魏書

卷73 奚康生 楊大眼 崔延伯

卷73 奚康生 楊大眼 崔延伯

奚康生

原文奚康生

奚康生は、河南洛陽の人である。その先祖は代人であり、代々部落の大人であった。祖父の奚直は、平遠将軍・柔玄鎮将となった。朝廷に入り鎮北大将軍、内外三都大官となり、長進侯の爵位を賜った。死去すると、幽州刺史を追贈され、諡は簡といった。父の奚普憐は、仕官せずに亡くなった。

原文奚康生,河南洛陽人。其先代人也,世為部落大人。祖直,平遠將軍、柔玄鎮將。入為鎮北大將軍,內外三都大官,賜爵長進侯。卒,贈幽州刺史,諡曰簡。父普憐,不仕而卒。

太和十一年、蠕蠕がたびたび辺境を侵犯したので、柔玄鎮都將の李兜がこれを討撃した。康生は性質驍勇で武芸に優れ、弓の力は十石あり、矢も普通のものと異なり、当時の人々に敬服された。李兜に従って前驅軍主となり、たびたび戦って敵陣を陥とし、その壮烈な気概は広く知られ、これによって宗子隊主となった。

原文太和十一年,蠕蠕頻來寇邊,柔玄鎮都將李兜討擊之。康生性驍勇,有武藝,弓力十石,矢異常箭,為當時所服。從兜為前驅軍主,頻戰陷陳,壯氣有聞,由是為宗子隊主。

帝に従って鍾離を征伐し、帝の車駕が淮水を渡り返す際、五将の軍はまだ渡河していなかった。蕭鸞が将を遣わし軍勢を率いて洲を占拠し、渡河の路を遮断した。高祖は詔して言った、「中渚の賊を破ることができる者には、直閤将軍とする」。康生は当時軍主であったが、友人に言った、「もしこれを攻克すれば、名声と功績を暢うすることができ、もし敗れれば、命は天に在り。丈夫たるもの、今日どうして決断しないことがあろうか」。すなわち応募し、筏を縛り柴を積み、風に乗じて火を放ち、その船艦を焼き、煙に乗じて直進し、飛ぶように刀を振るって乱れ斬り、河に投じて溺死する者は甚だ多かった。そこで康生を仮に直閤将軍とした。後に勲功により中堅将軍・太子三校・西臺直後に任じられた。

原文從駕征鍾離,駕旋濟淮,五將未渡,蕭鸞遣將率眾據渚,邀斷津路。高祖敕曰:「能破中渚賊者,以為直閤將軍。」康生時為軍主,謂友人曰:「如其克也,得暢名績,脫若不捷,命也在天。丈夫今日何為不決!」遂便應募,縛筏積柴,因風放火,燒其船艦,依烟直進,飛刀亂斫,投河溺死者甚眾。乃假康生直閤將軍。後以勳除中堅將軍、太子三校、西臺直後。

吐京胡が反乱し、自ら辛支王と号した。康生は軍主として、章武王元彬に従ってこれを討った。胡は精騎一千を遣わし路を遮断したが、康生は五百人を率いて防ぎ戦い、これを破り、石羊城まで追撃し、三十級を斬首した。元彬の甲卒七千は胡と対戦し、五軍に分かれたが、四軍はことごとく敗れ、康生の軍のみが全うした。統軍に遷った。精騎一千を率いて胡を車突谷まで追撃し、墜馬したふりをした。胡は皆死んだと思い、争ってこれを取ろうとした。康生は馬から躍り上がり矛を奮って、数十人を殺傷したので、胡は遂に敗走した。辛支は軽騎で退走し、康生から百余歩のところで、弓を引き絞ってこれを射ると、弦の響きに応じて倒れ死んだ。これによりその牛羊駱駝馬を数万の単位で捕獲した。

原文吐京胡反,自號辛支王。康生為軍主,從章武王彬討之。胡遣精騎一千邀路斷截,康生率五百人拒戰,破之,追至石羊城,斬首三十級。彬甲卒七千,與胡對戰,分為五軍,四軍俱敗,康生軍獨全。遷為統軍。率精騎一千追胡至車突谷,詐為墜馬,胡皆謂死,爭欲取之。康生騰騎奮矛,殺傷數十人,胡遂奔北。辛支輕騎退走,去康生百餘步,彎弓射之,應弦而死。因俘其牛羊駝馬以萬數。

蕭鸞が義陽に□を置き、辺境の民を招き誘った。康生は再び統軍となり、王肅に従ってこれを討ち、進んでその城を包囲した。蕭鸞の将張伏護が自ら城楼に昇り、言辞が不遜であったので、王肅は康生にこれを射させた。強弓大箭をもって楼を望み窓を射ると、扉が開くや否や矢は入り、矢に応じて倒れ死んだ。彼の民はその矢を見て、皆これを狂弩と言った。伏護を殺した功により、帛一千匹を賞賜された。またたびたび戦って再びその軍を退けたので、三階を賞され、帛五百匹を賜った。蕭宝卷の将裴叔業が軍勢を率いて渦陽を包囲し、義陽の危急を救おうとした。詔して高聰ら四軍を遣わしてこれを救援させたが、後に都督・広陵侯元衍を遣わしても、皆敗退した。時に刺史の孟表がたびたび報告してきたので、高祖は王肅に命じ、康生を馳せさせて救援に赴かせた。一戦にしてこれを大破し、二階を賞され、帛一千匹を賜った。寿春が降伏してきた時には、康生に羽林一千人を率いさせ、龍廐の馬二匹を与え、寿春に馳せ赴かせた。城に入ると、城内の旧老を集めさせ、詔を宣して慰撫し賜物を与えた。間もなく、蕭宝卷の将桓和が梁城に軍を駐め、陳伯之が峡石を占拠したので、民心は驚動し、異謀を抱く者が多かった。康生は内外を防禦し、音信を通じさせなかった。城を固守すること一月、援軍がようやく到着した。康生は出撃して桓和・伯之らの二軍を破り走らせ、梁城・合肥・洛口の三つの戍を陥とした。功により征虜将軍に遷り、安武県開国男に封ぜられ、食邑二百戸を与えられた。

原文蕭鸞置義陽□,招誘邊民。康生復為統軍,從王肅討之,進圍其城。鸞將張伏護自昇城樓,言辭不遜,肅令康生射之。以強弓大箭望樓射窗,扉開即入,應箭而斃。彼民見箭,皆云狂弩。以殺伏護,賞帛一千匹。又頻戰再退其軍,賞三階,帛五百匹。蕭寶卷將裴叔業率眾圍渦陽,欲解義陽之急。詔遣高聰等四軍往援之,後遣都督、廣陵侯元衍,並皆敗退。時刺史孟表頻啟告,高祖敕肅遣康生馳往赴援。一戰大破之,賞二階,帛一千匹。及壽春來降也,遣康生領羽林一千人,給龍廐馬兩匹,馳赴壽春。既入其城,命集城內舊老,宣詔撫賚。俄而,蕭寶卷將桓和頓軍梁城,陳伯之據峡石,民心駭動,頗有異謀。康生乃防禦內外,音信不通。固城一月,援軍乃至。康生出擊桓和、伯之等二軍,並破走之,拔梁城、合肥、洛口三戍。以功遷征虜將軍,封安武縣開國男,食邑二百戶。

南青州刺史として出向した。後に蕭衍の郁洲が軍主徐済を遣わして辺境を侵犯したので、康生は将を率いて出討し、これを破り、徐済を生け捕りにした。帛千匹を賞賜された。時に蕭衍は康生が強弓を引き、力が十余石に至ると聞き、わざわざ大弓二張を作り、康生に送った。康生は弓を得ると、文武の者を集め、平射を用いたが、なお余力があった。その弓の長さは八尺、握りの中囲は一尺二寸、矢の太さは今の長笛にほぼ等しく、見る者はこれを希世絶倫と思った。弓はすぐに上表して献上し、武庫に収めた。

原文出為南青州刺史。後蕭衍郁洲遣軍主徐濟寇邊,康生率將出討,破之,生擒濟。賞帛千匹。時蕭衍聞康生能引強弓,力至十餘石,故特作大弓兩張,送與康生。康生得弓,便會集文武,乃用平射,猶有餘力。其弓長八尺,把中圍尺二寸,箭粗殆如今之長笛,觀者以為希世絕倫。弓即表送,置之武庫。

また蕭衍が将の宋黒を遣わし軍勢を率いて彭城を寇擾した。時に康生は母の喪に服していたが、詔によって別将・持節・仮の平南将軍として起用され、南青州諸軍を率いてこれを撃退した。後に蕭衍はまた都督・臨川王蕭宏と副将の張恵紹に甲兵十万を率いさせて徐州を侵犯しようと図り、また宋黒を仮の徐州刺史とし、軍勢二万を率いさせ、水陸ともに進軍し、まっすぐに高塚戍を包囲した。詔して康生を武衞将軍・持節・仮の平南将軍に任じ、別将とし、羽林三千人を率いさせ、騎兵・歩兵の甲士は適宜割り当てさせた。康生は一戦にしてこれを破った。京に還ると、召し出されて宴会に与り、帛千匹を賞され、驊騮の御胡馬一匹を賜った。

原文又蕭衍遣將宋黑率眾寇擾彭城,時康生遭母憂,詔起為別將、持節、假平南將軍,領南青州諸軍擊走之。後衍復遣都督、臨川王蕭宏,副將張惠紹勒甲十萬規寇徐州,又假宋黑徐州刺史,領眾二萬,水陸俱進,徑圍高塚戍。詔授康生武衞將軍、持節、假平南將軍,為別將,領羽林三千人,騎、步甲士隨便割配。康生一戰敗之。還京,召見宴會,賞帛千匹,賜驊騮御胡馬一匹。

平西将軍・華州刺史として出向し、名声と治績がかなりあった。涇州刺史に転じ、もとの将軍号のままとした。官の炭瓦をみだりに用いたことを御史に弾劾され、官爵を削除された。まもなく詔旨によって復職した。蕭衍の直閤将軍徐玄明が郁洲に戍っており、その刺史の張稷を殺し、城を挙げて内附した。詔して康生を派遣してこれを迎接させ、細御の銀纏槊一張および棗と柰の果物を賜った。面して敕して言った、「果は、果たして朕が心の如くなることを、棗は、早く朕の意に順うことを意味する」。出発しない間に、郁洲が再び叛いた。時に揚州別駕の裴絢が謀反を企てたので、康生を平東将軍に任じ、別将とし、羽林四千を率いてこれを討たせたが、事態が平定されたので実行されなかった。

原文出為平西將軍、華州刺史,頗有聲績。轉涇州刺史,仍本將軍。以輒用官炭瓦為御史所劾,削除官爵。尋旨復之。蕭衍直閤將軍徐玄明戍於郁洲,殺其刺史張稷,以城內附。詔遣康生迎接,賜細御銀纏槊一張并棗柰果。面敕曰:「果者,果如朕心;棗者,早遂朕意。」未發之間,郁洲復叛。時揚州別駕裴絢謀反,除康生平東將軍,為別將,領羽林四千討之,會事平不行。

父の喪に服したが、平西将軍・西中郎将として起用された。この年、大いに蜀を征伐することとなり、康生を仮の安西将軍とし、歩騎三万を率いて緜竹に向かわせた。隴右に至った時、世宗が崩御したので、軍を返した。衞尉卿に任じられた。撫軍将軍・相州刺史として出向した。州にあって、旱魃のため人に命じて石虎の画像を鞭打たせた。また西門豹の祠に行って雨を祈ったが、得られなかったので、吏に命じて豹の舌を取らせた。間もなく、二人の子が急死し、自身も病気にかかった。巫が、虎と豹の祟りであると言った。

原文遭父憂,起為平西將軍、西中郎將。是歲,大舉征蜀,假康生安西將軍,領步騎三萬邪趣緜竹。至隴右,世宗崩,班師。除衞尉卿。出為撫軍將軍、相州刺史。在州,以天旱令人鞭石虎畫像;復就西門豹祠祈雨,不獲,令吏取豹舌。未幾,二兒暴喪,身亦遇疾,巫以為虎、豹之祟。

光祿卿に召され、右衞将軍を兼ねた。元叉とともに謀って霊太后を廃した。撫軍大将軍・河南尹に遷り、もとの右衞将軍のまま、左右を兼ねた。子の奚難が左衞将軍侯剛の娘を娶ったが、侯剛は元叉の妹婿であった。元叉は彼と婚姻関係にあるので、深く委託し、三人はしばしばともに禁中に宿直し、時には交替で出た。元叉は康生の子の奚難を千牛備身とした。

原文徵拜光祿卿,領右衞將軍。與元叉同謀廢靈太后。遷撫軍大將軍、河南尹,仍右衞,領左右。與子難娶左衞將軍侯剛女,即元叉妹夫也。叉以其通姻,深相委託,三人率多俱宿禁內,時或迭出。叉以康生子難為千牛備身。

康生は性質が粗暴で武骨であり、言葉の調子も高下が激しく、元叉もやや彼を憚り、その様子が顔色に表れ、康生もまた少し恐れて不安であった。正光二年三月、粛宗が霊太后に西林園で朝見し、文武の臣が侍坐し、酒が酣になると順番に舞を舞った。次に康生の番となり、康生は力士の舞を舞い、旋回する際に、たびたび太后を顧み、手を挙げ、足を踏み鳴らし、目を怒らせ、首をうなずいて殺害・縛り上げるような勢いを示した。太后はその意を解したが、敢えて言わなかった。日が暮れて、太后は粛宗を連れて宣光殿に宿泊しようとした。侯剛が言うには、「至尊(皇帝)は既に朝見を終えられ、后妃たちは南の宮殿におります。どうしてわざわざ留めて宿泊させましょうか。」康生は言った、「至尊は陛下の御子であられ、陛下に従って東にも西にも行かれます。さらに誰に伺いを立てる必要がありましょうか。」群臣は誰も応じる者がなかった。霊太后は自ら立ち上がり、粛宗の腕を取って堂を下りて去った。康生は後ろで万歳を唱えて大声で叫び、近侍たちも皆万歳を唱えた。粛宗が前へ進んで閤に入ると、左右の者が競って押し合い、閤を閉じることができなかった。康生はその子の難の千牛刀を奪い、直後の元思輔を斬りつけて、ようやく鎮定した。粛宗が既に殿上に上がると、康生は時に酒気を帯びており、出て処分しようとしたところ、遂に元叉に捕らえられ、門下に鎖で繋がれた。夜明けまで、元叉は出て来ず、侍中・黄門・僕射・尚書など十余人を康生のところに遣わしてその事を訊問させ、康生に斬刑を、難に絞刑を処することとした。元叉と侯剛は共に内廷で詔を偽ってこれを決定した。康生は上奏通り(斬刑)となり、難は死を赦されて流刑に従うこととなった。難は泣きながら父に拝別したが、康生は子が死を免れたことを喜び、また慷慨として、全く悲しみ泣かなかった。その子に語って言うには、「私は反逆して死ぬのではない。お前はなぜ泣くのか。」役人が駆り立て、奔走して刑場に赴かせた。時は既に暗くなっており、刑吏が刀を突き立てて数度刺しても死なず、地面で刻み斬りにした。皆が元叉の意を受けたもので、苦痛が甚だしかったと言う。嘗て食典御の奚混は康生と共に刀を執って内に入ったこともあり、同じく刑場で絞刑に処せられた。

原文康生性粗武,言氣高下,叉稍憚之,見于顏色,康生亦微懼不安。正光二年三月,肅宗朝靈太后于西林園,文武侍坐,酒酣迭舞。次至康生,康生乃為力士舞,及於折旋,每顧視太后,舉手、蹈足、瞋目、頷首為殺縛之勢。太后解其意而不敢言。日暮,太后欲攜肅宗宿宣光殿。侯剛曰:「至尊已朝訖,嬪御在南,何勞留宿?」康生曰:「至尊,陛下兒,隨陛下將東西,更復訪問誰?」羣臣莫敢應。靈太后自起援肅宗臂下堂而去。康生大呼唱萬歲於後,近侍皆唱萬歲。肅宗引前入閤,左右競相排,閤不得閉。康生奪其子難千牛刀,斫直後元思輔,乃得定。肅宗既上殿,康生時有酒勢,將出處分,遂為叉所執,鎖於門下。至曉,叉不出,令侍中、黃門、僕射、尚書等十餘人就康生所訊其事,處康生斬刑,難處絞刑。叉與剛並在內矯詔決之。康生如奏,難恕死從流。難哭拜辭父,康生忻子免死,又亦慷慨,了不悲泣。語其子云:「我不反死,汝何為哭也?」有司驅逼,奔走赴巿。時已昏闇,行刑人注刀數下不死,於地刻截。咸言禀叉意旨,過至苦痛。嘗食典御奚混與康生同執刀入內,亦就巿絞刑。

康生は長く将軍を務め、また州の長官として臨むと、多く殺戮を行った。しかしながら仏道を信奉し、しばしばその居宅を捨てて寺塔を建立した。合わせて四州を歴任し、いずれも建立を行った。死んだ時は五十四歳であった。

原文康生久為將,及臨州尹,多所殺戮。而乃信向佛道,數捨其居宅以立寺塔。凡歷四州,皆有建置。死時年五十四。

子の難は、十八歳であった。侯剛の子の婿であることにより百日間の執行停止を得たが、結局安州に流徙された。後に尚書の盧同が行臺となると、また彼を殺すよう命じた。

原文子難,年十八。以侯剛子壻得停百日,竟徙安州。後尚書盧同為行臺,又令殺之。

康生は南山に三層の仏塔を建立したが、死ぬ前に突然それが崩壊する夢を見た。沙門でこれを解釈する者が言うには、「檀越(施主)は不吉なことがあるでしょう。誰も仏塔を供養する者がいないので、崩れたのです。」康生はその通りだと言った。結局禍いに及んだ。霊太后が政権に復帰すると、都督冀瀛滄三州諸軍事・驃騎大將軍・司空公・冀州刺史を追贈し、また寿張県開国侯を追封し、食邑一千戸を与えた。

原文康生於南山立佛圖三層,先死忽夢崩壞。沙門有為解云:「檀越當不吉利,無人供養佛圖,故崩耳。」康生稱然。竟及禍。靈太后反政,贈都督冀瀛滄三州諸軍事、驃騎大將軍、司空公、冀州刺史,又追封壽張縣開國侯,食邑一千戶。

子の剛が襲封した。武定年間、青州開府主簿となった。斉が禅譲を受けると、爵位は例によって降格された。

原文子剛,襲。武定中,青州開府主簿。齊受禪,爵例降。

剛の弟の定国が、康生の安武県開国男を襲封した。

原文剛弟定國,襲康生安武縣開國男。

楊大眼

原文楊大眼

楊大眼は、武都の氐の楊難当の孫である。若い頃から胆気があり、跳び走ること飛ぶが如くであった。しかし庶子であったため、その宗族親戚から顧みられず、飢えと寒さに苦しむことが多かった。太和年間、奉朝請として官途に就いた。時に高祖(孝文帝)が代から南征しようとし、尚書の李沖に征討の官を選任させた。大眼は赴いて求めたが、李沖は許さなかった。大眼は言った、「尚書は私をご存知ないようです。下官に一つの技をお見せすることをお許しください。」そこで三丈ほどの長い縄を出して髻に結びつけて走ると、縄は矢のように真っ直ぐになり、馬で駆けても及ばず、見た者は皆驚嘆した。李沖は言った、「千年以来、このような逸材はいなかった。」そこで軍主に任用した。大眼は同僚たちに振り返って言った、「私の今日は、いわゆる蛟龍が水を得た時である。この一挙以来、二度と諸君と同列にはならないであろう。」間もなく、統軍に遷った。高祖に従って宛・葉・穰・鄧・九江・鍾離の間を征伐し、経歴した戦陣において、いずれも六軍の中で最も勇猛であった。世宗(宣武帝)の初め、裴叔業が寿春を以て内附すると、大眼は奚康生らと共に兵を率いて先に入城し、功により安成県開国子に封ぜられ、食邑三百戸を与えられた。直閤將軍に任じられ、まもなく輔國將軍・游擊將軍を加えられた。

原文楊大眼,武都氐難當之孫也。少有膽氣,跳走如飛。然側出,不為其宗親顧待,頗有飢寒之切。太和中,起家奉朝請。時高祖自代將南伐,令尚書李沖典選征官,大眼往求焉。沖弗許,大眼曰:「尚書不見知,聽下官出一技。」便出長繩三丈許繫髻而走,繩直如矢,馬馳不及,見者莫不驚歎。沖曰:「自千載以來,未有逸材若此者也。」遂用為軍主。大眼顧謂同僚曰:「吾之今日,所謂蛟龍得水之秋,自此一舉終不復與諸君齊列矣。」未幾,遷為統軍。從高祖征宛、葉、穰、鄧、九江、鍾離之間,所經戰陳,莫不勇冠六軍。世宗初,裴叔業以壽春內附,大眼與奚康生等率眾先入,以功封安成縣開國子,食邑三百戶。除直閤將軍,尋加輔國將軍、游擊將軍。

征虜將軍・東荊州刺史として出向した。時に蛮の酋長樊秀安らが反乱し、詔により大眼を別将とし、都督李崇に隷属させて討伐平定させた。大眼の妻の潘氏は、騎射に長け、自ら軍中に赴いて大眼を訪ねた。攻戦や遊猟の際には、大眼は妻の潘に戎装させ、ある時は戦場で馬を並べ、ある時は林壑を並んで駆けた。そして営に戻ると、同じ幕下に座り、諸僚佐に対して談笑自若としており、時に彼女を指して人に言った、「これが潘将軍である。」

原文出為征虜將軍、東荊州刺史。時蠻酋樊秀安等反,詔大眼為別將,隸都督李崇,討平之。大眼妻潘氏,善騎射,自詣軍省大眼。至於攻陳遊獵之際,大眼令妻潘戎裝,或齊鑣戰場,或並驅林壑。及至還營,同坐幕下,對諸僚佐,言笑自得,時指之謂人曰:「此潘將軍也。」

蕭衍がその前江州刺史王茂先に数万の兵を率いさせて樊雍に駐屯させ、蛮や漢人を招き誘い、宛州を設立しようと図り、またその任命した宛州刺史雷豹狼・軍主曹仲宗らに二万の兵を率いさせて河南城を密かに占拠させた。世宗は大眼を武衞將軍・仮の平南將軍・持節とし、都督統軍曹敬・邴虬・樊魯ら諸軍を統率して茂先らを討伐させ、大いにこれを破り、蕭衍の輔國將軍王花・龍驤將軍申天化を斬り、捕虜と斬首七千余りを得た。蕭衍はまたその舅の張恵紹に諸軍を総率させ、宿豫を密かに占拠させた。また大眼を仮の平東將軍として別将とし、都督邢巒と共に討伐してこれを破った。そこで勝に乗じて長駆し、中山王元英と共に鍾離を包囲した。大眼の軍は城の東にあり、淮橋の東西二道を守った。時に水かさが増し、大眼の統率する統軍劉神符・公孫祉の両軍が夜中に橋を争って敗走し、大眼はこれを制止できず、相次いで逃走したため、罪に坐して営州の兵士に落とされた。

原文蕭衍遣其前江州刺史王茂先率眾數萬次于樊雍,招誘蠻夏,規立宛州,又令其所署宛州刺史雷豹狼、軍主曹仲宗等領眾二萬偷據河南城。世宗以大眼為武衞將軍、假平南將軍、持節,都督統軍曹敬、邴虬、樊魯等諸軍討茂先等,大破之,斬衍輔國將軍王花、龍驤將軍申天化,俘馘七千有餘。衍又遣其舅張惠紹總率眾軍,竊據宿豫。又假大眼平東將軍為別將,與都督邢巒討破之。遂乘勝長驅,與中山王英同圍鍾離。大眼軍城東,守淮橋東西二道。屬水汎長,大眼所綰統軍劉神符、公孫祉兩軍夜中爭橋奔退,大眼不能禁,相尋而走,坐徙為營州兵。

永平年間、世宗はその以前の功績を追念し、試守の中山内史として起用した。時に高肇が蜀を征伐し、世宗は蕭衍が徐揚を侵犯することを憂慮し、大眼を太尉長史・持節・仮の平南將軍・東征別将として徴発し、都督元遙に隷属させて淮肥を防がせた。大眼が京師に至ると、当時の人々はその雄勇を思い、その再任用を喜び、台省や里巷に観衆が市の如く集まった。大眼が譙の南に駐屯すると、世宗が崩御した。時に蕭衍が将軍康絢を浮山に遣わして淮を堰き止め、寿春を水没させようと図ったため、詔して大眼に光禄大夫を加え、諸軍を率いて荊山を鎮守させ、その封邑を回復させた。後に蕭宝夤と共に淮の堰を征伐したが、攻略できなかった。そこで堰の上流に渠を穿ち水を決壊させて帰還し、平東將軍を加えられた。

原文永平中,世宗追其前勳,起為試守中山內史。時高肇征蜀,世宗慮蕭衍侵軼徐揚,乃徵大眼為太尉長史、持節、假平南將軍、東征別將,隸都督元遙,遏禦淮肥。大眼至京師,時人思其雄勇,喜其更用,臺省閭巷,觀者如巿。大眼次譙南,世宗崩。時蕭衍遣將康絢於浮山遏淮,規浸壽春,詔加大眼光祿大夫,率諸軍鎮荊山,復其封邑。後與蕭寶夤俱征淮堰,不能克。遂於堰上流鑿渠決水而還,加平東將軍。

大眼は騎乗に長け、装束は雄壮で、鎧を着て旋回する様は当世に称えられた。士卒を慰撫巡察する時は、彼らを「息子」と呼び、また傷ついた者を見ると、そのために涙を流した。自ら将帥となってからは、常に兵士の先頭に立ち、堅固な陣を突撃し、出入りに躊躇わず、その鋒に当たる者は、ことごとく打ち倒された。南賊(梁)が前後して派遣した督将たちは、軍がまだ長江を渡らないうちから、予め皆畏怖した。淮泗・荊沔の間に童児が泣く時、「楊大眼が来る」と脅かすと、即座に止んだと言い伝えられた。王粛の弟の子の王秉が初めて帰国した時、大眼に言った、「南方で貴殿の名を聞き、眼が車輪のようだと思っていました。お目にかかると、人と変わらないのです。」大眼は言った、「旗鼓相望み、目を怒らせ奮い立つ時は、貴殿の目を見開くこともできないでしょう。どうして車輪のように大きい必要がありましょうか。」当世はその驍勇果断を推し、皆が関羽・張飛にも及ばないと考えた。しかし淮堰征伐の役では、喜怒常なく、鞭打ちが過度で、軍士たちは大いに恨んだ。識者は性格が変わったためであると考えた。

原文大眼善騎乘,裝束雄竦,擐甲折旋,見稱當世。撫巡士卒,呼為兒子,及見傷痍,為之流泣。自為將帥,恒身先兵士,衝突堅陳,出入不疑,當其鋒者,莫不摧拉。南賊前後所遣督將,軍未渡江,預皆畏懾。傳言淮泗、荊沔之間有童兒啼者,恐之云「楊大眼至」,無不即止。王肅弟子秉之初歸國也,謂大眼曰:「在南聞君之名,以為眼如車輪。及見,乃不異人。」大眼曰:「旗鼓相望,瞋眸奮發,足使君目不能視,何必大如車輪。」當世推其驍果,皆以為關張弗之過也。然征淮堰之役,喜怒無常,捶撻過度,軍士頗撼焉。識者以為性移所致。

また本將軍として荊州刺史に出向した。常に蒿を束ねて人形を作り、青い布を着せてこれを射た。諸蛮の渠帥を召し寄せてこれを見せて言った、「卿らがもし賊を働くならば、私はこのようにして殺すぞ。」また北淯郡に嘗て虎の害があり、大眼はこれを捕らえて獲、その頭を斬って穣の市に懸けた。これより後、荊の蛮は互いに言った、「楊公は恐ろしい人だ。常に我々蛮の形をしてこれを射る。また深山の虎でさえ免れないのだ。」そこで再び寇盗を行うことを敢えてしなくなった。州に在ること二年で卒した。

原文又以本將軍出為荊州刺史。常縛蒿為人,衣以青布而射之。召諸蠻渠指示之曰:「卿等若作賊,吾政如此相殺也。」又北淯郡嘗有虎害,大眼搏而獲之,斬其頭懸於穰巿。自是荊蠻相謂曰:「楊公惡人,常作我蠻形以射之。又深山之虎尚所不免。」遂不敢復為寇盜。在州二年而卒。

大眼は学問をしなかったが、常に人を遣わして書物を読ませ、座ってそれを聴き、すべてを記憶した。露布を作らせるときは、すべて口授したが、結局はあまり字を知らなかった。三人の子があり、長男は甑生、次は領軍、次は征南で、いずれも潘氏が生んだ子であり、気力・体幹はみな父の風があった。

原文大眼雖不學,恒遣人讀書,坐而聽之,悉皆記識。令作露布,皆口授之,而竟不多識字也。有三子,長甑生,次領軍,次征南,皆潘氏所生,氣幹咸有父風。

初め、大眼が営州に移されたとき、潘氏は洛陽におり、かなり品行を失っていた。中山にいたとき、大眼の側室の娘の婿である趙延宝がこのことを大眼に告げると、大眼は怒り、潘氏を幽閉して殺した。後に後妻として元氏を娶った。大眼が死んだとき、甑生らは印綬の所在を尋ねた。当時、元氏はちょうど妊娠しており、自らその腹を指さして甑生らに言うには、「開国の爵位は私の子が継ぐべきであり、お前たちのような婢の子は、望みを持つな」と。甑生はこれを深く恨んだ。大眼の遺骸が京に戻されることになり、城を出て東七里のところで、車を停めて宿営した。夜の二更、甑生らが大眼の棺を開くと、延宝が怪しんで尋ねたので、征南が射殺した。元氏は恐れて水の中に逃げ込んだが、征南がまた弓を引いて射ようとした。甑生が「天下に母を害する者があろうか」と言ったので、やめた。そこで大眼の屍を取って、人に馬上で抱かせ、左右が支えて叛いた。荊州の人々は甑生らの驍勇を恐れ、苦しく追うことはしなかった。襄陽に奔り、ついに蕭衍に帰順した。

原文初,大眼徙營州,潘在洛陽,頗有失行。及為中山,大眼側生女夫趙延寶言之於大眼,大眼怒,幽潘而殺之。後娶繼室元氏。大眼之死也,甑生等問印綬所在。時元始懷孕,自指其腹謂甑生等曰:「開國當我兒襲之,汝等婢子,勿有所望!」甑生深以為恨。及大眼喪將還京,出城東七里,營車而宿。夜二更,甑生等開大眼棺,延寶怪而問之,征南射殺之。元怖,走入水,征南又彎弓射之。甑生曰:「天下豈有害母之人。」乃止。遂取大眼屍,令人馬上抱之,左右扶挾以叛。荊人畏甑生等驍勇,不敢苦追。奔於襄陽,遂歸蕭衍。

崔延伯

原文崔延伯

崔延伯は博陵の人である。祖父の寿は、彭城で江南に陥落した。延伯は気力があり、若い頃から勇壮で知られていた。蕭賾に仕え、縁淮遊軍となり、濠口の戍主を兼ねた。太和年間に国(北魏)に入り、高祖(孝文帝)は深くこれを嘉し、常に統帥とした。胆気は人に絶し、謀略を兼ね、任地での征討において、ことごとく戦功を立てた。功労を積んで次第に進み、征虜将軍・荊州刺史に任じられ、定陵男の爵位を賜った。荊州の地は険しく、蛮左が寇掠し、しばしば集結すると、延伯は自らこれを討ち、ことごとく打ち破ったので、穰の地は平穏となり、敢えて患える者はなかった。

原文崔延伯,博陵人也。祖壽,於彭城陷入江南。延伯有氣力,少以勇壯聞。仕蕭賾,為緣淮遊軍,帶濠口戍主。太和中入國,高祖深嘉之,常為統帥。膽氣絕人,兼有謀略,所在征討,咸立戰功。積勞稍進,除征虜將軍、荊州刺史,賜爵定陵男。荊州土險,蠻左為寇,每有聚結,延伯輒自討之,莫不摧殄,由是穰土帖然,無敢為患。

永平年間、後将軍・幽州刺史に転じた。蕭衍がその左遊撃将軍趙祖悦に命じて軍勢を率いさせ、密かに峡石を占拠した。詔により延伯は別将となり、都督の崔亮とともにこれを討った。亮は延伯に下蔡を守らせた。延伯は別将の伊瓫生とともに淮水を挟んで営を構えた。延伯は車輪を取り、輪縁を外し、その輻を削って鋭くし、二つずつ接合し、竹を揉んで綱とし、貫き連ねてつなぎ、合わせて十余道とし、水を横切って橋とし、両端に大きな轆轤を設け、出没を思いのままにし、焼き切ることができなかった。これにより祖悦らの退路を断ち、また舟船の通行を妨げたので、衍軍は救援に赴くことができず、祖悦の全軍はことごとく捕虜となった。軍中において平南将軍・光禄大夫に任じられた。

原文永平中,轉後將軍、幽州刺史。蕭衍遣其左遊擊將軍趙祖悅率眾偷據峽石,詔延伯為別將,與都督崔亮討之。亮令延伯守下蔡。延伯與別將伊瓫生挾淮為營。延伯遂取車輪,去輞,削銳其輻,兩兩接對,揉竹為絙,貫連相屬,並十餘道,橫水為橋,兩頭施大轆轤,出沒任情,不可燒斫。既斷祖悅等走路,又令舟舸不通,由是衍軍不能赴救,祖悅合軍咸見俘虜。於軍拜平南將軍、光祿大夫。

延伯は楊大眼らと淮陽から到着し、霊太后は西林園に行幸して延伯らを引見した。太后は言った、「卿らは志が雄猛で、皆国の名将である。先ごろ峡石を平定し、公私ともに慶快したのは、これ卿らの功である。しかし淮堰はなお残っており、予め謀るべきである。故に卿らを引いて親しく共に量り算え、各々一図を出して後の計略とさせたい」と。大眼は答えて言った、「臣は水陸二道を、一時にともに下れば、往くところ克たざるはないと考えます」と。延伯は言った、「臣は今あえて大眼に異を唱えます。既に聖顔に対し、答える旨は実であるべきです。水の南と北にはそれぞれ溝瀆があり、陸地の計略でどうして前に進むことができましょうか。愚臣の短見では、聖心に水兵の勤苦を憐れみ、一年間の復除(租税労役免除)を与え、専ら水戦を習熟させ、もし不慮の事があれば、召せば直ちに用いることができ、往くところ獲ざるはないと願います」と。霊太后は言った、「卿の言うところは、深く適切で要を得ている。請いの通りに命じるべきである」と。

原文延伯與楊大眼等至自淮陽,靈太后幸西林園引見延伯等。太后曰:「卿等志尚雄猛,皆國之名將,比平峽石,公私慶快,此乃卿等之功也。但淮堰仍在,宜須豫謀,故引卿等親共量算,各出一圖以為後計。」大眼對曰:「臣輒謂水陸二道,一時俱下,往無不克。」延伯曰:「臣今輒難大眼,既對聖顏,答旨宜實,水南水北各有溝瀆,陸地之計如何可前?愚臣短見,願聖心愍水兵之勤苦,給復一年,專習水戰,脫有不虞,召便可用,往無不獲。」靈太后曰:「卿之所言,深是宜要,當敕如請。」

二年、安北将軍・并州刺史に任じられた。州において貪汙があり、遠近に聞こえた。還って金紫光禄大夫となった。出て鎮南将軍・行岐州刺史となり、征西将軍を仮授され、驊騮馬一匹を賜った。正光五年秋、かつて揚州において、淮橋の勲功を建てたことにより、当利県開国男に封じられ、食邑二百戸を賜い、まもなく邑百戸を増やされ、新豊に改封され、子爵に進んだ。

原文二年,除安北將軍、并州刺史。在州貪汙,聞於遠近。還為金紫光祿大夫。出為鎮南將軍、行岐州刺史,假征西將軍,賜驊騮馬一匹。正光五年秋,以往在揚州,建淮橋之勳,封當利縣開國男,食邑二百戶,尋增邑一百戶,改封新豐,進爵為子。

時に莫折念生の兄天生が隴東を下って寇掠し、征西将軍元志が天生に捕らえられ、賊衆は甚だ盛んで、進んで黒水に駐屯した。詔により延伯は使持節・征西将軍・西道都督とされ、行臺の蕭宝夤とともにこれを討った。宝夤は延伯と馬嵬に陣営を結び、南北百余歩離れていた。宝夤は日々督将を集めて賊討伐の方略を論じたが、延伯は常に「賊は新たに勝ちを得ており、争鋒するは難しい」と言った。宝夤は厳しい顔色でこれを責めて言った、「君は国の寵霊を荷い、軍を総べて出討する。これすなわち安危の係るところである。常に賊は討つべからずと言い、怯懦を示し、威を損ない気を挫くは、君の罪である」と。延伯は翌朝、宝夤のもとを訪れて自ら謝罪し、なお言った、「今、明公のために賊の勇怯を参(み)ることを仰せつかります」と。延伯は精兵数千を選び、下って黒水を渡り、陣を列べて西進し賊営に向かった。宝夤は軍勢を率いて水東の原に沿って西北に進み、後継を示した。当時賊衆は大いに盛んで、水西一里に営営と連接していた。延伯は直ちに賊の陣営に至り、威を揚げてこれを脅し、ゆっくりと還って退いた。賊は延伯の兵が少ないと思い、営を開いて競って追い、その数は十倍を超え、水辺に迫って押し詰めた。宝夤がこれを親しく見て、損害を恐れた。延伯はこれと戦わず、自ら殿軍となり、兵を引き抜いて東に渡り、運転すること神の如く、たちまちにして渡り終え、ゆっくりと自ら渡った。賊徒は気力を奪われ、相率いて営に還った。宝夤は大いに喜び、官属に言った、「崔公は古の関羽・張飛である。今年どうして賊を制せられぬことがあろうか」と。延伯は馳せて宝夤に会い言った、「この賊は老奴の敵ではありません。公はただ座ってご覧ください」と。後日、延伯は軍勢を率いて出撃し、宝夤は後詰めとなった。天生は全軍を挙げて来戦した。延伯は将士に号令を伝え、自ら士卒に先立ち、その前鋒を陥れた。ここにおいて勇鋭が競って進み、これを大破し、捕斬十余万、追撃して小隴に及んだ。秦の賊は勁強で、諸将が恐れるところであり、朝廷が初めに将を遣わすことを議したとき、皆、延伯でなければこれを定めることはできないと言い、果たして敵を克つことができた。右衛将軍に任じられた。

原文時莫折念生兄天生下隴東寇,征西將軍元志為天生所擒,賊眾甚盛,進屯黑水。詔延伯為使持節、征西將軍、西道都督,與行臺蕭寶夤討之。寶夤與延伯結壘馬嵬,南北相去百餘步。寶夤日集督將論討賊方略,延伯每云「賊新制勝,難與爭鋒」。寶夤正色責之曰:「君荷國寵靈,總戎出討,便是安危所繫,每云賊不可討,以示怯懦,損威挫氣,乃君之罪。」延伯明晨詣寶夤自謝,仍云:「今當仰為明公參賊勇怯。」延伯選精兵數千,下渡黑水,列陳西進以向賊營,寶夤率眾於水東尋原西北,以示後繼。於時賊眾大盛,水西一里營營連接。延伯徑至賊壘,揚威脅之,徐而還退。賊以延伯眾少,開營競追,眾過十倍,臨水逼蹙。寶夤親觀之,懼有虧損。延伯不與其戰,身自殿後,抽眾東渡,轉運如神,須臾濟盡,徐乃自渡。賊徒奪氣,相率還營。寶夤大悅,謂官屬曰:「崔公,古之關張也。今年何患不制賊。」延伯馳見寶夤曰:「此賊非老奴敵,公但坐看。」後日,延伯勒眾而出,寶夤為後拒。天生悉眾來戰,延伯申令將士,身先士卒,陷其前鋒。於是勇銳競進,大破之,俘斬十餘萬,追奔及於小隴。秦賊勁強,諸將所憚,朝廷初議遣將,咸云非延伯無以定之,果能克敵。授右衞將軍。

当時、万俟醜奴・宿勤明達らが涇川を寇掠していた。先に、盧祖遷・伊瓫生ら数将は皆、元志が先に行った時に、同時に雍州から出発し、六陌道から高平を取ろうとした。志が敗れたので、なお涇州に留まっていた。延伯は秦の賊を破った後、宝夤とともに軍勢を率いて安定で合流し、甲卒十二万、鉄馬八千匹で、軍威は甚だ盛んであった。醜奴は涇州西北七十里の当原城に営を置き、時に軽騎を率いて暫く来て挑戦し、大兵が未だ交わらないうちに、敗走を示した。延伯は功を誇り勝ちに任せ、遂に先駆けを唱えて議した。木を伐って別に大排を作り、内に鎖柱を設け、強兵に教習し、背負って走らせ、排城と号した。戦士は外に、輜重は中に置き、涇州から原に沿って北上した。諸軍が将に賊を討たんとするとき、未だ戦わない間に、賊の数百騎が、文書を持っていると偽り、降伏の簿であると言って、しばらく軍を緩めることを乞うた。宝夤と延伯はそれが事実であると思い、ためらって検閲しなかった。間もなく宿勤明達が軍勢を率いて東北から至り、降伏を乞うた賊は西から競って下り、諸軍は前後敵を受けた。延伯は馬に上って陣を突破し、賊の勢いは挫かれたので、そのまま敗走を追い、直ちにその営に至った。賊はもともと軽騎であり、延伯の軍は歩卒を兼ね、兵力は疲労していたので、賊は間隙に乗じて排城に入ることができた。延伯の軍は遂に大敗し、死傷者は二万に及んだ。宝夤は軍を収めて退き、涇州を守った。延伯は器械を修繕し、驍勇を購い募り、再び涇州から西進し、賊の彭抗谷の柵から七里のところに営を結んだ。延伯は前の挫折の辱めを恥じ、宝夤に報告せず、独り出て賊を襲い、これを大破し、たちまちにしてその数柵を平定した。賊は皆逃げ散ったが、兵士が略奪しているのを見て、散乱して整わず、還って来て衝突し、遂に大いに奔敗した。延伯は流れ矢に当たり、賊に害され、士卒の死者は一万余人であった。

原文於時万俟醜奴、宿勤明達等寇掠涇川。先是,盧祖遷、伊瓫生數將等皆以元志前行之始,同時發雍,從六陌道將取高平。志敗,仍停涇部。延伯既破秦賊,乃與寶夤率眾會於安定,甲卒十二萬,鐵馬八千匹,軍威甚盛。醜奴置營涇州西北七十里當原城,時或輕騎暫來挑戰,大兵未交,便示奔北。延伯矜功負勝,遂唱議先驅。伐木別造大排,內為鎖柱,教習強兵,負而趨走,號為排城,戰士在外,輜重居中,自涇州緣原北上。眾軍將出討賊,未戰之間,有賊數百騎,詐持文書,云是降簿,乞且緩師。寶夤、延伯謂其事實,逡巡未閱。俄而宿勤明達率眾自東北而至,乞降之賊從西競下,諸軍前後受敵。延伯上馬突陳,賊勢摧挫,便爾逐北,徑造其營。賊本輕騎,延伯軍兼步卒,兵力疲怠,賊乃乘間得入排城。延伯軍遂大敗,死傷者將有二萬。寶夤斂軍退保涇州。延伯修繕器械,購募驍勇,復從涇州西進,去賊彭抗谷柵七里結營。延伯耻前挫辱,不報寶夤,獨出襲賊,大破之,俄頃間平其數柵。賊皆逃遁,見兵人採掠,散亂不整,還來衝突,遂大奔敗。延伯中流矢,為賊所害,士卒死者萬餘人。

延伯は将兵をよく撫で慰め、衆心を得ることに長け、康生・大眼とともに諸将の筆頭であり、延伯は末路において功名が特に重かった。時に大寇未だ平らかでないのに延伯が死んだので、朝野は嘆き恐れた。使持節・車騎大將軍・儀同三司・定州刺史を追贈され、諡して武烈といった。

原文延伯善將撫,能得眾心,與康生、大眼為諸將之冠,延伯末路功名尤重。時大寇未平而延伯死,朝野歎懼焉。贈使持節、車騎大將軍、儀同三司、定州剌史,諡曰武烈。

また王足という者がいた。驍果にして策略多く、邢巒に隷属して蜀を伐ち、所在で克捷した。詔により益州刺史を代行した。ついに涪城を包囲し、蜀人は大いに震駭した。世宗が再び羊祉を益州としたので、足はこれを聞いて引き退き、後に遂に蕭衍に奔った。次に王神念がおり、足の流れである。後に潁川太守から江南に奔った。

原文又有王足者,驍果多策略。隸邢巒伐蜀,所在克捷。詔行益州刺史。遂圍涪城,蜀人大震。世宗復以羊祉為益州,足聞而引退,後遂奔蕭衍。次有王神念,足之流也。後自潁川太守奔江南。

また冀州の人李叔仁、叔仁の弟龍瓌は、勇壮をもって将統となった。叔仁は位は車騎大將軍・儀同三司・陳郡開國公に至った。後に梁州刺史となり、関西で没した。龍瓌は、正光年中に北征し、白道で戦死した。その平州刺史王買奴・南秦州刺史曹敬・南兗州刺史樊魯・益州刺史邴虬・玄州刺史邢豹および屈祖・厳思達・呂叵・崔襲・柴慶宗・宗正珍孫・盧祖遷・高智方は、皆将帥として、ともに攻討の名声があったが、事跡が残っていないため、編録するに及ばない。しかし康生・大眼・延伯ほどには著名ではない。

原文又冀州人李叔仁,叔仁弟龍瓌,以勇壯為將統。叔仁位至車騎大將軍、儀同三司、陳郡開國公。後為梁州刺史,歿於關西。龍瓌,正光中北征,戰死白道。其平州刺史王買奴、南秦州刺史曹敬、南兗州刺史樊魯、益州刺史邴虬、玄州刺史邢豹及屈祖、嚴思達、呂叵、崔襲、柴慶宗、宗正珍孫、盧祖遷、高智方,俱為將帥,並有攻討之名,而事迹不存,無以編錄。然未若康生、大眼、延伯尤著也。