巻55

游明根

游明根、 あざな は志遠、広平郡任県の人である。祖父の鱓は、 慕容 ぼよう 熙の下で楽浪太守となった。父の幼は、馮跋により仮の広平太守に任じられた。和龍が平定されると、明根はようやく郷里に帰ることができた。游雅が彼を称揚して推薦したので、世祖(太武帝)は彼を抜擢して 中書 ちゅうしょ 学生とした。性質は貞実で慎み深く寡欲であり、経典を広く習得した。恭宗(景穆帝)が国政を監理すると、公孫叡とともに主書となった。

高宗(文成帝)が即位すると、都曹主書に転じ、安楽男の爵位と寧遠将軍の号を賜った。高宗はその小心敬慎な態度を、しばしば賞賛した。仮の員外 散騎常侍 さんきじょうじ ・冠軍将軍・安楽侯に任じ、劉駿(宋の孝武帝)のもとに使者として派遣され、相手方の使者である明僧暠と応対した。前後三度往復し、駿は彼を長者と称え、迎送の礼は通常の使者以上であった。顕祖(献文帝)の初め、本官の将軍のまま東青州 刺史 しし として出向し、員外常侍を加えられた。 散騎常侍 さんきじょうじ ・平東将軍・ 都督 ととく 兗州諸軍事・瑕丘鎮将に転じ、まもなくそのまま東兗州刺史に任命され、爵位を新泰侯に改めた。政治は清廉公平で、新たに帰附した民も喜んで従った。

高祖(孝文帝)の初め、朝廷に入って給事中となり、儀曹長に転じ、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。清廉で倹約し、恭順で慎み深く、その職にふさわしいと称された。後に王師が南征した際、 により仮の安南将軍・儀曹 尚書 しょうしょ ・広平公とされ、梁郡王元嘉とともに軍計の参謀を務めた。後に兗州の民が反乱したので、詔により明根が慰撫の任にあたった。南征の沔西・仇城・連口の三道の諸軍に対し、明根の節度に従うよう勅命が下された。都に戻り、尚書の正官となり、引き続き 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。

詔により、蕭賾(南斉の武帝)との間で使者を絶って多年になるが、今通交すべきか否か、群臣を集めて会議した。尚書の陸叡は言った。「以前は三呉が安定せず、荊・梁に難があったため、一時的に停止したのであり、隙をうかがって動こうとしたのである。今、彼の地はすでに平定されたから、使者を通交させるのがよかろう」。明根は言った。「使者を中絶させたのは朝廷(北魏)の事であり、醴陽に深く城を築き、彼の境土を侵したのは、二、三の理屈からいって、まさに蕭賾にある。我らが今使者を遣わすのは、理にかなっている」。高祖はこれに従った。文明太后が 崩御 ほうぎょ すると、群臣が固く公務への復帰を請うたが、高祖と明根はやり取りを重ねた。事柄は『礼志』にある。大鴻臚卿・河南王元幹の師傅に転じ、尚書はもとのままとした。定例により侯から伯に降格された。また律令の制定に参与し、たびたび正しい意見を進言した。

明根は七十歳を超えたことを理由に、上表して致仕を求めた。詔は許さず、たびたび上表して固く請うたので、ついに詔して言った。「明根は風度が清廉で有能であり、志操は貞実で聡明、温かく恭しく静かで細やかであり、諮問を寄せるべき人物である。故にその高蹈の節操を抑えて再三に及んだ。上表の請いが懇切であるから、違えて奪うことはできず、すでにその告別を許した。前後の上表を外に付して、礼に従って施行せよ」。明根を引見し、高祖は言った。「卿は年老いて徳が盛んであり、幾朝にもわたって勤め、内外の職を歴任し、いずれも顕著な功績をあげ、老年に至るまで道を踏み行って変わることがなかった。それゆえ制度革新の始めに、礼の任を委ね、その才能と徳を待ち望み、朕を補佐させた。しかし高尚な志は悠遠であり、このようにして帰ろうと言う。君臣の礼はここで終わるが、その徳を慕い仁を思う情は、どうしてやむことがあろうか。七十歳で致仕するのは、典礼に称えられることである。高位にあって固く辞することは、賢者の節義を達することである。ただ末世の風俗は衰え、この道は継がれていない。卿ひとりが謙虚な操りを守り、今の世にありながら古の行いをなし、魏朝以来、初めて頽れた風俗を振るい起こした。進んでは我が朝の教化を輝かせ、退いては私門の栄誉と慰めとなるであろう」。明根は答えて言った。「臣は桑榆の年、時計の音が尽きるまで、陛下の恩沢により、首を全うすることができ、私邸で余生を過ごし、先帝と陛下の大恩に奉ずることは、臣の願いであります。ただ犬馬の慕情、悲しみに堪えません」。言って泣き、自らを制することができなかった。高祖は命じて進ませ、別れの言葉を懇ろにし、やはり涙を流した。青紗の単衣・委貌冠・被褥・錦袍などを賜った。

その年、 つかさど しと の尉元を三老とし、明根を五更として、辟雍で礼を行った。言葉は尉元の伝にある。歩挽車一乗を賜い、上卿の禄を与え、供される食事の味は、太官が邸に月ごとに送った。律令制定の功労により、布帛一千匹・穀一千斛を賜った。後に明根が広平に帰るとき、絹五百匹・安車一乗・馬二匹・幄帳被褥を賜った。車駕が ぎょう に行幸した際、明根は行宮に朝見した。詔して言った。「游五更は光りある素質を持ちながら蓬の簷にあり、衡門の里に帰って終わる。まさに朝の旧徳、国の老成と言えよう。帛五百匹・穀五百斛を賜うべし」。太官に命じて珍しい料理を備えて送らせた。後に車駕が鄴に行幸した際、また行宮に朝見し、前と同じように穀帛を賜り、甲第を造営して与えられた。国家に大事があるときは、常に璽書をもって意見を求めた。旧病が発作すると、手詔で病状を問い、太医が薬を送った。太和二十三年、家で卒去した。八十一歳。世宗(宣武帝)は使者を遣わして弔祭させ、賻として銭十万・絹三百匹・布二百匹を贈り、光禄大夫を追贈し、金章紫綬を加え、 おくりな して靖侯とした。

明根は内外の官を歴任すること五十余年、身を処するには仁和をもってし、物に接するには礼譲をもってしたので、当時の論は彼を貴んだ。高祖の初め、明根と高閭は儒者として老成の学業により、特に礼遇され、公私の出入りには常に互いに追随したが、高閭は才筆をもって時に明根を侮り、世に高・游と称された。子の肇が爵位を継いだ。

肇、字は伯始、高祖が名を賜ったものである。幼くして中書学生となり、経史および蒼頡篇・爾雅・林説に広く通じた。高祖の初め、内祕書侍御中散となった。司州が初めて建てられると、都官從事に任じられ、通直郎・祕閣令に転じ、散騎侍郎・典命中大夫に遷った。車駕が南伐しようとしたとき、肇は上表して諫めて止めさせようとしたが、高祖は聞き入れなかった。まもなく太子中庶子に遷った。

肇は謙虚で質素、篤実で重厚であり、文雅をもって任用された。父が年老いたため、官を解いて扶養することを請うた。高祖は禄を以て養わせようと望み、本州の南安王元楨の鎮北府長史として出向させ、魏郡太守を兼ねさせた。王が薨じると、再び高陽王元雍の鎮北府長史となり、太守はもとのままとした。政治は清廉で簡素であり、補佐を加えたので、二王に歴任して輔佐し、非常に名声と実績があった。数年後、父の喪により官を解任した。

景明の末、廷尉少卿に徴されたが、固く辞したので、黄門侍郎を授けられた。 散騎常侍 さんきじょうじ に遷り、黄門侍郎はもとのままとした。 侍中 じちゅう を兼ね、畿内大使となり、善悪を罷 べん ・登用し、賞罰を分明にした。太府卿に転じ、廷尉卿に移り、御史中尉を兼ね、黄門侍郎はもとのままとした。肇は儒者であり、行動には名教を存し、厳正に糾弾するものは、風俗を傷つけ敗るものではなかった。法を執るのは仁愛公平であり、獄を断ずるには哀れみと寛恕を務めた。 尚書令 しょうしょれい の高肇は世宗の舅であり、百官を畏怖させていたが、肇の名が自分と同じであるため、改めさせようとした。肇は高祖の賜った名であるとして、志を守って許さず、高肇はこれを非常に恨んだ。世宗はその剛直な気骨を称えた。

盧昶が朐山にいたとき、肇は諫めて言った。「朐山は小さな地で、海辺に僻在し、山や湖は低湿で、民が居住するところではない。我々にとっては急務ではなく、賊にとっては利益となる。利益となるから、必ず死力を尽くして争うであろう。急務ではないから、やむを得ず戦うのである。やむを得ない兵衆をもって、必死の師団を撃つのは、年月を引き延ばし、費用が甚だしくなることを恐れる。仮に朐山を得たとしても、徒らに争いを招き、結局は全うして守るのは難しく、いわゆる益のない田である。賊がたびたび宿 をもって朐山と交換しようとしていることを知る。臣の愚見では、この言葉は許容できると思う。朐山は久しく危険な弊害を防いでいるので、速やかに審議すべきである。もし必ずこうするならば、宿 は征伐しなくても自然に降伏するであろう。この無用の地を持ち、あの旧来の疆土を取り戻し、兵役を時に解くこと、その利益は大きい」。世宗はこれに従おうとしたが、まもなく盧昶が敗れた。

侍中に遷る。蕭衍の軍主徐玄明がその青冀二州刺史張稷の首を斬り、郁洲を以て内附したので、朝議は兵を遣わして赴援せんとした。肇が上表して曰く、「玄明の款誠は、急ぎ救援すべきではあるが、然るに事には損益があり、或いは挙兵を憚って功多く、或いは小事より患いを生ずることもあり、必ずしも然りとは限らない。今、六里・朐山は、地は実に海に接し、陂湖は下濕にして、人は住むべからず。郁洲はまた海中にあり、所謂石田を得ると雖も、終に用いる所無きが如し。若し連口を得ずば、六里は克つと雖も、尚お守るべからず、況んや方に兵を連ねる事に従い、而して非要を争わんとするに於いてをや。且つ六里は賊にとっては愈よ要地であり、此れよりは閑遠である。若し閑遠の兵を以て、逼近の衆を攻めれば、其の勢既に殊にして、敵すべからず。災害と凶作の年、百姓は飢え弊れ、餓死者もまた少なくない。何を以てか宜しく静かなる時に、干戈の役を興えんとするのか。軍糧の資運は、取って済う所無し。唯だ其の損を見るのみで、未だ其の益を覩ず。且つ新たに附した民は、教化に服するも猶お近く、特に安帖を須い、労すべからず。労すれば則ち怨み生じ、怨み生ずれば則ち叛くことを思い、叛くことを思えば則ち自ら安からず、安からざれば則ち擾動す。もし然らば、則ち連兵は解け難し。事は軽んずべからず。宜しく此の小利を損じ、大損をさせざるべし。」と。世宗は併せて納れなかった。

大将軍高肇が蜀を伐たんとした時、肇は諫めて曰く、「臣聞く、遠人服さざれば、則ち文徳を修めて以て之を来たすと。兵は凶器なり、已むを得ずして後に用う。当今の治めは太平と雖も、征伐を論ずるは未だ可ならず。何となれば、山東・関右は、残傷未だ復せず、頻年水旱あり、百姓空虚なり。宜しく安静に在るべく、労役すべからず。然れども往昔の開拓は、皆城主の帰款に因りたる故に、征有りて戦無し。今の拠る者は、官号を仮ると雖も、真偽分ち難く、或いは彼に怨み有りて、全く信ずべからず。且つ蜀地は険隘にして、古より称えられ、鎮戍は晏然として、更に異趣無し。豈に虚しく浮説を承けて、大軍を動かすべけんや。挙げて始めを慎まざれば、悔い将に何ぞ及ばんとする。蜀を討つ略は、願わくは後図を俟たん。」と。世宗はまた納れなかった。

粛宗即位すると、中書令・光禄大夫に遷り、金章紫綬を加えられ、相州大中正となる。出でて使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・鎮東将軍・相州刺史と為り、恵政有り。徴されて太常卿と為り、尚書右 僕射 ぼくや に遷るが、固く辞し、詔も許さず。肇は吏事に於いて、断決速やかならず。主事者が諮呈すれば、反覆論叙し、時に曉らざれば、再三に及び、必ず其の理を窮めて、然る後に下筆す。寵勢の干請有りと雖も、終に回撓無し。方正の操、時人之に服す。及んで領軍元叉が霊太后を廃し、将に 太傅 たいふ ・清河王懌を害せんとし、乃ち公卿を集めて会議するに、時に群官は色を失い旨に順わざる者無かりしが、肇独り抗言して不可と為し、終に署せず。正光元年八月卒す。年六十九。詔して東園秘器・朝服一襲を給し、賵帛七百匹を賜う。粛宗は朝堂に於いて哀を挙ぐ。使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・驃騎大将軍・儀同三司・冀州刺史を贈られ、諡して文貞公と曰う。

肇は外は寛柔、内は剛直にして、経伝を耽好し、手は書を釋かず。周易・毛詩を治め、特に三礼に精しい。易集解を為し、冠婚儀・白珪論を撰し、詩賦表啓凡そ七十五篇、皆世に伝わる。謙廉にして競わず、曾て儒碁を撰して、以て其の志を表す。清貧寡欲、資は俸禄を仰ぐのみ。肇が廷尉たりし時、世宗嘗て私に肇に敕し、降恕すべき所有り。肇は執して従わず、曰く、「陛下自ら能く之を恕す。豈に臣をして曲筆せしむるに足らんや」と。其の執意此の如し。及んで粛宗の初め、近侍の群官で奉迎に預かりし者は、侍中崔光以下並びに封邑を加えられ、時に肇を文安県開国侯に封じ、邑八百戸とす。肇独り曰く、「子が父の位を襲ぐは、今古の常なり。此れに因りて封を獲ば、何を以てか自ら処せん」と。固く辞して応ぜず。論者之を高しとす。

子の祥、字は宗良、頗る学有り。秘書郎を歴任し、爵を新泰伯に襲ぐ。通直郎・国子博士に遷り、尚書郎中を領す。粛宗は肇が昔文安の封を辞したるに因り、復た祥を封ぜんと欲す。祥は其の父の意を守り、卒亦受けず。又肇が前に清河王の議に於いて、正を守り屈せざりしを追論し、乃ち祥を高邑県開国侯に封じ、邑七百戸とす。孝昌元年卒す。年三十六。征虜将軍・給事黄門侍郎・幽州刺史を贈られ、諡して文と曰う。

子の皓、字は賓多、爵を襲ぐ。侍御史。早卒。

皓の弟安居、爵を新泰伯に襲ぐ。武定中、 司空 しくう 墨曹参軍。斉が禅を受けると、爵は例に従い降る。

明根の叔父矯、中書博士、濮陽・鉅鹿二郡太守。卒し、冠軍将軍・相州刺史を贈られる。

矯の孫馥、国子博士。

馥の弟思進、尚書郎中。

劉芳

劉芳、字は伯文、彭城の人なり、漢の楚元王の後なり。六世祖の訥、晋の司隸 校尉 こうい 。祖の該、劉義隆の征虜将軍・青徐二州刺史。父の邕、劉駿の兗州長史。

芳は伯父遜之の後を出づ。遜之は劉駿の東平太守なり。邕は劉義宣の事に与し、身は彭城に死す。芳は伯母の房に随い青州に逃竄し、赦に会い免る。舅の元慶、劉子業の青州刺史沈文秀の建威府司馬と為り、文秀に殺さる。芳母子は梁鄒城に入る。慕容白曜が南討して青斉を攻むるに、梁鄒降り、芳は北に徙められ平斉民と為る。時に年十六。南部尚書李敷の妻は、 司徒 しと 崔浩の弟の女なり。芳の祖母は、浩の姑なり。芳は京師に至り、敷の門に詣る。崔は芳の流播を恥じ、拒み見えず。芳は窮窘の中に処ると雖も、而して業尚は貞固、聡敏人に過ぎ、篤志して墳典に耽る。昼は則ち傭書して以て自ら資給し、夜は則ち読誦し、終夕寝ず、衣を易え日を併せるの弊有るに至るも、而して澹然自ら守り、栄利に汲汲せず、賤貧に慼慼せず、乃ち窮通論を著して以て自ら慰む。

劉芳は常に諸僧のために経論を書き写す傭筆を務め、筆跡が善しと称され、一巻の代価として絹一疋を得、一年の内に百余疋を収入とし、このように数十年にわたり、これによって家計を大いに振るわしめた。これにより徳学高い大僧と多く往来するようになった。時に南方の沙門恵度が事により責められ、間もなく暴死したが、劉芳はその縁故により関知し、文明太后は彼を禁中に召し入れ、百鞭の刑を加えた。時に中官の李豊がその始末を主宰し、劉芳が篤学で志操行いに優れることを知り、太后にこれを言上すると、太后は内心やや慚愧の念を抱いた。折しも蕭賾の使者劉纘が到来したが、彼は劉芳の族兄であったので、劉芳を兼主客郎に抜擢し、劉纘と応接させた。まもなく中書博士に任じられた。後に崔光、宋弁、邢産らと共に中書侍郎となり、間もなく詔により劉芳と邢産は皇太子に経書を教授することとなり、太子庶子・兼員外 散騎常侍 さんきじょうじ に転じた。 洛陽 らくよう への行幸に従駕し、道中より京師に帰還するまで、常に侍坐して講読に当たった。劉芳は才思深敏にして特に経義に精通し、博聞強記で蒼頡篇・爾雅をも兼ね覧く、特に音訓に長け、疑わしきを辨析することに迷いがなかった。ここにおいて礼遇日増しに厚く、賞賜も豊かであり、正員の員外 散騎常侍 さんきじょうじ に任じられた。まもなく通直常侍を兼ね、南巡に従駕し、行幸の事跡を撰述し、間もなく正員に除された。王肅が奔来した時、高祖は大いに彼を器重し、朝野の注目を集めた。劉芳はまだ彼と相見える機会がなかった。高祖が華林で群臣を宴した時、王肅が語の次に『古えは唯だ婦人のみに笄あり、男子には則ち無し』と言うと、劉芳は『経礼の正文を推すに、古えは男子婦人ともに笄あり』と言った。王肅は『喪服に男子は べん にして婦人は 、男子は冠にして婦人は笄と称す。かくの如くならば、男子は笄あるべからず』と言う。劉芳は『これは専ら凶事を謂うなり。礼に、初めて喪に遭う時、男子は免し、時に則ち婦人は髽す;男子が冠する時、則ち婦人は笄す。ともに時に応じて変ずることを言い、而して男子婦人の免髽・冠笄の同じからざるなり。また冠は尊く、故にその笄の称を奪う。且つ互いに言うなり、男子に笄無しと謂うに非ず。また礼内則に「子、父母に事うるに、鶏初めて鳴き、 櫛纚 しつし 笄総 けいそう す」と称す。これによりて言えば、男子に笄あること明らかなり』と言った。高祖は久しく善しと称じた。王肅もまた劉芳の言を然りとし、『これは劉石経に非ずや』と言った。昔、漢代に太学に三字石経を造り、学者の文字正しからざるもの多く往きて質した。劉芳は音義明辨にして、疑う者は皆往きて詢訪したので、時に人は劉石経と号した。酒宴が終わり、劉芳と王肅は共に出ると、王肅は劉芳の手を執りて『吾れ少より三礼に留意し、南に在りし諸儒と屡々共に討論すれども、皆この義は吾が向に言うが如しと謂えり。今往きて釈するを聞き、頓に平生の惑を のぞ く』と言った。劉芳の理義精通は、多くこの類いであった。

高祖が洛陽に遷都する途次、朝歌を経由し、殷の比干の墓を見て愴然として懐いを悼み、文を為してこれを弔った。劉芳がこれに注解を加え、表を奉って上奏した。詔して曰く『卿の注を覧るに、殊に富博なり。但だ文は屈宋に非ず、理は張賈に慚ず。既に雅致あれば、便ちこれを集書に付すべし』。詔して劉芳の経学精洽なるを以て、国子祭酒に超遷させた。母憂により官を去った。高祖が宛鄧を南征するに当たり、輔国将軍・ 太尉 たいい 長史として起用され、太尉咸陽王元禧に従って南陽を攻めた。蕭鸞の将裴叔業が徐州に侵入寇掠すると、疆埸の民は去就に心を動かす者が多く、高祖これを憂え、劉芳を 散騎常侍 さんきじょうじ ・国子祭酒・徐州大中正とし、徐州の事務を行わせた。侍中を兼ねるよう転じ、馬圈征討に従軍した。高祖は行宮において崩御した。世宗が即位すると、劉芳は手ずから袞冕を加えた。高祖の襲斂より啓祖・山陵・練除に至るまで、始末の喪事は皆劉芳が撰定した。咸陽王元禧らが遺旨を奉じて申し上げ、劉芳に世宗に経書を教授させることを命じた。南徐州刺史沈陵が外叛し、徐州に大水が起こると、劉芳を派遣して撫慰賑恤させた。まもなく正侍中とし、祭酒・中正は並びに元の如くとした。

劉芳は上表して曰く『国を為す者は、儒を崇め道を尊ばざるはなく、学校を先とする。誠に政に質文有るも、この範は易えず、まことに万端の資始、衆務の法を くるによるなり。唐虞以前は典籍に拠る所無く、隆周以降は任は虎門に居す。周礼大司楽に云う「師氏、㜫(び)を以て王に ぐるを掌る。虎門の左に居り、王朝に つかさど り、国中失の事を掌り、以て国子弟を教う」。蔡氏の勧学篇に云う「周の師氏、虎門の左に居り、六芸を敷陳し、以て国子を教う」。今の祭酒は即ち周の師氏なり。洛陽記に国子学官は天子の宮と対し、太学は開陽門の外に在りと。案ずるに学記に云う「古の王者、国を建て民に親しむに、教学を先とす」。鄭氏の注に云う「内則には師保を設けて教え、国子をして学ばしめ、外則には太学・庠序の官有り」。これによりて言えば、国学は内に在り、太学は外に在り、明らかなり。案ずるに洛陽記の如きは、なお模倣の像有り。臣愚かには謂う、今既に県を崧瀍に徙し、皇居は伊洛に在り、宮闕府寺は皆旧趾に復す。国学に至っては、豈に舛替すべけんや。旧事を校量すれば、宮門の左に在るべし。太学に至っては、基址炳然として在り、旧に仍りて営構すべし。また去る太和二十年に、勅を発して四門博士を立て、四門に学を置く。臣案ずるに、周代以上は学は唯だ二つを以てし、或いは西を尚び、或いは東を尚び、或いは国に在るを貴び、或いは郊に在るを貴ぶ。爰に周室に至りては、学蓋し六つ有り。師氏は内に居り、太学は国に在り、四小は郊に在り。礼記に周人は「庶老を虞庠に養う。虞庠は国の四郊に在り」と云い、礼また云う「天子四学を設け、当に入学して太子歯す」。注に云う「四学は、周四郊の虞庠なり」。案ずるに大戴礼保傅篇に云う「帝東学に入れば、親を尚びて仁を貴ぶ;帝南学に入れば、歯を尚びて信を貴ぶ;帝西学に入れば、賢を尚びて徳を貴ぶ;帝北学に入れば、貴を尚びて爵を尊ぶ;帝太学に入れば、師を承けて道を問う」。周の五学は、ここに いよいよ 彰かなり。案ずるに鄭注学記に、周は則ち六学なり。然る所以は、注に云う「内則には師保を設けて教え、国子をして学ばしめ、外則には太学・庠序の官有り」。これ其の証なり。漢魏以降は、復た四郊無し。謹んで先旨を尋ぬれば、宜しく四門に在るべし。案ずるに王肅の注に云う「天子四郊に学有り、王都を去ること五十里」。これを鄭氏に考うるに、遠近を云わず。今太学の故坊は基趾寛曠にして、四郊に別置すれば相去ること遼闊、検督難く周し。計るに太学坊に並びて四門を作るも、猶お太だ広し。臣愚か量るに、同処にては嫌い無し。且つ今の時制置くは多く中代に循う。未だ審らかにせず、四学は古に従うべきか否かを。名儒礼官を集めて、其の定むる所を議せんことを求む』。これに従った。

中書令に転じ、祭酒は元の如く。安東将軍・青州刺史として出向した。為政は儒緩にして、姦盗を禁止すること能わず、廉清寡欲にして公私を犯すこと無し。朝廷に還り、律令を議定した。劉芳は古今を斟酌し、大議の主となり、その中の損益は多く劉芳の意によるものであった。世宗は朝儀に欠けるところ多いを以て、その一切の諸議を悉く劉芳に委ねて修正させた。ここにおいて朝廷の吉凶大事は皆彼に諮訪することとなった。

太常卿に転ず。劉芳は設置された五郊及び日月の位が、城里を去ること数里、礼に違うこと、また霊星・周公の祀が太常に隷すべきでないことを以て、上疏して曰く。

詔して曰く『上る所は乃ち明らかな拠り有り。但だ先朝置立すること已久しく、且つ旧に従うべし』。

先に、高祖(北魏孝文帝)が代都において 中書監 ちゅうしょかん 高閭・太常少卿陸琇および公孫崇ら十余人に命じて金石および八音の楽器を修復させた。後に崇が太楽令となると、尚書僕射高肇に上奏して共に管理するよう請うた。世宗(宣武帝)は劉芳に共同で主管するよう詔した。芳は上表して礼楽の事は重大であり、軽々に決定すべきでないとし、公卿を広く招き、儒学者を多く集め、得失を討論し、是非を究明しなければ、万世に伝える不朽の規範とはなり得ないと述べた。詔により許可され、数十日の間に三度も議論が重ねられた。当時、朝臣たちは崇が長く専管してきたので誤りがあるはずがないと考え、それぞれ黙して論を発する者はいなかった。芳は経典や古い記録を引き合いに出し、旧来の文献を探し集めて互いに質疑応答し、いずれも明確な根拠を示して、崇の説には過不足があり典拠に合わないと論じた。崇は一応応答は示したが、問いの意図を理解せず、結局自説を通すことができなかった。尚書が上奏し、改めて芳に別途考証させると詔され、これにより学者たちはますます芳を宗仰するようになった。

芳は 社稷 しゃしょく に樹木がないことを理由に、また上疏して言った。「合朔の儀礼の規定によれば、日食の変異がある時は朱色の糸で縄を作り、社の樹を三周り巻くことになっている。しかし現在は樹木がない。また周礼の 司徒 しと 職には、『其の社稷の壝を設け、之に田主を樹つ。各其の社の宜しき木に従う』とある。鄭玄の注に、『宜しき木とは、松・柏・栗の類をいう』とある。これが第一の証拠である。また小 司徒 しと の封人職には、『王の社壝を設けることを掌り、畿封のために之を樹つ』とある。鄭玄の注に、『稷を言わないのは、王は社を主とし、稷は社の細かいものだからである』とある。これが第二の証拠である。また論語に、『哀公、社を宰我に問う。宰我対えて曰く、夏后氏は松を以てし、殷人は柏を以てし、周人は栗を以てす』とある。これは土地に適したものである。これが第三の証拠である。また白虎通に、『社稷に樹があるのは何故か。尊びて之を識し、民に望ませて直ちに敬わせ、また功を表すためである』とある。これを考察すると、樹がある理由を正しく解釈しており、有無については全く論じていない。これが第四の証拠である。ここに『社稷に樹があるのは何故か』と言っているので、然らば稷にも樹があることは明らかである。また五経通義に、『天子の太社・王社、諸侯の国社・侯社。その制度はどうか。曰く、社は皆垣ありて屋無く、其中に木を樹つ。木有る者は土、万物を生ずる主たり、万物は木に善きは莫し、故に木を樹つるなり』とある。これが第五の証拠である。これは最も丁寧に樹がある意味を備え解いている。また五経要義に、『社は必ず之に木を樹つ。周礼 司徒 しと 職に曰く、社を班ちて之を樹つ、各土地の生ずる所に従う。尚書逸篇に曰く、太社は惟だ松、東社は惟だ柏、南社は惟だ梓、西社は惟だ栗、北社は惟だ槐』とある。これが第六の証拠である。これはまた太社及び四方の社にそれぞれ別の樹がある明確な根拠である。また諸家の礼図を見ると、社稷図には皆樹が描かれており、誡社・誡稷だけが樹がない。これが第七の証拠である。樹がある根拠は弁明できたが、植えるべき木はまだ正されていない。論語に『夏后氏は松を以てし、殷人は柏を以てし、周人は栗を以てす』と称しているのは、世代が異なるためである。しかし尚書逸篇には『太社は惟だ松、東社は惟だ柏、南社は惟だ梓、西社は惟だ栗、北社は惟だ槐』とある。このように、一つの時代の中で五社がそれぞれ異なることになる。愚考では松を植えるのが適当である。何を以てそう言うか。逸書に『太社は惟だ松』とある。今松を植えても、礼を失う心配はない。ただ稷については確証がないが、社の細かいものであり、恐らく松から離れないであろう。」世宗はこれに従った。

芳は沈着で雅やかで方正であり、気概と志操が非常に高く、経伝に通暁していたため、高祖は特に彼を重んじて敬い、事あるごとに相談した。太子恂が東宮にいた時、高祖は芳の娘を娶らせようとしたが、芳は年齢と容貌が適さないと辞退した。高祖はその謙虚で慎重な態度に感嘆し、改めて芳に同族の娘を推挙するよう命じた。芳はそこで族子の長文の娘を推薦した。高祖は恂にその娘を娶らせ、鄭懿の娘と並んで左右の孺子とした。崔光は芳に対して中表の礼敬を払い、何事にも相談し仰いだ。芳は鄭玄の注した周官儀礼音・干宝の注した周官音・王粛の注した尚書音・何休の注した公羊音・范寧の注した穀梁音・韋昭の注した国語音・范曄の後漢書音を各一卷、弁類三卷、徐州人地録四十卷、急就篇続注音義証三卷、毛詩箋音義証十卷、礼記義証十卷、周官・儀礼義証を各五卷撰した。崔光は上表して 中書監 ちゅうしょかん の職を芳に譲ろうとしたが、世宗は許さなかった。延昌二年に卒去、六十一歳。詔により帛四百匹を賜り、鎮東将軍・徐州刺史を追贈され、諡は文貞。

長子の懌、字は祖欣。父の風雅を受け継ぎ、文筆を好んだ。徐州別駕・兗州左軍府長史・ 司空 しくう 諮議参軍を歴任した。たびたび行臺として出使し、赴任先では皆その職務に適う称賛を得た。通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・徐州大中正・行郢州事に転じ、まもなく安南将軍・大司農卿に遷った。卒去し、鎮東将軍・徐州刺史を追贈され、諡は簡。子がなく、弟の廞が第三子の㻐を後嗣とした。

㻐は、天平年間に江南へ逃れた。武定末年、帰国し、臨潁県子の爵位を賜った。

懌の弟の廞、字は景興。学問を好み志操堅固で、時の世に巧みに仕えた。高肇が権勢を振るった時や清河王懌が宰輔であった時、廞は皆その子や甥と交遊往来した。霊太后が臨朝すると、また太后の兄弟と往来して親しくし、太后は廞に詩賦を弟の元吉に教えるよう命じた。尚書郎・太尉属・中書侍郎、冠軍将軍・行南青州事を歴任し、まもなく安南将軍・光禄大夫に召された。孝庄帝の初め、国子祭酒に任じられ、また本官のまま行徐州事を兼ねた。前廃帝の時、驃騎将軍・左光禄大夫に任じられた。出帝の初め、 散騎常侍 さんきじょうじ に任じられ、驃騎大将軍に遷り、再び国子祭酒を領した。出帝が顕陽殿で孝経を講じた時、廞は執経を務め、応答論難は精緻を極めるには至らなかったが、風采と音声には見るべきものがあった。まもなく都官尚書を兼ね、また殿中尚書を兼ねた。出帝が関中に入ると、斉献武王( 高歓 こうかん )が洛陽に至り、廞を責めて誅殺した。時に五十二歳。

子の騭、字は子昇。若くして気風があり、広く文史に通じた。弱冠で州から主簿に辟召され、使命を奉じて宮廷に赴き、荘帝に顕陽殿で引見され、辺境の事を問われた。騭は応対が優雅で機敏であったため、帝はこれを良しとし、員外散騎侍郎に任じるよう命じた。出向して徐州開府従事中郎を補った。父の廞が死ぬと、騭は郷里の部曲を率いて兗州に赴き、刺史の樊子鵠と共に王師(高歓の軍)に抵抗し、戦うごとに涙を流して敵陣に突撃した。城が陥落し、捕らえられて 晋陽 しんよう に送られると、斉献武王は哀れんで赦した。文襄王(高澄)が儀同開府となった時、騭を属官とした。本州の大中正。武定初年、中書舎人に転じ、安東将軍を加えられた。当時は蕭衍(梁)と和睦通交しており、騭は前後して勅命を受けてその使者十六人を接待応対した。出て 司徒 しと 右長史となり、まもなく左長史に遷った。六年、兗州への使者を命じられ、東郡に到着した時、急病で卒去した。当時の人々はこれを嘆き惜しんだ。本将軍・南青州刺史を追贈された。

廞の弟の悦、永安年間、開府記室。

悦の弟の戫、武定年間、鎮南将軍・金紫光禄大夫。

戫の弟の粹、徐州別駕・朱衣直閤。粹は若い頃から気概と侠気を尊び、兄の廞が死ぬと、粹は部曲を招集し、兗州刺史の樊子鵠のもとに就き、関西(西魏)に呼応することを謀った。大将軍(高歓)が攻討し、城が陥落すると、殺された。

芳の叔父撫之の孫、思祖は、勇健にして将略あり。高祖の末年に入朝し、羽林監、梁・沛二郡太守、員外常侍を歴任す。しばしば統軍として南征し、累ねて功捷を著す。任城王の鍾離を囲むや、蕭衍はその冠軍将軍張恵紹及び彭瓫・張豹子らに衆一万を率いさせて糧を鍾離に送らしむ。時に思祖は平遠将軍たり、兵数千を領して邵陽において衍の餉軍を邀え、その長史元亀に歩騎一千を以て鍾離の北にその前鋒を遏えしめ、録事参軍繆琰にその後を掩わしめ、思祖みずから精鋭を率いてその陣を横衝し、三軍合撃してこれを大破し、恵紹及び衍の ぎょう 騎将軍・祁陽県開国男趙景悦・悦の弟寧遠将軍景脩・寧遠将軍梅世和・屯騎 校尉 こうい 任景攸・長水 校尉 こうい 辺欣・越騎 校尉 こうい 賈慶真・龍驤将軍徐敞らを擒え、数千人を俘斬す。尚書功を論じて千戸侯に封ぜんと擬す。思祖に二婢あり、姿容美にして歌舞を善くす、侍中元暉これを求め得ず、事遂に停寝す。後に揚烈将軍・遼西太守を除く。思祖路に於いて叛きて蕭衍に奔る、衍は思祖を以て輔国将軍・北徐州刺史と為し、頻りに淮北を寇す。数年にして死す。

纘の子晰、蕭衍の琅邪・東莞二郡太守を歴任し、朐山を戍る。朐山の人王万寿、晰を斬り、首を送り、朐山を以て内附し、併せて晰の子翐を京師に送る。数年の後、翐を以て給事中・汝陽太守と為す。正光初、郡より南叛す。

芳の従子懋、字は仲華。祖は泰之、父は承伯、劉彧に仕え、並びに名位あり。懋は聡敏にして学を好み、経史を博綜し、草隷書を善くし、奇字を多く識る。世宗の初めに入朝し、員外郎に拝す。尚書外兵郎中に遷り、軽車将軍を加う。芳甚だこれを重んず、凡そ撰制する朝廷の軌儀は、皆これと参量す。尚書の博議、懋と殿中郎袁翻常に議主と為る。従政に達し、台中の疑事、咸くこれに訪い決す。詔を受けて新令に参議す。性沈雅厚重にして、人と交わるを善くし、器宇淵曠、風流甚だ美しく、時論これを高しむ。尚書李平、これと莫逆の友を結ぶ。歩兵 校尉 こうい に遷り、郎中を領し、東宮中舎人を兼ぬ。員外常侍・鎮遠将軍に転じ、考功郎中を領し、考課の科を立て、黜陟の法を明らかにし、甚だ条貫あり。

粛宗の初め、大軍硤石を攻む、懋は李平の行台郎中たり、城抜くるに、懋頗る功あり。太傅・清河王懌その風雅を愛し、常に目してこれを送りて曰く、「劉生堂堂、搢紳の領袖、若し天年を仮せば、必ず魏朝の宰輔と為らん」と。詔して懋に諸の才学の士と儀令を撰成せしむ。懌宰相として積年、礼懋尤も重く、諸子をしてこれを師とせしむ。太尉司馬に遷る。熙平二年冬、暴病卒す。家甚だ清貧、亡ぶの日、徒に四壁のみ。太傅懌及び当時の才儁痛惜せざるは莫し。持節・前将軍・南秦州刺史を贈り、諡して宣簡と曰う。懋の詩誄賦頌及び諸の文筆、時に称せられ、又諸の器物造作の始め十五巻を撰し、名づけて物祖と曰う。

子筠、字は士貞。員外散騎侍郎より、河南郡丞・中散大夫・徐州大中正・秘書丞を歴任す。天平初卒す。前将軍・徐州刺史を贈る。子規、早卒す。

筠の弟筟、字は士文。少にして聡恵。年十二、尚書王衍に詣る、衍語らいて大いにこれを奇とし、遂に太傅李延寔・秘書李凱と上疏してこれを薦め、秘書郎に拝す。筟も亦た善士たり。興和元年卒す、年二十八。子無く、兄の子矩継ぐ。

懋の従叔元孫、志を丘園に養い、聞達を求めず。高祖彭城に幸す、起家して蘭陵太守に拝す。治め清静を以て名と為す。官に卒す。

子長文、高祖これを擢て南兗州冠軍府長史と為し、譙郡太守を帯ぶ。囲まれて糧竭き、節を固くして城を全うし、功を以て下邑子の爵を賜う。魯郡太守に遷る。高祖太子恂の為にその女を納れて孺子と為す。卒す。

子敬先、爵を襲ぐ。

敬先の弟徽、奉朝請、徐州治中。

長文の弟永、字は履南。頗る将略あり、征戦の勤を累ねて著す。中散大夫・龍驤将軍を歴位す。神龟中、大鴻臚卿を兼ね、策を持して高麗王安を拝す。還りて、范陽太守を除く。

劉僧利

芳の族兄僧利、財を軽んじ侠を通じ、甚だ郷情を得る。高祖徐州に幸す、引見し、これを善くし、徐州別駕に拝す。沛郡太守に遷る。後に遂に郷里に従容し、台官を楽しまず。十余年を積み、朝議その二心あるを慮り、軽車将軍・羽林監を徴拝す。官に卒す。

長子世雄、太山太守に至る。

世雄の弟世明、字は伯楚、頗る書伝に渉る。奉朝請より稍く遷りて蘭陵太守・彭城内史と為る。刺史元法僧城外に叛くに属し、遂に蕭衍に送る。衍封爵を加えんと欲す、世明固く辞して受けず、頻りに衍に請い乞うて還らんことを、衍これを聴く。粛宗の時、諫議大夫に徴す。孝庄の末、征虜将軍・南兗州刺史を除く。時に尒朱世隆ら威権自己にし、四方怨叛す、城民王乞得逼劫して世明を逼劫し、州を拠て蕭衍に帰す。衍世明を開国県侯に封じ、食邑千戸、征西大将軍・郢州刺史と為し、又儀同三司を加う。世明復た辞して受けず、固く北帰を請う。衍その意を奪わず、乃ち躬ら楽遊苑においてこれを餞る。世明既に還り、持する所の節を奉送し、身郷里に帰る。ここより復た朝に入らず、常に射猟を以て適と為す。興和三年家に卒す。驃騎大将軍・儀同三司・徐州刺史を贈る。

子の禕は、字を彦英という。武定の末、冠軍将軍・中散大夫となった。

初め、蘭陵の繆儼霊奇は、彭城の劉氏と才望がほぼ等しかった。彭城が内附すると、霊奇の弟子の承先は薛安都に従って京師に至り、爵を襄賁子に賜わり、まもなく徐州に還ったが、数十年の間、官に就く者は全くいなかった。世宗の末、承先の子の彦植が爵を襲い、叙用され、次第に昇進して伏波将軍・羽林監となった。彦植は恭順で慎み深く、長者であり、当時に称された。

時に 滎陽 けいよう の鄭演は、劉彧に仕えて琅邪太守となった。徐州刺史薛安都が内附を謀ろうとした際、演はその事を賛成した。顕祖が初めて入朝した時、功により冠軍将軍・彭城太守・洛陽侯に除された。後に太中大夫に拝され、爵を雲陽伯に改めた。卒し、幽州刺史を追贈され、諡は懿といった。その子孫はこれにより彭・泗に家を定めた。

子の長猷は、父の勲功により起家し、寧遠将軍・東平太守に拝された。まもなく沛郡に転じた。入朝して南主客郎中・太尉属となり、爵を雲陽伯に襲った。車駕が南伐し、宛城を既に攻克すると、長猷を南陽太守に拝した。鑾輿が将に還らんとする時、詔して長猷に曰く、「昔、曹公が荊州を克ち、満寵を後に留めた。朕今卿にこの郡を委ね、兼ねて戎馬を統べしむ。ただ初附を綏撫するのみならず、城を扞ぐことを託すなり」と。特に縑二百匹を賜った。高祖が南陽に崩じ、その郡において殯した。まもなく護軍長史に徴された。世宗の初め、寿春が帰欵すると、兼給事黄門侍郎を加え、節を持ち宣慰した。任城王が揚州刺史となると、詔して長猷を諮議参軍とし、安豊太守を帯びさせた。徐州武昌王府長史に転じ、彭城内史を帯びた。諫議大夫に徴拝され、 司徒 しと 諮議に転じ、通直 散騎常侍 さんきじょうじ に遷った。永平五年に卒した。諡して貞侯といった。

子の廓が襲封した。卒した。

子の元休が襲封した。興和年間、睢州刺史となった。斉が禅を受けると、爵は例により降格された。

元休の弟の憑は、字を元祐という。武定年間、 司徒 しと 従事中郎となった。

【史評】

史臣曰く、游明根は雅道儒風を有し、終に非常の遇を受け、太和の盛時に当たりて乞言の重責を担う。抑々もまた曠世一時の人物なり。肇は既に聿修し、堂構を克隆し、正情梗気、顛沛にしても渝らず、爵を辞するは主幼の年、節を亢するは臣権の日、群公を顧みれば、その風は固より遠し。劉芳は矯然として特立し、沈深にして古を好み、博通洽識、世の儒宗たり、亦た当年の師表なり。懋は才流識学、名士の風有り。世に重んぜらるるも、虚然たるにあらず。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻55