奚康生
奚康生は、河南 洛陽 の人である。その先祖は代人であり、代々部落の大人であった。祖父の奚直は、平遠将軍・柔玄鎮将となった。朝廷に入り鎮北大将軍、内外三都大官となり、長進侯の爵位を賜った。死去すると、幽州 刺史 を追贈され、 諡 は簡といった。父の奚普憐は、仕官せずに亡くなった。
太和十一年、 蠕蠕 がたびたび辺境を侵犯したので、柔玄鎮都將の李兜がこれを討撃した。康生は性質 驍 勇で武芸に優れ、弓の力は十石あり、矢も普通のものと異なり、当時の人々に敬服された。李兜に従って前驅軍主となり、たびたび戦って敵陣を陥とし、その壮烈な気概は広く知られ、これによって宗子隊主となった。
帝に従って鍾離を征伐し、帝の車駕が淮水を渡り返す際、五将の軍はまだ渡河していなかった。蕭鸞が将を遣わし軍勢を率いて洲を占拠し、渡河の路を遮断した。高祖は詔して言った、「中渚の賊を破ることができる者には、直閤将軍とする」。康生は当時軍主であったが、友人に言った、「もしこれを攻克すれば、名声と功績を暢うすることができ、もし敗れれば、命は天に在り。丈夫たるもの、今日どうして決断しないことがあろうか」。すなわち応募し、筏を縛り柴を積み、風に乗じて火を放ち、その船艦を焼き、煙に乗じて直進し、飛ぶように刀を振るって乱れ斬り、河に投じて溺死する者は甚だ多かった。そこで康生を仮に直閤将軍とした。後に勲功により中堅将軍・太子三校・西臺直後に任じられた。
吐京胡が反乱し、自ら辛支王と号した。康生は軍主として、章武王元彬に従ってこれを討った。胡は精騎一千を遣わし路を遮断したが、康生は五百人を率いて防ぎ戦い、これを破り、石羊城まで追撃し、三十級を斬首した。元彬の甲卒七千は胡と対戦し、五軍に分かれたが、四軍はことごとく敗れ、康生の軍のみが全うした。統軍に遷った。精騎一千を率いて胡を車突谷まで追撃し、墜馬したふりをした。胡は皆死んだと思い、争ってこれを取ろうとした。康生は馬から躍り上がり矛を奮って、数十人を殺傷したので、胡は遂に敗走した。辛支は軽騎で退走し、康生から百余歩のところで、弓を引き絞ってこれを射ると、弦の響きに応じて倒れ死んだ。これによりその牛羊駱駝馬を数万の単位で捕獲した。
蕭鸞が義陽に□を置き、辺境の民を招き誘った。康生は再び統軍となり、王肅に従ってこれを討ち、進んでその城を包囲した。蕭鸞の将張伏護が自ら城楼に昇り、言辞が不遜であったので、王肅は康生にこれを射させた。強弓大箭をもって楼を望み窓を射ると、扉が開くや否や矢は入り、矢に応じて倒れ死んだ。彼の民はその矢を見て、皆これを狂弩と言った。伏護を殺した功により、帛一千匹を賞賜された。またたびたび戦って再びその軍を退けたので、三階を賞され、帛五百匹を賜った。蕭宝卷の将裴叔業が軍勢を率いて渦陽を包囲し、義陽の危急を救おうとした。詔して高聰ら四軍を遣わしてこれを救援させたが、後に 都督 ・広陵侯元衍を遣わしても、皆敗退した。時に刺史の孟表がたびたび報告してきたので、高祖は王肅に命じ、康生を馳せさせて救援に赴かせた。一戦にしてこれを大破し、二階を賞され、帛一千匹を賜った。寿春が降伏してきた時には、康生に羽林一千人を率いさせ、龍廐の馬二匹を与え、寿春に馳せ赴かせた。城に入ると、城内の旧老を集めさせ、詔を宣して慰撫し賜物を与えた。間もなく、蕭宝卷の将桓和が梁城に軍を駐め、陳伯之が峡石を占拠したので、民心は驚動し、異謀を抱く者が多かった。康生は内外を防禦し、音信を通じさせなかった。城を固守すること一月、援軍がようやく到着した。康生は出撃して桓和・伯之らの二軍を破り走らせ、梁城・合肥・洛口の三つの戍を陥とした。功により征虜将軍に遷り、安武県開国男に封ぜられ、食邑二百戸を与えられた。
南青州刺史として出向した。後に蕭衍の郁洲が軍主徐済を遣わして辺境を侵犯したので、康生は将を率いて出討し、これを破り、徐済を生け捕りにした。帛千匹を賞賜された。時に蕭衍は康生が強弓を引き、力が十余石に至ると聞き、わざわざ大弓二張を作り、康生に送った。康生は弓を得ると、文武の者を集め、平射を用いたが、なお余力があった。その弓の長さは八尺、握りの中囲は一尺二寸、矢の太さは今の長笛にほぼ等しく、見る者はこれを希世絶倫と思った。弓はすぐに上表して献上し、武庫に収めた。
また蕭衍が将の宋黒を遣わし軍勢を率いて彭城を寇擾した。時に康生は母の喪に服していたが、詔によって別将・持節・仮の平南将軍として起用され、南青州諸軍を率いてこれを撃退した。後に蕭衍はまた 都督 ・臨川王蕭宏と副将の張恵紹に甲兵十万を率いさせて徐州を侵犯しようと図り、また宋黒を仮の徐州刺史とし、軍勢二万を率いさせ、水陸ともに進軍し、まっすぐに高塚戍を包囲した。詔して康生を武 衞 将軍・持節・仮の平南将軍に任じ、別将とし、羽林三千人を率いさせ、騎兵・歩兵の甲士は適宜割り当てさせた。康生は一戦にしてこれを破った。京に還ると、召し出されて宴会に与り、帛千匹を賞され、驊騮の御胡馬一匹を賜った。
平西将軍・華州刺史として出向し、名声と治績がかなりあった。涇州刺史に転じ、もとの将軍号のままとした。官の炭瓦をみだりに用いたことを御史に弾劾され、官爵を削除された。まもなく詔旨によって復職した。蕭衍の直閤将軍徐玄明が郁洲に戍っており、その刺史の張稷を殺し、城を挙げて内附した。詔して康生を派遣してこれを迎接させ、細御の銀纏槊一張および棗と柰の果物を賜った。面して敕して言った、「果は、果たして朕が心の如くなることを、棗は、早く朕の意に順うことを意味する」。出発しない間に、郁洲が再び叛いた。時に揚州別駕の裴絢が謀反を企てたので、康生を平東将軍に任じ、別将とし、羽林四千を率いてこれを討たせたが、事態が平定されたので実行されなかった。
父の喪に服したが、平西将軍・西中郎将として起用された。この年、大いに蜀を征伐することとなり、康生を仮の安西将軍とし、歩騎三万を率いて緜竹に向かわせた。隴右に至った時、世宗が 崩御 したので、軍を返した。 衞 尉卿に任じられた。撫軍将軍・相州刺史として出向した。州にあって、旱魃のため人に命じて石虎の画像を鞭打たせた。また西門豹の祠に行って雨を祈ったが、得られなかったので、吏に命じて豹の舌を取らせた。間もなく、二人の子が急死し、自身も病気にかかった。巫が、虎と豹の祟りであると言った。
光祿卿に召され、右 衞 将軍を兼ねた。元叉とともに謀って霊太后を廃した。撫軍大将軍・河南尹に遷り、もとの右 衞 将軍のまま、左右を兼ねた。子の奚難が左 衞 将軍侯剛の娘を娶ったが、侯剛は元叉の妹婿であった。元叉は彼と婚姻関係にあるので、深く委託し、三人はしばしばともに禁中に宿直し、時には交替で出た。元叉は康生の子の奚難を千牛備身とした。
康生は性質が粗暴で武骨であり、言葉の調子も高下が激しく、元叉もやや彼を憚り、その様子が顔色に表れ、康生もまた少し恐れて不安であった。正光二年三月、粛宗が霊太后に西林園で朝見し、文武の臣が侍坐し、酒が酣になると順番に舞を舞った。次に康生の番となり、康生は力士の舞を舞い、旋回する際に、たびたび太后を顧み、手を挙げ、足を踏み鳴らし、目を怒らせ、首をうなずいて殺害・縛り上げるような勢いを示した。太后はその意を解したが、敢えて言わなかった。日が暮れて、太后は粛宗を連れて宣光殿に宿泊しようとした。侯剛が言うには、「至尊(皇帝)は既に朝見を終えられ、后妃たちは南の宮殿におります。どうしてわざわざ留めて宿泊させましょうか。」康生は言った、「至尊は陛下の御子であられ、陛下に従って東にも西にも行かれます。さらに誰に伺いを立てる必要がありましょうか。」群臣は誰も応じる者がなかった。霊太后は自ら立ち上がり、粛宗の腕を取って堂を下りて去った。康生は後ろで万歳を唱えて大声で叫び、近侍たちも皆万歳を唱えた。粛宗が前へ進んで閤に入ると、左右の者が競って押し合い、閤を閉じることができなかった。康生はその子の難の千牛刀を奪い、直後の元思輔を斬りつけて、ようやく鎮定した。粛宗が既に殿上に上がると、康生は時に酒気を帯びており、出て処分しようとしたところ、遂に元叉に捕らえられ、門下に鎖で繋がれた。夜明けまで、元叉は出て来ず、 侍中 ・黄門・ 僕射 ・ 尚書 など十余人を康生のところに遣わしてその事を訊問させ、康生に斬刑を、難に絞刑を処することとした。元叉と侯剛は共に内廷で詔を偽ってこれを決定した。康生は上奏通り(斬刑)となり、難は死を赦されて流刑に従うこととなった。難は泣きながら父に拝別したが、康生は子が死を免れたことを喜び、また慷慨として、全く悲しみ泣かなかった。その子に語って言うには、「私は反逆して死ぬのではない。お前はなぜ泣くのか。」役人が駆り立て、奔走して刑場に赴かせた。時は既に暗くなっており、刑吏が刀を突き立てて数度刺しても死なず、地面で刻み斬りにした。皆が元叉の意を受けたもので、苦痛が甚だしかったと言う。嘗て食典御の奚混は康生と共に刀を執って内に入ったこともあり、同じく刑場で絞刑に処せられた。
康生は長く将軍を務め、また州の長官として臨むと、多く殺戮を行った。しかしながら仏道を信奉し、しばしばその居宅を捨てて寺塔を建立した。合わせて四州を歴任し、いずれも建立を行った。死んだ時は五十四歳であった。
子の難は、十八歳であった。侯剛の子の婿であることにより百日間の執行停止を得たが、結局安州に流徙された。後に尚書の盧同が行臺となると、また彼を殺すよう命じた。
康生は南山に三層の仏塔を建立したが、死ぬ前に突然それが崩壊する夢を見た。沙門でこれを解釈する者が言うには、「檀越(施主)は不吉なことがあるでしょう。誰も仏塔を供養する者がいないので、崩れたのです。」康生はその通りだと言った。結局禍いに及んだ。霊太后が政権に復帰すると、 都督 冀瀛滄三州諸軍事・驃騎大將軍・ 司空 公・冀州刺史を追贈し、また寿張県開国侯を追封し、食邑一千戸を与えた。
子の剛が襲封した。武定年間、青州開府主簿となった。斉が禅譲を受けると、爵位は例によって降格された。
剛の弟の定国が、康生の安武県開国男を襲封した。
楊大眼
楊大眼は、武都の 氐 の楊難当の孫である。若い頃から胆気があり、跳び走ること飛ぶが如くであった。しかし庶子であったため、その宗族親戚から顧みられず、飢えと寒さに苦しむことが多かった。太和年間、奉朝請として官途に就いた。時に高祖(孝文帝)が代から南征しようとし、尚書の李沖に征討の官を選任させた。大眼は赴いて求めたが、李沖は許さなかった。大眼は言った、「尚書は私をご存知ないようです。下官に一つの技をお見せすることをお許しください。」そこで三丈ほどの長い縄を出して髻に結びつけて走ると、縄は矢のように真っ直ぐになり、馬で駆けても及ばず、見た者は皆驚嘆した。李沖は言った、「千年以来、このような逸材はいなかった。」そこで軍主に任用した。大眼は同僚たちに振り返って言った、「私の今日は、いわゆる蛟龍が水を得た時である。この一挙以来、二度と諸君と同列にはならないであろう。」間もなく、統軍に遷った。高祖に従って宛・葉・穰・鄧・九江・鍾離の間を征伐し、経歴した戦陣において、いずれも六軍の中で最も勇猛であった。世宗(宣武帝)の初め、裴叔業が寿春を以て内附すると、大眼は奚康生らと共に兵を率いて先に入城し、功により安成県開国子に封ぜられ、食邑三百戸を与えられた。直閤將軍に任じられ、まもなく輔國將軍・游擊將軍を加えられた。
征虜將軍・東荊州刺史として出向した。時に蛮の酋長樊秀安らが反乱し、詔により大眼を別将とし、 都督 李崇に隷属させて討伐平定させた。大眼の妻の潘氏は、騎射に長け、自ら軍中に赴いて大眼を訪ねた。攻戦や遊猟の際には、大眼は妻の潘に戎装させ、ある時は戦場で馬を並べ、ある時は林壑を並んで駆けた。そして営に戻ると、同じ幕下に座り、諸僚佐に対して談笑自若としており、時に彼女を指して人に言った、「これが潘将軍である。」
蕭衍がその前江州刺史王茂先に数万の兵を率いさせて樊雍に駐屯させ、蛮や漢人を招き誘い、宛州を設立しようと図り、またその任命した宛州刺史雷豹狼・軍主曹仲宗らに二万の兵を率いさせて河南城を密かに占拠させた。世宗は大眼を武 衞 將軍・仮の平南將軍・持節とし、 都督 統軍曹敬・邴虬・樊魯ら諸軍を統率して茂先らを討伐させ、大いにこれを破り、蕭衍の輔國將軍王花・龍驤將軍申天化を斬り、捕虜と斬首七千余りを得た。蕭衍はまたその舅の張恵紹に諸軍を総率させ、宿 豫 を密かに占拠させた。また大眼を仮の平東將軍として別将とし、 都督 邢巒と共に討伐してこれを破った。そこで勝に乗じて長駆し、中山王元英と共に鍾離を包囲した。大眼の軍は城の東にあり、淮橋の東西二道を守った。時に水かさが増し、大眼の統率する統軍劉神符・公孫祉の両軍が夜中に橋を争って敗走し、大眼はこれを制止できず、相次いで逃走したため、罪に坐して営州の兵士に落とされた。
永平年間、世宗はその以前の功績を追念し、試守の中山内史として起用した。時に高肇が蜀を征伐し、世宗は蕭衍が徐揚を侵犯することを憂慮し、大眼を 太尉 長史・持節・仮の平南將軍・東征別将として徴発し、 都督 元遙に隷属させて淮肥を防がせた。大眼が京師に至ると、当時の人々はその雄勇を思い、その再任用を喜び、台省や里巷に観衆が市の如く集まった。大眼が譙の南に駐屯すると、世宗が崩御した。時に蕭衍が将軍康絢を浮山に遣わして淮を堰き止め、寿春を水没させようと図ったため、詔して大眼に光禄大夫を加え、諸軍を率いて荊山を鎮守させ、その封邑を回復させた。後に蕭宝夤と共に淮の堰を征伐したが、攻略できなかった。そこで堰の上流に渠を穿ち水を決壊させて帰還し、平東將軍を加えられた。
大眼は騎乗に長け、装束は雄壮で、鎧を着て旋回する様は当世に称えられた。士卒を慰撫巡察する時は、彼らを「息子」と呼び、また傷ついた者を見ると、そのために涙を流した。自ら将帥となってからは、常に兵士の先頭に立ち、堅固な陣を突撃し、出入りに躊躇わず、その鋒に当たる者は、ことごとく打ち倒された。南賊(梁)が前後して派遣した督将たちは、軍がまだ長江を渡らないうちから、予め皆畏怖した。淮泗・荊沔の間に童児が泣く時、「楊大眼が来る」と脅かすと、即座に止んだと言い伝えられた。王粛の弟の子の王秉が初めて帰国した時、大眼に言った、「南方で貴殿の名を聞き、眼が車輪のようだと思っていました。お目にかかると、人と変わらないのです。」大眼は言った、「旗鼓相望み、目を怒らせ奮い立つ時は、貴殿の目を見開くこともできないでしょう。どうして車輪のように大きい必要がありましょうか。」当世はその 驍 勇果断を推し、皆が関羽・張飛にも及ばないと考えた。しかし淮堰征伐の役では、喜怒常なく、鞭打ちが過度で、軍士たちは大いに恨んだ。識者は性格が変わったためであると考えた。
また本將軍として荊州刺史に出向した。常に蒿を束ねて人形を作り、青い布を着せてこれを射た。諸蛮の渠帥を召し寄せてこれを見せて言った、「卿らがもし賊を働くならば、私はこのようにして殺すぞ。」また北淯郡に嘗て虎の害があり、大眼はこれを捕らえて獲、その頭を斬って穣の市に懸けた。これより後、荊の蛮は互いに言った、「楊公は恐ろしい人だ。常に我々蛮の形をしてこれを射る。また深山の虎でさえ免れないのだ。」そこで再び寇盗を行うことを敢えてしなくなった。州に在ること二年で卒した。
大眼は学問をしなかったが、常に人を遣わして書物を読ませ、座ってそれを聴き、すべてを記憶した。露布を作らせるときは、すべて口授したが、結局はあまり 字 を知らなかった。三人の子があり、長男は甑生、次は領軍、次は征南で、いずれも潘氏が生んだ子であり、気力・体幹はみな父の風があった。
初め、大眼が営州に移されたとき、潘氏は洛陽におり、かなり品行を失っていた。中山にいたとき、大眼の側室の娘の婿である趙延宝がこのことを大眼に告げると、大眼は怒り、潘氏を幽閉して殺した。後に後妻として元氏を娶った。大眼が死んだとき、甑生らは印綬の所在を尋ねた。当時、元氏はちょうど妊娠しており、自らその腹を指さして甑生らに言うには、「開国の爵位は私の子が継ぐべきであり、お前たちのような婢の子は、望みを持つな」と。甑生はこれを深く恨んだ。大眼の遺骸が京に戻されることになり、城を出て東七里のところで、車を停めて宿営した。夜の二更、甑生らが大眼の棺を開くと、延宝が怪しんで尋ねたので、征南が射殺した。元氏は恐れて水の中に逃げ込んだが、征南がまた弓を引いて射ようとした。甑生が「天下に母を害する者があろうか」と言ったので、やめた。そこで大眼の屍を取って、人に馬上で抱かせ、左右が支えて叛いた。荊州の人々は甑生らの 驍 勇を恐れ、苦しく追うことはしなかった。襄陽に奔り、ついに蕭衍に帰順した。
崔延伯
崔延伯は博陵の人である。祖父の寿は、彭城で江南に陥落した。延伯は気力があり、若い頃から勇壮で知られていた。蕭賾に仕え、縁淮遊軍となり、濠口の戍主を兼ねた。太和年間に国(北魏)に入り、高祖(孝文帝)は深くこれを嘉し、常に統帥とした。胆気は人に絶し、謀略を兼ね、任地での征討において、ことごとく戦功を立てた。功労を積んで次第に進み、征虜将軍・荊州刺史に任じられ、定陵男の爵位を賜った。荊州の地は険しく、蛮左が寇掠し、しばしば集結すると、延伯は自らこれを討ち、ことごとく打ち破ったので、穰の地は平穏となり、敢えて患える者はなかった。
永平年間、後将軍・幽州刺史に転じた。蕭衍がその左遊撃将軍趙祖悦に命じて軍勢を率いさせ、密かに峡石を占拠した。詔により延伯は別将となり、 都督 の崔亮とともにこれを討った。亮は延伯に下蔡を守らせた。延伯は別将の伊瓫生とともに淮水を挟んで営を構えた。延伯は車輪を取り、輪縁を外し、その輻を削って鋭くし、二つずつ接合し、竹を揉んで綱とし、貫き連ねてつなぎ、合わせて十余道とし、水を横切って橋とし、両端に大きな轆轤を設け、出没を思いのままにし、焼き切ることができなかった。これにより祖悦らの退路を断ち、また舟船の通行を妨げたので、衍軍は救援に赴くことができず、祖悦の全軍はことごとく捕虜となった。軍中において平南将軍・光禄大夫に任じられた。
延伯は楊大眼らと淮陽から到着し、霊太后は西林園に行幸して延伯らを引見した。太后は言った、「卿らは志が雄猛で、皆国の名将である。先ごろ峡石を平定し、公私ともに慶快したのは、これ卿らの功である。しかし淮堰はなお残っており、予め謀るべきである。故に卿らを引いて親しく共に量り算え、各々一図を出して後の計略とさせたい」と。大眼は答えて言った、「臣は水陸二道を、一時にともに下れば、往くところ克たざるはないと考えます」と。延伯は言った、「臣は今あえて大眼に異を唱えます。既に聖顔に対し、答える旨は実であるべきです。水の南と北にはそれぞれ溝瀆があり、陸地の計略でどうして前に進むことができましょうか。愚臣の短見では、聖心に水兵の勤苦を憐れみ、一年間の復除(租税労役免除)を与え、専ら水戦を習熟させ、もし不慮の事があれば、召せば直ちに用いることができ、往くところ獲ざるはないと願います」と。霊太后は言った、「卿の言うところは、深く適切で要を得ている。請いの通りに命じるべきである」と。
二年、安北将軍・ 并州 刺史に任じられた。州において貪汙があり、遠近に聞こえた。還って金紫光禄大夫となった。出て鎮南将軍・行岐州刺史となり、征西将軍を仮授され、驊騮馬一匹を賜った。正光五年秋、かつて揚州において、淮橋の勲功を建てたことにより、当利県開国男に封じられ、食邑二百戸を賜い、まもなく邑百戸を増やされ、新豊に改封され、子爵に進んだ。
時に莫折念生の兄天生が隴東を下って寇掠し、征西将軍元志が天生に捕らえられ、賊衆は甚だ盛んで、進んで黒水に駐屯した。詔により延伯は使持節・征西将軍・西道 都督 とされ、行臺の蕭宝夤とともにこれを討った。宝夤は延伯と馬嵬に陣営を結び、南北百余歩離れていた。宝夤は日々督将を集めて賊討伐の方略を論じたが、延伯は常に「賊は新たに勝ちを得ており、争鋒するは難しい」と言った。宝夤は厳しい顔色でこれを責めて言った、「君は国の寵霊を荷い、軍を総べて出討する。これすなわち安危の係るところである。常に賊は討つべからずと言い、怯懦を示し、威を損ない気を挫くは、君の罪である」と。延伯は翌朝、宝夤のもとを訪れて自ら謝罪し、なお言った、「今、明公のために賊の勇怯を 参 ることを仰せつかります」と。延伯は精兵数千を選び、下って黒水を渡り、陣を列べて西進し賊営に向かった。宝夤は軍勢を率いて水東の原に沿って西北に進み、後継を示した。当時賊衆は大いに盛んで、水西一里に営営と連接していた。延伯は直ちに賊の陣営に至り、威を揚げてこれを脅し、ゆっくりと還って退いた。賊は延伯の兵が少ないと思い、営を開いて競って追い、その数は十倍を超え、水辺に迫って押し詰めた。宝夤がこれを親しく見て、損害を恐れた。延伯はこれと戦わず、自ら殿軍となり、兵を引き抜いて東に渡り、運転すること神の如く、たちまちにして渡り終え、ゆっくりと自ら渡った。賊徒は気力を奪われ、相率いて営に還った。宝夤は大いに喜び、官属に言った、「崔公は古の関羽・張飛である。今年どうして賊を制せられぬことがあろうか」と。延伯は馳せて宝夤に会い言った、「この賊は老奴の敵ではありません。公はただ座ってご覧ください」と。後日、延伯は軍勢を率いて出撃し、宝夤は後詰めとなった。天生は全軍を挙げて来戦した。延伯は将士に号令を伝え、自ら士卒に先立ち、その前鋒を陥れた。ここにおいて勇鋭が競って進み、これを大破し、捕斬十余万、追撃して小隴に及んだ。秦の賊は勁強で、諸将が恐れるところであり、朝廷が初めに将を遣わすことを議したとき、皆、延伯でなければこれを定めることはできないと言い、果たして敵を克つことができた。右衛将軍に任じられた。
当時、万俟醜奴・宿勤明達らが涇川を寇掠していた。先に、盧祖遷・伊瓫生ら数将は皆、元志が先に行った時に、同時に雍州から出発し、六陌道から高平を取ろうとした。志が敗れたので、なお涇州に留まっていた。延伯は秦の賊を破った後、宝夤とともに軍勢を率いて安定で合流し、甲卒十二万、鉄馬八千匹で、軍威は甚だ盛んであった。醜奴は涇州西北七十里の当原城に営を置き、時に軽騎を率いて暫く来て挑戦し、大兵が未だ交わらないうちに、敗走を示した。延伯は功を誇り勝ちに任せ、遂に先駆けを唱えて議した。木を伐って別に大排を作り、内に鎖柱を設け、強兵に教習し、背負って走らせ、排城と号した。戦士は外に、輜重は中に置き、涇州から原に沿って北上した。諸軍が将に賊を討たんとするとき、未だ戦わない間に、賊の数百騎が、文書を持っていると偽り、降伏の簿であると言って、しばらく軍を緩めることを乞うた。宝夤と延伯はそれが事実であると思い、ためらって検閲しなかった。間もなく宿勤明達が軍勢を率いて東北から至り、降伏を乞うた賊は西から競って下り、諸軍は前後敵を受けた。延伯は馬に上って陣を突破し、賊の勢いは挫かれたので、そのまま敗走を追い、直ちにその営に至った。賊はもともと軽騎であり、延伯の軍は歩卒を兼ね、兵力は疲労していたので、賊は間隙に乗じて排城に入ることができた。延伯の軍は遂に大敗し、死傷者は二万に及んだ。宝夤は軍を収めて退き、涇州を守った。延伯は器械を修繕し、 驍 勇を購い募り、再び涇州から西進し、賊の彭抗谷の柵から七里のところに営を結んだ。延伯は前の挫折の辱めを恥じ、宝夤に報告せず、独り出て賊を襲い、これを大破し、たちまちにしてその数柵を平定した。賊は皆逃げ散ったが、兵士が略奪しているのを見て、散乱して整わず、還って来て衝突し、遂に大いに奔敗した。延伯は流れ矢に当たり、賊に害され、士卒の死者は一万余人であった。
延伯は将兵をよく撫で慰め、衆心を得ることに長け、康生・大眼とともに諸将の筆頭であり、延伯は末路において功名が特に重かった。時に大寇未だ平らかでないのに延伯が死んだので、朝野は嘆き恐れた。使持節・車騎大將軍・儀同三司・定州刺史を追贈され、諡して武烈といった。
また王足という者がいた。 驍 果にして策略多く、邢巒に隷属して蜀を伐ち、所在で克捷した。詔により益州刺史を代行した。ついに涪城を包囲し、蜀人は大いに震駭した。世宗が再び羊祉を益州としたので、足はこれを聞いて引き退き、後に遂に蕭衍に奔った。次に王神念がおり、足の流れである。後に潁川太守から江南に奔った。
また冀州の人李叔仁、叔仁の弟龍瓌は、勇壮をもって将統となった。叔仁は位は車騎大將軍・儀同三司・陳郡開國公に至った。後に梁州刺史となり、関西で没した。龍瓌は、正光年中に北征し、白道で戦死した。その平州刺史王買奴・南秦州刺史曹敬・南兗州刺史樊魯・益州刺史邴虬・玄州刺史邢豹および屈祖・厳思達・呂叵・崔襲・柴慶宗・宗正珍孫・盧祖遷・高智方は、皆将帥として、ともに攻討の名声があったが、事跡が残っていないため、編録するに及ばない。しかし康生・大眼・延伯ほどには著名ではない。
【論】
史臣が曰く、人主は鞞鼓の響きを聞けば、則ち将帥の臣を思う。何となれば、夷難を平らげ暴を制し、折衝して侮を禦ぎ、国の繫るところであるからだ。康生らは皆、熊虎の姿を以て、征伐の気を奮い起こし、また一時の 驍 猛にして、壮士の功名である。
校勘記