魏書

卷59 劉昶 蕭寶夤 蕭正表

卷59 劉昶 蕭寶夤 蕭正表

劉昶

原文劉昶

劉昶、字は休道、義隆の第九子である。義隆の時、義陽王に封ぜられた。兄の駿は征北将軍・徐州刺史・開府と為した。駿の子の子業が立つに及び、昏狂にして暴虐をほしいままにし、その親族を害し、昶に異志あるを疑う。昶聞きて甚だ懼れ、典籤の虞法生を遣わして表を奉り入朝を求め、その意を観んとす。子業曰く「義陽は太宰と謀反を為す、我これを討たんと欲す、今還るを求むるを知る、甚だ善し」と。また屡々法生を詰めて曰く「義陽の謀事、汝何ぞ故に啓せざるや」と。法生禍を懼れ、走って彭城に帰る。昶建康を襲わんと欲すも、諸郡並びに命を受けず。和平六年、遂に母妻を委ね、妾の呉氏を携えて丈夫の服を為し、義従六十余人を結び、間行して来降す。路にて多く叛き、昶に随いて至る者二十人許りなり。

原文劉昶,字休道,義隆第九子也。義隆時,封義陽王。兄駿以為征北將軍、徐州刺史、開府。及駿子子業立,昏狂肆暴,害其親屬,疑昶有異志。昶聞甚懼,遣典籤虞法生表求入朝,以觀其意。子業曰:「義陽與太宰謀反,我欲討之,今知求還,甚善。」又屢詰法生:「義陽謀事,汝何故不啟?」法生懼禍,走歸彭城。昶欲襲建康,諸郡並不受命。和平六年,遂委母妻,攜妾吳氏作丈夫服,結義從六十餘人,間行來降。在路多叛,隨昶至者二十許人。

昶は学び淵洽ならざれども、子史を略覩し、前後の表啓は皆その自製なり。朝廷これを嘉重し、武邑公主を尚し、侍中・征南将軍・駙馬都尉を拝し、丹陽王に封ぜらる。歳余にして公主薨じ、更に建興長公主を尚す。

原文昶雖學不淵洽,略覽子史,前後表啟,皆其自製。朝廷嘉重之,尚武邑公主,拜侍中、征南將軍、駙馬都尉,封丹陽王。歲餘而公主薨,更尚建興長公主。

皇興中、劉彧その員外郎李豊を遣わして来朝す。顕祖詔して昶に彧に与うる書を為さしめ、兄弟の戒めと為す。彧答えず、昶を責めて母をその国の妾と為すを以てし、宜しく春秋の荀罃が楚に対し外臣の礼を称するが如くすべしとす。尋で勅して昶に更に彧に書を与えしむ。昶表して曰く「臣は根を南偽に殖え、体を託するに殊ならず、旄を秉り牧と作り、職は台位に班す。天は子業を厭い、同体を夷戮す。本を背き朝に帰し、事は簪笏を捨つ。臣の弟彧は姪を廃し自ら立ち、遐邇に彰る。孔懐の義は奪い難く、臣と為すの典は経むる靡し。棠棣の詠は修むべく、越敬の事は未だ允らず。臣若し書を改めば、事は二敬と為り、猶往文を修すれば、彼納れず。伏して願わくは聖慈、臣が今の答を停めんことを」と。朝廷これに従う。外都坐大官を拝す。公主また薨じ、更に平陽長公主を尚す。

原文皇興中,劉彧遣其員外郎李豐來朝,顯祖詔昶與彧書,為兄弟之戒。彧不答,責昶以母為其國妾,宜如春秋荀罃對楚稱外臣之禮。尋敕昶更與彧書。昶表曰:「臣殖根南偽,託體不殊,秉旄作牧,職班台位。天厭子業,夷戮同體,背本歸朝,事捨簪笏。臣弟彧廢姪自立,彰于遐邇。孔懷之義難奪,為臣之典靡經,棠棣之詠可修,越敬之事未允。臣若改書,事為二敬;猶修往文,彼所不納。伏願聖慈停臣今答。」朝廷從之。拜外都坐大官。公主復薨,更尚平陽長公主。

昶は犬馬を好み、武事を愛し、国に入りて歴紀するも、猶布衣皂冠、凶素の服に同じし。然れども童僕を呵詈するに、音は夷夏に雑る。公坐に在りてすら、諸王毎にこれを侮弄し、或いは手を戾し臂を齧み、痛傷に至るも、笑呼の声、御聴に聞こゆ。高祖毎にこれを優仮し、怪しみ問わず。本国の事故を陳奏するに至りては、語征役に及べば、則ち能く容を斂め涕泗し、悲しみ左右を動かす。而して天性褊躁、喜怒恒ならず、毎に威忿に至れば、楚朴特に苦しく、南士を引待するに、礼多く足らず、これによりて人畏避を懐く。

原文昶好犬馬,愛武事,入國歷紀,猶布衣皂冠,同凶素之服。然呵詈童僕,音雜夷夏。雖在公坐,諸王每侮弄之,或戾手齧臂,至於痛傷,笑呼之聲,聞于御聽。高祖每優假之,不以怪問。至於陳奏本國事故,語及征役,則能斂容涕泗,悲動左右。而天性褊躁,喜怒不恒,每至威忿,楚朴特苦,引待南士,禮多不足,緣此人懷畏避。

太和初、転じて内都坐大官と為る。蕭道成の劉準を殺すに及び、時に諸将を遣わして南伐す。詔して昶に曰く「卿は機体運を識り、先覚して来る。卿が宗廟は復た血食せず、朕斯の問を聞き、矜忿兼ねて懐く。今大将軍を遣わし南州の甲卒を率い、以て逆竪を伐ち、兇醜を克蕩し、民害を翦除せん。氛穢既に清まりなば、即ち卿に江南の土を胙し、以て蕃業を興さしめん」と。乃ち本将軍を以て諸将と同行せしむ。路徐州を経るに、その母の旧堂に哭拝し、哀しみ従者を感ぜしむ。乃ち遍く故居を循り、処処に隕涕す。左右もまた辛酸ならざるは莫し。軍所に至るに及び、将に臨陳せんと欲し、四面に諸将士に拝し、自ら家国の滅亡を陳べ、朝廷の慈覆に蒙ることを述ぶ。辞理切至、声気激揚、涕泗横流す。三軍咸な感歎を為す。後、昶雨水方に降らんことを恐れ、表して還師を請う。これに従う。また儀同三司を加え、儀曹尚書を領す。時に朝儀を改革す。詔して昶と蒋少遊に専らその事を主とせしむ。昶旧式を条上し、略々遺忘せず。

原文太和初,轉內都坐大官。及蕭道成殺劉準,時遣諸將南伐,詔昶曰:「卿識機體運,先覺而來。卿宗廟不復血食,朕聞斯問,矜忿兼懷。今遣大將軍率南州甲卒,以伐逆竪,克蕩兇醜,翦除民害。氛穢既清,即胙卿江南之土,以興蕃業。」乃以本將軍與諸將同行。路經徐州,哭拜其母舊堂,哀感從者。乃遍循故居,處處隕涕,左右亦莫不辛酸。及至軍所,將欲臨陳,四面拜諸將士,自陳家國滅亡,蒙朝廷慈覆,辭理切至,聲氣激揚,涕泗橫流,三軍咸為感歎。後昶恐雨水方降,表請還師,從之。又加儀同三司,領儀曹尚書。於時改革朝儀,詔昶與蔣少遊專主其事。昶條上舊式,略不遺忘。

高祖宣文堂に引見す。昶啓して曰く「臣が本国は造られず、私に虐政有り、能く昏を廃し徳を立て、傾危を扶定せず。万里奔波し、皇闕に投蔭し、天慈を仰頼し、以て首領を存す。然れども大耻未だ雪がれず、痛愧心に纏う。属に陛下釈校の始めに逢い、願わくは曲恩を垂れ、臣を辺戍に処し、遺人を招集し、以て私耻を雪がん。死の日と雖も、猶生年の若し」と。悲泣すること良久し。高祖曰く「卿誠を投ずること累紀、本邦湮滅す。王者未だ能く難を恤い災を矜まず、良に愧と為す。出蕃の日、請う別に処分すべし」と。後に昶の女を以て郷君と為す。

原文高祖引見於宣文堂,昶啟曰:「臣本國不造,私有虐政,不能廢昏立德,扶定傾危,萬里奔波,投蔭皇闕,仰賴天慈,以存首領。然大耻未雪,痛愧纏心。屬逢陛下釐校之始,願垂曲恩,處臣邊戍,招集遺人,以雪私耻。雖死之日,猶若生年。」悲泣良久。高祖曰:「卿投誠累紀,本邦湮滅,王者未能恤難矜災,良以為愧。出蕃之日,請別當處分。」後以昶女為鄉君。

高祖宣文堂に臨み、武興王楊集始を見る。既にして集始を引いて宴に入る。詔して昶に曰く「集始は辺方の酋長、諸侯の礼に当たるに足らず。但だ王者は小国の臣を遺わず、況んや此の蕃垂の主をや。故に公卿をここに労す」と。昶対えて曰く「陛下の道化光く被わり、北より南に及び、故に巴漢の雄、遠く天闕を覲る。臣猥りに盛礼を瞻し、実に嘉遇を忻ぶ」と。高祖曰く「武興・宕昌は礼容に並びに閑備せず。向に集始を見るに、その挙動を観れば、弥承に賢れる有り」と。昶対えて曰く「陛下の恵普天に洽く、沢外無きに流る。武興蕞爾たり、豈に椹を食み音を懐かざらんや」と。

原文高祖臨宣文堂,見武興王楊集始。既而引集始入宴,詔昶曰:「集始邊方之酋,不足以當諸侯之禮,但王者不遺小國之臣,況此蕃垂之主,故勞公卿於此。」昶對曰:「陛下道化光被,自北而南,故巴漢之雄,遠覲天闕。臣猥瞻盛禮,實忻嘉遇。」高祖曰:「武興、宕昌,於禮容並不閑備,向見集始,觀其舉動,有賢於彌承。」昶對曰:「陛下惠洽普天,澤流無外,武興蕞爾,豈不食椹懷音。」

また中書監と為る。五等を開建し、昶を斉郡開国公に封じ、宋王の号を加う。十七年春、高祖経武殿に臨み、大いに南伐を議す。劉・蕭の簒奪の事に語及び、昶毎に悲泣已まず。因りて奏して曰く「臣が本朝淪喪し、艱毒備り罹る。国霊を冀恃し、臣が私耻を釈さん」と。頓首拝謝す。高祖もまたこれが為に流涕し、礼すること弥崇し。蕭賾の雍州刺史曹虎の詐降するや、詔して昶に兵を以て義陽より出さしむ。功無くして還る。

原文又為中書監。開建五等,封昶齊郡開國公,加宋王之號。十七年春,高祖臨經武殿,大議南伐,語及劉、蕭篡奪之事,昶每悲泣不已。因奏曰:「臣本朝淪喪,艱毒備罹,冀恃國靈,釋臣私耻。」頓首拜謝。高祖亦為之流涕,禮之彌崇。蕭賾雍州刺史曹虎之詐降也,詔昶以兵出義陽,無功而還。

十八年、使持節・都督呉越楚彭城諸軍事・大将軍を除く。固く辞す。詔して許さず、また布千匹を賜う。発するに及び、高祖親しくこれを餞り、百僚に命じて詩を賦し昶に贈らしめ、またその文集一部を昶に賜う。高祖因りて所製の文筆を以てこれに示し、昶に謂いて曰く「時に勝残に契い、事文業に鍾る。学ばざると雖も、罷めんと欲して能わず。脱え一見を思わば、故に以て相示す。足る味無しと雖も、聊く復た笑いを為さん耳」と。その昶を重んずること此の如し。昶の彭城を背きしより、是に至るまで久し。その昔の斎宇山池、並びに尚存立す。昶更に修繕し、還りて其中に処す。能く辺を綏め物を懐かしめ、義故を撫接せずして、閨門喧猥、内外姦雑す。前民旧吏、慨歎せざるは莫し。豫め墓を彭城西南に営み、三公主と同塋にして穴を異にす。石を発きてこれを累ぬるに、墳崩れ、十余を圧殺す。後復た移改し、公私の費害と為る。

原文十八年,除使持節、都督吳越楚彭城諸軍事、大將軍,固辭,詔不許,又賜布千匹。及發,高祖親餞之,命百僚賦詩贈昶,又以其文集一部賜昶。高祖因以所製文筆示之,謂昶曰:「時契勝殘,事鍾文業,雖則不學,欲罷不能。脫思一見,故以相示。雖無足味,聊復為笑耳。」其重昶如是。自昶之背彭城,至是久矣。其昔齋宇山池,並尚存立,昶更修繕,還處其中。不能綏邊懷物,撫接義故,而閨門喧猥,內外姦雜,前民舊吏,莫不慨歎焉。豫營墓於彭城西南,與三公主同塋而異穴。發石累之,墳崩,壓殺十餘人。後復移改,為公私費害。

高祖南討す。昶行宮に駕を候う。高祖侍中を遣わしてこれを迎労せしむ。昶蕭昭業の司州を討つ。屡々賊軍を破ると雖も、義陽拒守して克たず、昶乃ち班師す。十九年、高祖彭城に在り。昶至り入見す。昶曰く「臣勅を奉り専征し、兇醜を剋殄せんとす。徒らに士馬を労し、久しく歳時に淹り、威霊を損す。伏して斧鉞を聴く」と。高祖曰く「朕が此行、本より攻守の意無し。正に罪を伐ち民を弔い、威を宣べ徳を布さんと欲するのみ。二事既に暢びなば、本図を失わず。朕も亦克たずして還る。豈に但だ卿のみならんや」と。

原文高祖南討,昶候駕於行宮,高祖遣侍中迎勞之。昶討蕭昭業司州,雖屢破賊軍,而義陽拒守不克,昶乃班師。十九年,高祖在彭城,昶至入見。昶曰:「臣奉敕專征,剋殄兇醜,徒勞士馬,久淹歲時,有損威靈,伏聽斧鉞。」高祖曰:「朕之此行,本無攻守之意,正欲伐罪弔民,宣威布德,二事既暢,不失本圖,朕亦無克而還,豈但卿也。」

十月、劉昶は京師に朝した。高祖は光極堂に臨み大選を行った。高祖は言った、「朝廷は月旦に因り、魏の典を評せんと欲す。そもそも典とは、国の大綱たり、民を治める柄なり。君よく典を好めば則ち国治まり、能わざれば則ち国乱る。我が国家は昔恒代に在り、時に随い制作すれども、世を通ずる長典に非ず。故に夏より秋に及び、親しく条制を議す。或いは言う、唯だ能を是に寄すべし、必ずしも門に拘るべからずと。朕は以て然らずと為す。何となれば、当今の世は、祖の質朴を仰ぎ、清濁同流し、混じて一等に斉しく、君子小人の名品別れ無く、此れ殊に不可と為す。我今八族以上、士人の品第九有り、九品の外、小人の官、復た七等有り。若し苟くも其の人あらば、三公として起家すべし。正に賢才を得難きを恐れ、一人の為に止め、我が典制を渾すべからざるのみ。故に九流を班鏡し、一朝の軌を清くし、千載の後に、我唐虞に髣髴するを得、卿等元・凱に依俙せんことを得しむ」と。劉昶は対えて言った、「陛下中区に光宅し、朝典を惟新し、九流を刊正し、不朽の法と為し、豈に唯だ唐虞に髣髴するのみならんや、固より三代より高き有らん」と。高祖は言った、「国家本来に一事慨く可し。慨く可き者は何ぞ。恒に公言得失無きなり。今卿等各々其の心を尽くせ。人君は群下の諫を納むる能わざるを患え、臣と為るは主に忠を尽くす能わざるを患う。朕今一人を挙ぐ。如し不可有らば、卿等其の失を尽く言え。若し才能有りて朕の識らざる者有らば、宜しく各々知る所を挙げよ。朕当に己を虚しくして延納せん。若し能く此くの如くせば、挙ぐれば則ち賞を受け、言わざれば則ち罪有らん」と。

原文十月,昶朝于京師。高祖臨光極堂大選。高祖曰:「朝因月旦,欲評魏典。夫典者,為國大綱,治民之柄。君能好典則國治,不能則國亂。我國家昔在恒代,隨時制作,非通世之長典。故自夏及秋,親議條制。或言唯能是寄,不必拘門,朕以為不爾。何者?當今之世,仰祖質朴,清濁同流,混齊一等,君子小人名品無別,此殊為不可。我今八族以上,士人品第有九,九品之外,小人之官,復有七等。若苟有其人,可起家為三公。正恐賢才難得,不可止為一人,渾我典制。故令班鏡九流,清一朝軌,使千載之後,我得髣像唐虞,卿等依俙元、凱。」昶對曰:「陛下光宅中區,惟新朝典,刊正九流,為不朽之法,豈唯髣像唐虞,固以有高三代。」高祖曰:「國家本來有一事可慨。可慨者何?恒無公言得失。今卿等各盡其心。人君患不能納羣下之諫,為臣患不能盡忠於主。朕今舉一人,如有不可,卿等盡言其失;若有才能而朕所不識者,宜各舉所知。朕當虛己延納。若能如此,能舉則受賞,不言則有罪。」

大将軍を論ずるに及び、高祖は言った、「劉昶即ち其の人なり」と。後に班剣二十人を給う。二十一年四月、彭城にて薨ず。年六十二。高祖之が為に哀を挙げ、温明秘器・銭百万・布五百匹・蠟三百斤・朝服一具・衣一襲を給し、仮黄鉞・太傅を贈り、揚州刺史を領せしめ、殊礼を加え、九錫を備え、前後部羽葆鼓吹を給し、晋の琅邪武王司馬伷の故事に依り、諡して明と曰う。

原文及論大將軍,高祖曰:「劉昶即其人也。」後給班劍二十人。二十一年四月,薨於彭城,年六十二。高祖為之舉哀,給溫明祕器、錢百萬、布五百匹、蠟三百斤、朝服一具、衣一襲,贈假黃鉞、太傅,領揚州刺史,加以殊禮,備九錫,給前後部羽葆鼓吹,依晉琅邪武王伷故事,諡曰明。

劉昶の適子承緒は、主(北魏の公主)の生みしなり。少にして尫疾あり。高祖の妹彭城長公主を尚(めと)り、駙馬都尉と為る。劉昶に先だって卒す。員外常侍を贈られる。

原文昶適子承緒,主所生也。少而尫疾。尚高祖妹彭城長公主,為駙馬都尉。先昶卒,贈員外常侍。

長子文遠、次に輝、字は重昌、並びに皆疏狂にして、劉昶は深く其の爵封を守る能わざるを慮る。然れども輝は猶小にして、未だ多く罪過無し。乃ち以て世子と為し、封を襲わしむ。正始初め、蘭陵長公主を尚ぐ。世宗の第二姉なり。員外常侍に拝す。公主頗る厳にして妬み、輝嘗て私かに主の侍婢を幸して身ごもらしむ。主之を笞殺し、其の孕める子を剖き、節解し、草を以て婢の腹に装い実し、裸にして輝に示す。輝遂に忿憾し、公主を疏薄す。公主の姉因りて入り講を聴き、其の故を霊太后に言う。太后清河王元懌に勅して其の事を窮めしむ。元懌は高陽王元雍・広平王元懷と共に其の和せざるの状を奏し、夫婦の理と為す可き無く、離婚を請い、封位を削除せんことを請う。太后之に従う。公主宮中に在ること周歳、高陽王及び劉騰等皆公主の為に太后に言う。太后其の改めざるを慮り、未だ之を許さず。元雍等屡請うて已まず、旧義に復するを聴す。太后涕を流して公主を送り、謹みて護るを誡め令す。正光初め、輝又私かに張・陳二氏の女を淫す。公主更に悪を検せず、主の姑陳留公主共に相扇奬し、遂に輝と復た忿争を致す。輝主を推し床より堕とし、手脚を毆蹈す。主遂に胎を傷つけ、輝罪を懼れて逃逸す。霊太后清河王元懌を召して其の事を決せしむ。二家の女は髠笞して宮に付し、兄弟皆鞭刑に坐し、敦煌に徙配して兵と為す。公主傷に因りて薨ず。太后親しく臨み慟哭し、哀を太極東堂に挙げ、城西に出で葬り、太后親しく数里を送り、哀を尽くして還る。侍中崔光に謂いて曰く、「向に哭して過哀に為る所以は、公主が輝に頓辱せられしこと一に非ざるを追念し、乃ち言に関せず、能く隠忍為す、古今寧くか此れ有らんや。此れ之を痛む所以なり」と。後輝を河内の温県に執え、司州に幽し、将に死刑を加えんとす。赦に会いて免るるを得。三年、其の官爵を復し、征虜将軍・中散大夫に遷す。四年、輝卒す。家遂に衰頓し、復た紀す可き無し。

原文長子文遠,次輝,字重昌,並皆疏狂,昶深慮不能守其爵封。然輝猶小,未多罪過,乃以為世子,襲封。正始初,尚蘭陵長公主,世宗第二姊也。拜員外常侍。公主頗嚴妬,輝嘗私幸主侍婢有身,主笞殺之。剖其孕子,節解,以草裝實婢腹,裸以示輝。輝遂忿憾,疏薄公主。公主姊因入聽講,言其故於靈太后,太后敕清河王懌窮其事。懌與高陽王雍、廣平王懷奏其不和之狀,無可為夫婦之理,請離婚,削除封位。太后從之。公主在宮周歲,高陽王及劉騰等皆為言於太后。太后慮其不改,未許之,雍等屢請不已,聽復舊義。太后流涕送公主,誡令謹護。正光初,輝又私淫張陳二氏女。公主更不檢惡,主姑陳留公主共相扇奬,遂與輝復致忿爭。輝推主墮床,手脚毆蹈,主遂傷胎,輝懼罪逃逸。靈太后召清河王懌決其事,二家女髠笞付宮,兄弟皆坐鞭刑,徙配敦煌為兵。公主因傷致薨,太后親臨慟哭,舉哀太極東堂,出葬城西,太后親送數里,盡哀而還。謂侍中崔光曰:「向哭所以過哀者,追念公主為輝頓辱非一,乃不關言,能為隱忍,古今寧有此!此所以痛之。」後執輝於河內之溫縣,幽于司州,將加死刑,會赦得免。三年,復其官爵,遷征虜將軍、中散大夫。四年,輝卒,家遂衰頓,無復可紀。

文遠は、歩兵校尉・前将軍を歴任す。景明初め、統軍と為る。寿春に在り、刺史王粛を謀殺し寿春を以て叛かんと坐し、事発して法に伏す。

原文文遠,歷步兵校尉、前將軍。景明初,為統軍。在壽春,坐謀殺刺史王肅以壽春叛,事發伏法。

通直郎劉武英なる者有り。太和十九年淮南より内附に従い、自ら云う、劉裕の弟長沙景王劉道憐の曾孫なりと。建寧子の爵を賜い、司徒外兵参軍と為り、稍く転じて歩兵校尉・游撃将軍、河内太守に卒す。然れども劉昶は以て族親と為さず。

原文有通直郎劉武英者,太和十九年從淮南內附,自云劉裕弟長沙景王道憐之曾孫,賜爵建寧子,司徒外兵參軍,稍轉步兵校尉、游擊將軍,卒于河內太守。而昶不以為族親也。

蕭寶夤

原文蕭寶夤

蕭寶夤、字は智亮、蕭鸞の第六子、蕭寶巻の同母弟なり。蕭鸞の位を窃むるや、蕭寶夤を建安王に封ず。蕭寶巻立つ、以て車騎将軍・開府と為し、石頭戍軍事を領す。蕭寶巻昏狂、其の直後劉霊運等蕭寶夤を奉ぜんと謀り、密かに遣わして蕭寶夤に報ず。蕭宝夤之を許す。遂に蕭宝夤を迎え、石頭の文武を率いて其の台城に向かい、警蹕を称す。百姓随従する者数百人。会う日暮れ、城門閉ざす。乃ち三尚及び建業城を焼く。城上より数人を射殺す。衆乃ち奔散す。蕭宝夤車を棄てて歩走す。部尉之を執り送る。自ら列す、人の逼る所と為すと。蕭宝巻亦罪責せず。蕭宝巻の弟蕭宝融僭立し、蕭宝夤を以て衛将軍・南徐州刺史と為し、改めて鄱陽王に封ず。

原文蕭寶夤,字智亮,蕭鸞第六子,寶卷母弟也。鸞之竊位,封寶夤建安王。寶卷立,以為車騎將軍、開府,領石頭戍軍事。寶卷昏狂,其直後劉靈運等謀奉寶夤,密遣報寶夤,寶夤許之。遂迎寶夤率石頭文武向其臺城,稱警蹕,百姓隨從者數百人。會日暮,城門閉,乃燒三尚及建業城,城上射殺數人,眾乃奔散。寶夤棄車步走,部尉執送之,自列為人所逼,寶卷亦不罪責也。寶卷弟寶融僭立,以寶夤為衞將軍、南徐州刺史,改封鄱陽王。

蕭衍既に建業を克つ、其の兄弟を殺し、将に蕭宝夤を害せんとす。兵を以て之を守るも、未だ厳急に至らず。其の家の閹人顔文智と左右の麻拱・黄神密かに計り、牆を穿ちて夜に蕭宝夤を出だす。小船を江岸に具え、本の衣服を脱ぎ、烏布の襦を著、腰に千許りの銭を繫ぎ、潜かに江畔に赴き、屩を躡きて徒歩す。脚全き皮無し。防守者明けに至りて之を追う。蕭宝夤釣者と仮り、流に随いて上下すること十余里、追う者疑わず。散ずるを待ち、乃ち西岸に度る。遂に命を委ねて華文栄に投ず。華文栄は其の従子天龍・恵連等三人と、家を棄てて蕭宝夤を将い山澗に遁匿し、驢を賃して之に乗り、昼は伏し宵に行く。景明二年寿春の東城戍に至る。戍主杜元倫推検し、実に蕭氏の子なるを知り、礼を以て延待し、馳せて揚州刺史任城王元澄に告ぐ。元澄車馬侍衛を以て之を迎う。時に年十六、徒歩憔悴、見る者掠売の生口と為す。元澄客礼を以て待つ。乃ち喪に居り斬衰の服を請う。元澄人を遣わして情礼を暁示し、兄を喪うの制を以て、其の斉衰を給う。蕭宝夤命に従う。元澄官僚を率いて弔いに赴く。蕭宝夤居処礼有り、酒を飲み肉を食わず、笑を輟め言を簡にし、一同極哀の節に同じ。寿春其の故義多し。皆慰唁を受け、唯だ夏侯一族を見ず。夏侯の蕭衍と同きに因るなり。改めて日を造り元澄に謁す。元澄深く之を器重す。

原文蕭衍既克建業,殺其兄弟,將害寶夤,以兵守之,未至嚴急。其家閹人顏文智與左右麻拱、黃神密計,穿牆夜出寶夤。具小船於江岸,脫本衣服,著烏布襦,腰繫千許錢,潛赴江畔,躡屩徒步,脚無全皮。防守者至明追之,寶夤假為釣者,隨流上下十餘里,追者不疑,待散,乃度西岸。遂委命投華文榮。文榮與其從子天龍、惠連等三人,棄家將寶夤遁匿山澗,賃驢乘之,晝伏宵行,景明二年至壽春之東城戍。戍主杜元倫推檢,知實蕭氏子也,以禮延待,馳告揚州刺史、任城王澄,澄以車馬侍衞迎之。時年十六,徒步憔悴,見者以為掠賣生口也。澄待以客禮。乃請喪居斬衰之服,澄遣人曉示情禮,以喪兄之制,給其齊衰,寶夤從命。澄率官僚赴弔,寶夤居處有禮,不飲酒食肉,輟笑簡言,一同極哀之節。壽春多其故義,皆受慰唁,唯不見夏侯一族,以夏侯同蕭衍故也。改日造澄,澄深器重之。

景明三年閏四月、詔して曰く、「蕭宝夤機運を深く識り、有道に帰誠し、険を冒し屯を履み、命を絳闕に投ず。微子・陳韓も亦何を以てか之に過ぎん。羽林監・領主書劉桃符を遣わし彼に詣り迎接せしむべし。其の資生に須う所の物、及び衣冠・車馬・在京の邸館、尚書に付し悉く令して予備せしめよ」と。京師に至るに及び、世宗之を礼すること甚だ重し。闕下に伏して訴え、兵を請いて南伐せんとす。暴風大雨に遇うと雖も、終に暫くも移らず。

原文景明三年閏四月,詔曰:「蕭寶夤深識機運,歸誠有道,冒險履屯,投命絳闕,微子、陳韓亦曷以過也。可遣羽林監、領主書劉桃符詣彼迎接。其資生所須之物,及衣冠、車馬、在京邸館,付尚書悉令豫備。」及至京師,世宗禮之甚重。伏訴闕下,請兵南伐,雖遇暴風大雨,終不暫移。

この年の冬、蕭衍の江州刺史陳伯之とその長史褚冑らが寿春より帰順し、軍を率いて功を立てんと請うた。世宗は宝夤の誠意と伯之の申し述べるところを以て、時機を失うべからずとし、四年二月、八座と門下を引いて入議し、部署の方策を定めた。四月、使持節・都督東揚南徐兗三州諸軍事・鎮東将軍・東揚州刺史・丹陽郡開国公・斉王に任じ、兵一万を配し、暫く東城に拠り、秋冬の大挙を待たしむ。宝夤は翌日に拝命すべきところ、その夜慟哭した。朝に至り、礼を備えて策授し、車馬什物を賜い、虎賁五百人を給し、事は豊厚に従うも、なお劉昶の優隆には及ばなかった。また天下の壮勇を募ることを許し、数千人を得た。文智ら三人を積弩将軍とし、文栄ら三人を強弩将軍とし、ともに軍主とした。宝夤は少より羇旅流寓したれども、志性雅重にして、喪期を過ぎてもなお酒肉を絶ち、惨形悴色、蔬食粗衣、未だ嘗て嬉笑せず。命を受けて南伐に当たるに及び、貴要多く相憑託し、門庭賓客市の如く、書記相尋うも、宝夤は接対報復し、その理を失わず。

原文是年冬,蕭衍江州刺史陳伯之與其長史褚冑等自壽春歸降,請軍立效。世宗以寶夤誠懇及伯之所陳,時不可失,四年二月,乃引八座門下入議部分之方。四月,除使持節、都督東揚南徐兗三州諸軍事、鎮東將軍、東揚州刺史、丹陽郡開國公、齊王,配兵一萬,令且據東城,待秋冬大舉。寶夤明當拜命,其夜慟哭。至晨,備禮策授,賜車馬什物,給虎賁五百人,事從豐厚,猶不及劉昶之優隆也。又任其募天下壯勇,得數千人。以文智三人等為積弩將軍,文榮等三人為強弩將軍,並為軍主。寶夤雖少羇流,而志性雅重,過期猶絕酒肉,慘形悴色,蔬食粗衣,未嘗嬉笑。及被命當南伐,貴要多相憑託,門庭賓客若市,書記相尋,寶夤接對報復,不失其理。

正始元年三月、宝夤は汝陰に至るも、東城は既に陥落し、寿春の栖賢寺に留まる。賊将姜慶真の内侵に遭い、士民響応し、寿春を囲逼し、遂に外郭を占拠す。宝夤自ら甲冑を貫き、率いてこれを撃ち、四更より交戦し、明日の申時に至るも、賊の軍勢ますます盛ん。宝夤は衆寡敵せず援なく、金城に退く。また相国東門より出で、衆を率いて力戦し、始めてこれを破り走らしむ。宝夤の寿春の戦い、勇は諸軍に冠たり、聞見する者壮とせざるはなし。七月、京師に還り、梁郡開国公に改封され、食邑八百戸。

原文正始元年三月,寶夤行達汝陰,東城已陷,遂停壽春之栖賢寺。值賊將姜慶真內侵,士民響附,圍逼壽春,遂據外郭。寶夤躬貫甲冑,率下擊之,自四更交戰,至明日申時,賊旅彌盛。寶夤以眾寡無援,退入金城。又出相國東門,率眾力戰,始破走之。當寶夤壽春之戰,勇冠諸軍,聞見者莫不壯之。七月,還京師,改封梁郡開國公,食邑八百戶。

中山王英の南伐に及び、宝夤また征討を求めて上表す。乃ち使持節・鎮東将軍・別将として英に継がしめ、羽林・虎賁五百人を配す。英と頻りに衍軍を破り、勝に乗じて鍾離を攻む。淮水汎溢し、宝夤と英狼狽して引退し、士卒死没すること十四五。有司、宝夤が東橋を守り固からず、軍敗これに由ると奏し、極法を以て処せんとす。詔して曰く「宝夤は難に因りて投誠す、矜み貸すべし、死を恕し、官を免じ爵を削りて第に還らしむべし」。

原文及中山王英南伐,寶夤又表求征。乃為使持節、鎮東將軍、別將以繼英,配羽林、虎賁五百人。與英頻破衍軍,乘勝遂攻鍾離。淮水汎溢,寶夤與英狼狽引退,士卒死沒者十四五。有司奏寶夤守東橋不固,軍敗由之,處以極法。詔曰:「寶夤因難投誠,宜加矜貸,可恕死,免官削爵還第。」

尋いで南陽長公主を尚し、帛一千匹を賜い、併せて礼具を給う。公主は婦徳あり、宝夤に事えて尽く肅雍の礼を尽くし、好合積年なれども、敬事替わらず。宝夤の入室する毎に、公主は必ず立ってこれを待ち、相遇うこと賓の如く、太妃の疾篤に非ざれば、未だ嘗て帰休せず。宝夤は器性温順、自ら礼を以て処し、公主を奉敬し、内外諧穆、清河王懌親しくしてこれを重んず。

原文尋尚南陽長公主,賜帛一千匹,并給禮具。公主有婦德,事寶夤盡肅雍之禮,雖好合積年,而敬事不替。寶夤每入室,公主必立以待之,相遇如賓,自非太妃疾篤,未曾歸休。寶夤器性溫順,自處以禮,奉敬公主,內外諧穆,清河王懌親而重之。

永平四年、盧昶、蕭衍の朐山戍を克ち、琅邪戍主傅文驥をしてこれを守らしむ。衍、師を遣わして文驥を攻め、盧昶衆軍を督してこれを救う。詔して宝夤をして使持節・仮安南将軍・別将と為し、長駆して赴かしめ、盧昶の節度を受く。帛三百匹を賜い、世宗東堂にてこれを餞る。詔して曰く「蕭衍死を送り、兵を連ねて再び寒暑を離る。卿の忠規内に挺し、孝誠外に亮かなり。必ずや呉墓に尸を鞭ち、江陰に衍を戮さんと欲す。故に卿に総統の任を授け、卿に克捷の規を仗つ。宜しく其れ勉めよや」。宝夤対えて曰く「讎耻未だ復せず、戈を枕して旦を俟つ。申包の志無きといえども、敢えて伍胥の心を忘れず。今、神謀を仰ぎ仗し、将帥を俯して厲し、誓って彼の姦勁を拉ぎ、以て王略を清めん。聖沢下臨し、悲荷に勝えず」。因りて泣涕横流し、哽咽すること良久し。後に及び、盧昶軍敗るるも、唯だ宝夤全師して帰る。

原文永平四年,盧昶克蕭衍朐山戍,以琅邪戍主傅文驥守之。衍遣師攻文驥,盧昶督眾軍救之,詔寶夤為使持節、假安南將軍、別將,長驅往赴,受盧昶節度。賜帛三百匹,世宗於東堂餞之。詔曰:「蕭衍送死,連兵再離寒暑,卿忠規內挺,孝誠外亮,必欲鞭尸吳墓,戮衍江陰,故授卿以總統之任,仗卿以克捷之規,宜其勉歟?」寶夤對曰:「讎耻未復,枕戈俟旦,雖無申包之志,敢忘伍胥之心。今仰仗神謀,俯厲將帥,誓必拉彼姦勁,以清王略。聖澤下臨,不勝悲荷。」因泣涕橫流,哽咽良久。於後,盧昶軍敗,唯寶夤全師而歸。

延昌初め、安東将軍・瀛州刺史に除し、その斉王を復す。四年、撫軍将軍・冀州刺史に遷る。大乗の賊起こるに及び、宝夤軍を遣わしてこれを討ち、頻りに賊に破られる。臺軍至りて、乃ちこれを滅ぼす。霊太后臨朝し、京師に還る。

原文延昌初,除安東將軍、瀛州刺史,復其齊王。四年,遷撫軍將軍、冀州刺史。及大乘賊起,寶夤遣軍討之,頻為賊破。臺軍至,乃滅之。靈太后臨朝,還京師。

蕭衍、その将康絢を遣わし、浮山にて淮を堰きて揚徐を灌がんとす。宝夤を除して使持節・都督東討諸軍事・鎮東将軍と為し、以てこれを討たしむ。尋いでまた梁郡開国公に封じ、食邑を済州の濮陽に寄す。熙平初め、賊の堰既に成り、淮水濫溢し、将に揚徐の患いとならんとす。宝夤堰の上流に於いて、更に新渠を鑿ち、引き注ぎて淮沢に注ぎ、水乃ち小減す。乃ち軽車将軍劉智文・虎威将軍劉延宗に壮士千余を率いさせ、夜に淮を渡り、その竹木営聚を焼き、賊の三壘を破り、殺獲数千人、その直閤将軍王升明を斬りて還る。火数日滅せず。衍の将垣孟孫・張僧副ら水軍三千、淮を渡り、北に統軍呂叵を攻む。宝夤、府司馬元達・統軍魏続年らを遣わして赴き撃たしめ、これを破り、孟孫ら奔退す。乃ち左光禄大夫・殿中尚書を授く。宝夤また軍主周恭叔に壮士数百を率いさせ、夜に淮を渡り南し、賊の徐州刺史張豹子ら十一営を焚き、賊衆驚擾し、自ら害する者甚だ衆し。宝夤京師に還り、また使持節・散騎常侍・都督荊□東洛三州諸軍事・衞将軍・荊州刺史に除す。行かず、また殿中尚書と為る。

原文蕭衍遣其將康絢於浮山堰淮以灌揚徐。除寶夤使持節、都督東討諸軍事、鎮東將軍以討之。尋復封梁郡開國公,寄食濟州之濮陽。熙平初,賊堰既成,淮水濫溢,將為揚徐之患,寶夤於堰上流,更鑿新渠,引注淮澤,水乃小減。乃遣輕車將軍劉智文、虎威將軍劉延宗率壯士千餘,夜渡淮,燒其竹木營聚,破賊三壘,殺獲數千人,斬其直閤將軍王升明而還,火數日不滅。衍將垣孟孫、張僧副等水軍三千,渡淮,北攻統軍呂叵。寶夤遣府司馬元達、統軍魏續年等赴擊,破之,孟孫等奔退。乃授左光祿大夫、殿中尚書。寶夤又遣軍主周恭叔率壯士數百,夜渡淮南,焚賊徐州刺史張豹子等十一營,賊眾驚擾,自殺害者甚眾。寶夤還京師,又除使持節、散騎常侍、都督荊□東洛三州諸軍事、衞將軍、荊州刺史。不行,復為殿中尚書。

宝夤が淮堰に在った時、蕭衍は手紙を宝夤に与えて曰く、「謝斉の建安王宝夤に申し上げる。亡兄の長沙宣武王は、かつて漢中に投じたが、北寇が華陽に至り、地は一隅に絶え、内には素より蓄えなく、外には継援を絶たれ、危きを守りて疏勒の如く、計略は田単を踰え、遂に能く土を全うし敵を破り、弱きを以て強きと為した。使節の至る日、君臣は色を動かし、左右相賀した。斉の明帝はこの功績を念う毎に、未だ嘗て箸を輟めて咨嗟せざるはなかった。及び張永・崔慧景の事に至っては、大将は外に軍を覆し、小将は内に貳心を懐き、事は累卵の危うきに及び、勢いは綴旒を過ぎた。亡兄は忠勇奮発し、師を旋して大峴に至り、重囲累日のうちに、一鼓して魚潰の如く、慧景を克定し、その功は桓文を踰えた。亡弟の衛尉は、兄弟力を勠し、内外に心を尽くした。大勲は報いられず、翻って荼酷に罹り、百口幽執され、禍害相尋いだ。朕は斉の明帝に対し、外には龕敵の力を有し、内には帷幄の誠を尽くし、日に三たび自ら省みて、曾て寸の咎も無く、遠く辺外に身を置くも、また免れざるを得なかった。遂に劉山陽を遣わし軽舟西上させ、来たりて掩襲せんとした。時は危うく事は迫り、勢い已むを得ざるものあり。是をもって樊鄧に衆を誓い、会して孟津を踰え、本より梅虫児・茹法珍等を翦除し、以て冤酷を雪ぎ、親属を抜き済し、身を素里に反さんと欲した。時に張稷・王珍国は既に大事を建て、宝晊・子晋は屡々危機を動かし、楽推の心に迫られ、上天の命に応じ、事は獲已むを得ず、豈にその始願であろうか。是をもって天下を有するより以来、房室を絶棄し、滋味を断除したのは、正に四海にその本心を見せんと欲したからである。今日の位を以て、是れ重んずべきものと謂うなかれ。朕のこれを視るは、曾て一芥の如くにも及ばない。雖も復た崆峒の蹤は追い難くとも、汾陽の志は何ぞ遠からんや。今この堰を立てるは、卿は未だ本意に達せざるであろう。朕は昆虫に於いてすら、未だ殺さんと欲せず、また何ぞ急ぎて無用の地を争い、蒼生の命を戦わさんや。正に李継伯が寿陽に在り、辺境を侵犯し、歳月滋しに甚だしきが為である。或いは小城小戍を攻め、或いは一村一里を掠める。若し小に相酬答せば、終に寧日無く、辺邑は桑を争い、呉楚は禍を連ねる。是をもって毎に鎮戍を抑え、校計を与えざるなり。継伯は既に此の如くを得て、濫窃ますます多し。今この堰を修めるは、止むるに継伯の侵盗の役を報ぜんと欲するのみ。既に大挙に非ざれば、以て復た北土に文移せざるなり。卿は幼より倜儻の心有り、早くより縦横の気を懐く。往日卿が石頭に於いて事を挙げたるは、克捷せざりしと雖も、亦た丈夫なり。今河洛に止まるは、真にその時なり。然りと雖も、卿の為に計る者は、此の衆を率いて行き、彭城を襲い拠るに若くは莫し。別に当に軍を遣わして以て相影援せん。捷を得たる後、便ち卿の兄の子屏侍を遣わし、卿の国廟を送り、并せて卿の室家及び諸姪従を送らしむ。若し方に還北せんと欲せば、更に奇計を設けんも、恐らくは機事一たび差あれば、重ねて集まり難し。韓信の如く、野鶏に受困する勿れ。」宝夤は表してその書を送り、その忿毒の意を陳べた。朝廷之が為に報答した。

原文寶夤之在淮堰,蕭衍手書與寶夤曰:「謝齊建安王寶夤。亡兄長沙宣武王,昔投漢中,值北寇華陽,地絕一隅,內無素畜,外絕繼援,守危疏勒,計踰田單,卒能全土破敵,以弱為強。使至之日,君臣動色,左右相賀,齊明帝每念此功,未嘗不輟箸咨嗟。及至張永、崔慧景事,大將覆軍於外,小將懷貳於內,事危累卵,勢過綴旒。亡兄忠勇奮發,旋師大峴,重圍累日,一鼓魚潰,克定慧景,功踰桓文。亡弟衞尉,兄弟勠力,盡心內外。大勳不報,翻罹荼酷,百口幽執,禍害相尋。朕於齊明帝,外有龕敵之力,內盡帷幄之誠,日自三省,曾無寸咎,遠身邊外,亦復不免。遂遣劉山陽輕舟西上,來見掩襲。時危事迫,勢不得已。所以誓眾樊鄧,會踰孟津,本欲翦除梅虫兒、茹法珍等,以雪冤酷,拔濟親屬,反身素里。屬張稷、王珍國已建大事,寶晊、子晉屢動危機,迫樂推之心,應上天之命,事不獲已,豈其始願。所以自有天下,絕棄房室,斷除滋味,正欲使四海見其本心耳。勿謂今日之位,是為可重,朕之視此,曾不如一芥。雖復崆峒之蹤難追,汾陽之志何遠。而今立此堰,卿當未達本意。朕於昆蟲,猶不欲殺,亦何急爭無用之地,戰蒼生之命也!正為李繼伯在壽陽,侵犯邊境,歲月滋甚。或攻小城小戍,或掠一村一里。若小相酬答,終無寧日,邊邑爭桑,吳楚連禍。所以每抑鎮戍,不與校計。繼伯既得如此,濫竊彌多。今修此堰,止欲以報繼伯侵盜之役,既非大舉,所以不復文移北土。卿幼有倜儻之心,早懷縱橫之氣。往日卿於石頭舉事,雖不克捷,亦丈夫也。今止河洛,真其時矣。雖然,為卿計者,莫若行率此眾,襲據彭城,別當遣軍以相影援。得捷之後,便遣卿兄子屏侍送卿國廟、并卿室家及諸姪從。若方欲還北,更設奇計,恐機事一差,難重復集,勿為韓信,受困野鷄。」寶夤表送其書,陳其忿毒之意。朝廷為之報答。

宝夤は復讐を志し存し、屡々辺境に居ることを請うた。神龟年中、出でて都督徐南兗二州諸軍事・車騎将軍・徐州刺史と為る。乃ち清東に学館を起こし、朔望に土姓の子弟を引見し、恩顔を以て接し、経義を論じ、政治に勤め、吏民之を愛した。凡そ三州に在ること、皆著名称有り。

原文寶夤志存雪復,屢請居邊。神龜中,出為都督徐南兗二州諸軍事、車騎將軍、徐州刺史。乃起學館於清東,朔望引見土姓子弟,接以恩顏,與論經義,勤於政治,吏民愛之。凡在三州,皆著名稱。

正光二年、征されて車騎大将軍・尚書左僕射と為る。吏職に善く、甚だ声名有り。四年、上表して曰く、

原文正光二年,徵為車騎大將軍、尚書左僕射。善於吏職,甚有聲名。四年,上表曰:

詔して外に付して博議せしむ。永式と為すべきと以為うも、竟に定まる所無し。

原文詔付外博議,以為永式,竟無所定。

時に蕭衍の弟子の西豊侯正德降り来たり、宝夤表して曰く、

原文時蕭衍弟子西豐侯正德來降,寶夤表曰:

正德は京師に至るや、朝廷之を待つこと尤も薄し。歳余りして、還りて叛く。

原文正德既至京師,朝廷待之尤薄。歲餘,還叛。

五年、蕭衍其の将裴邃・虞鴻等を遣わし衆を率いて揚州を寇す。詔して宝夤をして使持節・散騎常侍・車騎大将軍・都督徐州東道諸軍事と為し、諸将を率いて之を討たしむ。既にして揚州刺史長孫稚大いに邃軍を破り、鴻を斬る。賊遂に奔退す。

原文五年,蕭衍遣其將裴邃、虞鴻等率眾寇揚州,詔寶夤為使持節、散騎常侍、車騎大將軍、都督徐州東道諸軍事,率諸將討之。既而揚州刺史長孫稚大破邃軍,斬鴻,賊遂奔退。

初め、秦州城人の薛珍・劉慶・杜遷等反し、刺史李彦を執り、莫折大提を推して首と為し、自ら秦王と称す。大提尋いで死す。其の第四子念生窃かに天子と号し、年を改めて天建と曰い、官僚を置立し、息の阿胡を以て太子と為し、其の兄阿倪を西河王と為し、弟天生を高陽王と為し、伯珍を東郡王と為し、安保を平陽王と為す。天生を遣わし衆を率いて隴東より出で、汧城を攻め没し、仍いで岐州を陥れ、元志・裴芬之等を執り、遂に雍州を寇し、黒水に屯す。朝廷甚だ之を憂い、乃ち宝夤を除して開府・西道行臺と為し、率いる所の部東行将統を率い、大都督西征と為す。粛宗明堂に幸し、因りて以て之を餞る。

原文初,秦州城人薛珍、劉慶、杜遷等反,執刺史李彥,推莫折大提為首,自稱秦王。大提尋死,其第四子念生竊號天子,改年曰天建,置立官僚,以息阿胡為太子,其兄阿倪為西河王,弟天生為高陽王,伯珍為東郡王,安保為平陽王。遣天生率眾出隴東,攻沒汧城,仍陷岐州,執元志、裴芬之等,遂寇雍州,屯於黑水。朝廷甚憂之,乃除寶夤開府、西道行臺,率所部東行將統,為大都督西征。肅宗幸明堂,因以餞之。

宝夤は大都督崔延伯と共に天生を撃ち、大いに之を破り、斬獲十余万。小隴に至るまで追奔す。軍人採掠するにより、遂に稽留を致し、速やかに追討せず、隴路復た塞がる。仍いで安定に於いて高平の賊帥万俟醜奴を進討し、更に負捷有り。時に天水人の呂伯度兄弟有り、始め念生と共に逆を同くす。後兄の衆と共に顕親に保ち、衆を聚めて念生を討つも、戦い敗れ、胡琛に降る。琛は伯度を以て大都督・秦王と為し、其の士馬を資し、還って秦州を征し、成紀に於いて念生の将杜粲を大いに破り、又水洛城に於いて其の金城王莫折普賢を破り、遂に顕親に至る。念生衆を率い、身自ら拒戦す。又大いに奔敗す。伯度乃ち胡琛に背き、琛の将劉抜を襲い、之を破り走らしめ、其の兄の子忻和に騎を率いさせ東に国軍を引かしむ。念生事迫り、乃ち詐りて宝夤に降る。朝廷は伯度の立義の功を喜び、撫軍将軍・涇州刺史・平秦郡開国公を授け、食邑三千戸。然るに大都督元脩義・高聿、軍を隴口に停め、久しく西進せず。念生復た反す。伯度終に醜奴に殺さる。故に賊勢更に甚だしく、宝夤制する能わず。孝昌二年四月、宝夤を除して侍中・驃騎大将軍・儀同三司・仮大将軍・尚書令と為し、後部鼓吹を給し、封を増して千戸。宝夤初め黒水より、終に平涼に至るまで、賊と相対し、数年攻撃す。賊亦之を憚る。関中保全するは、宝夤の力なり。

原文寶夤與大都督崔延伯擊天生,大破之,斬獲十餘萬。追奔至于小隴,軍人採掠,遂致稽留,不速追討,隴路復塞。仍進討高平賊帥万俟醜奴於安定,更有負捷。時有天水人呂伯度兄弟,始共念生同逆,後與兄眾保於顯親,聚眾討念生,戰敗,降於胡琛。琛以伯度為大都督、秦王,資其士馬,還征秦州,大敗念生將杜粲於成紀,又破其金城王莫折普賢於水洛城,遂至顯親。念生率眾,身自拒戰,又大奔敗。伯度乃背胡琛,襲琛將劉拔,破走之,遣其兄子忻和率騎東引國軍。念生事迫,乃詐降於寶夤。朝廷喜伯度立義之功,授撫軍將軍、涇州刺史、平秦郡開國公,食邑三千戶。而大都督元脩義、高聿,停軍隴口,久不西進。念生復反,伯度終為醜奴所殺。故賊勢更甚,寶夤不能制。孝昌二年四月,除寶夤侍中、驃騎大將軍、儀同三司、假大將軍、尚書令,給後部鼓吹,增封千戶。寶夤初自黑水,終至平涼,與賊相對,數年攻擊,賊亦憚之,關中保全,寶夤之力矣。

三年正月、司空公を除す。出師既に久しく、兵将疲弊す。是の月大いに敗れ、雍州に還る。仍いで長安に停まり、離散を収聚す。有司宝夤を死罪に処す。詔して民と為すを恕す。四月、使持節・都督雍涇岐南豳四州諸軍事・征西将軍・雍州刺史・仮車騎大将軍・開府・西討大都督を除し、関以西より、皆節度を受く。九年、念生其の常山王杜粲に殺され、合門皆尽くす。粲は州を拠り宝夤に降るを請う。十月、散騎常侍・車騎将軍・尚書令を除し、其の旧封を復す。

原文三年正月,除司空公。出師既久,兵將疲弊,是月大敗,還雍州。仍停長安,收聚離散。有司處寶夤死罪,詔恕為民。四月,除使持節、都督雍涇岐南豳四州諸軍事、征西將軍、雍州刺史、假車騎大將軍、開府、西討大都督,自關以西,皆受節度。九年,念生為其常山王杜粲所殺,合門皆盡。粲據州請降於寶夤。十月,除散騎常侍、車騎將軍、尚書令,復其舊封。

この時、山東・関西には賊徒が充満し、朝廷の軍はしばしば敗北し、人々の心は沮喪していた。宝夤は自ら出軍して数年を経て、特に費用が広く靡き、一朝にして覆敗したことを慮り、猜疑と責めを受けることを憂え、内に自ら安んぜず。朝廷もまた甚だ疑い阻み、乃ち御史中尉酈道元を遣わして関中大使とした。宝夤は密かに己を取らんとすと謂い、ますます憂懼した。而して長安の軽薄の徒、これに因み相い説き動かす。道元が陰盤驛に至るに及び、宝夤は密かに其の将郭子恢らを遣わして攻めて之を殺し、詐りて道元の屍を収め、表して白賊の害に遭うと称した。又、都督・南平王仲冏を殺す。是の月、遂に反し、僭って大号を挙げ、其の部内を赦し、隆緒元年と称し、百官を立てた。乃ち郭子恢を遣わし東に潼関を寇し、行臺張始栄は華州刺史崔襲を囲む。詔して尚書僕射行臺長孫稚に之を討たしむ。時に北地の人毛鴻賓が其の兄遐と糾合し郷義を率い、将に宝夤を討たんとす。宝夤は其の大将軍盧祖遷らを遣わして遐を撃たしむも、遐のために殺される。又、其の将侯終徳を遣わして往きて遐を攻めしむ。会に子恢が官軍に敗れ、長孫稚も又子の子彦を遣わして始栄を華州に破るに及び、終徳は此れに因み勢い挫け、還って宝夤を図る。軍、白門に至り、宝夤始めて覚り、終徳と交戦し、戦いに敗れ、公主及び其の少子と部下百余騎を携え、後門より出走し、渭橋を渡り、寧夷巴の張宕昌・劉興周の舎に投ず。尋いで醜奴に奔る。醜奴、宝夤を以て太傅とす。

原文是時,山東、關西,寇賊充斥,王師屢北,人情沮喪。寶夤自以出軍累年,糜費尤廣,一旦覆敗,慮見猜責,內不自安。朝廷頗亦疑阻,乃遣御史中尉酈道元為關中大使。寶夤謂密欲取己,彌以憂懼。而長安輕薄之徒,因相說動。道元行達陰盤驛,寶夤密遣其將郭子恢等攻而殺之,詐收道元尸,表言白賊所害。又殺都督、南平王仲冏。是月,遂反,僭舉大號,赦其部內,稱隆緒元年,立百官。乃遣郭子恢東寇潼關,行臺張始榮圍華州刺史崔襲。詔尚書僕射行臺長孫稚討之。時北地人毛鴻賓與其兄遐糾率鄉義,將討寶夤。寶夤遣其大將軍盧祖遷等擊遐,為遐所殺。又遣其將侯終德往攻遐。會子恢為官軍所敗,長孫稚又遣子子彥破始榮於華州,終德因此勢挫,還圖寶夤。軍至白門,寶夤始覺,與終德交戰,戰敗,攜公主及其少子與部下百餘騎,從後門出走,渡渭橋,投於寧夷巴張宕昌、劉興周舍。尋奔醜奴,醜奴以寶夤為太傅。

永安三年、都督尒朱天光、賀抜岳らを遣わして醜奴を安定に破り、追いかけて醜奴・宝夤を擒え、並びに京師に送る。詔して閶闔門外都街の中に置き、京師の士女、聚り共に観視す、凡そ三日を経る。吏部尚書李神儁・黄門侍郎高道穆、並びに宝夤と素より旧く、二人相い与に左右し、庄帝に言いて、「其の逆も事は前朝に在り」と云い、赦免を得んことを冀う。会に応詔王道習時に外より至る。庄帝、道習に外に在りて聞く所を問う。道習曰く、「唯だ陛下の蕭宝夤を殺さざらんと欲するを聞く。」帝其の故を問う。道習曰く、「人云う、李尚書・高黄門、宝夤と周款し、並びに言を得る地に居り、必ず能く之を全うせんと。」道習因りて曰く、「若し宝夤の逆は前朝に在りと謂わば、便ち将に之を恕さん。宝夤の長安に敗れ、走りて醜奴の太傅と為るは、豈に陛下の御暦の日に非ずや。賊臣を翦かずんば、法を安くせんと欲する。」帝其の言を然りとし、乃ち太僕駞牛署に於いて死を賜う。宝夤の将に死せんとするや、神儁酒を携えて之に就き以て旧故を敍し、因りて之に対し下泣す。而して宝夤は夷然として自ら持し、了て憂懼せず、唯だ「天を推し命に委ね、臣節を終えざるを恨む」と称するのみ。公主男女を携えて宝夤に訣別に就き、慟哭極めて哀し。宝夤死す、色貌改まらず。宝夤に三子有り、皆公主の生む所にして、而して並びに凡劣なり。

原文永安三年,都督尒朱天光遣賀拔岳等破醜奴於安定,追擒醜奴、寶夤,並送京師。詔置閶闔門外都街之中,京師士女,聚共觀視,凡經三日。吏部尚書李神儁、黃門侍郎高道穆並與寶夤素舊,二人相與左右,言於莊帝,云「其逆亦事在前朝」,冀得赦免。會應詔王道習時自外至,莊帝問道習在外所聞。道習曰:「唯聞陛下欲不殺蕭寶夤。」帝問其故。道習曰:「人云:李尚書、高黃門與寶夤周款,並居得言之地,必能全之。」道習因曰:「若謂寶夤逆在前朝,便將恕之。寶夤敗於長安,走為醜奴太傅,豈非陛下御曆之日?賊臣不翦,法欲安施?」帝然其言,乃於太僕駞牛署賜死。寶夤之將死,神儁攜酒就之以敍舊故,因對之下泣。而寶夤夷然自持,了不憂懼,唯稱「推天委命,恨不終臣節」而已。公主攜男女就寶夤訣別,慟哭極哀。寶夤死,色貌不改。寶夤有三子,皆公主所生,而並凡劣。

長子烈、復た粛宗の妹建徳公主に尚し、駙馬都尉に拝す。宝夤反し、法に伏す。

原文長子烈,復尚肅宗妹建德公主,拜駙馬都尉。寶夤反,伏法。

次子権、少子凱と射戯す。凱の矢激しく之に中りて死す。凱、仕えて司徒左長史に至る。凱の妻は長孫稚の女なり、軽薄にして礼無く、公主数回罪責を加う。凱窃かに恨みを銜み、妻復た之を惑わし説く。天平中、凱遂に奴を遣わして公主を害す。乃ち凱を東巿に轘し、妻を梟首す。家遂に殄滅す。

原文次子權,與少子凱射戲,凱矢激中之而死。凱仕至司徒左長史。凱妻,長孫稚女也,輕薄無禮,公主數加罪責。凱竊銜恨,妻復惑說之。天平中,凱遂遣奴害公主。乃轘凱於東巿,妻梟首。家遂殄滅。

蕭贊

原文蕭贊

宝夤の兄宝巻の子、贊、字は徳文、本名は綜、国に入り、宝夤之を改む。初め、蕭衍宝巻を滅ぼす。宝巻の宮人呉氏始めて孕み、匿して言わず、衍仍ち之を納れ、贊を生み、以て己が子と為し、豫章王に封ず。及び長ずるに及び、学に渉り、才思有り。其の母之に実を告ぐ。贊、昼は則ち談謔常の如く、夜は則ち悲を銜み涕を泣き、客を結び士を待ち、恒に来奔の志有り。衍の諸子の深く猜疾する所と為るも、而して衍甚だ之を愛寵す。

原文寶夤兄寶卷子贊,字德文,本名綜,入國,寶夤改焉。初,蕭衍滅寶卷,寶卷宮人吳氏始孕,匿而不言,衍仍納之,生贊,以為己子,封豫章王。及長,學涉,有才思。其母告之以實,贊晝則談謔如常,夜則銜悲泣涕,結客待士,恒有來奔之志。為衍諸子深所猜疾,而衍甚愛寵之。

済陰の芮文寵・安定の梁話有り、贊曲く礼接を加え、乃ち血を割き自ら誓い、以て腹心を布く。寵・話等既に其の情義に感ずるや、敬って相い然諾す。値うに元法僧彭城を以て叛き蕭衍に入る。衍、命じて贊を南兗・徐二州刺史・都督江北諸軍事と為し、彭城に鎮ましむ。是の時、粛宗、安豊王延明・臨淮王彧を遣わして之を討たしむ。贊便ち使を遣わし密かに誠款を告げ、寵・話と夜に出で、歩みて彧の軍に投ず。孝昌元年秋、洛陽に届き、陛見の後、館に就き哀を挙げ、三載を追服す。宝夤時に関西に在り、使を遣わし観察し、其の形貌を聞き、眉を斂めて悲感す。朝廷賞賜豊渥、礼遇隆厚、司空を授け、高平郡開国公・丹陽王に封じ、食邑七千戸。

原文有濟陰芮文寵、安定梁話,贊曲加禮接,乃割血自誓,布以腹心。寵、話等既感其情義,敬相然諾。值元法僧以彭城叛入蕭衍,衍命贊為南兗、徐二州刺史、都督江北諸軍事,鎮彭城。於時,肅宗遣安豐王延明、臨淮王彧討之,贊便遣使密告誠款,與寵、話夜出,步投彧軍。孝昌元年秋,屆于洛陽,陛見之後,就館舉哀,追服三載。寶夤于時在關西,遣使觀察,聞其形貌,斂眉悲感。朝廷賞賜豐渥,禮遇隆厚,授司空,封高平郡開國公、丹陽王,食邑七千戶。

宝夤の反するに及び、贊惶怖し、白鹿山に奔らんと欲し、河橋に至り、北中に執えらる。朝議其の干預せざるを明らかにし、仍ち慰勉を蒙る。建義初、尒朱栄に随い晋陽に赴く。庄帝、贊を徴し還り洛す。転じて司徒、遷りて太尉、帝の姉寿陽長公主に尚す。出でて都督斉済西兗三州諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・斉州刺史と為る。宝夤の擒えらるるを見、贊表を拝して宝夤の命を請う。尒朱兆洛に入る。城民趙洛周に逐われて、公主は録せられ還り京す。尒朱世隆相い陵逼せんと欲す。公主操を守りて害せらる。贊既に州を棄てて沙門と為り、潜かに長白山に詣る。未だ幾ばくもなく、白鹿山に趣く。陽平に至り、病に遇いて卒す。時に年三十一。

原文及寶夤反,贊惶怖,欲奔白鹿山,至河橋,為北中所執。朝議明其不相干預,仍蒙慰勉。建義初,隨尒朱榮赴晉陽,莊帝徵贊還洛。轉司徒,遷太尉,尚帝姊壽陽長公主。出為都督齊濟西兗三州諸軍事、驃騎大將軍、開府儀同三司、齊州刺史。寶夤見擒,贊拜表請寶夤命。尒朱兆入洛,為城民趙洛周所逐。公主被錄還京,尒朱世隆欲相陵逼,公主守操被害。贊既棄州為沙門,潛詣長白山,未幾,趣白鹿山。至陽平,遇病而卒,時年三十一。

贊は機弁、文義頗る観るべき有り。而して軽薄俶儻、猶お父の風尚を見る。普泰末、勅して其の喪を迎え洛に至らしめ、黄門郎鹿悆を遣わし喪事を護らしめ、王礼を以て公主と嵩山に合葬す。元象初に至り、呉人其の喪を盗みて江東に還す。蕭衍猶お以て子と為し、蕭氏の墓に祔葬す。贊、江南に子有り、国に於いて後無し。

原文贊機辯,文義頗有可觀,而輕薄俶儻,猶見父之風尚。普泰末,敕迎其喪至洛,遣黃門郎鹿悆護喪事,以王禮與公主合葬嵩山。至元象初,吳人盜其喪還江東,蕭衍猶以為子,祔葬蕭氏墓焉。贊江南有子,在國無後。

蕭正表

原文蕭正表

蕭正表、字は公儀、蕭衍の弟臨川王宣達の子なり。正表、長さ七尺九寸、眉目疏朗。質貌豊美なれども、性理短闇なり。衍、以て封山県開国侯と為し、給事中に拝し、東宮洗馬・淮南晋安二郡太守を歴す。転じて軽車将軍・北徐州刺史、鍾離に鎮す。

原文蕭正表,字公儀,蕭衍弟臨川王宣達子也。正表長七尺九寸,眉目疏朗。雖質貌豐美,而性理短闇。衍以為封山縣開國侯,拜給事中,歷東宮洗馬、淮南晉安二郡太守。轉輕車將軍、北徐州刺史,鎮鍾離。

初め、衍未だ子無く、正表の兄正徳を以て子と為す。既にして西豊侯に封ず。正徳私に忿憾を懐く。正光三年、衍に背き洛に奔る。朝廷其の人材庸劣を以て、礼待を加えず。尋いで逃げ帰る。衍之を罪せず。後に正徳を臨賀王に封ず。衍の末、復た散騎常侍・光禄大夫と為り、丹陽尹事を知る。侯景の将に江を済せんとするや、正徳の衍に恨み有るを知り、密かに交通し、推して主と為さんことを許す。正徳、船数十舫を以て之を迎う。景、江を渡る。衍、正表を召し入援せしむ。正表、衆を率いて広陵に次す。正徳が侯景に推さるるを聞き、仍ち舫糧未だ集まらずと託し、磬桓して進まず。景、尋いで正表を以て南兗州刺史と為し、南郡王に封ず。正表既に景の署を受くると、遂に欧陽に於いて柵を立て、衍の援軍を断つ。又、其の妾の兄龔子明を遣わし広陵を進攻せんと欲す。衍の南兗州刺史・南康王蕭会理、前広陵令劉瑗を遣わし襲撃し、之を破る。正表狼狽して拠る所を失い、乃ち軽騎を率い、走りて鍾離に還る。

原文初,衍未有子,以正表兄正德為子,既而封為西豐侯。正德私懷忿憾。正光三年,背衍奔洛,朝廷以其人才庸劣,不加禮待。尋逃歸,衍不之罪。後封正德臨賀王。衍末,復為散騎常侍、光祿大夫,知丹陽尹事。侯景之將濟江也,知正德有恨於衍,密與交通,許推為主。正德以船數十舫迎之。景渡江,衍召正表入援。正表率眾次廣陵,聞正德為侯景所推,仍託舫糧未集,磬桓不進。景尋以正表為南兗州刺史,封南郡王。正表既受景署,遂於歐陽立柵,斷衍援軍。又欲遣其妾兄龔子明進攻廣陵。衍南兗州刺史、南康王蕭會理遣前廣陵令劉瑗襲擊,破之。正表狼狽失據,乃率輕騎,走還鍾離。

武定七年正月、なお子を送って人質とし、州を拠りて内属す。徐州刺史高帰彦、長史劉士栄を遣わして馳せ赴かしむ。事定まり、正表入朝し、勲によりて蘭陵郡開国公・呉郡王に封ぜられ、食邑五千戸を賜う。尋いで侍中・車騎将軍・特進・太子太保・開府儀同三司を除かれ、賞賚豊厚なり。その年冬薨ず、年四十二。侍中・都督徐揚兗豫済五州諸軍事・驃騎大将軍・司空公・徐州刺史を贈られ、開国公・王は並びに元の如し。諡して昭烈と曰う。子広寿。

原文武定七年正月,仍送子為質,據州內屬。徐州刺史高歸彥遣長史劉士榮馳赴之。事定,正表入朝,以勳封蘭陵郡開國公、吳郡王,食邑五千戶。尋除侍中、車騎將軍、特進、太子太保、開府儀同三司,賞賚豐厚。其年冬薨,年四十二。贈侍中、都督徐揚兗豫濟五州諸軍事、驃騎大將軍、司空公、徐州刺史,開國公、王並如故。諡曰昭烈。子廣壽。