第し、雑職を歴任した。景明年中、羽林監となり、主書を領した。蕭宝夤が降伏した時、劉桃符は詔を受けてこれを迎接した。奉車都尉・長水校尉・游撃将軍を歴任した。正始年中、征虜将軍・中書舎人に任じられ、勤勉で明察であることで知られた。長く職が遷らず、世宗は彼に言った、「揚子雲(揚雄)が黄門侍郎となり、頓に三世を歴任した。卿がこの任に就いてまだ十年、辞すには足りない。」東豫州刺史田益宗が辺境にいて貪欲で穢らわしいため、世宗はしばしば劉桃符を使者として慰諭に遣わした。劉桃符は還り、田益宗は既に老耄で、諸子が道理に外れた処置をしていると詳しく述べた。世宗は後に彼を代えようとしたが、その反叛を恐れ、劉桃符を征虜将軍・豫州刺史に任じ、後軍将軍李世哲と共に軍勢を率いて田益宗を襲撃させた。詳細は益宗伝にある。劉桃符は蛮左(南方の民)をよく慰撫し、民吏に懐かれた。久しくして召還された。病没し、五十一歳であった。後将軍・洛州刺史を追贈された。

原文劉桃符,中山盧奴人。生不識父,九歲喪母。性恭謹,好學。舉孝廉,射策甲科,歷碎職。景明中,羽林監,領主書。蕭寶夤之降也,桃符受詔迎接。歷奉車都尉、長水校尉、游擊將軍。正始中,除征虜將軍、中書舍人,以勤明見知。久不遷職,世宗謂之曰:「揚子雲為黃門,頓歷三世。卿居此任始十年,不足辭也。」東豫州刺史田益宗居邊貪穢,世宗頻詔桃符為使慰喻之。桃符還,具稱益宗既老耄,而諸子非理處物。世宗後欲代之,恐其背叛,拜桃符征虜將軍、豫州刺史,與後軍將軍李世哲領眾襲益宗。語在益宗傳。桃符善恤蠻左,為民吏所懷。久之,徵還。病卒,年五十一。贈後將軍、洛州刺史。

子の劉景均は、殿中侍御史となった。

原文子景均,殿中侍御史。

劉道斌

原文劉道斌

劉道斌は、武邑郡灌津県の人で、自ら中山靖王劉勝の後裔であると言った。幼くして学問を好み、器量と幹があった。成長すると、腰帯は十圍、鬚髯は甚だ美しかった。孝廉に挙げられて入京し、校書郎に任じられ、主書に転じ、高祖に大いに認められた。南陽征討に従軍し、還って積射将軍を加えられ、給事中となった。高祖は黄門侍郎邢巒に言った、「道斌は段(おそらく段栄か)が推挙した者で、早くも同輩と異なっている。」世宗が即位すると、謁者僕射に遷った。歩兵校尉・広武将軍に転じ、中書舎人を領した。出向して武邑太守となった。当時、冀州は元愉の逆乱を経たばかりで、さらに連年の凶作が続き、劉道斌は頻繁に上表してその租賦を免除するよう請い、百姓はこれに頼った。郡を罷めて還り、右将軍・太中大夫に任じられた。また本官の将軍のまま出向して恒農太守となり、岐州刺史に遷り、任地ごとに清治の称があった。正光四年、州で没した。平東将軍・滄州刺史を追贈され、後に済州刺史に改めて贈られ、諡を康といった。劉道斌は恒農において、学館を修立し、孔子廟堂を建て、その像を図画した。郡を去った後、民はなお彼を追慕し、ついに劉道斌の像を孔子像の西に画いて礼拝した。

原文劉道斌,武邑灌津人,自云中山靖王勝之後也。幼而好學,有器幹。及長,腰帶十圍,鬚髯甚美。舉孝廉入京,拜校書郎,轉主書,頗為高祖所知。從征南陽,還,加積射將軍,給事中。高祖謂黃門侍郎邢巒曰:「道斌是段之舉,便異儕流矣。」世宗即位,遷謁者僕射。轉步兵校尉、廣武將軍,領中書舍人。出為武邑太守。時冀州新經元愉逆亂之後,加以連年災儉,道斌頻為表請,蠲其租賦,百姓賴之。罷郡還,除右將軍、太中大夫。又以本將軍出為恒農太守,遷岐州刺史,所在有清治之稱。正光四年,卒於州。贈平東將軍、滄州刺史,改贈濟州,諡曰康。道斌在恒農,修立學館,建孔子廟堂,圖畫形像。去郡之後,民故追思之,乃復畫道斌形於孔子像之西而拜謁焉。

子の士長は、武定年間に碭郡太守となった。卒去した。

原文子士長,武定中,碭郡太守。卒。

董紹

原文董紹

董紹は、字を興遠といい、新蔡の鮦陽の人である。若くして学問を好み、文義に通じていた。四門博士として出仕し、殿中侍御史・国子助教・積射将軍・兼中書舎人を歴任した。問答に弁が立ち、世宗に賞賛された。

原文董紹,字興遠,新蔡鮦陽人也。少好學,頗有文義。起家四門博士,歷殿中侍御史、國子助教、積射將軍、兼中書舍人。辯於對問,為世宗所賞。

豫州の城人白早生が城南で叛いたとき、詔により董紹が慰労に赴いた。上蔡に至り、賊に襲われて捕らえられ、江東に送られて鎖で拘禁された。蕭衍の領軍将軍呂僧珍が暫く董紹と話し、器重するようになった。蕭衍はこれを聞き、使者を遣わして董紹を労い、「忠臣孝子は、いなくてはならぬ。今、卿を還国させることにしよう」と言った。董紹は答えて、「老母が洛陽におり、心乱れております。恩赦を賜り、まさに更生の思いです」と言った。蕭衍はまた主書の霍霊超を遣わし、董紹に「今、卿を放して還らせるのは、両家の友好を通じさせ、互いに民を休ませるためである。善いことではなかろうか」と言わせた。董紹は答えて、「友好を通じ民を休ませることは、両国の事柄です。命を受けましたので、速やかに本朝に奏上いたします」と言った。蕭衍は董紹に衣服を賜り、引見して、その舎人周捨に慰労させ、かつ「戦争多年、民物塗炭、故に先に言うことを恥とせず、魏朝と友好を通じようとする。近頃も書状を送ったが、返答が全くない。卿はよくこの意を伝えるように。故に伝詔の周霊秀を遣わし、卿を貴国まで送らせる。返答を待つ」と言わせた。また董紹に「卿はどうして死を免れたか分かるか?今、卿を得たのは天意である。千人の集団は、散らなければ乱れる。故に君を立てて天下を治めさせ、天下をもって一人を養うことはしない。民の上に立つ者は、どうしてこれを思わぬのか?もし友好を通じたいなら、今、宿豫を返すから、そちらは漢中を返すべきだ」と言わせた。先に、有司に詔して捕らえた蕭衍の将軍斉苟児ら十人で董紹と交換しようとしたことがあり、事は司馬悦伝にある。董紹が帰還すると、世宗はこれを哀れみ、永平年間に給事中を授け、引き続き舎人を兼ねさせた。董紹は和議を説いたが、朝廷は許さなかった。久しくして軽車将軍を加えられ、正舎人となり、また歩兵校尉に任じられた。

原文豫州城人白早生以城南叛,詔紹慰勞。至上蔡,為賊所襲,囚送江東,仍被鎖禁。蕭衍領軍將軍呂僧珍暫與紹言,便相器重。衍聞之,遣使勞紹云:「忠臣孝子,不可無人。今當聽卿還國。」紹對曰:「老母在洛,無復方寸,既奉恩貸,實若更生。」衍又遣主書霍靈超謂紹曰:「今放卿還,令卿通兩家之好,彼此息民,豈不善也。」對曰:「通好息民,乃兩國之事,既蒙命及,輒當聞奏本朝。」衍賜紹衣物,引入見之,令其舍人周捨慰勞,并稱:「戰爭多年,民物塗炭,是以不耻先言,與魏朝通好。比亦有書,都無報旨。卿宜備申此意,故遣傳詔周靈秀送卿至國,遲有嘉問。」又令謂紹曰:「卿知所以得不死不?今者獲卿,乃天意也。夫千人之聚,不散則亂,故須立君以治天下,不以天下養一人。凡在民上,胡不思此?若欲通好,今以宿豫還彼,彼當以漢中見歸。」先是,詔有司以所獲衍將齊苟兒等十人欲以換紹,事在司馬悅傳。及紹還,世宗愍之,永平中,除給事中,仍兼舍人。紹雖陳說和計,朝廷不許。久之,加輕車將軍,正舍人,又除步兵校尉。

粛宗の初め、董紹が御天馬頌を上奏すると、帝はその文辞を賞し、帛八十匹を賜った。また龍驤将軍・中散大夫に任じられ、舎人はもとのままとした。冠軍将軍を加えられ、出向して右将軍・洛州刺史となった。董紹は小恵を行なうことを好み、民情をよく得ていた。蕭衍の将軍曹義宗・王玄真らが荊州を寇し、順陽の馬圈を占拠したので、裴衍・王羆がこれを討った。順陽を回復した後、進んで馬圈を包囲した。城は堅固で、裴衍・王羆の兵糧は少なく、董紹は上書して必ず敗れると述べた。間もなく、裴衍らは果たして失利し、順陽は再び曹義宗に占拠された。董紹は気病があり、州の解任を願い出たが、詔は許さなかった。

原文肅宗初,紹上御天馬頌,帝賞其辭,賜帛八十匹。又除龍驤將軍、中散大夫,舍人如故。加冠軍將軍,出除右將軍、洛州刺史。紹好行小惠,頗得民情。蕭衍將軍曹義宗、王玄真等寇荊州,據順陽馬圈,裴衍、王羆討之。既復順陽,進圍馬圈。城堅,裴王糧少,紹上書言其必敗。未幾,裴衍等果失利,順陽復為義宗所據。紹有氣病,啟求解州,詔不許。

蕭宝夤が長安で反乱を起こしたとき、董紹は上書してこれを討つことを求め、「臣は当に瞎巴三千を出し、生きたまま蜀の子を食らわん」と言った。粛宗は黄門の徐紇に「この巴は本当に目が見えぬのか?」と問うた。徐紇は「これは董紹の壮語で、巴人は剛勇で、敵を見て畏れることがないと言っているのであり、実際に目が見えないわけではありません」と答えた。帝は大笑いし、董紹に速やかに出発するよう命じた。また平西将軍を加えられた。蕭宝夤を防いだ功績により、新蔡県開国男に封じられ、食邑二百戸を与えられた。

原文蕭寶夤反於長安也,紹上書求擊之,云:「臣當出瞎巴三千,生噉蜀子。」肅宗謂黃門徐紇曰:「此巴真瞎也?」紇曰:「此是紹之壯辭,云巴人勁勇,見敵無所畏懼,非實瞎也。」帝大笑,敕紹速行。又加平西將軍。以拒寶夤之功,賞新蔡縣開國男,食邑二百戶。

永安年間、交代で帰還した。ここにおいて安西将軍・梁州刺史・仮撫軍将軍・兼尚書に任じられ、山南行台となり、清廉な称えがあった。前廃帝は元孚を代わりに任じた。董紹は長安に至り、当時尒朱天光が関右大行台であったので、董紹を大行台従事・兼吏部尚書に推挙し、また征西将軍・金紫光禄大夫に任じた。尒朱天光が洛陽に向かうと、董紹を後方に留めた。尒朱天光が敗れると、賀抜岳はまた董紹をその開府諮議参軍に請うた。永熙年間、車騎将軍を加えられた。賀抜岳が後に董紹を連れて高平で牧馬したとき、董紹は悲しんで詩を賦した。「走馬山之阿、馬渇飲黄河、寧謂胡関下、復聞楚客歌」。後に宇文黒獺に殺された。

原文永安中,代還。於是除安西將軍、梁州刺史、假撫軍將軍、兼尚書,為山南行臺,頗有清稱。前廢帝以元孚代之。紹至長安,時尒朱天光為關右大行臺,啟紹為大行臺從事、兼吏部尚書,又除征西將軍、金紫光祿大夫。天光赴洛,留紹於後。天光敗,賀拔岳復請紹為其開府諮議參軍。永熙中,加車騎將軍。岳後攜紹於高平牧馬,紹悲而賦詩曰:「走馬山之阿,馬渴飲黃河,寧謂胡關下,復聞楚客歌。」後為宇文黑獺所殺。

子の敏は、永安年間に太尉西閤祭酒となった。

原文子敏,永安中,為太尉西閤祭酒。

馮元興

原文馮元興

馮元興は、字を子盛といい、東魏郡肥郷の人である。その伯父の僧集は、東清河・西平原二郡太守に至り、済州刺史を追贈された。元興は若くして節操があり、僧集に従って平原におり、中山の張吾貴・常山の房虬に就いて学び、礼伝に通じ、文才があった。二十三歳で郷里に帰り教授し、常に数百人の門弟がいた。孝廉に挙げられ、対策で高第となり、また秀才に挙げられた。当時、御史中尉の王顕に権勢があったので、元興は王顕に奏記し、召し出されて検校御史となった。まもなく殿中に転じ、奉朝請に任じられ、三度高麗に使した。

原文馮元興,字子盛,東魏郡肥鄉人也。其世父僧集,官至東清河、西平原二郡太守,贈濟州刺史。元興少有操尚,隨僧集在平原,因就中山張吾貴、常山房虬學,通禮傳,頗有文才。年二十三,還鄉教授,常數百人。領僚孝廉,對策高第,又舉秀才。時御史中尉王顯有權寵,元興奏記於顯,召為檢校御史。尋轉殿中,除奉朝請,三使高麗。

江陽王元継が司徒となると、元興は記室参軍となり、ここにおいて元叉に知られるようになった。元叉が朝政を執ると、元興を尚書殿中郎に引き立て、中書舎人を領させ、引き続き御史とした。元興はその腹心として時事を預かり聞き、身を低くし己を克し、人に恨まれることがなかった。家はもとより貧しく、食客が常に数十人いたが、同じく飢え飽かせ、吝嗇な色はなく、当時の人は歎賞した。太保崔光が臨終の際、元興を侍読に推薦した。尚書の賈思伯が侍講となり、粛宗に式乾殿で杜氏春秋を講じたが、元興は常に摘句を担当し、儒者はこれを栄誉とした。元叉が領軍を解こうとしたとき、元興に意見を求めた。元興は「公の御意がどうなさるか分かりません」と言った。元叉は「卿は私が反逆しようとすると思っているのか?」と言った。元興は敢えて言わず、そこで勧めた。元叉が賜死されると、元興もまた免職された。そこで浮萍の詩を作って自らを喩えた。「碧池に草生え、水上に根無く緑なり。脆弱にして風波を悪み、危微にして驚浪に苦しむ」。

原文江陽王繼為司徒,元興為記室參軍,遂為元叉所知。叉秉朝政,引元興為尚書殿中郎,領中書舍人,仍御史。元興居其腹心,預聞時事,卑身克己,人無恨焉。家素貧約,食客恒數十人,同其飢飽,曾無吝色,時人歎尚之。及太保崔光臨薨,薦元興為侍讀。尚書賈思伯為侍講,授肅宗杜氏春秋於式乾殿,元興常為摘句,儒者榮之。及叉欲解領軍,以訪元興。元興曰:「未知公意如何耳?」叉曰:「卿謂吾欲反也?」元興不敢言,因勸之。叉既賜死,元興亦被廢。乃為浮萍詩以自喻曰:「有草生碧池,無根綠水上。脆弱惡風波,危微苦驚浪。」

丞相・高陽王元雍が召し出して属官を兼ねさせた。間もなく、任を去って郷里に帰った。僕射の元羅が東道大使となると、元興を本郡の太守とした。まもなく召し出されて朝廷に赴いた。母の喪で帰宅し、頻りに郷里の乱に遭い、数度監軍となったが、元興は賞罰を多く行い、郷党はこれをかなり恨んだ。上党王元天穆が邢杲を討つとき、引き立てて大将軍従事中郎とした。元顥が洛陽に入ると、また平北将軍・光禄大夫に任じられ、中書舎人を領した。荘帝が宮中に還ると、元天穆は太宰諮議参軍とし、征虜将軍を加えた。普泰初年、安東将軍・光禄大夫となり、中書舎人を領した。太昌初年、家で卒去し、征東将軍・齊州刺史を追贈された。文集百余篇。元興は家柄が低かったが、元叉の勢いに因り、その交際を頼り、相用いて州主簿となった。論者はこれを人倫に非ずとした。

原文丞相、高陽王雍召為兼屬。未幾,去任還鄉。僕射元羅為東道大使,以元興為本郡太守。尋徵赴闕。以母憂還家,頻值鄉亂,數為監軍,元興多所賞罰,鄉黨頗以此憾焉。上黨王天穆之討邢杲,引為大將軍從事中郎。元顥入洛,復為平北將軍、光祿大夫,領中書舍人。莊帝還宮,天穆以為太宰諮議參軍,加征虜將軍。普泰初,安東將軍、光祿大夫,領中書舍人。太昌初,卒於家,贈征東將軍、齊州刺史。文集百餘篇。元興世寒,因元叉之勢,託其交道,相用為州主簿,論者以為非倫。

高祖の時、譙郡の曹道という者がおり、経史に広く通じ、実務の才幹があった。孝廉に挙げられた。太和年間、東宮主書・門下録事となった。景明年間、尚書都令史となり、主書を領した。後に中書舎人に転じた。使者として出るごとに、常に旨に適った。出向して東郡太守となった。卒去し、儀同三司を追贈された。

原文高祖時,有譙郡曹道,頗涉經史,有幹用。舉孝廉。太和中,東宮主書、門下錄事。景明中,尚書都令史,領主書。後轉中書舍人。行使,每稱旨。出除東郡太守。卒,贈儀同三司。

また北海の曹昇という者もおり、学識と清い節操で知られた。治書侍御史を歴任した。永安年間、黄門郎・散騎常侍となった。出帝の世、国子祭酒となった。家産を営まず、ついに鄴で餓死し、当時の人はこれを傷み歎いた。

原文又有北海曹昇,亦以學識清立見知。歷治書侍御史。永安中,黃門郎、散騎常侍。出帝世,國子祭酒。不營家產,至以餒卒於鄴,時人傷歎之。

また齊郡の曹昂という者もおり、学識があり、秀才に挙げられた。永安年間、太学博士・兼尚書郎となった。常に徒歩で官省に上り、清貧を示した。突然盗賊に遭い、多くの綾縑を失い、当時の人はその虚偽を卑しんだ。

原文又齊郡曹昂,有學識,舉秀才。永安中,太學博士、兼尚書郎。而常徒步上省,以示清貧。忽遇盜,大失綾縑,時人鄙其矯詐。

鹿悆

原文鹿悆

鹿悆、字は永吉、済陰の人である。父の生は良吏伝にある。悆は兵書・陰陽・釈氏の学を好んだ。太師・彭城王勰が召して館客とした。かつて徐州に赴いた時、馬が病み、船に便乗して大梁に至った。夜に眠っていると、従者が岸に上がり、禾四束を盗んでその馬に飼った。船が数里進んだ時、悆は気づき、禾を得た場所を尋ね、従者が告げた。悆は大いに憤り、直ちに船を停めて岸に上がり、禾を取った場所まで行き、縑三丈を禾束の下に置いて戻った。

原文鹿悆,字永吉,濟陰人。父生,在良吏傳。悆好兵書、陰陽、釋氏之學。太師、彭城王勰召為館客。嘗詣徐州,馬疫,附船而至大梁。夜睡,從者上岸竊禾四束以飼其馬。船行數里,悆覺,問得禾之處,從者以告。悆大忿,即停船上岸,至取禾處,以縑三丈置禾束下而返。

初め真定公元子直の国中尉となり、常に忠廉の節を以て勧めた。かつて五言詩を賦して曰く、「嶧山の万丈の樹、雕鏤して琵琶と作る。此の材の高遠に由り、弦響中華に藹たり」と。また曰く、「琴を援きて何の調を起す?幽蘭と白雪と。絲管韻未だ成らず、莫からしむ弦響絶ゆるを」と。子直は若くして令聞があり、悆はその善終を欲し、故に以て諷したのである。母憂のため職を去る。服闋し、仍って任に終わる。子直が梁州に出鎮すると、悆はこれに従って州に赴く。州に兵糧の和糴があり、和糴に携わる者は潤屋せざる者なく、悆のみは取らなかった。子直が強いても、終に命に従わなかった。

原文初為真定公元子直國中尉,恒勸以忠廉之節。嘗賦五言詩曰:「嶧山萬丈樹,雕鏤作琵琶。由此材高遠,弦響藹中華。」又曰:「援琴起何調?幽蘭與白雪。絲管韻未成,莫使弦響絕。」子直少有令問,悆欲其善終,故以諷焉。母憂去職。服闋,仍卒任。子直出鎮梁州,悆隨之州。州有兵糧和糴,和糴者靡不潤屋,悆獨不取,子直強之,終不從命。

荘帝が御史中尉となると、悆は殿中侍御史を兼ね、臨淮王彧の軍を監した。時に蕭衍がその豫章王綜を遣わして徐州を占拠させた。綜は密かに書信を通じて彧に、帰款せんと欲する旨を伝えた。綜は当時蕭衍の愛子であり、衆議は皆これを然らずと謂った。彧は人を募って入らせ報せしめ、その虚実を験そうとした。悆は遂に行くことを請い、曰く、「若し綜に誠心あらば、これと盟約せん。其の詐りあるに如かば、豈に一人の命を惜しまんや」と。時に徐州は陥落したばかりで、辺境は騒擾し、綜の部将成景儁・胡龍牙は共に強兵を総べ、内外厳固であった。悆は遂に単馬で間道より出で、直ちに彭城に向かった。未だ至らざる間に、綜の軍主程兵潤に止められ、来たる由縁を問われた。悆は答えて曰く、「兵交えれば使在り、昔より通言す。我は臨淮王に使わされ、交易有るを須つ」と。兵潤は遂に先ず人を遣わして龍牙らに告げさせた。綜は既に誠心があり、悆が捕らえられたと聞き、景儁らに語って曰く、「我は常に元略が城を叛かんと図ることを疑い、その虚実を験さんと欲し、且つ左右を元略の使者として魏軍中に入らせ、彼の一人を呼ばしめた。其の使は果たして至った。人に命じて詐りに略の身となり、一つの深室に在り、病患の状を偽り、使者を戸外に呼び、人に伝語せしむべし」と。時に略は始めて衍に追われ還されたばかりであった。綜はまた腹心の梁話を遣わして悆を迎えさせ、密かに意状を語り、善く酬答すべく命じ、悆を引き入れて城に入り、龍牙の所に詣らせた。

原文莊帝為御史中尉,悆兼殿中侍御史,監臨淮王彧軍。時蕭衍遣其豫章王綜據徐州,綜密信通彧,云欲歸款。綜時為蕭衍愛子,眾議咸謂不然。彧募人入報,驗其虛實,悆遂請行,曰:「若綜有誠心,與之盟約;如其詐也,豈惜一人命也。」時徐州始陷,邊方騷擾,綜部將成景儁、胡龍牙並總強兵,內外嚴固。悆遂單馬間出,徑趣彭城。未至之間,為綜軍主程兵潤所止,問其來狀。悆答曰:「兵交使在,自昔通言。我為臨淮王所使,須有交易。」兵潤遂先遣人白龍牙等。綜既有誠心,聞悆被執,語景儁等曰:「我每疑元略規欲叛城,將驗其虛實,且遣左右為元略使入魏軍中,喚彼一人,其使果至。可令人詐作略身,在一深室,詭為患狀,呼使戶外,令人傳語。」時略始被衍追還。綜又遣腹心梁話迎悆,密語意狀,令善酬答,引悆入城,詣龍牙所。

時に日は既に暮れ、龍牙は仗を列ね火を挙げて悆を引き、曰く、「元中山は甚だ相見えんと欲す、故に卿を喚ばしむ」と。また曰く、「安豊・臨淮は少弱の卒を将い、此の城を規復せんとす、容か得べしや」と。悆曰く、「彭城は魏の東鄙、勢い必争の地に在り、得るや否やは天に在り、人の測る所に非ず」と。龍牙曰く、「卿の言う如くすべし」と。再び景儁の住所に詣り、悆を外門に停め、久しくして未だ入らせず。時に夜は既に深く、星月甚だ明らかであった。綜の軍主姜桃が来て悆に語り曰く、「君は年既に宿老、又今の使を充て、良く達する所有り。元法僧は魏の微子、城を抜きて梁に帰す。梁主は物を待つに道有り」と。乃ち手を挙げて上を指し、「今、歳星は斗に在り。斗は呉の分野、君何ぞ梁国に帰らざる。我、君をして富貴ならしめん」と。悆答えて曰く、「君は徒に其の一を知るのみ、其の二を知らず。法僧なる者は、莒僕の流れ、而して梁これを納る、乃ち季孫に愧じること有らざらんや。今月は鶉首を建つ、斗牛破れを受く。歳星は木なり、逆にしてこれを克つ。君の呉国、敗喪すること久からず。且つ衣錦して夜に遊ぶ、識有る者は許さず」と。言未だ尽きざるに、引き入れられて景儁に見ゆ。景儁曰く、「元中山は相喚ぶと曰うと雖も、懼れずして来るは何ぞや」と。答えて曰く、「昔、楚、呉を伐つに、呉は蹷由を遣わして師を労す。今者の此行、彼に略同じ」と。また曰く、「遊歴多年、卿と先に経て相識る」と。仍って由縁を敍すと、景儁は便ち記す。悆を引きて同坐せしめ、悆に謂いて曰く、「卿は刺客に非ざるか」と。答えて曰く、「今者は使たり、本朝に命を返さんと欲す。相刺の事は、更に後図を卜せん」と。飯食雑果を設けられ、悆は強いて飲み多く食らい、敵数人に向かい、微かに自ら夸矜す。諸人相謂いて曰く、「壮士なるかな」と。乃ち元略の所に向かわせ、一人引き入れて戸内に入り、床を指して坐を命ず。一人別に室中に在り、出でて悆に謂いて曰く、「中山に教有り、君と相聞かしむ」と。悆は遂に起立す。使人、悆に謂いて曰く、「君但だ坐せよ」と。悆曰く、「家国の王子、豈に坐して教命を聴くこと有らんや」と。使人曰く、「君に頓首す。我、昔し以て南に向かうこと有り、旦に相喚ばしめ、郷事を聞かんと欲す。晚来患動し、相見うることを獲ず」と。悆曰く、「旦に音旨を奉じ、険を冒して祇赴す。瞻見を得ず、内に反側を懐く」と。遂に辞して退く。

原文時日已暮,龍牙列仗舉火引悆曰:「元中山甚欲相見,故令喚卿。」又曰:「安豐、臨淮將少弱卒,規復此城,容可得乎!」悆曰:「彭城魏之東鄙,勢在必爭,得否在天,非人所測。」龍牙曰:「當如卿言。」復詣景儁住所,停悆在外門,久而未入。時夜已久,星月甚明。有綜軍主姜桃來與悆語曰:「君年已長宿,又充今使,良有所達。元法僧魏之微子,拔城歸梁,梁主待物有道。」乃舉手上指:「今歲星在斗。斗,吳之分野,君何為不歸梁國,我令君富貴。」悆答曰:「君徒知其一,未知其二。法僧者,莒僕之流,而梁納之,無乃有愧於季孫也?今月建鶉首,斗牛受破,歲星木也,逆而克之。君吳國敗喪不久。且衣錦夜遊,有識不許。」言未及盡,引入見景儁,景儁曰:「元中山雖曰相喚,不懼而來何也?」答曰:「昔楚伐吳,吳遣蹷由勞師,今者此行,略同於彼。」又曰:「遊歷多年,與卿先經相識。」仍敍由緣,景儁便記。引悆同坐,謂悆曰:「卿不為刺客也?」答曰:「今者為使,欲返命本朝,相刺之事,更卜後圖。」為設飯食雜果,悆強飲多食,向敵數人,微自夸矜。諸人相謂曰:「壯士哉!」乃引向元略所,一人引入戶內,指床令坐。一人別在室中,出謂悆曰:「中山有教,與君相聞。」悆遂起立。使人謂悆曰:「君但坐。」悆曰:「家國王子,豈有坐聽教命。」使人曰:「頓首君,我昔有以向南,旦遣相喚,欲聞鄉事。晚來患動,不獲相見。」悆曰:「旦奉音旨,冒險祇赴,不得瞻見,內懷反側。」遂辭而退。

須臾にして天暁く。綜の軍主范勗・景儁・司馬楊㬓ら競って北朝の士馬の多少を問う。悆云く、「秦隴既に平らぎ、三方静晏たり。今、高車・白眼・羌・蜀五十万有り。斉王・李陳留・崔延伯・李叔仁ら分かれて三道と為り、径ち江西に趣く。安楽王鑒・李神は冀・相・斉・済・青・光の羽林十万を領し、直ちに琅邪に向かい南に出づ」と。諸人相謂いて曰く、「詎に華辞に非ずや」と。悆曰く、「崇朝に験すべし、何の華か之れ有らん」と。日晏れて還ることを命ず。景儁は悆を送って戯馬台に上らせ、北に城壘を望み、曰く、「何ぞ此の城の固き、良に彼の軍士の能く図擬すべきに非ず。卿は二王に語り、師を回らして計を改めしむべし」と。悆曰く、「金墉湯池、衝甲弥巧なり。貴きは人以って守るに在り、何ぞ険害を論ぜん」と。還軍するに、路に於いて梁話と誓盟す。契約既に固く、未だ旬ならず、綜は果たして降る。

原文須臾天曉,綜軍主范勗、景儁、司馬楊㬓等競問北朝士馬多少。悆云:「秦隴既平,三方靜晏,今有高車、白眼、羌、蜀五十萬,齊王、李陳留、崔延伯、李叔仁等分為三道,徑趣江西;安樂王鑒、李神領冀、相、齊、濟、青、光羽林十萬,直向琅邪南出。」諸人相謂曰:「詎非華辭也?」悆曰:「可驗崇朝,何華之有!」日晏令還。景儁送悆上戲馬臺,北望城壘,曰:「何此城之固,良非彼軍士所能圖擬,卿可語二王,回師改計。」悆曰:「金墉湯池,衝甲彌巧,貴守以人,何論險害。」還軍,於路與梁話誓盟。契約既固,未旬,綜果降。

詔して曰く、「日に者、法僧父子は、頑固天よりし、長悪已まず、窃かに城外に叛き、職此れ乱階たり。遂に彭宋の名藩をして翻て賊の有と為らしむ。宗臣名将と雖も、戈を揮うこと泗濱に在り;虎士雄卒と雖も、剣を竦つこと汴渚に在り。然れども高墉峻堞は、登るべく易きに非ず;広涘深隍は、実に践むべく難し。是を用いて日昃に食を忘れ、中宵に憤惋する者なり。而して衍の都督・豫章王蕭綜は体運して機を知り、有道に帰せんと欲し、潜かに密信を遣わし、款を都督臨淮王に送る。時に事は夜光に同じ、能く剣を按ぜざらんや。殿中侍御史監軍鹿悆は、虎口を憚らず、険を視ること夷の如くし、便能く占募し、入りて虚実を験す。誓盟既に固く、図る所遂に果たす。地を返し城を復し、我が兵甲を息ます、亦た悆の力たり。若し栄祿を以て酬いざれば、何を以て将来を勧厲せん。定陶県開国子に封じ、食邑三百戸を賜うべし」と。

原文詔曰:「日者,法僧父子,頑固自天,長惡不已,竊城外叛,職此亂階,遂使彭宋名藩,翻為賊有。雖宗臣名將,揮戈於泗濱;虎士雄卒,竦劍於汴渚。然高墉峻堞,非可易登;廣涘深隍,實為難踐。是用日昃忘食,中宵憤惋者也。而衍都督、豫章王蕭綜體運知機,欲歸有道,潛遣密信,送款於都督臨淮王。于時事同夜光,能不按劍。殿中侍御史監軍鹿悆,不憚虎口,視險若夷,便能占募,入驗虛實。誓盟既固,所圖遂果。返地復城,息我兵甲,亦是悆之力焉。若不酬以榮祿,何以勸厲將來,可封定陶縣開國子,食邑三百戶。」

員外散騎常侍を除く。俄かに出でて青州彭城王劭の府長兼司馬と為る。尋いで長兼を解く。広川人劉鈞・東清河人房須が反す。劭は悆を遣わして州軍を監し、これを討たしめ、商山に戦い、頗る捷する所有り。将統は皆劭の左右にして、擅に首級を増し、妄りに賞帛を請う。悆は面して執りて与えず、劭は従わず。悆勃然として色を為し曰く、「志を竭くして言を立つは、王の為、国の為なり、豈に悆の家事ならんや」と。辞せずして出で、劭は追いて謝す。勲を窃む者は放言噂𠴲し、私害を加えんと欲す。悆聞きてこれを笑い、以て介意せず。

原文除員外散騎常侍。俄出為青州彭城王劭府長兼司馬。尋解長兼。廣川人劉鈞、東清河人房須反,劭遣悆監州軍討之,戰於商山,頗有所捷。將統皆劭左右,擅增首級,妄請賞帛,悆面執不與,劭弗從。悆勃然作色曰:「竭志立言,為王為國,豈悆家事!」不辭而出,劭追而謝焉。竊勳者放言噂𠴲,欲加私害,悆聞而笑之,不以介意。

先に、蕭衍が将軍の彭羣・王辯を遣わし、七万の兵を率いて琅邪を包囲攻撃した。春から秋に至るまで官軍は到着せず、両青州の兵馬は僅かに一万余りに過ぎず、軍は鄖城に駐屯して久しく進軍しなかった。そこで元劭は元悆を遣わし、南青州刺史の胡平は長史の劉仁之を遣わし、共に諸将を監督統率して直ちに賊の陣営に向かい、これを大いに破り、彭羣の首を斬り、二千余りの首級を捕虜とした。肅宗(孝明帝)はこれを賞賛し、璽書を下して労い尋ねた。永安年間(528-530年)、朝廷に入り左将軍・給事黄門侍郎となった。また、以前の元悆が徐州に入った功績に対する褒賞が十分でなかったとして、封邑二百戸を増やし、侯爵に進めた。地位は高く顕要であったが、志は謙虚で退くことにあり、親戚賓客を迎え送る際には以前よりも丁重にした。しかし自らの邸宅を持たず、常に借家に住み、粗末な衣服と質素な食事で、寒暑にも変わらなかった。荘帝はその清廉質素を賞賛し、時に銭や絹帛を賜った。

原文先是,蕭衍遣將彭羣、王辯率眾七萬圍逼琅邪。自春及秋,官軍不至,而兩青士馬,裁可萬餘,師次鄖城,久而未進。劭乃遣悆,南青州刺史胡平遣長史劉仁之,並監勒諸將,徑赴賊壘,大破之,斬羣首,俘馘二千餘級。肅宗嘉之,璽書勞問。永安中,入為左將軍、給事黃門侍郎,又以前賞悆入徐之功未盡,增邑二百戶,進爵為侯。雖任居通顯,志在謙退,迎送親賓,加於疇昔,而自無室宅,常假賃居止,布衣糲食,寒暑不變。莊帝嘉其清素,時復賜以錢帛。

東徐州の城民呂文欣が刺史の元大賓を殺害し、南の賊軍を引き入れて柵を曲術に駐屯させた時、詔により元悆は使持節・散騎常侍・安東将軍に任じられ、六州大使となり、行臺の樊子鵠と共にこれを討ち破った。呂文欣の仲間は重賞をかけて彼を捜したが、呂文欣と共に謀反した韓端正が呂文欣を斬り、その首を送った。首謀者で共に死んだ者は十二人であった。詔書が下り褒め慰労した。帰還後、鎮東将軍・金紫光禄大夫に任じられた。まもなく詔により使持節・兼尚書左僕射・東南道三徐行臺となった。東郡に至った時、尒朱仲遠が西兗州を陥落させ滑臺に向かうと、詔により都督の賀抜勝らと共に尒朱仲遠を防いだ。軍は敗れ、京師に戻った。

原文及東徐城民呂文欣殺刺史元大賓,南引賊眾,屯柵曲術,詔悆使持節、散騎常侍、安東將軍,為六州大使,與行臺樊子鵠討破之。文欣黨重以購之,文欣同逆人韓端正斬文欣送首,魁帥同死者十二人。詔書褒慰。還,拜鎮東將軍、金紫光祿大夫。尋詔為使持節、兼尚書左僕射、東南道三徐行臺。至東郡,值尒朱仲遠陷西兗,向滑臺,詔與都督賀拔勝等拒仲遠。軍敗,還京。

普泰年間(531-532年)、征東将軍を加えられ、衛将軍・右光禄大夫・兼度支尚書・河北五州和糴大使に転じた。天平年間(534-537年)、梁州刺史に任じられた。その時、滎陽の民鄭栄業らが徒党を組んで反乱を起こし、州城を包囲攻撃した。元悆は固守できず、遂に城を挙げて降伏した。鄭栄業は元悆を関西に送った。

原文普泰中,加征東將軍,轉衞將軍、右光祿大夫、兼度支尚書、河北五州和糴大使。天平中,除梁州刺史。時滎陽民鄭榮業等聚眾反,圍逼州城。悆不能固守,遂以城降。榮業送悆於關西。

張熠

原文張熠

張熠は、字を景世といい、自らは南陽郡西鄂県の出身と称し、漢の侍中張衡はその十世の祖であるという。張熠は奉朝請から揚州車騎府録事参軍となった。朝廷に入り歩兵校尉に任じられた。

原文張熠,字景世,自云南陽西鄂人,漢侍中衡是其十世祖。熠自奉朝請為揚州車騎府錄事參軍。入除步兵校尉。

永寧寺塔が大規模に造営され、工事が広範に及んだ時、霊太后がかつて工事現場に行幸し、顧問する所があれば、張熠は指図し計画を述べて、遺漏するところがなかった。太后はこれを良しとした。久しくして冠軍将軍・中散大夫に任じられた。後に別将となり、長孫稚に従って西征し、平西将軍・太中大夫に転じ、関西都督となった。功績により長平県開国男に封じられ、食邑二百戸を与えられた。永安初年(528年)、平西将軍・岐州刺史・仮安西将軍に任じられ、まもなく撫軍将軍を加えられた。貧弱な者を哀れみ慈しみ、民に愛された。交代で帰還した時、元顥が洛陽に入ったため、引き続き刺史を命じられたが、張熠は私的に帰還した。荘帝が宮廷に還御すると、鎮南将軍・東荊州刺史として出向した。まもなく散騎常侍・征蛮大都督を加えられ、荊州刺史に転じた。尒朱兆が洛陽に入ったため、赴任しなかった。普泰年間(531-532年)、衛将軍・金紫光禄大夫となった。

原文永寧寺塔大興,經營務廣,靈太后曾幸作所,凡有顧問,熠敷陳指畫,無所遺闕,太后善之。久之,除冠軍將軍、中散大夫。後為別將,隨長孫稚西征,轉平西將軍、太中大夫,為關西都督。以功封長平縣開國男,食邑二百戶。永安初,除平西將軍、岐州刺史、假安西將軍,尋加撫軍將軍。矜恤貧弱,為民所愛。代還,值元顥入洛,仍令復州,熠遂私還。莊帝還宮,出除鎮南將軍、東荊州刺史。尋加散騎常侍、征蠻大都督,轉荊州刺史。值尒朱兆入洛,不行。普泰中,衞將軍、金紫光祿大夫。

天平初年(534年)、鄴への遷都が始まり、右僕射の高隆之と吏部尚書の元世儁が上奏して言った。「南京(洛陽)の宮殿を解体して都(鄴)に運び、筏を連ねて黄河を下ると、船列の首尾が大いに至る。賢明な者一人を専任して受け入れを委ねなければ、材木が消耗損傷し、建築に支障を来す恐れがある。張熠は清廉で節操が顕著であり、一時の称賛がある。臣らは彼を大将に推挙する。」詔はこれに従った。張熠はその職務に勤勉であった。まもなく営構左都将に転じた。興和初年(539年)、衛大将軍となった。宮殿が完成すると、本官の将軍のまま東徐州刺史に任じられた。三年(541年)、任地で死去した。時に六十歳。驃騎大将軍・司空公・兗州刺史を追贈され、諡を懿といった。

原文天平初,遷鄴草創,右僕射高隆之、吏部尚書元世儁奏曰:「南京宮殿,毀撤送都,連筏竟河,首尾大至,自非賢明一人,專委受納,則恐材木耗損,有闕經構。熠清貞素著,有稱一時,臣等輒舉為大將。」詔從之。熠勤於其事。尋轉營構左都將。興和初,衞大將軍。宮殿成,以本將軍除東徐州刺史。三年,卒於州,時年六十。贈驃騎大將軍、司空公、兗州刺史,諡曰懿。

子の張孝直は、武定末年(549年)、司空府騎兵参軍であった。

原文子孝直,武定末,司空騎兵參軍。