游雅
游雅、 字 は伯度、幼名は黄頭、広平郡任県の人である。幼少より学問を好み、高い才能があった。世祖(太武帝)の時、勃海郡の高允らと共に名声を知られ、 中書 博士・東宮内侍長に任ぜられ、著作郎に転じた。劉義隆(宋の文帝)のもとに使いし、散騎侍郎を授けられ、爵位は広平子を賜り、建威将軍を加えられた。やがて太子少傅に昇進し、禁兵を管轄し、爵位は侯に進み、建義将軍を加えられた。詔を奉じて中書侍郎胡方回らと共に律令制度の改定に当たった。 散騎常侍 ・平南将軍・東雍州 刺史 として出向し、梁郡公の仮爵を受けた。任地において清廉で、善政を多く施した。秘書監に召還され、国史編纂の任を委ねられたが、著述に励まず、遂に成すところがなかった。詔により太華殿賦を作ったが、文は多く掲載されない。游雅の性質は剛直で愚直、自らを誇り、人を見下すことを好んだ。高允は游雅の文学を重んじたが、游雅は高允の才能を軽んじた。高允の性質は柔和で寛大であり、これを恨みとしなかった。高允が邢氏と婚姻しようとした時、游雅は高允に自分の一族から娶るよう勧めたが、高允は従わなかった。游雅は言った、「人は河間の邢を貴び、広平の游に勝たず。人は自ら伯度を棄てるも、我は自ら黄頭を敬う」と。己を貴び人を賤しむことは、皆この類である。高允が『徴士頌』を著した時、特に游雅を重んじて記した。事は高允伝にある。游雅は議論の是非を論じて、儒者の陳奇に憤り、遂に陳奇を陥れて族誅に至らしめた。議論する者は深くこれを責めた。和平二年に卒去した。相州刺史を追贈され、 諡 は宣侯という。
子の僧奴、爵位を継いだ。卒去し、子の双鳳が継いだ。
游雅の弟の恒、子は曇護。太和年間、中散となり、典寺令に転じた。後に仇池を慰労した時、賊に害された。 肆 州刺史を追贈された。
高閭
高閭、字は閻士、漁陽郡雍奴県の人である。五世の祖の原は、晋の安北軍司・上谷太守・関中侯であり、碑が薊中にある。祖父の雅は、若くして美名があり、州の別駕であった。父の洪、字は季願、陳留王の従事中郎であった。高閭が貴顕となってから、寧朔将軍・幽州刺史・固安貞子を追贈された。
高閭は早く孤児となり、若くして学問を好み、経史を広く綜覧し、文才は優れて雄大、筆を下せば文章となった。本名は驢であったが、 司徒 の崔浩がこれを見て奇異とし、閭と改め字とした。真君九年、中書博士に任ぜられた。和平の末、中書侍郎に転じた。高宗(文成帝)が 崩御 し、乙渾が権力を専断し、朝廷内外は危惧した。文明太后が臨朝し、乙渾を誅殺し、高閭と中書令の高允を禁中に引き入れ、大政に参与させて決断させ、爵位安楽子を賜った。南中郎将を加えられ、鎮南大将軍尉元と共に南へ徐州へ赴き、高閭は先に彭城に入り、鍵(管籥)を接収した。尉元は上表して高閭に本官のまま東徐州刺史を兼任させ、張讜と対峙して団城を鎮守させた。後に京城に戻り、功により爵位は侯に進み、昭武将軍を加えられた。
顕祖(献文帝)が位を譲り、崇光宮に移った時、高閭は上表して頌を奉った。曰く、
高允は高閭の文章が豊かで優雅であるとして、自らの代わりに推挙したので、遂に顕祖に知られ、しばしば引見され、政治について議論に参与した。鹿苑頌・北伐碑を作ることを命じられ、顕祖はこれを良しとした。承明初年、中書令となり、給事中を加えられ、機密を委ねられた。文明太后は高閭を非常に重んじ、詔令・書檄・碑銘・賛頌は全てその文によるものであった。
太和三年、軍を出して淮北を討とうとした時、高閭は上表して言った。「伏して見ますに、廟算(朝廷の計画)は淮海に事有りと。既に事は成ったものは言わぬとはいえ、なお考えをめぐらすべきです。臣は愚劣をもって、元より武用ではなく、軍旅のことについては、特に学ばぬところです。ただ、忌憚なき朝にて、狂言を 肆 にし、小さな短見ではありますが、窃かに疑うところがあります。臣は聞きます、兵は凶器、やむを得ずしてこれを用いると。今天下は開けて泰平、四方に憂い無く、豈に盛世において、干戈を妄りに動かすべきでしょうか。疑いその一です。淮北の城は、凡そ五箇所あり、難易相半ばし、皆攻撃を要します。然るに攻守は図り難く、力は百倍も懸隔し、反覆思量しても、その利を見出せません。疑いその二です。仮に思いのままになったとしても、国にとって用が無く、兵を発して遠く入り、費用損耗は転じて多くなります。もし城を置かねば、これを空しく争うというのです。疑いその三です。もし思い通りにならなければ、日月を引き延ばし、衆を屯し費を聚めること、何ぞ有らざるものがありましょう。疑いその四です。伏して願わくは、この四つの疑いを考え、時を移さず軍旗を返されますよう」。文明太后は令して言った。「六軍は電撃の如く発する、朽ち木を摧くが如し、何ぞ四難を慮わんや」。
尚書 ・ 中書監 に転じた。淮南王の他が上奏して旧制に依り俸禄を断つことを求め、文明太后は令して群臣を召し議させた。高閭は上表して言った。
詔して高閭の議に従った。
高祖(孝文帝)はまた王公以下を皇信堂に引見し、高祖は言った。「政は多途なりといえども、治は一体に帰す。朕は毎に慈訓(太后の教え)を蒙るも、なお自ら昧然としている。誠に忠と佞には損益有るを知るが、その異同を未だ識らず、常に忠貞の者が毀られ、佞人が便りに進むことを懼れる。寤寐もこれを思い、隠れたる憂い有るが如し。国の俊彦・朝の賢人は、休戚を共にする者、宜しくこの真偽を弁じ、以て朕の懐を解くべし」。尚書の游明根が答えて言った。「忠佞の士は、実に知り難く、古に依って人に爵するには、先ず官をもってこれを試み、官が定まって後に禄を与え、三載考績して後に忠佞明らかになります」。高閭は言った。「窃かに謂いますに、袁盎が慎夫人の席を徹したのは、これがその忠であり、讒言して晁錯を殺したのは、これがその佞です。もし別人をもって言えば、望之(蕭望之)が忠であり、石顕が佞です」。高祖は言った。「聖人でない以上、忠と佞の行いは、時に互いに有るものだ。ただ、忠の功績が顕れればこれを忠と謂い、佞の行跡が成ればこれを佞と謂う。史官は成った事実に拠って書くので、今これを見れば、区別は明らかである。朕の問うところは、未然の前であり、卿らの答えるところは、已然の後である」。高閭は言った。「佞なる者は、智を飾って事を行い、忠なる者は、心を発して道に附く。譬えば玉石の如く、皎然として知ることができます」。高祖は言った。「玉石は同体にして異名、忠佞は異名にして同理。同を求めれば、則ちその異なる所以を得、異を尋ねれば、則ちその同じ所以を失う。出処同異の間、忠佞の境を交換する、豈に皎然として易く明らかであろうか。或いは佞を託して忠を成し、或いは忠を仮りて佞を飾る者あり。例えば楚の子綦(申公子綦か)は後事に忠を顕したが、初めは佞ではなかった」。高閭は言った。「子綦が楚を諫めたのは、初めは随って述べたが、終に忠言を致した。これはまさに幾諫(微かに諫める)を欲したのであり、佞のためではなかった。子綦が初めの権謀を設けなければ、後の忠は顕れる由が無かったでしょう」。高祖は高閭の答えを良しとした。
高閭は後に上表して言った。
詔して言った。「表を覧る、卿の安辺の策を具す。近く卿と面会して一二を論じるであろう」。
高祖はまた群臣を引見し、 蠕蠕 討伐を議した。帝は言う、「蠕蠕は前後二度にわたり朔辺をかき乱し、近ごろ降伏してきた者の話によれば、敕勒の渠帥が兵を起こしてこれに叛き、蠕蠕の主はみずから徒衆を率いて西漠まで追撃したという。今、その疲弊に乗じて討つべきか、それとも兵を休め民を安んずべきか」。左 僕射 穆亮が答えて言う、「古よりこのかた、国を持つ者家を持つ者、戎事を以て第一とせざるはありません。蠕蠕の子孫はその凶業を受け継ぎ、しばしば寇擾を繰り返し、悪を為して悔い改めず、自ら互いに背き叛い合っております。臣の愚見によれば、軍を起こしてこれを討つべきであり、たとえ一挙にその巣窟を除くことはできなくとも、その醜悪な勢いを挫くことができます」。閭は言う、「昔、漢の時代は天下が統一されていたゆえ、北狄を窮追することができましたが、今は南に呉の寇があり、軍を懸けて深入りすべきではありません」。高祖は言う、「先朝がたびたび征伐を起こされたのは、未だ賓服しない虜がいたからである。朕は太平の基を承けているのに、どうして兵革を揺り動かすことがあろうか。そもそも兵は凶器であり、聖王もやむを得ずこれを用いるのである。ただちに停止せよ」。高祖はまた言う、「今、蠕蠕の使者を帰還させようと思うが、書状を以て問うべきかどうか」。群臣はこれを行うべきと認め、詔して閭に書を作らせた。この時、蠕蠕の国に喪があったが、書状には凶事について述べなかった。高祖は言う、「卿は 中書監 として、文詞の職を掌り、旨書を作るにあたり、彼らの凶事について論じない。もし知りながら作らなければ、その罪は明白であり、もし思慮が至らなければ、その任に謝すべきである」。閭が答えて言う、「昔、蠕蠕の主は和親を重んじたが、その子は父の志を遵ばず、しばしば辺境を犯しました。臣の愚見によれば、弔問すべきではないと考えます」。高祖は言う、「その父を敬えば子は悦び、その君を敬えば臣は悦ぶ。卿が弔慰すべきでないと言うのは、何たる言葉か」。閭はついに過ちを認め、冠を免じて謝罪した。高祖は閭に言う、「蠕蠕の使者牟提は小心恭慎で、使者としての礼をよく備えている。同行の者がその篤実さを憎み、しばしば陵辱を加えている。彼が北に帰還すれば、必ずや誹謗され誣告されるであろう。昔、劉準の使者殷霊誕は常に配下の者に非礼なことをさせなかったが、帰国すると果たして讒言され、極刑に処せられた。今、旨書を作るにあたり、牟提がその国に忠誠であることを明らかにし、蠕蠕の主に知らせるがよい」。
この年の冬至、高祖と文明太后は群官を大いに饗応し、高祖はみずから太后の前で舞い、群臣も皆舞った。高祖は歌い、さらに群臣を率いて再拝して寿を上奏した。閭が進み出て言う、「臣は聞きます。大夫が孝を行えば、その行いは一家に合い、諸侯が孝を行えば、その名声は一国に著しく、天子が孝を行えば、その徳は四海に及ぶと。今、陛下は聖性天より授かり、孝道を篤く行い、觴を挙げて寿を上奏され、霊応に差し支えなく、臣らは慶び踊るに堪えず、謹んで千万歳の寿を上ります」。高祖は大いに悦び、群臣に帛を賜い、人ごとに三十匹を与えた。
また皇信堂で政を議し、高祖は言う、「百揆は多岐にわたり、万機の事は煩雑である。行き届かない欠点があれば、卿らは宜しく陳述すべきである」。閭が答えて言う、「臣が伏して思うに、太皇太后の十八条の令、および仰ぎ尋ねる聖朝の行われたことは、事は百揆に行き届き、理は庶務を兼ねております。孔子のような至聖でも、三年で成果があり、子産が鄭を治めるには、数年を経てようやく成就しました。今、聖化がまさに宣べられ、風政が急に改まっております。これを積み重ねて久しく行えば、自然に治を致し、理は必ず明らかとなり、事の欠けることを憂うるには及びません。また、為政の道は、終始一貫しており、民はこれに従わせることはできても、これを知らせることはできません。政令が既に宣べられた後、もし民に合わないものがあれば、民の心に因ってこれを改めるべきです。願わくはその事を終わりまで成し遂げ、至高の教えを必ず行わせてください。臣は三たび反復して考え、理はここに尽きており、他に知ることはありません。ただ今の法度を、必ず理に適い、必ず明らかにし、必ず実行し、必ず長く保たしめ、残虐を勝ち去り殺伐を除けば、遠からずして達成できるでしょう」。高祖は言う、「刑法は、王道の用いるところである。何が法であり、何が刑か。施行する日、何を先にし何を後にするか」。閭が答えて言う、「臣は聞きます。制度を創り会を立て、軌物を以て衆を斉しくするのを法といい、制約に違反し、これを憲に致すのを刑というと。されば法は必ず先に施され、刑は必ず後に著されるべきです。鞭杖以上から死罪に至るまで、皆これを刑といいます。刑とは成すことであり、成して改めることができないものです」。高祖は言う、「論語に称する、『冉子が朝を退く。孔子問うて曰く、何ぞ晏なるや。対えて曰く、政あり。子曰く、其れ事なり。政あらば、吾を用いずといえども、吾其れこれを聞くに与からんや』と。何が政であり、何が事か」。閭が答えて言う、「臣は聞きます。政とは、君上が施行し、法度に合い、国を経め民を治める類のものをすべて政といい、臣下が教えを奉じ旨を受け、作ってこれを実行するのを事というと。されば天下が大同し、風軌が斉一であれば、政は天子より出で、王道が衰えれば、政は諸侯より出で、君道が欠ければ、政は大夫より出ずるのです。故に詩序に曰く、『王道衰え、政教失えば、則ち国政を異にし、家俗を殊にする』と。政とは、上に行うところ、事とは、下が奉ずるところです」。高祖は言う、「もし君命が政であるならば、子夏が莒父の宰となり、政を問うたのは、これは命を奉ずるだけであって、どうして政と称することができようか」。尚書游明根が言う、「子夏は民を宰るゆえに、政と称することができるのです」。帝はこれを良しとした。
十四年秋、閭は上表して言う。
詔して言う、「表を省みてこれを聞く。宜しく有司に勅してこれに依り施行せしむべし」。
後に詔して閭に太常とともに雅楽を採り金石を営ませ、また広陵王師を領させた。出でて鎮南将軍・相州刺史に除された。律令制定に参与した功労により、布帛千匹・粟一千斛・牛馬各三頭を賜う。閭は上疏して呉を伐つ策を陳べ、高祖はこれを容れた。都を 洛陽 に遷すにあたり、閭は表を上って諫め、遷都には十の損害があると述べ、やむを得ないならば 鄴 への遷都を請うた。高祖はこれを大いに嫌った。
蕭鸞の雍州刺史曹虎が襄陽を拠点として降伏を請うたので、詔を下して劉昶・薛真度らに四道より南征させ、車駕自ら懸瓠に幸した。閭は上表して諫めて曰く、「洛陽は草創の地であり、曹虎は既に質任を派遣せず、必ずや誠心あるものにあらず、軽挙すべきではない」と。高祖は容れず。曹虎は果たして虚詐であり、諸将は皆功なくして還った。高祖は鍾離を攻めて未だ克たず、将に淮南において故城を修復して鎮戍を置き、新たに帰附した民を撫でんとし、閭に璽書を賜い、その状況を詳しく論じた。閭は上表して曰く、「南方の地は乱亡し、僭主は屡々交代し、陛下は将を命じ自ら征し、威は江左に迫り、風を望んで化を慕い、数城を抜き、恩を施し徳を布き、民を襁負して携えるは、辺方に流れ、威恵普く著わる、と謂うべし。然れども元より大挙にあらず、軍を興すこと後時なり。本より降を迎うるため、戎卒は実に少なし。兵法に曰く、十なれば之を囲み、倍すれば之を攻む、と。率いる所既に寡く、東西懸隔し、併せて称え難し。伏して承るに、淮南に留戍し、新附を招撫せんと欲すと。昔、世祖は回山倒海の威を以て、歩騎数十万を率いて南に瓜歩に臨み、諸郡尽く降るも、而して盱眙の小城は、攻めて克たず。班師の日、兵は一郡を戍らず、土は一廛を闢かず。夫れ豈に人無からんや、大鎮未だ平らかならず、小を守るべからざる故なり。堰水は先ず其の源を塞ぎ、伐木は必ず其の本を抜く。源塞がず、本抜かずんば、枝を翦ぎ流を竭くすと雖も、終に絶つべからず。寿陽・盱眙・淮陰は、淮南の源本なり。三鎮の一を克たざるに、兵を留めて郡を守らしむるは、自ら全うし難きこと明らかなり。既に敵の大鎮に逼り、深淮の険を隔て、兵を少しく置くは自ら固うするに足らず、衆を多く留むれば糧運充たし難し。又、渠を修めて漕を通ぜんと欲すれば、路は必ず泗口に由らん。淮を溯りて上れば、須らく角城を経べし。淮陰は大鎮にして、舟船素より蓄えあり、敵は先に積みし資に因り、以て始めて行く路を拒がん。若し元戎旌旗を旋らせば、兵士挫け怯み、夏の雨水長じ、救援実に難し。忠勇奮うと雖も、事済み難し。淮陰は東に山陽に接し、南に江表に通じ、兼ねて江都・海西の資に近く、西に盱眙・寿陽の鎮あり。且つ安土楽本は人の常情なり。若し必ず留戍せば、軍還りの後、恐らくは敵に擒にされん。何となれば、鎮戍新たに立ち、異境に懸かり、労を以て逸を禦ぎ、新を以て旧を撃つに、而して自ら固うする者は、未だ之有らざるなり。昔、彭城の役、既に其の城を克ち、戍鎮已に定まるも、而して叛きて外向を思う者は猶数方を過ぐ。角城は蕞爾たる地、淮北に処り、淮陽を去ること十八里、五固の役、攻囲歴時するも、卒に克つ能わず。今を以て昔に比すれば、事数倍を兼ぬ。今、向暑に以て、水雨方に降り、兵刃既に交わり、恩恤し難し。降附の民及び諸守令も亦た淮北に徙置すべし。其の然らずんば、兵を進めて淮に臨み、速やかに士卒を渡し、班師して京に還るべし。太武の成規に踵み、皇居を伊洛に営め。力を畜えて敵の釁を待ち、徳を布きて遠人を懐けしめ、中国を清穆ならしめ、化を遐裔に被らしむ。淮南の鎮は、自ずから効を致すこと期し得べく、天安の捷は、指辰遠からず」と。
車駕還りて石済に幸し、閭は行宮に朝した。高祖、閭に謂ひて曰く、「朕が往年の意は、決征せんと欲せざりしが、但だ兵士已に集まり、幽王の失ひを為さんことを恐れ、中止を容れず。洛を発するの日、正に懸瓠に至らんと欲して、形勢を観んとす。然れども機失ふべからず、遂に淮南に至る。而して彼の諸将は、並びに州鎮を列ね、至る所獲無し。定めて一月日の遅きに由る故なり」と。閭対へて曰く、「人は皆其の事とする所を是とし、其の事とせざる所を非とす。猶ほ犬の其の主に非ざるを吠ゆるが如し。且つ古の攻戦の法は、倍すれば之を攻め、十なれば之を囲む。聖駕親しく戎すは、誠に大捷すべし。大獲無き所以は、良に兵少きに由る故なり。且つ都を徙るるは天下の大事なり。今、京邑甫爾にして、庶事造創す。臣聞く、詩に『此の中国を恵みて、以て四方を 綏 んず』と。臣願はくは陛下、伊瀍に従容し、京洛に優遊して、徳を四海に被らしめ、中国を緝寧ならしめ、然る後に向化の徒、自然に楽附せんことを」と。高祖曰く、「伊瀍に従容せんと願ふは、実に亦た少からず。但だ未だ獲ざるのみ」と。閭曰く、「司馬相如は臨終に封禅を見ざるを恨めり。今、江介賓せず、小賊未だ 殄 さずと雖も、然れども中州の地は略ぼ尽く平らかなり。豈に聖明の辰に於て、盛礼を闕くべけんや。齊桓公は諸侯を覇とすと雖も、猶ほ封禅を欲す。況や万乗をや」と。高祖曰く、「此に由りて桓公は管仲に屈せり。荊揚未だ一ならず、豈に卿の言の如くならんや」と。閭曰く、「漢の名臣は皆江南を以て中国とせず。且つ三代の境も亦た遠からず」と。高祖曰く、「淮海惟れ揚州、荊及び衡陽惟れ荊州、此れ中国に近からずや」と。
車駕の鄴に至るに及び、高祖は頻りに其の州館に幸した。詔して曰く、「閭は昔、中禁に在りて、礼を定め楽を正すの勳あり。州に藩を作して、廉清公幹の美あり。大軍軫を停めてより、庶事咸く豊かに、国の老成と謂ふべく、善く始めて令終する者なり。毎に其の徳を惟ふに、朕甚だ嘉とす。帛五百匹・粟一千斛・馬一匹・衣一襲を賜ひ、以て其の勤を褒めよ」と。
閭は毎に本州を請ひて自ら効せんとす。詔して曰く、「閭は懸車の年に当たり、方に衣錦を求め、進むを知りて退くを忘れ、謙徳に塵す。平北将軍に降号すべし。朝の老成、宜しく情願を遂げ、幽州刺史に徙授し、存勧両修せしめ、恩法並びに挙げよ」と。閭は諸州が従事を罷め、府に依りて参軍を置くは、治体に便ならずとし、表して旧に復すべしとす。高祖悦ばず。歳余りして、表して致仕を求め、優詔を以て答え許さず。太常卿に徴す。頻りに表して遜り陳ぶるも聴かず。又、車駕南に漢陽を討たんとし、閭は上表して師を回すを諫め求む。高祖容れず。漢陽平らぎ、閭に璽書を賜ふ。閭は上表して謝を陳ぶ。
世宗 践祚 し、閭は累表して位を遜る。詔して曰く、「閭は貞幹早く聞こえ、儒雅素より著はる。出内清華、朝の儁老なり。年及びて致仕すべく、固く辞任を求め、宜しく宗伯を解き、安車の礼を遂げしめ、特ち優授を加へ、老成の秩を崇くすべし。光禄大夫、金印・紫綬を授くべし」と。 散騎常侍 ・兼吏部尚書邢巒をして家に就きて拜授せしむ。及び辞するに、東堂に引見し、餚羞を賜ひ、大政を訪ふ。其の先朝の儒旧にして、老を告げて永く帰らんとするを以て、世宗之が為に流涕す。詔して曰く、「閭は六朝に歴官し、五紀に勲を著はす。年礼に致辞し、義進退に光り、帰軒首路す。感悽兼ねて懐ふ。安駟籝金は漢世の栄貺なり。安車・几杖・輿馬・繒綵・衣服・布帛を賜ひ、事豊厚に従へ。百僚之を餞るは、猶ほ昔の羣公の二疏を祖するが如し」と。閭は進みて北邙に陟り、上りて闕表を望み、以て恋慕の誠を示す。景明三年十月、家に卒す。世宗、使者を遣はし弔慰し、賵帛四百匹を賜ふ。四年三月、鎮北将軍・幽州刺史を贈り、諡して文侯と曰ふ。
閭は文章を好み、軍国書檄・詔令・碑頌・銘賛など百余篇を撰し、三十巻に集めた。その文もまた高允の流れを汲み、後世に二高と称され、当時に重んぜられた。閭は強情で果断、敢えて直諫し、私室にあっては言葉はわずかに聞こえるばかりであったが、朝廷の広衆の中に及ぶと、談論は鋒を並べて起こり、人として敵う者はいなかった。高祖はその文雅の美を以て、常に優礼を以て遇した。しかし貪欲で狭量、傲慢であり、初め中書に在った時、諸博士を罵辱することを好み、博士・学生百余り、事を求める者あれば、その財貨を受けざるはなかった。老いて二州の任に及んで、ようやく廉潔・倹約に自ら慎み、良牧の誉れがあった。三子あり。
長子元昌は爵を襲ぐ。位は遼西・博陵二郡太守に至る。
子欽、字は希叔、頗る文学あり。莫折念生の反するや、欽は元志に従い西討し、志敗れて賊に擒えられ、念生は以て黄門郎となす。秦州にて死す。
子穆宗は祖の爵を襲ぐ。興和年中、定州開府祭酒。
欽の弟石頭・小石、皆早く卒す。
元昌の弟定殷、中壘将軍・漁陽太守。卒し、征虜将軍・安州刺史を贈られる。
子洪景、少にして名誉あり。早く卒す。
次子宣景、武定年中、開府司馬。
定殷の弟幼成、員外郎。頗る文才あり、性清狂にして、奴に害せらる。
閭の弟悦、志篤く学を好み、閭に優る美あり。早く卒す。
【史評】
史臣曰く、游雅の才業は、亦た高允の次たるか。族を陷れて陳奇を害するに至りては、これ世を絶ちて祀らざる所以なり。高閭は発言に章句あり、下筆に文彩富み、亦た一代の偉人なり。故に能く累朝に遇を受け、高祖に見重んぜらる。冠を掛けて事に謝し、礼懸輿に備わり、美なり。
校勘記
この南北朝作品は全世界において公有領域に属する。何となれば、作者の没後100年以上を経過し、かつ作品は1931年1月1日以前に出版されたからである。