魏書

卷61 薛安都 畢衆敬 沈文秀 張讜 田益宗 孟表

卷61 薛安都 畢衆敬 沈文秀 張讜 田益宗 孟表

薛安都

原文薛安都

薛安都、字は休達、河東郡汾陰県の人である。父の広は、司馬徳宗(東晋安帝)の上党太守であった。安都は若い頃より驍勇で、騎射に長け、軽佻な侠客を多く集めたため、諸兄はこれを憂慮した。安都は自ら別れて暮らすことを願い出て、一片の資産も取らず、兄がこれを許したので、別の厩舎に住んだ。遠近の交遊者は競って贈り物を送り、馬・牛・衣服・雑物がその庭に満ちた。真君五年(444年)、東雍州刺史の沮渠秉と謀反を企てたが、事が発覚し、劉義隆(宋の文帝)のもとに奔った。後に盧氏から弘農に侵入し、太守の李抜らを捕らえ、ついに陝城を脅かした。時に秦州刺史の杜道生が安都を討伐した。安都は李抜らを捕らえたまま南方へ逃れ、世祖(太武帝)が長江に臨んだ時、李抜はようやく帰還できた。

原文薛安都,字休達,河東汾陰人也。父廣,司馬德宗上黨太守。安都少驍勇,善騎射,頗結輕俠,諸兄患之。安都乃求以一身分出,不取片資,兄許之,居於別廐。遠近交遊者爭有送遺,馬牛衣服什物充牣其庭。真君五年,與東雍州刺史沮渠秉謀逆,事發,奔於劉義隆。後自盧氏入寇弘農,執太守李拔等,遂逼陝城。時秦州刺史杜道生討安都。仍執拔等南遁,及世祖臨江,拔乃得還。

安都は南方において、武力によって任用され、劉駿(宋の孝武帝)が江州で挙兵すると、これに将として仕え、左衛率の位に至った。劉昶が帰降すると、子業(前廃帝)は安都を平北将軍・徐州刺史とし、彭城に鎮守させた。和平六年(465年)、劉彧(明帝)がその主君である子業を殺して自立すると、衆情はこれに協せず、共に子業の弟である晋安王の子勛を立てた。安都は沈文秀・崔道固・常珍奇らとともに兵を挙げてこれに応じた。劉彧は将軍の張永を派遣して安都を討伐させた。安都は使者を派遣して降伏を申し出、援軍を請うた。顕祖(献文帝)は群臣を召集してこれを議した。群官は皆言うには、「昔、世祖(太武帝)は常に劉義隆を併呑しようと志し、みずから六軍を統率して遠く長江のほとりに臨まれました。今、江南は乱れ阻まれ、内外離心しています。安都が今降伏を求めるのは、千載一遇の機会であり、事の機微は得難く、時は再び訪れません。乱れる国を取って亡びる国を侮るは、まさにこの時にあります」と。顕祖はこれを容れた。安都はまた第四子の道次を人質として送り、李敷らに書簡を送り、使者が相次いだ。そこで鎮東大将軍・博陵公の尉元、城陽公の孔伯恭らに騎兵一万を率いさせて赴かせた。安都を使持節・散騎常侍・都督徐南北兗青冀五州豫州之梁郡諸軍事・鎮南大将軍・徐州刺史に拝し、河東公の爵を賜った。

原文安都在南,以武力見敍,值劉駿起江州,遂以為將,位至左衞率。劉昶歸降,子業以安都為平北將軍、徐州刺史,鎮彭城。和平六年,劉彧殺其主子業而自立,羣情不協,共立子業弟晉安王子勛,安都與沈文秀、崔道固、常珍奇等舉兵應之。彧遣將張永討安都,安都遣使來降,請兵救援。顯祖召羣臣議之,羣官咸曰:「昔世祖常有并義隆之心,故親御六軍,遠臨江浦。今江南阻亂,內外離心,安都今者求降,千載一會,機事難遇,時不可逢,取亂侮亡,於是乎在。」顯祖納之。安都又遣第四子道次為質,并與李敷等書,絡繹相繼。乃遣鎮東大將軍、博陵公尉元,城陽公孔伯恭等率騎一萬赴之。拜安都使持節,散騎常侍,都督徐、南、北兗、青、冀五州、豫州之梁郡諸軍事,鎮南大將軍,徐州刺史,賜爵河東公。

安都は事態が窮して帰順したのであるが、尉元らが彭城に入ると、安都は内心後悔し、尉元らを謀ろうと企て、城を挙げて再び叛こうとした。ちょうど尉元がこれを知ったので、ついに発動できなかった。安都は尉元らに多額の賄賂を贈り、罪を女婿の裴祖隆に負わせた。尉元は祖隆を殺し、安都の謀略を隠した。

原文安都以事窘歸國,元等既入彭城,安都乃中悔,謀圖元等,欲還以城叛,會元知之,遂不果發。安都因重貨元等,委罪於女壻裴祖隆,元乃殺祖隆而隱安都謀。

皇興二年(468年)、畢衆敬とともに京師に朝見し、大いに礼遇され重んじられた。子・甥・一族の者たちは皆上客として遇され、皆侯に封ぜられ、門生に至るまで任用されなかった者はなかった。また邸宅を造営して与えられ、館舎は高く麗しく、供給は甚だ厚かった。三年(469年)に卒去した。本将軍・秦州刺史・河東王を追贈され、諡して康といった。

原文皇興二年,與畢眾敬朝于京師,大見禮重,子姪羣從並處上客,皆封侯,至于門生無不收敍焉。又為起第宅,館宇崇麗,資給甚厚。三年卒。贈本將軍、秦州刺史、河東王,諡曰康。

子の道標が爵を襲った。太和(477-499年)の初め、出仕して鎮南将軍・平州刺史となり、治績に名声があった。相州刺史に転じ、将軍の号はもとのまま。また本将軍の号をもって秦州刺史となった。十三年(489年)に卒去。

原文子道標,襲爵。太和初,出為鎮南將軍、平州刺史,治有聲稱。轉相州刺史,將軍如故。復以本將軍為秦州刺史。十三年卒。

子の達、字は宗胤、爵を襲い、例により侯に降格された。五等爵制が開建されると、安都が先朝において顕著な功績があったとして、達を河東郡開国侯に封じ、食邑八百戸を与えた。後に河東が畿内に近いため、華陰県侯に改封された。熙平(516-518年)の初め、奉車都尉に拝され、出仕して漢陽太守となった。達は郡守となることを好まず、詔により解任を聴された。卒去。

原文子達,字宗胤,襲,例降為侯。及開建五等,以安都著勳先朝,封達河東郡開國侯,食邑八百戶。後以河東畿甸,改封華陰縣侯。熙平初,拜奉車都尉,出為漢陽太守。達不樂為郡,詔聽解。卒。

子の承華が爵を襲った。次第に司徒従事中郎・河東邑中正に昇進した。安南将軍・光禄大夫の任上で卒去。

原文子承華,襲爵。稍遷司徒從事中郎、河東邑中正。卒於安南將軍、光祿大夫。

子の羅漢が襲爵した。斉が禅譲を受けると、爵は例により降格された。

原文子羅漢,襲。齊受禪,爵例降。

道標の弟の道異も、功績により第一客となった。早世した。寧西将軍・秦州刺史・安邑侯を追贈された。

原文道標弟道異,亦以勳為第一客。早卒。贈寧西將軍、秦州刺史、安邑侯。

道異の弟の道次。京師に人質となった後、南中郎将・給事中に拝され、安邑侯の爵を賜り、安遠将軍の号を加えられた。出仕して安西将軍・秦州刺史・仮の河南公となった。太和十五年(491年)、光禄大夫となり、卒去。

原文道異弟道次。既質京師,拜南中郎將、給事中,賜爵安邑侯,加安遠將軍。出為安西將軍、秦州刺史、假河南公。太和十五年,為光祿大夫,卒。

子の巒が爵を襲い、平温子に降格された。尚書郎・秦州刺史・鎮遠将軍・隴西鎮将となり、隴西太守を兼ねた。後に滎陽太守となり、平北将軍・肆州刺史に昇進した。在任地ごとに貪欲で穢れた行いがあり、州では一層甚だしかった。司空の劉騰に賄賂を贈って良い官職を求めたが、得られないうちに劉騰が死んだ。正光五年(524年)、莫折念生が秦州で反乱を起こし、その別帥の卜胡・王慶雲らに軍勢を率いさせて涇州を寇掠させた。粛宗(孝明帝)は巒を持節・光禄大夫・仮安南将軍・西道別将とし、伊瓫生らとともにこれを討伐させた。進軍して平涼郡の東に至り、賊と交戦したが、利あらず、巒らは退却した。後に撫軍将軍・汧城大都督となり、北隴を鎮守した。孝昌二年(526年)春、軍中で卒去した。征西大将軍・雍州刺史を追贈され、子爵はもとのまま。

原文子巒,襲爵,降為平溫子。尚書郎、秦州刺史、鎮遠將軍、隴西鎮將,帶隴西太守。後為滎陽太守,遷平北將軍、肆州刺史。所在貪穢,在州彌甚。納賄於司空劉騰,以求美官,未得而騰死。正光五年,莫折念生反於秦州,遣其別帥卜胡、王慶雲等眾寇涇州。肅宗以巒為持節、光祿大夫、假安南將軍、西道別將,與伊瓫生等討之。進及平涼郡東,與賊交戰,不利,巒等退還。後為撫軍將軍、汧城大都督,鎮北隴。孝昌二年春,卒於軍。贈征西大將軍、雍州刺史,子如故。

安都の兄の子の碩明は、安都に従って国(北魏)に入り、蒲坂侯の爵を賜り、清河太守・太中大夫となった。

原文安都兄子碩明,隨安都入國,賜爵蒲坂侯,清河太守、太中大夫。

安都の従祖弟の真度。初め安都とともに南方に奔り、安都が徐州刺史となると、真度はその長史となり、勇気と才幹に富み、その爪牙となった。安都に従って降伏し、上客となった。太和の初め、河北侯の爵を賜り、安遠将軍の号を加えられ、鎮遠将軍・平州刺史・仮の陽平公となった。後に侯から伯に降格され、冠軍将軍に任ぜられた。帝の南征に従い、仮の平南将軍となった。久しくして、護南蛮校尉・平南将軍・荊州刺史に任ぜられた。

原文安都從祖弟真度。初與安都南奔,及安都為徐州,真度為長史,頗有勇幹,為其爪牙。從安都來降,為上客。太和初,賜爵河北侯,加安遠將軍,為鎮遠將軍、平州刺史,假陽平公。後降侯為伯,除冠軍將軍。隨駕南討,假平南將軍。久之,除護南蠻校尉、平南將軍、荊州刺史。

蕭賾(南斉の武帝)の雍州刺史である曹虎が偽って降伏を申し出た時、詔により真度は四将を督いて襄陽から出撃したが、功績なく帰還した。後に赭陽を征討したが、房伯玉に敗れた。有司が官爵を免ずるよう上奏した。高祖(孝文帝)は詔して言うには、「真度の罪は、まことに上奏の通りである。しかし、かつて安都とともに彭城で誠意を示し、徐宋の地を開拓し、外には沈攸之・蕭道成の軍を防ぎ、内には辺境の烏合の衆を鎮め、淮海の地が帰服した功績は、まことにここにある。その功績を思うにつけ、常に賞賛してきた。赭陽での百の敗北など、計るに足らぬ。諸将とは区別し、後の功績を改めて示させるべきである。その元勲たる爵位を還し、再び荊州刺史に任ぜよ。その他の称号は削奪する。これにより進んでは忠誠を顕わし、退いては過失を明らかにせよ」と。まもなく仮節・仮冠軍将軍・東荊州刺史に任ぜられた。

原文蕭賾雍州刺史曹虎之詐降也,詔真度督四將出襄陽,無功而還。後征赭陽,為房伯玉所敗。有司奏免官爵。高祖詔曰:「真度之罪,誠如所奏。但頃與安都送款彭方,開闢徐宋,外捍沈攸、道成之師,內寧邊境烏合之眾,淮海來服,功頗在茲。言念厥績,每用嘉美,赭陽百敗,何足計也。宜異羣將,更申後效。可還其元勳之爵,復除荊州刺史,自餘徽號削奪,進足彰忠,退可明失。」尋除假節、假冠軍將軍、東荊州刺史。

初め、洛陽遷都の後、真度はしばしば高祖に献策し、先ず樊鄧を取るべく、後に南陽を攻めることを勧めたので、高祖に賞せられ、帛百匹を賜り、また持節を加えられ、正号は冠軍とされ、封を改めて臨晉県開国公とされ、食邑三百戸を賜った。詔して曰く、「忠を献げ心を尽くすは、人臣の令節なり。善を標し功を賞するは、国の徽範なり。故に一言以て邦を興すべく、片辞以て国を喪うべし。得て前の謀を遠く録せずんばあるべからず、以て其の善を褒むべし。真度は遷京より此れに至るまで、毎に戎役に在り、沔北の計は、恒に与聞する所なり。知る所を言わざる無く、頗る採用せらる。六師南邁に及び、朕新野を超えて据えんと欲す。群情皆異なりしも、真度独り朕と同ず。蛮を撫で夷を寧んずるは、実に勤績有り。邑二百戸を増すべし」と。転じて征虜将軍・豫州刺史となる。

原文初,遷洛後,真度每獻計於高祖,勸先取樊鄧,後攻南陽,故為高祖所賞,賜帛一百匹,又加持節,正號冠軍,改封臨晉縣開國公,食邑三百戶。詔曰:「獻忠盡心,人臣令節;標善賞功,有國徽範。故一言可以興邦,片辭可以喪國,得無遠錄前謀,以褒厥善。真度爰自遷京,每在戎役,沔北之計,恒所與聞,知無不言,頗見採納。及六師南邁,朕欲超據新野,羣情皆異,真度獨與朕同。撫蠻寧夷,實有勤績,可增邑二百戶。」轉征虜將軍、豫州刺史。

景明の初め、豫州大いに飢う。真度表して曰く、「去歳収穫無く、飢饉十五、今又災雪三尺、民人萎餧し、以て之を済うすべからず。臣輒ち日を別ちて州倉の米五十斛を出だして粥と為し、其の甚だしき者を救う」と。詔して曰く、「真度の表する所は、甚だ百姓を憂い済わすの意有り。宜しく拯卹すべし。陳郡の儲粟復た多くは無しと雖も、亦分かち贍うべし。尚書量り賑い以て聞かしむべし」と。

原文景明初,豫州大飢,真度表曰:「去歲不收,飢饉十五,今又災雪三尺,民人萎餧,無以濟之。臣輒日別出州倉米五十斛為粥,救其甚者。」詔曰:「真度所表,甚有憂濟百姓之意,宜在拯卹。陳郡儲粟雖復不多,亦可分贍。尚書量賑以聞。」

裴叔業が寿春を以て内附するに及び、詔して真度に衆を率いて之に赴かしむ。尋いで華州刺史に遷り、将軍は元の如し。未だ幾ばくもせず、荊州刺史に転じ、仍って本将軍。入りて大司農卿となる。正始の初め、平南将軍・揚州刺史を除かれ、又以て年老いたるを以て、子の懐吉に本官を以て随行することを聴す。蕭衍の豫州刺史王超宗、衆を率いて小峴を囲逼す。真度、兼統軍李叔仁等を遣わし歩騎を率いて之を撃たしむ。超宗、逆に来たり拒戦す。叔仁之を撃破し、三千を俘斬す。還朝し、金紫光禄大夫を除かれ、散騎常侍を加えられ、又封を改めて敷西県とす。永平年中に卒す。年七十四。賻として帛四百匹・朝服一襲を賜い、左光禄大夫を贈られ、常侍は元の如し。諡して曰く荘。子十二人有り。

原文及裴叔業以壽春內附,詔真度率眾赴之。尋遷華州刺史,將軍如故。未幾,轉荊州刺史,仍本將軍。入為大司農卿。正始初,除平南將軍、揚州刺史,又以年老,聽子懷吉以本官隨行。蕭衍豫州刺史王超宗率眾圍逼小峴,真度遣兼統軍李叔仁等率步騎擊之。超宗逆來拒戰,叔仁擊破之,俘斬三千。還朝,除金紫光祿大夫,加散騎常侍,又改封敷西縣。永平中卒,年七十四。賻帛四百匹、朝服一襲,贈左光祿大夫,常侍如故,諡曰莊。有子十二人。

嫡子懐徹、封を襲ぐ。太常丞より、稍く征虜将軍・中散大夫に遷り、又左将軍・太中大夫を除かる。車騎将軍・左光禄大夫にて卒す。

原文嫡子懷徹,襲封。自太常丞,稍遷征虜將軍、中散大夫,又除左將軍、太中大夫。卒於車騎將軍、左光祿大夫。

初め、真度に女妓数十人有り。賓客を集むる毎に、輒ち之に奏せしめ、絲竹歌舞、前を絶たず、声色の適を尽くす。庶長子懐吉、喪に居ること周を過ぎ、父の妓十余人并びに楽器を献ず。世宗之を納る。

原文初,真度有女妓數十人,每集賓客,輒命奏之,絲竹歌舞,不輟於前,盡聲色之適。庶長子懷吉居喪過周,以父妓十餘人并樂器獻之,世宗納焉。

懐吉は、勇を好み膂力有り。書学を善くせざるも、亦世事に解達す。奉朝請より、直後寢を歴任し、太官令を領す。正始の初め、驃騎将軍となり、後恒農郡を試守す。

原文懷吉,好勇有膂力,雖不善書學,亦解達世事。自奉朝請,歷直後寢,領太官令。正始初,為驃騎將軍,後試守恒農郡。

蕭衍、衆を遣わし徐兗に入寇す。安東邢巒之を討つ。詔して懐吉に本任を以て巒の軍司たらしむ。永平の初め、梁州晋寿を分かち益州と為す。征虜将軍・益州刺史を除かる。元愉未だ平らかならざるを以て、中山王英を征東将軍として之を討たしむ。詔して懐吉を英の軍司と為す。発せずして愉平ぐ。蕭衍、将を遣わし郢州の三関を陥落せしむ。詔して英に南討せしめ、懐吉仍って軍司と為る。義陽危急を以て、懐吉に馳驛を以て先ず赴かしむ。時に豫州城民白早生、刺史を殺し、懸瓠を以て蕭衍に入る。衍の将斉苟仁、衆を率いて城を守る。是に於いて懸瓠より南は安陸に至るまで、惟だ義陽一城のみ。懐吉は郢州刺史婁悦と将士を督励し、且つ守り且つ戦い、卒に義陽を全うし、英と三関諸戍を討復す。後、鎮東将軍盧昶、朐山を救い、賊と相持す。詔して懐吉を昶の軍司と為す。昶敗るるに及び、懐吉坐せられず。延昌年中、本将軍を以て梁州刺史を除かる。南秦の氐、反し武興を攻逼す。懐吉、長史崔纂・司馬韋弼・別駕范珦を遣わし之を撃ち平らぐ。号を進めて右将軍と為す。正光の初め、後将軍・汾州刺史を除かる。四年に卒す。平北将軍・并州刺史を贈られる。

原文蕭衍遣眾入寇徐兗,安東邢巒討之,詔懷吉以本任為巒軍司。永平初,分梁州晉壽為益州,除征虜將軍、益州刺史。以元愉未平,中山王英為征東將軍討之,詔懷吉為英軍司,未發而愉平。蕭衍遣將寇陷郢州之三關,詔英南討,懷吉仍為軍司。以義陽危急,令懷吉馳驛先赴。時豫州城民白早生殺刺史,以懸瓠入蕭衍,衍將齊苟仁率眾守城,於是自懸瓠以南至于安陸,惟義陽一城而已。懷吉與郢州刺史婁悅督厲將士,且守且戰,卒全義陽,與英討復三關諸戍。後鎮東將軍盧昶救朐山,與賊相持,詔懷吉為昶軍司。及昶敗,懷吉得不坐。延昌中,以本將軍除梁州刺史。南秦氐反,攻逼武興,懷吉遣長史崔纂、司馬韋弼、別駕范珦擊平之。進號右將軍。正光初,除後將軍、汾州刺史。四年卒。贈平北將軍、并州刺史。

懐吉は元来清節を励まさず、汾州に為りてより、偏に聚納の響有り。自ら支庶を以て、己に勝る者を餌誘し、共に婚姻を為す。多く親戚を携え、悉く同行せしめ、兼ねて之が為に弥縫し、其の取受を恣にす。而して賓客を将労するに、物情を曲く尽くし、送り去り迎え来たり、寒熱を避けず。性寡言にして、接対有る毎に、但だ黙然として退く。既に先期を指授し、人馬の数は、左右密かに已に記録す。俄かに酒饌相尋い、芻粟継ぎ至り、将に別れんとするに逮び、銭縑を以て贈り、下は厮傭に及び、咸く本望を過ぐ。其の貴賤を延納するは此の若し。

原文懷吉本不厲清節,及為汾州,偏有聚納之響。自以支庶,餌誘勝己,共為婚姻。多攜親戚,悉令同行,兼為之彌縫,恣其取受。而將勞賓客,曲盡物情,送去迎來,不避寒熱。性少言,每有接對,但默然而退。既指授先期,人馬之數,左右密已記錄。俄而酒饌相尋,芻粟繼至,逮于將別,贈以錢縑,下及厮傭,咸過本望。其延納貴賤若此。

懐吉の弟懐直、京兆内史・衛大将軍・左光禄大夫。

原文懷吉弟懷直,京兆內史、衞大將軍、左光祿大夫。

懐直の弟懐朴、恒農太守・襄陵男。

原文懷直弟懷朴,恒農太守、襄陵男。

懐朴の弟懐景、征南将軍・河東太守・安定男。卒し、持節・都督北徐兗東徐三州諸軍事・驃騎大将軍・儀同三司・徐州刺史を贈られる。

原文懷朴弟懷景,征南將軍、河東太守、安定男。卒,贈持節、都督北徐兗東徐三州諸軍事、驃騎大將軍、儀同三司、徐州刺史。

懐景の弟懐儁、撫軍将軍・光禄大夫・汾陰男。出でて征南将軍・益州刺史と為る。天平の初め、代わりて還り梁州に至り、刺史元羅と俱に蕭衍の将蘭欽に擒えられ、江南に送られる。衍、懐儁を見て之に謂いて曰く、「卿が父先づ魏の荊州と為りし時、我は時に猶襄陽に在り、且つ州壤連接し、極めて相知練す。卿今此れに至る、当に住まるべけんや。若し還らんと欲せば、亦礼を以て相遣わさん」と。左右を顧みて曰く、「此の家は北に在り、富貴極めて言うべからず」と。懐儁便ち帰るを乞う。衍還国を聴す。興和年中に卒す。

原文懷景弟懷儁,撫軍將軍、光祿大夫、汾陰男。出為征南將軍、益州刺史。天平初,代還至梁州,與刺史元羅俱為蕭衍將蘭欽所擒,送江南。衍見懷儁,謂之曰:「卿父先為魏荊州,我于時猶在襄陽,且州壤連接,極相知練。卿今至此,當能住乎?若欲還者,亦以禮相遣。」顧謂左右曰:「此家在北,富貴極不可言。」懷儁便乞歸,衍聽還國。興和中卒。

子湛儒、襲封。武定年中、司空水曹参軍。斉、禅を受く。爵例に降る。

原文子湛儒,襲。武定中,司空水曹參軍。齊受禪,爵例降。

真度諸子既に多く、其の母一ならず。同産相朋し、因って憎愛有り。興和年中、遂に訴列を致し、毒薬を以て相害すと云い、公府に顕れ、疵釁を発揚す。時人之を耻づ。

原文真度諸子既多,其母非一,同產相朋,因有憎愛。興和中,遂致訴列,云以毒藥相害,顯在公府,發揚疵釁。時人耻焉。

畢衆敬

原文畢眾敬

畢眾敬、小字は捺、東平郡須昌県の人である。若い頃より弓馬を好み狩猟に親しみ、軽佻果敢な者と交わり、常に国境付近で盗み掠奪を業としていた。劉駿が徐兗二州刺史となった時、彼を部従事に辟召した。駿が帝位を簒奪すると、その泰山太守・冗従僕射を歴任した。

原文畢眾敬,小名捺,東平須昌人。少好弓馬射獵,交結輕果,常於疆境盜掠為業。劉駿為徐兗刺史,辟為部從事。駿既竊號,歷其泰山太守、冗從僕射。

劉彧が子業を殺して自立すると、眾敬を遣わして兗州に赴き兵士を募集させた。彭城に到着すると、刺史薛安都が彼を召し密謀を語り、「晋安王(劉子勛)は上流の名声があり、かつ孝武帝の第三子である。卿と共に策を為し西に従おう」と言った。そこで彧の命令を偽り、眾敬に行兗州事をさせ、眾敬はこれに従った。時に兗州刺史殷孝祖は妻子を留め、文武二千人を率いて劉彧に赴き、司馬劉文石に城を守らせていた。眾敬は兵を率いて瑕丘を攻め取り、文石を殺した。安都は孝祖と元より不協和であったため、眾敬に孝祖の諸子を誅殺するよう命じ、眾敬は已むなく遂に彼らを殺した。州内は悉く帰附したが、ただ東平太守申纂のみが無塩城を拠りこれに同じなかった。劉彧が子勛を平定すると、纂に兗州刺史を授けた。折しも安都が北魏の援軍を引き連れてその城下を通り過ぎようとした時、纂は城門を閉ざして守りを固め、眾敬を深く恨んだ。時に誰かが眾敬の父の墓を暴き、遂にその母の骸骨の頭部を散乱させた。眾敬は喪に服し哀悼し、墓近くの細民を拷問し、死者十余人を出した。またこれを纂の仕業と疑い、弟の眾愛は安都の長史であったが、密かに人を済陰に遣わし、纂の父の墓を掘り返して報復した。

原文及劉彧殺子業而自立,遣眾敬出詣兗州募人。到彭城,刺史薛安都召與密謀,云:「晉安有上流之名,且孝武第三子,當共卿為計西從。」乃矯彧命,以眾敬行兗州事,眾敬從之。時兗州刺史殷孝祖留其妻子,率文武二千人赴彧,使司馬劉文石守城。眾敬率眾取瑕丘,殺文石。安都與孝祖先不相協,命眾敬誅孝祖諸子,眾敬不得已,遂殺之。州內悉附,唯東平太守申纂據無鹽城不與之同。及彧平子勛,授纂兗州刺史。會安都引國授軍經其城下,纂閉門城守,深恨眾敬。會有人發眾敬父墓,遂令其母骸首散落。眾敬發哀行服,拷掠近墓細民,死者十餘人。又疑纂所為,弟眾愛為安都長史,亦遣人密至濟陰,掘纂父墓以相報答。

安都が城を挙げて北魏に帰順した時、眾敬はその謀に与からなかった。子の元賓は母を始め百口が皆彭城に在り、互いに禍が及ぶことを恐れ、日夜啼泣して眾敬に請うたが、眾敬は未だ従わなかった。眾敬は先に既に上表して劉彧に謝罪しており、彧は眾敬に兗州刺史を授けたが、元賓には別の罪があるとして、ただ彼だけは赦さなかった。眾敬は刀を抜いて柱を斬りつけ、「白髪の年となって、ただこの一子あるのみ。今これを赦さずして、何のために独り全からんや」と言った。尉元が到着すると、遂に城を以て降伏した。元は将を遣わして城に入れ、事態が収まると、眾敬は後悔し憤慨し、数日間食事を取らなかった。皇興初年、そのまま散騎常侍・寧南將軍・兗州刺史に任じられ、爵位を東平公と賜り、中書侍郎李璨と対になって刺史となった。

原文及安都以城入國,眾敬不同其謀。子元賓以母并百口悉在彭城,恐交致禍,日夜啼泣,遣請眾敬,眾敬猶未從之。眾敬先已遣表謝彧,彧授眾敬兗州刺史,而以元賓有他罪,獨不捨之。眾敬拔刀斫柱曰:「皓首之年,唯有此子,今不原貸,何用獨全!」及尉元至,遂以城降。元遣將入城,事定,眾敬悔恚,數日不食。皇興初,就拜散騎常侍、寧南將軍、兗州刺史,賜爵東平公,與中書侍郎李璨對為刺史。

慕容白曜が無塩を攻略し、申纂は乱兵に傷つけられ、逃げ出して捕らえられ、白曜の下に送られた。白曜には纂を殺す意図は無かったが、城中で火災が起こり、纂は傷が重く避けることができず、火に焼かれて死んだ。眾敬は無塩が陥落したと聞き、纂が殺されないことを恐れ、白曜に書簡を送り、併せて朝廷に上表し、「家門の禍酷は、皆纂に由る」と述べた。纂の死を聞いて、ようやく喜んだ。二年、薛安都と共に京師に朝見し、そのまま留め置かれ、甲第一区を賜った。後に再び兗州刺史となり、将軍の位は元の如く、京師に召還された。

原文慕容白曜攻克無鹽,申纂為亂兵所傷,走出被擒,送於白曜。白曜無殺纂之意,而城中火起,纂創重不能避,為火所燒死。眾敬聞克無鹽,懼不殺纂,乃與白曜書,并表朝廷,云「家之禍酷,皆由於纂」。聞纂死,乃悅。二年,與薛安都朝于京師,因留之,賜甲第一區。後復為兗州刺史,將軍如故,徵還京師。

眾敬は自らの養生を善くし、食事は豊かで華美で、必ず他方の遠方の珍味を求めた。年既に七十、鬢髪は真っ白であったが、気力は未だ衰えず、鞍を跨ぎ馳せ駆けること、壮年の若者のようであった。姻族に篤く、深く国士の風があり、張讜が亡くなった時、自ら赴き弔問し、最も親しい者のように遇した。太和年間、高祖(孝文帝)は旧老を賓礼し、眾敬は咸陽公高允と共に方山に導かれた。文武の奢儉や好尚は異なるが、しかし允と非常に親愛敬慕し、膝を接して懇ろに語り合い、平生の如くであった。後、老衰を理由に故郷への帰還を乞い、朝廷はこれを許した。眾敬は帰還に臨み、真珠の耳飾り四具、銀装の剣一口、刺虎の矛一本、仙人の文綾百匹を献上した。文明太后と高祖は皇信堂で引見し、酒食を賜い、車一乗、馬三匹、絹二百匹を与えて労い送り出した。十五年十月に卒去した。詔により兗州に絹千匹を賜い、葬事の費用に供させた。

原文眾敬善自奉養,食膳豐華,必致他方遠味。年已七十,鬢髮皓白,而氣力未衰,跨鞍馳騁,有若少壯。篤於姻類,深有國士之風,張讜之亡,躬往營視,有若至親。太和中,高祖賓禮舊老,眾敬與咸陽公高允引至方山,雖文武奢儉,好尚不同,然亦與允甚相愛敬,接膝談款,有若平生。後以篤老,乞還桑梓,朝廷許之。眾敬臨還,獻真珠璫四具、銀裝劍一口、刺虎矛一枚、仙人文綾一百匹。文明太后、高祖引見於皇信堂,賜以酒饌,車一乘、馬三匹、絹二百匹,勞遣之。十五年十月卒。詔於兗州賜絹一千匹,以供葬事。

子の元賓は、若くして豪侠であり、武幹があり、書史に広く通じていた。劉駿に仕えて正員將軍となり、父と共に勲功を立て忠誠を尽くした。京師に至ると、共に上客とされ、爵位を須昌侯と賜り、平遠將軍を加えられた。後に元賓の勲功が重いことを以て、使持節・平南將軍・兗州刺史に任じられ、仮に彭城公とされた。父子相代わって本州の刺史となり、当世これを栄誉とした。時に眾敬は老いて郷里に帰り、常に元賓を使君と呼んだ。毎度元賓が政務を執る時、車に乗って元賓の所に出向き、先ず左右に命じて起立を許さず、その裁断を見て、欣然として喜びの色を顔に浮かべた。眾敬は家業を善く保ち、特に田産の管理監督に優れ、大いに蓄積をなした。元賓は政務に清廉公平で、民衆を善く撫で、百姓はこれを愛し楽しんだ。父の喪に服して解任され、喪中に遥かに長兼殿中尚書を授けられた。その年の冬の末に卒去した。撫軍將軍・衞尉卿を追贈され、諡を平と言う。帛八百匹を賜った。

原文子元賓,少而豪俠,有武幹,涉獵書史。為劉駿正員將軍,與父同建勳誠。及至京師,俱為上客,賜爵須昌侯,加平遠將軍。後以元賓勳重,拜使持節、平南將軍、兗州刺史,假彭城公。父子相代為本州,當世榮之。時眾敬以老還鄉,常呼元賓為使君。每於元賓聽政之時,乘輿出至元賓所,先遣左右敕不聽起,觀其斷決,忻忻然喜見顏色。眾敬善持家業,尤能督課田產,大致儲積。元賓為政清平,善撫民物,百姓愛樂之。以父憂解任,喪中遙授長兼殿中尚書。其年冬末卒。贈撫軍將軍、衞尉卿,諡曰平。賜帛八百匹。

元賓が北魏に入国した後、初め東平の劉氏を娶り、四子(祖朽、祖髦、祖帰、祖旋)をもうけた。賜った妻の元氏は二子(祖栄、祖暉)を生んだ。祖朽が最年長、祖暉は祖髦の次である。故事によれば、前妻が先に子があっても、後から賜った妻の子は皆嫡子を継承する。それ故に劉氏が先に亡くなると、祖暉は重服を着けず、元氏が後に卒去すると、祖朽らは三年の喪礼を終えた。

原文元賓入國,初娶東平劉氏,有四子,祖朽、祖髦、祖歸、祖旋;賜妻元氏生二子,祖榮、祖暉。祖朽最長,祖暉次祖髦。故事,前妻雖先有子,後賜之妻子皆承嫡。所以劉氏先亡,祖暉不服重;元氏後卒,祖朽等三年終禮。

祖栄は早世した。子の義允が祖の爵位東平公を襲い、例により侯に降格された。陵江將軍・給事中となり、卒去した。子の僧安が襲爵した。

原文祖榮早卒。子義允,襲祖爵東平公,例降為侯。陵江將軍、給事中,卒。子僧安襲。

祖朽は、身長八尺、腰帯十圍あり、経史に広く通じ、文詠を好んだ。性質寛厚で、人と交わることを善くした。父の爵位須昌侯を襲い、例により伯に降格された。員外郎より起家した。尚書郎・治書侍御史、寧遠將軍を加えられ、本州中正となった。

原文祖朽,身長八尺,腰帶十圍,歷涉經史,好為文詠。性寬厚,善與人交。襲父爵須昌侯,例降為伯。起家員外郎。尚書郎、治書侍御史,加寧遠將軍,本州中正。

正始三年、蕭衍の将蕭及先が歩騎二万を率いて兗州に侵入し、及先は別帥の角念に蒙山に駐屯させた。祖朽を統軍とし、仮に寧朔將軍とし、邢巒に隷属させてこれを討たせた。祖朽は開導誘引に方策あり、降伏する者が相継いだ。賊は出て逆戦し、祖朽はこれを大破した。賊は柵に逃げ戻り、祖朽は夜にまた焼き討ちを加え、賊徒は潰散した。百余里を追討し、斬獲および沂水に赴いて死んだ者は四千余人に及び、龍驤將軍矯道儀、寧朔將軍王季秀を斬った。功により南城県開国男に封ぜられ、食邑二百戸を賜った。散騎侍郎・中書侍郎を歴任し、龍驤將軍を加えられた。延昌末年、安南王元志が荊沔を討つために出撃すると、祖朽を志の軍司とし、兼給事黄門侍郎とし、間もなく司空長史に遷った。神亀末年、持節・東豫州刺史に任じられ、将軍の位は元の如くであった。祖朽は辺境の民を善く撫で、清廉公平で信義があり、安静を務め、百姓はこれを称えた。還朝し、前將軍・太尉長史・兼尚書北道行臺に任じられた。

原文正始三年,蕭衍將蕭及先率步騎二萬入寇兗州,及先令別帥角念屯于蒙山。以祖朽為統軍,假寧朔將軍,隸邢巒討之。祖朽開誘有方,降者相繼。賊出逆戰,祖朽大破之。賊走還柵,祖朽夜又焚擊,賊徒潰散。追討百餘里,斬獲及赴沂水死者四千餘人,斬龍驤將軍矯道儀、寧朔將軍王季秀。以功封南城縣開國男,食邑二百戶。歷散騎侍郎、中書侍郎,加龍驤將軍。延昌末,安南王志出討荊沔,以祖朽為志軍司,兼給事黃門侍郎,尋遷司空長史。神龜末,除持節、東豫州刺史,將軍如故。祖朽善撫邊人,清平有信,務在安靜,百姓稱之。還,除前將軍、太尉長史、兼尚書北道行臺。

孝昌初年、持節・本將軍・南兗州刺史に任じられた。間もなく度支尚書を授けられた。定州に行ったが、未だ着任せず、安東將軍・瀛州刺史に改めて任じられた。賊帥鮮于脩礼に攻囲され数十日、防ぎ守って自らを固めた。病により州で卒去した。衞將軍・吏部尚書・兗州刺史を追贈された。祖朽には子がなく、弟祖帰の子義暢を後嗣とし、爵位を襲わせた。

原文孝昌初,除持節、本將軍、南兗州刺史。尋授度支尚書。行定州,未之職,改授安東將軍、瀛州刺史。為賊帥鮮于脩禮攻圍積旬,拒守自固。病卒於州。贈衞將軍、吏部尚書、兗州刺史。祖朽無子,以弟祖歸子義暢為後,襲爵。

義暢は、傾巧で士たる業がなく、時の要請に通じることを善くした。尚書郎中・侍郎・兗州刺史・大中正・中軍將軍・通直散騎常侍を歴任した。太昌初年、車騎將軍となり、間もなく散騎常侍に任じられた。天平年間、北豫州の山賊張儉と通じた罪に坐し、法に伏して誅された。

原文義暢,傾巧無士業,善通時要。歷尚書郎中、侍郎、兗州刺史、大中正、中軍將軍、通直散騎常侍。太昌初,車騎將軍,尋除散騎常侍。天平中,坐與北豫州山賊張儉通,伏法。

祖髦は、奉朝請より起家した。兄祖朽が別に南城に封ぜられたため、須昌侯の爵位を彼に回授した。神亀初年、累遷して揚烈將軍・東平太守となった。後に本州別駕となり、官で卒去した。

原文祖髦,起家奉朝請。兄祖朽別封南城,以須昌侯回授之。神龜初,累遷揚烈將軍、東平太守。後為本州別駕,卒於官。

子の義和が襲爵した。右將軍・太中大夫の任で卒去した。散騎常侍・安東將軍・兗州刺史を追贈された。子に仁超がある。

原文子義和,襲。卒於右將軍、太中大夫。贈散騎常侍、安東將軍、兗州刺史。子仁超。

義和の第六弟義亮は、性格が豪放で粗忽であった。尚書郎・中書舎人を歴任した。天平年間(534-537)、舎人の韋鴻と共に機密漏洩の罪に坐し、邸宅において自尽を賜った。

原文義和第六弟義亮,性豪疏。歷尚書郎、中書舍人。天平中,與舍人韋鴻坐泄密,賜盡於宅。

祖暉は、早くから器量と才幹があった。奉朝請より出発し、次第に鎮遠将軍・前軍将軍・直後に昇進した。正始年間(504-508)、龍驤将軍・東郡太守に任ぜられた。中央に入って驍騎将軍となり、征虜将軍を加えられ、後に勃海郡の試守を命ぜられた。熙平年間(516-518)、潁川太守に拝された。神龜初年(518)、右将軍・豳州刺史に任ぜられた。中央に入って平東将軍・光禄大夫となった。正光五年(524)、豳州の民が反乱を起こし、隴の賊を招き寄せて州城を攻め迫った。祖暉が以前在州の日に民情を得て和合していたため、再び平西将軍・豳州刺史を授けられ、安西将軍を仮とし、別将としてこれを討伐することとなった。祖暉は戦いながら前進し、包囲を突破して治所に入った。孝昌初年(525)、北海王元顥の救援が到着し、城の包囲はようやく解けた。城を全うした功績により、新昌県開国子に封ぜられ、食邑四百戸を賜った。後に蕭宝夤が敗退した際、祖暉は城を抜け出して東へ華州に向かったが、これにより官爵を免ぜられた。まもなく征虜将軍を仮とし、豳州の事務を行った。建義年間(528)、詔により州の官職と爵位を回復し、撫軍将軍を加えられた。永安年間(528-530)、祖暉は大嶺柵より州城奪還を図った。時に賊帥の叱干騏驎が太子壁を守っていたが、祖暉はこれを撃破した。しかし賊の宿勤明達が再び祖暉を攻撃し、祖暉は兵が少なく食糧も尽き、軍の援けも来ず、賊の攻撃を受け、ついに戦死した。時に五十歳であった。

原文祖暉,早有器幹。自奉朝請,稍遷鎮遠將軍、前軍將軍、直後。正始中,除龍驤將軍、東郡太守。入為驍騎將軍,加征虜將軍,後試守勃海郡。熙平中,拜潁川太守。神龜初,除右將軍、豳州刺史。入為平東將軍、光祿大夫。正光五年,豳州民反,招引隴賊,攻逼州城。以祖暉前在州日得民情和,復授平西將軍、豳州刺史,假安西將軍,為別將以討之。祖暉且戰且前,突圍入治。孝昌初,北海王顥救至,城圍始解。以全城之勳,封新昌縣開國子,食邑四百戶。後值蕭寶夤退敗,祖暉乃拔城東趣華州,坐免官爵。尋假征虜將軍,行豳州事。建義中,詔復州爵,加撫軍將軍。永安中,祖暉從大嶺柵規入州城。于時賊帥叱干騏驎保太子壁,祖暉擊破之。而賊宿勤明達復攻祖暉,祖暉兵少糧竭,軍援不至,為賊所乘,遂歿,時年五十。

長子の義勰は、爵位を襲った。武定年間(543-550)、開府中郎となった。斉が禅譲を受けると、爵位は例によって降格された。

原文長子義勰,襲爵。武定中,開府中郎。齊受禪,爵例降。

義勰の弟義雲は、尚書騎兵郎中となった。

原文義勰弟義雲,尚書騎兵郎中。

祖帰は、官は建寧太守に至った。

原文祖歸,官至建寧太守。

子の義遠は、武定年間(543-550)、平原太守となった。

原文子義遠,武定中,平原太守。

義遠の弟義顕・義儁は、性格はいずれも豪放で率直であった。天平年間以後、蕭衍の使者が往来し、兗城を通過する際、前後の州将は義儁兄弟が魚料理の調理に巧みで、器物が鮮やかで華美であるため、常に長史を兼ねさせて賓客を接待・饗応させた。義顕は、左将軍・太中大夫となった。義儁は、司空主簿・兗州別駕を歴任して死去した。

原文義遠弟義顯、義儁,性並豪率。天平已後,蕭衍使人還往,經歷兗城,前後州將以義儁兄弟善營鮭膳,器物鮮華,常兼長史,接宴賓客。義顯,左將軍、太中大夫。義儁,歷司空主簿、兗州別駕而卒。

祖旋は、太尉行参軍・鎮遠将軍となった。死去すると、都官尚書・斉兗二州刺史を追贈された。

原文祖旋,太尉行參軍、鎮遠將軍。卒,贈都官尚書、齊兗二州刺史。

子の義真は、太尉行参軍となった。

原文子義真,太尉行參軍。

衆敬の弟衆愛は、兄に従って帰国した。功績により第一客とされ、爵位鉅平侯を賜った。死去すると、冠軍将軍・徐州刺史を追贈され、諡を康といった。

原文眾敬弟眾愛,隨兄歸國。以勳為第一客,賜爵鉅平侯。卒,贈冠軍將軍、徐州刺史,諡曰康。

子の聞慰は、字を子安といい、器量と才幹があった。爵位を襲い、例によって伯に降格された。泰山太守に拝され、中央に入って尚書郎・本州中正となり、威遠将軍を加えられた。出向して徐州平東府長史となり、彭城内史を帯びた。永平年間(508-512)、中散大夫に遷り、龍驤将軍を加えられた。延昌初年(512)、清河内史に任ぜられたが、病気を理由に辞退し、再び龍驤将軍・中散大夫となった。また広平内史の試守を命ぜられた。正光初年(520)、相州刺史・中山王元熙が兵を起こして元叉誅殺を謀ると、聞慰はその使者を斬り、兵を発してこれを拒んだ。在任中は寛容で謹厳であり、民衆は彼を敬愛し親しんだ。後に元叉は聞慰が自分に忠実であるとして、持節・平東将軍・滄州刺史に昇進させ、政績は大いにあった。後に本軍の官職より散騎常侍・東道行臺に任ぜられ、まもなく都督・安楽王元鑑の軍司となった。孝昌元年(525)春、徐州刺史元法僧が反乱を起こすと、聞慰は元鑑と共にこれを攻撃したが、法僧に敗れて京師に逃げ帰った。弾劾を受けたが、赦令に遇って免罪された。その年に死去、五十七歳。散騎常侍・安東将軍・兗州刺史を追贈され、伯の爵位は元のままとされ、諡を恭といった。

原文子聞慰,字子安,有器幹。襲爵,例降為伯。拜泰山太守,入為尚書郎、本州中正,加威遠將軍。出為徐州平東府長史,帶彭城內史。永平中,遷中散大夫,加龍驤將軍。延昌初,除清河內史,因以疾辭,復為龍驤、中散。又試守廣平內史。正光初,相州刺史、中山王熙起兵謀誅元叉,聞慰斬其使,發兵拒之。在任寬謹,百姓愛附。後叉以聞慰忠於己,遷持節、平東將軍、滄州刺史,甚有政績。後以本軍除散騎常侍、東道行臺,尋為都督、安樂王鑒軍司。孝昌元年春,徐州刺史元法僧反,聞慰與鑒攻之,為法僧所敗,奔還京師。被劾,遇赦免。其年卒,年五十七。贈散騎常侍、安東將軍、兗州刺史,伯如故,諡曰恭。

子の祖彥は、字を脩賢といった。書物や伝記に広く通じ、風度は優雅で、当時に知られた。侍御史として元法僧の監軍となった。法僧が反乱を起こすと、祖彥は南行を強要され、永安年間(528-530)にようやく帰還できた。中書侍郎を歴任し、爵位鉅平伯を襲い、中軍将軍・光禄大夫となった。天平四年(537)に死去、五十歳。都督兗済二州諸軍事・征東将軍・尚書左僕射・兗州刺史を追贈された。

原文子祖彥,字脩賢。涉獵書傳,風度閑雅,為時所知。以侍御史為元法僧監軍。法僧反,逼祖彥南入,永安中,得還。歷中書侍郎,襲爵鉅平伯,中軍將軍、光祿大夫。天平四年卒,年五十。贈都督兗濟二州諸軍事、征東將軍、尚書左僕射、兗州刺史。

祖彥の弟の哲は、永安末年(530)、秘書郎となった。

原文祖彥弟哲,永安末,祕書郎。

畢氏一族は朝廷に仕え、栄華と貴顕に事欠かなかったが、家庭内の風儀が整わず、当時の人々に軽蔑された。

原文諸畢當朝,不乏榮貴,但幃薄不修,為時所鄙。

申纂という者は、もと魏郡の人で、申鍾の曾孫である。皇始初年(396)、太祖が中山を平定すると、纂の一族は南へ逃れ、済陰に住んだ。無塩におった時、劉彧に用いられて兗州刺史となった。顕祖(献文帝)は言った、「申纂は機を見る目もなく、また力を量ることもせず、進んで正朔に帰順することもできず、退いて江南に戻ることもできず、危亡の地に孤城を守って、功を立て節を立てようとするなど、どうしてできようか」。纂が敗れた後、子の景義が国(北魏)に入り、太和年間(477-499)、散員士・宋王劉昶の国侍郎となった。景明初年(500)、済陰郡の試守・揚州車騎府録事参軍・右司馬を命ぜられた。

原文申纂者,本魏郡人,申鍾曾孫也。皇始初,太祖平中山,纂宗室南奔,家于濟陰。及在無鹽,劉彧用為兗州刺史。顯祖曰:「申纂既不識機,又不量力,進不能歸正朔,退不能還江南,守孤城於危亡之地,欲建功立節豈可得乎!」纂既敗,子景義入國,太和中,為散員士、宋王劉昶國侍郎。景明初,試守濟陰郡、揚州車騎府錄事參軍、右司馬。

常珍奇は汝南の人である。劉駿に仕えて司州刺史となり、薛安都らと共に劉子勛を推戴した。子勛が敗れると、使者を馳せて長社鎮に降伏を請い、顕祖は殿中尚書元石を都將として軍を派遣した。中書博士鄭羲が元石の軍事に参与し、上蔡に進むと、珍奇は文武の官を率いて出迎え、鄭羲は元石に直ちに城に入るよう進言した(詳細は鄭羲伝にある)。事態が収まると、珍奇は持節・平南将軍・豫州刺史・河内公に任じられた。珍奇は上表して言う、「臣はかつて劉氏の恩恵を受け、義に感じて身命を顧みず、報いんと志し、雍州刺史袁顗・豫州刺史殷琰らと共に大義を唱え、子勛を奉戴してその統緒を継承した。しかし運が至らず、ついに崩壊した。劉彧は天を覆すほどに暴虐で、主君を殺し帝位を簒奪し、民衆は困窮し、危機は垂れ飾りの玉のようである。陛下は龍姿鳳儀で、威光は四方に及び、すべての民衆は宮門を仰ぎ望んでいる。願わくは天地が仁を垂れ、速やかに南方を図り、文書を発して吉凶を説き示されよ。そうすれば江東の地は離反して草が靡くが如く、荊雍の九州は北面して官吏を請うであろう。臣の官位を高め、さらに雄将を派遣し、馬五千頭に秣を与え、臣の征討を助け、威儀を賜って江外を震動させられよ。長江以北は必ず平定できよう。臣は武勇に優れないが、先鋒を務めさせていただき、進軍占拠の適宜は、さらに処分を仰ぐ。愚直な思いを冒して申し上げる。誠意を推して上聞に達し、機運に乗ずるは、まさに今日である」。

原文常珍奇者,汝南人也。為劉駿司州刺史,亦與薛安都等推立劉子勛。子勛敗,遣使馳告長社鎮請降,顯祖遣殿中尚書元石為都將,率眾赴之。中書博士鄭羲參石軍事。進至上蔡,珍奇率文武來迎,羲說石令徑入城,語在羲傳。事定,以珍奇為持節、平南將軍、豫州刺史、河內公。珍奇表曰:「臣昔蒙劉氏生成之恩,感義亡身,志陳報答,遂與雍州刺史袁顗、豫州刺史殷琰等共唱大義,奉戴子勛,纂承彼曆。大運未集,遂至分崩。而劉彧滔天,殺主篡立,蒼生殄悴,危於綴旒。伏惟陛下龍姿鳳儀,光格四表,凡在黔黎,延屬象魏。所願天地垂仁,亟圖南服,宜遣文檄,喻以吉凶。使江東之地,離心草靡;荊雍九州,北面請吏。乞高臣官名,更遣雄將,秣馬五千,助臣經討,并賜威儀,震動江外。長江已北,必可定矣。臣雖不武,乞備前驅,進據之宜,更在處分。敢冒愚款,推誠上聞,機運可乘,實在茲日。」

珍奇は虚偽の上表をしたが、誠意は純粋ではなかった。一年余り後、その子の超を召還したが、超の母の胡氏は超が京師に行くのを望まず、密かに南方への反逆を企てた。当時、汝州・徐州は未平定で、元石は自ら出撃してこれを攻めた。珍奇は虚に乗じて懸瓠で反乱を起こし、城の東門を焼き、三百余人を斬り、上蔡・安城・平輿の三県の住民を掠奪し、灌水に駐屯した。元石は急行して討伐し、大破した。日が暮れたので、火を放ってその陣営を焼き、珍奇は単騎で逃れて難を免れた。その子の超は苦城に逃げたが、人に殺された。末子の沙弥は捕らえられて京師に送られ、宮刑に処せられて宦官となった。

原文珍奇雖有虛表,而誠款未純。歲餘,徵其子超,超母胡氏不欲超赴京師,密懷南叛。時汝徐未平,元石自出攻之。珍奇乘虛於懸瓠反叛,燒城東門,斬三百餘人,虜掠上蔡、安城、平輿三縣居民,屯于灌水。石馳往討擊,大破之。會日闇,放火燒其營,珍奇乃匹馬逃免。其子超走到苦城,為人所殺。小子沙彌囚送京師,刑為閹人。

沈文秀

原文沈文秀

沈文秀は字を仲遠といい、呉興郡武康県の人である。伯父の慶之は、劉駿の司空公であった。文秀は初め郡主簿となり、次第に昇進して建威将軍・青州刺史となった。

原文沈文秀,字仲遠,吳興武康人。伯父慶之,劉駿司空公。文秀初為郡主簿,稍遷建威將軍、青州刺史。

和平六年(465年)、劉子業がその叔父の劉彧に殺されると、文秀は諸州と共に劉子勛を推戴した。子勛が敗れると、皇興初年(467年)、文秀は崔道固と共に州を挙げて降伏し、援軍の派遣を請うた。顕祖は平東将軍長孫陵らに騎兵を率いて赴かせた。ちょうど劉彧が文秀の弟の文炳を派遣して説得に来たため、文秀は再び劉彧に帰順し、劉彧は文秀を輔国将軍・刺史(前同様)に任じた。

原文和平六年,劉子業為其叔彧所殺,文秀遂與諸州推立劉子勛。及子勛敗,皇興初,文秀與崔道固俱以州降,請師應接,顯祖遣平東將軍長孫陵等率騎赴之。會劉彧遣文秀弟文炳來喻之,文秀復歸於彧,彧以文秀為輔國將軍、刺史如故。

後に慕容白曜が升城を陥落させると、軍を歴下に向け、白曜はさらに長孫陵らに万余人を率いて東陽まで長駆させた。文秀は降伏しようとしたが、兵士が掠奪を行ったため、後悔の心を起こし、城を守って堅く防いだ。長孫陵は軍を清水の西に駐屯させた。白曜が歴城を落とすと、大軍を率いて合力して攻撃し、幾重にも包囲し、夏から春にかけてようやく陥落させた。文秀は持っていた節を取り、衣冠を整え、斎室の中に端座していた。乱入した兵士が「文秀はどこだ」と問うと、文秀は声を厲して「これである」と言った。捕らえられて裸にされ、白曜のもとに送られた。左右の者が拝礼を命じると、文秀は「それぞれ二国の大臣である。互いに拝礼する礼はない」と言った。白曜は憤り、ついには殴打した。後に衣服を返し、食事を設けたが、長史の房天楽・司馬の沈嵩らと鎖でつながれて京師に送られた。縛られたまま数々の罪を責められたが、死罪を赦され、下客として扱われ、粗末な衣服と質素な食事を与えられた。

原文後慕容白曜既克升城,引軍向歷下,白曜復遣陵等率萬餘人長驅至東陽。文秀始欲降,以軍人虜掠,遂有悔心,乃嬰城固守。陵乃引師軍於清西。白曜既下歷城,乃率大眾并力攻討,長圍數匝,自夏至春始克。文秀取所持節,衣冠儼然,坐於齋內。亂兵入,曰:「文秀何在?」文秀厲聲曰:「身是!」執而裸送于白曜。左右令拜,文秀曰:「各二國大臣,無相拜之禮。」白曜忿之,乃至撾撻。後還其衣,為之設饌,遂與長史房天樂、司馬沈嵩等鎖送京師。面縛數罪,宥死,待為下客,給以粗衣蔬食。

顕祖はその節義を重んじ、次第に礼遇を加え、外都下大夫に任じた。太和三年(479年)、外都大官に転じた。高祖(孝文帝)は文秀がその国に忠義であったことを賞賛し、絹・綵二百匹を賜った。後に南征都將となり、出発に際して軍服を賜った。まもなく持節・平南将軍・懐州刺史を拝命し、仮に呉郡公となった。当時、河南は豊かで、人々は贈り物を好んだが、文秀は一切受け取らず、終始清貧を守った。しかし政治は寛大で緩やかであり、盗賊を禁止できなかった。一方で大規模に水田を開墾し、公私ともに利益をもたらした。州に数年いて、六十一歳で死去した。

原文顯祖重其節義,稍亦加禮之,拜為外都下大夫。太和三年,遷外都大官。高祖嘉文秀忠於其國,賜絹綵二百匹。後為南征都將,臨發,賜以戎服。尋除持節、平南將軍、懷州刺史,假吳郡公。是時河南富饒,人好奉遺,文秀一無所納,卒守清貧。然為政寬緩,不能禁止盜賊;而大興水田,於公私頗有利益。在州數年,年六十一,卒。

子の保沖は、太和年間に奉朝請・大将軍宋王の外兵参軍となり、後に南徐州冠軍長史となった。二十一年(497年)、漣口の救援に失敗して退却した罪で、官吏が死刑を処断した。高祖は詔して「保沖は文秀の子である。特に命を赦し、洛陽の作部に終身配属せよ」と言った。まもなく赦免された。世宗(宣武帝)の時、下邳太守の任で死去した。

原文子保沖,太和中,奉朝請、大將軍宋王外兵參軍,後為南徐州冠軍長史。二十一年,坐援漣口退敗,有司處之死刑。高祖詔曰:「保沖,文秀之子,可特原命,配洛陽作部終身。」既而獲免。世宗時,卒於下邳太守。

房天楽は清河の人で、滑稽で知恵が多かった。以前は青州別駕であり、文秀に抜擢されて長史となり、斉郡を監督し、州府の事務はすべて彼に委ねられた。京師で死去した。

原文房天樂者,清河人,滑稽多智。先為青州別駕,文秀拔為長史,督齊郡,州府之事,一以委之。卒于京師。

弟の子の嘉慶は、漁陽太守となった。

原文弟子嘉慶,漁陽太守。

嘉慶の従弟の瑚璉は、長広太守となった。

原文嘉慶從弟瑚璉,長廣太守。

文秀の族子の沈嵩は、聡明で文筆に優れていた。文秀は彼を司馬とし、非常に重用した。文秀に従って懐州に至った。文秀の死後、宋王劉昶に寄寓した。劉昶は彼を礼遇せず、憂い・恥・飢え・寒さのうちに、まもなく死去した。

原文文秀族子嵩,聰敏有筆札。文秀以為司馬,甚器任之。隨文秀至懷州。文秀卒後,依宋王劉昶。昶遇之無禮,憂愧飢寒,未幾而卒。

文秀の族子の沈陵は、字を道通という。太和十八年(494年)、高祖が南征すると、陵は族孫の智度を連れて帰降し、行宮で引見された。陵は容姿が立派で、弁舌が流暢であったため、高祖はこれを奇異とし、王肅に次ぐ礼遇を与え、前軍将軍に任じた。後に南徐州諸軍事・中壘将軍・南徐州刺史を監し、まもなく仮節・龍驤将軍となった。二十二年(498年)秋、持節・冠軍将軍に進んだ。高祖が崩御すると、陵は密かに反逆の心を抱き、長史の趙儼が朝廷に密告したが、尚書令の王肅が強く彼を保証し、趙儼を厳しく責めた。まもなく果たして反乱を起こし、数十人を殺し、城中の男女百余口を駆り立てて掠奪し、夜に南へ逃走した。智度は彭城でこれを知り、清水中から単舸で陵のもとに奔ったが、下邳の戍兵に射殺された。

原文文秀族子陵,字道通。太和十八年,高祖南伐,陵攜族孫智度歸降,引見於行宮。陵姿質妍偉,辭氣辯暢,高祖奇之,禮遇亞於王肅,授前軍將軍。後監南徐州諸軍事、中壘將軍、南徐州刺史,尋假節、龍驤將軍。二十二年秋,進持節、冠軍將軍。及高祖崩,陵陰有叛心,長史趙儼密言于朝廷,尚書令王肅深保明之,切責儼。既而果叛,殺數十人,驅掠城中男女百餘口,夜走南入。智度於彭城知之,從清中單舸奔陵,為下邳戍人所射殺。

張讜

原文張讜

張讜は字を処言といい、清河郡東武城県の人である。六世祖の名は顕祖の諱に触れる(詳細不明)。晋の長秋卿であった。父の張華は、慕容超の左僕射となった。張讜は劉駿に仕え、給事中・泰山太守・青冀二州輔国府長史を歴任し、魏郡太守を兼ねた。劉彧が即位すると、遙任で冠軍将軍・東徐州刺史に任じられた。

原文張讜,字處言,清河東武城人也。六世祖名犯顯祖諱,晉長秋卿。父華,為慕容超左僕射。讜仕劉駿,歷給事中、泰山太守、青冀二州輔國府長史,帶魏郡太守。劉彧之立,遙授冠軍將軍、東徐州刺史。

徐兗の地が平定されると、張讜は尉元に帰順した。尉元もまた上表して冠軍将軍・東徐州刺史に任じ、中書侍郎高閭を派遣して張讜と対等の刺史とした。後に京師に至り、礼遇は薛安都・畢眾敬に次ぎ、勲功により平陸侯の爵位を賜り、平遠将軍を加えられた。

原文及革徐兗,讜乃歸順於尉元。元亦表授冠軍、東徐州刺史,遣中書侍郎高閭與讜對為刺史。後至京師,禮遇亞於薛、畢,以勳賜爵平陸侯,加平遠將軍。

張讜の性格は開放的で、撫恤に篤く、青斉の人士は、疎遠な族や遠縁の姻戚であっても、皆互いに敬い遇した。李敷・李訢ら寵遇された権勢家も、その誠意を推し量って款待し、顧慮や遠慮はなかった。畢眾敬らも皆彼を敬重し、高允の徒もまた器量をもって遇した。延興四年に卒去した。平南将軍・青州刺史を追贈され、諡は康侯といった。子の敬伯は、父の喪を冀州清河の旧墓に出して葬ることを求めたが、長く許されず、柩を家に停めて五六年を経た。第四子の敬叔は、先に徐州におり、初めて父の喪を聞いた時、奔赴しようとせず、かえって南朝への叛離を企てたが、徐州によって拘束されて送られた。至って自ら道理を弁じ、後に父の爵位を襲うことを得た。

原文讜性開通,篤於撫恤,青齊之士,雖疏族末姻,咸相敬視。李敷、李訢等寵要勢家,亦推懷陳款,無所顧避。畢眾敬等皆敬重之,高允之徒亦相器待。延興四年卒。贈平南將軍、青州刺史,諡康侯。子敬伯,求致父喪,出葬冀州清河舊墓,久不被許,停柩在家積五六年。第四子敬叔,先在徐州,初聞父喪,不欲奔赴,而規南叛,為徐州所勒送。至乃自理,後得襲父爵。

敬伯は、自ら父に従って帰国した功績により、昌安侯の爵位を賜り、楽陵太守として出向した。

原文敬伯,自以隨父歸國之功,賜爵昌安侯,出為樂陵太守。

敬叔は、武邑太守となった。父の喪は旧墓に葬られることを得て、清河に帰属した。

原文敬叔,武邑太守。父喪得葬舊墓,還屬清河。

初め、張讜には兄弟十人がいた。兄の忠は字を処順といい、南朝において合郷県令となった。世祖(太武帝)が南征した時、忠は帰降し、新昌男の爵位を賜り、新興太守に任じられ、任中に卒去した。冀州刺史を追贈された。

原文初,讜兄弟十人。兄忠,字處順,在南為合鄉令。世祖南征,忠歸降,賜爵新昌男,拜新興太守,卒官。贈冀州刺史。

初め、張讜の妻皇甫氏が略奪され、宮中の婢として賜わったが、皇甫氏はそこで癡を装い、髪を梳らず顔を洗わなかった。後に張讜が劉駿(宋の孝武帝)の冀州長史となった時、千余匹の財貨を用いて皇甫氏を購い求めた。高宗(文成帝)はその納めた財貨の多さを怪しみ、引見した。その時皇甫氏は年齢六十に近かった。高宗は言った、「南人は奇妙な嗜好で、よく室家の義を重んじる。この老母がまた何の役に立つというのか、かくも費用をかけるとは」。皇甫氏が帰ると、張讜は諸妾に命じて境上で奉迎させた。数年後に卒去し、卒去して十年後に張讜は国(北魏)に入った。

原文初,讜妻皇甫氏被掠,賜中官為婢,皇甫遂乃詐癡,不能梳沐。後讜為劉駿冀州長史,因貨千餘匹購求皇甫。高宗怪其納財之多也,引見之,時皇甫年垂六十矣。高宗曰:「南人奇好,能重室家之義,此老母復何所任,乃能如此致費也。」皇甫氏歸,讜令諸妾境上奉迎。數年卒,卒後十年而讜入國。

張讜の兄の子安世は、正始年間に、梁漢の地で夏侯道遷と共に帰順した。客として数年を過ごし、東河間太守として出向し、任中に卒去した。

原文讜兄子安世,正始中,自梁漢同夏侯道遷歸款。為客積年,出為東河間太守,卒官。

元茂は、信都県令となり、冀州治中に遷った。

原文元茂,為信都令,遷冀州治中。

元茂の弟の子の譲は、洛州安西府長史・都水使者となった。

原文元茂弟子讓,洛州安西府長史、都水使者。

田益宗

原文田益宗

田益宗は、光城の蛮である。身長八尺、雄壮果断で将略があり、容貌挙止は普通の蛮と異なっていた。代々四山の蛮帥を務め、蕭賾(南斉の武帝)に制せられていた。太和十七年、使者張超を遣わして上表し帰順した。十九年、員外散騎常侍・都督光城弋陽汝南新蔡宋安五郡諸軍事・冠軍将軍・南司州刺史に任じられ、光城県開国伯に封じられ、蛮邑一千戸を食んだ。統轄する守宰は、その銓衡任用に任せられた。後に益宗が既に淮北を渡ったため、司州とすべきでないとして、新蔡に東豫州を立て、益宗を刺史とした。まもなく安昌県伯に改封され、実邑五百戸を食んだ。二十二年、征虜将軍の号に進んだ。

原文田益宗,光城蠻也。身長八尺,雄果有將略,貌狀舉止,有異常蠻。世為四山蠻帥,受制於蕭賾。太和十七年,遣使張超奉表歸款。十九年,拜員外散騎常侍、都督光城弋陽汝南新蔡宋安五郡諸軍事、冠軍將軍、南司州刺史;光城縣開國伯,食蠻邑一千戶;所統守宰,任其銓置。後以益宗既渡淮北,不可仍為司州,乃於新蔡立東豫州,以益宗為刺史。尋改封安昌縣伯,食實邑五百戶。二十二年,進號征虜將軍。

景明初年、蕭衍(梁の武帝)が軍主呉子陽に命じて衆を率い三関を寇掠させた。益宗は光城太守梅興之に歩騎四千を率いさせ、陰山関の南八十余里に進軍し、長風城を占拠して子陽を迎撃し、大破して千余級を斬獲した。蕭衍の建寧太守黄天賜が赤亭に城を築き、またその将黄公賞を漴城に屯させ、長風と対峙した。益宗は安蛮太守梅景秀に命じてこれに掎角の勢いで撃討させ、天賜らを破り、数百を斬首し、その二城を獲た。上表して言った、「臣は聞く、機の在る所は聖賢もこれを疑わず、弱きを兼ね昧きを攻むるは前王もこれを捨てず、と。皆、群生を湯炭より救い、武功を方来に盛んにするためである。然れども霜葉将に淪れんとする時は、勁飈なくしてはその籜を速めること能わず。天の棄つる所は、手を仮らずしてはその人を殲すること能わず。窃かに惟うに、蕭衍は常を乱し、君臣交争し、江外の州鎮は中分されて両つとなり、東西抗峙して既に歳時を淹びたり。民庶は転輸に窮し、甲兵は戦闘に疲れ、事は目前に救い、力は麾下に尽きたり。外維の州鎮を顧みる暇なく、綱紀は庶方に及び、藩城は棊の如く立ち、孤存するのみ。機に乗じて電掃し、彼の蛮疆を廓清せずんば、恐らく後の経略、此れに易きは未だあらん。且つ寿春は平らぐと雖も、三面仍って梗り、鎮守の宜しきは、実に豫め設くるを須う。義陽は淮源に差し近く、津要に利して渉り、朝廷行師は必ず此の道よりす。若し江南一たび平らげば、淮外に事有らんには、須らく夏水の汎長に乗じ、舟を長淮に列ねるべし。師を寿春に赴かせんには、須らく義陽の北よりすべく、是れ即ち我が喉要に居り、慮りに在りて弥深し。義陽の滅ぶは、今実に時なり。彼の衆を度るに、須らく精卒一万二千を過ぎず。然れども行師の法は、形勢を張るを貴ぶ。請う、両荊の衆をして西は随雍に擬せしめ、揚州の卒を建安に頓せしめ、以て三関の援を捍がしめん。然る後に二豫の軍をして直ちに南関を拠り、延頭に対抗せしめん。一都督を遣わして諸軍を総べ節度せしめ、季冬に師を進め、春末に迄らしめば、十旬を過ぎず、必ず之を克たん」。

原文景明初,蕭衍遣軍主吳子陽率眾寇三關。益宗遣光城太守梅興之步騎四千,進至陰山關南八十餘里,據長風城,逆擊子陽,大破之,斬獲千餘級。蕭衍建寧太守黃天賜築城赤亭,復遣其將黃公賞屯於漴城,與長風相持。益宗命安蠻太守梅景秀為之掎角擊討,破天賜等,斬首數百,獲其二城。上表曰:「臣聞機之所在,聖賢弗之疑;兼弱攻昧,前王莫之捨。皆拯羣生於湯炭,盛武功於方來。然霜葉將淪,非勁飈無以速其籜;天之所棄,非假手無以殲其人。竊惟蕭衍亂常,君臣交爭,江外州鎮,中分為兩,東西抗峙,已淹歲時。民庶窮於轉輸,甲兵疲於戰鬬,事救於目前,力盡於麾下。無暇外維州鎮,綱紀庶方,藩城棊立,孤存而已。不乘機電掃,廓彼蠻疆,恐後之經略,未易於此。且壽春雖平,三面仍梗,鎮守之宜,實須豫設。義陽差近淮源,利涉津要,朝廷行師,必由此道。若江南一平,有事淮外,須乘夏水汎長,列舟長淮。師赴壽春,須從義陽之北,便是居我喉要,在慮彌深。義陽之滅,今實時矣。度彼眾不過須精卒一萬二千。然行師之法,貴張形勢。請使兩荊之眾西擬隨雍,揚州之卒頓于建安,得捍三關之援;然後二豫之軍直據南關,對抗延頭。遣一都督總諸軍節度,季冬進師,迄于春末,弗過十旬,克之必矣!」

世宗(宣武帝)はこれを容れ、鎮南将軍元英を遣わして義陽を攻撃させた。益宗はその息子魯生に歩騎八千を率いさせ、賊の糧運を断ち、併せてその鈞城の積聚を焼いた。蕭衍の戍主趙文挙が衆を率いて拒戦したが、魯生はこれを破り、文挙及び小将胡建興・古皓・莊元仲らを捕え、五千余級を斬り、千五百人を溺死させ、倉米運舟は焼き尽くされた。後に賊の寧朔将軍楊僧遠が衆二千を率い、蒙籠に寇逼した。益宗は魯生と戍主奇道顕に命じて迎撃してこれを破り、十里を追奔し、千余を俘斬した。平南将軍の号に進んだ。また詔して益宗にその部曲及び州鎮の文武を率いさせ、仮節・征虜将軍・太僕少卿宇文福と共に蛮楚を綏防させ、安南将軍を加え、封邑を百戸増やし、帛二千匹を賜った。

原文世宗納之,遣鎮南元英攻義陽。益宗遣其息魯生領步騎八千,斷賊粮運,并焚其鈞城積聚。衍戍主趙文舉率眾拒戰,魯生破之,獲文舉及小將胡建興、古皓、莊元仲等,斬五千餘級,溺死千五百人,倉米運舟焚燒蕩盡。後賊寧朔將軍楊僧遠率眾二千,寇逼蒙籠,益宗命魯生與戍主奇道顯逆擊破之,追奔十里,俘斬千餘。進號平南將軍。又詔益宗率其部曲并州鎮文武,與假節、征虜將軍、太僕少卿宇文福綏防蠻楚,加安南將軍,增封一百戶,賜帛二千匹。

白早生が豫州で反乱を起こすと、益宗に詔して言った、「懸瓠は要藩にして、密かに嵩潁に邇き、南疆の重鎮、寄する所軽からず。而るに群小猖狂、忽ち釁逆を構え、鎮主を殺害し、規して反叛を成さんとす。此れを忍びば、孰れか容るべからざらん。即ち尚書邢巒を遣わし精騎五万を総べ、星馳電駆せしめ、征南将軍・中山王英に馬歩七万を統率せしめ、絡繹として継発せしむ。量るに此の蟻寇は唯だ逃奔すべきのみ。将軍の志、犲狼を翦ぎ以て辺境を清めんとするを知り、節義慷慨、良に嘉す可し。蹇蹇の至らざれば、何を以て能く爾くの如くせん。深く誠款を戢め、方に相委託せんとす。故に中書舎人趙文相を遣わし、具に朕が懐を宣べしむ。往還の規は、口を別ちて指授す。便ち善く算略を尽くし、宜しきに随い追掩し、此の豎をして竄逸する有らしむるなかれ。清蕩に近く遅れば、更に別旨有らん」。当時、楽口より南は、郢豫二州の諸城皆賊に没し、唯だ義陽のみが残っていた。蕭衍は益宗を招くに車騎大将軍・開府儀同三司・五千戸郡公をもってした。当時の安危は益宗の去就に在ったが、益宗は節を守って動かなかった。郢豫が平定されたのは、益宗の力によるものであった。

原文白早生反於豫州,詔益宗曰:「懸瓠要藩,密邇崧潁,南疆之重,所寄不輕。而羣小猖狂,忽構釁逆,殺害鎮主,規成反叛。此而可忍,孰不可容。即遣尚書邢巒總精騎五萬,星馳電驅;征南將軍、中山王英統馬步七萬,絡繹繼發。量此蟻寇唯當逃奔。知將軍志翦犲狼,以清邊境,節義慷慨,良在可嘉,非蹇蹇之至,何以能爾?深戢誠款,方相委託。故遣中書舍人趙文相具宣朕懷,往還之規,口別指授,便可善盡算略,隨宜追掩,勿令此豎得有竄逸。遲近清盪,更有別旨。」時自樂口已南,郢豫二州諸城皆沒於賊,唯有義陽而已。蕭衍招益宗以車騎大將軍、開府、儀同三司、五千戶郡公。當時安危,在益宗去就,而益宗守節不移。郢豫克平,益宗之力也。

益宗は年齢が次第に老衰し、収奪に飽くことを知らず、兵士と民衆はその侵害と騒擾を患いていた。諸子及び孫たちは競って賄賂と財貨を貪り、管内の人々はこれを苦しみ、皆が反乱を企てようと語った。世宗も深くこれを憂慮し、そこで中書舎人劉桃符を派遣して旨を宣べ慰諭させ、これを安んじようとした。桃符が帰還し、益宗の侵掠の状況を啓上した。世宗は彼に詔して言うには、「風聞するところでは、卿の息子魯生が淮南において貪暴を極め、細民を擾乱し、また横暴に梅伏生を殺害したという。このままでは止まず、卿の誠実な功績を損なうであろう。魯生を使者とともに朝廷に赴かせよ。任官して用いるであろう。もし外任を望むならば、すぐに中畿の一郡を授けよう」と。魯生は久しく到着しなかった。延昌年間、詔して言うには、「益宗は先朝の耆艾であり、辺境に服勤してきた。その地のために人を必要とし、長く屈辱を与えることはできない。使持節・鎮東将軍・済州刺史とし、常侍は従前の通りとする」と。世宗は彼が交代を受け入れないことを慮り、後将軍李世哲と桃符に兵を率いて襲撃させ、不意を突いて広陵に突入した。益宗の子魯生・魯賢らは関南に奔り、賊兵を招き寄せ、諸々の戍を襲い逐い、光城以南はすべて賊の占拠するところとなった。世哲は討伐してこれを撃破し、再び郡戍を設置し、益宗を帰還させた。征南将軍・金紫光禄大夫を授け、散騎常侍を加え、曲陽県開国伯に改封した。

原文益宗年稍衰老,聚斂無厭,兵民患其侵擾。諸子及孫競規賄貨,部內苦之,咸言欲叛。世宗深亦慮焉,乃遣中書舍人劉桃符宣旨慰喻,庶以安之。桃符還,啟益宗侵掠之狀。世宗詔之曰:「風聞卿息魯生淮南貪暴,擾亂細民,又橫殺梅伏生,為爾不已,損卿誠效。可令魯生與使赴闕,當加任使。如欲外祿,便授中畿一郡。」魯生久未至。延昌中,詔曰:「益宗先朝耆艾,服勤邊境,不可以地須其人,遂令久屈。可使持節、鎮東將軍、濟州刺史,常侍如故。」世宗慮其不受代,遣後將軍李世哲與桃符率眾襲之,出其不意,奄入廣陵。益宗子魯生、魯賢等奔於關南,招引賊兵,襲逐諸戍,光城已南皆為賊所保。世哲討擊破之,復置郡戍,而以益宗還。授征南將軍、金紫光祿大夫,加散騎常侍,改封曲陽縣開國伯。

益宗は辺境の地で成長し、内陸の栄達を願わず、たとえ位階が崇高で重くとも、なおこれを恨みとし、上表して言うには、「臣はかつて南方にあり、皇化を仰ぎ食み、部曲三千余家を擁率し、あの辺境の栄華を棄て、楽土に帰投しました。兄弟は塗炭の苦しみを味わい、賊朝に隙を結びました。高祖孝文皇帝は臣の誠心を記録され、藩任を授けられました。まさに国威を仰ぎ憑り、冤罪と恥辱を雪ごうと望んでいたところ、どうして寵愛に背き仇敵に向かい、危険に就いて命を危うくすることができましょうか。かつて郢州・豫州が紛擾した際、臣はみずから義兵を率い、賊の通路を遮断し、ひそかに誠心を以て朝廷と民間に仰ぎ簡抜されると考えました。しかし重任を担い辺境に拠ることは、容易に誹謗を招き、桃符が横暴に讒言と誹毀を加え、臣が常に南方に投じようとしていると説き、暴乱は一つではないと申し立てるに至りました。どうか事実を検証し、何を以て証拠とするのかお尋ねください。また番兵を虐害し、殺害・売却が過半に及ぶと申しておりますが、もしその言う通りなら、死傷・行方不明の家が訴訟を起こすのはいくつあるのでしょうか。さらに官の粟帛を消耗し、倉庫が傾き尽きると申しております。御史が再検査しましたが、少しも損耗・欠損はありませんでした。交代の初日、二子の魯生・魯賢、従子の超秀らは皆城中におり、安らかで異変はなかったのに、桃符は密かに積射将軍鹿永固に私的に甲士を率いさせ、息子の魯生を殴打し、かろうじて命を存することができました。声高に『私は面して勅命を受けた。もし魯生・魯賢の首級を得る者がいれば、それぞれ本郡を賞与する』と唱えました。士馬が囲み繞らし、城に登って殺害を叫び、二息は戦慄し恐怖したのは、実にこれが原因です。残された家業は破壊され、生計は蕩然としてしまいました。さらに墳墓を毀ち発き、枯れた骸骨を露わに曝しました。生きている者は生別の苦しみに罹り、亡き魂は粉骨の痛みに遭いました。かつて朝廷は頻繁に桃符を派遣して幾度も慰労を加えましたが、桃符は凶悪で姦しく、擅に禍福を生じさせ、『ただ私が取り成すことで、恩旨が降るのだ』と申しました。そして京師に戻ると、再び朝廷を欺き、臣父子には全く忠誠がなく、貞良を誣陷し、朝廷の視聴を惑わし乱したと申し立てました。どうか桃符を拘引し、臣とともに対決させてください。もし臣に罪状があれば、分かって法網に従います。もし桃符が誤りであれば、罪は当然帰すべきところに帰すべきです」と。詔して言うには、「既に大赦を経ている。方々で更に獄を起こすことは許されない」と。

原文益宗生長邊地,不願內榮,雖位秩崇重,猶以為恨,上表曰:「臣昔在南,仰餐皇化,擁率部曲三千餘家,棄彼邊榮,歸投樂土,兄弟荼炭,釁結賊朝。高祖孝文皇帝錄臣乃誠,授以藩任。方欲仰憑國威,冀雪冤耻,豈容背寵向讎,就險危命。昔郢豫紛擾,臣躬率義兵,擁絕賊路,竊謂誠心,仰簡朝野。但任重據邊,易招塵謗,致使桃符橫加讒毀,說臣恒欲投南,暴亂非一。乞檢事原,以何為驗?復云虐害番兵,殺賣過半,如其所言,未審死失之家,所訟有幾?又云耗官粟帛,倉庫傾盡。御史覆檢,曾無損折。初代之日,二子魯生、魯賢、從子超秀等並在城中,安然無二,而桃符密遣積射將軍鹿永固私將甲士,打息魯生,僅得存命。唱云:『我被面敕,若能得魯生、魯賢首者,各賞本郡。』士馬圍遶,騰城唱殺,二息戰怖,實由於此。殘敗居業,為生蕩然,乃復毀發墳墓,露泄枯骸。存者罹生離之苦,亡魂遭粉骨之痛。昔歲朝廷頻遣桃符數加慰勞,而桃符凶姦,擅生禍福,云『唯我相申,致降恩旨』。及返京師,復欺朝廷,說臣父子全無忠誠,誣陷貞良,惑亂朝聽。乞攝桃符與臣並對,若臣罪有狀,分從憲網;如桃符是謬,坐宜有歸。」詔曰:「既經大宥,不容方更為獄。」

熙平初年、益宗はまた上表して東豫州を乞い、二子を招こうとした。霊太后は令して言うには、「卿の誠実は二朝に著しく、勲功は南方で光り、万里を藩屏とし、列土して家を承けている。前朝からの恩恵は、報酬と叙任が浅からぬ。兼ねて子弟は栄誉を荷い、中表は恩沢を被っている。軽重を相□することは、卿の知るところである。先帝は卿が労苦を積んだ旧臣であるため、州が小さく禄が薄いとして、故に華やかな地域に牧を遷し、爰に顕かな位階に登らせた。当時、番兵は交代し、猜疑を生じなかったが、卿の息子魯賢らは事もなく外叛し、忠孝ともに背き、翻って戎首となった。卿の誠実が重んじられるため、再び計算しなかった。今、征南を臥して護り、金紫を以て栄誉を与え、朝廷の処遇は、また先よりも甚だしい。かつ卿は年老いて、まさに閑養に就こうとしている。どうして本州を念頭に置くことができようか。魯賢が来るか否かは、自ら赴くのを待つまでもなく、ただ慰撫して受け入れる使者を派遣すれば、十分に明らかになるであろう。もし確かに使者を派遣するなら、改めて啓上して聞かせ、別に東豫州に勅して、卿が魯賢を諭し曉かすことを聴許させよう」と。二年に卒去、七十三歳。征東大将軍・郢州刺史を追贈し、諡して莊と言う。

原文熙平初,益宗又表乞東豫,以招二子。靈太后令曰:「卿誠著二朝,勳光南服,作藩萬里,列土承家,前朝往恩,酬敍不淺。兼子弟荷榮,中表被澤,相□輕重,卿所知悉。先帝以卿勞舊,州小祿薄,故遷牧華壤,爰登顯級。于時番兵交換,不生猜疑,而卿息魯賢等無事外叛,忠孝俱乖,翻為戎首。以卿誠重,不復相計。今臥護征南,榮以金紫,朝廷處遇,又甚於先。且卿年老,方就閑養,焉得以本州為念?魯賢來否,豈待自往也,但遣慰納,足相昭亮。若審遣信,當更啟聞,別敕東豫,聽卿喻曉魯賢。」二年卒,年七十三。贈征東大將軍、郢州刺史,諡曰莊。

少子の纂は、封を襲いだ。位は征虜将軍・中散大夫に至った。卒去し、左将軍・東豫州刺史を追贈された。

原文少子纂,襲封。位至征虜將軍、中散大夫。卒,贈左將軍、東豫州刺史。

益宗の長子随興は、冠軍将軍・平原太守であった。随興は情実で辺境の官職を貪り、内陸を望まず、弋陽・汝南二郡太守に改めて任命された。

原文益宗長子隨興,冠軍將軍、平原太守。隨興情貪邊官,不願內地,改授弋陽、汝南二郡太守。

益宗の兄興祖は、太和末年、また来朝して帰附した。景明年間、仮の郢州刺史となった。義陽に郢州が設置されると、征虜将軍・江州刺史に改めて任命され、詔によって朝服・剣舄一具を賜り、麻城を治めた。興祖が卒去すると、益宗は随興を代わりに立てるよう請うたが、世宗は許さず、廃止して東豫州に併合した。

原文益宗兄興祖,太和末,亦來歸附。景明中,假郢州刺史。及義陽置郢州,改授征虜將軍、江州刺史,詔賜朝服、劍舄一具,治麻城。興祖卒,益宗請隨興代之,世宗不許,罷并東豫。

初め、益州が内附した後、蕭鸞は寧州刺史董巒を派遣してこれを追討させた。官軍が進撃し、巒とその子景曜を捕らえ、行宮に送った。

原文初,益州內附之後,蕭鸞遣寧州刺史董巒追討之,官軍進擊,執巒并其子景曜,送於行宮。

巒は、字を仲舒といい、営陽の人である。真君末年、父に従って南方に叛いた。江外で成長したとはいえ、言語と風気はなお華夏と同じであった。性質は武に疎く、文字を多く識らなかった。高祖は庭で巒を引見し、南方の事情を問うたが、巒は怖れて答えられず、幾度も景曜を顧みた。景曜が進み出て父に代わって答え、蕭鸞が帝位を簒奪襲撃した始終を述べ、言辞と道理が横溢し、言うことは非であるが弁舌さわやかであったので、高祖はこれを異とした。巒を越騎校尉とし、景曜を員外郎とした。南方に叛こうと謀り、罪に坐して朔州に徙された。車駕が漢陽を南討するに及び、巒を召して従軍させた。景曜が洛陽に至り、密かにその父が必ず奔叛すると啓上した。軍が魯陽に駐屯した時、巒は単騎で南方に逃走し、南陽・新野を過ぎ、二城に歴訪して魏軍がまさに到来することを告げ、防備を戒めた。房伯玉・劉忌はともに足りるものは慮るに足りないと言った。巒は言うには、「そうではない。軍勢は甚だ盛んである」と。境首に至り、北に向かって泣き叫び景曜に言うには、「我が百口の家族は彼の地にいる。事理として還らなければならず、汝一子を顧みることはできない」と。景曜は鎖で縛られ行在所に連行され、罪状を数え上げられて斬られた。

原文巒,字仲舒,營陽人。真君末,隨父南叛。雖長自江外,言語風氣猶同華夏。性疏武,不多識文字。高祖引巒於庭,問其南事,巒怖不能對,數顧景曜。景曜進代父答,申敍蕭鸞篡襲始終,辭理橫出,言非而辯,高祖異焉。以巒為越騎校尉,景曜為員外郎。謀欲南叛,坐徙朔州。及車駕南討漢陽,召巒從軍。景曜至洛陽,密啟其父必當奔叛。軍次魯陽,巒單騎南走,過南陽、新野,歷告二城以魏軍當至,戒之備防。房伯玉、劉忌並云無足可慮。巒曰:「不然,軍勢甚盛。」至境首北向哭呼景曜云:「吾百口在彼,事理須還,不得顧汝一子也。」景曜鎖詣行在所,數而斬之。

また陳伯之という者がいた。下邳の人である。勇力を以て自ら効力し、江南に仕え、鎮南大将軍・江州刺史・豊城県開国公となった。景明三年、伯之は使者を派遣して密かに降伏を請う表を奉り、併せてその子の冠軍将軍・徐州刺史・永昌県開国侯虎牙を人質として派遣した。四年、伯之を持節・都督江郢二州諸軍事・平南将軍・江州刺史・曲江県開国公とし、邑一千戸を賜う。虎牙を冠軍将軍・員外散騎常侍・豫寧県開国伯とし、邑五百戸を賜うた。正始初年、蕭衍の征虜将軍趙祖悦が水東に城を築き、潁川と対峙し、兵数千を置き、攻討の基盤としようとした。伯之は進軍して祖悦を討ち、これを大破し、勝ちに乗じて長駆して城に入り、祖悦に三つの創傷を刺し、賊衆は大敗した。進んで南城を討ち、賊の諸部を破り、数千を斬り捕らえた。二年の夏、伯之を光禄大夫に任じ、虎牙は前軍将軍に遷った。

原文又有陳伯之者,下邳人也。以勇力自効,仕於江南,為鎮南大將軍、江州刺史、豐城縣開國公。景明三年,伯之遣使密表請降,并遣其子冠軍將軍、徐州刺史、永昌縣開國侯虎牙為質。四年,以伯之為持節、都督江郢二州諸軍事、平南將軍、江州刺史、曲江縣開國公,邑一千戶;虎牙為冠軍將軍、員外散騎常侍、豫寧縣開國伯,邑五百戶。正始初,蕭衍征虜將軍趙祖悅築城於水東,與潁川接對,置兵數千,欲為攻討之本。伯之進軍討祖悅,大破之,乘勝長驅入城,刺祖悅三創,賊眾大敗。進討南城,破賊諸部,斬獲數千。二年夏,除伯之光祿大夫,虎牙遷前軍將軍。

孟表

原文孟表

孟表は、字を武達といい、済北蛇丘の人である。自ら云うには、本来北地に属し、索里諸孟と号した。青州・徐州が内属した後、表は事に因って南渡し、蕭鸞に仕えて馬頭太守となった。

原文孟表,字武達,濟北蛇丘人也。自云本屬北地,號索里諸孟。青徐內屬後,表因事南渡,仕蕭鸞為馬頭太守。

太和十八年(494年)、孟表は郡を拠点として帰順し、輔国将軍・南兖州刺史に任ぜられ、馬頭太守を兼ね、譙県侯の爵位を賜り、渦陽に駐屯した。後に蕭鸞がその豫州刺史裴叔業を派遣して六十余日にわたり攻囲したが、城中の食糧は尽き、ただ朽ちた革や草木の皮葉を糧とした。孟表は将士を慰撫し、力を合わせて固守した。折しも鎮南将軍王肅が義陽の包囲を解き、帰還して救援したため、叔業は退却した。初め、一人の南方人が、姓は辺、字は叔珍と名乗り、妻子を連れて寿春から孟表のもとに身を寄せ、教化を慕い帰国したと言った。朝廷に送り届ける前に、叔業の城包囲に遭遇した。孟表は後に叔珍の言葉と顔色を観察し、甚だ異変を疑い、ただちに推問したところ、実は叔業の姑の子であり、叔業に派遣されて内応を図る者であり、連れていた妻子もまた偽りであることが分かった。孟表は叔珍を北門外に引き出して斬り、これにより人心はようやく安まった。

原文太和十八年,表據郡歸誠,除輔國將軍、南兗州刺史,領馬頭太守,賜爵譙縣侯,鎮渦陽。後蕭鸞遣其豫州刺史裴叔業攻圍六十餘日,城中食盡,唯以朽革及草木皮葉為粮。表撫循將士,勠力固守。會鎮南將軍王肅解義陽之圍,還以救之,叔業乃退。初,有一南人,自云姓邊字叔珍,攜妻息從壽春投表,云慕化歸國。未及送闕,便值叔業圍城。表後察叔珍言色,頗疑有異,即加推覈,乃云是叔業姑兒,為叔業所遣,規為內應,所攜妻子並亦假妄。表出叔珍於北門外斬之,於是人情乃安。

高祖(孝文帝)はその誠実な功績を嘉し、汶陽県開国伯に封じ、邑五百戸を賜った。征虜将軍・済州刺史に転じ、散騎常侍・光禄大夫となり、平西将軍の号を進めた。世宗(宣武帝)の末年、平東将軍・齊州刺史に降格した。延昌四年(515年)に卒去、八十一歳。安東将軍・兗州刺史を追贈され、諡を恭といった。

原文高祖嘉其誠績,封汶陽縣開國伯,邑五百戶。遷征虜將軍、濟州刺史,為散騎常侍、光祿大夫,進號平西將軍。世宗末,降平東將軍、齊州刺史。延昌四年卒,年八十一。贈安東將軍、兗州刺史,諡曰恭。

子の孟崇は爵位を継いだ。官は昌黎・済北二郡太守に至った。

原文子崇,襲。官至昌黎、濟北二郡太守。