巻53

李孝伯

李孝伯は趙郡の人であり、高平公李順の従父弟である。父の李曾は、若くして鄭氏の礼と左氏春秋を修め、教授を業とした。郡が三 はか 功曹に辟召したが就かず、門人が勧めると、李曾は言った、「功曹の職は、郷選の高第とはいえ、なお郡の吏に過ぎぬ。北面して人に仕えるなど、いかたやすからん。」州が主簿に辟召すると、官に着いて一月余りで、嘆いて言った、「梁叔敬が言うには、州郡の職は徒らに人を労するのみと。道行われずんば、身の憂いなり。」遂に家に帰り講授した。太祖の時、博士に徴されて拜され、出て趙郡太守となり、令行禁止、劫盗は奔竄した。太宗はこれを嘉した。 并州 へいしゅう の丁零が、しばしば山東の害となったが、李曾が百姓の死力を得られることを知り、憚って境に入らなかった。賊が常山の界で一頭の死鹿を得て、趙郡の地と思い、賊の長がこれを責め、鹿を元の場所に送り返させた。隣郡はこのことを謡って言った、「趙郡の鹿と詐るも、なお常山の粟に勝る。」そのように畏れられたのである。卒し、平南将軍・荊州 刺史 しし ・栢仁子を追贈され、 おくりな して懿といった。

孝伯は若くして父の業を伝え、群言を博く綜べた。風儀は美しく、動作に法度があった。従兄の李順が世祖に言上し、中散に徴され、世祖はこれを見て異とし、李順に言った、「まことに卿が家の千里駒なり。」秘書奏事中散に遷り、侍郎・光禄大夫に転じ、爵を南昌子と賜り、建威将軍を加えられ、軍国の機密を委ねられ、甚だ親寵された。謀謨は切秘にして、当時の人は知ることができなかった。比部 尚書 しょうしょ に遷る。頻りに征伐に従い規略の功があったため、爵を寿光侯に進め、建義将軍を加えられた。

真君の末、車駕は南伐し、彭城を出んとした。劉義隆の子である安北将軍・徐州刺史・武陵王劉駿が、将の馬文恭に歩騎万余を率いさせ蕭城に至らせた。前軍がこれを撃破し、文恭は走って免れ、その隊主の蒯応を捕らえた。義隆は大駕が南巡したと聞き、またその弟の 太尉 たいい ・江夏王義恭に衆を率いさせ彭城に赴かせた。世祖は彭城に至り、亜父の冢に登って城内を望み、蒯応を小市門に送り届け、世祖の詔を宣し、義恭らを労問し、併せて蕭城の敗を自ら陳述させた。義恭らが蒯応に問う、「魏帝は自ら来たのか?」応は言う、「自ら来たり。」また問う、「今は何処にいる?」応は言う、「城の西南にあり。」また問う、「士馬はどれほどか?」応は言う、「中軍四十余万。」劉駿は人を遣わし酒二器・甘蔗百挺を献じ、併せて駱駝を請うた。

世祖は明くる日また亜父の冢に登り、孝伯を小市に遣わした。劉駿もまたその長史張暢を遣わし孝伯に対面させた。孝伯は遥かに張暢の姓を問うと、暢は言う、「姓は張。」孝伯は言う、「そなたは張長史であるな。」暢は言う、「君はどうして知っているのか?」孝伯は言う、「既にこの境に渉る以上、どうして悉くせざるを得よう。」暢は孝伯に問う、「君はまた何姓か?何の官に居るのか?」孝伯は言う、「我は戎行の一夫に過ぎぬ、問うに足らぬ。然れども足下と相敵するに足る。」孝伯は言う、「主上に詔あり、『太尉・安北は暫く門を出で、相見えんことを欲す。朕もまた彭城を攻めず、何ぞ将士を労苦せしめ、城上に厳備せんや』と。今、駱駝及び貂裘雑物を賜わんことを遣わす。」暢は言う、「詔ありとの言葉は、正に彼の国に施すべきもので、ここで称えることがどうしてできようか?」孝伯は言う、「卿が家の太尉・安北は、人臣ではないか?」暢は言う、「その通り。」孝伯は言う、「我が朝廷は万国を奄有し、率土の濱、敢えて臣ならざるはなく、仮に隣国の君たりとも、何ぞ隣国の臣に対して詔を称えざらんや?」孝伯はまた暢に問う、「何ぞ至って忽ちに門を杜ち橋を絶つのか?」暢は言う、「二王は魏帝の壁壘未だ立たず、将士疲労せるを以て、この精甲十万、人は致命を思う、軽々しく相凌ぎ践まれるを恐れ、故に暫く城を閉じたまで。士馬を休息するを待ち、然る後に共に戦場を治め、日を剋して交戦せんとす。」孝伯は言う、「令行禁止は主将の常事、宜しく法を以て物を裁すべく、何ぞ橋を発ち門を杜つを用いん。窮城の中、また何を以て十万と誇大するのか?我にもまた良馬百万あり、またこれをもって相矜ることができよう。」暢は言う、「王侯は険を設く、何ぞ但だ法令のみならんや。我もし君を誇らば、当に百万と言うべく、十万と言う所以は、正に二王の左右が素より畜養する者に過ぎぬ。この城内には数州の士庶あり、工徒営伍はなお論ずるに及ばぬ。我は元より人を闘わすのであって、馬の足を闘わすのではない。かつ冀の北土は馬の生ずる所、君はまた何を以て逸足を以て見誇するのか?」孝伯は言う、「王侯が険を設くるは、誠に来言の如し。開閉には常あり、何ぞ杜塞するのか?橋を絶つ意、義は何にあるのか?この城守は君の習う所、野戦は我の長ずる所、我が馬に恃むは、猶お君が城に恃むが如きのみ。」城内に貝思という者がおり、かつて京師に至ったことがあり、義恭はこれを見させた。思はこれが孝伯であると識った。思は前に進み孝伯に問う、「李尚書、行途ご苦労。」孝伯は言う、「この事は応に相与に共に知るべき。」思は答えて言う、「共に知るが故に、仰ぎて労う。」孝伯は言う、「君の至意に感ず。」

既に門を開き、暢は人を屏き仗を却け、出て賜物を受け取った。孝伯は言う、「詔にて貂裘を太尉に賜い、駱駝・騾・馬を安北に賜う。蒲萄酒及び諸の食味は当に相与に同進すべし。」暢は言う、「二王、敬んで魏帝に白す。見えんと欲するを知り、常に面接を願う。但し本朝に命を受け、忝くも藩任に居る。人臣に境外の交わり無く、故に私覿を容れず。」義恭は皮袴褶一具を献じ、劉駿は酒二器・甘蔗百挺を奉った。孝伯は言う、「また詔あり、『太尉・安北は久しく南信を絶ち、殊に憂悒すべし。若し信を遣わさんと欲せば、当に護送すべく、仮りに騎を須いば、また馬を以て送るべし』と。」暢は言う、「この方には間路甚だ多く、使命は日夕往復し、復たこれを以て魏帝を労せず。」孝伯は言う、「また水路あるを知る、白賊に断たれたるに似たり。」暢は言う、「君は白衣を著て、白賊と称するのか。」孝伯は大笑して言う、「今の白賊は、黄巾・赤眉に異なるに似たり。」暢は言う、「黄巾・赤眉は江南に在らず。」孝伯は言う、「江南に在らずとも、また徐方を離れぬ。」孝伯は言う、「先に安北と相聞かせたが、何ぞ久しくして報ぜざるのか?」暢は言う、「二王は遠きを貴び、啓聞すること難し。」孝伯は言う、「周公は髪を握り餔を吐く、二王は何ぞ独り遠きを貴ぶのか?」暢は言う、「髪を握り餐を吐くは、隣国の人の謂いではない。」孝伯は言う、「本邦すら尚お爾り、隣国は いよい よ応に恭を尽くすべし。且つ賓至れば礼あり、主人は宜しく礼を以て接すべし。」暢は言う、「昨日衆賓が門に至るを見たが、未だ礼有りと為さず。」孝伯は言う、「賓の至りて礼無きに非ず、直に主人の怱怱として、賓を待つ調度無きのみ。」孝伯はまた言う、「詔あり、『程天祚は一介の常人、誠に江南の選に非ざるを知る。近く汝陽に於いて、身に九槍を被り、溵水に落ちたるを、我が使い牽き出だせり。凡そ人の骨肉分張すれば、皆思いを集聚に寄せん。その弟ここに在るを聞く、如何ぞ暫く出でしめざる?尋いで自ら令して返さしむべし、豈に復た苟も一人を留めんや』と。」暢は言う、「程天祚兄弟を集聚せしめんと欲するを知り、已に遣わすを勒す。但だその固く辞して往かず。」孝伯は言う、「豈に子弟その父兄を聞きて反って肯えて相見えざるがあらんや、これ便り禽獣にも若かず。貴土の風俗、何ぞ至って此くの如きに至る。」

世祖はまた使者を遣わして、義恭・駿らに氈(毛氈)を各一領、塩を九種類ずつ、および胡豉(豆味噌)を賜うた。孝伯は言う、「後詔(追加の詔)がある。『これらの諸塩は、それぞれに適した用途がある。白塩・食塩は、主上(皇帝)が自ら食する。黒塩は腹脹気満を治し、六銖を粉末とし、酒で服用する。胡塩は目痛を治す。戎塩は諸瘡を治す。赤塩・駁塩・臭塩・馬歯塩の四種は、いずれも食塩ではない。太尉・安北(劉義恭・劉駿)は何故人を遣わして朕のもとに来させないのか。彼此の情は、尽くすことはできぬとしても、ともかく朕の大きさ小ささ(体格)を見、朕の老若を知り、朕の人となりを観察すべきであろう。』」暢は言う、「魏帝(太武帝)のことは、長らく往来の使者によって詳しく承知している。李尚書(孝伯)が自ら命を奉じて来られた。彼此が尽くさぬことを憂うるには及ばぬ。故に改めて使者を遣わさなかったのである。」義恭は蠟燭十挺を献じ、駿は錦一匹を献じた。

孝伯は言う、「君は南土の士人であるのに、何故屩(草鞋)を履いているのか。君がこれを履けば、将士たちはどう言うであろうか。」暢は言う、「士人としての言葉、誠に多く愧じるところである。ただ、武勇に優れぬ者が、命を受けて軍を統率するゆえ、軍陣の間では、緩やかな服装は許されぬのである。」孝伯は言う、「永昌王( 拓跋 たくばつ 仁)は近頃常に 長安 ちょうあん を鎮守していたが、今、精騎八万を率いて直ちに淮南に至り、寿春もまた城門を閉じて自ら固守し、敢えて防禦しようとしない。先に劉康祖の首を送ったが、それは彼ら(宋軍)の見たところである。王玄謨のことはよく承知しているが、これもまた凡才に過ぎぬ。何故このような重任を与え、敗走に至らせたのか。国境に入って七百余里、主人(宋側)はついに一度も抵抗することができなかった。鄒山の険は、彼らが頼みとする所であるが、前鋒がようやく接戦したところで、崔邪利は早くも穴(隠れ場所)に入り、将士が逆さに引きずり出した。主上(太武帝)はその生命を許し、今ここに従っている。また何故軽率にも、馬文恭を蕭県に遣わし、風の便りに退却撓乱させたのか。彼の民人は、甚だ憤り怨んでおり、清平の時には我らに租帛を賦課しておきながら、急難に至っては、救ってくれないと言っている。」暢は言う、「永昌王が既に淮南を過ぎたことは承知している。康祖が彼に破られたことについては、近頃使者があったが、その消息はなかった。王玄謨は南土の偏将に過ぎず、才あるとは言わない。ただ、彼が北人であるゆえに、前駆の導きをさせたに過ぎぬ。大軍が未だ到らぬうちに、河の氷がまさに結ぼうとした。玄謨は状況を量って軍旗を返したのであり、失策とは言えぬ。ただ、夜間に帰還したため、戎馬が驚乱したに過ぎぬ。我が方の懸瓠の小城、陳憲の小将に対し、魏帝は国を傾けて攻囲したが、数十日も陥とせなかった。胡盛之は偏裨の小帥に過ぎず、兵は三旅にも満たなかったが、翮水を渡り始めただけで、魏国の君臣は奔散し、辛うじて逃れることができた。滑臺の軍は、多くを愧じるには及ばぬ。鄒山の小戍は、わずかな険しさはあるが、河畔の民は多くが新たに帰附した者で、ようやく政化を慕い始めたところであり、姦盗が未だ止まず、ただ崔邪利を遣わしてこれを撫でたに過ぎぬ。今たとえ陥没したとしても、国に何の損があろう。魏帝自ら十万の師を以てして、ただ一人の崔邪利を制したに過ぎぬ。またどうして言うに足りようか。近頃聞くところでは、蕭県の百姓は皆山険に依っているという。聊か馬文恭を十隊で迎えに出させたに過ぎぬ。文恭は先に三隊で出て、逃げ帰って彼らの大営に走った。嵇玄敬は百艘の船で留城に至り、魏軍は奔敗した。軽敵してこのようになったのであり、また憂うるには及ばぬ。王境の人民は河畔に列居している。二国が交兵するにあたり、互いに撫養を加えるべきである。ところが魏師が国境に入り、思いがけぬ事態が生じた。官は民に負うところはなく、民もまた何を怨もうか。国境に入って七百里、抵抗する者がなかったことを承知している。これは上は太尉(劉義恭)の神算によるものであり、次には武陵王(劉駿)の聖略による。軍国の要事は、私は預かってはいないが、然し用兵には機微があり、また互いに語ることは許されぬ。」孝伯は言う、「君はこの虚談を 口に、支離滅裂に対応している。遁辞その窮まる所を知る、と言えよう。且つ主上(太武帝)はこの城を囲まぬつもりで、自ら衆軍を率いて直ちに瓜歩に至るであろう。南の事(長江渡河作戦)が成就すれば、この城は敢えて攻囲するまでもない。南行が成功しなければ、彭城もまた望む所ではない。我らは今まさに南に向かわんとし、江湖に馬を飲まさんと欲するのみである。」暢は言う、「去留の事は、自ら彼らの胸中に適うであろう。もし魏帝が遂に長江に馬を飲ませるようなことがあれば、もはや天道は無いと言うほかない。」孝伯は言う、「北より南へ向かうことは、実に人の教化によるものであり、長江に馬を飲ませることは、どうして天道のみによるであろうか。」暢が城に還らんとする際、孝伯に言う、「冀(願わくば)蕩定の期があり、相見える日遠からざらんことを。君もし宋朝に還ることがあれば、今が相識の始めである。」孝伯は言う、「今まさに先に建業に至って君を待つであろう。その日には、君と二王が面縛して罪を請い、容貌を整える暇もなかろうと恐れる。」

孝伯は風采容貌が閑雅で、応答が流れる如くであり、暢および左右の者は甚だ嘆賞した。世祖(太武帝)は大いに喜び、その爵を宣城公に進めた。

興安二年(453年)、使持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・平西将軍・秦州刺史として出向した。太安五年(459年)に卒去し、高宗(文成帝)は甚だ悼み惜しんだ。鎮南大将軍・定州刺史を追贈され、諡して文昭公と言う。

孝伯は体度が恢宏雅量であり、政事に明達し、朝野の貴賤を問わず、皆推重した。恭宗(景穆帝)がかつて世祖に俊秀を広く徴用するよう申し上げた際、世祖は言った、「朕に一人の孝伯あれば、天下を治めるに足る。何ぞ多くを必要とせん。仮にまた求訪したとしても、このような人材はどうして得られようか。」そのように賞賛されたのである。性格は方正で慎み深く忠厚であり、朝廷の大事に不足があるごとに、必ず自ら手で上表文を書き、切に直言して諫め、従わない場合は、再三に及んだ。草稿を削り滅ぼし、家人にも見せなかった。公庭での論議では、常に綱紀を引き合いに出し、あるいは事を言上する者がいれば、孝伯はその陳述を恣にさせ、仮に是非があっても、終いに抑え折ることはなかった。また世祖に拝謁する際には、その者の長所を言い、決して人の姓名を隠して己の善とすることはなかった。故に衣冠の士(士大夫)は、その雅正に服した。崔浩が誅殺されて後、軍国の謀略は全て孝伯から出た。世祖の寵眷は浩に次ぐものであり、また宰輔として遇した。献替補闕(善を進め欠を補う)の跡は表れず、当時の人は知り得なかった。卒去の日、遠近哀傷した。孝伯の美名は遐邇に聞こえ、李彪が江南に使した際、蕭賾(斉の武帝)が彼に言った、「孝伯は卿から見て遠いか近いか(どれほど優れた人物か)。」そのように遠方の人にも知られていたのである。孝伯の妻は崔賾の女であり、高明な婦人で、一子元顯を生んだ。崔氏が卒去した後、翟氏を納れたが、妻とはしなかった。元顯を憎み忌んだ。後に劫難に遇い、元顯が害されたが、世間では翟氏の仕業であると言われた。元顯は志気甚だ高く、当時の人に傷み惜しまれた。翟氏の二子、安民・安上は、共に風度があった。

安民は爵位の寿光侯を襲い、 司徒 しと 司馬となった。卒去し、郢州刺史を追贈された。子がなく、爵位は除かれた。

安上は鉅鹿太守となったが、また早世した。

安民の弟に豹子がいる。正光三年(522年)に上書して言うには、

ついに襲封を得られなかった。

孝伯の兄に祥がおり、 あざな は元善である。学問は家業を伝え、郷党でこれを宗とした。世祖が州郡に賢良を挙げるよう詔すると、祥は貢挙に応じ、対策が旨に合い、 中書 ちゅうしょ 博士に除された。当時、南土は未だ服従せず、世祖が親征し、尚書韓元興に命じて衆を率いて青州から出撃させ、祥を軍司とした。地を略して陳汝に至り、淮北の民で軍に降伏した者は七千余戸、これを兗 の南に移し、淮陽郡を置いてこれを撫で、祥を太守に拝し、綏遠将軍を加えた。流民が帰附する者は万余家、農桑を勧め課し、百姓は安んじて生業に就いた。世祖はこれを嘉し、衣馬を賜った。河間太守に遷り、威恩の称があった。太安年間(455年-459年)、中書侍郎に徴されたが、民千余人が上書して数年留任を乞うたが、高宗は許さなかった。官に卒し、定州刺史・平棘子を追贈され、諡して憲と言う。

子の安世は、幼くして聡明で悟りが早かった。興安二年、高宗(文成帝)は侍郎・博士の子らを引見し、その秀才俊才を選抜して中書学生としようとした。安世は十一歳であり、高宗はそのまだ幼いのを見て、引見して問うた。安世は父祖のことを述べ立て、甚だ順序立っていたので、直ちに学生とした。高宗は国子学に行幸するたびに、常に独り引見して問うた。詔して曰く、「汝はただこれを守って大いなるに至れば、富貴ならざるを慮れず」と。父の喪に服し、孝行をもって知られた。天安の初め、中散に拝され、温和で聡明、敬虔で慎み深いことにより、顕祖(献文帝)に親愛された。累遷して主客令となった。

蕭賾が劉纘を使者として朝貢させた。安世は容貌美しく、挙措に優れていた。纘らは互いに言った、「君子なくして、よく国たるを得んや」と。纘らは安世を典客と呼んだ。安世は言った、「三代は礼を共にせず、五帝は楽を異にす。安んぞ亡秦の官を以て、上国に称せんや」と。纘が言うには、「世が異なれば称号も異なるが、凡そ幾つあるか」と。安世は言った、「周は掌客と謂い、秦は典客と改め、漢は鴻臚と名付け、今は主客と曰う。君らは文武の影響を欲せずして、殷勤として亡秦に及ぼすのか」と。纘はまた方山を指して言った、「此の山は燕然山より遠近如何」と。安世は言った、「亦た石頭の番禺に対するが如きのみ」と。国家に江南の使者が至ると、多くは内蔵の珍物を取り出し、都下の富家で容姿服飾を好む者に売らせ、使者に任せて交易させた。使者が金玉の店で価を問うと、纘は言った、「北方の金玉は甚だ賤しい。山川の産する所なるべし」と。安世は言った、「聖朝は金玉を貴ばず、以て瓦礫に同じく賤し。又、皇上の徳は神明に通じ、山は宝を愛せず、故に川なくして金なく、山なくして玉なし」と。纘は初め大いに買い付けようとしたが、安世の言葉を得て、慚じて止めた。主客給事中に遷った。

時に民は飢えに困り流散し、豪族権門は多く占奪していた。安世は乃ち上疏して曰く、「臣聞く、地を量り野を画くは、国を経る大式なり。邑地相参ずるは、治を致すの本なり。井税の興るは、其の来り久し。田萊の数は、限を以て之を制す。蓋し土に功を曠からしめず、民に力を游ばしめんと欲するなり。雄擅の家は、独り膏腴の美を有するに非ず。単陋の夫も、亦た頃畝の分有り。以て彼の貧微を恤れみ、茲の貪欲を抑え、富約の不均を同じくし、斉民を編戸に一にせんとする所以なり。窃かに州郡の民を見るに、或いは凶年のために流移し、田宅を棄売し、異郷に漂居し、事数世に渉る。三長既に立ちて、始めて旧墟に返るも、廬井荒廃し、桑榆改植す。事既に遠く歴り、假冒を生じ易し。強宗豪族、其の侵凌を肆にし、遠くは魏晋の家を認め、近くは親旧の験を引く。又、年載稍く久しく、郷老惑わされ、群証多くと雖も、取るに足るべき据え莫し。各々親知に附し、互いに長短有り、両証徒に具わるも、聴く者猶疑い、争訟遷延し、連紀判ぜず。良疇委して開かず、柔桑枯れて採らず、僥倖の徒興り、繁多の獄作る。家をして歳儲豊かにし、人に資用給せしめんと欲するも、其れ得可けんや。愚謂うに、今桑井復し難しと雖も、宜しく更に均量し、其の径術を審かにし、分芸に準有らしめ、力業相称せしむべし。細民は資生の利を獲、豪右は余地の盈ち有ること靡からん。則ち私無きの沢、乃ち兆庶に均しく播かれ、阜の如く山の如く、比戸に積む有る可からん。又、争う所の田は、宜しく年を限りて断つべし。事久しくして明らかにし難きは、悉く今の主に属すべし。然る後に虚妄の民は覬覦に望みを絶ち、守分の士は永く凌奪を免れん」と。高祖(孝文帝)深く之を納れ、後に均田の制は此より起こった。

出でて安平将軍・相州刺史・仮節・趙郡公となる。農桑を敦め勧め、淫祀を禁断した。西門豹・史起の如き、民に功有る者に対しては、その廟堂を修飾した。広平の宋翻・陽平の路恃慶を表薦し、皆朝廷の善士とした。初め、広平の人李波は、宗族強盛で、生民を残掠した。前刺史薛道𢷋が親ら往きて之を討つと、波は其の宗族を率いて拒戦し、大いに𢷋の軍を破った。遂に逋逃の藪となり、公私の患いとなった。百姓之が為に語って曰く、「李波小妹字は雍容、裙を褰ぎて馬を逐うこと蓬を巻くが如く、左に射右に射必ず雙を疊す。婦女尚お此の如し、男子那ぞ逢う可けんや」と。安世は方略を設け、波及び諸子姪三十余人を誘い出し、 ぎょう の市で斬った。境内粛然とした。病を以て免官された。太和十七年、家に卒した。安世の妻は博陵の崔氏、一子の瑒を生んだ。崔氏は嫉妬悍ましきを以て出され、又、滄水公主を尚し、二子の謐・郁を生んだ。

瑒、字は琚羅。歴史伝記に渉猟し、頗る文才有り、気概は豪爽で、公強当世であった。延昌の末、 司徒 しと 行参軍となり、 司徒 しと 長兼主簿に遷った。太師・高陽王元雍が表薦して瑒を其の友(王府の官属)とし、正主簿とした。

当時、民は多く絶戸して沙門となる者がいた。瑒は上言して曰く、「礼は以て世を教え、法は将来を導く。跡用既に殊なり、区流亦た別なり。故に三千の罪、孝ならざるより大なるは莫く、孝ならざるの大なるは、祀を絶つに過ぐるは莫し。然らば則ち絶祀の罪、重きこと之より甚だしきは莫し。安んぞ軽く礼に背くの情を縦え、而して其の法に向かうの意を肆にせんや。正しく仏道をして然らしむるとも、応に然るべからず。仮令聴して然らしむるとも、猶お礼を以て之を裁すべし。一身親老にありて、家を棄て養を絶つは、既に人理に非ず、尤も礼情に乖き、大倫を堙滅し、且つ王貫を闕く。当世の礼を交えて缺き、而して将来の益を求む。孔子云う『未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん』と。斯の言の至れるも、亦た備わりたるなり。安んぞ堂堂の政を棄てて、鬼教に従わんや。又、今南服未だ静かならず、衆役仍く煩く、百姓の情、方に多く役を避けんとす。若し復た之を聴かば、孝慈を捐棄するを恐れ、比屋にして是れ有らん」と。沙門都統の僧暹等は、瑒の鬼教の言を忿り、瑒を以て仏法を謗毀すとし、泣いて霊太后に訴えた。太后は之を責めた。瑒は自ら理めて曰く、「窃かに仏法を清明にし、道俗兼ねて通ぜしめんと欲するのみ。敢えて真学を排棄し、妄りに訾毀を為すに非ず。且つ鬼神の名は、皆霊達に通ずる称なり。百代の正典より、三皇五帝を敍するも、皆号して鬼と為す。天地を神祇と曰い、人死して鬼と曰う。易に曰く『鬼神の情状を知る』と。周公自ら美して、亦た云う『能く鬼神に事う』と。礼に曰く『明なる則ち礼楽有り、幽なる則ち鬼神有り』と。是を以て明なる者は堂堂と為し、幽なる者は鬼教と為す。仏は天に非ず地に非ず、本より人に出ず。世に応じ俗を導く、其の道幽隠なり。之を名づけて鬼と為すは、愚謂うに謗に非ず。且つ心に不善無く、仏道を以て教と為す者は、正に衆妙の門に未だ達せざるのみ」と。霊太后は瑒の言が妥当なるを知りながらも、然れども暹等の意を免れず、猶お瑒を罰して金一両を納めさせた。

転じて尚書郎となり、伏波将軍を加えられた。蕭宝夤に従って西征し、瑒を統軍とし、仮の寧遠将軍とした。瑒の徳は郷閭に洽く、雄勇を招募すると、其の楽従する者数百騎有り、瑒は家を傾けて賑恤し、之を率いて西討した。宝夤は瑒の至るを見て、乃ち瑒の肩を拊して曰く、「子遠来る、吾が事辦れり」と。故に其の下は毎に戦功有り、軍中「李公騎」と号した。宝夤は又、瑒を左丞とすべく啓上し、仍って別将とし、軍機戎政、皆与に参決した。宝夤は又、中書侍郎とするよう啓上した。還朝し、鎮遠将軍・岐州刺史を除されたが、辞して赴任せず坐して免官された。建義の初め、河陰に於いて害に遇い、時に年四十五。初め鎮東将軍・尚書右 僕射 ぼくや ・殷州刺史を贈られ、太昌年中に重ねて 散騎常侍 さんきじょうじ ・驃騎大将軍・儀同三司・冀州刺史を贈られた。

楊瑒は豪放で大志を抱き、酒を好み、親族や知己に篤く、しばしば弟の楊郁に言うには、「士大夫の学問は、古今を広く考察して終わるものである。どうして経書に専念して老博士となる必要があろうか」と。弟の楊謐とは特に友愛が篤く、楊謐が郷里で亡くなると、楊瑒は慟哭して気を失い、久しくしてようやく蘇生し、数日間食事を取らず、一年のうちに身体は憔悴し衰えた。人々はこれを哀しみ嘆いた。楊瑒には三人の子があった。

長子の楊義盛は、武定年間に 司徒 しと 倉曹参軍となった。

楊瑒の弟の楊謐は、字を永和という。逸士伝にある。

楊謐の弟の楊郁は、字を永穆という。学問を好み沈着静穏で、経史に広く通じた。著作佐郎から広平王元懐の友となり、元懐は深く礼遇した。当時、学士徐遵明が山東で教授しており、生徒が非常に多かった。元懐は徐遵明を館に招き、楊郁に命じてその五経の義例について十余条を問わせたが、徐遵明が答えたのは数条のみであった。次第に国子博士に昇進した。国学が建てられて以来、諸博士は概ね講説せず、朝夕に教授したのは楊郁のみであった。謙虚で優雅かつ寛大であり、まことに儒者の風があった。廷尉少卿に転じ、冠軍将軍を加えられ、さらに通直 散騎常侍 さんきじょうじ に転じた。建義年間に、兄の楊瑒が亡くなったため、孤児となった甥を養育して郷里に帰った。永熙初年、 散騎常侍 さんきじょうじ ・大将軍・左光禄大夫・兼都官尚書に任ぜられ、まもなく給事黄門侍郎を兼ねた。三年の春、顕陽殿で礼を講じた際、詔により楊郁が経を執り、解説は尽きることがなく、群臣の難問が鋭く起こったが、談笑を廃することはなかった。出帝および諸王公で聴講に与った者は、皆称賛せざるはなかった。まもなく病没し、 散騎常侍 さんきじょうじ 都督 ととく 定冀相滄殷五州諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射・儀同三司・定州刺史を追贈された。

子の楊士謙は、儀同開府参軍事となった。

李沖

李沖は、字を思順といい、隴西の人で、敦煌公李宝の末子である。幼くして孤となり、長兄の 滎陽 けいよう 太守李承に養育され教えを受けた。李承は常に言うには、「この子の器量は並々ならぬものがあり、まさに家門の頼みとなるであろう」と。李沖は沈着高雅で度量が大きく、兄に従って任地に赴いた。当時、州牧や郡守の子弟は多く民衆を侵害し乱し、軽々しく物を乞い奪ったが、李沖と李承の長子の李韶だけは清廉簡素で潔白であり、何も求め取らなかったので、当時の人々はこれを称賛した。

顕祖の末年、中書学生となった。李沖は交遊を善くし、妄りに戯れ雑わることなく、同輩から重んじられた。高祖の初年、例により秘書中散に昇進し、禁中の文書事務を掌り、整然とし機敏で聡明であったため、次第に寵愛待遇されるようになった。内秘書令・南部給事中に転じた。

旧来、三長の制はなく、ただ宗主が督護するのみであったので、民衆は多く戸籍を偽り隠し、五十家や三十家で一戸をなしていた。李沖は、三正(三長)によって民を治めることは、その由来が遠いと考え、ここに三長の制を創案して上奏した。文明太后はこれを見て善しと称え、公卿を引見して議させた。中書令鄭羲・秘書令高祐らは言うには、「李沖が三長を立てようと求めるのは、天下を一つの法に混同させようとするものである。言葉としては用いることができるようだが、事実としては実行しがたい」と。鄭羲はまた言うには、「臣の言を信じられぬならば、ただこれを試みて実行されよ。事が失敗した後、愚かなる言葉が誤りでなかったことを知るであろう」と。太尉元丕は言うには、「臣はこの法を行えば、公私ともに益があると考えます」と。皆、方今は農事の月であり、民戸を調査比較すれば新旧が未だ分かたず、民は必ず労苦し怨むであろうと称し、今秋を過ぎ、冬の閑月に至って、徐々に使者を派遣するのが、事柄として適切であると請うた。李沖は言うには、「民とは冥(暗愚)なるものであり、これを行わせることはできても、これを知らしめることはできない。もし徴税の時期によらなければ、百姓はただ長を立て戸を調査する労苦を知るのみで、均等な徭役や軽減された賦税の利益を見ず、心に必ず怨みを生じるであろう。課税の月に及んで、賦税の均等であることを知らしめるのがよい。既にその事柄を理解し、またその利益を得れば、民の欲求に沿って、これを実行しやすくなる」と。著作郎傅思益が進み出て言うには、「民俗は既に異なり、険易も同じでなく、九品による差等徴発は、長い間続いてきた。一旦法を改めれば、恐らく擾乱を生じるでしょう」と。太后は言うには、「三長を立てれば、課税には常の基準があり、賦税には恒常の分け前があり、隠れていた戸は出て、僥倖の徒は止むことができる。どうしてできないことがあろうか」と。群議には異なる意見もあったが、ただ変法を難しいとするのみで、他に異議はなかった。遂に三長の制を立て、公私ともに便利となった。

中書令に転じ、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、給事中は元の通りとした。まもなく南部尚書に転じ、順陽侯の爵位を賜った。李沖は文明太后に寵愛され、恩寵は日増しに盛んとなり、賞賜は月に数千万に及び、爵位は隴西公に進み、密かに珍宝や御物を送ってその邸宅を充実させたが、外の者は知ることができなかった。李沖の家は元来清貧であったが、ここに至って初めて富家となった。しかし謙虚に自らを律し、財を積んでも散じ、近くは姻族から、遠くは郷里に至るまで、分け与えぬ者はなかった。己を虚しくして人と接し、旅人や貧寒の者を思いやり、衰え旧い者が零落し屈していた者をこれによって登用した者も、また多かった。当時の人々はこれをもって彼を称えた。

初め、李沖の兄の李佐は河南太守来崇と共に涼州から魏に入国したが、平素から些細な不和があった。李佐は機会を捉えて来崇に罪を着せ、獄中で餓死させた。後来崇の子の来護がまた李佐の贓罪を糾弾し、李佐および李沖らは皆連座して拘禁されたが、赦令に会って免ぜられ、李佐はこれを非常に恨んだ。李沖が寵愛され貴顕となり、内外を統轄するに至ると、来護は南部郎であったが、深く李沖に陥れられることを憂慮し、常に退避を求めたが、李沖は毎度慰め労った。来護は後に贓罪に連座し、必ず助からないことを恐れた。李沖はそこで詳しく来護との間の嫌隙の経緯を奏上し、彼を許すよう乞い、来護は遂に連座を免れた。李沖の姉妹の子の陰始孫は孤貧で、李沖の家に出入りし、子や甥のようであった。ある者が官を求める際、彼を通じて李沖に馬を贈ったが、陰始孫は受け取っただけで李沖に言わなかった。後にある機会を借りて、李沖からこの馬を借りた。馬の主は李沖が馬に乗っているのを見て官を得られず、後に自ら経緯を陳述した。李沖はこれを聞き、大いに驚き、陰始孫を捕らえて事情を詳しく奏上し、陰始孫は死罪に処せられた。要職にあって自らを厳しく律し、愛憎に捉われないことは、皆この類いであった。

当時は旧習に従い、王公重臣も皆その名で呼ばれたが、高祖は常に李沖を中書と呼んで名で呼ばなかった。文明太后が 崩御 ほうぎょ した後、高祖が喪に服している間も、引見して待遇することは以前より増した。礼儀律令を議し、文辞や趣旨を潤色し、軽重を刊定するにあたり、高祖は自ら筆を下すものの、李沖に諮問して決断しないことはなかった。李沖は忠を尽くして上に奉じ、知ることは全てを尽くし、出入りするにも憂い勤めて、その様子は顔色に現れ、旧臣や外戚の補佐役でも及ぶ者はなく、その明断で慎重周密なことに心服しない者はなかった。ここにおいて天下は一致し、遠方の地の耳目も、皆彼を奇異なものとして尊んだ。高祖もまた深く頼み信じ、親しみ敬うことはますます甚だしく、君臣の間の情義は二つとないものであった。百官を改めて設置し、五等爵を開建するにあたり、李沖に典式の参定をさせ、 滎陽 けいよう 郡開国侯に封じ、食邑八百戸を与え、廷尉卿に任じた。まもなく 侍中 じちゅう ・吏部尚書・咸陽王師に転じた。東宮が建てられると、太子少傅に任じられた。高祖は初め周礼に依り、夫人・嬪の列を置き、李沖の娘を夫人とした。

詔して曰く、「昔、軒皇(黄帝)が誕御し、棟宇の構えを垂れた。爰に三代を歴て、宮観の式を興す。然れども茅茨土階は、上代に徳を昭かにし、層台広厦は、中葉に威を崇くす。良に文質異宜、華樸殊礼なるが故なり。是を以て周成(成王)は業を継ぎ、東都に明堂を営み、漢祖(高祖)は つひ に興り、咸鎬に未央を建つ。蓋し皇威を尊厳し、帝徳を崇重せんとする所以にして、豈に奢を好み儉を悪み、苟くも民力を弊はさんとする者ならんや。我が皇運は天を統べ、乾暦を協纂す。四方に意を鋭くすれども、未だ建制に いとま あらず。宮室の度、頗る未だ まこと ならず。太祖の初基、粗かに経式有りと雖も、茲より厥の後、復た多く営改す。三元の慶饗に至りては、万国庭に充ち、観光の使、具瞻に闕有り。朕は寡徳を以て、 みだり に洪緒を承く。運は休期に属し、事は昌運に あつ まる。宜しく遠度に遵ひ、茲に宮宇を式とすべし。指訓規模は、事平日に昭かにし、明堂・太廟は、昔年に成れり。又往歳の豊資に因り、民情の安逸に り、将に今春を以て正殿を営改せんとす。時令に違犯し、之を行ふに惕然たり。但し朔土は寒多く、事南夏に殊なり。自ら裁度春に当り、役を興して暑に かざれば、則ち広制崇基、克く就く由莫し。成功事を立つるは、賢を委ねざれば莫く、改制規模は、能を任ぜざれば済まじ。尚書沖は器懐淵博、経度明遠、将作大匠を領くべし。 司空 しくう ・長楽公亮は、大匠と共に興繕を監るべし。其の故を去り新を崇むるの宜、太極の制を修復するは、朕当に別に指授を加へん。」

車駕南伐し、沖に輔国大将軍を加へ、衆を統べて翼従せしむ。都を発して 洛陽 らくよう に至るまで、霖雨霽れず、仍て詔して六軍に軫を発せしむ。高祖は戎服に鞭を執り、馬に御して出づ。群臣馬首の前に啓顙す。高祖曰く、「長駆の謀は、廟算已に定まれり。今大軍将に進まんとす。公等更に何をか云はんと欲する。」沖進みて曰く、「臣等帷幄に折衝し、坐して四海を制すること能はずして、南に窃号の渠有らしむるは、実に臣等の咎なり。陛下文軌未だ一ならざるを以て、親しく聖駕を労す。臣等誠に亡躯尽命し、死を効して戎行せんことを思ふ。然れども都を離れて淫雨、士馬困弊し、前路尚ほ遥か、水潦方に甚だし。且つ伊洛境内、小水すら尚ほ難を致し、況んや長江浩汗、南境に越ゆるをや。若し舟楫を営まば、必須停滞し、師老い糧乏しく、進退難し。喪を矜み旆を反すは、義に於て允なり。」高祖曰く、「一同の意は、前に已に具論せり。卿等正に水雨を以て難と為す。然れども天時頗る亦知るべし。何者、夏既に炎旱すれば、秋故に雨多く、玄冬の初、必ず当に開爽せん。比の後月十間、若し雨猶已まずば、此れ乃ち天なり。 もし 此れにして晴れなば、行ふに害無からん。古、喪を伐たずとは、諸侯同軌の国を謂ふ。王者統一の文に非ず。已に此に至る。何をか容れて駕を停めん。」沖又進みて曰く、「今者の挙は、天下願はざる所、唯だ陛下之を欲するのみ。漢文の言へるが如く、吾独り千里馬に乗るも、竟に何に至らん。臣意有りて其の辞無し。敢へて死を以て請ふ。」高祖大いに怒りて曰く、「方に宇宙を経営し、区域を一同せんと欲す。而るに卿等儒生、 しばしば 大計を疑ふ。斧鉞常有り。卿復た言ふ勿れ。」策馬して将に出でんとす。是に於て大司馬・安定王休、左僕射を兼ぬる任城王澄等並びに殷勤に泣諫す。高祖乃ち群臣に諭して曰く、「今者興動小さからず。動いて成らずんば、何を以て後に示さん。苟くも師を班せんと欲せば、之を千載に垂るる無し。朕遠祖を仰ぎ惟ふに、世幽漠に居り、衆に違ひて南遷し、以て無窮の美を享く。豈其れ心無くして、軽く陵壌を遺さんや。今の君子、寧独り懐有らんや。当に天工人代・王業須く成るが故なるべし。若し南鑾せずんば、即ち当に都を此に移し、土中に光宅せん。機亦時に当る。王公等何如と為す。議の決する所、旋踵を得ず。遷らんと欲する者は左に、欲せざる者は右にせよ。」安定王休等相率ひて右に如くす。前南安王楨進みて曰く、「夫れ愚者は成事に闇く、智者は未萌に見る。至徳を行ふ者は俗に議せず、大功を成す者は衆に謀らず。非常の人乃ち能く非常の事を建つ。神都を ひろ めて以て王業を延べ、土中を はか りて以て帝京を制す。周公之を前に啓き、陛下之を後に行ふ。故に其の宜しきなり。且つ天下至重なるは皇居に若くは莫く、人の貴ぶ所は寧ろ遺体の如くならんや。請ふらくは上は聖躬を安んじ、下は民望を慰め、 中原 ちゅうげん に光宅し、彼の南伐を めよ。此れ臣等の願ひ言ふ所、蒼生幸甚なり。」群臣咸く「万歳」と唱ふ。

高祖初め南遷を謀り、衆心旧を恋ふるを恐れ、乃ち大挙を示し、因りて以て群情を脅定せんとす。外は南伐と名づく、其の実は遷なり。旧人は土を懐ひ、多く願はざる所有り。内に南征を憚り、敢へて言ふ者無し。是に於て都を洛陽に定む。沖高祖に言ひて曰く、「陛下方に周公の制を修め、鼎を定めて成周と為さんとす。然れども六寝を営建するは、遊駕を以て就くを待つべからず。城郭を興築するは、馬上を以て営み訖るに難し。願はくは暫く北都に還り、臣下に経造せしめ、功成り事訖りて、然る後に文物の章を備へ、玉鑾の響を和し、時に巡りて南徙し、土中に軌儀せん。」高祖曰く、「朕将に方岳を巡省し、鄴に至りて小停し、春始めて便ち還らん。未だ遂に北に帰らざるに宜しからず。」尋ち沖を鎮南将軍と為し、侍中・少傅は旧の如く、営構の任に委ぬ。陽平郡開国侯に改封し、邑戸は先の如し。

帝が南征されると、沖を左僕射を兼任させ、洛陽を留守させた。帝が淮を渡られると、別詔で安南大将軍元英・平南将軍劉藻に漢中を討たせ、雍・涇・岐の三州の兵六千人を召集して南鄭の守備に充てることを計画し、城を落とせば派遣することとした。沖は上表して諫めて言うには、「秦州は険阻で、地は きょう 夷に接しており、西の軍が出て以来、糧秣の補給が続き、加えて てい 胡が叛逆し、各地で奔走し、糧を運び鎧を着けて、今に至るまで止まない。今また予め守備兵を差し向け、山外に懸け渡そうとしているが、優遇復除を加えても、なお驚き恐れるであろう。もし結局攻め落とせなければ、徒らに民情を動揺させ、胡と夷を結びつけ、事態は測り難くなるかもしれない。早速ご旨に依って密かに刺史に下知し、軍が鄭城を落としてから、その後に差し向けるようにしたが、臣の愚見では、なお不十分であると思う。なぜか。西の道は険阻で、一本道が千里続き、今、絶界の外に深く守備し、群賊の中に孤軍で拠ろうとしている。敵が攻めてもすぐには援けられず、食糧が尽きても運ぶことができない。古人の言葉に、『鞭長くとも馬腹に及ばず』とある。南鄭は国にとって、まさに馬腹である。かつて昔の人の攻伐では、城が降伏しても取らないことがあり、仁君が軍を用いるには、民を撫でて地を遺すことがある。そもそも王者の挙動は、情は民を救うことにあり、夷寇の守るところは、意は地を惜しむことにある。この二つの意義を較べれば、徳には浅深がある。恵みの名声は既に遠くまで届いているのに、どうして一城に急ぐことがあろうか。かつ魏の境が覆うところは、九州のうち八を超え、民人が臣従するのは、十分の九である。まだ民となっていないのは、ただ漠北と江外のみである。これらを羈縻するのは近い将来のことであって、どうして今日に急ぐ必要があろうか。大いに疆宇を開き、広く城聚を抜き、多く資糧を積み、食糧が敵を支えるに足りるようになってから、邦を置き将を立て、吞 へい の挙に出るのがよい。今、鍾離・寿陽は近くにあるが未だ抜けず、赭城・新野は一歩の隔たりもなく降伏しない。落としたものは捨てて取らず、降伏したものは撫でてすぐに殺す。東道がすでに近い兵力で守れないのに、西蕃を遠い兵で固められようか。もしどうしても置こうとするなら、臣は結局敵に資することになると恐れる。また今、都を土中に建て、地は寇の境に接している。まさに大いに死士を収め、江会を平蕩すべき時である。軽々しく寡兵を派遣し、彼らを陷没させるに任せれば、後の挙兵の日に、人々が留守をしたために恐れをなして、死力を尽くすことを求めても、容易には得られないであろう。これを推して論ずれば、守備しないのが上策である。」高祖はこれに従った。

帝が都に還られると、沖らを引見して言われた、「元より多く官を置いたのは、令や僕が暗弱で、百事が滞ることを慮り、もし明らかで独り聡明ならば、権勢が大きく併せられるからである。今朕は聡明とは言えぬが、また劣って暗くもない。卿らは大賢ではないが、また大悪でもない。しばらく一、二年の間は、少し官司を置くようにせよ。」

高祖が鄴から京に還られ、洪池に舟を浮かべると、沖に従容として言われた、「朕はここから渠を洛に通し、南伐の日に、どうしてここから洛に入り、洛から河に入り、河から汴に入り、汴から清に入り、淮に至らないことがあろうか。船を下りて戦うのは、戸を出て戦うようなものであり、これは軍国の大計である。今、溝渠を開くのに二万人以下、六十日で完成するならば、漸次修築すべきである。」沖は答えて言う、「もしそうであれば、兵士に遠く跋渉する労がなく、戦いに倍する力があることになります。」尚書僕射に遷り、引き続き少傅を領した。清淵県開国侯に改封され、邑戸は前の通りであった。やがて太子恂が廃されると、沖は少傅を罷免された。

高祖が清徽堂で公卿を引見され、高祖は言われた、「聖人の大宝は、ただ位と功のみである。ゆえに功成って楽を作り、治定まって礼を定める。今、極を中天に移し、嵩洛に居を創めたが、大構は未だ成らずとも、要は条紀がほぼ挙がっている。ただ南には未だ賓服せぬ賊がおり、また兇蛮が近くに密接している。朕は夙夜悵み歎き、まさにここにある。南を取る計は決まり、朕が行う謀は必ず実行する。もし近代に依れば、天子は深宮の内に帷を下ろすが、上古を準えれば、親征があり、祚は七百年延びた。魏・晋は征伐せず、踵を返す間に滅びた。祚の修短は、徳に在って征に在らず。今ただ行く時期の早晚が分からない。幾を知るは其れ神か、朕は神ではないから、どうして知ることができよう。近頃、陰陽卜術の士は皆、朕に今征すれば必ず克つと勧める。これは家国の大事であるから、君臣共に各々所見を尽くすべきで、朕が先に言ったからといって、すぐに依違し、退いて異同があってはならない。」沖は答えて言う、「征戦の法は、先ず人事を尽くし、その後で卜筮を行うものです。今、卜筮は吉でも、なお人事が備わっていないことを恐れます。今年の秋の収穫は、常の実りに損があり、また京師が遷ったばかりで、諸業が定まらず、これに征戦を加えるのは、よろしくないと思います。来秋まで待つべきです。」高祖は言われた、「僕射の言は、合わないわけではない。朕が慮るのは、 社稷 しゃしょく の憂いである。しかし咫尺の寇戎に対して、自ら安んずるべきではなく、理はこのようでなければならない。僕射が人事が従わないと言うが、必ずしもそうではない。朕が十七年に、二十万の衆を擁して、畿甸を出ずに行軍したが、これは人事の盛んなことで、天時によるものではない。往年、機に乗じた時は、天時はよかったが、人事を欠き、また勝利を得られなかった。もし人事が備わるのを待てば、また天時ではなくなる。どうすればよいのか。僕射の言のようであれば、ついに征伐の理はないことになる。朕が秋に行って勝利がなければ、三君子(公卿たち)は皆、司寇に付すこととしよう。人々が心を尽くさないわけにはいかない。」議を罷めて退出した。

後に世宗が太子となると、高祖は清徽堂で宴を催された。高祖は言われた、「皇儲が三才の歴を纂ぎ、七祖を光昭するのは、これこそ億兆が皆悦び、天人共に泰するからである。故に卿を延べてこの一宴を催し、忻びの情を暢けようとする。」高祖はまた言われた、「天地の道は、一盈一虚であり、どうして常に泰平であろうか。天道でさえそうである。まして人事においてはどうか。故に昇進もあれば罷免もあり、古よりそうである。往きし日を悼み今を欣ぶのは、まことに深く歎息せざるを得ない。」沖は答えて言う、「東宮(太子)が儲嗣を継がれ、蒼生は皆幸いに思います。ただ臣は以前、師傅の任に忝くし、補弼調和することができず、天日を仰いで慚じ、慈造(陛下)が寛大に含み容れてくださり、この宴に預かることができ、慶びと愧じが交わり深く存じます。」高祖は言われた、「朕でさえその昏さを革められないのに、師傅がどうして労して愧謝することがあろうか。」

その後、尚書が元抜と穆泰の罪事について疑義を抱くと、李沖は上奏して言うには、「かつての彭城鎮将元抜は穆泰とともに謀反を起こし、養子の降寿は元抜の罪に連座すべきである。しかし太尉・咸陽王元禧らは、律文に『養子が罪を犯した場合、父や兄弟が情を知らなければ連座しない』とあると考える。謹んで律の趣意を審らかにするに、養子は父に対しては天性の関係ではなく、兄弟に対しては同気ではないから、親密さに差があるため、刑典も軽減されるのであり、それゆえ養子が罪を犯しても、父や兄弟は関与しない。しかし父や兄弟が罪を犯し、養子がその謀議を知らない場合、立場を変えて同じ情理で考えれば、どうしてただ養子だけが誅殺されようか。道理からして決してそうではない。臣は考えるに、律文に基づけば、実親に対しては追戮が及ばないならば、養親に対しては連座する、ということは明らかである。また律はただ『父は子に従わない』と述べるだけで、『子は父に従わない』とは称していない。これは尊き者を優遇し卑しき者を厳しくする意味であろう。臣の元禧らは、『律は正面からは見えないが、互文によって制度が立てられ、乞養の場合には父の罪を挙げ、養子の場合には子の連座を見る。これが互いに起こすのである。互いに起こして両方が明らかになれば、無罪は必定である。もし嫡子と継いだ養子とを生まれと同じとするならば、父子は均しく扱われるべきであり、ただ連座しないことを明らかにするだけである。また継養に関する注釈に、『もし別の規定があれば、この律とは同じではない』とある。さらに令文に、『諸々封爵を持つ者で、もし実子がおらず、その者が死去した場合、養子や継子がいても、封国は除封され世襲されない』とある。これは福があっても自分には及ばず、罪があればすぐに連座するということである。事柄を均しくし情理を等しくするならば、律と令の趣意は互いに矛盾することになる。律の主旨を推し量るに、必ずやそうではない』と考える。臣の李沖は考えるに、例を指し条を尋ねれば、罪があることは疑いなく、令を基準として情理を語れば、かなり同じ形式である」と。詔して言うには、「僕射の議論は、律に基づいて明らかである。太尉らの論は、典拠を曲げている。養子が誅殺に従うのは、すでに実親の罪を免れているからであり、それゆえ養親に対して再び選別されないのである。これだけがどうして福であろうか、長く大罪を免れることができようか。封国が世襲されないのは、爵位を重んじ、特に制度を立て、天が絶ったことを理由として、推し進めて除封するだけであり、どうして再び刑罰と賞賜に報いることがあろうか。この件については死刑に相当するが、特にこれを赦免せよ」と。

李沖は機敏で巧みな思慮を持ち、 平城 へいじょう の明堂・円丘・太廟、および洛陽の都の初期の基盤、郊祀の兆域の安定的な配置、新しく建てられた堂や寝殿は、すべて李沖の助力によるものであった。志を励まして力を強め、孜々として怠ることなく、朝には文書を処理し、同時に工匠の仕事を監督し、机の上には書類が積み上がり、彫刻刀を手にしても、終いに疲れ嫌になることはなかった。しかし顕貴な門族として、六姻(姻戚関係)を益すことに努め、兄弟や子・甥たちは皆、爵位と官職を持ち、一家の歳禄は一万匹を超え、その親族は、たとえ痴聾であっても、官位を超越しない者はなかった。当時の論評もこの点で彼をやや軽んじた。

年齢はわずか四十歳であったが、鬢の毛はすでに白く混じり、姿形は豊かで美しく、衰えた様子はなかった。李彪が都に入った時、彼は孤微で支援が少なく、自立して群れず、李沖が士を好むことを知り、心を傾けて宗仰し付き従った。李沖もまた彼の器量と学識を重んじ、礼を尽くして受け入れ、しばしば高祖(孝文帝)に彼のことを言上し、公私にわたって互いに支援し合った。李彪が中尉・兼尚書となり、高祖に知遇を得ると、もはや李沖を頼る必要はないと考え、次第に軽んじて背き、公の場ではただ袖を整えるだけで、もはや宗仰敬慕の意はなかった。李沖はこれをかなり恨みに思った。後に高祖が南征した時、李沖と吏部尚書・任城王元澄はともに李彪が傲慢で礼を欠くとして、彼を拘禁した。その罪状を上奏した文書は、李沖が自ら手書きしたもので、家族も知らず、言葉は非常に激しく痛切で、それによって自らを弾劾するものであった。高祖はその上表文を読み、嘆き悲しむことしばらくして、やがて言った、「道固(李彪の字)は確かに溢れるところがあると言えようが、僕射(李沖)もまた満ち足りている」。李沖はこの時激怒し、しばしば李彪の前後の過ちと背きを責め、目を怒らせて大声で叫び、机を投げ折った。御史たちをことごとく捕らえ、皆に泥を塗り首を縛り、口を極めて罵り辱めた。李沖はもともと温和な性格であったが、一度に激しい怒りを発し、ついに病気を発して精神錯乱し、言葉は乱れ誤り、なおも手首を扼して叫び罵り、李彪を小人と呼んだ。医薬も治療できず、ある者は肝臓が傷つき裂けたのだと言った。十余日で死去した。時に四十九歳。高祖は懸瓠で哀悼の礼を挙げ、声をあげて悲しみ泣き、自らを抑えることができなかった。詔して言うには、「李沖は貞和な資性を持ち、徳義をもって身を立て、訓戒と業績は家から始まり、道と素行は国に現れた。太和の初め、朕が幼少の頃から、早くも機密を委ねられ、時務をよく治めた。鴻漸して瀍水・洛水に至り、朝廷の選抜は清らかに開かれ、端右(尚書僕射)の首位に昇り、出納(詔勅の出し入れ)を誠実に司った。忠実で慎み深く柔和で明察、十分に叡智の模範を示し、仁愛で恭しく信義と恵みあり、民心を結んだ。まさに国の賢人、朝廷の重鎮と言えよう。まさに寵愛と官位を昇進させ、功績と旧勲を顕彰しようとしたところ、突然に逝去し、心中悲痛である。既に留まって勤務し昇進に応じるべきであり、また良き旧臣として褒賞されるべきである。 司空 しくう 公を追贈し、東園の秘器・朝服一具・衣一襲を給し、銭三十万・布五百匹・蠟二百斤を贈る」。有司が諡を文穆と上奏した。覆舟山に葬られたが、杜預の冢の近くであり、高祖の意向であった。後に車駕が鄴から洛陽に帰還する途中、李沖の墓の傍を通った時、左右の者がそれを告げると、高祖は病を押して臥しながら墳墓を望み、しばしば涙をぬぐった。詔して言うには、「 司空 しくう 文穆公は、徳は時の模範、勲績は朕の心に刻まれ、不幸にも逝去し、墳墓を邙嶺に託した。車駕を回して覆舟山に至り、自ら墓地を見つめ、仁を悲しみ旧を哀れむ、朕の衷を痛ませる。太牢の祭りを遣わし、以て我が思いを述べさせよ」。また留京の百官と会見した時、皆李沖の亡くなった事情を語り、言及して涙を流した。高祖は留臺からの啓上を得て、李沖の病気の様子を知り、右衛の宋弁に言った、「僕射は我が枢衡を執り、朝務を総理し、清く倹約して身を処し、寵愛を知ること久しかった。朕はその仁明で忠雅なことを以て、台司の任を委ね、我が境外に出るに後顧の憂いなくさせた。一朝にこのような患いが起こったのは、朕は甚だ悲愴で感慨深い」。そのように痛惜したのである。

李沖兄弟は六人で、四人の母から生まれたため、互いにかなり憤り争っていた。李沖が貴顕になると、封禄や恩賜はすべて共有し、家内も家外も和やかで睦まじかった。父が亡くなった後も同居すること二十余年、洛陽に至って初めて別々の邸宅に住んだが、互いに親愛し合い、長く隔たりはなかった。皆、李沖の徳によるものである。初め李沖が私的な寵愛を受けた時、兄の子の李韶は常に憂色を帯び、傾き敗れることを慮った。後に栄名が日々顕著になると、次第に自ら安心した。李沖は明らかに職務に当たり、自らの任務として図り、始めから終わりまで、避け屈することはなかった。時勢を推し運命を図るその姿勢は、皆このようなものであった。子の延寔らについては、外戚伝に記す。

史臣が言うには、燕趙の地には確かに多くの奇士がいる。李孝伯の風範と鑑識・謀略は、おそらく人よりはるかに優れていた。世祖(太武帝)は雄猜で厳格果断であり、崔浩はすでに誅殺されたが、李孝伯は内では心膂として参画し、外では政事を幹旋し、善を献じて悪を替え、隙が見えず、それゆえに従容として任用され遇され、功名を始めから終わりまで全うした。その知略と器量は確かに優れていたと言えようか。李安世は識見が通達雅やかで、時務を幹旋する良臣であった。李瑒は豪俊として通達し、李郁は儒学博識で顕れた。李沖は早くから寵愛を受け、内では腹心として幹旋し、風流で識見と業績あり、まさに一時の秀でた人物であった。終に聖主と協力し契り、太和の治を佐け命じ、位は端揆に当たり、身は梁棟を任じ、徳は家門に和し、功は王室に著しい。まさに北魏の乱世を治めた臣である。

校勘記

この南北朝の作品は全世界において公有領域に属する。なぜなら作者の没後100年以上が経過し、かつ作品は1931年1月1日以前に出版されたからである。

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻53