孫紹
孫紹は 字 を世慶といい、昌黎の人である。代々 慕容 氏に仕えた。祖父の志は国に入り、済陽太守の任にて卒した。父の協は字を文和といい、上党太守であった。紹は若くして学問を好み、経史に広く通じ、文才に富み、陰陽術数にも多く通暁した。初め校書郎となり、やがて給事 中 に遷り、長兼羽林監より門下録事となった。朝廷の大事について、よく得失を論じ、これにより世に知られた。かつて『釈典論』を著し、完璧とはいえないものの、時に取るべきところがあった。常景らとともに律令を修訂した。
延昌年間、紹は上表して言うには、
ほどなく、出向して済陰太守を拝命した。帰還後、 司徒 功曹参軍、歩兵 校尉 、長水 校尉 を歴任した。正光初年、 中書 侍郎を兼ね、高麗に使した。帰還後、鎮遠将軍、右軍将軍となった。久しくして、徐兗和糴使となった。朝廷に帰り、軍国に関する利害を大いに陳述したが、回答はなかった。紹はさらに上表して言うには、「臣は聞く、文と質は互いに用い、治道はこれによって輝き、盛衰は時に 適 い、人物はこれによって通じ合うと。故に三霊の事を恢弘し、仁は九服に洽うことができるのである。伏して惟うに、陛下は霊運に応じて 践祚 され、沖虚明らかにして物を照らし、宰輔は忠純にして、伊尹・霍光の美に均しく、既に昇平の基を致し、無為の業を成すべきである。しかるに漠北は命に叛き、隴右は逆を構え、中州は驚擾し、民庶は窃かに議する。その故は何か。皆、上法通ぜず、下情怨み塞がるによるのである。臣は愚短ながらも、始末を具に鑑みる。往時、代都にあっては、武質にして治安し、中京以来は、文華にして政乱す。故に臣は昔、太和の時に、極力得失を陳べ、四 方 華夷の心態を具論し、高祖は垂れて納れられ、文応は尋ねるべきである。延昌・正光の時、奏疏を頻りに上るも、主者は収録するのみで、報問に蒙らず、即日の事勢、遂にここに至るは、尽く微臣が予め陳べたるの験である。今、東南に窃号の豎あり、西北に逆命の寇あり、豈に天を怨むべきか、実に人を尤むるなり。臣は今、荒外を憂えず、正に中畿を慮う。急ぎ改張を 須 い、以てその意を寧んずべし。若しなお疑いを持てば、変乱間もなく作らん。肘腋一たび乖けば、大事去らん。然れども臣は国に奉ずること四世、欣戚同じくす。但だ職は冗散に在り、枢密に関わらず、寧済の計、陳うる所なし。経緯甚だ多けれども、機無くして織るべしと謂うべし。夫れ天下は大器なり。一たび正しければ傾き難く、一たび傾けば正し難し。当今の危きは、躡足の急なり。臣は肉食に備わり、痛心已むこと無し。泣血して上陳し、願わくは垂れて採察せられんことを。若し言を執事に参じ、献可替否し、寇逆を獲て除き、 社稷 慶びを称するを得ば、死すとも生くが如く、犬馬の情畢らん」。
紹の性質は抗 直 で、毎度封事を上るに、常に懇切を極め、犯 忤 を憚らなかった。しかし天性疎脱で、言うことが急に高下し、時人はこれを軽んじ、採納されなかった。紹の兄の世元は早逝した。世元は箏を弾くのが巧みで、紹は後に箏の音を聞くや、涕泗嗚咽し、これを捨てて去った。世はこれをもって彼を尚んだ。
驍 騎将軍に除され、吐谷渾に使した。帰還後、太府少卿となった。かつて朝見の際、霊太后が言うには、「卿は年も少し老いたな」。紹は言う、「臣の年は老いておりますが、臣の卿(官職)はまだ若うございます」。太后は笑った。右将軍、太中大夫に遷った。紹はかつて百官とともに朝に赴き、東掖門が未だ開かず、門を守って夜明けを待った。紹は衆中において吏部郎中辛雄を衆外に引き寄せ、窃かにこれに謂うには、「此の中の諸人、間もなく皆死に尽くすであろう。ただ吾と卿のみがなお富貴を享けん」。雄は甚だ駭愕し、その所以を測りかねた。ほどなく河陰の難があった。紹は禄命を推すのを善くし、事験甚だ多く、知る者はこれを異とした。
建義初年、衛尉少卿に除され、将軍は元の如し。金紫光禄大夫に転じた。永安年間、太府卿を拝した。以前に正光壬子暦の参議に与った功により、新昌子の爵を賜った。太昌初年、左衛将軍、右光禄大夫に遷った。永熙二年に卒した。時に六十九歳。 都督 冀瀛滄三州諸軍事、驃騎大将軍、 尚書 左 僕射 、冀州 刺 史 を追贈され、 諡 して宣といった。
子の伯元は襲封した。斉が禅譲を受けると、例により降格した。
伯元の弟の叔利は、右将軍、太中大夫。
紹の従父弟の瑜は、済州長史。
瑜の弟の彝は、字を鳳倫という。太和年間、秀才に挙げられた。やがて歩兵 校尉 に遷った。武邑太守の任にて卒した。征虜将軍、営州刺史を追贈された。
子の伯融は、出て瑜の後を継いだ。武定末、□□太守。
伯融の嫡弟の子の寬は、開府田曹参軍。
張普惠
張普惠は字を洪賑といい、常山九門の人である。身長八尺、容貌魁偉であった。父の曄は斉州中水県令となり、普惠は父に従って県に赴き、斉の地で学業を受け、墳典に専心し、克く励みて止まなかった。郷里に帰ると、程玄に就いて講習し、三礼に精通し、兼ねて春秋を善くし、百家の説をも多く窺覧し、諸儒に称された。
太和十九年(495年)、主書となり、制局監を兼ね、劉桃符・石榮・劉道斌と同僚として共に直務し、高祖(孝文帝)に大いに知られた。尚書都令史に転じた。任城王元澄はその学業を重んじ、その名声を高めようとし、僕射の李沖がかつて元澄の邸を訪れた際、張普惠の言論を見て、これも善しとした。世宗(宣武帝)の初め、積射将軍に転じた。元澄が安西将軍・雍州刺史となると、張普惠を府録事参軍に任じるよう上奏し、まもなく 馮翊郡 の事務を代行させた。
元澄は功衰(母の喪服)を身につけていたが、七月七日に文武の官を集め、北園で馬射を行おうとした。張普惠は元澄に奏記を奉って言った。「謹んで承るに、三殺九親は親疎の序列を区別し、五服六術は衰麻の心を等しくする。皆、事に因って情を飾り、変易すべきでない道である。されば、これより大いなる痛みは、終身を超えて深く、書策に記す哀しみは、喪期の内に除かれる。外なるものは節度なくしてはならぬ故に、三年を以て断ち、内なるものは直ちに除くべからざる故に、日月を以て 敦 くする。礼によれば、大練の日に素琴を鼓す。これは吉に即くことを推し進めるためである。小功以上は、虞・祔・練・除を行わなければ沐浴せず、これは制度によって拘束するのである。曾子が問うて言う、『知人に喪服がある場合、祭に参与することができますか』。孔子は言う、『緦麻の喪服であれば祭を行わない、どうして人を助けることがあろうか』。祭に参与しない以上、宴食の道はないと疑われる。また言う、『喪服を廃すれば、饋奠の事に参与することができますか』。子(孔子)は言う、『衰を脱いで奠に参与するのは、礼ではない』。注に云う、『その哀しみを忘れ疾むためである』。愚かには考えるに、喪を除く始めに、饋奠に参与せず、小功の内に、どうして射を観ることができようか。雑記に云う、『大功以下は、葬を終えて人を訪ね、その人が食事を勧めれば、その同族であれば食べ、同族でなければ食べない』。食事でさえ人を選ぶのに、射においてはなおさらであろう。伏して拝見するに、明教(殿下の教え)には、射会の制限を立て、二七(七月七日)の良辰を以て、城中の文武を集め、北園で武芸を習い、中否で揖譲を行おうとされている。時は大閲の秋ではなく、景(時候)は農を妨げる節に及び、国家は縞禫を除いたばかり、殿下は功衰をなお襲っている。これを解いて楽しみとし、以て百姓を訓えることは、すなわち先王の典教を易え、哀戚の情を忘れることであり、恐らくは令徳を昭かにし、子孫に示す所以ではない。射儀を按ずるに、射者は礼楽を本とし、これを忘れて事に従事するは、礼と謂うべからず、鍾鼓を設けざるは、楽と謂うべからず。この二つを捨てて、何を以て射と為さん。また七日(七月七日)の戯れは、令制にこれ無く、功労を 班 ち与えることは、事体に違う慮れがある。庫府は空虚であるから、新たな調達を待つべきであり、二三の趣向は、停止するが便宜である。九月に至るを乞い、備え飾りを尽くして行い、然る後に狸首の章を奏し、矍相の令を宣べ、軒懸の声を立て、雲鉦を建て、神民この時に忻暢せしめん。伏して惟うに、慈明は遠く被わり、万民の望む所、挙動は記録され、発言は則となるのみ、願わくは更に広く訪ね、賜わりて 曲 なく採り上げ、その管見の心を昭かにし、その讜言の責を恕したまえ。然らば芻蕘も歌を遺さず、輿人も献誦せん」。元澄はその言を容れんとし、辞を託して自ら止め、乃ち答えて言った。「文武の道は、昔より成規あり、恥を明らかにし戦を教うるは、振古の常軌である。今、公の制に非ずと雖も、この州は前例を承け、既にこの式あり、民を労せず公を損ねず、その私射に任せること、また何の失いがあろうか。且つ文を 纂 ぎ武を習うは、人の常なる技芸、豈に常なる技芸の間にあって、 須 いるに令制を要せんや。 比 ごろ 適 ま前に依り州府相率いんと欲し、王務の暇、良辰に技芸を習わんとしたまでで、未だ庫物を費用せんとは言わない。礼によれば、兄弟は内で除き、哀しみ已に 殺 ることを明らかにす。小功では、客が来ても主は楽を絶たない。楽を聴くことは可なりとすれば、武を観ること豈に傷つけん。 直 に事の縁り 須 いて 罷 むべきより、先ず令を以て停め、 方 にこの請いを得、深く来意を具す」。
元澄が揚州に転じると、張普惠を羽林監として鎮南大将軍開府主簿を領せしめるよう上奏し、まもなく威遠将軍を加えた。張普惠は元澄に知られた後、二つの藩府を輔佐し、甚だ名声があった。京師に帰還する日、装束は 藍縷 であったので、元澄は絹二十 匹 を賜って行資に充てさせた。朝廷に還り、なお羽林監であった。
また元澄が太妃の憂(喪)に遭った時、臣僚が碑を立てて頌しようとし、碑に題そうとして「康王元妃 之 碑」と云おうとした。元澄が張普惠に諮った。答えて言った。「謹んで朝典を尋ねるに、ただ王妃があるのみで、元の字は無い。魯の夫人孟子を『元妃』と称するのは、下の『継室声子』に対させんがためである。今、烈懿太妃は先王に配し、更に声子・仲子の嫌疑無し、窃かに『元』の字を仮りて名位を別つ必要無しと謂う。且つ氏を以て姓に配するは、愚かには生前の称と為す。故に春秋に、『夫人姜氏斉より至る』とあり、葬った後は、諡を以て姓に配する。故に経に『我が小君文姜氏を葬る』と書き、また『来たりて夫人成風の襚を帰す』と曰う。皆諡を以て姓に配する。古、婦人は夫の諡に従う。今、烈懿太妃は徳一世に冠たり、故に特ち褒 錫 を蒙り、乃ち万代の高き事、豈に定名の重きに於いて、烈懿と称せざるを得んや」。元澄はこれに従った。
王師が大挙し、鍾離を再征した時、張普惠は安楽王元詮の別将長史となった。班師の後、揚烈将軍・相州安北府司馬に任じられた。歩兵 校尉 に遷った。後に本官のまま河南尹丞を領した。世宗が 崩御 すると、甄楷らと酒を飲み遊び従ったことを坐し、免官された。 驍 騎将軍の刁整は、家に旧訓があり、倹葬を営まんとした。張普惠は時流を矯めること甚だしと以為い、刁整に書を送って論じた。事は刁雍伝にある。故事によれば、免官された者は、三載の後に一階を降って叙され、若し才優れば擢授され、この限りに拘られない。熙平年中、吏部尚書の李韶は、張普惠に文学があると奏上し、才優の例に依り、宜しく特ち顕叙すべしとし、敕により寧遠将軍・ 司空 倉曹参軍に任じられた。朝議は降階しないことを以て栄とした。時に任城王元澄が 司空 であり、表議や書記は多く張普惠の出するところであった。
広陵王恭と北海王顥は、生みの祖母の喪服が期服か三年服かについて疑義を生じ、博士の意見が一致せず、詔により群僚に会議させた。張普惠が議して言うには、「謹んで按ずるに、二王の祖母は皆、先朝より命を受け、二国の太妃となされた。これは天子より命を受け、始封の母と言えよう。喪服に『慈母は母の如し』とあり、三年の章にある。伝に曰く、『父の命を貴ぶなり』。鄭玄の注に云う、『大夫の妾の子は、父在世には母に大功、士の妾の子は母に期服。父が卒すれば皆、服を伸ばし得る』と。これは大夫がその妾の子に命じて、母として慈しむ者と為すも、なお父の命を貴ぶと言い、三年服を為す。ましてや天子がその子を列国の王と為し、その生みの母を国太妃と命じたのに、反って自ら公子が母に練冠や大功を着けるのと同じにすることは、軽重が顛倒し、甚だしくして然るべからざるものである。伝に曰く、『始封の君は、諸父昆弟を臣とせず』と。ならばその親服を着けるべきである。魯や衛のような列国が互いに期服を着けるのは、疑いなく明らかである。どうして明らかにするか。喪服に、『君が姑・姉妹・女子で国君に嫁いだ者のために』とあり、伝に曰く、『何ぞ大功なるや、尊同じければなり。尊同じければ、則ちその親服を着け得る』と。諸侯の子は公子と称し、公子は先君を禰(父廟)とすることは得ない。されば兄弟は一体である。位は諸侯に列し、自ら尊同じきを以て互いに服を着け得るのであり、還って公子を基準とし、遠く天王に 厭 えられるべきではない。故に降服には四品あり、君・大夫は尊を以て降し、公子・大夫の子は厭を以て降す。名例が同じでないのに、どうして乱れようか。礼によれば、大夫の妾の子は、父の命により慈しまれたことを以て、その三年服を伸ばす。太妃は既に先帝より命を受け、一国を光り輝かせ、二王は土を 胙 け茅社を賜り、大邦を顕かに 錫 わった。尊同じき高き拠り所を捨てて、禰とせざる公子に附するのは、たとえ許や蔡が位を失うも、これに過ぎることはない。服問に曰く、『軽きに従いて重き有り、公子の妻その皇姑の為に服す』と。公子は厭されるも、妻はなお服を伸ばし得る。ましてや広陵王・北海王は、封を論ずれば封君の子、妃を語れば命妃の孫である。妃を承け重きを 纂 ぎ、遠く先皇と別れ、更に先后の正統を以て、その生みの祖嫡を厭うのは、皇姑に比べて、遥かではあるまいか。今既にその服を伸ばすことを許しながら、復た期服に限るのは、慈母に比べて、 爽 っていないか。経に曰く、『君の祖父母・父母・妻・長子の為に』と。伝に曰く、『何ぞ期なるや、父母長子には君は斬衰を着け、妻は小君なり。父卒して、然る後に祖を後とする者は斬衰を着く』と。今、祖は献文皇帝であり、諸侯はこれを祖とすることは得ない。母は太妃である。これ二王の三年服の証左である。議者は近く正経に背き非類に附し、毫毛の差が千里の誤りを生む。且つ天子は尊くして則ち天に配する。臣妾でない者はない。どうして国母と命じながら、子がその親に服することを聴かないのか。記に曰く、『従服する者は、従う所の者亡ければ、則ち已む』と。又曰く、『君母の党に服せざれば、則ち其の母の党に服す』と。今、従う所の者既に亡い。親服を以てその生みの者に服さなければ、則ち属従の服は何れの所に施すべきか。もし諸王が入って公卿と為り、便ち大夫と同じと為すならば、則ち当今の議は、皆必ずしも国を以て言う必要はない。今の諸王は、自ら列国と同じく、国に 之 かずとも、別に臣僚を置き、一方に玉食する。諸侯と言わざるを得ない。敢えて周礼に拠り、 輒 ち三年服と同じくす」。
当時、議者にも同異があった。国子博士の李郁は議が 罷 んだ後、書を以て張普惠に難じた。普惠は礼に拠り還答し、鄭重に三度往復し、李郁の議は遂に屈した。諫議大夫に転じた。任城王澄が普惠に言うには、「君が諫議を得たことを喜ばず、唯だ諫議が君を得たことを喜ぶ」。
時に霊太后の父、 司徒 の胡国珍が薨じ、相国・太上秦公を追贈された。普惠は前世の后父に「太上」の号が無かったことを以て、闕に詣で上疏し、その不可を陳べた。左右は畏懼し、敢えて通す者はいなかった。ちょうど胡家が墳墓の 壙 を穿つに磐石有りと聞き、乃ち密かに表を上って言うには、
太后は表を覧て、自ら国珍の宅に至り、王公・八座・卿尹及び五品以上の者を召集し、広くその事を議させ、使者を遣わして普惠を召し、相問答させ、又、 侍中 の元叉・中常侍の賈璨に監観させて得失を観させた。任城王澄が普惠に問うて言うには、「漢の高祖が帝と為り、父を尊んで太上皇と為した。今、聖母朝に臨み、父に太上公を贈る。故実に求めれば、準拠無きに非ず。且つ君の挙動は則と為る。何ぞ必ずしも旧を 循 わんや」。対えて言うには、「天子は詔と称し、太后は令と称す。故に周の臣十乱に、文母も預かる。仰いで思うに難き所、窃かに 匹 いならずと謂う」。澄が言うには、「前代の太后にも詔と称した者あり。聖母自ら謙光の義を存せんと欲する故に、称さないだけである。何ぞ詔令の別を以て、厳父の孝を廃せんや」。対えて言うには、「后父を太上と為すことは、昔より未だ有らず。前代の母后は豈にその親を尊崇せざらんことを欲せざるや。王は何ぞ遠く古義を 謨 らずして、近く今の旨に順うのか。未だ 審 らかにせず、太后は何の故にか詔と称するには謙り、太上には謙らないのか。窃かに聖后がその謙光を終わらんことを願う」。 太傅 ・清河王懌が言うには、「昔、僭晋の時、褚氏が朝に臨み、殷浩が褚裒に遺した書に『足下は今の太上皇なり』と言う。況んや太上公において疑いを致さんや」。対えて言うには、「褚裒は女が政を輔くるを以て辞し朝に入らず。淵源(殷浩)はその不恭を譏り、故に太上の 刺 有り。本、その非を称し、その是を記さず。殿下がこれをもって賜い難ずるとは謂わざりき」。侍中の崔光が言うには、「張生の表中に晋に小子侯有りと引き、鄭注より出づ。正経に非ず」。対えて言うには、「正経の文に非ずと雖も、然れども正経の旨を述ぶ。公は古を好み礼を習う。復た斯の難を固くすや」。御史中尉の元匡、因って崔光に謂いて言うには、「張表に云う、晋の小子侯は、号同じきを以て僭称とす。今、太上公の名は太上皇と同じく、晋の小子に比べれば、義似て類す。但だ学ばず、敢えてその是非を弁ぜず」。普惠対えて言うには、「中丞は既にその是を疑い、その非を正さず。豈に三独に望む所ならんや」。尚書の崔亮が言うには、「諫議の見るところ、正に太上の号は人臣に施すべからざるを以てとす。然れども周に太公尚父有り、亦た二名を兼ぬ。人臣の尊重の称、固より今日に始まるに非ざるを知る」。普惠対えて言うには、「尚父とは、徳有りて尚ぶべし。太上とは、上中の上なり。名同じくして義異なり。此れ亦た並ぶに非ず」。亮また言うには、「古に文王・武王有り、亦た文子・武子有り。然らば則ち、太上皇・太上公も亦た何ぞその同じきを嫌わん」。普惠対えて言うには、「文武とは、徳行の迹なり。故に迹同じければ諡同じし。太上とは、尊極の位なり。豈に臣下に通施し得んや」。廷尉少卿の袁翻が言うには、「周官に、上公は九命、上大夫は四命。命数は殊なるも、同じく上なり。何ぞ必ずしも上なる者は皆極尊ならんや」。普惠は厲声を発して袁翻を訶りて言うには、「礼に下卿上士有り。何ぞ大夫と公に止まらん。但だ今行われているのは、太を以て上に加え、二名を双挙する。極尊に非ざるを得ず。彫虫の小芸は、微かに相許すとも、此の処に至っては、豈に卿の及ぶ所ならんや」。翻は甚だ慚色有り、黙して復た言わず。
任城王元澄が言うには、「諫諍の体は、各々己の見解を述べるものであり、その採用・不採用は、もとより時宜に応ずるにある。卿が先に袁氏(袁翻)に答えた際、声調があまりにも厳しかったのは何故か」。張普惠は答えて言うには、「臣の言うところが正しければ、採用されるべきであり、もし正しくなければ、罪に及ぶことを恐れる。是非は弁明すべきであり、ただ争うためではない」。元澄は言う、「朝廷は今、忌憚なき言路を開き、忠言の道を広げようとしている。卿の今の意図は義に向かっているのに、どうして罪罰を慮ると言うのか」。議する者たちは皆、太后が朝政を執られる中、その意向に順うことを重んじたので、上奏して言うには、「張普惠の言葉は屈服しないものではあるが、臣ら一同の意見とは異なる。既に詔勅(渙汗)は発せられた。前の詔に従うことを請う」。太后は再び元叉と賈璨を遣わし、普惠に命じて言わせた、「朕が先に卿を召して群臣と対議させたが、議論の往復が終わり、皆卿の上表とは異なる。朕の行うところは孝子の志であり、卿の陳べるところは忠臣の道である。諸公卿には既に成議がある。卿は朕の思いを苦しめて奪うべからず。後日見解があれば、難く言うことなかれ」。普惠はここに命を拝し、辞して還った。
初め、普惠が召された時、詔を伝える者が驊騮馬を馳せて来て、甚だ迅速であり、佇立して去ることを催促したので、普惠の諸子は憂い恐れて涕泣した。普惠は彼らに言うには、「私は休明の朝に当たり、諫議の職を掌っている。もし言い難きことを言わず、諫め難きことを諫めなければ、唯々諾々として、官を 曠 しくし禄を 尸 とするに等しい。人生に死あり、死してその所を得れば、また何を恨むことがあろうか。然れども朝廷に道あれば、汝ら輩は憂うるなかれ」。議論が終わり、旨を以て労をねぎらわれ宅に還ると、親戚故旧はその幸甚を賀した。時に中山の荘弼が普惠に書を遺して言うには、「明侯(普惠)は淵深な儒者で碩学、身に大才を負い、この公方(公正)を秉り、来たりて諫職に居り、謇謇(忠直)として、諤諤(直言)たり。一昨日、胡 司徒 (胡国珍)の邸において、面を当てて庭に諍い、問難の鋒至るも、応対の響き出で、宋城の帯始めて 縈 り、魯門の 柝 裁 て 警 むが如く、終に群后をして逡巡せしめ、庶僚をして拱黙せしむ。一時には用いられざるも、固より百代に美を伝う。風聞して快然たり、敬みて此の白を裁す」。普惠はこの書を美として、常に口実とした。
普惠は天下の民調(租税)において、絹布の幅が長く広く、尚書の計上・奏上により、更に綿・麻を徴収することとなり、民の労苦に堪えられぬことを恐れ、上疏して言うには、
普惠はまた上表して、朝直の日に、時折参内して拝謁することを乞うた。これ以降、月に一度、陛見することとなった。また、粛宗(孝明帝)が自ら朝政を視ず、仏法を過度に崇め、郊祀・宗廟の事を多く有司に委ねていることを以て、上疏して言うには、「臣は聞く、明徳を以て祀りを 卹 めば、成湯は六百の祚を光らせ、厳父を以て天に配すれば、孔子は周公その人なりと称す。故に馨香を上聞せしめ、福を遐世に伝うることを得る。伏して惟うに、陛下は重暉を継ぎ統を 纂 ぎ、欽明にして文思あり、天地心に属し、百神望みに佇つ。故に宜しく祀礼を敦崇し、 咸 く文無きを 秩 ずべし。然るに告朔・朝廟は、明堂に親しまず、嘗禘・郊社は、多く有司に委ぬ。射を観、苑に遊び、馬を躍らせ 中 に 騁 せるは、危うくして典に非ず、豈に清蹕の意たるべけんや。思わざる冥業を 殖 やし、巨費を生民に損ず。禄を減じ力を削ぎ、近くは無事の僧に供し、雲殿を崇飾し、遠くは未然の報を 邀 む。昧爽の臣は外に稽首し、玄寂の衆は内に遨遊す。礼に 愆 り時に 忤 い、人霊未だ 穆 らかならず。愚かに謂う、朝夕の因に従い、秖劫の果を求むるは、未だ若かず万国の忻心を先にして、以て其の親に事え、天下をして和平ならしめ、災害生ぜざらしむるに。伏して願わくは、威儀を淑慎し、万邦の作る式と為り、 躬 ら郊廟の 虔 を致し、親しく朔望の礼を 紆 らし、成均に釈奠し、千畝に心を竭し、明発して寐ず、潔誠を以て 禋祼 せよ。孝悌は以て神明に通じ、徳教は以て四海を光らすべし。則ち一人喜び有れば、兆民之に頼る。然る後に三宝に精進し、如来に信心す。道は礼によりて深く、故に諸漏尽くす可く、法は礼に随いて積み、故に彼岸登る可し。僧寺の不急の華を量り撤し、百官の久しく折れたる秩を還し復せよ。已に興せる構えは、務めて簡成に従い、将来の造営は、 権 く停息せしめよ。旧に 仍 るも亦た可なり、何ぞ必ずしも改作せん。庶幾くは用を節し人を愛し、法俗俱に頼らん。臣、学経遠に及ばず、言多く孟浪、其の憂いに 忝 く職し、敢えて黙爾せず」。間もなく別勅を以て外に付し、釈奠の礼を議せしめた。
時に史官が日蝕の日を定め、予め朝儀の停止を命じた。普惠は、予め廃することは礼に非ずとして、上疏してこれを陳べた。また上表して時政の得失を論じた。第一に、法度を審らかにし、斗尺を平らかにし、租調は務めて軽く、賦役は務めて省くこと。第二に、輿言を聴き、怨訟を察し、先皇の旧事で政に不便なものは、悉く追って改めることを請うこと。第三に、忠謇を進め、不肖を退け、賢を任ずるに 貳 なく、邪を去るに疑わず。第四に、滅びた国を興し、絶えた世を継ぎ、勲親の胤は、収め叙する所とすべきこと。書が奏上されると、粛宗と霊太后は普惠を宣光殿に引き入れ、事に随って難詰し、対して時を移した。命じて言うには、「寧ろ先皇の詔があって、一一翻して改めることがあろうか!」普惠は 僶俛 して言わず。命じて言うには、「卿は諫めようとしているようだ。故に左右に人がいるので、苦言を 肯 んじないのだろう。朕が卿のために左右を 屏 ける。卿は其れを尽く陳べよ」。答えて言うには、「聖人が庶物を養うは、傷つけるが如くに之を愛す。況んや今、二聖(皇帝と太后)洪緒を纂承し、妻は夫を承け、子は父を承ぐ。夫・父の不可なるを、安んじて 仍 行うは、豈に先帝が伝え委ねた本意ならんや。仰いで惟うに、先帝の行われた事は、或いは有司の謬り、或いは権時に行われ、後において不可と為すものは、皆追って之を正す。聖上は先帝の自新を忘れ、理の伸屈を問わず、一に皆之を抑える。豈に蒼生黎庶が聖徳に仰望する所ならんや」。太后は言う、「些細な細務を一一翻動すれば、却って煩擾と成る」。普惠は言う、「聖上の庶物を養うは、慈母の赤子を養うが如し。今、 赤子幾 危壑に臨み、将に水火に赴かんとす。煩労を以て救わざれば、豈に赤子が慈母に望む所ならんや」。太后は言う、「天下の蒼生に、寧ろかくの如き苦事あらんや」。普惠は言う、「天下の親懿、太師彭城王(元勰)より重きは莫し。然るに遂に枉死を免れず。微細の苦しみ、何ぞ得て無からんや」。太后は言う、「彭城王の苦しみについては、吾既に其の三子を封じた。何ぞ復た言うに足らん」。普惠は言う、「聖后が彭城王の三子を封ぜられたことは、 天下忻 びて至徳を知り、慈母の上に在るを知る。臣が重ねて陳ぶる所以は、凡そ此の如き 枉 りは、垂れて聖察を乞わんがため」。太后は言う、「卿は『滅びた国を興し、絶えた世を継ぐ』と言うが、滅国絶世とは、 竟 に復た誰を指すのか」。普惠は言う、「昔、淮南王(劉長)逆終(謀反の末)すと雖も、漢の文帝は其の四子を封じた。蓋し骨肉は棄つべからず、親を親しむ故なり。窃かに見るに、故 太尉 咸陽王(元禧)・冀州刺史京兆王(元愉)は、乃ち皇子皇孫なり。一徳を 虧 きしことより、自ら悔戾を 貽 し、幽壤に沈淪し、 緬 にして収められず。豈に興滅継絶の意たるべけんや。二王を収葬し、其の子孫を封ずることを乞う。愚臣の願いなり」。太后は言う、「卿の言うところ理あり。朕深く之を 戢 む。当に公卿をして博く此の事を議せしめん」。
任城王元澄が薨ずると、普惠は吏民の義として、またその恩待を受けたことを荷い、朔望ごとに奔赴し、禫除(喪明け)に至るまで、寒暑風雨を問わず必ず至った。初め、元澄は普惠を嘉賞し、臨終に際し、尚書右丞とすることを啓上した。霊太后は元澄を深く悼み、その啓を覧て従った。詔が行われた後、尚書諸郎は普惠の地が寒門(低い家柄)であることを以て、直ちに管轄の職に居るべきでないとし、相与って約束し、皆再び上省(出仕)しないことを欲し、紛紜すること多日にしてやっと止んだ。
正光二年、詔を下して楊鈞を遣わし、 蠕蠕 の主阿那瓌を送って国に還らしめんとした。張普惠はこれを遣わすことが後患を遺すと謂い、上疏して曰く、「臣は聞く、乾元は利貞を以て大となす、義に非ざれば則ち動かず。皇王は博施を以て功となす、類に非ざれば則ち従わず。故に能く万物を始め天下を化す。伏して惟うに、陛下は叡哲欽明にして、道は虞舜に光り、八表は心を宅し、九服は清晏たり。蠕蠕は朔垂において相害し、妖師は江外において乱を扇ぐ。これ乃ち封豕長蛇、王度を識らず、天将に其の罪を悔い、以て皇魏に奉ぜしむる所以なり。故に荼毒し之を、辛苦し之を、至道の楽しむべきを知らしむるなり。宜しく民を安んじて其の志を悦ばしめ、己を恭しくして其の心を懐かしむべし。然るに先ず自ら労擾し、下民を艱難し、師を興して郊甸の内に、遠く荒塞の外に投じ、累世の勁敵を救わんとす。名無きの師と謂うべし。諺に曰く『乱門の過ぎざるを唯す』と。愚情、其の可なるを見ず。当に是れ辺将の一時の功を窺窃し、兵は凶器たるを思わず、已むを得ずして之を用いる者ならん。夫れ白登の役、漢祖自ら困しめらる。樊噲は十万の衆を以て 匈奴 の中に横行せんと欲し、季布は以て不可と為し、之を斬らんことを請う。千載以て美と為す。況んや今旱酷異常、聖慈膳を降し、乃ち一万五千人を以て楊鈞を将と為し、蠕蠕を定めんと欲す。時に忤いて動く、其れ済むべけんや。阿那瓌は皇朝に命を投ず、之を撫するは可なり。豈に我が兆民を困疲して以て天喪の虜を資すべけんや。昔、荘公は子糾を納れて、以て乾時の敗を致し、魯僖は邾国を以て、懸冑の耻有り。今蠕蠕は時に乱れ、後主継ぎて立つ。散亡と云うと雖も、姦虞抑え難し。脱せば井陘の慮有らんか、楊鈞の肉其れ食うべけんや。 高車 ・蠕蠕、連兵積年、飢饉相仍り、其の自ら斃るるを須つ。小は亡び大は傷き、然る後一挙にして之を併せん。これ卞氏の高略、以て両虎を獲る所以なり。図らざるべからず。今土山難を告げ、簡書相続く。蓋し亦為す能わざるなり。正に今の挙と相会し、天其れ或いは以て人に告戒せんと欲し、南北両疆をして並びに大衆を興さしめんと欲せざるか。脱せば狂狡其の間に間を構え、復た事中国に連なれば、何を以て之を寧んぜん。今宰輔は専ら小名を好み、安危の大計を図らず。これ微臣の寒心する所以なり。那瓌の還らざるは、何の信義に負くや。此の機の際、北師は停むべし。臣の言は義に及ばず、文書の経過する所、陳べざるを得ず。兵は猶ほ火の如し、戢えざれば将に自ら焚かん。二虜自滅の形、以て殷鑒と為すべし。伏して願わくは万国を輯和し、以て四疆を静め、混一の期、坐して自ら至らんことを。臣愚昧多く違う、必ず採るべき無からん。匹夫の智、願わくは以て呈献せん」と。表奏す。詔答えて曰く、「夫れ窮鳥人に帰すれば、尚ほ或いは惻みを興す。況んや那瓌禍に嬰り流離し、遠く来りて依庇す。情に在り国に在り、何ぞ矜まざるを容れんや。且つ亡を納れ喪を興すは、国の大義なり。皇魏堂堂、寧く斯の徳を廃せんや。後主乱亡す、当に謬に非ざるに似たり。此れを送り彼れ迎う、戦いを拒まざるを想う。国の義宜しく表すべく、朝算已に決す。卿深誠厚慮、朕用て嘉戢す。但だ此の段の機略、相従うことを獲ず。脱せば後逮わずんば、匡言を憚ること勿かれ」と。
時に蕭衍の義州刺史文僧明、城を挙げて帰順す。揚州刺史長孫稚、別駕封寿を遣わして城に入り固守せしむ。衍の将裴邃・湛僧、衆を率いて攻逼す。詔して張普惠を持節・東道行臺と為し、軍司を摂して赴援せしむ。軍始めて淮を渡るに及び、封寿已に城を棄て単馬にして退く。軍罷めて朝に還る。蕭衍の弟子西豊侯正徳、詐りて降款を称す。朝廷頗る当に迎うべきことを事とす。張普惠上疏し、揚州に赴き、蕭氏に移して還らんことを請う。従わず。俄にして、正徳果たして逃げ還る。涼州刺史石士基・行臺元洪超並びに贓貨ありて縄せらる。張普惠を右将軍・涼州刺史と為し、即ち西行臺と為す。病を以て辞し免る。光禄大夫を除し、右丞は元の如し。
先に、仇池武興の群 氐 数度反し、西垂の郡戍、租運久しく絶ゆ。詔して張普惠を以て本官のまま持節・西道行臺と為す。秦・岐・涇・華・雍・豳・東秦の七州の兵武三万人を与え、其の召発に任せ、南秦・東益の二州の兵租を送り、諸戍に分付せしむ。其の部将統する所は、関西の牧守の中に於いて随機に召遣するを聴し、軍資板印の属は、悉く以て自ら随う。張普惠南秦に至り、岐・涇・華・雍・豳・東秦の六州の兵武を停め、秦州の兵武四千人を召し、四統に分配す。租を送る兵に令して営を連ね柵を接ぎ、相継ぎて進み、租を運ぶ車驢は、随機に輸転せしむ。別に中散大夫封答を遣わし南秦を慰諭し、員外常侍楊公熙を遣わし東益の氐民を宣労せしむ。時に、南秦の氐豪呉富、兇類を聚合し、所在に邀劫す。公熙既に東益州に至る。刺史魏子建密かに張普惠に書を送り、言うに公熙は旧は蕃国の胤なり、而して諸氐之と相見する者、必ず陰私の言有らん、宜しく図防を加うべしと。張普惠乃ち符を以て公熙を摂し、南秦に赴かしむ。公熙果たして已に密かに其の従兄山虎を遣わし呉富と同逆し、又妄りに自ら郷里を説き、群氐を紛動し、託け云く崔南秦と隙有りと、拒みて赴かず。租平落に達す。呉富等果たして車営を脅かす。実に公熙の潜かに遣わす所なり。後、呉富は左右の者に殺さるると雖も、徒党猶盛なり。秦□の綰く所の武都・武階、租頗る達するを得。東益の群氐先ず款順す。故に広業・仇鳩・河池の三城の粟便ち入るを得。其の東益に入るべき十万石の租は、皆稽留して費え尽き、升斗も至らず。鎮戍の兵武、遂に飢虚を致し、咸く張普惠の経略広からざるを恨む。事訖り、張普惠表を拝して公熙を按劾す。還朝し、絹布一百段を賜う。
時に詔して冤屈を訪う。張普惠上疏して曰く、
左将軍・東 豫 州刺史に出づ。淮南九戍・十三郡は、猶ほ蕭衍の前弊に因り、別郡異県の民錯雑して居止す。張普惠乃ち次第に括比し、郡県を省減し、上表して状を陳ぶ。詔して之を許す。宰守此に因りて綰摂方有り、姦盗起こらず、民以て便と為す。蕭衍将胡広を遣わして来たり安陽を寇す。軍主陳明祖等、白沙・鹿城の二戍を脅かす。衍又た定州刺史田超秀・田僧達等を遣わし窃かに石頭戍を陥れ、径に安陂城を拠る。郢州新塘の賊は、州西数十里に近し。張普惠前後将を命じて拒戦せしめ、並びに之を破る。
張普惠は財業を営まず、進挙を好み、故旧に敦し。冀州の人侯堅固、少時其と遊学し、早く終わる。其の子長瑜、張普惠毎に四時に禄を請うるに、減じ贍給して其の衣食を給せざること無し。 豫 州と為るに及び、長瑜の褐を解かんことを啓し、其の合門を携えて拯給す。孝昌元年三月、州に卒す。時に年五十八。平北将軍・幽州刺史を贈られ、諡して宣恭と曰う。
長子栄儁、武定末、斉王相府の属。
栄儁の弟龍子、揚州驃騎府長史。
【論】
史臣曰く、孫紹は関右の士にして、又能く世務を指論す。亦其の志なり。張普惠は典故に明達し、強直に官に従い、侃然として撓まず。其れ王臣の風有り。
校勘記