魏書

卷78 孫紹 張普惠

卷78 孫紹 張普惠

孫紹

原文孫紹

孫紹は字を世慶といい、昌黎の人である。代々慕容氏に仕えた。祖父の志は国に入り、済陽太守の任にて卒した。父の協は字を文和といい、上党太守であった。紹は若くして学問を好み、経史に広く通じ、文才に富み、陰陽術数にも多く通暁した。初め校書郎となり、やがて給事中に遷り、長兼羽林監より門下録事となった。朝廷の大事について、よく得失を論じ、これにより世に知られた。かつて『釈典論』を著し、完璧とはいえないものの、時に取るべきところがあった。常景らとともに律令を修訂した。

原文孫紹,字世慶,昌黎人。世仕慕容氏。祖志入國,卒於濟陽太守。父協,字文和,上黨太守。紹少好學,通涉經史,頗有文才,陰陽術數,多所貫涉。初為校書郎,稍遷給事中,自長兼羽林監為門下錄事。朝廷大事,好言得失,遂為世知。曾著釋典論,雖不具美,時有可存。與常景等共修律令。

延昌年間、紹は上表して言うには、

原文延昌中,紹表曰:

ほどなく、出向して済陰太守を拝命した。帰還後、司徒功曹参軍、歩兵校尉、長水校尉を歴任した。正光初年、中書侍郎を兼ね、高麗に使した。帰還後、鎮遠将軍、右軍将軍となった。久しくして、徐兗和糴使となった。朝廷に帰り、軍国に関する利害を大いに陳述したが、回答はなかった。紹はさらに上表して言うには、「臣は聞く、文と質は互いに用い、治道はこれによって輝き、盛衰は時に適い、人物はこれによって通じ合うと。故に三霊の事を恢弘し、仁は九服に洽うことができるのである。伏して惟うに、陛下は霊運に応じて践祚され、沖虚明らかにして物を照らし、宰輔は忠純にして、伊尹・霍光の美に均しく、既に昇平の基を致し、無為の業を成すべきである。しかるに漠北は命に叛き、隴右は逆を構え、中州は驚擾し、民庶は窃かに議する。その故は何か。皆、上法通ぜず、下情怨み塞がるによるのである。臣は愚短ながらも、始末を具に鑑みる。往時、代都にあっては、武質にして治安し、中京以来は、文華にして政乱す。故に臣は昔、太和の時に、極力得失を陳べ、四方華夷の心態を具論し、高祖は垂れて納れられ、文応は尋ねるべきである。延昌・正光の時、奏疏を頻りに上るも、主者は収録するのみで、報問に蒙らず、即日の事勢、遂にここに至るは、尽く微臣が予め陳べたるの験である。今、東南に窃号の豎あり、西北に逆命の寇あり、豈に天を怨むべきか、実に人を尤むるなり。臣は今、荒外を憂えず、正に中畿を慮う。急ぎ改張を須い、以てその意を寧んずべし。若しなお疑いを持てば、変乱間もなく作らん。肘腋一たび乖けば、大事去らん。然れども臣は国に奉ずること四世、欣戚同じくす。但だ職は冗散に在り、枢密に関わらず、寧済の計、陳うる所なし。経緯甚だ多けれども、機無くして織るべしと謂うべし。夫れ天下は大器なり。一たび正しければ傾き難く、一たび傾けば正し難し。当今の危きは、躡足の急なり。臣は肉食に備わり、痛心已むこと無し。泣血して上陳し、願わくは垂れて採察せられんことを。若し言を執事に参じ、献可替否し、寇逆を獲て除き、社稷慶びを称するを得ば、死すとも生くが如く、犬馬の情畢らん」。

原文未幾,出除濟陰太守。還,歷司徒功曹參軍,步兵、長水校尉。正光初,兼中書侍郎,使高麗。還,為鎮遠將軍、右軍將軍。久之,為徐兗和糴使。還朝,大陳軍國利害,不報。紹又表曰:「臣聞文質互用,治道以之緝熙;洿隆得時,人物以之通濟。故能事恢三靈,仁洽九服。伏惟陛下應靈踐阼,沖明照物,宰輔忠純,伊霍均美,既致昇平之基,應成無為之業。而漠北叛命,隴右構逆,中州驚擾,民庶竊議,其故何哉?皆由上法不通,下情怨塞故也。臣雖愚短,具鑒始末。往在代都,武質而治安;中京以來,文華而政亂。故臣昔於太和,極陳得失,具論四方華夷心態,高祖垂納,文應可尋。延昌、正光,奏疏頻上,主者收錄,不蒙報問,即日事勢,乃至於此,盡微臣豫陳之驗。今東南有竊號之豎,西北有逆命之寇,豈得怨天,實尤人矣。臣今不憂荒外,正慮中畿,急須改張,以寧其意。若仍持疑,變亂尋作,肘腋一乖,大事去矣。然臣奉國四世,欣戚是同,但職在冗散,不關樞密,寧濟之計,欲陳無所,可謂經緯甚多,無機可織。夫天下者,大器也。一正難傾,一傾難正。當今之危,躡足之急,臣備肉食,痛心無已。泣血上陳,願垂採察。若得言參執事,獻可替否,寇逆獲除,社稷稱慶,雖死如生,犬馬情畢。」

紹の性質は抗直で、毎度封事を上るに、常に懇切を極め、犯忤を憚らなかった。しかし天性疎脱で、言うことが急に高下し、時人はこれを軽んじ、採納されなかった。紹の兄の世元は早逝した。世元は箏を弾くのが巧みで、紹は後に箏の音を聞くや、涕泗嗚咽し、これを捨てて去った。世はこれをもって彼を尚んだ。

原文紹性抗直,每上封事,常至懇切,不憚犯忤。但天性疏脫,言乍高下,時人輕之,不見採納。紹兄世元早卒,世元善彈箏,紹後聞箏聲便涕泗嗚咽,捨之而去,世以此尚之。

驍騎将軍に除され、吐谷渾に使した。帰還後、太府少卿となった。かつて朝見の際、霊太后が言うには、「卿は年も少し老いたな」。紹は言う、「臣の年は老いておりますが、臣の卿(官職)はまだ若うございます」。太后は笑った。右将軍、太中大夫に遷った。紹はかつて百官とともに朝に赴き、東掖門が未だ開かず、門を守って夜明けを待った。紹は衆中において吏部郎中辛雄を衆外に引き寄せ、窃かにこれに謂うには、「此の中の諸人、間もなく皆死に尽くすであろう。ただ吾と卿のみがなお富貴を享けん」。雄は甚だ駭愕し、その所以を測りかねた。ほどなく河陰の難があった。紹は禄命を推すのを善くし、事験甚だ多く、知る者はこれを異とした。

原文除驍騎將軍,使吐谷渾。還,為太府少卿。曾因朝見,靈太后謂曰:「卿年稍老矣。」紹曰:「臣年雖老,臣卿乃少。」太后笑之。遷右將軍、太中大夫。紹曾與百僚赴朝,東掖未開,守門候旦。紹於眾中引吏部郎中辛雄於眾外,竊謂之曰:「此中諸人,尋當死盡,唯吾與卿猶享富貴。」雄甚駭愕,不測所以。未幾有河陰之難。紹善推祿命,事驗甚多,知者異之。

建義初年、衛尉少卿に除され、将軍は元の如し。金紫光禄大夫に転じた。永安年間、太府卿を拝した。以前に正光壬子暦の参議に与った功により、新昌子の爵を賜った。太昌初年、左衛将軍、右光禄大夫に遷った。永熙二年に卒した。時に六十九歳。都督冀瀛滄三州諸軍事、驃騎大将軍、尚書左僕射、冀州刺史を追贈され、諡して宣といった。

原文建義初,除衞尉少卿,將軍如故。轉金紫光祿大夫。永安中,拜太府卿。以前參議正光壬子曆,賜爵新昌子。太昌初,遷左衞將軍、右光祿大夫。永熙二年卒,時年六十九。贈都督冀瀛滄三州諸軍事、驃騎大將軍、尚書左僕射、冀州刺史,諡曰宣。

子の伯元は襲封した。斉が禅譲を受けると、例により降格した。

原文子伯元,襲。齊受禪,例降。

伯元の弟の叔利は、右将軍、太中大夫。

原文伯元弟叔利,右將軍、太中大夫。

紹の従父弟の瑜は、済州長史。

原文紹從父弟瑜,濟州長史。

瑜の弟の彝は、字を鳳倫という。太和年間、秀才に挙げられた。やがて歩兵校尉に遷った。武邑太守の任にて卒した。征虜将軍、営州刺史を追贈された。

原文瑜弟彝,字鳳倫。太和中,舉秀才。稍遷步兵校尉。卒於武邑太守。贈征虜將軍、營州刺史。

子の伯融は、出て瑜の後を継いだ。武定末、□□太守。

原文子伯融,出繼瑜後。武定末,□□太守。

伯融の嫡弟の子の寬は、開府田曹参軍。

原文伯融嫡弟子寬,開府田曹參軍。

張普惠

原文張普惠

張普惠は字を洪賑といい、常山九門の人である。身長八尺、容貌魁偉であった。父の曄は斉州中水県令となり、普惠は父に従って県に赴き、斉の地で学業を受け、墳典に専心し、克く励みて止まなかった。郷里に帰ると、程玄に就いて講習し、三礼に精通し、兼ねて春秋を善くし、百家の説をも多く窺覧し、諸儒に称された。

原文張普惠,字洪賑,常山九門人。身長八尺,容貌魁偉。父曄,為齊州中水縣令,隨父之縣,受業齊土,專心墳典,克厲不息。及還鄉里,就程玄講習,精於三禮,兼善春秋,百家之說,多所窺覽,諸儒稱之。

太和十九年(495年)、主書となり、制局監を兼ね、劉桃符・石榮・劉道斌と同僚として共に直務し、高祖(孝文帝)に大いに知られた。尚書都令史に転じた。任城王元澄はその学業を重んじ、その名声を高めようとし、僕射の李沖がかつて元澄の邸を訪れた際、張普惠の言論を見て、これも善しとした。世宗(宣武帝)の初め、積射将軍に転じた。元澄が安西将軍・雍州刺史となると、張普惠を府録事参軍に任じるよう上奏し、まもなく馮翊郡の事務を代行させた。

原文太和十九年,為主書,帶制局監,與劉桃符、石榮、劉道斌同員共直,頗為高祖所知。轉尚書都令史。任城王澄重其學業,為其聲價,僕射李沖曾至澄處,見普惠言論,亦善之。世宗初,轉積射將軍。澄為安西將軍、雍州刺史,啟普惠為府錄事參軍,尋行馮翊郡事。

元澄は功衰(母の喪服)を身につけていたが、七月七日に文武の官を集め、北園で馬射を行おうとした。張普惠は元澄に奏記を奉って言った。「謹んで承るに、三殺九親は親疎の序列を区別し、五服六術は衰麻の心を等しくする。皆、事に因って情を飾り、変易すべきでない道である。されば、これより大いなる痛みは、終身を超えて深く、書策に記す哀しみは、喪期の内に除かれる。外なるものは節度なくしてはならぬ故に、三年を以て断ち、内なるものは直ちに除くべからざる故に、日月を以て敦(あつ)くする。礼によれば、大練の日に素琴を鼓す。これは吉に即くことを推し進めるためである。小功以上は、虞・祔・練・除を行わなければ沐浴せず、これは制度によって拘束するのである。曾子が問うて言う、『知人に喪服がある場合、祭に参与することができますか』。孔子は言う、『緦麻の喪服であれば祭を行わない、どうして人を助けることがあろうか』。祭に参与しない以上、宴食の道はないと疑われる。また言う、『喪服を廃すれば、饋奠の事に参与することができますか』。子(孔子)は言う、『衰を脱いで奠に参与するのは、礼ではない』。注に云う、『その哀しみを忘れ疾むためである』。愚かには考えるに、喪を除く始めに、饋奠に参与せず、小功の内に、どうして射を観ることができようか。雑記に云う、『大功以下は、葬を終えて人を訪ね、その人が食事を勧めれば、その同族であれば食べ、同族でなければ食べない』。食事でさえ人を選ぶのに、射においてはなおさらであろう。伏して拝見するに、明教(殿下の教え)には、射会の制限を立て、二七(七月七日)の良辰を以て、城中の文武を集め、北園で武芸を習い、中否で揖譲を行おうとされている。時は大閲の秋ではなく、景(時候)は農を妨げる節に及び、国家は縞禫を除いたばかり、殿下は功衰をなお襲っている。これを解いて楽しみとし、以て百姓を訓えることは、すなわち先王の典教を易え、哀戚の情を忘れることであり、恐らくは令徳を昭かにし、子孫に示す所以ではない。射儀を按ずるに、射者は礼楽を本とし、これを忘れて事に従事するは、礼と謂うべからず、鍾鼓を設けざるは、楽と謂うべからず。この二つを捨てて、何を以て射と為さん。また七日(七月七日)の戯れは、令制にこれ無く、功労を班(わか)ち与えることは、事体に違う慮れがある。庫府は空虚であるから、新たな調達を待つべきであり、二三の趣向は、停止するが便宜である。九月に至るを乞い、備え飾りを尽くして行い、然る後に狸首の章を奏し、矍相の令を宣べ、軒懸の声を立て、雲鉦を建て、神民この時に忻暢せしめん。伏して惟うに、慈明は遠く被わり、万民の望む所、挙動は記録され、発言は則となるのみ、願わくは更に広く訪ね、賜わりて曲(くま)なく採り上げ、その管見の心を昭かにし、その讜言の責を恕したまえ。然らば芻蕘も歌を遺さず、輿人も献誦せん」。元澄はその言を容れんとし、辞を託して自ら止め、乃ち答えて言った。「文武の道は、昔より成規あり、恥を明らかにし戦を教うるは、振古の常軌である。今、公の制に非ずと雖も、この州は前例を承け、既にこの式あり、民を労せず公を損ねず、その私射に任せること、また何の失いがあろうか。且つ文を纂(つ)ぎ武を習うは、人の常なる技芸、豈に常なる技芸の間にあって、須(もち)いるに令制を要せんや。比(ちか)ごろ適(たまた)ま前に依り州府相率いんと欲し、王務の暇、良辰に技芸を習わんとしたまでで、未だ庫物を費用せんとは言わない。礼によれば、兄弟は内で除き、哀しみ已に殺(へ)ることを明らかにす。小功では、客が来ても主は楽を絶たない。楽を聴くことは可なりとすれば、武を観ること豈に傷つけん。直(ただ)に事の縁り須(もち)いて罷むべきより、先ず令を以て停め、方(まさ)にこの請いを得、深く来意を具す」。

原文澄功衰在身,欲於七月七日集會文武,北園馬射。普惠奏記於澄曰:「竊聞三殺九親,別疏昵之敍;五服六術,等衰麻之心。皆因事飾情,不易之道者也。然則莫大之痛,深於終身之外;書策之哀,除於喪紀之內。外者不可無節,故斷之以三年;內者不可遂除,故敦之以日月。禮,大練之日,鼓素琴。蓋推以即吉也。小功以上,非虞祔練除不沐浴,此拘之以制也。曾子問曰:『相識有喪服,可以與於祭乎?』孔子曰:『緦不祭,又何助於人。』祭既不與,疑無宴食之道。又曰:『廢喪服,可以與於饋奠之事乎?』子曰:『脫衰與奠,非禮也。』注云:『為其忘哀疾。』愚謂除喪之始,不與饋奠,小功之內,其可觀射乎?雜記云:『大功以下,既葬適人,人食之,其黨也食之,非黨也不食。』食猶擇人,於射為惑。伏見明教,立射會之限,將以二七令辰,集城中文武,肄武藝於北園,行揖讓於中否。時非大閱之秋,景涉妨農之節,國家縞禫甫除,殿下功衰仍襲,釋而為樂,以訓百姓,便是易先王之典教,忘哀戚之情,恐非所以昭令德、視子孫者也。按射儀,射者以禮樂為本,忘而從事,不可謂禮,鍾鼓弗設,不可謂樂。捨此二者,何用射為?又七日之戲,令制無之,班勞所施,慮違事體。庫府空虛,宜待新調,二三之趣,停之為便。乞至九月,備飾盡行,然後奏狸首之章,宣矍相之令,聲軒懸,建雲鉦,神民忻暢於斯時也。伏惟慈明遠被,萬民是望,舉動所書,發言唯則,願更廣訪,賜垂曲採,昭其管見之心,恕其讜言之責,則芻蕘無遺歌,輿人有獻誦矣。」澄意納其言,託辭自罷,乃答曰:「文武之道,自昔成規;明耻教戰,振古常軌。今雖非公制,而此州承前,已有斯式,既不勞民損公,任其私射,復何失也?且纂文習武,人之常藝,豈可於常藝之間,要須令制乎?比適欲依前州府相率,王務之暇,肄藝良辰,亦未言費用庫物也。禮,兄弟內除,明哀已殺;小功,客至主不絕樂。聽樂則可,觀武豈傷?直自事緣須罷,先以令停,方獲此請,深具來意。」

元澄が揚州に転じると、張普惠を羽林監として鎮南大将軍開府主簿を領せしめるよう上奏し、まもなく威遠将軍を加えた。張普惠は元澄に知られた後、二つの藩府を輔佐し、甚だ名声があった。京師に帰還する日、装束は藍縷(ぼろ)であったので、元澄は絹二十匹を賜って行資に充てさせた。朝廷に還り、なお羽林監であった。

原文澄轉揚州,啟普惠以羽林監領鎮南大將軍開府主簿,尋加威遠將軍。普惠既為澄所知,歷佐二藩,甚有聲譽。旋京之日,裝束藍縷,澄賚絹二十匹以充行資。還朝,仍羽林監。

また元澄が太妃の憂(喪)に遭った時、臣僚が碑を立てて頌しようとし、碑に題そうとして「康王元妃之碑」と云おうとした。元澄が張普惠に諮った。答えて言った。「謹んで朝典を尋ねるに、ただ王妃があるのみで、元の字は無い。魯の夫人孟子を『元妃』と称するのは、下の『継室声子』に対させんがためである。今、烈懿太妃は先王に配し、更に声子・仲子の嫌疑無し、窃かに『元』の字を仮りて名位を別つ必要無しと謂う。且つ氏を以て姓に配するは、愚かには生前の称と為す。故に春秋に、『夫人姜氏斉より至る』とあり、葬った後は、諡を以て姓に配する。故に経に『我が小君文姜氏を葬る』と書き、また『来たりて夫人成風の襚を帰す』と曰う。皆諡を以て姓に配する。古、婦人は夫の諡に従う。今、烈懿太妃は徳一世に冠たり、故に特ち褒錫を蒙り、乃ち万代の高き事、豈に定名の重きに於いて、烈懿と称せざるを得んや」。元澄はこれに従った。

原文又澄遭太妃憂,臣僚為立碑頌,題碑欲云「康王元妃之碑。」澄訪於普惠。答曰:「謹尋朝典,但有王妃,而無元字。魯夫人孟子稱『元妃』者,欲下與『繼室聲子』相對。今烈懿太妃作配先王,更無聲子、仲子之嫌,竊謂不假『元』字以別名位。且以氏配姓,愚以為在生之稱。故春秋,『夫人姜氏至自齊』,既葬,以諡配姓,故經書『葬我小君文姜氏』,又曰『來歸夫人成風之襚』。皆以諡配姓。古者婦人從夫諡。今烈懿太妃德冠一世,故特蒙褒錫,乃萬代之高事,豈容於定名之重,而不稱烈懿乎?」澄從之。

王師が大挙し、鍾離を再征した時、張普惠は安楽王元詮の別将長史となった。班師の後、揚烈将軍・相州安北府司馬に任じられた。歩兵校尉に遷った。後に本官のまま河南尹丞を領した。世宗が崩御すると、甄楷らと酒を飲み遊び従ったことを坐し、免官された。驍騎将軍の刁整は、家に旧訓があり、倹葬を営まんとした。張普惠は時流を矯めること甚だしと以為い、刁整に書を送って論じた。事は刁雍伝にある。故事によれば、免官された者は、三載の後に一階を降って叙され、若し才優れば擢授され、この限りに拘られない。熙平年中、吏部尚書の李韶は、張普惠に文学があると奏上し、才優の例に依り、宜しく特ち顕叙すべしとし、敕により寧遠将軍・司空倉曹参軍に任じられた。朝議は降階しないことを以て栄とした。時に任城王元澄が司空であり、表議や書記は多く張普惠の出するところであった。

原文及王師大舉,重征鍾離,普惠為安樂王詮別將長史。班師,除揚烈將軍、相州安北府司馬。遷步兵校尉。後以本官領河南尹丞。世宗崩,坐與甄楷等飲酒遊從,免官。驍騎將軍刁整,家有舊訓,將營儉葬。普惠以為矯時太甚,與整書論之。事在刁雍傳。故事:免官者,三載之後降一階而敍,若才優擢授,不拘此限。熙平中,吏部尚書李韶奏普惠有文學,依才優之例,宜特顯敍,敕除寧遠將軍、司空倉曹參軍。朝議以不降階為榮。時任城王澄為司空,表議書記,多出普惠。

広陵王恭と北海王顥は、生みの祖母の喪服が期服か三年服かについて疑義を生じ、博士の意見が一致せず、詔により群僚に会議させた。張普惠が議して言うには、「謹んで按ずるに、二王の祖母は皆、先朝より命を受け、二国の太妃となされた。これは天子より命を受け、始封の母と言えよう。喪服に『慈母は母の如し』とあり、三年の章にある。伝に曰く、『父の命を貴ぶなり』。鄭玄の注に云う、『大夫の妾の子は、父在世には母に大功、士の妾の子は母に期服。父が卒すれば皆、服を伸ばし得る』と。これは大夫がその妾の子に命じて、母として慈しむ者と為すも、なお父の命を貴ぶと言い、三年服を為す。ましてや天子がその子を列国の王と為し、その生みの母を国太妃と命じたのに、反って自ら公子が母に練冠や大功を着けるのと同じにすることは、軽重が顛倒し、甚だしくして然るべからざるものである。伝に曰く、『始封の君は、諸父昆弟を臣とせず』と。ならばその親服を着けるべきである。魯や衛のような列国が互いに期服を着けるのは、疑いなく明らかである。どうして明らかにするか。喪服に、『君が姑・姉妹・女子で国君に嫁いだ者のために』とあり、伝に曰く、『何ぞ大功なるや、尊同じければなり。尊同じければ、則ちその親服を着け得る』と。諸侯の子は公子と称し、公子は先君を禰(父廟)とすることは得ない。されば兄弟は一体である。位は諸侯に列し、自ら尊同じきを以て互いに服を着け得るのであり、還って公子を基準とし、遠く天王に厭(おさ)えられるべきではない。故に降服には四品あり、君・大夫は尊を以て降し、公子・大夫の子は厭を以て降す。名例が同じでないのに、どうして乱れようか。礼によれば、大夫の妾の子は、父の命により慈しまれたことを以て、その三年服を伸ばす。太妃は既に先帝より命を受け、一国を光り輝かせ、二王は土を胙(さ)け茅社を賜り、大邦を顕かに錫(たま)わった。尊同じき高き拠り所を捨てて、禰とせざる公子に附するのは、たとえ許や蔡が位を失うも、これに過ぎることはない。服問に曰く、『軽きに従いて重き有り、公子の妻その皇姑の為に服す』と。公子は厭されるも、妻はなお服を伸ばし得る。ましてや広陵王・北海王は、封を論ずれば封君の子、妃を語れば命妃の孫である。妃を承け重きを纂(つ)ぎ、遠く先皇と別れ、更に先后の正統を以て、その生みの祖嫡を厭うのは、皇姑に比べて、遥かではあるまいか。今既にその服を伸ばすことを許しながら、復た期服に限るのは、慈母に比べて、爽(あやま)っていないか。経に曰く、『君の祖父母・父母・妻・長子の為に』と。伝に曰く、『何ぞ期なるや、父母長子には君は斬衰を着け、妻は小君なり。父卒して、然る後に祖を後とする者は斬衰を着く』と。今、祖は献文皇帝であり、諸侯はこれを祖とすることは得ない。母は太妃である。これ二王の三年服の証左である。議者は近く正経に背き非類に附し、毫毛の差が千里の誤りを生む。且つ天子は尊くして則ち天に配する。臣妾でない者はない。どうして国母と命じながら、子がその親に服することを聴かないのか。記に曰く、『従服する者は、従う所の者亡ければ、則ち已む』と。又曰く、『君母の党に服せざれば、則ち其の母の党に服す』と。今、従う所の者既に亡い。親服を以てその生みの者に服さなければ、則ち属従の服は何れの所に施すべきか。もし諸王が入って公卿と為り、便ち大夫と同じと為すならば、則ち当今の議は、皆必ずしも国を以て言う必要はない。今の諸王は、自ら列国と同じく、国に之(ゆ)かずとも、別に臣僚を置き、一方に玉食する。諸侯と言わざるを得ない。敢えて周礼に拠り、輒(すなわ)ち三年服と同じくす」。

原文廣陵王恭、北海王顥,疑為所生祖母服期與三年,博士執意不同,詔羣僚會議。普惠議曰:「謹按二王祖母,皆受命先朝,為二國太妃,可謂受命於天子,為始封之母矣。喪服『慈母如母』,在三年章。傳曰:『貴父命也。』鄭注云:『大夫之妾子,父在為母大功,則士之妾子為母期。父卒則皆得申。』此大夫命其妾子,以為母所慈,猶曰貴父命,為之三年,況天子命其子為列國王,命其所生母為國太妃,反自同公子為母練冠之與大功乎?輕重顛倒,不可之甚者也。傳曰,『始封之君,不臣諸父昆弟』,則當服其親服。若魯衞列國,相為服期,判無疑矣。何以明之?喪服,『君為姑姊妹女子嫁於國君者』,傳曰:『何以大功?尊同也。尊同,則得服其親服。諸侯之子稱公子,公子不得禰先君。』然則兄弟一體。位列諸侯,自以尊同得相為服,不可還準公子,遠厭天王。故降有四品,君、大夫以尊降,公子、大夫之子以厭降。名例不同,何可亂也。禮,大夫之妾子,以父命慈己,申其三年。太妃既受命先帝,光昭一國,二王胙土茅社,顯錫大邦,舍尊同之高據,附不禰之公子,雖許蔡失位,亦不是過。服問曰:『有從輕而重,公子之妻為其皇姑。』公子雖厭,妻尚獲申,況廣陵、北海,論封則封君之子,語妃則命妃之孫。承妃纂重,遠別先皇,更以先后之正統,厭其所生之祖嫡,方之皇姑,不以遙乎?今既許其申服,而復限之以期,比之慈母,不亦爽歟!經曰,『為君之祖父母父母妻長子』,傳曰:『何以期?父母長子君服斬,妻則小君。父卒,然後為祖後者服斬。』今祖乃獻文皇帝,諸侯不得祖之,母為太妃,蓋二王三年之證。議者近背正經以附非類,差之毫毛,所失或遠。且天子尊則配天,莫非臣妾,何為命之為國母而不聽子服其親乎?記曰:『從服者,所從亡,則已。』又曰:不為君母之黨服,則為其母之黨服。今所從既亡,不以親服服其所生,則屬從之服於何所施?若以諸王入為公卿,便同大夫者,則當今之議,皆不須以國為言也。今之諸王,自同列國,雖不之國,別置臣僚,玉食一方,不得以諸侯言之。敢據周禮,輒同三年。」

当時、議者にも同異があった。国子博士の李郁は議が罷(や)んだ後、書を以て張普惠に難じた。普惠は礼に拠り還答し、鄭重に三度往復し、李郁の議は遂に屈した。諫議大夫に転じた。任城王澄が普惠に言うには、「君が諫議を得たことを喜ばず、唯だ諫議が君を得たことを喜ぶ」。

原文當時議者亦有同異。國子博士李郁於議罷之後,書難普惠。普惠據禮還答,鄭重三返,郁議遂屈。轉諫議大夫。澄謂普惠曰:「不喜君得諫議,唯喜諫議得君。」

時に霊太后の父、司徒の胡国珍が薨じ、相国・太上秦公を追贈された。普惠は前世の后父に「太上」の号が無かったことを以て、闕に詣で上疏し、その不可を陳べた。左右は畏懼し、敢えて通す者はいなかった。ちょうど胡家が墳墓の壙(あな)を穿つに磐石有りと聞き、乃ち密かに表を上って言うには、

原文時靈太后父司徒胡國珍薨,贈相國、太上秦公。普惠以前世后父無「太上」之號,詣闕上疏,陳其不可,左右畏懼,莫敢為通。會聞胡家穿壙下墳有磐石,乃密表曰:

太后は表を覧て、自ら国珍の宅に至り、王公・八座・卿尹及び五品以上の者を召集し、広くその事を議させ、使者を遣わして普惠を召し、相問答させ、又、侍中の元叉・中常侍の賈璨に監観させて得失を観させた。任城王澄が普惠に問うて言うには、「漢の高祖が帝と為り、父を尊んで太上皇と為した。今、聖母朝に臨み、父に太上公を贈る。故実に求めれば、準拠無きに非ず。且つ君の挙動は則と為る。何ぞ必ずしも旧を循(したが)わんや」。対えて言うには、「天子は詔と称し、太后は令と称す。故に周の臣十乱に、文母も預かる。仰いで思うに難き所、窃かに匹(たぐ)いならずと謂う」。澄が言うには、「前代の太后にも詔と称した者あり。聖母自ら謙光の義を存せんと欲する故に、称さないだけである。何ぞ詔令の別を以て、厳父の孝を廃せんや」。対えて言うには、「后父を太上と為すことは、昔より未だ有らず。前代の母后は豈にその親を尊崇せざらんことを欲せざるや。王は何ぞ遠く古義を謨(はか)らずして、近く今の旨に順うのか。未だ審(つまび)らかにせず、太后は何の故にか詔と称するには謙り、太上には謙らないのか。窃かに聖后がその謙光を終わらんことを願う」。太傅・清河王懌が言うには、「昔、僭晋の時、褚氏が朝に臨み、殷浩が褚裒に遺した書に『足下は今の太上皇なり』と言う。況んや太上公において疑いを致さんや」。対えて言うには、「褚裒は女が政を輔くるを以て辞し朝に入らず。淵源(殷浩)はその不恭を譏り、故に太上の刺(し)有り。本、その非を称し、その是を記さず。殿下がこれをもって賜い難ずるとは謂わざりき」。侍中の崔光が言うには、「張生の表中に晋に小子侯有りと引き、鄭注より出づ。正経に非ず」。対えて言うには、「正経の文に非ずと雖も、然れども正経の旨を述ぶ。公は古を好み礼を習う。復た斯の難を固くすや」。御史中尉の元匡、因って崔光に謂いて言うには、「張表に云う、晋の小子侯は、号同じきを以て僭称とす。今、太上公の名は太上皇と同じく、晋の小子に比べれば、義似て類す。但だ学ばず、敢えてその是非を弁ぜず」。普惠対えて言うには、「中丞は既にその是を疑い、その非を正さず。豈に三独に望む所ならんや」。尚書の崔亮が言うには、「諫議の見るところ、正に太上の号は人臣に施すべからざるを以てとす。然れども周に太公尚父有り、亦た二名を兼ぬ。人臣の尊重の称、固より今日に始まるに非ざるを知る」。普惠対えて言うには、「尚父とは、徳有りて尚ぶべし。太上とは、上中の上なり。名同じくして義異なり。此れ亦た並ぶに非ず」。亮また言うには、「古に文王・武王有り、亦た文子・武子有り。然らば則ち、太上皇・太上公も亦た何ぞその同じきを嫌わん」。普惠対えて言うには、「文武とは、徳行の迹なり。故に迹同じければ諡同じし。太上とは、尊極の位なり。豈に臣下に通施し得んや」。廷尉少卿の袁翻が言うには、「周官に、上公は九命、上大夫は四命。命数は殊なるも、同じく上なり。何ぞ必ずしも上なる者は皆極尊ならんや」。普惠は厲声を発して袁翻を訶りて言うには、「礼に下卿上士有り。何ぞ大夫と公に止まらん。但だ今行われているのは、太を以て上に加え、二名を双挙する。極尊に非ざるを得ず。彫虫の小芸は、微かに相許すとも、此の処に至っては、豈に卿の及ぶ所ならんや」。翻は甚だ慚色有り、黙して復た言わず。

原文太后覽表,親至國珍宅,召集王公、八座、卿尹及五品已上,博議其事,遣使召普惠與相問答,又令侍中元叉、中常侍賈璨監觀得失。任城王澄問普惠曰:「漢高作帝,尊父為太上皇。今聖母臨朝,贈父太上公,求之故實,非為無準。且君舉作則,何必循舊。」對曰:「天子稱詔,太后稱令,故周臣十亂,文母預焉。仰思所難,竊謂非匹。」澄曰:「前代太后亦有稱詔,聖母自欲存謙光之義,故不稱耳,何得以詔令之別,而廢嚴父之孝?」對曰:「后父太上,自昔未有。前代母后豈不欲尊崇其親,王何以不遠謨古義,而近順今旨。未審太后何故謙於稱詔,而不謙於太上。竊願聖后終其謙光。」太傅、清河王懌曰:「昔在僭晉,褚氏臨朝,殷浩遺褚裒書曰『足下,今之太上皇也』,況太上公而致疑。」對曰:「褚裒以女輔政辭不入朝。淵源譏其不恭,故有太上之刺。本稱其非,不記其是。不謂殿下以此賜難。」侍中崔光曰:「張生表中引晉有小子侯,出自鄭注,非為正經。」對曰:「雖非正經之文,然述正經之旨。公好古習禮,復固斯難?」御史中尉元匡因謂崔光曰:「張表云,晉之小子侯,以號同稱僭。今者,太上公名同太上皇,比晉小子,義似相類。但不學不敢辨其是非。」普惠對曰:「中丞既疑其是,不正其非,豈所望於三獨。」尚書崔亮曰:「諫議所見,正以太上之號不應施於人臣。然周有太公尚父,亦兼二名。人臣尊重之稱,固知非始今日。」普惠對曰:「尚父者,有德可尚;太上者,上中之上。名同義異,此亦非並。」亮又曰:「古有文王、武王,亦有文子、武子。然則,太上皇、太上公亦何嫌其同也?」普惠對曰:「文武者,德行之迹,故迹同則諡同。太上者,尊極之位,豈得通施於臣下!」廷尉少卿袁翻曰:「周官:上公九命,上大夫四命。命數雖殊,同為上,何必上者皆是極尊?」普惠厲聲訶翻曰:「禮有下卿上士,何止大夫與公!但今所行,以太加上,二名雙舉,不得非極。雕蟲小藝,微或相許,至於此處,豈卿所及!」翻甚有慚色,默不復言。

任城王元澄が言うには、「諫諍の体は、各々己の見解を述べるものであり、その採用・不採用は、もとより時宜に応ずるにある。卿が先に袁氏(袁翻)に答えた際、声調があまりにも厳しかったのは何故か」。張普惠は答えて言うには、「臣の言うところが正しければ、採用されるべきであり、もし正しくなければ、罪に及ぶことを恐れる。是非は弁明すべきであり、ただ争うためではない」。元澄は言う、「朝廷は今、忌憚なき言路を開き、忠言の道を広げようとしている。卿の今の意図は義に向かっているのに、どうして罪罰を慮ると言うのか」。議する者たちは皆、太后が朝政を執られる中、その意向に順うことを重んじたので、上奏して言うには、「張普惠の言葉は屈服しないものではあるが、臣ら一同の意見とは異なる。既に詔勅(渙汗)は発せられた。前の詔に従うことを請う」。太后は再び元叉と賈璨を遣わし、普惠に命じて言わせた、「朕が先に卿を召して群臣と対議させたが、議論の往復が終わり、皆卿の上表とは異なる。朕の行うところは孝子の志であり、卿の陳べるところは忠臣の道である。諸公卿には既に成議がある。卿は朕の思いを苦しめて奪うべからず。後日見解があれば、難く言うことなかれ」。普惠はここに命を拝し、辞して還った。

原文任城王澄曰:「諫諍之體,各言所見,至於用捨,固在應時。卿向答袁氏,聲何太厲?」普惠對曰:「所言若是,宜見採用;所言若非,懼有罪及。是非須辨,非為苟競。」澄曰:「朝廷方開不諱之門,以廣忠言之路。卿今意在向義,何云乃慮罪罰。」議者咸以太后當朝,志相崇順,遂奏曰:「張普惠辭雖不屈,然非臣等所同。渙汗已流,請依前詔。」太后復遣元叉、賈璨宣令謂普惠曰:「朕向召卿與羣臣對議,往復既終,皆不同卿表。朕之所行,孝子之志;卿之所陳,忠臣之道。羣公已有成議,卿不得苦奪朕懷。後有所見,勿得難言。」普惠於是拜令辭還。

初め、普惠が召された時、詔を伝える者が驊騮馬を馳せて来て、甚だ迅速であり、佇立して去ることを催促したので、普惠の諸子は憂い恐れて涕泣した。普惠は彼らに言うには、「私は休明の朝に当たり、諫議の職を掌っている。もし言い難きことを言わず、諫め難きことを諫めなければ、唯々諾々として、官を曠(むな)しくし禄を尸(かたしろ)とするに等しい。人生に死あり、死してその所を得れば、また何を恨むことがあろうか。然れども朝廷に道あれば、汝ら輩は憂うるなかれ」。議論が終わり、旨を以て労をねぎらわれ宅に還ると、親戚故旧はその幸甚を賀した。時に中山の荘弼が普惠に書を遺して言うには、「明侯(普惠)は淵深な儒者で碩学、身に大才を負い、この公方(公正)を秉り、来たりて諫職に居り、謇謇(忠直)として、諤諤(直言)たり。一昨日、胡司徒(胡国珍)の邸において、面を当てて庭に諍い、問難の鋒至るも、応対の響き出で、宋城の帯始めて縈(めぐ)り、魯門の柝(たく)裁(やっ)て警(いまし)むが如く、終に群后をして逡巡せしめ、庶僚をして拱黙せしむ。一時には用いられざるも、固より百代に美を伝う。風聞して快然たり、敬みて此の白を裁す」。普惠はこの書を美として、常に口実とした。

原文初,普惠被召,傳詔馳驊騮馬來,甚迅速,佇立催去,普惠諸子憂怖涕泣。普惠謂曰:「我當休明之朝,掌諫議之職,若不言所難言,諫所難諫,便是唯唯,曠官尸祿。人生有死,死得其所,夫復何恨。然朝廷有道,汝輩勿憂。」及議罷,旨勞還宅,親故賀其幸甚。時中山莊弼遺書普惠曰:「明侯淵儒碩學,身負大才,秉此公方,來居諫職,謇謇如也,諤諤如也。一昨承胡司徒第,當面折庭諍,雖問難鋒至,而應對響出,宋城之帶始縈,魯門之柝裁警,終使羣后逡巡,庶僚拱默,雖不見用於一時,固已傳美於百代。聞風快然,敬裁此白。」普惠美其此書,每為口實。

普惠は天下の民調(租税)において、絹布の幅が長く広く、尚書の計上・奏上により、更に綿・麻を徴収することとなり、民の労苦に堪えられぬことを恐れ、上疏して言うには、

原文普惠以天下民調,幅度長廣,尚書計奏,復徵綿麻,恐其勞民不堪命,上疏曰:

普惠はまた上表して、朝直の日に、時折参内して拝謁することを乞うた。これ以降、月に一度、陛見することとなった。また、粛宗(孝明帝)が自ら朝政を視ず、仏法を過度に崇め、郊祀・宗廟の事を多く有司に委ねていることを以て、上疏して言うには、「臣は聞く、明徳を以て祀りを卹(つつし)めば、成湯は六百の祚を光らせ、厳父を以て天に配すれば、孔子は周公その人なりと称す。故に馨香を上聞せしめ、福を遐世に伝うることを得る。伏して惟うに、陛下は重暉を継ぎ統を纂(つ)ぎ、欽明にして文思あり、天地心に属し、百神望みに佇つ。故に宜しく祀礼を敦崇し、咸(ことごと)く文無きを秩(つい)ずべし。然るに告朔・朝廟は、明堂に親しまず、嘗禘・郊社は、多く有司に委ぬ。射を観、苑に遊び、馬を躍らせ中(うち)に騁(は)せるは、危うくして典に非ず、豈に清蹕の意たるべけんや。思わざる冥業を殖(ふ)やし、巨費を生民に損ず。禄を減じ力を削ぎ、近くは無事の僧に供し、雲殿を崇飾し、遠くは未然の報を邀(もと)む。昧爽の臣は外に稽首し、玄寂の衆は内に遨遊す。礼に愆(あやま)り時に忤(さか)い、人霊未だ穆(やわ)らかならず。愚かに謂う、朝夕の因に従い、秖劫の果を求むるは、未だ若かず万国の忻心を先にして、以て其の親に事え、天下をして和平ならしめ、災害生ぜざらしむるに。伏して願わくは、威儀を淑慎し、万邦の作る式と為り、躬(みずか)ら郊廟の虔(つつしみ)を致し、親しく朔望の礼を紆(めぐ)らし、成均に釈奠し、千畝に心を竭し、明発して寐ず、潔誠を以て禋祼(いんかん)せよ。孝悌は以て神明に通じ、徳教は以て四海を光らすべし。則ち一人喜び有れば、兆民之に頼る。然る後に三宝に精進し、如来に信心す。道は礼によりて深く、故に諸漏尽くす可く、法は礼に随いて積み、故に彼岸登る可し。僧寺の不急の華を量り撤し、百官の久しく折れたる秩を還し復せよ。已に興せる構えは、務めて簡成に従い、将来の造営は、権(しばら)く停息せしめよ。旧に仍るも亦た可なり、何ぞ必ずしも改作せん。庶幾くは用を節し人を愛し、法俗俱に頼らん。臣、学経遠に及ばず、言多く孟浪、其の憂いに忝(かたじけな)く職し、敢えて黙爾せず」。間もなく別勅を以て外に付し、釈奠の礼を議せしめた。

原文普惠又表乞朝直之日,時聽奉見。自此之後,月一陛見。又以肅宗不親視朝,過崇佛法,郊廟之事,多委有司,上疏曰:「臣聞明德卹祀,成湯光六百之祚;嚴父配天,孔子稱周公其人也。故能馨香上聞,福傳遐世。伏惟陛下重暉纂統,欽明文思,天地屬心,百神佇望,故宜敦崇祀禮,咸秩無文。而告朔朝廟,不親於明堂;嘗禘郊社,多委於有司。觀射遊苑,躍馬騁中,危而非典,豈清蹕之意。殖不思之冥業,損巨費於生民。減祿削力,近供無事之僧;崇飾雲殿,遠邀未然之報。昧爽之臣,稽首於外;玄寂之眾,遨遊於內。愆禮忤時,人靈未穆。愚謂從朝夕之因,求秖劫之果,未若先萬國之忻心,以事其親,使天下和平,災害不生者也。伏願淑慎威儀,萬邦作式,躬致郊廟之虔,親紆朔望之禮,釋奠成均,竭心千畝,明發不寐,潔誠禋祼。孝悌可以通神明,德教可以光四海,則一人有喜,兆民賴之。然後精進三寶,信心如來。道由禮深,故諸漏可盡;法隨禮積,故彼岸可登。量撤僧寺不急之華,還復百官久折之秩。已興之構,務從簡成;將來之造,權令停息。仍舊亦可,何必改作。庶節用愛人,法俗俱賴。臣學不經遠,言多孟浪,忝職其憂,不敢默爾。」尋別敕付外,議釋奠之禮。

時に史官が日蝕の日を定め、予め朝儀の停止を命じた。普惠は、予め廃することは礼に非ずとして、上疏してこれを陳べた。また上表して時政の得失を論じた。第一に、法度を審らかにし、斗尺を平らかにし、租調は務めて軽く、賦役は務めて省くこと。第二に、輿言を聴き、怨訟を察し、先皇の旧事で政に不便なものは、悉く追って改めることを請うこと。第三に、忠謇を進め、不肖を退け、賢を任ずるに貳(ふたごころ)なく、邪を去るに疑わず。第四に、滅びた国を興し、絶えた世を継ぎ、勲親の胤は、収め叙する所とすべきこと。書が奏上されると、粛宗と霊太后は普惠を宣光殿に引き入れ、事に随って難詰し、対して時を移した。命じて言うには、「寧ろ先皇の詔があって、一一翻して改めることがあろうか!」普惠は僶俛(びんぶ)して言わず。命じて言うには、「卿は諫めようとしているようだ。故に左右に人がいるので、苦言を肯(がえ)んじないのだろう。朕が卿のために左右を屏(しりぞ)ける。卿は其れを尽く陳べよ」。答えて言うには、「聖人が庶物を養うは、傷つけるが如くに之を愛す。況んや今、二聖(皇帝と太后)洪緒を纂承し、妻は夫を承け、子は父を承ぐ。夫・父の不可なるを、安んじて仍(なお)行うは、豈に先帝が伝え委ねた本意ならんや。仰いで惟うに、先帝の行われた事は、或いは有司の謬り、或いは権時に行われ、後において不可と為すものは、皆追って之を正す。聖上は先帝の自新を忘れ、理の伸屈を問わず、一に皆之を抑える。豈に蒼生黎庶が聖徳に仰望する所ならんや」。太后は言う、「些細な細務を一一翻動すれば、却って煩擾と成る」。普惠は言う、「聖上の庶物を養うは、慈母の赤子を養うが如し。今、赤子幾(ほとほと)危壑に臨み、将に水火に赴かんとす。煩労を以て救わざれば、豈に赤子が慈母に望む所ならんや」。太后は言う、「天下の蒼生に、寧ろかくの如き苦事あらんや」。普惠は言う、「天下の親懿、太師彭城王(元勰)より重きは莫し。然るに遂に枉死を免れず。微細の苦しみ、何ぞ得て無からんや」。太后は言う、「彭城王の苦しみについては、吾既に其の三子を封じた。何ぞ復た言うに足らん」。普惠は言う、「聖后が彭城王の三子を封ぜられたことは、天下忻(よろこ)びて至徳を知り、慈母の上に在るを知る。臣が重ねて陳ぶる所以は、凡そ此の如き枉(まが)りは、垂れて聖察を乞わんがため」。太后は言う、「卿は『滅びた国を興し、絶えた世を継ぐ』と言うが、滅国絶世とは、竟(つい)に復た誰を指すのか」。普惠は言う、「昔、淮南王(劉長)逆終(謀反の末)すと雖も、漢の文帝は其の四子を封じた。蓋し骨肉は棄つべからず、親を親しむ故なり。窃かに見るに、故太尉咸陽王(元禧)・冀州刺史京兆王(元愉)は、乃ち皇子皇孫なり。一徳を虧(か)きしことより、自ら悔戾を貽(のこ)し、幽壤に沈淪し、緬(はるか)にして収められず。豈に興滅継絶の意たるべけんや。二王を収葬し、其の子孫を封ずることを乞う。愚臣の願いなり」。太后は言う、「卿の言うところ理あり。朕深く之を戢(おさ)む。当に公卿をして博く此の事を議せしめん」。

原文時史官剋日蝕,豫敕罷朝。普惠以逆廢非禮,上疏陳之。又表論時政得失。一曰,審法度,平斗尺,租調務輕,賦役務省。二曰,聽輿言,察怨訟,先皇舊事有不便於政者,請悉追改。三曰,進忠謇,退不肖,任賢勿貳,去邪勿疑。四曰,興滅國,繼絕世,勳親之胤,所宜收敍。書奏,肅宗、靈太后引普惠於宣光殿,隨事難詰,延對移時。令曰:「寧有先皇之詔,一一翻改!」普惠僶俛不言。令曰:「卿似欲致諫,故以左右有人,不肯苦言。朕為卿屏左右,卿其盡陳之。」對曰:「聖人之養庶物,愛之如傷,況今二聖纂承洪緒,妻承夫,子承父,夫、父之不可,安然仍行,豈先帝傳委之本意?仰惟先帝行事,或有司之謬,或權時所行,在後以為不可者,皆追而正之。聖上忘先帝之自新,不問理之伸屈,一皆抑之,豈蒼生黎庶所仰望於聖德?」太后曰:「小小細務,一一翻動,更成煩擾。」普惠曰:「聖上之養庶物,若慈母之養赤子。今赤子幾臨危壑,將赴水火,以煩勞而不救,豈赤子所望於慈母!」太后曰:「天下蒼生,寧有如此苦事?」普惠曰:「天下之親懿,莫重於太師彭城王,然遂不免枉死。微細之苦,何可得無?」太后曰:「彭城之苦,吾已封其三子,何足復言!」普惠曰:「聖后封彭城之三子,天下莫不忻至德,知慈母之在上。臣所以重陳者,凡如此枉,乞垂聖察。」太后曰:「卿云『興滅國,繼絕世』,滅國絕世,竟復誰是?」普惠曰:「昔淮南逆終,漢文封其四子,蓋骨肉之不可棄,親親故也。竊見故太尉咸陽王、冀州刺史京兆王,乃皇子皇孫,一德之虧,自貽悔戾,沉淪幽壤,緬焉弗收,豈是興滅繼絕之意?乞收葬二王,封其子孫,愚臣之願。」太后曰:「卿言有理,朕深戢之,當命公卿博議此事。」

任城王元澄が薨ずると、普惠は吏民の義として、またその恩待を受けたことを荷い、朔望ごとに奔赴し、禫除(喪明け)に至るまで、寒暑風雨を問わず必ず至った。初め、元澄は普惠を嘉賞し、臨終に際し、尚書右丞とすることを啓上した。霊太后は元澄を深く悼み、その啓を覧て従った。詔が行われた後、尚書諸郎は普惠の地が寒門(低い家柄)であることを以て、直ちに管轄の職に居るべきでないとし、相与って約束し、皆再び上省(出仕)しないことを欲し、紛紜すること多日にしてやっと止んだ。

原文及任城王澄薨,普惠以吏民之義,又荷其恩待,朔望奔赴,至於禫除,雖寒暑風雨,無不必至。初澄嘉賞普惠,臨薨,啟為尚書右丞。靈太后既深悼澄,覽啟從之。詔行之後,尚書諸郎以普惠地寒,不應便居管轄,相與為約,並欲不復上省,紛紜多日乃息。

正光二年、詔を下して楊鈞を遣わし、蠕蠕の主阿那瓌を送って国に還らしめんとした。張普惠はこれを遣わすことが後患を遺すと謂い、上疏して曰く、「臣は聞く、乾元は利貞を以て大となす、義に非ざれば則ち動かず。皇王は博施を以て功となす、類に非ざれば則ち従わず。故に能く万物を始め天下を化す。伏して惟うに、陛下は叡哲欽明にして、道は虞舜に光り、八表は心を宅し、九服は清晏たり。蠕蠕は朔垂において相害し、妖師は江外において乱を扇ぐ。これ乃ち封豕長蛇、王度を識らず、天将に其の罪を悔い、以て皇魏に奉ぜしむる所以なり。故に荼毒し之を、辛苦し之を、至道の楽しむべきを知らしむるなり。宜しく民を安んじて其の志を悦ばしめ、己を恭しくして其の心を懐かしむべし。然るに先ず自ら労擾し、下民を艱難し、師を興して郊甸の内に、遠く荒塞の外に投じ、累世の勁敵を救わんとす。名無きの師と謂うべし。諺に曰く『乱門の過ぎざるを唯す』と。愚情、其の可なるを見ず。当に是れ辺将の一時の功を窺窃し、兵は凶器たるを思わず、已むを得ずして之を用いる者ならん。夫れ白登の役、漢祖自ら困しめらる。樊噲は十万の衆を以て匈奴の中に横行せんと欲し、季布は以て不可と為し、之を斬らんことを請う。千載以て美と為す。況んや今旱酷異常、聖慈膳を降し、乃ち一万五千人を以て楊鈞を将と為し、蠕蠕を定めんと欲す。時に忤いて動く、其れ済むべけんや。阿那瓌は皇朝に命を投ず、之を撫するは可なり。豈に我が兆民を困疲して以て天喪の虜を資すべけんや。昔、荘公は子糾を納れて、以て乾時の敗を致し、魯僖は邾国を以て、懸冑の耻有り。今蠕蠕は時に乱れ、後主継ぎて立つ。散亡と云うと雖も、姦虞抑え難し。脱せば井陘の慮有らんか、楊鈞の肉其れ食うべけんや。高車・蠕蠕、連兵積年、飢饉相仍り、其の自ら斃るるを須つ。小は亡び大は傷き、然る後一挙にして之を併せん。これ卞氏の高略、以て両虎を獲る所以なり。図らざるべからず。今土山難を告げ、簡書相続く。蓋し亦為す能わざるなり。正に今の挙と相会し、天其れ或いは以て人に告戒せんと欲し、南北両疆をして並びに大衆を興さしめんと欲せざるか。脱せば狂狡其の間に間を構え、復た事中国に連なれば、何を以て之を寧んぜん。今宰輔は専ら小名を好み、安危の大計を図らず。これ微臣の寒心する所以なり。那瓌の還らざるは、何の信義に負くや。此の機の際、北師は停むべし。臣の言は義に及ばず、文書の経過する所、陳べざるを得ず。兵は猶ほ火の如し、戢えざれば将に自ら焚かん。二虜自滅の形、以て殷鑒と為すべし。伏して願わくは万国を輯和し、以て四疆を静め、混一の期、坐して自ら至らんことを。臣愚昧多く違う、必ず採るべき無からん。匹夫の智、願わくは以て呈献せん」と。表奏す。詔答えて曰く、「夫れ窮鳥人に帰すれば、尚ほ或いは惻みを興す。況んや那瓌禍に嬰り流離し、遠く来りて依庇す。情に在り国に在り、何ぞ矜まざるを容れんや。且つ亡を納れ喪を興すは、国の大義なり。皇魏堂堂、寧く斯の徳を廃せんや。後主乱亡す、当に謬に非ざるに似たり。此れを送り彼れ迎う、戦いを拒まざるを想う。国の義宜しく表すべく、朝算已に決す。卿深誠厚慮、朕用て嘉戢す。但だ此の段の機略、相従うことを獲ず。脱せば後逮わずんば、匡言を憚ること勿かれ」と。

原文正光二年,詔遣楊鈞送蠕蠕主阿那瓌還國。普惠謂遣之將貽後患,上疏曰:「臣聞乾元以利貞為大,非義則不動;皇王以博施為功,非類則不從。故能始萬物而化天下者也。伏惟陛下叡哲欽明,道光虞舜,八表宅心,九服清晏。蠕蠕相害於朔垂,妖師扇亂於江外,此乃封豕長蛇,不識王度,天將悔其罪,所以奉皇魏。故荼毒之,辛苦之,令知至道之可樂也。宜安民以悅其志,恭己以懷其心。而先自勞擾,艱難下民,興師郊甸之內,遠投荒塞之外,救累世之勁敵,可謂無名之師。諺曰『唯亂門之無過』,愚情未見其可。當是邊將窺竊一時之功,不思兵為凶器,不得已而用之者也。夫白登之役,漢祖親困之。樊噲欲以十萬眾橫行匈奴中,季布以為不可,請斬之。千載以為美。況今旱酷異常,聖慈降膳,乃以萬五千人使楊鈞為將而欲定蠕蠕,忤時而動,其可濟乎?阿那瓌投命皇朝,撫之可也,豈容困疲我兆民以資天喪之虜。昔莊公納子糾,以致乾時之敗;魯僖以邾國,而有懸冑之耻。今蠕蠕時亂,後主繼立,雖云散亡,姦虞難抑。脫有井陘之慮,楊鈞之肉其可食乎!高車、蠕蠕,連兵積年,飢饉相仍,須其自斃,小亡大傷,然後一舉而并之。此卞氏之高略,所以獲兩虎,不可不圖之。今土山告難,簡書相續,蓋亦無能為也,正與今舉相會,天其或者欲以告戒人,不欲使南北兩疆,並興大眾。脫狂狡構間於其間,而復事連中國,何以寧之?今宰輔專欲好小名,不圖安危大計,此微臣所以寒心者也。那瓌之不還,負何信義?此機之際,北師宜停。臣言不及義,文書所經過,不敢不陳。兵猶火也,不戢將自焚。二虜自滅之形,可以為殷鑒。伏願輯和萬國,以靜四疆,混一之期,坐而自至矣。臣愚昧多違,必無可採,匹夫之智,願以呈獻。」表奏,詔答曰:「夫窮鳥歸人,尚或興惻,況那瓌嬰禍流離,遠來依庇,在情在國,何容弗矜。且納亡興喪,有國大義,皇魏堂堂,寧廢斯德。後主亂亡,似當非謬,此送彼迎,想無拒戰。國義宜表,朝算已決,卿深誠厚慮,朕用嘉戢。但此段機略,不獲相從,脫後不逮,勿憚匡言。」

時に蕭衍の義州刺史文僧明、城を挙げて帰順す。揚州刺史長孫稚、別駕封寿を遣わして城に入り固守せしむ。衍の将裴邃・湛僧、衆を率いて攻逼す。詔して張普惠を持節・東道行臺と為し、軍司を摂して赴援せしむ。軍始めて淮を渡るに及び、封寿已に城を棄て単馬にして退く。軍罷めて朝に還る。蕭衍の弟子西豊侯正徳、詐りて降款を称す。朝廷頗る当に迎うべきことを事とす。張普惠上疏し、揚州に赴き、蕭氏に移して還らんことを請う。従わず。俄にして、正徳果たして逃げ還る。涼州刺史石士基・行臺元洪超並びに贓貨ありて縄せらる。張普惠を右将軍・涼州刺史と為し、即ち西行臺と為す。病を以て辞し免る。光禄大夫を除し、右丞は元の如し。

原文時蕭衍義州刺史文僧明舉城歸順,揚州刺史長孫稚遣別駕封壽入城固守,衍將裴邃、湛僧率眾攻逼,詔普惠為持節、東道行臺,攝軍司赴援之。軍始渡淮,而封壽已棄城單馬而退。軍罷還朝。蕭衍弟子西豐侯正德詐稱降款,朝廷頗事當迎,普惠上疏,請赴揚州,移還蕭氏,不從。俄而,正德果逃還。涼州刺史石士基、行臺元洪超並贓貨被繩,以普惠為右將軍、涼州刺史,即為西行臺。以病辭免。除光祿大夫,右丞如故。

先に、仇池武興の群氐数度反し、西垂の郡戍、租運久しく絶ゆ。詔して張普惠を以て本官のまま持節・西道行臺と為す。秦・岐・涇・華・雍・豳・東秦の七州の兵武三万人を与え、其の召発に任せ、南秦・東益の二州の兵租を送り、諸戍に分付せしむ。其の部将統する所は、関西の牧守の中に於いて随機に召遣するを聴し、軍資板印の属は、悉く以て自ら随う。張普惠南秦に至り、岐・涇・華・雍・豳・東秦の六州の兵武を停め、秦州の兵武四千人を召し、四統に分配す。租を送る兵に令して営を連ね柵を接ぎ、相継ぎて進み、租を運ぶ車驢は、随機に輸転せしむ。別に中散大夫封答を遣わし南秦を慰諭し、員外常侍楊公熙を遣わし東益の氐民を宣労せしむ。時に、南秦の氐豪呉富、兇類を聚合し、所在に邀劫す。公熙既に東益州に至る。刺史魏子建密かに張普惠に書を送り、言うに公熙は旧は蕃国の胤なり、而して諸氐之と相見する者、必ず陰私の言有らん、宜しく図防を加うべしと。張普惠乃ち符を以て公熙を摂し、南秦に赴かしむ。公熙果たして已に密かに其の従兄山虎を遣わし呉富と同逆し、又妄りに自ら郷里を説き、群氐を紛動し、託け云く崔南秦と隙有りと、拒みて赴かず。租平落に達す。呉富等果たして車営を脅かす。実に公熙の潜かに遣わす所なり。後、呉富は左右の者に殺さるると雖も、徒党猶盛なり。秦□の綰く所の武都・武階、租頗る達するを得。東益の群氐先ず款順す。故に広業・仇鳩・河池の三城の粟便ち入るを得。其の東益に入るべき十万石の租は、皆稽留して費え尽き、升斗も至らず。鎮戍の兵武、遂に飢虚を致し、咸く張普惠の経略広からざるを恨む。事訖り、張普惠表を拝して公熙を按劾す。還朝し、絹布一百段を賜う。

原文先是,仇池武興羣氐數反,西垂郡戍,租運久絕。詔普惠以本官為持節、西道行臺。給秦、岐、涇、華、雍、豳、東秦七州兵武三萬人,任其召發,送南秦、東益二州兵租,分付諸戍,其所部將統,聽於關西牧守之中隨機召遣,軍資板印之屬,悉以自隨。普惠至南秦,停岐、涇、華、雍、豳、東秦六州兵武,召秦州兵武四千人,分配四統;令送租兵連營接柵,相繼而進,運租車驢,隨機輸轉。別遣中散大夫封答慰喻南秦,員外常侍楊公熙宣勞東益氐民。於時,南秦氐豪吳富聚合兇類,所在邀劫。公熙既至東益州,刺史魏子建密與普惠書,言公熙舊是蕃國之胤,而諸氐與相見者,必有陰私言,宜加圖防。普惠乃符攝公熙,令赴南秦。公熙果已密遣其從兄山虎與吳富同逆,又妄自說鄉里,紛動羣氐,託云與崔南秦有隙,拒而不赴。租達平落,吳富等果脅車營,實公熙所潛遣也。後吳富雖為左右所殺,而徒黨猶盛。秦□所綰武都、武階,租頗得達。東益羣氐先款順,故廣業、仇鳩、河池三城粟便得入。其應入東益十萬石租,皆稽留費盡,升斗不至,鎮戍兵武,遂致飢虛,咸恨普惠經略不廣。事訖,普惠拜表按劾公熙。還朝,賜絹布一百段。

時に詔して冤屈を訪う。張普惠上疏して曰く、

原文時詔訪冤屈,普惠上疏曰:

左将軍・東豫州刺史に出づ。淮南九戍・十三郡は、猶ほ蕭衍の前弊に因り、別郡異県の民錯雑して居止す。張普惠乃ち次第に括比し、郡県を省減し、上表して状を陳ぶ。詔して之を許す。宰守此に因りて綰摂方有り、姦盗起こらず、民以て便と為す。蕭衍将胡広を遣わして来たり安陽を寇す。軍主陳明祖等、白沙・鹿城の二戍を脅かす。衍又た定州刺史田超秀・田僧達等を遣わし窃かに石頭戍を陥れ、径に安陂城を拠る。郢州新塘の賊は、州西数十里に近し。張普惠前後将を命じて拒戦せしめ、並びに之を破る。

原文出除左將軍、東豫州刺史。淮南九戍、十三郡,猶因蕭衍前弊,別郡異縣之民錯雜居止。普惠乃依次括比,省減郡縣,上表陳狀。詔許之。宰守因此綰攝有方,姦盜不起,民以為便。蕭衍遣將胡廣來寇安陽,軍主陳明祖等脅白沙、鹿城二戍,衍又遣定州刺史田超秀、田僧達等竊陷石頭戍,徑據安陂城。郢州新塘之賊,近在州西數十里。普惠前後命將拒戰,並破之。

張普惠は財業を営まず、進挙を好み、故旧に敦し。冀州の人侯堅固、少時其と遊学し、早く終わる。其の子長瑜、張普惠毎に四時に禄を請うるに、減じ贍給して其の衣食を給せざること無し。豫州と為るに及び、長瑜の褐を解かんことを啓し、其の合門を携えて拯給す。孝昌元年三月、州に卒す。時に年五十八。平北将軍・幽州刺史を贈られ、諡して宣恭と曰う。

原文普惠不營財業,好有進舉,敦於故舊。冀州人侯堅固少時與其遊學,早終,其子長瑜,普惠每於四時請祿,無不減贍給其衣食。及為豫州,啟長瑜解褐,攜其合門拯給之。孝昌元年三月,在州卒,時年五十八。贈平北將軍、幽州刺史,諡曰宣恭。

長子栄儁、武定末、斉王相府の属。

原文長子榮儁,武定末,齊王相府屬。

栄儁の弟龍子、揚州驃騎府長史。

原文榮儁弟龍子,揚州驃騎府長史。