魏書

卷72 陽尼 賈思伯 李叔虎 路恃慶 房亮 曹世表 潘永基 朱元旭

卷72 陽尼 賈思伯 李叔虎 路恃慶 房亮 曹世表 潘永基 朱元旭

陽尼

原文陽尼

陽尼、字は景文、北平郡無終県の人である。幼少より学問を好み、広く諸々の典籍に通じ、上谷の侯天護、頓丘の李彪と志を同じくして並び称された。幽州刺史の胡泥は陽尼の学芸と文雅を認め、上表して推薦した。秘書著作郎に徴されて任じられ、仏教と道教は史録に載せるべきであると上奏した。後に中書学を国子学と改めた際、中書監の高閭、侍中の李沖らは陽尼が学識豊かであるとして、国子祭酒に推挙した。高祖(孝文帝)がかつて苑中の堂で自ら諸々の経典を講義した際、詔により陽尼は侍聴し、帛百匹を賜った。陽尼は後に幽州中正を兼ねた。出向して幽州平北府長史となり、漁陽太守を帯びたが、就任せず、中正の時に郷里の者から財貨を受け取った罪で官を免ぜられた。陽尼は常に自らを嘆いて言うには、「私はかつて官に就く前は、人を羨むことはなかった。今日官を失っても、元々と何が違うというのか。しかしこれは私の宿志ではなかった。運命とはいかんともしがたいものだ」と。やがて郷里に帰り、冀州で死去した。六十一歳。数千巻の書物を所蔵していた。著した『字釈』数十篇は、完成せずに死去したが、その従孫の太学博士承慶が遂にこれを撰して『字統』二十巻とし、世に行われた。

原文陽尼,字景文,北平無終人。少好學,博通羣籍,與上谷侯天護、頓丘李彪同志齊名。幽州刺史胡泥以尼學藝文雅,乃表薦之。徵拜祕書著作郎,奏佛道宜在史錄。後改中書學為國子學,時中書監高閭、侍中李沖等以尼碩學博識,舉為國子祭酒。高祖嘗親在苑堂講諸經典,詔尼侍聽,賜帛百匹。尼後兼幽州中正。出為幽州平北府長史,帶漁陽太守,未拜,坐為中正時受鄉人財貨免官。尼每自傷曰:「吾昔未仕,不曾羨人,今日失官,與本何異?然非吾宿志,命也如何!」既而還鄉,遂卒於冀州,年六十一。有書數千卷。所造字釋數十篇,未就而卒,其從孫太學博士承慶遂撰為字統二十卷,行於世。

子の介、字は天佐。奉朝請、冀州默曹参軍となった。早世した。

原文子介,字天佐。奉朝請,冀州默曹參軍。早卒。

陽尼の従子の鳴鵠、その弟の季智は、ともに当時に名声があり、前後して幽州司馬となった。

原文尼從子鳴鵠,鳴鵠弟季智,俱有名於時,前後並為幽州司馬。

季智の子の璠は、通直散騎常侍となった。

原文季智子璠,通直散騎常侍。

季智の従弟の荊は、范陽太守となり、吏能があった。死去し、平西将軍、東益州刺史を追贈された。

原文季智從弟荊,范陽太守,有吏能。卒,贈平西將軍、東益州刺史。

季智の従子の伯慶は、汝南太守となった。

原文季智從子伯慶,汝南太守。

伯慶の従父弟の藻、字は景德。幼くして孤となり、高雅な志を持ち、経史に広く通じた。太和の初年、秀才に挙げられ、射策で高第を得た。母の病気のため帰郷した。中書博士に徴されて任じられ、詔により礼官を兼ね、長安で燕宣王の廟を拝した。帰還し、寧遠将軍を授けられ、爵位魏昌男を賜った。廷尉正に選ばれ、考功郎中に転じた。建徳太守に任じられた。清貧であったため、帛六十匹を賜った。まもなく寧遠将軍を仮官とし、統軍を領し、外は防備し内は撫育して、辺境に居る者としての名声を大いに得た。任を解かれて帰郷し、久しくしてから、兗州左将軍府長史に任じられ、また瀛州安東府長史に任じられ、揚烈将軍を加えられた。藻は年老いて帰郷し、門を閉ざして世事に関わらなかった。孝昌年間、郷里で賊帥の杜洛周に囚われ、発病して死去した。永熙年間、征虜将軍、幽州刺史を追贈された。

原文伯慶從父弟藻,字景德。少孤,有雅志,涉獵經史。太和初,舉秀才,射策高第。以母疾還。徵拜中書博士,詔兼禮官,拜燕宣王廟於長安。還,授寧遠將軍,賜爵魏昌男。選為廷尉正,轉考功郎中。除建德太守。以清貧,賜帛六十匹。尋假寧遠將軍,領統軍,外防內撫,甚得居邊之稱。解任還家,久之,除兗州左將軍府長史,又拜瀛州安東府長史,加揚烈將軍。藻以年老歸家,闔門不關世事。孝昌中,在鄉為賊帥杜洛周所囚,發病卒。永熙中,贈征虜將軍、幽州刺史。

子の貞、字は世幹。早世した。

原文子貞,字世幹。早卒。

貞の弟の弼、字は世輔。吏事に長けていた。本州の別駕となり、軽車将軍を加えられた。洛周が城を陥落させた際に属し、弼は遂に宗族を率いて南に黄河を渡り、青州に居住した。邢杲が叛逆を起こすと、青州の城民は河北の者が邢杲の内応だと疑い、遂に弼を害した。時に四十八歳。子の撝は、祖父の爵位を襲った。

原文貞弟弼,字世輔。長於吏事。本州別駕,加輕車將軍。屬洛周陷城,弼遂率宗親南渡河,居於青州。值邢杲起逆,青州城民疑河北人為杲內應,遂害弼,時年四十八。子撝,襲祖爵。

弼の弟の斐は、武定の末年に尚書右丞となった。

原文弼弟斐,武定末,尚書右丞。

藻の従弟の令鮮は、京兆王愉の郎中令となった。愉の反乱に連座し、逃亡して免官を免れた。赦令に遇い、除名された。

原文藻從弟令鮮,京兆王愉郎中令。坐同愉反,逃竄免。會赦,除名。

子の世和は、武定の末年に、斉州驃騎司馬となった。

原文子世和,武定末,齊州驃騎司馬。

藻の従弟の延興は、南豳州刺史となった。

原文藻從弟延興,南豳州刺史。

延興の従弟の固、字は敬安。性質は倜儻にして、小節に拘らず、若い頃は任侠を好み、剣客を愛し、生業に従わなかった。二十六歳にして初めて節を折り学問を好み、遂に広く典籍を博覧し、文才があった。

原文延興從弟固,字敬安。性俶儻,不拘小節,少任俠,好劍客,弗事生產。年二十六,始折節好學,遂博覽篇籍,有文才。

太和年間(北魏)、大將軍宋王劉昶に従い義陽を征討し、板授により府法曹行參軍となり、陵江將軍を假す。劉昶は厳格で暴虐であり、軍を統治すること甚だ急にして、三軍は戦慄し敢えて言う者無し。固は啓上して諫め、併せて面と向かって事の適宜を陳べた。劉昶は大いに怒り、之を斬らんと欲し、攻道を監當せしむ。固は軍中に在りて勇決、志意閑雅、少しも懼色無し。劉昶は甚だ之を奇とす。軍還り、之を高祖に言上す。年三十餘にして、始めて大將軍府參軍事に辟せられ、城局を署し、仍って劉昶に従い彭城を鎮守し、板授により兼長史となる。俄かに憂により任を去る。

原文太和中,從大將軍宋王劉昶征義陽,板府法曹行參軍,假陵江將軍。昶嚴暴,治軍甚急,三軍戰慄無敢言者。固啟諫,并面陳事宜。昶大怒,欲斬之,使監當攻道。固在軍勇決,志意閑雅,了無懼色。昶甚奇之。軍還,言之高祖。年三十餘,始辟大將軍府參軍事,署城局,仍從昶鎮彭城,板兼長史。俄以憂去任。

裴叔業が淮南を以て内附す、世宗詔して平南將軍・廣陵侯元衎と司徒・彭城王勰とをして共に壽春を鎮守せしめ、固を敕して衎の司馬と為す。還りて、太尉西閤祭酒を除され、兼ねて廷尉評を領す。律令を改定する議を上る。給事中を除す。出でて試守北平太守と為り、甚だ惠政有り。久しくして、公事に坐して免官す。後に給事中を除され、侍御史を領す。治書に轉じ、廣平王懷・汝南王悅・南陽長公主を劾奏す。及び懷荒に使し、鎮將萬貳は風望して逃走す。恒農太守裴粲を劾して免官せしむ。

原文裴叔業以淮南內附,世宗詔平南將軍、廣陵侯元衎與司徒、彭城王勰同鎮壽春,敕固為衎司馬。還,除太尉西閤祭酒,兼廷尉評。上改定律令議。除給事中。出為試守北平太守,甚有惠政。久之,以公事免。後除給事中,領侍御史。轉治書,劾奏廣平王懷、汝南王悅、南陽長公主。及使懷荒,鎮將萬貳望風逃走。劾恒農太守裴粲免官。

時に世宗は広く得失を訪う、固は讜言表を上りて曰く、「臣聞く、治を為すは多方に在らず、力行に在るのみと。当今の務めは、宜しく早く東儲を正し、師傅を立てて以て保護し、官司を立てて以て防衞し、以て蒼生の心を係うべし;權衡を攬り、宗室に親しみ、幹を強くし枝を弱くし、以て萬世の計を立てべし;賢良を挙げ、不肖を黜け、以て野に遺才無く、朝に素餐無からしむべし;孜孜として萬幾に励み、躬ら庶務に勤め、以て民に謗讟の響き無からしむべし;徭役を省み、賦斂を薄くすべし;學官を修め、舊章に遵うべし;農桑を貴び、工賈を賤しむべし;談虚窮微の論を絶ち、桑門無用の費を簡にすべし。以て元元の民を存し、以て飢寒の苦を救い、上は昊天の心に合い、下は億兆の望みを悦ばしむべし。然る後に器械を備え、甲兵を修め、水戰を習い、吳會を滅ぼし、封禪の禮を撰び、軒唐の軌を襲い、彼の七十二君の徽號に同じくし、鼎を嵩河に定むる心に協い、高祖の殷勤の寄せに副わん。上は三皇と隆を比し、下は五帝と美を齊うす。豈に茂ならざらんや!臣は位卑く識昧く、言は義に及ばず、聖明の広く訪うに属し、敢えて瞽言を献ず。伏して願わくは陛下留神し、少しく垂れて究察せられんことを。」

原文時世宗廣訪得失,固上讜言表曰:「臣聞為治不在多方,在於力行而已。當今之務,宜早正東儲,立師傅以保護,立官司以防衞,以係蒼生之心;攬權衡,親宗室,強幹弱枝,以立萬世之計;舉賢良,黜不肖,使野無遺才,朝無素餐;孜孜萬幾,躬勤庶務,使民無謗讟之響;省徭役,薄賦斂;修學官,遵舊章;貴農桑,賤工賈;絕談虛窮微之論,簡桑門無用之費。以存元元之民,以救飢寒之苦,上合昊天之心,下悅億兆之望。然後備器械,修甲兵,習水戰,滅吳會,撰封禪之禮,襲軒唐之軌,同彼七十二君之徽號,協定鼎嵩河之心,副高祖殷勤之寄。上與三皇比隆,下與五帝齊美。豈不茂哉!臣位卑識昧,言不及義,屬聖明廣訪,敢獻瞽言。伏願陛下留神,少垂究察。」

初め、世宗は羣下を委任し、甚だ親ら覧みず、桑門の法を好む。尚書令高肇は外戚として權寵を以て、朝事を専決す;又咸陽王禧等並びに釁故有り、宗室の大臣、相見えて疏薄なり;而して王畿の民庶は、勞弊益甚だし。固乃ち南・北二都賦を作り、恒代の田漁聲樂侈靡の事を称え、中京の禮儀の式を以て節し、因りて以て諷諫す。辭多く載せず。

原文初,世宗委任羣下,不甚親覽,好桑門之法。尚書令高肇以外戚權寵,專決朝事;又咸陽王禧等並有釁故,宗室大臣,相見疏薄;而王畿民庶,勞弊益甚。固乃作南、北二都賦,稱恒代田漁聲樂侈靡之事,節以中京禮儀之式,因以諷諫。辭多不載。

世宗の末、中尉王顯は宅を起こし既に成り、僚屬を集めて饗宴す。酒酣めて固に問うて曰く、「此の宅は何如。」固対えて曰く、「晏嬰の湫隘は、流稱今に至る;豐屋災を生ずは、周易に著わる。此れ蓋し傳舍と同じきのみ、唯だ德有る者能く卒す。願わくは公之を勉めよ。」顯は默然たり。他日又た固に謂いて曰く、「吾れ太府卿を作り、庫藏充實す、卿以て何如と為す。」固対えて曰く、「公は百官の祿の四分之一を収め、州郡の贓贄悉く京藏に入る、此を以て府を充す、未だ多と為すに足らず。且つ聚斂の臣有らんよりは、寧ろ盜臣有れ、豈に戒めざらんや!」顯は大いに悦ばず、此を以て固を銜む。又た人有りて固を顯に間う、顯は因りて固が米麥を剩請するを奏し、固を免官せしむ。

原文世宗末,中尉王顯起宅既成,集僚屬饗宴。酒酣問固曰:「此宅何如?」固對曰:「晏嬰湫隘,流稱于今;豐屋生災,著於周易。此蓋同傳舍耳,唯有德能卒。願公勉之。」顯默然。他日又謂固曰:「吾作太府卿,庫藏充實,卿以為何如?」固對曰:「公收百官之祿四分之一,州郡贓贖悉入京藏,以此充府,未足為多。且有聚斂之臣,寧有盜臣,豈不戒哉!」顯大不悅,以此銜固。又有人間固於顯,顯因奏固剩請米麥,免固官。

事役無きに既に及び、遂に門を闔して自ら守り、演賾賦を著し、以て幽微通塞の事を明らかにす。其の詞に曰く、

原文既無事役,遂闔門自守,著演賾賦,以明幽微通塞之事。其詞曰:

固は又た刺讒疾嬖幸詩二首を作りて曰く、

原文固又作刺讒疾嬖幸詩二首曰:

肅宗即位し、尚書考功郎を除す。諸の秀孝中第する者の聽敍を奏し、固より始む。大軍硤石を征し、敕して僕射李平の行臺七兵郎と為す。平は固の勇敢を奇とし、軍中の大事悉く之と謀る。又た固を命じて水軍を節度せしむ。固は奇計を設けて期に先んじて賊に乗じ、其の外城を獲る。軍罷み、太傅・清河王懌固を挙げ、步兵校尉を除し、汝南王悅の郎中令を領す。尋いで寧遠將軍を加う。時に悅は年少にして、行い多く法に違い、小人を屑近す。固は疏を上りて切に諫め、併せて面と向かって往代諸王の賢愚の分を陳べ、以て悅を感動せしむ。悅は甚だ之を敬憚す。懌は大いに悦び、以て挙げて其人を得たりと為す。熙平二年、洛陽令を除し、將軍は元の如し。縣に在りて甚だ威風有り。母憂に遭い、號慕して病に毀れ、杖して能く起つ。練禫の後も、猶お酒肉を進めず。時に固の年は五十を踰え、而して喪に過ぎて哀しみ、鄉黨親族咸く歎服す。

原文肅宗即位,除尚書考功郎,奏諸秀孝中第者聽敍,自固始。大軍征硤石,敕為僕射李平行臺七兵郎。平奇固勇敢,軍中大事悉與謀之。又命固節度水軍,固設奇計先期乘賊,獲其外城。軍罷,太傅、清河王懌舉固,除步兵校尉,領汝南王悅郎中令。尋加寧遠將軍。時悅年少,行多不法,屑近小人。固上疏切諫,并面陳往代諸王賢愚之分,以感動悅,悅甚敬憚之。懌大悅,以為舉得其人。熙平二年,除洛陽令,將軍如故。在縣甚有威風。丁母憂,號慕毀病,杖而能起。練禫之後,猶酒肉不進。時固年踰五十,而喪過於哀,鄉黨親族咸歎服焉。

神龜の末、清河王懌太尉を領し、固を辟して從事中郎と為す。屬に懌害せられ、元叉政を秉るに及び、朝野震悚す。懌の諸子及び門生吏僚は禍を慮わざる莫く、隱避して出でず、素より懌に厚くせらるる者は彌に自ら安からず。固は嘗て辟命せられたるを以て、遂に獨り喪の所に詣り、哀を盡くして慟哭し、良久しくして乃ち還る。僕射游肇聞きて歎じて曰く、「欒布・王脩と雖も何を以て尚ばん、君子なるかな此人!」及び汝南王悅太尉と為り、選挙多く其人に非ず、又た輕肆に檛撻す。固は以前元卿と為り、國を離るるも、猶お疏を上りて切に諫む。事は悅傳に在り。悅固を辟して從事中郎と為さんとす、就かず。

原文神龜末,清河王懌領太尉,辟固從事中郎。屬懌被害,元叉秉政,朝野震悚。懌諸子及門生吏僚莫不慮禍,隱避不出,素為懌所厚者彌不自安。固以嘗被辟命,遂獨詣喪所,盡哀慟哭,良久乃還。僕射游肇聞而歎曰:「雖欒布、王脩何以尚也,君子哉若人!」及汝南王悅為太尉,選舉多非其人,又輕肆檛撻,固以前為元卿,雖離國,猶上疏切諫。事在悅傳。悅辟固為從事中郎,不就。

正光二年、京兆王繼司徒と為り、官僚を高選し、固を辟して從事中郎と為し、鎮遠將軍を加う。府解け、前軍將軍を除し、鎮遠は元の如し。又た典として揚州の勳賞を科す。初め硤石の役、固に先登の功有り、而して朝賞未だ及ばず、是に至りて尚書令李崇と勳を訟えて更に表す。崇は貴盛なりと雖も、固は理に拠りて撓まず、談する者之を称す。四年九月卒す、時に年五十七。輔國將軍・太常少卿を贈られ、諡して文と曰う。

原文正光二年,京兆王繼為司徒,高選官僚,辟固從事中郎,加鎮遠將軍。府解,除前軍將軍,鎮遠如故。又典科揚州勳賞。初硤石之役,固有先登之功,而朝賞未及,至是與尚書令李崇訟勳更表。崇雖貴盛,固據理不撓,談者稱焉。四年九月卒,時年五十七。贈輔國將軍、太常少卿,諡曰文。

固は剛直雅正にして、強禦を畏れず、官に居て清潔、家に餘財無く、終に歿するの日、室は徒に四壁のみ、以て喪を供うる無く、親故其が為に棺斂す。初め、固は終制一篇を著し、務めて儉約に従う。臨終に及び、又た諸子を敕して一に先制に遵わしむ。固に三子有り。

原文固剛直雅正,不畏強禦,居官清潔,家無餘財,終歿之日,室徒四壁,無以供喪,親故為其棺斂焉。初,固著終制一篇,務從儉約。臨終,又敕諸子一遵先制。固有三子。

長子休之、武定の末、黃門郎。

原文長休之,武定末,黃門郎。

休之の弟詮之、字は子衡。少にして才名著わり、司徒行參軍に辟せらる。早く門生に害せらる、時人悼み惜しむ。

原文休之弟詮之,字子衡。少著才名,辟司徒行參軍。早為門生所害,時人悼惜之。

賈思伯

原文賈思伯

賈思伯、字は士休、齊郡益都の人なり。世父元壽、高祖の時中書侍郎、學行有り、時に称せらる。思伯は釋褐して奉朝請となり、太子步兵校尉・中書舍人、轉じて中書侍郎。頗る高祖に知られ、常に征伐に従う。

原文賈思伯,字士休,齊郡益都人也。世父元壽,高祖時中書侍郎,有學行,見稱於時。思伯釋褐奉朝請,太子步兵校尉、中書舍人,轉中書侍郎。頗為高祖所知,常從征伐。

世宗が即位すると、侍従としての勤めにより、輔国将軍に転じた。任城王澄が鍾離を包囲した際、思伯は持節としてその軍司となった。澄が敗北した時、思伯は後陣を務めた。澄は思伯を儒者と見て、必ず死ぬものと思っていた。思伯が到着すると、大いに喜び、「仁者には必ず勇ありとは、常に虚談と謂っていたが、今軍司において之を見た」と言った。思伯は道に迷ったと託け、その功を誇らず、当時の論は彼を長者と称えた。後に河内太守に任ぜられたが、拝命しなかった。まもなく鴻臚少卿に除され、母の喪により免ぜられた。喪が明けると、滎陽太守に徴され、政績があった。征虜将軍・南青州刺史に遷った。初め、思伯は弟の思同と共に北海の陰鳳に師事して学業を受けたが、謝礼の資がなく、鳳は遂に彼らの衣服を質に取った。思伯が任地に赴く際、縑百匹を鳳に贈り、車馬を整えて迎えたが、鳳は恥じて行かなかった。当時の人々はこれを称嘆した。まもなく父の喪により免ぜられた。後に征虜将軍・光禄少卿に除され、左将軍・兗州刺史を拝した。

原文及世宗即位,以侍從之勤,轉輔國將軍。任城王澄之圍鍾離也,以思伯持節為其軍司。及澄失利,思伯為後殿。澄以思伯儒者,謂之必死。及至,大喜,曰:「仁者必有勇,常謂虛談,今於軍司見之矣。」思伯託以失道,不伐其功,時論稱其長者。後為河內太守,不拜。尋除鴻臚少卿,以母憂免。服闋,徵為滎陽太守,有政績。遷征虜將軍、南青州刺史。初,思伯與弟思同師事北海陰鳳授業,無資酬之,鳳遂質其衣物。及思伯之部,送縑百匹遺鳳,因具車馬迎之,鳳慚不往。時人稱嘆焉。尋以父憂免。後除征虜將軍、光祿少卿,仍拜左將軍、兗州刺史。

粛宗の時、給事黄門侍郎に徴された。墓参りを請うて、郷里に帰った。拝命しないうちに、風聞により免ぜられた。まもなく右将軍・涼州刺史に除された。思伯は州が辺境で遠いことを理由に、外出を好まず、子女が未婚であることを理由に辞退した。霊太后は許さなかったが、舎人徐紇が言上し、太尉長史に改めて授けられることとなった。また安東将軍・廷尉卿に除された。思伯は自ら儒を本業とし、法律を好まず、事を言うことを望まなかった。やがて衛尉卿に転じた。

原文肅宗時,徵為給事黃門侍郎。因請拜掃,還鄉里。未拜,以風聞免。尋除右將軍、涼州刺史。思伯以州邊遠,不樂外出,辭以男女未婚。靈太后不許,舍人徐紇言之,得改授太尉長史。又除安東將軍、廷尉卿。思伯自以儒素為業,不好法律,希言事。俄轉衞尉卿。

当時、明堂の建設について議論があり、多くの異同があった。思伯が上議して言うには、「周礼考工記に云う、夏后氏の世室、殷の重屋、周の明堂は、皆五室である。鄭注に云う、『此の三者は、或いは宗廟を挙げ、或いは王の寝殿を挙げ、或いは明堂を挙げ、互いに言うて、其の制が同じなることを明らかにする』と。若し然らば、則ち夏殷の世に既に明堂有り。唐虞以前は、其の事聞こえず。戴徳の礼記に云う、明堂は凡そ九室、十二堂。蔡邕は云う、『明堂は、天子の太廟なり。功を饗し老を養い、教学し士を選ぶは、皆其の中に於いてす。九室十二堂』と。按ずるに戴徳が記を撰ぶは、世に行われず。且つ九室十二堂は、其の規制に於いて、恐らく厥の衷を得難からん。周礼に国を営むは、左に祖を、右に社を置き、明堂は国の陽に在り。則ち天子の太廟に非ざること明らかなり。然らば則ち礼記月令に、四堂及び太室を皆廟と謂うは、当に天子が暫く五帝に配享する故なるべし。又王制に云う、『周人は国老を東膠に養う』。鄭注に云う、東膠は即ち辟雍なり、王宮の東に在り。又詩大雅に云う、『邕邕として宮に在り、肅肅として廟に在り』。鄭注に云う、『宮は、辟雍宮を謂うなり。以て王を助く。老を養うは則ち和を尚び、祭を助くるは則ち敬を尚ぶ』。又明堂に在らざるの験なり。按ずるに孟子に云う、『斉の宣王、孟子に謂いて曰く、吾明堂を毀たんと欲す』と。若し明堂が廟ならば、則ち毀つべき問い有るべからず。且つ蔡邕が明堂の制を論じて云う、『堂方百四十尺、坤の策に象る。屋円径二百十六尺、乾の策に象る。方六丈、径九丈、陽陰九六の数に象る。九室以て九州に象る。屋高八十一尺、黄鍾九九の数に象る。二十八柱以て宿に象る。外広二十四丈以て気に象る』。按ずるに此れ皆天地陰陽気数を法とす。而して室独り九州に象るは、何ぞや。若し五室を立てて五行に象らしむれば、豈に快からずや。此くの如く、蔡氏の論は通典と為すに非ず。九室の言は或いは従うべからず。窃に考工記を尋ぬるに、雖も補闕の書なりと雖も、相承すること久しく、諸儒の注述に非とする言無し。後の作に方ぶれば、亦優れずや。且つ孝経援神契・五経要義・旧礼図は、皆五室を作す。及び徐劉の論、考工に同ずる者多し。朝廷若し独り今古を絶ち、自ら一代の制作を為さば、則ち願う所なり。若し猶旧章を祖述し、前事を規摹せば、殷周の成法を捨て、近代の妄作を襲うべからず。且つ損益の極みは、三王に極まり、後の疑議は、準信し難し。鄭玄は云う、『周人の明堂五室は、是れ帝各に一室有るなり。五行の数に合し、周礼は数に依りて以て之が室と為す。今に施行するも、雖も同じからず、時の説然るのみ』。鄭の此の論を尋ぬるに、当たらずと為すに非ず。月令を按ずるにも九室の文無し。其の制置を原れば、五室に乖かず。其の青陽右个は即ち明堂左个、明堂右个は即ち総章左个、総章右个は即ち玄堂左个、玄堂右个は即ち青陽左个。此くの如く則ち室猶五にして、政を布くこと十二。五室の理、謂うべし安んず可しと。其の方円高広は、自ら時に依りて量る。戴氏の九室の言、蔡子の廟学の議、子幹の霊台の説、裴逸の一屋の論、及び諸家の紛紜、並びに取る無し」。学者其の議を善しとす。

原文于時議建明堂,多有同異。思伯上議曰:「按周禮考工記云:夏后氏世室,殷重屋,周明堂,皆五室。鄭注云:『此三者,或舉宗廟,或舉王寢,或舉明堂,互言之,以明其制同也。』若然,則夏殷之世已有明堂矣。唐虞以前,其事未聞。戴德禮記云:明堂凡九室,十二堂。蔡邕云:『明堂者,天子太廟,饗功養老,教學選士,皆於其中,九室十二堂。』按戴德撰記,世所不行。且九室十二堂,其於規制,恐難得厥衷。周禮營國,左祖右社,明堂在國之陽,則非天子太廟明矣。然則禮記月令,四堂及太室皆謂之廟者,當以天子暫配享五帝故耳。又王制云:『周人養國老於東膠。』鄭注云:東膠即辟雍,在王宮之東。又詩大雅云:『邕邕在宮,肅肅在廟。』鄭注云:『宮,謂辟雍宮也,所以助王。養老則尚和,助祭則尚敬。』又不在明堂之驗矣。按孟子云:『齊宣王謂孟子曰,吾欲毀明堂。』若明堂是廟,則不應有毀之問。且蔡邕論明堂之制云:『堂方一百四十尺,象坤之策;屋圓徑二百一十六尺,象乾之策;方六丈,徑九丈,象陽陰九六之數;九室以象九州;屋高八十一尺,象黃鍾九九之數;二十八柱以象宿;外廣二十四丈以象氣。』按此皆以天地陰陽氣數為法,而室獨象九州,何也?若立五室以象五行,豈不快也?如此,蔡氏之論非為通典,九室之言或未可從。竊尋考工記雖是補闕之書,相承已久,諸儒注述無言非者,方之後作,不亦優乎?且孝經援神契、五經要義、舊禮圖,皆作五室,及徐劉之論,同考工者多矣。朝廷若獨絕今古,自為一代制作者,則所願也。若猶祖述舊章,規摹前事,不應捨殷周成法,襲近代妄作。且損益之極,極於三王,後來疑議,難可準信。鄭玄云:『周人明堂五室,是帝各有一室也,合於五行之數,周禮依數以為之室。施行于今,雖有不同,時說然耳。』尋鄭此論,非為無當。按月令亦無九室之文,原其制置,不乖五室。其青陽右个即明堂左个,明堂右个即總章左个,總章右个即玄堂左个,玄堂右个即青陽左个。如此,則室猶是五,而布政十二。五室之理,謂為可安。其方圓高廣,自依時量。戴氏九室之言,蔡子廟學之議,子幹靈臺之說,裴逸一屋之論,及諸家紛紜,並無取焉。」學者善其議。

また太常卿に遷り、度支尚書を兼ね、正都官に転じた。時に太保崔光が病篤く、表を上って思伯を侍講とし、中書舎人馮元興を侍読とするよう薦めた。思伯は遂に入って粛宗に杜氏春秋を授けた。思伯は若い頃は明経であったが、官に従って業を廃し、此に至って更に儒生を延いて夜に講じ昼に授けた。性謙和で、身を傾けて士を礼し、街路に在りても、車を停め馬を下りて、接誘すること慇懃として、曾て倦む色無し。客有りて思伯に謂いて曰く、「公今貴重なり、寧くか驕らざらんや」。思伯曰く、「衰至れば便ち驕る、何の常か之れ有らん」。当世雅談と為す。元叉に寵せられ、論者其の勢に趣くを譏る。孝昌元年卒す。鎮東将軍・青州刺史を贈られ、又尚書右僕射を贈られ、諡して文貞と曰う。

原文又遷太常卿,兼度支尚書,轉正都官。時太保崔光疾甚,表薦思伯為侍講,中書舍人馮元興為侍讀。思伯遂入授肅宗杜氏春秋。思伯少雖明經,從官廢業,至是更延儒生夜講晝授。性謙和,傾身禮士,雖在街途,停車下馬,接誘恂恂,曾無倦色。客有謂思伯曰:「公今貴重,寧能不驕?」思伯曰:「衰至便驕,何常之有?」當世以為雅談。為元叉所寵,論者譏其趣勢。孝昌元年卒。贈鎮東將軍、青州刺史,又贈尚書右僕射,諡曰文貞。

子の彦始、武定中、淮陽太守。

原文子彥始,武定中,淮陽太守。

思伯の弟思同、字は士明。少くより志行を励まし、雅に経史を好む。彭城王国王侍郎に初め官し、五遷して尚書考功郎、青州別駕となる。久しくして、鎮遠将軍・中散大夫・試守滎陽太守に遷る。尋いで真除となる。後に平南将軍・襄州刺史に除される。明察の誉れ無きも、百姓之を安んず。元顥の乱の時、思同は広州刺史鄭先護と共に降らなかった。荘帝が宮に還ると、営陵県開国男に封ぜられ、邑二百戸、撫軍将軍・給事黄門侍郎・青州大中正に除される。又鎮東・金紫光禄大夫となり、仍黄門を兼ねる。尋いで車騎大将軍・左光禄大夫を加えられる。鄴に遷った後、黄門侍郎・兼侍中・河南慰労大使に除される。仍国子祭酒韓子熙と並び侍講となり、静帝に杜氏春秋を授ける。又散騎常侍を加えられ、七兵尚書を兼ねる。尋いで侍中を拝す。興和二年卒す。使持節・都督青徐光三州諸軍事・驃騎大将軍・尚書右僕射・司徒公・青州刺史を贈られ、諡して文献と曰う。

原文思伯弟思同,字士明。少厲志行,雅好經史。釋褐彭城王國侍郎,五遷尚書考功郎,青州別駕。久之,遷鎮遠將軍、中散大夫、試守滎陽太守。尋即真。後除平南將軍、襄州刺史。雖無明察之譽,百姓安之。及元顥之亂也,思同與廣州刺史鄭先護並不降。莊帝還宮,封營陵縣開國男,邑二百戶,除撫軍將軍、給事黃門侍郎、青州大中正。又為鎮東、金紫光祿大夫,仍兼黃門。尋加車騎大將軍、左光祿大夫。遷鄴後,除黃門侍郎、兼侍中、河南慰勞大使。仍與國子祭酒韓子熙並為侍講,授靜帝杜氏春秋。又加散騎常侍,兼七兵尚書。尋拜侍中。興和二年卒。贈使持節、都督青徐光三州諸軍事、驃騎大將軍、尚書右僕射、司徒公、青州刺史,諡曰文獻。

初め、思同が別駕であった時、清河の崔光韶が先に治中であり、資地を恃み、其の下に居るを恥じて、思同が郷里に還るを聞き、遂に職を去った。州里の人物は思同の為に之を恨んだ。光韶の亡くなるに及び、遺誡して子姪に贈を求むるを聴かず。思同は遂に表を上って光韶の操業を訟え、登時に贈諡を蒙った。論者之を尚びて嘆ず。

原文初,思同之為別駕也,清河崔光韶先為治中,自恃資地,耻居其下,聞思同還鄉,遂便去職。州里人物為思同恨之。及光韶之亡,遺誡子姪不聽求贈。思同遂上表訟光韶操業,登時蒙贈諡。論者歎尚焉。

思同が侍講を務めていた時、国子博士の遼西の衛冀隆が服氏の学を修め、杜氏の『春秋』に対して六十三箇条の難点を上書した。思同はまた冀隆の誤り十一箇条を駁した。互いに是非を論じ、積もって十巻となった。詔が下り国子学にて諸儒を集めて考証させたが、事が未だ終わらぬうちに思同は卒去した。卒去の後、魏郡の姚文安と楽陵の秦道靜が再び思同の意を述べた。冀隆もまた間もなく物故し、浮陽の劉休和がまた冀隆の説を支持した。今日に至るまで裁決して正すことができていない。

原文思同之侍講也,國子博士遼西衞冀隆為服氏之學,上書難杜氏春秋六十三事。思同復駁冀隆乖錯者十一條。互相是非,積成十卷。詔下國學集諸儒考之,事未竟而思同卒。卒後,魏郡姚文安、樂陵秦道靜復述思同意。冀隆亦尋物故,浮陽劉休和又持冀隆說。至今未能裁正焉。

李叔虎

原文李叔虎

李叔虎は、勃海郡蓨県の人である。従祖父の李金は、世祖の神䴥年間に高允と共に召し出され、征南從事中郎の位に至った。叔虎は学問を好み博識で、識見と度量があり、郷里で称賛された。太和年間、中書博士に任じられ、清河の崔光、河間の邢巒と親しく交友した。議郎に転じた。久しくして、太尉從事中郎に遷り、国子博士、本国(勃海郡)の中正を経て、楽陵の中正を兼ねた。性質は清廉で正直、公平の称が大いにあった。後に散騎侍郎、太極都將を兼ねた。任務が終わり、高陽太守に任ぜられたが、固辞して拝命しなかった。間もなく顯武將軍、太尉高陽王元雍の諮議參軍事に任ぜられ、雍はその器量と操行を重んじた。間もなく仮節・行華州事に任ぜられ、官吏と民衆に称賛された。永平四年に卒去、五十四歳であった。冠軍將軍、南青州刺史を追贈され、諡は穆といった。

原文李叔虎,勃海蓨人也。從祖金,世祖神䴥中與高允俱被徵,位至征南從事中郎。叔虎好學博聞,有識度,為鄉閭所稱。太和中,拜中書博士,與清河崔光、河間邢巒並相親友。轉議郎。久之,遷太尉從事中郎,轉國子博士、本國中正,攝樂陵中正。性清直,甚有公平之稱。後兼散騎侍郎、太極都將。事訖,除高陽太守,固辭不拜。尋除顯武將軍、太尉高陽王雍諮議參軍事,雍以其器操重之。尋除假節、行華州事,為吏民所稱。永平四年卒,年五十四。贈冠軍將軍、南青州刺史,諡曰穆。

兄の叔寶は、州より秀才に挙げられ、頓丘公国郎中令に任じられた。太常丞に遷った。延昌の末、叔寶は弟の臺戸および従弟の帰伯が沙門法慶と共に反乱を起こし、郡県を陥落させたことに連座し、罪に当たったが、洛陽の獄中で病死した。

原文兄叔寶,州舉秀才,拜頓丘公國郎中令。遷太常丞。延昌末,叔寶為弟臺戶及從弟歸伯同沙門法慶反,陷破郡縣,叔寶當坐,遇病死於洛陽獄。

子の伯冑は、光祿大夫となった。

原文子伯冑,光祿大夫。

叔寶の従弟の李鳳は、尚書郎中、国子博士を歴任した。弟が京兆王元愉の叛逆に与したことに連座し、除名された。

原文叔寶從弟鳳,歷尚書郎中、國子博士。坐弟同京兆王愉逆,除名。

李鳳の従子の長仁は、字を景安という。学問にかなり通じていた。秀才に挙げられ、射策で高第となった。中書博士に任じられ、中書侍郎に転じた。累遷して平南將軍、沛郡太守となり、引き続き彭城太守を兼ねた。また尉元に従って南境を討定し、延陵男の爵を賜った。員外散騎常侍に召されて劉準のもとに使した。帰還後、病により北海内史に任ぜられ、詔により医薬を賜った。三郡に在任した間、官吏と民衆は安んじた。間もなく卒去した。武定年間、安南將軍、七兵尚書、冀州刺史を追贈され、男の爵は元の通りであった。

原文鳳從子長仁,字景安。頗有學涉。舉秀才,射策高第。拜中書博士,轉中書侍郎。累遷平南將軍、沛郡太守,仍為彭城太守。又從尉元討定南境,賜爵延陵男。徵拜員外散騎常侍,使於劉準。行還,以疾除北海內史,詔賜醫藥。凡在三郡,吏民安之。尋卒。武定中,贈安南將軍、七兵尚書、冀州刺史,男如故。

長仁の従弟の李述は、字を道興といい、学識があった。州より秀才に挙げられた。太常博士に任じられ、長安に使いして燕宣王の廟を冊祭した。帰還後、尚書儀曹郎に任ぜられ、蓨県男の爵を賜り、やがて建興太守に遷った。卒去した。子の李象は、字を孟則という。清廉簡素で風概があり、広く群書に通じた。初め爵を襲ぎ、徐州平東府功曹参軍となった。冀州治中に遷り、勤務の功績があった。久しくして、散騎侍郎に任じられ、寧朔將軍を加えられ、間もなく中書侍郎に転じた。出て青州太傅開府諮議参軍・行北徐州事・本將軍・光祿大夫となった。斉の文襄王が開府諮議参軍に引き入れ、征東將軍を加えた。興和二年、散騎常侍を兼ね、蕭衍のもとに使した。三年に卒去し、驃騎大將軍、儀同三司、冀州刺史を追贈され、諡は文簡といった。これは子の子貞が義挙に参画した功労によるものである。

原文長仁從弟述,字道興,有學識。州舉秀才。拜太常博士,使詣長安,冊祭燕宣王廟。還,除尚書儀曹郎,賜爵蓨縣男,稍遷建興太守。卒。子象,字孟則。清簡有風概,博涉羣書。初襲爵,為徐州平東府功曹參軍。遷冀州治中,有勤績。久之,拜散騎侍郎,加寧朔將軍,尋轉中書侍郎。出為青州太傅開府諮議參軍、行北徐州事、本將軍、光祿大夫。齊文襄王引為開府諮議參軍,加征東將軍。興和二年,兼散騎常侍,使於蕭衍。三年卒,贈驃騎大將軍、儀同三司、冀州刺史,諡曰文簡,以子子貞預義之勤也。

子貞は、司空長史、武邑太守、司徒右長史、陽平太守を歴任した。入朝して吏部郎中となった。出て驃騎將軍、兗州刺史となった。貪汙の罪により賜死した。

原文子貞,歷司空長史、武邑太守、司徒右長史、陽平太守。入為吏部郎中。出為驃騎將軍、兗州刺史。坐貪汙賜死。

路恃慶

原文路恃慶

路恃慶は、字を伯瑞といい、陽平郡清淵県の人である。祖父の路綽は、陽平太守であった。恃慶は実務の才幹があり、広平の宋翻と共に知名で、郷里で称賛され、相州刺史の李安世が共に上表して推薦した。太和年間、奉朝請に任ぜられた。恃慶は従兄の文挙に才望があるとして、これを推して譲った。高祖は遂に両名を並べて任じた。やがて尚書儀曹郎に遷り、左民郎に転じ、潁川郡を行った。出て華州安定王の征虜府長史となった。間もなく母の喪により職を去った。引き続き定州河間王元琛の長史に転じた。琛は貪暴で勝手気ままに振る舞ったが、恃慶は常に苦言を進めた。四十八歳で卒去した。左將軍、安州刺史を追贈され、諡は襄といった。子の祖璧は、給事中となった。

原文路恃慶,字伯瑞,陽平清淵人也。祖綽,陽平太守。恃慶有幹用,與廣平宋翻俱知名,為鄉閭所稱,相州刺史李安世並表薦之。太和中,除奉朝請。恃慶以從兄文舉有才望,因推讓之。高祖遂並拜焉。稍遷尚書儀曹郎,轉左民郎,行潁川郡。出為華州安定王征虜府長史。尋以母憂去職。仍轉定州河間王琛長史。琛貪暴肆意,恃慶每進苦言。年四十八,卒。贈左將軍、安州刺史,諡曰襄。子祖璧,給事中。

恃慶の弟の仲信も、学問を好んだ。太尉参軍となり、やがて奉車都尉、開府掾に遷った。章武王元融が葛栄を討伐した時、仲信はその都督府長史であった。融が敗死すると、仲信もまた免職となり棄てられた。

原文恃慶弟仲信,亦好學。為太尉參軍,稍遷奉車都尉、開府掾。章武王融之討葛榮也,仲信為其都督府長史。融敗歿,仲信遂亦免棄。

仲信の弟の思略は、字を叔約といい、識見と志操があった。冀州安東府騎軍参軍となった。

原文仲信弟思略,字叔約,有識尚。冀州安東府騎軍參軍。

子の祖遺は、武定の末、太学博士となった。

原文子祖遺,武定末,太學博士。

思略の弟の思令は、字を季儁という。初め広陽王の司空参軍となり、司空城局参軍、司徒記室、威遠將軍、尚書左民郎を経て、右民郎に転じた。

原文思略弟思令,字季儁。初為廣陽王司空參軍,轉司空城局參軍、司徒記室、威遠將軍、尚書左民郎,轉右民。

時に天下は多事にして、思令は乃ち上疏して曰く、「臣聞く、国の大事は、唯祀と戎と有り。戎の功有るは、将帥に在り。三代は必ずしも別に民をせず、治を取るは等しからず。五覇は必ずしも異なる兵をせず、各能く克定す。湯武の賢有りと雖も、猶須く伊望の佐を要し、堯舜の聖と雖も、尚稷契の輔有り。其の人を得れば、六合は唾掌にて清む可く、其の人を失えば、三河方に戦地と為る。何者ぞ。之を動かすは甚だ易く、之を靖むるは至難なり。窃に比年以来、将帥は多くは寵貴の子孫、軍幢の統領も亦皆故義の託附なり。貴戚の子弟は未だ戎役を経ず、杯を銜え馬を躍らすに至りては、志は逸し気は浮き、眉を軒らかし腕を攘げて、便ち攻戦を以て自ら許す。大敵に臨むに及んで、怖懼交々懐き、雄図鋭気一朝に頓尽す。乃ち羸弱をして前に在らしめて鋭を当たらしめ、強壮をして後に居らしめて身を安んぜしむ。兼ねて復た器械精ならず、進止集まらず、羊質の将を任じ、練らざる兵を駆り、険を負うの衆に当たり、数戦の虜に敵して、敗れざらしめんと欲するは、豈得る有らんや。是を以て兵は必敗を知り、始めて集まりて先ず逃げ、将は又敵を怖れ、遷延して進まず。国家便ち官号未だ満たずと謂い、重ねて爵を屡く加え、復た賞賚の軽きを疑い、金帛日々に賜う。帑蔵空虚、民財殫尽す。致して賊徒をして更に増え、胆気益々盛んにし、生民損耗し、荼毒聊か無し。主は歎き臣は哀しみ、何の心か寢食せん。臣位微と雖も、窃に遑て捨つる無し。臣聞く、孝行は忠貞より出で、節義は率ね多く果決なり。徳は義夫を感ぜしめ、恩は死士を勧む可し。今若し上の軽んずる所を捨て、下の重んずる所を求め、幽明を黜陟し、善悪を賞罰し、徒を捜し卒を簡び、兵を練り武を習い、甲は密に弩は強く、弓は調い矢は勁し。謀夫既に設け、弁士先ず陳べ、安危を以て暁らし、其の禍福を示す。其の悛まざるに如くは、我が義順の師を以て此の悖逆の豎を討つは、豈に蕭斧を厲して朝菌を伐ち、洪炉を鼓して毛髪を燎くに異ならんや。愚者と雖も其の踵を旋らさざるを知る。敢えて愚短を以て、昧死して誠を陳ぶ。」

原文時天下多事,思令乃上疏曰:「臣聞國之大事,唯祀與戎。戎之有功,在於將帥。三代不必別民,取治不等;五霸不必異兵,各能克定。有湯武之賢,猶須伊望之佐;堯舜之聖,尚有稷契之輔。得其人也,六合唾掌可清;失其人也,三河方為戰地。何者?動之甚易,靖之至難。竊以比年以來,將帥多是寵貴子孫,軍幢統領,亦皆故義託附。貴戚子弟未經戎役,至於銜杯躍馬,志逸氣浮,軒眉攘腕,便以攻戰自許。及臨大敵,怖懼交懷,雄圖銳氣,一朝頓盡。乃令羸弱在前以當銳,強壯居後以安身。兼復器械不精,進止不集,任羊質之將,驅不練之兵,當負險之眾,敵數戰之虜,欲令不敗,豈有得哉!是以兵知必敗,始集而先逃;將又怖敵,遷延而不進。國家便謂官號未滿,重爵屢加,復疑賞賚之輕,金帛日賜。帑藏空虛,民財殫盡。致使賊徒更增,膽氣益盛,生民損耗,荼毒無聊。主歎臣哀,何心寢食。臣雖位微,竊不遑舍。臣聞孝行出於忠貞,節義率多果決。德可感義夫,恩可勸死士。今若捨上所輕,求下所重。黜陟幽明,賞罰善惡。搜徒簡卒,練兵習武,甲密弩強,弓調矢勁。謀夫既設,辯士先陳,曉以安危,示其禍福。如其不悛,以我義順之師討茲悖逆之豎,豈異厲蕭斧而伐朝菌,鼓洪爐而燎毛髮,雖愚者知其不旋踵矣。敢以愚短,昧死陳誠。」

尋いで仮節・征虜将軍・陽平太守を拝す。又冀州の清河、相州の陽平、齊州の平原を割きて以て南冀州と為し、仍て思令を左将軍・南冀州刺史・仮平東将軍・都督と為す。時に葛栄其の清河太守季虎を遣わし高唐城を拠りて以て叛民を招かしむ。思令乃ち麾下を命じ并せて郷曲を率い潜軍夜往し、其の不意に出で、遂に大いに之を破り、徐に乃ち衆を収め南還す。又詔して思令に冀州の流民を并せて領せしむ。葛栄滅ぶに及び、還りて平原を鎮す。

原文尋拜假節、征虜將軍、陽平太守。又割冀州之清河、相州之陽平、齊州之平原以為南冀州,仍以思令為左將軍、南冀州刺史、假平東將軍、都督。時葛榮遣其清河太守季虎據高唐城以招叛民,思令乃命麾下并率鄉曲潛軍夜往,出其不意,遂大破之,徐乃收眾南還。又詔思令并領冀州流民。及葛榮滅,還鎮平原。

後に征東将軍・金紫光禄大夫を除かれ、衛将軍・右光禄大夫に転ず。天平三年三月卒す。時に年五十一。驃騎将軍・定州刺史を贈られる。

原文後除征東將軍、金紫光祿大夫,轉衞將軍、右光祿大夫。天平三年三月卒,時年五十一。贈驃騎將軍、定州刺史。

恃慶の従叔景略は、起家して中書博士と為る。太和中、尚書郎・本郡中正。出でて齊州魏郡・平原二郡太守と為る。卒す。

原文恃慶從叔景略,起家中書博士。太和中,尚書郎、本郡中正。出為齊州魏郡、平原二郡太守。卒。

景略の弟雄は、字は仲略、容貌偉異なり。軍功を以て給事中と為る。高祖曾て群臣に対し云く、「路仲略は尚書郎の才を好む。」僕射李沖云く、「其の人は武職に宜し。」遂に停む。転じて太尉咸陽王録事参軍、伏波将軍・奉車都尉に遷る。卒し、頓丘太守を贈られる。

原文景略弟雄,字仲略,容貌偉異。以軍功為給事中。高祖曾對羣臣云:「路仲略好尚書郎才。」僕射李沖云:「其人宜為武職。」遂停。轉太尉咸陽王錄事參軍,遷伏波將軍、奉車都尉。卒,贈頓丘太守。

景略の従祖弟法常は、幼くして修立す。郡功曹と為る。早卒す。儀同李神儁之と旧有り、毎に云く、「諸路の前輩の中に路法常有りて足る名士と為る、必ず遠く至る可しと謂うに、而して竟に年無し、天下の事誠に知り難し。」

原文景略從祖弟法常,幼而修立。為郡功曹。早卒。儀同李神儁與之有舊,每云:「諸路前輩中有路法常足為名士,謂必遠至,而竟無年,天下事誠難知也。」

房亮

原文房亮

房亮は、字は景高、清河の人なり。父は法延、譙郡太守。亮は学を好み、節操有り。太和中、秀才に挙げられ、奉朝請と為る。秘書郎を拝し、又員外散騎侍郎を兼ね、中書侍郎宋弁に副い蕭賾に使す。還りて、尚書二千石郎中・濟州中正を除かる。員外常侍を兼ね、高麗に使し、高麗王疾を託して拝せず。亮辱命を以ての故に、白衣に坐して郎中を守る。後に濟北太守を除かれ、平原太守に転じ、清厳を以て称せらる。時に冀州刺史・京兆王愉州に拠りて反す。平原の界は河北に在り、愉と境を接す。愉乃ち人を遣わし亮を説き、栄利を以て啖う。亮即ち其の使人を斬り、兵を発して防捍す。愉怒り、其の大将張霊和を遣わし衆を率い亮を攻む。亮兵民を督厲し、逆順を以て諭し、城を出でて拒撃し、大いに之を破る。尋いで憂に遭い任を解く。服終え、左将軍・汲郡太守を除かる。前将軍・東荊州刺史に遷る。亮は心を留めて撫納し、夷夏之に安んず。時に辺州刺史例として一子の出身を得。亮は其の子を言わずして弟子超を啓し奉朝請と為す。議者之を称す。平東将軍・滄州刺史に転じ、入りて光禄大夫と為り、安東将軍を加う。永安二年卒す。年七十一。撫軍将軍・齊州刺史を贈られる。

原文房亮,字景高,清河人也。父法延,譙郡太守。亮好學,有節操。太和中,舉秀才,為奉朝請。拜祕書郎,又兼員外散騎侍郎,副中書侍郎宋弁使於蕭賾。還,除尚書二千石郎中、濟州中正。兼員外常侍,使高麗,高麗王託疾不拜。以亮辱命,坐白衣守郎中。後除濟北太守,轉平原太守,以清嚴稱。時冀州刺史、京兆王愉據州反,平原界在河北,與愉接境。愉乃遣人說亮,啖以榮利。亮即斬其使人,發兵防捍。愉怒,遣其大將張靈和率眾攻亮。亮督厲兵民,喻以逆順,出城拒擊,大破之。尋遭憂解任。服終,除左將軍、汲郡太守。遷前將軍、東荊州刺史。亮留心撫納,夷夏安之。時邊州刺史例得一子出身,亮不言其子而啟弟子超為奉朝請。議者稱之。轉平東將軍、滄州刺史,入為光祿大夫,加安東將軍。永安二年卒,年七十一。贈撫軍將軍、齊州刺史。

子柬は、字は元約。光禄大夫にて卒す。

原文子柬,字元約。卒於光祿大夫。

亮の弟詮は、字は鳳挙。尚書郎・本州中正。卒し、撫軍将軍・齊州刺史を贈られる。

原文亮弟詮,字鳳舉。尚書郎、本州中正。卒,贈撫軍將軍、齊州刺史。

詮の弟悅は、字は季欣。褐を解き広平王懐国常侍、転じて青州平東府中兵参軍、宣威将軍を加う。高陽太守に遷り、広川太守に転じ、鎮遠将軍を加う。普泰中、濟州刺史張瓊表して所部に南清河郡を置き、仍て悅を請いて太守と為す。朝廷之に従う。凡そ三郡を歴り、民吏之に安んず。平東将軍・太中大夫に遷る。興和二年卒す。年七十。征東将軍・濟州刺史を贈られる。

原文詮弟悅,字季欣。解褐廣平王懷國常侍,轉青州平東府中兵參軍,加宣威將軍。遷高陽太守,轉廣川太守,加鎮遠將軍。普泰中,濟州刺史張瓊表所部置南清河郡,仍請悅為太守,朝廷從之。凡歷三郡,民吏安之。遷平東將軍、太中大夫。興和二年卒,年七十。贈征東將軍、濟州刺史。

長子超は、字は伯穎。武定末、司徒録事参軍・濟州大中正。

原文長子超,字伯穎。武定末,司徒錄事參軍、濟州大中正。

超の弟昭は、淮州驃騎大将軍府長史。

原文超弟昭,淮州驃騎大將軍府長史。

曹世表

原文曹世表

曹世表は、字は景昇、東魏郡魏の人なり。魏の大司馬曹休の九世孫。祖は謨、父は慶、並びに学名有り。世表は少くして父に喪い、挙止礼度有り。性雅正、尺牘に工み、群書に渉猟す。

原文曹世表,字景昇,東魏郡魏人也。魏大司馬休九世孫。祖謨,父慶,並有學名。世表少喪父,舉止有禮度。性雅正,工尺牘,涉獵羣書。

太和二十三年(499年)、尚書僕射の任城王元澄が奏上して、曹世表を国子助教としたが、彼は甚だ意に満たなかった。後に司徒記室に転じた。武威の賈思伯、范陽の盧同、隴西の辛雄らと共に親しく交わり、仲良くした。侍中の崔光は、同郷の貴人で、常に彼を称賛した。病気に罹り郷里に帰った。永平年間(508-512年)、兗州左将軍府司馬に任じられたが、彼の望むところではなく、また病気を理由に辞任した。延昌年間(512-515年)、清河太守に任じられ、官務を簡素にし、百姓を安んじた。正光年間(520-525年)、前将軍・通直散騎常侍に任ぜられた。大将軍・京兆王元継が西征する際、彼を従事中郎とし、中水の軍事を代行させた。煩雑な職務を自ら引き受け、論者は皆その才能を称えた。都に戻り、司空長史に任ぜられた。孝昌年間(525-527年)、青斉地方が頻繁に反乱を起こしたため、詔により曹世表は節を持って慰撫宣諭した。都に戻り、尚書右丞に転じた。

原文太和二十三年,尚書僕射、任城王澄奏世表為國子助教,頗失意。後轉司徒記室。與武威賈思伯、范陽盧同、隴西辛雄等並相友善。侍中崔光,鄉里貴達,每稱美之。遇患歸鄉。永平中,除兗州左將軍府司馬,非其所願,復以病解。延昌中,除清河太守,治官省約,百姓安之。正光中,拜前將軍、通直散騎常侍。大將軍、京兆王繼西征,以為從事中郎,攝中水兵事,自當煩劇,論者皆稱其能。還都,拜司空長史。孝昌中,青齊頻年反亂,詔世表持節慰喻。還都,轉尚書右丞。

後に征虜将軍を加えられ、豫州刺史として出向した。時に蕭衍の将軍湛僧珍が東豫州を陥落させ、州民の劉獲・鄭辯が州内で反乱を起こし、内応していた。朝廷は源子恭を以て曹世表に代えて州の長官とし、曹世表を東南道行臺とし、元安平・元顕伯・皇甫鄧林らを率いてこれを討伐させた。当時、賊軍は小殷関を遮断し、駅使の通行を絶っていた。諸将は兵馬が寡少で、皆敗残の余りであるとして、再び戦うことを敢えず、皆城を守って自らを固めようとした。曹世表は当時背中に腫れ物を患っていたが、病躯を車に乗せて城外に出て、統軍の是雲宝を呼び寄せて言った。「湛僧珍が敢えて深く侵入して寇となるのは、劉獲・鄭辯が共に州民の声望ある者で、内応しているからである。先ほど駅使が来て、劉獲が軍を移動させて湛僧珍を迎えようとしていることを知った。ここから八十里の距離である。今その不意を突けば、一戦で撃破できる。劉獲を破れば、湛僧珍は自ずから退走し、東南は平定される。卿の功績である。」そこで兵馬を選抜し、是雲宝に付けて討伐させた。急いで軍を発するよう促し、日暮れに出城し、夜明け前に兵が合流した。賊は官軍の突然の到来を予期せず、一戦で劉獲を破り、諸賊は悉く平定され、湛僧珍は退走した。ただ鄭辯のみは源子恭と親しい旧交があったため、源子恭の所に逃亡潜伏した。曹世表は諸将吏を召集し、衆人の前で源子恭を責め、鄭辯を捕らえて斬り、その首を京師に伝送した。勅により中使が派遣され、旨を宣して慰労し、馬二頭と衣服・寝具を賜った。再び曹世表に行豫州事をさせ、行臺は元の通りとした。

原文後加征虜將軍,出行豫州刺史。值蕭衍將湛僧珍陷東豫州,州民劉獲、鄭辯反於州界,為之內應。朝廷以源子恭代世表為州,以世表為東南道行臺,率元安平、元顯伯、皇甫鄧林等討之。於時賊眾強斷小殷關,驛使不通。諸將以士馬單少,皆敗散之餘,不敢復戰,咸欲保城自固。世表時患背腫,乃輿病出外,呼統軍是云寶謂之曰:「湛僧珍所以敢深入為寇者,以獲、辯皆州民之望,為之內應。向有驛至,知劉獲移軍欲迎僧珍,去此八十里。今出其不意,一戰可破。獲破,則僧珍自走,東南清服,卿之功也。」乃簡選兵馬,付寶討之。促令發軍,日暮出城,比曉兵合。賊不意官軍卒至,一戰破獲,諸賊悉平,湛僧珍退走。唯鄭辯與子恭親舊,亡匿子恭所。世表召諸將吏,眾責子恭,收辯斬之,傳首京師。敕遣中使宣旨慰喻,賜馬二匹、衣服被褥。復以世表行豫州事,行臺如故。

朝廷に戻り、左将軍を加えられ、尚書東道行臺を兼ね、黄河沿いに鎮戍を分置して、葛栄に備えた。青州に到着した時、病気に罹り死去した。時に五十四歳。永熙年間(532-534年)、平東将軍・齊州刺史を追贈された。

原文還朝,加左將軍,兼尚書東道行臺,沿河分立鎮戍,以備葛榮。行達青州,遇患卒,時年五十四。永熙中,贈平東將軍、齊州刺史。

潘永基

原文潘永基

潘永基、字は紹業、長楽広宗の人である。父は潘霊虬、中書侍郎であった。潘永基は性格が率直で、財を軽んじ施しを好んだ。冀州鎮東府法曹行参軍となり、威烈将軍・揚州曲陽戍主に遷り、西硤石戍主に転じ、陳留・南梁の二郡の事務を治め、威厳と恩恵を頗る有した。揚州車騎府主簿に転じた。累進して虎賁中郎将・直寝・前将軍となった。持節・平北将軍・冀州防城都督・長楽太守として出向した。当時、葛栄が信都を攻め、長い包囲陣を敷き水を堰き止めて州城に注ぎ込んだ。潘永基は刺史の元孚と心を合わせ力を尽くし、昼夜を分かたず防戦した。外には軍の援けがなく、内には食糧の備蓄が乏しく、春から冬に至るまで、力尽きて陥落した。葛栄は元孚を害そうとしたが、潘永基は自らの身を以て元孚の死に代わることを請うた。

原文潘永基,字紹業,長樂廣宗人也。父靈虬,中書侍郎。永基性通率,輕財好施。為冀州鎮東府法曹行參軍,遷威烈將軍、揚州曲陽戍主,轉西硤石戍主,治陳留、南梁二郡事,頗有威惠。轉揚州車騎府主簿。累遷虎賁中郎將、直寢、前將軍。出為持節、平北將軍、冀州防城都督、長樂太守。于時葛榮攻信都,長圍遏水以灌州城。永基與刺史元孚同心勠力,晝夜防拒。外無軍援,內乏糧儲,從春至冬,力窮乃陷。榮欲害孚,永基請以身代孚死。

永安二年(529年)、潁川太守に任じられ、鎮東将軍・東徐州刺史に遷った。時に蕭衍の将軍曹世宗・馬洪武らが軍を率いて来寇したので、潘永基は出撃してこれを破った。永熙年間(532-534年)、征東将軍・金紫光禄大夫となり、車騎将軍・左光禄大夫に遷った。まもなく衛大将軍を加えられ、再び東徐州刺史に任じられた。前後して州に在任中、吏民に親しまれた。交代で京師に戻り、元象初年(538年)に死去した。五十六歳。散騎常侍・都督冀瀛滄三州諸軍事・驃騎大将軍・尚書右僕射・司徒公・冀州刺史を追贈された。

原文永安二年,除潁川太守,遷鎮東將軍、東徐州刺史。時蕭衍將曹世宗、馬洪武等率眾來寇,永基出討,破之。永熙中,為征東將軍、金紫光祿大夫,遷車騎將軍、左光祿大夫。尋加衞大將軍,復除東徐州刺史。前後在州,為吏民所樂。代還京師,元象初卒,年五十六。贈散騎常侍、都督冀瀛滄三州諸軍事、驃騎大將軍、尚書右僕射、司徒公、冀州刺史。

長子の潘子礼は、州主簿であった。

原文長子子禮,州主簿。

潘子礼の弟の子、潘子智は、武定年間(543-550年)、太尉士曹参軍であった。

原文子禮弟子智,武定中,太尉士曹參軍。

朱元旭

原文朱元旭

朱元旭、字は君昇、元は楽陵の人である。祖父の朱霸は、真君末年(太武帝の治世末)に南方に叛き、劉義隆に投じ、遂に青州の楽陵に居住した。朱元旭は子史に広く通じ、机案の事務を理解した。清河王国常侍より初官とした。太学博士・員外散騎侍郎。頻繁に高麗に使節として赴いた。尚書度支郎中に任じられた。神亀末年(520年)、郎官の選抜が精選でないとして、大いに淘汰が行われた。朱元旭は隴西の辛雄、范陽の祖瑩、泰山の羊深、西平の源子恭と共に、才能と実用性を認められて留任された。まもなく鎮遠将軍を加えられ、尚書右丞を兼ね、依然として郎中・本州中正であった。時に関西都督の蕭宝夤が上啓して言うには、「統べる十万の兵の食糧は、僅か一月分のみである」と。そこで粛宗(孝明帝)は大いに怒り、召してその理由を問いただした。録尚書事・尚書令以下は、皆その罪を朱元旭に推した。朱元旭が入見し、御座の前で指を折って計算し、蕭宝夤の兵糧は一年を超えることを明らかにし、事態は解決した。通直散騎常侍に任じられた。永安初年(528年)、平東将軍・尚書左丞・光禄大夫を加えられた。後に司農少卿に転じた。衛将軍・左光禄大夫に遷った。天平年間(534-537年)、再び尚書左丞に任ぜられた。風操は無く、俗に従って俯仰し、性格は機略に富み、自らを保つだけであった。当時、朝廷は汲郡・河内の二郡の境界の黄河に挟まれた地を分けて義州を立て、関西から帰順した民戸を安置し、朱元旭を使持節・驃騎将軍・義州刺史とした。武定三年(545年)夏、州において死去した。六十七歳。本官の将軍・幽州刺史を追贈された。

原文朱元旭,字君昇,本樂陵人也。祖霸,真君末南叛,投劉義隆,遂居青州之樂陵。元旭頗涉子史,開解几案。起家清河王國常侍。太學博士、員外散騎侍郎。頻使高麗。除尚書度支郎中。神龜末,以郎選不精,大加沙汰。元旭與隴西辛雄、范陽祖瑩、泰山羊深、西平源子恭並以才用見留。尋加鎮遠將軍、兼尚書右丞,仍郎中、本州中正。時關西都督蕭寶夤啟云:「所統十萬,食唯一月。」於是肅宗大怒,召問所由。錄、令以下,皆推罪於元旭。元旭入見,於御座前屈指校計寶夤兵糧乃踰一年,事乃得釋。除通直散騎常侍。永安初,加平東將軍、尚書左丞、光祿大夫。後轉司農少卿。遷衞將軍、左光祿大夫。天平中,復拜尚書左丞。既無風操,俛仰隨俗,性多機數,自容而已。於時朝廷分汲郡、河內二界挾河之地以立義州,安置關西歸款之戶,除元旭使持節、驃騎將軍、義州刺史。武定三年夏,卒於州,年六十七。贈本將軍、幽州刺史。

子の朱敬道は、武定年間(543-550年)、司徒長流参軍であった。

原文子敬道,武定中,司徒長流參軍。