崔光は、本名を孝伯といい、 字 は長仁、高祖(孝文帝)が名を賜ったものであり、東清河郡鄃県の人である。祖父の崔曠は、 慕容 徳に従って南に黄河を渡り、青州の時水に居住した。慕容氏が滅びると、劉義隆(宋の文帝)に仕えて楽陵太守となった。父の崔霊延は、劉駿(宋の孝武帝)の龍驤将軍・長広太守であり、劉彧(宋の明帝)の冀州 刺史 崔道固とともに国軍(北魏軍)に抵抗した。
慕容白曜が三斉を平定した時、崔光は十七歳で、父に従って代( 平城 )に移住した。家は貧しかったが学問を好み、昼は耕作し夜は書を誦し、書写の仕事をして父母を養った。太和六年(482年)、 中書 博士に任ぜられ、著作郎に転じ、秘書丞李彪とともに国史の編纂に参与した。中書侍郎・給事黄門侍郎に昇進し、高祖(孝文帝)の知遇を大いに受けた。常に「孝伯の才は、浩浩として黄河の東に注ぐが如く、まさに今日の文宗である」と言った。遷都の謀略に参賛した功により、朝陽子の爵位を賜り、 散騎常侍 に任ぜられ、黄門侍郎・著作郎の職はそのままとし、さらに太子少傅を兼ねた。まもなく本官のまま 侍中 ・使持節を兼ね、陝西大使となり、地方を巡視して実情を省察し、経由地の古事を叙述して、それにより詩三十八篇を賦した。帰還後も引き続き侍中を兼ね、謀謨の功により爵位を伯に進めた。
崔光は若い頃から度量が大きく、喜怒を色に表さず、自分を誹謗悪罵する者がいれば、必ず善言をもって報い、誣告や誹謗を受けても、終始自ら曲直を弁明しようとはしなかった。皇興(献文帝の年号)の初め、同郡の二人がともに捕らえられて奴婢となったが、後に崔光のもとに来て哀願した。崔光は二人の身代金を払って解放した。高祖はこれを聞いて賞賛した。機密に近い地位にあっても、文書案牘に心を留めることはなく、ただ悠揚として議論し、大政を参賛するのみであった。高祖はしばしば群臣に対し「崔光の高才大量をもってすれば、もし意外の咎めや譴責がなければ、二十年後には 司空 となるであろう」と言った。そのように重んじられたのである。また、高祖の車駕に従って陳顕達を撃破した。世宗(宣武帝)が即位すると、正式に侍中に任ぜられた。
初め、崔光は李彪とともに国史を編纂していたが、太和の末年、李彪が著作の職を解かれると、史事は専ら崔光に委ねられた。李彪はまもなく罪を得て免官となった。世宗が諒闇(喪に服す期間)にある時、李彪は上表して『魏書』完成を請い、詔によって許され、李彪は白衣(無官)の身で秘書省において著述した。崔光は史官を領していたが、李彪が専功を意図していると考え、侍中・著作郎の職を解いて李彪に譲るよう上表したが、世宗は許さなかった。太常卿に転じ、斉州大中正を領した。
正始元年(504年)夏、 典 事史の元顕が四足四翼の鶏を献上した。詔により散騎侍郎趙邕が崔光に意見を求め、崔光は上表して答えた。
世宗はこれを見て大いに喜んだ。数日後、茹皓らがみな罪を得て処刑された。これにより崔光を礼遇することますます重くし、撫軍将軍を加えた。
二年(505年)八月、崔光は上表して言った。「去る二十八日、ある物が太極殿の西廂より出現し、勅命により臣に示された。臣がその形状を調べると、それは荘子のいう『蒸して菌となる』ものである。また『朝菌は晦朔(一月)を終えず』と言い、雍門周が称した『蕭斧を磨いて朝菌を伐つ』も、皆、蒸気が鬱然と生い茂ることを指して言い、根や種があるわけではなく、柔脆な質は凋落しやすく、旬月(十日か一月)も保たず、斧斤を用いるまでもない。また多くは村落の穢れた湿った地に生え、殿堂の高く華やかな場所に起こることは稀である。今、極宇は崇高華麗で、牆壁は堅固に築かれ、糞朽は加わらず、湿気も及ばないのに、この菌が忽然と構え、その形状は扶疏(枝葉が茂るさま)としており、誠に異様である。野木が朝廷に生え、野鳥が宗廟に入ることは、古人は敗亡の象徴とみなした。しかし災いを恐れて徳を修める者は、皆、吉慶を招くことができ、いわゆる家が利を得れば怪異が先立ち、国が興れば妖しいことが予告されるのである。それゆえ桑と穀が庭に生い茂ったが、太戊はそれにより昌えた。雊雉(鳴く雉)が鼎に集まったが、武丁はそれにより栄えた。近ごろは鴟鵲が廟殿に巣くい、梟鵩が宮殿で鳴き、菌が賓階や軒坐の正面に生えている。過去の記録に照らせば、確かに戒めとすべきである。かつ南と西は未だ静まらず、兵革が止まず、郊甸の内では大旱が長く続き、民は労し物は悴え、これ以上甚だしいことはない。天子の養育を受ける者は、憐れみ慈しむべきである。伏して願わくは、陛下には殷の二宗(太戊・武丁)が変異を感じて改めた心意を追い、身をかがめて誠を尽くし、聖道を新たにし、夜の飲み楽しみを節し、朝の御膳を強いて摂り、方に富む年齢を養い、金玉のごとき本性を保たれんことを。そうすれば魏の国祚は永く隆盛し、皇寿は山岳と等しくなりましょう。」
四年(507年)秋、中書令に任ぜられ、鎮東将軍の号を進めた。永平元年(508年)秋、元愉の妾李氏を刑に処そうとしたが、群官で敢えて言う者はいなかった。勅命により崔光が詔を起草することとなったが、崔光は逡巡して作らず、上奏して言った。「伏して聞くところによれば、元愉の妾李を刑に処し、屠割を加えようとしている由。妖惑して乱を煽ったことは、確かにこの罪に当たります。しかし、外間ではひそかに、李は今、懐妊していると言っており、例によって出産を待つべきです。かつ臣が 諸 々の旧典を 尋 ね、近事を推し量りますに、戮が刳胎(胎児をえぐり出すこと)に至るのは、これを虐刑と言い、桀紂のような君主がこのようなことを行います。君主の挙動は必ず記録され、義として隠蔽すべきではなく、残酷で法に背くことを、どうして後世に示せましょうか。陛下は春秋(年齢)すでに長く、まだ儲君がおらず、皇子が襁褓にあるうちに夭折されることさえありました。臣の愚かな識見では、知ることを言わずにはおれません。李の獄事を停止し、出産を待たれるようお願いします。」世宗はこれを聞き入れた。
延昌元年(512年)春、 中書監 に転じ、侍中はもとの通りとした。二年(513年)、世宗が東宮に行幸し、崔光と黄門侍郎甄琛・広陽王元淵らを召し出し、ともに座を賜り、崔光に詔して言った。「卿は朕の西台(中書省)の大臣である。今、太子の師傅となれ。」崔光は起立して拝礼し固辞したが、詔は許さなかった。すぐに粛宗(孝明帝)を出させ、従者十余人を従え、崔光を傅とする意を勅命し、粛宗に崔光を拝させた。崔光はまた拝礼して辞し、太子の拝礼を受けるべきではないとしたが、またも許されず、粛宗は南面して再拝した。詹事王顕が啓上して太子に従って拝礼することを請うた。そこで宮臣はことごとく拝礼し、崔光は北面して立ち、敢えて答礼せず、ただ西面して拝礼し謝して退出した。これにより崔光に繍綵一百匹を賜り、甄琛・元淵らにもそれぞれ差があった。まもなく太子少傅を授けられた。三年(514年)、右光禄大夫に転じ、侍中・ 中書監 はもとの通りとした。
四年(515年)正月、世宗が夜に 崩御 した。崔光は侍中・領軍将軍于忠とともに東宮で粛宗を迎え、内外を安撫したが、崔光の力によるものがあった。帝崩御の二日後、広平王元懐が病を押して入朝し、母弟の親として、まっすぐに太極殿西廡に至り、禁中で哀慟し、侍中・黄門侍郎・領軍将軍・二 衞 (左右衛将軍)を呼び、「自ら殿上に上って大行皇帝を哭したい、また主上にお目にかかる必要がある」と言った。諸人は皆愕然として顔を見合わせ、敢えて抗対する者はいなかった。崔光だけが喪服の裾をまくり杖を振るい、漢の光武帝が初めて崩御した時、 太尉 趙憙が剣を横たえて階に当たり、親王を押し下げた故事を引き合いに出し、言葉と顔色は甚だ厳しく、聞く者は善しと称えずといなく、崔光の道理と義に基づくことに感服した。元懐は声と涙をともに止め、「侍中が古事をもって私を裁くので、服さずにはいられない」と言った。そこで遂に帰還し、頻りに左右を遣わして謝意を伝えた。
初め、永平四年(511年)、黄門郎孫恵蔚が崔光に代わって著作を領したが、孫恵蔚は前後五年間、何ら意を用いるところがなかった。この時(延昌四年三月)、 尚書 令・任城王元澄が上表して崔光を史任に還すべきとし、そこで詔により崔光は著作を領することを命じられた。四月、特進に転じた。五月、粛宗を奉迎した功により、崔光を博平県開国公に封じ、食邑二千戸を与えた。七月、国子祭酒を領した。八月、詔により崔光に歩挽車に乗って雲龍門を出入りすることを許した。まもなく車騎大将軍・儀同三司に転じた。霊太后が臨朝した後、崔光は累表して位を譲ろうとした。于忠が権力を擅にすると、崔光はこれに依附した。于忠が次第に疏遠され罷免されると、崔光もまた章綬・冠服・茅土を送り返し、上表は十余 回 に及んだ。霊太后は丁重に答えて許さなかった。有司が于忠及び崔光の封邑を追奪するよう上奏した。熙平元年(516年)二月、太師・高陽王元雍らが上奏して崔光を推挙し、粛宗に経を授けさせた。初め、崔光は霊太后に恩徳があり、その話は于忠伝にある。四月、崔光を平恩県開国侯に改封し、食邑一千戸を与え、朝陽伯の爵位は第二子の崔勗に転授した。その月、勅命により羊車一乗を賜った。
時に霊太后朝政に臨み、しばしば後園にて自ら弓矢を執りしが、光は乃ち中古の婦人の文章を表して上り、因りて諫めんとして曰く、「孔子云ふ、『士は道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ』と。芸とは礼・楽・書・数・射・御を謂ふ。前の四業は明らかに丈夫婦人の共に修むる所なり。若し射・御は、唯だ男子の事を主とし、女に及ばず。古の賢妃烈媛は、母儀を家国にし、訓を四海に垂れ、教を九宗に宣べ、道を秉り徳を懐き、仁礼に率ひ遵ふこと有り。是を以て漢の后馬鄧は、術祖考に邁り、羊嬪蔡氏は、伯喈に具体せり。伏して惟ふに皇太后は聖を含み仁を履み、朝に臨み化を闡き、肅雍愷悌にして、靖徽齊穆、孝祀神明に通じ、和風区宇に溢る。時に因り暇 豫 し、林園に清暑し、姑射を遠く藐しめ、矍相を眷言し、弦矢の発する所、必ず正鵠に中つ。威霊遐く暢び、義上下を震はす。文武心を懾し、左右目を悦ばしむ。吾が王遊ばずんば、吾何を以てか休まん。重仞を窺はずんば、安んぞ富美を見ん。天情沖謙にして、動容祗愧し、挙げて蚕織に非ず、事功無きを存すと為す。豈に乾に応じ民に順ひ、裁成輔相する者なりと謂はんや。臣慶幸に勝へず、謹みて婦人文章録一帙を上る。其の集具は内に在り。伏して願くは時に以て披覧し、未だ聞かざるを仰ぎ裨ひ、彎挾の労を息め、閑拱の泰を納れ、精を頤ひ寿を養ひ、神を翰林に栖らしめん」と。
是の秋、霊太后頻りに王公の第宅に幸す。光表して諫めて曰く、「礼記に云ふ、『諸侯疾を問ひ喪を弔ふに非ずして諸臣の家に入るは、是れ君臣謔るを為すと謂ふ』と。王后夫人の言はざるは、臣の家に適するの義無きを明らかにするなり。夫人は父母在らば、時に帰寧有り、親没すれば、卿大夫をして聘せしむ。春秋は陳・宋・齊の女を紀して並びに周王后と為すも、本国に適するの事無し。是の制は士大夫に深く、兄を唁ふに許嫁し、又た義を得ず。 衞 の女帰らんと思ふも、礼を以て自ら抑ふ。載馳・竹竿の作る所是れなり。漢の上官皇后昌邑を将に廃せんとし、霍光は外祖なり、親ら宰輔と為るも、后猶ほ武帷を御して以て羣臣に接し、男女の別を示すは、国の大節なり。伯姬は姆を待ち、安んぞ炎燎に就かん。樊姜は命を俟ち、忍びて洪流に赴かん。伝は皆綴集して、以て来詠に垂る。昨軒駕頻りに出で、馮翊君・任城王の第に幸す。漸く中秋と雖も、余熱尚ほ蒸し、衡蓋往還し、聖躬煩倦す。豊厨嘉醴、時羞を罄竭し、上寿一觴に限らず、方丈百品に甘んじて踰ゆ。旦にして日斜に及び、接対憇まず。時に順ひて遊び、奉養度有りと謂ふに非ず。縦ひ雲輦涼を崇くし、御筵安暢なりと云ふも、左右僕侍、衆千百を過ぎ、扶 衞 跋渉し、袍鉀身に在り、曝塵日に蒙り、渙汗流離し、時に飢渇を致し、餐飯贍はず、馬を賃ひ乗を仮り、交ひて錢帛を費す。昔人、陛下甚だ楽しく、臣等至って苦しと称するは、或いは其の事なるか。伏して惟ふに皇太后は月霊炳曜し、坤儀挺茂にして、帝躬を誕育し、維れ魏道を興す。徳は文母に踰え、仁は和憙に邁る。親は天より至り、遠異間ふ莫く、愛は真固より由り、虚隆を俟たず。鑾駕を紆屈し、闉里に降臨し、栄光帝京、士女藻悦す。白首の耋は、犠年に遇ふを欣び、青衿の童は、唐日に属するを慶す。千載の難き所、一朝の易きを為す。至明古に超え、驕を忘れ吝を釈するに非ざれば、孰か能く斯の若き者ならん。魏元以来、斯の美を正すこと莫く、興居出入、自ら坦然たるべし。豈に往嫌に同じくして、曲く矯避有らんや。但だ帝族方に衍り、勲貴遷り増し、祗請遂に多くなり、将に彝式を成さんとす。陛下前王に遵酌し、厥の後矩を貽し、天下を公と為し、億兆己が任とす。専ら郊廟に薦め、大政を決するに止まり、神和を輔養し、遊幸を簡息すべし。徳を以て車と為し、楽を以て御と為し、仁聖の風を考へ、治国の道を習はば、則ち率土頼に属し、含生悦を仰がん」と。
神龜元年夏、光表して曰く、「詩に称す、『蔽芾たる甘棠、翦る勿れ伐つ勿れ、邵伯の茇る所』と。又云ふ、『老成人無しと雖も、尚ほ典刑有り』と。伝に曰く、『其の人を思ふは猶ほ其の樹を愛するが若し、況んや其の道を用ひて其の人を恤はざらんや』と。是を以て書は古を稽ふるを始めとし、易は山泉を本とし、天文を観て以て時変を察し、人文を観て以て天下を化成す。孟子□実、匡張訓説。安世は篋を汾南に記し、伯山は巻を河右に抱く。元始の孤論、漢帝の坐に充ち、孟皇の片字、魏王の帳に懸る。前哲の墳籍を宝重し、分篆を珍愛する、猶ほ此の至りの若きなり。況んや聖典鴻経、金石に炳 勒 し、理は国楷と為り、義は家範を成し、迹は実に世の模、事は則ち人の軌、千載の格言、百王の盛烈にして、焚荒汙毀せしめ、榛棘を積みて掃ふ弗く、鼯鼬の栖宿する所、童豎の登踞する所たらしむるをや。誠に痛心疾首し、膺を拊し腕を扼すべし。伏して惟ふに皇帝陛下は、孝敬日休し、天より睿を縱へ、初学に心を垂れ、儒業方に熙し。皇太后は欽明慈淑にして、制に臨み化を統べ、道を崇め教を重んじ、翰林に神を留む。将に雲臺を披きて礼を問ひ、麟閣を拂ひて以て賢を招かんとす。誠に宜しく遠く闕里を開き、彼の孔堂を清くし、而して近く城闉に在らしめ、面して宮廟に接し、旧校墟と為り、子衿永く替はしむるに非ず。豈に建国君民、教学を先と為し、京邑翼翼、四方是れ則と謂はんや。尋ぶに石経の作は、炎劉より起り、曹氏の典論を以て継ぎ、初め乃ち三百余載、末を計れば二十紀に向かはんとす。昔来屡たび戎乱を経ると雖も、未だ大いに崩侵せず。往者刺史州に臨み、多く図寺を構へ、道俗諸用、 稍 く発掘有り、基蹠泥灰、或いは此より出づと聞く如し。皇都始めて遷り、尚ほ補復す可く、軍国の務殷し、遂に存檢せず。官私顕隠、漸く剝撤を加ふ。麦を播き菽を納れ、秋春相因り、□蒿杞を生じ、時に火燎を致し、是に由りて経石 弥 く減じ、文字缺を増す。職冑教に忝し、経訓に参掌し、頽墜を繕修し、生業を興復すること能はず、慚耻を倍せり。今国子博士一人を遣はし、幹事に堪へる者を求め、専ら周視を主とし、田牧を駆禁し、其の践穢を制し、碑牒の失ひたる次第を料閲し、厥の補綴を量らしめん」と。詔して曰く、「此れ学者の根源、不朽の永格、将来に範を垂れ、憲章の本なり。便ち一に公の表に依ふ可し」と。光乃ち国子博士李郁に令し、助教韓神固・劉燮等と石経を勘校せしむ。其の残缺する者は、石功を計料し、並びに字の多少を以て、補治せんと欲す。後に於て、霊太后廃せられ、遂に寝す。
二年八月、霊太后が永寧寺に行幸し、自ら九層の仏塔に登られた。張光が上表して諫めて言うには、「伏して見るに、親しく上層に昇り、塔の下に御輿を停め、心を尽くして塔の構造を御覧になることは、誠に福善の行いである。しかし、聖体の玉趾は、登るべき所ではなく、臣下や庶民は恐れおののき、ひそかに未だ可ならずと存ずる。礼記に按ずるに、『人子たる者は、高きに登らず、深きに臨まず』とある。古の賢人の言葉に、『策画は廟堂に失い、大人は中野に 蹷 く』とある。漢書に、皇帝が西へ駆けて峻坂を下ろうとされた時、爰盎が轡を取って車を停め、『臣聞く、千金の子は堂に垂れず、百金の子は衡に 倚 らず、もし車敗れ馬驚くことあらば、高廟・太后を 奈何 せん』と言った。また、皇帝が宗廟で酎祭を行い、出て楼船に乗ろうとされた時、薛広徳が冠を脱ぎ頓首して、『橋より行くべし、陛下臣の言を聴かずんば、臣は血をもって車輪を汚さん』と言った。楽正子春は曾参の弟子で、至孝と称せられ、固より謹慎を旨とし、堂の基壇は一尺を過ぎず、なお足を傷つけたことを愧じた。永寧寺の塔は階を累ね、閣道は回り 隘 く、柔懦なる宝体をもって、至峻なる重峭に乗ぜられんとすれば、 万一差跌 すれば、千悔しても何をか追えん。礼によれば、宗廟を祭らんとするには、必ず散斎七日、致斎三日し、然る後に祭祀に入り、神明に通ずるを得る。今、容像は未だ建てられずとも、既に神明の宅となっている。今まさに彫繢を加え、丹青を飾り麗しくし、人心の敬う所であり、熱心に見ようとする気持ちはますます甚だしい。登る者既に多く、異なる思いは面と向かうが如し。仮に一人の身が常に誠潔を尽くすとも、左右の臣妾が各々虔仰を竭くすであろうか。独り昇ることはできず、必ず扈侍(護衛)がいるが、慎みを忘れることを恐れる。それは飲酒や葷を食うことだけではない。昨日、風霾(風塵)が暴かに起こり、紅塵四方に塞がり、白日昼も暗く、特に驚くべき畏れるべきことである。春秋に、宋・衛・陳・鄭が同日に災いを受け、伯姬が傅姆を待って、焚如の禍を招いた。皇興年中、青州の七級の塔もまた崇高壮麗と号せられたが、夜に上火によって焼かれた。梓慎・裨竈のような明察でも、尚その端兆を逆に予測することはできなかった。変は倉卒に起き、不虞に備えることは難しい。天道は幽遠にして、昔より深く戒められてきた。墟墓には必ず哀しみ、廟社には敬意を表し、墓域を望んで慟哭し、門に入っては聳慄する。墓に適う時は隴(塚)に登らず、昇陟の事はない。伝に、『公は既に朔を視し、遂に観臺に登る』とある。その下には天地先祖の神はいない故、乗ることができるのである。内典(仏典)によれば、宝塔は高く華麗で、千万の室を容れるが、ただ香花礼拝を盛んに言うだけで、登るという義はない。ただ三宝階と称し、上より下り、人天が交接し、両者が相見えること、超世奇絶にして、比べるものがないとされる。恭敬に拝跪するのは、皆下級においてである。遠くを存し眺め、山河を周く見渡し、その眺める所によって、嬉笑を増し発する。級ごとに虔敬を加え、歩ごとに崇慎を重ねることはできず、徒らに京邑の士女をして、公私に集まらせるだけである。上が行えば下は従う、理勢以って然りで、窮まり無きに至るまで、どうして長く世に競って慕い一登りすることを抑え断つことができようか。およそ心の信を本とし、形の敬は末であり、実を重んじて根を軽んじ、静を以って躁の君と為す。己を恭しくして南面する者は、どうして月ごとに峻極に乗り、旬ごとに層階を御することがあろうか。今、経始は既に成り、民が自ら来て励み、基構は既に興り、彫絢は漸く起こり、紫山華臺、即ちその宮である。伏して願わくは、躬親の労を息め、風靡の化を広め、因って制防を立て、条限を 班 ち、以って囂汙を 遏 め、永く清寂に帰せしめられんことを。下は肅穆の誠を竭くし、上は瞻仰の敬を展べ、践まず履かず、億齢を顕固にし、融教を闡悟せしめ、その博からずや。」
九月、霊太后が嵩高に行幸されようとした。張光が上表して諫めて言うには、「伏して聞くに、明后が親しく嵩高に行幸され、往還数夜を累ねられるとのことである。鑾駕が近郊に遊幸し、民物を存省されることは、誠に善と為すに足る。しかし、農閑期に入りつつあるとはいえ、畝に残る収穫物は、飢貧の家にとって珠玉と指す所であり、遺秉(落ち穂)や滞穟(残った穂)も、皆宝惜している。歩騎一万余が来去し踏み経過し、駕輦雑遝し、競って駆け交い、たとえ禁護を加えても、なお侵耗があり、士女老幼は、少しでも心を傷つける。秋末久しく旱魃が続き、塵壤深く積もり、風霾ひとたび起これば、紅埃四方に塞がる。轘轅関は峭嶮、山路は危険で狭く、聖駕が清道するには、万全を務めねばならない。澗壑を乗り履き、霜露を蒙り犯し、出入り半旬、途は数百里を越え、風に曝され日を 弥 り、和 豫 を仰いで 虧 く。七廟の上霊も、容認されないかもしれず、億兆の下心は、実に用いて悚慄する。しかも、虫が隠れる季節は遠く、昆虫が布列し、蠉蠕の類は川原に満ち、車馬が輾き蹈む時は、必ず残殺がある。慈矜にして生を好むお心は、未だ測らざるものに垂れ給うべきであり、誠に恐れるのは、悠悠たる議論が、福を興して罪を為すと謂うことである。厮役は負檐に困り、爪牙は賃乗に 窘 しみ、供頓や候迎で、公私に擾費する。厨兵や幕士は、履が破れ穿ち、昼は暖かく夜は凄く、覆い藉る所がなく、監帥が驅捶(鞭打ち)すれば、泣き呼ぶ声相望む。霜と旱魃が災いとなり、所在で稔らず、飢饉が重なり、まさに倹弊(不作と困窮)を成している。民の父母として、存恤すべきであり、静かにしてこれを撫でるも、なお離散を懼れるのに、収穫の初めの時に、この行挙を致されば、近くより遠くに及び、交々怨嗟を興す。伏して願わくは、遠く虞舜を覧て、恭己無為を為し、近く老易に遵い、戸牖を出でず。労形の遊を罷め、傷財の駕を息め、動くこと典防に循い、 諸 を軌儀に納れ、司に委ねて責成し、これを耳目に寄せられんことを。人神幸甚、朝野抃悦すべし。」霊太后は従わなかった。
正光元年冬、張光に几杖と衣服を賜う。二年春、粛宗が親しく国学で釈奠を行い、張光が経を執って南面し、百僚が陪列した。 司徒 ・京兆王元継が頻りに上表してその位を張光に譲ろうとした。夏四月、張光を 司徒 ・侍中・国子祭酒とし、著作を領するはもと通りとした。張光は上表して固辞すること数年、終に受けようとしなかった。八月、宮内で禿鶖鳥を獲た。詔して張光に示した。張光が上表して言うには、「十四日に得た大鳥を示された。これは即ち詩経に所謂『鶖有り梁に在り』、解釈に『禿鶖なり』と云うものである。貪悪の鳥で、野沢に育つもので、殿庭に入るべからざるもの。昔、魏の黄初中に、鵜鶘が霊芝池に集まった時、文帝は詔を下し、曹恭公(曹丕を指すか)が君子を遠ざけ小人に近づいたことを以って、博く賢俊を求め、太尉華歆はこれによって位を遜って管寧に譲った。臣聞く、野物が舎に入ることは、古人以って善からずと為す。是をもって張臶は𪀼(ふくろう)を悪み、賈誼は鵩を忌んだ。鵜鶘が暫く集まって去っただけで、前王はなお至誡としたのに、況んや今、親しく宮禁に入り、人に獲られ、方に畜養され、晏然として懼れない。往時の義に準ずれば、確かに異なることがある。しかも饕餮の禽は、必ず魚肉を資とし、菽麦稻粱を、時には餐啄する。一食の費は、斤鎰を過ぎることもある。今、春夏陽旱で、穀物の価格が 稍 高く、窮窘の家には、時に菜色がある。陛下は民の父母として、これを撫でること傷を治めるが如くである。どうして人を棄てて鳥を養い、醜形悪声に留意されようか。衛侯は鶴を好み、曹伯は雁を愛で、身死し国滅びた。寒心すべきである。陛下は春秋に通じ、親しく前事を覧られる。どうして口にはその言を詠じながら、行いはその道に違うことがあろうか。誠に願わくは、遠く殷の高宗に師い、近く魏の太祖に法り、徳を修め賢を延べ、災を消し慶を集められんことを。無用の物を放ち、これを川沢に委ね、琴書に楽しみを取り、神性を頤養されたい。」粛宗は表を覧て大いに悦び、即ちこれを池沢に棄てさせた。
詔を下して光と安豊王延明を召し、服章を議定せしむ。三年六月、詔して光に歩挽に乗りて東西の上閤に至らしむ。九月、位を進めて 太保 と為す。光また固く辞す。光は年老いて多務、疾病稍く増すも、自ら強いて已まず、常に著作に在り、疾篤くして帰らず。四年十月、粛宗親しく臨みて疾を省み、詔して賓客を断ち、中使相望み、声楽を止め、諸の遊眺を罷む。長子励を拝して斉州刺史と為す。十一月、疾甚だしく、子姪らに勅して曰く、「吾が言を諦聴せよ。曾子に聞く、人の将に死せんとするや、其の言や善しと。予が手を啓き、予が足を啓き、而して今而して後、吾免るることを知る、と。吾は先帝の厚恩を荷い、位此に至る。史功成らず、歿して遺恨有り。汝ら吾が故を以て、並びに名位を得たり。勉めよ、勉めよ。死を以て国に報ぜよ。修短は命なり、夫れ復た何を言わん。速やかに我を送りて還宅せしむべし」と。気力微なりと雖も、神明乱れず。第に至りて薨ず。年七十三。粛宗聞きて悲泣し、中使相尋い、詔して東園の温明祕器・朝服一具・衣一襲・銭六十万・布一千匹・蠟四百斤を給し、大鴻臚に喪事を監護せしむ。車駕親しく臨み、屍を撫でて慟哭す。御輦還宮し、路に涕を流し、常膳を減じ、言えば則ち追傷す。光の坐して講読せし処に至る毎に、未だ嘗て容を改めずして悽悼せざること無し。五年正月、 太傅 ・領 尚書令 ・驃騎大将軍・開府・冀州刺史を贈り、侍中は故の如し。又勅して後部鼓吹・班剣を加え、太保・広陽王の故事に依らしむ。 諡 して文宣公と曰う。粛宗喪を建春門外に祖し、轜を望みて哀感し、儒者之を栄とす。
初め、光は太和の中、宮商角徴羽の本音に依りて五韻詩を為し、以て李彪に贈る。彪は十二次詩を為して光に報ず。光また百三郡国詩を為して之に答う。国別に巻と為し、百三巻と為す。
光は寛和慈善にして、物に逆らわず、進退沈浮、自得するのみ。常に胡広・黄瓊の為人を慕い、故に気概有る者に重んぜられず。始め領軍于忠は光の旧徳を以て、甚だ信重し、事毎に籌決す。光も亦身を傾けて之に事う。元叉も光に深く宗敬す。郭祚・裴植の殺され、清河王懌の禍に遇うに及び、光は時に随い俛仰し、竟に匡救せず、是に於いて天下之を譏る。貴達してより此れより、申薦すること罕なり。曾て其の女婿彭城劉敬徽を啓し、敬徽をして荊州五隴の戍主と為し、女は夫に随いて行き、常に寇抄を慮い、南北分張すと云い、徐州長史・兼別駕を乞い、暫く京師に集まらしむ。粛宗之を許す。時人之を張禹に比す。光初め黄門と為るや、則ち宋弁に譲り、 中書監 と為るや、汝南王悦に譲り、太常と為るや、劉芳に譲り、少傅と為るや、元暉・穆紹・甄琛に譲り、国子祭酒と為るや、清河王懌・任城王澄に譲り、車騎・儀同と為るや、江陽王継に譲り、又霊太后の父胡国珍に譲る。皆時情を顧望す。議者矯飾と為す。仏法を崇信し、礼拝読誦し、老いて愈よ甚だしく、終日怡怡として、未だ嘗て恚忿せず。曾て門下省に於いて晝坐して経を読むに、鴿有りて飛来し膝前に集まり、遂に懐に入り、臂に縁りて肩に上り、久しくして乃ち去る。道俗詩頌を贊詠する者数十人。毎に沙門朝貴の為に維摩・十地経を講ぜんと請うに、聴者常に数百人、即ち二経の義疏三十余巻を為す。識者は其の疏略なるを知り、貴重を以て後坐(疑)と為し講次に於けり。凡そ為す所の詩賦銘贊詠頌表啓数百篇、五十余巻、別に集有り。光に十一子有り、励・勗・勔・勧・劼・勀・勍・劬・勩・勦・勉。
励は、字を彦徳と曰う。器学才行最も父の風有り。秀才に挙げられ、中軍彭城王参軍・秘書郎中と為る。父光著作と為るを以て、固く拝せず。員外郎・騎侍郎・太尉記室・散騎侍郎を歴任し、継母憂を以て職を去る。神龟中、 司空 従事中郎を除く。正光二年、中書侍郎を拝す。領軍将軍元叉明堂大将と為り、励を以て長史と為す。従兄鴻と俱に世に知名なり。四年十月、父光疾甚だしく、詔して征虜将軍・斉州刺史を拝す。父の寝疾を以て、衣帯を解かず。光の薨ずるに及び、粛宗毎に存慰を加う。五年春、光本郷に葬らる。又詔して主書張文伯を遣わし宣弔せしむ。孝昌元年十二月、詔して太尉長史を除き、 仍 って斉州大中正と為り、父の爵を襲ぐ。建義初、河陰に遇害す。時に年四十八。侍中・衛将軍・儀同三司・青州刺史を贈らる。
子挹、襲ぐ。武定末、太尉。斉の禅を受くるに属し、爵例に降る。
挹の弟損、儀同開府主簿。
勗、武定末、征虜将軍・安州刺史・朝陽伯。斉の禅を受くるに及び、例に降る。
勔は、字を彦儒と曰う。亦た父の風有り。 司空 記室・通直散騎侍郎・寧遠将軍・清河太守、槃陽鎮将を帯ぶ。逆賊崔景安の害する所と為る。征虜将軍・斉州刺史を贈らる。
子権、太尉参軍事。
劼、武定中、中書郎。
光の弟敬友、本州治中。頗る受納有り、御史之を案ずるに、乃ち守者と俱に逃る。後梁郡太守を除かるも、 会 に所生の母憂に遭い、拝せず。敬友は仏道に精心し、昼夜経を誦す。喪免れたる後、遂に菜食して終世す。恭寛下に接し、身を修め節を厲す。景明已降より、頻年に登らず、飢寒請丐する者、皆足を取りて去る。又逆旅を肅然山南の大路の北に置き、食を設けて行者に供す。延昌三年二月卒す。年五十九。
子鴻は、字を彦鸞と曰う。少くより書を読み好み、経史を博綜す。太和二十年、彭城王国左常侍を拝す。景明三年、員外郎・兼尚書虞曹郎中に遷る。勅して起居注を撰せしむ。給事中に遷り、祠部郎を兼ね、尚書都兵郎中に転ず。詔して太師・彭城王勰以下公卿朝士儒学才明なる者三十人、律令を尚書上省に於いて議定せしむ。鴻と光俱に其の中に在り、時論之を栄とす。永平初、 豫 州城人白早生、刺史司馬悦を殺し、懸瓠を拠りて叛く。詔して鎮南将軍邢巒をして之を討たしめ、鴻を行臺鎮南長史と為す。三公郎中に徙し、軽車将軍を加う。員外 散騎常侍 に遷り、郎中を領す。
延昌二年、大いに百官を考課せんとし、崔鴻は考課令が体例に通じざるを以て、乃ち建議して曰く、「窃かに惟うに王者は官に才を求め、人を器を以て使い、幽明を黜陟し、清濁を揚激す。故に績効能官、才必ず位に称する者は朝に昇り夕に進み、年歳数遷す。豈に一階半級に拘り、□僚等位を以て 閡 らんや。二漢以降、太和以前、苟も必ず官は此人を須い、人は此の職に称せば、或いは超騰昇陟し、数歳にして公卿に至り、或いは長兼・試守、称允して遷進する者、巻を披けば則ち人々是くの如く、目を挙げれば則ち朝貴皆然り。故に能く時に多士の誉を収め、国は豊賢の美と号せり。窃かに見るに景明以来の考格、三年にして一考を成し、一考転じて一階。貴賤内外万有余人、自ら犯罪に非ざれば、賢愚を問わず、上中に非ざるは莫く、才と不肖、比肩して同転す。善政黄龔の如く、儒学王鄭の如く、史才班馬の如く、文章張蔡の如き有りと雖も、一分一寸を得れば必ず常流に 攀 かれ、選曹も亦一概に抑へ、曾て甄別せず。琴瑟調わずんば、改めて更張す。明旨已に行わるると雖も、猶宜しく消息すべし」と。世宗従わず。
三年、崔鴻は父憂のため解任し、甘露その廬前の樹に降る。十一月、世宗本官を以て崔鴻を徴す。四年、復た甘露その京兆宅の庭樹に降る。復た中堅將軍を加え、常侍・郎を領すること如し。中散大夫・高陽王友に遷り、 仍 郎中を領す。其の年 司徒 長史と為る。正光元年、前將軍を加う。高祖世宗の起居注を修む。崔光魏史を撰すと雖も、徒らに巻目有るのみ、初め考正せず、闕略尤も多し。毎に云う、此の史は 会 我が世に成るに非ず、但だ時事を記錄し、以て後人を待つのみと。臨薨に言う、崔鴻を肅宗に。五年正月、詔して崔鴻を以て本官に国史を修緝せしむ。孝昌初め、給事黃門侍郎を拝し、 尋 なく 散騎常侍 ・齊州大中正を加う。崔鴻史に在ること 甫 爾 にして、未だ就く所無く、 尋 なく卒す。鎮東將軍・度支尚書・青州刺史を贈る。
崔鴻弱冠にして便ち著述の志有り、晋魏前史皆一家を成すを見て、措意する所無し。劉淵・石勒・慕容儁・苻健・慕容垂・姚萇・慕容德・ 赫連 屈孑・張軌・李雄・呂光・乞伏國仁・禿髮烏孤・李暠・沮渠蒙遜・馮跋等、並びに世故に因り、一方に跨僭し、各々国書有りと雖も、統一無し。崔鴻乃ち撰して十六国春秋と為し、 勒 じて百巻を成す。其の旧記に因り、時に増損褒貶有り。崔鴻二世江左に仕う。故に僭晋・劉・蕭の書を録せず。又た識者の之を責むるを恐れ、未だ敢えて外に行い出ださず。世宗其の撰録を聞き、 散騎常侍 趙邕を遣わし詔して崔鴻に曰く、「卿諸史を撰定すと聞く、甚だ条貫有り。便ち成る者に随い送呈すべし。朕機事の暇に之を覧ん」と。崔鴻其の書国初に相渉る有り、言多く体を失うを以て、且つ既に未だ 訖 らず、遂に奏聞せず。崔鴻後起居を 典 り、乃ち妄りに其の表を載す曰く、
崔鴻の意此の如し。然れども正光以前は、敢えて其の書を顕行せず。自ら後に其の伯父崔光の貴重当朝なるを以て、時人の未だ能く其の事を発明せざるを知り、乃ち頗る相伝読す。亦た崔光の故を以て、執事者遂に之を論ぜず。崔鴻経綜既に広く、違謬多し。至る如く太祖天興二年、姚興号を改む。崔鴻は元年に改むと為す。太宗永興二年、慕容超広固に 擒 わる。崔鴻又た事元年に在りと為す。太常二年、姚泓 長安 に敗る。而して崔鴻亦た滅元年に在りと為す。此の如きの失、多く考正せず。
子子元、祕書郎。後永安中、乃ち其の父の書を奏して曰く、「臣が亡考故 散騎常侍 ・給事黃門侍郎・前將軍・齊州大中正崔鴻、家風を 殞 わず、世業を 式纘 ぎ、 古学克 く明らかにし、新に在りて必ず鏡とし、前載を多識し、群書を博極し、史才富洽、籍甚と号称す。年壮立に止まり、便ち斐然として著述の意を懐く。正始の末、記言に任属し、撰緝の余暇、乃ち趙・燕・秦・夏・涼・蜀等の遺載を刊著し、之が為に贊序し、褒貶評論す。先朝の日、草構悉く了る。唯だ李雄蜀書、搜索未だ獲ず、此の一国を闕き、遅留して未だ成らず。正光三年を去り、購訪始めて得、 討論適 ま 訖 りて、而して先臣世を棄つ。凡そ十六国、名を春秋と為し、一百二巻、近代の事最も備悉す。未だ曾て奏上せず、敢えて宣流せず。今繕写一本、敢えて以て仰呈す。 儻 や浅陋、睿賞に 回 らざるも、乞うらくは秘閣に蔵し、以て異家を広めん」と。子元後謀反し、事発ち逃竄す。赦に会い免る。 尋 なく其の叔父崔鵾に殺さる。
崔光の従祖弟長文、字は景翰。少く亦た代都に徙る。聡敏にして学識有り。太和中、奉朝請を除く。洛に遷り、 司空 参軍事を拝し、華林園を営構す。後員外 散騎常侍 を兼ね、宕昌使主と為る。還り、給事中・本國中正・尚書庫部郎を授く。正始中、大いに器械を修め、諸州造仗都使と為る。齊州太原太守・雍州撫軍府長史、廉慎を以て称さる。輔國將軍・中散大夫に遷り、転じて太府少卿、丞相・高陽王雍諮議參軍、太中大夫。永安中、老を以て征虜將軍・平州刺史を拝す。家に還り専ら仏経を読み、世事に関せず。年七十九、天平初め卒す。使持節・征東將軍・齊州刺史を贈り、諡して貞と曰う。
子慈懋、字は德林。永熙初め、征虜將軍・徐州征東府長史。
長文の従弟庠、字は文序。幹用有り。初め侍御史・員外散騎侍郎・給事中を除く。頻りに高麗に使い、転じて步兵 校尉 、又転じて 司空 掾、左右直長を領す。出でて相州長史を除き、還り、河陰・ 洛陽 令を拝し、強直を以て称さる。東郡太守に遷る。元顥郡界に寇逼す。庠拒みて命に従わず、郡を棄てて郷里に走り還る。孝莊宮に還り、爵平原伯を賜い、潁川太守を拝す。二年五月、城民王早・蘭宝等の害に遭う。後驃騎將軍・吏部尚書・齊州刺史を贈る。子罕爵を襲ぐ。齊禅を受け、例に降る。
崔光の族弟栄先、字は隆祖、経史に渉歴す。州辟して主簿と為る。
子鐸、文才有り。冠軍將軍・中散大夫。
鐸の弟覲、寧遠將軍・羽林監。
史臣曰く、崔光風素虚遠、学業淵長。高祖其の才博なるを帰し、其の大至を許す。明主固より臣を知るなり。三朝に歴事し、少主を師訓し、宮省を出でず、坐して台傅を致す。斯れ亦た近世の希有とす。但だ大雅を顧懐し、中庸に跡を託す。其の容身の譏に於ける、斯れ乃ち胡広の免れざる所なり。崔鴻古今を博綜し、立言を事とす。亦た才志の士か。
校勘記