薛安都
薛安都、 字 は休達、河東郡汾陰県の人である。父の広は、司馬徳宗(東晋安帝)の上党太守であった。安都は若い頃より 驍 勇で、騎射に長け、軽佻な侠客を多く集めたため、諸兄はこれを憂慮した。安都は自ら別れて暮らすことを願い出て、一片の資産も取らず、兄がこれを許したので、別の厩舎に住んだ。遠近の交遊者は競って贈り物を送り、馬・牛・衣服・雑物がその庭に満ちた。真君五年(444年)、東雍州 刺史 の沮渠秉と謀反を企てたが、事が発覚し、劉義隆(宋の文帝)のもとに奔った。後に盧氏から弘農に侵入し、太守の李抜らを捕らえ、ついに陝城を脅かした。時に秦州刺史の杜道生が安都を討伐した。安都は李抜らを捕らえたまま南方へ逃れ、世祖(太武帝)が長江に臨んだ時、李抜はようやく帰還できた。
安都は南方において、武力によって任用され、劉駿(宋の孝武帝)が江州で挙兵すると、これに将として仕え、左衛率の位に至った。劉昶が帰降すると、子業(前廃帝)は安都を平北将軍・徐州刺史とし、彭城に鎮守させた。和平六年(465年)、劉彧(明帝)がその主君である子業を殺して自立すると、衆情はこれに協せず、共に子業の弟である晋安王の子勛を立てた。安都は沈文秀・崔道固・常珍奇らとともに兵を挙げてこれに応じた。劉彧は将軍の張永を派遣して安都を討伐させた。安都は使者を派遣して降伏を申し出、援軍を請うた。顕祖(献文帝)は群臣を召集してこれを議した。群官は皆言うには、「昔、世祖(太武帝)は常に劉義隆を併呑しようと志し、みずから六軍を統率して遠く長江のほとりに臨まれました。今、江南は乱れ阻まれ、内外離心しています。安都が今降伏を求めるのは、千載一遇の機会であり、事の機微は得難く、時は再び訪れません。乱れる国を取って亡びる国を侮るは、まさにこの時にあります」と。顕祖はこれを容れた。安都はまた第四子の道次を人質として送り、李敷らに書簡を送り、使者が相次いだ。そこで鎮東大将軍・博陵公の尉元、城陽公の孔伯恭らに騎兵一万を率いさせて赴かせた。安都を使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 徐南北兗青冀五州 豫 州之梁郡諸軍事・鎮南大将軍・徐州刺史に拝し、河東公の爵を賜った。
安都は事態が窮して帰順したのであるが、尉元らが彭城に入ると、安都は内心後悔し、尉元らを謀ろうと企て、城を挙げて再び叛こうとした。ちょうど尉元がこれを知ったので、ついに発動できなかった。安都は尉元らに多額の賄賂を贈り、罪を女婿の裴祖隆に負わせた。尉元は祖隆を殺し、安都の謀略を隠した。
皇興二年(468年)、畢衆敬とともに京師に朝見し、大いに礼遇され重んじられた。子・甥・一族の者たちは皆上客として遇され、皆侯に封ぜられ、門生に至るまで任用されなかった者はなかった。また邸宅を造営して与えられ、館舎は高く麗しく、供給は甚だ厚かった。三年(469年)に卒去した。本将軍・秦州刺史・河東王を追贈され、 諡 して康といった。
子の道標が爵を襲った。太和(477-499年)の初め、出仕して鎮南将軍・平州刺史となり、治績に名声があった。相州刺史に転じ、将軍の号はもとのまま。また本将軍の号をもって秦州刺史となった。十三年(489年)に卒去。
子の達、字は宗胤、爵を襲い、例により侯に降格された。五等爵制が開建されると、安都が先朝において顕著な功績があったとして、達を河東郡開国侯に封じ、食邑八百戸を与えた。後に河東が畿内に近いため、華陰県侯に改封された。熙平(516-518年)の初め、奉車都尉に拝され、出仕して漢陽太守となった。達は郡守となることを好まず、詔により解任を聴された。卒去。
子の承華が爵を襲った。次第に 司徒 従事中郎・河東邑中正に昇進した。安南将軍・光禄大夫の任上で卒去。
子の羅漢が襲爵した。斉が禅譲を受けると、爵は例により降格された。
道標の弟の道異も、功績により第一客となった。早世した。寧西将軍・秦州刺史・安邑侯を追贈された。
道異の弟の道次。京師に人質となった後、南中郎将・給事中に拝され、安邑侯の爵を賜り、安遠将軍の号を加えられた。出仕して安西将軍・秦州刺史・仮の河南公となった。太和十五年(491年)、光禄大夫となり、卒去。
子の巒が爵を襲い、平温子に降格された。 尚書 郎・秦州刺史・鎮遠将軍・隴西鎮将となり、隴西太守を兼ねた。後に 滎陽 太守となり、平北将軍・肆州刺史に昇進した。在任地ごとに貪欲で穢れた行いがあり、州では一層甚だしかった。 司空 の劉騰に賄賂を贈って良い官職を求めたが、得られないうちに劉騰が死んだ。正光五年(524年)、莫折念生が秦州で反乱を起こし、その別帥の卜胡・王慶雲らに軍勢を率いさせて涇州を寇掠させた。粛宗(孝明帝)は巒を持節・光禄大夫・仮安南将軍・西道別将とし、伊瓫生らとともにこれを討伐させた。進軍して平涼郡の東に至り、賊と交戦したが、利あらず、巒らは退却した。後に撫軍将軍・汧城大 都督 となり、北隴を鎮守した。孝昌二年(526年)春、軍中で卒去した。征西大将軍・雍州刺史を追贈され、子爵はもとのまま。
安都の兄の子の碩明は、安都に従って国(北魏)に入り、蒲坂侯の爵を賜り、清河太守・太中大夫となった。
安都の従祖弟の真度。初め安都とともに南方に奔り、安都が徐州刺史となると、真度はその長史となり、勇気と才幹に富み、その爪牙となった。安都に従って降伏し、上客となった。太和の初め、河北侯の爵を賜り、安遠将軍の号を加えられ、鎮遠将軍・平州刺史・仮の陽平公となった。後に侯から伯に降格され、冠軍将軍に任ぜられた。帝の南征に従い、仮の平南将軍となった。久しくして、護南蛮 校尉 ・平南将軍・荊州刺史に任ぜられた。
蕭賾(南斉の武帝)の雍州刺史である曹虎が偽って降伏を申し出た時、詔により真度は四将を督いて襄陽から出撃したが、功績なく帰還した。後に赭陽を征討したが、房伯玉に敗れた。有司が官爵を免ずるよう上奏した。高祖(孝文帝)は詔して言うには、「真度の罪は、まことに上奏の通りである。しかし、かつて安都とともに彭城で誠意を示し、徐宋の地を開拓し、外には沈攸之・蕭道成の軍を防ぎ、内には辺境の烏合の衆を鎮め、淮海の地が帰服した功績は、まことにここにある。その功績を思うにつけ、常に賞賛してきた。赭陽での百の敗北など、計るに足らぬ。諸将とは区別し、後の功績を改めて示させるべきである。その元勲たる爵位を還し、再び荊州刺史に任ぜよ。その他の称号は削奪する。これにより進んでは忠誠を顕わし、退いては過失を明らかにせよ」と。まもなく仮節・仮冠軍将軍・東荊州刺史に任ぜられた。
初め、 洛陽 遷都の後、真度はしばしば高祖に献策し、先ず樊鄧を取るべく、後に南陽を攻めることを勧めたので、高祖に賞せられ、帛百匹を賜り、また持節を加えられ、正号は冠軍とされ、封を改めて臨 晉 県開国公とされ、食邑三百戸を賜った。詔して曰く、「忠を献げ心を尽くすは、人臣の令節なり。善を標し功を賞するは、国の徽範なり。故に一言以て邦を興すべく、片辞以て国を喪うべし。得て前の謀を遠く録せずんばあるべからず、以て其の善を褒むべし。真度は遷京より此れに至るまで、毎に戎役に在り、沔北の計は、恒に与聞する所なり。知る所を言わざる無く、頗る採用せらる。六師南邁に及び、朕新野を超えて据えんと欲す。群情皆異なりしも、真度独り朕と同ず。蛮を撫で夷を寧んずるは、実に勤績有り。邑二百戸を増すべし」と。転じて征虜将軍・ 豫 州刺史となる。
景明の初め、 豫 州大いに飢う。真度表して曰く、「去歳収穫無く、飢饉十五、今又災雪三尺、民人萎餧し、以て之を済うすべからず。臣輒ち日を別ちて州倉の米五十斛を出だして粥と為し、其の甚だしき者を救う」と。詔して曰く、「真度の表する所は、甚だ百姓を憂い済わすの意有り。宜しく拯卹すべし。陳郡の儲粟復た多くは無しと雖も、亦分かち贍うべし。尚書量り賑い以て聞かしむべし」と。
裴叔業が寿春を以て内附するに及び、詔して真度に衆を率いて之に赴かしむ。尋いで華州刺史に遷り、将軍は元の如し。未だ幾ばくもせず、荊州刺史に転じ、仍って本将軍。入りて大司農卿となる。正始の初め、平南将軍・揚州刺史を除かれ、又以て年老いたるを以て、子の懐吉に本官を以て随行することを聴す。蕭衍の 豫 州刺史王超宗、衆を率いて小峴を囲逼す。真度、兼統軍李叔仁等を遣わし歩騎を率いて之を撃たしむ。超宗、逆に来たり拒戦す。叔仁之を撃破し、三千を俘斬す。還朝し、金紫光禄大夫を除かれ、 散騎常侍 を加えられ、又封を改めて敷西県とす。永平年中に卒す。年七十四。賻として帛四百匹・朝服一襲を賜い、左光禄大夫を贈られ、常侍は元の如し。諡して曰く荘。子十二人有り。
嫡子懐徹、封を襲ぐ。太常丞より、稍く征虜将軍・中散大夫に遷り、又左将軍・太中大夫を除かる。車騎将軍・左光禄大夫にて卒す。
初め、真度に女妓数十人有り。賓客を集むる毎に、輒ち之に奏せしめ、絲竹歌舞、前を絶たず、声色の適を尽くす。庶長子懐吉、喪に居ること周を過ぎ、父の妓十余人 并 びに楽器を献ず。世宗之を納る。
懐吉は、勇を好み膂力有り。書学を善くせざるも、亦世事に解達す。奉朝請より、直後寢を歴任し、太官令を領す。正始の初め、驃騎将軍となり、後恒農郡を試守す。
蕭衍、衆を遣わし徐兗に入寇す。安東邢巒之を討つ。詔して懐吉に本任を以て巒の軍司たらしむ。永平の初め、梁州晋寿を分かち益州と為す。征虜将軍・益州刺史を除かる。元愉未だ平らかならざるを以て、中山王英を征東将軍として之を討たしむ。詔して懐吉を英の軍司と為す。発せずして愉平ぐ。蕭衍、将を遣わし郢州の三関を陥落せしむ。詔して英に南討せしめ、懐吉仍って軍司と為る。義陽危急を以て、懐吉に馳驛を以て先ず赴かしむ。時に 豫 州城民白早生、刺史を殺し、懸瓠を以て蕭衍に入る。衍の将斉苟仁、衆を率いて城を守る。是に於いて懸瓠より南は安陸に至るまで、惟だ義陽一城のみ。懐吉は郢州刺史婁悦と将士を督励し、且つ守り且つ戦い、卒に義陽を全うし、英と三関諸戍を討復す。後、鎮東将軍盧昶、朐山を救い、賊と相持す。詔して懐吉を昶の軍司と為す。昶敗るるに及び、懐吉坐せられず。延昌年中、本将軍を以て梁州刺史を除かる。南秦の 氐 、反し武興を攻逼す。懐吉、長史崔纂・司馬韋弼・別駕范珦を遣わし之を撃ち平らぐ。号を進めて右将軍と為す。正光の初め、後将軍・汾州刺史を除かる。四年に卒す。平北将軍・ 并州 刺史を贈られる。
懐吉は元来清節を励まさず、汾州に為りてより、偏に聚納の響有り。自ら支庶を以て、己に勝る者を餌誘し、共に婚姻を為す。多く親戚を携え、悉く同行せしめ、兼ねて之が為に弥縫し、其の取受を恣にす。而して賓客を将労するに、物情を曲く尽くし、送り去り迎え来たり、寒熱を避けず。性寡言にして、接対有る毎に、但だ黙然として退く。既に先期を指授し、人馬の数は、左右密かに已に記録す。俄かに酒饌相尋い、芻粟継ぎ至り、将に別れんとするに逮び、銭縑を以て贈り、下は厮傭に及び、咸く本望を過ぐ。其の貴賤を延納するは此の若し。
懐吉の弟懐直、京兆内史・衛大将軍・左光禄大夫。
懐直の弟懐朴、恒農太守・襄陵男。
懐朴の弟懐景、征南将軍・河東太守・安定男。卒し、持節・ 都督 北徐兗東徐三州諸軍事・驃騎大将軍・儀同三司・徐州刺史を贈られる。
懐景の弟懐儁、撫軍将軍・光禄大夫・汾陰男。出でて征南将軍・益州刺史と為る。天平の初め、代わりて還り梁州に至り、刺史元羅と俱に蕭衍の将蘭欽に擒えられ、江南に送られる。衍、懐儁を見て之に謂いて曰く、「卿が父先づ魏の荊州と為りし時、我は時に猶襄陽に在り、且つ州壤連接し、極めて相知練す。卿今此れに至る、当に住まるべけんや。若し還らんと欲せば、亦礼を以て相遣わさん」と。左右を顧みて曰く、「此の家は北に在り、富貴極めて言うべからず」と。懐儁便ち帰るを乞う。衍還国を聴す。興和年中に卒す。
子湛儒、襲封。武定年中、 司空 水曹参軍。斉、禅を受く。爵例に降る。
真度諸子既に多く、其の母一ならず。同産相朋し、因って憎愛有り。興和年中、遂に訴列を致し、毒薬を以て相害すと云い、公府に顕れ、疵釁を発揚す。時人之を耻づ。
畢衆敬
畢眾敬、小字は捺、東平郡須昌県の人である。若い頃より弓馬を好み狩猟に親しみ、軽佻果敢な者と交わり、常に国境付近で盗み掠奪を業としていた。劉駿が徐兗二州刺史となった時、彼を部従事に辟召した。駿が帝位を 簒奪 すると、その泰山太守・冗従 僕射 を歴任した。
劉彧が子業を殺して自立すると、眾敬を遣わして兗州に赴き兵士を募集させた。彭城に到着すると、刺史薛安都が彼を召し密謀を語り、「晋安王(劉子勛)は上流の名声があり、かつ孝武帝の第三子である。卿と共に策を為し西に従おう」と言った。そこで彧の命令を偽り、眾敬に行兗州事をさせ、眾敬はこれに従った。時に兗州刺史殷孝祖は妻子を留め、文武二千人を率いて劉彧に赴き、司馬劉文石に城を守らせていた。眾敬は兵を率いて瑕丘を攻め取り、文石を殺した。安都は孝祖と元より不協和であったため、眾敬に孝祖の諸子を誅殺するよう命じ、眾敬は已むなく遂に彼らを殺した。州内は悉く帰附したが、ただ東平太守申纂のみが無塩城を拠りこれに同じなかった。劉彧が子勛を平定すると、纂に兗州刺史を授けた。折しも安都が北魏の援軍を引き連れてその城下を通り過ぎようとした時、纂は城門を閉ざして守りを固め、眾敬を深く恨んだ。時に誰かが眾敬の父の墓を暴き、遂にその母の骸骨の頭部を散乱させた。眾敬は喪に服し哀悼し、墓近くの細民を拷問し、死者十余人を出した。またこれを纂の仕業と疑い、弟の眾愛は安都の長史であったが、密かに人を済陰に遣わし、纂の父の墓を掘り返して報復した。
安都が城を挙げて北魏に帰順した時、眾敬はその謀に与からなかった。子の元賓は母を始め百口が皆彭城に在り、互いに禍が及ぶことを恐れ、日夜啼泣して眾敬に請うたが、眾敬は未だ従わなかった。眾敬は先に既に上表して劉彧に謝罪しており、彧は眾敬に兗州刺史を授けたが、元賓には別の罪があるとして、ただ彼だけは赦さなかった。眾敬は刀を抜いて柱を斬りつけ、「白髪の年となって、ただこの一子あるのみ。今これを赦さずして、何のために独り全からんや」と言った。尉元が到着すると、遂に城を以て降伏した。元は将を遣わして城に入れ、事態が収まると、眾敬は後悔し憤慨し、数日間食事を取らなかった。皇興初年、そのまま 散騎常侍 ・寧南將軍・兗州刺史に任じられ、爵位を東平公と賜り、 中書 侍郎李璨と対になって刺史となった。
慕容 白曜が無塩を攻略し、申纂は乱兵に傷つけられ、逃げ出して捕らえられ、白曜の下に送られた。白曜には纂を殺す意図は無かったが、城中で火災が起こり、纂は傷が重く避けることができず、火に焼かれて死んだ。眾敬は無塩が陥落したと聞き、纂が殺されないことを恐れ、白曜に書簡を送り、併せて朝廷に上表し、「家門の禍酷は、皆纂に由る」と述べた。纂の死を聞いて、ようやく喜んだ。二年、薛安都と共に京師に朝見し、そのまま留め置かれ、甲第一区を賜った。後に再び兗州刺史となり、将軍の位は元の如く、京師に召還された。
眾敬は自らの養生を善くし、食事は豊かで華美で、必ず他方の遠方の珍味を求めた。年既に七十、鬢髪は真っ白であったが、気力は未だ衰えず、鞍を跨ぎ馳せ駆けること、壮年の若者のようであった。姻族に篤く、深く国士の風があり、張讜が亡くなった時、自ら赴き弔問し、最も親しい者のように遇した。太和年間、高祖(孝文帝)は旧老を賓礼し、眾敬は咸陽公高允と共に方山に導かれた。文武の奢儉や好尚は異なるが、しかし允と非常に親愛敬慕し、膝を接して懇ろに語り合い、平生の如くであった。後、老衰を理由に故郷への帰還を乞い、朝廷はこれを許した。眾敬は帰還に臨み、真珠の耳飾り四具、銀装の剣一口、刺虎の矛一本、仙人の文綾百匹を献上した。文明太后と高祖は皇信堂で引見し、酒食を賜い、車一乗、馬三匹、絹二百匹を与えて労い送り出した。十五年十月に卒去した。詔により兗州に絹千匹を賜い、葬事の費用に供させた。
子の元賓は、若くして豪侠であり、武幹があり、書史に広く通じていた。劉駿に仕えて正員將軍となり、父と共に勲功を立て忠誠を尽くした。京師に至ると、共に上客とされ、爵位を須昌侯と賜り、平遠將軍を加えられた。後に元賓の勲功が重いことを以て、使持節・平南將軍・兗州刺史に任じられ、仮に彭城公とされた。父子相代わって本州の刺史となり、当世これを栄誉とした。時に眾敬は老いて郷里に帰り、常に元賓を使君と呼んだ。毎度元賓が政務を執る時、車に乗って元賓の所に出向き、先ず左右に命じて起立を許さず、その裁断を見て、欣然として喜びの色を顔に浮かべた。眾敬は家業を善く保ち、特に田産の管理監督に優れ、大いに蓄積をなした。元賓は政務に清廉公平で、民衆を善く撫で、百姓はこれを愛し楽しんだ。父の喪に服して解任され、喪中に遥かに長兼殿中尚書を授けられた。その年の冬の末に卒去した。撫軍將軍・ 衞 尉卿を追贈され、諡を平と言う。帛八百匹を賜った。
元賓が北魏に入国した後、初め東平の劉氏を娶り、四子(祖朽、祖髦、祖帰、祖旋)をもうけた。賜った妻の元氏は二子(祖栄、祖暉)を生んだ。祖朽が最年長、祖暉は祖髦の次である。故事によれば、前妻が先に子があっても、後から賜った妻の子は皆嫡子を継承する。それ故に劉氏が先に亡くなると、祖暉は重服を着けず、元氏が後に卒去すると、祖朽らは三年の喪礼を終えた。
祖栄は早世した。子の義允が祖の爵位東平公を襲い、例により侯に降格された。陵江將軍・給事中となり、卒去した。子の僧安が襲爵した。
祖朽は、身長八尺、腰帯十圍あり、経史に広く通じ、文詠を好んだ。性質寛厚で、人と交わることを善くした。父の爵位須昌侯を襲い、例により伯に降格された。員外郎より起家した。尚書郎・治書侍御史、寧遠將軍を加えられ、本州中正となった。
正始三年、蕭衍の将蕭及先が歩騎二万を率いて兗州に侵入し、及先は別帥の角念に蒙山に駐屯させた。祖朽を統軍とし、仮に寧朔將軍とし、邢巒に隷属させてこれを討たせた。祖朽は開導誘引に方策あり、降伏する者が相継いだ。賊は出て逆戦し、祖朽はこれを大破した。賊は柵に逃げ戻り、祖朽は夜にまた焼き討ちを加え、賊徒は潰散した。百余里を追討し、斬獲および沂水に赴いて死んだ者は四千余人に及び、龍驤將軍矯道儀、寧朔將軍王季秀を斬った。功により南城県開国男に封ぜられ、食邑二百戸を賜った。散騎侍郎・中書侍郎を歴任し、龍驤將軍を加えられた。延昌末年、安南王元志が荊沔を討つために出撃すると、祖朽を志の軍司とし、兼給事黄門侍郎とし、間もなく 司空 長史に遷った。神亀末年、持節・東 豫 州刺史に任じられ、将軍の位は元の如くであった。祖朽は辺境の民を善く撫で、清廉公平で信義があり、安静を務め、百姓はこれを称えた。還朝し、前將軍・ 太尉 長史・兼尚書北道行臺に任じられた。
孝昌初年、持節・本將軍・南兗州刺史に任じられた。間もなく度支尚書を授けられた。定州に行ったが、未だ着任せず、安東將軍・瀛州刺史に改めて任じられた。賊帥鮮于脩礼に攻囲され数十日、防ぎ守って自らを固めた。病により州で卒去した。 衞 將軍・吏部尚書・兗州刺史を追贈された。祖朽には子がなく、弟祖帰の子義暢を後嗣とし、爵位を襲わせた。
義暢は、傾巧で士たる業がなく、時の要請に通じることを善くした。尚書郎中・侍郎・兗州刺史・大中正・中軍將軍・通直 散騎常侍 を歴任した。太昌初年、車騎將軍となり、間もなく 散騎常侍 に任じられた。天平年間、北 豫 州の山賊張儉と通じた罪に坐し、法に伏して誅された。
祖髦は、奉朝請より起家した。兄祖朽が別に南城に封ぜられたため、須昌侯の爵位を彼に回授した。神亀初年、累遷して揚烈將軍・東平太守となった。後に本州別駕となり、官で卒去した。
子の義和が襲爵した。右將軍・太中大夫の任で卒去した。 散騎常侍 ・安東將軍・兗州刺史を追贈された。子に仁超がある。
義和の第六弟義亮は、性格が豪放で粗忽であった。尚書郎・中書舎人を歴任した。天平年間(534-537)、舎人の韋鴻と共に機密漏洩の罪に坐し、邸宅において自尽を賜った。
祖暉は、早くから器量と才幹があった。奉朝請より出発し、次第に鎮遠将軍・前軍将軍・直後に昇進した。正始年間(504-508)、龍驤将軍・東郡太守に任ぜられた。中央に入って 驍 騎将軍となり、征虜将軍を加えられ、後に勃海郡の試守を命ぜられた。熙平年間(516-518)、潁川太守に拝された。神龜初年(518)、右将軍・豳州刺史に任ぜられた。中央に入って平東将軍・光禄大夫となった。正光五年(524)、豳州の民が反乱を起こし、隴の賊を招き寄せて州城を攻め迫った。祖暉が以前在州の日に民情を得て和合していたため、再び平西将軍・豳州刺史を授けられ、安西将軍を仮とし、別将としてこれを討伐することとなった。祖暉は戦いながら前進し、包囲を突破して治所に入った。孝昌初年(525)、北海王元顥の救援が到着し、城の包囲はようやく解けた。城を全うした功績により、新昌県開国子に封ぜられ、食邑四百戸を賜った。後に蕭宝夤が敗退した際、祖暉は城を抜け出して東へ華州に向かったが、これにより官爵を免ぜられた。まもなく征虜将軍を仮とし、豳州の事務を行った。建義年間(528)、詔により州の官職と爵位を回復し、撫軍将軍を加えられた。永安年間(528-530)、祖暉は大嶺柵より州城奪還を図った。時に賊帥の叱干騏驎が太子壁を守っていたが、祖暉はこれを撃破した。しかし賊の宿勤明達が再び祖暉を攻撃し、祖暉は兵が少なく食糧も尽き、軍の援けも来ず、賊の攻撃を受け、ついに戦死した。時に五十歳であった。
長子の義勰は、爵位を襲った。武定年間(543-550)、開府中郎となった。斉が禅譲を受けると、爵位は例によって降格された。
義勰の弟義雲は、尚書騎兵郎中となった。
祖帰は、官は建寧太守に至った。
子の義遠は、武定年間(543-550)、平原太守となった。
義遠の弟義顕・義儁は、性格はいずれも豪放で率直であった。天平年間以後、蕭衍の使者が往来し、兗城を通過する際、前後の州将は義儁兄弟が魚料理の調理に巧みで、器物が鮮やかで華美であるため、常に長史を兼ねさせて賓客を接待・饗応させた。義顕は、左将軍・太中大夫となった。義儁は、 司空 主簿・兗州別駕を歴任して死去した。
祖旋は、太尉行参軍・鎮遠将軍となった。死去すると、都官尚書・斉兗二州刺史を追贈された。
子の義真は、太尉行参軍となった。
衆敬の弟衆愛は、兄に従って帰国した。功績により第一客とされ、爵位鉅平侯を賜った。死去すると、冠軍将軍・徐州刺史を追贈され、諡を康といった。
子の聞慰は、字を子安といい、器量と才幹があった。爵位を襲い、例によって伯に降格された。泰山太守に拝され、中央に入って尚書郎・本州中正となり、威遠将軍を加えられた。出向して徐州平東府長史となり、彭城内史を帯びた。永平年間(508-512)、中散大夫に遷り、龍驤将軍を加えられた。延昌初年(512)、清河内史に任ぜられたが、病気を理由に辞退し、再び龍驤将軍・中散大夫となった。また広平内史の試守を命ぜられた。正光初年(520)、相州刺史・中山王元熙が兵を起こして元叉誅殺を謀ると、聞慰はその使者を斬り、兵を発してこれを拒んだ。在任中は寛容で謹厳であり、民衆は彼を敬愛し親しんだ。後に元叉は聞慰が自分に忠実であるとして、持節・平東将軍・滄州刺史に昇進させ、政績は大いにあった。後に本軍の官職より 散騎常侍 ・東道行臺に任ぜられ、まもなく 都督 ・安楽王元鑑の軍司となった。孝昌元年(525)春、徐州刺史元法僧が反乱を起こすと、聞慰は元鑑と共にこれを攻撃したが、法僧に敗れて京師に逃げ帰った。弾劾を受けたが、赦令に遇って免罪された。その年に死去、五十七歳。 散騎常侍 ・安東将軍・兗州刺史を追贈され、伯の爵位は元のままとされ、諡を恭といった。
子の祖彥は、字を脩賢といった。書物や伝記に広く通じ、風度は優雅で、当時に知られた。侍御史として元法僧の監軍となった。法僧が反乱を起こすと、祖彥は南行を強要され、永安年間(528-530)にようやく帰還できた。中書侍郎を歴任し、爵位鉅平伯を襲い、中軍将軍・光禄大夫となった。天平四年(537)に死去、五十歳。 都督 兗済二州諸軍事・征東将軍・尚書左僕射・兗州刺史を追贈された。
祖彥の弟の哲は、永安末年(530)、秘書郎となった。
畢氏一族は朝廷に仕え、栄華と貴顕に事欠かなかったが、家庭内の風儀が整わず、当時の人々に軽蔑された。
申纂という者は、もと魏郡の人で、申鍾の曾孫である。皇始初年(396)、太祖が中山を平定すると、纂の一族は南へ逃れ、済陰に住んだ。無塩におった時、劉彧に用いられて兗州刺史となった。顕祖(献文帝)は言った、「申纂は機を見る目もなく、また力を量ることもせず、進んで 正朔 に帰順することもできず、退いて江南に戻ることもできず、危亡の地に孤城を守って、功を立て節を立てようとするなど、どうしてできようか」。纂が敗れた後、子の景義が国(北魏)に入り、太和年間(477-499)、散員士・宋王劉昶の国侍郎となった。景明初年(500)、済陰郡の試守・揚州車騎府録事参軍・右司馬を命ぜられた。
常珍奇は汝南の人である。劉駿に仕えて司州刺史となり、薛安都らと共に劉子勛を推戴した。子勛が敗れると、使者を馳せて長社鎮に降伏を請い、顕祖は殿中尚書元石を都將として軍を派遣した。中書博士鄭羲が元石の軍事に参与し、上蔡に進むと、珍奇は文武の官を率いて出迎え、鄭羲は元石に直ちに城に入るよう進言した(詳細は鄭羲伝にある)。事態が収まると、珍奇は持節・平南将軍・ 豫 州刺史・河内公に任じられた。珍奇は上表して言う、「臣はかつて劉氏の恩恵を受け、義に感じて身命を顧みず、報いんと志し、雍州刺史袁顗・ 豫 州刺史殷琰らと共に大義を唱え、子勛を奉戴してその統緒を継承した。しかし運が至らず、ついに崩壊した。劉彧は天を覆すほどに暴虐で、主君を殺し帝位を 簒 奪し、民衆は困窮し、危機は垂れ飾りの玉のようである。陛下は龍姿鳳儀で、威光は四方に及び、すべての民衆は宮門を仰ぎ望んでいる。願わくは天地が仁を垂れ、速やかに南方を図り、文書を発して吉凶を説き示されよ。そうすれば江東の地は離反して草が靡くが如く、荊雍の九州は北面して官吏を請うであろう。臣の官位を高め、さらに雄将を派遣し、馬五千頭に秣を与え、臣の征討を助け、威儀を賜って江外を震動させられよ。長江以北は必ず平定できよう。臣は武勇に優れないが、先鋒を務めさせていただき、進軍占拠の適宜は、さらに処分を仰ぐ。愚直な思いを冒して申し上げる。誠意を推して上聞に達し、機運に乗ずるは、まさに今日である」。
珍奇は虚偽の上表をしたが、誠意は純粋ではなかった。一年余り後、その子の超を召還したが、超の母の胡氏は超が京師に行くのを望まず、密かに南方への反逆を企てた。当時、汝州・徐州は未平定で、元石は自ら出撃してこれを攻めた。珍奇は虚に乗じて懸瓠で反乱を起こし、城の東門を焼き、三百余人を斬り、上蔡・安城・平輿の三県の住民を掠奪し、灌水に駐屯した。元石は急行して討伐し、大破した。日が暮れたので、火を放ってその陣営を焼き、珍奇は単騎で逃れて難を免れた。その子の超は苦城に逃げたが、人に殺された。末子の沙弥は捕らえられて京師に送られ、宮刑に処せられて宦官となった。
沈文秀
沈文秀は字を仲遠といい、呉興郡武康県の人である。伯父の慶之は、劉駿の 司空 公であった。文秀は初め郡主簿となり、次第に昇進して建威将軍・青州刺史となった。
和平六年(465年)、劉子業がその叔父の劉彧に殺されると、文秀は諸州と共に劉子勛を推戴した。子勛が敗れると、皇興初年(467年)、文秀は崔道固と共に州を挙げて降伏し、援軍の派遣を請うた。顕祖は平東将軍長孫陵らに騎兵を率いて赴かせた。ちょうど劉彧が文秀の弟の文炳を派遣して説得に来たため、文秀は再び劉彧に帰順し、劉彧は文秀を輔国将軍・刺史(前同様)に任じた。
後に慕容白曜が升城を陥落させると、軍を歴下に向け、白曜はさらに長孫陵らに万余人を率いて東陽まで長駆させた。文秀は降伏しようとしたが、兵士が掠奪を行ったため、後悔の心を起こし、城を守って堅く防いだ。長孫陵は軍を清水の西に駐屯させた。白曜が歴城を落とすと、大軍を率いて合力して攻撃し、幾重にも包囲し、夏から春にかけてようやく陥落させた。文秀は持っていた節を取り、衣冠を整え、斎室の中に端座していた。乱入した兵士が「文秀はどこだ」と問うと、文秀は声を厲して「これである」と言った。捕らえられて裸にされ、白曜のもとに送られた。左右の者が拝礼を命じると、文秀は「それぞれ二国の大臣である。互いに拝礼する礼はない」と言った。白曜は憤り、ついには殴打した。後に衣服を返し、食事を設けたが、長史の房天楽・司馬の沈嵩らと鎖でつながれて京師に送られた。縛られたまま数々の罪を責められたが、死罪を赦され、下客として扱われ、粗末な衣服と質素な食事を与えられた。
顕祖はその節義を重んじ、次第に礼遇を加え、外都下大夫に任じた。太和三年(479年)、外都大官に転じた。高祖(孝文帝)は文秀がその国に忠義であったことを賞賛し、絹・綵二百匹を賜った。後に南征都將となり、出発に際して軍服を賜った。まもなく持節・平南将軍・懐州刺史を拝命し、仮に呉郡公となった。当時、河南は豊かで、人々は贈り物を好んだが、文秀は一切受け取らず、終始清貧を守った。しかし政治は寛大で緩やかであり、盗賊を禁止できなかった。一方で大規模に水田を開墾し、公私ともに利益をもたらした。州に数年いて、六十一歳で死去した。
子の保沖は、太和年間に奉朝請・大将軍宋王の外兵参軍となり、後に南徐州冠軍長史となった。二十一年(497年)、漣口の救援に失敗して退却した罪で、官吏が死刑を処断した。高祖は詔して「保沖は文秀の子である。特に命を赦し、洛陽の作部に終身配属せよ」と言った。まもなく赦免された。世宗(宣武帝)の時、下邳太守の任で死去した。
房天楽は清河の人で、滑稽で知恵が多かった。以前は青州別駕であり、文秀に抜擢されて長史となり、斉郡を監督し、州府の事務はすべて彼に委ねられた。京師で死去した。
弟の子の嘉慶は、漁陽太守となった。
嘉慶の従弟の瑚璉は、長広太守となった。
文秀の族子の沈嵩は、聡明で文筆に優れていた。文秀は彼を司馬とし、非常に重用した。文秀に従って懐州に至った。文秀の死後、宋王劉昶に寄寓した。劉昶は彼を礼遇せず、憂い・恥・飢え・寒さのうちに、まもなく死去した。
文秀の族子の沈陵は、字を道通という。太和十八年(494年)、高祖が南征すると、陵は族孫の智度を連れて帰降し、行宮で引見された。陵は容姿が立派で、弁舌が流暢であったため、高祖はこれを奇異とし、王肅に次ぐ礼遇を与え、前軍将軍に任じた。後に南徐州諸軍事・中壘将軍・南徐州刺史を監し、まもなく仮節・龍驤将軍となった。二十二年(498年)秋、持節・冠軍将軍に進んだ。高祖が 崩御 すると、陵は密かに反逆の心を抱き、長史の趙儼が朝廷に密告したが、 尚書令 の王肅が強く彼を保証し、趙儼を厳しく責めた。まもなく果たして反乱を起こし、数十人を殺し、城中の男女百余口を駆り立てて掠奪し、夜に南へ逃走した。智度は彭城でこれを知り、清水中から単舸で陵のもとに奔ったが、下邳の戍兵に射殺された。
張讜
張讜は字を処言といい、清河郡東武城県の人である。六世祖の名は顕祖の 諱 に触れる(詳細不明)。晋の長秋卿であった。父の張華は、慕容超の左僕射となった。張讜は劉駿に仕え、給事中・泰山太守・青冀二州輔国府長史を歴任し、魏郡太守を兼ねた。劉彧が即位すると、遙任で冠軍将軍・東徐州刺史に任じられた。
徐兗の地が平定されると、張讜は尉元に帰順した。尉元もまた上表して冠軍将軍・東徐州刺史に任じ、中書侍郎高閭を派遣して張讜と対等の刺史とした。後に京師に至り、礼遇は薛安都・畢眾敬に次ぎ、勲功により平陸侯の爵位を賜り、平遠将軍を加えられた。
張讜の性格は開放的で、撫恤に篤く、青斉の人士は、疎遠な族や遠縁の姻戚であっても、皆互いに敬い遇した。李敷・李訢ら寵遇された権勢家も、その誠意を推し量って款待し、顧慮や遠慮はなかった。畢眾敬らも皆彼を敬重し、高允の徒もまた器量をもって遇した。延興四年に卒去した。平南将軍・青州刺史を追贈され、諡は康侯といった。子の敬伯は、父の喪を冀州清河の旧墓に出して葬ることを求めたが、長く許されず、柩を家に停めて五六年を経た。第四子の敬叔は、先に徐州におり、初めて父の喪を聞いた時、奔赴しようとせず、かえって南朝への叛離を企てたが、徐州によって拘束されて送られた。至って自ら道理を弁じ、後に父の爵位を襲うことを得た。
敬伯は、自ら父に従って帰国した功績により、昌安侯の爵位を賜り、楽陵太守として出向した。
敬叔は、武邑太守となった。父の喪は旧墓に葬られることを得て、清河に帰属した。
初め、張讜には兄弟十人がいた。兄の忠は字を処順といい、南朝において合郷県令となった。世祖(太武帝)が南征した時、忠は帰降し、新昌男の爵位を賜り、新興太守に任じられ、任中に卒去した。冀州刺史を追贈された。
初め、張讜の妻皇甫氏が略奪され、宮中の婢として賜わったが、皇甫氏はそこで癡を装い、髪を梳らず顔を洗わなかった。後に張讜が劉駿(宋の孝武帝)の冀州長史となった時、千余匹の財貨を用いて皇甫氏を購い求めた。高宗(文成帝)はその納めた財貨の多さを怪しみ、引見した。その時皇甫氏は年齢六十に近かった。高宗は言った、「南人は奇妙な嗜好で、よく室家の義を重んじる。この老母がまた何の役に立つというのか、かくも費用をかけるとは」。皇甫氏が帰ると、張讜は諸妾に命じて境上で奉迎させた。数年後に卒去し、卒去して十年後に張讜は国(北魏)に入った。
張讜の兄の子安世は、正始年間に、梁漢の地で夏侯道遷と共に帰順した。客として数年を過ごし、東河間太守として出向し、任中に卒去した。
元茂は、信都県令となり、冀州治中に遷った。
元茂の弟の子の譲は、洛州安西府長史・都水使者となった。
田益宗
田益宗は、光城の蛮である。身長八尺、雄壮果断で将略があり、容貌挙止は普通の蛮と異なっていた。代々四山の蛮帥を務め、蕭賾(南斉の武帝)に制せられていた。太和十七年、使者張超を遣わして上表し帰順した。十九年、員外 散騎常侍 ・ 都督 光城弋陽汝南新蔡宋安五郡諸軍事・冠軍将軍・南司州刺史に任じられ、光城県開国伯に封じられ、蛮邑一千戸を食んだ。統轄する守宰は、その銓衡任用に任せられた。後に益宗が既に淮北を渡ったため、司州とすべきでないとして、新蔡に東 豫 州を立て、益宗を刺史とした。まもなく安昌県伯に改封され、実邑五百戸を食んだ。二十二年、征虜将軍の号に進んだ。
景明初年、蕭衍(梁の武帝)が軍主呉子陽に命じて衆を率い三関を寇掠させた。益宗は光城太守梅興之に歩騎四千を率いさせ、陰山関の南八十余里に進軍し、長風城を占拠して子陽を迎撃し、大破して千余級を斬獲した。蕭衍の建寧太守黄天賜が赤亭に城を築き、またその将黄公賞を漴城に屯させ、長風と対峙した。益宗は安蛮太守梅景秀に命じてこれに掎角の勢いで撃討させ、天賜らを破り、数百を斬首し、その二城を獲た。上表して言った、「臣は聞く、機の在る所は聖賢もこれを疑わず、弱きを兼ね昧きを攻むるは前王もこれを捨てず、と。皆、群生を湯炭より救い、武功を方来に盛んにするためである。然れども霜葉将に淪れんとする時は、勁飈なくしてはその籜を速めること能わず。天の棄つる所は、手を仮らずしてはその人を殲すること能わず。窃かに惟うに、蕭衍は常を乱し、君臣交争し、江外の州鎮は中分されて両つとなり、東西抗峙して既に歳時を淹びたり。民庶は転輸に窮し、甲兵は戦闘に疲れ、事は目前に救い、力は麾下に尽きたり。外維の州鎮を顧みる暇なく、綱紀は庶方に及び、藩城は棊の如く立ち、孤存するのみ。機に乗じて電掃し、彼の蛮疆を廓清せずんば、恐らく後の経略、此れに易きは未だあらん。且つ寿春は平らぐと雖も、三面仍って梗り、鎮守の宜しきは、実に 豫 め設くるを須う。義陽は淮源に差し近く、津要に利して渉り、朝廷行師は必ず此の道よりす。若し江南一たび平らげば、淮外に事有らんには、須らく夏水の汎長に乗じ、舟を長淮に列ねるべし。師を寿春に赴かせんには、須らく義陽の北よりすべく、是れ即ち我が喉要に居り、慮りに在りて弥深し。義陽の滅ぶは、今実に時なり。彼の衆を度るに、須らく精卒一万二千を過ぎず。然れども行師の法は、形勢を張るを貴ぶ。請う、両荊の衆をして西は随雍に擬せしめ、揚州の卒を建安に頓せしめ、以て三関の援を捍がしめん。然る後に二 豫 の軍をして直ちに南関を拠り、延頭に対抗せしめん。一 都督 を遣わして諸軍を総べ節度せしめ、季冬に師を進め、春末に迄らしめば、十旬を過ぎず、必ず之を克たん」。
世宗(宣武帝)はこれを容れ、鎮南将軍元英を遣わして義陽を攻撃させた。益宗はその息子魯生に歩騎八千を率いさせ、賊の糧運を断ち、併せてその鈞城の積聚を焼いた。蕭衍の戍主趙文挙が衆を率いて拒戦したが、魯生はこれを破り、文挙及び小将胡建興・古皓・莊元仲らを捕え、五千余級を斬り、千五百人を溺死させ、倉米運舟は焼き尽くされた。後に賊の寧朔将軍楊僧遠が衆二千を率い、蒙籠に寇逼した。益宗は魯生と戍主奇道顕に命じて迎撃してこれを破り、十里を追奔し、千余を俘斬した。平南将軍の号に進んだ。また詔して益宗にその部曲及び州鎮の文武を率いさせ、仮節・征虜将軍・太僕少卿宇文福と共に蛮楚を綏防させ、安南将軍を加え、封邑を百戸増やし、帛二千匹を賜った。
白早生が 豫 州で反乱を起こすと、益宗に詔して言った、「懸瓠は要藩にして、密かに嵩潁に邇き、南疆の重鎮、寄する所軽からず。而るに群小猖狂、忽ち釁逆を構え、鎮主を殺害し、規して反叛を成さんとす。此れを忍びば、孰れか容るべからざらん。即ち尚書邢巒を遣わし精騎五万を総べ、星馳電駆せしめ、征南将軍・中山王英に馬歩七万を統率せしめ、絡繹として継発せしむ。量るに此の蟻寇は唯だ逃奔すべきのみ。将軍の志、犲狼を翦ぎ以て辺境を清めんとするを知り、節義慷慨、良に嘉す可し。蹇蹇の至らざれば、何を以て能く爾くの如くせん。深く誠款を戢め、方に相委託せんとす。故に中書舎人趙文相を遣わし、具に朕が懐を宣べしむ。往還の規は、口を別ちて指授す。便ち善く算略を尽くし、宜しきに随い追掩し、此の豎をして竄逸する有らしむるなかれ。清蕩に近く遅れば、更に別旨有らん」。当時、楽口より南は、郢 豫 二州の諸城皆賊に没し、唯だ義陽のみが残っていた。蕭衍は益宗を招くに車騎大将軍・開府儀同三司・五千戸郡公をもってした。当時の安危は益宗の去就に在ったが、益宗は節を守って動かなかった。郢 豫 が平定されたのは、益宗の力によるものであった。
益宗は年齢が次第に老衰し、収奪に飽くことを知らず、兵士と民衆はその侵害と騒擾を患いていた。諸子及び孫たちは競って賄賂と財貨を貪り、管内の人々はこれを苦しみ、皆が反乱を企てようと語った。世宗も深くこれを憂慮し、そこで中書舎人劉桃符を派遣して旨を宣べ慰諭させ、これを安んじようとした。桃符が帰還し、益宗の侵掠の状況を啓上した。世宗は彼に詔して言うには、「風聞するところでは、卿の息子魯生が淮南において貪暴を極め、細民を擾乱し、また横暴に梅伏生を殺害したという。このままでは止まず、卿の誠実な功績を損なうであろう。魯生を使者とともに朝廷に赴かせよ。任官して用いるであろう。もし外任を望むならば、すぐに中畿の一郡を授けよう」と。魯生は久しく到着しなかった。延昌年間、詔して言うには、「益宗は先朝の耆艾であり、辺境に服勤してきた。その地のために人を必要とし、長く屈辱を与えることはできない。使持節・鎮東将軍・済州刺史とし、常侍は従前の通りとする」と。世宗は彼が交代を受け入れないことを慮り、後将軍李世哲と桃符に兵を率いて襲撃させ、不意を突いて広陵に突入した。益宗の子魯生・魯賢らは関南に奔り、賊兵を招き寄せ、諸々の戍を襲い逐い、光城以南はすべて賊の占拠するところとなった。世哲は討伐してこれを撃破し、再び郡戍を設置し、益宗を帰還させた。征南将軍・金紫光禄大夫を授け、 散騎常侍 を加え、曲陽県開国伯に改封した。
益宗は辺境の地で成長し、内陸の栄達を願わず、たとえ位階が崇高で重くとも、なおこれを恨みとし、上表して言うには、「臣はかつて南方にあり、皇化を仰ぎ食み、部曲三千余家を擁率し、あの辺境の栄華を棄て、楽土に帰投しました。兄弟は塗炭の苦しみを味わい、賊朝に隙を結びました。高祖孝文皇帝は臣の誠心を記録され、藩任を授けられました。まさに国威を仰ぎ憑り、冤罪と恥辱を雪ごうと望んでいたところ、どうして寵愛に背き仇敵に向かい、危険に就いて命を危うくすることができましょうか。かつて郢州・ 豫 州が紛擾した際、臣はみずから義兵を率い、賊の通路を遮断し、ひそかに誠心を以て朝廷と民間に仰ぎ簡抜されると考えました。しかし重任を担い辺境に拠ることは、容易に誹謗を招き、桃符が横暴に讒言と誹毀を加え、臣が常に南方に投じようとしていると説き、暴乱は一つではないと申し立てるに至りました。どうか事実を検証し、何を以て証拠とするのかお尋ねください。また番兵を虐害し、殺害・売却が過半に及ぶと申しておりますが、もしその言う通りなら、死傷・行方不明の家が訴訟を起こすのはいくつあるのでしょうか。さらに官の粟帛を消耗し、倉庫が傾き尽きると申しております。御史が再検査しましたが、少しも損耗・欠損はありませんでした。交代の初日、二子の魯生・魯賢、従子の超秀らは皆城中におり、安らかで異変はなかったのに、桃符は密かに積射将軍鹿永固に私的に甲士を率いさせ、息子の魯生を殴打し、かろうじて命を存することができました。声高に『私は面して勅命を受けた。もし魯生・魯賢の首級を得る者がいれば、それぞれ本郡を賞与する』と唱えました。士馬が囲み繞らし、城に登って殺害を叫び、二息は戦慄し恐怖したのは、実にこれが原因です。残された家業は破壊され、生計は蕩然としてしまいました。さらに墳墓を毀ち発き、枯れた骸骨を露わに曝しました。生きている者は生別の苦しみに罹り、亡き魂は粉骨の痛みに遭いました。かつて朝廷は頻繁に桃符を派遣して幾度も慰労を加えましたが、桃符は凶悪で姦しく、擅に禍福を生じさせ、『ただ私が取り成すことで、恩旨が降るのだ』と申しました。そして京師に戻ると、再び朝廷を欺き、臣父子には全く忠誠がなく、貞良を誣陷し、朝廷の視聴を惑わし乱したと申し立てました。どうか桃符を拘引し、臣とともに対決させてください。もし臣に罪状があれば、分かって法網に従います。もし桃符が誤りであれば、罪は当然帰すべきところに帰すべきです」と。詔して言うには、「既に大赦を経ている。方々で更に獄を起こすことは許されない」と。
熙平初年、益宗はまた上表して東 豫 州を乞い、二子を招こうとした。霊太后は令して言うには、「卿の誠実は二朝に著しく、勲功は南方で光り、万里を藩屏とし、列土して家を承けている。前朝からの恩恵は、報酬と叙任が浅からぬ。兼ねて子弟は栄誉を荷い、中表は恩沢を被っている。軽重を相□することは、卿の知るところである。先帝は卿が労苦を積んだ旧臣であるため、州が小さく禄が薄いとして、故に華やかな地域に牧を遷し、爰に顕かな位階に登らせた。当時、番兵は交代し、猜疑を生じなかったが、卿の息子魯賢らは事もなく外叛し、忠孝ともに背き、翻って戎首となった。卿の誠実が重んじられるため、再び計算しなかった。今、征南を臥して護り、金紫を以て栄誉を与え、朝廷の処遇は、また先よりも甚だしい。かつ卿は年老いて、まさに閑養に就こうとしている。どうして本州を念頭に置くことができようか。魯賢が来るか否かは、自ら赴くのを待つまでもなく、ただ慰撫して受け入れる使者を派遣すれば、十分に明らかになるであろう。もし確かに使者を派遣するなら、改めて啓上して聞かせ、別に東 豫 州に勅して、卿が魯賢を諭し曉かすことを聴許させよう」と。二年に卒去、七十三歳。征東大将軍・郢州刺史を追贈し、諡して莊と言う。
少子の纂は、封を襲いだ。位は征虜将軍・中散大夫に至った。卒去し、左将軍・東 豫 州刺史を追贈された。
益宗の長子随興は、冠軍将軍・平原太守であった。随興は情実で辺境の官職を貪り、内陸を望まず、弋陽・汝南二郡太守に改めて任命された。
益宗の兄興祖は、太和末年、また来朝して帰附した。景明年間、仮の郢州刺史となった。義陽に郢州が設置されると、征虜将軍・江州刺史に改めて任命され、詔によって朝服・剣舄一具を賜り、麻城を治めた。興祖が卒去すると、益宗は随興を代わりに立てるよう請うたが、世宗は許さず、廃止して東 豫 州に併合した。
初め、益州が内附した後、蕭鸞は寧州刺史董巒を派遣してこれを追討させた。官軍が進撃し、巒とその子景曜を捕らえ、行宮に送った。
巒は、字を仲舒といい、営陽の人である。真君末年、父に従って南方に叛いた。江外で成長したとはいえ、言語と風気はなお華夏と同じであった。性質は武に疎く、文字を多く識らなかった。高祖は庭で巒を引見し、南方の事情を問うたが、巒は怖れて答えられず、幾度も景曜を顧みた。景曜が進み出て父に代わって答え、蕭鸞が帝位を 簒 奪襲撃した始終を述べ、言辞と道理が横溢し、言うことは非であるが弁舌さわやかであったので、高祖はこれを異とした。巒を越騎 校尉 とし、景曜を員外郎とした。南方に叛こうと謀り、罪に坐して朔州に徙された。車駕が漢陽を南討するに及び、巒を召して従軍させた。景曜が洛陽に至り、密かにその父が必ず奔叛すると啓上した。軍が魯陽に駐屯した時、巒は単騎で南方に逃走し、南陽・新野を過ぎ、二城に歴訪して魏軍がまさに到来することを告げ、防備を戒めた。房伯玉・劉忌はともに足りるものは慮るに足りないと言った。巒は言うには、「そうではない。軍勢は甚だ盛んである」と。境首に至り、北に向かって泣き叫び景曜に言うには、「我が百口の家族は彼の地にいる。事理として還らなければならず、汝一子を顧みることはできない」と。景曜は鎖で縛られ行在所に連行され、罪状を数え上げられて斬られた。
また陳伯之という者がいた。下邳の人である。勇力を以て自ら効力し、江南に仕え、鎮南大将軍・江州刺史・豊城県開国公となった。景明三年、伯之は使者を派遣して密かに降伏を請う表を奉り、併せてその子の冠軍将軍・徐州刺史・永昌県開国侯虎牙を人質として派遣した。四年、伯之を持節・ 都督 江郢二州諸軍事・平南将軍・江州刺史・曲江県開国公とし、邑一千戸を賜う。虎牙を冠軍将軍・員外 散騎常侍 ・ 豫 寧県開国伯とし、邑五百戸を賜うた。正始初年、蕭衍の征虜将軍趙祖悦が水東に城を築き、潁川と対峙し、兵数千を置き、攻討の基盤としようとした。伯之は進軍して祖悦を討ち、これを大破し、勝ちに乗じて長駆して城に入り、祖悦に三つの創傷を刺し、賊衆は大敗した。進んで南城を討ち、賊の諸部を破り、数千を斬り捕らえた。二年の夏、伯之を光禄大夫に任じ、虎牙は前軍将軍に遷った。
孟表
孟表は、字を武達といい、済北蛇丘の人である。自ら云うには、本来北地に属し、索里諸孟と号した。青州・徐州が内属した後、表は事に因って南渡し、蕭鸞に仕えて馬頭太守となった。
太和十八年(494年)、孟表は郡を拠点として帰順し、輔国将軍・南兖州刺史に任ぜられ、馬頭太守を兼ね、譙県侯の爵位を賜り、渦陽に駐屯した。後に蕭鸞がその 豫 州刺史裴叔業を派遣して六十余日にわたり攻囲したが、城中の食糧は尽き、ただ朽ちた革や草木の皮葉を糧とした。孟表は将士を慰撫し、力を合わせて固守した。折しも鎮南将軍王肅が義陽の包囲を解き、帰還して救援したため、叔業は退却した。初め、一人の南方人が、姓は辺、字は叔珍と名乗り、妻子を連れて寿春から孟表のもとに身を寄せ、教化を慕い帰国したと言った。朝廷に送り届ける前に、叔業の城包囲に遭遇した。孟表は後に叔珍の言葉と顔色を観察し、甚だ異変を疑い、ただちに推問したところ、実は叔業の姑の子であり、叔業に派遣されて内応を図る者であり、連れていた妻子もまた偽りであることが分かった。孟表は叔珍を北門外に引き出して斬り、これにより人心はようやく安まった。
高祖(孝文帝)はその誠実な功績を嘉し、汶陽県開国伯に封じ、邑五百戸を賜った。征虜将軍・済州刺史に転じ、 散騎常侍 ・光禄大夫となり、平西将軍の号を進めた。世宗(宣武帝)の末年、平東将軍・齊州刺史に降格した。延昌四年(515年)に卒去、八十一歳。安東将軍・兗州刺史を追贈され、諡を恭といった。
子の孟崇は爵位を継いだ。官は昌黎・済北二郡太守に至った。
【評】
史臣が曰く、薛安都は一介の武夫に過ぎないが、去就を軽んじたとはいえ、実に東南の端緒を開いた。事態が窮して変を図り、ついに寵愛と官位を保ったのは、優れたものである。真度の一つの謀略は、明主に賞賛された。衆敬は土地を挙げて誠意を示し、朝廷で栄光を輝かせ、人と位は並び列し、時に欠けることはなかった。文秀は節を曲げず、死節の気概があり、ただ自身が嘉礼を蒙ったのみならず、子も刑戮を免れた。我が方にあっては彼に人を罵らせたいと思うが、忠義は努めざるを得ない。張讜は機を見て身を委ね、流離の民を篤く恤れ、これも仁智である。田益宗は蛮夷の荒れた将帥であり、翻然として誠意を効し、終には金印を懐に紫綬を曳くに至った、美しいことではないか。孟表が名位を得たのは、徒然ではなかった。
校勘記