韓麒麟
韓麒麟は、昌黎郡棘城県の人である。自らは漢の大司馬韓増の後裔であると称した。父の韓瑚は、秀容・平原の二郡太守を務めた。麒麟は幼くして学問を好み、姿容は美しく、騎射に長じた。恭宗が国政を監理した時、東曹主書となった。高宗が即位すると、魯陽男の爵位を賜り、伏波将軍を加えられた。父が亡くなると、喪に服する礼節を守り、郷里の一族から称賛された。
後に征南将軍 慕容 白曜の軍事に参じ、升城を攻撃したが、兵士に多くの負傷者が出た。城が陥落した時、白曜は捕虜を生き埋めにしようとした。麒麟は諫めて言った。「今、偽朝の領内に初めて足を踏み入れ、進取を図ろうとしている時である。威厳を緩め、恩恵を厚くして、敵の民衆に示すべきです。これは韓信が范陽を降した時の計略です。強敵が目前にいるのに、その民衆をすぐに坑殺すれば、これより東の者は、それぞれが守りを固め、攻め落とすのは難しくなるでしょう。時日が経ち軍が疲弊し、外部の民がそれに乗じて変事を起こせば、三斉の地を容易に図ることはできません。」白曜はこれに従い、皆に旧業に戻ることを許したので、斉の民は大いに喜んだ。後に白曜は上表して麒麟を冠軍将軍とし、房法寿と対になる形で冀州 刺史 に任じた。白曜が東陽を攻撃した時、麒麟は義租六十万斛と攻戦の器械を献上したので、軍資に不足はなくなった。白曜が誅殺されると、麒麟も召還され、長年、官職に就かない状態が続いた。高祖の時、給事黄門侍郎に任じられ、駅伝車に乗って徐州・兗州を招き慰撫し、帰順した反乱民は四千余家に及んだ。
まもなく冠軍将軍・斉州刺史に任じられ、魏昌侯の爵位を仮授された。麒麟は官にあって、刑罰を用いることは少なかった。従事の劉普慶が麒麟に進言して言った。「明公は夏の地に節を仗っておられるのに、一人も斬戮なさらないのでは、どうして威を示されましょうか。」麒麟は言った。「刑罰は悪を止めるためのもので、やむを得ず用いるものだ。今、民は法を犯していない。何を斬るというのか。もし斬り捨てて威名を立てねばならないなら、そなたをもってこれに当てよう。」普慶は恥じ恐れて退いた。麒麟は、新たに帰附した者が朝廷の官職に就く途がなく、士人が沈滞しているのを憂い、上表して言った。「斉の地は以前、偽朝に属し、長い年月が経っており、旧来の州府の官僚は、動かすと数百人に及びます。皇威が及んで以来、職務は簡素化され、郡守・県令の欠員があっても、土地の士人を監督官として任用することは許されません。思うに、新たな民は朝廷の官職に就く階梯がなく、州郡の役職は甚だ少なく、埋もれている者が多いため、官職を願い、軽々しく去就を変えます。愚考しますに、郡守・県令に欠員があれば、豪族で声望ある者を推挙任用し、吏員を増員し、広く賢哲を招くべきです。そうすれば、華族は栄誉を受け、良才は登用され、徳を懐き土地に安住するようになるでしょう。その方策はおそらくここにあります。」朝廷の議論はこれに従った。
太和十一年、京都で大飢饉が起こり、麒麟は時務について上表して述べた。
十二年春、官職のまま死去した。五十六歳であった。遺言で子に命じ、素朴な棺で葬り、事は倹約に従うようにした。麒麟は生来恭しく慎み深く、常に律令を座の傍らに置いていた。臨終の日、俸給として得た絹が数十匹あるだけで、その清貧はこのようなものであった。 散騎常侍 ・安東将軍・燕郡公を追贈され、 諡 を康といった。
長子の興宗、 字 は茂先。学問を好み、文才があった。十五歳で太学で経書を学んだ。後に 司空 の高允が上奏して秘書郎とし、著作の事に参与させた。中山王の元叡は当時、貴寵を受けていた。(欠文)文章を為した。秘書中散に遷った。太和十四年冬、死去した。寧遠将軍・漁陽太守を追贈された。
子の子熙、字は元雍。若い頃から自らを整え、かなりの学識があった。弱冠の年になっても、自ら進んで官途に就くことができず、 侍中 の崔光が子熙を清河王元懌の常侍に推挙し、郎中令に遷った。初め、子熙の父(興宗)は爵位を弟の顕宗に譲ろうとしたが、顕宗は受けなかった。子熙は父の平素の思いに従い、結局、爵位を継承しなかった。顕宗が亡くなると、子熙は別に爵位を賜ったが、その先祖の爵位を弟の仲穆に譲った。兄弟の友愛はこのようなものであった。父が亡くなると、喪に服する礼節を守った。子熙は元懌に寵遇されていたため、官位を空け、その喪が終わった後に再び任用された。
元叉が元懌を害すると、長く埋葬することができなかった。子熙はこのことを憂い憔悴し、田野に身を潜め、王がもし復封され、礼をもって改葬されないならば、生涯仕官しないと誓った。後に霊太后が政権に返り咲き、元叉を 尚書 令とし、その領軍の職を解いた。子熙は元懌の中大夫劉定興・学官令傅霊𢷋・賓客張子慎と共に宮門に伏して上書した。
上書が奏上されると、霊太后はその義を認め、子熙を 中書 舎人に抜擢した。後に遂に鄭羲の棺を剖き、元叉に死を賜った。
まもなく国史の編修に携わり、寧朔将軍を加えられた。間もなく著作郎に任じられ、また司州別駕を兼ねた。輔国将軍・鴻臚少卿に転じた。建義初年、黄門侍郎を兼ね、まもなく正任となった。
子熙は清廉潔白で自らを守り、人付き合いをしなかった。また幼くして孤児となり、叔父の顕宗に養育された。顕宗が亡くなると、顕宗の子の伯華はまだ幼かったが、子熙は兄弟同様に友愛し、成長しても共に住み、車馬や資財は伯華が使うに任せ、そのことを言葉や顔色に表すことはなかった。また上書して自分の官階を分けて伯華に与えるよう求め、これにより伯華は東太原太守に任じられた。伯華が郡に在任中、刺史の元弼に侮辱されると、子熙は涙ながらに朝廷に訴え、粛宗は詔を下して調査させ、元弼は大いに譴責を受けた。
尒朱栄が葛栄を捕らえ、京師に送った時、粛宗は面会してその罪状を数え上げようとした。子熙は、葛栄は既に元凶であり、必ず死ぬと自覚しているのだから、無礼な振る舞いをする恐れがあり、面会すべきではないと考えた。尒朱栄はこれを聞いて大いに怒り、子熙の罪を請うたが、粛宗は許して責めなかった。まもなく征虜将軍を加えられた。邢杲が反逆を起こすと、詔により子熙は慰労に向かった。邢杲は偽って降伏し、子熙はそれを信じた。楽陵に戻った時、邢杲が再び反旗を翻したため、子熙は帰還した。廷尉に付され、大辟の罪に論ぜられたが、死罪を許されて免官となった。間もなく尚書吏部郎を兼ねた。普泰初年、通直 散騎常侍 ・撫軍将軍・光禄大夫に任じられ、まもなく正任の吏部郎となった。出帝の初年、再び著作郎を領した。冊命奉呈の功績により、歴城県開国子に封ぜられ、食邑五百戸を与えられ、さらに衛将軍・右光禄大夫を加えられた。
天平初年、侍読となり、また国子祭酒に任じられた。子熙は質素で貧しさに安んじ、常に退いて静かにすることを好んだ。 鄴 に遷都した当初、百官には皆、兵力(従卒)が支給されたが、当時、祭酒は閑職と見なされ、二人だけが支給された。ある者が陳情するよう勧めたが、子熙は言った。「朝廷が自ら祭酒に兵を与えないのであって、韓子熙の何事か。」論者はこれを高く評価した。まもなく驃騎将軍に任じられた。元象年間、衛大将軍を加えられた。
以前、子熙は弟が王氏(叔母の娘)を妻とし、二人の子を儲けた。子熙はまだ結婚しておらず、後に寡婦の李氏と私通して三人の子を儲けた。王氏と李氏は仲が悪く、互いに告発し合い、何年もやまなかった。子熙はこのため恥じ恨み、病を発した。興和年間、孝静帝が釈奠を行おうとし、子熙に侍講を命じた。まもなく死去し、遺言で追贈や諡を求めないよう戒めたが、その子はこれに従わず、遂に請願に及んだ。武定初年、驃騎将軍・儀同三司・幽州刺史を追贈された。
興宗の弟、顯宗は、字を茂親という。性質は剛直にして、面折庭諍することができ、また才学もあった。沙門の法撫は、三斉においてその聡悟を称えられ、常に顯宗と校試し、百余人の名を抄写し、各々一遍読み上げると、直ちに覆唱させたが、法撫にはなお一二の誤謬があったのに対し、顯宗には全く誤りがなかった。法撫は嘆じて言う、「貧道は生まれて以来、ただ郎君にのみ服する」と。
太和の初め、秀才に挙げられ、対策で甲科に及第し、著作佐郎に任ぜられた。車駕が南征するに当たり、兼中書侍郎を務めた。遷都が定まると、顯宗は上書した。
高祖はこれを大いに採用した。
顯宗はまた上言して言う、「賢を進め才を求めることは、百王の先んずるところである。前代は士を取るに、必ずまず名を正しくし、故に賢良・方正の称があった。今の州郡の貢察は、徒に秀・孝の名のみありて、秀・孝の実がない。しかるに朝廷はただその門望を検するのみで、再び弾坐することはない。このようであれば、別に門望を貢せしめて士人を叙するように命ずればよく、何ぞ秀・孝の名を仮冒する必要があろうか。そもそも門望とは、その父祖の遺烈であり、また何ぞ皇家に益するところがあろう。時に益するものは、賢才のみである。もしその才があれば、屠釣・奴虜の賤しき者であっても、聖皇は臣とすることに恥じない。もしその才がなければ、三后の胤であっても、自ら皂隷に墜ちるのである。これにより大才は大官を受け、小才は小官を受け、各々その所を得て、もって雍熙を致すのである。議者あるいは言う、『今の世には等しく奇才がないから、門閥によって士を取るに如かぬ』と。これもまた誤りである。世に周邵がないからといって、どうして宰相を廃して置かないことができようか。ただその寸長銖重のある者を校べ、すなわち先にこれを叙すれば、賢才は遺れることはない」。
また言う、「帝皇が尊きに居て下を御する所以は、威である。兆庶が悪を徙めて善に従う所以は、法である。これにより国あり家ある者は、必ず刑法をもって治め、生民の命はここに在る。罪あれば必ず罰し、罰は必ず辜に当てば、たとえ箠撻の刑であっても、人は敢えて犯す者はない。制あって行われず、人が僥倖を得れば、たとえ参夷の誅であっても、もって粛清するには足りない。太和以来、多く盗を坐して市に棄つことはないが、遠近は粛清されている。これによって言えば、姦を止めるは防検に在り、刑に麗することに在らずである。今、州郡の牧守は、当時の名を邀え、一切の法を行い、臺閣の百官もまた皆、深酷を以て無私とし、仁恕を以て盗を容るるものとしている。互いに敦厲し、遂に風俗となった。陛下は九重の内に居て、人を赤子の如く視る。百司は万務の要を分かち、下に遇するに仇讎の如くする。これでは堯舜は一人に止まり、桀紂は千百となる。和気至らぬは、蓋しこれによる。書に曰く、『其れ不辜を殺すに与するよりは、寧ろ不経を失え』と。実に宜しく百僚に勅示し、以て元元の命を恵むべきである」。
また言う、「昔、周王は犬戎に逐われて東遷し河洛に至ったが、鎬京はなお『宗周』と称し、以て本を存した。光武は中興とは言うものの、実は自ら創革し、西京には尚京尹を置き、また旧を廃さなかった。今、陛下は先業を光隆し、中土に遷宅し、古を稽え礼を復する、ここに於いて盛んなり。周漢のように、已むを得ずして出たるものの如くであろうか。春秋の義に按ずるに、宗廟有るを都と曰い、無きを邑と謂う。これは不刊の典である。況んや北代には宗廟在り、山陵託し、王業の基く所、聖躬の載る所、その神郷福地たるは、実にまた遠し。今、便ち郡国と同しくするは、臣窃かに安んぜず。愚かに代京には宜しく畿を建て尹を置き、一に故事の如くし、本を崇く旧を重んじ、以て万葉を光らすべきと謂う」。
また言う、「伏して洛京の制を見るに、居民は官位に相従い、族類に依らない。しかし官位は常ならず、朝に栄えて夕に悴するものあり。すると衣冠は厮竪の邑に淪ち、臧獲は膏腴の里に騰る。物の顛倒、或いはここに至る。古の聖王は、必ず四民を異居せしめたのは、その業を定め志を専一にせんがためである。業定まれば則ち偽らず、志専一ならば則ち淫らでない。故に耳目の習う所は、督うることなくして成り、父兄の教えは、肅しくすることなくして成る。仰ぎ惟うに太祖道武皇帝は基を創り乱を撥うに、日暇あらず、然れどもなお士庶を分別し、雑居せしめず、伎作・屠沽は各々攸処有り。但し科禁を設けず、売買は情に任せ、貴きを販い賤しきを易え、錯居混雑している。仮令一処に箏を弾き笛を吹き、舞を緩やかにし歌を長くし、一処に厳師苦訓し、詩を誦し礼を講ずる。童齓に宣令し、任意に従わしめれば、舞堂に走り赴く者は万数に及び、学館に往き就く者は一人もない。これは伎作は雑居すべからず、士人は異処すべからざる明らかな験である。故に孔父は里仁の美を云い、孟母は三徙の訓を弘めた。賢聖の明誨、この如く重し。今、伎作家に士人の風礼を習わしめれば、百年かかっても成り難く、士人の児童に伎作の容態を効わしめれば、一朝にして得られる。これにより士人が同処すれば、則ち礼教は興り易く、伎作が雑居すれば、則ち風俗は改め難い。朝廷は毎に人士を選挙する時は、その一婚一宦を校べ、以て升降とするが、何と密であることか。伎作に宦途を開き、膏粱華望と閤を接ぎ甍を連ねるを得るについては、何と略であることか。これが愚臣の惑う所である。今、古を稽え極を建て、中区に光宅し、凡そ徙居する所は、皆公地である。伎作を分別するは、一言に在り、何ぞ為すに疑い、盛美を闕くことがあろうか」。
また言う、「南偽より相承し、窃かに淮北を有し、中華の称を擅にせんと欲し、且つ辺民を招誘せんがため、故に中州の郡県を僑置した。皇風南被して以来、仍って改めず、凡そ重名有るもの、その数甚だ衆し。書記を疑惑し、区宇を錯乱し、疆域物土を為す所以ではなく、必ずや名を正すというものである。愚かに地理旧名に依り、一に皆厘革すべきと為す。小なる者は併合し、大なる者は分置す。及び中州郡県は、昔戸少を以て併省したが、今人口既に多し、また旧に復すべし。人を君とする者は、天下を家と為し、私する所有るべからず。故に倉庫の儲貯は、水旱の災を俟ち、軍国の用を供するものであり、功徳有る者に至って、然る後に加賜する。末代に及んで、寵の隆まる所となり、賜賚に限りがない。比より以来、また甚だ過ぎる。朝に在る諸貴は、禄を受くること軽からず、土木は錦綺を被り、僮妾は粱肉に厭き、而して復た厚賚を屡く加え、動もすれば千を以て計る。若し鰥寡に分賜すれば、贍済実に多からん。もし悛革せざれば、豈に周急は富を継がずという謂いであろうか。愚かに事に賞すべき有れば、則ち明旨を以て褒揚し、事に称して賜を加え、以て善を為すことを勧め、親近の昵を以て、猥りに天府の儲を損ずるべからずと謂う」。
また言う、「諸の宿 衞 内直の者は、宜しく武官には弓矢を習わしめ、文官には書伝を諷誦せしむべし。而今その蒱博の具を与え、以て褻狎の容を成し、矜争の心を長じ、諠囂の慢を恣にせしめ、徒に朝儀を損ない、事実に益することなし。この類のものは、一に禁止すべし」。
高祖はこれを善しとした。
その後、宋王劉昶の府諮議参軍事を乞うて啓上し、南境で功績を立てようとしたが、高祖は許さなかった。高祖はかつて顕宗と程霊虬に言った、「著作の任は、国書を司るものである。卿らの文章は、朕自ら委ねて詳しく知っている。中書省の品評も、卿らが聞いているところであろう。もし古人と比べようとするなら、班固や司馬遷の類は、もとより遠く及ばない。もし当世に求めるなら、文学の才能においては、卿らは崔孝伯を推すべきである」。また顕宗に言った、「卿の撰した燕志および斉での詩詠を見ると、近ごろの文章よりはるかに勝っている。しかし著述の功績は、私が見ていないので、さらに監・令に尋ねてみよう。卿の才能を校べると、中第に位置すべきである」。また程霊虬に言った、「卿は顕宗よりさらに一段劣るので、下上に位置すべきである」。顕宗は答えて言った、「臣の才第は浅薄であり、あえて天の聞き届けるところとなり、崔光に比せられるとは、実に厚い御寵遇でございます。しかし臣はひそかに思いますに、陛下は古を貴び今を賤しめられる。臣は学問微少で才能短く、誠に古人を仰ぎ望むことはできませんが、聖明の世に遭い、惟新の礼を目にし、筆を染め素に刻み、時事を実録することは、後人に対しても恥じることはないでしょう。昔、揚雄が太玄経を著したとき、当時は覆甕の談を免れなかったが、二百年後には諸子を越えました。今臣の撰するものは、帝載を光述し日月に裨暉するには足りませんが、万祀の後、祖宗の巍巍たる功を仰ぎ観、陛下の明明たる徳を上らせ見るなら、唐典の欽明にも虞書の慎徽にも何ら劣ることはありません」。高祖は言った、「仮に朕が虞舜に愧じないとして、卿は堯の臣にどう及ぶというのか」。顕宗は言った、「臣は聞きます、君主は独りで治めることはできないので、百官を設けて務めを助けさせると。陛下は堯舜に並びたもうており、公卿はまさに二八の儔ではないでしょうか」。高祖は言った、「卿は著作として、ただ職務を奉ずる名のみで、良史ではない」。顕宗は言った、「臣は明時に遭い、直筆して懼れることなく、また金を受けず、安眠して美食する、これが臣が司馬遷や班固に優るところです」。高祖はこれを笑った。後に員外郎崔逸らとともに朝儀を参定した。
高祖はかつて諸官に詔して言った、「近代以来、高卑の出身には、常に一定の分けがある。朕の考えでは、一方ではよしとし、また一方ではよしとしない。互いに量るべきである」。李沖が答えて言った、「上古以来、官を置き位を列ねるのは、膏粱の児の地と為さんがためか、それとも治を益し時を讃えんがためか、未だ審らかにしません」。高祖は言った、「ともに治めんがためである」。沖は言った、「もし治めんとするなら、陛下は今日なぜ専ら門品を崇め、才を抜く詔がないのですか」。高祖は言った、「もし人に殊なる伎があれば、知られないことを憂うることはない。しかし君子の門は、仮に当世の用がなくとも、要は德行が純篤である、朕はこれを用いるのである」。沖は言った、「傅巌や呂望は、門によって挙げられるべきでしょうか」。高祖は言った、「このように世を済う者は稀で、曠代に一兩人いるのみである」。沖は諸卿士に言った、「ちょうど諸賢に請いてこれを救おうとしていた」。秘書令李彪が言った、「師旅寡少で、未だ援と為すに足らず、思い懐くところがありますが、聖日に尽く言うことはできません。陛下が専ら門地によってなさるなら、魯の三卿と四科とではどちらが優れているか、未だ審らかにしません」。高祖は言った、「先の解釈と同じである」。顕宗が進み出て言った、「陛下は洛邑に光宅し、百礼惟新であります。国の興否は、この一選に指します。臣は既に学識浮浅で、古今を援引してこの議を証することはできませんが、国事をもって論じます。中書・秘書監令の子は必ず秘書郎となるかどうか、近ごろ監・令となった者の子は皆なれるのでしょうか」。高祖は言った、「卿はなぜ当世の膏腴で監・令となった者を論じないのか」。顕宗は言った、「陛下は物は類すべからずとされ、貴をもって貴を承け、賤をもって賤を襲うべきではないとお考えです」。高祖は言った、「もし高明卓爾で才具雋出する者があれば、朕もこの例に拘らない」。後に本州の中正となった。
二十一年、車駕は南伐し、顕宗は右軍府長史・征虜将軍・統軍となった。軍は赭陽に駐屯したとき、蕭鸞の戍主成公期がその軍主胡松・高法援らを遣わし、蛮賊を引き連れて来て軍営を撃たせた。顕宗は親しく率いて拒戦し、遂に法援の首を斬った。顕宗が新野に至ると、高祖は詔して言った、「卿は賊を破り帥を斬り、軍勢に大いに益した。朕は今堅城を攻めているが、なぜ露布を作らないのか」。顕宗は言った、「臣はかつて鎮南将軍王肅が賊二三、驢馬数匹を獲たとき、皆露布としたと聞き、臣は東観におり、ひそかに毎度これを笑っておりました。近ごろ威霊を仰ぎ憑り、醜虜を摧くを得ましたが、兵寡く力弱く、擒斬多くありません。もしまた長縑を高く曳き、功捷を虚張し、尤みながらこれを效すなら、その罪はさらに甚だしい。臣が毫を斂め帛を巻き、解上しただけの理由です」。高祖は笑って言った、「卿のこの勲は、誠に茅社に合うが、赭陽が平定するのを待ち、検審して酬いよう」。新野が平定され、顕宗を鎮南・広陽王嘉の諮議参軍とした。顕宗は後に上表し、甚だ自ら矜伐し、前の征勲を訴えた。詔して言った、「顕宗は斐然として章を成し、甚だ怪責すべきであり、進退に検めなく、我が清風を虧く。これを糾さなければ、弊俗を長ずるかもしれない。尚書に付し、推列して聞かせよ」。兼尚書張彝が顕宗の官を免ずるよう奏上した。詔して言った、「顕宗は浮矯によって愆を致したが、才はなお用いることができる。どうして永く棄てることができようか。白衣のまま諮議を守らせ、その後効を展べさせよ。しかし鄙很の性は、華に参ずるに足らず、見□を奪い、併せて諸王への問訊を禁ずる」。
顕宗は失意した後、信に遇って洛に向かい、五言詩を作って御史中尉李彪に贈り、曰く、「賈生は長沙に謫せられ、董儒は臨江に詣る。愧ずらくは若人の跡なく、忽ちに両賢の蹤を尋ぬ。昔を追えば渠閣に游び、駑を策して羣龍に厠す。如何にして願を奪われ、飄然として独り遠く従う。痛哭して旧国を去り、涙を銜んで新邦に届く。哀しいかな援無き民、嗷然として侶を失える鴻。彼の蒼は我を聞かず、千里に志を同じくすことを告ぐ」。二十三年に卒した。顕宗は『 馮氏 燕志』『孝友伝』を各十巻撰し、所作の文章は、頗る世に伝わった。景明初め、赭陽の勲を追賁し、爵を章武男と賜った。
子の武華は襲爵した。討寇将軍・奉朝請・太原太守に除された。
程駿
程駿は、字を驎駒といい、本は広平曲安の人である。六世の祖の良は、晋の都水使者であったが、事に坐して涼州に流された。祖父の肇は、呂光の民部尚書であった。
駿は幼くして孤貧であり、喪に居て孝をもって称された。劉昞に師事し、性機敏で学を好み、昼夜倦むことがなかった。昞は門人に言った、「一隅を挙げて三隅を反す者、この子はそれに次ぐ」。駿は昞に言った、「今世の名教の儒は、皆な老荘の言は虚誕で、実要に切らず、もって経世すべからずと言いますが、駿はそうではないと考えます。老子は抱一の言を著し、荘生は性本の旨を申しますが、このようなものは、至順と言うべきです。人が一に乖けば煩偽生じ、性に爽えば沖真喪われます」。昞は言った、「卿は年尚稚だが、言うことは老成のようだ、美しいかな」。これによって声譽はますます広まり、沮渠牧犍は東宮侍講に抜擢した。
太延五年(439年)、世祖(太武帝)が涼を平定し、京師に遷都すると、 司徒 崔浩に認められた。高宗(文成帝)が即位すると、著作佐郎に任ぜられ、間もなく著作郎に遷った。任城王 拓跋 雲の郎中令となり、王に箴言を進上すると、王はこれを受け入れて賞賛した。皇興年間(467-471年)、高密太守に任ぜられた。尚書李敷が上奏して言うには、「君主が臣を使うには、必ずその功績を全うさせねばならない。程駿は実に史才があり、まさに直筆を伸ばすべき時である。千里の任は、十室の邑にもあり得る。どうか数年留め置き、前代の史籍を完成させた後、方伯(地方長官)を授けられるよう、愚考では妥当と存じます」と。上奏文が届くと、これに従った。顕祖(献文帝)はしばしば程駿を引きいて易と老子の義を論じ、群臣を顧みて言うには、「朕がこの者と語ると、心が大いに開け暢きる」と。また程駿に問うて言うには、「卿は年はいくつか」と。答えて言うには、「臣は六十一歳でございます」と。顕祖は言うには、「昔、太公望が年老いて文王に遇った。卿は今朕に遇ったが、早すぎるということはないか」と。程駿は言うには、「臣の才は呂望に及ばずとも、陛下の御尊厳は西伯(文王)を超えておられます。天が余命を授けられれば、六韜の効を尽くしたいと願います」と。
延興末年(476年頃)、高麗王璉が掖庭に娘を納めることを求めたので、顕祖はこれを許し、程駿に 散騎常侍 の官を仮授し、安豊男の爵位を賜い、伏波将軍を加え、節を持って高麗に赴き娘を迎えることとし、布帛百匹を賜った。程駿は平壤城に至った。ある者が璉に勧めて言うには、「魏は昔、燕と婚姻を結びながら、後にこれを討った。それは使者がその国の険易を詳らかにしたからである。今もし娘を送れば、馮氏(北燕)の場合と異ならない恐れがある」と。璉はそこで娘が亡くなったと偽って言った。程駿と璉は往復して一年を経、程駿が道義をもって璉を責めたので、璉はその憤りに耐えかね、ついに程駿の従者の酒食を断った。璉は程駿を脅迫して辱めようとしたが、畏れて害を加えることはできなかった。ちょうど顕祖が 崩御 したので、帰還し、秘書令に任ぜられた。
初めて神主を太廟に遷した時、有司が上奏した。旧例によれば、廟中の執事の官は、例によって皆爵位を賜るものであり、今も旧例に従うべきであると。詔して百官に評議させると、群臣は皆旧例に従うべきと認めたが、程駿のみが不可であるとした。上表して言うには、「臣は聞く。名器は帝王の貴ぶところ、山河は区夏(中国)の重んずるところである。それ故に漢の高祖には、功なくして侯とせずとの約束があった。必ずや大君(天子)の御世に命を受けて、戦謀の日に心力を尽くし、その後初めて茅土の賜り物に応じるのである。宗廟の事に預かって、疆土の賞を受ける例は見たことがない。ただ、晋の鄭の公族が夾輔を最大の勲功とし、呉漢・鄧禹の輩が征伐を重い功績としたのみである。周漢には遠い時代に文(規定)がなく、魏晋も往年に記録はない。皇道が符瑞を開き、乾業(帝業)が統治を創始して以来、三皇五帝の規を高く務め、百王の軌跡を盛んにしようとし、罰は古を減じ、賞は実に昔を増やしている。時に神主の改祔、清廟の厳粛化に因んで、群司に九品の命を授け、執事に五等の名を顕わした。たとえ帝王の制度作りが互いに沿襲しないとしても、当時の恩沢が、どうして長世の軌範たりえようか。衆に背く罪、伏して罪の譴責を待ちます」と。上奏文が届くと、これに従った。文明太后は群臣に言うには、「事を言うには固より正直で古典に準拠すべきであり、どうして一時の旧事に依拠できようか」と。程駿に衣一襲、帛二百匹を賜った。
程駿はまた上表して言うには、「春秋に言う。『その君に対して礼あるを見れば、孝子の父母を養うが如く、その君に対して礼なきを見れば、鷹鸇の鳥雀を逐うが如し』と。これによって将来を勧誡し、万代に範を垂れるのである。昔、陳恒が君を殺した時、宣尼(孔子)は討伐を請うた。たとえ安逸を欲しても、どうしてやめられようか。今、廟算(朝廷の策)は天のごとく回り、七州は雲のごとく動き、将に水にて鯨鯢を蕩し、陸にて凶逆を掃うべし。されど戦は陣を布かずして勝つことを貴び、兵家の美とするところである。宜しく先ず劉昶を遣わして淮南を招き諭すべきである。もし声に応じて喜び、同心して挙兵すれば、長江の険も朝服のまま渡ることができ、蕭道成の首も一朝にして懸けられよう。もし江南の軽薄なる者が、劉氏の恩義に背くならば、曲(理不尽)は彼らにあり、何ら神明に背くことではない。ただ義を正して江南に檄を飛ばし、軍を整えて旗を返すだけでも、患いを救う大いなる仁を示し、義風を四海に揚げるには十分である。かつ攻めるは難く守るは易し、ならば力は百倍も懸隔する。深く思わねばならず、熟慮せねばならない。今天下は静謐であるが、方外(境外)はなお憂慮すべきである。楊集始(拾寅か)は西南で僥倖を狙い、狂虜( 柔然 か)は漠北で隙を窺っている。もし攻撃が心に称わなければ、兵は終息しない恐れがあり、兵が終息しなければ、憂慮はますます深まる。 社稷 の計を為す者は、誰もまず根本を守ることを先にする。愚臣は考えるに、兵を江辺に閲し、皇威を振るい輝かせるには、特に撫慰を加えるべきである。秋毫も犯さなければ、民は徳と信を知る。民が徳と信を知れば、襁負して来る。襁負して来れば、淮北は定まる。淮北が定まれば、呉の寇は異なる図を抱く。寇が異なる図を抱けば、禍いの兆しが現れる。その後、兆しを見て動けば、遅くはない。諸州の兵を停止し、しばらく後の挙兵を待たれることを請う。いわゆる根本を守るというものである。伏して惟うに、陛下、太皇太后の英算神規は、百勝の外を覆い、機に応じて体を変え、方寸の中に独り悟っておられる。臣の影は虞淵に傾き、昏耄が将に及ぼうとしている。国を憂い思うも、ついに補うところはございません」と。従わなかった。
沙門法秀が謀反を企て誅殺された。程駿が上表して言うには、「臣は聞く。詩が作られるのは、志を言うためである。近くは父に事え、遠くは君に事え、風俗に関わること、備わらぬものはない。上は聖徳を頌美し、下は厚き風化を述べることができ、これを言う者は罪なく、これを聞く者は戒めとすることができる。これが古人が詩を用いる本意である。臣は垂没の年に、盛明の運に逢い、たとえ昏耄が将に及ぼうとも、なお廉頗の強飯の風を慕う。伏して惟うに、陛下、太皇太后の道は天地に合し、明は日月に等しく、則天(武則天)と唐風のごとく和らぎ、順帝(?)と周道のごとく霊を通じる。それ故に狂妖が逆を懐いても、謀を隠す地なく、冥霊が潜かに剪られ、発覚の誅に伏す。これによって七廟が幽かに助け、人神が扶助する所以である。臣は喜躍に耐えません。謹んで老鈍の思を尽くし、慶国頌十六章を上るとともに、巡狩と甘雨の徳について序を付します」と。その頌は以下の通り。
文明太后が令して言うには、「詩表を省覧し、聞いた。祖宗の功德を歌頌するのはよろしいが、当世の言葉は、なんと過ぎたることか。戒めとした下章は、忘れずにしまっておくがよい」と。程駿はまた一つの頌を得て奏上した。固業に始まり、無為に終わる十篇である。文が多いので載せない。文明太后が令して言うには、「表および頌十篇を省覧し、聞いた。鑒戒は既に備わっており、まことに欽玩に値する。老を養い言を乞うとは、このことを言うのであろう」と。また詔して言うには、「程駿は歴任の官において清廉謹慎であり、事を言うごとに常に適切である。また門には侠貨(賄賂)の賓客なく、室には道を懐く士がいる。帛六百匹を賜い、その倹徳を表彰せよ」と。程駿はこれを全て親戚旧友に分け与えた。
性質は剛直で、時の栄華を競わなかった。太和九年(485年)正月、病が篤くなり、遺令を残して言うには、「私は存命中より倹約を旨とした。どうして死後に奢り厚くできようか。昔、王孫が裸葬したのは、感ずるところがあってそうしたのであり、皇甫士安が籧篨(粗末な筵)を用いたのも、やや矯厲(意図的に厳しくする)のところがあった。今の世は既に休明であり、あらゆる制度は礼に従っている。彼らのやり方は私の志ではない。時服で収め、器皿は古式に従え」と。遂に卒去した。享年七十二。初め、程駿が病重い時、高祖(孝文帝)、文明太后は使者を遣わして代わる代わるその病状を問わせ、御師徐謇に診察させ、湯薬を賜った。臨終に際し、詔して小子の公称を中散とし、従子の霊虬を著作佐郎とした。卒去すると、高祖、文明太后は傷み惜しみ、東園の秘器、朝服一称、帛三百匹を賜い、冠軍将軍、兗州刺史、曲安侯を追贈し、諡して憲といった。制作した文章は、独自に集録されている。
程駿には六人の子がいた。元継、公達、公亮、公礼は、いずれも官に就かなかった。
公義は、侍御史、謁者 僕射 、都水使者、武昌王司馬、沛郡太守を歴任した。公称は、主文中散、給事中、尚書郎を歴任した。いずれも早世した。
公礼の子、畿は、字を世伯という。学問を好み、頗る文才があった。荊州府主簿となった。
始めに駿の従祖弟の伯達、伯達の名は顕祖の廟 諱 に犯す。駿と同年であり、また文弁をもって知られた。〈闕〉沮渠牧犍の時、共に選ばれて牧犍の世子の参乗として出入りし、当時の論はこれを美とした。伯達は早く亡くなった。
弟子の霊虬は幼くして孤となり、頗る文才があったが、久しく末役に沈んでいた。吏職に十数年あり、事に坐して免官された。会に駿が臨終に啓請し、著作佐郎に擢でられるを得た。後に在京に緦親無しと称することに坐し、高祖は彼が駿の子公義と始族であることを知り、故に譴責して免官させた。 洛陽 に至り、官無く、貧しく病んだ。久しくして、崔光が啓して羽林監に申し、徐州梁郡太守に選補されたが、酗酒をもって刺史武昌 王鑒 に劾せられ、官を失った。梁郡を下ってより後は、志力少し衰え、なお時に酒に困らされた。久しく官禄を去り、飢寒を免れず、屡々尚書に詣り旧任に効わんことを乞うた。僕射高肇が選を領し、還って著作郎に申したが、崔光が任を領していたため、勅令により外叙された。
【評】
史臣曰く、韓麒麟は才器識用をもって、遂に斉土に紀せられるを見る。顕宗は文学をもって己を立て、屡々時務を陳べ、実録の功に至っては、未だ聞かざる所なり。子熙は清尚自ら守り、栄その器を過ぐ。程駿の才業多く未だならず、世に知られるは、蓋し当時の長策か。
校勘記