巻52

趙逸

趙逸は、 あざな を思羣といい、天水の人である。十世の祖は で、漢の光禄大夫であった。父は昌で、石勒の黄門郎を務めた。逸は学問を好み、早くから成し遂げ、姚興に仕えて なか ちゅうしょ 侍郎を歴任した。興の将軍である斉難の軍司となり、 赫連 かくれん 屈丐を征討した。難が敗れると、屈丐に捕らえられ、著 とも 郎に任じられた。世祖(太武帝)が統万を平定した時、逸の著したものを見て言った。「この奴は無道である。どうしてこのような言葉を書くことができようか。作者は誰か。早く推問せよ。」 司徒 しと の崔浩が進み出て言った。「彼の誤った叙述も、子雲(揚雄)が新(王莽の王朝)を賛美したのと同じであり、 みかど 王の道は、本来これを容れるべきです。」世祖はやめて、彼を中書侍郎に任じた。神䴥三年三月上巳の日、帝は白虎殿に行幸し、百官に詩を賦するよう命じた。逸が詩序を作ると、当時、善しと称えられた。久しくして、寧朔将軍・赤城鎮将に任じられ、荒服の地を綏和すること十余年、百姓はこれを いずく んじた。たびたび上表して免職を乞うたが、久しくしてようやく許された。性は古書を好み、白髪になってもますます勤勉で、七十歳を超えても手から書物を離さなかった。凡そ著述したものは、詩・賦・銘・頌、五十余篇に及ぶ。

逸の兄の温は、字を思恭という。博学で高い名声があり、姚泓の天水太守であった。劉裕が泓を滅ぼすと、ついに てい 族の地に没した。氐王の楊盛、盛の子の難当が漢中を領有すると、温を輔国将軍・秦梁二州 刺史 しし とした。難当が蕃国として称するに及んで、世祖は温を難当の府司馬とした。仇池で没した。

長子の広夏は、中書博士となった。第三子は琰である。その話は孝感伝にある。

初め、姚萇は逸の伯父の うつ 尚書 しょうしょ 僕射 ぼくや としたが、 長安 ちょうあん で没した。劉裕が姚泓を滅ぼすと、遷の子孫を建業に移した。遷の玄孫の翼、翼の従子の超宗・令勝・遐・叔隆・穆らは、太和・景明の間に相次いで帰降した。

翼は、書伝に粗く通じ、率直で器用と技芸があった。初め平昌太守となり、大いに治績の称えがあった。入朝して軍校を歴任し、鎮遠将軍長史を加えられ、領軍の元叉に深く知遇された。光禄大夫に遷った。没後、左将軍・齊州刺史を追贈された。

超宗は、身長八尺あり、将略に長けていた。太和の末、 州平南府長史となり、汝南太守を兼ね、建威将軍を加えられ、爵位を尋陽伯と賜った。入朝して ぎょう 騎将軍となった。超宗は汝南において、多くの収賄を行い、 太傅 たいふ の北海王元詳に賄賂を贈った。詳が世宗(宣武帝)にこれを言上し、持節・征虜将軍・岐州刺史に任じられた。河東太守に転じ、任地で没した。超宗は河東においては、自らを改めて励み、清廉で民を愛し、百姓はこれを追慕した。本官の将軍・華州刺史を追贈され、 おくりな して成伯といった。

子の懿は、爵位を襲った。員外常侍・尚書郎を歴任した。

超宗の弟の令勝も、身長八尺あり、奔放で膂力があった。河北・恒農二郡の太守を歴任し、いずれも貪暴の罪に坐し、御史の弾劾を受け、赦令に遇って免罪となった。神亀の末、後将軍・太中大夫から恒農太守として出向し、任地で没した。令勝は妾の潘に寵愛して惑わされ、その妻の羊氏を離棄し、夫妻は互いに訴訟し合い、次々に陰私を暴き、醜穢な つか 柄が朝野に明らかになった。

遐は、初め軍主となり、高祖(孝文帝)に従って南陽を征討した。景明の初め、梁城の戍主となり、蕭衍の将軍の攻囲を受けた。固守と戦功により、牟平県開国子に さかい ぜられ、食邑二百戸を とも えられた。

後に左軍将軍・仮の征虜将軍・巴東諸軍事 都督 ととく となり、南鄭を鎮守した。時に蕭衍の冠軍将軍・軍主の姜脩が兵二万を率いて羊口に駐屯し、輔国将軍の姜白龍が南城を占拠し、龍驤将軍の泉建が土民を率いて北の桑坯に入り、姜脩はまた軍を分けて興勢を占拠し、龍驤将軍の譚思文が夾石を占拠し、司州刺史の王僧炳が南安に駐屯し、ともに夷獠を扇動して南鄭の奪取を謀った。遐は甲士九千を率い、所在で衝撃を加え、数百里のうち、 くじ 靡せざる所なく、前後五千余級を斬首した。

帰還後、輔国将軍として 滎陽 けいよう 太守に出向した。時に蕭衍の将軍の馬仙琕が兵を率いて朐城を攻囲し、戍主の傅文驥が城に拠って固守した。遐を持節・仮の平東将軍として別将とし、劉思祖らとともにこれを救援させた。鮑口に駐屯し、朐城から五十里の地点で、夏の雨が頻繁に降り、険しい道を長駆し、朐城に至らんとした。仙琕は遐の営塁が未完成なのを見て、直ちに迎撃してきた。思祖は彭沛の兵を率いて、陣を見るや奔退した。遐は孤軍奮撃し、単独で仙琕を破り、その直閤将軍・軍主の李魯生、直後の軍主の葛景羽らを斬った。仙琕は先に軍を朐城の西に分け、水を阻んで柵を並べ、固城を包囲していた。遐は自ら潜行し、水深を観察し、草を結んで筏とし、枚を銜えて夜襲をかけ、その六つの柵を破り、ついに固城の包囲を解いた。進んで朐城を救援し、 都督 ととく の盧昶が大軍を率いてこれに続いた。間もなく文驥は力尽き、城を挙げて賊に降り、諸軍は大崩した。昶はその節伝を棄て、軽騎で逃走し、ただ遐のみが節を握って帰還した。時に仲冬の寒さ厳しく、兵士で凍死する者が、朐山から郯城までの二百里の間に僵尸が連なった。昶の儀衛はことごとく失われ、郯城で仮の節を借りて軍威とした。遐は失利の罪に坐し、免官となった。延昌年中、起用されて光禄大夫・使持節・仮の前将軍として別将となり、西荊を防衛し、また別将として蕭宝夤に隷属し、東征して淮堰を攻めた。熙平の初め、平西将軍・汾州刺史として出向し、州において貪濁の行いがあり、遠近に聞こえた。没後、安南将軍・ 州刺史を追贈され、諡して襄といった。

子の子献は、爵位を襲った。子献の第四弟の子素は、 司空 しくう 長流参軍となった。

叔隆は、歩兵 校尉 こうい となった。永平の初め、懸瓠城の民である白早生の反乱に与同した。鎮南将軍の邢巒が 州を平定し、彼を捕らえて赦した。後に財貨を用いて自ら取り入り、秦州(欠字)西府長史となり、鎮遠将軍を加えられた。秦州は殷富で、京師から遠く離れていたため、叔隆は勅使の元脩義と心を合わせて収斂し、巨万の賄賂を受け取った。冠軍将軍・中散大夫に任じられた。まもなく左軍将軍・太中大夫に遷った。 司空 しくう の劉騰に賄賂を贈り、中山内史として出向し、郡において徳政はなく、専ら財貨賄賂を事とした。叔隆は姦詐で品行がなく、恩義を忘れ背いた。懸瓠での赦免は、その族人である前軍将軍の趙文相の力によるものであったが、後に報徳の意はなく、かえって文相と断絶し、文相は長者であったため、これを恨まなかった。文相が汝南内史となった時も、なおその家を援助した。後に文相が没すると、叔隆はその子弟を全く顧みず、当時の論評は彼を軽蔑した。

穆は、書記に長け、刀筆の用をなした。汾州平西府司馬となった。翼は臨終に際し、穆を領軍の元叉に託し、穆は汝南内史となった。

胡方回

胡方回は、安定郡臨涇県の人である。父の義周は、姚泓の黄門侍郎であった。方回は、赫連屈丐の中書侍郎となった。史籍に広く通じ、文辞の彩りが優れており、屈丐のために統万城の銘文や蛇祠の碑文などの文章を作り、広く世に行われた。世祖(太武帝)が赫連昌を破ると、方回は国(北魏)に入った。優れた才能と志操があったが、当時はまだ知られていなかった。後に北鎮司馬となり、鎮のために上表文を作り、慶賀の言葉を述べた。世祖がそれを見て感嘆し、誰が作ったかと尋ねた。方回と知ると、召し出して中書博士とし、爵位を臨涇子と賜った。侍郎に昇進し、太子少傅の游雅らとともに律令制度を改定した。 司徒 しと の崔浩や当時の朝廷の賢人たちは、皆彼を愛重した。清貧で道を守り、天寿を全うした。

子の始昌もまた長者であり、父の風があった。官位は南部主書に至った。

子の醜孫は、中書学生・秘書郎・中散となった。代々産業を治めず、家は甚だ貧しかった。兄弟は皆早く亡くなった。

胡叟

胡叟は、字を倫許といい、安定郡臨涇県の人である。代々官位にあり、西夏の名門であった。叟は幼少より聡明で、十三歳の時、疑義を弁じ道理を解き明かし、郷里や国中に名を知られた。その悟るところは、成人と論じ合っても、ほとんど屈することがなかった。学問に師について授けられることはなく、友人が勧めると、叟は言った。「先聖の言葉で、精義が神に入るものは、ただ だけではないか?それでもなお、考えてその半分以上を理解できると言われる。末世の腐儒は、剛柔の位を大まかに区別するだけで、未だ兆しのない深遠な道理を探求する者があろうか。道に就くという意味は、今にあるのではない。」そして群籍を読み広げると、二度目に目を通しただけで、皆口で誦することができた。文章を作ることを好み、典雅な言葉をよく作る一方で、鄙俗な句も巧みに作った。姚秦の政が衰えようとしていたので、長安に入って風俗教化を観察し、名を行いを隠し、人に知られるのを恐れた。時、京兆の韋祖思は、若い頃から典籍に通じ、当時の人々を多く蔑んでいたが、叟が来たと知り、召し出して会った。祖思は常習として、叟を軽んじて待遇が十分でなかった。叟はとりあえず挨拶を交わすと、衣を払って出て行った。祖思が固く引き留めて言うには、「君と天人の関係について論じようというのに、どうして急に帰るのか?」叟は答えて言った。「天人を論ずる者はその亡びて久しい。君と知り合いになれたが、どうしてそのように大言壮語するのか。」ついに座らずに去った。主人家に至り、韋氏・杜氏の二族について賦を作り、一晩で完成させた。時に十八歳であった。その述べるところ、前代の事績については旧来の美点に背かず、中世を叙述するには時事に合い、末尾に至っては卑猥な点に及ばなかった。人々は皆その才能を奇異とし、その筆を畏れた。世間ではなお伝誦され、笑い戯れの種とされた。

叟は孤独で漂泊し、困窮しており、仕官の道がなかったので、漢中に入った。劉義隆(宋の文帝)の梁秦二州刺史、馮翊の吉翰は、叟が才士であるとして、大いに礼遇して接した。叟に末席の補佐官を授けたが、その思いにふさわしくなかった。間もなく、翰が益州に転任すると、叟は蜀に入り、多くの豪傑たちに尊ばれた。時、蜀の沙門法成が、僧侶を集めて、千人近くを率い、丈六の金像を鋳造した。劉義隆はその衆を集めるのを嫌い、死刑に処そうとした。叟はこれを聞くと、すぐに丹陽に赴き、その善行を上奏して申し立てたので、ついに免れることができた。再び蜀に戻った。法成はこれを感謝し、珍しい品々を贈ったが、その価値は千匹余りに相当した。叟は法成に言った。「緯蕭(水辺の貧者)のような者が、明珠を棄てることができようか。私は徳のために請願したのであって、財貨は何のためか?」一切受け取らなかった。

益州の地に五、六年いた後、北へ行って楊難当のもとに至り、さらに西へ沮渠牧犍のもとに入ったが、牧犍は彼を重んじなかった。叟ももともと彼に付き従う誠意はなく、詩を作って知己の広平の程伯達に示した。その概略は、「群犬は新客に吠え、佞臣と暗愚の者は疎遠な賓客を排す。直なる道は既に塞がれ、曲がった路は従うべきにあらず。衛を望んで祝鮀を嘆き、楚を眺めて霊 ひと を悼む。何をもって憂いの懐を宣べん、翰を託して輔仁に寄す。」というものであった。伯達は詩を見て、叟に言った。「涼州は地は戎の域にあるが、張氏以来、華風があると称されている。今や典章制度に欠けるところはないのに、どうして祝鮀のようなことがあろうか?」叟は言った。「古人に言う、君子は鞞鼓の声を聞けば、戦争の士を思う、と。貴主(牧犍)は 正朔 せいさく を奉じてはいるが純粋ではなく、仁義を慕ってはいるが誠実でなく、地は狭く僻遠でありながら僭越に徽号を用いる。小事大に居るとは、このようなことであろうか?徐偃の轍は、故に踵を返す間もないであろう。私が木を選ぶのは、早くから大魏にある。君としばしば別れるが、久しい別れではない。」一年余りして、牧犍は破られ降伏した。

叟は既に先に帰国しており、朝廷はその機先を見抜く識見を認め、虎威将軍に任じ、爵位を始 ふく 男と賜った。密雲に家を構え、蓬で葺いた家に藁の筵を敷き、ただ酒をもって自ら楽しんだ。友人である金城の宗舒に言った。「私のこの生活は、焦先に勝るようだ。志意の栖むところ、その高さに感謝する。」後に叟は徴召されて都に至り、恩に感謝し、併せて詩一篇を献上した。高宗(文成帝)の時、叟と舒を召し出し、ともに劉駿(宋の孝武帝)と 蠕蠕 じゅんじゅん に対する檄文を作らせた。舒の文章は叟より劣り、舒はまもなく帰郷した。

叟は産業を治めず、常に飢えと貧しさに苦しんだが、それを恥とはしなかった。養子を螟蛉と字し、自ら養うために与えた。貴人や権勢のある家の門に至るたび、常に一頭の牝牛に乗り、古びた皮の袴褶を着るだけであった。 の袋を作り、三、四斗を容れ、飲み食いして酔い飽きると、 そこな った肉や餅を入れて螟蛉に渡した。車馬や栄華を見ても、それを蔑ろにした。尚書の李敷がかつて財貨を贈ったが、全く受け取らなかった。初め叟が高允に一度会った時、言った。「呉と鄭の交わりは、紵と縞をもって美談とされる。私とあなたは、弦と韋をもって奥深い贈り物とする。このように言えば、彼らも恥じることはないだろう。」高允の館で中書侍郎の趙郡の李璨に会った。璨は華美な衣服を着ており、叟は貧しく老いて粗末な衣を着ていたので、璨は甚だ軽んじた。叟は彼に言った。「老子(私)が今もし許すなら、体から脱いだこの袴褶の衣帽を、君はどうするつもりか?」と、そのただ盛んな服装を借りているだけであることを嘲笑した。璨は恐れおののいて顔色を失った。

叟は幼くして孤児となり、父母のことに言及するたびに涙を流し、まるで幼子のように号泣した。春秋の祭りの前には、まず旨い酒と美食を求め、知己の広寧の常順陽・馮翊の田文宗・上谷の侯法儁を伴い、壺と酒器を携えて城外の空しく静かな場所に行き、座を設けて奠め拝礼し、孝思の敬いを尽くした。時、敦煌の氾潛は、家で酒造りが上手で、毎節句に一壺を叟に贈った。著作佐郎の博陵の許赤虎・河東の裴定宗らが潛に言った。「再三の恵みは、過分だと思う。あなたが叟に恵みを与えるのは、どうしてそんなに恒常的なのか?」潛は言った。「私が恒常的に祭る者に与えるのは、その孝思が恒常的だからだ。」論者は潛を君子であるとした。順陽ら数人は、叟の奨励と示唆を受け、かなり文流に通じるようになった。

高閭がかつてその家を訪れた時、叟が短い粗衣を着て柴を引きずり、田から家に帰ってきたところであった。閭のために濁酒と粗食を設けたが、全て自ら調達した。その館は低く粗末で、庭園や畑は狭かったが、飯と菜は精潔で、酢や醤油の味付けが良かった。二人の妾を見ると、共に年老いて足が不自由で目も悪く、布の衣服は破れていた。閭はその貧しさを見て、十数匹分の価値の物を贈ったが、それも辞退せず恥じることもなかった。閭が宣命賦を作ると、叟がその序文を書いた。密雲の近隣の人々は皆その徳を敬仰し、季節ごとに麻布や穀物・麦を奉ったが、叟はそれらを随時分配し、家に余財はなかった。八十歳で亡くなった。

叟の最初の妻は敦煌の宋氏で、先に亡くなり、子がなかった。後に庶子として養った者も皆早く亡くなり、ついに後継ぎが絶えた。叟が死んだ時、家人が葬儀を営む者がいなかったので、胡始昌が迎えて家で殯し、墓の傍らに葬った。そしてすぐに一人の弟を後継ぎとし、その爵位の始復男と虎威将軍を継がせた。叟と始昌は宗族ではあったが、性格や気性は甚だ異なり、互いに親しみ付き従うことはなく、叟が存命中は往来も少なかった。しかし、亡くなってからは収容し救恤すること甚だ厚く、論者は、必ずしも疎遠な宗族への哀悼が篤かったからではなく、あるいは官位や俸禄を求めるためであったかもしれない、とした。

宋繇

宋繇は、字を體業といい、敦煌の人である。曾祖父の配、祖父の悌は、代々張軌の子孫に仕えた。父の尞は、張玄靚の龍驤将軍・武興太守であった。繇が生まれたとき、尞は張邕に誅殺された。五歳で母を喪い、伯母の張氏に孝行をもって仕え、名を知られた。八歳で張氏が卒去すると、喪に服すること礼を越えた。繇は幼少より志操高く、妹婿の張彥に慨然として言うには、「家門が傾き覆んでも、その責務は繇にある。胆を銜んで自らを励まさねば、どうして先人の業を継承できようか」と。そこで張彥に従って酒泉に至り、師を追って学問に就き、室を閉じて書を誦し、昼夜倦むことなく、経史に博通し、諸子百家の言説を、ことごとく読み総合した。

呂光の時、秀才に挙げられ、郎中に任じられた。後に段業に奔り、業は繇を中散・常侍に拝した。繇は業に経国済民の遠大な謀略なしとみて、西に奔って李暠に仕え、通顕の官位を歴任した。家に余財なく、儒學を雅好し、兵乱の間にも、講義誦読を廃さず、儒士が門に在ると聞けば、常に履を倒して出迎え、政事を停めて寝ず、引き入れて経籍を談じた。特に明断に優れ、時事も滞ることはなかった。

沮渠蒙遜が酒泉を平定したとき、繇の家室から得たものは書数千巻、塩米数十斛のみであった。蒙遜は歎じて言うには、「孤は李歆を つことを喜ばず、宋繇を得たことを欣ぶのみである」と。尚書吏部郎中に拝し、銓衡の任を委ねられた。蒙遜が死の際に、子の牧犍を彼に託した。牧犍は繇を左丞とし、その妹の興平公主を京師に送った。世祖は繇を河西王右丞相に拝し、爵を清水公と賜り、安遠将軍を加えた。世祖が涼州を併せると、牧犍に従って京師に至った。卒去し、諡して恭といった。

長子の巖は、爵を襲い、西平侯に改められた。

巖の子の蔭は、中書議郎・楽安王範の従事中郎となった。卒去し、輔国将軍・咸陽太守を追贈された。

子の超は、尚書度支郎となった。

超の弟の稚は、字を季預という。安邑の李紹伯に師事し、諸経伝を受けた。性質は清厳で、家を治めること官府の如くであった。太和年中、 司徒 しと 属に拝された。また例により降格し、西中府戸曹参軍に除され、転じて 并州 へいしゅう 城陽王鸞の城局参軍となった。景明二年、白水県令に拝された。県において十一年、民の和を得ること頗る多かった。青州勃海太守に遷った。正光三年、卒去した。

子の遊道は、武定末年に 太尉 たいい 長史となった。

張湛

張湛は、字を子然といい、一字は仲玄といい、敦煌の人で、魏の執金吾張恭の九世孫である。湛は弱冠にして涼土に名を知られ、学を好み文を属する能くし、沖虚素朴にして大志を有した。沮渠蒙遜に仕え、黄門侍郎・兵部尚書となった。涼州が平定され、国に入ったとき、年は五十余りであった。爵を南浦男と賜り、寧遠将軍を加えられた。 司徒 しと 崔浩は彼を識り礼遇した。浩が易を注し、その序に曰く、「国家が河右を西平するに及び、敦煌の張湛・金城の宗欽・武威の段承根の三人は、皆儒者にして、並びに儁才を有し、西州に称せられた。余と易を論ずる毎に、余は左氏伝の卦をもってこれを解し、遂に相勧めて注を作らしめた。故に退朝の余暇により、これを解したのである」と。そのように称せられたのである。湛は京師に至り、家貧しく粒食せずとも、操尚を損なうことなく、浩は常にその衣食を給した。毎年浩に詩頌を贈り、浩は常に報答した。浩が誅されたとき、湛は懼れ、ことごとくこれを焼いた。

兄の懷義は、閑雅純粋にして才幹有り。母の憂いに遭い、哀毀人に過ぎ、喪服の制は除かれても、蔬食粗飯を改めなかった。征西参軍の任に在る時に卒去した。

長子の廣平は、高平県令となった。

宗欽

宗欽は、字を景若といい、金城の人である。父の燮は、字を文友といい、呂光の太常卿となった。欽は幼少より学を好み、儒者の風有り、群言を博綜し、名声は河右に著しかった。沮渠蒙遜に仕え、中書郎・世子洗馬となった。欽が東宮侍臣に上った箴は曰く、「恢恢たる玄古、悠悠たる生民。五才は迭りに用いられ、経綸は彝倫を敍す。父を匡うるは子、君を弼うるは臣。顛いても能く扶け、屈しても能く伸ぶ。昔し上聖に在りては、妙にその趣きを鑒みた。我れ明らかなりと曰わずして、その度に乖かず。我れ新しと曰わずして、その故を忽せず。彼の泉に在るが如く、深きに臨みては是れ懼る。彼の車の覆るるが如く、途を望みて歩を改む。ここをもって令問は宣流し、英風は遠く布かる。三季に及びては、道喪われ純遷す。桀は瓊臺を起こし、紂は糟山に醊す。周は妖姒を滅ぼし、羿は田をもって喪う。険詖その耳目を蔽い、鄭 えい その前に陳ぶ。才を怙りて肆虐し、異端に是れ纏わる。豈に くんや身を害するのみならんや、その胤も殲やかれる。茫茫たる禹跡、画きて九区と為す。昆虫鳥獸、各々巢居有り。雲は唐后を歌い、垂は虞を美す。疏網は祝を改め、殷の道は攸に敷かる。龍盤は徳に応じ、蛇は珠を銜む。無心と謂うなかれ、命を識りて殊ならず。理絶ゆると謂うなかれ、千載同じ符す。爰に子桓に在りては、霊数攸に臻る。徐阮に儀形し、劉陳を左右す。文を披きて友を採り、典を叩きて津を問う。用いて能く重離襲曜し、魏鼎維新す。儲后に昭かにして、運は玄籙に応ず。夕に つつし みて乾乾、虚衿遠く属す。外には幽荒を撫し、内には焭独を懐く。猶お思ひ遠くに逮わず、明は遐く燭せざるを懼る。君に諍臣有れば、庭に謗木を立つ。本枝克く昌え、永く天祿に符す。微臣箴を作し、敢えて僕に在るに告ぐ」と。

世祖(太武帝)が涼州を平定し、彼が国(北魏)に入ると、臥樹男の爵位を賜り、鷹揚将軍を加えられ、著作郎に任ぜられた。段承根は高允に書を送って言う、「昔、皇綱は未だ振わず、華夏と辺裔とは風俗を異にし、九服は隔てられ、金蘭の契りも遂げられず、希うところを寄せ契りを結ぶことを、長く思い続けてきた。天がその願いを遂げさせ、ついに京師で出会うことができた。才は季札には及ばないが、眷顧は孫喬に深く、徳は程子には及ばないが、義は傾蓋の交わりに等しい。長い年月で稀にしか遇わぬものを、一朝に会うことができた。近頃は公私の道理が異なり、応答や諮問の道も塞がれ、蓬宇に端坐して、嘆慨することいかん。拙いことを顧みず、詩を数韻を献ずる。泉と江が互いに忘れるというような談や、遺言に意を存するという美は、たとえ荘生が尊んだところであっても、浅識が従うべきではない。敬愛の情が既に深く、情誼は往来を期し、徳意を思い慕い、以て鄙吝を除かんとする。もし鳳凰の彩りを紆らせて雑木の藪を輝かせ、連城の璧を回らせて瓦礫を映し出すことができれば、これが望むところである。」詩に曰く、「嵬峨たる恒嶺、滉瀁たる滄溟。山はその和を ぬき んで出し、水はその精を耀かす。この令族を啓き、期に応じて誕生す。華やかに衆彦に冠し、偉大にして群英を すす る。〈その一〉 於穆 ああうるわし や吾が子、貞を内に含み茂りを たの む。あの松竹の如し。霜を凌いで秀でる。老を味わい沖虚を思い、易を玩びて ふく を体す。翼を九臯に おさ め、声は宇宙に溢る。〈その二〉 我が みかど 龍興し、重離(太陽)は重なって映ず。剛徳は外に彰れ、柔明は内に鏡の如し。乾象は おお いに気を包み、坤厚は山と競う。風に殊音なく、俗に異径なし。〈その三〉 経緯するを文と曰い、著述するを史と曰う。九流を斟酌し、幽旨を錯綜す。 帝用 もち いて諮問し、明け方に思いを巡らす。四門を広く開き、髦士を披き延ぶ。〈その四〉 爾はその求めに応じ、東観に翰飛す。口は瓊音を吐き、手は霄翰を揮う。毫を弾ずれば珠の こぼ るるが如く、紙に落つれば錦の きら めくが如し。三墳に疑わしい分割なく、五典に滞る解釈なし。〈その五〉 山は降るをもって謙とし、柔を含むをもって信となす。林は日に たか まり、明らかになるをもって進みとなす。 はる かなる夫子、この四慎を兼ね備う。弱くして勝ち難く、通じて峻ならず。〈その六〉 南史・董狐は遠く、史の功績は伸びず。固(司馬遷の父)は佞竇に傾き、雄(揚雄)は美新を穢す。遷は陵辱により腐刑を受け、邕は董卓により ほろ ぶ。時に逸勒(逸れる筆)なく、路には くじ けた車輪が満ちる。〈その七〉 尹佚は周を はか り、孔子・左丘明は魯を述ぶ。群致を抑揚し、三五(三皇五帝)を憲章す。昂昂たる高生(高允)、我が遠き祖(段氏の先祖)の業を継ぐ。古今を謂うなかれ、規矩を建て う。〈その八〉 昔より索居し、西藩に沈淪す。風馬既に殊なり、標榜する縁もなし。開通する運有り、闇に当年に遇う。衿を披き暫く面し、一言にて交わりを定む。〈その九〉 疑いを祕省に諮り、滞りを京都に訪う。叔度(黄憲)の如き水鏡、田蘇の如く吝嗇を洗う。その儀望めば 神婉 しんえん にして、その象に即けば 心虚 しんきょ なり。礼楽に悟り言い、詩書を採り研ぐ。〈その十〉 霜を履みて うつ るを悼み、節を撫でて変を感ず。 ああ 我が 年邁 としお い、 はや きこと激電に ゆ。進みては田子方・端木賜に乏しく、退きては顔回・原憲に非ず。素髪は玄髪を掩い、枯れた顔は茜の色を落とす。〈その十一〉 文は以て友を会し、友は知己より由る。詩は以て言を明らかにし、言は以て理を通ず。坎(水)を れば流れに迷い、艮(山)を 覿 れば止まることを闇し。 の爾の 虬光 きゅうこう 四鱗 しりん 曲水に遊ぶ。」〈その十二〉

高允が答書して言う、「近頃、使者を通じて、足下の高問を承り、待ち焦がれる労苦は、日が久しい。王道が開かれ、その思いを述べることができ、相い遇うことを喜び、情は尽きることがない。足下は兼愛を心とし、常に顧みてくださり、風味をもって養い、徳音をもって恵まれる。手に取り玩び反復し、心に銘記する。私は若い頃から尋常の操りに乏しく、年長になってからも老成の致すところがなく、賢明な勝れた方(段承根)に頼り、自らを く勉めるが、来られた手紙で褒め飾られ、分を過ぎている。既に雅なる贈り物を承ったので、応え答えるべきであるが、唱えが高ければ和し難く、理が深ければ応え難いので、日月を留連し、今日に至った。今、詩一篇を送る。誠に来旨を標明するには足りないが、心を表すものである。幸いにその鄙滞を恕し、その至意を受け取ってほしい。」詩に曰く、「 湯湯 とうとう として流るる漢水、 藹藹 あいあい たる南都。多く士を称え、霊珠を く。 はる かなるかな高族、世々丹図(系図)に記す。郢城に基を啓き、涼区に彩りを振るう。〈その一〉 吾が生(段承根)朗到(明らかで達している)にして、英風を誕発す。前緒を 紹熙 つぎかがや かし、 奕世 えきせい に克隆す。方円備わる体、 淑徳斯 ここ ける。群儁の望みを傾け、華戎に響き おどろ かす。〈その二〉 響き駭くはいかん、 金声允 まこと に著る。西藩を匡贊し、その時務を すく う。志を琴書に つつ しみ、心を初素に やす らかにす。潜思は淵の とど まるが如く、秀藻は雲の くが如し。〈その三〉 上 天命 てんめい を降し、祚は代(世)に あつ まる。紫宸に協燿し、乾と とも に配す。仁は春陽を え、功は覆載に隆し。隠叟を招き延べ、永く 大賚 たいらい のこ す。〈その四〉 伊余は 櫟散 れきさん にして、才は至って庸微なり。幸いなる縁に遭い会し、 かたじけな くも枢機に あずか る。華省に名を窃み、丹墀に足を まじ う。螢燭なきを じ、天暉に少しく益す。〈その五〉 明らかに昇るは たとえ に非ず、信と ぜん とは兼ね難し。体卑く下に処り、豈に謙と曰えんや。進みて道を弘めず、退きて淵潜を失う。既に朱闕に慚じ、亦た閭閻に愧ず。〈その六〉 司馬遷・班固は達と称えられ、揚雄・蔡邕は深致を致す。典策を負荷し、心に載せて む。四轍同じ軌、覆車相い尋ぬ。嘉誨を敬承し、永く明箴を びん。〈その七〉 遠く古賢を思い、内に諸己を尋ぬ。丘明に仰ぎ謝し、南史に長揖す。遐武(遠き祖の業)は雖も存すれど、高蹤は擬し難し。夙に興き夕に つつし み、豈に やす らかに止まることを得んや。〈その八〉 世の やぶ るるや、霊運未だ通ぜず。風馬殊に隔たり、区域異なる さかい 。西を望む思い有り、路険しく従う莫し。王沢遠く そそ ぎ、九服来たり同ず。〈その九〉 昔、平呉の時に、二陸(陸機・陸雲)は宝と称えらる。今、涼を克つに、吾が生(段承根)独り たか し。道は儒林に映え、義は 群表 ぐんぴょう となす。我思う、これと とも に、 紵縞 じょこう ひと しからんことを。〈その十〉 仁は田蘇に乏しく、量は叔度に非ず。韓生(韓宣子)の降臨するが如く、林宗(郭泰)の なお 顧みるが如し。千載の曠遊、 ここ に一遇を う。藻詠風流、鄙心已に悟る。〈その十一〉 年時迅 はや すす み、物我倶に逝く。之を任ずれば ここ に通じ、之を いだ けば則ち滞る。 結駟 けっし して塵を のこ し、 屡空 しばしばくう も亦た つか る。 両間 りょうかん 守る可く、 いずく んぞ回・賜あらんや。〈その十二〉 詩は以て志を言い、志は以て丹心を表す。慨かなるかな 刎頸 ふんけい の交わり、義已に なか ばで そこな わる。雖も不敏と曰うとも、請う金蘭の事に つか えん。 爾其 なんじそ れ之を励め、歳寒を忘るる無かれ。」

崔浩が誅殺された時、段承根もまた死を賜った。段承根は河西にいた時、『蒙遜記』十巻を撰したが、称えるに足るものはない。

弟の段舒、字は景太。沮渠蒙遜の下で庫部郎中であった。兄と共に国(北魏)に帰順し、句町男の爵位を賜り、威遠将軍を加えられた。名声は兄に次いだ。子孫は皆、衰え替わった。

段承根

段承根は武威郡姑臧の人であり、自ら漢の太尉段熲の九世の孫であると称した。父の段暉は字を長祚といい、身長は八尺余りあり、歐陽湯に師事し、湯は大いに彼を器重して愛した。一人の童子がおり、段暉と志を同じくしていた。二年後、童子は帰郷を告げ、段暉に馬を求めた。段暉は戯れに木馬を作って与えた。童子は大いに喜び、段暉に謝して言うには、「私は太山府君の子であり、勅命を受けて遊学していたが、今帰ろうとしている。あなたの厚い贈り物を煩わせたが、その徳に報いるものがない。あなたは後に常伯の位に至り、侯に封ぜられるであろう。それは報いではなく、むしろよしみとしよう。」言い終わると、木馬に乗って空中へ飛び去った。段暉は自ら必ず貴くなることを悟った。乞伏熾磐は段暉を輔国大将軍・涼州刺史・御史大夫・西海侯に任じた。磐の子の暮末が位を継ぐと、国政は衰え乱れ、段暉父子は吐谷渾の暮璝のもとに奔った。暮璝が内附すると、段暉は承根と共に帰国した。世祖は平素よりその名を聞き、大いに重んじて上客とした。後に段暉が世祖に従って長安に至ると、ある者が段暉が南へ奔ろうとしていると告げた。世祖が問うて、「どうして知るのか。」告げた者は言うには、「段暉は金を馬の鞍の敷物の中に置いています。逃走しないのであれば、どうしてそのようなことをするでしょうか。」世祖は密かに見張らせると、果たして告げた者の言う通りであったので、市中で斬り、数日間屍を晒した。時に儒生の京兆の林白奴が段暉の徳の言葉を欽慕し、夜にその屍を盗み出し、枯れ井戸の中に置いた。娘は敦煌の張氏の妻であったが、久しくしてこれを聞き、長安に向かって収葬した。

承根は学問を好み、機知に富んだ弁舌を持ち、文才があったが、性格・行いは疎遠で薄情であり、始めはあっても終わりがなかった。 司徒 しと の崔浩は彼を見て奇異とし、その才が注釈著述に堪えると考え、世祖に言上して著作郎とすることを請い、引き入れて同僚とした。世間は皆その文才を重んじたが、その行いを軽んじた。甚だ敦煌公李宝に敬われ待遇され、承根は李宝に詩を贈って言うには、「世道衰え陵夷し、淳風殆ど絶えんとす。衢には鼎を問う交わりあり、路には瓕を訪う盈ち満つ。徇って競い馳せど、天機践む莫し。真宰有らざれば、榛棘誰か揃えん。〈其一〉 於皇たる我が后、重明襲いて煥たり。文以て煩わしさを息め、武以て乱を静む。蚌を剖きて珍を求め、巖を搜りて幹を採る。野に投綸無く、朝に逸翰盈つ。〈其二〉 昔より涼の季、林焚け淵涸つ。矯矯たる公子、鱗羽託す所靡し。霊慧奮えども、祅氛未だ廓からず。鳳は崐丘に戢い、龍は玄漠に潜む。〈其三〉 数常に擾わず、艱極まりて則ち夷ぶ。奮いて翼を幽裔にし、翰飛して京師す。蟬を珥き紫闥にし、節を杖して方畿す。我が王度を弼け、庶績緝熙せしむ。〈其四〉 余は幽淪に自り、眷みて旧契に参ず。余光を庇いんことを庶幾し、優游して歳を卒えん。忻路未だ淹からず、離轡已に際す。顧みて難きに分岐し、載せば張き載せば継ぐ。〈其五〉 諸の交旧に聞く、累聖疊曜すと。淳源漓れども、民余劭を懐う。哲人を楽しみ思う、静を以て躁を鎮む。藹たる彼の繁音、和す此の清調。〈其六〉 下に詢うを文と曰い、訐を辨するを明と曰う。化は礼の洽うに由り、政は寛の成すに以てす。仁教を勉め崇め、徳を播き刑を簡にす。首を傾けて景風し、遅くして休声を聞かん。」〈其七〉

崔浩が誅殺されると、承根は宗欽らと共に皆死んだ。承根の外孫で長水 校尉 こうい の南陽の張令言は、美しい鬚髯を持ち、言談挙止は武人とは異なっていた。李琰之・李神儁は一時の名士であり、共に彼を称賛した。

闞駰

闞駰は、字を玄陰といい、敦煌の人である。祖父の闞倞は西土に名を知られた。父の闞玟は一時の秀士であり、官は会稽令に至った。駰は経伝に博通し、聡明敏速で人に優れ、三史その他の書物は目を通せば誦することができ、当時の人は彼を宿読と呼んだ。王朗の易伝に注を施し、学者はこれによって経を理解した。十三州志を撰し、世に行われた。蒙遜は彼を大いに重んじ、常に側近に侍らせ、政治の得失を諮問した。秘書考課郎中に任じ、文吏三十人を与えられ、経籍の校訂を掌り、諸子三千余巻を刊定した。奉車都尉を加えられた。牧犍はますます重んじて待遇し、大行に任じ、尚書に遷った。姑臧が平定されると、楽平王の丕が涼州を鎮守し、彼を従事中郎に引き入れた。王が薨じた後、京師に戻った。家は甚だ貧しく、飢え寒さを免れなかった。生来多く食う性質で、一飯に三升に至ってようやく満腹した。卒し、後継ぎがなかった。

劉昞

劉昞は、字を延明といい、敦煌の人である。父の劉宝は字を子玉といい、儒学で称された。昞は十四歳の時、博士の郭瑀に就いて学んだ。時に瑀の弟子は五百余人おり、経学に通じた者は八十余人いた。瑀には初めて笄を加えた娘がおり、良縁を妙選し、昞に心を寄せていた。そこで別に一つの席を座前に設け、諸弟子に言うには、「私に一人の娘がおり、年頃に成長した。一人の快婿を求めたい。この席に座る者があれば、私は娘を嫁がせよう。」昞は奮って衣を整えて座に来り、神志は厳然として、「先ほど先生が快婿を求められると聞きました。昞こそその人です。」と言った。瑀は遂に娘を彼に嫁がせた。

昞は後に酒泉に隠居し、州郡の召しに応じず、弟子として学業を受ける者は五百余人いた。李暠が私的に署すると、儒林祭酒・従事中郎に徴された。暠は文典を好み尊び、書物の史書で破損脱落したものは自ら補修した。昞が時に側に侍ると、前に進み出て暠に代わって行うことを請うた。暠は言うには、「自ら執り行うのは、人にこの典籍を重んじさせたいからだ。私と卿が出会ったのは、孔明が玄徳に会ったのと何ら異ならない。」撫夷護軍に遷った。政務はあったが、手から書物を離さなかった。暠は言うには、「卿は篇籍に注記し、燭火をもって昼に継いでいる。白昼でさえそうであるなら、夜は休息してもよい。」昞は言うには、「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり、老いの将ち至らんとするを知らず、とは孔聖が称えられたところである。昞何人ぞ、敢えてかくの如くせざらんや。」昞は三史の文が繁雑なため、略記百三十篇・八十四巻、涼書十巻、敦煌実録二十巻、方言三巻、靖恭堂銘一巻を著し、周易・韓子・人物志・黄石公三略に注を施し、共に世に行われた。

蒙遜が酒泉を平定すると、秘書郎に任じ、専ら注記を管掌した。西苑に陸沈観を築き、自ら赴いて礼拝し、「玄処先生」と号した。学徒は数百人おり、毎月羊と酒を贈られた。牧犍は国師として尊び、自ら拝礼し、官属以下に命じて皆北面して教業を受けるようにさせた。時に同郡の索敞・陰興が助教となり、共に文学をもって推挙され、常に巾衣を着て入った。

世祖が涼州を平定すると、士民は東遷し、世祖は平素よりその名を聞き、楽平王の従事中郎に任じた。世祖は詔して、年七十以上の者は郷里に留まることを許し、一人の子が扶養するものとした。昞は時に老いており、姑臧にいたが、一年余りして、郷里を思い帰還し、涼州の西四百里の韭谷窟に至り、病に罹って卒した。昞には六人の子があった。

長子の僧衍は早くに亡くなった。

次男の仲礼は郷里に留まった。

次男は字を仲といい、次は貳帰、次は少帰仁といい、共に代京に遷った。後に諸州に分属され、城民となった。帰仁には二人の子があり、長男は買奴、次男は顕宗である。

太和十四年(490年)、尚書李沖が上奏し、劉昞は河西の碩儒であり、今その子孫が沈淪して屈しており、禄に潤うことがない、賢者の子孫は宜しく顕異を蒙るべきであると述べた。そこでその一子を除して郢州雲陽令とした。正光三年(522年)、 太保 たいほう 崔光が上奏して言うには、「臣は聞く、太上は立德、其次は立功・立言なり。死して朽ちずとは、前哲の尚ぶところなり。人を思いて樹を愛するは、古より美を称せらる。故に楽平王の従事中郎敦煌の劉昞は、涼城に業を著し、遺文茲に在り、篇籍の美は、頗る観るに足る。もし或いは愆釁あらば、まさに数世の宥を蒙るべく、況んや維祖逮孫、相去ること未だ遠からず、しかるに久しく皂隸に淪し、収異を獲ざるは、儒学の士の窃に歎ずる所なり。臣は史教の職に忝くし、冒して聞奏す。尚書に乞うて勅し、所属を推検せしめ、碎役を甄免し、以て聖朝の旌善継絕を広むるに用いよ。化を敦くし俗を厲するは、ここに在り」と。四年(523年)六月、詔して曰く、「劉昞の徳は前世に冠たり、蔚として儒宗を為す。太保の啓陳する所、深く善を勧むるに合す。その孫等三家は、特ちに免ずるを聴くべし」と。河西の人これを栄えとす。

趙柔

趙柔、字は元順、金城の人である。若くして徳行才学をもって河右に知名であった。沮渠牧犍の時、金部郎となった。世祖が涼州を平定すると、内徙して京師に入った。高宗が 践祚 せんそ すると、著作郎に拝された。後に歴効して績あり、出て河内太守となり、仁恵甚だ著しかった。趙柔はかつて路で人の遺した金珠一貫を得たが、価値は数百縑に当たり、趙柔は主人を呼んで返した。後に人ありて趙柔に鏵数百枚を与える者あり、趙柔は子の善明とともに市でこれを売った。趙柔から買おうとする者あり、絹二十匹を求めた。商人がその廉いことを知り、趙柔に三十匹を与えようとしたので、善明は取ろうとした。趙柔曰く、「人と交易するは、一言にして便ち定まる。豈に利を以て心を動かすべきや」と。遂にこれ(先の者)に与えた。搢紳の流れ、聞いて敬服した。その誠を推し信を秉るは、皆この類である。隴西王源賀が仏経の幽旨を採り、祗洹精舍図偈六巻を作ると、趙柔がこれに注解を加え、皆理に衷を得、当時の儁僧に欽味された。また銘讚を憑立し、頗る世に行われた。

子の趙黙、字は沖明。武威太守。

索敞

索敞、字は巨振、敦煌の人である。劉昞の助教となり、経籍に専心し、能く劉昞の業を伝えること尽くした。涼州平定後、国に入り、儒学をもって抜擢され、中書博士となった。篤く勤めて訓授し、厳にして礼あり。京師の大族貴遊の子らは、皆その威厳を敬憚し、多く成益するところあり、前後顕達し、位尚書牧守に至る者数十人、皆索敞に学業を受けた。索敞は遂に十余年講授した。索敞は喪服が衆篇に散在するのを以て、遂にこれを比べて喪服要記を撰した。その名字論文は多く載せられない。後に出て扶風太守を補し、在位清貧にして、未だ幾ばくもせずして官で卒した。時に旧同学の生等が請うたので、詔して平南将軍・涼州刺史を追贈し、諡して献といった。

索敞の子索僧養、中書議郎・京兆太守。

索僧養の子索演貴、征東府参軍。

索演貴の子索懐真、字は公道。武定末(550年)、侍御史。

初め、索敞が州にいた日、郷人の陰世隆と文才をもって友と相なした。世隆が京師に至り、罪を得て和龍に徙され、上谷に届き、困窮して前達せず、土人の徐能に抑掠されて奴とされた。五年(?)、索敞は行くこと因りて上谷に至り、世隆に遇い、その由状を語り、対泣して別れた。索敞が訴理して、免れることを得た。世隆の子の孟貴、性至孝にして、毎に田に向かい耘耨するに、早朝父を拝し、来るもまたこれの如くせり。郷人はその事親に篤きを欽んだ。

陰仲達

陰仲達、武威姑臧の人である。祖父の陰訓、字は処道、李暠に仕えて武威太守となった。父の陰華、字は季文、姑臧令。仲達は少くして文学をもって知名であった。世祖が涼州を平定すると、内徙して代都に入った。 司徒 しと 崔浩が仲達と段承根を啓して云う、二人倶に涼土の才華あり、同しく国史を修むべしと。祕書著作郎に除された。卒す。

陰華の次子の陰周達、徐州平南司馬・太山太守。

陰周達の子の陰遵和、小名は虎頭。音律を好み、武事を尚ぶ。初め高祖の挽郎となり、奉朝請に拝され、後に広平王元懐が取って国常侍とした。遵和は便辟にして人に善く事え、深く元懐に親愛された。 司空 しくう 法曹・太尉中兵参軍に転じた。また汝南王元悦の郎中令となり、復た愛信された。稍く遷って龍驤将軍・ ぎょう 騎将軍・ 都督 ととく となり、懸瓠を鎮守した。孝庄帝末(530年)、左将軍・行 州刺史を除された。時に前行州事の元崇礼が徴されて将に還らんとするに及び、既に尒朱兆の 洛陽 らくよう 入りを聞き、遂に遵和を矯殺し、擅かに州任を摂した。後に平南将軍・涼州刺史を追贈された。

遵和の兄の子の陰道方、性は和雅にして、頗る書伝に渉り、深く李神儁に知賞された。神儁が前将軍・荊州刺史となると、道方をその府の長流参軍に請うた。神儁はかつて道方をして蕭衍の雍州刺史蕭綱に詣らせて辺事を論ぜしめたが、道方の風神は沈正にして、蕭綱に称された。正光末(524年)、蕭綱がその軍主曹義宗等を遣わして辺蛮を擾動させると、神儁は道方をして伝を馳せて新野に向かわしめ、軍事を処分せしめた。路において土因村蛮に掠められ、曹義宗に送られ、義宗はまた伝致して襄陽に送り、仍って蕭衍に送られ、尚方に囚われた。孝昌中(526-527年)、始めて還国を得た。既に至り、奉朝請に拝され、転じて員外散騎侍郎となった。孝庄帝初(528年)、尚書左民郎中に遷り、起居注を修めた。永安二年(529年)、詔して道方と儀曹郎中王元旭をして蕭衍に使わしむ。南兗州に至り、詔ありて追還された。安東将軍・光禄大夫に転じ、右民郎中を領した。太昌初(532年)卒す、年四十二。人士咸く嗟惜した。撫軍将軍・荊州刺史を追贈された。

史臣が曰く、趙逸らは皆、経史に通暁し、才志は群を抜き、西州において価値が重んじられ、東国においても聞こえがあった。故に流離播遷の中にあって、泥滓の上より抜擢されたのである。人が無能であってはならないということは、誠にその通りである。

胡叟は顕晦の間において、優遊として悶えることなく、これまた一世の異人と言うべきであろうか。

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻52