魏書

卷60 韓麒麟 程駿

卷60 韓麒麟 程駿

韓麒麟

原文韓麒麟

韓麒麟は、昌黎郡棘城県の人である。自らは漢の大司馬韓増の後裔であると称した。父の韓瑚は、秀容・平原の二郡太守を務めた。麒麟は幼くして学問を好み、姿容は美しく、騎射に長じた。恭宗が国政を監理した時、東曹主書となった。高宗が即位すると、魯陽男の爵位を賜り、伏波将軍を加えられた。父が亡くなると、喪に服する礼節を守り、郷里の一族から称賛された。

原文韓麒麟,昌黎棘城人也,自云漢大司馬增之後。父瑚,秀容、平原二郡太守。麒麟幼而好學,美姿容,善騎射。恭宗監國,為東曹主書。高宗即位,賜爵魯陽男,加伏波將軍。父亡,在喪有禮,邦族稱之。

後に征南将軍慕容白曜の軍事に参じ、升城を攻撃したが、兵士に多くの負傷者が出た。城が陥落した時、白曜は捕虜を生き埋めにしようとした。麒麟は諫めて言った。「今、偽朝の領内に初めて足を踏み入れ、進取を図ろうとしている時である。威厳を緩め、恩恵を厚くして、敵の民衆に示すべきです。これは韓信が范陽を降した時の計略です。強敵が目前にいるのに、その民衆をすぐに坑殺すれば、これより東の者は、それぞれが守りを固め、攻め落とすのは難しくなるでしょう。時日が経ち軍が疲弊し、外部の民がそれに乗じて変事を起こせば、三斉の地を容易に図ることはできません。」白曜はこれに従い、皆に旧業に戻ることを許したので、斉の民は大いに喜んだ。後に白曜は上表して麒麟を冠軍将軍とし、房法寿と対になる形で冀州刺史に任じた。白曜が東陽を攻撃した時、麒麟は義租六十万斛と攻戦の器械を献上したので、軍資に不足はなくなった。白曜が誅殺されると、麒麟も召還され、長年、官職に就かない状態が続いた。高祖の時、給事黄門侍郎に任じられ、駅伝車に乗って徐州・兗州を招き慰撫し、帰順した反乱民は四千余家に及んだ。

原文後參征南慕容白曜軍事,進攻升城,師人多傷。及城潰,白曜將坑之,麒麟諫曰:「今始踐偽境,方圖進取,宜寬威厚惠,以示賊人,此韓信降范陽之計。勁敵在前,而便坑其眾,恐自此以東,將人各為守,攻之難克。日久師老,外民乘之,以生變故,則三齊未易圖也。」白曜從之,皆令復業,齊人大悅。後白曜表麒麟為冠軍將軍,與房法壽對為冀州刺史。白曜攻東陽,麒麟上義租六十萬斛,并攻戰器械,於是軍資無乏。及白曜被誅,麒麟亦徵還,停滯多年。高祖時,拜給事黃門侍郎,乘傳招慰徐兗,叛民歸順者四千餘家。

まもなく冠軍将軍・斉州刺史に任じられ、魏昌侯の爵位を仮授された。麒麟は官にあって、刑罰を用いることは少なかった。従事の劉普慶が麒麟に進言して言った。「明公は夏の地に節を仗っておられるのに、一人も斬戮なさらないのでは、どうして威を示されましょうか。」麒麟は言った。「刑罰は悪を止めるためのもので、やむを得ず用いるものだ。今、民は法を犯していない。何を斬るというのか。もし斬り捨てて威名を立てねばならないなら、そなたをもってこれに当てよう。」普慶は恥じ恐れて退いた。麒麟は、新たに帰附した者が朝廷の官職に就く途がなく、士人が沈滞しているのを憂い、上表して言った。「斉の地は以前、偽朝に属し、長い年月が経っており、旧来の州府の官僚は、動かすと数百人に及びます。皇威が及んで以来、職務は簡素化され、郡守・県令の欠員があっても、土地の士人を監督官として任用することは許されません。思うに、新たな民は朝廷の官職に就く階梯がなく、州郡の役職は甚だ少なく、埋もれている者が多いため、官職を願い、軽々しく去就を変えます。愚考しますに、郡守・県令に欠員があれば、豪族で声望ある者を推挙任用し、吏員を増員し、広く賢哲を招くべきです。そうすれば、華族は栄誉を受け、良才は登用され、徳を懐き土地に安住するようになるでしょう。その方策はおそらくここにあります。」朝廷の議論はこれに従った。

原文尋除冠軍將軍、齊州刺史,假魏昌侯。麒麟在官,寡於刑罰,從事劉普慶說麒麟曰:「明公仗節方夏,而無所斬戮,何以示威?」麒麟曰:「刑罰所以止惡,蓋不得已而用之。今民不犯法,何所戮乎?若必須斬斷以立威名,當以卿應之。」普慶慚懼而退。麒麟以新附之人,未階臺宦,士人沉抑,乃表曰:「齊土自屬偽方,歷載久遠,舊州府僚,動有數百。自皇威開被,并職從省,守宰闕任,不聽土人監督。竊惟新人未階朝宦,州郡局任甚少,沉塞者多,願言冠冕,輕為去就。愚謂守宰有闕,宜推用豪望,增置吏員,廣延賢哲。則華族蒙榮,良才獲敍,懷德安土,庶或在茲。」朝議從之。

太和十一年、京都で大飢饉が起こり、麒麟は時務について上表して述べた。

原文太和十一年,京都大饑,麒麟表陳時務曰:

十二年春、官職のまま死去した。五十六歳であった。遺言で子に命じ、素朴な棺で葬り、事は倹約に従うようにした。麒麟は生来恭しく慎み深く、常に律令を座の傍らに置いていた。臨終の日、俸給として得た絹が数十匹あるだけで、その清貧はこのようなものであった。散騎常侍・安東将軍・燕郡公を追贈され、諡を康といった。

原文十二年春,卒於官,年五十六。遺敕其子,殯以素棺,事從儉約。麒麟立性恭慎,恒置律令於坐旁。臨終之日,唯有俸絹數十匹,其清貧如此。贈散騎常侍、安東將軍、燕郡公,諡曰康。

長子の興宗、字は茂先。学問を好み、文才があった。十五歳で太学で経書を学んだ。後に司空の高允が上奏して秘書郎とし、著作の事に参与させた。中山王の元叡は当時、貴寵を受けていた。(欠文)文章を為した。秘書中散に遷った。太和十四年冬、死去した。寧遠将軍・漁陽太守を追贈された。

原文長子興宗,字茂先。好學,有文才。年十五,受道太學。後司空高允奏為祕書郎,參著作事。中山王叡貴寵當世。〈闕〉為文。遷祕書中散。太和十四年冬,卒。贈寧遠將軍、漁陽太守。

子の子熙、字は元雍。若い頃から自らを整え、かなりの学識があった。弱冠の年になっても、自ら進んで官途に就くことができず、侍中の崔光が子熙を清河王元懌の常侍に推挙し、郎中令に遷った。初め、子熙の父(興宗)は爵位を弟の顕宗に譲ろうとしたが、顕宗は受けなかった。子熙は父の平素の思いに従い、結局、爵位を継承しなかった。顕宗が亡くなると、子熙は別に爵位を賜ったが、その先祖の爵位を弟の仲穆に譲った。兄弟の友愛はこのようなものであった。父が亡くなると、喪に服する礼節を守った。子熙は元懌に寵遇されていたため、官位を空け、その喪が終わった後に再び任用された。

原文子子熙,字元雍。少自修整,頗有學識。弱冠,未能自通,侍中崔光舉子熙為清河王懌常侍,遷郎中令。初,子熙父以爵讓弟顯宗,不受。子熙緣父素懷,卒亦不襲。及顯宗卒,子熙別蒙賜爵,乃以其先爵讓弟仲穆。兄弟友愛如此。父亡,居喪有禮。子熙為懌所眷遇,遂闕位,待其畢喪後復用。

元叉が元懌を害すると、長く埋葬することができなかった。子熙はこのことを憂い憔悴し、田野に身を潜め、王がもし復封され、礼をもって改葬されないならば、生涯仕官しないと誓った。後に霊太后が政権に返り咲き、元叉を尚書令とし、その領軍の職を解いた。子熙は元懌の中大夫劉定興・学官令傅霊𢷋・賓客張子慎と共に宮門に伏して上書した。

原文及元叉害懌,久不得葬。子熙為之憂悴,屏處田野,每言王若不得復封,以禮遷葬,誓以終身不仕。後靈太后返政,以元叉為尚書令,解其領軍。子熙與懌中大夫劉定興、學官令傅靈𢷋、賓客張子慎伏闕上書曰:

上書が奏上されると、霊太后はその義を認め、子熙を中書舎人に抜擢した。後に遂に鄭羲の棺を剖き、元叉に死を賜った。

原文書奏,靈太后義之,乃引子熙為中書舍人。後遂剖騰棺,賜叉死。

まもなく国史の編修に携わり、寧朔将軍を加えられた。間もなく著作郎に任じられ、また司州別駕を兼ねた。輔国将軍・鴻臚少卿に転じた。建義初年、黄門侍郎を兼ね、まもなく正任となった。

原文尋修國史,加寧朔將軍。未幾,除著作郎,又兼司州別駕。轉輔國將軍、鴻臚少卿。建義初,兼黃門,尋正。

子熙は清廉潔白で自らを守り、人付き合いをしなかった。また幼くして孤児となり、叔父の顕宗に養育された。顕宗が亡くなると、顕宗の子の伯華はまだ幼かったが、子熙は兄弟同様に友愛し、成長しても共に住み、車馬や資財は伯華が使うに任せ、そのことを言葉や顔色に表すことはなかった。また上書して自分の官階を分けて伯華に与えるよう求め、これにより伯華は東太原太守に任じられた。伯華が郡に在任中、刺史の元弼に侮辱されると、子熙は涙ながらに朝廷に訴え、粛宗は詔を下して調査させ、元弼は大いに譴責を受けた。

原文子熙清白自守,不交人事。又少孤,為叔顯宗所撫養,及顯宗卒,顯宗子伯華又幼,子熙友愛,等於同生,長猶共居,車馬資財,隨其費用,未嘗見於言色。又上書求析階與伯華,於是除伯華東太原太守。及伯華在郡,為刺史元弼所辱,子熙乃泣訴朝廷,肅宗詔遣按檢,弼遂大見詰讓。

尒朱栄が葛栄を捕らえ、京師に送った時、粛宗は面会してその罪状を数え上げようとした。子熙は、葛栄は既に元凶であり、必ず死ぬと自覚しているのだから、無礼な振る舞いをする恐れがあり、面会すべきではないと考えた。尒朱栄はこれを聞いて大いに怒り、子熙の罪を請うたが、粛宗は許して責めなかった。まもなく征虜将軍を加えられた。邢杲が反逆を起こすと、詔により子熙は慰労に向かった。邢杲は偽って降伏し、子熙はそれを信じた。楽陵に戻った時、邢杲が再び反旗を翻したため、子熙は帰還した。廷尉に付され、大辟の罪に論ぜられたが、死罪を許されて免官となった。間もなく尚書吏部郎を兼ねた。普泰初年、通直散騎常侍・撫軍将軍・光禄大夫に任じられ、まもなく正任の吏部郎となった。出帝の初年、再び著作郎を領した。冊命奉呈の功績により、歴城県開国子に封ぜられ、食邑五百戸を与えられ、さらに衛将軍・右光禄大夫を加えられた。

原文尒朱榮之擒葛榮也,送至京師,莊帝欲面見數之。子熙以為榮既元兇,自知必死,恐或不遜,無宜見之。尒朱榮聞而大怒,請罪子熙,莊帝恕而不責。尋加征虜將軍。及邢杲之起逆,詔子熙慰勞。杲詐降,而子熙信之,還至樂陵,杲復反,子熙遂還。坐付廷尉,論以大辟,恕死免官。未幾,兼尚書吏部郎。普泰初,除通直散騎常侍、撫軍將軍、光祿大夫,尋正吏部郎。出帝初,還領著作郎。以奉冊之故,封歷城縣開國子,食邑五百戶,又加衞將軍、右光祿大夫。

天平初年、侍読となり、また国子祭酒に任じられた。子熙は質素で貧しさに安んじ、常に退いて静かにすることを好んだ。鄴に遷都した当初、百官には皆、兵力(従卒)が支給されたが、当時、祭酒は閑職と見なされ、二人だけが支給された。ある者が陳情するよう勧めたが、子熙は言った。「朝廷が自ら祭酒に兵を与えないのであって、韓子熙の何事か。」論者はこれを高く評価した。まもなく驃騎将軍に任じられた。元象年間、衛大将軍を加えられた。

原文天平初,為侍讀,又除國子祭酒。子熙儉素安貧,常好退靜,遷鄴之始,百司並給兵力,時以祭酒閑務,止給二人。或有令其陳請者,子熙曰:「朝廷自不給祭酒兵,何關韓子熙事也。」論者高之。尋除驃騎將軍。元象中,加衞大將軍。

以前、子熙は弟が王氏(叔母の娘)を妻とし、二人の子を儲けた。子熙はまだ結婚しておらず、後に寡婦の李氏と私通して三人の子を儲けた。王氏と李氏は仲が悪く、互いに告発し合い、何年もやまなかった。子熙はこのため恥じ恨み、病を発した。興和年間、孝静帝が釈奠を行おうとし、子熙に侍講を命じた。まもなく死去し、遺言で追贈や諡を求めないよう戒めたが、その子はこれに従わず、遂に請願に及んだ。武定初年、驃騎将軍・儀同三司・幽州刺史を追贈された。

原文先是,子熙與弟娉王氏為妻,姑之女也,生二子。子熙尚未婚,後遂與寡嫗李氏姦合而生三子。王李不穆,迭相告言,歷年不罷。子熙因此慚恨,遂以發疾。興和中,孝靜欲行釋奠,敕子熙為侍講。尋卒,遺戒不求贈諡,其子不能遵奉,遂至干謁。武定初,贈驃騎將軍、儀同三司、幽州刺史。

興宗の弟、顯宗は、字を茂親という。性質は剛直にして、面折庭諍することができ、また才学もあった。沙門の法撫は、三斉においてその聡悟を称えられ、常に顯宗と校試し、百余人の名を抄写し、各々一遍読み上げると、直ちに覆唱させたが、法撫にはなお一二の誤謬があったのに対し、顯宗には全く誤りがなかった。法撫は嘆じて言う、「貧道は生まれて以来、ただ郎君にのみ服する」と。

原文興宗弟顯宗,字茂親。性剛直,能面折庭諍,亦有才學。沙門法撫,三齊稱其聰悟,常與顯宗校試,抄百餘人名,各讀一遍,隨即覆呼,法撫猶有一二舛謬,顯宗了無誤錯。法撫歎曰:「貧道生平以來,唯服郎耳。」

太和の初め、秀才に挙げられ、対策で甲科に及第し、著作佐郎に任ぜられた。車駕が南征するに当たり、兼中書侍郎を務めた。遷都が定まると、顯宗は上書した。

原文太和初,舉秀才,對策甲科,除著作佐郎。車駕南討,兼中書侍郎。既定遷都,顯宗上書:

高祖はこれを大いに採用した。

原文高祖頗納之。

顯宗はまた上言して言う、「賢を進め才を求めることは、百王の先んずるところである。前代は士を取るに、必ずまず名を正しくし、故に賢良・方正の称があった。今の州郡の貢察は、徒に秀・孝の名のみありて、秀・孝の実がない。しかるに朝廷はただその門望を検するのみで、再び弾坐することはない。このようであれば、別に門望を貢せしめて士人を叙するように命ずればよく、何ぞ秀・孝の名を仮冒する必要があろうか。そもそも門望とは、その父祖の遺烈であり、また何ぞ皇家に益するところがあろう。時に益するものは、賢才のみである。もしその才があれば、屠釣・奴虜の賤しき者であっても、聖皇は臣とすることに恥じない。もしその才がなければ、三后の胤であっても、自ら皂隷に墜ちるのである。これにより大才は大官を受け、小才は小官を受け、各々その所を得て、もって雍熙を致すのである。議者あるいは言う、『今の世には等しく奇才がないから、門閥によって士を取るに如かぬ』と。これもまた誤りである。世に周邵がないからといって、どうして宰相を廃して置かないことができようか。ただその寸長銖重のある者を校べ、すなわち先にこれを叙すれば、賢才は遺れることはない」。

原文顯宗又上言曰:「進賢求才,百王之所先也。前代取士,必先正名,故有賢良、方正之稱。今之州郡貢察,徒有秀、孝之名,而無秀、孝之實。而朝廷但檢其門望,不復彈坐。如此,則可令別貢門望,以敍士人,何假冒秀、孝之名也?夫門望者,是其父祖之遺烈,亦何益於皇家?益於時者,賢才而已。苟有其才,雖屠釣奴虜之賤,聖皇不耻以為臣;苟非其才,雖三后之胤,自墜於皂隸矣。是以大才受大官,小才受小官,各得其所,以致雍熙。議者或云,今世等無奇才,不若取士於門。此亦失矣。豈可以世無周邵,便廢宰相而不置哉?但當校其有寸長銖重者,即先敍之,則賢才無遺矣。」

また言う、「帝皇が尊きに居て下を御する所以は、威である。兆庶が悪を徙めて善に従う所以は、法である。これにより国あり家ある者は、必ず刑法をもって治め、生民の命はここに在る。罪あれば必ず罰し、罰は必ず辜に当てば、たとえ箠撻の刑であっても、人は敢えて犯す者はない。制あって行われず、人が僥倖を得れば、たとえ参夷の誅であっても、もって粛清するには足りない。太和以来、多く盗を坐して市に棄つことはないが、遠近は粛清されている。これによって言えば、姦を止めるは防検に在り、刑に麗することに在らずである。今、州郡の牧守は、当時の名を邀え、一切の法を行い、臺閣の百官もまた皆、深酷を以て無私とし、仁恕を以て盗を容るるものとしている。互いに敦厲し、遂に風俗となった。陛下は九重の内に居て、人を赤子の如く視る。百司は万務の要を分かち、下に遇するに仇讎の如くする。これでは堯舜は一人に止まり、桀紂は千百となる。和気至らぬは、蓋しこれによる。書に曰く、『其れ不辜を殺すに与するよりは、寧ろ不経を失え』と。実に宜しく百僚に勅示し、以て元元の命を恵むべきである」。

原文又曰:「夫帝皇所以居尊以御下者,威也;兆庶所以徙惡以從善者,法也。是以有國有家,必以刑法為治,生民之命,於是而在。有罪必罰,罰必當辜,則雖箠撻之刑,而人莫敢犯也。有制不行,人得僥倖,則雖參夷之誅,不足以肅。自太和以來,未多坐盜棄市,而遠近肅清。由此言之,止姦在於防檢,不在麗刑也。今州郡牧守,邀當時之名,行一切之法;臺閣百官,亦咸以深酷為無私,以仁恕為容盜。迭相敦厲,遂成風俗。陛下居九重之內,視人如赤子;百司分萬務之要,遇下如仇讎。是則堯舜止一人,而桀紂以千百。和氣不至,蓋由於此。書曰:『與其殺不辜,寧失不經。』實宜敕示百僚,以惠元元之命。」

また言う、「昔、周王は犬戎に逐われて東遷し河洛に至ったが、鎬京はなお『宗周』と称し、以て本を存した。光武は中興とは言うものの、実は自ら創革し、西京には尚京尹を置き、また旧を廃さなかった。今、陛下は先業を光隆し、中土に遷宅し、古を稽え礼を復する、ここに於いて盛んなり。周漢のように、已むを得ずして出たるものの如くであろうか。春秋の義に按ずるに、宗廟有るを都と曰い、無きを邑と謂う。これは不刊の典である。況んや北代には宗廟在り、山陵託し、王業の基く所、聖躬の載る所、その神郷福地たるは、実にまた遠し。今、便ち郡国と同しくするは、臣窃かに安んぜず。愚かに代京には宜しく畿を建て尹を置き、一に故事の如くし、本を崇く旧を重んじ、以て万葉を光らすべきと謂う」。

原文又曰:「昔周王為犬戎所逐,東遷河洛,鎬京猶稱『宗周』,以存本也。光武雖曰中興,實自創革,西京尚置京尹,亦不廢舊。今陛下光隆先業,遷宅中土,稽古復禮,於斯為盛,豈若周漢,出於不得已哉。按春秋之義,有宗廟曰都,無則謂之邑,此不刊之典也。況北代宗廟在焉,山陵託焉,王業所基,聖躬所載,其為神鄉福地,實亦遠矣。今便同之郡國,臣竊不安。愚謂代京宜建畿置尹,一如故事,崇本重舊,以光萬葉。」

また言う、「伏して洛京の制を見るに、居民は官位に相従い、族類に依らない。しかし官位は常ならず、朝に栄えて夕に悴するものあり。すると衣冠は厮竪の邑に淪ち、臧獲は膏腴の里に騰る。物の顛倒、或いはここに至る。古の聖王は、必ず四民を異居せしめたのは、その業を定め志を専一にせんがためである。業定まれば則ち偽らず、志専一ならば則ち淫らでない。故に耳目の習う所は、督うることなくして成り、父兄の教えは、肅しくすることなくして成る。仰ぎ惟うに太祖道武皇帝は基を創り乱を撥うに、日暇あらず、然れどもなお士庶を分別し、雑居せしめず、伎作・屠沽は各々攸処有り。但し科禁を設けず、売買は情に任せ、貴きを販い賤しきを易え、錯居混雑している。仮令一処に箏を弾き笛を吹き、舞を緩やかにし歌を長くし、一処に厳師苦訓し、詩を誦し礼を講ずる。童齓に宣令し、任意に従わしめれば、舞堂に走り赴く者は万数に及び、学館に往き就く者は一人もない。これは伎作は雑居すべからず、士人は異処すべからざる明らかな験である。故に孔父は里仁の美を云い、孟母は三徙の訓を弘めた。賢聖の明誨、この如く重し。今、伎作家に士人の風礼を習わしめれば、百年かかっても成り難く、士人の児童に伎作の容態を効わしめれば、一朝にして得られる。これにより士人が同処すれば、則ち礼教は興り易く、伎作が雑居すれば、則ち風俗は改め難い。朝廷は毎に人士を選挙する時は、その一婚一宦を校べ、以て升降とするが、何と密であることか。伎作に宦途を開き、膏粱華望と閤を接ぎ甍を連ねるを得るについては、何と略であることか。これが愚臣の惑う所である。今、古を稽え極を建て、中区に光宅し、凡そ徙居する所は、皆公地である。伎作を分別するは、一言に在り、何ぞ為すに疑い、盛美を闕くことがあろうか」。

原文又曰:「伏見洛京之制,居民以官位相從,不依族類。然官位非常,有朝榮而夕悴,則衣冠淪於厮竪之邑,臧獲騰於膏腴之里。物之顛倒,或至於斯。古之聖王,必令四民異居者,欲其業定而志專。業定則不偽,志專則不淫。故耳目所習,不督而就;父兄之教,不肅而成。仰惟太祖道武皇帝創基撥亂,日不暇給,然猶分別士庶,不令雜居,伎作屠沽,各有攸處。但不設科禁,賣買任情,販貴易賤,錯居混雜。假令一處彈箏吹笛,緩舞長歌;一處嚴師苦訓,誦詩講禮。宣令童齓,任意所從,其走赴舞堂者萬數,往就學館者無一。此則伎作不可雜居,士人不宜異處之明驗也。故孔父云里仁之美,孟母弘三徙之訓,賢聖明誨,若此之重。今令伎作家習士人風禮,則百年難成;令士人兒童効伎作容態,則一朝可得。是以士人同處,則禮教易興;伎作雜居,則風俗難改。朝廷每選舉人士,則校其一婚一宦,以為升降,何其密也。至於開伎作宦途,得與膏粱華望接閤連甍,何其略也。此愚臣之所惑。今稽古建極,光宅中區,凡所徙居,皆是公地,分別伎作,在於一言,有何為疑,而闕盛美。」

また言う、「南偽より相承し、窃かに淮北を有し、中華の称を擅にせんと欲し、且つ辺民を招誘せんがため、故に中州の郡県を僑置した。皇風南被して以来、仍って改めず、凡そ重名有るもの、その数甚だ衆し。書記を疑惑し、区宇を錯乱し、疆域物土を為す所以ではなく、必ずや名を正すというものである。愚かに地理旧名に依り、一に皆厘革すべきと為す。小なる者は併合し、大なる者は分置す。及び中州郡県は、昔戸少を以て併省したが、今人口既に多し、また旧に復すべし。人を君とする者は、天下を家と為し、私する所有るべからず。故に倉庫の儲貯は、水旱の災を俟ち、軍国の用を供するものであり、功徳有る者に至って、然る後に加賜する。末代に及んで、寵の隆まる所となり、賜賚に限りがない。比より以来、また甚だ過ぎる。朝に在る諸貴は、禄を受くること軽からず、土木は錦綺を被り、僮妾は粱肉に厭き、而して復た厚賚を屡く加え、動もすれば千を以て計る。若し鰥寡に分賜すれば、贍済実に多からん。もし悛革せざれば、豈に周急は富を継がずという謂いであろうか。愚かに事に賞すべき有れば、則ち明旨を以て褒揚し、事に称して賜を加え、以て善を為すことを勧め、親近の昵を以て、猥りに天府の儲を損ずるべからずと謂う」。

原文又曰:「自南偽相承,竊有淮北,欲擅中華之稱,且以招誘邊民,故僑置中州郡縣。自皇風南被,仍而不改,凡有重名,其數甚眾。疑惑書記,錯亂區宇,非所以疆域物土,必也正名之謂也。愚以為可依地理舊名,一皆釐革。小者并合,大者分置。及中州郡縣,昔以戶少併省,今人口既多,亦可復舊。君人者,以天下為家,不得有所私也。故倉庫儲貯,以俟水旱之災,供軍國之用,至於有功德者,然後加賜。爰及末代,乃寵之所隆,賜賚無限。自比以來,亦為太過。在朝諸貴,受祿不輕,土木被錦綺,僮妾厭粱肉,而復厚賚屢加,動以千計。若分賜鰥寡,贍濟實多。如不悛革,豈周急不繼富之謂也?愚謂事有可賞,則明旨褒揚,稱事加賜,以勸為善,不可以親近之昵,猥損天府之儲。」

また言う、「諸の宿衞内直の者は、宜しく武官には弓矢を習わしめ、文官には書伝を諷誦せしむべし。而今その蒱博の具を与え、以て褻狎の容を成し、矜争の心を長じ、諠囂の慢を恣にせしめ、徒に朝儀を損ない、事実に益することなし。この類のものは、一に禁止すべし」。

原文又曰:「諸宿衞內直者,宜令武官習弓矢,文官諷書傳。而今給其蒱博之具,以成褻狎之容,長矜爭之心,恣諠囂之慢,徒損朝儀,無益事實。如此之類,一宜禁止。」

高祖はこれを善しとした。

原文高祖善之。

その後、宋王劉昶の府諮議参軍事を乞うて啓上し、南境で功績を立てようとしたが、高祖は許さなかった。高祖はかつて顕宗と程霊虬に言った、「著作の任は、国書を司るものである。卿らの文章は、朕自ら委ねて詳しく知っている。中書省の品評も、卿らが聞いているところであろう。もし古人と比べようとするなら、班固や司馬遷の類は、もとより遠く及ばない。もし当世に求めるなら、文学の才能においては、卿らは崔孝伯を推すべきである」。また顕宗に言った、「卿の撰した燕志および斉での詩詠を見ると、近ごろの文章よりはるかに勝っている。しかし著述の功績は、私が見ていないので、さらに監・令に尋ねてみよう。卿の才能を校べると、中第に位置すべきである」。また程霊虬に言った、「卿は顕宗よりさらに一段劣るので、下上に位置すべきである」。顕宗は答えて言った、「臣の才第は浅薄であり、あえて天の聞き届けるところとなり、崔光に比せられるとは、実に厚い御寵遇でございます。しかし臣はひそかに思いますに、陛下は古を貴び今を賤しめられる。臣は学問微少で才能短く、誠に古人を仰ぎ望むことはできませんが、聖明の世に遭い、惟新の礼を目にし、筆を染め素に刻み、時事を実録することは、後人に対しても恥じることはないでしょう。昔、揚雄が太玄経を著したとき、当時は覆甕の談を免れなかったが、二百年後には諸子を越えました。今臣の撰するものは、帝載を光述し日月に裨暉するには足りませんが、万祀の後、祖宗の巍巍たる功を仰ぎ観、陛下の明明たる徳を上らせ見るなら、唐典の欽明にも虞書の慎徽にも何ら劣ることはありません」。高祖は言った、「仮に朕が虞舜に愧じないとして、卿は堯の臣にどう及ぶというのか」。顕宗は言った、「臣は聞きます、君主は独りで治めることはできないので、百官を設けて務めを助けさせると。陛下は堯舜に並びたもうており、公卿はまさに二八の儔ではないでしょうか」。高祖は言った、「卿は著作として、ただ職務を奉ずる名のみで、良史ではない」。顕宗は言った、「臣は明時に遭い、直筆して懼れることなく、また金を受けず、安眠して美食する、これが臣が司馬遷や班固に優るところです」。高祖はこれを笑った。後に員外郎崔逸らとともに朝儀を参定した。

原文後乃啟乞宋王劉昶府諮議參軍事,欲立効南境,高祖不許。高祖曾謂顯宗及程靈虬曰:「著作之任,國書是司。卿等之文,朕自委悉,中省之品,卿等所聞。若欲取況古人,班馬之徒,固自遼闊。若求之當世,文學之能,卿等應推崔孝伯。」又謂顯宗曰:「見卿所撰燕志及在齊詩詠,大勝比來之文。然著述之功,我所不見,當更訪之監、令。校卿才能,可居中第。」又謂程靈虬曰:「卿比顯宗復有差降,可居下上。」顯宗對曰:「臣才第短淺,猥聞上天,至乃比於崔光,實為隆渥。然臣竊謂陛下貴古而賤今,臣學微才短,誠不敢仰希古人,然遭聖明之世,覩惟新之禮,染翰勒素,實錄時事,亦未慚於後人。昔揚雄著太玄經,當時不免覆盎之談,二百年外,則越諸子。今臣之所撰,雖未足光述帝載,稗暉日月,然萬祀之後,仰觀祖宗巍巍之功,上覩陛下明明之德,亦何謝欽明於唐典,慎徽於虞書。」高祖曰:「假使朕無愧於虞舜,卿復何如於堯臣?」顯宗曰:「臣聞君不可以獨治,故設百官以贊務。陛下齊蹤堯舜,公卿寧非二八之儔。」高祖曰:「卿為著作,僅名奉職,未是良史也。」顯宗曰:「臣仰遭明時,直筆而無懼,又不受金,安眠美食,此臣優於遷固也。」高祖哂之。後與員外郎崔逸等參定朝儀。

高祖はかつて諸官に詔して言った、「近代以来、高卑の出身には、常に一定の分けがある。朕の考えでは、一方ではよしとし、また一方ではよしとしない。互いに量るべきである」。李沖が答えて言った、「上古以来、官を置き位を列ねるのは、膏粱の児の地と為さんがためか、それとも治を益し時を讃えんがためか、未だ審らかにしません」。高祖は言った、「ともに治めんがためである」。沖は言った、「もし治めんとするなら、陛下は今日なぜ専ら門品を崇め、才を抜く詔がないのですか」。高祖は言った、「もし人に殊なる伎があれば、知られないことを憂うることはない。しかし君子の門は、仮に当世の用がなくとも、要は德行が純篤である、朕はこれを用いるのである」。沖は言った、「傅巌や呂望は、門によって挙げられるべきでしょうか」。高祖は言った、「このように世を済う者は稀で、曠代に一兩人いるのみである」。沖は諸卿士に言った、「ちょうど諸賢に請いてこれを救おうとしていた」。秘書令李彪が言った、「師旅寡少で、未だ援と為すに足らず、思い懐くところがありますが、聖日に尽く言うことはできません。陛下が専ら門地によってなさるなら、魯の三卿と四科とではどちらが優れているか、未だ審らかにしません」。高祖は言った、「先の解釈と同じである」。顕宗が進み出て言った、「陛下は洛邑に光宅し、百礼惟新であります。国の興否は、この一選に指します。臣は既に学識浮浅で、古今を援引してこの議を証することはできませんが、国事をもって論じます。中書・秘書監令の子は必ず秘書郎となるかどうか、近ごろ監・令となった者の子は皆なれるのでしょうか」。高祖は言った、「卿はなぜ当世の膏腴で監・令となった者を論じないのか」。顕宗は言った、「陛下は物は類すべからずとされ、貴をもって貴を承け、賤をもって賤を襲うべきではないとお考えです」。高祖は言った、「もし高明卓爾で才具雋出する者があれば、朕もこの例に拘らない」。後に本州の中正となった。

原文高祖曾詔諸官曰:「自近代已來,高卑出身,恒有常分。朕意一以為可,復以為不可。宜相與量之。」李沖對曰:「未審上古已來,置官列位,為欲為膏粱兒地,為欲益治讚時?」高祖曰:「俱欲為治。」沖曰:「若欲為治,陛下今日何為專崇門品,不有拔才之詔?」高祖曰:「苟有殊人之伎,不患不知。然君子之門,假使無當世之用者,要自德行純篤,朕是以用之。」沖曰:「傅巖、呂望,豈可以門見舉?」高祖曰:「如此濟世者希,曠代有一兩人耳。」沖謂諸卿士曰:「適欲請諸賢救之。」祕書令李彪曰:「師旅寡少,未足為援,意有所懷,不敢盡言於聖日。陛下若專以門地,不審魯之三卿,孰若四科?」高祖曰:「猶如向解。」顯宗進曰:「陛下光宅洛邑,百禮唯新,國之興否,指此一選。臣既學識浮淺,不能援引古今,以證此議,且以國事論之。不審中、祕書監令之子,必為祕書郎,頃來為監、令者,子皆可為不?」高祖曰:「卿何不論當世膏腴為監、令者?」顯宗曰:「陛下以物不可類,不應以貴承貴,以賤襲賤。」高祖曰:「若有高明卓爾、才具雋出者,朕亦不拘此例。」後為本州中正。

二十一年、車駕は南伐し、顕宗は右軍府長史・征虜将軍・統軍となった。軍は赭陽に駐屯したとき、蕭鸞の戍主成公期がその軍主胡松・高法援らを遣わし、蛮賊を引き連れて来て軍営を撃たせた。顕宗は親しく率いて拒戦し、遂に法援の首を斬った。顕宗が新野に至ると、高祖は詔して言った、「卿は賊を破り帥を斬り、軍勢に大いに益した。朕は今堅城を攻めているが、なぜ露布を作らないのか」。顕宗は言った、「臣はかつて鎮南将軍王肅が賊二三、驢馬数匹を獲たとき、皆露布としたと聞き、臣は東観におり、ひそかに毎度これを笑っておりました。近ごろ威霊を仰ぎ憑り、醜虜を摧くを得ましたが、兵寡く力弱く、擒斬多くありません。もしまた長縑を高く曳き、功捷を虚張し、尤みながらこれを效すなら、その罪はさらに甚だしい。臣が毫を斂め帛を巻き、解上しただけの理由です」。高祖は笑って言った、「卿のこの勲は、誠に茅社に合うが、赭陽が平定するのを待ち、検審して酬いよう」。新野が平定され、顕宗を鎮南・広陽王嘉の諮議参軍とした。顕宗は後に上表し、甚だ自ら矜伐し、前の征勲を訴えた。詔して言った、「顕宗は斐然として章を成し、甚だ怪責すべきであり、進退に検めなく、我が清風を虧く。これを糾さなければ、弊俗を長ずるかもしれない。尚書に付し、推列して聞かせよ」。兼尚書張彝が顕宗の官を免ずるよう奏上した。詔して言った、「顕宗は浮矯によって愆を致したが、才はなお用いることができる。どうして永く棄てることができようか。白衣のまま諮議を守らせ、その後効を展べさせよ。しかし鄙很の性は、華に参ずるに足らず、見□を奪い、併せて諸王への問訊を禁ずる」。

原文二十一年,車駕南伐,顯宗為右軍府長史、征虜將軍、統軍。軍次赭陽,蕭鸞戍主成公期遣其軍主胡松、高法援等并引蠻賊來擊軍營,顯宗親率拒戰,遂斬法援首。顯宗至新野,高祖詔曰:「卿破賊斬帥,殊益軍勢,朕方攻堅城,何為不作露布也?」顯宗曰:「臣頃聞鎮南將軍王肅獲賊二三,驢馬數匹,皆為露布,臣在東觀,私每哂之。近雖仰憑威靈,得摧醜虜,兵寡力弱,擒斬不多。脫復高曳長縑,虛張功捷,尤而效之,其罪彌甚。臣所以斂毫卷帛,解上而已。」高祖笑曰:「如卿此勳,誠合茅社,須赭陽平定,檢審相酬。」新野平,以顯宗為鎮南、廣陽王嘉諮議參軍。顯宗後上表,頗自矜伐,訴前征勳,詔曰:「顯宗斐然成章,甚可怪責,進退無檢,虧我清風。此而不糾,或長弊俗。可付尚書,推列以聞。」兼尚書張彝奏免顯宗官,詔曰:「顯宗雖浮矯致愆,才猶可用,豈得永棄之也!可以白衣守諮議,展其後效。但鄙很之性,不足參華,可奪見□,并禁問訊諸王。」

顕宗は失意した後、信に遇って洛に向かい、五言詩を作って御史中尉李彪に贈り、曰く、「賈生は長沙に謫せられ、董儒は臨江に詣る。愧ずらくは若人の跡なく、忽ちに両賢の蹤を尋ぬ。昔を追えば渠閣に游び、駑を策して羣龍に厠す。如何にして願を奪われ、飄然として独り遠く従う。痛哭して旧国を去り、涙を銜んで新邦に届く。哀しいかな援無き民、嗷然として侶を失える鴻。彼の蒼は我を聞かず、千里に志を同じくすことを告ぐ」。二十三年に卒した。顕宗は『馮氏燕志』『孝友伝』を各十巻撰し、所作の文章は、頗る世に伝わった。景明初め、赭陽の勲を追賁し、爵を章武男と賜った。

原文顯宗既失意,遇信向洛,乃為五言詩贈御史中尉李彪曰:「賈生謫長沙,董儒詣臨江。愧無若人跡,忽尋兩賢蹤。追昔渠閣游,策駑厠羣龍。如何情願奪,飄然獨遠從?痛哭去舊國,銜淚届新邦。哀哉無援民,嗷然失侶鴻。彼蒼不我聞,千里告志同。」二十三年卒。顯宗撰《馮氏燕志》,《孝友傳》各十卷,所作文章,頗傳於世。景明初,追赭陽勳,賜爵章武男。

子の武華は襲爵した。討寇将軍・奉朝請・太原太守に除された。

原文子武華,襲。除討寇將軍、奉朝請、太原太守。

程駿

原文程駿

程駿は、字を驎駒といい、本は広平曲安の人である。六世の祖の良は、晋の都水使者であったが、事に坐して涼州に流された。祖父の肇は、呂光の民部尚書であった。

原文程駿,字驎駒,本廣平曲安人也。六世祖良,晉都水使者,坐事流于涼州。祖父肇,呂光民部尚書。

駿は幼くして孤貧であり、喪に居て孝をもって称された。劉昞に師事し、性機敏で学を好み、昼夜倦むことがなかった。昞は門人に言った、「一隅を挙げて三隅を反す者、この子はそれに次ぐ」。駿は昞に言った、「今世の名教の儒は、皆な老荘の言は虚誕で、実要に切らず、もって経世すべからずと言いますが、駿はそうではないと考えます。老子は抱一の言を著し、荘生は性本の旨を申しますが、このようなものは、至順と言うべきです。人が一に乖けば煩偽生じ、性に爽えば沖真喪われます」。昞は言った、「卿は年尚稚だが、言うことは老成のようだ、美しいかな」。これによって声譽はますます広まり、沮渠牧犍は東宮侍講に抜擢した。

原文駿少孤貧,居喪以孝稱。師事劉昞,性機敏好學,晝夜無倦。昞謂門人曰:「舉一隅而以三隅反者,此子亞之也。」駿謂昞曰:「今世名教之儒,咸謂老莊其言虛誕,不切實要,弗可以經世,駿意以為不然。夫老子著抱一之言,莊生申性本之旨,若斯者,可謂至順矣。人若乖一則煩偽生,若爽性則沖真喪。」昞曰:「卿年尚稚,言若老成,美哉!」由是聲譽益播,沮渠牧犍擢為東宮侍講。

太延五年(439年)、世祖(太武帝)が涼を平定し、京師に遷都すると、司徒崔浩に認められた。高宗(文成帝)が即位すると、著作佐郎に任ぜられ、間もなく著作郎に遷った。任城王拓跋雲の郎中令となり、王に箴言を進上すると、王はこれを受け入れて賞賛した。皇興年間(467-471年)、高密太守に任ぜられた。尚書李敷が上奏して言うには、「君主が臣を使うには、必ずその功績を全うさせねばならない。程駿は実に史才があり、まさに直筆を伸ばすべき時である。千里の任は、十室の邑にもあり得る。どうか数年留め置き、前代の史籍を完成させた後、方伯(地方長官)を授けられるよう、愚考では妥当と存じます」と。上奏文が届くと、これに従った。顕祖(献文帝)はしばしば程駿を引きいて易と老子の義を論じ、群臣を顧みて言うには、「朕がこの者と語ると、心が大いに開け暢きる」と。また程駿に問うて言うには、「卿は年はいくつか」と。答えて言うには、「臣は六十一歳でございます」と。顕祖は言うには、「昔、太公望が年老いて文王に遇った。卿は今朕に遇ったが、早すぎるということはないか」と。程駿は言うには、「臣の才は呂望に及ばずとも、陛下の御尊厳は西伯(文王)を超えておられます。天が余命を授けられれば、六韜の効を尽くしたいと願います」と。

原文太延五年,世祖平涼,遷于京師,為司徒崔浩所知。高宗踐阼,拜著作佐郎,未幾,遷著作郎。為任城王雲郎中令,進箴於王,王納而嘉之。皇興中,除高密太守。尚書李敷奏曰:「夫君之使臣,必須終效。駿實史才,方申直筆,千里之任,十室可有。請留之數載,以成前籍,後授方伯,愚以為允。」書奏,從之。顯祖屢引駿與論易老之義,顧謂羣臣曰:「朕與此人言,意甚開暢。」又問駿曰:「卿年幾何?」對曰:「臣六十有一。」顯祖曰:「昔太公既老而遭文王。卿今遇朕,豈非早也?」駿曰:「臣雖才謝呂望,而陛下尊過西伯。覬天假餘年,竭六韜之効。」

延興末年(476年頃)、高麗王璉が掖庭に娘を納めることを求めたので、顕祖はこれを許し、程駿に散騎常侍の官を仮授し、安豊男の爵位を賜い、伏波将軍を加え、節を持って高麗に赴き娘を迎えることとし、布帛百匹を賜った。程駿は平壤城に至った。ある者が璉に勧めて言うには、「魏は昔、燕と婚姻を結びながら、後にこれを討った。それは使者がその国の険易を詳らかにしたからである。今もし娘を送れば、馮氏(北燕)の場合と異ならない恐れがある」と。璉はそこで娘が亡くなったと偽って言った。程駿と璉は往復して一年を経、程駿が道義をもって璉を責めたので、璉はその憤りに耐えかね、ついに程駿の従者の酒食を断った。璉は程駿を脅迫して辱めようとしたが、畏れて害を加えることはできなかった。ちょうど顕祖が崩御したので、帰還し、秘書令に任ぜられた。

原文延興末,高麗王璉求納女於掖庭,顯祖許之,假駿散騎常侍,賜爵安豐男,加伏波將軍,持節如高麗迎女,賜布帛百匹。駿至平壤城。或勸璉曰:「魏昔與燕婚,既而伐之,由行人具其夷險故也。今若送女,恐不異於馮氏。」璉遂謬言女喪。駿與璉往復經年,責璉以義方,璉不勝其忿,遂斷駿從者酒食。璉欲逼辱之,憚而不敢害。會顯祖崩,乃還,拜祕書令。

初めて神主を太廟に遷した時、有司が上奏した。旧例によれば、廟中の執事の官は、例によって皆爵位を賜るものであり、今も旧例に従うべきであると。詔して百官に評議させると、群臣は皆旧例に従うべきと認めたが、程駿のみが不可であるとした。上表して言うには、「臣は聞く。名器は帝王の貴ぶところ、山河は区夏(中国)の重んずるところである。それ故に漢の高祖には、功なくして侯とせずとの約束があった。必ずや大君(天子)の御世に命を受けて、戦謀の日に心力を尽くし、その後初めて茅土の賜り物に応じるのである。宗廟の事に預かって、疆土の賞を受ける例は見たことがない。ただ、晋の鄭の公族が夾輔を最大の勲功とし、呉漢・鄧禹の輩が征伐を重い功績としたのみである。周漢には遠い時代に文(規定)がなく、魏晋も往年に記録はない。皇道が符瑞を開き、乾業(帝業)が統治を創始して以来、三皇五帝の規を高く務め、百王の軌跡を盛んにしようとし、罰は古を減じ、賞は実に昔を増やしている。時に神主の改祔、清廟の厳粛化に因んで、群司に九品の命を授け、執事に五等の名を顕わした。たとえ帝王の制度作りが互いに沿襲しないとしても、当時の恩沢が、どうして長世の軌範たりえようか。衆に背く罪、伏して罪の譴責を待ちます」と。上奏文が届くと、これに従った。文明太后は群臣に言うには、「事を言うには固より正直で古典に準拠すべきであり、どうして一時の旧事に依拠できようか」と。程駿に衣一襲、帛二百匹を賜った。

原文初遷神主于太廟,有司奏:舊事,廟中執事之官,例皆賜爵,今宜依舊。詔百僚評議,羣臣咸以為宜依舊事,駿獨以為不可。表曰:「臣聞:名器為帝王所貴,山河為區夏之重。是以漢祖有約,非功不侯。必當屬有命於大君之辰,展心力於戰謀之日,然後可以應茅土之錫。未見預事於宗廟,而獲賞於疆土;徒見晉鄭之后以夾輔為至勳,吳鄧之儔以征伐為重績。周漢既無文於遠代,魏晉亦靡記於往年。自皇道開符,乾業創統,務高三、五之規,思隆百王之軌,罰頗減古,賞實增昔。時因神主改祔、清廟致肅,而授羣司以九品之命,顯執事以五等之名。雖復帝王制作,弗相沿襲,然當時恩澤,豈足為長世之軌乎?乖眾之愆,伏待罪譴。」書奏,從之。文明太后謂羣臣曰:「言事固當正直而準古典,安可依附暫時舊事乎?」賜駿衣一襲、帛二百匹。

程駿はまた上表して言うには、「春秋に言う。『その君に対して礼あるを見れば、孝子の父母を養うが如く、その君に対して礼なきを見れば、鷹鸇の鳥雀を逐うが如し』と。これによって将来を勧誡し、万代に範を垂れるのである。昔、陳恒が君を殺した時、宣尼(孔子)は討伐を請うた。たとえ安逸を欲しても、どうしてやめられようか。今、廟算(朝廷の策)は天のごとく回り、七州は雲のごとく動き、将に水にて鯨鯢を蕩し、陸にて凶逆を掃うべし。されど戦は陣を布かずして勝つことを貴び、兵家の美とするところである。宜しく先ず劉昶を遣わして淮南を招き諭すべきである。もし声に応じて喜び、同心して挙兵すれば、長江の険も朝服のまま渡ることができ、蕭道成の首も一朝にして懸けられよう。もし江南の軽薄なる者が、劉氏の恩義に背くならば、曲(理不尽)は彼らにあり、何ら神明に背くことではない。ただ義を正して江南に檄を飛ばし、軍を整えて旗を返すだけでも、患いを救う大いなる仁を示し、義風を四海に揚げるには十分である。かつ攻めるは難く守るは易し、ならば力は百倍も懸隔する。深く思わねばならず、熟慮せねばならない。今天下は静謐であるが、方外(境外)はなお憂慮すべきである。楊集始(拾寅か)は西南で僥倖を狙い、狂虜(柔然か)は漠北で隙を窺っている。もし攻撃が心に称わなければ、兵は終息しない恐れがあり、兵が終息しなければ、憂慮はますます深まる。社稷の計を為す者は、誰もまず根本を守ることを先にする。愚臣は考えるに、兵を江辺に閲し、皇威を振るい輝かせるには、特に撫慰を加えるべきである。秋毫も犯さなければ、民は徳と信を知る。民が徳と信を知れば、襁負して来る。襁負して来れば、淮北は定まる。淮北が定まれば、呉の寇は異なる図を抱く。寇が異なる図を抱けば、禍いの兆しが現れる。その後、兆しを見て動けば、遅くはない。諸州の兵を停止し、しばらく後の挙兵を待たれることを請う。いわゆる根本を守るというものである。伏して惟うに、陛下、太皇太后の英算神規は、百勝の外を覆い、機に応じて体を変え、方寸の中に独り悟っておられる。臣の影は虞淵に傾き、昏耄が将に及ぼうとしている。国を憂い思うも、ついに補うところはございません」と。従わなかった。

原文駿又表曰:「春秋有云:見有禮於其君者,若孝子之養父母;見無禮於其君者,若鷹鸇之逐鳥雀。所以勸誡將來,垂範萬代。昔陳恒殺君,宣尼請討,雖欲晏逸,其得已乎?今廟算天回,七州雲動,將水蕩鯨鯢,陸掃凶逆。然戰貴不陳,兵家所美。宜先遣劉昶招喻淮南。若應聲響悅,同心齊舉,則長江之險,可朝服而濟,道成之首,可崇朝而懸。苟江南之輕薄,背劉氏之恩義,則曲在彼矣,何負神明哉!直義檄江南,振旅回斾,亦足以示救患之大仁,揚義風於四海。且攻難守易,則力懸百倍,不可不深思,不可不熟慮。今天下雖謐,方外猶虞,拾夤僥倖於西南,狂虜伺舋於漠北。脫攻不稱心,恐兵不卒解,兵不卒解,則憂慮逾深。夫為社稷之計者,莫不先於守本。臣愚以為觀兵江滸,振曜皇威,宜特加撫慰。秋毫無犯,則民知德信;民知德信,則襁負而來;襁負而來,則淮北可定;淮北可定,則吳寇異圖;寇圖異則禍釁出。然後觀釁而動,則不晚矣。請停諸州之兵,且待後舉。所謂守本者也。伏惟陛下、太皇太后英算神規,彌綸百勝之外;應機體變,獨悟方寸之中。臣影頹虞淵,昏耄將及,雖思憂國,終無云補。」不從。

沙門法秀が謀反を企て誅殺された。程駿が上表して言うには、「臣は聞く。詩が作られるのは、志を言うためである。近くは父に事え、遠くは君に事え、風俗に関わること、備わらぬものはない。上は聖徳を頌美し、下は厚き風化を述べることができ、これを言う者は罪なく、これを聞く者は戒めとすることができる。これが古人が詩を用いる本意である。臣は垂没の年に、盛明の運に逢い、たとえ昏耄が将に及ぼうとも、なお廉頗の強飯の風を慕う。伏して惟うに、陛下、太皇太后の道は天地に合し、明は日月に等しく、則天(武則天)と唐風のごとく和らぎ、順帝(?)と周道のごとく霊を通じる。それ故に狂妖が逆を懐いても、謀を隠す地なく、冥霊が潜かに剪られ、発覚の誅に伏す。これによって七廟が幽かに助け、人神が扶助する所以である。臣は喜躍に耐えません。謹んで老鈍の思を尽くし、慶国頌十六章を上るとともに、巡狩と甘雨の徳について序を付します」と。その頌は以下の通り。

原文沙門法秀謀反伏誅。駿表曰:「臣聞詩之作也,蓋以言志。邇之事父,遠之事君,關諸風俗,靡不備焉。上可以頌美聖德,下可以申厚風化,言之者無罪,聞之者足以誡。此古人用詩之本意。臣以垂沒之年,得逢盛明之運,雖復昏耄將及,猶慕廉頗強飯之風。伏惟陛下、太皇太后,道合天地,明侔日月,則天與唐風斯穆,順帝與周道通靈。是以狂妖懷逆,無隱謀之地;冥靈潛翦,伏發覺之誅。用能七廟幽贊,人神扶助者已。臣不勝喜踴。謹竭老鈍之思,上慶國頌十六章,并序巡狩、甘雨之德焉。」其頌曰:

文明太后が令して言うには、「詩表を省覧し、聞いた。祖宗の功德を歌頌するのはよろしいが、当世の言葉は、なんと過ぎたることか。戒めとした下章は、忘れずにしまっておくがよい」と。程駿はまた一つの頌を得て奏上した。固業に始まり、無為に終わる十篇である。文が多いので載せない。文明太后が令して言うには、「表および頌十篇を省覧し、聞いた。鑒戒は既に備わっており、まことに欽玩に値する。老を養い言を乞うとは、このことを言うのであろう」と。また詔して言うには、「程駿は歴任の官において清廉謹慎であり、事を言うごとに常に適切である。また門には侠貨(賄賂)の賓客なく、室には道を懐く士がいる。帛六百匹を賜い、その倹徳を表彰せよ」と。程駿はこれを全て親戚旧友に分け与えた。

原文文明太后令曰:「省詩表,聞之。歌頌宗祖之功德可爾,當世之言,何其過也。所箴下章,戢之不忘。」駿又奏得一頌,始於固業,終於無為,十篇。文多不載。文明太后令曰:「省表并頌十篇,聞之。鑒戒既備,良用欽玩。養老乞言,其斯之謂。」又詔曰:「程駿歷官清慎,言事每愜。又門無俠貨之賓,室有懷道之士。可賜帛六百匹,旌其儉德。」駿悉散之親舊。

性質は剛直で、時の栄華を競わなかった。太和九年(485年)正月、病が篤くなり、遺令を残して言うには、「私は存命中より倹約を旨とした。どうして死後に奢り厚くできようか。昔、王孫が裸葬したのは、感ずるところがあってそうしたのであり、皇甫士安が籧篨(粗末な筵)を用いたのも、やや矯厲(意図的に厳しくする)のところがあった。今の世は既に休明であり、あらゆる制度は礼に従っている。彼らのやり方は私の志ではない。時服で収め、器皿は古式に従え」と。遂に卒去した。享年七十二。初め、程駿が病重い時、高祖(孝文帝)、文明太后は使者を遣わして代わる代わるその病状を問わせ、御師徐謇に診察させ、湯薬を賜った。臨終に際し、詔して小子の公称を中散とし、従子の霊虬を著作佐郎とした。卒去すると、高祖、文明太后は傷み惜しみ、東園の秘器、朝服一称、帛三百匹を賜い、冠軍将軍、兗州刺史、曲安侯を追贈し、諡して憲といった。制作した文章は、独自に集録されている。

原文性介直,不競時榮。太和九年正月,病篤,乃遺令曰:「吾存尚儉薄,豈可沒為奢厚哉?昔王孫裸葬,有感而然;士安籧篨,頗亦矯厲。今世既休明,百度循禮,彼非吾志也。可斂以時服,器皿從古。」遂卒,年七十二。初,駿病甚,高祖、文明太后遣使者更問其疾,敕御師徐謇診視,賜以湯藥。臨終,詔以小子公稱為中散,從子靈虬為著作佐郎。及卒,高祖、文明太后傷惜之,賜東園祕器、朝服一稱、帛三百匹,贈冠軍將軍、兗州刺史、曲安侯,諡曰憲。所製文筆,自有集錄。

程駿には六人の子がいた。元継、公達、公亮、公礼は、いずれも官に就かなかった。

原文駿六子,元繼、公達、公亮、公禮,並無官。

公義は、侍御史、謁者僕射、都水使者、武昌王司馬、沛郡太守を歴任した。公称は、主文中散、給事中、尚書郎を歴任した。いずれも早世した。

原文公義,侍御史、謁者僕射、都水使者、武昌王司馬、沛郡太守。公稱,主文中散、給事中、尚書郎。並早卒。

公礼の子、畿は、字を世伯という。学問を好み、頗る文才があった。荊州府主簿となった。

原文公禮子畿,字世伯。好學,頗有文才。荊州府主簿。

始めに駿の従祖弟の伯達、伯達の名は顕祖の廟諱に犯す。駿と同年であり、また文弁をもって知られた。〈闕〉沮渠牧犍の時、共に選ばれて牧犍の世子の参乗として出入りし、当時の論はこれを美とした。伯達は早く亡くなった。

原文始駿從祖弟伯達,伯達名犯顯祖廟諱。與駿同年,亦以文辯。〈闕〉沮渠牧犍時,俱選與牧犍世子參乘出入,時論美之。伯達早亡。

弟子の霊虬は幼くして孤となり、頗る文才があったが、久しく末役に沈んでいた。吏職に十数年あり、事に坐して免官された。会に駿が臨終に啓請し、著作佐郎に擢でられるを得た。後に在京に緦親無しと称することに坐し、高祖は彼が駿の子公義と始族であることを知り、故に譴責して免官させた。洛陽に至り、官無く、貧しく病んだ。久しくして、崔光が啓して羽林監に申し、徐州梁郡太守に選補されたが、酗酒をもって刺史武昌王鑒に劾せられ、官を失った。梁郡を下ってより後は、志力少し衰え、なお時に酒に困らされた。久しく官禄を去り、飢寒を免れず、屡々尚書に詣り旧任に効わんことを乞うた。僕射高肇が選を領し、還って著作郎に申したが、崔光が任を領していたため、勅令により外叙された。

原文弟子靈虬幼孤,頗有文才,而久淪末役。在吏職十餘年,坐事免。會駿臨終啟請,得擢為著作佐郎。後坐稱在京無緦親,而高祖知其與駿子公義為始族,故致譴免。至洛,無官,貧病。久之,崔光啟申為羽林監,選補徐州、梁郡太守,以酗酒為刺史武昌王鑒所劾,失官。既下梁郡,志力少衰,猶時為酒困。久去官祿,不免飢寒,屢詣尚書乞効舊任。僕射高肇領選,還申為著作郎,以崔光領任,敕令外敍。