魏書

卷65 邢巒 李平

卷65 邢巒 李平

邢巒

原文邢巒

邢巒、字は洪賓、河間郡鄚県の人である。五世の祖の邢嘏は、石勒がたびたび召し出したが、応じなかった。邢嘏には子がなく、邢巒の高祖父の邢蓋が傍系の宗族から後を継いだ。邢蓋の孫の邢穎、字は宗敬、才学をもって知られた。世祖(太武帝)の時、范陽の盧玄・勃海の高允らと同時に召し出された。後に中書侍郎に任じられ、通直常侍・寧朔将軍・平城子を仮授され、命を受けて劉義隆のもとに使節として赴いた。後に病のため郷里に帰った。久しくして、世祖が群臣に邢穎について尋ねて言うには、「かつて邢穎は長者で、学問と道理があり、東宮に侍講すべきであったが、今その人はどこにいるか」。司徒の崔浩が答えて言うには、「邢穎は家に臥して病んでいる」。世祖は太醫を駅馬で急行させて治療に当たらせた。死去し、冠軍将軍・定州刺史を追贈され、諡を康といった。子の邢脩年、すなわち邢巒の父は、州の主簿であった。

原文邢巒,字洪賓,河間鄚人也。五世祖嘏,石勒頻徵,不至。嘏無子,巒高祖蓋,自旁宗入後。蓋孫穎,字宗敬,以才學知名。世祖時,與范陽盧玄、勃海高允等同時被徵。後拜中書侍郎,假通直常侍、寧朔將軍、平城子,銜命使於劉義隆。後以病還鄉里。久之,世祖訪穎於羣臣曰:「往憶邢穎長者,有學義,宜侍講東宮,今其人安在?」司徒崔浩對曰:「穎臥疾在家。」世祖遣太醫馳驛就療。卒,贈冠軍將軍、定州刺史,諡曰康。子脩年,即巒父也,州主簿。

邢巒は若くして学問を好み、書物を背負って師を求め、家は貧しかったが節操を磨き、ついに書物や伝記を広く読み通した。文才と実務の才略があり、美しい鬚髯をたくわえ、姿形は非常に立派であった。州郡が上表して推挙し、中書博士に任じられ、員外散騎侍郎に昇進し、高祖(孝文帝)に知遇を得て賞賛された。員外散騎常侍を兼ね、蕭賾のもとに使節として赴き、帰還すると通直郎に任じられ、中書侍郎に転じ、非常に寵遇を受け、常に座席に陪席した。高祖が薬を服用して散歩する途中、司空府の南に至り、邢巒の邸宅を見て、使者を遣わして邢巒に言わせた。「朝に薬を服用して散歩しここに至り、卿の邸宅を見て立ち止まった。東に徳ある館を望み、感慨無量である」。邢巒が答えて言うには、「陛下が中京(洛陽)に都を移し、まさに永遠に続く事業を建てられようとしている。臣の志は魏とともに栄え衰えることにあり、どうして永続する邸宅を営まないことがありましょうか」。高祖は司空の穆亮・僕射の李沖に言った。「邢巒のこの言葉は、その志が小さくない」。役人が秀才・孝廉の策試を上奏すると、詔して言うには、「秀才と孝廉では問う内容が異なり、経義と時務では策の内容が異なる。邢巒の才は清らかであるゆえ、秀才の策試を行わせよ」。

原文巒少而好學,負帙尋師,家貧厲節,遂博覽書傳。有文才幹略,美鬚髯,姿貌甚偉。州郡表貢,拜中書博士,遷員外散騎侍郎,為高祖所知賞。兼員外散騎常侍,使於蕭賾,還,拜通直郎,轉中書侍郎,甚見顧遇,常參座席。高祖因行藥至司空府南,見巒宅,遣使謂巒曰:「朝行藥至此,見卿宅乃住,東望德館,情有依然。」巒對曰:「陛下移構中京,方建無窮之業,臣意在與魏昇降,寧容不務永年之宅。」高祖謂司空穆亮、僕射李沖曰:「巒之此言,其意不小。」有司奏策秀、孝,詔曰:「秀、孝殊問,經權異策,邢巒才清,可令策秀。」

後に黄門郎を兼ねた。漢水の北に従軍して征伐し、邢巒は新野におり、後から到着した。高祖は言った。「伯玉(斉の新野太守の劉思忌か)は天がその心を迷わせ、鬼がその考えを惑わし、危うい国を守り、逆らう主君に固執して、ついにこのようになった」。邢巒は言った。「新野がすでに陥落し、諸城はことごとく崩壊した。ただ伯玉のみが危機を識らず、平定殲滅する時は、旦夕のうちにあるでしょう」。高祖は言った。「ここに来て以来、まだ捕らえ滅ぼしてはいないが、城壁はすでに崩れ、遠くないうちに陥落すると思われる。攻撃を緩めているのは、ただ中書(邢巒)が勝利の布告文を作成するのを待っているだけである」。まもなく正黄門・御史中尉・瀛州大中正を拝命し、散騎常侍・尚書を兼ねた。

原文後兼黃門郎。從征漢北,巒在新野,後至。高祖曰:「伯玉天迷其心,鬼惑其慮,守危邦,固逆主,乃至如此。」巒曰:「新野既摧,眾城悉潰,唯有伯玉,不識危機,平殄之辰,事在旦夕。」高祖曰:「至此以來,雖未擒滅,城隍已崩,想在不遠。所以緩攻者,正待中書為露布耳。」尋除正黃門、兼御史中尉、瀛州大中正,遷散騎常侍、兼尚書。

世宗(宣武帝)の初め、邢巒が上奏して言うには、「臣は聞く、昔の明王が徳をもって天下を治めた者は、粟や絹を重んじ、金や宝を軽んじなかった。粟や絹は国を安んじ民を育てる方策であり、金や玉は虚華で徳を損なう物である。故に先帝(孝文帝)は古今を深く観察し、諸々の奢侈を去られた。衣服や車馬は質素なものを尊び、彫刻や鏤金を貴ばず、珍重するのは素朴さにあり、奇妙な綾羅を求めず、ついには紙や絹で帳や屏風を作り、銅や鉄で手綱や轡とした。朝廷には節倹を教え、百姓には憂い務めを示され、日夜孜孜として、大小の事柄を必ず慎重にされた。珠璣を軽んじ賤しんで、それらを設けないことを示し、府庫に蔵する金は、必要な分だけを切り出して用いるだけで、さらに買い集めて国費を浪費することはなかった。景明の初めに至り、太平の業を継承し、四方の辺境は平穏で、遠近の者が来て帰順し、そこで藩国からの貢ぎ物が道に続き、商人が交易で入り、諸々の献上や貿易は、常よりも倍以上多くなった。節約を加えても、なお毎年万単位で損耗し、珍しい財貨は常に余り、国家の費用は恒常的に不足している。もしその分限を制限しなければ、ついに一年を支えることができなくなる恐れがある。今より以後、必要でないものは、すべて受け取らないようお願いする」。世宗はこれに従った。まもなく尚書の正官となり、常侍はもとのままとした。

原文世宗初,巒奏曰:「臣聞昔者明王之以德治天下,莫不重粟帛,輕金寶。然粟帛安國育民之方,金玉是虛華損德之物。故先皇深觀古今,去諸奢侈。服御尚質,不貴雕鏤,所珍在素,不務奇綺,至乃以紙絹為帳扆,銅鐵為轡勒。訓朝廷以節儉,示百姓以憂務,日夜孜孜,小大必慎。輕賤珠璣,示其無設,府藏之金,裁給而已,更不買積以費國資。逮景明之初,承升平之業,四疆清晏,遠邇來同,於是蕃貢繼路,商賈交入,諸所獻貿,倍多於常。雖加以節約,猶歲損萬計,珍貨常有餘,國用恒不足。若不裁其分限,便恐無以支歲。自今非為要須者,請皆不受。」世宗從之。尋正尚書,常侍如故。

蕭衍の梁秦二州行事の夏侯道遷が漢中をもって内附した。詔して邢巒に使持節・都督征梁漢諸軍事・仮鎮西将軍を加え、進退や徴発・統制について、適宜の処置を行うことを許した。邢巒が漢中に到着すると、白馬より西はまだ帰順していなかった。邢巒は寧遠将軍の楊挙・統軍の楊衆愛・汜洪雅らに兵卒六千を率いさせて討伐させた。軍の鋒が臨むところ、賊はことごとく帰順した。ただ補谷の戍主の何法靜が城を拠り守って抵抗した。楊挙らが軍を進めて討伐すると、法靜は敗走し、勝ちに乗じて追撃して関城の下に至った。蕭衍の龍驤将軍で関城の流民の雑類(疑)の李侍叔が城を挙げて降伏した。蕭衍の輔国将軍の任僧幼ら三十余りの将が、南安・広長・東洛・大寒・武始・除口・平溪・桶谷の諸郡の民七千余戸を率いて、相次いで到来した。蕭衍の平西将軍の李天賜・晉壽太守の王景胤らが七千の兵を擁し、石亭に駐屯して拠った。統軍の韓多寶らが兵を率いてこれを撃ち、天賜の前軍の趙䐗を破り、一千三百を生け捕りにし斬った。統軍の李義珍を遣わして晉壽を討伐させると、景胤は夜逃げし、ついにこれを平定した。詔して言うには、「邢巒が現地に到着し、板授の官が必要であれば、初めて帰順した者を懐柔するため、等級の高低は、征義陽都督の格式に依拠してよい」。邢巒は使持節・安西将軍・梁秦二州刺史に任じられた。

原文蕭衍梁秦二州行事夏侯道遷以漢中內附,詔加巒使持節、都督征梁漢諸軍事、假鎮西將軍,進退徵攝,得以便宜從事。巒至漢中,白馬已西猶未歸順,巒遣寧遠將軍楊舉、統軍楊眾愛、汜洪雅等領卒六千討之。軍鋒所臨,賊皆款附,唯補谷戍主何法靜據城拒守。舉等進師討之,法靜奔潰,乘勝追奔至關城之下,蕭衍龍驤將軍關城流雜〈疑〉李侍叔逆以城降。蕭衍輔國將軍任僧幼等三十餘將,率南安、廣長、東洛、大寒、武始、除口、平溪、桶谷諸郡之民七千餘戶,相繼而至。蕭衍平西將軍李天賜、晉壽太守王景胤等擁眾七千,屯據石亭。統軍韓多寶等率眾擊之,破天賜前軍趙䐗,擒斬一千三百。遣統軍李義珍討晉壽,景胤宵遁,遂平之。詔曰:「巒至彼,須有板官,以懷初附,高下品第,可依征義陽都督之格也。」拜巒使持節、安西將軍、梁秦二州刺史。

蕭衍の巴西太守の龐景民は遠方にあるのを恃んで降伏しなかった。邢巒は巴州刺史の厳玄思を遣わして攻撃させ、景民を斬り、巴西はことごとく平定された。蕭衍はその冠軍将軍の孔陵らに二万の兵を率いさせ、深坑に駐屯して拠らせ、冠軍将軍の魯方達は南安を固守し、冠軍将軍の任僧褒・輔国将軍の李畎は石同を守備した。邢巒の統軍の王足が至るところでこれを撃破し、蕭衍の輔国将軍の楽保明・寧朔将軍の李伯度・龍驤将軍の李思賢を梟首し、賊はついに回車柵を守った。王足はさらに進撃して蕭衍の輔国将軍の范峻を討ち、そのほか斬り捕らえた者はほぼ一万に及んだ。孔陵らが残った兵を集めて梓潼に逃れて守ったが、王足はまたこれを破り、蕭衍の輔国将軍の符伯度を斬り、その殺傷され投身・溺死した者は一万余人に及んだ。土地を開き民を定め、東西七百里、南北千里、郡十四・二部の護軍および諸県の戍を獲得し、ついに涪城に迫った。邢巒が上表して言うには、

原文蕭衍巴西太守龐景民恃遠不降,巒遣巴州刺史嚴玄思往攻之,斬景民,巴西悉平。蕭衍遣其冠軍將軍孔陵等率眾二萬,屯據深坑,冠軍將軍魯方達固南安,冠軍將軍任僧褒、輔國將軍李畎戍石同。巒統軍王足所在擊破之,梟衍輔國將軍樂保明、寧朔將軍李伯度、龍驤將軍李思賢,賊遂保回車柵。足又進擊衍輔國將軍范峻,自餘斬獲殆將萬數。孔陵等收集遺眾,奔保梓潼,足又破之,斬衍輔國將軍符伯度,其殺傷投溺者萬有餘人。開地定民,東西七百,南北千里,獲郡十四、二部護軍及諸縣戍,遂逼涪城。巒表曰:

詔して言うには、「もし賊が敢えて隙を窺うならば、機会を見て討ち滅ぼせ。もしそのようなことがなければ、民を安んじ境を保ち、辺境の民心を喜ばせよ。蜀を攻める挙については、さらに後の詔勅を待て。まさに岷蜀を席卷し、西南を電掃せんとしているのに、どうして親を恋しむことを理由に、中途で退くことを告げることができようか。宜しく大計を励まし、必ずや高い謀略を伸ばすようにせよ」。邢巒がまた上表して言うには、

原文詔曰:「若賊敢闚𨵦,觀機翦撲;如其無也,則安民保境,以悅邊心。子蜀之舉,更聽後敕。方將席卷岷蜀,電掃西南,何得辭以戀親,中途告退!宜勗令圖,務申高略。」巒又表曰:

世宗は従わなかった。また王足が涪城で勝手に帰還したため、ついに蜀を平定しなかった。

原文世宗不從。又王足於涪城輒還,遂不定蜀。

邢巒は巴西を平定した後、軍主の李仲遷を遣わしてこれを守らせた。李仲遷は蕭衍の将の張法養の娘を得て、美しい容色があり、非常にこれに惑わされた。兵糧を浪費し散らし、ひたすら酒色にふけり、公事の諮問や承諾に、面会できる者がいなかった。邢巒はこれを歯ぎしりするほど憤った。李仲遷は恐れて謀反を企てたが、城内の者がその首を斬り、城を挙げて蕭衍の将の譙希遠に降伏したため、巴西はついに陥落した。武興の氐の楊集起らが反乱した。邢巒は統軍の傅豎眼を遣わして討伐平定させた。その話は豎眼伝にある。邢巒が初めて漢中に到着した時は、悠揚迫らぬ風雅な態度で、豪族には礼をもって接し、庶民には恩恵をもって撫でた。一年余りの後、かなり民衆の去就に乗じて、平民を誅殺し、奴婢として没収した者が二百余人に及び、兼ねて商売や収奪で財を集めたため、清議はこれを卑しんだ。度支尚書に召し出されて任命された。

原文巒既克巴西,遣軍主李仲遷守之。仲遷得蕭衍將張法養女,有美色,甚惑之。散費兵儲,專心酒色,公事諮承,無能見者。巒忿之切齒,仲遷懼,謀叛,城人斬其首,以城降衍將譙希遠,巴西遂沒。武興氐楊集起等反叛,巒遣統軍傅豎眼討平之,語在豎眼傳。巒之初至漢中,從容風雅,接豪右以禮,撫細民以惠。歲餘之後,頗因百姓去就,誅滅齊民,藉為奴婢者二百餘口,兼商販聚歛,清論鄙之。徵授度支尚書。

時に蕭衍が兵を遣わして徐・兗を侵軼し、辺境の鎮戍が相次いで陥落し、朝廷はこれを憂い、巒を使持節・都督東討諸軍事・安東将軍とし、尚書は元の如くとした。世宗は東堂で巒を労い送り出し、言うには、「蕭衍が辺境を寇すこと、この一月余りでますます甚だしくなり、諸軍は錯綜し、連なる戍が陥落するに至った。宋・魯の民は特に塗炭の苦しみを蒙っている。将軍が京に帰ってまだ久しくなく、膝下を離れがたいことは誠に承知しているが、東南の任は将軍でなければ誰も務まらない。将軍は大いに殊勲を立て、朕の思いに応えよ。古より忠臣もまた孝を欠くものではないのだ」。巒は答えて言うには、「賊は連城に送死するが如く、犬羊の衆は盛んであるが、しかし逆順の理は異なり、滅亡は遠くないでしょう。まして臣が陛下の神算を仗り、律に奉じてこれを摧くのですから、平定殄滅の期は指を屈して待つばかりです。どうか陛下は東南を憂慮されませんように」。世宗は言う、「漢祖が『金吾が郾を撃てば、我れ憂い無し』と言った。今将軍が軍を統率するならば、朕は何を憂えようか」。

原文時蕭衍遣兵侵軼徐兗,緣邊鎮戍相繼陷沒,朝廷憂之,乃以巒為使持節、都督東討諸軍事、安東將軍,尚書如故。世宗勞遣巒於東堂曰:「蕭衍寇邊,旬朔滋甚,諸軍舛互,規致連戍陷沒。宋魯之民尤罹湯炭。誠知將軍旋京未久,膝下難違,然東南之寄,非將軍莫可。將軍其勉建殊績,以稱朕懷,自古忠臣亦非無孝也。」巒對曰:「賊雖送死連城,犬羊眾盛,然逆順理殊,滅當無遠。況臣仗陛下之神算,奉律以摧之,平殄之期可指辰而待,願陛下勿以東南為慮。」世宗曰:「漢祖有云『金吾擊郾,吾無憂矣』,今將軍董戎,朕何慮哉。」

先に、蕭衍の輔国将軍蕭及先が二万の衆を率いて固城を寇陥し、冠軍将軍魯顕文・驍騎将軍相文玉らが一万の衆を率いて孤山に屯し、蕭衍の将角念らが一万の衆を率いて亀蒙を擾乱し、土民が逆に従うこと、十室にして五に及んだ。巒は統軍樊魯を遣わして文玉を討たせ、別将元恒に固城を攻めさせ、統軍畢祖朽に角念を討たせた。樊魯は大いに文玉らを破り、八十余里を追撃し、四千余級を斬首した。元恒もまた固城を破り、畢祖朽はまた念らを破り、兗州は悉く平定された。巒は睢口において賊将藍懐恭を破り、宿豫を包囲して進んだ。しかし懐恭らはまた清南に城を築き、水陸の路を断たんと図った。巒はみずから諸軍を率い、水南より進み、平南将軍楊大眼を北よりこれに迫らせ、統軍劉思祖らに水を挟んで筏を造らせ、その船舫を焼かせた。衆軍は斉しく進み、柵を抜き塹を埋め、その城に登った。火は中流に起こり、四面より俱に撃ち、ついに賊城を陥とし、数万を俘斬した。陣中において別に懐恭を斬り、その列侯・列将・直閤・直後三十余人を擒え、一万を俘斬した。宿豫が既に平定されると、蕭昞もまた淮陽において退走し、二戍で四十余万石の米を獲た。

原文先是,蕭衍輔國將軍蕭及先率眾二萬,寇陷固城;冠軍將軍魯顯文、驍騎將軍相文玉等率眾一萬,屯於孤山;衍將角念等率眾一萬,擾亂龜蒙,土民從逆,十室而五。巒遣統軍樊魯討文玉,別將元恒攻固城,統軍畢祖朽討角念。樊魯大破文玉等,追奔八十餘里,斬首四千餘級。元恒又破固城,畢祖朽復破念等,兗州悉平。巒破賊將藍懷恭於睢口,進圍宿豫。而懷恭等復於清南造城,規斷水陸之路。巒身率諸軍,自水南而進,遣平南將軍楊大眼從北逼之,統軍劉思祖等夾水造筏,燒其船舫。眾軍齊進,拔柵填塹,登其城。火起中流,四面俱擊,仍陷賊城,俘斬數萬。在陳別斬懷恭,擒其列侯、列將、直閤、直後三十餘人,俘斬一萬。宿豫既平,蕭昞亦於淮陽退走,二戍獲米四十餘萬石。

世宗は巒に璽書を賜い、言うには、「大いに醜虜を龕定し、威は賊庭に振るい、淮外は霧の如く披け、徐方は塵埃の如く捲かれ、王略は遠く恢められ、混一の業始まることを知る。公私慶泰、何の快さかこれに如かん!賊衍のこの挙は、実に国を傾けんとするものなり。比来宿豫は陥没し、淮陽は城に嬰り、凶狡は侜張し、王旅に抗せんと図る。将軍の忠規は協著し、火の烈しきは霜を摧き、電の動くは岱陰に及び、風の掃うは沂嶧に至り、遂に逋誅の寇を一朝に殲夷し、元鯨の大憝を千里に折首せしむ。殊勲茂捷、古より二つ莫し。但だ揚区未だ安からず、余燼は宜しく蕩うべく、乗勝して掎角すべく、その勢い遺すべからず。便ち三軍を率厲し、時に因りて経略し、威を東南に申し、彼の江介を清め、この仍労を忘れ、永逸を図るに用いよ。進退の規度は、高算に委ぬ」。また詔して巒に言うには、「淮陽・宿豫は既に清復されたが、梁城の賊はなお敢えて聚結す。事は宜しく乗勝し、勢いを併せて摧殄すべし。二万の衆を率いて淮を渡り、征南と掎角し、進取の計を図るべし」。

原文世宗賜巒璽書曰:「知大龕醜虜,威振賊庭,淮外霧披,徐方卷壒,王略遠恢,混一維始,公私慶泰,何快如之!賊衍此舉,實為傾國。比者宿豫陷歿,淮陽嬰城,凶狡侜張,規抗王旅。將軍忠規協著,火烈霜摧,電動岱陰,風掃沂嶧,遂令逋誅之寇,一朝殲夷;元鯨大憝,千里折首。殊勳茂捷,自古莫二。但揚區未安,餘燼宜盪,乘勝掎角,勢不可遺。便可率厲三軍,因時經略,申威東南,清彼江介,忘此仍勞,用圖永逸,進退規度,委之高算。」又詔巒曰:「淮陽、宿豫雖已清復,梁城之賊,猶敢聚結,事宜乘勝,并勢摧殄。可率二萬之眾渡淮,與征南掎角,以圖進取之計。」

梁城の賊が走ると、中山王英は乗勝して鍾離を攻め、また詔して巒に衆を率いてこれに会わしめた。巒は上表して言うには、「詔旨を奉被し、臣に淮を済ませて征南と掎角し、乗勝して長駆せよと命じられるは、実にその機会なり。但だ愚懷の量る所、窃かに未だ尽きざるあり。南を図るは積風に因り、国を伐つは資給に在り、兵を用い戎を治むるは、須らく先ず計校すべし。必勝を抑えて為すべからず、その無能を幸いとすべからず。若し地を掠め民を誅せんと欲すれば、必ず万勝すべし。城を攻め邑を取らんと欲すれば、その果たすを見ず。得れば益す所幾ばくもなく、獲ざれば虧損必ず大なり。蕭衍は江東を傾竭して今年の挙と為し、疲兵喪衆、大敗して還り、君臣計を失い、天下の笑いを取る。野戦は人に敵せずとも、守城は余り有り。今これを攻むるも、未だ易く克つべからず。又、広陵は懸遠にして、江を去ること四十里、鍾離・淮陰は淮外に介在す。仮にその帰順して来たるも、なお糧無くして守り難からんことを恐る。況んや攻討を加え、兵士を労せしむるにおいてをや。且つ征南の軍士は戎に従うこと二時、疲弊死病、量りて知るべし。乗勝の資有りと雖も、遠用の力無からんことを懼る。臣の愚見に若しは、旧戍を修復し、辺方を牢実にし、中州を息養して、後の挙に擬すべしと謂う。又、江東の釁は、久しき無からんことを患えず。力を畜え機を待つ、勝計と謂うべし」。詔して言うには、「淮を済みて掎角すること、事は前の敕の如し。何ぞなおかくの如く磐桓し、方にこの請い有らんや。速やかに進軍すべし。経略の宜しきは征南の至要を聴け」。

原文及梁城賊走,中山王英乘勝攻鍾離,又詔巒帥眾會之。巒表曰:「奉被詔旨,令臣濟淮與征南掎角,乘勝長驅,實是其會。但愚懷所量,竊有未盡。夫圖南因於積風,伐國在於資給,用兵治戎,須先計校。非可抑為必勝,幸其無能。若欲掠地誅民,必應萬勝;如欲攻城取邑,未見其果。得之則所益未幾,不獲則虧損必大。蕭衍傾竭江東,為今歲之舉,疲兵喪眾,大敗而還,君臣失計,取笑天下。雖野戰非人敵,守城足有餘,今雖攻之,未易可克。又廣陵懸遠,去江四十里,鍾離、淮陰介在淮外,假其歸順而來,猶恐無糧艱守,況加攻討,勞兵士乎?且征南軍士從戎二時,疲弊死病,量可知已。雖有乘勝之資,懼無遠用之力。若臣之愚見,謂宜修復舊戍,牢實邊方,息養中州,擬之後舉。又江東之釁,不患久無,畜力待機,謂為勝計。」詔曰:「濟淮掎角,事如前敕,何容猶爾磐桓,方有此請!可速進軍,經略之宜聽征南至要。」

巒はまた上表して言うには、「蕭衍が境を侵し、久しく王師を労す。今その奔走するは、実に辺患を除くに由る。これは皇魏の霊賛に由り、寇豎を天敗するもので、臣らの弱劣の能く克勝する所にあらず。臣の愚見に若しは、今正に辺鎮を修復し、後の動きを俟つべし。且つ蕭衍なお在り、凶身未だ除かれず。螳蜋の志、何ぞ自ら息まん。広く備えを為してその来るを待つのみ。実に師を労して遠く入り、自ら疲困を取るべからず。今、中山が鍾離に進軍するは、実に未だ解せず。若し得失の計を為し、万全を顧みず、直ちに広陵を襲い、その内地に入り、その不備に出でば、或いは未だ知るべからず。正に兵を屯せんと欲するに、蕭密の余軍なお自ら彼に在り。糧無しと言わんと欲すれば、運船また至る。而して八十日の糧を以て城を図らんとするは、臣未だこれを聞かず。且つ広陵・任城は前戒と為すべく、豈に今またこれと同じくせんことを容れんや。今若し往かば、彼は牢城自守し、人と戦わず、城壍水深く、填塞すべからず。空しく春に至るまで坐すれば、則ち士自ら弊苦せん。臣を遣わして彼に赴かしむるも、糧何を以て致さん。夏来の兵は冬服を齎さず、脱しくは冰雪に遇わば、取済何方にかせん。臣は寧ろ怯懦不進の責を荷い、敗損空行の罪を受けず。鍾離は天険、朝貴の具うる所、若し内応有らば則ち知る所にあらず、若し其れ無ければ、必ず克つ状無からん。若し其れ復たざれば、その辱如何。若し臣の言を信ぜば、願わくは臣の停まるを賜え。若し臣を行き難しとして回らんと求むと謂わば、臣の領する兵統は悉く中山に付し、その処分に任せ、臣は単騎を求めて東西に随逐せん。且つ俗諺に云う、耕すには田奴に問い、絹には織婢に問うと。臣は武ならずと雖も、忝くも征将に備わり、前の宜しき可否、頗る実にこれを知る。臣既に難しと謂う、何ぞ強いて遣わさんことを容れん」。詔して言うには、「安東は頻りに軍を罷めんことを請い、遅回して未だ往かず。戎規を阻異し、殊に至望に乖く。士馬既に殷し、停積容るべからず。宜しく神速を務め、東西斉契し、乗勝して掃殄し、機会に赴くべし」。巒は累表して還るを求め、世宗はこれを許した。英は果たして敗退し、時に人はその識略に伏した。

原文巒又表曰:「蕭衍侵境,久勞王師,今者奔走,實除邊患,斯由靈贊皇魏,天敗寇豎,非臣等弱劣所能克勝。若臣之愚見,今正宜修復邊鎮,俟之後動。且蕭衍尚在,凶身未除,螳蜋之志,何能自息。唯應廣備以待其來,實不宜勞師遠入,自取疲困。今中山進軍鍾離,實所未解,若能為得失之計,不顧萬全,直襲廣陵,入其內地,出其不備,或未可知。正欲屯兵,蕭密餘軍猶自在彼;欲言無糧,運船復至。而欲以八十日糧圖城者,臣未之前聞。且廣陵、任城可為前戒,豈容今者復欲同之。今若往也,彼牢城自守,不與人戰,城壍水深,非可填塞,空坐至春,則士自弊苦。遣臣赴彼,糧何以致?夏來之兵,不齎冬服,脫遇冰雪,取濟何方?臣寧荷怯懦不進之責,不受敗損空行之罪。鍾離天險,朝貴所具,若有內應,則所不知,如其無也,必無克狀。若其不復,其辱如何!若信臣言也,願賜臣停;若謂臣難行求回,臣所領兵統悉付中山,任其處分,臣求單騎隨逐東西。且俗諺云,耕則問田奴,絹則問織婢。臣雖不武,忝備征將,前宜可否,頗實知之,臣既謂難,何容強遣。」詔曰:「安東頻請罷軍,遲回未往,阻異戎規,殊乖至望。士馬既殷,無容停積,宜務神速,東西齊契,乘勝掃殄,以赴機會。」巒累表求還,世宗許之。英果敗退,時人伏其識略。

初め、侍中盧昶は巒と不和であった。昶と元暉はともに世宗の寵愛を受けており、御史中尉崔亮は昶の党であった。昶・暉は亮に巒を糾させ、事成れば世宗に言上して亮を侍中とすることを許した。亮はここにおいて奏劾して、巒が漢中において良人を掠めて奴婢としたと。巒は昶らに陥れられんことを懼れ、乃ち漢中で得た巴西太守龐景民の娘化生ら二十余口を暉に与えた。化生ら数人は奇色なり。暉は大いに悦び、乃ち昶に背いて巒のために世宗に言うには、「巒は新たに大功有り、既に赦宥を受けたり。宜しく方にこの獄を為すべからず」と。世宗はこれを納れた。高肇は巒に克敵の効有るを以て、昶らに排せられるを助け、巒のために申釋した。故に坐せられずに済んだ。

原文初,侍中盧昶與巒不平,昶與元暉俱世宗所寵,御史中尉崔亮,昶之黨也。昶、暉令亮糾巒,事成許言於世宗以亮為侍中。亮於是奏劾巒在漢中掠良人為奴婢。巒懼為昶等所陷,乃以漢中所得巴西太守龐景民女化生等二十餘口與暉。化生等數人,奇色也,暉大悅,乃背昶為巒言於世宗云:「巒新有大功,已經赦宥,不宜方為此獄也。」世宗納之。高肇以巒有克敵之效,而為昶等所排,助巒申釋,故得不坐。

豫州の城民白早生が刺史司馬悦を殺害し、城を挙げて南(梁)に帰順した。蕭衍はその冠軍将軍斉苟仁を派遣し、軍勢を率いて懸瓠を占拠させた。詔により邢巒は持節を帯び、羽林の精鋭騎兵を率いてこれを討伐に向かった。平舒県開国伯に封ぜられ、食邑五百戸を賜り、宿豫での功績を賞されたのである。世宗(宣武帝)は東堂に臨み、邢巒を労い送り出して言った。「司馬悦は重門の戒めを慎まず、智は身を謀るに足らず、ただに元(首)を隷豎(下賤の者)に喪うのみならず、大いに王略を損なった。懸瓠は近畿に密接し、東南の藩屏である。公(邢巒)がそこにいることを思えば、憂慮は特に深い。早生は理屈上単独で立てず、必ず遠く呉楚(梁)を引き入れ、士民は悪に同調し、形勢によっては交戦するだろう。卿は文は昭らかに武は烈しく、朝の南仲(周の名将)である。故に卿に星の如く言い、電の如く邁進させ、その不意を衝かせるのだ。卿は言え、早生は逃げるか守るか?いつこれを平定できるか?」邢巒は答えて言った。「早生にはこのようなことを成し遂げる深謀大智はありません。ただ司馬悦が百姓を虐げたのに乗じ、衆怒に依ってこれを行ったに過ぎず、民は凶威に脅かされ、已むを得ずに苟くも付従しているのです。仮に蕭衍の軍が応援に入ったとしても、水路は通じず、糧食の輸送は続かず、やはり生け捕りになるだけで、害をなすことはできません。早生が衍の軍の応接を得れば、利欲の情に溺れ、必ず守って逃げないでしょう。今、王師がもし臨めば、士民は必ず翻然として帰順します。窮城にこれを包囲し、奔走の路を絶てば、この年を越さず、必ずその首を京師に伝えるでしょう。願わくは陛下、慮りを垂れるに足らず。」世宗は笑って言った。「卿の言葉はなんと壮なるかな!朕が卿を遣わす意に深く合う。卿の親が老いていることを知り、頻りに外で労させるが、忠孝は倶に成らず、才は世を救うに宜しく、辞することは得ない。」

原文豫州城民白早生殺刺史司馬悅,以城南入,蕭衍遣其冠軍將軍齊苟仁率眾入據懸瓠。詔巒持節率羽林精騎以討之。封平舒縣開國伯,食邑五百戶,賞宿豫之功也。世宗臨東堂,勞遣巒曰:「司馬悅不慎重門之戒,智不足以謀身,匪直喪元隸豎,乃大虧王略。懸瓠密邇近畿,東南藩捍,度公之在彼,憂慮尤深。早生理不獨立,必遠引吳楚,士民同惡,勢或交兵。卿文昭武烈,朝之南仲,故令卿星言電邁,出其不意。卿言早生走也守也?何時可以平之?」巒對曰:「早生非有深謀大智能構成此也,但因司馬悅虐於百姓,乘眾怒而為之,民為凶威所懾,不得已而苟附。假蕭衍軍入應,水路不通,糧運不繼,亦成擒耳,不能為害也。早生得衍軍之接,溺於利欲之情,必守而不走。今王師若臨,士民必翻然歸順。圍之窮城,奔走路絕,不度此年,必傳首京師。願陛下不足垂慮。」世宗笑曰:「卿言何其壯哉!深會朕遣卿之意。知卿親老,頻勞於外,然忠孝不俱,才宜救世,不得辭也。」

そこで邢巒は騎兵八百を率い、倍道兼行し、五日で鮑口に駐屯した。賊は大将軍胡孝智を派遣し、七千の兵を率い、城を二百里離れて、迎え撃って来た。邢巒は孝智を撃破し、勝ちに乗じて長駆し、懸瓠に至った。賊は城を出て迎え撃ったが、また大いにこれを破り、そのまま汝水を渡った。やがて大軍が続いて到着し、遂に長くこれを包囲した。詔して邢巒に使持節・仮鎮南将軍・都督南討諸軍事を加えた。征南将軍・中山王元英が三関を南討するため、懸瓠に駐屯したが、後軍が未だ至らず、前方の敵が稍々多いため、恐れて進まず、邢巒と分兵して犄角の勢いでこれを攻めた。蕭衍の将軍斉苟仁ら二十一人が門を開いて出降し、即座に早生ら同悪数十人を斬った。豫州が平定され、邢巒は軍を整えて京師に帰還した。世宗は東堂に臨んでこれを労い、言った。「卿の役は時を踰えず、妖醜を克く清め、鴻勲碩美、古人に愧じないと言えよう。」邢巒は答えて言った。「これは陛下の聖略威霊と、元英ら将士の力によるもので、臣に何の功がありましょうか。」世宗は笑って言った。「卿はただに一月三捷のみならず、称えるに足る奇なるは、士伯(功を譲る態度)を存し、功成りて処わらんと欲することにある。」

原文於是巒率騎八百,倍道兼行,五日次於鮑口。賊遣大將軍胡孝智率眾七千,去城二百,逆來拒戰。巒擊破孝智,乘勝長驅,至於懸瓠。賊出城逆戰,又大破之,因即渡汝。既而大兵繼至,遂長圍之。詔加巒使持節、假鎮南將軍、都督南討諸軍事。征南將軍、中山王英南討三關,亦次於懸瓠,以後軍未至,前寇稍多,憚不敢進,乃與巒分兵掎角攻之。衍將齊苟仁等二十一人開門出降,即斬早生等同惡數十人。豫州平,巒振旅還京師。世宗臨東堂勞之,曰:「卿役不踰時,克清妖醜,鴻勳碩美,可謂無愧古人。」巒對曰:「此自陛下聖略威靈,英等將士之力,臣何功之有。」世宗笑曰:「卿匪直一月三捷,所足稱奇,乃存士伯,欲功成而不處。」

邢巒は宿豫での大捷以来、及び懸瓠平定後、志行を修正し、もはや財賄を心にかけず、軍資や軍事物資には絲毫も手を付けなかった。殿中尚書に遷り、撫軍将軍を加えられた。延昌三年、暴疾に倒れて卒去した。享年五十一。邢巒は文武を兼ねる才を持ち、朝野の瞻望するところであり、上下その死を悼み惜しんだ。詔して帛四百匹を賻い、朝服一襲を賜り、車騎大将軍・瀛州刺史を追贈された。初め、世宗は冀州を贈ろうとしたが、黄門侍郎甄琛は邢巒がかつて自分を弾劾したことがあるため、「瀛州は巒の本邦であり、人情の欲するところです」と言った。そこでこれに従った。甄琛が詔を作成した時、「優しく車騎将軍・瀛州刺史を贈る」と書いたので、議者は甄琛の浅薄さを笑った。諡して文定と言う。

原文巒自宿豫大捷,及平懸瓠,志行修正,不復以財賄為懷,戎資軍實絲毫無犯。遷殿中尚書,加撫軍將軍。延昌三年,暴疾卒,年五十一。巒才兼文武,朝野瞻望,上下悼惜之。詔賻帛四百匹,朝服一襲,贈車騎大將軍、瀛州刺史。初,世宗欲贈冀州,黃門甄琛以巒前曾劾己,乃云:「瀛州巒之本邦,人情所欲。」乃從之。及琛為詔,乃云「優贈車騎將軍、瀛州刺史」,議者笑琛淺薄。諡曰文定。

子の邢遜、字は子言。容貌は陋短であるが、頗る風気があった。司徒行参軍より出仕し、爵位を襲った。後に国子博士・本州中正に遷った。霊太后に謁見した際、自ら陳べて言った。「功名の子として、久しく沈屈を抱えております。臣の父は屡々大将となりましたが、臣の身には軍功の階級がなく、臣の父はただ忠臣たりえても、慈父たりえませんでした。」霊太后は慨然として、邢遜を長兼吏部郎中とした。出て安遠将軍・平州刺史となった。当時、北蕃は多難であり、赴任を稽留して進まず、免官された。孝庄帝の初め、輔国将軍・通直散騎常侍・東道軍司に任ぜられ、濮陽で逆賊劉挙を討ったが、勝てなかった。帰還し、散騎常侍に任ぜられ、前将軍を加えられた。永安二年、任城王元顥に従った罪により、除名された。まもなく撫軍将軍・金紫光禄大夫に任ぜられた。出帝(孝武帝)の時、衛将軍・右光禄大夫に転じた。孝静帝の初め、本官のまま嘗薬典御を領し、車騎将軍を加えられた。久しくして大司農卿に任ぜられたが、少卿の馬慶哲と互いに糾訟した。邢遜は財利に鋭く、議者はこれを卑しんだ。武定四年に卒去した。享年五十六。本将軍・光禄勲卿・幽州刺史を追贈された。

原文子遜,字子言。貌雖陋短,頗有風氣。解褐司徒行參軍。襲爵。後遷國子博士、本州中正。因謁靈太后,自陳:「功名之子,久抱沉屈。臣父屢為大將,而臣身無軍功階級,臣父唯為忠臣,不為慈父。」靈太后慨然,以遜為長兼吏部郎中。出為安遠將軍、平州刺史。時北蕃多難,稽留不進,免。孝莊初,除輔國將軍、通直散騎常侍、東道軍司,討逆賊劉舉於濮陽,不克。還,除散騎常侍,加前將軍。永安二年,坐受任元顥,除名。尋除撫軍將軍、金紫光祿大夫。出帝時,轉衞將軍、右光祿大夫。孝靜初,以本官領嘗藥典御,加車騎將軍。久之,除大司農卿,與少卿馬慶哲至相糾訟。遜銳於財利,議者鄙之。武定四年卒,年五十六。贈本將軍、光祿勳卿、幽州刺史。

子の邢祖微は、開府祭酒となった。父の喪が終わらないうちに謀反を企て、法に伏して誅された。

原文子祖微,開府祭酒。父喪未終,謀反,伏法。

邢巒の弟の邢儒は、瀛州鎮遠府長史・給事中となった。

原文巒弟儒,瀛州鎮遠府長史、給事中。

邢儒の弟の邢偉は、尚書郎中となった。卒去し、博陵太守を追贈された。子の邢昕は、文苑伝にある。

原文儒弟偉,尚書郎中。卒,贈博陵太守。子昕,在文苑傳。

邢偉の弟は邢季彦である。

原文偉弟季彥。

邢季彦の弟の邢晏、字は幼平。風儀美しく、経史に広く渉猟し、釈老を談ずることを善くし、文詠を雅好した。太学博士・司徒東閤祭酒より出仕した。世宗の初め、広平王元懷と遊宴したため、鄚県令に左遷されたが、赴任しなかった。給事中に任ぜられ、司空主簿・本州中正・汝南王文学に遷った。稍々遷って輔国将軍・司空長史・兼吏部郎中となった。本将軍のまま出て南兗州刺史となった。召されて太中大夫・兼丞相高陽王右長史となった。まもなく本将軍のまま滄州刺史に任ぜられた。政は清静で、吏民はこれに安んじた。孝昌年中に卒去した。享年五十一。征北将軍・尚書左僕射・瀛州刺史を追贈され、諡して文貞と言う。邢晏は義譲に篤く、初めて南兗州刺史となった時、例により一子を解褐させる権利を得たが、その孤弟の子の子慎(十二歳)を推挙した。一方、自分の子は既に弱冠であった。後に滄州にいた時、また孤兄の子の邢昕を府主簿に推挙したが、自分の子は官に従わせなかった。世人はこれをもって彼を称えた。

原文季彥弟晏,字幼平。美風儀,博涉經史,善談釋老,雅好文詠。起家太學博士、司徒東閤祭酒。世宗初,為與廣平王懷遊宴,左遷鄚縣令,未之官。除給事中,遷司空主簿、本州中正、汝南王文學。稍遷輔國將軍、司空長史、兼吏部郎中。以本將軍出為南兗州刺史。徵為太中大夫、兼丞相高陽王右長史。尋以本將軍除滄州刺史。為政清靜,吏民安之。孝昌中卒,時年五十一。贈征北將軍、尚書左僕射、瀛州刺史,諡曰文貞。晏篤於義讓,初為南兗州刺史,例得一子解褐,乃啟其孤弟子子慎,年甫十二,而其子已弱冠矣。後為滄州,復啟孤兄子昕為府主簿,而其子並未從官。世人以此多之。

子の邢測は、武定末年に太子洗馬となった。

原文子測,武定末,太子洗馬。

邢測の弟の邢亢、字は子高、頗る文学があった。司空行参軍より出仕した。広平王開府從事中郎に遷った。兼通直散騎常侍となり、蕭衍のもとに使節として赴いた。時に二十八歳であった。帰還し、平東将軍に任ぜられ、斉文襄王(高澄)の大将軍府属となり、また中外府属に転じた。武定七年、事に坐して晋陽で死んだ。享年三十四。

原文測弟亢,字子高,頗有文學。釋褐司空行參軍。遷廣平王開府從事中郎。兼通直散騎常侍,使於蕭衍,時年二十八。還,除平東將軍,齊文襄王大將軍府屬,又轉中外府屬。武定七年,坐事死於晉陽,年三十四。

邢巒の叔祖の邢祐、字は宗祐。若くして学尚があり、時に知名であった。著作郎に徴され、楽浪王傅を領した。後に仮員外散騎常侍となり、劉彧(宋の明帝)のもとに使節として赴いた。将命の勤めにより、建威将軍・平原太守に任ぜられ、城平男の爵を賜った。政は清く刑は粛として、百姓はこれに安んじた。卒去した。享年七十三。

原文巒叔祖祐,字宗祐。少有學尚,知名於時。徵除著作郎,領樂浪王傅。後假員外散騎常侍,使於劉彧。以將命之勤,除建威將軍、平原太守,賜爵城平男。政清刑肅,百姓安之。卒,年七十三。

子の邢産、字は神宝。学を好み、文を属することを善くした。若い時に『孤蓬賦』を作り、時に称された。秀才に挙げられ、著作佐郎に任ぜられた。仮員外常侍・鄚県子となり、蕭賾(斉の武帝)のもとに使節として赴いた。邢産は代々使命を帯び、時人はこれを美とした。後に中書侍郎に遷り、俄かに太子中庶子に遷った。卒去した。享年四十六、朝廷は嗟惜した。建威将軍・平州刺史・楽城子を追贈され、諡して定と言う。

原文子產,字神寶。好學,善屬文。少時作孤蓬賦,為時所稱。舉秀才,除著作佐郎。假員外常侍、鄚縣子,使於蕭賾。產仍世將命,時人美之。後遷中書侍郎,俄遷太子中庶子。卒,年四十六,朝廷嗟惜焉。贈建威將軍、平州刺史、樂城子,諡曰定。

祐の従子の虬は、字を神虎という。若くして三礼の鄭氏学を修め、経書に明るく文才があった。秀才に挙げられ上第となり、中書議郎・尚書殿中郎となった。高祖が公事の際に語らい、朝覲宴饗の礼について問うと、虬は経書に基づいて答え、上意に大いに合った。司徒属・国子博士に転じた。高祖が崩御すると、尚書令の王粛は多く新儀を用いたが、虬はしばしば五経の正礼をもってこれを論破した。尚書右丞に転じ、左丞に移り、多くを糾正し、台閣は粛然とした。時に雁門の人に母を害する者がおり、八座は轘刑に処しその家屋を汚池とし、その二子を赦すよう上奏した。虬は反駁して上奏して言うには、「君親に対しては逆心を抱いてはならず、抱けば必ず誅される。今、謀逆の者は期親にまで刑戮が及ぶのに、親を害する者は今、子に及ばない。既に逆の甚だしさは梟鏡(不孝鳥)の如く、禽獣にも及ばず、しかもその祭祀を絶やさず、子孫を永く伝えさせるのは、忠孝の道を勧め、三綱の義を存する所以ではない。もし聖教が寛容をもって、妻子を殺戮せず、父子の罪を相及ぼさず、悪はその身に止めるとするならば、そうでなければ四裔に投げ棄て、所在の地で配偶することを許さぬべきである。盤庚が言う『新邑に種を易えしむることなかれ』、漢の法で五月に梟の羹を食うのは、皆その類を絶やそうとするものである。」上奏が入ると、世宗はこれに従った。まもなく司徒右長史を除され、龍驤将軍・光禄少卿に遷った。虬の母が郷里で病に罹ったため、休暇を請い帰郷した。折しも秋水が暴漲し、橋梁が破壊され絶えたが、虬は小船を得て渡り、船は漏れながらも沈没せず、当時の人はこれを異とした。母の喪に際しては、哀傷のあまり礼を越え、当時に称された。四十九歳で卒した。征虜将軍・幽州刺史を追贈され、諡して威といった。虬は人と交わることを善くし、清河の崔亮・頓丘の李平とともに親善であった。作った碑頌雑筆は三十余篇。二子があった。

原文祐從子虬,字神虎。少為三禮鄭氏學,明經有文思。舉秀才上第,為中書議郎、尚書殿中郎。高祖因公事與語,問朝覲宴饗之禮,虬以經對,大合上旨。轉司徒屬、國子博士。高祖崩,尚書令王肅多用新儀,虬往往折以五經正禮。轉尚書右丞,徙左丞,多所糾正,臺閣肅然。時雁門人有害母者,八座奏轘之而潴其室,宥其二子。虬駁奏云:「君親無將,將而必誅。今謀逆者戮及期親,害親者今不及子,既逆甚梟鏡,禽獸之不若,而使禋祀不絕,遺育永傳,非所以勸忠孝之道,存三綱之義。若聖教含容,不加孥戮,使父子罪不相及,惡止於其身,不則宜投之四裔,敕所在不聽配匹。盤庚言『無令易種於新邑』,漢法五月食梟羹,皆欲絕其類也。」奏入,世宗從之。尋除司徒右長史,遷龍驤將軍、光祿少卿。虬母在鄉遇患,請假歸。值秋水暴長,河梁破絕,虬得一小船而渡,漏而不沒,時人異之。母喪,哀毀過禮,為時所稱。年四十九,卒。贈征虜將軍、幽州刺史,諡曰威。虬善與人交,清河崔亮、頓丘李平並與親善。所作碑頌雜筆三十餘篇。有二子。

長子の臧は、文苑伝にある。

原文長子臧,在文苑傳。

臧の弟子の才は、武定の末に太常卿となった。

原文臧弟子才,武定末,太常卿。

虬の従子の策もまた才学があった。斉王儀同開府主簿の任で卒した。

原文虬從子策,亦有才學。卒於齊王儀同開府主簿。

李平

原文李平

李平は、字を曇定といい、頓丘の人である。彭城王嶷の長子。若くして大度があった。成長すると、群書に渉猟し、礼・易を好み、頗る文才があった。太和の初め、通直散騎侍郎に拝され、高祖は彼を甚だ重んじた。頻りに大憂(父母の喪)に遭い、喪に服して孝で称された。後に例により爵位を降格され、彭城公の爵を襲った。太子中舎人に拝され、散騎侍郎に遷り、舎人はもとのままとし、太子中庶子に遷った。平は侍従の際に従容として自ら一郡の任に効力を請うた。高祖は言った、「卿はまた吏事をもって自らを試そうとするのか。」長楽太守に拝され、政務は清静で、吏民はこれを懐かしんだ。車駕が南伐するに当たり、平を以て冀州儀同開府長史を兼ねさせ、名声が大いに著しく、やがて正長史を除し、太守はもとのままとされた。間もなく、河南尹を行い、豪右権貴はこれを畏れた。世宗が即位すると、黄門郎を除し、司徒左長史に遷り、行尹はもとのままとされた。まもなく称職により正尹とされ、長史はもとのままとされた。

原文李平,字曇定,頓丘人也,彭城王嶷之長子。少有大度。及長,涉獵羣書,好禮、易,頗有文才。太和初,拜通直散騎侍郎,高祖禮之甚重。頻經大憂,居喪以孝稱。後以例降,襲爵彭城公。拜太子中舍人,遷散騎侍郎,舍人如故,遷太子中庶子。平因侍從容請自效一郡,高祖曰:「卿復欲以吏事自試也。」拜長樂太守,政務清靜,吏民懷之。車駕南伐,以平兼冀州儀同開府長史,甚著聲稱,仍除正長史,太守如故。未幾,遂行河南尹,豪右權貴憚之。世宗即位,除黃門郎,遷司徒左長史,行尹如故。尋以稱職正尹,長史如故。

車駕が鄴に行幸せんとした時、平は上表して諫めて言った、「伏して己丑の詔書を拝見するに、雲軒鑾輅、行幸に期有り、鳳服龍驂、近日に駕を剋すと。将に淇陽に武を講じ、大いに鄴魏を習わんとし、緑竹の区に驌騻を馳せ、漳滏の壤に驎驥を騁せんとす。これは誠に幽顕ともに忻び、人霊ともに悦ぶべきことである。臣の愚管、窃かに惑うところ有り。何となれば、嵩京は創構し、洛邑は俶営するも、年は十稔を跨ぐも、根基未だ就かず。代の民は洛に至り、始めて尽きんと欲し、資産は遷移に罄き、牛畜は輦運に斃れ、太行の険を陵ぎ、長津の難を越え、辛勤を備え経て、京闕に達するを得るも、富者ですら猶ほ太半を損ない、貧者は以て意に知るべし。兼ねて歳を歴て戎に従い、啓処に遑あらず、景明以来、ようやく休息を得たり。農に事える者は未だ二年の儲を積まず、室を築く者は裁すら数間の屋有るのみ、力を伊瀍に肆するに莫からず、人は其の務を急ぐ。実に新人を安静にし、其の稼穡を勧め、国に九年の糧有らしめ、家に水旱の備え有らしむるに宜し。若しこれに羈紲を以て乗ずれば、則ち廃する所多からん。一夫が役に従えば、挙家失業す。今また秋の稼は田に盈ち、禾菽は野に遍し、鑾駕の幸する所、騰践必ず殷んならん。未だ中天に端拱し、坐して四海を招き、崧原に武を耀わし、伊洛に礼射し、士馬に跋渉の労無く、兆民に康哉の詠有らしむるに若かず、美ならずや。」従わなかった。詔して本官のまま相州事を行わせた。世宗は鄴に至り、親しく平の邸に幸し、その諸子を見た。まもなく正刺史とし、征虜将軍を加えた。

原文車駕將幸鄴,平上表諫曰:「伏見己丑詔書,雲軒鑾輅,行幸有期,鳳服龍驂,剋駕近日。將欲講武淇陽,大習鄴魏,馳驌騻於綠竹之區,騁驎驥於漳滏之壤。斯誠幽顯同忻,人靈共悅。臣之愚管,竊有惑焉。何者?嵩京創構,洛邑俶營,雖年跨十稔,根基未就。代民至洛,始欲向盡,資產罄於遷移,牛畜斃於輦運,陵太行之險,越長津之難,辛勤備經,得達京闕,富者猶損太半,貧者可以意知。兼歷歲從戎,不遑啟處,自景明已來,差得休息。事農者未積二年之儲,築室者裁有數間之屋,莫不肆力伊瀍,人急其務。實宜安靜新人,勸其稼穡,令國有九年之糧,家有水旱之備。若乘之以羈紲,則所廢多矣。一夫從役,舉家失業。今復秋稼盈田,禾菽遍野,鑾駕所幸,騰踐必殷。未若端拱中天,坐招四海,耀武崧原,禮射伊洛,士馬無跋涉之勞,兆民有康哉之詠,可不美歟?」不從。詔以本官行相州事。世宗至鄴,親幸平第,見其諸子。尋正刺史,加征虜將軍。

平は農桑を勧め課し、太学を修飾し、通儒を簡試して博士に充て、五郡の聡敏なる者を選んでこれを教え、堂に孔子及び七十二子の像を図し、親しく立讃を為した。以前より台使は頗る侵取を好んだので、平は客館に「履虎尾」「践薄冰」の絵を描き、その下に頌を注して、戒めを示した。平東将軍を加えられ、長兼度支尚書に徴されて拝され、まもなく正尚書とされ、御史中尉を領した。

原文平勸課農桑,修飾太學,簡試通儒以充博士,選五郡聰敏者以教之,圖孔子及七十二子於堂,親為立讚。前來臺使頗好侵取,平乃畫「履虎尾」、「踐薄冰」於客館,注頌其下,以示誡焉。加平東將軍,徵拜長兼度支尚書,尋正尚書,領御史中尉。

冀州刺史・京兆王愉が信都で反逆した。平を使持節・都督北討諸軍事・鎮北将軍とし、冀州事を行わせてこれを討たせた。世宗は式乾殿に臨み、平を労って派遣に際し言った、「愉は朕の元弟、疑うべき地に居て、豺狼の心を、意図せずして発し、上は社稷を傾け、下は万姓を残さんとす。大義は親を滅す、夫れ豈に止むことを得んや。周公が古に行いしを、朕もまた今に行わんとす。専征の任を卿に委ぬ、必ずや期に応じて摧殄せしめ、経略の規を尽くす務め、推轂の寄を虧かさざるべし。何ぞ図らん今日斯の事に言及せんとは。」因りて歔欷して涙を流した。平は対えて言った、「臣愉は天その心を迷わし、この梟悖を構う。陛下は臣の武ならざるを以てせず、総督の任に委ぬ。今大宥既に敷かれぬれば、便ち征有りて戦無かるべし。もし迷いを守りて悟らざる者あらば、まさに天威を仰ぎ憑り、将士を抑厲し、譬えば猶ほ太陽の微露を消し、巨海の熒燭を蕩がすが如く、天時人事、滅すること昭然たり。もし其れ軍門に稽顙すれば、則ちこれを大理に送り、もし悛めずして戮を待たば、則ち鼓を鳴らし鍾に釁す、これ陛下の事に非ず。」

原文冀州刺史、京兆王愉反於信都,以平為使持節、都督北討諸軍事、鎮北將軍,行冀州事以討之。世宗臨式乾殿,勞遣平曰:「愉,朕之元弟,居不疑之地,豺狼之心,不意而發,欲上傾社稷,下殘萬姓。大義滅親,夫豈獲止。周公行之於古,朕亦當行之於今。委卿以專征之任,必令應期摧殄,務盡經略之規,勿虧推轂之寄也。何圖今日言及斯事。」因歔欷流涕。平對曰:「臣愉天迷其心,構此梟悖。陛下不以臣不武,委以總督之任,今大宥既敷,便應有征無戰。脫守迷不悟者,當仰憑天威,抑厲將士,譬猶太陽之消微露,巨海之蕩熒燭,天時人事,滅在昭然。如其稽顙軍門,則送之大理,若不悛待戮,則鳴鼓釁鍾,非陛下之事。」

平は進軍して経県に駐屯し、諸軍が大いに集結した。夜、蛮兵数千が平の前営を斬り込み、矢は平の帳幕に及んだが、平は堅く臥して動かず、やがて平定した。遂に冀州城南十六里に至った。賊は済州軍を攻囲し、柵を抜き塹を埋め、満たさざる所数尺となった。諸将が合戦したが、利あらずして還り、更に進むことを憚った。平は親しく行間に入り、重賞を以て勧めると、士卒は乃ち前進し、大いに逆賊の衆を破った。愉は時に落馬し、乃ち一人が下馬して愉に授け、留まって戦死した。勝に乗じて北を逐い、城門に至り、数万級を斬首し、遂に城を囲み門を焼いた。愉は百余騎とともに門を突破して出走したが、統軍の叔孫頭を遣わしてこれを追わせ、信都を去ること十里で愉を擒らえた。冀州が平定されると、世宗は兼給事黄門侍郎・秘書丞の元梵を遣わし旨を宣して慰労させた。京師に徴還され、本官のまま相州大中正を領した。

原文平進次經縣,諸軍大集。夜有蠻兵數千斫平前壘,矢及平帳,平堅臥不動,俄而乃定。遂至冀州城南十六里。賊攻圍濟州軍,拔柵填塹,未滿者數尺。諸將合戰,無利而還,憚於更進。平親入行間,勸以重賞,士卒乃前,大破逆眾。愉時墜馬,乃有一人下馬授愉,止而鬬死。乘勝逐北,至於城門,斬首數萬級,遂圍城燒門。愉與百餘騎突門出走,遣統軍叔孫頭追之,去信都十里擒愉。冀州平,世宗遣兼給事黃門侍郎、祕書丞元梵宣旨慰勞。徵還京師,以本官領相州大中正。

李平はかつて尚書令の高肇・侍御史の王顕に憎まれており、後に王顕が李平に代わって御史中尉となると、李平は散騎常侍を加えられたが、王顕は李平が冀州において官有の人口を隠匿・截取したと弾劾し、高肇もまたその事実をでっち上げて助け、上奏して李平の官爵を除名した。延昌初年、詔により官爵を回復し、定州・冀州での勲功を削除した。以前より良民と賤民の訴訟は、長年決着しないものが多かったが、李平は真偽を問わず、すべて景明年以前を期限とすることを上奏し、これにより争訟は止んだ。武川鎮の民が飢えると、鎮将の任款は貸与を請願したが許可されず、倉庫を開いて賑恤したため、有司は費用を散逸させた条項で糾弾し、その官爵を免じた。李平は任款の意図は民を救済することにあり、心に不善はないと上奏し、世宗はこれを許した。中書令に転じ、尚書はもとのまま。粛宗の初め、吏部尚書に転じ、撫軍将軍を加えられた。李平は高明で強力に事を成し、在任する所に名声があったが、性急であることを累いとした。尚書令・任城王元澄は李平の定州・冀州での勲功を理めて上奏し、山河の賞をもって酬いることを請うた。霊太后はそこで武邑郡開国公に封じ、食邑一千五百戸、縑二千五百匹を与えた。

原文平先為尚書令高肇、侍御史王顯所恨,後顯代平為中尉,平加散騎常侍,顯劾平在冀州隱截官口,肇又扶成其狀,奏除平名。延昌初,詔復官爵,除其定冀之勳。前來良賤之訟,多有積年不決,平奏不問真偽,一以景明年前為限,於是諍訟止息。武川鎮民飢,鎮將任款請貸未許,擅開倉賑恤,有司繩以費散之條,免其官爵。平奏款意在濟人,心無不善,世宗原之。遷中書令,尚書如故。肅宗初,轉吏部尚書,加撫軍將軍。平高明強濟,所在有聲,但以性急為累。尚書令、任城王澄奏理平定冀之勳,請酬以山河之賞。靈太后乃封武邑郡開國公,食邑一千五百戶,縑二千五百匹。

先に、蕭衍がその左游撃将軍趙祖悦を遣わして西硤石を密かに占拠させ、兵数万に至り、寿春を脅かした。鎮南将軍崔亮がこれを攻めたが、陥落せず、また李崇と仲違いした。詔により李平は本官のまま使持節・鎮軍大将軍・兼尚書右僕射として行台となり、諸軍を節度し、東西の州将はすべてこれに稟じ、もし違背があれば軍法をもって処断することとした。詔により李平の長子李奨を通直郎として従軍させ、李平に縑帛百段・紫納金装衫甲一領を賜り、李奨に縑布六十段・絳衲襖一領を賜った。父子が重ねて列し、家庭で拝受するのを見る者は栄誉とした。ここに歩騎二千を率いて寿春に向かった。李平は硤石の内外を巡視し、その虚実の所在を知った。李崇・崔亮を厳しく督励し、水陸ともに備えを整え、期日を定めて一斉に進撃させた。李崇・崔亮はこれを畏れ、敢えて違背しなかった。連日交戦し、しばしば賊軍を破った。安南将軍崔延伯は下蔡に橋を架け、賊の援軍を防いだ。賊将の王神念・昌義之らは進んで救援できず、趙祖悦は窮城を守って死を決した。李平はそこで攻撃を部署し、崔亮に陸軍を督して城西を攻めさせ、李崇に水軍を率いて東面を撃たせ、その後鼓噪して南北ともに攻め上らせた。賊衆は周章として東西に赴いて戦った。賊の外城を屠り、賊の将士は相次いで帰順した。趙祖悦はその余衆を率いて南城を固守し、夜通し攻防し、明け方になって降伏した。趙祖悦を斬り、首を洛陽に送り、捕虜は甚だ多かった。功により尚書右僕射に転じ、散騎常侍を加え、将軍はもとのまま。

原文先是,蕭衍遣其左游擊將軍趙祖悅偷據西硤石,眾至數萬,以逼壽春。鎮南崔亮攻之,未克,又與李崇乖貳。詔平以本官使持節、鎮軍大將軍、兼尚書右僕射為行臺,節度諸軍,東西州將一以禀之,如有乖異,以軍法從事。詔平長子奬以通直郎從,賜平縑帛百段、紫納金裝衫甲一領,賜奬縑布六十段、絳衲襖一領。父子重列,拜受家庭,觀者榮之。於是率步騎二千以赴壽春。平巡視硤石內外,知其盈虛之所。嚴勒崇、亮,令水陸兼備,剋期齊舉。崇、亮憚之,無敢乖互。頻日交戰,屢破賊軍。安南將軍崔延伯立橋於下蔡,以拒賊之援軍。賊將王神念、昌義之等不得進救,祖悅守死窮城。平乃部分攻之。令崔亮督陸卒攻其城西,李崇勒水軍擊其東面,然後鼓噪,南北俱上。賊眾周章,東西赴戰。屠賊外城,賊之將士相率歸附。袓悅率其餘眾固保南城,通夜攻守,至明乃降。斬袓悅,送首於洛,俘獲甚眾。以功遷尚書右僕射,加散騎常侍,將軍如故。

李平は京師に還ると、霊太后は宣光殿で引見し、金装の刀杖一口を賜った。時に南徐州が上表して、蕭衍が淮水に堰を築いて禍患となっていると報告したので、詔して公卿に議させたが、李平は兵力を借りずとも、やがて自ら崩壊すると考えた。淮堰が破れると、霊太后は大いに喜び、群臣を引き入れて宴を開き、李平に命じて前に出て簫管を鳴らさせ、粛宗は手ずから縑布百段を賜った。熙平元年冬に卒去し、遺言で薄葬を命じた。詔して東園秘器・朝服一具・衣一襲・帛七百匹を給した。霊太后は東堂で哀悼の礼を挙げた。侍中・驃騎大将軍・儀同三司・冀州刺史を追贈し、諡して文烈公といった。李平は度支尚書に在ってから、尚書右僕射に至るまで、夙夜公務に励み、孜孜として倦まず、機密を処すること十余年、献替の称があった。作った詩賦箴諫詠頌は、別に集録がある。

原文平還京師,靈太后見於宣光殿,賜以金裝刀杖一口。時南徐州表云,蕭衍堰淮水為患,詔公卿議之,平以為不假兵力,終自毀壞。及淮堰破,靈太后大悅,引群臣入宴,敕平前鳴簫管,肅宗手賜縑布百段。熙平元年冬卒,遺令薄葬。詔給東園祕器、朝服一具、衣一襲、帛七百匹。靈太后為舉哀於東堂。贈侍中、驃騎大將軍、儀同三司、冀州刺史,諡文烈公。平自在度支,至於端副,夙夜在公,孜孜匪懈,凡處機密十有餘年,有獻替之稱。所製詩賦箴諫詠頌,別有集錄。

李平の長子李奨、字は遵穆、父の爵を襲う。容貌魁偉で、当世の才度があった。太尉参軍事から、次第に通直郎・中書侍郎・直閤将軍・吏部郎中・征虜将軍に遷り、安東将軍・光禄大夫に転じ、なお吏部郎中を兼ねた。また本官のまま尚書を兼ね、出て撫軍将軍・相州刺史となった。初め、元叉が朝政を専断すると、李奨はその親待を受け、頻りに顕要な地位にあった。霊太后が政権を回復すると、官爵を削除された。孝荘帝の初め、散騎常侍・鎮東将軍・河南尹となった。李奨は前後歴任した所、すべて明済をもって著名であった。元顥が洛陽に入ると、元顥は李奨に尚書右僕射を兼ねさせ、徐州の羽林及び城民を慰労させたが、李奨は元顥の意を承けず、害され、首を洛陽に伝送された。

原文平長子奬,字遵穆,襲。容貌魁偉,有當世才度。自太尉參軍事,稍遷通直郎、中書侍郎、直閤將軍、吏部郎中、征虜將軍,遷安東將軍、光祿大夫,仍吏部郎中。又以本官兼尚書,出為撫軍將軍、相州刺史。初,元叉擅朝,奬為其親待,頻居顯要。靈太后反政,削除官爵。孝莊初,為散騎常侍、鎮東將軍、河南尹。奬前後所歷,皆以明濟著稱。元顥入洛,顥以奬兼尚書右僕射,慰勞徐州羽林及城人,不承顥旨,害奬,傳首洛陽。

出帝の時、李奨の旧吏である通直散騎常侍宋遊道が上書して李奨の無実を訴えて言った。「臣は聞く、善を賞し悪を罰することを二機と謂い、道がそこに存し、貴ぶところは濫れないことにある。ゆえに伍子胥は罪なくして、呉人はこれを痛み;郤宛は不幸にして、国の言論未だ止まない。故河南尹李奨は、門は戚里に居り、世に名家を擅にし、この良才あり、周の用に兼ねる。少より長に至るまで、忠孝を心とし、朝に入り州に出で、清明なる誉れを流す。襟懐は放暢、風神は爽発、実に廊廟の瑚璉、社稷の楨幹なり。往年、北海王(元顥)が窃かに拠り、扆に負いて朝に当たり、王公卿士は眉を俯して事に従う。しかるに李奨は門を閉ざす百口、京洛に同居し、既に覊縛せられ、自ら抜くる由なし。使を託して東南にあり、情は避難に存し、当時の物論はその得所と謂う。然れども北海王未だ敗れざるの日、徐州刺史元孚はその純臣たり、敢えてこれを拒ぐ者なく、表啓相望み、遅速は唯だ命に従う。及び皇輿返正し、神器斯に復し、軽薄の徒、倖に生きんことを共にし、詭言して賞を要し、曲道して通を求め、濫りに善人に及び、己が力と称す。もし李奨が賊朝に命を受け、語跡罪を成すを以てすれば、便ち天下と共にこの責めに当たるべし。当時の朝旨は唯だ免官を命ずるのみ、既に恩を経て、方に酷濫を加う。伊昔の具臣、賊所に比肩し、身は河上に臨み、日に干戈を尋ぬるも、時に寛政に逢い、任遇改めず。一介の使人、独りこの戮に嬰る、凡そ心有る者は、孰れか嗟悼せざらんや。前朝の功を論ずる所以は、その辺人且つ相慰悦するを見るなり、その猶お郭默の乱を生じ、劉胤の首を懸くるが如く、事は乃ち権宜、蓋し実録に非ず。昔、鄧艾下世し、段灼その冤を理め;馬援物故し、朱勃その屈を申す。臣は小人と雖も、君子に事え趣き、旧恩を懐き、義人故を兼ね、その此の若きを見て、久しく陳辞せんと欲す。言を含みて未だ吐かず、遂に今日に至り、幽泉已に閉じ、壟樹行を成す。内手もって心を捫り、顧みて愧慨を懐く。幸いに興聖に逢い、理運唯だ新たに、戎を纂ぶと曰うと雖も、事は創革に同じ。頻りに大恩有り、率土に被る、亡官失爵者は悉く追復を蒙る。然るに李奨の雑木猶お存し、牛車未だ改めず。士は知己を感知し、此を懐いて忘れず、軽率なる瞽言、輦轂を干犯す。伏して願わくは天鑒、矜覧を賜い垂れ、その贈秩を加え、この幽魂を慰めたまわんことを。」詔して衛将軍・冀州刺史を追贈した。

原文出帝時,奬故吏通直散騎常侍宋遊道上書理奬曰:「臣聞賞善罰惡,謂之二機,有道存焉,所貴不濫。是以子胥無罪,吳人痛之;郤宛不幸,國言未息。故河南尹李奬,門居戚里,世擅名家,有此良才,是兼周用。自少及長,忠孝為心,入朝出牧,清明流譽。襟懷放暢,風神爽發,實廊廟之瑚璉,社稷之楨幹。往歲,北海竊據,負扆當朝,王公卿士,俛眉從事。而奬闔門百口,同居京洛,既被覊縶,自拔無由。託使東南,情存避難,當時物論謂其得所。然北海未敗之日,徐州刺史元孚為其純臣,莫之敢距,表啟相望,遲速唯命。及皇輿返正,神器斯復,輕薄之徒,共生僥倖,詭言要賞,曲道求通,濫及善人,稱為己力。若以奬受命賊朝,語跡成罪,便與天下共當此責。于時朝旨唯命免官,亦既經恩,方加酷濫。伊昔具臣,比肩賊所,身臨河上,日尋干戈,時逢寬政,任遇不改。一介使人,獨嬰斯戮,凡在有心,孰不嗟悼!前朝所以論功者,見其邊人且相慰悅,其猶郭默生亂,劉胤懸首,事乃權宜,蓋非實錄。昔鄧艾下世,段灼理其冤;馬援物故,朱勃申其屈。臣雖小人,趣事君子,有懷舊恩,義兼人故,見其若此,久欲陳辭。含言未吐,遂至今日,幽泉已閉,壟樹成行,內手捫心,顧懷愧慨。幸逢興聖,理運唯新,雖曰纂戎,事同創革。頻有大恩,被於率土,亡官失爵者悉蒙追復。而奬雜木猶存,牛車未改。士感知己,懷此無忘,輕率瞽言,干犯輦轂。伏願天鑒,賜垂矜覽,加其贈秩,慰此幽魂。」詔贈衞將軍、冀州刺史。

子の李構、爵を襲う。武定末、太子中舎人。斉が禅を受けると、爵は例により降格。

原文子構,襲。武定末,太子中舍人。齊受禪,爵例降。

李構の弟李訓、太尉默曹参軍。

原文構弟訓,太尉默曹參軍。

李奨の弟李諧、字は虔和。風流閑潤、博学にして文弁あり、当時の才俊は皆相欽賞した。父の前爵である彭城侯を受ける。太尉参軍より、尚書郎・徐州北海王元顥の撫軍府司馬を歴任し、入って長兼中書侍郎となる。崔光が引きいて兼著作郎とし、李諧は史職に在りながら、意を用いる所無し。輔国将軍・相州大中正・光禄大夫を加えられ、金紫光禄大夫に除され、衛将軍を加えられた。元顥が洛陽に入ると、給事黄門侍郎とした。元顥が敗れると、除名され、乃ち『述身賦』を作って曰く。

原文奬弟諧,字虔和。風流閑潤,博學有文辯,當時才俊,咸相欽賞。受父前爵彭城侯。自太尉參軍,歷尚書郎、徐州北海王顥撫軍府司馬,入為長兼中書侍郎。崔光引為兼著作郎,諧在史職,無所歷意。加輔國將軍、相州大中正、光祿大夫,除金紫光祿大夫,加衞將軍。元顥入洛,以為給事黃門侍郎。顥敗,除名,乃為述身賦曰:

孝静帝の初め、母の喪に遭い、郷里に帰った。召されて魏尹に任ぜられ、将軍の位は元のままとしたが、喪服の期間が終わっていないため、上表して辞退した。朝廷の議論もまたこれを優遇し、なおその譲りを許した。蕭衍が和好を通じることを求め、朝廷は盛んに行人を選び、李諧を散騎常侍を兼ねさせ、聘使の主とした。李諧が石頭に至ると、蕭衍はその主客郎范胥を派遣して応接に当たらせた。李諧が胥に問うて言うには、「主客は郎官になって幾らほどか」。胥は答えて言うには、「私はもと虎門で訓育を受け、たまたま今の任に就いたのです」。李諧が言うには、「国子博士が左遷されて郎となるべきではない」。胥は答えて言うには、「特に遠方の賓客を応接するため、しばらく兼ねているだけです」。李諧が言うには、「己を屈して務めを助けるのは、まことに事の宜しきを得ている。私のような一介の行人によって、あなたを左遷させてしまった」。胥は答えて言うには、「自ら顧みて菲薄であり、盛んな美を対揚するに足りず、どうして屈したなどと言えましょう」。胥が問うて言うには、「今はまだ暖かいが、北の地はここより少し寒いのでしょうか」。李諧は答えて言うには、「地は陰陽の正にあり、寒暑は時に適っており、多少は知りません」。胥が言うには、「お訪ねする鄴の地は、果たして測影の地なのでしょうか」。李諧は答えて言うには、「皆皇居帝里であり、相去ること遠からず、統べて言うことができます」。胥が言うには、「洛陽はすでに盛美と称されるのに、何事で鄴に遷都したのか」。李諧は答えて言うには、「邑を常とせず、ここに五邦あり、王者に外はなく、所在は関河、また何を怪しむことがあろうか」。胥が言うには、「殷人は危険を避けて、相耿に遷った。貴朝は何のために遷都したのか」。李諧は答えて言うには、「聖人は往を蔵し来を知り、時に相い動く。必ずしも隆替を待つ必要があろうか」。胥が言うには、「金陵の王気は先代に兆し、黄旗紫蓋は、もとより東南に出で、万邦に君臨するには、故にここに在るべきである」。李諧は答えて言うには、「帝王の符命は、どうして中国と比べて隆盛と言えようか。紫蓋黄旗は、ついに洛に入る。自ら害するのではないか。口に出す説は、まさに戯れであり、また何を足りて言わんや」。蕭衍が自ら李諧に問うて言うには、「魏朝の人士で、德行四科の徒は凡そ幾人いるか」。李諧は対えて言うには、「本朝は多士にして、義林の如く、文武の賢才は列位に布き、四科の美は、その人無きに非ず、ただ愚短にして造次、備えて啓するに足らず」。衍が言うには、「武王には乱臣十人あり。魏は人物盛んなりといえども、どうして頓に卿の言う如くであろうか」。諧が言うには、「愚かには周が十人と称するは、もとより佐命を挙げたものであり、『済済たる多士』に至っては、実は文王の詩である。皇朝の廊廟の才は、周人と競うに足る」。衍が言うには、「もしそうなら、文は標異に足り、武に冠絶する者があれば、指陳することができる」。諧が言うには、「大丞相勃海王は文を経め武を緯なし、皇極を左右し、九州を画一し、四海に衡を懸く。録尚書汝陽王元叔昭、尚書令元世儁は、宗室の秀にして、朝端に政を綰ぐ。左僕射司馬子如、右僕射高隆之は、並びに時誉の民英にして、力を勠して匡輔す。侍中高岳、侍中孫騰は、勲賢忠亮にして、王猷を宣讚す。その余の才美は悉くすべからず」。衍が言うには、「故に幼主を輔弼し、基業を永固すべきは、深く言うべからず」。江南はその才弁を称えた。

原文孝靜初,遭母憂,還鄉里。徵為魏尹,將軍如故,以禫制未終,表辭。朝議亦以為優,仍許其讓。蕭衍求通和好,朝廷盛選行人,以諧兼散騎常侍,為聘使主。諧至石頭,蕭衍遣其主客郎范胥當接。諧問胥曰:「主客在郎官幾時?」胥答曰:「我本訓冑虎門,適復今任。」諧言:「國子博士不應左轉為郎。」胥答曰:「特為應接遠賓,故權兼耳。」諧言:「屈己濟務,誠得事宜。由我一介行人,令卿左轉。」胥答曰:「自顧菲薄,不足對揚盛美,豈敢言屈。」胥問曰:「今猶尚暖,北間當小寒於此?」諧答曰:「地居陰陽之正,寒暑適時,不知多少。」胥曰:「所訪鄴下,豈是測影之地?」諧答曰:「皆是皇居帝里,相去不遠,可得統而言之。」胥曰:「洛陽既稱盛美,何事遷鄴?」諧答曰:「不常厥邑,于茲五邦,王者無外,所在關河,復何所怪?」胥曰:「殷人否危,故遷相耿,貴朝何為而遷?」諧答:「聖人藏往知來,相時而動,何必俟於隆替?」胥曰:「金陵王氣兆於先代,黃旗紫蓋,本出東南,君臨萬邦,故宜在此。」諧答曰:「帝王符命,豈得與中國比隆?紫蓋黃旗,終於入洛,無乃自害也?有口之說,乃是俳諧,亦何足道!」蕭衍親問諧曰:「魏朝人士,德行四科之徒凡有幾人?」諧對曰:「本朝多士,義等如林,文武賢才,布在列位,四科之美,非無其人,庸短造次,無以備啟。」衍曰:「武王有亂臣十人,魏雖人物之盛,豈得頓如卿言?」諧曰:「愚謂周稱十人,本舉佐命,至於『濟濟多士』,實是文王之詩。皇朝廊廟之才,足與周人有競。」衍曰:「若爾,文足標異、武有冠絕者,便可指陳。」諧曰:「大丞相勃海王秉文經武,左右皇極,畫一九州,懸衡四海。錄尚書、汝陽王元叔昭、尚書令元世儁,宗室之秀,綰政朝端。左僕射司馬子如、右僕射高隆之,並時譽民英,勠力匡輔。侍中高岳、侍中孫騰,勳賢忠亮,宣讚王猷。自餘才美不可具悉。」衍曰:「故宜輔弼幼主,永固基業,深不可言。」江南稱其才辯。

使より還り、大司農卿に除され、驃騎将軍を加えられ、秘書監に転じた。偏風に遇い廃頓す。武定二年に卒す。年四十九。時に人悼惜す。驃騎大将軍・衛尉卿・齊州刺史を贈られた。著した文集は、別に集録ありて世に行わる。

原文使還,除大司農卿,加驃騎將軍,轉祕書監。遇偏風廢頓。武定二年卒,年四十九,時人悼惜之。贈驃騎大將軍、衞尉卿、齊州刺史。所著文集,別有集錄行於世。

長子の李嶽は、武定の末、司徒祭酒。

原文長子嶽,武定末,司徒祭酒。

李嶽の弟の李庶は、尚書南主客郎。

原文嶽弟庶,尚書南主客郎。

李諧の弟の李邕は、字は修穆。幼にして儁爽、逸才あり。著作佐郎・高陽王元雍の友。凡そ交遊する所は皆倍年の者、儁秀才藻の美、時に称せらる。年二十五、卒す。鎮遠将軍・洛州刺史を贈られ、諡して文と曰う。

原文諧弟邕,字修穆。幼而儁爽,有逸才。著作佐郎、高陽王雍友。凡所交遊皆倍年,儁秀才藻之美,為時所稱。年二十五,卒。贈鎮遠將軍、洛州刺史,諡曰文。