盧同
盧同は 字 を叔倫といい、范陽郡涿県の人で、盧玄の族孫である。父の盧輔は字を顯元といい、本州の別駕であった。同は身長八尺、容貌魁偉にして、処世に長じていた。太和年間、初めて官に就き北海王元詳の国常侍となった。次第に 司空 祭酒・昌黎太守に遷った。まもなく営州長史となり、引き続き郡の職を帯びた。入朝して河南尹丞に任ぜられ、 太尉 属に遷った。
時に 豫 州の城民白早生が反乱を起こすと、 都督 中山王元英・ 尚書 邢巒らがこれを討ち、詔により同を軍司とした。事が平定されると、冀州鎮東府長史に任ぜられた。父の喪に遭い解任された。後に 司空 諮議参軍に任ぜられ、司馬を兼ね、営構東宮都將となった。延昌年間、秦州の民が反乱を起こすと、詔により同は通直常侍を兼ね、節を持って慰諭に赴き、多くを降伏させた。還って尚書右丞に転じ、輔国將軍の号を加えられたが、父の 諱 に触れるため拝命せず、改めて龍驤將軍を授けられた。熙平初年、左丞に転じ、征虜將軍を加えられた。時に相州 刺史 奚康生が民の歳調を徴収する際、いずれも七八十尺の長さの絹を課し、奉公の誉れを求めようとした。管内はこれを患い、同は歳禄の官給として長絹を支給した。同はそこで康生が法外に徴調していることを挙げて弾劾した。上奏文が届くと、詔して康生の罪を科し、兼ねて同の公務における功績を褒めた。
肅宗の世、朝政は次第に衰え、多くが軍功を窃み冒す者があった。同は吏部の勲書を閲覧し、これに検覆を加え、階位を窃んだ者三百余人を摘発した。同はそこで上表して言うには、
詔してこれに従った。同はまた上奏して言うには、
詔して再びこれに従って施行させた。
元叉が霊太后を廃したとき、相州刺史・中山王元熙が 鄴 で兵を挙げた。熙が敗れると、同を持節・兼黄門侍郎・慰労使とし、州に赴いて熙を刑戮させた。還って平東將軍を授けられ、正黄門となり、営明堂副將となった。まもなく撫軍將軍・光禄大夫・本州大中正を加えられた。同は在位者に巧みに仕え、叉に親しまれ、熙を誅戮した日、その党与を深く窮めて、叉の意に迎合しようとしたため、論者はこれを非とした。また同に羽林二十人を与えて自衛させた。同の兄の盧琇は、若い頃から大言壮語が多く、常に「公侯の位に至ることができる」と言っていた。この時になって初めて都水使者となった。同は自らの官階二階を回して琇に加えるよう願い出て、琇は安州刺史に任ぜられた。論者はこれを称えた。
営州の城民就徳興が謀反を企てると、同を度支尚書に任じ、黄門の職はそのままとして、節を持って営州に慰労使として赴き、便宜を以て事に当たることを許された。同は頻りに使者を遣わしたが、皆賊に害されたため、賊の家族三十人を遣わし、併せて家奴を免じて良民とし、書を携えて徳興を諭させたところ、徳興は降伏した。その民を安んじて帰還した。徳興が再び反乱を起こすと、詔して同を本將軍のまま幽州刺史とし、尚書行臺を兼ねて慰労させた。同は徳興が信用し難いと考え、兵を率いて赴いたが、徳興に撃たれ、大敗して帰還した。
霊太后が政権に復帰すると、同を叉の党とみなして除名した。孝昌三年、左將軍・太中大夫・兼左丞に任じ、齊兗二州行臺となり、大 都督 李叔仁を節度した。(欠文)莊帝が即位すると、詔して本来の官秩を回復させ、都官尚書に任じ、再び七兵尚書を兼ねた。同が以前徳興を慰労した功績により、章武県開国伯に封ぜられ、邑四百戸を賜った。正しく七兵尚書に任ぜられ、まもなく殿中尚書に転じ、征南將軍を加えられた。普泰初年、 侍中 に任ぜられ、驃騎將軍・左光禄大夫の号を進められた。同は当時長く病んでいたが、無理をして職務に従事し、儀同三司を乞うた。初め同が黄門侍郎であった時、前廃帝と共に門下省におり、同はその人となりを異とし、平素から親しく交わっていた。廃帝は旧恩によりこれを許し、儀同三司を授け、その他の官職はそのままとした。永熙初年に 薨去 、五十六歳。侍中・ 都督 冀滄瀛三州諸軍事・驃騎大将軍・ 司空 公・冀州刺史を追贈され、開国伯はそのままとし、帛四百匹を賜り、 諡 して孝穆といった。三年、さらに尚書右 僕射 を追贈した。四子があった。
長子の盧斐は、武定年間、文襄王の大将軍府掾であった。
斐の弟の盧筠は、青州治中であった。
同の兄の盧靜は、太常丞であった。
靜の子の盧景裕は、儒林伝にある。
張烈
張烈は字を徽仙といい、清河郡東武城県の人である。高祖(孝文帝)が烈という名を賜い、なお本来の名を字とした。高祖の張悕は、 慕容 氏の尚書右僕射であった。曾祖の張恂は 散騎常侍 となり、慕容徳に従って南渡し、これにより齊郡の臨淄に居住した。烈は幼くして孤貧となり、経史に渉猟し、気概があった。時に青州に崔徽伯・房徽叔がおり、烈と共に令誉があり、当時の人は「三徽」と号した。高祖の時、代都に入って官に就き、侍御・主文中散を歴任した。 洛陽 に遷都すると、尚書儀曹郎・彭城王功曹史・太子歩兵 校尉 に任ぜられた。
蕭寶卷が陳顯達に漢南で兵を治めさせ、侵入を謀ろうとした。時に順陽太守王青石は代々江南に官し、荊州刺史・広陽王元嘉は彼に異心あるを慮り、表して代わる者を請うた。高祖は侍臣に各々知る所を挙げさせたが、互いに申し薦ぐる者あり。高祖曰く、「此の郡は今必ず争うべきの地なり、須らく堪えて済うべきの才を得べし、何ぞ汎く挙ぐるを容れんや。太子歩兵張烈は毎に軍国の事を論ずるに、時に人の意に会する処あり、朕之を用いんと欲す、如何。」彭城王元勰之を称賛し、遂に勅して陵江将軍・順陽太守を除す。烈郡に到ること二日、便ち宝卷の将崔慧景に攻囲せられ、七十余日、烈将士を撫厲し、甚だ軍人の和を得たり。会に車駕南討し、慧景遁走す。高祖親しく烈を労して曰く、「卿定めて可なり、遂に能く寄する所に負かず。」烈拝謝して曰く、「若し鑾輿の親駕に値せずんば、臣将に犬羊に困るるを免れざらん。是れ自ら陛下の臣に負かざるなり、臣の能く陛下に負かざるに非ず。」高祖其の対を善しとす。
世宗即位し、先勲を追録し、清河県開国子に封じ、邑二百戸。尋いで母老を以て帰養す。十余年を積み、頻りに凶儉に値う。烈粥を為して飢人に食わしめ、蒙り済うる者甚だ衆し、郷党此を以て之を称す。粛宗の初め、龍驤将軍・ 司徒 右長史を除す。又転じて征虜将軍・ 司空 長史と為る。是に先立ち、元叉の父江陽王元継曾て青州刺史と為り、及び叉権を当つるに及び、烈故義の懐に託し、遂に相諂附す。前将軍・給事黄門侍郎を除し、尋いで平南将軍・光禄大夫を加う。後、霊太后政に反り、烈を叉の党と以て、出でて鎮東将軍・青州刺史と為す。時に議者、烈の家産畜殖し、僮客甚だ多きを以て、其の怨望を慮り、本州に出づるに宜しからずとし、改めて安北将軍・瀛州刺史を授く。政を為すに清静にして、吏民之に安んず。
更満して朝に還り、因りて老を辞して郷里に還る。兄弟同居して怡怡然たり、親類に慕わるる所と為る。元象元年、家に卒す。時に年七十七。烈先に家誡千余言を為し、 并 せて自ら志行及び歴官する所を叙し、臨終に子姪に勅して贈を求めしめず、但だ家誡を勒して碣を立つのみとす。其の子質奉行す。
質は博学にして才芸多し。解褐して奉朝請、員外郎・龍驤将軍・諫議大夫。未だ爵を襲がず。興和年中、家に卒す。
質の弟登は、州主簿。
烈の弟僧晧は、字は山客。群書に歴渉し、談説に工にして、当世に名有り。熙平初め、徴されて諫議大夫と為る。正光五年、国子博士を以て之を徴す。孝昌二年、徴されて散騎侍郎と為る。 并 びに赴かず。世号して徴君と為す。産業を営むを好み、孜孜として已まず、鏹を蔵むること巨万、他の資も亦之に称す。兄弟自ら供するは儉約にし、車馬は瘦弊し、身は布裳を服すれども、婢妾は紈綺なり。僧晧は尤も蒲弈を好み、戯れに人を択ばず、是を以て世に譏らるることを獲たり。前廃帝の時、崔祖螭兵を挙げて東陽城を攻む。僧晧之に同ず。事敗れ、獄に死し、家産を籍没す。出帝の初め、訴えて復業す。子軌は、州主簿。
【論】
史臣曰く、盧同は質器洪厚にして、巻舒兼ねて済う。張烈は早く名輩に標し、気尚見知らる。趨捨深沉にして、倶に顕達に至り、雅道正路、其れ殆んど諸れを病めり。
校勘記