崔休
崔休は、 字 を惠盛といい、清河の人であり、御史中丞崔逞の玄孫である。祖父の崔靈和は、劉義隆に仕えて員外散騎侍郎となった。父の崔宗伯は、世宗(宣武帝)の初年に、追贈で清河太守となった。崔休は幼くして孤貧であったが、気骨を奮い起こして自立した。秀才に挙げられ、京師に入り、 中書 郎の宋弁・通直郎の邢巒と高雅な交友を結んだ。 尚書 の王嶷はその人望を欽慕し、長子のために崔休の姉を娶り、財貨を与えたので、これによってやや振るうようになった。高祖(孝文帝)は崔休の妹を嬪妃に納れ、彼を尚書主客郎とした。通直正員郎に転じ、給事黃門侍郎を兼ねた。崔休は学問を好み、書史に広く通暁し、公務や軍旅の合間にも手から書物を離さず、先達を尊崇し、後進を愛して接し、常に高祖の侍席に参じ、礼遇は宋弁・郭祚の輩に次いだ。
高祖が南征したとき、北海王元詳を尚書 僕射 とし、留臺の事務を統轄させ、崔休を尚書左丞とした。高祖は崔休に詔して言った、「北海王は年少で、まだ政務に熟達していない。百官の事務は、そなたに委ねる」。長史に転じ、給事黃門侍郎を兼ねた。後に車駕に従って南行した。車駕が還るに及び、彭城に行幸し、泗水に舟を浮かべたとき、詔により侍筵に在り、見る者はこれを栄誉とした。
世宗(宣武帝)の初め、崔休は弟が亡くなり、祖父の葬儀が未だ済んでいないことを理由に、固く勃海郡を求めたので、そこでこれを授けた。性質は厳明で、よく治体に長け、着任するとまず豪猾な者数人を誅戮し、広く耳目を張り巡らせ、所在の姦盗をことごとく捕らえ剪除したので、百姓はこれを畏れ、寇盗は止み息んだ。身を清くして下を率い、勃海は大いに治まった。当時、大儒の張吾貴が山東に盛名を有し、四方の学士が皆宗慕し、弟子が遠方から至る者は常に千余人を数えた。生徒が既に多く、所在で多く容れられなかった。崔休はそこで俎豆を設け、招き延べて礼遇し、学業を修めさせて帰らせたので、儒者はこれを口実として称えた。
入朝して吏部郎中となり、 散騎常侍 に遷り、選任の職務を権兼した。崔休は才を愛し士を好み、多くを抜擢した。広平王元懷がしばしば引いて談宴したので、世宗は諸王と交遊したことを責めて、官を免じた。後に龍驤將軍・洛州 刺史 を授かった。州に数年いて、母が老いたことを理由に州を辞し、許された。まもなく幽州の事務を行い、 司徒 右長史に徴されて拝された。崔休は聡明で強力に事を成し、よく断決を善くし、幕府は多事で、訴訟が机に満ちたが、剖判は流れるが如く、少しも疑滞がなく、これに公平清潔を加え、当時の評判を大いに得た。再び吏部郎中を授かり、征虜將軍・冀州大中正を加えられた。光禄大夫に遷り、河南尹を行った。肅宗(孝明帝)の初め、即真し、平東將軍を加えられた。まもなく平北將軍・幽州刺史を授かり、安北將軍の号を進められた。安東將軍・青州刺史に遷った。青州九郡の民、單𢶏・李伯徽・劉通ら一千人が、上書して崔休の徳政を訴え、霊太后はこれを良しとした。崔休は幽州・青州に五六年在任し、皆清白で民を愛し、声績が甚だ顕著で、二州はその徳沢を懐き、百姓はこれを追思した。
安南將軍・度支尚書に徴され、まもなく撫軍將軍・七兵尚書の号を進められ、また殿中尚書に転じた。崔休は久しく臺閣に在り、典禮に明るく習熟し、朝廷に疑議があるごとに、皆その正すところを取った。諸公は皆互いに言った、「崔尚書が下した意見のところは、我らは異を唱えられない」。正光四年に卒去した。享年五十二。賵賻として帛五百匹を賜り、車騎將軍・尚書僕射・冀州刺史を追贈され、 諡 して文貞侯といった。
崔休は若い頃から謙虚で控えめであり、母に仕えること孝順で謹厳であった。尚書となってからは、子の仲文が丞相元雍の第二女を娶り、娘は領軍元叉の長庶子で秘書郎の元稚舒に嫁ぎ、二家の勢力を恃み、志気が少し変わり、内には自得の心があり、外には同列を陵駕した。 尚書令 の李崇・左僕射の蕭寶夤・右僕射の元欽は、皆元雍・元叉の縁 故 のため、常に彼を憚って下った。初め崔休の母の房氏は、崔休の娘をその外孫の邢氏に嫁がせようとしたが、崔休は望まず、母の心情に背いて、元叉の子に嫁がせたので、議する者はこれを非とした。崔休に九人の子があった。
長子の崔㥄は、字を長儒という。武定年間(東魏)、七兵尚書・武城縣開國公となった。
崔㥄の弟の仲文は、 散騎常侍 となった。
仲文の弟の叔仁は、性質が軽侠で、信約を重んじた。通直散騎侍郎・ 司徒 司馬・ 散騎常侍 を歴任し、出て驃騎將軍・潁州刺史となった。貪汙の罪で御史に弾劾された。興和年間(東魏)、邸宅で死を賜った。刑に臨み、諸弟に詩を賦って訣別したが、兄には言及しなかった。兄があまり営救しなかったためである。
叔仁の弟の叔義は、孝莊帝の時に尚書庫部郎であった。兄の崔㥄の銭鋳造の事が発覚したことに連坐し、一家揃って逃逸したが、数日後、叔義は遂に捕らえられた。当時、城陽王元徽が司州牧であり、臨淮王元彧は彼自身の罪ではないとして、しきりに言葉を致したが、元徽は従わず、ついに彼を殺した。
叔義の弟の子侃は、位階を窃取して中書郎となったが、尚書左丞の和子岳に弾糾され、官を失った。後に通直常侍を兼ね、蕭衍のもとに使いし、帰還の途上、病没した。
子侃の弟の子聿は、武定末年(東魏)、東莞太守となった。卒去した。
子聿の弟の子約は、開府祭酒となった。
崔休の弟の夤は、字を敬禮という。太子舍人となり、早世した。楽安太守を追贈された。妻は、安楽王元長樂の女の 晉 寧公主であり、貞烈で徳行があった。
子の長謙は、学問を好み修養を積み、若くして美名があった。給事中に仕え、やがて郷里に帰った。久しくして、刺史の尉景が召し出して開府諮議参軍事とした。晩年は酒によって身を損なうことが多かった。天平年間、召されて主客郎を兼ね、蕭衍の使者張臯らを応接した。後に 散騎常侍 を兼ね、蕭衍のもとに使した。帰還の途上、宿 豫 で卒し、当時の人々はこれを嘆惜した。王事に殉じたとして、驃騎将軍・南青州刺史を追贈された。
裴延儁
裴延儁は、字を平子といい、河東郡聞喜県の人で、魏の冀州刺史裴徽の八世孫である。曾祖父の天明は、諮議参軍・ 并州 別駕であった。祖父の双虎は、河東太守であった。卒し、平遠将軍・雍州刺史を追贈され、諡は順といった。父の崧は、州主簿となり、平陽郡の事務を代行した。蜀の賊丁虫を平定した功績により、東雍州刺史を追贈された。
延儁は幼くして父を失い、後母に仕えて孝行で知られた。経書史書に広く通じ、文才に優れていた。秀才に挙げられ、射策で高第となり、著作佐郎に任じられた。尚書儀曹郎に遷り、殿中郎・太子洗馬に転じ、さらに本邑の中正及び太子友を兼ねた。太子恂が廃されると、宮官の例により免官となった。ほどなく、 太尉 掾に任じられ、太子中舎人を兼ねた。世宗(宣武帝)の初め、散騎侍郎となり、まもなく雍州平西府長史に任じられ、建威将軍を加えられ、中書侍郎として召された。
当時、世宗は仏典に専心し、儒教の経籍を顧みなかった。延儁は上疏して諫めて言った。「臣は聞く、堯は文思があり、欽明で古を考へ、媯舜は道を体し、典を慎みて聖となす。漢の光武帝は神叡にして、軍中に書を読み、魏の武帝は英規あり、馬上にて典籍を玩ぶ。先帝(孝文帝)は天縱の多能、文にも武にも優れ、遷都を営み征伐を謀るにも、手から書巻を放さなかった。まことに経史の義は深く、補益するところ広大であるため、たとえ労苦があっても、一時も止めることはできないのである。これは前代の帝王の美しい実績であり、後代の帝王の水鏡(鑑)であって、善は遵うに足り、悪は戒めるに足るものである。陛下は道を悟ること深く、淵の如き鑑識を独り得て、宸闈(宮中)に法座を昇らせ、日宇(天下)に覚善(仏法の善)を解き明かされ、聴き目を注ぐ者すべて、塵の蔽いが開かれる。しかし五経は世を治める模範、六籍は俗を導く根本であり、物を訓えるには漸進があり、時に対応するには妙なるものばかりではない。必ず粗きを先にし精しきを後にし、近きに乗じて遠きに至らねばならない。伏して願わくは、経書を玄覧され、孔子の教えと釈迦の教えを兼ね存ぜられ、内(仏教)外(儒教)ともに周くし、真(出世間)俗(世間)ともに 暢 ならしめられんことを」。
後に司州別駕に任じられ、鎮遠将軍を加えられた。明堂建立の詔が下り、群官が広く議論した際、延儁は独自に一堂の論を著した。 太傅 ・清河王元懌が当時議論を統率していたが、読んで笑って言った。「君は 故 と僕射(かつての議論)に遠く符合させようとするのか」。太子中庶子を兼ね、まもなく正任となり、別駕は元のままで、冠軍将軍を加えられた。肅宗(孝明帝)の初め、 散騎常侍 に遷り、起居注を監修し、前将軍を加えられ、さらに平西将軍を加えられ、廷尉卿に任じられた。平北将軍・幽州刺史に転じた。
范陽郡には旧督亢渠があり、長さ五十里、漁陽燕郡には旧戾陵諸堰があり、広さ三十里あった。いずれも長く廃毀し、修復する者もなかった。当時水旱不順で、民は多く飢えていた。延儁は旧跡を疏通すれば、必ずや成し遂げられると考え、上表して営造を請うた。自ら足を運び、水勢を測量し、力に応じて分担監督し、間もなく完成した。百万余畝の田を灌漑し、利益は十倍となり、百姓は今日に至るまでこれを頼りにしている。また主簿の酈惲に命じて学校を修築興起させ、礼教が大いに行われ、民は歌謡を詠んだ。州に在ること五年、考課の成績は天下で最も優れていた。
延儁の継母は延儁に従って薊におり、重い病にかかった。延儁は上啓して母に侍して都に戻り治療することを求めた。都に着いて間もなく、太常卿に任じられた。当時、汾州の山胡が険阻を恃んで寇窃し、正平・平陽の二郡が特に被害を受けたため、延儁は尚書を兼ね、西北道行臺とされ、胡討伐の諸軍を節度することとなった。まもなく病気にかかり、勅命により帰還した。三鵶の群蛮が寇掠して止まず、車駕(皇帝)が親征しようとした。延儁は病中ながら上疏して諫争した。まもなく七兵尚書・安南将軍に任じられ、殿中尚書に転じ、中軍将軍を加えられ、 散騎常侍 ・中書令・御史中尉に転じた。また本官のまま 侍中 ・吏部尚書を兼ねた。延儁は台閣(中央官庁)にあっては、職務を守るだけで、裁断して直(正)しく法を適用することはできなかった。莊帝(孝荘帝)の初め、河陰で害に遇った。 都督 雍岐豳三州諸軍事・儀同三司・本将軍・雍州刺史を追贈された。
子の元直は、尚書郎中であった。元直の弟の敬猷は、員外常侍であった。兄弟ともに学識と志操があり、父と同時に害に遇った。元直には光州刺史が追贈された。敬猷の妻は、丞相・高陽王元雍の外孫であったため、格別に尚書僕射が追贈された。
延儁の従叔の桃弓も、また郷里で称えられた。
子の夙は、字を買興といい、沈着高雅で器量識見があった。風采威儀は非常に立派で、高祖(孝文帝)はこれを見て異才と認めた。 司空 主簿から、尚書左主客郎中に転じた。当時、吏部尚書の任城王元澄は人を見抜く鑑識があり、しばしば夙を賞賛し、遠大な前途を約束した。高祖が南伐した際、行台吏部郎となり、まもなく征北大将軍穆亮の従事中郎に任じられた。河北太守に転じ、忠恕をもって下に接し、百姓はこれに感激した。郡において卒し、年四十三。
長子の範は、字を宗模といった。早世した。
範の子の凝は、字を長儒といった。武平鎮将の任で卒した。
範の弟に昇之・鑒がいる。武定の末、昇之は太尉掾、鑒は 司徒 右長史であった。
延儁の従祖弟の良は、字を元賓といった。奉朝請として起家し、北中府功曹参軍に転じた。世宗の初め、南絳県令となり、しだいに 并 州安北府長史に遷り、中散大夫として召され、尚書考功郎中を領した。
時に汾州吐京の群胡薛羽らが叛逆を起こし、良を尚書左丞を兼ねさせ、西北道行臺とした。別将李徳龍が羽に敗れた折、良は汾州に入り、刺史汝陰王景和及び徳龍とともに兵数千を率い、城に拠って自ら守った。賊は力を併せて攻め迫り、詔して行臺裴延儁、大 都督 章武王融、 都督 宗正珍孫らを派遣して救援に赴かせた。時に五城郡の山胡馮宜都・賀悦回成らが妖妄をもって衆を惑わし、帝号を仮称し、素衣を着け、白傘白幡を持ち、諸逆徒を率いて、雲台郊において王師に抵抗した。融らはこれと戦って敗績し、賊は勝に乗じて城を包囲した。良は将士を率いて出戦し、これを大破し、陣中において回成を斬り、さらに諸胡を誘導して宜都の首を斬って送らせた。また山胡劉蠡升は自ら聖術と称し、胡人はこれを信じ、皆相い影のごとく付き従い、旬日の間に逆徒は再び勢いを振るった。徳龍は城を抜くことを議し、良は許さず、徳龍らはやむを得ず止めた。景和が薨じ、良を汾州刺史とし、輔国将軍を加え、行臺はもと通りとした。 都督 高防が来援したが、再び百里候において敗れた。先に官粟を民に貸し、未だ収聚に及ばず、なお寇乱に遭った。この時至りて城民は大いに飢え、人相食うあり。賊は倉庫の空虚なるを知り、攻囲日々に甚だしく、死者は十三四に及んだ。良は飢餓に窮し、城人とともに西河に奔り赴いた。汾州の治を西河に置くは、良より始まる。時に南絳蜀の陳双熾らが衆を聚めて反し、自ら建始王と号し、大 都督 長孫稚・宗正珍孫らと相持して下らず。詔して良に州を解かせ、慰労使とした。太中大夫・本郡中正に転ず。
孝庄帝の末、光禄大夫を除す。尒朱栄の死後、栄の従子天光が衆を擁して関西にあり、詔して良に節を持たせ、安西将軍を仮し、潼関 都督 とし、また尚書を兼ね、河東・恒農・河北・宜陽行臺としてこれを備えさせた。前廃帝の時、征東将軍・金紫光禄大夫を除す。まもなく衛将軍に転じ、また 散騎常侍 ・車騎将軍・右光禄大夫を加え、驃騎将軍・左光禄大夫に転ず。出帝の末、汲郡太守を除す。孝静帝の初め、衛大将軍・太府卿。天平二年秋に卒す。時に年六十一。使持節・ 都督 雍華二州諸軍事・吏部尚書・本将軍・雍州刺史を贈り、諡して貞という。また重ねて侍中・驃騎大将軍・尚書僕射を贈り、余はもと通り。
子叔祉、武定の末、太子洗馬。
良の従父兄の子慶孫、字は紹遠。少にして孤となり、性倜儻にして然諾を重んず。員外散騎侍郎に初めて任官す。
正光の末、汾州吐京の群胡薛悉公・馬牒騰並びに自立して王と為り、党を聚めて叛逆を起こし、衆数万に至る。詔して慶孫を募人別将とし、郷豪を招き率い、戦士数千人を得てこれを討たしむ。胡賊は屡々来たりて逆戦し、慶孫は身士卒に先立ち、毎にその鋒を摧き、遂に深く雲台郊に入る。諸賊は更に相い連結し、郊西において大戦し、旦より夕に及び、慶孫は身自ら陣を突き、賊王郭康児を斬る。賊衆大いに潰る。勅して都に赴くを徴し、直後を除す。
後に賊また鳩集し、北は蠡升に連なり、南は絳蜀に通じ、凶徒転た盛んとなり、また慶孫を別将とし、軹関より入って討たしむ。斉子嶺の東に至り、賊帥范多・范安族らが衆を率いて来たりて拒ぎ、慶孫はこれと戦い、また多の首を斬る。乃ち深く二百余里に入り、陽胡城に至る。朝廷はこの地が山に被われ河を帯び、衿要の所なるを以て、粛宗の末、遂に邵郡を立て、因って慶孫を太守・仮節・輔国将軍・当郡 都督 とす。民は賊乱の後を経て、多く逃竄す。慶孫は務めてこれを安緝し、皆来たりて業に帰す。永安年中、朝に還り、太中大夫を除す。
尒朱栄の死するや、世隆が衆を擁して北に渡る。詔して慶孫を大 都督 とし、行臺源子恭とともに衆を率いて追撃せしむ。軍は太行に次ぐ。而して慶孫は世隆と密かに通じ、事泄れ、河内に追還してこれを斬る。時に年三十六。
慶孫は任侠気節あり、郷曲の壮士及び好事の者多く相い依附し、撫養すること皆恩紀あり。郡に在る日、歳凶飢饉に値い、四方の遊客常に百余りあり、慶孫は自ら家糧を以てこれを贍う。性は粗武ながらも、文流を愛好し、諸才学の士と皆相交結し、財を軽んじ義を重んじ、座客常に満ち、以て時に称せらる。
子子瑩、永安年中、太尉行参軍。
延儁の従祖弟仲規、少より経史を好み、頗る志節あり。奉朝請に起家し、侍御を領す。咸陽王禧が司州牧たりし時、主簿に辟し、仍って建興郡事を行わしむ。車駕が代より洛に還るに及び、郡境に次ぐ。仲規は供帳を備え路傍に朝す。高祖詔して仲規に曰く、「朕神畿を開置し、畿郡望重し。卿既に首めて司隷の美挙に応じ、復我が名邦を督す。何ぞ自ら致す能わんや」と。仲規対えて曰く、「陛下は神を窮め聖を尽くし、天に応じ民に順い、彼の玄壤を棄て、来たりて紫県に宅す。臣方に心力を罄し、馬を躍らせて呉会に至らんとし、功の帝籍に銘され、勲の王府に書かれるを冀う。豈に一郡のみならんや」と。高祖笑いて曰く、「卿必ずこの言に副わんことを冀う」と。車駕が河梁に達し、咸陽王を見て謂いて曰く、「昨汝が主簿を得て南道の主人と為し、六軍豊贍たり。元弟の寄せ、殊に望む所に副う」と。尋いで 司徒 主簿を除す。仲規の父が郷里に在りて疾病し、官を棄てて奔赴す。制に違えるを以て免ぜらる。久しくして、中山王英が義陽を征するに、統軍に引き、本資を復するを奏す。陳において戦没す。時に年四十八。河東太守を贈り、諡して貞という。子無し。弟叔義が第二子伯茂を以てその後と為す。伯茂は文苑伝に在り。
叔義もまた学行あり。高祖の末、兗州安東府外兵参軍を除し、累遷して太山太守と為り、政を為すこと清静にして、吏民これを安んず。 司空 從事中郎に遷る。正光五年夏に卒す。時に年五十七。征虜将軍・東秦州刺史を贈り、諡して宣という。
子景融、字は孔明、篤学にして文を属するを好む。正光の初め、秀才に挙げられ、射策高第し、太学博士を除す。永安年中、秘書監李凱が景融の才学を以て、著作佐郎を除するを啓し、稍く遷りて輔国将軍・諫議大夫と為り、仍って著作を領す。出帝の時、孝庄帝の諡を議し、事遂に行わる。時に詔して四部要略を撰せしめ、景融に専ら典せしむるも、竟に成ること無し。元象年中、儀同高岳が録事参軍と為す。弟景顔が劾されて廷尉の獄に下る。景融が選に入るに及び、吏部が郡に擬す。御史中丞崔暹に弾劾され、その貪昧苟進を云い、遂いに坐して官を免ぜらる。武定四年冬、病卒す。年五十二。景融は卑退廉謹にして、時に競うこと無し。才は学に称せずと雖も、緝綴倦むこと無く、文詞汎濫するも、理会する処寡し。所作の文章は別に集録あり。また 鄴 都賦・ 晉 都賦を造る。
景顔、頗る学尚あり。汝南王開府行参軍に起家す。孝庄帝の初め、広州防蛮別将と為り、漢広郡事を行ふ。元顥が洛に入るに及び、刺史鄭先護とともに州を拠りて起義し、事寧みて、爵保城子を賜う。軍功を以て稍く遷りて太尉從事中郎、転じて諮議参軍。孝静帝の初め、 司空 長史に徙り、官に在りて貪穢なり。武定二年、中尉崔暹に劾せられ、事廷尉に下り、疾に遇い獄中に死す。年四十五。
仲規の弟子伯珍は、襄威将軍・員外散騎郎・河西太守を歴任した。孝静帝の初め、平東将軍・ 滎陽 太守となり、官にて卒した。時に三十二歳。本官の将軍・雍州刺史を追贈された。
延儁の族子礼和は、員外散騎侍郎に初任し、謁者僕射に遷った。身長九尺、腰帯十圍あり、群衆の中にあって魁然として異彩を放った。出て陳留太守となり、金紫光禄大夫の任にて卒した。
延儁の族兄聿は、字を外興という。操り尚ぶところ貞く立つことにより、高祖に知られた。著作佐郎より出て北中府長史となった。時に高祖は聿と中書侍郎崔亮とが共に清貧なるを以て、幹禄を以て優遇せんと欲し、乃ち亮に野王県を帯させ、聿に温県を帯させた。時に人はこれを栄しとした。尚書郎に転じ、太尉諮議参軍に遷り、出て平秦太守となった。卒し、冠軍将軍・洛州刺史を追贈された。子の子袖は、関西にて歿した。
延儁の族人瑗は、字を珍宝という。太和年中、河北郡に分属された。幼くして孤貧であったが、清苦して自立し、太守司馬悦が召して中正とした。悦が別将となり、軍を率いて義陽を征した時、中兵参軍に引かれた。瑗は夙夜恭勤にして、悦に知られた。軍の還るとき、奉朝請に除され、転じて給事中・汝南王悦の郎中令となった。悦は散費常なく、国俸の初入する毎に、一日のうちに分賜して意を極めた。瑗は毎に例に随うも、恒に多くを辞し少なくを受け、悦の虚竭するを伺い、還来して奉貢した。悦は性理恒ならざりしも、然も相賞愛した。悦が太尉に遷ると、従事中郎を請い、 驍 騎将軍に転じた。粛宗の末、汝南太守として出るも行かず、太原太守に転じた。粛宗の崩ずるに属し、尒朱栄が初めて洛に赴かんと謀り、瑗はその事に預かり、五原県開国子に封ぜられ、邑三百戸を賜う。尋いで 并 州の事を行い、平北将軍・殷州刺史に転じた。孝静帝の初め、衛将軍・東雍州刺史に除された。興和元年に卒し、年七十三。
子の夷吾は、武定の末、徐州驃騎府の長流参軍となった。
袁翻
袁翻は、字を景翔といい、陳郡項の人である。父の宣は才筆あり、劉彧の青州刺史沈文秀の府主簿となった。皇興年中、東陽が平らぎ、文秀に随って国に入った。而して大将軍劉昶は毎にこれを提引し、その外祖淑の近親なりと言い、その府の諮議参軍袁済と宗を同じくせしめた。宣は時に孤寒にして、甚だ相依附した。翻兄弟が官顕となるに及び、済の子洸・演と遂に各々凌競し、洸らは乃ち公府を経て相排斥した。
翻は少にして才学を以て一時の美を擅にした。初め奉朝請となった。景明の初め、李彪が東観に在り、翻は徐紇に薦められ、彪が引いて著作佐郎を兼ねさせ、史事に参じさせた。紇が徙せられると、尋いで解かれた。後に 司徒 祭酒・揚烈将軍・尚書殿中郎に遷った。正始の初め、詔して尚書門下に金墉の中書外省にて律令を考論せしめ、翻は門下録事常景・孫紹、廷尉監張虎、律博士侯堅固、治書侍御史高綽、前軍将軍邢苗、奉車都尉程霊虬、羽林監王元亀、尚書郎祖瑩・宋世景、員外郎李琰之、太楽令公孫崇らと並びに議限に在った。又詔して太師彭城王勰、司州牧高陽王雍、 中書監 京兆王愉、前青州刺史劉芳、左衛将軍元麗、兼将作大匠李韶、国子祭酒鄭道昭、廷尉少卿王顕らをして預からしめた。後に 豫 州中正を除された。
この時、明堂辟雍を修めしむ。翻議して曰く。
後に辺戍の事を選ぶを議し、翻議して曰く。
母憂に遭い、職を去った。熙平の初め、冠軍将軍・廷尉少卿を除され、尋いで征虜将軍を加えられ、後に出て平陽太守となった。翻が廷尉たりし時、頗る不平の論あり、郡に之くに及び、甚だ自得せず、遂に思帰賦を作りて曰く。
神亀の末、冠軍将軍・涼州刺史に遷った。時に 蠕蠕 の主阿那瓌・後主婆羅門、並びに国乱を以て来降し、朝廷翻に安置の所を問う。翻表して曰く。
時に朝議これ是とす。
還り、吏部郎中を拝し、平南将軍・光禄大夫を加えられた。本官の将軍を以て出て斉州刺史となったが、政績多く無し。孝昌年中、安南将軍・中書令を除され、給事黄門侍郎を領し、徐紇と俱に門下に在り、並びに文翰を掌った。翻は既に才学名重く、又善く附会し、亦た霊太后に信待された。この時蛮賊充斥し、六軍将親しくこれを討たんとす。翻は乃ち上表して諫め止めしむ。後に蕭宝夤が関西にて大敗す。翻上表して西軍の死亡将士の為に哀を挙げ、存して還る者に並びに賑賚を加うるを請う。後に度支尚書を拝し、尋いで都官に転じた。翻表して曰く、「臣往昔門下に忝くし、帳幄に翼侍す。同時の流輩は皆以て左右を出離し、数階の陟を蒙る。唯だ臣は辞を奉ずるも、直ちに黄門を去るのみならず、今尚書となりて後、更に中書令の下に在り。臣の庸朽に於いて、誠に叨濫たり。これを倫匹に準ずれば、或いは未だ尽きざる有り。窃かに惟うに、安南と金紫とは、雖も異品の隔たり有れど、実に半階の校有り。之に尚書の清要を加え、位遇通顕なるを以てす。秩を準え資を論ずれば、少しく進むに加うるが如し。語望官を比すれば、人は易えんと願わず。臣自ら揆い自ら顧み、力極めてこれを求む。伏して願わくは天地成造し、始め有り終わり有り、臣の疲病を矜み、臣の骸骨を乞わんことを。願わくは安南・尚書を以て一の金紫に換えん」。時に天下多事、翻は外には閑秩を請うも、内には求進の心有り、識者これを怪しむ。ここにおいて、撫軍将軍を加えられた。
粛宗・霊太后曾て華林園に醼し、觴を挙げて群臣に謂いて曰く、「袁尚書は朕が杜預なり。この杯を以て元凱に敬属せんと欲す。今これを尽くせ」。侍座する者羨仰せざるは無し。翻は名位俱に重く、当時の賢達咸く推与す。然れども独り其の身を善くし、奬抜する所無く、後進を排抑し、其の己を凌ぐを懼る。論者これを鄙しむ。建義の初め、河陰にて害に遇い、年五十三。著す所の文筆百余篇、世に行わる。使持節・侍中・車騎将軍・儀同三司・青州刺史を追贈された。
嫡子の宝首は、武定年間に 司徒 記室参軍となった。
宝首の兄の叔徳は、武定末年に太子舎人となった。
袁翻の弟の袁躍については、文苑伝に記されている。
袁躍の弟の袁颺は、本州の治中・別駕、 豫 州冠軍府司馬を歴任して死去した。
袁颺の弟の袁昇は、太学博士・ 司徒 記室・尚書儀曹郎中・正員郎・通直常侍を歴任した。袁颺の死後、袁昇はその妻と私通した。袁翻は恥じて憤り、そのために発病したが、袁昇は終に止めず、当時の人々はこれを卑しく穢らわしいと蔑んだ。彼もまた河陰で害された。左将軍・齊州刺史を追贈された。
史評
史臣が曰く、崔休は立身に根本を有し、官に当たっては名声が著しく、朝廷の良臣である。裴儁の器量・業績・地位・声望には、称賛すべき点があるであろうか。袁翻は文才高く評価も重く、それは当時の才秀であったか。
校勘記