巻58

楊播

楊播は あざな を延慶といい、自ら恒農郡華陰県の人であると称した。高祖の楊結は 慕容 ぼよう 氏に仕え、中山国の相の任中に没した。 かつ 祖の楊珍は太祖の時に帰順し、上谷太守の任中に没した。祖父の楊真は河内・清河二郡の太守を務めた。父の楊懿は延興末年に広平太守となり、称賛される治績を挙げた。高祖が南巡した際、官吏と民衆が彼を称えたので、寧遠将軍を加えられ、帛三百匹を賜った。選部給事中に召されたが、公平な評判があった。安南将軍・洛州 刺史 しし に任じられたが、赴任せずに没した。本官の位を追贈され、弘農公を加えられ、 おくりな を簡といった。

播の本来の字は元休であったが、太和年間に高祖が改めるよう賜った。母の王氏は文明太后の外姑である。播は若い頃から行いを整え、礼を尽くして養った。中散に抜擢され、累進して給事となり、中起部曹を領した。外戚として、優れた恩賜がたびたび加えられ、前後して万単位に及んだ。北部給事中に進んだ。詔により播が北辺を巡行することになり、高祖は自ら戸まで見送り、軍略について戒めた。間もなく、龍驤将軍・員外常侍に任じられ、衛尉少卿に転じ、常侍はもとのままとした。陽平王元頤らとともに漠北に出て 蠕蠕 じゅんじゅん を撃ち、多くの捕虜を得て帰還した。高祖はその勲功を嘉し、奴婢十人を賜った。武衛将軍に遷り、再び蠕蠕を撃ち、居然山に至って帰還した。

左将軍に任じられ、まもなく前将軍を仮授された。車駕に従って南征し、鍾離に至った。軍が引き返す際、詔により播が歩卒三千、騎兵五百を おおむ いて諸軍の殿を務めた。時に春の水かさが初めて増し、賊軍が大挙して到来し、舟艦が川を塞いだ。播は諸軍が淮を渡り終えていないのを見て、南岸に厳しく陣を布き、自らは後方に居た。諸軍が渡り終えると、賊軍は集結し、ここにおいて播を包囲した。そこで円陣を布いて防ぎ、自らも奮戦し、多くを斬殺した。二晩にわたって対峙し、兵士の食糧が尽き、賊の包囲はますます厳しくなった。高祖は北岸でこれを望んだが、舟船がなく、救援することができなかった。水勢がやや減ると、播は精鋭の騎兵三百を率いて賊の舟船の間を進み、大声で叫んだ。「今、我らは渡河しようとする。戦える者は来たれ。」賊は敢えて動く者なく、そこで兵を擁して渡河した。高祖は大いにこれを壮とし、爵位を華陰子と賜い、まもなく右衛将軍に任じた。

後に車駕に従って鄧城で崔慧景と蕭衍を討ち、これを破り、平東将軍の号に進んだ。時に車駕が沔水で威を耀かせ、上巳の宴を設けた。高祖は中軍の彭城王元勰と賭け射をし、左衛の元遙は元勰の組に属し、播は帝の組に居た。元遙が的の中央に命中させ、籌の限りは満ちた。高祖は言った。「左衛の籌は足りた。右衛は解かざるを得まい。」播は答えて言った。「聖恩を仰ぎ恃み、必ず争おうと存じます。」そこで弓を引き絞って放つと、その矢はまさに中央に命中した。高祖は笑って言った。「養由基の妙技も、これにどうして及ぼうか。」そこで卮の酒を挙げて播に賜い、言った。「古人は酒をもって病を養う。朕は今、卿の才能を賞する。古今の違いというべきである。」懸瓠に従駕し、太府卿に任じられ、爵位を伯に進めた。

景明初年、 侍中 じちゅう を兼ね、恒州に使いし、貧寒困窮の者を慰問し救済した。左衛将軍に転じた。安北将軍・ 并州 へいしゅう 刺史として出向したが、固辞したため、安西将軍・華州刺史を授けられた。州に至り、民の田地を借用したことを御史の王基に弾劾され、官爵を削除された。延昌二年、家で没した。子の侃らは柩を停めて葬らず、多年にわたり訴え続け、熙平年間になって鎮西将軍・雍州刺史を追贈され、併せてその爵位を回復し、諡を壮といった。

子の侃

侃は字を士業という。琴と書を愛し、特に計画を好んだ。当時、楊播の一門は朝廷に貴満し、児や姪は早くから交際があったが、侃だけは交遊せず、公卿で彼を知る者は稀であった。親戚や友人が出仕を勧めると、侃は言った。「もし良田があれば、晩年を憂えることはない。ただ才能がないことを恨むのみである。」

三十一歳の時、爵位の華陰伯を襲封した。初めて官に就き、 太尉 たいい ・汝南王元悦の騎兵参軍となった。揚州刺史の長孫稚が彼を録事参軍に請うた。蕭衍の 州刺史裴邃が合肥城を修築し、不意打ちを企て、密かに寿春の城下の者である李瓜花・袁建らを買収して内応させようとした。邃はすでに兵士を整え、期日を定めていたが、寿春側に疑われることを憂い、偽りの移文を送った。「魏は馬頭に戍を置き始めたと聞く。また白捺の旧城を修復しようとしているとも聞く。もしそうであれば、次第に侵逼することになる。こちらも欧陽を営み、国境の備えを設けねばならない。今、築城の兵卒はすでに集まっている。ただ返信を待つのみである。」幕僚たちは皆、実情を答えて白捺を修復する意思がないと伝えようとした。しかし侃は言った。「白捺は小城で、もともと要害の地ではない。邃は小賢しい。今、兵を集め移文を遣わし、虚構の言葉を述べている。別の企てがあるのではあるまいか。」稚は深く悟り、言った。「録事が移文を作って返答せよ。」侃は移文を作った。「そちらの兵を整えるのは、別の意図があると思われる。なぜ妄りに白捺をでっち上げるのか。他人に心あれば、我これを忖度する。秦に人なしと謂うなかれ。」邃は移文を得て、企てが既に知られたと思い、そこで兵を解散させた。瓜花らは期日が合わず、互いに告発し、罪に伏した者は十数家に及んだ。邃は後に寿春を襲撃し、羅城に入って退いた。そこで黎漿・梁城に陣営を並べ、日夜略奪を行った。稚は侃を統軍に奏請した。

侃の叔父の楊椿が雍州刺史となると、また彼をその府の録事参軍に請い、 長安 ちょうあん 令を兼ねさせ、府と州の事務を多く彼に委ねて決裁させた。蕭宝夤らの軍が敗れた時、北地郡の功曹毛洪賓が郡を占拠して賊を引き入れ、渭水の北を略奪した。侃は楊椿に自ら出撃して討つことを願い出た。そこで戦士を募集し、二晩の間に三千余人を得て、枚を銜ませて夜間に進軍し、 馮翊郡 ひょうよくぐん の西に至った。賊は大軍が突然到来したのを見て、衆情が離反し、洪賓は書状を送り人質を やや し出し、自らの力を尽くすことを乞うた。ここにおいて宿勤明達の兄の子で賊が南平王に任じていた烏過仁を捕らえて送った。

後に雍州刺史蕭寶夤が州を拠りて反し、 尚書 しょうしょ 僕射 ぼくや 長孫稚がこれを討つ。侃を鎮遠将軍・諫議大夫に除し、稚の行臺左丞と為す。尋いで通直 散騎常侍 さんきじょうじ に転ず。軍弘農に次ぐ。侃、稚に白して曰く、「昔、魏武と韓遂・馬超とが関を挟みて壘と為し、勝負の理、久しくして決せず。豈に才雄相類し、算略抗行するも、当に河山の険阻を以てし、智力を用い難からんや。今、賊潼関を守り、形勝を全く据う。縦え曹操更に出ずるも、亦奇を騁す所無からん。須らく北に蒲坂を取り、西岸に飛棹し、兵を死地に置き、人に闘心有らしむべし。かくれば華州の囲は戦わずして解け、潼関の賊は必ず風望みて潰散せん。諸処既に平らぎて、長安自ずから克たん。愚計録す可し、請う明公の前駆と為らん」と。稚曰く、「薛脩義既に河東を囲み、薛鳳賢又安邑を保安す。 都督 ととく 宗正珍孫は師を虞坂に停め、久しく進む能わず。此の計有りと雖も、猶用いて疑わしむ」と。侃曰く、「珍孫は本行陳の一夫、因縁に進達し、人を使う可く、人に使わる可からず。一旦元帥の任を受け、三軍を処分せば、精神乱れん。寧ぞ賊を囲むに堪えんや。河東の治は蒲坂に在り、西は河湄を帯び、部する所の民は多く東境に在り。脩義は壮勇を駆り率い、西に郡邑を囲む。父老妻弱は尚お旧村を保つ。若し衆を率いて一たび臨まば、方寸各々乱れ、人人帰を思わん。かくれば郡囲自ずから解けん。戦わずして勝つこと、昭然として目に在り」と。稚これに従い、其の子彦等に騎を領せしめ、侃と弘農の北に於いて渡らしむ。領する所は悉く騎士なり。野戦に習い、未だ城を攻むるに可からず。便ち石錐壁に拠る。侃乃ち班告して曰く、「今且く軍を此に停め、歩卒を待ち、兼ねて民情の向背を観、然る後に可行なり。若し降名を送る者は、各々村に還り、台軍の烽火を挙ぐるを候え。各々亦之に応じ、以て降款を明らかにせよ。其の烽に応ぜざる者は、即ち是れ降らざるの村なり。理須らく殄戮し、軍士に賞賚すべし」と。民遂に転相告報し、未だ実に降せざる者も、亦詐りて烽を挙ぐ。一宿の間、火光数百里内に遍し。城を囲むの寇、其の所以を測り難く、各々散帰す。脩義も即ち逃遁す。長安平らぎ、侃頗る力有り。

建義初め、冠軍将軍・東雍州刺史を除す。其の年州罷め、中散大夫を除し、 都督 ととく と為り、潼関を鎮む。朝に還り、右将軍・岐州刺史を除す。元顥の内逼に属し、詔して本官を以て仮に撫軍将軍と為し 都督 ととく とし、衆を率いて大梁を鎮めしむ。未だ発せず、詔して行北中郎将と為す。孝庄河北に徙御す。侃の手を執りて曰く、「朕卿の蕃寄を停め此に任を移せるは、正に今日の為なり。但だ卿尊卑百口、若し朕の行に随わば、累する所大なり。卿洛に還り、後の図に寄す可し」と。侃曰く、「此誠に陛下の曲恩なり。寧ぞ臣の微族を以てし、頓に君臣の義を廃せんや」と。固く陪従を求む。建州に至り、従功臣を行に叙す。城陽王徽以下凡そ十人、並びに三階を増す。侃の河梁の誠を以て、特く四階を加う。侃固く辞し、諸人に同じからんことを乞う。久しくして乃ち許さる。ここに於いて鎮軍将軍・度支尚書・兼給事黄門侍郎、敷西県開国公に除し、食邑一千戸。

及び車駕南還するに及び、顥は蕭衍の将陳慶之をして北中城を守らしめ、自ら南岸に据う。夏州の義士有りて顥の為に河中の渚を守る。乃ち密信を通款し、橋を破り効を立てんことを求む。尓朱栄軍を率いて之に赴く。及び橋破れ、応接果たさず、皆顥に屠滅せらる。栄因りて悵然たり。将に還計と為さんとし、更に後挙を図らんと欲す。侃曰く、「未だ審らかにせず、明大王 へい 州を発せし日の、既に夏州の義士指して来たり相応する有るを知りたるか、将た広く経略を申さんと欲し、寧ぞ帝基を復せんとするか。夫れ兵散じて更に合し、瘡癒えて更に戦う。此を持して功を収むるは、古より少なからず。豈に一図全からずして、衆慮頓に廃せんや。今事果たさざるは、乃ち是れ両賊相殺するに在り。則ち大王の利なり。若し今即ち還らば、民情失望し、去就の心、何に由りてか保つ可けん。未だ民材を召発し、惟だ多く筏を縛り、間に舟楫を以てし、河に沿いて広く布き、数百里の中に、皆渡勢と為らしむるに若かず。首尾既に遠く、顥復た何れの処をか防ぐを知らん。一旦渡るを得ば、必ず大功を立つべし」と。栄大笑して曰く、「黄門即ち此の計を行え」と。ここに於いて尓朱兆と侃等は遂に馬渚の諸楊と南渡し、顥の子領軍将軍冠受を破り、之を擒る。顥便ち南走す。車駕都に入る。侃尚書を解き、正黄門とし、征東将軍・金紫光禄大夫を加う。河を済むの功を以て、爵を進めて済北郡開国公と為し、邑五百戸を増し、復た其の長子師沖を祕書郎に除す。

時に用うる所の銭、人多く私鋳し、 ようや 々薄小に就き、乃ち風に飄ち水に浮くに至り、米一斗幾ばくか一千に直る。侃奏して曰く、「昔、馬援隴西に至り、嘗て上書し五銖銭を復せんことを求む。事三府に下り、許さず。及び援徴入りて虎賁中郎と為り、親しく光武に対し其の趣を申釈し、事始めて施行す。臣頃に雍州に在り、亦表を以て其の事を陳ぶ。人と官と並びに五銖銭を鋳ることを聴き、人をして楽んで為さしめ、而して俗弊得て改まる。旨尚書に下り、八座許さず。今を以て昔に況えば、即ち理殊ならず。臣が前表を求め取り、経御披析せしめよ」と。侃乃ち事に随いて剖辨す。孝庄これに従い、乃ち五銖銭を鋳、侃の奏する所の如くす。

万俟醜奴東秦を陥とし、遂に岐州を囲み、 巴蜀 はしょく を扇誘す。大 都督 ととく 尓朱天光衆を率いて西伐す。詔して侃を以て本官使持節・兼尚書僕射と為し、関右慰労大使とす。朝に還り、侍中を除し、 えい 将軍・右光禄大夫を加う。

庄帝将に尓朱栄を図らんとす。侃と其の内弟李晞・城陽王徽・侍中李彧等、皆密謀に預かる。尓朱兆の洛に入るや、侃時に休沐す。遂に潜竄を得、華陰に帰る。普泰初め、天光関西に在り、侃の子婦の父韋義遠を遣わし之を招慰し、盟を立てて其の罪を恕すことを許す。侃の従兄昱、家禍と為らんことを恐れ、侃をして出で応ぜしむ。 仮令 たとい 其の食言せば、一人身歿するに過ぎず、百口全からんことを冀う。侃往きて之に赴く。秋七月、天光に害せらる。太昌初め、車騎将軍・儀同三司・幽州刺史を贈る。子純陀襲ぐ。

弟椿

播の弟椿、字は延寿、本字は仲考、太和中に播と俱に高祖の賜いを受けて改む。性寛謹、初め中散を拝し、御廐曹を典む。端慎小心を以てし、専ら医薬を司り、内給事に遷り、兄播と並び禁闈に侍す。又蘭臺行職を領し、中部曹に改授す。訟を析くこと公正、高祖之を嘉す。及び文明太后崩ず。高祖五日食わず。椿進みて諫めて曰く、「陛下の至性、孝有虞に過ぐ。哀に居ること五朝、水漿御せず。群下惶灼し、言う所を知らず。陛下祖宗の業を荷い、万国の重に臨む。豈に匹夫の節に同じくし、以て僵仆を取るべけんや。且つ聖人の礼は、毀も性を滅さず。縦え陛下万代に自ら賢からんと欲すとも、其れ宗廟を如何せん」と。高祖其の言に感じ、乃ち一たび粥を進む。宮輿曹少卿に転授し、給事中を加う。

安遠将軍・ 州刺史として出向した。高祖(孝文帝)が 洛陽 らくよう から 州へ向かう際、その州の館舎に二晩滞在し、馬十頭・縑千匹を賜った。冠軍将軍・済州刺史に転じた。高祖が鍾離から ぎょう へ趣く途中、碻磝に至り、その州の館舎に滞在し、また馬二頭・縑千五百匹を賜った。平原太守崔敞に訴えられた罪により、廷尉は市利を勝手に収奪し、官炭を費消したと論じ、官職を免ぜられた。後に寧朔将軍・梁州刺史に降格された。

初め、武興王楊集始は楊霊珍に破られ、蕭鸞に降った。この時、賊兵一万余を率いて漢中より北進し、旧領の回復を図った。椿は歩騎五千を率いて下辨に出て駐屯し、集始に書を送り、利害を説いた。集始は書簡を手に取り使者に対し、「楊使君のこの書は、我が心腹の病を除くものである」と言い、遂にその部曲千余人を率いて降伏した。まもなく母が老齢のため、職を解かれて帰還した。後に武都の てい 族楊会が反乱を起こすと、椿に節・冠軍将軍・ 都督 ととく 西征諸軍事・行梁州刺史を仮授し、軍司羊祉と共にこれを討ち破った。その後、梁州の運糧が群氐に劫奪されたため、詔により椿は征虜将軍を兼ね、節を持って招慰に当たった。まもなく氐族が叛くと、光禄大夫に任じ、平西将軍を仮授され、征討諸軍事を督してこれを討った。帰還後、太僕卿を兼ねた。

秦州の きょう 族呂苟児・涇州の屠各陳瞻らが徒党を集めて反乱を起こした。詔により椿は別将となり、安西将軍元麗に隷属してこれを討った。賊は隴山に入り、険路を守って自らを固めた。ある者は山道に伏兵を置き、その出入りを断ち、食糧が尽きるのを待って攻撃すべしと謀り、ある者は山の木を伐り払い、火を放って焼き払い、その後進討すべしと言った。椿は言った、「いずれも良策ではない。彼らは本来盗賊を企てる者であり、経略があるわけではない。王師が一度到着すれば、戦わずして摧かれることはない。深く逃げ込んでいるのは、ただ死を避けているに過ぎない。今は三軍を統制し、これ以上侵掠させず、賊に我らが険阻を見て進まないと思わせ、我が軍を軽んじる心を起こさせた上で、その不意を襲えば、一挙に平定できるであろう」。そこで軍を緩めて進まず、賊は果たして出て掠奪し始めた。そこで軍中の驢馬を餌として とも え、討ち逐うことはしなかった。このように数日を経て、ひそかに精兵を選び、枚を銜ませて夜襲し、陳瞻を斬って首を伝送した。正員の太僕卿となり、安東将軍を加えられた。

初め、顕祖(献文帝)の世に蠕蠕一万余戸が降伏し、高平・薄骨律の二鎮に居住していたが、太和の末年に叛走してほぼ全滅し、ただ一千余家のみが残った。太中大夫王通・高平鎮将郎育らが、淮北に移し置き、その叛走を防ぐことを求めた。詔はこれを許したが、命令に従わぬことを慮り、椿に節を持たせて移住させに行かせた。椿は移住は益がないと考え、上書して言った、「臣は古人の言うところを思うに、『裔は夏を謀らず、夷は華を乱さず』と。荒忽たる人々は、覊 つな するのみである。それゆえ先朝が彼らを荒服の間に居住させたのは、正に近きを悦ばせ遠きを来たらせ、殊俗を招き附け、また華と戎を別ち、内と外を異にしようとしたためである。今新たに附く者多く、もし旧来の者が移住させられれば、新たな者は必ず安んじない。安んじなければ必ず故土を思い、故土を思えば走叛する。狐死して首丘す、その害はまさに甚だしい。またこの族類は、毛を衣とし肉を食らい、冬を楽しみ寒さに慣れている。南土は湿熱であり、行けば必ず尽きるであろう。進んでは帰伏の心を失い、退いては藩衛の益とならない。中夏に移住させて後患を生ずることは、愚見によれば、不可と謂うべきである」。時に八座の議は従わず、遂に済州の黄河沿いに移住させた。冀州で元愉の難が起こると、果たして悉く河を浮かんで賊に赴き、在所で掠奪を行い、椿が策した通りとなった。

永平初年、徐州の城人成景儁が宿預で叛くと、詔により椿は四万の兵を率いてこれを討ったが、勝たずして帰還した。久しくして、 都督 ととく 朔州撫冥武川懐朔三鎮三道諸軍事・平北将軍・朔州刺史に任じられた。州にあって、廷尉が椿が以前太僕卿であった時、細民を招き引き、牧田三百四十頃を盗み耕したと奏上し、律に依り五年の刑に処すべきとした。尚書邢巒は、正始の別格に拠り椿の罪は除名して庶人とし、籍に盗門と注記し、同籍の者は合門で仕官させぬべきと奏上した。世宗(宣武帝)は新律が既に頒布された以上、旧制を雑用すべきでないとし、詔して寺(廷尉)の断決に依り、贖罪をもって論ずることを許した。まもなく撫軍将軍を加えられ、都官尚書として召され、白溝の堤堰修築を監督した。また本将軍のまま定州刺史に任じられた。

太祖(道武帝)が中山を平定して以来、多く軍府を設置し、互いに威圧し合わせた。総じて八軍あり、各軍にそれぞれ兵五千を配し、食禄を給される主帥は各軍四十六人であった。 中原 ちゅうげん が次第に平定されるにつれ、八軍の兵は次第に南方の戍りに割かれ、一軍の兵はわずか千余りとなったが、主帥は依然としており、禄の費用は少なくなかった。椿は四軍を廃止し、その帥百八十四人を減ずることを上表した。州には宗子の稻田があり、屯兵八百戸がおり、毎年常に夫三千人・草三百車を徴発し、畦堰を修補していた。椿は屯兵はただこの田の課税を納めるのみで、更に徭役はなく、閑月に至れば即ち修治すべきであり、再び百姓を労するべきでないと考え、これも上表して廃止した。朝廷はこれに従った。椿は州にあって、黒山道の余功を治めるに因り、木を伐って私的に仏寺を造り、兵力を役使したため、御史に弾劾され、除名されて庶人となった。

正光五年、輔国将軍・南秦州刺史に任じられた。時に南秦州は反叛し、道路もまた阻塞されていたため、長安に留まったままとなった。岐州に転任を授けられ、また撫軍将軍・衛尉卿に任じられた。左衛将軍に転じ、また尚書右僕射を兼ね、駅伝を馳せて へい 州・肆州に赴き、絹三万匹を携え、恒州・朔州の流民を募り召し、選んで軍士に充てた。赴任しなかった。まもなく衛将軍を加えられ、 都督 ととく 雍南豳二州諸軍事・本将軍・雍州刺史として出向し、また車騎大将軍・儀同三司の号を進められた。蕭宝夤・元恒芝の諸軍が賊に敗れると、恒芝は渭水の北から東へ渡り、椿は追わせたが、止まらなかった。宝夤は後から到着し、逍遙園内に留まり、将士を収集して、なお一万余を得た。これにより三輔の人心は、ようやく安堵を得た。この時、涇州・岐州及び豳州は悉く既に賊に陥ち、扶風以西は、もはや国の所有ではなくなっていた。椿は内外に鳩募し、七千余人を得て、兄の子の録事参軍侃に率いさせて防御に当たらせた。詔により椿は本官のまま侍中・兼尚書右僕射を加えられ行臺となり、関西の諸将を節度し、その統内の五品以下・郡県で補用すべき者があれば、任じ次第に擬授することを許された。椿は暴疾に罹り、頻りに解任を乞うた。詔はこれを許し、蕭宝夤を代わりに刺史・行臺とした。

椿は郷里に帰り、子の昱が京師に還るのに遇い、そこで言った、「当今の雍州刺史も蕭宝夤より賢いわけではないが、その上佐(長史・司馬など)は、朝廷が心膂の重臣を派遣すべきである。どうしてその牒用に任せてよいのか。これは聖朝の百慮の一失である。かつ宝夤は刺史であることを以て栄誉とせず、我が観るに、州を得たことを大いに喜び、賞罰の言動において、常憲に依らず、異心を抱く恐れがある。関中は惜しむべき地である。汝は今京に赴くに当たり、我がこの意を称え、二聖(皇帝と太后)に啓上し、併せて宰輔に白状し、長史・司馬・防城 都督 ととく を更に派遣するよう願え。関中を安んじようとすれば、正にこの三人が必要なのである。もし派遣しなければ、必ず深憂となるであろう」。昱が還り、肅宗及び霊太后に面して啓上したが、共に信じ取り入れられなかった。宝夤が御史中尉酈道元を害するに及んで、なお上表して自らを弁明し、椿父子に誹謗されたと称した。詔は再び椿を 都督 ととく 雍岐南豳三州諸軍事・本将軍・開府儀同三司・雍州刺史・討蜀大 都督 ととく に任じた。椿は老病を理由に辞し、赴任しなかった。

建義元年、 司徒 しと 公に遷る。尒朱榮が東へ葛榮を討つに当たり、詔により椿は衆を統べて後軍となり、榮が葛榮を擒らえたので、止む。永安初年、 太保 たいほう ・侍中に進み、後部鼓吹を給される。元顥が洛陽に入ると、椿の子で征東將軍の昱は 滎陽 けいよう に出鎮したが、顥に捕らえられた。また椿の弟の順は冀州刺史、順の子の仲宣は正平太守、兄の子の侃と弟の子の遁は共に河北に従駕していたが、皆、顥に嫌疑をかけられた。椿の家柄が顕重であるため、人心を失うことを恐れ、罪を加えるに至らなかった。当時の人々はその憂いと怖れを助け、ある者は椿に家族を連れて禍を避けるよう勧めた。椿は言う、「我が内外百口、何処へ逃げ隠れようか?ただ運命に任せて座しているのみである」と。

莊帝が宮中に還ると、椿は毎度辞退したが、許されなかった。上書して頻りに老齢を理由に帰ることを乞うた。詔して曰く、「椿は国の老成にして、まさに尊ぶべき方である。高齢を理由に急ぎ致仕を願うとは、旧徳を顧みるに、従うわけにはいかない。しかし告謁は頻繁で、その理はますます固く、これにより奪い難く、また重ねて違えるのも忍びない。今、その雅志を允す。侍中の朝服を着用し、服一具・衣一襲・八尺の床帳・几杖を賜う。朝参せず、安車に乗り、駟馬を駕し、扶けを給し、伝詔二人を付す。仰せて所在の郡県に、時に礼を以て安否を存問せしむ。まさに諮詢を離れるは、まことに憮然たるものがある」と。椿は詔を奉じて華林園に至り、帝は御座を下りて椿の手を執り涙を流して言う、「公は先帝の旧臣、まことに元老である。今、四方未だ寧かならず、理として諮訪すべきである。しかしその志を高尚とし、決意して留まらぬ。既に違え難く、深く悽愴を用いる」と。椿もまた歔欷し、拝礼しようとしたが、莊帝は親しく執って聴かなかった。ここにおいて絹布を賜い、羽林 えい を給して送らせ、群公百僚は城西の張方橋で餞別し、行路の観る者は、称歎しない者はいなかった。

椿は臨行に際し、子孫を戒めて言う。

椿が華陰に還って一年余り、普泰元年七月、尒朱天光によって害され、七十七歳であった。当時の人々は冤痛としない者はなかった。太昌初年、 都督 ととく 冀定殷相四州諸軍事・太師・丞相・冀州刺史を追贈された。

椿の子、昱。

子の昱は、字を元晷という。広平王懐の左常侍として起家した。懐は武事を好み、数えきれぬほど遊猟に出たが、昱は毎度規諫した。正始年中、京兆・広平二王国の臣に、多く放恣なる者がおり、公然と請託を行ったため、ここに詔して御史中尉崔亮に窮治させ、都市で伏法した者は三十余人、死を免れた者は全て名を除かれて民とされた。ただ昱と博陵の崔楷のみが忠諫によって免れた。後に太学博士・員外散騎侍郎に除された。

初め、 尚書令 しょうしょれい 王肅が揚州刺史に除せられ、洛陽東亭に出頓した時、朝貴はことごとく集まり、詔して諸王に送別させた。昱の伯父の播も同じく餞席に同席した。酒が酣になった後、広陽王嘉・北海王詳らが播と議論して理を競い、播は彼らに屈しなかった。北海王は顧みて昱に言う、「尊伯は性剛にして、理に伏さず、大いに尊使君に及ばない」と。昱は前に進み出て対えて言う、「昱の父は道が隆んなればそれに従い、道が穢れていればそれに従う。伯父は剛なれば吐かず、柔なれば茹まずである」と。一座はその能言を歎じた。肅は言う、「この郎なくして、どうして二公の美を申し得ようか」と。

延昌三年、本官を以て詹事丞を帯びた。当時、肅宗は懐抱の中にあり、出入に至っては、左右の乳母のみで、宮僚に知らせなかった。昱は諫めて言う、「陛下は臣等を凡浅とせず、宮臣の位を備えさせられた。太子の動止は、宜しく翼従すべきである。しかしこれ以来、軽々しく出入し、進んでは二傅の輔導の美なく、退いては群僚の陪侍の式を欠く。これは民に軌儀を示し、君臣の義を著わすと謂うべきではない。陛下若し太子を召すには、必ず手勅を降し、臣下に咸く知らしめ、後世の法とすべきである」と。ここにおいて詔して曰く、「今より以後、朕の手勅でなければ、児を軽々しく出さしむるな。宮臣で直に在る者は、萬歳門に従え」と。

久しくして、太尉掾に転じ、兼ねて 中書 ちゅうしょ 舎人となった。霊太后は嘗て従容として昱に言う、「今、帝は幼年、朕は万機を親らする。しかし自ら薄徳にして化す能わず、親姻を感ぜしめず、外にあって人心に称せず。卿に聞く所あれば、慎んで隠すなかれ」と。昱はここにおいて奏上する、揚州刺史李崇が五車の貨を載せ、恒州刺史楊鈞が銀の食器十具を造り、共に領軍元叉に贈ったと。霊太后は叉夫妻を召して泣きながら責めた。叉は深くこれを恨んだ。昱の六番目の叔父舒の妻は、武昌王和の妹であり、和は即ち叉の従祖父である。舒は早くに うしな に服し、一男六女があったが、喪が終わるや元氏は頻りに別居を請うた。昱の父椿は親姻を集めて泣きながら言う、「我が弟は不幸にして早く終わった。今、男は未だ婚せず、女は未だ嫁がず、何ぞ怱怱として便ち離居を求めるのか」と。聴かなかった。遂に憾みを懐いた。神亀二年、瀛州の民劉宣明が謀反を企て、事が覚めて逃げ隠れた。叉はここにおいて和及び元氏を使い、昱が宣明を隠匿したと誣告させ、云う、「父の定州刺史椿、叔父の華州刺史津は、共に甲仗三百具を送り、不逞を謀った」と。叉はまたその事を構成した。ここにおいて左右御仗五百人を遣わし、夜に昱の宅を囲んでこれを収めたが、何も得られなかった。霊太后はその状を問うと、昱は元氏が釁を構えた端緒を具に対え、言は哀切に至った。太后はここにおいて昱の縛を解き、和及び元氏を並べて死刑に処そうとしたが、叉が左右したため、和はただ免官され、元氏も結局坐せられなかった。元叉が廃された後、太后は昱を出して済陰内史とした。中山王熙が鄴で兵を起こすと、叉は黄門盧同を遣わして鄴に詣り熙を刑し、並びに党与を窮めた。同は叉の旨を希い、郡に就いて昱を鎖し鄴に赴かせ、百日間訊問した後、任に還した。

孝昌初年、征虜將軍・中書侍郎に除され、給事黄門侍郎に遷る。当時、北鎮の飢民二十余万に対し、詔して昱を使者とし、冀・定・瀛の三州に分散して食に就かせた。後に賊が豳州を囲むと、詔して昱を兼侍中とし、節を持ち西北道大 都督 ととく ・北海王顥を催し、 なお って軍に随って監察させた。豳州の囲みは解けた。雍州の蜀賊張映龍・姜神達は州内が空虚であることを知り、攻め掩おうと謀り、刺史元脩義は懼れて援けを請い、一日一夜のうちに、書を九通も移した。 都督 ととく 李叔仁は躊躇して赴かなかった。昱は言う、「長安は関中の基本である。今、大軍は涇豳に頓し、賊と相対している。若し長安を守らざれば、大軍は自然に瓦散する。この軍が往くとも、何の益があろうか」と。遂に叔仁らと共に進み、陣中で神達及び諸賊四百人余りを斬り、残りは悉く奔散した。詔して昱は旨を受けて催督したが、顥の軍が稽緩したため、遂に昱の官を免じた。乃ち兼侍中として軍を催す。尋いで征虜將軍・涇州刺史に除された。間もなく、昱の父椿が雍州刺史として出され、昱を徴還し、吏部郎中・武 えい 將軍に除し、北中郎将に転じ、安東將軍を加えられた。蕭寶夤らが関中で敗れた時、昱を兼七兵尚書・持節・仮撫軍將軍・ 都督 ととく とし、雍州を防守させた。昱は賊に遇い失利して返った。度支尚書に除され、撫軍・徐州刺史に転じ、尋いで鎮東將軍・仮車騎將軍・東南道 都督 ととく に除され、また 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。

後に太山太守羊侃が郡を拠りて南に叛き、蕭衍は将軍王弁を遣わし衆を率いて徐州を侵寇す。番郡の人続霊珍は衍より平北将軍・番郡刺史を受けて、衆一万を擁し番城を攻逼す。昱は別将劉馘を遣わしてこれを撃破し、陣前にて霊珍の首を斬る。王弁は退走す。侃の兄深は、時に徐州行台たり。府州は皆深を禁錮せんと欲す。昱曰く、「昔、叔向は鮒也の故を以て見廃せられず、春秋これを貴ぶ。奈何ぞ侃の罪を以て深に及ぼさんや。宜しく朝旨を聴くべし」と。群議を許さず。還朝す。

未だ幾ばくもせず、元顥の大梁を侵逼するに属し、昱を征東将軍・右光禄大夫に除し、 散騎常侍 さんきじょうじ ・使持節・仮車騎将軍を加え、南道大 都督 ととく と為し、 滎陽 けいよう に鎮す。顥は既に済陰王暉業を擒え、虚に乗じて径ちに進み、大兵城下に集る。その左衛劉業・王道安等を遣わし昱を招き、降るを令す。昱従わず。顥遂にこれを攻む。城陥つ。 都督 ととく 元恭・太守西河王悰並びに城を踰えて走り、俱に擒縶せらる。昱は弟息五人と門楼上に在り、須臾にして顥至る。昱を執り下城し、面して昱を責めて曰く、「楊昱、卿今死して甘心せんや。卿自ら我に負く、我卿に負くに非ず」と。昱答えて曰く、「分を望んで生を望まず。向って楼を下らざる所以は、正に乱兵を慮うのみ。但だ恨むらくは八十の老父、人無く供養せず、病を負いて黄泉に至らんことを。小弟の一命を乞い求めば、便ち死して朽ちず」と。顥乃ちこれを拘す。明旦、顥の将陳慶之・胡光等三百余人、顥の帳前に伏して請うて曰く、「陛下江を渡ること三千里、遺鏃の費無し。昨日一朝に殺傷五百余人。楊昱を乞い求めて以て意を快くせんことを」と。顥曰く、「我江東に在りしとき、嘗て梁主の言を聞く。初めて都を下す日、袁昂は呉郡に在りて降らず、その忠節を称す。奈何ぞ楊昱を殺さんや。此れより外は、卿等の請う所に任す」と。是に於て昱の下の統帥三十七人を斬り、皆蜀兵に令して腹を刳り心を取らしめて食わしむ。顥既に洛に入り、昱の名を除き民と為す。

孝庄還宮し、前官に復す。及び父椿老を辞し、官を解きて養に従わんことを請う。詔して許さず。尒朱栄の死するや、昱は東道行台と為り、衆を率いて尒朱仲遠を拒ぐ。会に尒朱兆洛に入る。昱京師に還る。後に郷里に帰り、亦天光に害せらる。太昌初め、 都督 ととく 瀛定二州諸軍事・驃騎大将軍・ 司空 しくう 公・定州刺史を贈らる。

子孝邕、員外郎。走り免れ、蛮中に匿れ、潜かに渠帥を結び、謀りて応じて斉献武王を以て尒朱氏を誅せんとす。微服して洛に入り、機会を参伺す。人の告ぐる所と為り、世隆収めて廷尉に付し、掠めてこれを殺す。

椿の弟穎

椿の弟穎、字は惠哲。本州別駕。

子叔良、武定中、新安太守。

穎の弟順

穎の弟順、字は延和、寛裕謹厚なり。太和中、奉朝請を起家す。累遷して直閤将軍・北中郎将・兼武衛将軍・太僕卿。庄帝を立つる功に預かり、三門県開国公に封ぜられ、食邑七百戸。出でて平北将軍・冀州刺史と為り、尋いで号を進めて撫軍将軍と為る。州を罷めて還り、害に遇う。年六十五。太昌初め、 都督 ととく 相殷二州諸軍事・太尉公・録尚書事・相州刺史を贈らる。

子弁、字は僧達。通直常侍・平東将軍・東雍州刺史を歴任す。

弁の弟仲宣、風度才学有り。奉朝請より稍く遷りて太尉掾・中書舎人・通直散騎侍郎・鎮遠将軍を加えられ、爵を弘農男に賜う。建義初め、通直常侍に遷る。出でて平西将軍・正平太守と為り、爵を進めて伯と為る。郡に在りて能名有り。就いて安西将軍を加う。京に還るの日、兄弟父と同く害に遇う。弁は、太昌初め使持節・ 都督 ととく 燕恒二州諸軍事・車騎大将軍・儀同三司・恒州刺史を贈らる。仲宣は、 都督 ととく 青光二州諸軍事・車騎大将軍・尚書右僕射・青州刺史を贈らる。

仲宣の子玄就、幼にして俊抜なり。収捕の時年九歳、兵人を牽挽し、謂いて曰く、「諸尊を害せんと欲す。乞う、先ず就きて死せん」と。兵人刀を以てその臂を斬断す。猶死を請うて止まず。遂に先ずこれを殺す。永熙初め、汝陰太守を贈らる。

仲宣の弟測、朱衣直閤。亦同時に害を見る。太昌中、 都督 ととく 平営二州諸軍事・鎮北将軍・吏部尚書・平州刺史を贈らる。

測の弟稚卿、太昌中、尚書右丞と為り、事に坐して死す。

順の弟津

順弟の津は、字を羅漢といい、本名は延祚であったが、高祖(孝文帝)が名を賜った。幼少より端厳で慎み深く、器量と度量をもって称された。十一歳の時、侍御中散に任ぜられた。当時、高祖は幼少であり、文明太后が朝政を臨んでいた。津はかつて長く左右に侍していたが、突然咳き込み声を失い、数升を吐き、袖に隠した。太后はその声を聞き、尋ねたが見えず、その理由を問うと、すべて実情を述べた。そこで敬慎をもって知られ、縑百匹を賜った。符璽郎中に遷った。津は身が禁中にあり機密に預かるため、外とは交遊せず、宗族や姻戚に対しても、めったに挨拶に訪れなかった。 司徒 しと の馮誕は津と幼少より交遊を結んでいたが、津はその貴寵を見て、常に退いて避け、招かれると多くは病気を理由に行かなかった。誕はこれを恨んだが、津はますます遠ざかった。ある人が津に言った、「 司徒 しと は、君の幼少からの旧友である。進達を受けるべきなのに、どうして急に自分を外に置くのか」。津は言った、「勢家に厚遇されることは、また容易なことではない。ただわが今日を全うするだけで、それで足りるのだ」。

振威将軍に転じ、監曹奏事令を領し、また直寝となり、太子歩兵 校尉 こうい に遷った。高祖が南征するに当たり、津を 都督 ととく 征南府長史とし、懸瓠に至り、直閤将軍を加えて召し出した。後に従駕して淮を渡り、 司徒 しと の誕が薨じると、高祖は津に柩を都に送還させた。長水 校尉 こうい に遷り、引き続き直閤を務めた。景明年間、世宗(宣武帝)が北邙に遊んだ時、津は陪従していた。太尉・咸陽王の禧が謀反を企て、世宗は華林に馳せ入った。当時、直閤の中に禧と謀を同じくする者がおり、皆従駕の列にいた。禧が平定された後、帝は朝臣に向かって言った、「直閤の半分は逆党であった。至忠でなければどうしてこの謀に与からなかったであろうか」。そこで津を左中郎将に任じた。 ぎょう 騎将軍に遷り、引き続き直閤を務めた。

外任として征虜将軍・岐州刺史を拝命した。津は大小の事柄を自ら行い、孜々として倦むことがなかった。武功の民が絹三匹を持ち、城を十里去った所で賊に掠奪された。時に使者が駅伝を馳せて来て、掠奪された者がそのことを告げた。使者が州に到着し、その状況を津に報告した。津はそこで教令を下して言った、「ある色の衣を着、ある色の馬に乗った者が、城東十里で殺された。姓名は知らない。もし家人があれば、速やかに収視せよ」。一人の老母が、出て行って泣き、自分の子であると言った。そこで騎兵を遣わして追捕させ、絹も共に回収した。これより以降、全境が畏服した。守令や僚佐に賄賂を貪る者がいても、公にその罪を言わず、常に私信で厳しく責めた。そこで官属は感奮して励み、法を犯す者はなくなった。母の喪により職を去った。

延昌の末、起用されて右将軍・華州刺史となり、兄の播と前後して共に本州を牧したので、当世はこれを栄誉とした。先に、調として絹を徴収する際、尺度が特に長かった。担当者がこれに便乗し、共に増減を加え、百姓はこれを苦しんでいた。津は公定の尺度に依って輸納物を測るよう命じ、特に良いものには杯酒を賜って送り出し、輸納したものが少し劣っていても受け取ったが、酒はなく、その恥を示した。そこで人々は競って励み合い、官の調は以前より勝るようになった。還任して北中郎将を拝命し、河内太守を帯びた。太后(霊太后)は津が自分に二心を抱いていると疑い、山河の要地に置くことを望まず、平北将軍・肆州刺史に転じ、さらに へい 州刺史に転じ、将軍は元のままとした。召し出されて右衛将軍を拝命した。

孝昌の初め、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、まもなく本官のまま定州の事務を行った。やがて近隣の鎮が擾乱し、旧京(洛陽)に侵逼したため、津に安北将軍・仮の撫軍将軍・北道大 都督 ととく ・右衛を加え、まもなく左衛に転じ、撫軍将軍を加えた。初め津は命を受け、霊丘を拠点としたが、賊帥の鮮于脩礼が博陵で挙兵し、定州が危急となったため、軍を回して南に向かった。城下に到着したばかりで、営塁も未だ築かれておらず、州軍は新たに敗北していた。津は賊が既に勝に乗じ、兵士は疲労し、柵塁も未だ安定せず、敵に対抗できず、賊は必ず夜に来襲し、万に一つの生還もないと考え、軍を城内に移し、後日の挙兵を図ろうとした。刺史の元固は、賊が既に城に逼っているのに、弱みを見せてはならず、と称して門を閉ざし入れなかった。津は刀を揮って門番を斬ろうとしたので、軍はようやく城内に入ることができた。賊は果たして夜に来襲し、柵が空であるのを見て去った。その後、賊が州城の東面を攻撃し、既に羅城に入った。刺史は小城の東門を閉ざし、城中は騒然として、出戦しようとしなかった。津が賊を防ごうとすると、長史の許被が門を守って聞き入れず、津は手に剣を取って被を撃ったが、当たらず、被は走り去った。津は門を開いて出戦し、賊帥一人を斬り、賊数百を殺した。賊は退き、人心はやや安まった。詔により衛尉卿を拝命し、征官は元のまま、津の兄の衛尉卿の椿が代わって左衛となった。まもなく鎮軍将軍・討虜 都督 ととく を加えられ、吏部尚書・北道行臺を兼ねた。初め、津の兄の椿がこの州で罪を得たのは、鉅鹿の人趙略が書を投じたことによるものであった。津が到着すると、略は挙家して逃走したが、津は教令を下して慰諭し、その生業に戻るよう命じた。そこで全州が慚愧して服し、遠近に称えられた。

時に賊帥の薛脩礼・杜洛周が州境を残虐に掠奪していた。孤城は独立し、両寇の間にあって、津は柴粟を貯積し、戦具を修理し、さらに雉堞を営み、賊が来攻するたびに、機械を競い起こした。また城中で城から十歩の所に、泉に至るまで地を掘り、広く地道を作り、潜んだ兵士を涌き出させ、炉を置いて鉄を鋳造し、それを持って賊に注ぎかけた。賊は互いに言った、「利き槊や堅城は恐れないが、ただ楊公の鉄星だけは恐れる」。津は賊帥の元洪業および賊中の督将の尉霊根・程殺鬼・潘法顕らに書を送り、諭し、併せて鉄券を授け、爵位を与えることを約束し、賊帥の毛普賢を図らせようとした。洪業らは感奮して悟り、返書して言った、「今、諸人と密議し、普賢を殺そうとしている。願わくは公がこれを聞き届けられたい。また賊が城を囲もうとしているのは、正に北人を取るためである。城中にいるすべての北人は、必ず尽く殺さなければならない。公がこれを放置されれば、恐らく敵を野放しにして禍いとなろう。願わくは公がこれを察せられたい」。津は城内の北人は悪党ではあるが、掌握中の物であり、すぐに殺すには忍びず、ただ子城に収容して防禁しただけであった。将吏はその仁恕に感ぜぬ者はなかった。朝廷は初め鉄券二十枚を津に委ねて分け与えさせた。津は賊中の首領に従い、密かに行ってこれを送り、脩礼と普賢はこれによってかなり死んだ。

やがて、杜洛周が州城を包囲した。津は力を尽くして防ぎ守った。詔により衛将軍を加えられ、開国県侯に封ぜられ、邑一千戸を賜り、将士で功ある者は津に任せて賞を与え、兵民には八年間の給復(租税免除)が与えられた。葛栄が 司徒 しと の位をもって津を説得したが、津は大いに怒り、その使者を斬って絶交した。攻囲を受けてから、三年を経たが、朝廷は救援に赴くことができなかった。そこで長子の遁を突囲させて出し、蠕蠕の主阿 いずく 瓌のもとに赴かせ、賊を討たせようとした。遁は日夜泣いて論じ、阿那瓌はその従祖の吐豆発に精騎一万を率いさせて南に出させた。前鋒は既に広昌に達したが、賊が隘口を防塞したため、蠕蠕は疑念を抱き、遂に引き返した。

津の長史の李裔が賊を引き入れて城を越えさせた。賊は入ってますます増え、津は苦戦して敵わず、遂に捕らえられた。洛周は津の衣服を脱がせ、地牢の下に置いた。数日後、烹殺しようとしたが、諸賊が互いに諫めて止めたため、害を免れることができた。津はかつて裔と会見し、諸賊帥に対して大義をもって責め、言葉と涙を共に発したので、裔は大いに慚じた。看守の者がこれを告げたが、洛周は彼を責めなかった。葛栄が洛周を併呑すると、再び栄に拘束され、栄が破られて、ようやく洛陽に帰還することができた。

永安の初め、詔して津を本将軍・荊州刺史に除し、 散騎常侍 さんきじょうじ ・当州 都督 ととく を加う。津は以前中山において賊に陥ちしことを以て、闕に詣り固く辞し、ついにその任に就かず。二年、吏部尚書を兼ね、また車騎将軍・左光禄大夫を除し、なお吏部を除す。元顥内に逼り、荘帝将に親しく出でて討たんとす。津を以て中軍大 都督 ととく ・兼領軍将軍と為す。未だ行かず、顥入る。及び顥敗れ、津すなわち入りて殿中に宿し、宮掖を掃洒し、第二子逸に命じて府庫を封閉せしめ、各おの防守せしむ。及び帝入るや、津北邙に迎え、流涕して罪を謝す。帝深く嘉し慰む。尋いで津を以て 司空 しくう ・侍中を加う。

尒朱栄死すや、津を以て 都督 ととく へい 肆燕恒雲朔顕汾蔚九州諸軍事・驃騎大将軍・兼 尚書令 しょうしょれい ・北道大行臺・ へい 州刺史と為し、侍中・ 司空 しくう は故の如し。津に討胡の経略を委ぬ。津馳せて鄴に至る。手下唯だ羽林五百人、士馬寡弱なり。始めて招募を加え、将に滏口より入らんとす。値うに尒朱兆等すでに洛を克ち、相州刺史李神等議して津と城を挙げて款を通ぜんと欲す。津従わず。子逸既に光州刺史と為り、兄の子昱時に東道行臺と為り、部曲を鳩率し、梁沛に在るを以て、津東に転ずるを規図し、更に方略を為さんとす。乃ち軽騎を率い、済州に於いて河を渡らんと望む。而して尒朱仲遠すでに東郡を陥す。図る所遂げず、乃ち京師に還る。普泰元年、また洛に於いて害に遇う。時に年六十三。太昌の初め、 都督 ととく 秦華雍三州諸軍事・大将軍・ 太傅 たいふ ・雍州刺史を贈り、諡して孝穆と曰う。将に本郷に葬らんとす。詔して大鴻臚に節を持たしめ喪事を監護せしむ。津六子有り。

津の子、遁。

長子遁、字は山才。其の家貴顕なり。諸子弱冠にして、咸く王爵に つな がる。而して遁の性澹退、年近く三十にして、方に鎮西府主簿と為る。累遷して尚書郎。荘帝北巡するや、詔を奉じて山東を慰労す。車駕洛に入り、尚書左丞を除し、また光禄大夫と為り、なお左丞たり。永安の末、父津河北に委を受け、兼黄門郎として鄴に詣り、行省事に参ず。尋いで征東将軍・金紫光禄大夫に遷る。また洛に於いて害せらる。時に年四十二。太昌の初め、車騎大将軍・儀同三司・幽州刺史を贈り、諡して恭定と曰う。

遁の弟、逸。

遁の弟逸、字は遵道、当世の才度有り。起家して員外散騎侍郎。功を以て爵を賜い華陰男と為り、転じて給事中。父津中山に在り、賊の攻逼を受く。逸使を尒朱栄に請い、師を徴して赴救せしむ。詔許す。

建義の初め、荘帝猶お河陽に在り。逸独り往きて謁す。 帝特 わざわ ざ給事黄門侍郎を除し、中書舎人を領す。及び朝士禍を みだ りにす。帝益々憂怖す。詔して逸に昼夜陪侍せしむ。数日の内、常に御床の前に寝宿す。帝嘗て夜中に逸に謂ひて曰く、「昨来、目を挙ぐるに唯だ異人を見る。卿を得たるに頼り、 やや 自ら慰む。」

尋いで吏部郎中を除し、出でて平西将軍・南秦州刺史と為り、 散騎常侍 さんきじょうじ を加う。時に年二十九、当時に方伯の少なきこと先んずる者未だ有らず。なお路阻まるを以て行かず、改めて平東将軍・光州刺史を除す。逸節を折りて綏撫し、乃ち心を民務にし、或いは 日昃 ひぐれ に食せず、夜分に寝ず。兵人役に従うに至りては、必ず自ら之を送り、或いは風日の中、雨雪の下、人其の労に堪えずと雖も、 逸曾 かつ て倦色無し。又法令厳明、寛猛相済い、ここに於いて合境粛然たり、敢えて干犯する者莫し。時に災儉連歳、人多く餓死す。逸倉粟を以て賑給せんと欲す。而して所司罪を懼れて敢えせず。逸曰く、「国は人を以て本と為し、人は食を以て命と為す。百姓足らざれば、 君孰 いず れと とも にか足らん。 仮令 たとい 此を以て とが るとも、吾が甘心する所なり。」遂に粟を出し、然る後に表を申す。右僕射元羅以下、公儲闕け難しと謂ひ、並びに執りて許さず。 尚書令 しょうしょれい ・臨淮王彧、二万を貸すべしと為す。詔して二万を聴す。逸既に粟を出だしたる後、其の老小残疾自ら存活すること能はざる者に、又州門に於いて粥を煮て之に くら はしむ。将に死せんとして済はるる者万数を以てす。帝聞きて之を善しとす。逸政を為すに人を愛し、尤も豪猾を憎み、広く耳目を設く。其の兵吏下邑に出使するも、皆自ら糧を持ち、人或いは食を設くる者と為すも、暗室に在ると雖も、終に進まず。咸く楊使君に千里眼有り、 いずく んぞ之を欺かんやと曰ふ。州に在りて政績尤も美なり。

及其の家禍に及び、尒朱仲遠使いを州に遣わして之を害す。時に年三十二。吏人親戚を うしな うが如く、城邑村落、為に斎供を営み、一月の中、所在絶えず。太昌の初め、 都督 ととく 郢二州諸軍事・衛将軍・尚書僕射・ 州刺史を贈り、諡して貞と曰う。

逸の弟謐、字は遵智。太尉行参軍に辟され、歴て員外 散騎常侍 さんきじょうじ 、功を以て爵を賜い弘農伯・鎮軍将軍・金紫光禄大夫・衛将軍と為る。 晋陽 しんよう に在りて、尒朱兆に害せらる。太昌の初め、驃騎将軍・兗州刺史を贈る。

謐の弟遵彦、武定中、吏部尚書・華陰県開国侯。

津の弟暐。

津の弟暐、字は延季。性雅厚、頗る文学有り。起家して奉朝請、 ようや く遷りて散騎侍郎・直閤将軍・本州大中正・兼武衛将軍・尚食典御。孝昌の初め、正武衛将軍、 散騎常侍 さんきじょうじ ・安南将軍を加う。荘帝の初め、河陰に於いて害に遇う。衛将軍・儀同三司・雍州刺史を贈る。

子元譲、武定末、尚書祠部郎中。

播の家世純厚、並びに義譲を つと め、昆季相い事うること父子の如し。播剛毅なり。椿・津恭謙、人と言ふに自ら名字を称す。 兄弟旦 あした には則ち あつ まりて庁堂に在り、終日相対し、未だ かつ て内に入らず。一の美味有れば、集まらずんば食はず。庁堂の間、往々幃幔を以て隔障し、寝息の所と為し、時に就きて休偃し、還りて共に談笑す。椿年老い、嘗て他処に酔ひて帰る。津扶侍して室に還り、 なお 閤前に仮寐し、安否を承候す。椿・津年六十を過ぎ、並びに台鼎に登る。而して津嘗て旦暮参問し、子姪階下に羅列す。椿坐を命ぜざれば、津敢えて坐せず。 椿每 つね に近く出づるも、或いは 日斜 かたむ きて至らずとも、津先だって飯せず。椿還りて然る後に共に食す。食すれば則ち津親しく匙箸を授け、味皆先づ嘗む。椿食を命じて然る後に食す。津 司空 しくう と為る。時に府主皆僚佐を引き、人津に就きて官を求む。津曰く、「此の事須らく家兄の之を裁くを、何を為してか問ふを見ん。」初め、津肆州と為る。椿京宅に在り。毎に四時の嘉味有れば、 すなわ ち使次の因りて之を附す。若し或いは未だ寄せざれば、先づ口に入れず。椿毎に寄する所を得れば、輒ち之に対して下泣す。兄弟皆孫有り。唯だ椿曾孫有り、年十五六なり。椿常に之が為に早く娶せんと欲し、玄孫を見んと望む。昱已下、 おおむ ね学尚多し。時人欽羨せざる莫し。一家の内、男女百口、 緦服同爨 どうさん 、庭に間言無し。魏世以来、唯だ盧淵兄弟及び播の昆季有るのみ。当世及ぶ者莫し。

世隆らは椿の一族を害そうと謀り、謀反の罪をでっち上げ、捕らえて処罰するよう上奏して請うた。前廃帝は許さなかったが、世隆が重ねて強く主張したため、やむなく詔を下して有司に調査報告させた。世隆はそこで歩兵と騎兵を派遣して夜にその邸宅を包囲し、天光もまた同日に華陰で椿を捕らえた。東西の両家は、老若を問わず皆禍に遭い、その家財は没収された。世隆は後に上奏して言うには、「楊家は実際に謀反し、夜に軍人に抵抗したため、ことごとく撃ち殺した」と。廃帝はしばらくの間嘆き悔やんだが、何も言わないだけであった。世隆が勝手に振る舞っていることを知っていたが、どうすることもできなかった。永熙年間、椿の一族は合わせて華陰に帰葬され、人々は皆これを見て悲しみ哀しんだ。

族弟の鈞

播の族弟の鈞。祖父の暉は、庫部給事となり、やがて洛州刺史に昇進した。死去し、弘農公を追贈され、諡は簡といった。父の恩は、河間太守であった。鈞はかなり有能で、廷尉正から長水 校尉 こうい 、中壘将軍、洛陽令となった。出向して中山太守となり、入朝して 司徒 しと 左長史となった。また徐州、東荊州刺史に任ぜられ、帰還して廷尉卿となった。恒州刺史に拝命し、転じて懐朔鎮将となった。任地においては強力で事を成し遂げる者と称された。後に撫軍将軍、七兵尚書、北道行臺となった。死去し、使持節、 散騎常侍 さんきじょうじ 、車騎大将軍、左光禄大夫、華州刺史を追贈された。

長子の暄は、尚書郎の任にあった時に死去した。

暄の弟の穆は、華州別駕であった。

穆の弟の儉は、寧遠将軍、頓丘太守であった。建義初年、太府少卿に任ぜられた。まもなく華州中正となり、左将軍を加えられた。儉は元顥と旧知の間柄であり、顥が洛陽に入ると、その官職に任ぜられた。荘帝が宮中に帰還すると、これに連座して免官された。後に本官の将軍として潁州刺史となり、まもなく 散騎常侍 さんきじょうじ 、平南将軍を加えられたが、州が廃止されたため赴任しなかった。普泰初年、征南将軍、金紫光禄大夫に任ぜられた。永熙年間、本官の将軍として北雍州刺史に任ぜられたが、やがて関西に陥落した。

儉の弟の寛は、宗正丞から、建義初年に通直散騎侍郎となり、河南尹丞を兼ねた。やがて 散騎常侍 さんきじょうじ 、安東将軍に昇進した。永安二年、中軍将軍、太府卿に任ぜられた。後に 散騎常侍 さんきじょうじ 、驃騎将軍、右光禄大夫、澄城県開国伯となった。太昌初年、給事黄門侍郎に任ぜられ、まもなく驃騎大将軍を加えられ、華州大中正に任ぜられ、内典書事を監督した。事に連座して官を去った。永熙三年、武衛将軍を兼ね、また黄門郎に任ぜられた。出帝に従って関西に入った。儉と寛はともに軽薄で品行がなく、世間の人々から軽蔑された。

史評

史臣が言う。楊播兄弟は、ともに忠実で剛毅、謙虚で慎み深く、朝廷内外の重任を担い、公卿や州牧・郡守として、幾朝にもわたって栄光と権勢を極め、いわゆる門生故吏は天下に遍くいた。しかるに言葉や表情は恭しく、誠意から出ており、徳を敬い行いを慎み、世の模範となり、漢の万石君の家風や陳紀の家法も、これを超えるものではなかった。諸子は優れて立ち、高官が庭に満ちた。これは積善の余慶であろうか。胡人の逆賊が朝廷を専横し、淫刑をほしいままに毒を振るうに及んで、この一族がこのような禍に遭った。報いと施しの道理は、どうしてこのようになってしまったのか。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻58