魏書

卷63 王肅 宋弁

卷63 王肅 宋弁

王肅

原文王肅

王肅は、字を恭懿といい、琅邪郡臨沂県の人であり、司馬衍の丞相王導の後裔である。父の王奐は、蕭賾(南斉の武帝)の尚書左僕射であった。王肅は幼少より聡明で弁舌に優れ、経史に広く通じ、大志を抱いていた。蕭賾に仕え、著作郎・太子舍人・司徒主簿・秘書丞を歴任した。王肅は自ら礼と易を得意とすると称したが、その大義を通ずるには至らなかった。父の王奐と兄弟たちは皆、蕭賾によって殺害され、王肅は建業から北魏に亡命してきた。この年は太和十七年(493年)であった。

原文王肅,字恭懿,琅邪臨沂人,司馬衍丞相導之後也。父奐,蕭賾尚書左僕射。肅少而聰辯,涉獵經史,頗有大志。仕蕭賾,歷著作郎、太子舍人、司徒主簿、祕書丞。肅自謂禮、易為長,亦未能通其大義也。父奐及兄弟並為蕭賾所殺,肅自建業來奔,是歲,太和十七年也。

高祖(孝文帝)が鄴に行幸した際、王肅の到着を聞き、虚心に彼を待ち、引見して事情を尋ねた。王肅の言葉と道理は機敏で切実、弁舌さわやかで礼に適い、高祖は大いに哀れみ同情した。やがて国を治める道について語り合うと、王肅は治乱について述べ、その言葉は雅やかで流暢、深く帝の意にかなった。高祖は感嘆してこれを容れ、席を近づけて話し、日が移るのも忘れ、座りの疲れも覚えなかった。そこで蕭氏(南斉)が危うく滅びる兆しと、乗ずべき機会を説き、高祖に大挙して南征するよう勧めた。これにより南進の計画は次第に鋭くなり、王肅への器重と礼遇は日増しに加わり、親貴や旧臣でも離間できる者はいなかった。ある時は左右を退けて相対して語り合い、夜半に至ってもやめなかった。王肅もまた忠誠を尽くして真心を披瀝し、隠し避けるところなく、君臣の間柄は劉玄徳が諸葛孔明に遇ったようであると自負した。まもなく輔国将軍・大将軍長史に任じられ、開陽伯の爵位を賜ったが、王肅は伯爵を固辞し、許された。

原文高祖幸鄴,聞肅至,虛襟待之,引見問故。肅辭義敏切,辯而有禮,高祖甚哀惻之。遂語及為國之道,肅陳說治亂,音韻雅暢,深會帝旨。高祖嗟納之,促席移景,不覺坐之疲淹也。因言蕭氏危滅之兆,可乘之機,勸高祖大舉。於是圖南之規轉銳,器重禮遇日有加焉,親貴舊臣莫能間也。或屏左右相對談說,至夜分不罷。肅亦盡忠輸誠,無所隱避,自謂君臣之際猶玄德之遇孔明也。尋除輔國將軍、大將軍長史,賜爵開陽伯,肅固辭伯爵,許之。

詔して王肅に蕭鸞(南斉の明帝)の義陽を討たせた。壮勇を募って爪牙とすることを許し、その募兵が功を立てれば、通常の募兵より一等加えて賞し、王肅に従う者は、六品以下は先に任用することを許し、その後で上表して奏聞せよ、と。また帰順する者があれば、五品以下は先に優遇して授けることを許した。そこで王肅に節を仮授し、平南将軍の職務を行わせた。王肅が義陽に至ると、賊軍をしばしば破り、降伏する者は一万余りに及んだ。高祖は散騎侍郎を遣わして労い、功により平南将軍の号を進め、駿馬一匹を賜い、持節・都督豫東豫東郢三州諸軍事・本将軍・豫州刺史・揚州大中正に任じた。王肅は人を慰撫し接遇するのに巧みで、治績に名声があった。

原文詔肅討蕭鸞義陽。聽招募壯勇以為爪牙,其募士有功,賞加常募一等;其從肅行者,六品已下聽先擬用,然後表聞;若投化之人,聽五品已下先即優授。於是假肅節,行平南將軍。肅至義陽,頻破賊軍,降者萬餘。高祖遣散騎侍郎勞之,以功進號平南將軍,賜駿馬一匹,除持節、都督豫東豫東郢三州諸軍事、本將軍、豫州刺史、揚州大中正。肅善於撫接,治有聲稱。

まもなく王肅を召し入朝させた。高祖は手詔を下して言った。「君子(王肅)に会わぬと、心は酔ったようで、一日が三歳のようだ。我が心労は如何に。華林園に館を飾り、席を整えて待つ。卿はいつ汝墳(故郷)を発つつもりか。故にまたこの詔を下す。」また詔して言った。「王肅は艱難の世に遭い、志は伍胥(伍子胥)に等しく、自ら呉州(南朝)を抜け出し、魏県(北魏)を求めて来た。みずから礼を忘れる根本(復讐)を執り、数え切れぬ喪(父の喪)と同じくし、怨みと恥辱を晴らすことを誓い、復讐を遂げようとした。二年の喪に窮極し、粗衣粗食を改めなかった。誠に末世の高風、末代の孝節である。しかし聖人が礼を制定するには、必ず愚者と智者を均しくする。先王が法則を作るには、道理をもって盈虚を整える。過ぎる者は身をかがめてこれに就き、及ばぬ者は踵を上げてこれを行え。曾参が罰(喪に服する)に居た時、その哀しみを終わらせようとしたか。呉員(伍子胥)が酷(父の仇)に処した時、四年(喪の期間)を聞いたことがあろうか。三年というのは、天下の通喪であり、古今を通じて一である。たとえ礼を過ごそうと欲しても、朕が礼をもってこれを制せざるを得ようか。有司は礼に依って諭し、練祥(喪服を軽くする)の制を定めるべし。」

原文尋徵肅入朝,高祖手詔曰:「不見君子,中心如醉,一日三歲,我勞如何。飾館華林,拂席相待,卿欲以何日發汝墳也?故復此敕。」又詔曰:「肅丁荼虣世,志等伍胥,自拔吳州,膺求魏縣,躬操忘禮之本,而同無數之喪,誓雪怨耻,方展申復,窮諭再期,蔬縕不改,誠季世之高風,末代之孝節也。但聖人制禮,必均愚智;先王作則,理齊盈虛。過之者俯而就之,不及者企而行之。曾參居罰,寧其哀終;吳員處酷,豈聞四載。夫三年者,天下之達喪,古今之所一,其雖欲過禮,朕得不制之以禮乎?有司可依禮諭之,為裁練𧝓之制。」

二十年(496年)七月、高祖は長く旱魃が続き雨が降らないため、三日間の間、食事を断った。百官が宮門に詣で、中書省に引き入れられた。高祖は崇虚楼におり、舎人を遣わして問うた。「朕は卿らが来たことは知っているが、相見えることができない。卿らは何のために来たのか。」王肅が答えて言った。「伏して承りますに、陛下が食事を断たれてすでに三日、群臣は焦り恐れ、自ら安んずることができません。臣は聞きます。堯の時の水害、湯の時の旱魃は、自然の定数であり、聖人が世を救うことを要するのであって、聖人によって災いが致されるのではありません。それゆえ国は九年分の蓄えを持ち、九年の変事に備えるのです。臣はまた聞きます。八月になっても雨が降らなければ、その後に君主は食事を挙げない、と。昨日、四郊の外にはすでに大雨が降りましたが、ただ京城の内はわずかに潤いが少ないのです。民衆は一食も欠いておらず、陛下が三日も食事を断たれるとは、臣下や民衆は恐れおののき、身の置き所もありません。」高祖は舎人を遣わして答えて言った。「昔、堯の水害、湯の旱魃は、聖人に頼って民を救った。朕は万民の上に居ながら、その道は前王に及ばない。今日の旱魃を救い恤れる術がなく、立秋を待ち、みずから過ちを責めるべきである。しかしこの月十日以来、炎熱が酷く、人も物も共に憔悴している。連日雲が連なり、高い風が蕭条としているのに、数日食事を取らなくても、まだ何の感応もない。これは朕の誠心が至らぬことによるものであろう。」王肅が言った。「臣は聞きます。聖人と凡人とが同じなのは五常であり、異なるのは神明である、と。昔、姑射の神人は五穀を食わなかったが、臣は常にこれは偽りであると思っていました。今、陛下を見て、初めてその験があることを知りました。かつ陛下が食事を断たれて以来、もし天が全く応えなければ、臣もまた上天は知らず、陛下には感応がないと言ったでしょう。一昨日以前、外には大雨があり、ここには密雲があった。臣はすなわち、天は知り、陛下には感応があると言ったのです。」高祖は舎人を遣わして答えて言った。「昨日、内外の貴賤を問わず皆、四郊に雨があったと言う。朕はこれが皆、勧めるための言葉ではないかと恐れる。三度繰り返して慎むべきであり、必ず信じて徴証があるようにせねばならぬ。近く人を遣わして行かせよう。もし果たして雨なら、直ちに大官(光禄卿)に命じて欣然と食事を進めさせよう。どうして近郊の内で、慷慨として天に要請できようか。もし雨がなければ、朕に感応がなく、どうして朕の身をもって民衆を煩わせようか。朕の志は確固としており、死して後やむ。」この夜、大雨が降った。

原文二十年七月,高祖以久旱不雨,輟膳三旦,百僚詣闕,引在中書省。高祖在崇虛樓,遣舍人問曰:「朕知卿等至,不獲相見,卿何為而來?」肅對曰:「伏承陛下輟膳已經三旦,羣臣焦怖,不敢自寧。臣聞堯水湯旱,自然之數,須聖人以濟世,不由聖以致災。是以國儲九年,以禦九年之變。臣又聞至於八月不雨,然後君不舉膳。昨四郊之外已蒙滂澍,唯京城之內微為少澤。蒸民未闕一餐,陛下輟膳三日,臣庶惶惶,無復情地。」高祖遣舍人答曰:「昔堯水湯旱,賴聖人以濟民,朕雖居羣黎之上,道謝前王,今日之旱,無以救恤,應待立秋,克躬自咎。但此月十日已來,炎熱焦酷,人物同悴,而連雲數日,高風蕭條,雖不食數朝,猶自無感,朕誠心未至之所致也。」肅曰:「臣聞聖人與凡同者五常,異者神明。昔姑射之神,不食五穀,臣常謂矯。今見陛下,始知其驗。且陛下自輟膳以來,若天全無應,臣亦謂上天無知,陛下無感。一昨之前,外有滂澤,此有密雲,臣即謂天有知,陛下有感矣。」高祖遣舍人答曰:「昨內外貴賤咸云四郊有雨,朕恐此輩皆勉勸之辭,三覆之慎,必欲使信而有徵。比當遣人往行,若果雨也,便命大官欣然進膳。豈可以近郊之內而慷慨要天乎?若其無也,朕之無感,安用朕身以擾民庶!朕志確然,死而後已。」是夜澍雨大降。

蕭鸞の将裴叔業を破った功により、鎮南将軍の号を進め、都督豫・南兗・東荊・東豫四州諸軍事を加えられ、汝陽県開国子に封ぜられ、食邑三百戸を賜り、持節・中正・刺史はもとの通りであった。王肅はたびたび上表して固辞したが、許されず、詔して鼓吹一部を加えられた。二十二年(498年)、漢陽を平定した後、王肅に詔して言った。「知己は義を貴び、君臣は恩に務む。災いを憐れみ禍を恤れなければ、恩義はどこに措かれようか。卿の心情は伍員と同じく、酷い思いを抱いて朕に帰した。しかし未だ一人の仇人をも断ち切らず、かの凶帥を斬ることができない。何度思いを起こして憤慨し嘆息し、呉の閭門(伍子胥の故事)を羨み長息しなかったことがあろうか。近ごろ蕭鸞の輔国将軍黄瑤起を捕らえ、これが卿の怨みの的であることを知った。まもなく相渡すであろう。少しは鬱憤が晴れることを望む。朕が卿に会う日、やや心を緩めることができるように。」初め、蕭賾が王肅の父王奐を捕らえた時、司馬の黄瑤起が王奐を攻めて殺したので、このような詔を下したのである。

原文以破蕭鸞將裴叔業功,進號鎮南將軍,加都督豫、南兗、東荊、東豫四州諸軍事,封汝陽縣開國子,食邑三百戶,持節、中正、刺史如故。肅頻表固讓,不許,詔加鼓吹一部。二十二年,既平漢陽,詔肅曰:「夫知己貴義,君臣務恩,不能矜災卹禍,恩義焉措?卿情同伍員,懷酷歸朕,然未能翦一讎人,馘彼凶帥,何嘗不興言憤歎,羨吳閭而長息。比獲蕭鸞輔國將軍黃瑤起,乃知是卿怨也。尋當相付,微望紓泄,使吾見卿之日,差得緩懷。」初,賾之收肅父奐也,司馬黃瑤起攻奐殺之,故詔云然。

高祖が淮北を征伐する際、王肅に義陽を討たせたが、未だに陥落せず、蕭鸞が将裴叔業を遣わして渦陽を寇した。劉藻らがこれを救援したが、叔業に敗れた。王肅は上表してさらに軍を派遣し渦陽を救援するよう求めた。詔して言った。「表を得て、これを覧み憮然とする。卿の意が専ら水(渦陽)にあるのではなく、おそらく劉藻らの精鋭が前に新たに敗れ、事は去り勢い難いからであろう。朕がもし兵を分け遣わしても、多くは遣わさず、会しても制することができず、多く遣わせば禁軍が欠け難い。今日の計は、ただ必勝の挙に出るべきであり、狐疑の軍となってはならず、徒らに南兗を失うのみである。卿はその意を止めてそこに留まり、義陽の敵を図るべし。止むべきならば止め、義陽を取るに戻れ。下るべきならば下り、淮北に軍を鎮めよ。二つの道を深く量り、重ねて過ちを致すことなかれ。もし孟表の糧食が尽き、軍が間に合わず、渦陽を失うに至れば、卿の過ちである。」王肅はそこで義陽の包囲を解き、渦陽に向かったので、叔業は軍を引いて退いた。王肅は劉藻らの敗戦に連座して、平南将軍に降格されたが、中正・刺史はもとの通りであった。

原文高祖之伐淮北,令肅討義陽,未克,而蕭鸞遣將裴叔業寇渦陽。劉藻等救之,為叔業所敗。肅表求更遣軍援渦陽。詔曰:「得表,覽之憮然,觀卿意非專在水,當是以藻等銳兵新敗於前,事往勢難故也。朕若分兵,遣之非多,會無所制,多遣則禁旅難闕。今日之計,唯當作必克之舉,不可為狐疑之師,徒失南兗也。卿便息意停彼,以圖義陽之寇。宜止則止,還取義陽;宜下則下,鎮軍淮北。深量二途,勿致重爽。若孟表糧盡,軍不及至,致失渦陽,卿之過也。」肅乃解義陽之圍,以赴渦陽,叔業乃引師而退。肅坐劉藻等敗,黜為平南將軍,中正、刺史如故。

高祖(孝文帝)が崩御し、遺詔により王粛を尚書令とし、咸陽王元禧らと共に宰輔と為し、魯陽にて車駕に会するよう召し寄せた。

原文(段落全体)高祖崩,遺詔以肅為尚書令,與咸陽王禧等同為宰輔,徵肅會駕魯陽。肅至,遂與禧等參同謀謨。自魯陽至於京洛,行途喪紀,委肅參量,憂勤經綜,有過舊戚。禧兄弟並敬而昵之,上下稱為和輯。唯任城王澄以其起自羇遠,一旦在己之上,以為憾焉。每謂人曰:「朝廷以王肅加我上尚可,從叔廣陽,宗室尊宿,歷任內外,云何一朝令肅居其右也?」肅聞其言,恒降而避之。尋為澄所奏劾,稱肅謀叛,言尋申釋。詔肅尚陳留長公主,本劉昶子婦彭城公主也,賜錢二十萬、帛三千匹。肅奏:「考以顯能,陟由績著,昇明退闇,於是乎在。自百僚曠察,四稔于茲,請依舊式考檢能否。」從之。

王粛が到着すると、元禧らと共に謀議に参与した。

原文(段落全体)高祖崩,遺詔以肅為尚書令,與咸陽王禧等同為宰輔,徵肅會駕魯陽。肅至,遂與禧等參同謀謨。自魯陽至於京洛,行途喪紀,委肅參量,憂勤經綜,有過舊戚。禧兄弟並敬而昵之,上下稱為和輯。唯任城王澄以其起自羇遠,一旦在己之上,以為憾焉。每謂人曰:「朝廷以王肅加我上尚可,從叔廣陽,宗室尊宿,歷任內外,云何一朝令肅居其右也?」肅聞其言,恒降而避之。尋為澄所奏劾,稱肅謀叛,言尋申釋。詔肅尚陳留長公主,本劉昶子婦彭城公主也,賜錢二十萬、帛三千匹。肅奏:「考以顯能,陟由績著,昇明退闇,於是乎在。自百僚曠察,四稔于茲,請依舊式考檢能否。」從之。

魯陽より京洛に至るまでの途上、喪礼の儀式は王粛に委ねて参酌させ、憂慮勤勉に経緯を総括し、旧来の外戚以上であった。

原文(段落全体)高祖崩,遺詔以肅為尚書令,與咸陽王禧等同為宰輔,徵肅會駕魯陽。肅至,遂與禧等參同謀謨。自魯陽至於京洛,行途喪紀,委肅參量,憂勤經綜,有過舊戚。禧兄弟並敬而昵之,上下稱為和輯。唯任城王澄以其起自羇遠,一旦在己之上,以為憾焉。每謂人曰:「朝廷以王肅加我上尚可,從叔廣陽,宗室尊宿,歷任內外,云何一朝令肅居其右也?」肅聞其言,恒降而避之。尋為澄所奏劾,稱肅謀叛,言尋申釋。詔肅尚陳留長公主,本劉昶子婦彭城公主也,賜錢二十萬、帛三千匹。肅奏:「考以顯能,陟由績著,昇明退闇,於是乎在。自百僚曠察,四稔于茲,請依舊式考檢能否。」從之。

元禧兄弟は共に彼を敬い親しみ、上下より和合と称された。

原文(段落全体)高祖崩,遺詔以肅為尚書令,與咸陽王禧等同為宰輔,徵肅會駕魯陽。肅至,遂與禧等參同謀謨。自魯陽至於京洛,行途喪紀,委肅參量,憂勤經綜,有過舊戚。禧兄弟並敬而昵之,上下稱為和輯。唯任城王澄以其起自羇遠,一旦在己之上,以為憾焉。每謂人曰:「朝廷以王肅加我上尚可,從叔廣陽,宗室尊宿,歷任內外,云何一朝令肅居其右也?」肅聞其言,恒降而避之。尋為澄所奏劾,稱肅謀叛,言尋申釋。詔肅尚陳留長公主,本劉昶子婦彭城公主也,賜錢二十萬、帛三千匹。肅奏:「考以顯能,陟由績著,昇明退闇,於是乎在。自百僚曠察,四稔于茲,請依舊式考檢能否。」從之。

ただ任城王元澄のみは、彼が遠方の寄寓の身から、一朝にして己の上に立ったことを、遺憾と為した。

原文(段落全体)高祖崩,遺詔以肅為尚書令,與咸陽王禧等同為宰輔,徵肅會駕魯陽。肅至,遂與禧等參同謀謨。自魯陽至於京洛,行途喪紀,委肅參量,憂勤經綜,有過舊戚。禧兄弟並敬而昵之,上下稱為和輯。唯任城王澄以其起自羇遠,一旦在己之上,以為憾焉。每謂人曰:「朝廷以王肅加我上尚可,從叔廣陽,宗室尊宿,歷任內外,云何一朝令肅居其右也?」肅聞其言,恒降而避之。尋為澄所奏劾,稱肅謀叛,言尋申釋。詔肅尚陳留長公主,本劉昶子婦彭城公主也,賜錢二十萬、帛三千匹。肅奏:「考以顯能,陟由績著,昇明退闇,於是乎在。自百僚曠察,四稔于茲,請依舊式考檢能否。」從之。

常に人に謂いて曰く、「朝廷が王粛を我が上に加えるのは尚し可なりとすれど、従叔の広陽王(元嘉)は、宗室の尊宿にして、内外の官職を歴任した。如何なる道理で一朝にして王粛をその右に居らしめるのか」と。

原文(段落全体)高祖崩,遺詔以肅為尚書令,與咸陽王禧等同為宰輔,徵肅會駕魯陽。肅至,遂與禧等參同謀謨。自魯陽至於京洛,行途喪紀,委肅參量,憂勤經綜,有過舊戚。禧兄弟並敬而昵之,上下稱為和輯。唯任城王澄以其起自羇遠,一旦在己之上,以為憾焉。每謂人曰:「朝廷以王肅加我上尚可,從叔廣陽,宗室尊宿,歷任內外,云何一朝令肅居其右也?」肅聞其言,恒降而避之。尋為澄所奏劾,稱肅謀叛,言尋申釋。詔肅尚陳留長公主,本劉昶子婦彭城公主也,賜錢二十萬、帛三千匹。肅奏:「考以顯能,陟由績著,昇明退闇,於是乎在。自百僚曠察,四稔于茲,請依舊式考檢能否。」從之。

王粛はその言葉を聞き、常に身を低くして避けた。

原文(段落全体)高祖崩,遺詔以肅為尚書令,與咸陽王禧等同為宰輔,徵肅會駕魯陽。肅至,遂與禧等參同謀謨。自魯陽至於京洛,行途喪紀,委肅參量,憂勤經綜,有過舊戚。禧兄弟並敬而昵之,上下稱為和輯。唯任城王澄以其起自羇遠,一旦在己之上,以為憾焉。每謂人曰:「朝廷以王肅加我上尚可,從叔廣陽,宗室尊宿,歷任內外,云何一朝令肅居其右也?」肅聞其言,恒降而避之。尋為澄所奏劾,稱肅謀叛,言尋申釋。詔肅尚陳留長公主,本劉昶子婦彭城公主也,賜錢二十萬、帛三千匹。肅奏:「考以顯能,陟由績著,昇明退闇,於是乎在。自百僚曠察,四稔于茲,請依舊式考檢能否。」從之。

間もなく元澄より奏上されて弾劾され、王粛が謀叛を企てたと称したが、その言葉は程なく釈明された。

原文(段落全体)高祖崩,遺詔以肅為尚書令,與咸陽王禧等同為宰輔,徵肅會駕魯陽。肅至,遂與禧等參同謀謨。自魯陽至於京洛,行途喪紀,委肅參量,憂勤經綜,有過舊戚。禧兄弟並敬而昵之,上下稱為和輯。唯任城王澄以其起自羇遠,一旦在己之上,以為憾焉。每謂人曰:「朝廷以王肅加我上尚可,從叔廣陽,宗室尊宿,歷任內外,云何一朝令肅居其右也?」肅聞其言,恒降而避之。尋為澄所奏劾,稱肅謀叛,言尋申釋。詔肅尚陳留長公主,本劉昶子婦彭城公主也,賜錢二十萬、帛三千匹。肅奏:「考以顯能,陟由績著,昇明退闇,於是乎在。自百僚曠察,四稔于茲,請依舊式考檢能否。」從之。

詔して王粛に陳留長公主を尚せしめ、これは本来劉昶の子の妻彭城公主であった。銭二十万、帛三千匹を賜う。

原文(段落全体)高祖崩,遺詔以肅為尚書令,與咸陽王禧等同為宰輔,徵肅會駕魯陽。肅至,遂與禧等參同謀謨。自魯陽至於京洛,行途喪紀,委肅參量,憂勤經綜,有過舊戚。禧兄弟並敬而昵之,上下稱為和輯。唯任城王澄以其起自羇遠,一旦在己之上,以為憾焉。每謂人曰:「朝廷以王肅加我上尚可,從叔廣陽,宗室尊宿,歷任內外,云何一朝令肅居其右也?」肅聞其言,恒降而避之。尋為澄所奏劾,稱肅謀叛,言尋申釋。詔肅尚陳留長公主,本劉昶子婦彭城公主也,賜錢二十萬、帛三千匹。肅奏:「考以顯能,陟由績著,昇明退闇,於是乎在。自百僚曠察,四稔于茲,請依舊式考檢能否。」從之。

王粛が奏上して曰く、「考課は才能を顕わす為にあり、昇進は功績の著しいことによる。賢明を昇進させ暗愚を退けることは、ここに在る。

原文(段落全体)高祖崩,遺詔以肅為尚書令,與咸陽王禧等同為宰輔,徵肅會駕魯陽。肅至,遂與禧等參同謀謨。自魯陽至於京洛,行途喪紀,委肅參量,憂勤經綜,有過舊戚。禧兄弟並敬而昵之,上下稱為和輯。唯任城王澄以其起自羇遠,一旦在己之上,以為憾焉。每謂人曰:「朝廷以王肅加我上尚可,從叔廣陽,宗室尊宿,歷任內外,云何一朝令肅居其右也?」肅聞其言,恒降而避之。尋為澄所奏劾,稱肅謀叛,言尋申釋。詔肅尚陳留長公主,本劉昶子婦彭城公主也,賜錢二十萬、帛三千匹。肅奏:「考以顯能,陟由績著,昇明退闇,於是乎在。自百僚曠察,四稔于茲,請依舊式考檢能否。」從之。

百官の考課が疎かにされ、既に四年を経ている。旧式に依って能否を考査検査することを請う」と。

原文(段落全体)高祖崩,遺詔以肅為尚書令,與咸陽王禧等同為宰輔,徵肅會駕魯陽。肅至,遂與禧等參同謀謨。自魯陽至於京洛,行途喪紀,委肅參量,憂勤經綜,有過舊戚。禧兄弟並敬而昵之,上下稱為和輯。唯任城王澄以其起自羇遠,一旦在己之上,以為憾焉。每謂人曰:「朝廷以王肅加我上尚可,從叔廣陽,宗室尊宿,歷任內外,云何一朝令肅居其右也?」肅聞其言,恒降而避之。尋為澄所奏劾,稱肅謀叛,言尋申釋。詔肅尚陳留長公主,本劉昶子婦彭城公主也,賜錢二十萬、帛三千匹。肅奏:「考以顯能,陟由績著,昇明退闇,於是乎在。自百僚曠察,四稔于茲,請依舊式考檢能否。」從之。

これに従った。

原文(段落全体)高祖崩,遺詔以肅為尚書令,與咸陽王禧等同為宰輔,徵肅會駕魯陽。肅至,遂與禧等參同謀謨。自魯陽至於京洛,行途喪紀,委肅參量,憂勤經綜,有過舊戚。禧兄弟並敬而昵之,上下稱為和輯。唯任城王澄以其起自羇遠,一旦在己之上,以為憾焉。每謂人曰:「朝廷以王肅加我上尚可,從叔廣陽,宗室尊宿,歷任內外,云何一朝令肅居其右也?」肅聞其言,恒降而避之。尋為澄所奏劾,稱肅謀叛,言尋申釋。詔肅尚陳留長公主,本劉昶子婦彭城公主也,賜錢二十萬、帛三千匹。肅奏:「考以顯能,陟由績著,昇明退闇,於是乎在。自百僚曠察,四稔于茲,請依舊式考檢能否。」從之。

裴叔業が寿春を以て内附すると、王粛を使持節・都督江西諸軍事・車騎将軍に拝し、驃騎大将軍・彭城王元勰と共に歩騎十万を率いてこれに赴かせた。

原文(段落全体)裴叔業以壽春內附,拜肅使持節、都督江西諸軍事、車騎將軍,與驃騎大將軍、彭城王勰率步騎十萬以赴之。蕭寶卷豫州刺史蕭懿率眾三萬屯於小峴,交州刺史李叔獻屯合肥,將圖壽春。懿遣將胡松、李居士等領眾萬餘屯據死虎。肅進師討擊,大破之,擒其將橋珉等,斬首數千。進討合肥,生擒叔獻,蕭懿棄小峴南走。肅還京師,世宗臨東堂引見勞之,又問:「江左有何息耗?」肅曰:「如聞崔慧景已死。寶卷所仗,非邪即佞。天殆以此資陛下,廓定之期,勢將不久。」以肅淮南累捷,賞帛四千七百五十匹,進位開府儀同三司,封昌國縣開國侯,食邑八百戶,餘如故。尋以肅為散騎常侍、都督淮南諸軍事、揚州刺史、持節,餘官如故。

蕭宝巻の豫州刺史蕭懿が衆三万を率いて小峴に屯し、交州刺史李叔献が合肥に屯して、寿春を図らんとした。

原文(段落全体)裴叔業以壽春內附,拜肅使持節、都督江西諸軍事、車騎將軍,與驃騎大將軍、彭城王勰率步騎十萬以赴之。蕭寶卷豫州刺史蕭懿率眾三萬屯於小峴,交州刺史李叔獻屯合肥,將圖壽春。懿遣將胡松、李居士等領眾萬餘屯據死虎。肅進師討擊,大破之,擒其將橋珉等,斬首數千。進討合肥,生擒叔獻,蕭懿棄小峴南走。肅還京師,世宗臨東堂引見勞之,又問:「江左有何息耗?」肅曰:「如聞崔慧景已死。寶卷所仗,非邪即佞。天殆以此資陛下,廓定之期,勢將不久。」以肅淮南累捷,賞帛四千七百五十匹,進位開府儀同三司,封昌國縣開國侯,食邑八百戶,餘如故。尋以肅為散騎常侍、都督淮南諸軍事、揚州刺史、持節,餘官如故。

蕭懿が将の胡松・李居士らに衆一万余りを率いさせ死虎に拠って屯させた。

原文(段落全体)裴叔業以壽春內附,拜肅使持節、都督江西諸軍事、車騎將軍,與驃騎大將軍、彭城王勰率步騎十萬以赴之。蕭寶卷豫州刺史蕭懿率眾三萬屯於小峴,交州刺史李叔獻屯合肥,將圖壽春。懿遣將胡松、李居士等領眾萬餘屯據死虎。肅進師討擊,大破之,擒其將橋珉等,斬首數千。進討合肥,生擒叔獻,蕭懿棄小峴南走。肅還京師,世宗臨東堂引見勞之,又問:「江左有何息耗?」肅曰:「如聞崔慧景已死。寶卷所仗,非邪即佞。天殆以此資陛下,廓定之期,勢將不久。」以肅淮南累捷,賞帛四千七百五十匹,進位開府儀同三司,封昌國縣開國侯,食邑八百戶,餘如故。尋以肅為散騎常侍、都督淮南諸軍事、揚州刺史、持節,餘官如故。

宋弁は、字を義和といい、広平郡列人県の人である。祖父の宋愔は、従叔父の宋宣や博陵の崔建とともに名を知られていた。世祖(太武帝)の時、中書博士・員外散騎常侍を歴任し、江南に使いし、列人子の爵位を賜わり、帰還して広平太守に任ぜられた。興安五年に卒去し、安遠将軍・相州刺史を追贈され、諡を恵といった。長子の宋顕が爵位を継いだ。宋弁の伯父の宋世顕には子がなく、宋弁を養子として後継ぎとした。宋弁の父の宋叔珍は、李敷の妹婿であり、李敷の事件に連座して死んだ。

原文宋弁,字義和,廣平列人人也。祖愔,與從叔宣、博陵崔建俱知名。世祖時,歷位中書博士、員外散騎常侍,使江南,賜爵列人子,還拜廣平太守。興安五年卒,贈安遠將軍、相州刺史,諡曰惠。長子顯襲爵。弁伯父世顯無子,養弁為後。弁父叔珍,李敷妹夫,因敷事而死。

宋弁は才学が優れ豊かで、若くして美名があった。高祖(孝文帝)の初め、かつて京師に至り、尚書の李沖に会い、議論して日を移した。李沖は身を正してこれを異とし、退いて言うには、「この人は一日千里の勢いあり、王を補佐する才である」と。宋顕が卒去すると、宋弁が爵位を継いだ。宋弁は李彪と同州の郷里であり、互いに敬い親しんだ。李彪が秘書丞となると、宋弁は中散から李彪の請いにより著作佐郎となり、まもなく尚書殿中郎中に任ぜられた。高祖はかつて朝会の際に順に治道について尋ねられたが、宋弁は年少で官位が低く、下席から応対し、声と姿態は清らかで明るく、進退は見るべきものがあった。高祖は長くこれを称善された。これによって大いに知遇を受け、名を弁と賜わり、その意は、卞和が玉を献じたが楚王がその宝たるを知らなかった故事に取ったのである。

原文弁才學儁贍,少有美名。高祖初,曾至京師,見尚書李沖,因言論移日。沖竦然異之,退而言曰:「此人一日千里,王佐才也。」顯卒,弁襲爵。弁與李彪州里,迭相祗好。彪為祕書丞,弁自中散彪請為著作佐郎,尋除尚書殿中郎中。高祖曾因朝會之次,歷訪治道,弁年少官微,自下而對,聲姿清亮,進止可觀,高祖稱善者久之。因是大被知遇,賜名為弁,意取弁和獻玉,楚王不知寶之也。

中書侍郎に遷り、員外常侍を兼ね、蕭賾(南斉の武帝)のもとに使いした。蕭賾の司徒蕭子良・秘書丞王融らは皆これを称美し、志気の忠直激越は李彪に及ばないが、体韻の和やか雅やかで、挙止の閑雅深遠はこれを超えると考えた。散騎侍郎に転じた。当時、散騎の位は中書の右(上)にあった。高祖はかつて江左(江南)の事を論じ、そこで宋弁に問うて言うには、「卿は先ごろ南に行き、その奥地に入った。彼らの政道はどうか。興亡の運数は知ることができるか」と。宋弁は対えて言うには、「蕭氏父子は天下に対して大功がなく、すでに逆を以て取り、順を以て守ることができない。徳政は治まらず、徭役はますます激しく、内には股肱の助けがなく、外には怨み叛く民がある。臣が観るに、必ずや子孫のために謀り、南海を保つことはできないであろう。もし物(人々)がその威を恐れるなら、身が免れるのが幸いである」と。

原文遷中書侍郎,兼員外常侍,使於蕭賾。賾司徒蕭子良、祕書丞王融等皆稱美之,以為志氣謇烈不逮李彪,而體韻和雅、舉止閑邃過之。轉散騎侍郎,時散騎位在中書之右。高祖曾論江左事,因問弁曰:「卿比南行,入其隅隩,彼政道云何?興亡之數可得知不?」弁對曰:「蕭氏父子無大功於天下,既以逆取,不能順守。德政不理,徭役滋劇,內無股肱之助,外有怨叛之民,以臣觀之,必不能貽厥孫謀,保有南海。若物憚其威,身免為幸。」

後に車駕が南征するに当たり、宋弁を司徒司馬・曜武将軍・東道副将とした。軍人に馬の手綱を盗んだ者がいたので、斬って示し、これによって三軍は震え恐れ、敢えて法を犯す者はいなかった。

原文後車駕南征,以弁為司徒司馬、曜武將軍、東道副將。軍人有盜馬靽者,斬而徇之,於是三軍振懼,莫敢犯法。

黄門郎の崔光が宋弁を推挙して自らの代わりとしようとしたが、高祖は許さず、しかし崔光が人を知ることを賞した。まもなく、宋弁を以て黄門を兼ねさせ、すぐに正員とし、司徒左長史を兼ねた。当時、内外の群官を大いに選び、また四海の士族を定めたが、宋弁は専ら銓量の任に参画し、事多く旨に称した。しかし人の陰の短所を言うことを好み、高門大族で己の意に不便な者があれば、宋弁はそれによってこれを毀った。旧族で沈淪している者、人が忌むべきでない者については、またこれを申し上げて通達した。宋弁はまた本州の大中正となり、姓族を多く降格・抑制したため、時に人に怨まれることが多かった。

原文黃門郎崔光薦弁自代,高祖不許,然亦賞光知人。未幾,以弁兼黃門,尋即正,兼司徒左長史。時大選內外羣官,並定四海士族,弁專參銓量之任,事多稱旨。然好言人之陰短,高門大族意所不便者,弁因毀之;至於舊族淪滯,人非可忌者,又申達之。弁又為本州大中正,姓族多所降抑,頗為時人所怨。

車駕に従って南討し、詔により宋弁は豫州の都督所部及び東荊州領葉において、皆戍兵を減らして営農させ、水陸兼ねて耕作させた。散騎常侍に遷り、まもなく右衛将軍に遷り、黄門を領した。宋弁はたびたび自ら辞退を陳べたが、高祖は言うには、「私は相知る者である。卿もまた辞すべきではない。どうして専ら一官を守り、朕が治めるのを助けぬことがあろうか。かつ常侍は黄門の粗末な冗官であり、領軍は二衛の仮の摂官に過ぎぬ。空しく推譲を存するに足らず、大いなる委任を棄てるべきではない」と。その知遇を受けることこのようであった。

原文從駕南討,詔弁於豫州都督所部及東荊領葉,皆減戍士營農,水陸兼作。遷散騎常侍,尋遷右衞將軍,領黃門。弁屢自陳讓,高祖曰:「吾為相知者,卿亦不可有辭,豈得專守一官,不助朕為治?且常侍者黃門之粗冗,領軍者二衞之假攝,不足空存推讓,以棄大委。」其被知遇如此。

初め、高祖が北都(平城)で選挙を行った時、李沖は多く参画し、宋氏をかなり抑えた。宋弁は李沖に恨みを抱き、李彪と交わり結び、互いに深く知り重んじた。李彪が李沖に抗した時、李沖は李彪に言うには、「お前は狗のようだ。人に唆されているのだ」と。李沖が李彪を弾劾した時、大罪に至らなかったのは、宋弁の力によるものであった。李彪が除名されて民とされると、宋弁は大いに嘆き慨き、密かに申し立てて復権を図った。

原文始,高祖北都之選也,李沖多所參預,頗抑宋氏。弁有恨於沖,而與李彪交結,雅相知重。及彪之抗沖,沖謂彪曰:「爾如狗耳,為人所嗾。」及沖劾彪,不至大罪,弁之力也。彪除名為民,弁大相嗟慨,密圖申復。

高祖が汝南で病に伏せられ、病状が重く、十余日間、侍臣に会われず、左右にはただ彭城王元勰ら数人だけであった。少し快方に向かうと、門下及び宗室の長幼諸人を引見された。入った者はまだ悲泣するに至らなかったが、宋弁だけが進み出て御床に及び、すすり泣き涙を流して言うには、「臣は陛下の聖顔がこのように痩せ衰えられたとは思いませんでした」と。これによってますます重んぜられた。車駕が馬圏を征する時、宋弁を留めて本官のまま祠部尚書を兼ねさせ、七兵の事を摂らせた。出発に際し、その手を執って言うには、「国の大事は、祀と戎にある。故に卿に二曹を綰め摂らせる。自ら勉めざるべからず」と。宋弁は頓首して辞謝した。宋弁は王事に勤労し、夙夜公務に励み、恩遇は甚だしく、同輩の及ぶところではなく、名は朝野に重く、李沖に次いだ。高祖はたびたび宋弁は吏部尚書とすべきであると称された。崩御に際し、遺詔によって宋弁をそれに任じ、咸陽王元禧ら六人とともに政を輔けることとしたが、宋弁はすでに先に卒去しており、年四十八であった。詔により銭十万・布三百匹を賜わり、安東将軍・瀛州刺史を追贈され、諡を貞順といった。

原文高祖在汝南不豫,大漸,旬有餘日,不見侍臣,左右唯彭城王勰等數人而已。小瘳,乃引見門下及宗室長幼諸人,入者未能知致悲泣,弁獨進及御床,歔欷流涕曰:「臣不謂陛下聖顏毀瘠乃爾!」由是益重之。車駕征馬圈,留弁以本官兼祠部尚書,攝七兵事。及行,執其手曰:「國之大事,在祀與戎,故令卿綰攝二曹,可不自勉。」弁頓首辭謝。弁劬勞王事,夙夜在公,恩遇之甚,輩流莫及,名重朝野,亞於李沖。高祖每稱弁可為吏部尚書。及崩,遺詔以弁為之,與咸陽王禧等六人輔政,而弁已先卒,年四十八。詔賜錢十萬、布三百匹,贈安東將軍、瀛州刺史,諡曰貞順。

宋弁は性として矜り誇ることを好み、自ら膏腴(高貴な家柄)と称した。高祖は郭祚が晋・魏の名門であることから、ゆったりと宋弁に言うには、「卿は固より郭祚の門を推すべきである」と。宋弁は笑って言うには、「臣の家は未だ郭祚を推そうとはいたしません」と。高祖は言うには、「卿の家は漢魏以来、高官もなく、また俊秀もいない。どうして推さぬことがあろうか」と。宋弁は言うには、「臣は清素自立しており、要するに推さぬのです」と。侍臣が出た後、高祖は彭城王元勰に言うには、「宋弁の人柄は確かに悪くはないが、また門戸を以て自ら矜ろうとするのは、実に奇怪である」と。

原文弁性好矜伐,自許膏腴。高祖以郭祚晉魏名門,從容謂弁曰:「卿固應推郭祚之門也。」弁笑曰:「臣家未肯推祚。」高祖曰:「卿自漢魏以來,既無高官,又無儁秀,何得不推?」弁曰:「臣清素自立,要爾不推。」侍臣出後,高祖謂彭城王勰曰:「弁人身良自不惡,乃復欲以門戶自矜,殊為可怪。」

長子の宋維は、字を伯緒という。宋維の弟の宋紀は、字を仲烈という。宋維は若くして父の爵位を継ぎ、員外郎から給事中に遷った。高肇に諂い事える罪に坐し、益州龍驤府長史に出されたが、病気を理由に行かなかった。太尉・清河王元懌が政を輔けると、宋維を名臣の子として、通直郎に推薦し、その弟の宋紀を行参軍に辟召した。霊太后が政に臨み、元叉を委任したが、元叉は寵を恃んで驕り高ぶり、元懌は常に道理を分けて裁断した。元叉は甚だ忿恨し、元懌を害しようと考え、そこで宋維と計略をめぐらし、富貴を約束した。宋維は元叉の寵勢が日増しに盛んになるのを見て、ついに利益を貪り、司染都尉の韓文殊父子が謀反を起こして元懌を立てようとしていると告げた。元懌は坐して宮中に拘禁された。韓文殊父子は恐れて逃げ隠れた。取り調べても反逆の状はなかった。韓文殊が逃亡したことを以て、欠席裁判で大辟の刑に処することとした。元懌を宮西の別館に置き、禁兵で守らせた。宋維は反坐すべきであったが、元叉が太后に言上し、将来の告発者の道を開こうとして、燕州昌平郡守に左遷し、宋紀を秦州大羌県令とした。宋維と宋紀は経史にかなり通じていたが、浮薄で品行がなかった。元懌は親族として尊く、懿望があり、朝野の瞻望属するところであった。宋維は元懌の眷賞を受けたのに、形無くして離間を構え、天下の人士は怪しみ忿り、これを賤しみ軽んじない者はなかった。元叉が元懌を殺し、朝政を専断すると、宋維兄弟が以前に元懌を告発したことを以て、宋維を散騎侍郎に、宋紀を太学博士・侍御史を領するものとして徴し、甚だ昵れ親しんだ。宋維は超遷して通直常侍となり、また冠軍将軍・洛州刺史に任ぜられた。宋紀は超遷して尚書郎となった。初め、宋弁は族弟の宋世景に言うには、「宋維の性は疎遠で険しく、宋紀は識見と知恵が足りず、終には必ず我が業を敗るであろう」と。宋世景はそうではないと思ったが、このようになり、聞く者は子を知ること父に若くはなしと以為った。尚書令の李崇・尚書左僕射の郭祚・右僕射の游肇は常に言うには、「伯緒(宋維)は凶暴で疎闊であり、終には宋氏を敗るであろう。幸いにして殺身を得るのみである」と。論ずる者はこれに徴があると以為った。後に営州刺史に任ぜられ、もとの将軍のままとした。霊太后が政権を回復すると、元叉の党として除名され、郷里に還った。まもなく以前の清河王誣告の事を追及され、鄴で賜死された。子の宋春卿は早く亡くなった。弟の宋紀が次子の宋欽仁を後継ぎとした。

原文長子維,字伯緒。維弟紀,字仲烈。維少襲父爵,自員外郎遷給事中。坐諂事高肇,出為益州龍驤府長史,辭疾不行。太尉、清河王懌輔政,以維名臣之子,薦為通直郎,辟其弟紀行參軍。靈太后臨政,委任元叉,而叉恃寵驕盈,懌每以分理裁斷。叉甚忿恨,思以害懌,遂與維為計,以富貴許之。維見叉寵勢日隆,便至乾沒,乃告司染都尉韓文殊父子欲謀逆立懌。懌坐被錄禁中。文殊父子懼而逃遁。鞫無反狀。以文殊亡走,懸處大辟。置懌於宮西別館,禁兵守之。維應反坐,叉言於太后,欲開將來告者之路,乃黜為燕州昌平郡守,紀為秦州大羌令。維及紀頗涉經史,而浮薄無行。懌親尊懿望,朝野瞻屬,維受懌眷賞,而無狀構間,天下人士莫不怪忿而賤薄之。及叉殺懌,專斷朝政,以維兄弟前者告懌,徵維為散騎侍郎,紀為太學博士,領侍御史,甚昵之。維超遷通直常侍,又除冠軍將軍、洛州刺史;紀超遷尚書郎。初,弁謂族弟世景言:「維性疏險,而紀識慧不足,終必敗吾業也。」世景以為不爾,至是果然,聞者以為知子莫若父。尚書令李崇、尚書左僕射郭祚、右僕射游肇每云:「伯緒兇疏,終敗宋氏,幸得殺身耳。」論者以為有徵。後除營州刺史,仍本將軍。靈太后反政,以叉黨除名,遂還鄉里。尋追其前誣告清河王事,於鄴賜死。子春卿,早亡。弟紀以次子欽仁繼。

欽仁は、武定末年に太尉祭酒となった。

原文欽仁,武定末,太尉祭酒。

宋紀は、粛宗(孝明帝)の末年に北道行臺となった。晉陽で卒去した。

原文紀,肅宗末,為北道行臺。卒於晉陽。

子の欽道は、武定末年に冀州別駕となった。

原文子欽道,武定末,冀州別駕。

宋弁の弟の宋機は、本州の治中となった。

原文弁弟機,本州治中。

子の宝積は、中散大夫の任で卒去した。

原文子寶積,卒於中散大夫。

弁の族弟の穎は、字を文賢という。奉朝請より次第に昇進して尚書郎・魏郡太守となった。劉騰に賄賂を贈り、騰が元叉に言上したため、穎は冠軍将軍・涼州刺史に任じられた。穎の前妻の鄧氏が亡くなってから十五年後、穎は彼女の夢を見た。鄧氏は穎に向かって拝礼し、「新婦は今、高崇の妻とするよう処分されましたので、お別れに参りました」と言い、涙を流した。穎は朝になって高崇に会い、このことを話した。崇は数日後に亡くなった。

原文弁族弟穎,字文賢。自奉朝請稍遷尚書郎、魏郡太守。納貨劉騰,騰言之於元叉,以穎為冠軍將軍、涼州刺史。穎前妻鄧氏亡後十五年,穎夢見之,向穎拜曰:「新婦今被處分為高崇妻,故來辭君。」泫然流涕。穎旦而見崇言之,崇後數日而卒。

穎の族弟の燮は、字を崇和という。広平王元懐の郎中令・員外常侍を務めた。征北将軍李平の司馬となり、北方で元愉を討滅するにあたり、謀略を補佐する功績が多かった。

原文穎族弟燮,字崇和。廣平王懷郎中令、員外常侍。為征北李平司馬,北殄元愉,頗有贊謀之功。

燮の族弟の鴻貴は、定州平北府参軍となり、兵士を荊州へ送った。兵士の絹四百匹を横領した罪で、兵士が告発しようとしたため、十人を斬殺した。また、全く律令に通じておらず、律に梟首の刑があるのを見て、兵士の手を生きたまま切断し、水をかけた後で斬首した。まもなく罪に伏して処刑された。当時の人は兵士の苦しみを哀れみ、鴻貴の愚かさを笑った。

原文燮族弟鴻貴,為定州平北府參軍,送兵於荊州。坐取兵絹四百匹,兵欲告之,乃斬十人。又疏凡不達律令,見律有梟首之罪,乃生斷兵手,以水澆之,然後斬決。尋坐伏法。時人哀兵之苦,笑鴻貴之愚。