尒朱兆
尒朱兆、 字 は萬仁、尒朱榮の従子である。若い頃より 驍 猛にして、騎射に長け、手ずから猛獣を格闘し、敏捷さは人に勝る。しばしば榮に従って遊猟し、険しい岩や断崖で人が昇降できない所に至れば、兆が先んじた。榮はこれにより特に賞愛を加え、爪牙として任用した。榮がかつて臺使を送る際、二頭の鹿を見て、兆を呼び寄せ、二本の矢だけを与え、「この鹿を獲って今日の食とせよ」と言った。そこで馬を停めて火を焚き待った。やがて兆はその一頭を獲った。榮は誇示しようと、人を遣って兆を責め、「なぜ全て獲らなかったのか」と言い、五十回杖で打った。
後に軍功により平遠將軍・步兵 校尉 に任ぜられる。榮が 洛陽 に入った時、兆は前鋒 都督 を兼ねた。孝莊帝が即位すると、特に中軍將軍・金紫光祿大夫に任じ、さらに 驍 騎將軍・建興太守を仮授された。まもなく使持節・車騎將軍・武 衞 將軍・左光祿大夫・ 都督 ・潁川郡開國公に任じられ、食邑千二百戸を与えられた。後に上黨王元天穆に従って邢杲を討ち平らげた。元顥が河橋に駐屯した時、榮は兆と賀拔勝らを遣わし、馬渚から西へ夜間に数百騎で渡河させ、顥の子冠受を襲撃してこれを捕らえた。さらに進んで安豐王元延明を破り、顥はこれにより退走した。莊帝が宮中に還ると、功績により 散騎常侍 ・車騎大將軍・儀同三司に任じられ、食邑八百戸を加増された。汾州 刺史 となり、さらに食邑一千戸を加増された。まもなく 侍中 ・驃騎大將軍を加えられ、また食邑五百戸を加増された。
尒朱榮が死ぬと、兆は汾州から騎兵を率いて 晉 陽を占拠した。元曄が立つと、兆に大將軍を授け、王に封じた。兆は世隆らと謀りを定めて洛陽を攻め、兆はついに衆を率いて南に出た。太行に進み着くと、大 都督 源子恭の下の 都督 史仵龍が塁を開いて兆に降り、子恭は退走した。兆は軽兵で倍道を行い、河梁から西へ渡河し、京邑を掩襲した。先に、河辺の人が夢に神が自分に言うのを見た、「尒朱家が河を渡ろうとしている。お前を灅波津の令とし、水脈を縮めさせるのだ」と。一ヶ月余りして、夢を見た者は死んだ。兆が到着した時、通行人が自ら水の浅い所を知っていると言い、草をあちこちに標として挿し道を導いた。突然その所在が分からなくなった。兆はついに策を馳せて渡河した。この日、暴風が激しく吹き、黄塵が天に漲り、騎兵が宮門を叩くと、宿 衞 はようやく気づいた。弓を引き絞って射ようとしたが、袍が弦に触れ、矢を放つことができず、一時に散り散りに逃げた。帝は歩いて雲龍門の外に出て、兆の騎兵に捕らえられ、永寧佛寺に幽閉された。兆は皇子を撲殺し、妃嬪を汚辱し、兵を放って掠奪させた。洛陽に十日余り留まり、先に莊帝を 晉 陽に護送するよう命じた。兆は後に河梁で財貨を監査し、ついに帝を三級寺で害した。
初め、兆が洛陽に向かおうとした時、使いを遣わして齊獻武王( 高歓 )を招き、共に挙兵しようとした。王は当時 晉 州刺史であり、長史孫騰に言った、「臣下として君を伐つのは、その逆乱は甚だしい。我が今行かなければ、彼は必ず恨みを抱くだろう。卿は行って我が意を述べよ。ただ、山蜀(山岳地帯の蜀)が未だ平定されず、今まさに攻討しているので、これを委ねて去ることはできず、後の憂いを招く。蜀を平定する日には、河を隔てて犄角の勢いとなろう。このように返答して、その意向を観察せよ」。騰はそこで兆のもとに赴き、 并州 の大谷で彼に会い、王の言葉を詳しく述べた。兆は大変不愉快で、かつ言った、「高兄に伝えよ。弟には吉夢があった。今回の行軍は必ず勝利を得るだろう」。騰が「王の夢はどのようなものか」と問うと、兆は答えて言った、「私は近ごろ夢に、亡き父が高い塚に登り、塚の傍らの地は全て耕されて熟していたが、ただ馬藺草の株があちこちにまだ残っていた。我が父はなぜ抜かないのかと問うと、左右が堅くて取り除けないと答えた。父は私を見て下りて抜くよう命じ、私の手の届く所は、全て抜き尽くされた。これによって言えば、行けば必ず利益がある」。騰が帰って詳しく報告すると、王は言った、「兆らは猖狂を極め、兵を挙げて上を犯す。我が今これに同調しなければ、猜忌が生じるだろうが、勢いとして尒朱に事えることはできない。今、彼が南行し、天子が河上に兵を列ねれば、兆は進んで渡ることができず、退いて還ることもできない。我が山東から下れば、その不意を衝くことができ、この輩は一挙に擒らえることができる」。間もなく、兆は京師を攻克し、孝莊帝は幽閉された。 都督 尉景が兆に従って南行し、書を送って王に報告した。王は書を得て大いに驚き、騰を呼んで示し言った、「卿は駅伝を馳せて兆のもとに赴き、謁賀を示せ。密かに天子が今どこにいるか観察せよ。兆の軍府に随行しているのか、別に 晉 陽に送られたのか。もし 并 州に送られるなら、卿は馳せて報告せよ。我は途中で迎え撃ち、天下に大義を唱えよう」。騰は昼夜を分かたず馳せ、すでに途中で帝に出会った。王は当時騎兵を率いて東へ向かっていたが、帝がすでに渡河したと聞き、そこで西へ還った。なおも兆に書を送り、その禍福を説き、天子を害して悪名を受けるべきでないと述べた。兆は怒って受け入れず、帝はついに暴崩した。
初め、榮が死ぬと、莊帝は河西の人紇豆陵歩蕃らに詔して秀容を襲撃させた。兆が洛陽に入った後、歩蕃の兵勢は甚だ盛んで、南へ 晉 陽に迫り、兆はそれゆえ洛陽に留まる暇がなく、軍を返してこれを防いだ。兆は 驍 果ではあったが、もともと策略がなく、しばしば歩蕃に敗れた。そこで兵馬を整え、山東に出ることを謀った。人を遣わしてしきりに獻武王を 晉 州から召し寄せ、三州六鎮の人々を分けて、王に統率させた。兵を分けて別営とすると、ついに兵を率いて南に出て、歩蕃の鋭鋒を避けた。歩蕃が樂平郡に至ると、王は兆と共に還って討ち破り、歩蕃を秀容の石鼓山で斬った。その衆は退走した。兆は数十騎を率いて王のもとに赴き、夜通し宴飲した。後に自営に還り王を招いたが、王は兆が信用し難いことを知り、まだ明示できず、彼のもとに赴こうとした。馬に乗ろうとした時、長史孫騰が衣を引いて止めた。兆はそこで水を隔てて騰らを責め罵った。そこでそれぞれ去り、王は襄垣から還って東に出、兆は 晉 陽に帰った。
前廢帝が立つと、兆に使持節・侍中・ 都督 中外諸軍事・柱國大將軍・領軍將軍・領左右・ 并 州刺史・兼錄 尚書 事・大行臺を授けた。また兆を天柱大將軍としようとしたが、兆は人に言った、「これは叔父(尒朱榮)の終わった官である。私はどうして受けられようか」。そこで固辞して拝受しなかった。まもなく 都督 十州諸軍事を加えられ、世襲の 并 州刺史となった。
齊獻武王が殷州を攻克すると、兆は仲遠・度律と盟約を結んで共にこれを討とうとした。仲遠・度律は陽平に駐屯し、兆は井陘を出て廣阿に屯し、衆は十万と号した。王は広く反間の計を用い、あるいは世隆兄弟が兆を害しようと謀っていると言い、また兆が王と共に仲遠らを図っていると言った。そこで両者は互いに信じず、それぞれ猜疑を抱き、徘徊して進まなかった。仲遠らはしばしば斛斯椿・賀拔勝を遣わして往き諭させた。兆は軽騎三百で仲遠のもとに来て、同じ幕下に座った。兆の性質は粗獷で、表情や色つやが穏やかでなく、手に馬鞭を舞わせ、長嘯して凝視し、深く仲遠らに変事があると疑い、ついに走り出て馳せ還った。仲遠は椿・勝らを遣わして追わせて諭させたが、兆はついに彼らを拘束縛して連れ帰り、一日経ってから釈放して帰した。仲遠らはそこで奔退した。王はついに進撃して兆を攻め、兆の軍は大敗した。
兆と仲遠・度律はついに互いに疑い阻み、久しく和合しなかった。世隆が前廢帝に請い、兆の娘を后に立てさせると、兆は大いに喜んだ。世隆は厚礼をもって兆を諭して洛陽に赴かせ、深く卑下を示し、その為す所に随い、敢えて違う者はなかった。兆は天光・度律と改めて信約を結び、その後韓陵山で大会した。戦いに敗れ、再び 晉 陽に奔り、ついに 并 州城内を大いに掠奪した。獻武王は 鄴 から進軍してこれを討ち、兆はついに秀容に逃げた。王はまた追撃し、赤洪嶺を越えてこれを破り、衆は皆降伏散走した。兆は窮山に逃げ込み、乗っていた馬を殺し、木に自縊した。王はこれを収めて葬った。
尓朱兆は戦闘において、常に征伐の際には先鋒を務め、当時の諸将はその武勇に畏服した。しかし粗暴で知略に乏しく、将帥としての才能はなかった。尓朱栄はその胆力と決断力を高く評価していたが、常々「兆は三千騎を率いるのが限界で、それ以上では統制が乱れるであろう」と語っていた。
兆の弟の智虎は、前廃帝により安定王に封ぜられ、驃騎大将軍・肆州刺史・開府儀同三司となった。兆と共に逃走したが、献武王(高歓)に梁郡岢嵐の南山で捕らえられ、赦免された。後に 晋陽 で死去した。
尓朱彦伯
尓朱彦伯は、栄の従弟である。祖父の侯真は、高祖(北魏道武帝)の時代に 并 安二州刺史・始昌侯となった。父の買珍は、世宗(宣武帝)の時代に武衛将軍となり、出向して華州刺史となった。
彦伯は性質温和で篤実であり、初官は奉朝請となり、累進して奉車都尉に至り、栄の府の長史となった。元曄が立つと、侍中に任ぜられた。前廃帝が龍花仏寺に潜んでいた時、彦伯は往来して懇ろに説得し、特に忠勤を尽くした。廃帝が即位すると、尓朱兆は自分が計画に関与しなかったことを大いに憤慨し、世隆を攻撃しようとした。詔により華山王元鷙が尚書 僕射 ・北道大使を兼ねて兆を慰諭したが、兆はなお納得しなかった。世隆はさらに彦伯を派遣して自ら説得させたので、兆はようやく止めた。帰還すると、帝は顕陽殿で彦伯を宴に招いた。時に侍中の源子恭と黄門郎の竇瑗が共に侍座しており、彦伯は言った。「源侍中は先頃 都督 として、臣と河内で対峙しました。あの時は旗鼓相望み、遥かに隔たっており、まさか陛下に共に仕える今日の歓びがあるとは思いもよりませんでした」。子恭は言った。「蒯通の言葉に、犬はその主に吠えぬ、とあります。あの時の永安(孝荘帝)への忠誠は、今日の陛下へのそれと同じでございます」。帝は言った。「源侍中は射鉤の心(過去の敵対を咎めない寛大な心)があると言えよう」。そして二人を酔い潰れるまで飲ませて宴を終えた。まもなく使持節・驃騎大将軍・右光禄大夫・馬場大 都督 に任ぜられ、博陵郡開国公に封ぜられた。後に王に進爵した。さらに 司徒 に転じたが、時に旱魃があり、彦伯に 司徒 を辞任するよう勧める者があったため、上表して辞任を願い出て、詔により許された。ほどなく儀同三司・侍中に任ぜられた。彦伯は兄弟の中では、比較的過失や災いが少なかった。
天光らが韓陵で敗れると、彦伯は兵を率いて河橋に駐屯し勢威を示そうとしたが、世隆は聞き入れなかった。張勧らが世隆を急襲した時、彦伯は宮中で宿直していた。長孫稚らが神虎門で上奏し、斉献武王(高歓)の義兵が既に勢いを盛んにし、尓朱氏を除こうとしていることを述べた。廃帝は舎人の郭崇に命じて彦伯に知らせた。彦伯は慌てふためいて逃げ出したが、人に捕らえられた。まもなく世隆と共に閶闔門外で斬られ、首は斛斯椿の門前の木に懸けられ、その首は斉献武王のもとに送られた。先に、洛中に謡があった。「三月の末、四月の初め、灰を揚げ土を簸いて真珠を探す」。また曰く。「頭は項から離れ、脚の根元は揃い、木に駆り上げるに梯子は要らない」。これらがことごとく現実のものとなったのである。
弟 仲遠
彦伯の弟の仲遠は、多少は文書や計算に通じていた。粛宗(孝明帝)の末年、尓朱栄の兵威が次第に盛んになると、上奏や謁見の多くは聞き入れられた。仲遠は栄の文書を模写し、また栄の印を偽造して、 尚書令 史と通じて奸詐を働き、栄の名義で上奏文を作成し、人を官に推挙して、多大な財貨を得て、酒色に費やし、落ちぶれて品行がなかった。
孝荘帝が即位すると、直寝・寧遠将軍・歩兵 校尉 に任ぜられた。まもなく特に平北将軍・建興太守・頓丘県開国侯に任ぜられ、邑五百戸を与えられた。後に 散騎常侍 を加えられた。郡が州に改められると、使持節・車騎将軍・建州刺史に転じた。侍中を加えられ、公に進爵し、邑五百戸を増加された。まもなく清河郡に改封され、さらに車騎大将軍・左光禄大夫を加えられた。使持節・本将軍(車騎大将軍)・徐州刺史・兼尚書左僕射・三徐州大行臺に転じた。まもなく三徐州諸軍事の 都督 を加えられ、その他の官職は元のままとした。仲遠は上言して言った。「将帥や参佐の数が不足しており、途中で人員を補充する必要があります。近来、行臺が採用募集を行う者は皆、臨時に中正を立て、軍中で等級を定め、斟酌して官職を授けているのを見ます。今、これを兼置することを求め、臨時に軍の要務を助けます」。詔はこれに従った。そこで、仲遠は気ままに官職を補任し、恣意的に収奪を重ねた。尓朱栄が死ぬと、仲遠は兵を率いて京師に向かい、西兗州を陥落させ、東郡に迫ろうとした。荘帝は諸督将に相次いで進軍討伐を命じたが、皆仲遠に敗れた。また 都督 の鄭先護及び右衛将軍の賀抜勝に共に討伐を命じた。勝は戦いに利あらず、ついに仲遠に降った。まもなく尓朱兆が洛陽に入ると、先護の軍は散り散りになって逃げた。
前廃帝が立つと、使持節・侍中・ 都督 三徐二兗諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・徐州刺史・東道大 都督 ・大行臺に任ぜられ、彭城王に進爵した。まもなく大将軍を加えられ、さらに 尚書令 を兼ねた。結局任地の州には赴かず、大梁に鎮した。仲遠は使者を遣わし、朝廷の格式に準じて、軍中で騶騎に警蹕を鳴らすことを請うた。帝は上奏文を覧て、笑って許した。その放肆な振る舞いはこのようなものであった。さらに東道諸軍の 都督 ・本将軍(大将軍)・兗州刺史を加えられ、その他の官職は元のままとした。
仲遠は天性貪欲で暴虐であり、大宗や富族を謀反の罪で誣い、その家族を殺害し、財物を没収して全て私物とし、男の死者は河に投げ込んだ。このようなことは数え切れないほどであった。諸将の妻で美色の者は、その淫乱に遭わない者はなかった。 滎陽 以東では、租税は全てその軍に納められ、京師には送られなかった。時に天光は関右を押さえ、仲遠は大梁に、兆は 并 州に、世隆は京邑に居て、それぞれが専横に振る舞い、その権勢は比類するものがないほどであった。各地で皆、貪虐を事とし、これにより四方は離反した。さらに太宰を加えられ、大行臺は解かれた。仲遠の専横は特に甚だしく、彦伯や世隆と比べても最も無礼であり、東南の牧守から下は民間に至るまで、彼を豺狼に譬え、特に苦しみと患いとされた。
後に東郡に移駐し、兵を率いて度律らと共に斉献武王(高歓)を防いだ。尓朱兆が数千騎を率いて晋陽から来て合流し、軍は陽平に駐屯した。王(高歓)は間者を使って説得し、仲遠らは互いに猜疑し合い、慌てふためいて逃走した。後に天光らと韓陵で戦いに敗れ、南走して東郡に至り、ついに蕭衍のもとに奔った。江南で死去した。
弟 世隆
仲遠の弟の世隆、字は栄宗。粛宗(孝明帝)の末年、直斎となった。直寝に転じ、後に直閤を兼ね、前将軍を加えられた。尓朱栄が上表して入朝を請うた時、霊太后はこれを憎み、世隆を晋陽に派遣して栄を慰諭させた。栄はそこで世隆を留めようとした。世隆は言った。「朝廷は兄上を疑っているので、世隆を遣わしたのです。今もしここに留まれば、内に備えがあることになり、良策とは言えません」。栄はそこで彼を帰した。栄が兵を挙げて南進すると、世隆は逃げ出し、上党で栄と合流した。
建義の初め(528年)、給事黄門侍郎に任ぜられた。荘帝が即位すると、特に侍中・領軍将軍・左衛将軍・領左右・肆州大中正に任ぜられ、楽平郡開国公に封ぜられ、食邑一千二百戸を与えられた。さらに車騎将軍・兼領軍に任ぜられ、まもなく左光禄大夫・兼尚書右僕射を授かり、すぐに正官となった。元顥が大梁に迫ると、詔により儀同三司・前軍 都督 を仮授され、虎牢に鎮した。世隆は世事に通ぜず、将帥の才略はなかった。顥が 滎陽 を陥落させ、行臺の楊昱を捕らえると、世隆は恐れて逃げ帰った。荘帝が慌てて北巡したのは、世隆の罪である。帝が河内におられた時、驃騎大将軍・行臺右僕射・ 都督 相州諸軍事・相州刺史・当州 都督 を仮授された。車駕が宮中に還ると、驃騎大将軍・尚書左僕射に任ぜられ、選挙を掌り、左右廂を出入りした。また停年格によって士人を登用し、凡庸な者による停滞をかなり称賛された。また侍中の解任を請うて、詔により 散騎常侍 を加えられた。
荘帝が尓朱栄を除こうと図った時、ある者が世隆の門に張り紙をしてその状況を述べた。世隆はそれを封じて栄に呈し、入朝しないよう勧めた。栄は自らの威勢の強さを恃み、意に介さず、遂に密書を手で破り、地に唾して言った。「世隆に胆力なし、誰が敢えて異心を生じようか!」栄が死ぬと、世隆は栄の妻を奉じて西陽門を焼き、衆を率いて夜に逃走し、北へ河橋を攻め、武衛将軍奚毅を殺し、衆を率いて大夏門外で還り戦った。朝野は震え恐れ、禍が測り知れぬことを憂えた。荘帝は前華陽太守段育を遣わして慰撫させたが、世隆は彼を斬って見せしめにした。李苗が河梁を焼き断ったため、世隆は北へ遁走した。建州刺史陸希質は城を閉ざして守りを固めたが、世隆はこれを攻め落とし、城中の者を皆殺しにしてその憤りを晴らした。長子に至ると、度律らと共に長広王曄を推戴して主とした。曄は世隆を開府儀同三司・ 尚書令 ・楽平郡王とし、 太傅 を加え、司州牧を行わせ、封邑五千戸を増やした。世隆は先に京師へ赴き、河陽で兆と会った。兆は京邑を平定した後、自ら功ありとし、世隆を責めて言った。「叔父は朝廷に長くおられ、耳目も広いはずなのに、どうして知らず聞かず、天柱(尓朱栄)に禍を受けさせたのか!」剣に手をかけ目を怒らせ、声色は甚だ厳しかった。世隆はへりくだった言葉で拝謝し、やっと許された。世隆はこれを深く恨んだ。
その時、仲遠もまた滑台から京に入った。世隆は兄弟と密謀し、元曄は(皇統から)疎遠であるとして、前廃帝を推戴しようとした。しかし尓朱度律は宝炬を意とし、言った。「広陵王(前廃帝)は物を言わぬ。どうして天下を主とすることができようか?」世隆の兄彦伯が密かに勧め諭したため、度律と共に龍花仏寺へ行って様子を見た。後に(前廃帝が)言葉を発することができると知り、遂に廃立を行った。
初め、世隆が僕射となった時、自ら事務を処理しきれぬことを憂え、尚書省の文書簿籍を家に持ち帰って閲覧した。性質聡明で理解が早く、十余日を経てから、ようやく政務を執った。また尓朱栄の威勢を畏れ、深く自らを戒め励まし、机の事務に心を留め、傍らで賓客に接したため、事務に明るいという評判を得た。栄が死んだ後は、顧み憚ることがなくなった。 尚書令 となってからは、常に尚書郎の宋遊道・邢昕をその邸宅の広間で政務を執らせ、東西に別れて座らせ、訴訟を受け付け、命令を称して施行させた。その専横放恣はこのようなものであった。朝政を総攬するようになると、生殺与奪は自由であり、公然と淫佚にふけり、再び畏れ避けることはなく、群小を信任し、その与奪に従った。また軍人の心を収めようと、広く官職を授け、皆を将軍とし散官を兼ねさせ、督将・兵吏で虚号のない者はなかった。これにより五等大夫の官は、遂に猥雑濫觴に至り、また員数制限もなく、天下の人はこれを軽蔑した。武定年間、斉の文襄王(高澄)が上奏してこれを全て廃止したため、ようやくその弊害が改められた。
世隆の兄弟・一族は、それぞれ強兵を擁し、四海を収奪し、その暴虐は極まった。奸佞で諂い残酷な者が多く信用され、温良な名士が腹心となることは稀であった。ここにおいて天下の人、毒のように厭う者無かった。世隆は間もなく太傅を辞退し、 太保 に改めて任じられたが、また固辞した。前廃帝は特に儀同三師の官を置き、上公の次として、世隆をこれに任じた。その父買珍に使持節・侍中・相国・録尚書事・ 都督 定相青斉済五州諸軍事・大司馬・定州刺史を追贈した。
斉の献武王(高歓)が義兵を起こすと、仲遠・度律らは愚かで頑なであり、強勢を恃んで憂慮とせず、世隆のみが深く憂い恐れた。天光が戦いに敗れると、世隆は出て兵を収めることを請うたが、前廃帝は許さなかった。世隆はその外兵参軍陽叔淵に単騎で北中へ馳せ赴かせ、敗残の兵衆を選別し、順次城内に入れさせた。しかし斛斯椿はまだ城に入れず、叔淵を欺いて言った。「天光の部下は皆西の人である。彼らが京邑を掠め、 長安 に遷都しようとしていると聞く。まず我々を入れて、その備えとすべきである。」叔淵は信じて彼らを入れた。椿は橋に至ると、世隆の党与をことごとく殺し、行台長孫稚を遣わして宮闕に赴かせ状況を奏上させ、別に 都督 賈智・張勸に騎兵を率いさせて世隆と兄彦伯を急襲して捕らえ、共に斬った。時に三十三歳であった。
初め、世隆が吏部尚書元世儁と握槊(双六の一種)をしていた時、突然盤上に物音がして、一局の駒が全て逆立ちした。世隆はこれを甚だ不吉に思った。世隆はまた昼寝をしていた時、その妻奚氏が突然、一人の者が世隆の首を持ち去るのを見た。奚氏が驚き恐れて見に行くと、世隆は寝たまま元の通りであった。目覚めてから、妻に言った。「さっき人が私の首を断ち取る夢を見て、気分が甚だ優れない。」またこの年の正月の晦日、令・僕は共に尚書省へ上らず、西門は開かなかった。突然、河内太守田怗の家奴が省門の亭長に告げて言った。「今朝、令王が車牛一乗を借りられ、終日洛水のほとりを遊覧された。夕方、王は省に還られ、車を東掖門から出されたが、車上に敷物がないことに気づかれたので、記録しておいてほしい。」当時世隆は王に封ぜられていたので、令王と呼んだのである。亭長は、令・僕が上省せず、西門が開かず、車が省に入ることもなく、また車の跡もないと考えた。この奴は固く言い張ってやまず、公文書で訴え出た。尚書都令史謝遠は、虚偽の借用があるのではないかと疑い、世隆に報告して曹に付して推問させた。当時都官郎穆子容がこれを徹底的に究明した。奴は言った。「初めて来た時、 司空 府の西に至り、省に向かおうとしたが、令王は遅いのを嫌い、二人の防閤に儀刀を持たせて車を催促させた。車が入り、省の西門に到着すると、王は牛が小さいのを嫌い、闕下の槐の木に繋ぎ、代わりに一頭の青牛で車を駕した。令王は白紗の高頂帽をかぶり、背は低く色黒で、従者は皆、裙襦袴褶(礼服)を着て手板を持ち、常時の服装ではなかった。遂に一吏を遣わして私を省の中の庁事の東閤内、東廂の第一の屋の中に入れた。」その屋は以前から常に鍵がかかっていた。子容は、西門が開いていないのに、突然(奴が)従って入ったと言い、この屋は常に閉ざされているのに、奴は中にいたと言う。その虚偽を詰問した。奴は言った。「この屋が閉ざされているなら、開けて見てほしい。屋中には板牀が一つあり、牀上には敷物がなく、塵が多く、また甕一つに米が入っている。私は牀を払って座り、また地面に絵を描いて遊び、甕の中の米も握って見た。もし閉ざされていたなら、そのような跡は無いはずだ。」子容と謝遠が自ら入って見ると、戸は長く閉ざされ、全く開いた跡がなかった。入ってみると、牀を払い地面に絵を描いた跡が歴然としてあり、米も(奴の言う通りで)符合した。ようやく間違いでないと知った。全てをこのように答えた。世隆は憂い悩み、不吉なことと思った。間もなく誅殺された。
世隆の弟世承。荘帝の初め、寧朔将軍・歩兵 校尉 ・欒城県開国伯となった。また特に撫軍将軍・金紫光禄大夫・左衛将軍に任じられた。間もなく侍中を加えられ、御史中尉を領した。世承は人柄が卑劣で、人員を満たすだけの存在であった。元顥が内通して迫ると、詔により世承は轘轅を守った。世隆が虎牢を放棄したため、追って告げる暇もなく、間もなく元顥に捕らえられ、切り刻まれて殺された。荘帝が宮中に還ると、使持節・ 都督 冀州諸軍事・驃騎大将軍・ 司徒 ・冀州刺史を追贈され、趙郡公に追封された。
世承の弟弼は、字を輔伯という。前廃帝の初め、 散騎常侍 ・左衛将軍となり、朝陽県開国伯に封ぜられた。また車騎将軍・左光禄大夫・領左右を拝命し、河間郡公に改封された。まもなく驃騎大将軍・開府儀同三司・青州刺史となった。天光らが韓陵に向かったとき、世隆はその府長史の房謨に尚書を兼ねさせ、斉州行台として、兵馬を募集し、四瀆に向かわせた。弼は東陽の兵を総率し、乱城に赴き、北渡を声高に言いふらして、牽制の態勢をとった。天光らが敗れると、弼は州に帰還した。世隆が捕らえられると、弼は蕭衍のもとへ逃亡しようとし、たびたび側近と腕を切って誓約を交わした。弼の帳下 都督 馮紹隆は弼に信頼されていたが、弼を説いて言った、「今まさに契りを同じくするにあたり、改めて盟約を結ぶべきである。心臓の血をすすり、衆に信を示すのがよかろう」。弼はこれに従い、大いに部下を集め、弼は胡牀に腰掛け、紹隆に刀を持たせて心臓を切り開かせた。紹隆はその勢いで刃を押し出して弼を殺し、その首を京師に伝送した。
尒朱度律
尒朱度律は、栄の従父弟である。鄙朴で言葉少なく、統軍となり、栄に従って征伐した。荘帝の初め、安西将軍・光禄大夫を拝命し、楽郷県開国伯に封ぜられた。まもなく安北将軍・朔州刺史に転じ、さらに軍州刺史を拝命した。後に 散騎常侍 ・右衛将軍を加えられ、また衛将軍・左光禄大夫を拝命し、京畿大 都督 を兼ねた。栄が死ぬと、世隆とともに晋陽に赴いた。元曄が立つと、度律を 太尉 公・四面大 都督 とし、常山王に封じた。尒朱兆とともに洛に入り、兆が晋陽に帰ると、度律を留めて京師を鎮守させた。前廃帝のとき、使持節・侍中・大将軍・太尉・兼 尚書令 ・東北道大行台となり、仲遠とともに出て義軍を迎え撃った。斉献武王がこれに離間の策を施すと、尒朱兆と互いに疑心を生じ、自ら敗れて帰還した。度律は軍中にあっても、飽くことなく収奪し、赴くところ、民衆の禍患となった。その母の山氏は度律の敗報を聞き、憤慨して発病した。度律が到着すると、母はこれを責めて言った、「汝はすでに国恩を蒙りながら、無様にも反逆した。私はどうして他者が汝を屠戮するのを見ることができようか」。言い終わって死去した。当時の人はこれを怪しんだ。後に大行台を解かれ、長孫稚の隷下となり、韓陵で戦って敗れ帰還した。斛斯椿が先に河梁を占拠すると、度律はこれを攻撃しようとしたが、大雨に遭い、昼夜止まず、兵馬は疲弊し、弓矢を用いることができず、ついに西の灅波津へ逃走し、人に捕らえられた。椿はこれを囚え、斉献武王のもとに送った。王は洛に送り、都市で斬首した。
尒朱天光
尒朱天光は、栄の従祖兄の子である。若い頃から勇猛果断で、弓馬に長け、栄に親愛され、軍国大事があるごとに、常に謀策に参与した。孝昌の末、栄が衆を擁して南転しようとしたとき、天光と密議した。 并 州・肆州を占拠すると、天光を都将とし、肆州の兵馬を総統させた。粛宗が 崩御 すると、栄は京師に向かい、天光に肆州を摂行させ、後事を委ねた。建義の初め、特に撫軍将軍・肆州刺史・長安県開国公を拝命し、食邑一千戸を与えられた。栄が葛栄を討伐しようとしたとき、天光を州に留め、その根本を鎮守させた。天光に言った、「我が身の行き届かぬところは、汝なくしては我が心に叶うものはない」。
永安年間、侍中・金紫光禄大夫・北秀容第一酋長を加えられた。まもなく衛将軍に転じた。大将軍元天穆が東征して邢杲を討つとき、詔により天光は本官のまま使持節・仮鎮東将軍・ 都督 となり、天穆に隷属してこれを討ち破った。元顥が洛に入ると、天光は天穆とともに河内で栄と会合した。栄が出発した後、 并 州・肆州が不安定となったため、詔により天光は本官のまま尚書僕射を兼ね、 并 肆雲恒朔燕蔚顕汾の九州行台となり、引き続き 并 州を管轄し、鎮静を委ねられた。天光は 并 州に至り、部署を定め規律を整え、所在を安寧ならしめた。顥が破れると、まもなく京師に帰還し、驃騎将軍に遷り、 散騎常侍 を加えられ、広宗郡公に改封され、邑一千戸を増加され、引き続き左衛将軍となった。
建義元年夏、万俟醜奴が大号を僭称し、朝廷はこれを憂慮した。そこで天光を使持節・ 都督 雍岐二州諸軍事・驃騎大将軍・雍州刺史とし、大 都督 ・武衛将軍賀抜岳、大 都督 侯莫陳悦らを率いて醜奴を討伐させた。天光が初めて出発するとき、配属されたのは軍士千人だけで、詔により京城以西の沿道の民馬を徴発してこれを補った。当時、東雍の赤水蜀賊が道路を遮断していたため、詔により侍中楊侃を先に派遣して慰撫し、併せてその馬を徴発させた。侃は慰労に入ったが、蜀賊は疑いを抱いて降伏しなかった。天光はついに関に入ってこれを撃破し、壮健な者を選抜して軍士に充て、その馬をことごとく収めた。雍州に至ると、さらに民馬を徴発し、合わせて一万余匹を得た。軍人が寡少であったため、留まって進軍しなかった。栄は使者を遣わしてこれを責め、天光を百回杖打ちし、栄はさらに軍士二千人を派遣して赴援させた。天光は賀抜岳に千騎を率いて先駆けさせ、岐州の境界長城の西で醜奴の行台尉遅菩薩と遭遇し、これを破って捕らえ、騎士三千、歩卒一万余を獲得した。
醜奴は岐州を棄てて安定に逃れ帰り、平亭に柵を設けた。天光は雍州を発して岐州に至り、岳と汧渭の間で合流し、軍を停めて馬を放牧し、遠近に宣言して言った、「今は暑い時節であり、征討すべきでない。秋の涼しさを待って、改めて進退を図ろう」。醜奴がたびたび斥候を遣わすと、捕らえて送ってくる者がいたが、天光は寛大にこれを尋問し、そのまま放ち帰した。釈放された者は秋を待つという言葉を伝え、醜奴はこれを真実と思い、諸軍を分遣して散らばらせて農耕に従わせ、岐州の北百里の涇川に駐屯させた。その太尉侯伏侯元進に兵五千を率いさせ、険阻な地を占拠して柵を築き、耕しながら守らせた。その左右には、千人以下で一柵をなすものが、さらに数か所あった。天光はその勢力が分散したのを知り、密かに厳重に備えた。夕方、ひそかに軽騎を先行させて道路を遮断し、賊に知られぬようにし、その後諸軍をことごとく出発させた。夜明け前に、元進の大柵を攻囲し、これを陥落させ、捕虜とした者はすべて解放し、たちまちのうちに左右の諸柵はことごとく帰順した。涇州まで百八十里のところを、一晩中直進し、翌日城に到着すると、賊の涇州刺史侯幾長貴は城を挙げて降伏した。醜奴は平亭を棄てて逃走し、高平に向かおうとした。天光は岳に軽騎を率いて急追させ、翌日、平涼の長平坑で醜奴に追いつき、一戦にしてこれを捕らえた。天光は明くる日ただちに高平に迫り、城内は蕭宝夤を捕らえて送り降伏した。
賊の行台万俟道洛は衆六千人を率いて山中に入り降伏しなかった。当時、高平は大旱魃であり、天光は馬の草が乏しいため、城東五十里余りに退き、衆を休めて馬を放牧した。ここにおいて涇州・豳州・二夏州から北は霊州に至るまで、賊党が結集していた類は、ことごとく来て帰降した。天光は 都督 長孫邪利に二百人を率いさせて原州の事務を行わせ、これを鎮守させた。道洛は城の者を誘い込み、掩襲して邪利とその配下を殺害した。天光は岳・悦らと馳せ赴き、道洛は城を出て迎え撃ったが、しばらく交戦して退き、千余人を追撃して殺し、道洛は山中に逃げ込み、城は再び降伏帰順した。天光は慰撫の使者を遣わしたが、道洛は従わず、ついに衆を率いて西の牽屯山に依り、険阻な地を占拠して自ら守った。栄は天光が邪利を失い、道洛を捕らえられなかったことを責め、再び使者を遣わして百回杖打ちし、詔により 散騎常侍 ・撫軍将軍・雍州刺史に降格し、爵位を削って侯とした。
天光は岳・悦らと共に再び牽屯に向かいこれを討った。天光自ら道洛を討ち、道洛は戦いに敗れ、数千騎を率いて逃走し、追撃も及ばず、ついに隴に入り、略陽の賊帥王慶雲に投じた。慶雲は道洛の勇猛果敢さが並ぶ者なく、これを得て大いに喜び、直ちに大事を図るべしと謂い、自ら皇帝を称し、道洛を大将軍とした。天光はこれを討たんとしたが、荘帝が頻りに詔勅を下し、栄もまた書を寄せ、隴中の険阻深遠なること、兼ねて盛夏の暑さを以て、冬月を待つべしと命じた。しかし天光はこれを制圧し得ると知り、諸軍を率いて隴に入り、慶雲の居る水洛城に至った。慶雲・道洛は城を出て防戦したが、天光はまた道洛の臂を射中て、弓を失い逃げ帰らせた。その東城を破ると、賊は一斉に西城に走り、城中に水がなく、衆は熱さと渇きに苦しんだ。ある者が走り降りて、慶雲・道洛が死戦を決して突出せんとしていると告げた。天光は賊帥を逃がし、禍根が絶えぬことを恐れ、慶雲に謂って曰く、「力尽きて此の如し、早く降るべし。若し決し難ければ、今夜諸人と共に議させ、明朝早く報ぜよ」と遣わした。慶雲らは少しの猶予を得て、夜を待って突出せんと望み、天光に「明日を待たれよ」と報じた。天光は因って謂って曰く、「水を要すと知る。今少し退きて、河を取って飲むに任せよ」と。賊衆は安んじて悦び、再び逃走の心は無かった。天光は密かに軍人に多く木槍を作らせ、各々長さ七尺、黄昏時に至り、人馬を布いて防衛の勢いと為し、周囲に槍を立て、要路は厚く加えた。また人を槍の中に伏せ、その衝突に備え、兼ねて密かに長梯を城北に縛ることを命じた。その夜、慶雲・道洛は果たして突出し、馳せ馬を先んじて進み、槍に至るを覚えず、馬各々傷つき倒れ、伏兵たちまち起こり、同時に擒獲した。余衆は皆城南に出て、槍に遇い止まった。城北の軍士は梯を登って城に上り、賊徒は路窮して降伏を乞い、明け方までにその兵器を尽く収めた。天光・岳・悦らは議して悉くこれを坑い、死者一万七千人、その家口を分けた。ここに於いて三秦・河・渭・瓜・涼・鄯善皆来たりて款順した。天光は軍を略陽に頓し、詔して天光の前の官爵を復し、尋いで侍中・儀同三司を加え、邑を三千戸に増した。
秦州城民は刺史駱超を謀殺せんとし、超は気付き、走って天光に帰った。天光はまた岳・悦らと共にこれを討平した。南秦滑城の人は刺史辛琛顕を害せんと謀り、琛顕は走り天光に赴いた。天光は師を遣わしてこれに臨み、往くところ皆平定した。初め、賊帥夏州人宿勤明達は平涼において天光に降ったが、後にまた北走し、部類を収聚して逆を謀り、降人叱干麒麟を攻め、その衆を併せんとした。麒麟は天光に救援を請い、天光は岳を遣わしてこれを討たせたが、未だ至らぬうちに、明達は東夏に走った。岳は栄の死を聞き、故にこれを追わず、仍って涇州に還り天光を待った。天光もまた隴を下り、岳と図りて洛に入る策を謀った。雍州の北に進み至り、叛を破り已む(疑)。
詔して侍中朱瑞を遣わし天光を慰諭した。天光は岳と謀り、帝を外奔させ、別に更に推立せんと欲した。乃ち頻りに啓して云く、「臣実に異心無く、惟だ天顔を仰ぎ奉り、以て宗門の罪を申さん」と。又その下僚属が啓して云く、「天光密かに異図有り、願わくは勝算を思いて微意を防がれよ」と。既にして荘帝は天光の爵を進めて広宗王とし、元曄もまた以て隴西王とした。尒朱兆が既に京師に入ったと聞くに及んで、天光は乃ち軽騎で都に向かい世隆らに会い、尋いで雍に還った。世隆らは議して元曄を廃し、更に親賢を挙げんとし、使を遣わし天光に告げた。天光は策を定めて前廃帝を立て、また開府儀同三司・兼 尚書令 ・関西大行臺を加えられた。天光は北に出て夏州し、将を遣わし宿勤明達を討ち、これを擒えて洛に送った。時に費也頭の帥紇豆陵伊利・万俟受洛干らは河西を拠有し、未だ附くところ無かった。天光は斉献武王が信都に起兵したを以て、内に憂恐を懐き、再び北の伊利らに事えず、但だ微かに備えを遣わすのみであった。また大司馬に除かれた。
時に献武王の義軍は転じて盛んとなり、尒朱兆・仲遠らは既に敗退を経て、世隆は累次使を徴して天光を召したが、天光は従わなかった。後に斛斯椿に命じて苦しく天光を要して云わしむ、「王無くしては以て定むること能わず、豈に坐して宗家の滅ぶを見るべけんや」と。天光は已むを得ずして東下し、仲遠らと共に韓陵に敗れた。斛斯椿らは先に還り、河梁においてこれを拒んだ。天光は既に渡るを得ず、西北に走り、雨に遇い前進不可となり、乃ち執獲され、度律と共に献武王に送られた。王は洛に致し、都市において斬り、年三十七。尒朱氏は専ら恣にし、天下を分裂し、各々一方を拠えた。天光には関西を平定する功有り、酷暴には及ばず、兆と仲遠に比べて同じからざる所あり。
【論】
史臣曰く、尒朱兆の晋陽に在り、天光の隴右を拠え、仲遠の東南を鎮捍し、世隆の朝政を専秉する、時に君を立て主を廃すること弈棋に易く、慶賞威刑咸く己より出づ。若し徳を布き義を行い、公を憂え私を忘れ、脣歯相依り、同心協力せば、則ち磐石の固き、未だ図るべからざるなり。然れども是れ庸才、志識遠き無く、争うところ唯だ権勢、好むところ惟だ財色、諸の溪壑に譬えば、豺狼に甚だしく、天下失望し、人怨憤を懐き、遂に勁敵をして覘間を容れ得しめ、心腹内に阻み、形影外に合す。是を以て広阿の役、葉落ち冰離る。韓陵の戦、土崩れ瓦解す。一旦殄滅せらる、豈に哀しまざらんや。伝に「師克つは和に在り」と称し、詩に「貪人は類を敗る」と云う。貪にして和せざれば、以て済い難し。
校勘記