魏書

卷55 游明根 劉芳

卷55 游明根 劉芳

游明根

原文游明根

游明根、字は志遠、広平郡任県の人である。祖父の鱓は、慕容熙の下で楽浪太守となった。父の幼は、馮跋により仮の広平太守に任じられた。和龍が平定されると、明根はようやく郷里に帰ることができた。游雅が彼を称揚して推薦したので、世祖(太武帝)は彼を抜擢して中書学生とした。性質は貞実で慎み深く寡欲であり、経典を広く習得した。恭宗(景穆帝)が国政を監理すると、公孫叡とともに主書となった。

原文游明根,字志遠,廣平任人也。祖鱓,慕容熙樂浪太守。父幼,馮跋假廣平太守。和龍平,明根乃得歸鄉里。游雅稱薦之,世祖擢為中書學生。性貞慎寡欲,綜習經典。及恭宗監國,與公孫叡俱為主書。

高宗(文成帝)が即位すると、都曹主書に転じ、安楽男の爵位と寧遠将軍の号を賜った。高宗はその小心敬慎な態度を、しばしば賞賛した。仮の員外散騎常侍・冠軍将軍・安楽侯に任じ、劉駿(宋の孝武帝)のもとに使者として派遣され、相手方の使者である明僧暠と応対した。前後三度往復し、駿は彼を長者と称え、迎送の礼は通常の使者以上であった。顕祖(献文帝)の初め、本官の将軍のまま東青州刺史として出向し、員外常侍を加えられた。散騎常侍・平東将軍・都督兗州諸軍事・瑕丘鎮将に転じ、まもなくそのまま東兗州刺史に任命され、爵位を新泰侯に改めた。政治は清廉公平で、新たに帰附した民も喜んで従った。

原文高宗踐阼,遷都曹主書,賜爵安樂男、寧遠將軍。高宗以其小心敬慎,每嗟美之。假員外散騎常侍、冠軍將軍、安樂侯,使於劉駿,直使明僧暠相對。前後三返,駿稱其長者,迎送之禮,有加常使。顯祖初,以本將軍出為東青州刺史,加員外常侍。遷散騎常侍、平東將軍、都督兗州諸軍事、瑕丘鎮將,尋就拜東兗州刺史,改爵新泰侯。為政清平,新民樂附。

高祖(孝文帝)の初め、朝廷に入って給事中となり、儀曹長に転じ、散騎常侍を加えられた。清廉で倹約し、恭順で慎み深く、その職にふさわしいと称された。後に王師が南征した際、詔により仮の安南将軍・儀曹尚書・広平公とされ、梁郡王元嘉とともに軍計の参謀を務めた。後に兗州の民が反乱したので、詔により明根が慰撫の任にあたった。南征の沔西・仇城・連口の三道の諸軍に対し、明根の節度に従うよう勅命が下された。都に戻り、尚書の正官となり、引き続き散騎常侍を加えられた。

原文高祖初,入為給事中,遷儀曹長,加散騎常侍。清約恭謹,號為稱職。後王師南討,詔假安南將軍、儀曹尚書、廣平公,與梁郡王嘉參謀軍計。後兗州民叛,詔明根慰喻。敕南征沔西、仇城、連口三道諸軍,禀明根節度。還都,正尚書,仍加散騎常侍。

詔により、蕭賾(南斉の武帝)との間で使者を絶って多年になるが、今通交すべきか否か、群臣を集めて会議した。尚書の陸叡は言った。「以前は三呉が安定せず、荊・梁に難があったため、一時的に停止したのであり、隙をうかがって動こうとしたのである。今、彼の地はすでに平定されたから、使者を通交させるのがよかろう」。明根は言った。「使者を中絶させたのは朝廷(北魏)の事であり、醴陽に深く城を築き、彼の境土を侵したのは、二、三の理屈からいって、まさに蕭賾にある。我らが今使者を遣わすのは、理にかなっている」。高祖はこれに従った。文明太后が崩御すると、群臣が固く公務への復帰を請うたが、高祖と明根はやり取りを重ねた。事柄は『礼志』にある。大鴻臚卿・河南王元幹の師傅に転じ、尚書はもとのままとした。定例により侯から伯に降格された。また律令の制定に参与し、たびたび正しい意見を進言した。

原文詔以與蕭賾絕使多年,今宜通否,羣臣會議。尚書陸叡曰:「先以三吳不靖,荊梁有難,故權停之,將觀釁而動。今彼方既靖,宜還通使。」明根曰:「中絕行人,是朝廷之事,深築醴陽,侵彼境土,二三之理,直在蕭賾。我今遣使,於理為長。」高祖從之。文明太后崩,羣臣固請公除,高祖與明根往復。事在〈禮志〉。遷大鴻臚卿、河南王幹師,尚書如故。隨例降侯為伯。又參定律令,屢進讜言。

明根は七十歳を超えたことを理由に、上表して致仕を求めた。詔は許さず、たびたび上表して固く請うたので、ついに詔して言った。「明根は風度が清廉で有能であり、志操は貞実で聡明、温かく恭しく静かで細やかであり、諮問を寄せるべき人物である。故にその高蹈の節操を抑えて再三に及んだ。上表の請いが懇切であるから、違えて奪うことはできず、すでにその告別を許した。前後の上表を外に付して、礼に従って施行せよ」。明根を引見し、高祖は言った。「卿は年老いて徳が盛んであり、幾朝にもわたって勤め、内外の職を歴任し、いずれも顕著な功績をあげ、老年に至るまで道を踏み行って変わることがなかった。それゆえ制度革新の始めに、礼の任を委ね、その才能と徳を待ち望み、朕を補佐させた。しかし高尚な志は悠遠であり、このようにして帰ろうと言う。君臣の礼はここで終わるが、その徳を慕い仁を思う情は、どうしてやむことがあろうか。七十歳で致仕するのは、典礼に称えられることである。高位にあって固く辞することは、賢者の節義を達することである。ただ末世の風俗は衰え、この道は継がれていない。卿ひとりが謙虚な操りを守り、今の世にありながら古の行いをなし、魏朝以来、初めて頽れた風俗を振るい起こした。進んでは我が朝の教化を輝かせ、退いては私門の栄誉と慰めとなるであろう」。明根は答えて言った。「臣は桑榆の年、時計の音が尽きるまで、陛下の恩沢により、首を全うすることができ、私邸で余生を過ごし、先帝と陛下の大恩に奉ずることは、臣の願いであります。ただ犬馬の慕情、悲しみに堪えません」。言って泣き、自らを制することができなかった。高祖は命じて進ませ、別れの言葉を懇ろにし、やはり涙を流した。青紗の単衣・委貌冠・被褥・錦袍などを賜った。

原文明根以年踰七十,表求致仕。詔不許,頻表固請,乃詔曰:「明根風度清幹,志尚貞敏,溫恭靜密,乞言是寄,故抑其高蹈之操,至于再三。表請殷勤,不容違奪,便已許其告辨。可出前後表付外,依禮施行。」引明根入見,高祖曰:「卿年耆德茂,服勤累朝,歷職內外,並著顯績,逮于耆老,履道不渝,是以釐革之始,委以禮任,遲能迂德,匡贊於朕。然高尚悠邈,便爾言歸,君臣之禮,於斯而畢,眷德思仁,情何可已。夫七十致仕,典禮所稱;位隆固辭,賢者達節。但季俗陵遲,斯道弗繼。卿獨秉冲操,居今行古,有魏以來,首振頹俗,進可以光我朝化,退可以榮慰私門。」明根對曰:「臣桑榆之年,鍾鳴漏盡,蒙陛下之澤,首領獲全,待盡私庭,下奉先帝陛下大恩,臣之願也。但犬馬之戀,不勝悲塞。」因泣不自勝。高祖命之令進,言別殷勤,仍為流涕。賜青紗單衣、委貌冠、被褥、錦袍等物。

その年、司徒の尉元を三老とし、明根を五更として、辟雍で礼を行った。言葉は尉元の伝にある。歩挽車一乗を賜い、上卿の禄を与え、供される食事の味は、太官が邸に月ごとに送った。律令制定の功労により、布帛一千匹・穀一千斛を賜った。後に明根が広平に帰るとき、絹五百匹・安車一乗・馬二匹・幄帳被褥を賜った。車駕が鄴に行幸した際、明根は行宮に朝見した。詔して言った。「游五更は光りある素質を持ちながら蓬の簷にあり、衡門の里に帰って終わる。まさに朝の旧徳、国の老成と言えよう。帛五百匹・穀五百斛を賜うべし」。太官に命じて珍しい料理を備えて送らせた。後に車駕が鄴に行幸した際、また行宮に朝見し、前と同じように穀帛を賜り、甲第を造営して与えられた。国家に大事があるときは、常に璽書をもって意見を求めた。旧病が発作すると、手詔で病状を問い、太医が薬を送った。太和二十三年、家で卒去した。八十一歳。世宗(宣武帝)は使者を遣わして弔祭させ、賻として銭十万・絹三百匹・布二百匹を贈り、光禄大夫を追贈し、金章紫綬を加え、諡して靖侯とした。

原文其年,以司徒尉元為三老,明根為五更,行禮辟雍。語在元傳。賜步挽一乘,給上卿之祿,供食之味,太官就第月送之。以定律令之勤,賜布帛一千匹、穀一千斛。後明根歸廣平,賜絹五百匹、安車一乘、馬二匹、幄帳被褥。車駕幸鄴,明根朝于行宮。詔曰:「游五更光素蓬簷,歸終衡里,可謂朝之舊德,國之老成。可賜帛五百匹、穀五百斛。」敕太官備送珍羞。後車駕幸鄴,又朝行宮,賜穀帛如前,為造甲第。國有大事,恒璽書訪之。舊疹發動,手詔問疾,太醫送藥。太和二十三年卒於家,年八十一。世宗遣使弔祭,賻錢一十萬、絹三百匹、布二百匹,贈光祿大夫,加金章紫綬,諡靖侯。

明根は内外の官を歴任すること五十余年、身を処するには仁和をもってし、物に接するには礼譲をもってしたので、当時の論は彼を貴んだ。高祖の初め、明根と高閭は儒者として老成の学業により、特に礼遇され、公私の出入りには常に互いに追随したが、高閭は才筆をもって時に明根を侮り、世に高・游と称された。子の肇が爵位を継いだ。

原文明根歷官內外五十餘年,處身以仁和,接物以禮讓,時論貴之。高祖初,明根與高閭以儒老學業,特被禮遇,公私出入,每相追隨,而閭以才筆時侮明根,世號高、游焉。子肇襲爵。

肇、字は伯始、高祖が名を賜ったものである。幼くして中書学生となり、経史および蒼頡篇・爾雅・林説に広く通じた。高祖の初め、内祕書侍御中散となった。司州が初めて建てられると、都官從事に任じられ、通直郎・祕閣令に転じ、散騎侍郎・典命中大夫に遷った。車駕が南伐しようとしたとき、肇は上表して諫めて止めさせようとしたが、高祖は聞き入れなかった。まもなく太子中庶子に遷った。

原文肇,字伯始,高祖賜名焉。幼為中書學生,博通經史及蒼、雅、林說。高祖初,為內祕書侍御中散。司州初建,為都官從事,轉通直郎、祕閣令,遷散騎侍郎、典命中大夫。車駕南伐,肇上表諫止,高祖不納。尋遷太子中庶子。

肇は謙虚で質素、篤実で重厚であり、文雅をもって任用された。父が年老いたため、官を解いて扶養することを請うた。高祖は禄を以て養わせようと望み、本州の南安王元楨の鎮北府長史として出向させ、魏郡太守を兼ねさせた。王が薨じると、再び高陽王元雍の鎮北府長史となり、太守はもとのままとした。政治は清廉で簡素であり、補佐を加えたので、二王に歴任して輔佐し、非常に名声と実績があった。数年後、父の喪により官を解任した。

原文肇謙素敦重,文雅見任。以父老,求解官扶侍。高祖欲令遂祿養,乃出為本州南安王楨鎮北府長史,帶魏郡太守。王薨,復為高陽王雍鎮北府長史,太守如故。為政清簡,加以匡贊,歷佐二王,甚有聲迹。數年,以父憂解任。

景明の末、廷尉少卿に徴されたが、固く辞したので、黄門侍郎を授けられた。散騎常侍に遷り、黄門侍郎はもとのままとした。侍中を兼ね、畿内大使となり、善悪を罷免・登用し、賞罰を分明にした。太府卿に転じ、廷尉卿に移り、御史中尉を兼ね、黄門侍郎はもとのままとした。肇は儒者であり、行動には名教を存し、厳正に糾弾するものは、風俗を傷つけ敗るものではなかった。法を執るのは仁愛公平であり、獄を断ずるには哀れみと寛恕を務めた。尚書令の高肇は世宗の舅であり、百官を畏怖させていたが、肇の名が自分と同じであるため、改めさせようとした。肇は高祖の賜った名であるとして、志を守って許さず、高肇はこれを非常に恨んだ。世宗はその剛直な気骨を称えた。

原文景明末,徵為廷尉少卿,固辭,乃授黃門侍郎。遷散騎常侍,黃門如故。兼侍中,為畿內大使,黜陟善惡,賞罰分明。轉太府卿,徙廷尉卿,兼御史中尉,黃門如故。肇,儒者,動存名教,直繩所舉,莫非傷風敗俗。持法仁平,斷獄務於矜恕。尚書令高肇,世宗之舅,為百僚懾憚,以肇名與己同,欲令改易。肇以高祖所賜,秉志不許,高肇甚銜之。世宗嘉其剛梗。

盧昶が朐山にいたとき、肇は諫めて言った。「朐山は小さな地で、海辺に僻在し、山や湖は低湿で、民が居住するところではない。我々にとっては急務ではなく、賊にとっては利益となる。利益となるから、必ず死力を尽くして争うであろう。急務ではないから、やむを得ず戦うのである。やむを得ない兵衆をもって、必死の師団を撃つのは、年月を引き延ばし、費用が甚だしくなることを恐れる。仮に朐山を得たとしても、徒らに争いを招き、結局は全うして守るのは難しく、いわゆる益のない田である。賊がたびたび宿豫をもって朐山と交換しようとしていることを知る。臣の愚見では、この言葉は許容できると思う。朐山は久しく危険な弊害を防いでいるので、速やかに審議すべきである。もし必ずこうするならば、宿豫は征伐しなくても自然に降伏するであろう。この無用の地を持ち、あの旧来の疆土を取り戻し、兵役を時に解くこと、その利益は大きい」。世宗はこれに従おうとしたが、まもなく盧昶が敗れた。

原文盧昶之在朐山也,肇諫曰:「朐山蕞爾,僻在海濱,山湖下墊,民無居者,於我非急,於賊為利。為利,故必致死而爭之;非急,故不得已而戰。以不得已之眾,擊必死之師,恐稽延歲月,所費遂甚。假令必得朐山,徒致交爭,終難全守,所謂無益之田也。知賊將屢以宿豫求易朐山,臣愚謂此言可許。朐山久捍危弊,宜速審之。若必如此,宿豫不征而自伏。持此無用之地,復彼舊有之疆,兵役時解,其利為大。」世宗將從之,尋而昶敗。

侍中に遷る。蕭衍の軍主徐玄明がその青冀二州刺史張稷の首を斬り、郁洲を以て内附したので、朝議は兵を遣わして赴援せんとした。肇が上表して曰く、「玄明の款誠は、急ぎ救援すべきではあるが、然るに事には損益があり、或いは挙兵を憚って功多く、或いは小事より患いを生ずることもあり、必ずしも然りとは限らない。今、六里・朐山は、地は実に海に接し、陂湖は下濕にして、人は住むべからず。郁洲はまた海中にあり、所謂石田を得ると雖も、終に用いる所無きが如し。若し連口を得ずば、六里は克つと雖も、尚お守るべからず、況んや方に兵を連ねる事に従い、而して非要を争わんとするに於いてをや。且つ六里は賊にとっては愈よ要地であり、此れよりは閑遠である。若し閑遠の兵を以て、逼近の衆を攻めれば、其の勢既に殊にして、敵すべからず。災害と凶作の年、百姓は飢え弊れ、餓死者もまた少なくない。何を以てか宜しく静かなる時に、干戈の役を興えんとするのか。軍糧の資運は、取って済う所無し。唯だ其の損を見るのみで、未だ其の益を覩ず。且つ新たに附した民は、教化に服するも猶お近く、特に安帖を須い、労すべからず。労すれば則ち怨み生じ、怨み生ずれば則ち叛くことを思い、叛くことを思えば則ち自ら安からず、安からざれば則ち擾動す。もし然らば、則ち連兵は解け難し。事は軽んずべからず。宜しく此の小利を損じ、大損をさせざるべし。」と。世宗は併せて納れなかった。

原文遷侍中。蕭衍軍主徐玄明斬其青冀二州刺史張稷首,以郁洲內附,朝議遣兵赴援。肇表曰:「玄明之款,雖奔救是當,然事有損益,或憚舉而功多,或因小而生患,不可必也。今六里、朐山,地實接海,陂湖下濕,人不可居。郁洲又在海中,所謂雖獲石田,終無所用。若不得連口,六里雖克,尚不可守,況方事連兵,而爭非要也。且六里於賊逾要,去此閑遠。若以閑遠之兵,攻逼近之眾,其勢既殊,不可敵也。災儉之年,百姓飢弊,餓死者亦復不少。何以得宜靜之辰,興干戈之役?軍糧資運,取濟無所。唯見其損,未覩其益。且新附之民,服化猶近,特須安帖,不宜勞之。勞則怨生,怨生則思叛,思叛則不自安,不安則擾動。脫爾,則連兵難解。事不可輕。宜損茲小利,不使大損。」世宗並不納。

大将軍高肇が蜀を伐たんとした時、肇は諫めて曰く、「臣聞く、遠人服さざれば、則ち文徳を修めて以て之を来たすと。兵は凶器なり、已むを得ずして後に用う。当今の治めは太平と雖も、征伐を論ずるは未だ可ならず。何となれば、山東・関右は、残傷未だ復せず、頻年水旱あり、百姓空虚なり。宜しく安静に在るべく、労役すべからず。然れども往昔の開拓は、皆城主の帰款に因りたる故に、征有りて戦無し。今の拠る者は、官号を仮ると雖も、真偽分ち難く、或いは彼に怨み有りて、全く信ずべからず。且つ蜀地は険隘にして、古より称えられ、鎮戍は晏然として、更に異趣無し。豈に虚しく浮説を承けて、大軍を動かすべけんや。挙げて始めを慎まざれば、悔い将に何ぞ及ばんとする。蜀を討つ略は、願わくは後図を俟たん。」と。世宗はまた納れなかった。

原文大將軍高肇伐蜀,肇諫曰:「臣聞:遠人不服,則修文德以來之。兵者凶器,不得已而後用。當今治雖太平,論征未可。何者?山東、關右,殘傷未復,頻年水旱,百姓空虛,宜在安靜,不宜勞役。然往昔開拓,皆因城主歸款,故有征無戰。今之據者,雖假官號,真偽難分,或有怨於彼,不可全信。且蜀地險隘,稱之自古,鎮戍晏然,更無異趣,豈得虛承浮說,而動大軍。舉不慎始,悔將何及!討蜀之略,願俟後圖。」世宗又不納。

粛宗即位すると、中書令・光禄大夫に遷り、金章紫綬を加えられ、相州大中正となる。出でて使持節・散騎常侍・鎮東将軍・相州刺史と為り、恵政有り。徴されて太常卿と為り、尚書右僕射に遷るが、固く辞し、詔も許さず。肇は吏事に於いて、断決速やかならず。主事者が諮呈すれば、反覆論叙し、時に曉らざれば、再三に及び、必ず其の理を窮めて、然る後に下筆す。寵勢の干請有りと雖も、終に回撓無し。方正の操、時人之に服す。及んで領軍元叉が霊太后を廃し、将に太傅・清河王懌を害せんとし、乃ち公卿を集めて会議するに、時に群官は色を失い旨に順わざる者無かりしが、肇独り抗言して不可と為し、終に署せず。正光元年八月卒す。年六十九。詔して東園秘器・朝服一襲を給し、賵帛七百匹を賜う。粛宗は朝堂に於いて哀を挙ぐ。使持節・散騎常侍・驃騎大将軍・儀同三司・冀州刺史を贈られ、諡して文貞公と曰う。

原文肅宗即位,遷中書令、光祿大夫,加金章紫綬,相州大中正。出為使持節,加散騎常侍、鎮東將軍、相州刺史,有惠政。徵為太常卿,遷尚書右僕射,固辭,詔不許。肇於吏事,斷決不速。主者諮呈,反覆論叙,有時不曉,至於再三,必窮其理,然後下筆,雖寵勢干請,終無回撓。方正之操,時人服之。及領軍元叉之廢靈太后,將害太傅、清河王懌,乃集公卿會議其事。於時羣官莫不失色順旨,肇獨抗言以為不可,終不下署。正光元年八月卒,年六十九。詔給東園祕器、朝服一襲,賵帛七百匹。肅宗舉哀於朝堂。贈使持節、散騎常侍、驃騎大將軍、儀同三司、冀州刺史,諡文貞公。

肇は外は寛柔、内は剛直にして、経伝を耽好し、手は書を釋かず。周易・毛詩を治め、特に三礼に精しい。易集解を為し、冠婚儀・白珪論を撰し、詩賦表啓凡そ七十五篇、皆世に伝わる。謙廉にして競わず、曾て儒碁を撰して、以て其の志を表す。清貧寡欲、資は俸禄を仰ぐのみ。肇が廷尉たりし時、世宗嘗て私に肇に敕し、降恕すべき所有り。肇は執して従わず、曰く、「陛下自ら能く之を恕す。豈に臣をして曲筆せしむるに足らんや」と。其の執意此の如し。及んで粛宗の初め、近侍の群官で奉迎に預かりし者は、侍中崔光以下並びに封邑を加えられ、時に肇を文安県開国侯に封じ、邑八百戸とす。肇独り曰く、「子が父の位を襲ぐは、今古の常なり。此れに因りて封を獲ば、何を以てか自ら処せん」と。固く辞して応ぜず。論者之を高しとす。

原文肇外寬柔,內剛直,耽好經傳,手不釋書。治周易、毛詩,尤精三禮。為易集解,撰冠婚儀、白珪論,詩賦表啟凡七十五篇,皆傳於世。謙廉不競,曾撰儒碁,以表其志焉。清貧寡欲,資仰俸祿而已。肇之為廷尉也,世宗嘗私敕肇,有所降恕。肇執而不從,曰:「陛下自能恕之,豈足令臣曲筆也!」其執意如此。及肅宗初,近侍羣官豫在奉迎者,自侍中崔光已下並加封邑,時封肇文安縣開國侯,邑八百戶。肇獨曰:「子襲父位,今古之常,因此獲封,何以自處?」固辭不應。論者高之。

子の祥、字は宗良、頗る学有り。秘書郎を歴任し、爵を新泰伯に襲ぐ。通直郎・国子博士に遷り、尚書郎中を領す。粛宗は肇が昔文安の封を辞したるに因り、復た祥を封ぜんと欲す。祥は其の父の意を守り、卒亦受けず。又肇が前に清河王の議に於いて、正を守り屈せざりしを追論し、乃ち祥を高邑県開国侯に封じ、邑七百戸とす。孝昌元年卒す。年三十六。征虜将軍・給事黄門侍郎・幽州刺史を贈られ、諡して文と曰う。

原文子祥,字宗良,頗有學。歷祕書郎,襲爵新泰伯。遷通直郎、國子博士,領尚書郎中。肅宗以肇昔辭文安之封,復欲封祥,祥守其父意,卒亦不受。又追論肇前議清河,守正不屈,乃封祥高邑縣開國侯,邑七百戶。孝昌元年卒,年三十六。贈征虜將軍、給事黃門侍郎、幽州刺史,諡曰文。

子の皓、字は賓多、爵を襲ぐ。侍御史。早卒。

原文子皓,字賓多,襲。侍御史。早卒。

皓の弟安居、爵を新泰伯に襲ぐ。武定中、司空墨曹参軍。斉が禅を受けると、爵は例に従い降る。

原文皓弟安居,襲爵新泰伯。武定中,司空墨曹參軍。齊受禪,爵例降。

明根の叔父矯、中書博士、濮陽・鉅鹿二郡太守。卒し、冠軍将軍・相州刺史を贈られる。

原文明根叔父矯,中書博士,濮陽、鉅鹿二郡太守。卒,贈冠軍將軍、相州刺史。

矯の孫馥、国子博士。

原文矯孫馥,國子博士。

馥の弟思進、尚書郎中。

原文馥弟思進,尚書郎中。

劉芳

原文劉芳

劉芳、字は伯文、彭城の人なり、漢の楚元王の後なり。六世祖の訥、晋の司隸校尉。祖の該、劉義隆の征虜将軍・青徐二州刺史。父の邕、劉駿の兗州長史。

原文劉芳,字伯文,彭城人也,漢楚元王之後也。六世祖訥,晉司隸校尉。祖該,劉義隆征虜將軍、青徐二州刺史。父邕,劉駿兗州長史。

芳は伯父遜之の後を出づ。遜之は劉駿の東平太守なり。邕は劉義宣の事に与し、身は彭城に死す。芳は伯母の房に随い青州に逃竄し、赦に会い免る。舅の元慶、劉子業の青州刺史沈文秀の建威府司馬と為り、文秀に殺さる。芳母子は梁鄒城に入る。慕容白曜が南討して青斉を攻むるに、梁鄒降り、芳は北に徙められ平斉民と為る。時に年十六。南部尚書李敷の妻は、司徒崔浩の弟の女なり。芳の祖母は、浩の姑なり。芳は京師に至り、敷の門に詣る。崔は芳の流播を恥じ、拒み見えず。芳は窮窘の中に処ると雖も、而して業尚は貞固、聡敏人に過ぎ、篤志して墳典に耽る。昼は則ち傭書して以て自ら資給し、夜は則ち読誦し、終夕寝ず、衣を易え日を併せるの弊有るに至るも、而して澹然自ら守り、栄利に汲汲せず、賤貧に慼慼せず、乃ち窮通論を著して以て自ら慰む。

原文芳出後伯父遜之,遜之,劉駿東平太守也。邕同劉義宣之事,身死彭城。芳隨伯母房逃竄青州,會赦免。舅元慶,為劉子業青州刺史沈文秀建威府司馬,為文秀所殺。芳母子入梁鄒城。慕容白曜南討青齊,梁鄒降,芳北徙為平齊民,時年十六。南部尚書李敷妻,司徒崔浩之弟女;芳祖母,浩之姑也。芳至京師,詣敷門,崔耻芳流播,拒不見之。芳雖處窮窘之中,而業尚貞固,聰敏過人,篤志墳典。晝則傭書,以自資給,夜則讀誦,終夕不寢,至有易衣併日之弊,而澹然自守,不汲汲於榮利,不慼慼於賤貧,乃著窮通論以自慰焉。

劉芳は常に諸僧のために経論を書き写す傭筆を務め、筆跡が善しと称され、一巻の代価として絹一疋を得、一年の内に百余疋を収入とし、このように数十年にわたり、これによって家計を大いに振るわしめた。これにより徳学高い大僧と多く往来するようになった。時に南方の沙門恵度が事により責められ、間もなく暴死したが、劉芳はその縁故により関知し、文明太后は彼を禁中に召し入れ、百鞭の刑を加えた。時に中官の李豊がその始末を主宰し、劉芳が篤学で志操行いに優れることを知り、太后にこれを言上すると、太后は内心やや慚愧の念を抱いた。折しも蕭賾の使者劉纘が到来したが、彼は劉芳の族兄であったので、劉芳を兼主客郎に抜擢し、劉纘と応接させた。まもなく中書博士に任じられた。後に崔光、宋弁、邢産らと共に中書侍郎となり、間もなく詔により劉芳と邢産は皇太子に経書を教授することとなり、太子庶子・兼員外散騎常侍に転じた。洛陽への行幸に従駕し、道中より京師に帰還するまで、常に侍坐して講読に当たった。劉芳は才思深敏にして特に経義に精通し、博聞強記で蒼頡篇・爾雅をも兼ね覧く、特に音訓に長け、疑わしきを辨析することに迷いがなかった。ここにおいて礼遇日増しに厚く、賞賜も豊かであり、正員の員外散騎常侍に任じられた。まもなく通直常侍を兼ね、南巡に従駕し、行幸の事跡を撰述し、間もなく正員に除された。王肅が奔来した時、高祖は大いに彼を器重し、朝野の注目を集めた。劉芳はまだ彼と相見える機会がなかった。高祖が華林で群臣を宴した時、王肅が語の次に『古えは唯だ婦人のみに笄あり、男子には則ち無し』と言うと、劉芳は『経礼の正文を推すに、古えは男子婦人ともに笄あり』と言った。王肅は『喪服に男子は免(べん)にして婦人は髽(さ)、男子は冠にして婦人は笄と称す。かくの如くならば、男子は笄あるべからず』と言う。劉芳は『これは専ら凶事を謂うなり。礼に、初めて喪に遭う時、男子は免し、時に則ち婦人は髽す;男子が冠する時、則ち婦人は笄す。ともに時に応じて変ずることを言い、而して男子婦人の免髽・冠笄の同じからざるなり。また冠は尊く、故にその笄の称を奪う。且つ互いに言うなり、男子に笄無しと謂うに非ず。また礼内則に「子、父母に事うるに、鶏初めて鳴き、櫛纚(しつし)し笄総(けいそう)す」と称す。これによりて言えば、男子に笄あること明らかなり』と言った。高祖は久しく善しと称じた。王肅もまた劉芳の言を然りとし、『これは劉石経に非ずや』と言った。昔、漢代に太学に三字石経を造り、学者の文字正しからざるもの多く往きて質した。劉芳は音義明辨にして、疑う者は皆往きて詢訪したので、時に人は劉石経と号した。酒宴が終わり、劉芳と王肅は共に出ると、王肅は劉芳の手を執りて『吾れ少より三礼に留意し、南に在りし諸儒と屡々共に討論すれども、皆この義は吾が向に言うが如しと謂えり。今往きて釈するを聞き、頓に平生の惑を袪(のぞ)く』と言った。劉芳の理義精通は、多くこの類いであった。

原文芳常為諸僧傭寫經論,筆迹稱善,卷直以一縑,歲中能入百餘匹,如此數十年,賴以頗振。由是與德學大僧,多有還往。時有南方沙門惠度以事被責,未幾暴亡,芳因緣關知,文明太后召入禁中,鞭之一百。時中官李豐主其始末,知芳篤學有志行,言之於太后,太后微愧於心。會蕭賾使劉纘至,芳之族兄也,擢芳兼主客郎,與纘相接。尋拜中書博士。後與崔光、宋弁、邢產等俱為中書侍郎,俄而詔芳與產入授皇太子經,遷太子庶子、兼員外散騎常侍。從駕洛陽,自在路及旋京師,恒侍坐講讀。芳才思深敏,特精經義,博聞強記,兼覽蒼、雅,尤長音訓,辨析無疑。於是禮遇日隆,賞賚豐渥,正除員外散騎常侍。俄兼通直常侍,從駕南巡,撰述行事,尋而除正。王肅之來奔也,高祖雅相器重,朝野屬目。芳未及相見。高祖宴羣臣於華林,肅語次云「古者唯婦人有笄,男子則無」。芳曰:「推經禮正文,古者男子婦人俱有笄。」肅曰:「喪服稱男子免而婦人髽,男子冠而婦人笄。如此,則男子不應有笄。」芳曰:「此專謂凶事也。禮:初遭喪,男子免,時則婦人髽;男子冠,時則婦人笄。言俱時變,而男子婦人免髽、冠笄之不同也。又冠尊,故奪其笄稱。且互言也,非謂男子無笄。又禮內則稱:『子事父母,雞初鳴,櫛纚笄總。』以茲而言,男子有笄明矣。」高祖稱善者久之。肅亦以芳言為然,曰:「此非劉石經邪?」昔漢世造三字石經於太學,學者文字不正,多往質焉。芳音義明辨,疑者皆往詢訪,故時人號為劉石經。酒闌,芳與肅俱出,肅執芳手曰:「吾少來留意三禮,在南諸儒,亟共討論,皆謂此義如吾向言,今聞往釋,頓袪平生之惑。」芳理義精通,類皆如是。

高祖が洛陽に遷都する途次、朝歌を経由し、殷の比干の墓を見て愴然として懐いを悼み、文を為してこれを弔った。劉芳がこれに注解を加え、表を奉って上奏した。詔して曰く『卿の注を覧るに、殊に富博なり。但だ文は屈宋に非ず、理は張賈に慚ず。既に雅致あれば、便ちこれを集書に付すべし』。詔して劉芳の経学精洽なるを以て、国子祭酒に超遷させた。母憂により官を去った。高祖が宛鄧を南征するに当たり、輔国将軍・太尉長史として起用され、太尉咸陽王元禧に従って南陽を攻めた。蕭鸞の将裴叔業が徐州に侵入寇掠すると、疆埸の民は去就に心を動かす者が多く、高祖これを憂え、劉芳を散騎常侍・国子祭酒・徐州大中正とし、徐州の事務を行わせた。侍中を兼ねるよう転じ、馬圈征討に従軍した。高祖は行宮において崩御した。世宗が即位すると、劉芳は手ずから袞冕を加えた。高祖の襲斂より啓祖・山陵・練除に至るまで、始末の喪事は皆劉芳が撰定した。咸陽王元禧らが遺旨を奉じて申し上げ、劉芳に世宗に経書を教授させることを命じた。南徐州刺史沈陵が外叛し、徐州に大水が起こると、劉芳を派遣して撫慰賑恤させた。まもなく正侍中とし、祭酒・中正は並びに元の如くとした。

原文高祖遷洛,路由朝歌,見殷比干墓,愴然悼懷,為文以弔之。芳為注解,表上之。詔曰:「覽卿注,殊為富博。但文非屈宋,理慚張賈。既有雅致,便可付之集書。」詔以芳經學精洽,超遷國子祭酒。以母憂去官。高祖南征宛鄧,起為輔國將軍、太尉長史,從太尉、咸陽王禧攻南陽。蕭鸞將裴叔業入寇徐州,疆埸之民,頗懷去就,高祖憂之,以芳為散騎常侍、國子祭酒、徐州大中正,行徐州事。徙兼侍中,從征馬圈。高祖崩於行宮。及世宗即位,芳手加兗冕。高祖自襲斂暨于啟祖、山陵、練除,始末喪事,皆芳撰定。咸陽王禧等奉申遺旨,令芳入授世宗經。及南徐州刺史沈陵外叛,徐州大水,遣芳撫慰賑恤之。尋正侍中,祭酒、中正並如故。

劉芳は上表して曰く『国を為す者は、儒を崇め道を尊ばざるはなく、学校を先とする。誠に政に質文有るも、この範は易えず、まことに万端の資始、衆務の法を禀(う)くるによるなり。唐虞以前は典籍に拠る所無く、隆周以降は任は虎門に居す。周礼大司楽に云う「師氏、㜫(び)を以て王に詔(つ)ぐるを掌る。虎門の左に居り、王朝に司(つかさど)り、国中失の事を掌り、以て国子弟を教う」。蔡氏の勧学篇に云う「周の師氏、虎門の左に居り、六芸を敷陳し、以て国子を教う」。今の祭酒は即ち周の師氏なり。洛陽記に国子学官は天子の宮と対し、太学は開陽門の外に在りと。案ずるに学記に云う「古の王者、国を建て民に親しむに、教学を先とす」。鄭氏の注に云う「内則には師保を設けて教え、国子をして学ばしめ、外則には太学・庠序の官有り」。これによりて言えば、国学は内に在り、太学は外に在り、明らかなり。案ずるに洛陽記の如きは、なお模倣の像有り。臣愚かには謂う、今既に県を崧瀍に徙し、皇居は伊洛に在り、宮闕府寺は皆旧趾に復す。国学に至っては、豈に舛替すべけんや。旧事を校量すれば、宮門の左に在るべし。太学に至っては、基址炳然として在り、旧に仍りて営構すべし。また去る太和二十年に、勅を発して四門博士を立て、四門に学を置く。臣案ずるに、周代以上は学は唯だ二つを以てし、或いは西を尚び、或いは東を尚び、或いは国に在るを貴び、或いは郊に在るを貴ぶ。爰に周室に至りては、学蓋し六つ有り。師氏は内に居り、太学は国に在り、四小は郊に在り。礼記に周人は「庶老を虞庠に養う。虞庠は国の四郊に在り」と云い、礼また云う「天子四学を設け、当に入学して太子歯す」。注に云う「四学は、周四郊の虞庠なり」。案ずるに大戴礼保傅篇に云う「帝東学に入れば、親を尚びて仁を貴ぶ;帝南学に入れば、歯を尚びて信を貴ぶ;帝西学に入れば、賢を尚びて徳を貴ぶ;帝北学に入れば、貴を尚びて爵を尊ぶ;帝太学に入れば、師を承けて道を問う」。周の五学は、ここに弥(いよいよ)彰かなり。案ずるに鄭注学記に、周は則ち六学なり。然る所以は、注に云う「内則には師保を設けて教え、国子をして学ばしめ、外則には太学・庠序の官有り」。これ其の証なり。漢魏以降は、復た四郊無し。謹んで先旨を尋ぬれば、宜しく四門に在るべし。案ずるに王肅の注に云う「天子四郊に学有り、王都を去ること五十里」。これを鄭氏に考うるに、遠近を云わず。今太学の故坊は基趾寛曠にして、四郊に別置すれば相去ること遼闊、検督難く周し。計るに太学坊に並びて四門を作るも、猶お太だ広し。臣愚か量るに、同処にては嫌い無し。且つ今の時制置くは多く中代に循う。未だ審らかにせず、四学は古に従うべきか否かを。名儒礼官を集めて、其の定むる所を議せんことを求む』。これに従った。

原文芳表曰:「夫為國家者,罔不崇儒尊道,學校為先,誠復政有質文,茲範不易,諒由萬端資始,眾務禀法故也。唐虞已往,典籍無據;隆周以降,任居虎門。周禮大司樂云:『師氏,掌以㜫詔王。居虎門之左,司王朝,掌國中失之事,以教國子弟。』蔡氏勸學篇云:『周之師氏,居虎門左,敷陳六藝,以教國子。』今之祭酒,即周師氏。洛陽記:國子學官與天子宮對,太學在開陽門外。案學記云:『古之王者,建國親民,教學為先。』鄭氏注云:『內則設師保以教,使國子學焉,外則有太學、庠序之官。』由斯而言,國學在內,太學在外,明矣。案如洛陽記,猶有仿像。臣愚謂:今既徙縣崧瀍,皇居伊洛,宮闕府寺,僉復故趾,至於國學,豈可舛替?校量舊事,應在宮門之左。至如太學,基所炳在,仍舊營構。又去太和二十年,發敕立四門博士,於四門置學。臣案:自周已上,學惟以二,或尚西,或尚東,或貴在國,或貴在郊。爰暨周室,學蓋有六。師氏居內,太學在國,四小在郊。禮記云周人『養庶老於虞庠,虞庠在國之四郊』,禮又云:『天子設四學,當入學而太子齒。』注云:『四學,周四郊之虞庠也。』案大戴保傅篇云:帝入東學,尚親而貴仁;帝入南學,尚齒而貴信;帝入西學,尚賢而貴德;帝入北學,尚貴而尊爵;帝入太學,承師而問道。周之五學,於此彌彰。案鄭注學記,周則六學。所以然者,注云:『內則設師保以教,使國子學焉,外則有太學、庠序之官。』此其證也。漢魏已降,無復四郊。謹尋先旨,宜在四門。案王肅注云:『天子四郊有學,去王都五十里。』考之鄭氏,不云遠近。今太學故坊,基趾寬曠,四郊別置,相去遼闊,檢督難周。計太學坊并作四門,猶為太廣。以臣愚量,同處無嫌。且今時制置,多循中代,未審四學應從古不?求集名儒禮官,議其定所。」從之。

中書令に転じ、祭酒は元の如く。安東将軍・青州刺史として出向した。為政は儒緩にして、姦盗を禁止すること能わず、廉清寡欲にして公私を犯すこと無し。朝廷に還り、律令を議定した。劉芳は古今を斟酌し、大議の主となり、その中の損益は多く劉芳の意によるものであった。世宗は朝儀に欠けるところ多いを以て、その一切の諸議を悉く劉芳に委ねて修正させた。ここにおいて朝廷の吉凶大事は皆彼に諮訪することとなった。

原文遷中書令,祭酒如故。出除安東將軍、青州刺史。為政儒緩,不能禁止姦盜,廉清寡欲,無犯公私。還朝,議定律令。芳斟酌古今,為大議之主,其中損益,多芳意也。世宗以朝儀多闕,其一切諸議,悉委芳修正。於是朝廷吉凶大事皆就諮訪焉。

太常卿に転ず。劉芳は設置された五郊及び日月の位が、城里を去ること数里、礼に違うこと、また霊星・周公の祀が太常に隷すべきでないことを以て、上疏して曰く。

原文轉太常卿。芳以所置五郊及日月之位,去城里數於禮有違,又靈星、周公之祀,不應隸太常,乃上疏曰:

詔して曰く『上る所は乃ち明らかな拠り有り。但だ先朝置立すること已久しく、且つ旧に従うべし』。

原文詔曰:「所上乃有明據,但先朝置立已久,且可從舊。」

先に、高祖(北魏孝文帝)が代都において中書監高閭・太常少卿陸琇および公孫崇ら十余人に命じて金石および八音の楽器を修復させた。後に崇が太楽令となると、尚書僕射高肇に上奏して共に管理するよう請うた。世宗(宣武帝)は劉芳に共同で主管するよう詔した。芳は上表して礼楽の事は重大であり、軽々に決定すべきでないとし、公卿を広く招き、儒学者を多く集め、得失を討論し、是非を究明しなければ、万世に伝える不朽の規範とはなり得ないと述べた。詔により許可され、数十日の間に三度も議論が重ねられた。当時、朝臣たちは崇が長く専管してきたので誤りがあるはずがないと考え、それぞれ黙して論を発する者はいなかった。芳は経典や古い記録を引き合いに出し、旧来の文献を探し集めて互いに質疑応答し、いずれも明確な根拠を示して、崇の説には過不足があり典拠に合わないと論じた。崇は一応応答は示したが、問いの意図を理解せず、結局自説を通すことができなかった。尚書が上奏し、改めて芳に別途考証させると詔され、これにより学者たちはますます芳を宗仰するようになった。

原文先是,高祖於代都詔中書監高閭、太常少卿陸琇并公孫崇等十餘人修理金石及八音之器。後崇為太樂令,乃上請尚書僕射高肇,更共營理。世宗詔芳共主之。芳表以禮樂事大,不容輒決,自非博延公卿,廣集儒彥,討論得失,研窮是非,則無以垂之萬葉,為不朽之式。被報聽許,數旬之間,頻煩三議。于時,朝士頗以崇專綜既久,不應乖謬,各默然無發論者。芳乃探引經誥,搜括舊文,共相難質,皆有明據,以為盈縮有差,不合典式。崇雖示相酬答,而不會問意,卒無以自通。尚書述奏,仍詔委芳別更考制,於是學者彌歸宗焉。

芳は社稷に樹木がないことを理由に、また上疏して言った。「合朔の儀礼の規定によれば、日食の変異がある時は朱色の糸で縄を作り、社の樹を三周り巻くことになっている。しかし現在は樹木がない。また周礼の司徒職には、『其の社稷の壝を設け、之に田主を樹つ。各其の社の宜しき木に従う』とある。鄭玄の注に、『宜しき木とは、松・柏・栗の類をいう』とある。これが第一の証拠である。また小司徒の封人職には、『王の社壝を設けることを掌り、畿封のために之を樹つ』とある。鄭玄の注に、『稷を言わないのは、王は社を主とし、稷は社の細かいものだからである』とある。これが第二の証拠である。また論語に、『哀公、社を宰我に問う。宰我対えて曰く、夏后氏は松を以てし、殷人は柏を以てし、周人は栗を以てす』とある。これは土地に適したものである。これが第三の証拠である。また白虎通に、『社稷に樹があるのは何故か。尊びて之を識し、民に望ませて直ちに敬わせ、また功を表すためである』とある。これを考察すると、樹がある理由を正しく解釈しており、有無については全く論じていない。これが第四の証拠である。ここに『社稷に樹があるのは何故か』と言っているので、然らば稷にも樹があることは明らかである。また五経通義に、『天子の太社・王社、諸侯の国社・侯社。その制度はどうか。曰く、社は皆垣ありて屋無く、其中に木を樹つ。木有る者は土、万物を生ずる主たり、万物は木に善きは莫し、故に木を樹つるなり』とある。これが第五の証拠である。これは最も丁寧に樹がある意味を備え解いている。また五経要義に、『社は必ず之に木を樹つ。周礼司徒職に曰く、社を班ちて之を樹つ、各土地の生ずる所に従う。尚書逸篇に曰く、太社は惟だ松、東社は惟だ柏、南社は惟だ梓、西社は惟だ栗、北社は惟だ槐』とある。これが第六の証拠である。これはまた太社及び四方の社にそれぞれ別の樹がある明確な根拠である。また諸家の礼図を見ると、社稷図には皆樹が描かれており、誡社・誡稷だけが樹がない。これが第七の証拠である。樹がある根拠は弁明できたが、植えるべき木はまだ正されていない。論語に『夏后氏は松を以てし、殷人は柏を以てし、周人は栗を以てす』と称しているのは、世代が異なるためである。しかし尚書逸篇には『太社は惟だ松、東社は惟だ柏、南社は惟だ梓、西社は惟だ栗、北社は惟だ槐』とある。このように、一つの時代の中で五社がそれぞれ異なることになる。愚考では松を植えるのが適当である。何を以てそう言うか。逸書に『太社は惟だ松』とある。今松を植えても、礼を失う心配はない。ただ稷については確証がないが、社の細かいものであり、恐らく松から離れないであろう。」世宗はこれに従った。

原文芳以社稷無樹,又上疏曰:「依合朔儀注:日有變,以朱絲為繩,以繞係社樹三匝。而今無樹。又周禮司徒職云:『設其社稷之壝,而樹之田主,各以其社之所宜木。』鄭玄注云:『所宜木,謂若松柏栗也。』此其一證也。又小司徒封人職云:『掌設王之社壝,為畿封而樹之。』鄭玄注云:『不言稷者,王主於社,稷,社之細也。』此其二證也。又論語曰:『哀公問社於宰我,宰我對曰:夏后氏以松,殷人以柏,周人以栗。』是乃土地之所宜也。此其三證也。又白虎通云:『社稷所以有樹,何也?尊而識之也,使民望即見敬之,又所以表功也。』案此正解所以有樹之義,了不論有之與無也。此其四證也。此云『社稷所以有樹何』,然則,稷亦有樹明矣也。又五經通義云:『天子太社、王社,諸侯國社、侯社。制度奈何?曰:社皆有垣無屋,樹其中以木,有木者土,主生萬物,萬物莫善於木,故樹木也。』此其五證也。此最其丁寧備解有樹之意也。又五經要義云:『社必樹之以木。周禮司徒職曰:班社而樹之,各以土地所生。尚書逸篇曰:太社惟松,東社惟柏,南社惟梓,西社惟栗,北社惟槐。』此其六證也。此又太社及四方皆有樹別之明據也。又見諸家禮圖,社稷圖皆畫為樹,唯誡社、誡稷無樹。此其七證也。雖辨有樹之據,猶未正所植之木。案論語稱『夏后氏以松,殷人以柏,周人以栗』,便是世代不同。而尚書逸篇則云『太社惟松,東社惟柏,南社惟梓,西社惟栗,北社惟槐』,如此,便以一代之中,而五社各異也。愚以為宜植以松。何以言之?逸書云『太社惟松』,今者植松,不慮失禮。惟稷無成證,乃社之細,蓋亦不離松也。」世宗從之。

芳は沈着で雅やかで方正であり、気概と志操が非常に高く、経伝に通暁していたため、高祖は特に彼を重んじて敬い、事あるごとに相談した。太子恂が東宮にいた時、高祖は芳の娘を娶らせようとしたが、芳は年齢と容貌が適さないと辞退した。高祖はその謙虚で慎重な態度に感嘆し、改めて芳に同族の娘を推挙するよう命じた。芳はそこで族子の長文の娘を推薦した。高祖は恂にその娘を娶らせ、鄭懿の娘と並んで左右の孺子とした。崔光は芳に対して中表の礼敬を払い、何事にも相談し仰いだ。芳は鄭玄の注した周官儀礼音・干宝の注した周官音・王粛の注した尚書音・何休の注した公羊音・范寧の注した穀梁音・韋昭の注した国語音・范曄の後漢書音を各一卷、弁類三卷、徐州人地録四十卷、急就篇続注音義証三卷、毛詩箋音義証十卷、礼記義証十卷、周官・儀礼義証を各五卷撰した。崔光は上表して中書監の職を芳に譲ろうとしたが、世宗は許さなかった。延昌二年に卒去、六十一歳。詔により帛四百匹を賜り、鎮東将軍・徐州刺史を追贈され、諡は文貞。

原文芳沉雅方正,概尚甚高,經傳多通,高祖尤器敬之,動相顧訪。太子恂之在東宮,高祖欲為納芳女,芳辭以年貌非宜。高祖歎其謙慎,更敕芳舉其宗女,芳乃稱其族子長文之女。高祖乃為恂娉之,與鄭懿女對為左右孺子焉。崔光於芳有中表之敬,每事詢仰。芳撰鄭玄所注周官儀禮音、干寶所注周官音、王肅所注尚書音、何休所注公羊音、范寧所注穀梁音、韋昭所注國語音、范曄後漢書音各一卷,辨類三卷,徐州人地錄四十卷,急就篇續注音義證三卷,毛詩箋音義證十卷,禮記義證十卷,周官、儀禮義證各五卷。崔光表求以中書監讓芳,世宗不許。延昌二年卒,年六十一。詔賜帛四百匹,贈鎮東將軍、徐州刺史,諡文貞。

長子の懌、字は祖欣。父の風雅を受け継ぎ、文筆を好んだ。徐州別駕・兗州左軍府長史・司空諮議参軍を歴任した。たびたび行臺として出使し、赴任先では皆その職務に適う称賛を得た。通直散騎常侍・徐州大中正・行郢州事に転じ、まもなく安南将軍・大司農卿に遷った。卒去し、鎮東将軍・徐州刺史を追贈され、諡は簡。子がなく、弟の廞が第三子の㻐を後嗣とした。

原文長子懌,字祖欣。雅有父風,頗好文翰。歷徐州別駕、兗州左軍府長史、司空諮議參軍。屢為行臺出使,所歷皆有當官之稱。轉通直散騎常侍、徐州大中正、行郢州事,尋遷安南將軍、大司農卿。卒,贈鎮東將軍、徐州刺史,諡曰簡。無子,弟廞以第三子㻐為後。

㻐は、天平年間に江南へ逃れた。武定末年、帰国し、臨潁県子の爵位を賜った。

原文㻐,天平中,走江南。武定末,歸國,賜爵臨潁縣子。

懌の弟の廞、字は景興。学問を好み志操堅固で、時の世に巧みに仕えた。高肇が権勢を振るった時や清河王懌が宰輔であった時、廞は皆その子や甥と交遊往来した。霊太后が臨朝すると、また太后の兄弟と往来して親しくし、太后は廞に詩賦を弟の元吉に教えるよう命じた。尚書郎・太尉属・中書侍郎、冠軍将軍・行南青州事を歴任し、まもなく安南将軍・光禄大夫に召された。孝庄帝の初め、国子祭酒に任じられ、また本官のまま行徐州事を兼ねた。前廃帝の時、驃騎将軍・左光禄大夫に任じられた。出帝の初め、散騎常侍に任じられ、驃騎大将軍に遷り、再び国子祭酒を領した。出帝が顕陽殿で孝経を講じた時、廞は執経を務め、応答論難は精緻を極めるには至らなかったが、風采と音声には見るべきものがあった。まもなく都官尚書を兼ね、また殿中尚書を兼ねた。出帝が関中に入ると、斉献武王(高歓)が洛陽に至り、廞を責めて誅殺した。時に五十二歳。

原文懌弟廞,字景興。好學強立,善事當世。高肇之盛及清河王懌為宰輔,廞皆與其子姪交遊往來。靈太后臨朝,又與太后兄弟往還相好,太后令廞以詩賦授弟元吉。歷尚書郎、太尉屬、中書侍郎,冠軍將軍、行南青州事,尋徵安南將軍、光祿大夫。孝莊初,除國子祭酒,復以本官行徐州事。前廢帝時,除驃騎將軍、左光祿大夫。出帝初,除散騎常侍,遷驃騎大將軍,復領國子祭酒。出帝於顯陽殿講孝經,廞為執經,雖詶答論難未能精盡,而風彩音制足有可觀。尋兼都官尚書,又兼殿中尚書。及出帝入關,齊獻武王至洛,責廞而誅之,時年五十二。

子の騭、字は子昇。若くして気風があり、広く文史に通じた。弱冠で州から主簿に辟召され、使命を奉じて宮廷に赴き、荘帝に顕陽殿で引見され、辺境の事を問われた。騭は応対が優雅で機敏であったため、帝はこれを良しとし、員外散騎侍郎に任じるよう命じた。出向して徐州開府従事中郎を補った。父の廞が死ぬと、騭は郷里の部曲を率いて兗州に赴き、刺史の樊子鵠と共に王師(高歓の軍)に抵抗し、戦うごとに涙を流して敵陣に突撃した。城が陥落し、捕らえられて晋陽に送られると、斉献武王は哀れんで赦した。文襄王(高澄)が儀同開府となった時、騭を属官とした。本州の大中正。武定初年、中書舎人に転じ、安東将軍を加えられた。当時は蕭衍(梁)と和睦通交しており、騭は前後して勅命を受けてその使者十六人を接待応対した。出て司徒右長史となり、まもなく左長史に遷った。六年、兗州への使者を命じられ、東郡に到着した時、急病で卒去した。当時の人々はこれを嘆き惜しんだ。本将軍・南青州刺史を追贈された。

原文子騭,字子昇。少有風氣,頗涉文史。弱冠,州辟主簿,奉使詣闕,見莊帝於顯陽殿,問以邊事。騭應對閑敏,帝善之,遂敕除員外散騎侍郎。出補徐州開府從事中郎。父廞之死,騭率勒鄉部赴兗州,與刺史樊子鵠抗禦王師,每戰流涕突陳。城陷,擒送晉陽,齊獻武王矜而赦之。文襄王之為儀同開府,以騭為屬。本州大中正。武定初,轉中書舍人,加安東將軍。於時與蕭衍和通,騭前後受敕接對其使十六人。出為司徒右長史,未幾遷左長史。六年,受使兗州,行達東郡,暴疾卒,時人嗟惜之。追贈本將軍、南青州刺史。

廞の弟の悦、永安年間、開府記室。

原文廞弟悅,永安中,開府記室。

悦の弟の戫、武定年間、鎮南将軍・金紫光禄大夫。

原文悅弟戫,武定中,鎮南將軍、金紫光祿大夫。

戫の弟の粹、徐州別駕・朱衣直閤。粹は若い頃から気概と侠気を尊び、兄の廞が死ぬと、粹は部曲を招集し、兗州刺史の樊子鵠のもとに就き、関西(西魏)に呼応することを謀った。大将軍(高歓)が攻討し、城が陥落すると、殺された。

原文戫弟粹,徐州別駕、朱衣直閤。粹少尚氣俠,兄廞死,粹招合部曲,就兗州刺史樊子鵠,謀應關西。大將軍攻討,城陷,殺之。

芳の叔父撫之の孫、思祖は、勇健にして将略あり。高祖の末年に入朝し、羽林監、梁・沛二郡太守、員外常侍を歴任す。しばしば統軍として南征し、累ねて功捷を著す。任城王の鍾離を囲むや、蕭衍はその冠軍将軍張恵紹及び彭瓫・張豹子らに衆一万を率いさせて糧を鍾離に送らしむ。時に思祖は平遠将軍たり、兵数千を領して邵陽において衍の餉軍を邀え、その長史元亀に歩騎一千を以て鍾離の北にその前鋒を遏えしめ、録事参軍繆琰にその後を掩わしめ、思祖みずから精鋭を率いてその陣を横衝し、三軍合撃してこれを大破し、恵紹及び衍の驍騎将軍・祁陽県開国男趙景悦・悦の弟寧遠将軍景脩・寧遠将軍梅世和・屯騎校尉任景攸・長水校尉辺欣・越騎校尉賈慶真・龍驤将軍徐敞らを擒え、数千人を俘斬す。尚書功を論じて千戸侯に封ぜんと擬す。思祖に二婢あり、姿容美にして歌舞を善くす、侍中元暉これを求め得ず、事遂に停寝す。後に揚烈将軍・遼西太守を除く。思祖路に於いて叛きて蕭衍に奔る、衍は思祖を以て輔国将軍・北徐州刺史と為し、頻りに淮北を寇す。数年にして死す。

原文芳叔撫之,孫思祖,勇健有將略。高祖末入朝,歷羽林監,梁、沛二郡太守,員外常侍。屢為統軍南征,累著功捷。任城王之圍鍾離也,蕭衍遣其冠軍將軍張惠紹及彭瓫、張豹子等率眾一萬送糧鍾離。時思祖為平遠將軍,領兵數千邀衍餉軍於邵陽,遣其長史元龜步騎一千,於鍾離之北遏其前鋒,錄事參軍繆琰掩其後,思祖身率精銳橫衝其陳,三軍合擊,大破之,擒惠紹及衍驍騎將軍、祁陽縣開國男趙景悅、悅弟寧遠將軍景脩、寧遠將軍梅世和、屯騎校尉任景攸、長水校尉邊欣、越騎校尉賈慶真、龍驤將軍徐敞等,俘斬數千人。尚書論功擬封千戶侯。思祖有二婢,美姿容,善歌舞,侍中元暉求之不得,事遂停寢。後除揚烈將軍、遼西太守。思祖於路叛奔蕭衍,衍以思祖為輔國將軍、北徐州刺史,頻寇淮北。數年而死。

纘の子晰、蕭衍の琅邪・東莞二郡太守を歴任し、朐山を戍る。朐山の人王万寿、晰を斬り、首を送り、朐山を以て内附し、併せて晰の子翐を京師に送る。数年の後、翐を以て給事中・汝陽太守と為す。正光初、郡より南叛す。

原文纘子晰,歷蕭衍琅邪、東莞二郡太守,戍朐山。朐山人王萬壽斬晰,送首,以朐山內附,并晰子翐於京師。數年後,以翐為給事中、汝陽太守。正光初,自郡南叛。

芳の従子懋、字は仲華。祖は泰之、父は承伯、劉彧に仕え、並びに名位あり。懋は聡敏にして学を好み、経史を博綜し、草隷書を善くし、奇字を多く識る。世宗の初めに入朝し、員外郎に拝す。尚書外兵郎中に遷り、軽車将軍を加う。芳甚だこれを重んず、凡そ撰制する朝廷の軌儀は、皆これと参量す。尚書の博議、懋と殿中郎袁翻常に議主と為る。従政に達し、台中の疑事、咸くこれに訪い決す。詔を受けて新令に参議す。性沈雅厚重にして、人と交わるを善くし、器宇淵曠、風流甚だ美しく、時論これを高しむ。尚書李平、これと莫逆の友を結ぶ。歩兵校尉に遷り、郎中を領し、東宮中舎人を兼ぬ。員外常侍・鎮遠将軍に転じ、考功郎中を領し、考課の科を立て、黜陟の法を明らかにし、甚だ条貫あり。

原文芳從子懋,字仲華。祖泰之,父承伯,仕於劉彧,並有名位。懋聰敏好學,博綜經史,善草隸書,多識奇字。世宗初入朝,拜員外郎。遷尚書外兵郎中,加輕車將軍。芳甚重之,凡所撰制朝廷軌儀,皆與參量。尚書博議,懋與殿中郎袁翻常為議主。達於從政,臺中疑事,咸所訪決。受詔參議新令。性沉雅厚重,善與人交,器宇淵曠,風流甚美,時論高之。尚書李平,與之結莫逆之友。遷步兵校尉,領郎中,兼東宮中舍人。轉員外常侍、鎮遠將軍,領考功郎中,立考課之科,明黜陟之法,甚有條貫。

粛宗の初め、大軍硤石を攻む、懋は李平の行台郎中たり、城抜くるに、懋頗る功あり。太傅・清河王懌その風雅を愛し、常に目してこれを送りて曰く、「劉生堂堂、搢紳の領袖、若し天年を仮せば、必ず魏朝の宰輔と為らん」と。詔して懋に諸の才学の士と儀令を撰成せしむ。懌宰相として積年、礼懋尤も重く、諸子をしてこれを師とせしむ。太尉司馬に遷る。熙平二年冬、暴病卒す。家甚だ清貧、亡ぶの日、徒に四壁のみ。太傅懌及び当時の才儁痛惜せざるは莫し。持節・前将軍・南秦州刺史を贈り、諡して宣簡と曰う。懋の詩誄賦頌及び諸の文筆、時に称せられ、又諸の器物造作の始め十五巻を撰し、名づけて物祖と曰う。

原文肅宗初,大軍攻硤石,懋為李平行臺郎中,城拔,懋頗有功。太傅、清河王懌愛其風雅,常目而送之曰:「劉生堂堂,搢紳領袖,若天假之年,必為魏朝宰輔。」詔懋與諸才學之士,撰成儀令。懌為宰相積年,禮懋尤重,令諸子師之。遷太尉司馬。熙平二年冬,暴病卒。家甚清貧,亡之日,徒四壁而已。太傅懌及當時才儁莫不痛惜之。贈持節、前將軍、南秦州刺史,諡曰宣簡。懋詩誄賦頌及諸文筆,見稱於時,又撰諸器物造作之始十五卷,名曰物祖。

子筠、字は士貞。員外散騎侍郎より、河南郡丞・中散大夫・徐州大中正・秘書丞を歴任す。天平初卒す。前将軍・徐州刺史を贈る。子規、早卒す。

原文子筠,字士貞。自員外散騎侍郎,歷河南郡丞、中散大夫、徐州大中正、祕書丞。天平初卒。贈前將軍、徐州刺史。子規,早卒。

筠の弟筟、字は士文。少にして聡恵。年十二、尚書王衍に詣る、衍語らいて大いにこれを奇とし、遂に太傅李延寔・秘書李凱と上疏してこれを薦め、秘書郎に拝す。筟も亦た善士たり。興和元年卒す、年二十八。子無く、兄の子矩継ぐ。

原文筠弟筟,字士文。少而聰惠。年十二,詣尚書王衍,衍與語大奇之,遂與太傅李延寔、祕書李凱上疏薦之,拜祕書郎。筟亦善士。興和元年卒,年二十八。無子,兄子矩繼。

懋の従叔元孫、志を丘園に養い、聞達を求めず。高祖彭城に幸す、起家して蘭陵太守に拝す。治め清静を以て名と為す。官に卒す。

原文懋從叔元孫,養志丘園,不求聞達。高祖幸彭城,起家拜蘭陵太守。治以清靜為名。卒官。

子長文、高祖これを擢て南兗州冠軍府長史と為し、譙郡太守を帯ぶ。囲まれて糧竭き、節を固くして城を全うし、功を以て下邑子の爵を賜う。魯郡太守に遷る。高祖太子恂の為にその女を納れて孺子と為す。卒す。

原文子長文,高祖擢為南兗州冠軍府長史,帶譙郡太守。被圍糧竭,固節全城,以功賜爵下邑子。遷魯郡太守。高祖為太子恂納其女為孺子。卒。

子敬先、爵を襲ぐ。

原文子敬先,襲爵。

敬先の弟徽、奉朝請、徐州治中。

原文敬先弟徽,奉朝請,徐州治中。

長文の弟永、字は履南。頗る将略あり、征戦の勤を累ねて著す。中散大夫・龍驤将軍を歴位す。神龟中、大鴻臚卿を兼ね、策を持して高麗王安を拝す。還りて、范陽太守を除く。

原文長文弟永,字履南。頗有將略,累著征戰之勤。歷位中散大夫、龍驤將軍。神龜中,兼大鴻臚卿,持策拜高麗王安。還,除范陽太守。

劉僧利

原文劉僧利

芳の族兄僧利、財を軽んじ侠を通じ、甚だ郷情を得る。高祖徐州に幸す、引見し、これを善くし、徐州別駕に拝す。沛郡太守に遷る。後に遂に郷里に従容し、台官を楽しまず。十余年を積み、朝議その二心あるを慮り、軽車将軍・羽林監を徴拝す。官に卒す。

原文芳族兄僧利,輕財通俠,甚得鄉情。高祖幸徐州,引見,善之,拜徐州別駕。遷沛郡太守。後遂從容鄉里,不樂臺官。積十餘年,朝議慮其有二志,徵拜輕車將軍、羽林監。卒官。

長子世雄、太山太守に至る。

原文長子世雄,至太山太守。

世雄の弟世明、字は伯楚、頗る書伝に渉る。奉朝請より稍く遷りて蘭陵太守・彭城内史と為る。刺史元法僧城外に叛くに属し、遂に蕭衍に送る。衍封爵を加えんと欲す、世明固く辞して受けず、頻りに衍に請い乞うて還らんことを、衍これを聴く。粛宗の時、諫議大夫に徴す。孝庄の末、征虜将軍・南兗州刺史を除く。時に尒朱世隆ら威権自己にし、四方怨叛す、城民王乞得逼劫して世明を逼劫し、州を拠て蕭衍に帰す。衍世明を開国県侯に封じ、食邑千戸、征西大将軍・郢州刺史と為し、又儀同三司を加う。世明復た辞して受けず、固く北帰を請う。衍その意を奪わず、乃ち躬ら楽遊苑においてこれを餞る。世明既に還り、持する所の節を奉送し、身郷里に帰る。ここより復た朝に入らず、常に射猟を以て適と為す。興和三年家に卒す。驃騎大将軍・儀同三司・徐州刺史を贈る。

原文世雄弟世明,字伯楚,頗涉書傳。自奉朝請稍遷蘭陵太守、彭城內史。屬刺史元法僧以城外叛,遂送蕭衍。衍欲加封爵,世明固辭不受,頻請衍乞還,衍聽之。肅宗時,徵為諫議大夫。孝莊末,除征虜將軍、南兗州刺史。時尒朱世隆等威權自己,四方怨叛,城民王乞得逼劫世明,據州歸蕭衍。衍封世明開國縣侯,食邑千戶,征西大將軍、郢州刺史,又加儀同三司。世明復辭不受,固請北歸。衍不奪其意,乃躬餞之於樂遊苑。世明既還,奉送所持節,身歸鄉里。自是不復入朝,常以射獵為適。興和三年卒於家。贈驃騎大將軍、儀同三司、徐州刺史。

子の禕は、字を彦英という。武定の末、冠軍将軍・中散大夫となった。

原文子禕,字彥英。武定末,冠軍將軍、中散大夫。

初め、蘭陵の繆儼霊奇は、彭城の劉氏と才望がほぼ等しかった。彭城が内附すると、霊奇の弟子の承先は薛安都に従って京師に至り、爵を襄賁子に賜わり、まもなく徐州に還ったが、数十年の間、官に就く者は全くいなかった。世宗の末、承先の子の彦植が爵を襲い、叙用され、次第に昇進して伏波将軍・羽林監となった。彦植は恭順で慎み深く、長者であり、当時に称された。

原文初,蘭陵繆儼靈奇,與彭城劉氏才望略等。及彭城內附,靈奇弟子承先隨薛安都至京師,賜爵襄賁子,尋還徐州,數十年間,了無從官者。世宗末,承先子彥植襲爵,見叙,稍遷伏波將軍、羽林監。彥植恭慎長厚,為時所稱。

時に滎陽の鄭演は、劉彧に仕えて琅邪太守となった。徐州刺史薛安都が内附を謀ろうとした際、演はその事を賛成した。顕祖が初めて入朝した時、功により冠軍将軍・彭城太守・洛陽侯に除された。後に太中大夫に拝され、爵を雲陽伯に改めた。卒し、幽州刺史を追贈され、諡は懿といった。その子孫はこれにより彭・泗に家を定めた。

原文時滎陽鄭演,仕劉彧為琅邪太守。屬徐州刺史薛安都將謀內附,演贊成其事。顯祖初入朝,以功除冠軍將軍、彭城太守、洛陽侯。後拜太中大夫,改爵雲陽伯。卒,贈幽州刺史,諡曰懿。其子孫因此遂家彭、泗。

子の長猷は、父の勲功により起家し、寧遠将軍・東平太守に拝された。まもなく沛郡に転じた。入朝して南主客郎中・太尉属となり、爵を雲陽伯に襲った。車駕が南伐し、宛城を既に攻克すると、長猷を南陽太守に拝した。鑾輿が将に還らんとする時、詔して長猷に曰く、「昔、曹公が荊州を克ち、満寵を後に留めた。朕今卿にこの郡を委ね、兼ねて戎馬を統べしむ。ただ初附を綏撫するのみならず、城を扞ぐことを託すなり」と。特に縑二百匹を賜った。高祖が南陽に崩じ、その郡において殯した。まもなく護軍長史に徴された。世宗の初め、寿春が帰欵すると、兼給事黄門侍郎を加え、節を持ち宣慰した。任城王が揚州刺史となると、詔して長猷を諮議参軍とし、安豊太守を帯びさせた。徐州武昌王府長史に転じ、彭城内史を帯びた。諫議大夫に徴拝され、司徒諮議に転じ、通直散騎常侍に遷った。永平五年に卒した。諡して貞侯といった。

原文子長猷,以父勳起家,拜寧遠將軍、東平太守。尋轉沛郡。入為南主客郎中、太尉屬,襲爵雲陽伯。車駕南伐,既克宛城,拜長猷南陽太守。及鑾輿將反,詔長猷曰:「昔曹公克荊州,留滿寵於後。朕今委卿此郡,兼統戎馬,非直綏初附,以扞城相託。」特賜縑二百匹。高祖崩於南陽,斂於其郡。尋徵護軍長史。世宗初,壽春歸欵,兼給事黃門侍郎,持節宣慰。及任城王為揚州刺史,詔長猷為諮議參軍,帶安豐太守。轉徐州武昌王府長史,帶彭城內史。徵拜諫議大夫,轉司徒諮議,遷通直散騎常侍。永平五年卒。諡曰貞侯。

子の廓が襲封した。卒した。

原文子廓,襲。卒。

子の元休が襲封した。興和年間、睢州刺史となった。斉が禅を受けると、爵は例により降格された。

原文子元休,襲。興和中,睢州刺史。齊受禪,爵例降。

元休の弟の憑は、字を元祐という。武定年間、司徒従事中郎となった。

原文元休弟憑,字元祐。武定中,司徒從事中郎。