李彪
李彪、 字 は道固、頓丘衛国の人であり、高祖(孝文帝)より名を賜った。家柄は寒微で、幼くして孤貧であったが、大志を抱き、篤学で倦むことを知らなかった。初め長楽の監伯陽に師事し、伯陽は彼を称賛した。後に漁陽の高悦・北平の陽尼らと共に名山に隠棲せんとしたが、果たせずに止んだ。悦の兄の閭は博学高才で、家に典籍が豊富であったため、彪は悦の家で手写し口誦し、寝食する暇もなかった。やがて郷里に帰った。平原王元叡が弱冠に近い年頃で、高雅な志業を持ち、東徐州 刺史 博陵の崔鑒の娘を娶るため、冀州・相州の地を経由した際、彪の名声を聞いて彼を訪れ、師友の礼を修め、郡に彼を称揚した。そこで孝廉に推挙され、京師に至り学館に入って学業を受けた。高閭が朝廷の貴人に彼を称え、李沖も厚く礼遇したので、彪は深く彼らに依附した。
高祖(孝文帝)の初年、 中書 教学博士となり、後に員外 散騎常侍 ・建威将軍・衛国子を仮官とし、蕭賾(南斉の武帝)のもとに使節として赴いた。秘書丞に転じ、著作の事に参与した。成帝以来太和に至るまで、崔浩・高允が国史を著述し、編年体で記録を編んだが、春秋の体裁をとり、時事を遺落し、三つに一つも残っていなかった。彪は秘書令の高祐と共に、はじめて司馬遷・班固の紀伝体に従うことを上奏し、紀・伝・表・志の目次を創始した。
彪はまた上表して言った。
高祖はこれを覧て善しとし、まもなく全て施行された。
彪は次第に礼遇され、中壘将軍を加えられた。文明太后が 崩御 すると、群臣は高祖に公除(公務による喪服の解除)を請うたが、高祖は許さず、彪と往復の議論を行った。その言葉は礼志にある。高祖は詔して言った。「古事を歴観するに、才能を求めることは一様ではない。ある者は微賤の家柄を承けて、当時に徳を著わし、ある者は幽陋より抜擢されて、後世に名を流す。故に毛遂は賤より起ち、楚に対する弁論を奮い起こした。もし才能あれば、必ずしも家柄に拘る必要はない。彪は宿より清第にあらず、本来華やかな資質には欠けるが、識性は厳かで聡明、学は墳籍に博く、剛直な弁論の才は、よく時に用いるに堪え、さらに吏を憂うること家の如く、朝の美を宣揚する。もしその功績を賞して叙せずんば、いずくんぞ勤勉なる能を勧奨せん。特に秘書令に遷し、その誠実に報いよ。」参議律令の勤労により、帛五百匹・馬一匹・牛二頭を賜った。
その年、員外 散騎常侍 を加えられ、蕭賾のもとに使節として赴いた。賾はその主客郎の劉絵を接対させ、宴楽を設けた。彪は楽を辞した。座に着くと、彪は言った。「斉主が既に宴楽を賜り、行人を労うるに、先ほど楽を辞したのは、卿あるいはまだ察しが及ばなかったか。喪礼が廃れて以来、久しい時が経っている。我が皇帝は孝性天より出で、追慕の情極まりなく、故に今般喪除の議がある。去る三月の晦、朝臣は初めて衰裳を除いたが、なお素服をもって事に従っている。裴・謝(北魏の使者)がここにいる以上、当然この通りである。我が今楽を辞するのは、卿も怪しまぬと思う。」絵は答えて言った。「楽を辞することについては、先ほど異論はない。魏朝の喪礼が、結局何に依拠しているのかお尋ねしたい。」彪は言った。「高宗(文成帝)は三年、孝文(孝文帝)は一月を超えた。今聖上は鞠育の深恩を追慕し、慈訓の厚徳に感じ、殷と漢の間を執り、礼の変を得たと言えよう。」絵はまた問うた。「もし古に遵おうとするなら、なぜ三年を終えないのか。」彪は言った。「万機は久しく空しくすべからず、故に至慕を割き、群議に俯従する。服は変じても三年と異ならず、期限は一期と同じである。礼なき礼と言えよう。」絵は言った。「汰(過剰)なるかな叔氏(礼の専門家)よ、専ら礼をもって人を許容する。」彪は言った。「聖朝自らが曠代の制を為すのであって、人を許容することに関わるものではない。」絵は言った。「百官が総己して冢宰に聴けば、万機何ぞ空しきを慮らん。」彪は言った。「載籍に聞く。五帝の臣は、君に及ばず、故に君自らその事を攬る。三王の君臣は智等しく、故に共に機務を理める。五覇の臣は君を過ぎ、故に事は下に決する。我が朝の官司は皆五帝の臣であり、主上自ら攬るのは、遠く軒轅・堯の軌跡に倣うものである。」彪が還る際、賾は親しく言った。「卿が前に使節として還った日、阮籍の詩を賦して『但願長閑暇、後歳復来遊』と言ったが、果たして今日のようになった。卿が今回還っても、また来る道理はあるか。」彪は答えて言った。「使臣は重ねて阮籍の詩を賦して申し上げます。『宴衍清都中、一去永矣哉』と。」賾は惘然として言った。「清都(仙境)はともかく、一去して何事かある。卿のこの言葉を見るに、長き別れとなりそうだ。朕は殊礼をもって送ろう。」賾は遂に親しく琅邪城に至り、山に登り水に臨み、群臣に命じて詩を賦させて別れを送らせた。そのように重んじられたのである。彪は前後六度使命を帯び、南人はその謇諤(率直な直言)を奇とした。
後に車駕(皇帝)が南征した際、彪は冠軍将軍・東道副将を仮官とし、まもなく征虜将軍を仮官とした。車駕が京に還ると、御史中尉に遷り、著作郎を領した。彪は既に高祖に寵愛され、性質も剛直であったため、多くを弾劾糾挙し、遠近これを畏れ、豪族は息を潜めた。高祖は常に彪を李生と呼び、時に従容として群臣に言った。「我に李生あるは、漢に汲黯あるが如し。」汾州の胡が叛くと、詔して彪に節を持たせて綏撫させ、事が鎮まって京に還り、 散騎常侍 に任じ、引き続き御史中尉を領し、著作の事は解かれた。高祖は流化池で群臣を宴し、 僕射 の李沖に言った。「崔光の博識、李彪の剛直、これこそ我が国家が賢を得る基である。」
車駕が南伐するに及び、彪は度支 尚書 を兼ね、僕射の李沖・任城王らと共に留台の事を参理した。彪は元来剛直で豪放な性質であり、沖らと意見が合わず、遂に声色に現れ、少しも降りて従う心がなかった。自ら身は法官であるとして、己を糾弾できる者はいないと思い、多く専断恣肆した。沖はその前後の罪過を積み重ね、尚書省で彪を禁錮し、上表して言った。「臣は聞く。国を範とし人を匡すには、光化を昇治せしめ、輿服典章は、理として暫しも失うべきではない。故に晋の文公は九合の功を建てながらも、なお請隧(天子の葬礼を請う)によって抑えられ、季氏は三世にわたって政を藉りながらも、なお璵璠(宝玉)によって譏られた。固より名器の重きは、妄りに仮すべからざることを知る。先王は既に古に憲章し、陛下は今に経綸される。用いること能く車服に序あり、礼物墜つることなし。案ずるに臣彪は昔、凡品にありながら、特にもって才を以て抜擢され、清華の等望に列し、東観に文を司り、恩眷に綢繆し、憲台を繩直し、左に金璫を加え、右に蟬冕を珥した。東省(門下省)に闕く。宜しく恩に感じ節を励まし、忠を以て徳に報ずべきである。しかるに窃みに名を盗み職を忝くし、身自ら違傲たり、勢を矜り高亢に、公に僭逸を行い、禁省に坐輿し、官材を冒取りし、輒ち乗黄を駕し、憚懣する所なし。志を肆にして傲然たり、視聴を愚聾す。此れを忍び得ば、誰か懐うべからざらん。臣は輒ち尚書以下・令史以上、及び治書侍御史臣酈道元らを尚書都座に集め、彪の犯した罪状を彪に告げ、その虚実を訊問した。もし知らざる所あれば、部下を召して訊く必要がある。彪は臣に答えて言う。『事は目に見える通り、実に弾劾された通りであり、皆彪の知るところである。何ぞ復た部下を召すを須いん。』臣は今、見る所の事を以て、彪の居る職を免じ、廷尉に付して獄を治めんことを請う。」
沖はまた上表して言った。
高祖は懸瓠におり、表を覧て驚き嘆じて言った。「何ということか、留京がこのようなことになるとは。」有司は彪に大辟の刑を処そうとしたが、高祖はこれを許し、除名のみとした。彪はまもなく本郷に帰った。
高祖が懸瓠より北へ行幸して 鄴 に至ると、李彪は鄴の南で拝礼して迎えた。高祖は言われた、「朕が卿を期待したのは、常に貞松を志とし、歳寒を心として、卿は国に報い、身を尽くして用いられるべきであったのに、近頃見た弾劾文は、全くその所以に背いている。卿がこの譴責を受けたのは、朕と卿のためか、政事と卿のためか、それとも卿が自ら招いたのか」。李彪は答えて言った、「臣の過ちは自ら至り、罪は自ら招いたものであり、実に陛下が横に臣に罪を加えられたのではなく、また政事が無辜に臣を濫りに罰したのでもありません。臣の罪が既にこのようである以上、東皐の下に伏すべきであり、遠く属車の塵を汚すべきではありませんが、ただ聖躬の不 豫 を承り、臣は肝胆塗地する思いであり、それ故に敢えて参ったのであり、罪を謝するために来たのではありません」。高祖は宋弁の言葉を容れ、再び任用しようとしたが、ちょうど留臺の上表があり、李彪が御史賈尚と共に庶人恂の事件を窮めて審理したが、理に誣り抑圧があったと奏上し、李彪を収監するよう請うた。李彪は自ら事が冤罪であると訴え、高祖は李彪にそのようなことはないと明らかにし、左右を遣わして慰め励まし、牛車に散載させて 洛陽 に送ることを許した。赦令に会って免罪となった。
高祖が崩御し、世宗が即位すると、李彪は王肅に託り、また邢巒と詩書を往来させ、互いに称え重んじ、因みに旧職への復帰と史官の職務の再開を求め、王肅らは左右となると約束し、李彪は上表して言った。
時に 司空 北海王詳と 尚書令 王肅は彼が俸禄がないのを憐れみ、大いに賑い与えたので、遂に祕書省において王隱の故事に倣い、白衣の身で史書を編修した。
世宗が親政すると、崔光は上表して言った、「伏して見るに、前御史中尉臣李彪は、夙に美意を懐き、魏典の刊行を創めました。臣は昔、李彪に招かれ、彼と共に数年業を積みましたが、その志力は貞強であり、考述に倦むことなく、群僚を督励し、注綴を略挙しました。近頃は疎遠となり、多く廃離しましたが、近頃收起を蒙り、還ってその事を綜理しています。老いてますます励み、史才は日々新たであり、もし旧職を克復し、専功に怠らなければ、必ずや春秋を昭明し、皇籍を闡成できるでしょう。既に先帝の厚い委任を受け、宿歴高班であり、微かな過失は、滌洗に従うべきです。愚かには、常伯を申しつけ、著作を正しく綰ね、その外役を停め、その内思を展べ、歳月を研積すれば、紀冊は必ず成就すると存じます。鴻声巨迹は蔚然として章有り、盛軌懋詠は鑠然として泯滅することはありません」。世宗は許さなかった。
詔して李彪を通直 散騎常侍 を兼ねさせ、汾州の事を行わせたが、李彪の好むところではなく、固より行かぬよう請うたが、有司が切にこれを遣わした。疾いに遭って数十日を経て、景明二年の秋、洛陽にて卒した。年五十八。
初め李彪が中尉であった時、厳酷と号され、姦款を得難いため、木手を作ってその脇腋を撃たせ、気絶してまた属する者が時にあった。また汾州の叛胡を慰諭し、その兇渠を得て、皆顔を鞭打って殺した。李彪が病んだ時、体上に往々にして瘡が潰れ、痛毒は極みを備えた。詔して帛一百五十匹を賜い、鎮遠将軍・汾州刺史を追贈し、 諡 して剛憲といった。李彪が祕書省にいた歳余、史業は遂に及んで完成しなかったが、然し書体を区分したことは、皆李彪の功績である。春秋三伝を述べ、合わせて十巻を成した。その著した詩頌賦誄章奏雑筆百余篇は、別に集がある。
李彪は宋弁と管鮑の交わりを結んだが、宋弁が大中正となり、高祖と私議する時も、猶寒地として処遇し、少しも優遇しようとはしなかった。李彪もこれを知り、恨みとしなかった。宋弁が卒すると、李彪は痛んで已むことなく、そのために哀誄を作り、辛酸を尽くした。郭祚が吏部であった時、李彪は子の李志のために官を求めたが、郭祚は仍って旧い序列で処遇した。李彪は自らが常伯の位にあり、又尚書を兼ねているので、郭祚は貴遊として抜擢すべきだと考え、深く忿怨し、言色に現した。時の論はこれをもって郭祚を讒った。郭祚は常に言った、「爾は義和(宋弁)と志を交わしたではないか、どうして爾に譲ることができようか、それなのに私を怨むのか」。任城王澄も李彪とは先に不仲であったが、雍州刺史となった時、李彪が澄を訪ねて李志のためにその府僚を求めると、澄はわだかまりを解いて上啓し、列曹行参軍を得させた。時にこれを称美した。
李志は、字を鴻道といい、博学で才幹があった。十余歳で、既に文を属することができた。李彪は大いにこれを奇とし、崔鴻に言った、「子は宜しく鴻道と『二鴻』を洛陽に為すべし」。崔鴻は遂に李志と交款して往来した。李彪に娘がおり、幼くして聡明で、李彪は常にこれを奇とし、書学を教え、経伝を読誦させた。嘗て密かに親しい者に言った、「この子は必ず我が家を興すであろう、卿らはその力を得ることができる」。李彪が亡くなった後、世宗はその名を聞き、婕妤として召し出し、礼を以て迎え入れた。婕妤は宮中で、常に帝の妹に書を教え、経史を誦授した。李志は後に稍々遷って符璽郎中・徐州平東府司馬となった。軍功により累転して後軍将軍・中散大夫・輔国将軍・永寧寺典作副将となった。初め李彪は李志と婕妤を奇とし、特に器愛を加え、公私の坐集では必ず自ら称詠したので、これがために高祖に責められた。李彪が亡くなった後、婕妤は果たして掖庭に入り、後宮は皆師宗とした。世宗が崩じると、比丘尼となり、経義を通習し、法座で講説すると、諸僧は歎重した。李志は所在で績を著した。桓叔興が外叛し、南荊が荒廃すると、領軍元叉がその才幹を挙げて撫導に任ずべきとし、抜擢して南荊州刺史とし、征虜将軍を加えた。建義初年、叛いて蕭衍に入った。
高道悅
高道悅は、字を文欣といい、遼東新昌の人である。曾祖父の高策は、馮跋の 散騎常侍 ・新昌侯であった。祖父の高育は、馮文通の建徳令であった。世祖の東討に値し、その部衆五百余家を率いて軍門に帰命し、世祖は建忠将軍、斉郡・建徳二郡太守を授け、爵を肥如子と賜った。父の高玄起は、武邑太守となり、遂に勃海蓨県に居住した。
高道悅は若くして中書学生・侍御主文中散となった。久しくして、治書侍御史に転じ、諫議大夫を加えられ、正色で官に当たり、強禦を憚らなかった。車駕が南征し、秦雍に兵を徴発し、大期を秋季として洛陽に閲集することとした。高道悅は使者の治書御史薛聰・侍御主文中散元志らが、期会に稽違したとして、その罪を奏挙した。また兼左僕射・吏部尚書・任城王澄は、位は朝右を総べ、任は戎機に属するのに、兵使の会否について、曾て検奏しなかったこと、尚書左丞公孫良は職は枢轄を維ぐのに、蒙冒して挙げなかったことを奏上し、見事を以て公孫良らの居官を免ずるよう請うた。時に高道悅の兄の高観が外兵郎中であったが、澄は高道悅に兄を党する負い目があると奏上し、高祖は詔して責めたが、事が恩赦を経ていたので、遂に寝せて論じなかった。詔して言った、「高道悅は資性忠篤であり、禀操貞亮で、法に居ては平肅の規を樹て、諫に処っては必犯の節を著わし、王公はその風鯁を憚り、朕は実にその一至を嘉する。謇諤の誠は、何ぞ黯鮑に愧じようか。主爵下大夫と為し、諫議は旧の如しとせよ」。車駕が鄴に行幸しようとした時、また御史中尉を兼ねさせ、洛京に留守した。
時に宮殿の基盤が初めて築かれ、宗廟や倉庫は未だ構築されておらず、車駕(天子の行列)は水路を経て鄴に行幸しようとしたが、既に都水に命じて構築用の材木を回収させ、舟や櫂を造らせようとしていた。道悦は上表して諫めて言うには、「臣は聞く、広く輿言(世間の意見)を受け入れることは、君主の重んずべき務めであり、規諫して匡正することは、臣下の誠実な節操であると。それ故に諫鼓を設け誹謗の木を立てることは、昔から行われており、虚心に広く聴くことは、今の時代の道理に属する。臣は既に疎遠で愚鈍でありながら、栄誉ある官職を濫りに蒙り、献言と補弼の職を兼ねており、職務として当然の可否を論じ、恩寵の栄華を身に帯びて遇せられたことを佩び、見聞を陳べたいと願う。窃かに思うに、都作(都城造営)の構築用材木は、部署ごとに区分けして調達し、元来定まった所がある。工匠による加工が既に完了し、都水に回付して、舟や艫(大型船)を造るのに用いようとしている。永遠に堅固な宮居の功業を欠き、一時の遊嬉の用に供し、損耗は格段に多く、結局は廃棄物となるであろう。しかも、子来(民が君主のために自ら進んで来る)の誠意は、本来は営造起工を期待していたのである。今、舟や櫂を修繕することは、更に本務ではない。公私ともに惑い慌て、皆深く怪しみ驚いている。また、御自ら龍舟に乗り、石済を経由しようとされているが、その沿河の牽引道は、久しく荒蕪しており、舟櫂を扱う人々も、元来慣れ熟練していない。もし櫂を委ねて本流を行こうとすれば、水深が浅く危険なことは、古今ともに慎むところである。もし牽引して進むことを求めれば、授衣(寒さが増す陰暦九月)の月に、水陸で裸形となることは、恐らく『民を子の如く視る』という義に背くであろう。かつ、鄴と洛陽は相望み、陸路は平坦で真っ直ぐであり、時に肥えた馬に乗れば、往来は難しくない。更に周道(平坦な大道)の安らかさを捨てて、川を渡る危険に就くことは、これは愚者も智者も同じく慮り、朝野ともに惑うところであり、進退について伏して考えるに、その可なるを見ない。また、従駕する群僚は、妻子を連れて行くことを許され、舟櫂の間には、更に隔てがなく、士女が雑乱し、内外の区別がつかない。当今は御世が善く治まり明るく、新たに制度を定め、礼を裁き風俗を調え、天下に規範を示そうとされている。窃かにこの挙措を考えるに、或いは大いなる計画を損ない、広く天下が順守すべき法則への期待を深く失わせるであろう。また、 氐 や胡が順を犯し、玉帛(朝貢)を未だ恭しくせず、西戎が内に侵し、甲冑をなお襲い、南の寇賊が紛擾し、近畿に対し接近し、蛮民は疎遠で背き、しばしば不軌を造る。隙を窺い、或いは慮外の事態を生ずるかもしれない。愚かには、妙に懿親(良き皇族)を選び、後事を撫寧させ、奸回の輩に覬覦の望みを止めさせ、辺境の寇賊に国境を窺う心を絶たせるべきであると考える。臣は愚直な性分を禀け、知ることを隠さず、微々たる丹心を、冒昧にも以て聞かせる。」詔して曰く、「上った事柄を省みるに、深く汝の心を具えている。しかし卿の立てる言は半ば非である。当に非を陳べて謬りを示し、是を称えて得を彰わし、然る後に用いない所以を明らかにし、行う由縁を為すべきである。そうでなければ、未だ互いに理解しないであろう。材木を都水に回し、暫くの遊嬉を営み、終には棄物となること、修繕が本務でないこと、舟櫂に障壁がなく士女が雑乱すること、これは卿の失言である。水深が浅く危険なこと、後事を撫でる重責、これらは卿の得言である。」ここにおいて、高祖は遂に陸路に従った。道悦を転じて太子中庶子とし、正色を以て朝廷に立ち、儼然として犯し難く、宮官上下ことごとく畏れ憚った。
太和二十年の秋、車駕が中岳に行幸し、詔して太子恂を金墉城に入居させたが、恂は密かに代に還ることを謀り、道悦の前後の規諫を忿り、遂に禁中で彼を殺した。高祖は甚だ悲しみ惜しみ、 散騎常侍 を追贈し、営州刺史を帯官させ、帛五百匹を賜い、併せて王人を遣わしてその妻子を慰めた。また詔して使者に喪事を監護させ、旧塋に葬り、諡して貞侯といった。世宗もまた忠概を追録し、長子の顕族を給事中に拝した。
顕族もまた忠厚をもって称せられ、右軍將軍の任にて卒した。
顕族の弟、敬猷は風度があった。員外散騎侍郎、殿中侍御史を経て、給事中、軽車將軍、奉車都尉に進んだ。蕭寶夤が西征するに及び、彼を驃騎司馬に引き立てた。寶夤が謀逆を企てると、敬猷は行臺郎中の封偉伯らと共に密かに義挙を図ったが、謀が漏れて殺された。冠軍將軍、滄州刺史を追贈され、一子の出身を聴された。
道悦の長兄、嵩は字を崐崙という。魏郡太守であった。
子の良賢は、長水 校尉 であった。
良賢の弟の侯は、険薄で劫盗を働き、冀部に患いとされた。
嵩の弟の雙は、清河太守であった。賄賂を貪り刑に処せられようとしたが、市中で赦令に遇って免じられた。時に北海王詳が録尚書となると、雙は多く金宝を納めて、 司空 長史に除かれた。間もなく、 太尉 長史に遷り、俄かに出て征虜將軍、涼州刺史となった。専ら貪暴をほしいままにし、罪により免官された。後に高肇に賄賂を贈り、再び起用されて幽州刺史となった。またも貪穢により弾劾されたが、罪が判決されないうちに赦令に遇い、再任された。間もなくして卒した。
子の景翻は、幽州司馬であった。
雙の弟の觀は、尚書左外兵郎中、城陽王鸞の司馬であった。赭陽に南征し、先駆けて歿した。通直散騎侍郎を追贈され、諡して閔といった。
【評】
史臣曰く、李彪は微族より生まれ、才志は確然としており、業藝は夙に成り、太和の世に擢用され、軽車が急に指し、名声は江南に駭き、筆を執り言を立てて、良史たるに足りた。直なる繩墨を手にするに及んで、気を厲し目を明らかにし、堅さを保つ術なく、末路に蹉𧿶した。百里を行く者は九十を以て半ばと為す、豈に彪の謂いであろうか。高道悦の匡直の風は、世に憚られ、正しきを 醜 み禍を貽す、悲しむべきことあらんや。
校勘記