巻63

王肅

王肅は、 あざな を恭懿といい、琅邪郡臨沂県の人であり、司馬衍の丞相王導の後裔である。父の王奐は、蕭賾(南斉の武帝)の 尚書 しょうしょ 僕射 ぼくや であった。王肅は幼少より聡明で弁舌に優れ、経史に広く通じ、大志を抱いていた。蕭賾に仕え、著作郎・太子舍人・ 司徒 しと 主簿・秘書丞を歴任した。王肅は自ら礼と易を得意とすると称したが、その大義を通ずるには至らなかった。父の王奐と兄弟たちは皆、蕭賾によって殺害され、王肅は建業から北魏に亡命してきた。この年は太和十七年(493年)であった。

高祖(孝文帝)が ぎょう に行幸した際、王肅の到着を聞き、虚心に彼を待ち、引見して事情を尋ねた。王肅の言葉と道理は機敏で切実、弁舌さわやかで礼に適い、高祖は大いに哀れみ同情した。やがて国を治める道について語り合うと、王肅は治乱について述べ、その言葉は雅やかで流暢、深く帝の意にかなった。高祖は感嘆してこれを容れ、席を近づけて話し、日が移るのも忘れ、座りの疲れも覚えなかった。そこで蕭氏(南斉)が危うく滅びる兆しと、乗ずべき機会を説き、高祖に大挙して南征するよう勧めた。これにより南進の計画は次第に鋭くなり、王肅への器重と礼遇は日増しに加わり、親貴や旧臣でも離間できる者はいなかった。ある時は左右を退けて相対して語り合い、夜半に至ってもやめなかった。王肅もまた忠誠を尽くして真心を披瀝し、隠し避けるところなく、君臣の間柄は劉玄徳が諸葛孔明に遇ったようであると自負した。まもなく輔国将軍・大将軍長史に任じられ、開陽伯の爵位を賜ったが、王肅は伯爵を固辞し、許された。

詔して王肅に蕭鸞(南斉の明帝)の義陽を討たせた。壮勇を募って爪牙とすることを許し、その募兵が功を立てれば、通常の募兵より一等加えて賞し、王肅に従う者は、六品以下は先に任用することを許し、その後で上表して奏聞せよ、と。また帰順する者があれば、五品以下は先に優遇して授けることを許した。そこで王肅に節を仮授し、平南将軍の職務を行わせた。王肅が義陽に至ると、賊軍をしばしば破り、降伏する者は一万余りに及んだ。高祖は散騎侍郎を遣わして労い、功により平南将軍の号を進め、駿馬一匹を賜い、持節・ 都督 ととく 東郢三州諸軍事・本将軍・ 刺史 しし ・揚州大中正に任じた。王肅は人を慰撫し接遇するのに巧みで、治績に名声があった。

まもなく王肅を召し入朝させた。高祖は手詔を下して言った。「君子(王肅)に会わぬと、心は酔ったようで、一日が三歳のようだ。我が心労は如何に。華林園に館を飾り、席を整えて待つ。卿はいつ汝墳(故郷)を発つつもりか。故にまたこの詔を下す。」また詔して言った。「王肅は艱難の世に遭い、志は伍胥(伍子胥)に等しく、自ら呉州(南朝)を抜け出し、魏県(北魏)を求めて来た。みずから礼を忘れる根本(復讐)を執り、数え切れぬ喪(父の喪)と同じくし、怨みと恥辱を晴らすことを誓い、復讐を遂げようとした。二年の喪に窮極し、粗衣粗食を改めなかった。誠に末世の高風、末代の孝節である。しかし聖人が礼を制定するには、必ず愚者と智者を均しくする。先王が法則を作るには、道理をもって盈虚を整える。過ぎる者は身をかがめてこれに就き、及ばぬ者は踵を上げてこれを行え。曾参が罰(喪に服する)に居た時、その哀しみを終わらせようとしたか。呉員(伍子胥)が酷(父の仇)に処した時、四年(喪の期間)を聞いたことがあろうか。三年というのは、天下の通喪であり、古今を通じて一である。たとえ礼を過ごそうと欲しても、朕が礼をもってこれを制せざるを得ようか。有司は礼に依って諭し、練祥(喪服を軽くする)の制を定めるべし。」

二十年(496年)七月、高祖は長く旱魃が続き雨が降らないため、三日間の間、食事を断った。百官が宮門に詣で、 中書 ちゅうしょ 省に引き入れられた。高祖は崇虚楼におり、舎人を遣わして問うた。「朕は卿らが来たことは知っているが、相見えることができない。卿らは何のために来たのか。」王肅が答えて言った。「伏して承りますに、陛下が食事を断たれてすでに三日、群臣は焦り恐れ、自ら安んずることができません。臣は聞きます。堯の時の水害、湯の時の旱魃は、自然の定数であり、聖人が世を救うことを要するのであって、聖人によって災いが致されるのではありません。それゆえ国は九年分の蓄えを持ち、九年の変事に備えるのです。臣はまた聞きます。八月になっても雨が降らなければ、その後に君主は食事を挙げない、と。昨日、四郊の外にはすでに大雨が降りましたが、ただ京城の内はわずかに潤いが少ないのです。民衆は一食も欠いておらず、陛下が三日も食事を断たれるとは、臣下や民衆は恐れおののき、身の置き所もありません。」高祖は舎人を遣わして答えて言った。「昔、堯の水害、湯の旱魃は、聖人に頼って民を救った。朕は万民の上に居ながら、その道は前王に及ばない。今日の旱魃を救い恤れる術がなく、立秋を待ち、みずから過ちを責めるべきである。しかしこの月十日以来、炎熱が酷く、人も物も共に憔悴している。連日雲が連なり、高い風が蕭条としているのに、数日食事を取らなくても、まだ何の感応もない。これは朕の誠心が至らぬことによるものであろう。」王肅が言った。「臣は聞きます。聖人と凡人とが同じなのは五常であり、異なるのは神明である、と。昔、姑射の神人は五穀を食わなかったが、臣は常にこれは偽りであると思っていました。今、陛下を見て、初めてその験があることを知りました。かつ陛下が食事を断たれて以来、もし天が全く応えなければ、臣もまた上天は知らず、陛下には感応がないと言ったでしょう。一昨日以前、外には大雨があり、ここには密雲があった。臣はすなわち、天は知り、陛下には感応があると言ったのです。」高祖は舎人を遣わして答えて言った。「昨日、内外の貴賤を問わず皆、四郊に雨があったと言う。朕はこれが皆、勧めるための言葉ではないかと恐れる。三度繰り返して慎むべきであり、必ず信じて徴証があるようにせねばならぬ。近く人を遣わして行かせよう。もし果たして雨なら、直ちに大官(光禄卿)に命じて欣然と食事を進めさせよう。どうして近郊の内で、慷慨として天に要請できようか。もし雨がなければ、朕に感応がなく、どうして朕の身をもって民衆を煩わせようか。朕の志は確固としており、死して後やむ。」この夜、大雨が降った。

蕭鸞の将裴叔業を破った功により、鎮南将軍の号を進め、 都督 ととく ・南兗・東荊・東 四州諸軍事を加えられ、汝陽県開国子に封ぜられ、食邑三百戸を賜り、持節・中正・刺史はもとの通りであった。王肅はたびたび上表して固辞したが、許されず、詔して鼓吹一部を加えられた。二十二年(498年)、漢陽を平定した後、王肅に詔して言った。「知己は義を貴び、君臣は恩に務む。災いを憐れみ禍を恤れなければ、恩義はどこに措かれようか。卿の心情は伍員と同じく、酷い思いを抱いて朕に帰した。しかし未だ一人の仇人をも断ち切らず、かの凶帥を斬ることができない。何度思いを起こして憤慨し嘆息し、呉の閭門(伍子胥の故事)を羨み長息しなかったことがあろうか。近ごろ蕭鸞の輔国将軍黄瑤起を捕らえ、これが卿の怨みの的であることを知った。まもなく相渡すであろう。少しは鬱憤が晴れることを望む。朕が卿に会う日、やや心を緩めることができるように。」初め、蕭賾が王肅の父王奐を捕らえた時、司馬の黄瑤起が王奐を攻めて殺したので、このような詔を下したのである。

高祖が淮北を征伐する際、王肅に義陽を討たせたが、未だに陥落せず、蕭鸞が将裴叔業を遣わして渦陽を寇した。劉藻らがこれを救援したが、叔業に敗れた。王肅は上表してさらに軍を派遣し渦陽を救援するよう求めた。詔して言った。「表を得て、これを覧み憮然とする。卿の意が専ら水(渦陽)にあるのではなく、おそらく劉藻らの精鋭が前に新たに敗れ、事は去り勢い難いからであろう。朕がもし兵を分け遣わしても、多くは遣わさず、会しても制することができず、多く遣わせば禁軍が欠け難い。今日の計は、ただ必勝の挙に出るべきであり、狐疑の軍となってはならず、徒らに南兗を失うのみである。卿はその意を止めてそこに留まり、義陽の敵を図るべし。止むべきならば止め、義陽を取るに戻れ。下るべきならば下り、淮北に軍を鎮めよ。二つの道を深く量り、重ねて過ちを致すことなかれ。もし孟表の糧食が尽き、軍が間に合わず、渦陽を失うに至れば、卿の過ちである。」王肅はそこで義陽の包囲を解き、渦陽に向かったので、叔業は軍を引いて退いた。王肅は劉藻らの敗戦に連座して、平南将軍に降格されたが、中正・刺史はもとの通りであった。

高祖(孝文帝)が 崩御 ほうぎょ し、遺詔により王粛を 尚書令 しょうしょれい とし、咸陽王元禧らと共に宰輔と為し、魯陽にて車駕に会するよう召し寄せた。

王粛が到着すると、元禧らと共に謀議に参与した。

魯陽より京洛に至るまでの途上、喪礼の儀式は王粛に委ねて参酌させ、憂慮勤勉に経緯を総括し、旧来の外戚以上であった。

元禧兄弟は共に彼を敬い親しみ、上下より和合と称された。

ただ任城王元澄のみは、彼が遠方の寄寓の身から、一朝にして己の上に立ったことを、遺憾と為した。

常に人に謂いて曰く、「朝廷が王粛を我が上に加えるのは尚し可なりとすれど、従叔の広陽王(元嘉)は、宗室の尊宿にして、内外の官職を歴任した。如何なる道理で一朝にして王粛をその右に居らしめるのか」と。

王粛はその言葉を聞き、常に身を低くして避けた。

間もなく元澄より奏上されて弾劾され、王粛が謀叛を企てたと称したが、その言葉は程なく釈明された。

詔して王粛に陳留長公主を尚せしめ、これは本来劉昶の子の妻彭城公主であった。銭二十万、帛三千匹を賜う。

王粛が奏上して曰く、「考課は才能を顕わす為にあり、昇進は功績の著しいことによる。賢明を昇進させ暗愚を退けることは、ここに在る。

百官の考課が疎かにされ、既に四年を経ている。旧式に依って能否を考査検査することを請う」と。

これに従った。

裴叔業が寿春を以て内附すると、王粛を使持節・ 都督 ととく 江西諸軍事・車騎将軍に拝し、驃騎大将軍・彭城王元勰と共に歩騎十万を率いてこれに赴かせた。

蕭宝巻の 州刺史蕭懿が衆三万を率いて小峴に屯し、交州刺史李叔献が合肥に屯して、寿春を図らんとした。

蕭懿が将の胡松・李居士らに衆一万余りを率いさせ死虎に拠って屯させた。

宋弁は、字を義和といい、広平郡列人県の人である。祖父の宋愔は、従叔父の宋宣や博陵の崔建とともに名を知られていた。世祖(太武帝)の時、中書博士・員外 散騎常侍 さんきじょうじ を歴任し、江南に使いし、列人子の爵位を賜わり、帰還して広平太守に任ぜられた。興安五年に卒去し、安遠将軍・相州刺史を追贈され、 おくりな を恵といった。長子の宋顕が爵位を継いだ。宋弁の伯父の宋世顕には子がなく、宋弁を養子として後継ぎとした。宋弁の父の宋叔珍は、李敷の妹婿であり、李敷の事件に連座して死んだ。

宋弁は才学が優れ豊かで、若くして美名があった。高祖(孝文帝)の初め、かつて京師に至り、尚書の李沖に会い、議論して日を移した。李沖は身を正してこれを異とし、退いて言うには、「この人は一日千里の勢いあり、王を補佐する才である」と。宋顕が卒去すると、宋弁が爵位を継いだ。宋弁は李彪と同州の郷里であり、互いに敬い親しんだ。李彪が秘書丞となると、宋弁は中散から李彪の請いにより著作佐郎となり、まもなく尚書殿中郎中に任ぜられた。高祖はかつて朝会の際に順に治道について尋ねられたが、宋弁は年少で官位が低く、下席から応対し、声と姿態は清らかで明るく、進退は見るべきものがあった。高祖は長くこれを称善された。これによって大いに知遇を受け、名を弁と賜わり、その意は、卞和が玉を献じたが楚王がその宝たるを知らなかった故事に取ったのである。

中書侍郎に遷り、員外常侍を兼ね、蕭賾(南斉の武帝)のもとに使いした。蕭賾の 司徒 しと 蕭子良・秘書丞王融らは皆これを称美し、志気の忠直激越は李彪に及ばないが、体韻の和やか雅やかで、挙止の閑雅深遠はこれを超えると考えた。散騎侍郎に転じた。当時、散騎の位は中書の右(上)にあった。高祖はかつて江左(江南)の事を論じ、そこで宋弁に問うて言うには、「卿は先ごろ南に行き、その奥地に入った。彼らの政道はどうか。興亡の運数は知ることができるか」と。宋弁は対えて言うには、「蕭氏父子は天下に対して大功がなく、すでに逆を以て取り、順を以て守ることができない。徳政は治まらず、徭役はますます激しく、内には股肱の助けがなく、外には怨み叛く民がある。臣が観るに、必ずや子孫のために謀り、南海を保つことはできないであろう。もし物(人々)がその威を恐れるなら、身が免れるのが幸いである」と。

後に車駕が南征するに当たり、宋弁を 司徒 しと 司馬・曜武将軍・東道副将とした。軍人に馬の手綱を盗んだ者がいたので、斬って示し、これによって三軍は震え恐れ、敢えて法を犯す者はいなかった。

黄門郎の崔光が宋弁を推挙して自らの代わりとしようとしたが、高祖は許さず、しかし崔光が人を知ることを賞した。まもなく、宋弁を以て黄門を兼ねさせ、すぐに正員とし、 司徒 しと 左長史を兼ねた。当時、内外の群官を大いに選び、また四海の士族を定めたが、宋弁は専ら銓量の任に参画し、事多く旨に称した。しかし人の陰の短所を言うことを好み、高門大族で己の意に不便な者があれば、宋弁はそれによってこれを毀った。旧族で沈淪している者、人が忌むべきでない者については、またこれを申し上げて通達した。宋弁はまた本州の大中正となり、姓族を多く降格・抑制したため、時に人に怨まれることが多かった。

車駕に従って南討し、詔により宋弁は 州の 都督 ととく 所部及び東荊州領葉において、皆戍兵を減らして営農させ、水陸兼ねて耕作させた。 散騎常侍 さんきじょうじ に遷り、まもなく右衛将軍に遷り、黄門を領した。宋弁はたびたび自ら辞退を陳べたが、高祖は言うには、「私は相知る者である。卿もまた辞すべきではない。どうして専ら一官を守り、朕が治めるのを助けぬことがあろうか。かつ常侍は黄門の粗末な冗官であり、領軍は二衛の仮の摂官に過ぎぬ。空しく推譲を存するに足らず、大いなる委任を棄てるべきではない」と。その知遇を受けることこのようであった。

初め、高祖が北都( 平城 へいじょう )で選挙を行った時、李沖は多く参画し、宋氏をかなり抑えた。宋弁は李沖に恨みを抱き、李彪と交わり結び、互いに深く知り重んじた。李彪が李沖に抗した時、李沖は李彪に言うには、「お前は狗のようだ。人に唆されているのだ」と。李沖が李彪を弾劾した時、大罪に至らなかったのは、宋弁の力によるものであった。李彪が除名されて民とされると、宋弁は大いに嘆き慨き、密かに申し立てて復権を図った。

高祖が汝南で病に伏せられ、病状が重く、十余日間、侍臣に会われず、左右にはただ彭城王元勰ら数人だけであった。少し快方に向かうと、門下及び宗室の長幼諸人を引見された。入った者はまだ悲泣するに至らなかったが、宋弁だけが進み出て御床に及び、すすり泣き涙を流して言うには、「臣は陛下の聖顔がこのように痩せ衰えられたとは思いませんでした」と。これによってますます重んぜられた。車駕が馬圏を征する時、宋弁を留めて本官のまま祠部尚書を兼ねさせ、七兵の事を摂らせた。出発に際し、その手を執って言うには、「国の大事は、祀と戎にある。故に卿に二曹を綰め摂らせる。自ら勉めざるべからず」と。宋弁は頓首して辞謝した。宋弁は王事に勤労し、夙夜公務に励み、恩遇は甚だしく、同輩の及ぶところではなく、名は朝野に重く、李沖に次いだ。高祖はたびたび宋弁は吏部尚書とすべきであると称された。崩御に際し、遺詔によって宋弁をそれに任じ、咸陽王元禧ら六人とともに政を輔けることとしたが、宋弁はすでに先に卒去しており、年四十八であった。詔により銭十万・布三百匹を賜わり、安東将軍・瀛州刺史を追贈され、諡を貞順といった。

宋弁は性として矜り誇ることを好み、自ら膏腴(高貴な家柄)と称した。高祖は郭祚が晋・魏の名門であることから、ゆったりと宋弁に言うには、「卿は固より郭祚の門を推すべきである」と。宋弁は笑って言うには、「臣の家は未だ郭祚を推そうとはいたしません」と。高祖は言うには、「卿の家は漢魏以来、高官もなく、また俊秀もいない。どうして推さぬことがあろうか」と。宋弁は言うには、「臣は清素自立しており、要するに推さぬのです」と。侍臣が出た後、高祖は彭城王元勰に言うには、「宋弁の人柄は確かに悪くはないが、また門戸を以て自ら矜ろうとするのは、実に奇怪である」と。

長子の宋維は、字を伯緒という。宋維の弟の宋紀は、字を仲烈という。宋維は若くして父の爵位を継ぎ、員外郎から給事中に遷った。高肇に諂い事える罪に坐し、益州龍驤府長史に出されたが、病気を理由に行かなかった。 太尉 たいい ・清河王元懌が政を輔けると、宋維を名臣の子として、通直郎に推薦し、その弟の宋紀を行参軍に辟召した。霊太后が政に臨み、元叉を委任したが、元叉は寵を恃んで驕り高ぶり、元懌は常に道理を分けて裁断した。元叉は甚だ忿恨し、元懌を害しようと考え、そこで宋維と計略をめぐらし、富貴を約束した。宋維は元叉の寵勢が日増しに盛んになるのを見て、ついに利益を貪り、司染都尉の韓文殊父子が謀反を起こして元懌を立てようとしていると告げた。元懌は坐して宮中に拘禁された。韓文殊父子は恐れて逃げ隠れた。取り調べても反逆の状はなかった。韓文殊が逃亡したことを以て、欠席裁判で大辟の刑に処することとした。元懌を宮西の別館に置き、禁兵で守らせた。宋維は反坐すべきであったが、元叉が太后に言上し、将来の告発者の道を開こうとして、燕州昌平郡守に左遷し、宋紀を秦州大 きょう 県令とした。宋維と宋紀は経史にかなり通じていたが、浮薄で品行がなかった。元懌は親族として尊く、懿望があり、朝野の瞻望属するところであった。宋維は元懌の眷賞を受けたのに、形無くして離間を構え、天下の人士は怪しみ忿り、これを賤しみ軽んじない者はなかった。元叉が元懌を殺し、朝政を専断すると、宋維兄弟が以前に元懌を告発したことを以て、宋維を散騎侍郎に、宋紀を太学博士・侍御史を領するものとして徴し、甚だ昵れ親しんだ。宋維は超遷して通直常侍となり、また冠軍将軍・洛州刺史に任ぜられた。宋紀は超遷して尚書郎となった。初め、宋弁は族弟の宋世景に言うには、「宋維の性は疎遠で険しく、宋紀は識見と知恵が足りず、終には必ず我が業を敗るであろう」と。宋世景はそうではないと思ったが、このようになり、聞く者は子を知ること父に若くはなしと以為った。 尚書令 しょうしょれい の李崇・尚書左僕射の郭祚・右僕射の游肇は常に言うには、「伯緒(宋維)は凶暴で疎闊であり、終には宋氏を敗るであろう。幸いにして殺身を得るのみである」と。論ずる者はこれに徴があると以為った。後に営州刺史に任ぜられ、もとの将軍のままとした。霊太后が政権を回復すると、元叉の党として除名され、郷里に還った。まもなく以前の清河王誣告の事を追及され、鄴で賜死された。子の宋春卿は早く亡くなった。弟の宋紀が次子の宋欽仁を後継ぎとした。

欽仁は、武定末年に太尉祭酒となった。

宋紀は、粛宗(孝明帝)の末年に北道行臺となった。 しん 陽で卒去した。

子の欽道は、武定末年に冀州別駕となった。

宋弁の弟の宋機は、本州の治中となった。

子の宝積は、中散大夫の任で卒去した。

弁の族弟の穎は、字を文賢という。奉朝請より次第に昇進して尚書郎・魏郡太守となった。劉騰に賄賂を贈り、騰が元叉に言上したため、穎は冠軍将軍・涼州刺史に任じられた。穎の前妻の鄧氏が亡くなってから十五年後、穎は彼女の夢を見た。鄧氏は穎に向かって拝礼し、「新婦は今、高崇の妻とするよう処分されましたので、お別れに参りました」と言い、涙を流した。穎は朝になって高崇に会い、このことを話した。崇は数日後に亡くなった。

穎の族弟の燮は、字を崇和という。広平王元懐の郎中令・員外常侍を務めた。征北将軍李平の司馬となり、北方で元愉を討滅するにあたり、謀略を補佐する功績が多かった。

燮の族弟の鴻貴は、定州平北府参軍となり、兵士を荊州へ送った。兵士の絹四百匹を横領した罪で、兵士が告発しようとしたため、十人を斬殺した。また、全く律令に通じておらず、律に梟首の刑があるのを見て、兵士の手を生きたまま切断し、水をかけた後で斬首した。まもなく罪に伏して処刑された。当時の人は兵士の苦しみを哀れみ、鴻貴の愚かさを笑った。

【評】

史臣曰く、古人が言うように、才能は古人の半分にも及ばないのに、功績はそれを超えることがあるというのは、むなしい言葉ではない。王肅は流浪の身でありながら、一面識で知遇を得た。その器量と業績は自ら成したものではあるが、また時勢にも逢ったのであり、栄誉ある職務は赫々として、旧来の臣下と同列に寄せられた。美事というべきである。誦と翊はその跡を継ぎ、光風を失わなかった。宋弁は才能と度量をもって知られ、先帝の遺命に参画した。群を抜いて傑出したのは、それなりの所以があったのだ。子のない嘆きは、羊舌氏だけのものではあるまい。宗祀が絶えずに済んだのは、幸いであった。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻63