魏書

卷64 郭祚 張彝

卷64 郭祚 張彝

郭祚

原文郭祚

郭祚、字は季祐、太原郡晉陽県の人、魏の車騎将軍郭淮の弟郭亮の後裔である。祖父の郭逸は州の別駕となり、前後して二人の娘を司徒崔浩に嫁がせ、一人の娘を崔浩の弟である上党太守崔恬に嫁がせた。世祖(太武帝)の時、崔浩は親しく寵愛されて権勢を振るい、郭逸は徐州刺史に任ぜられ、仮に榆次侯を授けられ、最終的に光禄大夫を追贈された。父の郭洪之は崔浩の事件に連座して誅殺され、郭祚は逃亡して潜伏し、難を免れた。幼くして孤貧であり、容貌は立派ではなく、郷里の人々は彼を知る者はいなかった。ある女巫が郭祚の相を見て、後に富貴になると言った。郭祚は経書史書を広く学び、崔浩の書法を習得し、書簡や文章は世に称賛された。弱冠にして州の主簿となり、刺史の孫小は彼に書記の任を委ねた。また太原の王希という者は、郭逸の妻の甥であり、互いに援助し合い、これによって生活が豊かになった。

原文郭祚,字季祐,太原晉陽人,魏車騎郭淮弟亮後也。祖逸,州別駕,前後以二女妻司徒崔浩,一女妻浩弟上黨太守恬。世祖時,浩親寵用事,拜逸徐州刺史,假榆次侯,終贈光祿大夫。父洪之,坐浩事誅,祚亡竄得免。少而孤貧,姿貌不偉,鄉人莫之識也。有女巫相祚後當富貴。祚涉歷經史,習崔浩之書,尺牘文章見稱於世。弱冠,州主簿,刺史孫小委之書記。又太原王希者,逸妻之姪,共相賙恤,得以饒振。

高祖(孝文帝)の初め、秀才に挙げられ、対策で上第となり、中書博士に任ぜられ、中書侍郎に転じ、尚書左丞に昇進し、長く給事黄門侍郎を兼ねた。郭祚は公務に清廉勤勉で、昼夜怠ることがなく、高祖は大いに彼を賞賛して知遇を与えた。高祖に従って南征し、帰還すると、正員の黄門侍郎となった。車駕が長安に行幸し、渭橋を通り過ぎ、郭淮の廟の前を通った時、高祖は郭祚に問うて言った、「これは卿の祖宗が受け継いだものか」。郭祚は答えて言った、「これは臣の七世の伯祖でございます」。高祖は言った、「先賢と後哲とが、一門に揃っている」。郭祚は答えて言った、「昔、臣の祖先は通儒として英博であり、ただ魏の文帝に仕えましたが、微臣は虚薄でありながら、明聖(陛下)に仕えることに遭い、自ら思うに幸甚でございます」。そこで太牢をもって郭淮の廟を祭るよう詔し、郭祚に自ら祭文を撰ばせた。洛陽遷都の計画を賛助した功により、東光子の爵を賜った。高祖がかつて華林園に行幸し、旧景陽山を見た時、郭祚は言った、「山は仁をもって静かであり、水は智をもって流れます。願わくは陛下これを修められますように」。高祖は言った、「魏の明帝は奢侈をもって前代に過ちを犯した。朕はどうして後代にそれを襲うことができようか」。郭祚は言った、「高山仰ぎて止まず(『詩経』)」。高祖は言った、「景行(高徳に従うこと)を謂うのではないか」。散騎常侍に転じ、引き続き黄門侍郎を領した。この時、高祖は典礼に意を鋭くし、兼ねて九流の人物を鑑定し、また遷都は草創期であり、征討は止まず、内外の計画方針は多事と称された。郭祚は黄門侍郎の宋弁と帷幄の中で参謀し、その才能に応じて、それぞれ任を委ねられた。郭祚は注疏を承り奉じて、特に勤勉で多忙を極めた。かつて馮昭儀を立てた時、百官が夕べに清徽後園で飲宴したが、高祖は杯を挙げて郭祚と崔光に賜り言った、「郭祚は諸事を憂い労して、ただ朕を欺かず。崔光は温良で博識であり、朝中の儒秀である。この両人を勧めずして、誰を勧めようか」。このように見知られていた。

原文高祖初,舉秀才,對策上第,拜中書博士,轉中書侍郎,遷尚書左丞,長兼給事黃門侍郎。祚清勤在公,夙夜匪懈,高祖甚知賞之。從高祖南征,及還,正黃門。車駕幸長安,行經渭橋,過郭淮廟,問祚曰:「是卿祖宗所承也?」祚曰:「是臣七世伯祖。」高祖曰:「先賢後哲,頓在一門。」祚對曰:「昔臣先人以通儒英博,唯事魏文,微臣虛薄,遭奉明聖,自惟幸甚。」因敕以太牢祭淮廟,令祚自撰祭文。以贊遷洛之規,賜爵東光子。高祖曾幸華林園,因觀故景陽山,祚曰:「山以仁靜,水以智流,願陛下修之。」高祖曰:「魏明以奢失於前,朕何為襲之於後?」祚曰:「高山仰止。」高祖曰:「得非景行之謂?」遷散騎常侍,仍領黃門。是時高祖銳意典禮,兼銓鏡九流,又遷都草創,征討不息,內外規略,號為多事。祚與黃門宋弁參謀幃幄,隨其才用,各有委寄。祚承禀注疏,特成勤劇。嘗以立馮昭儀,百官夕飲清徽後園,高祖舉觴賜祚及崔光曰:「郭祚憂勞庶事,獨不欺我;崔光溫良博物,朝之儒秀。不勸此兩人,當勸誰也?」其見知若此。

初め、高祖は李彪を散騎常侍に任じたが、郭祚が入見した時、高祖は郭祚に言った、「朕は昨日誤って一人に官を授けた」。郭祚は答えて言った、「陛下の聖鏡は照臨し、才能を論じて職を授け、進退可否を決し、幽明を黜陟し、品物は既に顕わになり、人倫には秩序があります。どうして聖詔が一度下ったのに差異がありましょうか」。高祖は沉吟して言った、「これは自ら譲るべきところである。譲ることに因って、朕は別の一官を授けようと思う」。しばらくして、李彪が上啓して言った、「伯石が卿の位を辞したことは、子産の憎んだところであります。臣はこれを欲して久しいのですが、敢えて辞譲いたしません」。高祖は嘆息して郭祚に言った、「卿の忠諫と、李彪の正しい言葉とが、朕をして逡巡させ、再び決断することができなくさせた」。遂に李彪の官を換えなかった。乗輿が南討するに及び、郭祚は兼侍中として従い、尚書に任ぜられ、爵位を伯に進めた。高祖が崩御すると、咸陽王元禧らは郭祚が吏部尚書を兼ねるよう奏上し、まもなく長兼吏部尚書・并州大中正に任ぜられた。

原文初,高祖以李彪為散騎常侍,祚因入見,高祖謂祚曰:「朕昨誤授一人官。」祚對曰:「陛下聖鏡照臨,論才授職,進退可否,黜陟幽明,品物既彰,人倫有序,豈容聖詔一行而有差異。」高祖沉吟曰:「此自應有讓,因讓,朕欲別授一官。」須臾,彪有啟云:「伯石辭卿,子產所惡,臣欲之已久,不敢辭讓。」高祖歎謂祚曰:「卿之忠諫,李彪正辭,使朕遲回不能復決。」遂不換彪官也。乘輿南討,祚以兼侍中從,拜尚書,進爵為伯。高祖崩,咸陽王禧等奏祚兼吏部尚書,尋除長兼吏部尚書、并州大中正。

世宗(宣武帝)は詔して、姦吏が刑罰を逃れ、遠方の戍に配流されることを定め、もし永久に逃亡して出てこないならば、兄弟が代わるものとした。郭祚は上奏して言った、「獄を慎み刑を審らかにすることは、道が先古に煥発するものであり、憲を垂れ禁を設けることは、義が惟れ今に纂ぐものである。これをもって先王は物の情に沿い、これがために軌法を為し、故に八刑は昔の典に備わり、姦律は来たる制に炳としており、皆その始めの跡を謀り、その成る罪を訪ね、風を敦くし俗を厲し、永く世の範とすべきものである。伏して思うに、旨義は博遠であり、理は近情を絶しておりますが、既に愚異を懐きますので、述べずにはおられません。誠に法を敗るの原は、姦吏より起こり、姦吏は微細であっても、法を敗ることは実に甚だしい。伏して詔旨を尋ねますに、確かにその逃亡の路を断つものであり、治の要は、実にここにあります。然るに法は姦を止めることを貴び、過酷にあるにあらず、制を立て禁を施すことは、後世に伝えることができるものであるべきです。もし法が厳しくして姦が止まず、禁が過酷で永く伝えることができなければ、どうしてこれを刑書に載せ、百代に垂れることができましょうか。もし姦吏が逃げ竄ずることを以て、その兄弟を徙すならば、罪人の妻子もまたこれに従うべきであり、これは一人の罪にして、禍が二室を傾けることになります。愚かには、罪人が既に逃亡したならば、ただ妻子を徙し、逃走者の身は、名を懸けて永久に配流し、過失を免れず、姦の途は自ら塞がれると考えます」。詔してこれに従った。

原文世宗詔以姦吏逃刑,懸配遠戍,若永避不出,兄弟代之。祚奏曰:「慎獄審刑,道煥先古;垂憲設禁,義纂惟今。是以先王沿物之情,為之軌法,故八刑備於昔典,姦律炳於來制,皆所以謀其始迹,訪厥成罪,敦風厲俗,永資世範者也。伏惟旨義博遠,理絕近情,既懷愚異,不容不述。誠以敗法之原,起於姦吏,姦吏雖微,敗法實甚。伏尋詔旨,信亦斷其逋逃之路,為治之要,實在於斯。然法貴止姦,不在過酷,立制施禁,為可傳之於後。若法猛而姦不息,禁過不可永傳,將何以載之刑書,垂之百代?若以姦吏逃竄,徙其兄弟,罪人妻子復應從之,此則一人之罪,禍傾二室。愚謂罪人既逃,止徙妻子,走者之身,懸名永配,於眚不免,姦途自塞。」詔從之。

まもなく正員の吏部尚書となった。郭祚は身を潔清に保ち、官位を重んじ惜しみ、銓衡授官に至っては、仮に適任者を得たとしても、必ず久しく逡巡し、それから下筆し、下筆すれば即ち言う、「この人はこれで貴くなる」。これによって事は甚だしく滞り、当時しばしば怨讟を招いた。然るに抜擢任用した者は、皆才能を量り職に称しており、時人はまたこの点で彼を評価した。

原文尋正吏部。祚持身潔清,重惜官位,至於銓授,假令得人,必徘徊久之,然後下筆,下筆即云:「此人便以貴矣。」由是事頗稽滯,當時每招怨讟。然所拔用者,皆量才稱職,時又以此歸之。

使持節・鎮北将軍・瀛州刺史として出向した。太極殿が完成すると、郭祚は京師に朝し、鎮東将軍・青州刺史に転じた。郭祚は凶年に遭い、全境が飢饉に苦しんだが、民を憐れみ傷み慈しみ、多くを賑恤し、決断が遅滞し、煩緩と号されたが、然るに士女はその徳沢を懐き、今に至るも彼を思っている。侍中・金紫光禄大夫・并州大中正として入朝し、尚書右僕射に遷った。当時新令を議定することとなり、詔して郭祚に侍中・黄門侍郎と参議して刊正させた。故事によれば、令・僕射・中丞は騶唱(先払いの声)して宮門に入り、馬道に至る。郭祚が僕射となった時、これは尽敬の宜しきに非ずと考え、世宗に言上した。帝はこれを容れ、詔を下した、「御在所が太極殿にある時は、騶唱は止車門に至る。御在所が朝堂にある時は、司馬門に至る」。騶唱が宮中に入らないのは、これより始まった。詔して郭祚に本官のまま太子少師を領させた。郭祚はかつて世宗に従って東宮に行幸し、粛宗(孝明帝)が幼弱であった時、郭祚は一つの黄㼐(瓢箪の一種)を懐から出して粛宗に奉った。当時、応詔左右の趙桃弓と御史中尉の王顯が互いに唇歯の関係をなし、深く世宗に信頼されており、郭祚は私的に彼らに事えた。当時郭祚を誹謗する者は、彼を桃弓僕射・黄㼐少師と号した。

原文出為使持節、鎮北將軍、瀛州刺史。及太極殿成,祚朝於京師,轉鎮東將軍、青州刺史。祚值歲不稔,闔境飢弊,矜傷愛下,多所賑恤,雖斷決淹留,號為煩緩,然士女懷其德澤,于今思之。入為侍中、金紫光祿大夫、并州大中正,遷尚書右僕射。時議定新令,詔祚與侍中、黃門參議刊正。故事,令、僕、中丞騶唱而入宮門,至於馬道。及祚為僕射,以為非盡敬之宜,言於世宗,帝納之,下詔:「御在太極,騶唱至止車門;御在朝堂,至司馬門。」騶唱不入宮,自此始也。詔祚本官領太子少師。祚曾從世宗幸東宮,肅宗幼弱,祚懷一黃㼐出奉肅宗。時應詔左右趙桃弓與御史中尉王顯迭相脣齒,深為世宗所信,祚私事之。時人謗祚者,號為桃弓僕射、黃㼐少師。

郭祚は上奏して言った、「謹んで前後の考課規定(考格)を案ずるに、天下に頒布されてはおりますが、臣の如き愚短な者には、なお悟らないところがあります。今、職人(官人)の遷転の由状を定め、階級を超越する者は即ち量って折る必要があります。景明初年の考格では、五年で一階半を得ます。正始年中、故尚書・中山王元英が考格を奏上し、旨を被りました、『ただ正に満三周を限りとし、残年の勤めを計るべからず』。また去る年中、以前の二つの制が異なることを以て、裁決を奏請しました。旨に云う、『黜陟の体は、自ら旧来の恒断に依れ』。今、旧来の旨に従うのか、景明の断に従うのか、正始を限りとするのか、審らかではありません。景明の考法では、東西省の文武閑官は悉く三等とし、考課は任事官と同じですが、前尚書の盧昶は上第の人は三年で半階転ずると奏上しました。今の考格は、また九等に分かれており、前後同じでなく、参差して準則がありません」。詔して言った、「考課が上中にある者は、汎階以前の勤務年数を以て、六年以上で一階遷し、三年以上で半階遷し、残年は悉く除く。考課が上下にある者は、汎階以前の勤務年数を以て、六年以上で半階遷し、満たない者は除く。その汎階以後に考課が上下にある者は、三年で一階遷す。散官は盧昶の奏上したところに従う」。

原文祚奏曰:「謹案前後考格雖班天下,如臣愚短,猶有未悟。今須定職人遷轉由狀,超越階級者即須量折。景明初考格,五年者得一階半。正始中,故尚書、中山王英奏考格,被旨:但可正滿三周為限,不得計殘年之勤。又去年中,以前二制不同,奏請裁決。旨云:『黜陟之體,自依舊來恒斷。』今未審從舊來之旨,為從景明之斷,為從正始為限?景明考法,東西省文武閑官悉為三等,考同任事,而前尚書盧昶奏上第之人三年轉半階。今之考格,復分為九等,前後不同,參差無準。」詔曰:「考在上中者,得汎以前,有六年以上遷一階,三年以上遷半階,殘年悉除。考在上下者,得汎以前,六年以上遷半階,不滿者除。其得汎以後考在上下者,三年遷一階。散官從盧昶所奏。」

郭祚はまた上奏して言う、「考察令に曰く、公清にして独り著しく、徳績が倫を超え、かつ負殿のない者を上上とし、一殿を上中とし、二殿を上下とし、以て等級と為す。前後の年断に随い、各自その善悪を除して昇降を為すか。かつ負注の章は、数が殿を成すことを差とし、この条は寡愆を以て最と為し、多戾を以て殿と為す。未だ審らかにせず、何の行を取って寡愆と為すか。何の坐を以て多戾と為すか。品次を累ね結ぶこと、また幾等かあるか。諸文案が衷を失い、杖十に応ずる者は一負と為す。罪は律次に依り、過は負に随って記す。十年のうちに、三たび肆眚を経、赦前の罪は、軽重を問わず、皆宥免を蒙る。あるいは御史の弾する所と為り、案験未だ周からず、赦に遇って復任する者は、未だ審らかにせず、殿を記して除くを得るか否かを」と。詔して曰く、「独著・超倫及び才備・寡咎は、皆文武兼ねて上上の極言を謂うのみ。此より以降、猶八等有り、才に随って次と為す。令文已に具わる。其の積負累殿及び守平得済は、皆其中に含まる。何ぞ別に疑うを容れん。通考と云う所は、総べて多年の言に拠る。黜陟の体に至っては、自ら旧来の年断に依る。何ぞ復た請うに足らん。其の罰贖已に決するの殿は、固より免限に非ず。赦に遇って罪を免ずるは、唯其の殿を記し、之を除く」と。尋いで散騎常侍を加う。

原文祚又奏言:「考察令:公清獨著,德績超倫,而無負殿者為上上,一殿為上中,二殿為上以為第,隨前後年斷,各自除其善惡而為昇降?且負注之章,數成殿為差,此條以寡愆為最,多戾為殿。未審取何行是寡愆?何坐為多戾?結累品次,復有幾等?諸文案失衷,應杖十者為一負。罪依律次,過隨負記。十年之中,三經肆眚,赦前之罪,不問輕重,皆蒙宥免。或為御史所彈,案驗未周,遇赦復任者,未審記殿得除以不?」詔曰:「獨著、超倫及才備、寡咎,皆謂文武兼上上之極言耳。自此以降,猶有八等,隨才為次,令文已具。其積負累殿及守平得濟,皆含在其中,何容別疑也。所云通考者,據總多年之言,至於黜陟之體,自依舊來年斷,何足復請。其罰贖已決之殿,固非免限,遇赦免罪,惟記其殿,除之。」尋加散騎常侍。

時に詔して明堂国学を営ましむ。祚奏して曰く、「今雲羅西に挙がり、岷蜀を開納す。戎旗東に指し、淮荊を鎮靖す。漢沔の間復た防捍を須う。兵を徴し衆を発すること、所在殷広なり。辺郊多壘、烽驛未だ息まず。師旅の際に於いて、板築の功を興すべからず。かつ献歳云う暨び、東作将に始まらんとす。臣愚量するに、豊靖の年を待ち、子来の力を因りて、時を失わずして就くべしと謂う」と。之に従う。世宗の末年、毎に祚を引いて東宮に入れ、密かに賞賚を受けしむ。百餘萬に多きは、錦繡を以て雑う。又特だ剣杖を賜い、恩寵甚だ深し。左僕射に遷る。

原文時詔營明堂國學,祚奏曰:「今雲羅西舉,開納岷蜀;戎旗東指,鎮靖淮荊;漢沔之間復須防捍。徵兵發眾,所在殷廣,邊郊多壘,烽驛未息,不可於師旅之際,興板築之功。且獻歲云暨,東作將始,臣愚量謂宜待豐靖之年,因子來之力,可不時而就。」從之。世宗末年,每引祚入東宮,密受賞賚,多至百餘萬,雜以錦繡。又特賜以劍杖,恩寵甚深,遷左僕射。

是に先立ち、蕭衍将康絢を遣わして淮を遏ち、将に揚徐を灌がんとす。祚表して曰く、「蕭衍狂悖、擅に川瀆を断ち、役苦しく民労す。危亡已に兆す。然れども古諺に之を有り、『敵は縱くべからず』と。夫れ一酌の水も、或いは不測の淵と為る。時に滅さざれば、恐らくは原草に同じからん。宜しく一の重将を命じ、統軍三十人を率い、羽林一万五千人を領し、併せて京東七州の虎旅九萬を科し、長駆電邁し、遄かに撲討を令すべし。擒斬の勳は、一に常制の如くし、賊の資雑物は、悉く軍人に入るべし。此くの如くせば、則ち鯨鯢の首は日を俟たずして懸かん。誠に知る、農桑の時は、衆を発するの日に非ざるを。苟くも事理宜しく然るあらば、亦た爾せざるを得ざるなり。昔、韋顧跋扈し、殷后昆吾の師を起こし、玁狁孔熾にして、周王六月の伐を興す。臣職枢衡に忝くし、献納是れ主と為る。心の懐う所、寧んぞ敢えて自ら黙せんや。併せて宜しく揚州を敕し、一の猛将を選び、当州の兵を遣わして浮山に赴かしめ、表裏夾攻すべし」と。朝議之に従う。

原文先是,蕭衍遣將康絢遏淮,將灌揚徐,祚表曰:「蕭衍狂悖,擅斷川瀆,役苦民勞,危亡已兆。然古諺有之,『敵不可縱』。夫以一酌之水,或為不測之淵,如不時滅,恐同原草。宜命一重將,率統軍三十人,領羽林一萬五千人,并科京東七州虎旅九萬,長驅電邁,遄令撲討。擒斬之勳,一如常制,賊資雜物,悉入軍人。如此,則鯨鯢之首可不日而懸。誠知農桑之時,非發眾之日,苟事理宜然,亦不得不爾。昔韋顧跋扈,殷后起昆吾之師;玁狁孔熾,周王興六月之伐。臣職忝樞衡,獻納是主,心之所懷,寧敢自默。并宜敕揚州選一猛將,遣當州之兵令赴浮山,表裏夾攻。」朝議從之。

出でて使持節・散騎常侍・都督雍岐華三州諸軍事・征西將軍・雍州刺史を除く。太和以前は、朝法尤だ峻しく、貴臣蹉跌すれば、便ち誅夷を致す。李沖の用事するや、祚の識幹を欽み、左丞に薦め、又黄門を兼ぬ。意便ち満足し、毎に孤門往て崔氏の禍を経るを以て、常に危亡を慮い、苦しく自ら陳挹し、辞色懇然として、誠至より発す。沖之に謂いて曰く、「人生運有り、避くべからざるなり。但だ明白に官に当たり、何ぞ顧畏する所あらん」と。此より二十餘年を積み、位秩隆重にして、而も進趨の心更に復息まず。又以て東宮師傅の資を以て、尚書に列辞し、封侯・儀同の位を志す。尚書令・任城王澄之が為に奏聞す。征西・雍州と為るに及び、外撫を喜ぶと雖も、尚以て府号優ならざるを、心に加大を望み、執政者頗る之を怪しむ。時に、領軍于忠寵に恃み驕恣し、崔光の徒、曲躬して承奉す。祚心に之を悪み、乃ち子太尉從事中郎景尚を遣わして高陽王雍に説かしめ、忠を出して州と為らしむ。忠聞きて大いに怒り、詔を矯って祚を殺す。時に年六十七。

原文出除使持節、散騎常侍、都督雍岐華三州諸軍事、征西將軍、雍州刺史。太和以前,朝法尤峻,貴臣蹉跌,便致誅夷。李沖之用事也,欽祚識幹,薦為左丞,又兼黃門。意便滿足,每以孤門往經崔氏之禍,常慮危亡,苦自陳挹,辭色懇然,發於誠至。沖謂之曰:「人生有運,非可避也,但當明白當官,何所顧畏。」自是積二十餘年,位秩隆重,而進趨之心更復不息。又以東宮師傅之資,列辭尚書,志在封侯、儀同之位,尚書令、任城王澄為之奏聞。及為征西、雍州,雖喜於外撫,尚以府號不優,心望加大,執政者頗怪之。於時,領軍于忠恃寵驕恣,崔光之徒,曲躬承奉,祚心惡之,乃遣子太尉從事中郎景尚說高陽王雍,令出忠為州。忠聞而大怒,矯詔殺祚,時年六十七。

祚は政事に達し、凡そ経履する所、咸く称職と為り、毎に断決有れば、多く故事と為る。名器既に重く、時望亦深し。一朝非罪にして害を見、遠近惜しまざる莫し。霊太后朝に臨み、使を遣わして弔慰し、追ひて伯爵を復す。正光中、使持節・車騎將軍・儀同三司・雍州刺史を贈り、諡して文貞公と曰う。

原文祚達於政事,凡所經履,咸為稱職,每有斷決,多為故事。名器既重,時望亦深,一朝非罪見害,遠近莫不惋惜。靈太后臨朝,遣使弔慰,追復伯爵。正光中,贈使持節、車騎將軍、儀同三司、雍州刺史,諡文貞公。

初め、高祖中正を置くに、従容として祚に謂いて曰く、「并州中正は、卿家故に応に王瓊を推すべし」と。祚退きて密友に謂いて曰く、「瓊の真偽今自ら未だ辨ぜず、我家何を為して之を減ぜん。然れども主上直に李沖の吹嘘の説を信ずるのみ」と。祚死して後三歳にして于忠死す。咸く祚を以て祟りと為す。

原文初,高祖之置中正,從容謂祚曰:「并州中正,卿家故應推王瓊也。」祚退謂密友曰:「瓊真偽今自未辨,我家何為減之?然主上直信李沖吹噓之說耳。」祚死後三歲而于忠死,咸以祚為祟。

祚の長子思恭、弱冠、州辟さられて主簿と為る。早卒す。思恭の弟慶禮、第二子延伯を以て継がしむ。

原文祚長子思恭,弱冠,州辟為主簿。早卒。思恭弟慶禮以第二子延伯繼。

延伯、祖の爵東光伯を襲ぐ。武定中、驃騎大將軍・将作大匠。齊、禅を受く。爵例に降る。

原文延伯,襲祖爵東光伯。武定中,驃騎大將軍、將作大匠。齊受禪,爵例降。

思恭の弟景尚、字は思和。書伝に渉歴し、星暦占候に暁る。言事頗る験有り。初め彭城王中軍府参軍と為り、員外郎・司徒主簿・太尉從事中郎に遷る。公強当世、善く権寵に事え、世之を号して「郭尖」と曰う。肅宗の時、輔國將軍・中散大夫に遷る。中書侍郎に転ず。未だ拝せずして卒す。年五十一。

原文思恭弟景尚,字思和。涉歷書傳,曉星歷占候,言事頗驗。初為彭城王中軍府參軍,遷員外郎、司徒主簿、太尉從事中郎。公強當世,善事權寵,世號之曰「郭尖」。肅宗時,遷輔國將軍、中散大夫。轉中書侍郎,未拜而卒,年五十一。

景尚の弟慶禮、字は叔、祚の愛する所と為る。著作佐郎・通直郎。卒し、征虜將軍・瀛州刺史を贈らる。

原文景尚弟慶禮,字叔,為祚所愛。著作佐郎、通直郎。卒,贈征虜將軍、瀛州刺史。

張彝

原文張彝

張彝、字は慶賓、清河東武城の人。曾祖幸、慕容超の東牟太守、後に戸を率いて国に帰す。世祖之を嘉し、爵を平陸侯と賜い、平遠將軍・青州刺史を拝す。祖準之襲ぎ、又東青州刺史と為る。父霊真、早卒す。

原文張彝,字慶賓,清河東武城人。曾祖幸,慕容超東牟太守,後率戶歸國。世祖嘉之,賜爵平陸侯,拜平遠將軍、青州刺史。祖準之襲,又為東青州刺史。父靈真,早卒。

李彝の性格は公正で強く、気風があり、経書や史書を広く読み通した。高祖(孝文帝)の初年、祖父の侯爵を襲封し、盧淵・李安民らと親友となり、朝廷の会合に往来する際は常に互いに追随した。盧淵は主客令となり、李安民と李彝はともに散令となった。李彝は若くして豪放であり、宮殿の庭に出入りし、歩きながら見上げる様子は高慢で、何ら顧みる所がなかった。文明太后は恭謹を重んじていたため、会合の席で彼がこのような様子を見て、百官を召集して督責し、悔い改めるよう命じたが、なおも改めることはなかった。巡察に長け、東西に使者を馳せて巡検する際には、李彝は常にその任に充てられ、清廉で慎重、厳しく猛々しく、赴く先々で人々は皆畏服し、同輩もこれをもって彼を高く評価した。主客令に転じ、例により侯から伯に降格され、太中大夫に転じ、引き続き主客曹の事務を行った。まもなく黄門となった。後に帝の南征に従駕し、母の喪により解任された。李彝は喪に服する礼を過度に守り、葬送を平城から自宅まで、千里を徒歩で行い、車馬に乗らず、顔色は憔悴し痩せ衰え、当世の人々に称賛された。高祖が冀州に行幸した際、使者を遣わして弔慰し、詔を下して驍騎將軍として起用し、元の官位に復帰させた。遷都の功績を参定した功により、侯爵に進爵され、太常少卿に転じ、散騎常侍に遷り、侍中を兼ね、節を持って陝東・河南の十二州を巡察し、非常に名声があった。使者として戻り、従征の功労により、尚書に遷った。元昭を兼郎中に推挙した罪により、守尚書に左遷された。世宗(宣武帝)の初年、正尚書・兼侍中に任じられ、まもなく正侍中となった。世宗が親政を始め、六輔を廃止すると、李彝と兼尚書の邢巒は処分が尋常でないと聞き、京を出て奔走し、御史中尉の甄琛に弾劾され、「虎にあらず兕にあらず、率いて彼の曠野を行く」と云われ、詔書により厳しく責められた。

原文彝性公強,有風氣,歷覽經史。高祖初,襲祖侯爵,與盧淵、李安民等結為親友,往來朝會,常相追隨。淵為主客令,安民與彝並為散令。彝少而豪放,出入殿庭,步眄高上,無所顧忌。文明太后雅尚恭謹,因會次見其如此,遂召集百僚督責之,令其修悔,而猶無悛改。善於督察,每東西馳使有所巡檢,彝恒充其選,清慎嚴猛,所至人皆畏伏,儔類亦以此高之。遷主客令,例降侯為伯,轉太中大夫,仍行主客曹事。尋為黃門。後從駕南征,母憂解任。彝居喪過禮,送葬自平城達家,千里徒步,不乘車馬,顏貌毀瘠,當世稱之。高祖幸冀州,遣使弔慰,詔以驍騎將軍起之,還復本位。以參定遷都之勳,進爵為侯,轉太常少卿,遷散騎常侍,兼侍中,持節巡察陝東、河南十二州,甚有聲稱。使還,以從征之勤,遷尚書。坐舉元昭為兼郎中,黜為守尚書。世宗初,除正尚書、兼侍中,尋正侍中。世宗親政,罷六輔,彝與兼尚書邢巒聞處分非常,出京奔走,為御史中尉甄琛所彈,云「非虎非兕,率彼曠野」,詔書切責之。

まもなく安西將軍・秦州刺史に任じられた。李彝は典式を重んじ、故事を考証し尋ねた。隴右に臨むに及んで、ますます討究し習熟し、ここに出入りの直衞、方伯の威儀は、赫々として見るべきものがあった。羌や漢人は畏服し、その威厳の整っていることを恐れ、一方は粛然として静まり、良牧と称された。その年の冬、太極殿が初めて完成すると、李彝は郭祚らとともに勤労の旧功により召還された。州に戻ると、撫軍將軍の号を進められ、李彝は上表して州の任を解くことを願い出たが、詔は許さなかった。李彝は隴右に政を敷き、多く制度を立て、新風を宣布し、その旧俗を改め、民衆は彼を敬愛し仰いだ。国のために仏寺を造り、名を興皇とし、罪咎ある者は、その軽重に従い、土木の功に謫せられ、もはや鞭杖の罰はなかった。時に陳留公主が寡居しており、李彝は公主を娶りたいと望み、公主もこれを許した。僕射の高肇も公主を娶ることを望んだが、公主の意思は否であった。高肇は怒り、世宗に李彝を讒言し、李彝が勝手に刑法を立て、百姓を労役させていると称した。詔を下して直後の萬貳興を駅馬を馳せて派遣し、検査させた。貳興は高肇の親愛する者であり、必ずや李彝に重罪を及ぼそうとした。李彝は身を清くして法に奉じ、その過失を求められたが、遂に得る所がなかった。交代されて洛陽に戻ると、なおも数年停廃され、そのため偏風を患い、手足が不自由となった。しかし志性は変わらず、よく自ら養生し、次第に朝拝ができるようになった。久しくして、光禄大夫に任じられ、金章紫綬を加えられた。

原文尋除安西將軍、秦州刺史。彝務尚典式,考訪故事。及臨隴右,彌加討習,於是出入直衞,方伯威儀,赫然可觀。羌夏畏伏,憚其威整,一方肅靜,號為良牧。其年冬,太極初就,彝與郭祚等俱以勤舊被徵。及還州,進號撫軍將軍,彝表解州任,詔不許。彝敷政隴右,多所制立,宣布新風,革其舊俗,民庶愛仰之。為國造佛寺名曰興皇,諸有罪咎者,隨其輕重,謫為土木之功,無復鞭杖之罰。時陳留公主寡居,彝意願尚主,主亦許之。僕射高肇亦望尚主,主意不可。肇怒,譖彝於世宗,稱彝擅立刑法,勞役百姓。詔遣直後萬貳興馳驛撿察。貳興,肇所親愛,必欲致彝深罪。彝清身奉法,求其愆過,遂無所得。見代還洛,猶停廢數年,因得偏風,手脚不便。然志性不移,善自將攝,稍能朝拜。久之,除光祿大夫,加金章紫綬。

李彝は知己を愛好し、下流を軽んじ、その意に適わない者は、蔑ろに見た。病が家庭にあっても、志気はますます明るかった。上表して曰く、「臣は聞く、元天は高く明るいが、なおも列星を借りて明るさを助け、洞庭は深く澄んでいるが、なおも衆流を藉りて大きさを増すと。皆、孤照ではその幽玄に至らず、独深ではその広大を尽くさないことを知る。先聖はこのようなことを識り、必ず物を取って自ら戒めとした。故に堯は天に則ると称し、謗木を設けて未だ明らかでないことを悟らせ、舜は尽く善しと称し、諫鼓を懸けて政の欠陥を規正した。虞人は箴規の旨を献じ、盤盂には挙動の銘を著し、善を見ては思ってこれに齊し、悪を聞いては自ら改めんことを庶幾した。悔往の道に眷眷とし、不逮の路に孜孜として、用いて能く声を百王に高くし、中古に卓絶し、十氏を経ても変わることなく、二千を歴て孤鬱たり。伏して惟うに、太祖は乱を撥ね、奕代重光たり。世祖は世に並ぶなき才をもって、函夏を開盪し、顯祖は温明の徳をもって、九区を潤沃せり。高祖は大聖として朝に臨み、経営雲の始め、未明に衣を求め、日昃に食を忘れ、荊棘を開翦し、神縣に徙御し、風軌を更新し、朝流に冠帯せり。海東の雑種の渠、衡南の異服の帥、沙西の氊頭の戎、漠北の辮髮の虜、重訳して貢を納れ、吏を請いて藩と称す。積徳は夏殷に懋く、富仁は周漢に盛ん、沢教既に周く、武功亦匝し。猶且も明詔を発し、直士を求めて思い、信に是れ蒼生の言を薦むる秋、祝史の辞を陳する日なり。況んや臣が家は自ら国に奉じて八十余年、金を紆え玉を鏘かせ、臣に及ぶこと四世。過ぎたる小才を以て、蔭を藉りて出仕し、学は專門に慚じ、武は方略に闕け、早く先帝の眷仗の恩を荷い、末に陛下の遺さざる施を蒙らず。侍するには則ち両都に出入りし、官は納言常伯を歴ね、忝くも秦藩を牧し、号は安撫を兼ぬ。実に首を碎き膏を原にし、仰いで二朝の恵に酬い、塵を軽くし石を砕き、遠く嵩岱の高きを増さんことを思う。輒ち旧書を私に訪ね、窃かに図史を観る。其の帝皇興起の元、天に配し家を隆くする業、造りを修めて民を益する奇、龍麟雲鳳の瑞、宮を卑くし物を愛する仁、網を釈し祝を改むる沢、前歌後舞の応、囹圄寂寥の美、輝き風景行うべきものは、輒ち謹んで丹青に編み、以て睿範を標す。至りて太康の田を好むは、窮后の禍を迫るに遇い、武乙の禽を逸するは、震雷の暴酷に罹り、夏桀の淫乱は、南巢に非命の誅有り、殷紂の昏酣は、牧野に倒戈の陳有り、周厲の獣を逐うは、滅びて踵を旋らず、幽王の惑に遇うは、死亦相尋ぬ、暨びて漢成の御を失うは、新を亡ぼし篡奪せられ、桓霊の綱せざるは、魏武の鼎を遷し、晉惠の闇弱は、骨肉相屠り、終に聰曜をして鴞視せしめ并州に、勒虎狼をして燕趙を据えしむ:此の如きの輩は、罔く畢く載せず。元は庖犧に起り、晉の末に終わり、凡そ十六代、百二十八帝、三千二百七年を歴、雑事五百八十九、合せて五巻と成し、名づけて歴帝図と曰う。亦た謗木・諫鼓・虞人・盤盂の類なり。脱び蒙くば御坐の側に置き、時に復た披覧し、冀くは或いは予を起して左右し、上って未萌を補わんことを。伏して願わくは陛下、遠くは宗廟の憂を惟い、近くは黎民の念を存し、其の賢君を取り、其の悪主を棄てられんことを。則ち微臣たとえ地下に沈淪すとも、雲に乗り天に登るに異ならん。」世宗はこれを善しとした。

原文彝愛好知己,輕忽下流,非其意者,視之蔑爾。雖疹疾家庭,而志氣彌亮。上表曰:「臣聞元天高朗,尚假列星以助明;洞庭淵湛,猶藉眾流以增大。莫不以孤照不詣其幽,獨深未盡其廣。先聖識其若此,必取物以自誡。故堯稱則天,設謗木以曉未明;舜稱盡善,懸諫鼓以規政闕。虞人獻箴規之旨,盤盂著舉動之銘,庶幾見善而思齊,聞惡以自改。眷眷於悔往之衢,孜孜於不逮之路,用能聲高百王,卓絕中古,經十氏而不渝,歷二千以孤鬱。伏惟太祖撥亂,弈代重光。世祖以不世之才,開盪函夏;顯祖以溫明之德,潤沃九區。高祖大聖臨朝,經營云始,未明求衣,日昃忘食,開翦荊棘,徙御神縣,更新風軌,冠帶朝流。海東雜種之渠,衡南異服之帥,沙西氊頭之戎,漠北辮髮之虜,重譯納貢,請吏稱藩。積德懋於夏殷,富仁盛於周漢,澤教既周,武功亦匝。猶且發明詔,思求直士,信是蒼生薦言之秋,祝史陳辭之日。況臣家自奉國八十餘年,紆金鏘玉,及臣四世。過以小才,藉蔭出仕,學慚專門,武闕方略,早荷先帝眷仗之恩,末蒙陛下不遺之施。侍則出入兩都,官歷納言常伯,忝牧秦藩,號兼安撫。實思碎首膏原,仰酬二朝之惠;輕塵碎石,遠增嵩岱之高。輒私訪舊書,竊觀圖史,其帝皇興起之元,配天隆家之業,修造益民之奇,龍麟雲鳳之瑞,卑宮愛物之仁,釋網改祝之澤,前歌後舞之應,囹圄寂寥之美,可為輝風景行者,輒謹編丹青,以標睿範。至如太康好田,遇窮后迫禍;武乙逸禽,罹震雷暴酷;夏桀淫亂,南巢有非命之誅;殷紂昏酣,牧野有倒戈之陳;周厲逐獸,滅不旋踵;幽王遇惑,死亦相尋;暨於漢成失御,亡新篡奪;桓靈不綱,魏武遷鼎;晉惠闇弱,骨肉相屠,終使聰曜鴞視并州,勒虎狼據燕趙:如此之輩,罔不畢載。起元庖犧,終於晉末,凡十六代,百二十八帝,歷三千二百七年,雜事五百八十九,合成五卷,名曰歷帝圖,亦謗木、諫鼓、虞人、盤盂之類。脫蒙置御坐之側,時復披覽,冀或起予左右,上補未萌。伏願陛下遠惟宗廟之憂,近存黎民之念,取其賢君,棄其惡主,則微臣雖沉淪地下,無異乘雲登天矣。」世宗善之。

張彝はまた上表して言う、「臣が考えるに、皇王が天を統べるには、必ず幽遠なところまで窮めることを美とし、理を尽くして聖となるにも、広く採り入れることによって明を成す。故に刍蕘(草刈りや薪取りの者)に諮問することは、周の詩篇に著され、輿人(車を引く者)が箴言を献ずることは、夏の典籍に流れている。そうでなければ、美刺(褒めそやしと諫め)は顕わになることがなく、善悪は時に達せられない。両漢・魏・晋に至るまで、道に隆盛と衰退はあったが、刺繍の衣を着て檄文を伝えることは、欠けたことがなかった。そして恵帝が御世を失い、中夏が崩れ離れると、劉氏や苻氏が秦西を専らに占拠し、燕や趙が関左を独り制し、姚氏や夏が相次いで起こり、五涼が競って立ち、ついに九服は揺れ動き、民に定まった主なく、礼儀典制はここに埋もれ滅んだ。大魏が暦に応じて、乱を撥ね除け皇位に登り、あの鯨鯢(凶悪な者)を剪除し、神県(天下)を平定して以来、数紀の間に天下は寧一となり、七帝に輝きを伝え、聖を積んで神の如しである。高祖(孝文帝)は鼎を成周(洛陽)に遷し、この八百(年)を永くし、武を偃(や)めて文を修め、憲章をここに改めた。まさに五帝を加え、三王に登るというべきであり、民は徳を感じて名を称える。それでもなお、独り見るだけでは明らかでないことを慮り、得失について広く訪ねようと欲し、四使を命じて、風謡を観察させた。臣は時に常伯(侍中)の任を辱うけ、一使の列に充てられ、遂に節を仗(たずさ)え金を揮い、恩を東夏に宣べ、斉魯の間を周歴し、梁宋の域に遍く馳せ、詩頌を詢採し、獄情を研検し、実に片言も遺さず、美刺ともに顕わにしようとした。しかし才軽く任重く、多くは心に遂げず。採った詩は、並びに申し目(目録)を始めたが、時に鑾輿(天子の車駕)が南討し、宛鄧に罪を問うに値し、臣はまた行軍を辱うけ、枢機の務に従事した。そして輦駕が返るや、膳御(食事の供御)も未だ和せず、続いて大諱(皇帝の崩御)が奄(たちま)ち至り、四海は崩れ慕い、かくして推遷し、聞徹するに及ばなかった。未だ幾ばくもせず、秦蕃(秦州)の牧に改められ、闕下を違離し、続いて譴責と疾病が相纏い、寧んぞ八年を経た。常に恐れるのは、採った詩が永く丘壑に沈むことであり、これが臣の夙夜に懐く、深き憂いとする所である。陛下は日月の明を垂れ、雲雨の施しを行い、臣の往時の罪の濫りを察し、臣の貧病の切なるを矜み、既に禄養をもって崇められ、また丘墳を拝掃し、友朋に明目し、負愧する所なし。且つ臣は一二年來、患う所劇しからず、本書を尋省するに、粗(ほぼ)髣髴たり。凡そ七巻あり、今書きて上呈す。伏して願わくは昭覧し、有司に勅して付し、魏代に採った詩が丘井に埋もれずんば、臣の願いである」と。

原文彝又表曰:「竊惟皇王統天,必以窮幽為美;盡理作聖,亦假廣採成明。故詢於芻蕘,著之周什,輿人獻箴,流於夏典。不然,則美刺無以得彰,善惡有時不達。逮於兩漢、魏、晉,雖道有隆汚,而被繡傳檄,未始闕也。及惠帝失御,中夏崩離,劉苻專據秦西,燕趙獨制關左,姚夏繼起,五涼競立,致使九服搖搖,民無定主,禮儀典制,此焉堙滅。暨大魏應歷,撥亂登皇,翦彼鯨鯢,龕靖神縣,數紀之間,天下寧一,傳輝七帝,積聖如神。高祖遷鼎成周,永茲八百,偃武修文,憲章斯改,實所謂加五帝、登三王,民無德而名焉。猶且慮獨見之不明,欲廣訪於得失,乃命四使,觀察風謠。臣時忝常伯,充一使之列,遂得仗節揮金,宣恩東夏,周歷於齊魯之間,遍馳於梁宋之域,詢採詩頌,研撿獄情,實庶片言之不遺,美刺之俱顯。而才輕任重,多不遂心。所採之詩,並始申目,而值鑾輿南討,問罪宛鄧,臣復忝行軍,樞機是務。及輦駕之返,膳御未和,續以大諱奄臻,四海崩慕,遂爾推遷,不及聞徹。未幾,改牧秦蕃,違離闕下,繼以譴疾相纏,寧丁八歲。常恐所採之詩永淪丘壑,是臣夙夜所懷,以為深憂者也。陛下垂日月之明,行雲雨之施,察臣往罪之濫,矜臣貧病之切,既蒙崇以祿養,復得拜掃丘墳,明目友朋,無所負愧。且臣一二年來,所患不劇,尋省本書,粗有髣髴。凡有七卷,今寫上呈,伏願昭覽,敕付有司,使魏代所採之詩,不堙於丘井,臣之願也。」

粛宗(孝明帝)の初め、侍中崔光が上表して言う、「張彝及び李韶は、朝列の中において唯この二人の出身官次は本より臣の右に在り、器能は世に幹(みき)わり、また並びに多し。近來参差し、便ち替後(後任)と成る。その階途を計るに、雖も遷陟すべきなりと雖も、然れども班秩猶未だ賜等せざるを恐る。昔、衛の公叔は、下を引いて同挙し、晋の士丐(范宣子)は、長を推して伯游(荀偃)に譲る。古人の高くし、当時に許された所なり。敢えて斯の義に縁り、臣の位一階を降し、彼らに汎級(一般の等級)を授け、聖庭に斉行し、選叙に帖穆(整然)たらしめんことを乞う」と。詔して征西将軍・冀州大中正を加える。年六十に近づき、風疾を加うるも、自ら人事に強く、孜孜として怠らず。公私の法集、衣冠の従事、道俗を延請し、斎講を修営し、善を好み賢を欽み、人物を愛獎す。南北新旧、多く之を称えざるは莫し。大いに第宅を起こし、微かに華侈を号し、頗るその疏宗旧戚を侮り、甚だ存紀せず、時に怨憾有り。栄宦の間、未だ足るを止めず、屡々表して秦州に在りて漢中を開援するの勲有るを預かり、賞報を加えんことを希い、積年已まず、朝廷之を患う。

原文肅宗初,侍中崔光表曰:「彝及李韶,朝列之中唯此二人出身官次本在臣右,器能幹世,又並為多,近來參差,便成替後。計其階途,雖應遷陟,然恐班秩猶未賜等。昔衞之公叔,引下同舉;晉之士丐,推長伯游。古人所高,當時見許。敢緣斯義,乞降臣位一階,授彼汎級,齊行聖庭,帖穆選敍。」詔加征西將軍、冀州大中正。雖年向六十,加之風疾,而自強人事,孜孜無怠。公私法集,衣冠從事;延請道俗,修營齋講;好善欽賢,愛獎人物。南北新舊莫不多之。大起第宅,微號華侈,頗侮其疏宗舊戚,不甚存紀,時有怨憾焉。榮宦之間,未能止足,屢表在秦州預有開援漢中之勳,希加賞報,積年不已,朝廷患之。

第二子仲瑀が封事を上し、選格を銓別し、武人を排抑して、清品に預からせざることを求む。ここにより衆口喧喧、謗讟路に満ち、大巷に榜を立て、期を剋して会集し、その家を屠害せんとす。張彝は殊に畏避の意無く、父子安然たり。神亀二年二月、羽林虎賁千人に幾からんとし、相率いて尚書省に至りて詬罵し、その長子尚書郎始均を求め、獲ず、瓦石を以て公門を撃打す。上下畏懼し、敢えて討抑する者莫し。遂に便ち火を持ち、道中の薪蒿を虜掠し、杖石を兵器と為し、直ちにその第に造り、張彝を堂下に曳き、捶辱極意にし、嗸嗸と唱呼し、その屋宇を焚く。始均・仲瑀は当時に北垣を踰えて走る。始均は回ってその父を救い、群小に拜伏し、以て父の命を請う。羽林等は就いて毆撃を加え、生きたまま之を煙火の中に投ず。及び尸骸を得るも、復た識別す可からず、唯髻中の小釵を以て験とす。仲瑀は傷重くして走り免る。張彝は僅かに余命有り、沙門寺其の比隣に在り、之を輿して寺に致す。遠近聞見する者、惋駭せざる莫し。

原文第二子仲瑀上封事,求銓別選格,排抑武人,不使預在清品。由是眾口喧喧,謗讟盈路,立榜大巷,剋期會集,屠害其家。彝殊無畏避之意,父子安然。神龜二年二月,羽林虎賁幾將千人,相率至尚書省詬罵,求其長子尚書郎始均,不獲,以瓦石擊打公門。上下畏懼,莫敢討抑。遂便持火,虜掠道中薪蒿,以杖石為兵器,直造其第,曳彝堂下,捶辱極意,唱呼嗸嗸,焚其屋宇。始均、仲瑀當時踰北垣而走。始均回救其父,拜伏羣小,以請父命。羽林等就加毆擊,生投之於烟火之中。及得尸骸,不復可識,唯以髻中小釵為驗。仲瑀傷重走免。彝僅有餘命,沙門寺與其比隣,輿致於寺。遠近聞見,莫不惋駭。

張彝は臨終に、口に左右に占(とな)えて上啓す、「臣、国に奉じてより孫に至るまで六世、尸祿素餐し、恩に負いて唯靦(はじ)るのみ。徒らに智を竭くし誠を尽くさんと思えども、終に然らざるに効(いた)らず。臣が第二息仲瑀の上りし事、益治実に多し。既に益有りと曰う以上、寧んぞ黙爾せんや。通呈する日有りて、未だ神聴に簡(えら)ばれず。豈図らんや衆忿、乃ち此に至らんとは。臣は禍を未萌に防ぎ、殃兆を慮り絶つこと能わず、致して軍衆をして横囂せしめ、臣が宅を攻焚せしむ。息始均・仲瑀等は叩きて血を流し、臣に代わりて死なんことを乞う。始均は即ち塗炭に陥り、仲瑀は宿を経て方って蘇る。臣は年已に六十、宿(つね)に栄遇を被り、垂暮の秋、忽ち此の苦を見る。災酷を顧み瞻れば、古今比ぶる無し。臣の傷至って重く、残気仮延す。景を望み時に顧み、漏を推して就くに尽き、頃刻を待って終わる、臣の命なり。復た何を言わんや。若し上りし書、少しくも国に益する有らば、臣は是れ生くるを以て理に全うし、死するは義に合い、二帝に地下に負わず、臣に余恨無し。一たび泉壤に帰し、長く紫庭を離る。天顔を恋い仰ぎ、誠に痛み已む無し。眷眷たるに勝えず、力喘ぎ奉辞す。伏して願わくは二聖、御珍膳を加え、黔首を覆露し、南嶽に寿を保ち、徳日とともに昇らんことを。臣は夙に芻豢を被り、先後恩を銜む。報いんとする期、昊天罔極、亡魂に知有らば、結草を忘れず」と。張彝は遂に卒す。時に年五十九。官は為に羽林の凶強者八人を収掩して斬る。群豎を窮誅する能わず、即ち大赦を為して以て衆心を安んず。識有る者は国紀の将に墜んとするを知る。喪は焚かれた宅に還り、始均と東西に分かれて小屋に斂(おさ)む。仲瑀は遂に創重きを以て滎陽に避居し、五月に至り、創漸く瘳え、始めて父の喪に奔る。詔して布帛千匹を賜う。霊太后は其の累朝の大臣なるを以て、特垂して矜惻し、数月猶追言して泣下し、諸侍臣に謂いて曰く、「吾は張彝の為に飲食御せず、乃ち首髪微かに虧落有るに至る。悲痛の苦、以て此に至る」と。

原文彝臨終,口占左右上啟曰:「臣自奉國及孫六世,尸祿素餐,負恩唯靦,徒思竭智盡誠,終然靡効。臣第二息仲瑀所上之事,益治實多,既曰有益,寧容默爾。通呈有日,未簡神聽,豈圖眾忿,乃至於此。臣不能禍防未萌,慮絕殃兆,致令軍眾橫囂,攻焚臣宅。息始均、仲瑀等叩請流血,乞代臣死,始均即陷塗炭,仲瑀經宿方蘇。臣年已六十,宿被榮遇,垂暮之秋,忽見此苦,顧瞻災酷,古今無比。臣傷至重,殘氣假延,望景顧時,推漏就盡,頃刻待終,臣之命也,知復何言。若所上之書,少為益國,臣便是生以理全,死與義合,不負二帝於地下,臣無餘恨矣。一歸泉壤,長離紫庭,戀仰天顏,誠痛無已。不勝眷眷,力喘奉辭,伏願二聖加御珍膳,覆露黔首,壽保南嶽,德與日昇。臣夙被芻豢,先後銜恩,欲報之期,昊天罔極,亡魂有知,不忘結草。」彝遂卒,時年五十九。官為收掩羽林凶強者八人斬之,不能窮誅羣豎,即為大赦以安眾心,有識者知國紀之將墜矣。喪還所焚宅,與始均東西分斂於小屋。仲瑀遂以創重避居滎陽,至五月,創得漸瘳,始奔父喪,詔賜布帛千匹。靈太后以其累朝大臣,特垂矜惻,數月猶追言泣下,謂諸侍臣曰:「吾為張彝飲食不御,乃至首髮微有虧落。悲痛之苦,以至於此。」

初め、張彝の曾祖幸は、招き引きしし河東の民、州に裁(わずか)千余家、後に相依り合い、冀州に罷入するに至り、三十年を積み、析別して数万戸有り。故に高祖(孝文帝)は天下の民戸を比校し、最も大州と為す。張彝が黄門に在りし時、毎に侍坐して以て言と為す。高祖之に謂いて曰く、「終に当に卿を以て刺史と為し、先世の誠効に酬いん」と。張彝は高祖の往旨を追い、累ねて本州を乞う。朝議未だ許さず。張彝亡き後、霊太后云う、「張彝は屡々冀州を乞う。吾之を用いんと欲す。人有りて我が此の意に違う。若し其の請に従わば、或いは是に至らず、悔ゆるも及ばず」と。乃ち使持節・衛将軍・冀州刺史を贈り、諡して文侯と曰う。

原文初,彝曾祖幸,所招引河東民為州裁千餘家,後相依合,至於罷入冀州,積三十年,析別有數萬戶,故高祖比校天下民戶,最為大州。彝為黃門,每侍坐以為言,高祖謂之曰:「終當以卿為刺史,酬先世誠效。」彝追高祖往旨,累乞本州,朝議未許。彝亡後,靈太后云:「彝屢乞冀州,吾欲用之,有人違我此意。若從其請,或不至是,悔之無及。」乃贈使持節、衞將軍、冀州刺史,諡文侯。

始均は、字を子衡といい、品行方正で学問を好み、文才があった。司徒行参軍となり、著作佐郎に転じた。世宗は、張彝が先朝の功労の旧臣でありながら不幸にも病で廃されたことを考慮し、特に始均を長兼左民郎中に任じた。員外常侍に遷り、なお郎の職を兼ねた。始均の才幹は父に勝る美点があり、陳寿の『魏志』を編年体に改め、異聞を広く補って三十巻とした。また『冠帯録』および諸賦数十篇を著したが、今はすべて散逸している。初め、大乗の賊が冀州と瀛州の間に起こり、都督の元遙が派遣されてこれを討ち平らげたが、殺戮多く、積み重なった死体は数万に及んだ。始均は郎中として行台となり、軍士が重ねて首級を戦功とすることを憤り、数千の人頭を集めて検分し、一時に焼き払い、灰燼に帰せしめた。これにより僥倖を止めようとしたのであるが、見る者は誰もが傷心した。始均の死に至っては、その始末が煙と炭火の間にあり、焦げ爛れる痛みを受けた。論ずる者の中には、このことを咎めとする者もあった。楽陵太守を追贈され、諡して孝といった。

原文始均,字子衡,端潔好學,有文才。司徒行參軍,遷著作佐郎。世宗以彝先朝勤舊,不幸疹廢,特除始均長兼左民郎中。遷員外常侍,仍領郎。始均才幹,有美於父,改陳壽魏志為編年之體,廣益異聞,為三十卷。又著冠帶錄及諸賦數十篇,今並亡失。初,大乘賊起於冀瀛之間,遣都督元遙討平之,多所殺戮,積尸數萬。始均以郎中為行臺,忿軍士重以首級為功,乃令檢集人首數千,一時焚爇,至於灰燼,用息僥倖,見者莫不傷心。及始均之死也,始末在於烟炭之間,有燋爛之痛,論者或亦推咎焉。贈樂陵太守,諡曰孝。

子の暠は、祖父の爵位を襲った。武定年間、開府主簿となった。斉が禅譲を受けると、爵位は例によって降格された。

原文子暠,襲祖爵。武定中,開府主簿。齊受禪,爵例降。

暠の弟の晏之は、武定年間、儀同開府中兵参軍となった。

原文暠弟晏之,武定中,儀同開府中兵參軍。

仲瑀は、司空祭酒・給事中となった。

原文仲瑀,司空祭酒、給事中。

子の台は、儀同開府参軍事となった。

原文子台,儀同開府參軍事。

仲瑀の弟の珉は、著作佐郎となった。

原文仲瑀弟珉,著作佐郎。