劉昶
劉昶、 字 は休道、義隆の第九子である。義隆の時、義陽王に封ぜられた。兄の駿は征北将軍・徐州 刺史 ・開府と為した。駿の子の子業が立つに及び、昏狂にして暴虐をほしいままにし、その親族を害し、昶に異志あるを疑う。昶聞きて甚だ懼れ、典籤の虞法生を遣わして表を奉り入朝を求め、その意を観んとす。子業曰く「義陽は太宰と謀反を為す、我これを討たんと欲す、今還るを求むるを知る、甚だ善し」と。また屡々法生を詰めて曰く「義陽の謀事、汝何ぞ故に啓せざるや」と。法生禍を懼れ、走って彭城に帰る。昶 建康 を襲わんと欲すも、諸郡並びに命を受けず。和平六年、遂に母妻を委ね、妾の呉氏を携えて丈夫の服を為し、義従六十余人を結び、間行して来降す。路にて多く叛き、昶に随いて至る者二十人許りなり。
昶は学び淵洽ならざれども、子史を略覩し、前後の表啓は皆その自製なり。朝廷これを嘉重し、武邑公主を 尚 し、 侍中 ・征南将軍・駙馬都尉を拝し、丹陽王に封ぜらる。歳余にして公主薨じ、更に建興長公主を尚す。
皇興中、劉彧その員外郎李豊を遣わして来朝す。顕祖詔して昶に彧に与うる書を為さしめ、兄弟の戒めと為す。彧答えず、昶を責めて母をその国の妾と為すを以てし、宜しく春秋の荀罃が楚に対し外臣の礼を称するが如くすべしとす。尋で勅して昶に更に彧に書を与えしむ。昶表して曰く「臣は根を南偽に殖え、体を託するに殊ならず、旄を秉り牧と作り、職は台位に班す。天は子業を厭い、同体を夷戮す。本を背き朝に帰し、事は簪笏を捨つ。臣の弟彧は姪を廃し自ら立ち、遐邇に彰る。孔懐の義は奪い難く、臣と為すの典は経むる靡し。棠棣の詠は修むべく、越敬の事は未だ允らず。臣若し書を改めば、事は二敬と為り、猶往文を修すれば、彼納れず。伏して願わくは聖慈、臣が今の答を停めんことを」と。朝廷これに従う。外都坐大官を拝す。公主また薨じ、更に平陽長公主を尚す。
昶は犬馬を好み、武事を愛し、国に入りて歴紀するも、猶布衣皂冠、凶素の服に同じし。然れども童僕を呵詈するに、音は夷夏に雑る。公坐に在りてすら、諸王毎にこれを侮弄し、或いは手を戾し臂を齧み、痛傷に至るも、笑呼の声、御聴に聞こゆ。高祖毎にこれを優仮し、怪しみ問わず。本国の事故を陳奏するに至りては、語征役に及べば、則ち能く容を斂め涕泗し、悲しみ左右を動かす。而して天性褊躁、喜怒恒ならず、毎に威忿に至れば、楚朴特に苦しく、南士を引待するに、礼多く足らず、これによりて人畏避を懐く。
太和初、転じて内都坐大官と為る。蕭道成の劉準を殺すに及び、時に諸将を遣わして南伐す。詔して昶に曰く「卿は機体運を識り、先覚して来る。卿が宗廟は復た血食せず、朕斯の問を聞き、矜忿兼ねて懐く。今大将軍を遣わし南州の甲卒を率い、以て逆竪を伐ち、兇醜を克蕩し、民害を翦除せん。氛穢既に清まりなば、即ち卿に江南の土を胙し、以て蕃業を興さしめん」と。乃ち本将軍を以て諸将と同行せしむ。路徐州を経るに、その母の旧堂に哭拝し、哀しみ従者を感ぜしむ。乃ち遍く故居を循り、処処に隕涕す。左右もまた辛酸ならざるは莫し。軍所に至るに及び、将に臨陳せんと欲し、四面に諸将士に拝し、自ら家国の滅亡を陳べ、朝廷の慈覆に蒙ることを述ぶ。辞理切至、声気激揚、涕泗横流す。三軍咸な感歎を為す。後、昶雨水方に降らんことを恐れ、表して還師を請う。これに従う。また儀同三司を加え、儀曹 尚書 を領す。時に朝儀を改革す。詔して昶と蒋少遊に専らその事を主とせしむ。昶旧式を条上し、略々遺忘せず。
高祖宣文堂に引見す。昶啓して曰く「臣が本国は造られず、私に虐政有り、能く昏を廃し徳を立て、傾危を扶定せず。万里奔波し、皇闕に投蔭し、天慈を仰頼し、以て首領を存す。然れども大耻未だ雪がれず、痛愧心に纏う。属に陛下釈校の始めに逢い、願わくは曲恩を垂れ、臣を辺戍に処し、遺人を招集し、以て私耻を雪がん。死の日と雖も、猶生年の若し」と。悲泣すること良久し。高祖曰く「卿誠を投ずること累紀、本邦湮滅す。王者未だ能く難を恤い災を矜まず、良に愧と為す。出蕃の日、請う別に処分すべし」と。後に昶の女を以て郷君と為す。
高祖宣文堂に臨み、武興王楊集始を見る。既にして集始を引いて宴に入る。詔して昶に曰く「集始は辺方の酋長、諸侯の礼に当たるに足らず。但だ王者は小国の臣を遺わず、況んや此の蕃垂の主をや。故に公卿をここに労す」と。昶対えて曰く「陛下の道化光く被わり、北より南に及び、故に巴漢の雄、遠く天闕を覲る。臣猥りに盛礼を瞻し、実に嘉遇を忻ぶ」と。高祖曰く「武興・宕昌は礼容に並びに閑備せず。向に集始を見るに、その挙動を観れば、弥承に賢れる有り」と。昶対えて曰く「陛下の恵普天に洽く、沢外無きに流る。武興蕞爾たり、豈に椹を食み音を懐かざらんや」と。
また 中書 監と為る。五等を開建し、昶を斉郡開国公に封じ、宋王の号を加う。十七年春、高祖経武殿に臨み、大いに南伐を議す。劉・蕭の 簒奪 の事に語及び、昶毎に悲泣已まず。因りて奏して曰く「臣が本朝淪喪し、艱毒備り罹る。国霊を冀恃し、臣が私耻を釈さん」と。頓首拝謝す。高祖もまたこれが為に流涕し、礼すること弥崇し。蕭賾の雍州刺史曹虎の詐降するや、詔して昶に兵を以て義陽より出さしむ。功無くして還る。
十八年、使持節・ 都督 呉越楚彭城諸軍事・大将軍を除く。固く辞す。詔して許さず、また布千匹を賜う。発するに及び、高祖親しくこれを餞り、百僚に命じて詩を賦し昶に贈らしめ、またその文集一部を昶に賜う。高祖因りて所製の文筆を以てこれに示し、昶に謂いて曰く「時に勝残に契い、事文業に鍾る。学ばざると雖も、罷めんと欲して能わず。脱え一見を思わば、故に以て相示す。足る味無しと雖も、聊く復た笑いを為さん耳」と。その昶を重んずること此の如し。昶の彭城を背きしより、是に至るまで久し。その昔の斎宇山池、並びに尚存立す。昶更に修繕し、還りて其中に処す。能く辺を綏め物を懐かしめ、義故を撫接せずして、閨門喧猥、内外姦雑す。前民旧吏、慨歎せざるは莫し。 豫 め墓を彭城西南に営み、三公主と同塋にして穴を異にす。石を発きてこれを累ぬるに、墳崩れ、十余を圧殺す。後復た移改し、公私の費害と為る。
高祖南討す。昶行宮に駕を候う。高祖侍中を遣わしてこれを迎労せしむ。昶蕭昭業の司州を討つ。屡々賊軍を破ると雖も、義陽拒守して克たず、昶乃ち班師す。十九年、高祖彭城に在り。昶至り入見す。昶曰く「臣勅を奉り専征し、兇醜を剋殄せんとす。徒らに士馬を労し、久しく歳時に淹り、威霊を損す。伏して斧鉞を聴く」と。高祖曰く「朕が此行、本より攻守の意無し。正に罪を伐ち民を弔い、威を宣べ徳を布さんと欲するのみ。二事既に暢びなば、本図を失わず。朕も亦克たずして還る。豈に但だ卿のみならんや」と。
十月、劉昶は京師に朝した。高祖は光極堂に臨み大選を行った。高祖は言った、「朝廷は月旦に因り、魏の典を評せんと欲す。そもそも典とは、国の大綱たり、民を治める柄なり。君よく典を好めば則ち国治まり、能わざれば則ち国乱る。我が国家は昔恒代に在り、時に随い制作すれども、世を通ずる長典に非ず。故に夏より秋に及び、親しく条制を議す。或いは言う、唯だ能を是に寄すべし、必ずしも門に拘るべからずと。朕は以て然らずと為す。何となれば、当今の世は、祖の質朴を仰ぎ、清濁同流し、混じて一等に斉しく、君子小人の名品別れ無く、此れ殊に不可と為す。我今八族以上、士人の品第九有り、九品の外、小人の官、復た七等有り。若し苟くも其の人あらば、三公として起家すべし。正に賢才を得難きを恐れ、一人の為に止め、我が典制を渾すべからざるのみ。故に九流を班鏡し、一朝の軌を清くし、千載の後に、我唐虞に髣髴するを得、卿等元・凱に依俙せんことを得しむ」と。劉昶は対えて言った、「陛下中区に光宅し、朝典を惟新し、九流を刊正し、不朽の法と為し、豈に唯だ唐虞に髣髴するのみならんや、固より三代より高き有らん」と。高祖は言った、「国家本来に一事慨く可し。慨く可き者は何ぞ。恒に公言得失無きなり。今卿等各々其の心を尽くせ。人君は群下の諫を納むる能わざるを患え、臣と為るは主に忠を尽くす能わざるを患う。朕今一人を挙ぐ。如し不可有らば、卿等其の失を尽く言え。若し才能有りて朕の識らざる者有らば、宜しく各々知る所を挙げよ。朕当に己を虚しくして延納せん。若し能く此くの如くせば、挙ぐれば則ち賞を受け、言わざれば則ち罪有らん」と。
大将軍を論ずるに及び、高祖は言った、「劉昶即ち其の人なり」と。後に班剣二十人を給う。二十一年四月、彭城にて薨ず。年六十二。高祖之が為に哀を挙げ、温明秘器・銭百万・布五百匹・蠟三百斤・朝服一具・衣一襲を給し、仮黄鉞・ 太傅 を贈り、揚州刺史を領せしめ、殊礼を加え、九錫を備え、前後部羽葆鼓吹を給し、晋の琅邪武王司馬伷の故事に依り、 諡 して明と曰う。
劉昶の適子承緒は、主(北魏の公主)の生みしなり。少にして尫疾あり。高祖の妹彭城長公主を 尚 り、駙馬都尉と為る。劉昶に先だって卒す。員外常侍を贈られる。
長子文遠、次に輝、字は重昌、並びに皆疏狂にして、劉昶は深く其の爵封を守る能わざるを慮る。然れども輝は猶小にして、未だ多く罪過無し。乃ち以て世子と為し、封を襲わしむ。正始初め、蘭陵長公主を尚ぐ。世宗の第二姉なり。員外常侍に拝す。公主頗る厳にして妬み、輝嘗て私かに主の侍婢を幸して身ごもらしむ。主之を笞殺し、其の孕める子を剖き、節解し、草を以て婢の腹に装い実し、裸にして輝に示す。輝遂に忿憾し、公主を疏薄す。公主の姉因りて入り講を聴き、其の故を霊太后に言う。太后清河王元懌に勅して其の事を窮めしむ。元懌は高陽王元雍・広平王元懷と共に其の和せざるの状を奏し、夫婦の理と為す可き無く、離婚を請い、封位を削除せんことを請う。太后之に従う。公主宮中に在ること周歳、高陽王及び劉騰等皆公主の為に太后に言う。太后其の改めざるを慮り、未だ之を許さず。元雍等屡請うて已まず、旧義に復するを聴す。太后涕を流して公主を送り、謹みて護るを誡め令す。正光初め、輝又私かに張・陳二氏の女を淫す。公主更に悪を検せず、主の姑陳留公主共に相扇奬し、遂に輝と復た忿争を致す。輝主を推し床より堕とし、手脚を毆蹈す。主遂に胎を傷つけ、輝罪を懼れて逃逸す。霊太后清河王元懌を召して其の事を決せしむ。二家の女は髠笞して宮に付し、兄弟皆鞭刑に坐し、敦煌に徙配して兵と為す。公主傷に因りて薨ず。太后親しく臨み慟哭し、哀を太極東堂に挙げ、城西に出で葬り、太后親しく数里を送り、哀を尽くして還る。侍中崔光に謂いて曰く、「向に哭して過哀に為る所以は、公主が輝に頓辱せられしこと一に非ざるを追念し、乃ち言に関せず、能く隠忍為す、古今寧くか此れ有らんや。此れ之を痛む所以なり」と。後輝を河内の温県に執え、司州に幽し、将に死刑を加えんとす。赦に会いて免るるを得。三年、其の官爵を復し、征虜将軍・中散大夫に遷す。四年、輝卒す。家遂に衰頓し、復た紀す可き無し。
文遠は、歩兵 校尉 ・前将軍を歴任す。景明初め、統軍と為る。寿春に在り、刺史王粛を謀殺し寿春を以て叛かんと坐し、事発して法に伏す。
通直郎劉武英なる者有り。太和十九年淮南より内附に従い、自ら云う、劉裕の弟長沙景王劉道憐の曾孫なりと。建寧子の爵を賜い、 司徒 外兵参軍と為り、稍く転じて歩兵 校尉 ・游撃将軍、河内太守に卒す。然れども劉昶は以て族親と為さず。
蕭寶夤
蕭寶夤、字は智亮、蕭鸞の第六子、蕭寶巻の同母弟なり。蕭鸞の位を窃むるや、蕭寶夤を建安王に封ず。蕭寶巻立つ、以て車騎将軍・開府と為し、石頭戍軍事を領す。蕭寶巻昏狂、其の直後劉霊運等蕭寶夤を奉ぜんと謀り、密かに遣わして蕭寶夤に報ず。蕭宝夤之を許す。遂に蕭宝夤を迎え、石頭の文武を率いて其の台城に向かい、警蹕を称す。百姓随従する者数百人。会う日暮れ、城門閉ざす。乃ち三尚及び建業城を焼く。城上より数人を射殺す。衆乃ち奔散す。蕭宝夤車を棄てて歩走す。部尉之を執り送る。自ら列す、人の逼る所と為すと。蕭宝巻亦罪責せず。蕭宝巻の弟蕭宝融僭立し、蕭宝夤を以て衛将軍・南徐州刺史と為し、改めて鄱陽王に封ず。
蕭衍既に建業を克つ、其の兄弟を殺し、将に蕭宝夤を害せんとす。兵を以て之を守るも、未だ厳急に至らず。其の家の閹人顔文智と左右の麻拱・黄神密かに計り、牆を穿ちて夜に蕭宝夤を出だす。小船を江岸に具え、本の衣服を脱ぎ、烏布の襦を著、腰に千許りの銭を繫ぎ、潜かに江畔に赴き、屩を躡きて徒歩す。脚全き皮無し。防守者明けに至りて之を追う。蕭宝夤釣者と仮り、流に随いて上下すること十余里、追う者疑わず。散ずるを待ち、乃ち西岸に度る。遂に命を委ねて華文栄に投ず。華文栄は其の従子天龍・恵連等三人と、家を棄てて蕭宝夤を将い山澗に遁匿し、驢を賃して之に乗り、昼は伏し宵に行く。景明二年寿春の東城戍に至る。戍主杜元倫推検し、実に蕭氏の子なるを知り、礼を以て延待し、馳せて揚州刺史任城王元澄に告ぐ。元澄車馬侍衛を以て之を迎う。時に年十六、徒歩憔悴、見る者掠売の生口と為す。元澄客礼を以て待つ。乃ち喪に居り斬衰の服を請う。元澄人を遣わして情礼を暁示し、兄を喪うの制を以て、其の斉衰を給う。蕭宝夤命に従う。元澄官僚を率いて弔いに赴く。蕭宝夤居処礼有り、酒を飲み肉を食わず、笑を輟め言を簡にし、一同極哀の節に同じ。寿春其の故義多し。皆慰唁を受け、唯だ夏侯一族を見ず。夏侯の蕭衍と同きに因るなり。改めて日を造り元澄に謁す。元澄深く之を器重す。
景明三年閏四月、詔して曰く、「蕭宝夤機運を深く識り、有道に帰誠し、険を冒し屯を履み、命を絳闕に投ず。微子・陳韓も亦何を以てか之に過ぎん。羽林監・領主書劉桃符を遣わし彼に詣り迎接せしむべし。其の資生に須う所の物、及び衣冠・車馬・在京の邸館、尚書に付し悉く令して予備せしめよ」と。京師に至るに及び、世宗之を礼すること甚だ重し。闕下に伏して訴え、兵を請いて南伐せんとす。暴風大雨に遇うと雖も、終に暫くも移らず。
この年の冬、蕭衍の江州刺史陳伯之とその長史褚冑らが寿春より帰順し、軍を率いて功を立てんと請うた。世宗は宝夤の誠意と伯之の申し述べるところを以て、時機を失うべからずとし、四年二月、八座と門下を引いて入議し、部署の方策を定めた。四月、使持節・ 都督 東揚南徐兗三州諸軍事・鎮東将軍・東揚州刺史・丹陽郡開国公・斉王に任じ、兵一万を配し、暫く東城に拠り、秋冬の大挙を待たしむ。宝夤は翌日に拝命すべきところ、その夜慟哭した。朝に至り、礼を備えて策授し、車馬什物を賜い、虎賁五百人を給し、事は豊厚に従うも、なお劉昶の優隆には及ばなかった。また天下の壮勇を募ることを許し、数千人を得た。文智ら三人を積弩将軍とし、文栄ら三人を強弩将軍とし、ともに軍主とした。宝夤は少より羇旅流寓したれども、志性雅重にして、喪期を過ぎてもなお酒肉を絶ち、惨形悴色、蔬食粗衣、未だ嘗て嬉笑せず。命を受けて南伐に当たるに及び、貴要多く相憑託し、門庭賓客市の如く、書記相尋うも、宝夤は接対報復し、その理を失わず。
正始元年三月、宝夤は汝陰に至るも、東城は既に陥落し、寿春の栖賢寺に留まる。賊将姜慶真の内侵に遭い、士民響応し、寿春を囲逼し、遂に外郭を占拠す。宝夤自ら甲冑を貫き、率いてこれを撃ち、四更より交戦し、明日の申時に至るも、賊の軍勢ますます盛ん。宝夤は衆寡敵せず援なく、金城に退く。また相国東門より出で、衆を率いて力戦し、始めてこれを破り走らしむ。宝夤の寿春の戦い、勇は諸軍に冠たり、聞見する者壮とせざるはなし。七月、京師に還り、梁郡開国公に改封され、食邑八百戸。
中山王英の南伐に及び、宝夤また征討を求めて上表す。乃ち使持節・鎮東将軍・別将として英に継がしめ、羽林・虎賁五百人を配す。英と頻りに衍軍を破り、勝に乗じて鍾離を攻む。淮水汎溢し、宝夤と英狼狽して引退し、士卒死没すること十四五。有司、宝夤が東橋を守り固からず、軍敗これに由ると奏し、極法を以て処せんとす。詔して曰く「宝夤は難に因りて投誠す、矜み貸すべし、死を恕し、官を免じ爵を削りて第に還らしむべし」。
尋いで南陽長公主を尚し、帛一千匹を賜い、併せて礼具を給う。公主は婦徳あり、宝夤に事えて尽く肅雍の礼を尽くし、好合積年なれども、敬事替わらず。宝夤の入室する毎に、公主は必ず立ってこれを待ち、相遇うこと賓の如く、太妃の疾篤に非ざれば、未だ嘗て帰休せず。宝夤は器性温順、自ら礼を以て処し、公主を奉敬し、内外諧穆、清河王懌親しくしてこれを重んず。
永平四年、盧昶、蕭衍の朐山戍を克ち、琅邪戍主傅文驥をしてこれを守らしむ。衍、師を遣わして文驥を攻め、盧昶衆軍を督してこれを救う。詔して宝夤をして使持節・仮安南将軍・別将と為し、長駆して赴かしめ、盧昶の節度を受く。帛三百匹を賜い、世宗東堂にてこれを餞る。詔して曰く「蕭衍死を送り、兵を連ねて再び寒暑を離る。卿の忠規内に挺し、孝誠外に亮かなり。必ずや呉墓に尸を鞭ち、江陰に衍を戮さんと欲す。故に卿に総統の任を授け、卿に克捷の規を仗つ。宜しく其れ勉めよや」。宝夤対えて曰く「讎耻未だ復せず、戈を枕して旦を俟つ。申包の志無きといえども、敢えて伍胥の心を忘れず。今、神謀を仰ぎ仗し、将帥を俯して厲し、誓って彼の姦勁を拉ぎ、以て王略を清めん。聖沢下臨し、悲荷に勝えず」。因りて泣涕横流し、哽咽すること良久し。後に及び、盧昶軍敗るるも、唯だ宝夤全師して帰る。
延昌初め、安東将軍・瀛州刺史に除し、その斉王を復す。四年、撫軍将軍・冀州刺史に遷る。大乗の賊起こるに及び、宝夤軍を遣わしてこれを討ち、頻りに賊に破られる。臺軍至りて、乃ちこれを滅ぼす。霊太后臨朝し、京師に還る。
蕭衍、その将康絢を遣わし、浮山にて淮を堰きて揚徐を灌がんとす。宝夤を除して使持節・ 都督 東討諸軍事・鎮東将軍と為し、以てこれを討たしむ。尋いでまた梁郡開国公に封じ、食邑を済州の濮陽に寄す。熙平初め、賊の堰既に成り、淮水濫溢し、将に揚徐の患いとならんとす。宝夤堰の上流に於いて、更に新渠を鑿ち、引き注ぎて淮沢に注ぎ、水乃ち小減す。乃ち軽車将軍劉智文・虎威将軍劉延宗に壮士千余を率いさせ、夜に淮を渡り、その竹木営聚を焼き、賊の三壘を破り、殺獲数千人、その直閤将軍王升明を斬りて還る。火数日滅せず。衍の将垣孟孫・張僧副ら水軍三千、淮を渡り、北に統軍呂叵を攻む。宝夤、府司馬元達・統軍魏続年らを遣わして赴き撃たしめ、これを破り、孟孫ら奔退す。乃ち左光禄大夫・殿中尚書を授く。宝夤また軍主周恭叔に壮士数百を率いさせ、夜に淮を渡り南し、賊の徐州刺史張豹子ら十一営を焚き、賊衆驚擾し、自ら害する者甚だ衆し。宝夤京師に還り、また使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 荊□東洛三州諸軍事・ 衞 将軍・荊州刺史に除す。行かず、また殿中尚書と為る。
宝夤が淮堰に在った時、蕭衍は手紙を宝夤に与えて曰く、「謝斉の建安王宝夤に申し上げる。亡兄の長沙宣武王は、かつて漢中に投じたが、北寇が華陽に至り、地は一隅に絶え、内には素より蓄えなく、外には継援を絶たれ、危きを守りて疏勒の如く、計略は田単を踰え、遂に能く土を全うし敵を破り、弱きを以て強きと為した。使節の至る日、君臣は色を動かし、左右相賀した。斉の明帝はこの功績を念う毎に、未だ嘗て箸を輟めて咨嗟せざるはなかった。及び張永・崔慧景の事に至っては、大将は外に軍を覆し、小将は内に貳心を懐き、事は累卵の危うきに及び、勢いは綴旒を過ぎた。亡兄は忠勇奮発し、師を旋して大峴に至り、重囲累日のうちに、一鼓して魚潰の如く、慧景を克定し、その功は桓文を踰えた。亡弟の衛尉は、兄弟力を勠し、内外に心を尽くした。大勲は報いられず、翻って荼酷に罹り、百口幽執され、禍害相尋いだ。朕は斉の明帝に対し、外には龕敵の力を有し、内には帷幄の誠を尽くし、日に三たび自ら省みて、曾て寸の咎も無く、遠く辺外に身を置くも、また免れざるを得なかった。遂に劉山陽を遣わし軽舟西上させ、来たりて掩襲せんとした。時は危うく事は迫り、勢い已むを得ざるものあり。是をもって樊鄧に衆を誓い、会して孟津を踰え、本より梅虫児・茹法珍等を翦除し、以て冤酷を雪ぎ、親属を抜き済し、身を素里に反さんと欲した。時に張稷・王珍国は既に大事を建て、宝晊・子晋は屡々危機を動かし、楽推の心に迫られ、上天の命に応じ、事は獲已むを得ず、豈にその始願であろうか。是をもって天下を有するより以来、房室を絶棄し、滋味を断除したのは、正に四海にその本心を見せんと欲したからである。今日の位を以て、是れ重んずべきものと謂うなかれ。朕のこれを視るは、曾て一芥の如くにも及ばない。雖も復た崆峒の蹤は追い難くとも、汾陽の志は何ぞ遠からんや。今この堰を立てるは、卿は未だ本意に達せざるであろう。朕は昆虫に於いてすら、未だ殺さんと欲せず、また何ぞ急ぎて無用の地を争い、蒼生の命を戦わさんや。正に李継伯が寿陽に在り、辺境を侵犯し、歳月滋しに甚だしきが為である。或いは小城小戍を攻め、或いは一村一里を掠める。若し小に相酬答せば、終に寧日無く、辺邑は桑を争い、呉楚は禍を連ねる。是をもって毎に鎮戍を抑え、校計を与えざるなり。継伯は既に此の如くを得て、濫窃ますます多し。今この堰を修めるは、止むるに継伯の侵盗の役を報ぜんと欲するのみ。既に大挙に非ざれば、以て復た北土に文移せざるなり。卿は幼より倜儻の心有り、早くより縦横の気を懐く。往日卿が石頭に於いて事を挙げたるは、克捷せざりしと雖も、亦た丈夫なり。今河洛に止まるは、真にその時なり。然りと雖も、卿の為に計る者は、此の衆を率いて行き、彭城を襲い拠るに若くは莫し。別に当に軍を遣わして以て相影援せん。捷を得たる後、便ち卿の兄の子屏侍を遣わし、卿の国廟を送り、 并 せて卿の室家及び諸姪従を送らしむ。若し方に還北せんと欲せば、更に奇計を設けんも、恐らくは機事一たび差あれば、重ねて集まり難し。韓信の如く、野鶏に受困する勿れ。」宝夤は表してその書を送り、その忿毒の意を陳べた。朝廷之が為に報答した。
宝夤は復讐を志し存し、屡々辺境に居ることを請うた。神龟年中、出でて 都督 徐南兗二州諸軍事・車騎将軍・徐州刺史と為る。乃ち清東に学館を起こし、朔望に土姓の子弟を引見し、恩顔を以て接し、経義を論じ、政治に勤め、吏民之を愛した。凡そ三州に在ること、皆著名称有り。
正光二年、征されて車騎大将軍・尚書左 僕射 と為る。吏職に善く、甚だ声名有り。四年、上表して曰く、
詔して外に付して博議せしむ。永式と為すべきと以為うも、竟に定まる所無し。
時に蕭衍の弟子の西豊侯正德降り来たり、宝夤表して曰く、
正德は京師に至るや、朝廷之を待つこと尤も薄し。歳余りして、還りて叛く。
五年、蕭衍其の将裴邃・虞鴻等を遣わし衆を率いて揚州を寇す。詔して宝夤をして使持節・ 散騎常侍 ・車騎大将軍・ 都督 徐州東道諸軍事と為し、諸将を率いて之を討たしむ。既にして揚州刺史長孫稚大いに邃軍を破り、鴻を斬る。賊遂に奔退す。
初め、秦州城人の薛珍・劉慶・杜遷等反し、刺史李彦を執り、莫折大提を推して首と為し、自ら秦王と称す。大提尋いで死す。其の第四子念生窃かに天子と号し、年を改めて天建と曰い、官僚を置立し、息の阿胡を以て太子と為し、其の兄阿倪を西河王と為し、弟天生を高陽王と為し、伯珍を東郡王と為し、安保を平陽王と為す。天生を遣わし衆を率いて隴東より出で、汧城を攻め没し、仍いで岐州を陥れ、元志・裴芬之等を執り、遂に雍州を寇し、黒水に屯す。朝廷甚だ之を憂い、乃ち宝夤を除して開府・西道行臺と為し、率いる所の部東行将統を率い、大 都督 西征と為す。粛宗明堂に幸し、因りて以て之を餞る。
宝夤は大 都督 崔延伯と共に天生を撃ち、大いに之を破り、斬獲十余万。小隴に至るまで追奔す。軍人採掠するにより、遂に稽留を致し、速やかに追討せず、隴路復た塞がる。仍いで安定に於いて高平の賊帥万俟醜奴を進討し、更に負捷有り。時に天水人の呂伯度兄弟有り、始め念生と共に逆を同くす。後兄の衆と共に顕親に保ち、衆を聚めて念生を討つも、戦い敗れ、胡琛に降る。琛は伯度を以て大 都督 ・秦王と為し、其の士馬を資し、還って秦州を征し、成紀に於いて念生の将杜粲を大いに破り、又水洛城に於いて其の金城王莫折普賢を破り、遂に顕親に至る。念生衆を率い、身自ら拒戦す。又大いに奔敗す。伯度乃ち胡琛に背き、琛の将劉抜を襲い、之を破り走らしめ、其の兄の子忻和に騎を率いさせ東に国軍を引かしむ。念生事迫り、乃ち詐りて宝夤に降る。朝廷は伯度の立義の功を喜び、撫軍将軍・涇州刺史・平秦郡開国公を授け、食邑三千戸。然るに大 都督 元脩義・高聿、軍を隴口に停め、久しく西進せず。念生復た反す。伯度終に醜奴に殺さる。故に賊勢更に甚だしく、宝夤制する能わず。孝昌二年四月、宝夤を除して侍中・驃騎大将軍・儀同三司・仮大将軍・ 尚書令 と為し、後部鼓吹を給し、封を増して千戸。宝夤初め黒水より、終に平涼に至るまで、賊と相対し、数年攻撃す。賊亦之を憚る。関中保全するは、宝夤の力なり。
三年正月、 司空 公を除す。出師既に久しく、兵将疲弊す。是の月大いに敗れ、雍州に還る。仍いで 長安 に停まり、離散を収聚す。有司宝夤を死罪に処す。詔して民と為すを恕す。四月、使持節・ 都督 雍涇岐南豳四州諸軍事・征西将軍・雍州刺史・仮車騎大将軍・開府・西討大 都督 を除し、関以西より、皆節度を受く。九年、念生其の常山王杜粲に殺され、合門皆尽くす。粲は州を拠り宝夤に降るを請う。十月、 散騎常侍 ・車騎将軍・ 尚書令 を除し、其の旧封を復す。
この時、山東・関西には賊徒が充満し、朝廷の軍はしばしば敗北し、人々の心は沮喪していた。宝夤は自ら出軍して数年を経て、特に費用が広く靡き、一朝にして覆敗したことを慮り、猜疑と責めを受けることを憂え、内に自ら安んぜず。朝廷もまた甚だ疑い阻み、乃ち御史中尉酈道元を遣わして関中大使とした。宝夤は密かに己を取らんとすと謂い、ますます憂懼した。而して長安の軽薄の徒、これに因み相い説き動かす。道元が陰盤驛に至るに及び、宝夤は密かに其の将郭子恢らを遣わして攻めて之を殺し、詐りて道元の屍を収め、表して白賊の害に遭うと称した。又、 都督 ・南平王仲冏を殺す。是の月、遂に反し、僭って大号を挙げ、其の部内を赦し、隆緒元年と称し、百官を立てた。乃ち郭子恢を遣わし東に潼関を寇し、行臺張始栄は華州刺史崔襲を囲む。詔して尚書僕射行臺長孫稚に之を討たしむ。時に北地の人毛鴻賓が其の兄遐と糾合し郷義を率い、将に宝夤を討たんとす。宝夤は其の大将軍盧祖遷らを遣わして遐を撃たしむも、遐のために殺される。又、其の将侯終徳を遣わして往きて遐を攻めしむ。会に子恢が官軍に敗れ、長孫稚も又子の子彦を遣わして始栄を華州に破るに及び、終徳は此れに因み勢い挫け、還って宝夤を図る。軍、白門に至り、宝夤始めて覚り、終徳と交戦し、戦いに敗れ、公主及び其の少子と部下百余騎を携え、後門より出走し、渭橋を渡り、寧夷巴の張宕昌・劉興周の舎に投ず。尋いで醜奴に奔る。醜奴、宝夤を以て太傅とす。
永安三年、 都督 尒朱天光、賀抜岳らを遣わして醜奴を安定に破り、追いかけて醜奴・宝夤を擒え、並びに京師に送る。詔して閶闔門外都街の中に置き、京師の士女、聚り共に観視す、凡そ三日を経る。吏部尚書李神儁・黄門侍郎高道穆、並びに宝夤と素より旧く、二人相い与に左右し、庄帝に言いて、「其の逆も事は前朝に在り」と云い、赦免を得んことを冀う。会に応詔王道習時に外より至る。庄帝、道習に外に在りて聞く所を問う。道習曰く、「唯だ陛下の蕭宝夤を殺さざらんと欲するを聞く。」帝其の故を問う。道習曰く、「人云う、李尚書・高黄門、宝夤と周款し、並びに言を得る地に居り、必ず能く之を全うせんと。」道習因りて曰く、「若し宝夤の逆は前朝に在りと謂わば、便ち将に之を恕さん。宝夤の長安に敗れ、走りて醜奴の太傅と為るは、豈に陛下の御暦の日に非ずや。賊臣を翦かずんば、法を安くせんと欲する。」帝其の言を然りとし、乃ち太僕駞牛署に於いて死を賜う。宝夤の将に死せんとするや、神儁酒を携えて之に就き以て旧故を敍し、因りて之に対し下泣す。而して宝夤は夷然として自ら持し、了て憂懼せず、唯だ「天を推し命に委ね、臣節を終えざるを恨む」と称するのみ。公主男女を携えて宝夤に訣別に就き、慟哭極めて哀し。宝夤死す、色貌改まらず。宝夤に三子有り、皆公主の生む所にして、而して並びに凡劣なり。
長子烈、復た粛宗の妹建徳公主に尚し、駙馬都尉に拝す。宝夤反し、法に伏す。
次子権、少子凱と射戯す。凱の矢激しく之に中りて死す。凱、仕えて 司徒 左長史に至る。凱の妻は長孫稚の女なり、軽薄にして礼無く、公主数回罪責を加う。凱窃かに恨みを銜み、妻復た之を惑わし説く。天平中、凱遂に奴を遣わして公主を害す。乃ち凱を東巿に轘し、妻を梟首す。家遂に殄滅す。
蕭贊
宝夤の兄宝巻の子、贊、字は徳文、本名は綜、国に入り、宝夤之を改む。初め、蕭衍宝巻を滅ぼす。宝巻の宮人呉氏始めて孕み、匿して言わず、衍仍ち之を納れ、贊を生み、以て己が子と為し、 豫 章王に封ず。及び長ずるに及び、学に渉り、才思有り。其の母之に実を告ぐ。贊、昼は則ち談謔常の如く、夜は則ち悲を銜み涕を泣き、客を結び士を待ち、恒に来奔の志有り。衍の諸子の深く猜疾する所と為るも、而して衍甚だ之を愛寵す。
済陰の芮文寵・安定の梁話有り、贊曲く礼接を加え、乃ち血を割き自ら誓い、以て腹心を布く。寵・話等既に其の情義に感ずるや、敬って相い然諾す。値うに元法僧彭城を以て叛き蕭衍に入る。衍、命じて贊を南兗・徐二州刺史・ 都督 江北諸軍事と為し、彭城に鎮ましむ。是の時、粛宗、安豊王延明・臨淮王彧を遣わして之を討たしむ。贊便ち使を遣わし密かに誠款を告げ、寵・話と夜に出で、歩みて彧の軍に投ず。孝昌元年秋、 洛陽 に届き、陛見の後、館に就き哀を挙げ、三載を追服す。宝夤時に関西に在り、使を遣わし観察し、其の形貌を聞き、眉を斂めて悲感す。朝廷賞賜豊渥、礼遇隆厚、 司空 を授け、高平郡開国公・丹陽王に封じ、食邑七千戸。
宝夤の反するに及び、贊惶怖し、白鹿山に奔らんと欲し、河橋に至り、北中に執えらる。朝議其の干預せざるを明らかにし、仍ち慰勉を蒙る。建義初、尒朱栄に随い 晋陽 に赴く。庄帝、贊を徴し還り洛す。転じて 司徒 、遷りて 太尉 、帝の姉寿陽長公主に尚す。出でて 都督 斉済西兗三州諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・斉州刺史と為る。宝夤の擒えらるるを見、贊表を拝して宝夤の命を請う。尒朱兆洛に入る。城民趙洛周に逐われて、公主は録せられ還り京す。尒朱世隆相い陵逼せんと欲す。公主操を守りて害せらる。贊既に州を棄てて沙門と為り、潜かに長白山に詣る。未だ幾ばくもなく、白鹿山に趣く。陽平に至り、病に遇いて卒す。時に年三十一。
贊は機弁、文義頗る観るべき有り。而して軽薄俶儻、猶お父の風尚を見る。普泰末、勅して其の喪を迎え洛に至らしめ、黄門郎鹿悆を遣わし喪事を護らしめ、王礼を以て公主と嵩山に合葬す。元象初に至り、呉人其の喪を盗みて江東に還す。蕭衍猶お以て子と為し、蕭氏の墓に祔葬す。贊、江南に子有り、国に於いて後無し。
蕭正表
蕭正表、字は公儀、蕭衍の弟臨川王宣達の子なり。正表、長さ七尺九寸、眉目疏朗。質貌豊美なれども、性理短闇なり。衍、以て封山県開国侯と為し、給事中に拝し、東宮洗馬・淮南晋安二郡太守を歴す。転じて軽車将軍・北徐州刺史、鍾離に鎮す。
初め、衍未だ子無く、正表の兄正徳を以て子と為す。既にして西豊侯に封ず。正徳私に忿憾を懐く。正光三年、衍に背き洛に奔る。朝廷其の人材庸劣を以て、礼待を加えず。尋いで逃げ帰る。衍之を罪せず。後に正徳を臨賀王に封ず。衍の末、復た 散騎常侍 ・光禄大夫と為り、丹陽尹事を知る。侯景の将に江を済せんとするや、正徳の衍に恨み有るを知り、密かに交通し、推して主と為さんことを許す。正徳、船数十舫を以て之を迎う。景、江を渡る。衍、正表を召し入援せしむ。正表、衆を率いて広陵に次す。正徳が侯景に推さるるを聞き、仍ち舫糧未だ集まらずと託し、磬桓して進まず。景、尋いで正表を以て南兗州刺史と為し、南郡王に封ず。正表既に景の署を受くると、遂に欧陽に於いて柵を立て、衍の援軍を断つ。又、其の妾の兄龔子明を遣わし広陵を進攻せんと欲す。衍の南兗州刺史・南康王蕭会理、前広陵令劉瑗を遣わし襲撃し、之を破る。正表狼狽して拠る所を失い、乃ち軽騎を率い、走りて鍾離に還る。
武定七年正月、なお子を送って人質とし、州を拠りて内属す。徐州刺史高帰彦、長史劉士栄を遣わして馳せ赴かしむ。事定まり、正表入朝し、勲によりて蘭陵郡開国公・呉郡王に封ぜられ、食邑五千戸を賜う。尋いで侍中・車騎将軍・特進・太子 太保 ・開府儀同三司を除かれ、賞賚豊厚なり。その年冬薨ず、年四十二。侍中・ 都督 徐揚兗 豫 済五州諸軍事・驃騎大将軍・ 司空 公・徐州刺史を贈られ、開国公・王は並びに元の如し。諡して昭烈と曰う。子広寿。
史臣曰く、
史臣曰く、劉昶は猜疑して禍を懼れ、蕭夤は亡破の余り、並びに骸を潜め影を竄し、命を上国に委ぬ。俱に暁了を称し、咸に任遇に当たり、枕戈の志有りと雖も、終に鞭墓の誠無し。昶の諸子は尩疏にして、その家業を喪う。宝夤は恩に背き義を忘れ、その心は梟鏡の如し。これ亦た戎夷の彯狡軽薄の常事なり。天その罪を重くし、鬼その門を覆し、母子兄弟に至るまで還相殲滅するは、抑も積悪の義なるか。蕭贊は辺に臨みて身を脱し、晩く讎賊を去り、寵祿頓に臻るも、顛沛旋ち至る、信に吉凶の相倚るなり。正表は命に帰し、大いに名族を享け、亦た以て優なる哉。
校勘記