魏書

卷53 李孝伯 李衝

卷53 李孝伯 李衝

李孝伯

原文李孝伯

李孝伯は趙郡の人であり、高平公李順の従父弟である。父の李曾は、若くして鄭氏の礼と左氏春秋を修め、教授を業とした。郡が三度功曹に辟召したが就かず、門人が勧めると、李曾は言った、「功曹の職は、郷選の高第とはいえ、なお郡の吏に過ぎぬ。北面して人に仕えるなど、いかたやすからん。」州が主簿に辟召すると、官に着いて一月余りで、嘆いて言った、「梁叔敬が言うには、州郡の職は徒らに人を労するのみと。道行われずんば、身の憂いなり。」遂に家に帰り講授した。太祖の時、博士に徴されて拜され、出て趙郡太守となり、令行禁止、劫盗は奔竄した。太宗はこれを嘉した。并州の丁零が、しばしば山東の害となったが、李曾が百姓の死力を得られることを知り、憚って境に入らなかった。賊が常山の界で一頭の死鹿を得て、趙郡の地と思い、賊の長がこれを責め、鹿を元の場所に送り返させた。隣郡はこのことを謡って言った、「趙郡の鹿と詐るも、なお常山の粟に勝る。」そのように畏れられたのである。卒し、平南将軍・荊州刺史・栢仁子を追贈され、諡して懿といった。

原文李孝伯,趙郡人也,高平公順從父弟。父曾,少治鄭氏禮、左氏春秋,以教授為業。郡三辟功曹不就,門人勸之,曾曰:「功曹之職,雖曰鄉選高第,猶是郡吏耳。北面事人,亦何容易。」州辟主簿,到官月餘,乃歎曰:「梁叔敬有云:州郡之職,徒勞人耳。道之不行,身之憂也。」遂還家講授。太祖時,徵拜博士,出為趙郡太守,令行禁止,劫盜奔竄。太宗嘉之。并州丁零,數為山東之害,知曾能得百姓死力,憚不入境。賊於常山界得一死鹿,謂趙郡地也,賊長責之,還令送鹿故處。隣郡為之謠曰:「詐作趙郡鹿,猶勝常山粟。」其見憚如此。卒,贈平南將軍、荊州刺史、栢仁子,諡曰懿。

孝伯は若くして父の業を伝え、群言を博く綜べた。風儀は美しく、動作に法度があった。従兄の李順が世祖に言上し、中散に徴され、世祖はこれを見て異とし、李順に言った、「まことに卿が家の千里駒なり。」秘書奏事中散に遷り、侍郎・光禄大夫に転じ、爵を南昌子と賜り、建威将軍を加えられ、軍国の機密を委ねられ、甚だ親寵された。謀謨は切秘にして、当時の人は知ることができなかった。比部尚書に遷る。頻りに征伐に従い規略の功があったため、爵を寿光侯に進め、建義将軍を加えられた。

原文孝伯少傳父業,博綜羣言。美風儀,動有法度。從兄順言之於世祖,徵為中散,世祖見而異之,謂順曰:「真卿家千里駒也。」遷祕書奏事中散,轉侍郎、光祿大夫,賜爵南昌子,加建威將軍,委以軍國機密,甚見親寵。謀謨切祕,時人莫能知也。遷比部尚書。以頻從征伐規略之功,進爵壽光侯,加建義將軍。

真君の末、車駕は南伐し、彭城を出んとした。劉義隆の子である安北将軍・徐州刺史・武陵王劉駿が、将の馬文恭に歩騎万余を率いさせ蕭城に至らせた。前軍がこれを撃破し、文恭は走って免れ、その隊主の蒯応を捕らえた。義隆は大駕が南巡したと聞き、またその弟の太尉・江夏王義恭に衆を率いさせ彭城に赴かせた。世祖は彭城に至り、亜父の冢に登って城内を望み、蒯応を小市門に送り届け、世祖の詔を宣し、義恭らを労問し、併せて蕭城の敗を自ら陳述させた。義恭らが蒯応に問う、「魏帝は自ら来たのか?」応は言う、「自ら来たり。」また問う、「今は何処にいる?」応は言う、「城の西南にあり。」また問う、「士馬はどれほどか?」応は言う、「中軍四十余万。」劉駿は人を遣わし酒二器・甘蔗百挺を献じ、併せて駱駝を請うた。

原文真君末,車駕南伐,將出彭城。劉義隆子安北將軍、徐州刺史、武陵王駿,遣將馬文恭率步騎萬餘至蕭城。前軍擊破之,文恭走免,執其隊主蒯應。義隆聞大駕南巡,又遣其弟太尉、江夏王義恭率眾赴彭城。世祖至彭城,登亞父冢以望城內,遣送蒯應至小市門,宣世祖詔,勞問義恭等,并遣自陳蕭城之敗。義恭等問應:「魏帝自來以不?」應曰:「自來。」又問:「今在何處?」應曰:「在城西南。」又問:「士馬多少?」應曰:「中軍四十餘萬。」駿遣人獻酒二器、甘蔗百梃,并請駱駝。

世祖は明くる日また亜父の冢に登り、孝伯を小市に遣わした。劉駿もまたその長史張暢を遣わし孝伯に対面させた。孝伯は遥かに張暢の姓を問うと、暢は言う、「姓は張。」孝伯は言う、「そなたは張長史であるな。」暢は言う、「君はどうして知っているのか?」孝伯は言う、「既にこの境に渉る以上、どうして悉くせざるを得よう。」暢は孝伯に問う、「君はまた何姓か?何の官に居るのか?」孝伯は言う、「我は戎行の一夫に過ぎぬ、問うに足らぬ。然れども足下と相敵するに足る。」孝伯は言う、「主上に詔あり、『太尉・安北は暫く門を出で、相見えんことを欲す。朕もまた彭城を攻めず、何ぞ将士を労苦せしめ、城上に厳備せんや』と。今、駱駝及び貂裘雑物を賜わんことを遣わす。」暢は言う、「詔ありとの言葉は、正に彼の国に施すべきもので、ここで称えることがどうしてできようか?」孝伯は言う、「卿が家の太尉・安北は、人臣ではないか?」暢は言う、「その通り。」孝伯は言う、「我が朝廷は万国を奄有し、率土の濱、敢えて臣ならざるはなく、仮に隣国の君たりとも、何ぞ隣国の臣に対して詔を称えざらんや?」孝伯はまた暢に問う、「何ぞ至って忽ちに門を杜ち橋を絶つのか?」暢は言う、「二王は魏帝の壁壘未だ立たず、将士疲労せるを以て、この精甲十万、人は致命を思う、軽々しく相凌ぎ践まれるを恐れ、故に暫く城を閉じたまで。士馬を休息するを待ち、然る後に共に戦場を治め、日を剋して交戦せんとす。」孝伯は言う、「令行禁止は主将の常事、宜しく法を以て物を裁すべく、何ぞ橋を発ち門を杜つを用いん。窮城の中、また何を以て十万と誇大するのか?我にもまた良馬百万あり、またこれをもって相矜ることができよう。」暢は言う、「王侯は険を設く、何ぞ但だ法令のみならんや。我もし君を誇らば、当に百万と言うべく、十万と言う所以は、正に二王の左右が素より畜養する者に過ぎぬ。この城内には数州の士庶あり、工徒営伍はなお論ずるに及ばぬ。我は元より人を闘わすのであって、馬の足を闘わすのではない。かつ冀の北土は馬の生ずる所、君はまた何を以て逸足を以て見誇するのか?」孝伯は言う、「王侯が険を設くるは、誠に来言の如し。開閉には常あり、何ぞ杜塞するのか?橋を絶つ意、義は何にあるのか?この城守は君の習う所、野戦は我の長ずる所、我が馬に恃むは、猶お君が城に恃むが如きのみ。」城内に貝思という者がおり、かつて京師に至ったことがあり、義恭はこれを見させた。思はこれが孝伯であると識った。思は前に進み孝伯に問う、「李尚書、行途ご苦労。」孝伯は言う、「この事は応に相与に共に知るべき。」思は答えて言う、「共に知るが故に、仰ぎて労う。」孝伯は言う、「君の至意に感ず。」

原文世祖明旦復登亞父冢,遣孝伯至小市,駿亦遣其長史張暢對孝伯。孝伯遙問暢姓,暢曰:「姓張。」孝伯曰:「是張長史也。」暢曰:「君何得見識?」孝伯曰:「既涉此境,何容不悉。」暢問孝伯曰:「君復何姓?居何官也?」孝伯曰:「我戎行一夫,何足致問。然足與君相敵。」孝伯曰:「主上有詔:『太尉、安北可暫出門,欲與相見,朕亦不攻彭城,何為勞苦將士,城上嚴備?』今遣賜駱駝及貂裘雜物。」暢曰:「有詔之言,政可施於彼國,何得稱之於此?」孝伯曰:「卿家太尉、安北,是人臣不?」暢曰:「是也。」孝伯曰:「我朝廷奄有萬國,率土之濱,莫敢不臣,縱為隣國之君,何為不稱詔於隣國之臣?」孝伯又問暢曰:「何至忽遽杜門絕橋?」暢曰:「二王以魏帝壁壘未立,將士疲勞,此精甲十萬,人思致命,恐輕相凌踐,故且閉城耳。待休息士馬,然後共治戰場,剋日交戲。」孝伯曰:「令行禁止,主將常事,宜當以法裁物,何用發橋杜門?窮城之中,復何以十萬誇大?我亦有良馬百萬,復可以此相矜。」暢曰:「王侯設險,何但法令而已也。我若誇君,當言百萬,所以言十萬者,正是二王左右素所畜養者耳。此城內有數州士庶,工徒營伍猶所未論。我本鬬人,不鬬馬足。且冀之北土,馬之所生,君復何以逸足見誇也?」孝伯曰:「王侯設險,誠如來言,開閉有常,何為杜塞?絕橋之意,義在何也?此城守君之所習,野戰我之所長,我之恃馬,猶如君之恃城耳。」城內有貝思者,嘗至京師,義恭遣視之,思識是孝伯。思前問孝伯曰:「李尚書行途有勞。」孝伯曰:「此事應相與共知。」思答曰:「緣共知,所以仰勞。」孝伯曰:「感君至意。」

既に門を開き、暢は人を屏き仗を却け、出て賜物を受け取った。孝伯は言う、「詔にて貂裘を太尉に賜い、駱駝・騾・馬を安北に賜う。蒲萄酒及び諸の食味は当に相与に同進すべし。」暢は言う、「二王、敬んで魏帝に白す。見えんと欲するを知り、常に面接を願う。但し本朝に命を受け、忝くも藩任に居る。人臣に境外の交わり無く、故に私覿を容れず。」義恭は皮袴褶一具を献じ、劉駿は酒二器・甘蔗百挺を奉った。孝伯は言う、「また詔あり、『太尉・安北は久しく南信を絶ち、殊に憂悒すべし。若し信を遣わさんと欲せば、当に護送すべく、仮りに騎を須いば、また馬を以て送るべし』と。」暢は言う、「この方には間路甚だ多く、使命は日夕往復し、復たこれを以て魏帝を労せず。」孝伯は言う、「また水路あるを知る、白賊に断たれたるに似たり。」暢は言う、「君は白衣を著て、白賊と称するのか。」孝伯は大笑して言う、「今の白賊は、黄巾・赤眉に異なるに似たり。」暢は言う、「黄巾・赤眉は江南に在らず。」孝伯は言う、「江南に在らずとも、また徐方を離れぬ。」孝伯は言う、「先に安北と相聞かせたが、何ぞ久しくして報ぜざるのか?」暢は言う、「二王は遠きを貴び、啓聞すること難し。」孝伯は言う、「周公は髪を握り餔を吐く、二王は何ぞ独り遠きを貴ぶのか?」暢は言う、「髪を握り餐を吐くは、隣国の人の謂いではない。」孝伯は言う、「本邦すら尚お爾り、隣国は弥(いよい)よ応に恭を尽くすべし。且つ賓至れば礼あり、主人は宜しく礼を以て接すべし。」暢は言う、「昨日衆賓が門に至るを見たが、未だ礼有りと為さず。」孝伯は言う、「賓の至りて礼無きに非ず、直に主人の怱怱として、賓を待つ調度無きのみ。」孝伯はまた言う、「詔あり、『程天祚は一介の常人、誠に江南の選に非ざるを知る。近く汝陽に於いて、身に九槍を被り、溵水に落ちたるを、我が使い牽き出だせり。凡そ人の骨肉分張すれば、皆思いを集聚に寄せん。その弟ここに在るを聞く、如何ぞ暫く出でしめざる?尋いで自ら令して返さしむべし、豈に復た苟も一人を留めんや』と。」暢は言う、「程天祚兄弟を集聚せしめんと欲するを知り、已に遣わすを勒す。但だその固く辞して往かず。」孝伯は言う、「豈に子弟その父兄を聞きて反って肯えて相見えざるがあらんや、これ便り禽獣にも若かず。貴土の風俗、何ぞ至って此くの如きに至る。」

原文既開門,暢屏人却仗,出受賜物。孝伯曰:「詔以貂裘賜太尉,駱駝、騾、馬賜安北,蒲萄酒及諸食味當相與同進。」暢曰:「二王敬白魏帝,知欲垂見,常願面接,但受命本朝,忝居藩任,人臣無境外之交,故無容私覿。」義恭獻皮袴褶一具,駿奉酒二器、甘蔗百梃。孝伯曰:「又有詔:『太尉、安北,久絕南信,殊當憂悒。若欲遣信者,當為護送,脫須騎者,亦當以馬送之。』」暢曰:「此方間路甚多,使命日夕往復,不復以此勞魏帝也。」孝伯曰:「亦知有水路,似為白賊所斷。」暢曰:「君著白衣,稱白賊也。」孝伯大笑曰:「今之白賊,似異黃巾、赤眉。」暢曰:「黃巾、赤眉,不在江南。」孝伯曰:「雖不在江南,亦不離徐方也。」孝伯曰:「向與安北相聞,何以久而不報?」暢曰:「二王貴遠,啟聞為難。」孝伯曰:「周公握髮吐餔,二王何獨貴遠?」暢曰:「握髮吐餐,不謂隣國之人也。」孝伯曰:「本邦尚爾,隣國彌應盡恭。且賓至有禮,主人宜以禮接。」暢曰:「昨見眾賓至門,未為有禮。」孝伯曰:「非是賓至無禮,直是主人怱怱,無待賓調度耳。」孝伯又言:「有詔:『程天祚一介常人,誠知非江南之選,近於汝陽,身被九槍,落在溵水,我使牽而出之。凡人骨肉分張,並思集聚,聞其弟在此,如何不遣暫出?尋自令反,豈復苟留一人。』」暢曰:「知欲程天祚兄弟集聚,已勒遣之,但其固辭不往。」孝伯曰:「豈有子弟聞其父兄而反不肯相見,此便禽獸之不若。貴土風俗,何至如此。」

世祖はまた使者を遣わして、義恭・駿らに氈(毛氈)を各一領、塩を九種類ずつ、および胡豉(豆味噌)を賜うた。孝伯は言う、「後詔(追加の詔)がある。『これらの諸塩は、それぞれに適した用途がある。白塩・食塩は、主上(皇帝)が自ら食する。黒塩は腹脹気満を治し、六銖を粉末とし、酒で服用する。胡塩は目痛を治す。戎塩は諸瘡を治す。赤塩・駁塩・臭塩・馬歯塩の四種は、いずれも食塩ではない。太尉・安北(劉義恭・劉駿)は何故人を遣わして朕のもとに来させないのか。彼此の情は、尽くすことはできぬとしても、ともかく朕の大きさ小ささ(体格)を見、朕の老若を知り、朕の人となりを観察すべきであろう。』」暢は言う、「魏帝(太武帝)のことは、長らく往来の使者によって詳しく承知している。李尚書(孝伯)が自ら命を奉じて来られた。彼此が尽くさぬことを憂うるには及ばぬ。故に改めて使者を遣わさなかったのである。」義恭は蠟燭十挺を献じ、駿は錦一匹を献じた。

原文世祖又遣賜義恭、駿等氈各一領,鹽各九種,并胡豉。孝伯曰:「有後詔:『凡此諸鹽,各有所宜。白鹽食鹽,主上自食;黑鹽治腹脹氣滿,末之六銖,以酒而服;胡鹽治目痛;戎鹽治諸瘡;赤鹽、駁鹽、臭鹽、馬齒鹽四種,並非食鹽。太尉、安北何不遣人來至朕間?彼此之情,雖不可盡,要復見朕小大,知朕老少,觀朕為人。』」暢曰:「魏帝久為往來所具,李尚書親自銜命,不患彼此不盡,故不復遣信。」義恭獻蠟燭十梃,駿獻錦一匹。

孝伯は言う、「君は南土の士人であるのに、何故屩(草鞋)を履いているのか。君がこれを履けば、将士たちはどう言うであろうか。」暢は言う、「士人としての言葉、誠に多く愧じるところである。ただ、武勇に優れぬ者が、命を受けて軍を統率するゆえ、軍陣の間では、緩やかな服装は許されぬのである。」孝伯は言う、「永昌王(拓跋仁)は近頃常に長安を鎮守していたが、今、精騎八万を率いて直ちに淮南に至り、寿春もまた城門を閉じて自ら固守し、敢えて防禦しようとしない。先に劉康祖の首を送ったが、それは彼ら(宋軍)の見たところである。王玄謨のことはよく承知しているが、これもまた凡才に過ぎぬ。何故このような重任を与え、敗走に至らせたのか。国境に入って七百余里、主人(宋側)はついに一度も抵抗することができなかった。鄒山の険は、彼らが頼みとする所であるが、前鋒がようやく接戦したところで、崔邪利は早くも穴(隠れ場所)に入り、将士が逆さに引きずり出した。主上(太武帝)はその生命を許し、今ここに従っている。また何故軽率にも、馬文恭を蕭県に遣わし、風の便りに退却撓乱させたのか。彼の民人は、甚だ憤り怨んでおり、清平の時には我らに租帛を賦課しておきながら、急難に至っては、救ってくれないと言っている。」暢は言う、「永昌王が既に淮南を過ぎたことは承知している。康祖が彼に破られたことについては、近頃使者があったが、その消息はなかった。王玄謨は南土の偏将に過ぎず、才あるとは言わない。ただ、彼が北人であるゆえに、前駆の導きをさせたに過ぎぬ。大軍が未だ到らぬうちに、河の氷がまさに結ぼうとした。玄謨は状況を量って軍旗を返したのであり、失策とは言えぬ。ただ、夜間に帰還したため、戎馬が驚乱したに過ぎぬ。我が方の懸瓠の小城、陳憲の小将に対し、魏帝は国を傾けて攻囲したが、数十日も陥とせなかった。胡盛之は偏裨の小帥に過ぎず、兵は三旅にも満たなかったが、翮水を渡り始めただけで、魏国の君臣は奔散し、辛うじて逃れることができた。滑臺の軍は、多くを愧じるには及ばぬ。鄒山の小戍は、わずかな険しさはあるが、河畔の民は多くが新たに帰附した者で、ようやく政化を慕い始めたところであり、姦盗が未だ止まず、ただ崔邪利を遣わしてこれを撫でたに過ぎぬ。今たとえ陥没したとしても、国に何の損があろう。魏帝自ら十万の師を以てして、ただ一人の崔邪利を制したに過ぎぬ。またどうして言うに足りようか。近頃聞くところでは、蕭県の百姓は皆山険に依っているという。聊か馬文恭を十隊で迎えに出させたに過ぎぬ。文恭は先に三隊で出て、逃げ帰って彼らの大営に走った。嵇玄敬は百艘の船で留城に至り、魏軍は奔敗した。軽敵してこのようになったのであり、また憂うるには及ばぬ。王境の人民は河畔に列居している。二国が交兵するにあたり、互いに撫養を加えるべきである。ところが魏師が国境に入り、思いがけぬ事態が生じた。官は民に負うところはなく、民もまた何を怨もうか。国境に入って七百里、抵抗する者がなかったことを承知している。これは上は太尉(劉義恭)の神算によるものであり、次には武陵王(劉駿)の聖略による。軍国の要事は、私は預かってはいないが、然し用兵には機微があり、また互いに語ることは許されぬ。」孝伯は言う、「君はこの虚談を藉口に、支離滅裂に対応している。遁辞その窮まる所を知る、と言えよう。且つ主上(太武帝)はこの城を囲まぬつもりで、自ら衆軍を率いて直ちに瓜歩に至るであろう。南の事(長江渡河作戦)が成就すれば、この城は敢えて攻囲するまでもない。南行が成功しなければ、彭城もまた望む所ではない。我らは今まさに南に向かわんとし、江湖に馬を飲まさんと欲するのみである。」暢は言う、「去留の事は、自ら彼らの胸中に適うであろう。もし魏帝が遂に長江に馬を飲ませるようなことがあれば、もはや天道は無いと言うほかない。」孝伯は言う、「北より南へ向かうことは、実に人の教化によるものであり、長江に馬を飲ませることは、どうして天道のみによるであろうか。」暢が城に還らんとする際、孝伯に言う、「冀(願わくば)蕩定の期があり、相見える日遠からざらんことを。君もし宋朝に還ることがあれば、今が相識の始めである。」孝伯は言う、「今まさに先に建業に至って君を待つであろう。その日には、君と二王が面縛して罪を請い、容貌を整える暇もなかろうと恐れる。」

原文孝伯曰:「君南土士人,何為著屩?君而著此,將士云何?」暢曰:「士人之言,誠為多愧。但以不武,受命統軍,戎陳之間,不容緩服。」孝伯曰:「永昌王自頃恒鎮長安,今領精騎八萬直造淮南,壽春亦閉門自固,不敢相禦。向送劉康祖首,彼之所見。王玄謨甚是所悉,亦是常才耳。何意作如此任使,以致奔敗。自入境七百餘里,主人竟不能一相拒抗。鄒山之險,彼之所憑,前鋒始得接手,崔邪利便爾入穴,將士倒曳出之。主上丐其生命,今從在此。復何以輕脫,遣馬文恭至蕭縣,使望風退撓也。彼之民人,甚相忿怨,言清平之時,賦我租帛,至有急難,不能相拯。」暢曰:「知永昌已過淮南。康祖為其所破,比有信使,無此消息。王玄謨南土偏將,不謂為才,但以其北人,故為前驅引導耳。大軍未至,而河冰向合,玄謨量宜反旆,未為失算,但因夜回歸,致戎馬驚亂耳。我家懸瓠小城,陳憲小將,魏帝傾國攻圍,累旬不克。胡盛之偏裨小帥,眾無三旅,始濟翮水,魏國君臣奔散,僅得免脫。滑臺之師,無所多愧。鄒山小戍,雖有微險,河畔之民,多是新附,始慕政化,姦盜未息,示使崔邪利撫之而已。今雖陷沒,何損於國。魏帝自以十萬之師而制一崔邪利,乃復足言也?近聞蕭縣百姓並依山險,聊遣馬文恭以十隊迎之耳。文恭前以三隊出,還走彼大營。嵇玄敬以百舸至留城,魏軍奔敗。輕敵致此,亦非所卹。王境人民,列居河畔,二國交兵,當互加撫養。而魏師入境,事生意外,官不負民,民亦何怨。知入境七百里,無相捍拒,此自上由太尉神算,次在武陵聖略,軍國之要,雖不預聞,然用兵有機間,亦不容相語。」孝伯曰:「君藉此虛談,支離相對,可謂遁辭知其所窮。且主上當不圍此城,自率眾軍直造瓜步。南事若辦,城故不待攻圍;南行不捷,彭城亦非所欲也。我今當南,欲飲馬江湖耳。」暢曰:「去留之事,自適彼懷。若魏帝遂得飲馬長江,便為無復天道。」孝伯曰:「自北而南,實惟人化,飲馬長江,豈獨天道?」暢將還城,謂孝伯曰:「冀蕩定有期,相見無遠。君若得還宋朝,今為相識之始。」孝伯曰:「今當先至建業以待君耳。恐爾日君與二王面縛請罪,不暇為容。」

孝伯は風采容貌が閑雅で、応答が流れる如くであり、暢および左右の者は甚だ嘆賞した。世祖(太武帝)は大いに喜び、その爵を宣城公に進めた。

原文孝伯風容閑雅,應答如流,暢及左右甚相嗟歎。世祖大喜,進爵宣城公。

興安二年(453年)、使持節・散騎常侍・平西将軍・秦州刺史として出向した。太安五年(459年)に卒去し、高宗(文成帝)は甚だ悼み惜しんだ。鎮南大将軍・定州刺史を追贈され、諡して文昭公と言う。

原文興安二年,出為使持節、散騎常侍、平西將軍、秦州刺史。太安五年卒,高宗甚悼惜之。贈鎮南大將軍、定州刺史,諡曰文昭公。

孝伯は体度が恢宏雅量であり、政事に明達し、朝野の貴賤を問わず、皆推重した。恭宗(景穆帝)がかつて世祖に俊秀を広く徴用するよう申し上げた際、世祖は言った、「朕に一人の孝伯あれば、天下を治めるに足る。何ぞ多くを必要とせん。仮にまた求訪したとしても、このような人材はどうして得られようか。」そのように賞賛されたのである。性格は方正で慎み深く忠厚であり、朝廷の大事に不足があるごとに、必ず自ら手で上表文を書き、切に直言して諫め、従わない場合は、再三に及んだ。草稿を削り滅ぼし、家人にも見せなかった。公庭での論議では、常に綱紀を引き合いに出し、あるいは事を言上する者がいれば、孝伯はその陳述を恣にさせ、仮に是非があっても、終いに抑え折ることはなかった。また世祖に拝謁する際には、その者の長所を言い、決して人の姓名を隠して己の善とすることはなかった。故に衣冠の士(士大夫)は、その雅正に服した。崔浩が誅殺されて後、軍国の謀略は全て孝伯から出た。世祖の寵眷は浩に次ぐものであり、また宰輔として遇した。献替補闕(善を進め欠を補う)の跡は表れず、当時の人は知り得なかった。卒去の日、遠近哀傷した。孝伯の美名は遐邇に聞こえ、李彪が江南に使した際、蕭賾(斉の武帝)が彼に言った、「孝伯は卿から見て遠いか近いか(どれほど優れた人物か)。」そのように遠方の人にも知られていたのである。孝伯の妻は崔賾の女であり、高明な婦人で、一子元顯を生んだ。崔氏が卒去した後、翟氏を納れたが、妻とはしなかった。元顯を憎み忌んだ。後に劫難に遇い、元顯が害されたが、世間では翟氏の仕業であると言われた。元顯は志気甚だ高く、当時の人に傷み惜しまれた。翟氏の二子、安民・安上は、共に風度があった。

原文孝伯體度恢雅,明達政事,朝野貴賤,咸推重之。恭宗曾啟世祖廣徵俊秀,世祖曰:「朕有一孝伯,足治天下,何用多為?假復求訪,此人輩亦何可得。」其見賞如此。性方慎忠厚,每朝廷大事有不足,必手自書表,切言陳諫,或不從者,至於再三。削滅稿草,家人不見。公庭論議,常引綱紀,或有言事者,孝伯恣其所陳,假有是非,終不抑折。及見世祖,言其所長,初不隱人姓名以為己善,故衣冠之士,服其雅正。自崔浩誅後,軍國之謀,咸出孝伯。世祖寵眷有亞於浩,亦以宰輔遇之。獻替補闕,其迹不見,時人莫得而知也。卒之日,遠近哀傷焉。孝伯美名,聞於遐邇,李彪使於江南,蕭賾謂之曰:「孝伯於卿遠近?」其為遠人所知若此。孝伯妻崔賾女,高明婦人,生一子元顯。崔氏卒後,納翟氏,不以為妻也。憎忌元顯。後遇劫,元顯見害,世云翟氏所為也。元顯志氣甚高,為時人所傷惜。翟氏二子,安民、安上,並有風度。

安民は爵位の寿光侯を襲い、司徒司馬となった。卒去し、郢州刺史を追贈された。子がなく、爵位は除かれた。

原文安民,襲爵壽光侯,司徒司馬。卒,贈郢州刺史。無子,爵除。

安上は鉅鹿太守となったが、また早世した。

原文安上,鉅鹿太守,亦早卒。

安民の弟に豹子がいる。正光三年(522年)に上書して言うには、

原文安民弟豹子。正光三年上書曰:

ついに襲封を得られなかった。

原文卒不得襲。

孝伯の兄に祥がおり、字は元善である。学問は家業を伝え、郷党でこれを宗とした。世祖が州郡に賢良を挙げるよう詔すると、祥は貢挙に応じ、対策が旨に合い、中書博士に除された。当時、南土は未だ服従せず、世祖が親征し、尚書韓元興に命じて衆を率いて青州から出撃させ、祥を軍司とした。地を略して陳汝に至り、淮北の民で軍に降伏した者は七千余戸、これを兗豫の南に移し、淮陽郡を置いてこれを撫で、祥を太守に拝し、綏遠将軍を加えた。流民が帰附する者は万余家、農桑を勧め課し、百姓は安んじて生業に就いた。世祖はこれを嘉し、衣馬を賜った。河間太守に遷り、威恩の称があった。太安年間(455年-459年)、中書侍郎に徴されたが、民千余人が上書して数年留任を乞うたが、高宗は許さなかった。官に卒し、定州刺史・平棘子を追贈され、諡して憲と言う。

原文孝伯兄祥,字元善。學傳家業,鄉黨宗之。世祖詔州郡舉賢良,祥應貢,對策合旨,除中書博士。時南土未賓,世祖親駕,遣尚書韓元興率眾出青州,以祥為軍司。略地至于陳汝,淮北之民詣軍降者七千餘戶,遷之於兗豫之南,置淮陽郡以撫之,拜祥為太守,加綏遠將軍,流民歸之者萬餘家,勸課農桑,百姓安業。世祖嘉之,賜以衣馬。遷河間太守,有威恩之稱。太安中,徵拜中書侍郎,民有千餘,上書乞留數年,高宗不許。卒官,追贈定州刺史、平棘子,諡曰憲。

子の安世は、幼くして聡明で悟りが早かった。興安二年、高宗(文成帝)は侍郎・博士の子らを引見し、その秀才俊才を選抜して中書学生としようとした。安世は十一歳であり、高宗はそのまだ幼いのを見て、引見して問うた。安世は父祖のことを述べ立て、甚だ順序立っていたので、直ちに学生とした。高宗は国子学に行幸するたびに、常に独り引見して問うた。詔して曰く、「汝はただこれを守って大いなるに至れば、富貴ならざるを慮れず」と。父の喪に服し、孝行をもって知られた。天安の初め、中散に拝され、温和で聡明、敬虔で慎み深いことにより、顕祖(献文帝)に親愛された。累遷して主客令となった。

原文子安世,幼而聰悟。興安二年,高宗引見侍郎、博士之子,簡其秀儁者欲為中書學生。安世年十一,高宗見其尚小,引問之。安世陳說父祖,甚有次第,即以為學生。高宗每幸國學,恒獨被引問。詔曰:「汝但守此至大,不慮不富貴。」居父憂以孝聞。天安初,拜中散,以溫敏敬慎,顯祖親愛之。累遷主客令。

蕭賾が劉纘を使者として朝貢させた。安世は容貌美しく、挙措に優れていた。纘らは互いに言った、「君子なくして、よく国たるを得んや」と。纘らは安世を典客と呼んだ。安世は言った、「三代は礼を共にせず、五帝は楽を異にす。安んぞ亡秦の官を以て、上国に称せんや」と。纘が言うには、「世が異なれば称号も異なるが、凡そ幾つあるか」と。安世は言った、「周は掌客と謂い、秦は典客と改め、漢は鴻臚と名付け、今は主客と曰う。君らは文武の影響を欲せずして、殷勤として亡秦に及ぼすのか」と。纘はまた方山を指して言った、「此の山は燕然山より遠近如何」と。安世は言った、「亦た石頭の番禺に対するが如きのみ」と。国家に江南の使者が至ると、多くは内蔵の珍物を取り出し、都下の富家で容姿服飾を好む者に売らせ、使者に任せて交易させた。使者が金玉の店で価を問うと、纘は言った、「北方の金玉は甚だ賤しい。山川の産する所なるべし」と。安世は言った、「聖朝は金玉を貴ばず、以て瓦礫に同じく賤し。又、皇上の徳は神明に通じ、山は宝を愛せず、故に川なくして金なく、山なくして玉なし」と。纘は初め大いに買い付けようとしたが、安世の言葉を得て、慚じて止めた。主客給事中に遷った。

原文蕭賾使劉纘朝貢,安世美容貌,善舉止,纘等自相謂曰:「不有君子,其能國乎?」纘等呼安世為典客,安世曰:「三代不共禮,五帝各異樂,安足以亡秦之官,稱於上國。」纘曰:「世異之號,凡有幾也?」安世曰:「周謂掌客,秦改典客,漢名鴻臚,今曰主客。君等不欲影響文武,而殷勤亡秦。」纘又指方山曰:「此山去燕然遠近?」安世曰:「亦由石頭之於番禺耳。」國家有江南使至,多出藏內珍物,令都下富室好容服者貨之,令使任情交易。使至金玉肆問價,纘曰:「北方金玉大賤,當是山川所出?」安世曰:「聖朝不貴金玉,所以賤同瓦礫。又皇上德通神明,山不愛寶,故無川無金,無山無玉。」纘初將大市,得安世言,慚而罷。遷主客給事中。

時に民は飢えに困り流散し、豪族権門は多く占奪していた。安世は乃ち上疏して曰く、「臣聞く、地を量り野を画くは、国を経る大式なり。邑地相参ずるは、治を致すの本なり。井税の興るは、其の来り久し。田萊の数は、限を以て之を制す。蓋し土に功を曠からしめず、民に力を游ばしめんと欲するなり。雄擅の家は、独り膏腴の美を有するに非ず。単陋の夫も、亦た頃畝の分有り。以て彼の貧微を恤れみ、茲の貪欲を抑え、富約の不均を同じくし、斉民を編戸に一にせんとする所以なり。窃かに州郡の民を見るに、或いは凶年のために流移し、田宅を棄売し、異郷に漂居し、事数世に渉る。三長既に立ちて、始めて旧墟に返るも、廬井荒廃し、桑榆改植す。事既に遠く歴り、假冒を生じ易し。強宗豪族、其の侵凌を肆にし、遠くは魏晋の家を認め、近くは親旧の験を引く。又、年載稍く久しく、郷老惑わされ、群証多くと雖も、取るに足るべき据え莫し。各々親知に附し、互いに長短有り、両証徒に具わるも、聴く者猶疑い、争訟遷延し、連紀判ぜず。良疇委して開かず、柔桑枯れて採らず、僥倖の徒興り、繁多の獄作る。家をして歳儲豊かにし、人に資用給せしめんと欲するも、其れ得可けんや。愚謂うに、今桑井復し難しと雖も、宜しく更に均量し、其の径術を審かにし、分芸に準有らしめ、力業相称せしむべし。細民は資生の利を獲、豪右は余地の盈ち有ること靡からん。則ち私無きの沢、乃ち兆庶に均しく播かれ、阜の如く山の如く、比戸に積む有る可からん。又、争う所の田は、宜しく年を限りて断つべし。事久しくして明らかにし難きは、悉く今の主に属すべし。然る後に虚妄の民は覬覦に望みを絶ち、守分の士は永く凌奪を免れん」と。高祖(孝文帝)深く之を納れ、後に均田の制は此より起こった。

原文時民困飢流散,豪右多有占奪,安世乃上疏曰:「臣聞量地畫野,經國大式;邑地相參,致治之本。井稅之興,其來日久;田萊之數,制之以限。蓋欲使土不曠功,民罔游力。雄擅之家,不獨膏腴之美;單陋之夫,亦有頃畝之分。所以恤彼貧微,抑茲貪欲,同富約之不均,一齊民於編戶。竊見州郡之民,或因年儉流移,棄賣田宅,漂居異鄉,事涉數世。三長既立,始返舊墟,廬井荒毀,桑榆改植。事已歷遠,易生假冒。強宗豪族,肆其侵凌,遠認魏晉之家,近引親舊之驗。又年載稍久,鄉老所惑,羣證雖多,莫可取據。各附親知,互有長短,兩證徒具,聽者猶疑,爭訟遷延,連紀不判。良疇委而不開,柔桑枯而不採,僥倖之徒興,繁多之獄作。欲令家豐歲儲,人給資用,其可得乎!愚謂今雖桑井難復,宜更均量,審其徑術,令分藝有準,力業相稱,細民獲資生之利,豪右靡餘地之盈。則無私之澤,乃播均於兆庶;如阜如山,可有積於比戶矣。又所爭之田,宜限年斷,事久難明,悉屬今主。然後虛妄之民,絕望於覬覦;守分之士,永免於凌奪矣。」高祖深納之,後均田之制起於此矣。

出でて安平将軍・相州刺史・仮節・趙郡公となる。農桑を敦め勧め、淫祀を禁断した。西門豹・史起の如き、民に功有る者に対しては、その廟堂を修飾した。広平の宋翻・陽平の路恃慶を表薦し、皆朝廷の善士とした。初め、広平の人李波は、宗族強盛で、生民を残掠した。前刺史薛道𢷋が親ら往きて之を討つと、波は其の宗族を率いて拒戦し、大いに𢷋の軍を破った。遂に逋逃の藪となり、公私の患いとなった。百姓之が為に語って曰く、「李波小妹字は雍容、裙を褰ぎて馬を逐うこと蓬を巻くが如く、左に射右に射必ず雙を疊す。婦女尚お此の如し、男子那ぞ逢う可けんや」と。安世は方略を設け、波及び諸子姪三十余人を誘い出し、鄴の市で斬った。境内粛然とした。病を以て免官された。太和十七年、家に卒した。安世の妻は博陵の崔氏、一子の瑒を生んだ。崔氏は嫉妬悍ましきを以て出され、又、滄水公主を尚し、二子の謐・郁を生んだ。

原文出為安平將軍、相州刺史、假節、趙郡公。敦勸農桑,禁斷淫祀。西門豹、史起,有功於民者,為之修飾廟堂。表薦廣平宋翻、陽平路恃慶,皆為朝廷善士。初,廣平人李波,宗族強盛,殘掠生民。前刺史薛道𢷋親往討之,波率其宗族拒戰,大破𢷋軍。遂為逋逃之藪,公私成患。百姓為之語曰:「李波小妹字雍容,褰裙逐馬如卷蓬,左射右射必疊雙。婦女尚如此,男子那可逢!」安世設方略誘波及諸子姪三十餘人,斬于鄴市,境內肅然。以病免。太和十七年卒于家。安世妻博陵崔氏,生一子瑒。崔氏以妬悍見出,又尚滄水公主,生二子,謐、郁。

瑒、字は琚羅。歴史伝記に渉猟し、頗る文才有り、気概は豪爽で、公強当世であった。延昌の末、司徒行参軍となり、司徒長兼主簿に遷った。太師・高陽王元雍が表薦して瑒を其の友(王府の官属)とし、正主簿とした。

原文瑒,字琚羅。涉歷史傳,頗有文才,氣尚豪爽,公強當世。延昌末,司徒行參軍,遷司徒長兼主簿。太師、高陽王雍表薦瑒為其友,正主簿。

当時、民は多く絶戸して沙門となる者がいた。瑒は上言して曰く、「礼は以て世を教え、法は将来を導く。跡用既に殊なり、区流亦た別なり。故に三千の罪、孝ならざるより大なるは莫く、孝ならざるの大なるは、祀を絶つに過ぐるは莫し。然らば則ち絶祀の罪、重きこと之より甚だしきは莫し。安んぞ軽く礼に背くの情を縦え、而して其の法に向かうの意を肆にせんや。正しく仏道をして然らしむるとも、応に然るべからず。仮令聴して然らしむるとも、猶お礼を以て之を裁すべし。一身親老にありて、家を棄て養を絶つは、既に人理に非ず、尤も礼情に乖き、大倫を堙滅し、且つ王貫を闕く。当世の礼を交えて缺き、而して将来の益を求む。孔子云う『未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん』と。斯の言の至れるも、亦た備わりたるなり。安んぞ堂堂の政を棄てて、鬼教に従わんや。又、今南服未だ静かならず、衆役仍く煩く、百姓の情、方に多く役を避けんとす。若し復た之を聴かば、孝慈を捐棄するを恐れ、比屋にして是れ有らん」と。沙門都統の僧暹等は、瑒の鬼教の言を忿り、瑒を以て仏法を謗毀すとし、泣いて霊太后に訴えた。太后は之を責めた。瑒は自ら理めて曰く、「窃かに仏法を清明にし、道俗兼ねて通ぜしめんと欲するのみ。敢えて真学を排棄し、妄りに訾毀を為すに非ず。且つ鬼神の名は、皆霊達に通ずる称なり。百代の正典より、三皇五帝を敍するも、皆号して鬼と為す。天地を神祇と曰い、人死して鬼と曰う。易に曰く『鬼神の情状を知る』と。周公自ら美して、亦た云う『能く鬼神に事う』と。礼に曰く『明なる則ち礼楽有り、幽なる則ち鬼神有り』と。是を以て明なる者は堂堂と為し、幽なる者は鬼教と為す。仏は天に非ず地に非ず、本より人に出ず。世に応じ俗を導く、其の道幽隠なり。之を名づけて鬼と為すは、愚謂うに謗に非ず。且つ心に不善無く、仏道を以て教と為す者は、正に衆妙の門に未だ達せざるのみ」と。霊太后は瑒の言が妥当なるを知りながらも、然れども暹等の意を免れず、猶お瑒を罰して金一両を納めさせた。

原文于時民多絕戶而為沙門,瑒上言:「禮以教世,法導將來,跡用既殊,區流亦別。故三千之罪,莫大不孝,不孝之大,無過於絕祀。然則絕祀之罪,重莫甚焉。安得輕縱背禮之情,而肆其向法之意也?正使佛道,亦不應然,假令聽然,猶須裁之以禮。一身親老,棄家絕養,既非人理,尤乖禮情,堙滅大倫,且闕王貫。交缺當世之禮,而求將來之益,孔子云『未知生,焉知死』,斯言之至,亦為備矣。安有棄堂堂之政,而從鬼教乎!又今南服未靜,眾役仍煩,百姓之情,方多避役。若復聽之,恐捐棄孝慈,比屋而是。」沙門都統僧暹等忿瑒鬼教之言,以瑒為謗毀佛法,泣訴靈太后,太后責之。瑒自理曰:「竊欲清明佛法,使道俗兼通,非敢排棄真學,妄為訾毀。且鬼神之名,皆通靈達稱,自百代正典,敍三皇五帝,皆號為鬼。天地曰神祇,人死曰鬼。易曰『知鬼神之情狀』,周公自美,亦云『能事鬼神』,禮曰『明則有禮樂,幽則有鬼神』。是以明者為堂堂,幽者為鬼教。佛非天非地,本出於人,應世導俗,其道幽隱,名之為鬼,愚謂非謗。且心無不善,以佛道為教者,正可未達眾妙之門耳。」靈太后雖知瑒言為允,然不免暹等之意,猶罰瑒金一兩。

転じて尚書郎となり、伏波将軍を加えられた。蕭宝夤に従って西征し、瑒を統軍とし、仮の寧遠将軍とした。瑒の徳は郷閭に洽く、雄勇を招募すると、其の楽従する者数百騎有り、瑒は家を傾けて賑恤し、之を率いて西討した。宝夤は瑒の至るを見て、乃ち瑒の肩を拊して曰く、「子遠来る、吾が事辦れり」と。故に其の下は毎に戦功有り、軍中「李公騎」と号した。宝夤は又、瑒を左丞とすべく啓上し、仍って別将とし、軍機戎政、皆与に参決した。宝夤は又、中書侍郎とするよう啓上した。還朝し、鎮遠将軍・岐州刺史を除されたが、辞して赴任せず坐して免官された。建義の初め、河陰に於いて害に遇い、時に年四十五。初め鎮東将軍・尚書右僕射・殷州刺史を贈られ、太昌年中に重ねて散騎常侍・驃騎大将軍・儀同三司・冀州刺史を贈られた。

原文轉尚書郎,加伏波將軍。隨蕭寶夤西征,以瑒為統軍,假寧遠將軍。瑒德洽鄉閭,招募雄勇,其樂從者數百騎,瑒傾家賑恤,率之西討。寶夤見瑒至,乃拊瑒肩曰:「子遠來,吾事辦矣。」故其下每有戰功,軍中號曰「李公騎」。寶夤又啟瑒為左丞,仍為別將,軍機戎政,皆與參決。寶夤又啟為中書侍郎。還朝,除鎮遠將軍、岐州刺史,坐辭不赴任免官。建義初,於河陰遇害,時年四十五。初贈鎮東將軍、尚書右僕射、殷州刺史,太昌中重贈散騎常侍、驃騎大將軍、儀同三司、冀州刺史。

楊瑒は豪放で大志を抱き、酒を好み、親族や知己に篤く、しばしば弟の楊郁に言うには、「士大夫の学問は、古今を広く考察して終わるものである。どうして経書に専念して老博士となる必要があろうか」と。弟の楊謐とは特に友愛が篤く、楊謐が郷里で亡くなると、楊瑒は慟哭して気を失い、久しくしてようやく蘇生し、数日間食事を取らず、一年のうちに身体は憔悴し衰えた。人々はこれを哀しみ嘆いた。楊瑒には三人の子があった。

原文瑒俶儻有大志,好飲酒,篤於親知,每謂弟郁曰:「士大夫學問,稽博古今而罷,何用專經為老博士也?」與弟謐特相友愛,謐在鄉物故,瑒慟哭絕氣,久而方蘇,不食數日,期年之中,形骸毀悴。人倫哀歎之。瑒三子。

長子の楊義盛は、武定年間に司徒倉曹参軍となった。

原文長子義盛,武定中,司徒倉曹參軍。

楊瑒の弟の楊謐は、字を永和という。逸士伝にある。

原文瑒弟謐,字永和。在逸士傳。

楊謐の弟の楊郁は、字を永穆という。学問を好み沈着静穏で、経史に広く通じた。著作佐郎から広平王元懐の友となり、元懐は深く礼遇した。当時、学士徐遵明が山東で教授しており、生徒が非常に多かった。元懐は徐遵明を館に招き、楊郁に命じてその五経の義例について十余条を問わせたが、徐遵明が答えたのは数条のみであった。次第に国子博士に昇進した。国学が建てられて以来、諸博士は概ね講説せず、朝夕に教授したのは楊郁のみであった。謙虚で優雅かつ寛大であり、まことに儒者の風があった。廷尉少卿に転じ、冠軍将軍を加えられ、さらに通直散騎常侍に転じた。建義年間に、兄の楊瑒が亡くなったため、孤児となった甥を養育して郷里に帰った。永熙初年、散騎常侍・大将軍・左光禄大夫・兼都官尚書に任ぜられ、まもなく給事黄門侍郎を兼ねた。三年の春、顕陽殿で礼を講じた際、詔により楊郁が経を執り、解説は尽きることがなく、群臣の難問が鋭く起こったが、談笑を廃することはなかった。出帝および諸王公で聴講に与った者は、皆称賛せざるはなかった。まもなく病没し、散騎常侍・都督定冀相滄殷五州諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射・儀同三司・定州刺史を追贈された。

原文謐弟郁,字永穆。好學沉靜,博通經史。自著作佐郎為廣平王懷友,懷深相禮遇。時學士徐遵明教授山東,生徒甚盛,懷徵遵明在館,令郁問其五經義例十餘條,遵明所答數條而已。稍遷國子博士。自國學之建,諸博士率不講說,朝夕教授,惟郁而已。謙虛雅寬,甚有儒者之風。遷廷尉少卿,加冠軍將軍,轉通直散騎常侍。建義中,以兄瑒卒,遂撫育孤姪,歸於鄉里。永熙初,除散騎常侍、大將軍、左光祿大夫、兼都官尚書,尋領給事黃門侍郎。三年春,於顯陽殿講禮,詔郁執經,解說不窮,羣難鋒起,無廢談笑。出帝及諸王公凡預聽者,莫不嗟善。尋病卒,贈散騎常侍、都督定冀相滄殷五州軍事、驃騎大將軍、尚書左僕射、儀同三司、定州刺史。

子の楊士謙は、儀同開府参軍事となった。

原文子士謙,儀同開府參軍事。

李沖

原文李沖

李沖は、字を思順といい、隴西の人で、敦煌公李宝の末子である。幼くして孤となり、長兄の滎陽太守李承に養育され教えを受けた。李承は常に言うには、「この子の器量は並々ならぬものがあり、まさに家門の頼みとなるであろう」と。李沖は沈着高雅で度量が大きく、兄に従って任地に赴いた。当時、州牧や郡守の子弟は多く民衆を侵害し乱し、軽々しく物を乞い奪ったが、李沖と李承の長子の李韶だけは清廉簡素で潔白であり、何も求め取らなかったので、当時の人々はこれを称賛した。

原文李沖,字思順,隴西人,敦煌公寶少子也。少孤,為長兄滎陽太守承所攜訓。承常言:「此兒器量非恒,方為門戶所寄。」沖沈雅有大量,隨兄至官。是時牧守子弟多侵亂民庶,輕有乞奪,沖與承長子韶獨清簡皎然,無所求取,時人美焉。

顕祖の末年、中書学生となった。李沖は交遊を善くし、妄りに戯れ雑わることなく、同輩から重んじられた。高祖の初年、例により秘書中散に昇進し、禁中の文書事務を掌り、整然とし機敏で聡明であったため、次第に寵愛待遇されるようになった。内秘書令・南部給事中に転じた。

原文顯祖末,為中書學生。沖善交遊,不妄戲雜,流輩重之。高祖初,以例遷祕書中散,典禁中文事,以修整敏惠,漸見寵待。遷內祕書令、南部給事中。

旧来、三長の制はなく、ただ宗主が督護するのみであったので、民衆は多く戸籍を偽り隠し、五十家や三十家で一戸をなしていた。李沖は、三正(三長)によって民を治めることは、その由来が遠いと考え、ここに三長の制を創案して上奏した。文明太后はこれを見て善しと称え、公卿を引見して議させた。中書令鄭羲・秘書令高祐らは言うには、「李沖が三長を立てようと求めるのは、天下を一つの法に混同させようとするものである。言葉としては用いることができるようだが、事実としては実行しがたい」と。鄭羲はまた言うには、「臣の言を信じられぬならば、ただこれを試みて実行されよ。事が失敗した後、愚かなる言葉が誤りでなかったことを知るであろう」と。太尉元丕は言うには、「臣はこの法を行えば、公私ともに益があると考えます」と。皆、方今は農事の月であり、民戸を調査比較すれば新旧が未だ分かたず、民は必ず労苦し怨むであろうと称し、今秋を過ぎ、冬の閑月に至って、徐々に使者を派遣するのが、事柄として適切であると請うた。李沖は言うには、「民とは冥(暗愚)なるものであり、これを行わせることはできても、これを知らしめることはできない。もし徴税の時期によらなければ、百姓はただ長を立て戸を調査する労苦を知るのみで、均等な徭役や軽減された賦税の利益を見ず、心に必ず怨みを生じるであろう。課税の月に及んで、賦税の均等であることを知らしめるのがよい。既にその事柄を理解し、またその利益を得れば、民の欲求に沿って、これを実行しやすくなる」と。著作郎傅思益が進み出て言うには、「民俗は既に異なり、険易も同じでなく、九品による差等徴発は、長い間続いてきた。一旦法を改めれば、恐らく擾乱を生じるでしょう」と。太后は言うには、「三長を立てれば、課税には常の基準があり、賦税には恒常の分け前があり、隠れていた戸は出て、僥倖の徒は止むことができる。どうしてできないことがあろうか」と。群議には異なる意見もあったが、ただ変法を難しいとするのみで、他に異議はなかった。遂に三長の制を立て、公私ともに便利となった。

原文舊無三長,惟立宗主督護,所以民多隱冒,五十、三十家方為一戶。沖以三正治民,所由來遠,於是創三長之制而上之。文明太后覽而稱善,引見公卿議之。中書令鄭羲、祕書令高祐等曰:「沖求立三長者,乃欲混天下一法。言似可用,事實難行。」羲又曰:「不信臣言,但試行之,事敗之後,當知愚言之不謬。」太尉元丕曰:「臣謂此法若行,於公私有益。」咸稱方今有事之月,校比民戶,新舊未分,民必勞怨,請過今秋,至冬閑月,徐乃遣使,於事為宜,沖曰:「民者,冥也,可使由之,不可使知之。若不因調時,百姓徒知立長校戶之勤,未見均徭省賦之益,心必生怨。宜及課調之月,令知賦稅之均。既識其事,又得其利,因民之欲,為之易行。」著作郎傅思益進曰:「民俗既異,險易不同,九品差調,為日已久,一旦改法,恐成擾亂。」太后曰:「立三長,則課有常準,賦有恒分,苞蔭之戶可出,僥倖之人可止,何為而不可?」羣議雖有乖異,然惟以變法為難,更無異義。遂立三長,公私便之。

中書令に転じ、散騎常侍を加えられ、給事中は元の通りとした。まもなく南部尚書に転じ、順陽侯の爵位を賜った。李沖は文明太后に寵愛され、恩寵は日増しに盛んとなり、賞賜は月に数千万に及び、爵位は隴西公に進み、密かに珍宝や御物を送ってその邸宅を充実させたが、外の者は知ることができなかった。李沖の家は元来清貧であったが、ここに至って初めて富家となった。しかし謙虚に自らを律し、財を積んでも散じ、近くは姻族から、遠くは郷里に至るまで、分け与えぬ者はなかった。己を虚しくして人と接し、旅人や貧寒の者を思いやり、衰え旧い者が零落し屈していた者をこれによって登用した者も、また多かった。当時の人々はこれをもって彼を称えた。

原文遷中書令,加散騎常侍,給事中如故。尋轉南部尚書,賜爵順陽侯。沖為文明太后所幸,恩寵日盛,賞賜月至數千萬,進爵隴西公,密致珍寶御物以充其第,外人莫得而知焉。沖家素清貧,於是始為富室。而謙以自牧,積而能散,近自姻族,逮于鄉閭,莫不分及。虛己接物,垂念羇寒,衰舊淪屈由之躋敍者,亦以多矣。時以此稱之。

初め、李沖の兄の李佐は河南太守来崇と共に涼州から魏に入国したが、平素から些細な不和があった。李佐は機会を捉えて来崇に罪を着せ、獄中で餓死させた。後来崇の子の来護がまた李佐の贓罪を糾弾し、李佐および李沖らは皆連座して拘禁されたが、赦令に会って免ぜられ、李佐はこれを非常に恨んだ。李沖が寵愛され貴顕となり、内外を統轄するに至ると、来護は南部郎であったが、深く李沖に陥れられることを憂慮し、常に退避を求めたが、李沖は毎度慰め労った。来護は後に贓罪に連座し、必ず助からないことを恐れた。李沖はそこで詳しく来護との間の嫌隙の経緯を奏上し、彼を許すよう乞い、来護は遂に連座を免れた。李沖の姉妹の子の陰始孫は孤貧で、李沖の家に出入りし、子や甥のようであった。ある者が官を求める際、彼を通じて李沖に馬を贈ったが、陰始孫は受け取っただけで李沖に言わなかった。後にある機会を借りて、李沖からこの馬を借りた。馬の主は李沖が馬に乗っているのを見て官を得られず、後に自ら経緯を陳述した。李沖はこれを聞き、大いに驚き、陰始孫を捕らえて事情を詳しく奏上し、陰始孫は死罪に処せられた。要職にあって自らを厳しく律し、愛憎に捉われないことは、皆この類いであった。

原文初,沖兄佐與河南太守來崇同自涼州入國,素有微嫌。佐因緣成崇罪,餓死獄中。後崇子護又糾佐贓罪,佐及沖等悉坐幽繫,會赦乃免,佐甚銜之。至沖寵貴,綜攝內外,護為南部郎,深慮為沖所陷,常求退避,而沖每慰撫之。護後坐贓罪,懼必不濟。沖乃具奏與護本末嫌隙,乞原恕之,遂得不坐。沖從甥陰始孫孤貧,往來沖家,至如子姪。有人求官,因其納馬於沖,始孫受輒而不為言。後假方便,借沖此馬,馬主見沖乘馬而不得官,後乃自陳始末。沖聞之,大驚,執始孫以狀款奏,始孫坐死。其處要自厲,不念愛惡,皆此類也。

当時は旧習に従い、王公重臣も皆その名で呼ばれたが、高祖は常に李沖を中書と呼んで名で呼ばなかった。文明太后が崩御した後、高祖が喪に服している間も、引見して待遇することは以前より増した。礼儀律令を議し、文辞や趣旨を潤色し、軽重を刊定するにあたり、高祖は自ら筆を下すものの、李沖に諮問して決断しないことはなかった。李沖は忠を尽くして上に奉じ、知ることは全てを尽くし、出入りするにも憂い勤めて、その様子は顔色に現れ、旧臣や外戚の補佐役でも及ぶ者はなく、その明断で慎重周密なことに心服しない者はなかった。ここにおいて天下は一致し、遠方の地の耳目も、皆彼を奇異なものとして尊んだ。高祖もまた深く頼み信じ、親しみ敬うことはますます甚だしく、君臣の間の情義は二つとないものであった。百官を改めて設置し、五等爵を開建するにあたり、李沖に典式の参定をさせ、滎陽郡開国侯に封じ、食邑八百戸を与え、廷尉卿に任じた。まもなく侍中・吏部尚書・咸陽王師に転じた。東宮が建てられると、太子少傅に任じられた。高祖は初め周礼に依り、夫人・嬪の列を置き、李沖の娘を夫人とした。

原文是時循舊,王公重臣皆呼其名,高祖常謂沖為中書而不名之。文明太后崩後,高祖居喪,引見待接有加。及議禮儀律令,潤飾辭旨,刊定輕重,高祖雖自下筆,無不訪決焉。沖竭忠奉上,知無不盡,出入憂勤,形於顏色,雖舊臣戚輔,莫能逮之,無不服其明斷慎密而歸心焉。於是天下翕然,及殊方聽望,咸宗奇之。高祖亦深相杖信,親敬彌甚,君臣之間,情義莫二。及改置百司,開建五等,以沖參定典式,封滎陽郡開國侯,食邑八百戶,拜廷尉卿。尋遷侍中、吏部尚書、咸陽王師。東宮既建,拜太子少傅。高祖初依周禮,置夫、嬪之列,以沖女為夫人。

詔して曰く、「昔、軒皇(黄帝)が誕御し、棟宇の構えを垂れた。爰に三代を歴て、宮観の式を興す。然れども茅茨土階は、上代に徳を昭かにし、層台広厦は、中葉に威を崇くす。良に文質異宜、華樸殊礼なるが故なり。是を以て周成(成王)は業を継ぎ、東都に明堂を営み、漢祖(高祖)は聿(つひ)に興り、咸鎬に未央を建つ。蓋し皇威を尊厳し、帝徳を崇重せんとする所以にして、豈に奢を好み儉を悪み、苟くも民力を弊はさんとする者ならんや。我が皇運は天を統べ、乾暦を協纂す。四方に意を鋭くすれども、未だ建制に遑(いとま)あらず。宮室の度、頗る未だ允(まこと)ならず。太祖の初基、粗かに経式有りと雖も、茲より厥の後、復た多く営改す。三元の慶饗に至りては、万国庭に充ち、観光の使、具瞻に闕有り。朕は寡徳を以て、猥(みだり)に洪緒を承く。運は休期に属し、事は昌運に鍾(あつ)まる。宜しく遠度に遵ひ、茲に宮宇を式とすべし。指訓規模は、事平日に昭かにし、明堂・太廟は、昔年に成れり。又往歳の豊資に因り、民情の安逸に藉(よ)り、将に今春を以て正殿を営改せんとす。時令に違犯し、之を行ふに惕然たり。但し朔土は寒多く、事南夏に殊なり。自ら裁度春に当り、役を興して暑に徂(ゆ)かざれば、則ち広制崇基、克く就く由莫し。成功事を立つるは、賢を委ねざれば莫く、改制規模は、能を任ぜざれば済まじ。尚書沖は器懐淵博、経度明遠、将作大匠を領くべし。司空・長楽公亮は、大匠と共に興繕を監るべし。其の故を去り新を崇むるの宜、太極の制を修復するは、朕当に別に指授を加へん。」

原文詔曰:「昔軒皇誕御,垂棟宇之構;爰歷三代,興宮觀之式。然茅茨土堦,昭德於上代;層臺廣厦,崇威於中葉。良由文質異宜,華樸殊禮故也。是以周成繼業,營明堂於東都;漢祖聿興,建未央於咸鎬。蓋所以尊嚴皇威,崇重帝德,豈好奢惡儉,苟弊民力者哉?我皇運統天,協纂乾曆,銳意四方,未遑建制,宮室之度,頗為未允。太祖初基,雖粗有經式,自茲厥後,復多營改。至於三元慶饗,萬國充庭,觀光之使,具瞻有闕。朕以寡德,猥承洪緒,運屬休期,事鍾昌運,宜遵遠度,式茲宮宇。指訓規模,事昭於平日;明堂、太廟,已成於昔年。又因往歲之豐資,藉民情之安逸,將以今春營改正殿。違犯時令,行之惕然。但朔土多寒,事殊南夏,自非裁度當春,興役徂暑,則廣制崇基,莫由克就。成功立事,非委賢莫可;改制規模,非任能莫濟。尚書沖器懷淵博,經度明遠,可領將作大匠;司空、長樂公亮,可與大匠共監興繕。其去故崇新之宜,修復太極之制,朕當別加指授。」

車駕南伐し、沖に輔国大将軍を加へ、衆を統べて翼従せしむ。都を発して洛陽に至るまで、霖雨霽れず、仍て詔して六軍に軫を発せしむ。高祖は戎服に鞭を執り、馬に御して出づ。群臣馬首の前に啓顙す。高祖曰く、「長駆の謀は、廟算已に定まれり。今大軍将に進まんとす。公等更に何をか云はんと欲する。」沖進みて曰く、「臣等帷幄に折衝し、坐して四海を制すること能はずして、南に窃号の渠有らしむるは、実に臣等の咎なり。陛下文軌未だ一ならざるを以て、親しく聖駕を労す。臣等誠に亡躯尽命し、死を効して戎行せんことを思ふ。然れども都を離れて淫雨、士馬困弊し、前路尚ほ遥か、水潦方に甚だし。且つ伊洛境内、小水すら尚ほ難を致し、況んや長江浩汗、南境に越ゆるをや。若し舟楫を営まば、必須停滞し、師老い糧乏しく、進退難し。喪を矜み旆を反すは、義に於て允なり。」高祖曰く、「一同の意は、前に已に具論せり。卿等正に水雨を以て難と為す。然れども天時頗る亦知るべし。何者、夏既に炎旱すれば、秋故に雨多く、玄冬の初、必ず当に開爽せん。比の後月十間、若し雨猶已まずば、此れ乃ち天なり。脱(もし)此れにして晴れなば、行ふに害無からん。古、喪を伐たずとは、諸侯同軌の国を謂ふ。王者統一の文に非ず。已に此に至る。何をか容れて駕を停めん。」沖又進みて曰く、「今者の挙は、天下願はざる所、唯だ陛下之を欲するのみ。漢文の言へるが如く、吾独り千里馬に乗るも、竟に何に至らん。臣意有りて其の辞無し。敢へて死を以て請ふ。」高祖大いに怒りて曰く、「方に宇宙を経営し、区域を一同せんと欲す。而るに卿等儒生、屡(しばしば)大計を疑ふ。斧鉞常有り。卿復た言ふ勿れ。」策馬して将に出でんとす。是に於て大司馬・安定王休、左僕射を兼ぬる任城王澄等並びに殷勤に泣諫す。高祖乃ち群臣に諭して曰く、「今者興動小さからず。動いて成らずんば、何を以て後に示さん。苟くも師を班せんと欲せば、之を千載に垂るる無し。朕遠祖を仰ぎ惟ふに、世幽漠に居り、衆に違ひて南遷し、以て無窮の美を享く。豈其れ心無くして、軽く陵壌を遺さんや。今の君子、寧独り懐有らんや。当に天工人代・王業須く成るが故なるべし。若し南鑾せずんば、即ち当に都を此に移し、土中に光宅せん。機亦時に当る。王公等何如と為す。議の決する所、旋踵を得ず。遷らんと欲する者は左に、欲せざる者は右にせよ。」安定王休等相率ひて右に如くす。前南安王楨進みて曰く、「夫れ愚者は成事に闇く、智者は未萌に見る。至徳を行ふ者は俗に議せず、大功を成す者は衆に謀らず。非常の人乃ち能く非常の事を建つ。神都を廓(ひろ)めて以て王業を延べ、土中を度(はか)りて以て帝京を制す。周公之を前に啓き、陛下之を後に行ふ。故に其の宜しきなり。且つ天下至重なるは皇居に若くは莫く、人の貴ぶ所は寧ろ遺体の如くならんや。請ふらくは上は聖躬を安んじ、下は民望を慰め、中原に光宅し、彼の南伐を輟(や)めよ。此れ臣等の願ひ言ふ所、蒼生幸甚なり。」群臣咸く「万歳」と唱ふ。

原文車駕南伐,加沖輔國大將軍,統眾翼從。自發都至於洛陽,霖雨不霽,仍詔六軍發軫。高祖戎服執鞭,御馬而出,羣臣啟顙於馬首之前。高祖曰:「長驅之謀,廟算已定,今大軍將進,公等更欲何云?」沖進曰:「臣等不能折衝帷幄,坐制四海,而令南有竊號之渠,實臣等之咎。陛下以文軌未一,親勞聖駕,臣等誠思亡軀盡命,効死戎行。然自離都淫雨,士馬困弊,前路尚遙,水潦方甚。且伊洛境內,小水猶尚致難,況長江浩汗,越在南境。若營舟檝,必須停滯,師老糧乏,進退為難,矜喪反旆,於義為允。」高祖曰:「一同之意,前已具論。卿等正以水雨為難,然天時頗亦可知。何者?夏既炎旱,秋故雨多,玄冬之初,必當開爽。比後月十間,若雨猶不已,此乃天也,脫於此而晴,行則無害。古不伐喪,謂諸侯同軌之國,非王者統一之文。已至於此,何容停駕。」沖又進曰:「今者之舉,天下所不願,唯陛下欲之。漢文言,吾獨乘千里馬,竟何至也?臣有意而無其辭,敢以死請。」高祖大怒曰:「方欲經營宇宙,一同區域,而卿等儒生,屢疑大計,斧鉞有常,卿勿復言!」策馬將出。於是大司馬、安定王休,兼左僕射、任城王澄等並殷勤泣諫。高祖乃諭羣臣曰:「今者興動不小,動而無成,何以示後?苟欲班師,無以垂之千載。朕仰惟遠祖,世居幽漠,違眾南遷,以享無窮之美,豈其無心,輕遺陵壤。今之君子,寧獨有懷?當由天工人代、王業須成故也。若不南鑾,即當移都於此,光宅土中,機亦時矣,王公等以為何如?議之所決,不得旋踵,欲遷者左,不欲者右。」安定王休等相率如右。前南安王楨進曰:「夫愚者闇於成事,智者見於未萌。行至德者不議於俗,成大功者不謀於眾,非常之人乃能建非常之事。廓神都以延王業,度土中以制帝京,周公啟之於前,陛下行之於後,故其宜也。且天下至重,莫若皇居,人之所貴,寧如遺體?請上安聖躬,下慰民望,光宅中原,輟彼南伐。此臣等願言,蒼生幸甚。」羣臣咸唱「萬歲」。

高祖初め南遷を謀り、衆心旧を恋ふるを恐れ、乃ち大挙を示し、因りて以て群情を脅定せんとす。外は南伐と名づく、其の実は遷なり。旧人は土を懐ひ、多く願はざる所有り。内に南征を憚り、敢へて言ふ者無し。是に於て都を洛陽に定む。沖高祖に言ひて曰く、「陛下方に周公の制を修め、鼎を定めて成周と為さんとす。然れども六寝を営建するは、遊駕を以て就くを待つべからず。城郭を興築するは、馬上を以て営み訖るに難し。願はくは暫く北都に還り、臣下に経造せしめ、功成り事訖りて、然る後に文物の章を備へ、玉鑾の響を和し、時に巡りて南徙し、土中に軌儀せん。」高祖曰く、「朕将に方岳を巡省し、鄴に至りて小停し、春始めて便ち還らん。未だ遂に北に帰らざるに宜しからず。」尋ち沖を鎮南将軍と為し、侍中・少傅は旧の如く、営構の任に委ぬ。陽平郡開国侯に改封し、邑戸は先の如し。

原文高祖初謀南遷,恐眾心戀舊,乃示為大舉,因以脅定羣情,外名南伐,其實遷也。舊人懷土,多所不願,內憚南征,無敢言者,於是定都洛陽。沖言於高祖曰:「陛下方修周公之制,定鼎成周。然營建六寢,不可遊駕待就;興築城郛,難以馬上營訖。願暫還北都,令臣下經造,功成事訖,然後備文物之章,和玉鑾之響,巡時南徙,軌儀土中。」高祖曰:「朕將巡省方岳,至鄴小停,春始便還,未宜遂不歸北。」尋以沖為鎮南將軍,侍中、少傅如故,委以營構之任。改封陽平郡開國侯,邑戶如先。

帝が南征されると、沖を左僕射を兼任させ、洛陽を留守させた。帝が淮を渡られると、別詔で安南大将軍元英・平南将軍劉藻に漢中を討たせ、雍・涇・岐の三州の兵六千人を召集して南鄭の守備に充てることを計画し、城を落とせば派遣することとした。沖は上表して諫めて言うには、「秦州は険阻で、地は羌夷に接しており、西の軍が出て以来、糧秣の補給が続き、加えて氐胡が叛逆し、各地で奔走し、糧を運び鎧を着けて、今に至るまで止まない。今また予め守備兵を差し向け、山外に懸け渡そうとしているが、優遇復除を加えても、なお驚き恐れるであろう。もし結局攻め落とせなければ、徒らに民情を動揺させ、胡と夷を結びつけ、事態は測り難くなるかもしれない。早速ご旨に依って密かに刺史に下知し、軍が鄭城を落としてから、その後に差し向けるようにしたが、臣の愚見では、なお不十分であると思う。なぜか。西の道は険阻で、一本道が千里続き、今、絶界の外に深く守備し、群賊の中に孤軍で拠ろうとしている。敵が攻めてもすぐには援けられず、食糧が尽きても運ぶことができない。古人の言葉に、『鞭長くとも馬腹に及ばず』とある。南鄭は国にとって、まさに馬腹である。かつて昔の人の攻伐では、城が降伏しても取らないことがあり、仁君が軍を用いるには、民を撫でて地を遺すことがある。そもそも王者の挙動は、情は民を救うことにあり、夷寇の守るところは、意は地を惜しむことにある。この二つの意義を較べれば、徳には浅深がある。恵みの名声は既に遠くまで届いているのに、どうして一城に急ぐことがあろうか。かつ魏の境が覆うところは、九州のうち八を超え、民人が臣従するのは、十分の九である。まだ民となっていないのは、ただ漠北と江外のみである。これらを羈縻するのは近い将来のことであって、どうして今日に急ぐ必要があろうか。大いに疆宇を開き、広く城聚を抜き、多く資糧を積み、食糧が敵を支えるに足りるようになってから、邦を置き将を立て、吞并の挙に出るのがよい。今、鍾離・寿陽は近くにあるが未だ抜けず、赭城・新野は一歩の隔たりもなく降伏しない。落としたものは捨てて取らず、降伏したものは撫でてすぐに殺す。東道がすでに近い兵力で守れないのに、西蕃を遠い兵で固められようか。もしどうしても置こうとするなら、臣は結局敵に資することになると恐れる。また今、都を土中に建て、地は寇の境に接している。まさに大いに死士を収め、江会を平蕩すべき時である。軽々しく寡兵を派遣し、彼らを陷没させるに任せれば、後の挙兵の日に、人々が留守をしたために恐れをなして、死力を尽くすことを求めても、容易には得られないであろう。これを推して論ずれば、守備しないのが上策である。」高祖はこれに従った。

原文車駕南伐,以沖兼左僕射,留守洛陽。車駕渡淮,別詔安南大將軍元英、平南將軍劉藻討漢中,召雍涇岐三州兵六千人擬戍南鄭,克城則遣。沖表諫曰:「秦州險阨,地接羌夷,自西師出後,餉援連續,加氐胡叛逆,所在奔命,運糧擐甲,迄茲未已。今復豫差戍卒,懸擬山外,雖加優復,恐猶驚駭,脫終攻不克,徒動民情,連胡結夷,事或難測。輒依旨密下刺史,待軍克鄭城,然後差遣,如臣愚見,猶謂未足。何者?西道險阨,單徑千里,今欲深戍絕界之外,孤據羣賊之中,敵攻不可卒援,食盡不可運糧。古人有言,『雖鞭之長,不及馬腹』,南鄭於國,實為馬腹也。且昔人攻伐,或城降而不取;仁君用師,或撫民而遺地。且王者之舉,情在拯民;夷寇所守,意在惜地。校之二義,德有淺深。惠聲已遠,何遽於一城哉?且魏境所掩,九州過八,民人所臣,十分而九。所未民者,惟漠北之與江外耳。羈之在近,豈急急於今日也?宜待大開疆宇,廣拔城聚,多積資糧,食足支敵,然後置邦樹將,為吞并之舉。今鍾離、壽陽,密邇未拔;赭城、新野,跬步弗降。所克者舍之而不取,所降者撫之而旋戮。東道既未可以近力守,西蕃寧可以遠兵固?若果欲置者,臣恐終以資敵也。又今建都土中,地接寇壤,方須大收死士,平蕩江會。輕遣單寡,棄令陷沒,恐後舉之日,眾以留守致懼,求其死効,未易可獲。推此而論,不戍為上。」高祖從之。

帝が都に還られると、沖らを引見して言われた、「元より多く官を置いたのは、令や僕が暗弱で、百事が滞ることを慮り、もし明らかで独り聡明ならば、権勢が大きく併せられるからである。今朕は聡明とは言えぬが、また劣って暗くもない。卿らは大賢ではないが、また大悪でもない。しばらく一、二年の間は、少し官司を置くようにせよ。」

原文車駕還都,引見沖等,謂之曰:「本所以多置官者,慮有令僕闇弱,百事稽壅,若明獨聰專,則權勢大併。今朕雖不得為聰明,又不為劣闇,卿等不為大賢,亦不為大惡。且可一兩年許,少置官司。」

高祖が鄴から京に還られ、洪池に舟を浮かべると、沖に従容として言われた、「朕はここから渠を洛に通し、南伐の日に、どうしてここから洛に入り、洛から河に入り、河から汴に入り、汴から清に入り、淮に至らないことがあろうか。船を下りて戦うのは、戸を出て戦うようなものであり、これは軍国の大計である。今、溝渠を開くのに二万人以下、六十日で完成するならば、漸次修築すべきである。」沖は答えて言う、「もしそうであれば、兵士に遠く跋渉する労がなく、戦いに倍する力があることになります。」尚書僕射に遷り、引き続き少傅を領した。清淵県開国侯に改封され、邑戸は前の通りであった。やがて太子恂が廃されると、沖は少傅を罷免された。

原文高祖自鄴還京,汎舟洪池,乃從容謂沖曰:「朕欲從此通渠於洛,南伐之日,何容不從此入洛,從洛入河,從河入汴,從汴入清,以至於淮?下船而戰,猶出戶而鬬,此乃軍國之大計。今溝渠若須二萬人以下、六十日有成者,宜以漸修之。」沖對曰:「若爾,便是士無遠涉之勞,戰有兼人之力。」遷尚書僕射,仍領少傅。改封清淵縣開國侯,邑戶如前。乃太子恂廢,沖罷少傅。

高祖が清徽堂で公卿を引見され、高祖は言われた、「聖人の大宝は、ただ位と功のみである。ゆえに功成って楽を作り、治定まって礼を定める。今、極を中天に移し、嵩洛に居を創めたが、大構は未だ成らずとも、要は条紀がほぼ挙がっている。ただ南には未だ賓服せぬ賊がおり、また兇蛮が近くに密接している。朕は夙夜悵み歎き、まさにここにある。南を取る計は決まり、朕が行う謀は必ず実行する。もし近代に依れば、天子は深宮の内に帷を下ろすが、上古を準えれば、親征があり、祚は七百年延びた。魏・晋は征伐せず、踵を返す間に滅びた。祚の修短は、徳に在って征に在らず。今ただ行く時期の早晚が分からない。幾を知るは其れ神か、朕は神ではないから、どうして知ることができよう。近頃、陰陽卜術の士は皆、朕に今征すれば必ず克つと勧める。これは家国の大事であるから、君臣共に各々所見を尽くすべきで、朕が先に言ったからといって、すぐに依違し、退いて異同があってはならない。」沖は答えて言う、「征戦の法は、先ず人事を尽くし、その後で卜筮を行うものです。今、卜筮は吉でも、なお人事が備わっていないことを恐れます。今年の秋の収穫は、常の実りに損があり、また京師が遷ったばかりで、諸業が定まらず、これに征戦を加えるのは、よろしくないと思います。来秋まで待つべきです。」高祖は言われた、「僕射の言は、合わないわけではない。朕が慮るのは、社稷の憂いである。しかし咫尺の寇戎に対して、自ら安んずるべきではなく、理はこのようでなければならない。僕射が人事が従わないと言うが、必ずしもそうではない。朕が十七年に、二十万の衆を擁して、畿甸を出ずに行軍したが、これは人事の盛んなことで、天時によるものではない。往年、機に乗じた時は、天時はよかったが、人事を欠き、また勝利を得られなかった。もし人事が備わるのを待てば、また天時ではなくなる。どうすればよいのか。僕射の言のようであれば、ついに征伐の理はないことになる。朕が秋に行って勝利がなければ、三君子(公卿たち)は皆、司寇に付すこととしよう。人々が心を尽くさないわけにはいかない。」議を罷めて退出した。

原文高祖引見公卿於清徽堂,高祖曰:「聖人之大寶,惟位與功,是以功成作樂,治定制禮。今徙極中天,創居嵩洛,雖大構未成,要自條紀略舉。但南有未賓之豎,兼兇蠻密邇,朕夙夜悵惋,良在於茲。取南之計決矣,朕行之謀必矣。若依近代也,則天子下帷深宮之內;準上古也,則有親行,祚延七百。魏晉不征,旋踵而殞,祚之修短,在德不在征。今但以行期未知早晚。知幾其神乎,朕既非神,焉能知也。而頃來陰陽卜術之士,咸勸朕今征必克。此既家國大事,宜共君臣各盡所見,不得以朕先言,便致依違,退有同異。」沖對曰:「夫征戰之法,先之人事,然後卜筮,今卜筮雖吉,猶恐人事未備。今年秋稔,有損常實,又京師始遷,眾業未定,加之征戰,以為未可。宜至來秋。」高祖曰:「僕射之言,非為不合。朕意之所慮,乃有社稷之憂。然咫尺寇戎,無宜自安,理須如此。僕射言人事未從,亦不必如此。朕去十七年,擁二十萬眾,行不出畿甸,此人事之盛,而非天時。往年乘機,天時乃可,而闕人事,又致不捷。若待人事備,復非天時,若之何?如僕射之言,便終無征理。朕若秋行無克捷,三君子並付司寇。不可不人盡其心。」罷議而出。

後に世宗が太子となると、高祖は清徽堂で宴を催された。高祖は言われた、「皇儲が三才の歴を纂ぎ、七祖を光昭するのは、これこそ億兆が皆悦び、天人共に泰するからである。故に卿を延べてこの一宴を催し、忻びの情を暢けようとする。」高祖はまた言われた、「天地の道は、一盈一虚であり、どうして常に泰平であろうか。天道でさえそうである。まして人事においてはどうか。故に昇進もあれば罷免もあり、古よりそうである。往きし日を悼み今を欣ぶのは、まことに深く歎息せざるを得ない。」沖は答えて言う、「東宮(太子)が儲嗣を継がれ、蒼生は皆幸いに思います。ただ臣は以前、師傅の任に忝くし、補弼調和することができず、天日を仰いで慚じ、慈造(陛下)が寛大に含み容れてくださり、この宴に預かることができ、慶びと愧じが交わり深く存じます。」高祖は言われた、「朕でさえその昏さを革められないのに、師傅がどうして労して愧謝することがあろうか。」

原文後世宗為太子,高祖醼於清徽堂。高祖曰:「皇儲所以纂歷三才,光昭七祖,斯乃億兆咸悅,天人同泰,故延卿就此一醼,以暢忻情。」高祖又曰:「天地之道,一盈一虛,豈有常泰。天道猶爾,況人事乎?故有升有黜,自古而然。悼往欣今,良用深歎。」沖對曰:「東暉承儲,蒼生咸幸。但臣前忝師傅,弗能弼諧,仰慚天日,慈造寬含,得預此醼,慶愧交深。」高祖曰:「朕尚弗能革其昏,師傅何勞愧謝也。」

その後、尚書が元抜と穆泰の罪事について疑義を抱くと、李沖は上奏して言うには、「かつての彭城鎮将元抜は穆泰とともに謀反を起こし、養子の降寿は元抜の罪に連座すべきである。しかし太尉・咸陽王元禧らは、律文に『養子が罪を犯した場合、父や兄弟が情を知らなければ連座しない』とあると考える。謹んで律の趣意を審らかにするに、養子は父に対しては天性の関係ではなく、兄弟に対しては同気ではないから、親密さに差があるため、刑典も軽減されるのであり、それゆえ養子が罪を犯しても、父や兄弟は関与しない。しかし父や兄弟が罪を犯し、養子がその謀議を知らない場合、立場を変えて同じ情理で考えれば、どうしてただ養子だけが誅殺されようか。道理からして決してそうではない。臣は考えるに、律文に基づけば、実親に対しては追戮が及ばないならば、養親に対しては連座する、ということは明らかである。また律はただ『父は子に従わない』と述べるだけで、『子は父に従わない』とは称していない。これは尊き者を優遇し卑しき者を厳しくする意味であろう。臣の元禧らは、『律は正面からは見えないが、互文によって制度が立てられ、乞養の場合には父の罪を挙げ、養子の場合には子の連座を見る。これが互いに起こすのである。互いに起こして両方が明らかになれば、無罪は必定である。もし嫡子と継いだ養子とを生まれと同じとするならば、父子は均しく扱われるべきであり、ただ連座しないことを明らかにするだけである。また継養に関する注釈に、『もし別の規定があれば、この律とは同じではない』とある。さらに令文に、『諸々封爵を持つ者で、もし実子がおらず、その者が死去した場合、養子や継子がいても、封国は除封され世襲されない』とある。これは福があっても自分には及ばず、罪があればすぐに連座するということである。事柄を均しくし情理を等しくするならば、律と令の趣意は互いに矛盾することになる。律の主旨を推し量るに、必ずやそうではない』と考える。臣の李沖は考えるに、例を指し条を尋ねれば、罪があることは疑いなく、令を基準として情理を語れば、かなり同じ形式である」と。詔して言うには、「僕射の議論は、律に基づいて明らかである。太尉らの論は、典拠を曲げている。養子が誅殺に従うのは、すでに実親の罪を免れているからであり、それゆえ養親に対して再び選別されないのである。これだけがどうして福であろうか、長く大罪を免れることができようか。封国が世襲されないのは、爵位を重んじ、特に制度を立て、天が絶ったことを理由として、推し進めて除封するだけであり、どうして再び刑罰と賞賜に報いることがあろうか。この件については死刑に相当するが、特にこれを赦免せよ」と。

原文後尚書疑元拔、穆泰罪事,沖奏曰:「前彭城鎮將元拔與穆泰同逆,養子降壽宜從拔罪。而太尉、咸陽王禧等,以為律文養子而為罪,父及兄弟不知情者不坐。謹審律意,以養子於父非天性,於兄弟非同氣,敦薄既差,故刑典有降,是以養子雖為罪,而父兄不預。然父兄為罪,養子不知謀,易地均情,豈獨從戮乎?理固不然。臣以為:依據律文,不追戮於所生,則從坐於所養,明矣。又律惟言父不從子,不稱子不從父,當是優尊厲卑之義。臣禧等以為:『律雖不正見,互文起制,於乞也舉父之罪,於養也見子坐,是為互起。互起兩明,無罪必矣。若以嫡繼養與生同,則父子宜均,祇明不坐。且繼養之注云:若有別制,不同此律。又令文云:諸有封爵,若無親子,及其身卒,雖有養繼,國除不襲。是為有福不及己,有罪便預坐。均事等情,律令之意,便相矛盾。伏度律旨,必不然也。』臣沖以為:指例條尋,罪在無疑,準令語情,頗亦同式。」詔曰:「僕射之議,據律明矣;太尉等論,於典矯也。養所以從戮者,緣其已免所生,故不得復甄於所養。此獨何福,長處吞舟?于國所以不襲者,重列爵,特立制,因天之所絕,推而除之耳,豈復報對刑賞?于斯則應死,可特原之。」

李沖は機敏で巧みな思慮を持ち、平城の明堂・円丘・太廟、および洛陽の都の初期の基盤、郊祀の兆域の安定的な配置、新しく建てられた堂や寝殿は、すべて李沖の助力によるものであった。志を励まして力を強め、孜々として怠ることなく、朝には文書を処理し、同時に工匠の仕事を監督し、机の上には書類が積み上がり、彫刻刀を手にしても、終いに疲れ嫌になることはなかった。しかし顕貴な門族として、六姻(姻戚関係)を益すことに努め、兄弟や子・甥たちは皆、爵位と官職を持ち、一家の歳禄は一万匹を超え、その親族は、たとえ痴聾であっても、官位を超越しない者はなかった。当時の論評もこの点で彼をやや軽んじた。

原文沖機敏有巧思,北京明堂、圓丘、太廟,及洛都初基,安處郊兆,新起堂寢,皆資於沖。勤志強力,孜孜無怠,旦理文簿,兼營匠制,几案盈積,剞劂在手,終不勞厭也。然顯貴門族,務益六姻,兄弟子姪,皆有爵官,一家歲祿,萬匹有餘,是其親者,雖復癡聾,無不超越官次。時論亦以此少之。

年齢はわずか四十歳であったが、鬢の毛はすでに白く混じり、姿形は豊かで美しく、衰えた様子はなかった。李彪が都に入った時、彼は孤微で支援が少なく、自立して群れず、李沖が士を好むことを知り、心を傾けて宗仰し付き従った。李沖もまた彼の器量と学識を重んじ、礼を尽くして受け入れ、しばしば高祖(孝文帝)に彼のことを言上し、公私にわたって互いに支援し合った。李彪が中尉・兼尚書となり、高祖に知遇を得ると、もはや李沖を頼る必要はないと考え、次第に軽んじて背き、公の場ではただ袖を整えるだけで、もはや宗仰敬慕の意はなかった。李沖はこれをかなり恨みに思った。後に高祖が南征した時、李沖と吏部尚書・任城王元澄はともに李彪が傲慢で礼を欠くとして、彼を拘禁した。その罪状を上奏した文書は、李沖が自ら手書きしたもので、家族も知らず、言葉は非常に激しく痛切で、それによって自らを弾劾するものであった。高祖はその上表文を読み、嘆き悲しむことしばらくして、やがて言った、「道固(李彪の字)は確かに溢れるところがあると言えようが、僕射(李沖)もまた満ち足りている」。李沖はこの時激怒し、しばしば李彪の前後の過ちと背きを責め、目を怒らせて大声で叫び、机を投げ折った。御史たちをことごとく捕らえ、皆に泥を塗り首を縛り、口を極めて罵り辱めた。李沖はもともと温和な性格であったが、一度に激しい怒りを発し、ついに病気を発して精神錯乱し、言葉は乱れ誤り、なおも手首を扼して叫び罵り、李彪を小人と呼んだ。医薬も治療できず、ある者は肝臓が傷つき裂けたのだと言った。十余日で死去した。時に四十九歳。高祖は懸瓠で哀悼の礼を挙げ、声をあげて悲しみ泣き、自らを抑えることができなかった。詔して言うには、「李沖は貞和な資性を持ち、徳義をもって身を立て、訓戒と業績は家から始まり、道と素行は国に現れた。太和の初め、朕が幼少の頃から、早くも機密を委ねられ、時務をよく治めた。鴻漸して瀍水・洛水に至り、朝廷の選抜は清らかに開かれ、端右(尚書僕射)の首位に昇り、出納(詔勅の出し入れ)を誠実に司った。忠実で慎み深く柔和で明察、十分に叡智の模範を示し、仁愛で恭しく信義と恵みあり、民心を結んだ。まさに国の賢人、朝廷の重鎮と言えよう。まさに寵愛と官位を昇進させ、功績と旧勲を顕彰しようとしたところ、突然に逝去し、心中悲痛である。既に留まって勤務し昇進に応じるべきであり、また良き旧臣として褒賞されるべきである。司空公を追贈し、東園の秘器・朝服一具・衣一襲を給し、銭三十万・布五百匹・蠟二百斤を贈る」。有司が諡を文穆と上奏した。覆舟山に葬られたが、杜預の冢の近くであり、高祖の意向であった。後に車駕が鄴から洛陽に帰還する途中、李沖の墓の傍を通った時、左右の者がそれを告げると、高祖は病を押して臥しながら墳墓を望み、しばしば涙をぬぐった。詔して言うには、「司空文穆公は、徳は時の模範、勲績は朕の心に刻まれ、不幸にも逝去し、墳墓を邙嶺に託した。車駕を回して覆舟山に至り、自ら墓地を見つめ、仁を悲しみ旧を哀れむ、朕の衷を痛ませる。太牢の祭りを遣わし、以て我が思いを述べさせよ」。また留京の百官と会見した時、皆李沖の亡くなった事情を語り、言及して涙を流した。高祖は留臺からの啓上を得て、李沖の病気の様子を知り、右衛の宋弁に言った、「僕射は我が枢衡を執り、朝務を総理し、清く倹約して身を処し、寵愛を知ること久しかった。朕はその仁明で忠雅なことを以て、台司の任を委ね、我が境外に出るに後顧の憂いなくさせた。一朝にこのような患いが起こったのは、朕は甚だ悲愴で感慨深い」。そのように痛惜したのである。

原文年纔四十,而鬢髮班白,姿貌豐美,未有衰狀。李彪之入京也,孤微寡援,而自立不羣,以沖好士,傾心宗附。沖亦重其器學,禮而納焉,每言之於高祖,公私共相援益。及彪為中尉、兼尚書,為高祖知待,便謂非復藉沖,而更相輕背,惟公坐斂袂而已,無復宗敬之意也。沖頗銜之。後高祖南征,沖與吏部尚書、任城王澄並以彪倨傲無禮,遂禁止之。奏其罪狀,沖手自作,家人不知,辭甚激切,因以自劾。高祖覽其表,歎悵者久之,既而曰:「道固可謂溢也,僕射亦為滿矣。」沖時震怒,數數責彪前後愆悖,瞋目大呼,投折几案。盡收御史,皆泥首面縛,詈辱肆口。沖素性溫柔,而一旦暴恚,遂發病荒悸,言語亂錯,猶扼腕叫詈,稱李彪小人。醫藥所不能療,或謂肝藏傷裂。旬有餘日而卒,時年四十九。高祖為舉哀於懸瓠,發聲悲泣,不能自勝。詔曰:「沖貞和資性,德義樹身,訓業自家,道素形國。太和之始,朕在弱齡,早委機密,實康時務。鴻漸瀍洛,朝選開清,升冠端右,惟允出納。忠肅柔明,足敷睿範,仁恭信惠,有結民心。可謂國之賢也,朝之望也。方昇寵秩,以旌功舊,奄致喪逝,悲痛于懷。既留勤應陟,兼良宿宜褒,可贈司空公,給東園祕器、朝服一具、衣一襲,贈錢三十萬、布五百匹、蠟二百斤。」有司奏諡曰文穆。葬於覆舟山,近杜預冢,高祖之意也。後車駕自鄴還洛,路經沖墓,左右以聞,高祖臥疾望墳,掩泣久之。詔曰:「司空文穆公,德為時宗,勳簡朕心,不幸徂逝,託墳邙嶺,旋鑾覆舟,躬睇塋域,悲仁惻舊,有慟朕衷。可遣太牢之祭,以申吾懷。」及與留京百官相見,皆敍沖亡沒之故,言及流淚。高祖得留臺啟,知沖患狀,謂右衞宋弁曰:「僕射執我樞衡,總釐朝務,清儉居躬,知寵已久。朕以仁明忠雅,委以台司之寄,使我出境無後顧之憂,一朝忽有此患,朕甚懷愴慨。」其相痛惜如此。

李沖兄弟は六人で、四人の母から生まれたため、互いにかなり憤り争っていた。李沖が貴顕になると、封禄や恩賜はすべて共有し、家内も家外も和やかで睦まじかった。父が亡くなった後も同居すること二十余年、洛陽に至って初めて別々の邸宅に住んだが、互いに親愛し合い、長く隔たりはなかった。皆、李沖の徳によるものである。初め李沖が私的な寵愛を受けた時、兄の子の李韶は常に憂色を帯び、傾き敗れることを慮った。後に栄名が日々顕著になると、次第に自ら安心した。李沖は明らかに職務に当たり、自らの任務として図り、始めから終わりまで、避け屈することはなかった。時勢を推し運命を図るその姿勢は、皆このようなものであった。子の延寔らについては、外戚伝に記す。

原文沖兄弟六人,四母所出,頗相忿䦧。及沖之貴,封祿恩賜皆以共之,內外輯睦。父亡後同居二十餘年,至洛乃別第宅,更相友愛,久無間然。皆沖之德也。始沖之見私寵也,兄子韶恒有憂色,慮致傾敗。後榮名日顯,稍乃自安。而沖明目當官,圖為己任,自始迄終,無所避屈。其體時推運,皆此類也。子延寔等,語在外戚傳。