巻68

甄琛

甄琛は あざな を思伯といい、中山郡毋極県の人であり、漢の 太保 たいほう 甄邯の後裔である。父の凝は州の主簿であった。琛は幼少より聡明で悟りが早く、家門の内では兄弟と戯れふざけ、礼法に従って自らを律することはなかった。経書や史書を学び、文筆に長じていると称されたが、容貌は短小で醜く、風采は乏しかった。秀才に挙げられた。都に入って数年、囲碁に耽り日を過ごし、夜通し止まぬこともあった。手元の下僕に常に燭を持たせ、時に居眠りをすれば杖で厳しく打った。このようなことは一度や二度ではなかった。後に奴は痛みに耐えかね、琛に申し出た。「郎君はご両親のもとを離れ、京師で官に就かれたのでございます。もし読書のために燭を執るのであれば、この身に罪を負うことも辞しません。しかし囲碁のために日夜休むことなく、これが上京なさったお気持ちでしょうか。それなのに杖罰を加えられるのは、道理に合わぬのではございませんか」。琛ははっとして恥じ入り、許叡や李彪から書物を借りて研究し学び、見聞はますます優れたものとなった。

太和の初め、 中書 ちゅうしょ 博士に任ぜられ、諫議大夫に転じた。時に上奏することがあり、高祖に知られ賞賛された。通直散騎侍郎に転じ、本州の征北府長史として出向し、後に本州の陽平王元頤の衛軍府長史となった。世宗が即位すると、琛を中散大夫・兼御史中尉とし、通直 散騎常侍 さんきじょうじ に転じ、引き続き中尉を兼ねた。琛は上表して言うには、

詔して曰く、「民の利益はここにある。深く卿の陳べる所の如し。八座に付して可否を議し、聞かしむべし」。

司徒 しと ・録 尚書 しょうしょ 事の彭城王元勰、兼尚書の邢巒らが上奏して言うには、「甄琛の列挙する所は、言うべきことを豊かに備え、首尾一貫しており、非難すべき点はない。ただ、坐して談ずれば理は高くとも、実行すれば事は欠ける恐れがある。このため躊躇し、可とするには至らない。思うに、古来善く治める者は、皆その優れた道筋を明らかにし、遠大な道理を悟り、世を救うに当たっては、昇降して時宜に称していた。豊かであっても過剰にならず、倹約しても弊害を生じず、労役と養育を調節し、その中に備え、節約して足るを得、その性命を全うさせようとした。そうでなければ、君主は何の用があろうか。もしその生産に任せ、その啄食に随うならば、それは万物を芻狗とし、互いに有する所がなくなる。大道が去って以来、恩恵が生じ、下は上に奉じ、上は下に施し、卑高の理は睦まじい。しかし恩恵が交われば、救済の術も広がり、常に財が国に行き渡らず、恵みが民に厚くならないことを恐れる。故に多方にわたりその実情を明らかにし、法を立ててその志を行おうとする。山川から貨を取り立てるのは、民の貢納を軽くするためであり、関市に税を立てるのは、十分の一の蓄えを補うためである。これを取りあちらに与えるのは、己の利のためではなく、あちらを回してこちらに就けるのは、身のためではない。いわゆる天地の産物を集め、天地の民に恵みを施し、造物の富を借りて、造物の貧しきを救うのである。商賈の税を徴して軍戦に給し、四民に賦して軍国を賄う。取るも用いるも、それぞれに道理がある。この淵池を禁ずるのは、大官の御用に専らするためではなく、この匹帛を徴収するのは、後宮の資とするためではない。潤いが己に在らざれば、彼と我の理は一つであり、積んで散らすこと、何を惜しむことがあろうか。かつ税の本意は、求めるべき事があり、固より生民を救済せんと希うものであり、富を蓄え貨を蔵するためではない。そうでなければ、昔の君子はどうしてそうしたのであろうか。故に後世の経営も、これを改めることはなかった。先朝においても商議校定し、大小情実に基づき、降鑑の流れにより、塩禁復興の疑義が起こった。しかし施行以来、主管する者が多く怠り、出入りの間で事が法の如く行われず、ついに細民をして怨嗟せしめ、商販をして軽んじて議論せしめた。これは用いる者に方策がなかったのであり、興した者に誤りがあったのではない。朝廷の明識をして、その間に惑わしめ、今これを廃すれば、前の旨を失うことを恐れる。一行って一改めるのは、法を囲碁のように変えることになり、理の要を参酌すれば、前の様式に依るべきである」。詔して曰く、「塩を司る税は、古来からの通典である。しかし制度を興して民を利するのは、時代によって異なることもある。もし富民し教化を益するに足りれば、道理の在る所に従う。甄琛の上表は、まさに政を助け治に たす けるものである。その前の計略に従い、公私ともに宜しく、川の利が塞がれないようにせよ。尚書は厳に豪強を禁ずる制を為せ」。

詔して甄琛に八座の議事に参与させた。まもなく正しく中尉とし、常侍は元の如くとした。 侍中 じちゅう に遷し、中尉を領した。琛は眉を伏せて畏れ避け、貴遊を糾弾することができず、弾劾・処分するものは、多く下級官吏であった。当時趙脩は寵愛が盛んであり、琛は身を屈めてこれに仕えた。琛の父の凝は中散大夫、弟の僧林は本州の別駕であったが、皆趙脩に託して取り次ぎを求めた。趙脩の姦詐な事が露見し、明日に収監・拷問されることになった今日になって、ようやくその罪を挙げたのである。また趙脩の鞭打ちの刑の監決に当たっても、なお隠れて哀れみを感じたが、人に告げて言うには、「趙脩は小人で、背中は土牛のようだ。実によく鞭杖に耐えるものだ」。識者はこれをもって非難した。趙脩が死んだ翌日、琛は黄門郎の李憑と共に朋党の罪で尚書省に召喚され、兼尚書の元英・邢巒がその阿附の様子を厳しく追及した。かつて琛が官を拝した時、賓客が皆集まったが、邢巒は遅れて来た。琛は巒に言った、「卿はどこで蛆を放ってきたのか、今晩になってようやく顧みるのか」。戯れ言とはいえ、巒は顔色を変えて恨みを抱き、この時、大いに推問・窮究した。 司徒 しと 公・録尚書事の北海王元詳らが上奏して言うには、「臣聞く、党人の患いは、古来忌み嫌われるものである。政の忌む所は、寵愛されていても必ず誅する。皆天下の至公を存し、霊基を永業に保つためである。伏して惟うに、陛下は聖なる前暉を継ぎ、幽暗な悪を深く照らし、近習への恩を断ち、憲軌を新たにし、大政は蔚然として光を増し、鴻猷はここに於いて永く安泰である。謹んで案ずるに、侍中・領御史中尉の甄琛は、直法の身に居り、糾弾摘発を司どるべきである。風俗が邪で響きが濁っても、なお弾劾糾挙すべきである。ましてや趙脩の奢侈暴虐は、内外に声名が著しく、公を侵し私を害し、朝野ともに切歯している。しかるに琛はかつて陳奏せず、かえって往来し、密に結び付き、朋党を為し、内外に影響して、その談誉を招いた。布衣の父をして、正四品の官に超登させ、七品の弟をして、三階の禄を越えて陟らせた。先皇の選典を損ない、聖明の官人を汚した。また武衛将軍・黄門郎の李憑と相表裏し、憑の兄が不当に封を受けたことを知りながら言わなかった。趙脩の罪悪が顕わになってから、ようやく弾奏を加えたのである。生きている時はその形勢に附き、死ぬと即座にこれを排斥する。天の功を ぬす んで己の力と為し、上は朝廷を欺き、下は百官を あざむ く。その鄙陋詐偽、ここに於いて甚だしい。不実不忠、実に貶黜に合う。謹んで律に依りて徒刑を科し、職を除くことを請う。その父の中散大夫は、実に不当な越権であり、皇族帝孫といえどもこの例はない。既に倫理を得ざるを得たのであるから、収奪を下すことを請う。李憑は趙脩に朋附し、親しみ頼りとし、交遊の道は常度に依らず、あるいは朝晩従い就き、あるいは吉凶往来し、ついには自らその親を拝し、妻はその子に面会し、家事がある毎に必ず先ず請託した。皇風を汚し、正化を鄙陋ならしめる。これを糾さずして、どうして阿諛を粛正整え、忠概を奨励できようか。その居る官を免じ、風軌を粛正することを請う」。上奏は許可された。琛はついに免官されて本郡に帰り、左右で連座して死罪・免官となった者は三十余人に及んだ。

初め、琛は父母が年老いているため、常に官を解いて扶養することを願い出た。故に高祖は本州の長史を授けたのである。貴顕に達した後は、帰郷を請うことはなく、この時に至ってようやく帰り供養した。数年後、母の喪に遭う。母の鉅鹿曹氏は孝行の性があり、夫の家を去るに当たり、百里を超える道のりであったが、魚肉菜果など美味しい食べ物を得るたびに、必ず僮僕に走らせて母に捧げさせ、その後で自ら食した。琛は母の喪服が終わらないうちに、また父を喪った。琛は墓域の内に、自ら松柏を植え、厳冬の月に土を掘り水を運んだ。郷里の老人はこれを哀れみ、皆力を加えて助けた。十数年の中で、墳墓は完成し樹木は茂った。弟の僧林と共に、同居して生涯を終えることを誓った。産業に専念し、自ら農園に携わり、時に鷹犬を以て馳逐し自ら楽しんだ。朝廷に大事があると、なお上表して意見を述べた。

久しくして、再び 散騎常侍 さんきじょうじ ・領給事黄門侍郎・定州大中正を除かれる。大いに親寵を受け、門下の庶事を委ねられ、出ては尚書に参じ、入っては帷幄に侍した。甄琛は、高祖(孝文帝)の時に兼主客郎として、蕭賾(南斉の武帝)の使者彭城の劉纉を迎え送ったが、琛はその器貌を欽慕し、常にこれを歎詠した。纉の子の劉晣が朐山の戍主となり、晣が死ぬと、家属は 洛陽 らくよう に入った。その娘は年齢二十に満たず、琛は既に六十余歳であったが、遂に晣の娘を娶って妻とした。婚礼の日、詔により厨費が給され、琛は深くこれを好み喜んだ。世宗(宣武帝)の時にはこれを調戯した。盧昶が朐山で敗れると、詔により琛は駅伝を馳せて検按に赴いた。

河南尹に遷り、平南将軍を加えられ、黄門侍郎・中正の職は従前の通りであった。琛は上表して言うには、「詩経に『京邑翼翼、四方是則』(都は整然として、四方の模範となる)と称するのは、京邑は四方の根本であり、安危の所在であるから、清めざるを得ないのである。それゆえ国家が代( 平城 へいじょう )に居た時は、盗賊が多いことを患い、世祖太武皇帝が自ら発憤し、広く主司・里宰を設置され、皆下代の令長及び五等散男で経略ある者を以てこれに任じた。また多く吏士を置き、その羽翼とし、これを崇めて重んじたので、始めて禁止することができた。今、遷都して以来、天下は転じて広く、四方の遠方から赴会する者は、事代都を過ぎ、五方の雑沓、備え簡ぶること難く、寇盗公行し、劫害絶えず、これは諸坊が混雑し、整理比定が精でなく、主司が暗弱で、検察に堪えない故である。凡そ人に堅木を攻めさせる者は、必ずそのために良器を選ぶ。今、河南郡は陛下の天山の堅木であり、盤根錯節、乱れ植わっている。六部里尉は即ち堅木を攻める利器であり、貞剛精鋭でなければ、これを治めることはできない。今、尹を選ぶこと既に南金(優れた人材)ではなく、里尉は鉛刀(鈍い刀)で割ろうとし、都邑の清粛を望むことは得られない。里正は流外四品に過ぎず、職は軽く任は細かく、多くは下才であり、人は苟且を懐き、督察することができず、故に盗賊が姦を容れ、百賦の理を失わせる。辺境の外の小県は、領する所百戸に過ぎないのに、令長は皆将軍を以てこれに居る。京邑の諸坊は、大なるものは或いは千戸・五百戸あり、その中には皆王公卿尹、貴勢姻戚、豪猾僕隸がおり、姦徒を蔭養し、高門邃宇、干問すべからざるものがある。また州郡の侠客あり、貴遊に蔭結し、党を附し群を連ね、陰に市劫を為し、辺県に比べれば、難易同じからず。今、彼を難しとし此を易しとするは、実に未だ愜わざる所である。王者が法を立つるは、時に随い宜しきに従い、弦を改め調を易えるは、明主の急ぐ所である。先朝が品を立てたのは、必ずしも即時に定めるのではなく、施行して観察し、不便ならば改めるのである。今、閑官静任に在っては、猶お長兼を聴くのに、況んや煩劇の要務において、簡能して下領することを得ざるべきか。請う、武官の中、八品将軍以下で幹用貞済ある者を取り、本官の俸恤を以て、里尉の任を領せしめ、各々その禄を食ましめ、高き者は六部尉を領し、中き者は経途尉を領し、下き者は里正を領せしめよ。然らずんば、請う、里尉の品を少しく高め、下品の中、遷すべき応ずる者を選び、進めてこれと為さしめよ。そうすれば督責する所あり、輦轂清まるべし。」詔して曰く、「里正は勲品に進め、経途尉は従九品とし、六部尉は正九品とし、諸職の中から簡抜して取れ。何ぞ必ずしも武人を須いんや。」琛はまた奏上して、羽林を遊軍とし、諸坊巷において盗賊を司察せしめた。ここにおいて京邑は清静となり、今日に至るまでこれに倣っている。

太子少保に転じ、黄門侍郎は従前の通りであった。大将軍高肇が蜀を伐つに当たり、琛を使持節・仮撫軍将軍とし、歩騎四万を領して前駆 都督 ととく とした。琛は梁州の獠亭に駐屯したが、世宗(宣武帝)が 崩御 ほうぎょ したため、軍を返した。高肇が既に死ぬと、琛は肇の党であるとして、再び朝政に参ずるに宜しからずとし、出されて営州 刺史 しし とされ、安北将軍を加えられた。一年余りして、光禄大夫李思穆を以ってこれに代え、時に年六十五歳であり、遂に中山に留まり、久しくして乃ち洛陽に赴いた。鎮西将軍・涼州刺史を除かれたが、なお琛が高氏に昵近した者であるとして、内に処することを欲せず。尋いで召されて太常卿に拝され、仍って本将軍を以って出て徐州刺史となった。入朝して肅宗(孝明帝)に辞するに及んで、琛は老いを理由に辞し、詔により吏部尚書を除かれ、将軍は従前の通りであった。間もなく、征北将軍・定州刺史を除かれ、衣錦晝遊し、大いに称満された。治体は厳細であったが、甚だ声譽は無かった。崔光が 司徒 しと の授けを辞した時、琛は光に書を送り、外見は抑揚を加えていたが、内実は附会していた。光もまたその意を揣り、返書して褒美してこれを喜ばせた。車騎将軍・特進に徴され、また侍中に拝された。その衰老を以って、詔により御府の杖を賜い、朝直の際には杖を以って出入りした。

正光五年の冬に卒去した。詔により東園の秘器・朝服一具・衣一襲・銭十万・物七百段・蠟三百斤を給された。 司徒 しと 公・尚書左 僕射 ぼくや を追贈され、後部鼓吹を加えられた。太常が「文穆」と おくりな を議した。吏部郎袁翻が上奏して言うには、「礼を案ずるに、諡は行いの跡であり、号は功績の表れであり、車服は位の章である。それゆえ大行は大名を受け、細行は細名を受ける。行いは己より生じ、名は人より生ずる。故に棺を閉じて然る後に諡が定まる。皆その生時の美悪を累ね、以って将来の勧戒と為すのであり、身は死すとも、名を常に存せしめるのである。凡そ薨亡する者は、所属が即時に大鴻臚に言上し、本郡の大中正に移牒し、その行跡功過を条記し、中正が移牒を承けて公府に言上し、太常の部の博士に下して評議させ、諡を列上する。諡が法に応じない者は、博士は選挙実ならざるを論ずるが如く坐せられる。もし行状が実を失するならば、中正は博士の如く坐せられる。古より帝王は殷勤に重んじ慎み、以って褒貶の実と為さざるはない。今の行状は、皆その家より出で、その臣子に君父の行いを自言せしめ、再び是非を相い論ずる事無し。臣子の君父を光揚せんと欲するは、ただその跡の高からず、行いの美しからざるを苦にするのみ。是を以って極辞を肆にし、再び限量無し。その状を観れば、則ち周孔聯鑣し、伊顔接袵す。その諡を論ずれば、文を窮くし武を尽くすも、或いはこれに加わること無し。然るに今の博士は古と異なり、唯だその行状に依ることを知り、又先ずその家人の意を問い、臣子の求むる所、便ち議上し、都て復た斟酌与奪し、是非を商量せず。致す所、号諡の加わること、汎階と異なること無く、専ら極美を以って称と為し、復た貶降の名無し。礼官の失、一に此に至る。甄 司徒 しと の行状を案ずるに、至徳は聖人と蹤を斉しくし、鴻名は大賢と跡を比す。『文穆』の諡、何ぞ加えるに足らんや。但し比来の贈諡は、例により普く重く、甄琛の流れは、複諡せざる無し。謂う、宜しく諡法に依り『慈恵愛民を孝と曰う』とし、宜しく孝穆公と諡すべし。自今已後、明らかに太常・ 司徒 しと に勒し、行状此の如く、言辞流宕し、再び節限無き者は、悉く裁量を請い、受くることを聴かず。必ず人に準って諡を立て、甚だしく優越を加うること得ず。復た仍って前来の失に踵く者は、法司に付して科罪せよ。」詔はこれに従った。琛の祖載(葬送)に、肅宗は親しく送り、車を降りて輿に就き、弔服を着てこれを哭し、舍人を遣わしてその諸子を慰めた。琛は性軽簡で、嘲謔を好んだため、風望少なかった。然し明解で幹具あり、官に在っては清白であった。高祖・世宗より皆相知遇され、肅宗は師傅の義を以って礼を加えた。著した文章は、鄙碎で大體無く、時に理詣あるものあり、『磔四声』・『姓族廃興』・『会通緇素』の三論、及び『家誨』二十篇、『篤学文』一卷あり、頗る世に行われた。

琛の長子は侃、字は道正。郡の功曹となり、秘書郎として出仕した。性質は険薄で、多く盗賊と交際した。琛に従って京師に在り、酒色に耽り夜に洛水の亭舎に宿泊し、主人を殴打し、司州に弾劾され、州の獄に拘禁され、琛は大いに慚慨した。広平王元懐が州牧となると、元来琛と不協であり、詳細に審理して窮究しようとした。琛は側近を通じて上聞し、世宗は白衣の呉仲安を遣わして元懐に寛大な処置を命じたが、元懐は固執してこれを処断した。久しくして特旨により釈放された。侃はこれより沈淪し、家で卒した。

侃の弟は楷、字は徳方。粗く文学を有し、よく吏事を習った。太平年中、高祖頌十二篇を上進し、文は多く載せず、優詔をもって答えた。琛が上啓して秘書郎に任じた。世宗の崩御後未だ葬られず、楷は河南尹丞の張普惠らと飲酒遊戯し、官を免ぜられた。任城王元澄が 司徒 しと となると、公曹参軍に抜擢した。次第に尚書儀曹郎に昇進し、官職に相応しい称賛があった。

粛宗の末、定州刺史・広陽王元淵が召還されて朝廷に帰ると、時に楷は丁憂で郷里に在り、元淵は出発に臨み、楷を兼長史に召し、州の任を委ねた。間もなく鮮于脩礼・毛普賢らが北鎮の流民を率いて州の西北の左人城で反乱を起こし、村を屠り野を掠め、州城に向かった。州城の内には、先に燕・恒・雲三州の避難民がおり、皆市街の傍らに寄り添い、草廬を密集して住んでいた。脩礼らは声をあげてこの者らを収容し、共に挙兵しようと云った。既に外寇が迫り、内応を恐れ、楷は人情の不安を見て、変事の起こることを慮り、州人中の粗暴な者を皆捕らえて殺し、外賊を威嚇し、城民の心を固めた。刺史の元固・大 都督 ととく の楊津らが到着すると、楷は家に帰った。後、脩礼らは楷が北人を屠害したことを憤り、遂にその父の墓を掘り、棺を載せて城を巡り、報復を示した。

孝莊帝の時、中書侍郎に召された。尒朱栄の死に際し、帝はその郷里の義兵を率いるに堪えるとし、試守常山太守に任じ、絹二百匹を賜った。出帝の初め、征東将軍・金紫光禄大夫に任じ、衛将軍・右光禄大夫に転じた。斉の文襄王が儀同府諮議参軍に取り立てた。天平四年に卒し、年四十六。驃騎将軍・秘書監・滄州刺史を追贈された。

楷の弟は寛、字は仁規。員外散騎侍郎・本州別駕より、次第に 太尉 たいい 従事中郎・治書侍御史に昇進した。武定初、病を理由に郷里に帰り、家で卒した。

僧林は、郷里で終わった。

琛の従父弟は密、字は叔雍。清廉謹厳で嗜欲少なく、よく書史に通じた。太和年中、奉朝請となった。密は世俗の貪競を疾み、栄寵に乾没することを、曾て風賦を作って意を表した。後に中山王元英の軍事に参じ、元英が鍾離で敗退すると、郷人の蘇良が賊の手に陥ちたので、密は私財を尽くしてこれを贖った。蘇良が帰ると、資産を傾けて密に報いようとしたが、密は一切受けず、蘇良に謂って曰く「君を救った日、元より財貨を求めず、豈に相い贖うの意あらんや」と。

太尉鎧曹を歴任し、国子博士に転じた。粛宗の末、通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・冠軍将軍となった。時に賊帥葛栄が河北を侵擾し、裴衍・源子邕が敗没し、人情不安となり、詔により密を相州行臺とし、 ぎょう 城を守援させた。荘帝は密の鄴を全うした功績により、安市県開国子を賞し、食邑三百戸を与えた。平東将軍・光禄大夫に転じ、廷尉少卿を領し、間もなく征東将軍・金紫光禄大夫に転じた。孝静帝の初め、車騎将軍・廷尉卿となり、官に在って平直の誉れがあった。北徐州刺史として出向し、将軍は元の如し。興和四年に卒した。驃騎将軍・儀同三司・瀛州刺史を追贈され、諡して靖と曰う。

長子は儉、字は元恭。官は前将軍・太中大夫に至り、卒した。

儉の弟は賾、才学有り、また早く卒した。

張纂

琛の同郡の張纂、字は伯業。祖父は珍、字は文表、 慕容 ぼよう 宝の度支尚書。太祖が中山を平定し、国に入る。世祖の時、中書侍郎に拝された。真君元年、関右慰労大使。二年、使持節・鎮西将軍・涼州刺史に拝された。卒し、征東将軍・燕州刺史を追贈され、諡して穆と曰う。

纂はよく経史に通じ、雅やかに気節有り、勝流と交結した。太和年中、奉朝請として出仕し、次第に伏波将軍・任城王元澄の鎮北府騎兵参軍に昇進し、魏昌県令を帯び、吏民これを安んじた。後に北中府司馬となり、久しくして楽陵太守に任じられた。郡において多く収賄し、御史の到来を聞き、郡を棄てて逃走し、ここに除名され、乃ち卒した。天平初、使持節・ 都督 ととく 冀定二州諸軍事・驃騎将軍・定州刺史を追贈された。

纂の叔父は感、字は崇仁。器量才業有り、州郡の命に応じなかった。

子の宣軌、幼くして孤となり、母に事えて孝行で知られた。郡功曹・州主簿を歴任した。延昌年中、奉朝請・冀州征東府長流参軍として出仕し、相州中軍府録事参軍に転じ、定州別駕となった。後に鎮遠将軍・員外 散騎常侍 さんきじょうじ に任じられ、相州撫軍府司馬として出向した。宣軌は性質通達率直、財を軽んじ施しを好んだ。葛栄が城を囲んだ時、刺史李神と共に固守の功績があった。永安年中、功により爵を中山公と賜った。中興初、事に坐し、鄴で死した。子は子瑜。

纂の従弟の元賓は、太和十六年に奉朝請に出身し、員外郎・給事中に遷った。正光年間に中堅将軍・射声 校尉 こうい に除された。永安三年に卒した。永熙年間に、外甥の高敖曹が貴達し、持節・撫軍将軍・瀛州刺史を贈るよう上奏した。

子の辨は、天平年間に 司徒 しと 行参軍となった。

高聰

高聰は、字を僧智といい、もとは勃海郡蓨県の人である。曾祖父の軌は、慕容徳に従って青州に移り、北海郡の劇県に居住した。父の法昂は、劉駿の車騎将軍王玄謨の甥である。若くして玄謨に従って征伐し、軍功により員外郎に至った。早くに卒した。

聰は生まれて母を喪い、祖母の王氏が養育した。大軍が東陽を攻略すると、聰は平城に移され、蒋少遊と共に雲中の兵戸となり、窮乏して至らぬところがなかった。族祖父の允は彼を孫のように見て、大いに援助を与えた。聰は経史に渉猟し、頗る文才があり、允はこれを嘉して、しばしばその美を称え、朝廷に言上して、「青州の蒋少遊と従孫の僧智は、孤弱ではあるが、皆文情がある」と言った。これにより少遊と共に中書博士に拝された。十年を積み、侍郎に転じ、本官のまま高陽王雍の友となり、次第に高祖に知遇を得た。

太和十七年、兼員外 散騎常侍 さんきじょうじ として、蕭昭業のもとに使した。高祖が洛陽に都を定めると、聰らに詔を追って言った、「先に河陽で卿に命じたが、なお瀍水・洛水に至り、旧業を周覧して、依然として懐かしむものがある。固より先ずこれを営み、後に征伐に及ぼさんとした。かつ蕭賾の喪が間もないこと、使者を通じて昔のことを知り、危きに乗じて凶を幸いとするは、君子の取るところではない。ここをもって前図を止め、遠く来会を期し、六師を休め、三川を宅とし、将に成周に居を定め、永遠に皇宇を恢めんとする。今さらに璽書を造り、以て往詔に代え、先に命じたところは、宜しくこれに随って変え、皇華の任を善く勗め、指意に替えることなかれ」。使より還り、通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・兼太府少卿に遷り、兼太子左率に転じた。

聰は弓馬を少し習い、将として用いられることを自ら任じた。高祖は南討に意を鋭くし、専ら王肅に軍事を諮問した。聰は肅に託して偏裨として自ら効力せんと願い、肅が高祖に言ったので、輔国将軍を仮授され、兵二千を統率し、劉藻・傅永・成道益・任莫問と共に肅の節度を受け、ともに渦陽を救援した。しかし聰は躁急で臆病で威重に欠け、経過する地で淫掠無礼を行い、賊と交戦するや、風を見て退却敗北した。藻らと共に懸瓠に囚われたが、高祖は死を赦し、平州に徙して民とした。瀛州に至った時、刺史の王質が白兔を獲て献上しようとしたのに合わせ、聰に表文の作成を託した。高祖は表を見て、王肅を顧みて言った、「下僚にどうしてまたこのような才がありながら、朕に知らせないのか」。肅が言うには、「近ごろ高聰が北に徙されましたが、この文はあるいはその作かもしれません」。高祖は悟って言った、「必ずそうであろう、どうしてまたこのような輩がいるはずがあろうか」。

世宗の初め、聰は密かに京師に還った。六輔が廃されたのは、聰の謀であった。世宗が親政すると、給事黄門侍郎に除され、輔国将軍を加えられた。 散騎常侍 さんきじょうじ に遷り、黄門の官は元の通りとした。世宗が鄴に行幸し、河内郡懐県の地から還る時、帝自ら矢を射て一里五十余歩に及んだ。侍中の高顕らが奏上して言った、「伏して見るに、親しく弧矢を御し、原に臨みて遠くを弋り、弦動きて羽馳せ、矢鏃の逮ぶところ三百五十余歩。臣ら伏して惟うに、陛下は聖武天に自らし、神藝夙に茂り、巧みに騶虞の節に会し、妙に矍圃の儀を尽くす。威稜重なり、甝兇気を懾れ、才猛振るうところ、勁憝心を弭ぎ、以て九区を粛截し、八宇を赫服するに足ります。盛事奇跡は必ず宜しく表述すべく、請うらくは射宮に銘を勒し、永く聖藝を彰わさん」。詔して言った、「これは弓弧の小藝に過ぎず、何をもって後葉に示すに足りよう。しかし喉脣の近侍が苟くも然りと為すなら、また豈に異を容れんや、便ち請の如くすべし」。遂に射所に銘を刊し、聰がその詞を作った。

趙脩が寵愛を受けると、聰は深く朋党として附いた。詔が脩の父を追贈するに及び、聰が碑文を作り、出入りに同車し、碑石を視察した。聰は脩に会うたびに、迎え送りに礼を尽くした。聰はまた脩のために表を作り、当時の便宜を陳べ、自ら安んずる術を教え、これにより互いに親狎した。脩が死ぬと、甄琛・李憑は皆罷免されたが、聰も深く危惧した。しかし聰は先に疎宗の情をもって、曲って高肇に仕え、遂に自ら免れることを得たのは、肇の力であった。脩が権勢を任せるときは、聰は身を傾けてこれに仕え、脩の死に及んでは、言うこと必ず悪しきことを毀った。茹皓が寵愛を受けると、聰はまた媚び附き、互いに招き命ずるごとに、言笑して手を携え、公私の託け仗つところ、至らぬところがなかった。しばしば皓の才識明敏を称え、趙脩の輩ではないと言った。そこで皓に因って青州鎮下の治中公廨を啓請し、私宅と為し、また水田数十頃を乞い、皆遂に許された。皓が誅戮されるに及んで、聰はその死が遅すぎたと思った。その情義に薄いことは、皆この類いであった。

侍中の高顕が護軍に出任すると、聰は転じてその職を兼ね、当時顕の兄弟は聰が間に入って構えたと疑ってこれを求めた。聰が兼職すること十余旬、機要に出入りし、言うこと即ち真実を述べ、遠慮がなかった。貴きに藉り権に因り、声色に耽り、賄賂収納の音は遠近に聞こえた。中尉の崔亮は肇が微かに恨んでいることを知り、遂に面と向かって聰の罪を陳べ、世宗は聰を平北将軍・ 并州 へいしゅう 刺史として出した。聰は去就に巧みで、肇が自分を嫌っていることを知り、側身して承奉したので、肇は遂に旧の如く遇した。聰は へい 州に数年おり、多く法に従わず、また太原太守の王椿と隙があり、再び大使・御史に挙奏されたが、肇は毎に宗族の私情をもって相援け、事は寝て緩やかになった。世宗の末、 散騎常侍 さんきじょうじ ・平北将軍に拝された。

肅宗が 践祚 せんそ すると、その素より高肇に附いていたことを以て、幽州刺史として出され、将軍は元の通りとした。まもなく高肇の党与として、王世義・高綽・李憲・崔楷・蘭氛之と共に中尉の元匡に弾劾されたが、霊太后は皆特にこれを原宥した。聰は遂に家に停廃し、人事を断絶し、ただ園果を修営し、声色をもって自ら娯しんだ。久しくして、光禄大夫に拝され、安北将軍を加えられた。聰は心中、中書令を望み、その後青州刺史として出ることを願ったが、願いは遂に果たされなかった。正光元年夏に卒し、年六十九。霊太后はその病を聞き、主書を遣わして問わせた。聰は使者に対し、歔欷慟泣した。その死を聞くと、嗟悼すること良久く、「朕は既に福なく、大臣が殞喪した。かつ彼は朕の父と南征し、戎旅に契闊した。特に感念すべきである」と言った。賻として布帛三百匹・氷一車を賜った。撫軍将軍・青州刺史を贈り、諡して献といった。聰は妓十余人を有し、子の有る無しにかかわらず皆籍に注して妾とし、その情を悦ばせた。病に及んで、他人に得られまいとして、皆に指を焼き炭を吞ませ、出家して尼とさせた。聰の作った文筆二十巻があり、別に集がある。

子の長雲は、字を彦鴻という。秘書郎・太尉主簿より起家し、次第に輔国将軍・中散大夫に遷った。建義初め、河陰で害に遇った。安東将軍・兗州刺史を贈られた。

長雲の弟の叔山は、字を彦甫という。 司徒 しと 行参軍となり、次第に寧朔将軍・越騎 校尉 こうい に遷った。卒し、太常少卿を贈られた。

【評】

史臣曰く、甄琛は学問として刀筆を尚び、早くに声名を樹て、三朝に遇を受け、終に崇重に至った。高聰は才が知られ、名位は顕著であった。しかし軌を異にしながらも同じく奔り、皆危覆の轍を経た。惜しいことである。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻68