魏書

卷74 尒朱榮

卷74 尒朱榮

尒朱榮

原文尒朱榮

尒朱榮、字は天宝、北秀容の人である。その先祖は尒朱川に居住し、これにより氏とした。常に部落を率い、代々酋帥となった。高祖の羽健は、登国の初めに領民酋長となり、契胡の武士千七百人を率いて従駕し晋陽を平定し、中山を定めた。功を論じて散騎常侍に任ぜられた。秀容川に居住することを以て、詔して方三百里を割きてこれを封じ、長く世業とせしめた。太祖の初め、南秀容の川原が沃衍なるを以て、ここに居住せしめんと欲したが、羽健は言う、「臣が家は代々国に奉仕し、左右に給侍す。北秀容は既に剗内に在り、京師に差近し、豈に沃塉を以て更に遠地に遷らんや」と。太祖はこれを許した。居住する所に、かつて狗が地を舐め、これにより穿つところ、甘泉を得た。今に至るまで狗舐泉と名づく。羽健は、世祖の時に卒した。曾祖の鬱徳、祖の代勤、継いで領民酋長となった。代勤は、世祖の敬哀皇后の舅である。外親として兼ねて数たび征伐に功あり、百年の復を給し、立義将軍を除された。かつて山を囲んで狩りしとき、部民が虎を射て、誤ってその髀に中てた。代勤は直ちに箭を抜かしめ、竟に推問せず、言う、「これは既に過誤なり、何ぞ忍びて罪を加えんや」と。部内これ聞き、皆その意に感じた。高宗の末、寧南将軍を仮し、肆州刺史を除された。高祖より爵を賜わり梁郡公となった。老いて致仕し、歳ごとに帛百匹を賜うことを常とした。年九十一にして卒した。帛五百匹、布二百匹を賜い、鎮南将軍、并州刺史を贈られ、諡して莊という。孝莊の初め、栄に翼戴の勲あり、太師、司徒公、録尚書事を追贈された。

原文尒朱榮,字天寶,北秀容人也。其先居於尒朱川,因為氏焉。常領部落,世為酋帥。高祖羽健,登國初為領民酋長,率契胡武士千七百人從駕平晉陽,定中山。論功拜散騎常侍。以居秀容川,詔割方三百里封之,長為世業。太祖初以南秀容川原沃衍,欲令居之,羽健曰:「臣家世奉國,給侍左右。北秀容既在剗內,差近京師,豈以沃塉更遷遠地。」太祖許之。所居之處,曾有狗舐地,因而穿之,得甘泉焉,至今名狗舐泉。羽健,世祖時卒。曾祖鬱德,祖代勤,繼為領民酋長。代勤,世祖敬哀皇后之舅。以外親兼數征伐有功,給復百年,除立義將軍。曾圍山而獵,部民射虎,誤中其髀,代勤仍令拔箭,竟不推問,曰:「此既過誤,何忍加罪。」部內聞之,咸感其意。高宗末,假寧南將軍,除肆州刺史。高祖賜爵梁郡公。以老致仕,歲賜帛百匹以為常。年九十一,卒。賜帛五百匹、布二百匹,贈鎮南將軍、并州刺史,諡曰莊。孝莊初,榮有翼戴之勳,追贈太師、司徒公、錄尚書事。

父の新興は、太和の中、継いで酋長となった。家世豪奢にして擅にし、財貨豊かに贏ちたり。かつて馬群を行くとき、一つの白蛇を見る。頭に両角あり、馬の前に遊ぶ。新興これを異とし、言う、「爾もし神あらば、我が畜牧を蕃息せしめよ」と。この後より、日に滋盛なるを覚え、牛羊駝馬、色別に群を為し、谷量するのみとなった。朝廷征討あるごとに、輒ち私馬を献じ、兼ねて資糧を備え、軍用を助け裨益した。高祖これを嘉し、右将軍、光禄大夫を除した。洛陽遷都の後、特に冬に京師に朝し、夏に部落に帰ることを聴された。毎に入朝するとき、諸王公朝貴競って珍玩を遺す。新興もまた名馬を以て報いた。散騎常侍、平北将軍、秀容第一領民酋長に転じた。新興は毎春秋の二時、恒に妻子とともに川沢において畜牧を閲し、射獵して自ら楽しんだ。肅宗の世、年老いたるを以て爵を栄に伝うることを啓求し、朝廷これを許した。正光の中に卒す。年七十四。散騎常侍、平北将軍、恒州刺史を贈られ、諡して簡という。孝莊の初め、仮黄鉞、侍中、太師、相国、西河郡王を追贈された。

原文父新興,太和中,繼為酋長。家世豪擅,財貨豐贏。曾行馬羣,見一白蛇,頭有兩角,遊於馬前。新興異之,謂曰:「爾若有神,令我畜牧蕃息。」自是之後,日覺滋盛,牛羊駝馬,色別為羣,谷量而已。朝廷每有征討,輒獻私馬,兼備資糧,助裨軍用。高祖嘉之,除右將軍、光祿大夫。及遷洛後,特聽冬朝京師,夏歸部落。每入朝,諸王公朝貴競以珍玩遺之,新興亦報以名馬。轉散騎常侍、平北將軍、秀容第一領民酋長。新興每春秋二時,恒與妻子閱畜牧於川澤,射獵自娛。肅宗世,以年老啟求傳爵於榮,朝廷許之。正光中卒,年七十四。贈散騎常侍、平北將軍、恒州刺史,諡曰簡。孝莊初,贈假黃鉞、侍中、太師、相國、西河郡王。

栄は潔白にして、容貌美しく、幼にして神機明決なり。長じて、射獵を好み、毎に囲を設け衆に誓うとき、便ち軍陳の法と為し、号令厳粛にして、衆敢えて犯す者なし。秀容の界に池三所あり、高山の上に在り、清深にして測るべからず、相伝えて祁連池といい、魏の言では天池という。父の新興、かつて栄とともに池上に遊びしとき、忽ち簫鼓の音を聞く。新興栄に謂いて言う、「古老相伝う、凡そこの声を聞く者は皆公輔に至る。我が今年既に衰暮す、当に汝のためならん。汝其れこれを勉めよ」と。

原文榮潔白,美容貌,幼而神機明決。及長,好射獵,每設圍誓眾,便為軍陳之法,號令嚴肅,眾莫敢犯。秀容界有池三所,在高山之上,清深不測,相傳曰祁連池,魏言天池也。父新興,曾與榮遊池上,忽聞簫鼓之音。新興謂榮曰:「古老相傳,凡聞此聲皆至公輔。吾今年已衰暮,當為汝耳。汝其勉之。」

栄、爵を襲いし後、直寝、游撃将軍を除された。正光の中、四方兵起こり、遂に畜牧を散じ、義勇を招合し、その衣馬を給した。蠕蠕の主阿那瓌、北鄙を寇掠す。詔して栄に節を仮し、冠軍将軍、別将とし、都督李崇の北征に隷せしむ。栄その新部四千人を率いて追撃し、磧を度るも、及ばずして還る。秀容内附の胡民乞扶莫于、郡を破り太守を殺す。南秀容の牧子万子乞真、反叛し太僕卿陸延を殺す。并州の牧子素和婆崘嶮、逆を作す。栄並びに前後これらを討平す。直閤将軍、冠軍将軍に遷り、仍って別将。内附の叛胡乞、歩落堅胡の劉阿如ら瓜肆に作乱し、敕勒の北列歩若沃陽に反す。栄並びにこれを滅ぼす。功を以て安平県開国侯に封ぜられ、食邑一千戸。尋いで通直散騎常侍を加えられる。敕勒の斛律洛陽、桑乾の西に逆を作し、費也頭の牧子と迭相掎角す。栄騎を率いて深井において洛陽を破り、牧子を河西に逐う。号を進めて平北将軍、光禄大夫とし、安北将軍を仮し、北道都督と為る。尋いで武衛将軍を除し、俄かに使持節、安北将軍、都督恒朔討虜諸軍事、仮撫軍将軍を加えられ、博陵郡公に進封され、邑五百戸を増す。その梁郡の前爵は、第二子に賜うことを聴す。時に栄衆を率いて肆州に至る。刺史の尉慶賓これを畏悪し、城を閉じて納れず。栄怒り、これを攻め抜き、乃ちその従叔の羽生を刺史に署し、慶賓を秀容に執う。ここより栄の兵威漸く盛んとなり、朝廷もまた罪責すること能わず。尋いで鎮北将軍を除す。

原文榮襲爵後,除直寢、游擊將軍。正光中,四方兵起,遂散畜牧,招合義勇,給其衣馬。蠕蠕主阿那瓌寇掠北鄙,詔假榮節,冠軍將軍、別將,隸都督李崇北征。榮率其新部四千人追擊,度磧,不及而還。秀容內附胡民乞扶莫于破郡,殺太守;南秀容牧子萬子乞真反叛,殺太僕卿陸延;并州牧子素和婆崘嶮作逆。榮並前後討平之。遷直閤將軍、冠軍將軍,仍別將。內附叛胡乞、步落堅胡劉阿如等作亂瓜肆,敕勒北列步若反於沃陽,榮並滅之。以功封安平縣開國侯,食邑一千戶。尋加通直散騎常侍。敕勒斛律洛陽作逆桑乾西,與費也頭牧子迭相掎角,榮率騎破洛陽於深井,逐牧子於河西。進號平北將軍、光祿大夫,假安北將軍,為北道都督。尋除武衞將軍,俄加使持節、安北將軍、都督恒朔討虜諸軍、假撫軍將軍,進封博陵郡公,增邑五百戶。其梁郡前爵,聽賜第二子。時榮率眾至肆州,刺史尉慶賓畏惡之,閉城不納。榮怒,攻拔之,乃署其從叔羽生為刺史,執慶賓於秀容。自是榮兵威漸盛,朝廷亦不能罪責也。尋除鎮北將軍。

鮮于脩礼の反するや、栄東討を表し、復た号を進めて征東将軍、右衛将軍、仮車騎将軍、都督并肆汾広恒雲六州諸軍事とし、進んで大都督と為り、金紫光禄大夫を加えられる。時に杜洛周中山を陥す。この時車駕声将に北討せんとし、栄を左軍と為すも、行かず。葛栄洛周を吞むに及び、凶勢転じて盛んとなる。栄その南に逼り鄴城に迫らんことを恐れ、騎三千を遣わし東援相州せんことを表求すも、肅宗許さず。また車騎将軍、右光禄大夫に遷り、尋いで位を進めて儀同三司とす。

原文鮮于脩禮之反也,榮表東討,復進號征東將軍、右衞將軍、假車騎將軍、都督并肆汾廣恒雲六州諸軍事,進為大都督,加金紫光祿大夫。時杜洛周陷中山,於時車駕聲將北討,以榮為左軍,不行。及葛榮吞洛周,凶勢轉盛。榮恐其南逼鄴城,表求遣騎三千東援相州,肅宗不許。又遷車騎將軍、右光祿大夫,尋進位儀同三司。

栄、山東の賊盛んなるを以て、その西逸を慮り、乃ち兵を遣わし固く滏口を守らしめてこれを防がしむ。復た上書して曰く、「臣前に二州頻りに反し、大軍喪敗し、河北援無く、実に南侵を慮り、故に精騎三千を令して出で相州を援けしめ、京師影響し、その南望を断たんとす。賊この衆を聞けば、当にまた図を息まん。使還り、勅を奉ずるに云く、『念生梟勠され、宝夤擒えられ、醜奴、明達並びに誠款を送り、三輔謐を告げ、関隴載寧し。費穆の虎旅、大いに妖蛮を翦き;両絳の狂蜀、漸く已に稽顙す』と。また承るに北海王顥衆二万を率いて出で相州を鎮すと。北海は皇孫、名位崇重にして、鄴城を鎮撫するは、実に群望に副う。惟願わくはその配衣を広くし、機に及び早く遣わさんことを。今関西平げると雖も、兵未だ役すべからず。山南は賊に隣り、理を以て発召無し。王師衆と雖も、頻りに摧北せられ、人情危怯にして、実に用い難しと謂う。若し更に方略を思わざれば、万全を以てす無し。臣が愚量する如く、蠕蠕の主阿那瓌は国の厚恩に荷い、未だ応に報いを忘るべからず。一使を求乞し那瓌を慰喻せば、即ち兵を発し東に引き、直ちに下口に趣き、威を揚げ武を振い、以てその背を躡わん。北海の軍は、相部を鎮撫し、厳しく警備を加え、以てその前を当てん。臣が麾下少なきと雖も、輒ち力命を尽くし、井陘以北、隘口以西より、険要を分防し、その肘腋を攻めん。葛栄洛周を併すと雖も、威恩未だ著わさず、人類差異し、形勢分かつべし」と。ここにおいて栄遂に部曲を厳勒し、広く義勇を召し、北は馬邑を捍ぎ、東は井陘を塞ぐ。

原文榮以山東賊盛,慮其西逸,乃遣兵固守滏口以防之。復上書曰:「臣前以二州頻反,大軍喪敗,河北無援,實慮南侵,故令精騎三千出援相州,京師影響,斷其南望,賊聞此眾,當亦息圖。使還,奉敕云:『念生梟勠,寶夤受擒,醜奴、明達並送誠款,三輔告謐,關隴載寧。費穆虎旅,大翦妖蠻;兩絳狂蜀,漸已稽顙。』又承北海王顥率眾二萬出鎮相州。北海皇孫,名位崇重,鎮撫鄴城,實副羣望。惟願廣其配衣,及機早遣。今關西雖平,兵未可役,山南隣賊,理無發召,王師雖眾,頻被摧北,人情危怯,實謂難用,若不更思方略,無以萬全。如臣愚量,蠕蠕主阿那瓌荷國厚恩,未應忘報,求乞一使慰喻那瓌。即遣發兵東引,直趣下口,揚威振武,以躡其背;北海之軍,鎮撫相部,嚴加警備,以當其前;臣麾下雖少,輒盡力命,自井陘以北,隘口以西,分防險要,攻其肘腋。葛榮雖并洛周,威恩未著,人類差異,形勢可分。」於是榮遂嚴勒部曲,廣召義勇,北捍馬邑,東塞井陘。

まもなく肅宗(孝明帝)が崩御したが、事は倉卒にして起こり、爾朱栄はこれを聞いて大いに怒り、鄭儼・徐紇がこれを為したと謂い、元天穆らと密議して兵を挙げ朝廷を匡正し、これを討ち定めんとした。乃ち表を抗して曰く、「伏して承るに大行皇帝は万方を背棄し、奉諱して号踊し、五内摧剝す。詔旨を仰ぎ尋ぬれば、実に驚惋を用う。今海内草草たり、異口一言にして、皆云う、大行皇帝は鴆毒によりて禍を致すと。臣ら外に訟言を聴き、内に自ら追測す。去月二十五日聖体康悆にして、二十六日に至りて奄忽として昇遐す。即事を観望すれば、実に惑う所あり。且つ天子寝疾するに、侍臣は左右を離れず、親貴名医は患状を瞻仰し、面して音旨を奉じ、親しく顧託を承く。豈に不豫の初め医を召さず、崩棄に曾て親奉せずして、天下をして怪愕せしめず、四海をして喪気せしめんと欲することを得んや。復た皇后女生をして儲両と称せしめ、朝野を疑惑せしめ、虚しく慶宥を行い、宗廟の霊は欺かれるを見、兆民の望は已に失せ、七百をして累卵の危うきに至らしめ、社禝をして一朝に墜たしめ、方に君を嬰孩の中に選び、治を乳抱の日に寄せ、姦豎をして朝を専らにせしめ、賊臣をして紀を乱さしめ、惟だ影を指して以て権を行い、形を仮して以て詔を弄せんと欲するは、此れ則ち眼を掩いて雀を捕え、耳を塞いで鐘を盗むが如し。今秦隴には塵飛び、趙魏には霧合し、蕭宝夤・万俟醜奴は勢ひ豳雍に逼り、葛栄・就徳は河海に憑陵し、楚兵呉卒は密邇として郊に在り。古人言う有り、邦の臧からざるは、隣の福なりと。一旦此れを聞けば、誰か窺𨵦せざらんや。窃かに惟うに、大行皇帝は聖徳を以て宇を馭し、継体正君たりしも、猶ほ辺烽迭挙し、妖寇滅びず、況んや今佞臣の計に従い、親戚の談に随い、潘嬪の女を挙げて以て百姓を誑かし、未だ言わざる児を奉じて四海に臨み、海内をして安乂ならしめんと欲するは、愚臣未だ聞かざる所なり。伏して願わくは、聖善の慈を留め、須臾の慮を回らし、臣の忠誠を照らし、臣の至款を録し、臣をして闕に赴き、大議に預参せしめ、侍臣に帝崩の由を問い、禁旅に不知の状を訪ね、徐・鄭の徒を司敗に付し、同天の耻を雪ぎ、遠近の怨を謝せしめ、然る後に更に宗親を召し、其の年徳を推し、声を遐邇に副わし、宝祚を改めて承けしめば、則ち四海更蘇し、百姓幸甚なり」と。是に於いて遂に統ぶる所を勒して京師に赴かんとす。霊太后甚だ懼れ、詔して李神軌を以て大都督と為し、将に大行に於いて防がしめんとす。

原文尋屬肅宗崩,事出倉卒,榮聞之大怒,謂鄭儼、徐紇為之,與元天穆等密議稱兵入匡朝廷,討定之。乃抗表曰:「伏承大行皇帝背棄萬方,奉諱號踴,五內摧剝。仰尋詔旨,實用驚惋。今海內草草,異口一言,皆云大行皇帝,鴆毒致禍。臣等外聽訟言,內自追測。去月二十五日聖體康悆,至於二十六日奄忽昇遐。即事觀望,實有所惑。且天子寢疾,侍臣不離左右,親貴名醫,瞻仰患狀,面奉音旨,親承顧託。豈容不豫初不召醫,崩棄曾無親奉,欲使天下不為怪愕,四海不為喪氣,豈可得乎?復皇后女生,稱為儲兩,疑惑朝野,虛行慶宥,宗廟之靈見欺,兆民之望已失,使七百危於累卵,社禝墜於一朝,方選君嬰孩之中,寄治乳抱之日,使姦豎專朝,賊臣亂紀,惟欲指影以行權,假形而弄詔,此則掩眼捕雀,塞耳盜鍾。今秦隴塵飛,趙魏霧合,寶夤、醜奴勢逼豳雍,葛榮、就德憑陵河海,楚兵吳卒密邇在郊。古人有言:邦之不臧,隣之福也。一旦聞此,誰不闚𨵦?竊惟大行皇帝聖德馭宇,繼體正君,猶邊烽迭舉,妖寇不滅,況今從佞臣之計,隨親戚之談,舉潘嬪之女以誑百姓,奉未言之兒而臨四海,欲使海內安乂,愚臣所未聞也。伏願留聖善之慈,回須臾之慮,照臣忠誠,錄臣至款,聽臣赴闕,預參大議,問侍臣帝崩之由,訪禁旅不知之狀,以徐、鄭之徒付之司敗,雪同天之耻,謝遠近之怨。然後更召宗親,推其年德,聲副遐邇,改承寶祚,則四海更蘇,百姓幸甚。」於是遂勒所統將赴京師。靈太后甚懼,詔以李神軌為大都督,將於大行杜防。

栄が表を抗した始め、従子の爾朱天光・親信の奚毅及び倉頭の王相を遣わして洛に入らしめ、従弟の爾朱世隆と密議して廃立を図る。天光乃ち莊帝に謁し、具に栄の心を論じ、帝これを許す。天光ら還り北に至り、栄は晋陽より発す。猶ほ立つ所を疑い、乃ち銅を以て高祖(孝文帝)及び咸陽王元禧等六王の子孫の像を鑄し、成る者を当に主として奉ずべしとす。惟だ莊帝のみ独り就く。師は河内に次ぎ、重ねて王相を遣わし密かに来たり奉迎せしむ。帝は兄の彭城王元劭・弟の始平王元子正と高渚に於いて潜かに渡り以てこれに赴く。栄軍の将士咸に万歳と称す。是れ武泰元年四月九日の事なり。

原文榮抗表之始,遣從子天光、親信奚毅及倉頭王相入洛,與從弟世隆密議廢立。天光乃見莊帝,具論榮心,帝許之。天光等還北,榮發晉陽。猶疑所立,乃以銅鑄高祖及咸陽王禧等六王子孫像,成者當奉為主,惟莊帝獨就。師次河內,重遣王相密來奉迎,帝與兄彭城王劭、弟始平王子正於高渚潛渡以赴之。榮軍將士咸稱萬歲。於時武泰元年四月九日也。

十一日、栄は帝を奉じて主と為し、詔して栄を以て使持節・侍中・都督中外諸軍事・大將軍・開府・兼尚書令・領軍將軍・領左右・太原王と為し、食邑二万戸とす。十二日、百官皆行宮に朝す。十三日、栄は武衞將軍費穆の説に惑わされ、乃ち迎駕の百官を行宮の西北に引きて、天を祭らんと欲すと云う。朝士既に集まり、騎を列ねて囲繞し、天下喪乱、明帝卒崩の由を責め、云う皆此等の貪虐に縁り、相匡弼せざるに致すと。因って兵を縱して乱害せしめ、王公卿士皆手を斂めて就戮し、死者千三百余人、皇弟・皇兄並びに亦見害され、霊太后・少主其の日暴崩す。栄遂に大志有り、御史趙元則に命じて禅文を造らしめ、数十人を遣わして帝を河橋に遷す。夜四更中に至り、復た帝を奉じて南に還り営幕に至る。帝憂憤して計無く、乃ち人をして栄に旨を諭さしめて曰く、「帝王迭襲し、盛衰常無し、既に屯運に属し、四方瓦解す。將軍義を杖して起ち、前には横陳無し、此れ乃ち天意にして、人力に非ず。我本より相投じ、規もって性命を存せんとす。帝王の重位、豈に妄りに希わんや、直に是れ將軍の見逼するに過ぎず、権めて其の請に順うのみ。今璽運已に移り、天命在り、時に即ち尊号すべし。將軍必ず若し推して居らず、魏の社稷を存せんとせば、亦た任せて更に親賢を択び、共に相輔戴せしむべし」と。栄既に異図有り、遂に金を鑄して己が像と為すこと数四にして成らず。時に幽州の人劉霊助は卜占に善く、栄の信ずる所と為り、天時人事必ずしも爾るべからずと言う。栄も亦精神恍惚として自ら支持せず、久しくして方に悟り、遂に愧悔す。是に於いて献武王(高歓)・栄の外兵参軍司馬子如ら切に諫め、不可の理を陳ぶ。栄曰く、「愆誤是の若くは、惟だ当に死を以て朝廷に謝すべし。今日安危の機、計将に何をか出だす」と。献武王ら曰く、「未だ長楽(莊帝)を還し奉じて以て天下を安んずるに若かず」と。是に於いて還りて莊帝を奉ず。十四日、輿駕宮に入る。

原文十一日,榮奉帝為主,詔以榮為使持節、侍中、都督中外諸軍事、大將軍、開府、兼尚書令、領軍將軍、領左右,太原王,食邑二萬戶。十二日,百官皆朝於行宮。十三日,榮惑武衞將軍費穆之說,乃引迎駕百官於行宮西北,云欲祭天。朝士既集,列騎圍遶,責天下喪亂,明帝卒崩之由,云皆緣此等貪虐,不相匡弼所致。因縱兵亂害,王公卿士皆斂手就戮,死者千三百餘人,皇弟、皇兄並亦見害,靈太后、少主其日暴崩。榮遂有大志,令御史趙元則造禪文,遣數十人遷帝於河橋。至夜四更中,復奉帝南還營幕。帝憂憤無計,乃令人喻旨於榮曰:「帝王迭襲,盛衰無常,既屬屯運,四方瓦解。將軍杖義而起,前無橫陳,此乃天意,非人力也。我本相投,規存性命,帝王重位,豈敢妄希,直是將軍見逼,權順所請耳。今璽運已移,天命有在,宜時即尊號。將軍必若推而不居,存魏社稷,亦任更擇親賢,共相輔戴。」榮既有異圖,遂鑄金為己像,數四不成。時幽州人劉靈助善卜占,為榮所信,言天時人事必不可爾。榮亦精神恍惚,不自支持,久而方悟,遂便愧悔。於是獻武王、榮外兵參軍司馬子如等切諫,陳不可之理。榮曰:「愆誤若是,惟當以死謝朝廷,今日安危之機,計將何出?」獻武王等曰:「未若還奉長樂,以安天下。」於是還奉莊帝。十四日,輿駕入宮。

当時或いは栄が都を晋陽に遷さんと欲すと云い、或いは兵を肆して大いに掠めんと欲すと云い、迭相に驚恐し、人情駭震す。京邑の士子一も存せず、率皆逃竄し、敢えて出づる者無し。直衞空虚にして、官守廃曠たり。栄これを聞き、上書して曰く、「臣世に蕃寄を荷い、征討累年、忠を王室に奉じ、志は效死に存す。直に太后の淫乱、孝明の暴崩を以て、遂に義兵を率い、社稷を扶立す。陛下登祚の始め、人情未だ安からず、大兵交際し、斉一すべく難く、諸王朝貴横死する者衆し。臣今粉軀を以て往責を塞ぎ以て亡者に謝するに足らず。然れども栄を追い徳を褒むるは、之を不朽と謂う。天慈を降して、微かに私責を申さしめんことを乞う。無上王(元勰)は追尊して帝号を請い、諸王・刺史は三司を贈ることを乞い、其の位班三品の者は令僕を贈ることを請い、五品の官は各々方伯を贈り、六品已下及び白民は鎮郡を以て贈らしめん。諸の死者に後無き者は継ぐを聴き、即ち封爵を授けよ。其の高下を均しうし節級別科し、恩を存亡に洽わしめ、生死を慰むる有らしめよ」と。詔して曰く、「表を覧て鯁塞に勝えず。朕が德行感ずる無く、茲の酷濫を致す。往事を尋繹すれば、懐に貫切す。表の如くすべし」と。此れより已後、贈終叨濫し、庸人賤品、動もすれば大官に至り、識者の貴ばざる所と為る。武定中、斉の文襄王(高澄)始めて其の失を革め、追褒に典有り。栄は帝に啓して使を遣わし城を循りて労問せしむ。是に於いて人情遂に安んじ、朝士逃亡の者も亦稍く来たりて闕に帰す。栄又た番直を奏請し、朔望の日に三公・令僕・尚書・九卿及び司州牧・河南尹・洛陽河陰の執事の官を引見し、国治を参論し、王道を経綸するを以て常式と為す。

原文于時或云榮欲遷都晉陽,或云欲肆兵大掠,迭相驚恐,人情駭震,京邑士子不一存,率皆逃竄,無敢出者。直衞空虛,官守廢曠。榮聞之,上書曰:「臣世荷蕃寄,征討累年,奉忠王室,志存效死。直以太后淫亂,孝明暴崩,遂率義兵,扶立社稷。陛下登祚之始,人情未安,大兵交際,難可齊一,諸王朝貴橫死者眾,臣今粉軀不足塞往責以謝亡者。然追榮褒德,謂之不朽,乞降天慈,微申私責。無上王請追尊帝號,諸王、刺史乞贈三司,其位班三品請贈令僕,五品之官各贈方伯,六品已下及白民贈以鎮郡。諸死者無後聽繼,即授封爵。均其高下節級別科,使恩洽存亡,有慰生死。」詔曰:「覽表不勝鯁塞。朕德行無感,致茲酷濫,尋繹往事,貫切於懷。可如所表。」自茲已後,贈終叨濫,庸人賤品,動至大官,為識者所不貴。武定中,齊文襄王始革其失,追褒有典焉。榮啟帝遣使循城勞問,於是人情遂安,朝士逃亡者亦稍來歸闕。榮又奏請番直,朔望之日引見三公、令僕、尚書、九卿及司州牧、河南尹、洛陽河陰執事之官,參論國治,經綸王道,以為常式。

五月、栄は晋陽に還る。七月、詔して曰く、「乾坤は物を統べ、星象其の功を賛す。皇王は運を御し、股肱其の業を匡う。是を以て周道中缺するも、斉晉は済世の忠を立て、殷祚或いは虧くるも、彭韋は救時の節を振う。前朝より御を失い、厄運荐臻す。太原王栄は朕躬を爰戴し、万国に推臨し、勲は伊霍を踰え、功は二儀に格り、王室壞れざるは、伊人は是れ頼む。柱國大將軍・兼錄尚書事と為すべし。余は故の如し」と。

原文五月,榮還晉陽。七月,詔曰:「乾坤統物,星象贊其功;皇王御運,股肱匡其業。是以周道中缺,齊晉立濟世之忠;殷祚或虧,彭韋振救時之節。自前朝失御,厄運荐臻。太原王榮爰戴朕躬,推臨萬國,勳踰伊霍,功格二儀,王室不壞,伊人是賴。可柱國大將軍、兼錄尚書事,餘如故。」

時に葛榮が京師に向かおうとし、その軍勢は百万と号した。相州刺史李神軌は城門を閉じて自ら守りを固めた。賊の鋒は既に汲郡を過ぎ、所在の村塢は悉く略奪され荒らされた。爾朱榮はこれを討つことを請うた。九月、乃ち精騎七千を率い、馬には皆副馬を備え、倍道兼行して東に滏口より出た。葛榮は賊を為すこと既に久しく、河北を横行し、時に衆寡敵せず、議者は賊を制する道理なしと謂う。葛榮これを聞き、喜色を顔に現し、乃ちその衆に令して曰く「これは易き相手なり。諸人は皆長き縄を用意し、至れば即ち縛り取れ」と。葛榮は鄴より北に陣を列ねること数十里、箕を張るが如くにして進んだ。爾朱榮は潜かに軍を山谷に伏せて奇兵と為し、督将以上の者三人を一処とし、処毎に数百騎を配し、所在に塵を揚げ鬨を挙げさせ、賊に多少を測らしめず。又、人馬を逼って戦うには、刀は棒に如かずとし、密かに軍士に命じて馬上に各々神棒一本を携えさせ、馬の側に置かせた。戦時に至っては、首級を斬ることを許さず、棒で打つばかりとし、奔逐を妨げるを慮ったのである。乃ち壮勇を分命して当に衝くべき所に当たらせ、号令厳明にして、戦士共に奮った。爾朱榮は身自ら陣を陷し、賊の後より出で、表裏より合撃し、これを大破した。陣中に於いて葛榮を擒え、余衆は悉く降った。爾朱榮は賊徒既に衆し、若し即時に分割せば、その疑懼を恐れ、或いは更に結聚するを慮り、乃ち普く告げて各々楽しむ所に従い、親属相随い、居止する所を任せしめた。ここに於いて群情喜悦し、登時に四散し、数十万の衆一朝にして散じ尽くした。百里の外に出るを待ち、乃ち始めて道を分けて押領し、便宜に安置し、皆その宜きを得た。その渠帥を擢げ、力に量り授用し、新たに附く者皆安んじた。時に人はその処分の機速なるに服した。乃ち檻車に葛榮を載せて闕に赴かせた。詔して曰く「功は天地に格り、錫命の位必ず崇し。道は生民を済し、褒賞の名宜しく大なるべし。是を以て有莘は亳を賛し、不次の号爰に帰し、渭叟は周を翼け、殊世の班載せに集る。況や源を積石に導き、構えを崐山に襲ぎ、門に英猷を踵ぎ、鴻業を弼成し、高天の摧柱に抗い、厚地の絶維を振い、徳は五侯に冠たり、勲は九伯に高き者においてをや。太原王爾朱栄は代々蕃寵を荷い、世々忠烈を載せ、入りて頽運を匡し、出でて元兇を剿り、積年の霧を倏焉として滌蕩し、数載の塵を一朝として清謐せしむ。燕恒既に泰し、趙魏還り蘇る。比績況功、古今に二つ莫し。若し旧典を式稽せず、是の礼数を増さば、将に何を以てか徳を昭かにし功に報い、遠く国範を明らかにせん。大丞相・都督河北畿外諸軍事と為すべし。邑一万戸を増し、前に通じて三万とす。余の官は悉く故の如し」と。

原文時葛榮將向京師,眾號百萬。相州刺史李神軌閉門自守。賊鋒已過汲郡,所在村塢悉被殘略。榮啟求討之。九月,乃率精騎七千,馬皆有副,倍道兼行,東出滏口。葛榮為賊既久,橫行河北,時眾寡非敵,議者謂無制賊之理。葛榮聞之,喜見於色,乃令其眾曰:「此易與耳。諸人俱辦長繩,至便縛取。」葛榮自鄴以北列陳數十里,箕張而進。榮潛軍山谷為奇兵,分督將已上三人為一處,處有數百騎,令所在揚塵鼓譟,使賊不測多少。又以人馬逼戰,刀不如棒,密勒軍士馬上各齎神棒一枚,置於馬側。至於戰時,不聽斬級,以棒棒之而已,慮廢騰逐也。乃分命壯勇所當衝突,號令嚴明,戰士同奮。榮身自陷陳,出於賊後,表裏合擊,大破之。於陳擒葛榮,餘眾悉降。榮以賊徒既眾,若即分割,恐其疑懼,或更結聚,乃普告勒各從所樂,親屬相隨,任所居止。於是羣情喜悅,登即四散,數十萬眾一朝散盡。待出百里之外,乃始分道押領,隨便安置,咸得其宜。擢其渠帥,量力授用,新附者咸安。時人服其處分機速。乃檻車送葛榮赴闕。詔曰:「功格天地,錫命之位必崇;道濟生民,褒賞之名宜大。是以有莘贊亳,不次之號爰歸;渭叟翼周,殊世之班載集。況導源積石,襲構崐山,門踵英猷,弼成鴻業,抗高天之摧柱,振厚地之絕維,德冠五侯,勳高九伯者哉!太原王榮代荷蕃寵,世載忠烈,入匡頹運,出剿元兇,使積年之霧倏焉滌蕩,數載之塵一朝清謐。燕恒既泰,趙魏還蘇,比績況功,古今莫二,若不式稽舊典,增是禮數,將何以昭德報功,遠明國範?可大丞相、都督河北畿外諸軍事,增邑一萬戶,通前三萬,餘官悉如故。」

初め、爾朱栄が葛榮を討たんとする時、軍は襄垣に次いだ。遂に軍士に命じて囲みを列ねて大いに狩りをさせた。双兔が馬前より起ち上がり、爾朱栄は乃ち馬を躍らせ弓を引きてこれに誓って曰く「中つれば則ち葛榮を擒え、中たざれば則ち否」と。既にして並びに弦に応じて斃れ、三軍皆悦んだ。賊を破った後、即ちその所に碑を立てしめ、「双兔碑」と号した。爾朱栄が戦わんとする夜、一人の者が葛榮より千牛刀を索むるを夢み、葛榮は初め与えんと肯ぜず。この人自ら称して我は道武皇帝なり、汝何ぞ敢えて違わんとす、と。葛榮は乃ち刀を奉り、この人手に持って爾朱栄に授く。既に覚めて喜び、自ら必勝を知った。

原文初,榮之將討葛榮也,軍次襄垣,遂令軍士列圍大獵。有雙兔起於馬前,榮乃躍馬彎弓而誓之曰:「中之則擒葛榮,不中則否。」既而並應弦而殪,三軍咸悅。及破賊之後,即命立碑於其所,號「雙兔碑」。榮將戰之夜,夢一人從葛榮索千牛刀,而葛榮初不肯與。此人自稱我是道武皇帝,汝何敢違。葛榮乃奉刀,此人手持授榮。既寤而喜,自知必勝。

又詔して曰く「我が皇魏の道は神元に契い、徳は霊範を光らし、源は二象に先んじ、化は五才に穆し、玉歴は日月と惟休し、金鼎は乾坤と共に永し。然るに正光の末、皇運時に屯し、百揆咸く乱れ、九宮序を失い、朝野膺を撫で、士女怨みを嗟き、遂に四海をして土崩せしめ、九区をして瓦解せしむ。逆賊杜周は燕代を虔劉し、妖寇葛榮は魏趙を仮噬す。常山・易水には戎鼓夜に驚き、冰井・叢臺には胡塵晝に合す。朔南久しく已に丘墟と為り、河北殆ど灰燼と成る。宗廟は安からざるの慮を懐き、社稷は測り難きの憂に急し。大丞相・太原王爾朱栄は道は域中を鏡とし、徳は区外を光らし、神は往を蔵するに昭らかに、思は来を知るに実に、義は先勲に踵ぎ、忠は曩烈に資り、遂に能く大いに義謀を建て、忠勇を收集し、熊羆競い逐い、虎豹争い先んじ、南溟に軒翥し、北極に風を摶ち、気は林原を震わし、勢は山岳を動かし、民を弔い罪を伐ち、この鯨鯢を殲せり。戮卒は長平に多く、積器は熊耳に高し。秦晋は声を聞きて胆を喪い、齊莒は側きて聴きて讋息す。中興の業は是に於いて再び隆り、太平の基は茲に於いて更に始まる。復た伊霍の宣翼の功、桓文の崇賛の道と雖も、何ぞ以てか鴻蹤を髣髴し、盛烈に勲を比せん。道は普天に格り、仁は率土に沾い、振古以来、未だ其の比有らず。若し山河を広く錫らず、土宇を大いに開かずんば、何を以てか大義の崇高を表し、盛徳の広遠を標せん。冀州の長楽、相州の南趙、定州の博陵、滄州の浮陽、平州の遼西、燕州の上谷、幽州の漁陽等の七郡を以て、各万戸、前に通じて十万戸満てるを太原国邑と為すべし」と。又太師に進位し、余は故の如し。

原文又詔曰:「我皇魏道契神元,德光靈範,源先二象,化穆五才,玉歷與日月惟休,金鼎共乾坤俱永。而正光之末,皇運時屯,百揆咸亂,九宮失敍,朝野撫膺,士女嗟怨,遂使四海土崩,九區瓦解。逆賊杜周,虔劉燕代;妖寇葛榮,假噬魏趙。常山、易水,戎鼓夜驚;冰井、叢臺,胡塵晝合。朔南久已丘墟,河北殆成灰燼。宗廟懷匪安之慮,社稷急不測之憂。大丞相、太原王榮道鏡域中,德光區外,神昭藏往,思實知來,義踵先勳,忠資曩烈。遂能大建義謀,收集忠勇,熊羆競逐,虎豹爭先,軒翥南溟,摶風北極,氣震林原,勢動山岳,弔民伐罪,殲此鯨鯢。戮卒多於長平,積器高於熊耳。秦晉聞聲而喪膽,齊莒側聽而讋息。中興之業是乎再隆,太平之基茲焉更始。雖復伊霍宣翼之功,桓文崇贊之道,何足以髣髴鴻蹤,比勳盛烈。道格普天,仁沾率土,振古以來,未有其比。若不廣錫山河,大開土宇,何以表大義之崇高,標盛德之廣遠?可以冀州之長樂、相州之南趙、定州之博陵、滄州之浮陽、平州之遼西、燕州之上谷、幽州之漁陽等七郡,各萬戶通前滿十萬戶為太原國邑。」又進位太師,餘如故。

建義の初め、北海王元顥は南に奔って蕭衍に附き、蕭衍は乃ちこれを立てて魏主と為し、兵将を資した。時に邢杲は三斉を寇乱し、元顥と応接す。朝廷は元顥孤弱なりとして、以て慮いと為さず。永安二年春、詔して大将軍元穆に先ず斉地を平げ、然る後に師を回して元顥を征せしむ。元顥は大軍未だ還らざるに乗じ、虚に径進し、既に梁国を陷し、鼓行して西し、滎陽・虎牢並びに皆守らず。五月、車駕は出でて河北に幸す。事は虞らずに出で、天下改めて望む。爾朱栄これを聞き、即時に馳伝して上党の長子に行宮に朝し、その部分を行った。輿駕はここに於いて南轅し、爾朱栄は前駆と為り、旬日の間に、兵馬大いに集まり、資糧器仗は踵を継ぎて至る。元天穆は既に邢杲を平げ、亦た河を渡りて車駕に会せんとす。元顥の都督宗正珍孫・河内太守元襲は固守して降らず、爾朱栄これを攻めて克ち、珍孫・元襲を斬りて徇せしむ。帝は河内城に幸す。爾朱栄と元顥は河上に相持し、元顥は都督安豊王延明に命じて河に縁りて拠守せしむ。爾朱栄は既に舟船無く、即時に渡るを得ず、議して還って北し、更に後挙を図らんと欲す。黄門郎楊侃・高道穆等並びに大軍若し還らば、天下の望を失わんと謂い、固く執りて以て不可と為す。語は侃等の伝に在り。属に馬渚の諸楊云う小船数艘有り、求めて郷導と為らんとす。爾朱栄は乃ち都督尒朱兆等に命じて精騎を率い夜に済し、岸に登り奮撃せしむ。元顥の子領軍将軍冠受は馬歩五千を率いて拒戦す。尒朱兆これを大破し、陣に臨みて冠受を擒う。延明は冠受の擒えらるるを聞き、遂に自ら逃散し、元顥は便ち麾下を率いて南奔す。事は其の伝に在り。

原文建義初,北海王元顥南奔蕭衍,衍乃立為魏主,資以兵將。時邢杲寇亂三齊,與顥應接。朝廷以顥孤弱,不以為慮。永安二年春,詔大將軍元穆先平齊地,然後回師征顥。顥以大軍未還,乘虛徑進,既陷梁國,鼓行而西,滎陽、虎牢並皆不守。五月,車駕出幸河北。事出不虞,天下改望。榮聞之,即時馳傳朝行宮於上黨之長子,行其部分。輿駕於是南轅,榮為前驅,旬日之間,兵馬大集,資糧器仗,繼踵而至。天穆既平邢杲,亦渡河以會車駕。顥都督宗正珍孫、河內太守元襲固守不降,榮攻而克之,斬珍孫、元襲以徇。帝幸河內城。榮與顥相持於河上,顥令都督安豐王延明緣河據守。榮既未有舟船,不得即渡,議欲還北,更圖後舉。黃門郎楊侃、高道穆等並謂大軍若還,失天下之望,固執以為不可。語在侃等傳。屬馬渚諸楊云有小船數艘,求為鄉導,榮乃令都督尒朱兆等率精騎夜濟,登岸奮擊。顥子領軍將軍冠受率馬步五千拒戰,兆大破之,臨陳擒冠受。延明聞冠受見擒,遂自逃散,顥便率麾下南奔。事在其傳。

車駕は河を渡り、華林園に入居した。詔して曰く、「周の武王は時に奉じ、十乱を藉りて以て暦を纂(つ)ぎ、漢の高祖は天に先んじ、三傑を資(と)りて以て暴を除く。民を理(おさ)め治を済(な)すは、この道未だ爽(たが)わず。使持節・柱国大将軍・大丞相・太原王栄は、風煙を蘊(ふく)み、日月を抱含し、奇正を総(あつ)めて以て術を成し、文武を兼ねて以て資(もちう)るところと為す。昔、乱朝に処し、光を韜(つつ)み翼を戢(おさ)え、冀北に馬を秣(まぐさ)し、晋陽に兵を厲(と)ぎ、龍顔に佇(たたず)みて腕を振い、日角を想いて以て歎息す。忠勇奮発し、虎士林の如く、義功始めて立ち、向かうところ風靡す。故に能く群悪を芟夷(さんい)し、この頽綱を振い、朕が寡昧を俾(し)て、鴻緒を承(う)けしむ。大位克(よ)く正しと雖も、衆盗未だ息まず。葛栄跋扈し、仍(なお)中原を乱し、旗を建て罪を伐ち、首を授け馘(くび)を殲(ほろ)ぼす。元顥凶頑、巨釁を構成し、呉楚を阻弄し、宗社を虧汙す。朕徙御(しいぎょ)北に徂(ゆ)き、鞍甲に劬労す。王難を聞き星奔し、一挙大定し、下は民和に洽(あまね)く、上は王室を匡(ただ)す。鴻勲巨績は、書契未だ紀せざる所、飲至策勳は、事比況を絶つ。非常の功は、必ず非常の賞有り、天柱大将軍と為すべし。この官は古を訪うも未だ聞かず、今員未だ有らずと雖も、太祖已前に此の号を増置し、典故に式(のっと)り、殊礼を用いて錫(たま)う。又宜しく土宇を開くべく、十萬を増封し、前を通じて二十萬とし、前後部羽葆鼓吹を加う。余は故の如し。」と。栄は尋いで晋陽に還る。

原文車駕渡河,入居華林園。詔曰:「周武奉時,藉十亂以纂曆;漢祖先天,資三傑以除暴。理民濟治,斯道未爽。使持節、柱國大將軍、大丞相、太原王榮,蘊伏風煙,抱含日月,總奇正以成術,兼文武而為資。昔處亂朝,韜光戢翼,秣馬冀北,厲兵晉陽,佇龍顏而振腕,想日角以歎息。忠勇奮發,虎士如林,義功始立,所向風靡。故能芟夷羣惡,振此頹綱,俾朕寡昧,獲承鴻緒。雖大位克正,而眾盜未息。葛榮跋扈,仍亂中原,建旗伐罪,授首殲馘。元顥凶頑,構成巨釁,阻弄吳楚,虧汙宗社。朕徙御北徂,劬勞鞍甲。王聞難星奔,一舉大定,下洽民和,上匡王室。鴻勳巨績,書契所未紀;飲至策勳,事絕於比況。非常之功,必有非常之賞,可天柱大將軍。此官雖訪古無聞,今員未有,太祖已前增置此號,式遵典故,用錫殊禮。又宜開土宇,可增封十萬,通前二十萬,加前後部羽葆鼓吹。餘如故。」榮尋還晉陽。

先に、葛栄の枝党韓婁が仍(なお)幽平二州を据え、栄は都督侯淵を遣わして討ち斬らしむ。時に賊帥万俟醜奴・蕭宝夤が衆を擁し豳涇にあり、凶勢日増し盛ん。栄は其の従子天光を雍州刺史と為し、都督賀抜岳・侯莫陳悦等を率い衆を総べて関に入りて討たしむ。天光既に雍州に至り、衆少にして敵せずとし、逡巡して未だ集まらず。栄大いに怒り、其の騎兵参軍劉貴を遣わし駅を馳せて軍に詣らしめ、天光に杖罰を加う。天光等大いに懼れ、乃ち進みて討ち、連ねて之を破り、醜奴・宝夤を擒(とら)え、並びに檻車にて闕に送る。天光又た王慶雲・万俟道楽を擒え、関西悉く平ぐ。ここに於て天下の大難、便(すなわ)ち以て尽きぬ。

原文先是,葛榮枝黨韓婁仍據幽平二州,榮遣都督侯淵討斬之。時賊帥万俟醜奴、蕭寶夤擁眾豳涇,兇勢日盛。榮遣其從子天光為雍州刺史,令率都督賀拔岳、侯莫陳悅等總眾入關討之。天光既至雍州,以眾少不敵,逡巡未集。榮大怒,遣其騎兵參軍劉貴馳驛詣軍,加天光杖罰。天光等大懼,乃進討,連破之,擒醜奴、寶夤,並檻車送闕。天光又擒王慶雲、万俟道樂,關西悉平。於是天下大難,便以盡矣。

栄は性獵を好み、寒暑を舍(お)かず、列囲して進むに至っては、須らく斉一ならしめ、阻険に遇うと雖も、回避するを得ず、虎豹囲を逸する者は坐して死す。其の下甚だ之を苦しむ。太宰元天穆従容として栄に謂いて曰く、「大王勳天下を済(すく)い、四方事無し、惟(ただ)政を調え民を養い、時に順い蒐狩すべし、何ぞ必ずしも盛夏に馳逐し、和気を傷犯せんや。」と。栄便ち肘を攘(まく)りて天穆に謂いて曰く、「太后は女主にして、自ら正しうすること能わず、天子を推奉するは、此れ人臣の常節なり。葛栄の徒は、本奴才にして、時に乗じて作乱し、妄りに自ら署假す、譬えば奴走るが如く、擒獲すれば便ち休む。頃来国大寵を受け、境土を開拓し、海内を混一する能わず、何ぞ今日に宜しく便ち勳を言わんや!聞く所に依れば朝士猶お自ら寛縱すと、今秋兄と共に士馬を戒勒し、嵩原に校獵し、貪污の朝貴をして囲に入り虎を搏たしめんと欲す。仍(なお)魯陽を出で、三荊を歴(へ)て、悉く生蛮を擁し北に六鎮を填(み)たす。回軍の際、因(よ)りて汾胡を平らげん。明年精騎を簡練し、分かちて江淮に出で、蕭衍若し降らば、万戸侯を乞わん。其の降らざれば、径(ただ)ちに数千騎を渡し、便ち往きて縛り取らん。六合寧一、八表塵無きを待ち、然る後に兄と共に天子を奉じ、四方を巡り、風俗を観、政教を布かん、此くの如くにして乃ち勳と称すべし。今若し止めて獵するのみならば、兵士懈怠し、安んぞ復た用いる可けんや。」と。

原文榮性好獵,不舍寒暑,至於列圍而進,必須齊一,雖遇阻險,不得回避,虎豹逸圍者坐死。其下甚苦之。太宰元天穆從容謂榮曰:「大王勳濟天下,四方無事,惟宜調政養民,順時蒐狩,何必盛夏馳逐,傷犯和氣。」榮便攘肘謂天穆曰:「太后女主,不能自正,推奉天子者,此是人臣常節。葛榮之徒,本是奴才,乘時作亂,妄自署假,譬如奴走,擒獲便休。頃來受國大寵,未能開拓境土,混一海內,何宜今日便言勳也!如聞朝士猶自寬縱,今秋欲共兄戒勒士馬,校獵嵩原,令貪污朝貴入圍搏虎。仍出魯陽,歷三荊,悉擁生蠻北填六鎮。回軍之際,因平汾胡。明年簡練精騎,分出江淮,蕭衍若降,乞萬戶侯。如其不降,徑渡數千騎,便往縛取。待六合寧一,八表無塵,然後共兄奉天子,巡四方,觀風俗,布政教,如此乃可稱勳耳。今若止獵,兵士懈怠,安可復用也。」

栄は身外に居ると雖も、恒に朝廷を遙制し、広く親戚を布き、左右に列ね、動静を伺察し、小大必ず知る。或いは僥倖して官を求むる者有れば、皆栄に詣り承候し、其の啓請を得れば、遂げざる無し。嘗て定州曲陽県令を関補せしむるに、吏部尚書李神儁は階懸(けいけん)を以て奉ぜず、別に更に人を擬す。栄聞きて大いに怒り、即ち其の補する所の者を遣わし往きて其の任を奪わしむ。栄の使い京に入るは、復た微蔑と雖も、朝貴之を見て傾靡せざる莫し。闕下に至るや、通奏を得ず、栄の威勢を恃み、至って乃ち忿怒す。栄嘗て北人を河南諸州と為さんと啓すも、庄帝未だ許さず、天穆入見し、面を啓して曰く、「天柱既に大功有り、若し普く天下の官属を代えんことを請わば、恐らくは陛下も亦た之に違うを得ざらん、如何ぞ数人を州と為さんことを啓して、便ち停めて用いざるや!」と。帝正色して曰く、「天柱若し人臣と為さずば、朕も亦た代うるを須(もち)いん。其の猶お臣節を存するが如くは、天下の百官を代うる理無し。此の事復た何ぞ論ずるに足らん。」と。栄啓の允(ゆる)されざるを聞き、大いに恚恨し、曰く、「天子は誰に由りて立つことを得たるか?今乃ち我が語を用いず。」と。庄帝外栄に迫られ、恒に怏怏として悦ばず、兼ねて栄の河陰の事を懲(こり)て、終に保ち難からんことを恐る。又た城陽王徽・侍中李彧等は威権を擅(ほしいまま)にせんと欲し、栄の害するを懼れ、復た相間構し、日月滋(ますます)甚だし。ここに於て庄帝密かに栄を図らんとする意有り。

原文榮身雖居外,恒遙制朝廷,廣布親戚,列為左右,伺察動靜,小大必知。或有僥倖求官者,皆詣榮承候,得其啟請,無不遂之。曾關補定州曲陽縣令,吏部尚書李神儁以階懸不奉,別更擬人。榮聞大怒,即遣其所補者往奪其任。榮使入京,雖復微蔑,朝貴見之莫不傾靡;及至闕下,未得通奏,恃榮威勢,至乃忿怒。榮曾啟北人為河南諸州,莊帝未許,天穆入見,面啟曰:「天柱既有大功,若請普代天下官屬,恐陛下亦不得違之,如何啟數人為州,便停不用!」帝正色曰:「天柱若不為人臣,朕亦須代;如其猶存臣節,無代天下百官理。此事復何足論。」榮聞所啟不允,大為恚恨,曰:「天子由誰得立?今乃不用我語。」莊帝外迫於榮,恒怏怏不悅,兼懲榮河陰之事,恐終難保。又城陽王徽、侍中李彧等欲擅威權,懼榮害之,復相間構,日月滋甚,於是莊帝密有圖榮之意。

三年九月、栄朝に入らんと啓す。朝士其の変有らんことを慮り、庄帝又た之を畏れ悪む。栄の従弟世隆栄に書を寄せ、其の来らざるを勧め、栄の妻北郷郡長公主も亦た行かざるを勧むるも、栄並びに従わず。帝既に栄を図り、栄至り入見するや、即ち之を害せんと欲すも、天穆并州に在り、後患と為らんことを恐れ、故に隠忍して未だ発せず。栄の洛に入るに、人有りて栄に告げ、云く帝之を図らんと欲すと。栄即ち具(つぶさ)に奏す、帝曰く、「外人告くるに云く亦た王我を害せんと欲すと言う、我豈に之を信ぜんや?」と。ここに於て栄自ら疑わず、毎に帝に謁するに、従人数十を過ぎず、又皆挺身して兵仗を持たず。天穆至るに及び、帝伏兵を明光殿東廊にし、栄及び栄の長子菩提・天穆等を引き倶に入らしむ。坐定まり、光禄少卿魯安・典御李侃晞等抽刀して至る。栄窘迫し、起ちて御坐に投ず。帝先ず刀を膝下に横たえ、遂に手ずから之を刃す。安等乱れ斫(き)る。栄と天穆・菩提同時に倶に死す。栄時に年三十八。ここに於て内外喜叫し、声京城に満つ。既にして大赦す。

原文三年九月,榮啟將入朝。朝士慮其有變,莊帝又畏惡之。榮從弟世隆與榮書,勸其不來,榮妻北鄉郡長公主亦勸不行,榮並不從。帝既圖榮,榮至入見,即欲害之,以天穆在并,恐為後患,故隱忍未發。榮之入洛,有人告榮,云帝欲圖之。榮即具奏,帝曰:「外人告云亦言王欲害我,我豈信之?」於是榮不自疑,每入謁帝,從人不過數十,又皆挺身不持兵仗。及天穆至,帝伏兵於明光殿東廊,引榮及榮長子菩提、天穆等俱入。坐定,光祿少卿魯安、典御李侃晞等抽刀而至,榮窘迫,起投御坐。帝先橫刀膝下,遂手刃之,安等亂斫,榮與天穆、菩提同時俱死。榮時年三十八。於是內外喜叫,聲滿京城。既而大赦。

前廃帝の初め、世隆らが志を得て、詔して曰く、「故使持節・侍中・都督河北諸軍事・天柱大将軍・大丞相・太師・領左右・兼録尚書・北道大行臺・太原王栄は、功は区夏を済し、誠は幽明に貫き、天憗遺せず、奄に物化に従う。終を追い績を褒むるは、列代の通謨なり。徳を紀し勲を銘するは、前王の令範なり。仮黄鉞・相国・録尚書事・司州牧を贈り、使持節・侍中・将軍・王は故の如くせよ」と。また詔して曰く、「故仮黄鉞・持節・侍中・相国・録尚書・都督中外諸軍事・天柱大将軍・司州牧・太原王栄は、惟れ岳霊を降し、期に応じて輔となり、功は伊霍に侔し、徳は桓文に契う。方に棟梁を籍り、永く国命を康んぜんとす。道長く運短く、震悼兼ねて深し。前に已に褒贈し、以て其の美を彰わす。然れども礼数窮まらず、文物闕けあり、遠近の望み、猶或いは未だ尽きず。宜しく旧典に循い、更に殊錫を加うべし。追って号を晋王と為し、九錫を加え、九旒鑾輅・虎賁・班剣三百人・轀輬車を給し、晋の太宰・安平献王の故事に準じ、諡して武と曰うべし」と。詔して曰く、「武泰の末、乾枢中に圮ち、丕基宝命、綴旒の若き有り。晋王栄は固より天の縦する所、世に忠誠を秉り、一たび邦国を匡し、再び区夏を造り、我が頽綱を俾ち、ここに復振す。勲は王府に銘せられ、徳は管絃に被るといえども、従祀の礼、茲に尚闕く。以て当時の懋賞に酬い、不朽の殊績を騰すに非ず。宜しく旧典に遵い、高祖廟庭に配享すべし」と。

原文前廢帝初,世隆等得志,乃詔曰:「故使持節、侍中、都督河北諸軍事、天柱大將軍、大丞相、太師、領左右、兼錄尚書、北道大行臺、太原王榮,功濟區夏,誠貫幽明,天不憗遺,奄從物化。追終褒績,列代通謨;紀德銘勳,前王令範。可贈假黃鉞、相國、錄尚書事、司州牧,使持節、侍中、將軍、王如故。」又詔曰:「故假黃鉞、持節、侍中、相國、錄尚書、都督中外諸軍事、天柱大將軍、司州牧、太原王榮,惟岳降靈,應期作輔,功侔伊霍,德契桓文。方籍棟梁,永康國命,道長運短,震悼兼深。前已褒贈,用彰厥美。然禮數弗窮,文物有闕,遠近之望,猶或未盡。宜循舊典,更加殊錫。可追號為晉王,加九錫,給九旒鑾輅、虎賁、班劍三百人、轀輬車,準晉太宰、安平獻王故事,諡曰武。」詔曰:「武泰之末,乾樞中圮,丕基寶命,有若綴旒。晉王榮固天所縱,世秉忠誠,一匡邦國,再造區夏,俾我頹綱,於斯復振。雖勳銘王府,德被管絃,而從祀之禮,於茲尚闕,非所以酬懋賞於當時,騰殊績於不朽。宜遵舊典,配享高祖廟庭。」

菩提は、粛宗の末、羽林監に拝せられる。尋いで直閤将軍に転ず。孝荘の初め、栄の翼戴の勲により、超授して散騎常侍・平北将軍・中書令となる。太常卿に転じ、驃騎大将軍・開府儀同三司に遷り、侍中・特進を加えられる。死する時年十四。前廃帝の初め、侍中・驃騎大将軍・司徒公・冀州刺史を贈られ、諡して恵と曰う。

原文菩提,肅宗末,拜羽林監。尋轉直閤將軍。孝莊初,以榮翼戴之勳,超授散騎常侍、平北將軍、中書令。轉太常卿,遷驃騎大將軍、開府儀同三司,加侍中、特進。死時年十四。前廢帝初,贈侍中、驃騎大將軍、司徒公、冀州刺史,諡曰惠。

菩提の弟叉羅は、孝荘の初め、散騎常侍・武衛将軍を除される。初め梁郡公を襲い、また爵を進めて王と為る。尋いで卒す。侍中・車騎将軍・司空公・雍州刺史を贈られる。

原文菩提弟叉羅,孝莊初,除散騎常侍、武衞將軍。初襲梁郡公,又進爵為王。尋卒,贈侍中、車騎將軍、司空公、雍州刺史。

叉羅の弟文殊は、建義の初め、平昌郡開国公に封ぜられ、爵を進めて王と為る。孝静の初め、転じて栄の爵太原王を襲う。晋陽にて薨ず。時年九歳。

原文叉羅弟文殊,建義初,封平昌郡開國公,進爵為王。孝靜初,轉襲榮爵太原王。薨於晉陽,時年九歲。

文殊の弟文暢は、初め昌楽郡開国公に封ぜられ、食邑二千戸。栄の葛賊を破る勲により、爵を進めて王と為り、邑を千戸増す。超授して散騎常侍・撫軍将軍となる。後に肆州刺史を除され、仍って本将軍とし、開府儀同三司を加えられる。武定三年春、前東郡太守任冑らと謀反を図った罪に坐し、誅せられる。時年十八。

原文文殊弟文暢,初封昌樂郡開國公,食邑二千戶。以榮破葛賊之勳,進爵為王,增邑千戶。超授散騎常侍、撫軍將軍。後除肆州刺史,仍本將軍,加開府儀同三司。武定三年春,坐與前東郡太守任冑等謀反,伏誅。時年十八。

文暢の弟文略は、爵梁郡王を襲う。武定の末、撫軍将軍・光禄大夫。

原文文暢弟文略,襲爵梁郡王。武定末,撫軍將軍、光祿大夫。

【論】

原文【論】