巻66

李崇

李崇、 あざな は継長、小名は継伯、頓丘の人である。文成元皇后の第二兄李誕の子。十四歳の時、召されて主文中散に拝され、爵を陳留公に襲い、鎮西大将軍となった。

高祖の初め、大使として冀州を巡察した。まもなく本官のまま梁州 刺史 しし を行った。時に巴 てい が騒擾し、詔により崇は本将軍として荊州刺史となり、上洛に鎮した。勅して陝・秦二州の兵を発し、崇を治所に送らせた。崇は辞して言う、「辺境の民が和を失うのは、もとより刺史を怨むためである。詔を奉じてこれを代わるならば、自然と安んずる。ただ詔旨を宣べるだけで足り、兵を発して自らを防がせ、彼らに畏懼を抱かせる必要はない」と。高祖はこれに従った。そこで軽騎数十騎を率いて上洛に馳せ至り、詔を宣べて慰撫すると、たちまち安んじた。まもなく辺境の戍を命じて、蕭賾の民を掠奪した者をことごとく返還させた。南人はその徳に感じ、なおも荊州の口二百人余りを送り返した。両境は交和し、再び烽燧の警はなかった。治所に四年、大いに称えられる治績を挙げた。召還されて京師に至り、賞賜は隆厚であった。

本将軍のまま兗州刺史に除された。兗州の地は旧来劫盗が多く、崇は村ごとに一つの楼を置き、楼には一つの鼓を懸けた。盗賊の発生した場所では、双槌を乱打する。四方の諸村で最初に聞いた者は鼓を一通り打ち、次に聞いた者は二つを節とし、その後に聞いた者は三つを節として、それぞれ数千槌を打つ。諸村は鼓を聞くと、皆要害の路を守る。これにより盗賊発生の俄頃の間に、声は百里の内に布く。その中の険要な所には、悉く伏兵を置き、盗賊が発生し始めると、直ちにこれを捕らえて送致した。諸州に楼を置き鼓を懸けるのは、崇に始まる。後に例により侯に降格され、安東将軍に改めて授けられた。

東駕が南征した時、驃騎大将軍・咸陽王元禧が左翼諸軍事を 都督 ととく し、詔により崇は本官をもってその副となった。徐州の降人郭陸が党を聚めて叛逆し、多くの人がこれに応じ、南北を騒擾した。崇は高平の人卜冀州を遣わし、罪を犯したと詐称して逃亡し、陸に帰順させた。陸はこれを納れ、謀主とした。数ヶ月後、冀州は陸を斬ってこれを送り、賊徒は潰散した。入って河南尹となった。

後に車駕が漢陽を南討した時、崇は梁州刺史を行った。氐の楊霊珍が弟の婆羅と子の双に歩騎一万余りを率いさせ、武興を襲撃して破り、蕭鸞と結んだ。詔により崇は使持節・ 都督 ととく 隴右諸軍事とされ、数万の衆を率いてこれを討った。崇は山を槎ぎ分かれて進軍し、その不意を衝き、表裏より襲撃した。群氐は皆霊珍を棄てて散帰し、霊珍の衆は大半に減った。崇は進んで赤土を占拠した。霊珍はまた従弟の建に五千人を率いさせて龍門に屯し、自らは精勇一万を率いて鷲硤を占拠した。龍門の北数十里の中で樹を伐って路を塞ぎ、鷲硤の口には大木を積み、礌石を聚め、崖に臨んでこれを下し、官軍を拒んだ。崇は統軍 慕容 ぼよう 拒に命じ、五千の衆を率いて他の路より夜襲して龍門を破らせた。崇は自ら霊珍を攻め、霊珍は連戦して敗走し、その妻子を俘虜にした。崇は多く疑兵を設け、武興を襲撃してこれを克した。蕭鸞の梁州刺史陰広宗が参軍鄭猷・王思考を遣わし、衆を率いて霊珍を救援した。崇はこれを大破し、併せて婆羅の首を斬り、千余人を殺し、猷らを俘獲した。霊珍は漢中に走奔した。高祖は南陽におり、表を覧て大いに悦び、言う、「朕に西顧の憂い無からしむるは、李崇の功なり」と。崇を 都督 ととく 梁秦二州諸軍事・本将軍・梁州刺史とした。高祖の手詔に曰く、「今、仇・隴は克く清まり、鎮捍は徳を以てす。文人の威恵既に宣べられ、実に遠寄に允う。故に梁州を授け、辺服を寧んずるに用う。便ち善く経略を思い、その除くべきを去り、その育むべきを安んじ、公私の患うところ、悉く芟夷せしむべし」と。霊珍が白水を偷かに占拠すると、崇はこれを撃破し、霊珍は遠く遁走した。

世宗の初め、右衛将軍に徴され、七兵 尚書 しょうしょ を兼ねた。まもなく撫軍将軍を加えられ、正尚書となった。左衛将軍・相州大中正に転じた。魯陽の蛮柳北喜・魯北燕らが衆を聚めて反叛し、諸蛮は悉くこれに応じ、湖陽を囲んで逼迫した。游撃将軍李暉が先にこの城を鎮め、力を尽くして捍禦したが、賊勢は甚だ盛んであった。詔により崇は使持節・ 都督 ととく 征蛮諸軍事とされ、これを討った。蛮衆数万は、形要を屯拠して官軍を拒んだ。崇は累戦してこれを破り、北燕らを斬り、一万余戸を幽・ へい 諸州に徙した。世宗は平氐の功を追賞し、魏昌県開国伯に封じ、邑五百戸を賜った。東荊州の蛮樊安が、龍山に衆を聚め、大号を僭称し、蕭衍と共に脣歯となり、兵を遣わしてこれに応じた。諸将は撃討して利あらず、そこで崇を以て使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 征蛮諸軍事とし、鎮南将軍に進号させ、歩騎を率いてこれを討たせた。崇は諸将を分遣し、賊の塁を攻撃し、連戦して克捷し、樊安を生擒し、西荊に進討して、諸蛮は悉く降った。

詔により崇は使持節・兼 侍中 じちゅう ・東道大使とされ、能否を黜陟し、賞罰の称を著わした。中護軍に転じ、出て 散騎常侍 さんきじょうじ ・征南将軍・揚州刺史に除された。詔に曰く、「敵に応じて変を制するは、算は一途にあらず。左を救い右を撃つは、疾雷の勢に均し。今、朐山の蟻寇、久しく結びて未だ殄らず。賊衍は狡詐にして、或いは詭劫を生ず。鋭兵を遣わし、その不意を備うべし。崇は 都督 ととく 淮南諸軍事とし、坐して威重を敦め、遥かに声算を運らすべし」と。延昌の初め、侍中・車騎将軍・ 都督 ととく 江西諸軍事を加えられ、刺史はもと通りとした。

先に、寿春県の人苟泰に三歳の子がおり、賊に遭って行方知れずとなり、数年所在が分からなかった。後に同県の人趙奉伯の家にいるのを見つけ、苟泰はその状況を訴え出た。双方が己の子であると言い、ともに隣人の証言もあり、郡県では裁きを下せなかった。李崇は言う、「これは容易に知り得ることである」と。二人の父と子をそれぞれ別の場所に置き、数十日間監禁した後、使いの者を遣わして告げさせた、「お前の子は病気にかかり、先ほど急死した。禁令を解く命令があるので、出て行って哀悼してもよい」と。苟泰はこれを聞くやいなや号泣し、悲しみに耐えられなかった。趙奉伯はただ嘆息するだけで、まったく痛ましい様子がなかった。李崇はこれを察知し、子を苟泰に返し、趙奉伯の詐欺の状況を詰問した。趙奉伯はついに自白して言う、「以前に一人の子を亡くしたので、故に妄りに自分の子と認めたのである」と。また、定州の流民解慶賓兄弟は、事に坐してともに揚州に移された。弟の思安が役務を背いて逃亡して帰った。慶賓は後日の役務追及と責めを恐れ、名籍から絶たれんと図り、城外の死体を認めて、詐りにその弟が人に殺されたと称し、迎え帰って葬儀を行った。それは思安によく似ており、見た者は誰も見分けられなかった。また女巫の陽氏という者が自ら鬼を見たと言い、思安が害された苦しみ、飢え渇きの様子を語った。慶賓はまた同軍の兵士蘇顕甫・李蓋らが殺したと誣告して疑い、州に訴え出た。二人は拷問に耐えられず、それぞれ自白した。獄がまさに決せられようとした時、李崇は疑ってこれを止めた。密かに二人の者(州内で知られていない者)を、外から来た者として装わせ、慶賓のもとに赴かせて告げさせた、「私はこの州に住んでおり、ここから三百里離れた所におります。先日一人の者が訪ねて来て宿を借り、夜中に共に話していると、その様子が怪しいと疑い、すぐに詰問し、その経緯を尋ねました。すると、流れの兵士で役務を背いて逃げて来た者で、姓は解、字は思安と言います。その時、役所に送ろうとしましたが、苦しんで懇願され、兄の慶賓が今揚州の相国城内に住んでおり、兄嫁は徐姓であると言いました。あなたがもし哀れみをかけて、行って報告してくれ、詳しい事情を伝えてくれれば、家兄はこれを聞いて必ず重く報いるでしょう。所有する財産は惜しみませんと。今はただ私を人質として見ておき、もし行って得られなければ、その時役所に送っても遅くはありません。それゆえに参り、この意を伝えに来たのです。あなたはどれだけの報酬で雇おうとするのか、賢弟を放してやります。もし信用できないなら、ついて来て見るがよい」と。慶賓は茫然として顔色を失い、少し待ってくれるよう求め、財物を準備すると言った。この者が詳しく報告すると、李崇は慶賓を召し出して問う、「お前の弟は逃亡したのに、なぜ妄りに他人の死体を自分の弟と認めたのか」と。慶賓は伏して自白した。さらに李蓋らを問うと、自ら誣告したと言った。数日のうちに、思安もまた人に縛られて送られて来た。李崇は女巫を召し出してこれを見せ、鞭打ち百回の刑に処した。李崇の裁判は精緻で審らかであり、皆この類いであった。

時に、八公山の頂上に泉水が湧き出た。寿春城中には無数の魚が地から湧き出た。野鴨の群れが飛来して城内に入り、鵲と巣を争った。五月、大雨が十三日間降り続き、大水が城内に入り、家屋はすべて水没し、李崇は兵士と共に城上に泊まった。水は増して止まず、船に乗って女牆に寄せた。城が水没しなかったのは、あと二板(約一尺)だけであった。州府は李崇に寿春を捨てて北山を守るよう勧めた。李崇は言う、「私は国の重恩を受け、辱くも藩岳を守る身である。徳が薄く災いを招き、この大水を招いた。淮南の万里は、私一身にかかっている。一旦足を動かせば、百姓は瓦解し、揚州の地は、恐らく国のものではなくなるであろう。昔、王尊が慷慨して、その義が黄河を感動させた。私はどうして一身を惜しんで、千載の後に恥を取ろうか。ただこの土地の士民を憐れみ、罪なく共に死ぬのを忍びない。筏に乗って高い所に従い、各自が脱出を図るがよい。私は必ずこの城を死守する。どうか諸君は言わないでほしい」と。時に州人裴絢らが蕭衍から仮の 州刺史に任ぜられ、大水に乗じて謀り乱を起こそうとしたが、李崇はすべてこれを撃滅した。李崇は洪水が災いとなったことを以て、罪を請い解任を求めた。詔して言う、「卿は藩鎮に累年居り、威厳と懐柔を兼ねて暢び、物資の蓄えは豊かに溢れ、強敵を制するに足る。しかし夏の雨が氾濫したのは、これは人力によるものではない。どうしてこれを以て辞任しようとするのか。今、水が引き道が通じ、公私共に再び業に就いている。すみやかに甲冑を整え糧食を蓄え、城壁を修復し、士民を労り恤み、務めて綏撫懐柔の策を尽くすがよい」と。李崇はまた上表して州の任を解くことを請うたが、詔で答えて聞き入れなかった。この時、李崇でなければ、淮南は守れなかったであろう。

李崇は沈着深遠で将略があり、寛厚で衆を統御するのが巧みであった。州において凡そ十年を経て、常に壮士数千人を養い、寇賊が辺境を侵せば、向かう所で撃破し、「臥虎」と号され、賊は甚だこれを畏れた。蕭衍は彼が長く淮南にいるのを憎み、しばしば反間の計を設け、至らぬ所はなかったが、世宗(宣武帝)は平素より彼を重用し委ねたので、蕭衍はその奸計を施すことができなかった。蕭衍はついに李崇に車騎大將軍・開府儀同三司・万戸郡公を授け、諸子を皆県侯とし、李崇を陥れようとした。李崇はその状況を上表して言上した。世宗はしばしば璽書を賜って慰労激励した。珍しい物を賞賜すること、年に三度五度あり、親しく待遇すること比ぶる者なしであった。蕭衍は毎度嘆息し、世宗が李崇を任用できることを敬服した。

肅宗(孝明帝)が即位すると、衣服と馬を褒美として賜った。蕭衍がその游撃將軍趙祖悅を遣わして西硤石を襲撃占拠し、さらに外城を築き、淮水沿いの人々を城内に強制移住させた時、また二将昌義之・王神念に水軍を率いさせて淮水を遡上させ、寿春を奪取せんと図った。田道龍が辺城を寇し、路長平が五門を寇し、胡興茂が開霍を寇した。揚州の諸戍は、皆寇に脅かされた。李崇は諸将を分遣し、これと対峙させた。密かに船艦二百余艘を装備し、水戦を教習させ、朝廷の軍を待った。蕭衍の霍州司馬田休らが衆を率いて建安を寇すると、李崇は統軍李神を遣わしてこれを撃退した。また辺城の戍主邵申賢に命じてその退路を遮らせ、濡水においてこれを破り、三千余人を捕斬した。霊太后は璽書を下して労い激励した。

許昌県令兼紵麻戍主陳平玉が南の蕭衍軍を引き入れ、戍を以てこれに帰した。李崇は秋以来援軍を請い、上表は十余に及んだ。詔して鎮南將軍崔亮を遣わして硤石を救わせ、鎮東將軍蕭寶夤に蕭衍の築いた堰の上流で淮水を決壊させ東に注がせた。朝廷は諸将が乖離し、互いに従って赴かないのを以て、尚書李平を兼右 僕射 ぼくや とし、節を持ち諸軍を節度させた。李崇は李神に鬬艦百余艘を乗せさせ、淮水に沿って李平・崔亮と合流し硤石を攻撃させた。李神の水軍がその東北の外城を攻克し、祖悅は力尽きて降伏した。詳細は李平伝にある。朝廷はこれを嘉し、驃騎將軍・儀同三司に進号し、刺史・ 都督 ととく は元の如しとした。蕭衍の淮水の堰は未だ破られず、水勢は日増しに増した。李崇は硤石の戍の間に舟を編んで橋とし、北にさらに船楼を十基立て、各々高さ三丈とし、十歩ごとに一つの籬を置き、両岸に至り、板を並べて装備し、四つの箱状の部分が解合できるようにし、賊が来れば挙げて用い、戦わずして解き下ろせるようにした。また楼船の北に、大船を連ねて覆い、東西に水を隔て、賊の火栰を防いだ。また八公山の東南に、さらに一城を築き、大水に備えた。州人はこれを魏昌城と号した。李崇は累次にわたり州の任を解くことを上表し、前後十余度に及んだ。肅宗はついに元志を以って彼に代えさせた。まもなく 都督 ととく 冀定瀛三州諸軍事・驃騎大將軍・冀州刺史に任ぜられ、儀同は元の如しとした。赴任しなかった。

李崇が上表して言う。

霊太后の令して言う、「表を省みる。国を体する誠意を悉く知った。配饗の大礼は、国の根本である。近ごろは戎馬が郊外にあるため、修繕に遑がなかった。今、四方は安寧で、年は和ぎ穀物は実る。まさに有司に命じて別に経始を議せしめるべきである」と。

中書 ちゅうしょ 監・驃騎大將軍に任ぜられ、儀同は元の如しとした。また右光禄大夫を授けられ、出て使持節・侍中・ 都督 ととく 定幽燕瀛四州諸軍事・本將軍・定州刺史とされ、儀同は元の如しとした。召されて尚書左僕射に任ぜられ、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、驃騎・儀同は元の如しとした。 尚書令 しょうしょれい に遷り、侍中を加えられた。李崇は官にあって温和で篤厚であり、決断に明るく、訴訟を受け付けるには、必ず理が推し量れるところにあって初めて下筆し、やみくもに受理することはなかった。しかし性は財貨を好み、商売し市場で利益を求め、家財は巨万に上り、営利追求は止まなかった。子の世哲は相州刺史となったが、また清廉潔白の様子はなかった。 ぎょう 洛陽 らくよう の市場において利益を独占し、当時の論議に卑しめられた。

蠕蠕 じゅんじゅん の主阿那瓌が衆を率いて塞を犯す。詔して崇に本官のまま 都督 ととく 北討諸軍事を以てこれらを討たしむ。崇は顕陽殿にて辞し、戎服に武飾し、志気奮揚す。時に年六十九、幹力少の如し。粛宗目してこれを壮とし、朝廷これを称善せざる莫し。崇遂に塞を出でて三千余里、賊に及ばずして還る。

後に北鎮の破落汗抜陵が反叛し、所在これに応ず。征北将軍・臨淮王彧は五原にて大敗し、安北将軍李叔仁は尋いで白道にて敗れ、賊衆日増し甚だし。詔して丞相・令・僕・尚書・侍中・黄門を顕陽殿に引き、詔して曰く、「朕比来鎮人の逆を構うるを以て、登時に 都督 ととく 臨淮王を遣わして時に翦除せしむ。軍五原に届き、前鋒利を得ず、二将命を殞し、兵士挫衂す。又武川防に乖き、復た凶手を陥す。恐らくは賊勢侵淫し、寇恒朔に連ならんと。金陵彼に在り、夙夜憂惶す。諸人は宜しく良策を陳べて、以て朕が懐に副うべし。」吏部尚書元脩義曰く、「強寇充斥し、事須らく討を得べし。臣謂う、須らく重貴を得て、恒朔を鎮圧し、彼の師旅を総べ、金陵を備 えい すべしと。」詔して曰く、「去歳阿那瓌叛逆し、李崇を遣わして北征せしむ。崇遂に長駆して塞北に至り、旆を返して楡関に至る。これ亦た一時の盛なり。崇乃ち上表して鎮を改めて州と為し、旧貫を罷削せんことを求む。朕時に旧典革め難しを以て、その請を許さず。尋いで李崇この表を開き、諸鎮に非異の心を開き、今日の事を致す有り。但だ既往は追い難し、復た略くこれを論ずるのみ。朕は李崇国戚にして望重く、器識英断なるを以て、意に還た崇を行かせ遣わし、三軍を総督し、旌を恒朔に揚げ、彼の群盗を除かんと欲す。諸人は謂う、これを以て可と為すかや。」僕射蕭宝夤等曰く、「陛下旧都北に在るを以て、金陵を憂慮す。臣等実に悚息を懐く。李崇の徳位隆重にして、 社稷 しゃしょく の臣なり。陛下この遣わしは、実に群望に合う。」崇啓して曰く、「臣実に用無く、猥りに殊寵を蒙り、位賢路を妨げ、遂に北伐に充つ。徒らに将士を労し、勲無くして還り、聖朝に慚負し、今に至るまで已まず。臣は六鎮幽垂にして、賊と接対し、柝を鳴らし弦を声し、旬朔を離れず。州の名は鎮より差し重く、実に彼が心を悦ばしめ、声教日揚がり、微塵塞を去らんと謂う。豈に敢えてこの凶源を導き、賊の意を生ぜしめんや。臣が愆負は、死して余責有り。属に陛下慈寛にして、腰領を全うするを賜う。今更に臣を遣わして北行せしむるは、正に恩に報い過ちを改むるに在り、敢えて辞せざる所なり。但だ臣年七十、自ら惟うに老疾にして、敵場に堪えず、更に英賢を願い、盛日の功を収めん。」

ここにおいて詔して崇に本官のまま使持節・開府・北討大 都督 ととく を加え、撫軍将軍崔暹、鎮軍将軍・広陵王淵は皆崇の節度を受く。又詔して崇の子光禄大夫神軌に、仮に平北将軍を授け、崇に随い北討せしむ。崇五原に至り、崔暹は白道の北にて大敗し、賊遂に力を併せて崇を攻む。崇は広陵王淵と力を戦わせ、累ねて賊衆を破り、相持すること冬に至り、乃ち引き還りて 平城 へいじょう に至る。淵表して崇の長史祖瑩が功級を詐り増し、軍資を盗み没するを奏す。崇坐して官爵を免ぜられ、徴還され、後事を淵に付す。

後に徐州刺史元法僧が彭城を以て南に叛く。時に安楽 王鑒 おうかん を除して徐州刺史と為し、法僧を討たしむも、法僧に敗られ、単馬にて奔り帰る。乃ち詔して崇の官爵を復し、徐州大 都督 ととく と為し、諸軍事を節度せしむ。会に崇疾篤し、乃ち衛将軍・安豊王延明を以てこれに代う。改めて開府・相州刺史を除し、侍中・将軍・儀同は並び如故のまま。孝昌元年、位にて薨ず。時に年七十一。侍中・驃騎大将軍・ 司徒 しと 公・雍州刺史を贈られ、 おくりな して武康と曰う。後に重ねて 太尉 たいい 公を贈られ、邑一千戸を増し、余は如故。

長子世哲は、性軽率にして、供奉豪侈なり。少より征役を経、頗る将用有り。 司徒 しと 中兵参軍より、超えて征虜将軍・ ぎょう 騎将軍と為る。尋いで後将軍に遷り、三関別将と為り、群蛮を討ち、これを大破し、蕭衍の龍驤将軍文思之等を斬る。還りて鴻臚少卿を拝す。性傾巧にして、人に事えるを善くし、亦た貨賂を以て自ら達す。高肇・劉騰の勢を処するや、皆これと親善す。故に世に号して「李錐」と曰う。粛宗の末、宗正卿に遷り、平南将軍を加え、転じて大司農卿と為り、仍って本将軍のまま。又改めて太僕卿を授けられ、鎮東将軍を加う。尋いで出でて相州刺史と為り、将軍は如故。世哲州に至り、細人を斥逐し、仏寺を遷徙し、その地を逼買し、広く第宅を興し、百姓これに患う。崇の北征の後、兼ねて太常卿を徴す。御史高道穆その宅を毀発し、その罪過を表す。後に鎮西将軍・涇州刺史を除され、爵を衛国子と賜う。正光五年七月卒す。賻として帛五百匹・朝服一襲を賜い、 散騎常侍 さんきじょうじ ・衛将軍・吏部尚書・冀州刺史を贈られ、子は如故。

世哲の弟神軌は、父の爵陳留侯を受く。給事中より、稍く員外常侍・光禄大夫に遷る。累ねて出征討し、頗る将領の気有り。孝昌中、霊太后の寵遇を受け、勢朝野に傾き、時に云う帷幄に見幸せられ、鄭儼と双を為すと、時人明らかにする能わず。頻りに征東将軍・武衛将軍・給事黄門侍郎に遷り、常に中書舎人を領す。時に相州刺史・安楽 王鑒 おうかん が州に拠りて反す。詔して神軌と 都督 ととく 源子邕等にこれを討平せしむ。武泰初、蛮帥李洪諸落を扇動し、伊闕より以東、鞏県に至るまで、多く焼劫せらる。詔して神軌を 都督 ととく と為し、これを破平せしむ。尒朱栄の洛に向かうや、復た大 都督 ととく と為り、衆を率いてこれを禦ぐ。出でて河橋に至り、値うに北中守らず、遂に便ち退き還る。尋いで百官と駕を河陰にて候い、仍って害に遇う。建義初、侍中・驃騎大将軍・ 司空 しくう 公・相州刺史を贈られ、諡して烈と曰う。

崔亮

崔亮、字は敬儒、清河東武城の人なり。父は元孫、劉駿の尚書郎。劉彧の僭立するや、彧の青州刺史沈文秀が兵を阻みてこれに叛く。彧は元孫を使わして文秀を討たしむ。文秀に害せらる。亮の母房氏、亮を携えて冀州刺史崔道固に歴城に依る。道固は即ち亮の叔祖なり。及び慕容白曜の三斉を平ぐるや、内に徙して桑乾と為り、平斉民と為る。時に年十歳、常に季父幼孫に依り、家貧しく、傭書を以て自ら業とす。

時に隴西の李沖朝に当たり任事す。亮の従兄の光往きてこれに依る。亮に謂いて曰く、「安んぞ能く久しく筆硯に事え、而して往きて李氏に託さざらんや。彼の家書に饒けり、因りて学を得べし。」亮曰く、「弟妹飢寒す。豈に独り飽くべけんや。自ら市に於いて書を観るべし。安んぞ能く人の眉睫を見んや。」光これを沖に言う。沖は亮を召して語らう。因りて亮に謂いて曰く、「比来卿が先人の相命論を見るに、人の胸中に復た怵迫の念無からしむ。今遂に本を亡う。卿能くこれを記せざるか。」亮即ちこれを誦す。涕涙交りて零れ、声韻異ならず。沖甚だこれを奇とし、迎えて館客と為す。沖その兄の子の彦に謂いて曰く、「大崔生(光)は寛和篤雅なり。汝宜しくこれを友とすべし。小崔生(亮)は峭整清徹なり。汝宜しくこれを敬すべし。二人終に大いに至らん。」沖これを薦めて中書博士と為す。転じて議郎、尋いで尚書二千石郎に遷る。

高祖(孝文帝)が洛陽に在り、旧制を改革し、百官を選任せんと欲し、群臣に謂いて曰く、「朕と共に一の吏部郎を挙げよ、必ずや才望兼ね備わる者を、卿らに三日の暇を与える」と。また一日、高祖曰く、「朕は既に得たり、卿ら輩を煩わすまじ」と。駅伝を馳せて亮を徴し、吏部郎を兼ねしむ。俄かに太子中舎人となり、中書侍郎に遷り、尚書左丞を兼ねる。亮は顕職を歴任すれども、その妻は親しく舂簸することを免れず。高祖これを聞き、その清貧を嘉し、詔して野王令を帯せしむ。世宗(宣武帝)親政し、給事黄門侍郎に遷り、仍として吏部郎を兼ね、青州大中正を領す。亮自ら選事に参じてより、将に十年に垂んとし、廉慎にして明決、尚書郭祚に委ねられ、毎に云く、「崔郎中に非ざれば、選事は弁ぜず」と。

尋いで 散騎常侍 さんきじょうじ を除かれ、仍として黄門となる。度支尚書に遷り、御史中尉を領す。遷都の後より、四方を経略し、また洛邑を営み、費用甚だ広し。亮度支に在り、別に条格を立て、歳に億を省む。また汴蔡二渠を修するを議し、以て辺運を通ぜしめ、公私これに頼る。侍中、広平王懐は母弟の親を以て、左右憲法に遵わず、勅して亮に推治せしむ。世宗、懐を禁じて賓客を通ぜしめざること久し。後に宴集に因り、懐は親を恃みて忿りを使い、亮を陵突せんと欲す。亮乃ち正色してこれを責め、即ち世宗の前より起ち、冠を脱ぎて罪を請い、遂に拝辞して出でんとす。世宗曰く、「広平は粗疏、向来また酔えり、卿の悉くする所なり、何ぞ乃ち此の如くなるや」と。遂に詔して亮を復た坐せしめ、懐に謝せしむ。亮、外は方正なれども、内にも亦時情を承候し、左右の郭神安は頗る世宗の識遇を受け、弟を亮に託す。亮これを引きて御史と為す。及び神安敗れたる後、禁中に集まるに因り、世宗、兼侍中盧昶に命じて旨を宣し、亮を責めて曰く、「法官に在りて何の故にか左右の嘱請を受く」と。亮は拝謝するのみにして、以て上対する無し。都官尚書に転じ、又七兵に転じ、廷尉卿を領し、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、中正は故の如し。徐州刺史元昞は撫御に失和し、詔して亮に駅伝を馳せて安撫せしむ。亮至り、昞を劾し、大辟を以て処し、労賚綏慰し、百姓帖然たり。

安西将軍、雍州刺史を除かる。城北の渭水浅くして船を通ぜず、行人艱阻す。亮、僚佐に謂いて曰く、「昔杜預は乃ち河梁を造り、況んや此れ長河に異なる有り、且つ魏晋の日も亦自ら橋有り、吾今決して之を営まんと欲す」と。咸に曰く、「水浅く、浮橋と為すべからず、汎長恒無く、又柱を施すべからず、恐らく成立し難からん」と。亮曰く、「昔秦は咸陽に居り、横橋して渭を渡り、以て閣道に像る、此れ即ち柱を以て橋と為す。今唯だ長柱得可からざるを慮るのみ」と。会うに天大雨し、山水暴かに至り、長木数百根を浮かび出だす。此れを藉りて用いと為し、橋遂に成立す。百姓これに利し、今に至るも猶名づけて崔公橋と曰う。亮の性公清にして、断決に敏く、所在並びに職に称うと号せらる。三輔その徳政に服す。世宗これを嘉し、詔して衣馬被褥を賜う。後にその女を納れて九嬪と為し、徴して太常卿と為し、吏部事を摂る。

粛宗(孝明帝)の初め、出でて撫軍将軍、定州刺史と為る。蕭衍の左游撃将軍趙祖悦、衆を率いて硤石を偷かに拠る。詔して亮に鎮南将軍を仮し、斉王蕭宝夤に鎮東将軍、章武王融に安南将軍を仮し、並びに使持節・ 都督 ととく 諸軍事と為して以て之を討たしむ。霊太后、亮等を労い遣わし、戎服雑物を賜う。亮硤石に至り、祖悦城を出でて逆戦す。大いにこれを破る。賊復た城外に二柵を置き、官軍を拒がんと欲す。亮焚き撃ちてこれを破り、三千余人を殺す。亮と李崇とは水陸の期を為す。日日進攻すれども、崇至らず。及び李平至りて、崇乃ち進軍し、共に硤石を平らぐ。語は平伝に在り。霊太后、亮に璽書を賜いて曰く、「硤石既に平らぎ、大勢全く挙がる。淮堰孤危にして、自ら将に奔遁せんとす。若し仍敢えて遊魂せば、此れ当に易く以て計を立て、蟻徒を擒翦すべし、応に旦夕に在らん。将軍は推轂の憑る所、親しく其事に対し、処分経略、宜しく共に協斉すべし、必ずや掃蕩の理を得しめ、彼の遺燼を尽くさしむべし。随便に守禦し、及び分かち渡り掠め截ち、其の咽喉を扼し、走路を防塞し、全獲を期し、漏逸せしむる無かれ。若し威を畏れて降首する者は、自ら蠲宥を加え、仁を本と為し、之を雅算に任せよ。一二往使別に宣ぶ」と。功を以て鎮北将軍に進号す。

李平、諸軍を部分し、将に水陸兼ねて進み、以て堰賊を討たんとす。亮、平の節度に違い、疾を以て還るを請い、表に随いて発つ。平、表して曰く、「臣、蕭衍の将湛僧珍・田道龍の境内に遊魂し、未だ跡を収めざるを以て、義之・神念尚だ梁城に住す。 都督 ととく 崔亮に令して権に下蔡に拠らしめ、別将瓫生をして即ち東岸に往かしめ、亮と勢を接せしめ、以て橋道を防がしむ。臣発引して堰に向かう。舎人曹道至り、奉勅して更に処分有り。而るに亮は已に輒ち京に還る。按ずるに、亮は東南に付せられ、推轂は是れ託する所、誠に応に国を憂え家を忘れ、致命を限とすべし。而るに始めて汝陰に届き、磐桓して進まず。寇所に到るに及び、停淹すること八旬。営む所の土山攻道、並びに克く就かず。糧力を損費し、坐して歳序を延ぶ。天威の遠く被るに頼り、士卒憤激し、東北騰上し、垂らくに北門に至らんとす。而るに亮は遅回し、仍として肯て上らず。臣白刃を以て逼り、甫にして乃ち登陟す。及び硤石を平らげ、宜しく処分を聴くべく、方更に其の専恣を肆にし、軽々しく輒ち還帰す。此れ而して糾さずんば、法将に焉にか寄せん。律を按ずるに『軍に臨み征討して而して故に留まり赴かざる者は死す』と。又云う『軍還りて先に帰る者は流す』と。軍罷みて先に還るも、尚だ流坐有り。況んや亮は符令を被りて停まるを委ね棄てて反るや。乗勝の機を失い、水陸の会を闕く。情に縁り理に拠れば、咎『故留』に深し。今亮を死に処し、上議す」と。霊太后、令して曰く、「亮は臣と為りて忠ならず、去留自ら擅にし、既に威稜を損ない、我が経略に違う。小捷有りと雖も、豈に大咎を免れんや。但だ吾は万幾を摂御し、茲に悪殺を庶幾す。特ち聴して以て功を以て過を補わしむべし」と。及び平至り、亮と禁中に於いて功を争い、形は声色に現る。

まもなく殿中尚書に任ぜられ、吏部尚書に転じた。時に羽林軍が張彝を害した事件の後、霊太后は武官が資格に従って選挙に参与することを許した。官職は少なく、応選する者は多く、前任の尚書李韶は従来の通りに人を抜擢したため、民衆は大いに嘆き怨んだ。亮はそこで格制を上奏し、士人の賢愚を問わず、専ら停解(官職を離れた)の月日を基準とした。たとえ官職にこの人物が必要であっても、停解の日付が後回しの者は結局得られず、凡庸な下品の者でも、月日が長い者は明らかに先に任用された。沈滞していた者たちは皆その才能を称えた。亮の甥の 司空 しくう 諮議劉景安が書を送り亮を諫めて言った、「殷周は郷塾で士を貢ぎ、両漢は州郡で才を推薦し、魏晋はこれを因循し、さらに中正を置いた。往昔を仔細に見れば、いずれも審らかに挙げており、完全ではなかったが、十のうち六七は収められた。ところが朝廷が秀才を貢ぐには、その文だけを求め、道理を取らず、孝廉を察するにはただ章句を論じ、治道に及ばず、中正を立てても人材の行業を考課せず、空しく氏姓の高下を弁じている。士を取る途が広くなく、淘汰の理が精しくない。ところが舅は銓衡を担当しておられるのだから、改張易調すべきである。どうして反って停年格を作りこれを制限なさるのか。天下の士子は誰が再び名行を修め励もうというのか」。亮は返書して答えた、「汝の言うところは深い趣きがある。私は時に乗じて幸いを得て、吏部尚書となった。壮年の時でさえ、まだ人に及ばなかったのに、まして今朽ち老いて帝が難とする任に居る。常に同昇挙直を思い、明主の恩に報いようとし、忠を尽くし力を竭くして、貽厥の累とならぬよう努めてきた。先般この格を作ったのは、理由があってのことである。今すでに汝に怪しまれているが、千載の後、誰が私を知るだろうか。静かに私の言葉を思いめぐらし、汝のために論じておこう。私は兼・正合わせて六度吏部郎となり、三度尚書となった。銓衡のなすべきことについては、よく知っている。ただ古今は同じからず、時宜は異ならねばならぬ。なぜか。昔は中正があり、その才第を品定めし、尚書に上ると、尚書はその状に基づき、人を量って職を授けた。これは天下の群賢と共に人に爵を与えることである。私はその当時、遺才なく濫挙もなかったと思うが、汝はなお十のうち六七とおっしゃる。まして今日の選挙は専ら尚書に帰し、一人の鑑識で天下を照らし察する。劉毅が言うところの『一吏部、両郎中で人物を究竟しようとするのは、管を以て天を窺い、その博さを求めるのと何ら異ならない』という通りである。今勲人は甚だ多く、また羽林が選に入り、武夫が崛起し、書計を解さず、ただ弩を彍いて前駆し、指蹤して捕 ぜい するのみである。突然に組を垂れ軒に乗せ、鮮を烹るの効を求め、未だ刀を操ったことのない者に専ら割かせようとする。また武人は極めて多く、官員は甚だ少なく、周溥できない。仮に十人で一官を共有させても、なお授ける官がなく、まして一人が一官を望めば、どうして怨みを生じないでいられようか。私は近頃面と向かって、武人を選に入れるべきでないと主張し、その爵を賜い禄を厚くするよう請うた。従っていただけなかったので、やむを得ずこの格を立て、停年で制限したのである。昔、子産が刑書を鋳て弊を救い、叔向は正法を以てこれを譏ったが、汝が古礼を以て権宜を難じるのと何ら異ならないか。仲尼は云う、我を徳とする者も春秋、我を罪とする者も春秋であると。私のこの趣旨は、これによるものである。ただ将来の君子に、私の意を知ってもらいたい」。後に甄琛・元脩義・城陽王徽が相次いで吏部尚書となり、自分に都合がよいとして、これに踵いて行った。ここより賢愚が同貫し、涇渭の別がなくなり、魏が人材を失ったのは、亮から始まったのである。

侍中・太常卿に転じ、まもなく左光禄大夫・尚書右僕射に遷った。時に劉騰が権を擅にし、亮は妻の劉氏を託し、身を傾けてこれに仕えたので、頻年の中に名位が隆赫となり、識者はこれを譏った。尚書僕射に転じ、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。正光二年秋、背に疽が発し、粛宗は舎人を遣わして病を問わせた。亮は上表して僕射の解任を乞い、負荷していた職務と印綬を送ったが、詔は許さなかった。まもなく卒去し、詔して東園秘器・朝服一襲を給し、賵物七百段・蠟三百斤を賜った。使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・車騎大将軍・儀同三司・冀州刺史を追贈され、諡して貞烈といった。亮は雍州にいた時、杜預伝を読み、八磨を作ったことを見て、その時用に済うことを賞賛し、民に碾を作ることを教えた。僕射となってからは、張方橋の東で穀水を堰き、水碾磨数十区を造ることを奏上し、その利益は十倍に上り、国用に便であった。亮に三人の子があり、士安・士和・士泰といい、いずれも強幹で当世に善くした。

士安は、尚書比部郎を歴任し、諫議大夫の任中に卒した。左将軍・光州刺史を追贈された。子がなく、弟の士和が子の乾亨を後継ぎとした。

乾亨は、武定年間に尚書都兵郎中となった。

士和は、 司空 しくう 主簿・通直郎を歴任した。亮に従って硤石を征し、軍功により冠軍将軍・中散大夫・西道行臺元脩義左丞に拝され、涇州の事務を行った。蕭宝夤が関中にいた時、僚佐を高く選び、督府長史とした。時に莫折念生が使者を遣わし詐降したので、宝夤は士和を度支尚書を兼ねさせ、隴右行臺とし、秦に入って撫慰させたが、念生に害された。

士泰は、給事中・ 司空 しくう 従事中郎・諫議大夫・ 司空 しくう 司馬を歴任した。粛宗の末、荊蛮が侵斥したので、士泰を龍驤将軍・征蛮別将とし、事が平定すると、功により五等男の爵を賜った。建義初年、河陰で害に遇った。 都督 ととく 青兗二州諸軍事・鎮東将軍・青州刺史を追贈され、諡して文肅といった。

子の肇師は爵を襲い、武定末年に中書舎人となった。

亮の弟の敬默は奉朝請となった。征虜長史の任中に卒し、南陽太守を追贈された。

子の思韶は亮に従って硤石を征し、軍功により武城子の爵を賜り、冀州別駕となった。

敬默の弟の隱處は青州州都となった。亮は彼が賤しい出であるとして、まったく世話をせず、論者はこれを譏った。

亮の従父弟の光韶は、親に事えるのに孝で知られた。初め奉朝請に任ぜられた。光韶は弟の光伯と双生児で、操業も等しく、特に友愛し、ついに吏部尚書李沖を経て、官を光伯に譲り、言葉と表情は懇切であった。沖がこれを奏聞すると、高祖は嘉して許した。太和二十年、光韶を 司空 しくう 行参軍としたが、また従叔の和に譲ることを請い、言った、「臣は誠に微賤で、譲りの品には未だ登りませんが、唐朝に遇い、譲りの徳なきを恥じます」。和もまた謙退し、辞して当たらなかった。高祖はこれを善しとし、ついで和を広陵王国常侍とした。まもなく光韶に秘書郎を兼ねさせ、華林御書の校勘を掌らせた。

粛宗の初め、青州治中に任ぜられ、後に 司空 しくう 騎兵参軍となり、また 司徒 しと 戸曹を兼ねた。出て済州輔国府司馬となり、刺史の高植は彼を大いに知り、政事多く委ねて諮問した。青州平東府長史に遷り、府が解かれると、州事を知るよう命ぜられた。光韶は清直明断で、民吏は彼を畏れ愛した。入朝して 司空 しくう 従事中郎となったが、母が老いたので官を解き帰養し、詩を賦して意を展べると、朝士でこれに属和する者数十人あった。久しくして 司徒 しと 諮議に徴されたが、固辞して拝さなかった。光韶の性質は厳毅で、声韻は抗烈であり、人と平談するにも常に震厲のようであった。兄弟で議論するに至っては、外聞は忿怒と思ったが、孔懐は雍睦で、人に及ぶ者は少なかった。

孝莊帝の初め、河間の邢杲が河北の流民十余万を率いて州郡を攻め逼った。刺史の元儁は憂えて自ら安んぜず、州人は光韶を長史として立ててこれを鎮めんことを乞うた。時に陽平の路回は斉の地に寓居し、邢杲と密かに相呼応し、賊を城内に引き入れた。光韶は機に臨んで処分し、難中にあって確然たり。賊退いた後、刺史は光韶の忠毅を上表し、朝廷これを嘉して使者を発して慰労せしめた。まもなく東道軍司となる。及び元顥が洛に入ると、河以南は風靡せざるはなく、刺史の広陵王欣は文武を集めて従うべき方を議した。欣曰く「北海王・長楽王はともに同堂の兄弟なり、今宗廟の主は移らず、我は赦を受けんと欲す、諸君の意は各いかん」と。座中の人は色を失わざるはなく、光韶ひとり抗言して曰く「元顥は梁国に制せられ、本朝に兵を称し、本を抜き源を塞ぎて仇敵に資す、賊臣乱子、曠代に少儔、何ぞただ大王の家事のみならん、等しく朝眷を荷うて、仰ぎ従うを敢えず」と。長史の崔景茂・前瀛州刺史の張烈・前郢州刺史の房叔祖・徴士の張僧皓、皆云う「軍司の議是なり」と。欣すなわち元顥の使者を斬る。

まもなく輔国将軍・廷尉少卿に徴される。未だ至らざるに、太尉長史を除され、左将軍を加えられ、俄かに廷尉卿に遷る。時に秘書監の祖瑩が贓罪により弾劾され、光韶は必ずやこれを重法に致さんとす。太尉の陽城王徽・ 尚書令 しょうしょれい の臨淮王彧・吏部尚書の李神儁・侍中の李彧、並びに勢望当時にあって、皆祖瑩のために寛恕を求む。光韶正色して曰く「朝賢執事、舜の功に於いて未だ一を聞かず、如何ぞ反って罪人のために言わんや」と。その執意回らざることかくの如し。

永安の末、擾乱の際に、遂に郷里に還る。光韶は博学強弁、特に理論を好み、人倫名教の得失の間に至っては、搉りてこれを論じ、一毫も物に仮さず。家は財に足れども、性は倹吝にして、衣馬は弊瘦、食味は粗薄なり。初め光韶が都に在りし時、同里の王蔓が夜に盗賊に遇い、その二子を害された。孝莊帝は黄門の高道穆に詔して検捕を加えしめ、一坊の内、家別に搜索せしむ。光韶の宅に至り、綾絹銭布、匱篋に充積す。議者はその矯嗇を譏る。その家の資産は、皆光伯の営むところなり。光伯亡き後、その契を悉く焚く。河間の邢子才かつて銭数万を貸し、後送り返す。光韶曰く「これは亡弟の貸すところ、僕は知らず」と。竟に納れず。刺史の元弼の前妻は、光韶の継室の兄の女なりしが、元弼は貪婪にして、諸々の不法多し、光韶は親情を以て、亟に相非責し、元弼これを銜む。時に耿翔が州界に反し、元弼は光韶の子の通が賊と連結せりと誣え、その合家を囚え、考掠非理なり。而して光韶これと弁争し、辞色屈せず、会に樊子鵠が東道大使となり、その枉げらるるを知り、理を以てこれを出だす。時に人、樊に詣でて陳謝せんことを勧むるも、光韶曰く「羊舌大夫すでに成事あり、何ぞ往くを労せん」と。子鵠もまた歎いてこれを尚ぶ。後、刺史の侯淵が代わって下り疑懼し、軍を益都に停め、不軌を謀る。数百騎を令して夜に南郭に入り、光韶を劫し、兵を以て脅し、謀略を責む。光韶曰く「凡そ兵を起こす者は、名義を須う、使君今日の挙動は直ちに賊を作すのみ。父老知りて復た何の計かあらん」と。淵はこれを恨むと雖も、敬して敢えて害せず。まもなく征東将軍・金紫光禄大夫を除されるも、起たず。

光韶は世道屯邅、朝廷屡変を以て、門を閉ざし掃を却け、吉凶断絶す。子孫に誡めて曰く「吾は自ら立身古烈に慚じずと謂う、但だ禄命有限なるを以て、世に容れられて進取を希うべからず。官に在りし以来、一級も冒さず、官は達せざると雖も、経て九卿となる。且つ吾が平生素業、汝に遺すに足る、官閥また何ぞ言うに足らんや。吾は既に運薄く、便ち三娶を経たり、而して汝が兄弟は各同じく生ぜず、合葬は古に非ず、吾百年の後、合するを須いず。然れども贈諡の及ぶは、君恩より出づ、豈に子孫自らこれを求むるを容れんや、贈を求むるを須いず。若し吾が志に違わば、神霊有らば、汝が祀を享けず。吾兄弟は幼より老に至るまで、衣服飲食未だ一片同じからざるはなく、児女の官婚栄利の事に至っては、未だ先ず弟に推すことをせざるはなし。弟頃に横禍に遭い、権に松櫬を作す、亦た吾がために松棺を作すべく、吾をしてこれを見しめよ」と。卒す、年七十一。孝静帝の初め、侍中の賈思同が啓を申し、光韶を称述し、 散騎常侍 さんきじょうじ ・驃騎将軍・青州刺史を贈られる。

光韶の弟の光伯は、尚書郎・青州別駕なり。後に族弟の休が州を臨むに及び、遂に牒を申して解任を求む。尚書奏す「礼を按ずるに、始封の君は諸父昆弟を臣とせず、封君の子は昆弟を臣とすれども諸父を臣とせず、封君の孫は尽く臣とす。計るに始封の君は即ち世継の祖なり、尚お臣とすべからず、況んや今の刺史は既に世継に非ずして、臣吏の節を行い、笏を執り名を称することを得んや。光伯の請解を検するに、礼に率いて愆らず、請う宜しく許し遂げ、以て道教を明らかにすべし」と。霊太后、令してこれに従わしむ。まもなく北海太守を除く。有司その更満を以て、例に依り代わるを奏す。粛宗詔して曰く「光伯自ら海沂に莅りて、清風遠く著わり、兼ねてその兄の光韶復た能く栄を辞して侍養す、兄弟忠孝、宜しく甄録有るべく、更に三年を申べく、以て風化を厲すべし」と。後に歴て 太傅 たいふ 諮議参軍となる。

前廃帝の時、崔祖螭・張僧皓が逆を起こし、東陽を攻め、旬日の間に、衆十余万。刺史の東萊王貴平は光伯をして城を出でて慰労せしめんと欲す。兄の光韶曰く「城民の陵縱、日已久しく、人々これを恨み、その気甚だ盛ん。古人に言有り『衆怒は水火の如し』と、これを以て観るに、今日は慰諭して止むべからざるなり」と。貴平これを強ゆ。光韶曰く「使君一方に委せられ、万里を董摂し、而して経略の大事、国士とこれを図らず。共に腹心とするは、皆趨走の群小なり。既に綏遏してその萌を杜する能わず、又坐観してその衰挫を待つ能わず。小弟を蹙迫し、従って無名の行を為さしむ。若し単騎独往せば、或いは拘縶せられ、若し衆を以てこれに臨まば、勢い相拒敵せざるを得ず、懸けて見るに益無きなり」と。貴平これを逼り、已むを得ず、光伯遂に城を出づ。数里、城民は光伯兄弟が群情の繫ぐところなるを以て、人の劫留を慮り、防衛する者衆し。外人その戦わんと欲するを疑い、未だ曉諭に及ばずして、飛矢に中り卒す。征東将軍・青州刺史を贈られる。

子の滔、武定の末、殷州別駕。

【評】

史臣曰く、李崇は風質英重、毅然として秀立し、将相に当たり、望朝野に高く、美しいかな。崔亮は既に後事に明達し、動くに名迹有り、断年の選に於いて、これを失うこと逾えて遠く、弊を救う聞かず、終に国蠹となる、「苟もすること無きのみ」、その若きか。光韶は雅に居り正を仗し、国士の風有り。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻66