魏書

卷51 韓茂 皮豹子 封敕文 吕羅漢 孔伯恭

卷51 韓茂 皮豹子 封敕文 吕羅漢 孔伯恭

韓茂

原文韓茂

韓茂、字は元興、安定郡安武県の人である。父の耆、字は黄老。永興年間に赫連屈丐より降伏して来朝し、綏遠将軍に任ぜられ、龍驤将軍・常山太守に転じ、安武侯を仮授された。その後も常山郡の九門に居住した。死去すると、涇州刺史を追贈され、諡して成侯という。

原文韓茂,字元興,安定安武人也。父耆,字黃老。永興中自赫連屈丐來降,拜綏遠將軍,遷龍驤將軍、常山太守,假安武侯。仍居常山之九門。卒,贈涇州刺史,諡曰成侯。

茂は十七歳の時、膂力は人に優れ、特に騎射を得意とした。太宗がかつて丁零の翟猛を親征した際、茂は中軍の執幢を務めた。時に風が吹き、諸軍の旌旗は皆倒れたが、茂は馬上にて幢を保持し、少しも傾かなかった。太宗はこれを奇異として問い、茂の所属を徴し、詳細に状況を答えた。太宗は左右に謂って「記せ」と言った。まもなく行在所に召し出され、騎射を試みられると、太宗は深くこれを奇とし、茂を虎賁中郎将とした。

原文茂年十七,膂力過人,尤善騎射。太宗曾親征丁零翟猛,茂為中軍執幢。時有風,諸軍旌旗皆偃仆,茂於馬上持幢,初不傾倒。太宗異而問之,徵茂所屬,具以狀對。太宗謂左右曰:「記之。」尋徵詣行在所,試以騎射,太宗深奇之,以茂為虎賁中郎將。

後に世祖に従い赫連昌を討ち、これを大破した。世祖は諸将に謂って「今もし兵を窮め武を極めれば、民を弔う道にあらず、来年こそ卿らと共にこれを取らん」と言った。その民を移して還った。軍功により茂に蒲陰子の爵位を賜い、強弩将軍を加えられ、侍輦郎に転じた。また統万征伐に従い、これを大破した。平涼平定に従い、茂の衝くところ、弦に応じて斃れざるはなかった。ここにおいて世祖はこれを壮とし、内侍長に任じ、九門侯に爵位を進め、冠軍将軍を加えた。後に蠕蠕征伐に従い、頻りに戦って大捷した。楽平王丕らと共に和龍を伐ち、その居民を移した。涼州平定に従い、茂は前鋒都将となり、戦功は多くを占めた。司衛監に転じた。前後の功績を録し、散騎常侍・殿中尚書に任じ、安定公に爵位を進め、平南将軍を加えた。薛永宗撃破に従い、蓋吳を伐った。都官尚書に転じた。懸瓠征伐に従い、頻りに賊軍を破った。車駕が南征し、六道に分かれた時、茂は高涼王那と共に青州より出撃した。諸軍が淮を渡ると、降伏する者が相継ぎ、茂を徐州刺史に任じてこれを撫した。車駕が還ると、茂を侍中・尚書左僕射とし、征南将軍を加えた。世祖が崩御すると、劉義隆が将の檀和之を遣わして済州を寇し、南安王余は茂にこれを討たせた。済州に至ると、和之は遁走した。

原文後從世祖討赫連昌,大破之。世祖謂諸將曰:「今若窮兵極武,非弔民之道,明年當共卿等取之。」徙其民而還。以軍功賜茂爵蒲陰子,加強弩將軍,遷侍輦郎。又從征統萬,大破之。從平平涼,當茂所衝,莫不應弦而殪。由是世祖壯之,拜內侍長,進爵九門侯,加冠軍將軍。後從征蠕蠕,頻戰大捷。與樂平王丕等伐和龍,徙其居民。從平涼州,茂為前鋒都將,戰功居多。遷司衞監。錄前後功,拜散騎常侍、殿中尚書,進爵安定公,加平南將軍。從破薛永宗,伐蓋吳。轉都官尚書。從征懸瓠,頻破賊軍。車駕南征,分為六道,茂與高涼王那出青州。諸軍渡淮,降者相繼,拜茂徐州刺史以撫之。車駕還,以茂為侍中、尚書左僕射,加征南將軍。世祖崩,劉義隆遣將檀和之寇濟州,南安王余令茂討之。至濟州,和之遁走。

高宗が践祚すると、尚書令に任じ、侍中・征南大将軍を加えられた。茂は沈毅篤実であり、文学は無かったが、論議する毎に理に適っていた。将として、衆を撫するに善く、勇は当世に冠たり、朝廷に称された。太安二年夏、太子少師を領し、冬に卒去した。涇州刺史・安定王を追贈され、諡して桓王という。

原文高宗踐阼,拜尚書令,加侍中、征南大將軍。茂沉毅篤實,雖無文學,每論議合理。為將,善於撫眾,勇冠當世,為朝廷所稱。太安二年夏,領太子少師,冬卒。贈涇州刺史、安定王,諡曰桓王。

長子の備、字は延徳。初め中散となり、江陽男の爵位を賜い、揚烈将軍を加えられた。また行唐侯に爵位を進め、冠軍将軍・太子庶子に任ぜられた。寧西将軍に転じ、遊獵曹を典し、散騎常侍を加えられた。安定公・征南大将軍の爵位を襲った。卒去し、雍州刺史を追贈され、諡して簡公という。

原文長子備,字延德。初為中散,賜爵江陽男,加揚烈將軍。又進爵行唐侯,拜冠軍將軍、太子庶子。遷寧西將軍,典遊獵曹,加散騎常侍。襲爵安定公、征南大將軍。卒,贈雍州刺史,諡曰簡公。

備の弟の均、字は天徳。若くして射を善くし、将略があった。初め中散となり、范陽子の爵位を賜い、寧朔将軍を加えられた。金部尚書に転じ、散騎常侍を加えられた。兄の備が卒去し、子が無かったため、均が安定公・征南大将軍の爵位を襲った。出て使持節・散騎常侍・本将軍・定州刺史となり、青冀二州刺史に転じ、その他の官は元の如しであった。民を恤い廉謹であり、治績の称えが甚だあった。広阿沢は定・冀・相の三州の境界にあり、土地広く民稀にして、寇盗多く、そこで鎮を置いてこれを静めた。均が冀州に在ったため、劫盗が止息したので、本将軍・広阿鎮大将を除し、都督三州諸軍事を加えられた。均は身を清くして下を率い、明らかに耳目と為し、広く方略を設け、姦邪を禁断した。ここにおいて趙郡の屠各・西山の丁零で山沢に党を聚めて劫害を業とする者は、均皆これを誘慰追捕し、遠近震跼した。先に、河外は未だ賓服せず、民多く去就したため、権りに東青州を立てて招懐の本とし、新附の民は皆優復を受けた。しかし旧人の姦逃する者は多くこれに投じた。均は表して不便を陳べ、朝議はこれを罷めた。後に均の統べるところ、劫盗頗る起こり、顕祖は詔書を下してこれを誚譲した。また五州の民戸殷多にして、編籍実ならざるを以て、均の忠直阿らざるにより、詔して均に検括せしめ、十余万戸を出した。再び定州刺史を授け、徭を軽くし賦を寛にして、百姓これを安んじた。延興五年に卒去し、諡して康公という。子の宝石が爵位を襲った。

原文備弟均,字天德。少而善射,有將略。初為中散,賜爵范陽子,加寧朔將軍。遷金部尚書,加散騎常侍。兄備卒,無子,均襲爵安定公、征南大將軍。出為使持節、散騎常侍、本將軍、定州刺史,轉青冀二州刺史,餘如故。恤民廉謹,甚有治稱。廣阿澤在定、冀、相三州之界,土廣民稀,多有寇盜,乃置鎮以靜之。以均在冀州,劫盜止息,除本將軍、廣阿鎮大將,加都督三州諸軍事。均清身率下,明為耳目,廣設方略,禁斷姦邪,於是趙郡屠各、西山丁零聚黨山澤以劫害為業者,均皆誘慰追捕,遠近震跼。先是,河外未賓,民多去就,故權立東青州為招懷之本,新附之民,咸受優復。然舊人姦逃者,多往投焉。均表陳非便,朝議罷之。後均所統,劫盜頗起,顯祖詔書誚讓之。又以五州民戶殷多,編籍不實,以均忠直不阿,詔均檢括,出十餘萬戶。復授定州刺史,輕徭寬賦,百姓安之。延興五年卒,諡曰康公。子寶石襲爵。

均の弟の天生、内廐令となり、後に龍牧曹を典した。出て持節・平北将軍・沃野鎮将となった。

原文均弟天生,為內廐令,後典龍牧曹。出為持節、平北將軍、沃野鎮將。

皮豹子

原文皮豹子

皮豹子、漁陽の人。若くして武略があった。泰常年間、中散となり、稍々内侍左右に遷った。世祖の時、散騎常侍となり、新安侯の爵位を賜い、冠軍将軍を加えられた。また選部尚書に任じ、その他の官は元の如しであった。出て使持節・侍中・都督秦雍荊梁四州諸軍事・安西将軍・開府儀同三司を除し、淮陽公に爵位を進め、長安に鎮した。まもなく征西将軍を加えられた。後に官財を盗んだ罪により、統万に徙された。

原文皮豹子,漁陽人。少有武略。泰常中,為中散,稍遷內侍左右。世祖時,為散騎常侍,賜爵新安侯,加冠軍將軍。又拜選部尚書,餘如故。出除使持節、侍中、都督秦雍荊梁四州諸軍事、安西將軍、開府儀同三司,進爵淮陽公,鎮長安。尋加征西將軍。後坐盜官財,徙於統萬。

真君三年、劉義隆が将の裴方明らを遣わして南秦王楊難当を侵し、遂に仇池を陥とした。世祖は豹子を徴し、その爵位を復した。まもなく使持節・仇池鎮将に任じ、関中の諸軍を督し、建興公古弼らと諸将に分命し、十道並びに進んだ。四年正月、豹子は楽郷に進撃し、これを大破し、義隆の将王奐之・王長卿ら六人を擒え、三千余級を斬首し、二千人を俘獲した。豹子は軍を進めて下辨に至り、義隆の将強玄明・辛伯奮は城を棄てて遁走したので、これを追斬し、その衆を悉く獲た。義隆はその秦州刺史胡崇之をして仇池に鎮せしめたが、漢中に至り、官軍既に西進したと聞き、懼れて進まず、方明はその兵を益してこれを遣わした。豹子は司馬楚之と濁水に至り、崇之を撃ち擒え、その衆を尽く虜にした。高平に進むと、義隆の将姜道祖が降伏し、仇池は平定された。

原文真君三年,劉義隆遣將裴方明等侵南秦王楊難當,遂陷仇池。世祖徵豹子,復其爵位。尋拜使持節、仇池鎮將,督關中諸軍,與建興公古弼等分命諸將,十道並進。四年正月,豹子進擊樂鄉,大破之,擒義隆將王奐之、王長卿等六人,斬首三千餘級,俘獲二千人。豹子進軍下辨,義隆將強玄明、辛伯奮棄城遁走,追斬之,悉獲其眾。義隆使其秦州刺史胡崇之鎮仇池,至漢中,聞官軍已西,懼不敢進,方明益其兵而遣之。豹子與司馬楚之至於濁水,擊擒崇之,盡虜其眾。進至高平,義隆將姜道祖降,仇池平。

未だ幾ばくもせず、諸氐また反し、楊文徳を推して主と為し、仇池を囲んだ。古弼が諸軍を率いて討ちこれを平らげた。時に豹子は下辨に次いでおり、囲み解けたと聞き、還らんとした。弼は使者を遣わして豹子に謂って「賊はその負敗を恥じ、必ず報復を求め、後挙は難し、兵を陳べてこれを待つに如かず」と言った。豹子は然りと為した。まもなく都督秦・雍・荊・梁・益五州諸軍事を除し、征西大将軍の号を進め、開府・仇池鎮将・持節・公は元の如しであった。十一月、義隆はまた楊文徳・姜道盛を遣わし衆二万人を率いて濁水を寇し、別に将の青陽顕伯を遣わして斧山を守らせ豹子を拒がせた。濁水城の兵が道盛を射殺し、豹子は斧山に至り、顕伯を斬り、その衆を悉く俘獲した。豹子はまた河間公元斉と共に濁水に会し、賊衆震恐し、その兵甲を棄てて夜遁した。初め、南秦王楊難当が帰命した時、詔して楊氏の子弟を京師に送らせたが、文徳は賄賂を行って留まることを得、亡走して漢中に奔った。義隆は文徳を武都王と為し、兵二千人を与えて葭蘆城を守らせ、氐羌を招誘した。ここにおいて武都・陰平の五部の氐民が叛き文徳に応じた。詔して豹子に諸軍を率いてこれを討たせた。文徳は兵を阻み険を固めて豹子を拒いだ。文徳の将楊高が来降し、諸軍をその城に向かわせると、文徳は城を棄てて南走し、その妻子・僚属・軍資及び故武都王保宗の妻公主を収めて京師に送った。義隆の白水太守郭啓玄が衆を率いて文徳を救おうとしたので、豹子は軍を分けて逆撃し、これを大破し、啓玄・文徳は走って漢中に還った。

原文未幾,諸氐復反,推楊文德為主以圍仇池。古弼率諸軍討平之。時豹子次于下辨,聞圍解,欲還。弼遣使謂豹子曰:「賊耻其負敗,必求報復,後舉為難,不如陳兵以待之。」豹子以為然。尋除都督秦、雍、荊、梁、益五州諸軍事,進號征西大將軍,開府、仇池鎮將、持節、公如故。十一月,義隆復遣楊文德、姜道盛率眾二萬人寇濁水,別遣將青陽顯伯守斧山以拒豹子。濁水城兵射殺道盛,豹子至斧山,斬顯伯,悉俘其眾。豹子又與河間公元齊俱會于濁水,賊眾震恐,棄其兵甲夜遁。初,南秦王楊難當歸命,詔送楊氏子弟詣京師,文德以行賂得留,亡奔漢中。義隆以文德為武都王,給兵二千人守葭蘆城,招誘氐羌,於是武都、陰平五部氐民叛應文德。詔豹子率諸軍討之,文德阻兵固險拒豹子。文德將楊高來降,引諸軍向其城,文德棄城南走,收其妻子、僚屬、軍資及故武都王保宗妻公主送京師。義隆白水太守郭啟玄率眾救文德,豹子分軍逆擊,大破之,啟玄、文德走還漢中。

興安二年正月、義隆(劉義隆)はその将軍蕭道成・王虬・馬光らを遣わして漢中に入らせ、別に楊文徳・楊頭らに命じて諸氐羌を率い武都を包囲させた。城中はこれを拒ぎ、賊二百余人を殺した。豹子(皮豹子)は兵を分けて救援に向かおうとしたが、女磊に至り、賊が軍を留めていると聞き、豹子は祁山に人を遣わして馬を取らせ、赴援しようとした。文徳は豹子がその糧道を断とうとしていると思い、軍を返して覆津に入り、険阻な地を拠って自らを固めた。義隆は彼らが勝手に退くことを恐れ、さらに兵を増やし将を加え、晋寿・白水に命じて糧を覆津に送らせ、漢川・武興に命じて粟を甘泉に運ばせ、いずれも倉庫を置いて蓄えさせた。豹子は上表して言うには、「義隆は兵を増やし糧を運び、必ずや死を送らんとしています。臣が統率する兵衆は、もとより多くはなく、ただ民兵に頼り、ひたすら防備と堅守を恃みとしています。その統万・安定の二鎮の兵衆は、従軍して以来、三、四年を経ており、長安の兵は、役期を過ぎても、交代の期はなく、衣糧ともに尽き、姿形は枯れ衰え、窮迫して家を恋い、逃亡が止みません。すでに寇難に臨んでおり、攻戦に耐えられません。士民は奸通し、臣の兵が弱いことを知り、南の文徳を引き入れ、共に唇歯の関係となっています。文徳は去る年八月に義隆の梁州刺史劉秀之とともに長安を征したが、朝廷が大軍を遣わすと聞き、その勢いと援軍が雲のごとく集まり、長安は地勢が平らで、馬を用いるのに便利であるため、わが国の騎軍を恐れ、北に出ることを敢えてしませんでした。ただ仇池の局人(役人)から、朝廷の軍は多くなく、戍兵は少なく、諸州の雑人はそれぞれ帰還を望んでおり、軍勢が及べば必ず自ら奔逃し、進軍して城を取ることは掌を返すがごとく容易であると聞きました。その言葉を信じ、長安に向かっていた兵を返し、文徳・蕭道成・王虬ら将領を遣わして、武都・仇池を攻めさせ、秦隴と連なることを望んでいます。進んで武都を包囲してすでに数日を経ており、臣が背後を遮断しその糧道を断つことを恐れていますが、関鎮の兵は少ないものの、大きな損害はまだありません。今、外寇の兵は強く、臣の力は寡弱であり、賊を拒ぎ敵に備えるには、兵なくしては図れません。壮兵を選び、武都の戍を増やし、城を堅固に守れば、患い無きを得ましょう。今、事態はすでに切迫しており、急ぎ上聞しなければ、城鎮を損失し、深い責めを招く恐れがあります。高平の突騎二千を遣わし、一月分の糧を携えさせ、速やかに仇池に赴かせてください。そして逆民を抑え折り、賊虜に対抗させることができます。長安・上邽・安定の戍兵が至るのを待てば、自らを全うすることができます。糧は民の命であり、たとえ金城湯池であっても、糧がなければ守れません。仇池にはもともと蓄積がなく、今年は収穫がありません。もし高平の騎兵が至れば、どうやって供給・支援を得るべきか分かりません。秦州の民を遣わして軍糧を祁山に送らせ、臣はそれに従って迎え取りたいと思います。」詔により高平鎮将苟莫于が突騎二千を率いて赴いたので、道成らは退いた。豹子は尚書に召され、出て内都大官となった。

原文興安二年正月,義隆遣其將蕭道成、王虬、馬光等入漢中,別令楊文德、楊頭等率諸氐羌圍武都。城中拒之,殺賊二百餘人。豹子分兵將救之,至女磊,聞賊停軍,豹子遣人於祁山取馬,欲往赴援。文德謂豹子欲斷其糧運,回軍還入覆津,據險自固。義隆恐其輒回,又增兵益將,令晉壽、白水送糧覆津,漢川、武興運粟甘泉,皆置倉儲。豹子表曰:「義隆增兵運糧,剋必送死。臣所領之眾,本自不多,唯仰民兵,專恃防固。其統萬、安定二鎮之眾,從戎以來,經三四歲,長安之兵,役過期月,未有代期,衣糧俱盡,形顏枯悴,窘切戀家,逃亡不已,既臨寇難,不任攻戰。士民姦通,知臣兵弱,南引文德,共為脣齒。計文德去年八月與義隆梁州刺史劉秀之同征長安,聞臺遣大軍,勢援雲集,長安地平,用馬為便,畏國騎軍,不敢北出。但承仇池局人,稱臺軍不多,戍兵尠少,諸州雜人,各有還思,軍勢若及,必自奔逃,進軍取城,有易返掌。承信其語,回趣長安之兵,遣文德、蕭道成、王虬等將領,來攻武都、仇池,望連秦隴。進圍武都,已經積日,畏臣截後,斷其糧路,關鎮少兵,未有大損。今外寇兵強,臣力寡弱,拒賊備敵,非兵不擬,乞選壯兵,增戍武都,牢城自守,可以無患。今事已切急,若不馳聞,損失城鎮,恐招深責。願遣高平突騎二千,賫糧一月,速赴仇池。且可抑折逆民,支對賊虜。須長〈闕〉、上邽、安定戍兵至,可得自全。糧者,民之命也,雖有金城湯池,無糧不守。仇池本無儲積,今歲不收,苦高平騎至,不知云何以得供援。請遣秦州之民,送軍祁山,臣隨迎致。」詔高平鎮將苟莫于率突騎二千以赴之,道成等乃退。徵豹子為尚書,出為內都大官。

劉駿(宋の孝武帝)はその将軍殷孝祖を遣わして清東に両当城を修築させて南境を脅かしたので、天水公封敕文がこれを撃ったが、勝てなかった。詔により豹子と給事中周丘らがこれを助撃した。豹子は南寇が城を守り、攻囲には日数を要すると考え、遂に地を略して高平に至った。劉駿の瑕丘鎮は歩卒五千を遣わして両当の戍を助けさせたが、城を去ること八里の地で、豹子の前鋒の候騎と出会い、直ちに交戦し、豹子の軍が続いて至り、これを大破した。騎兵を放って追撃しこれを殺し、城下に至り、免れた者は十余人のみであった。城内は恐懼し、出て救援することを敢えなかった。やがて軍を返した。

原文劉駿遣其將殷孝祖修兩當城於清東以逼南境,天水公封敕文擊之,不克。詔豹子與給事中周丘等助擊之。豹子以南寇城守,攻圍費日,遂略地至高平。劉駿瑕丘鎮遣步卒五千助戍兩當,去城八里,與豹子前鋒候騎相遇,即便交戰,豹子軍繼至,大破之。縱騎追擊殺之,至於城下,其免者十餘人而已。城內恐懼,不敢出救。既而班師。

先に、河西の諸胡が逃亡匿れて命令を避けていた。豹子及び前涇州刺史封阿君が河西諸軍を督して南に石楼に向かい、衛大将軍・楽安王拓跋良とともに諸胡を討った。豹子らは賊と対峙したが、胡が逃走したことに気づかず、勝利なくして還り、また官を免ぜられた。まもなく前後の戦功により、再び内都大官に抜擢された。和平五年六月、卒去した。高宗(文成帝)はこれを追惜し、淮陽王を追贈し、諡して襄とし、命服一襲を賜った。

原文先是,河西諸胡,亡匿避命。豹子及前涇州刺史封阿君督河西諸軍南趣石樓,與衞大將軍、樂安王良以討羣胡。豹子等與賊相對,不覺胡走,無捷而還,又坐免官。尋以前後戰功,復擢為內都大官。和平五年六月,卒。高宗追惜之,贈淮陽王,諡曰襄,賜命服一襲。

子の道明が爵を襲った。

原文子道明,襲爵。

道明の第八弟に喜がいる。高宗は名臣の子であることを以て、侍御中散に抜擢し、侍御長に遷した。高祖(孝文帝)の初め、吐谷渾の拾寅の部落が飢え窮し、澆河を侵掠し、大いに民の患いとなった。詔により喜に平西将軍・広川公を仮授し、涼州・枹罕・高平の諸軍を領させ、上党王長孫観とともに拾寅を討たせた。また使持節・侍中・都督秦雍荊梁益五州諸軍事・本将軍・開府・仇池鎮将に任じられ、公の仮授はもとのままとした。これはその父豹子がかつて仇池を鎮めて威信があったためである。喜が至ると、恩を述べ恵を施し、夷民は大いに悦び、酋帥の強奴子らがそれぞれ戸を率いて帰附した。そこで広業・固道の二郡を置いて彼らを居住させた。南部尚書に召され、南康侯の爵を賜り、左将軍を加えられた。

原文道明第八弟喜。高宗以其名臣子,擢為侍御中散,遷侍御長。高祖初,吐谷渾拾寅部落飢窘,侵掠澆河,大為民患。詔假喜平西將軍、廣川公,領涼州、枹罕、高平諸軍,與上黨王長孫觀討拾寅。又拜為使持節、侍中、都督秦雍荊梁益五州諸軍事、本將軍、開府、仇池鎮將,假公如故,以其父豹子昔鎮仇池有威信故也。喜至,申恩布惠,夷民大悅,酋帥強奴子等各率戶歸附,於是置廣業、固道二郡以居之。徵為南部尚書,賜爵南康侯,加左將軍。

太和元年、劉準(宋の順帝)の葭蘆戍主楊文度が弟の鼠を遣わして仇池を窃拠したので、詔により喜が衆四万を率いて鼠を討った。軍が建安に到ると、鼠は城を棄てて南に逃走した。進んで濁水に駐屯し、平西将軍楊霊珍を遣わして文度が置いた仇池太守楊真を撃たせた。真の衆は潰え、かろうじて免れたのみであった。喜は遂に覆津に軍を置いた。文度の将の強大黒が津道を固守し、懸崖は険絶で、偏閣は単行であった。喜は将士を分け、崖を攀じ水に渉り、大黒を衝撃し、大黒は潰走し、追撃して西に入った。葭蘆城を攻め、これを抜き、文度を斬り、首を京師に伝え、一千余人を殺した。詔に曰く、「忠臣は徳義の門より生まれ、智勇は将相の族より出づ。往年、氐羌が命に背き、辺戍を侵窃した。都将の皮喜・梁醜奴らは、あるいは父の旧勲を資とし、あるいは身をもって殊効を建て、威名は庸漢(蜀漢)に著しく、公義は天府に列せられた。故に節鉞を授け、閫外の任を委ねた。ともに力を尽くし鋭気を傾け、その職務を克く荷い、霜戈動き始めるや、蟻賊は奔散し、仇池は直ちに回復し、民夷は安んじた。及び葭蘆を討ち、また凶醜を梟した。元悪ともに殲滅し、覬覦(野心)は永く息み、朕は甚だこれを嘉する。その陳ぶる計略、利害を商校し、その応否を料り、辺を寧ろげ国を益するは、専断してよい。今、軍威すでに振るい、群愚は懾服し、弊を革め新を崇むるに、因循しやすい勢いがある。寛猛の宜しきは、その量処に任せ、郡県を立つべきものもまた銓置を聴す。その楊文度・楊鼠の親属家累は、部送して朝廷に赴かせよ。仇池は南秦の根本であり、守禦の資儲は特に豊かに積むべきであり、険阻の要地は特に守防すべきである。奸覘の徒に、その僥倖を絶たしめよ。戎務に勉め勤め、新俗を綏静し、民を懐け土を安んじ、朕の意に称えよ。」

原文太和元年,劉準葭蘆戍主楊文度遣弟鼠竊據仇池,詔喜率眾四萬討鼠。軍到建安,鼠棄城南走。進次濁水,遣平西將軍楊靈珍擊文度所置仇池太守楊真,真眾潰,僅而得免。喜遂軍於覆津。文度將強大黑固守津道,懸崖險絕,偏閣單行。喜部分將士,攀崖涉水,衝擊大黑,大黑潰走,追奔西入。攻葭蘆城,拔之,斬文度,傳首京師,殺一千餘人。詔曰:「夫忠臣生於德義之門,智勇出於將相之族。往年氐羌放命,侵竊邊戍,都將皮喜、梁醜奴等,或資父舊勳,或身建殊效,威名著於庸漢,公義列於天府,故授以節鉞,委閫外之任。並罄力盡銳,克荷所司,霜戈始動,蟻賊奔散,仇池旋復,民夷晏安。及討葭蘆,又梟凶醜。元惡俱殲,闚𨵦永息,朕甚嘉之。其所陳計略,商校利害,料其應否,寧邊益國,專之可也。今軍威既振,羣愚懾服,革弊崇新,有易因之勢,寬猛之宜,任其量處,應立郡縣者,亦聽銓置。其楊文度、楊鼠親屬家累,部送赴臺。仇池,南秦之根本,守禦資儲,特須豐積,險阻之要,尤宜守防,令奸覘之徒,絕其僥倖。勉勤戎務,綏靜新俗,懷民安土,稱朕意焉。」

また喜らに詔して曰く、「卿らは命を受けて専征し、辺寇を薄伐し、軍威の及ぶところ、即ち皆平蕩し、仇池の旧鎮を回復し、葭蘆の新邦を破り、首逆を梟擒し、凶党を克剪した。勲庸の美は、朕に間然とする所なし。仇池は国の要蕃であり、防守の事宜は特に完実を須う。以前より、駱谷に鎮を置いたのは、奸賊に覬覦の心を止めさせ、辺城に危敗の禍無からしめるためであった。近ごろ建安に徙就したことにより、往年の役を致した。前に卿らに勅し、兵将を部率して駱谷に城を築かせたが、一時の勤労はあっても、終に永延の堅固を致すものである。然るに卿らは詔命を祗(つつし)まず、今日に至り、徒らに兵人を稽頓させ、事無く閑停している。方また曲辞を弄し、表して罷下を求めている。これが良将の身を忘れ、国を憂え忠を尽くすという謂いであろうか。諸州の兵はすでに一年を経ている。暫く力を戮(あわ)せ、この要功を成すべきである。卿らが表して来年に築城を求めるのは、さらに兵将を労することにならないか。今の兵勢に因って、即ちこれに就かせ、一労永逸とし、事を再挙しない方がよい。今さらに軍糧一月分を与える。速やかに駱谷に城を築き、四月の末までに必ず成就せしめよ。もし時に応じて営築せず、あるいは築いても成らず、成っても固からざる場合は、軍法に従って処する。」

原文又詔喜等曰:「卿受命專征,薄伐邊寇,軍威所及,即皆平蕩,復仇池之舊鎮,破葭蘆之新邦,梟擒首逆,克剪凶黨,勳庸之美,朕無間然。仇池國之要蕃,防守事宜,尤須完實。從前以來,駱谷置鎮,是以姦賊息闚𨵦之心,邊城無危敗之禍,近由徙就建安,致有往年之役。前敕卿等,部率兵將,駱谷築城,雖有一時之勤,終致永延之固。而卿等不祗詔命,至于今日,徒使兵人稽頓,無事閑停,方復曲辭,表求罷下,豈是良將忘身、憂國盡忠之謂也?諸州之兵,已復一歲,宜暫戮力,成此要功。卿等表求來年築城,豈不更勞兵將?孰若因今兵勢,即令就之,一勞永逸,事不再舉也。今更給軍糧一月,速於駱谷築城,使四月盡必令成就訖。若不時營築,乃築而不成,成而不固,以軍法從事。」

南天水郡の民柳旃が険阻な地に拠って従わず、喜は軍勢を率いて討伐し滅ぼした。散騎常侍・安南将軍・豫州刺史に転じた。詔が下り、その州での寛怠、酒を飲んで政事を廃し、威厳をもって下を禁じなかったことを責め、使者を州に遣わして杖罰を決行させた。七年に卒去し、本官を以て追贈され、諡して恭公といった。子の承宗が爵を襲いだ。

原文南天水郡民柳旃據險不順,喜率眾討滅之。轉散騎常侍、安南將軍、豫州刺史。詔讓其在州寬怠,以飲酒廢事,威不禁下,遣使者就州決以杖罰。七年卒,贈以本官,諡曰恭公。子承宗襲爵。

喜の弟の双仁は、冠軍将軍・仇池鎮将であった。

原文喜弟雙仁,冠軍將軍、仇池鎮將。

封敕文

原文封敕文

封敕文は代の人である。祖父の豆は、皇始の初めに三万の兵を率いて東征し幽州を平定し、三郡を平定して、幽州刺史に任ぜられた。後に使持節・都督冀青二州諸軍事・前将軍・開府・冀青二州刺史・関内侯となった。父の涅は太宗の時に侍御長となった。卒去し、龍驤将軍・定州刺史・章武侯を追贈され、諡して隠といった。

原文封敕文,代人也。祖豆,皇始初領眾三萬東征幽州,平定三郡,拜幽州刺史。後為使持節、都督冀青二州諸軍事、前將軍、開府、冀青二州刺史、關內侯。父涅,太宗時為侍御長。卒,贈龍驤將軍、定州刺史、章武侯,諡曰隱。

敕文は始光の初めに中散となり、次第に昇進して西部尚書となった。出向して使持節・散騎常侍・鎮西将軍・開府・領護西夷校尉・秦益二州刺史となり、天水公の爵を賜り、上邽を鎮守した。詔により敕文は歩騎七千を率いて吐谷渾の慕利延の兄の子拾帰を枹罕に征討したが、兵が少なく制圧できず、詔により安遠将軍・広川公乙烏頭ら二軍を遣わし敕文と隴右で合流させた。軍は武始に駐屯し、拾帰は夜遁走した。敕文は軍を率いて枹罕に入り、拾帰の妻子とその民戸を虜獲し、千家を上邽に分けて移住させ、烏頭を留めて枹罕を守らせた。

原文敕文,始光初為中散,稍遷西部尚書。出為使持節、散騎常侍、鎮西將軍、開府、領護西夷校尉、秦益二州刺史,賜爵天水公,鎮上邽。詔敕文率步騎七千征吐谷渾慕利延兄子拾歸於枹罕,眾少不能制,詔遣安遠將軍、廣川公乙烏頭等二軍與敕文會隴右。軍次武始,拾歸夜遁。敕文引軍入枹罕,虜拾歸妻子及其民戶,分徙千家於上邽,留烏頭守枹罕。

金城の辺冏・天水の梁会が謀反し、秦益二州の雑人一万余戸を扇動し、上邽の東城を占拠した。西城を攻め逼った。敕文は既に先んじて防備を整え、賊百余を殺し、傷つく者も多く、賊は引き退いた。冏・会は再び四千の兵を率いて城を攻め、氐羌一万が南嶺に屯し、休官・屠各及び諸雑戸二万余が北嶺に屯し、冏らの援けの形勢となった。敕文は二将に騎兵二百を率いさせ門内に防備させ、別に騎兵を出撃させた。やがて偽って退き、冏が兵を率いて躍り出て追撃すると、敕文は軽騎で横から衝き、大いにこれを破り、冏を斬った。しかし北嶺の賊は高所から敕文の軍兵を射かけ、飛矢雨の如く、梁会は北嶺に奔り、騎兵は引き返した。再び会を推して主とした。敕文は兵二百を分けて南城に突入させ、その門楼を焼き、賊は火の起こるのを見て、皆驚き乱れた。また歩卒を遣わして門を攻め、これを陥とし、直ちに騎士を率いて馳せ入り、賊の残衆は門を開いて出走し、東城に奔り入った。背後を乗じて追撃し、千余人を殺した。

原文金城邊冏、天水梁會謀反,扇動秦益二州雜人萬餘戶,據上邽東城。攻逼西城。敕文先已設備,殺賊百餘人,被傷者眾,賊乃引退。冏、會復率眾四千攻城,氐羌一萬屯於南嶺,休官、屠各及諸雜戶二萬餘人屯於北嶺,為冏等形援。敕文遣二將領騎二百設備門內,別令騎出擊之。既而偽退,冏率眾騰逐,敕文輕騎橫衝,大破之,斬冏。而北嶺之賊,從高射敕文軍人,飛矢如雨,梁會得奔北嶺,騎乃引還。復推會為主。敕文分兵二百人突入南城,燒其門樓,賊見火起,眾皆驚亂。又遣步卒攻門,克之,便率騎士馳入,賊餘眾開門出走,奔入東城,乘背追擊,殺千餘人。

安豊公閭根が軍を率いて敕文を助けた。敕文は上表して言うには、「安定の逆賊の帥路那羅が使者を遣わし書を携え逆帥梁会に与え、会は那羅の書を城中に射かけ、那羅は衆旅を集め、期日を定めて会を助けると称した。また仇池の城民李洪は、自ら応王と称し、天より玉璽を授かり、勝手に符書を作り、百姓を誑惑した。梁会は使者を遣わし楊文徳を招き引き、文徳は権寿胡に兵二十人を将いて会のもとに来させ、州土を扇動し、李洪が自ら応王と称し、両雄並び立たず、もし我を必要とするならば、先ず李洪を殺せ、我自ら往かんと言った。梁会は文徳を引き寄せようとし、李洪を誘い説いて東城に入らせ、直ちに洪の首を斬り、文徳に送った。仇池鎮将・淮陽公臣豹子が使者を潜行させ、今月二十四日に臣の鎮に来て達し、楊文徳が劉義隆の職爵を受け、兵を領し衆を聚め、仇池の境中に在り、民人を沮動し、城鎮を窺い窃まんとしていると称した。かつ梁会が反逆して以来、南は文徳と結び、援勢相連なり、武都の氐羌は尽く脣歯を相し、文徳のために軍を起こし、所在に屯結し、兵衆は既に集まり、近く来寇せんとしている。臣は辺鎮を備え、賊と相対し、賊は東城に在り、隔てるは壁のみである。しかし腹背に敵あり、城を攻むるに疑いあり、文徳を討度すれば、来寇して会を助けん。もし文徳既に至れば、百姓響応し、賊党遂に甚だしく、功を用いる益々難し。今文徳未だ到らず、麦もまた未だ熟さず、事は速やかに撃つに宜しく、時に於いて便なり。伏して願わくは天鑑あらんことを、時に大軍を遣わし、臣を助けて誅翦せしめ給え」。

原文安豐公閭根率軍助敕文。敕文表曰:「安定逆賊帥路那羅遣使齎書與逆帥梁會,會以那羅書射於城中,那羅稱纂集眾旅,剋期助會。又仇池城民李洪,自稱應王,天授玉璽,擅作符書,誑惑百姓。梁會遣使招引楊文德,而文德遣權壽胡將兵二十人來到會間,扇動州土,云李洪自稱應王,兩雄不並,若欲須我,先殺李洪,我當自往。梁會欲引致文德,誘說李洪來入東城,即斬洪首,送與文德。仇池鎮將、淮陽公臣豹子遣使潛行,以今月二十四日來達臣鎮,稱楊文德受劉義隆職爵,領兵聚眾,在仇池境中,沮動民人,規竊城鎮。且梁會反逆以來,南勾文德,援勢相連,武都氐羌盡相脣齒,為文德起軍,所在屯結,兵眾已集,剋來不遠。臣備邊鎮,與賊相持,賊在東城,隔牆而已。但以腹背有敵,攻城有疑,討度文德,剋來助會。若文德既至,百姓響應,賊黨遂甚,用功益難。今文德未到,麥復未熟,事宜速擊,於時為便。伏願天鑒,時遣大軍,助臣誅翦。」

上表が未だ報せられぬうちに、梁会は逃げ遁れんと謀った。先に、敕文は東城の外に重い堀を掘り、賊の逃走の路を断った。夜中、会は車に飛梯を並べ、堀を越えて逃走した。敕文は先に兵を厳しくして堀の外に防ぎ戦い、夜から朝まで及んだ。敕文は衆に謀って言うには、「困獣猶お闘う、況んや人においてをや。賊衆は生路なきを知り、人自ら死を致せば、必ずや士衆を傷つけ、平らげ易からず。もしその生路を開かば、賊必ず上下心を離し、これを克つこと易からん」。衆皆然りと為す。初め敕文は白虎幡を以て賊衆に宣告して言うには、「もし能く帰降せば、その生命を赦す」。時に応じて降る者六百余人。会は人心沮壊するを知り、ここにおいて分かれて遁走した。敕文は騎兵を放ってこれを追撃し、死者大半、俘獲四千五百余口。

原文表未及報,梁會謀欲逃遁。先是,敕文掘重壍於東城之外,斷賊走路。夜中,會乃車陳飛梯,騰壍而走。敕文先嚴兵於壍外拒鬬,從夜至旦。敕文謀於眾曰:「困獸猶鬬,而況於人。賊眾知無生路,人自致死,必傷士眾,未易可平。若開其生路,賊必上下離心,克之易矣。」眾咸以為然。初敕文以白虎幡宣告賊眾曰:「若能歸降,原其生命。」應時降者六百餘人。會知人心沮壞,於是分遁。敕文縱騎躡之,死者太半,俘獲四千五百餘口。

略陽の王元達は梁会の乱に乗じ、衆を聚めて城を攻め、休官・屠各の衆を招き引き、天水の休官王官興を推して秦地王とした。敕文は臨淮公莫真とこれを討ち、軍は略陽に駐屯し、敕文は使者を遣わして慰撫した。しかし元達ら三千余人は松多川に屯した。ここにおいて諸軍を分かち、三道並びに攻めた。賊は営を出て防ぎ戦い、大いにこれを破り、三千人を俘虜とした。高宗の時、新平公周盆とともに劉駿の将殷孝祖を清東に撃つも、克たず。天安元年五月卒去。

原文略陽王元達因梁會之亂,聚眾攻城,招引休官、屠各之眾,推天水休官王官興為秦地王。敕文與臨淮公莫真討之,軍次略陽,敕文遣使慰喻。而元達等三千餘人屯於松多川。乃部分諸軍,三道並攻。賊出營拒戰,大破之,俘三千人。高宗時,與新平公周盆擊劉駿將殷孝祖於清東,不克。天安元年五月卒。

長子の万護は爵を弟の翰に譲った。この時譲った者は万護及び元氏侯趙辟悪の子元伯がその弟次興に譲ったのみで、朝廷は義としてこれを許した。

原文長子萬護,讓爵於弟翰。於時讓者惟萬護及元氏侯趙辟惡子元伯讓其弟次興,朝廷義而許之。

翰の族孫の静は、世宗の時、征虜将軍・武衛将軍・太子左衛率を歴任し、幹用を以て称された。延昌年中、平北将軍・恒州刺史に遷り、臨朐子となった。後に事に坐して免官。卒去。

原文翰族孫靜,世宗時,歷位征虜將軍、武衞將軍、太子左衞率,以幹用稱。延昌中,遷平北將軍、恒州刺史,臨朐子。後坐事免。卒。

子の熙は奉朝請となった。員外散騎侍郎・給事中に遷り、薛曇尚とともに蠕蠕の主婆羅門を涼州に迎えた。また鎮遠将軍・河陰令に除された。卒去し、輔国将軍・朔州刺史を追贈された。

原文子熙,奉朝請。遷員外散騎侍郎、給事中,與薛曇尚迎蠕蠕主婆羅門於涼州。又除鎮遠將軍、河陰令。卒,贈輔國將軍、朔州刺史。

子の纘は、武定の末、潁川太守となった。

原文子纘,武定末,潁川太守。

呂羅漢

原文呂羅漢

呂羅漢は本来東平寿張の人である。その先祖は、石勒の時に幽州に徙居した。祖父の顕は字を子明といった。少くより学を好み、性廉直、郷人に分争する者あれば皆就いて質した。慕容垂は河間太守とした。皇始の初め、郡を以て来降し、太祖これを嘉し、魏昌男の爵を賜り、鉅鹿太守に任ぜられた。身を清くして公に奉じ、務めて贍卹を存し、妻子も飢寒を免れず。民はこれを頌して言うには、「時に惟れ府君、己を克し清明なり。我が荒土を緝め、民胥れ生を楽しむ。願わくは寿無疆にして、以て長齢を享けん」。官に卒す。父の温は字を晞陽といった。書を善くし、施しを好み、文武の才略あり。世祖が赫連昌を伐つに、温を幢将とした。先登して陣を陥し、戦う毎に必ず捷ち、功を以て宣威将軍・奉車都尉に任ぜられた。出て秦州司馬となり、上党太守に遷り、善く勧課し、治名あり。卒去し、平遠将軍・豫州刺史・野王侯を追贈され、諡して敬といった。

原文呂羅漢,本東平壽張人。其先,石勒時徙居幽州。祖顯,字子明。少好學,性廉直,鄉人有分爭者皆就而質焉。慕容垂以為河間太守。皇始初,以郡來降,太祖嘉之,賜爵魏昌男,拜鉅鹿太守。清身奉公,務存贍卹,妻子不免飢寒。民頌之曰:「時惟府君,克己清明。緝我荒土,民胥樂生。願壽無疆,以享長齡。」卒官。父溫,字晞陽。善書,好施,有文武才略。世祖伐赫連昌,以溫為幢將。先登陷陳,每戰必捷,以功拜宣威將軍、奉車都尉。出為秦州司馬,遷上黨太守,善勸課,有治名。卒,贈平遠將軍、豫州刺史、野王侯,諡曰敬。

羅漢は仁愛篤実で慎み深く、弱冠にして武勇の才幹をもって知られた。父の温之が秦州を輔佐したとき、羅漢は従って侍した。隴右の氐の楊難当が数万の兵を率いて上邽を寇し、秦の民は多くこれに応じた。鎮将の元意頭は羅漢が弓射に優れることを知り、共に西城楼に登り、羅漢に難当の隊将及び兵二十三人を射させると、弦に応じて斃れた。賊の勢いはますます盛んとなり、羅漢は進み出て計略を述べた、「今もし出戦しなければ、敵に弱さを示すこととなり、衆情は離反し、大事は去ります」。意頭はこれを良しとし、直ちに千余騎を選び羅漢に出戦させた。羅漢は諸騎とともに策馬して大声で呼ばわり、まっすぐに難当の軍に突撃し、衆は皆なびき散った。難当の左右の隊騎八人を殺し、難当は大いに驚いた。時に世祖が難当に璽書を賜い、その跋扈を責めたので、難当はついに仇池に引き返した。意頭は詳しく状況を上奏し、世祖はこれを嘉し、羅漢を召して羽林中郎とした。

原文羅漢仁篤慎密,弱冠以武幹知名。父溫之佐秦州,羅漢隨侍。隴右氐楊難當率眾數萬寇上邽,秦民多應之。鎮將元意頭知羅漢善射,共登西城樓,令羅漢射難當隊將及兵二十三人,應弦而殪。賊眾轉盛,羅漢進計曰:「今若不出戰,示敵以弱,眾情攜貳,大事去矣。」意頭善之,即簡千餘騎令羅漢出戰。羅漢與諸騎策馬大呼,直衝難當軍,眾皆披靡。殺難當左右隊騎八人,難當大驚。會世祖賜難當璽書,責其跋扈,難當乃引還仇池。意頭具以狀聞,世祖嘉之,徵為羽林中郎。

上邽の休官の呂豊、屠各の王飛廉ら八千余家が、険阻に拠って逆をなした。詔により羅漢は騎兵一千を率いて討ちこれを擒らえた。懸瓠征討に従い、羅漢は琅邪王司馬楚之とともに駕前にて招慰にあたり、降伏する者九千余戸。盱眙に至るまで、頻りに賊軍を破り、その将の顧儼、李観之らを擒らえた。功により羽林中郎、幢将に遷り、爵を烏程子と賜り、建威将軍を加えられた。南安王余が立つと、羅漢はなお宿衛を管轄し、高宗が立つにあたっては、羅漢に力があった。少卿に遷り、引き続き幢将を務め、爵を野王侯に進め、龍驤将軍を加えられた。司衛監に拝され、散騎常侍、殿中尚書に遷り、爵を山陽公に進め、鎮西将軍を加えられた。蠕蠕が塞を犯すと、顕祖がこれを討ち、羅漢は右僕射南平公元目振とともに中外の軍事を都督した。

原文上邽休官呂豐、屠各王飛廉等八千餘家,據險為逆,詔羅漢率騎一千討擒之。從征懸瓠,羅漢與琅邪王司馬楚之駕前招慰,降者九千餘戶。比至盱眙,頻破賊軍,擒其將顧儼、李觀之等。以功遷羽林中郎、幢將,賜爵烏程子,加建威將軍。及南安王余立,羅漢猶典宿衞,高宗之立,羅漢有力焉。遷少卿,仍幢將,進爵野王侯,加龍驤將軍。拜司衞監,遷散騎常侍、殿中尚書,進爵山陽公,加鎮西將軍。及蠕蠕犯塞,顯祖討之,羅漢與右僕射南平公元目振都督中外軍事。

鎮西将軍、秦益二州刺史として出向した。時に仇池の氐羌が反乱し、駱谷を攻め逼り、鎮将の呉保元は敗走して百頃に登り、羅漢に援軍を請うた。羅漢は歩騎を率いて長孫観とともに氐羌を掩撃し、これを大破し、その渠帥を斬り、賊衆は退散した。詔して羅漢に曰く、「卿は労苦勤勉により叙任され、才能をもって用いられ、内には禁旅を総べ、外には方岳に臨み、褒賞寵遇の厚さは、備わっていると言えよう。自ら節を尽くし誠を竭くさなければ、どうして竹帛に名を垂れようか。仇池は辺境に近く、兵革が屡々起こり、士卒を労するのみならず、民衆をも動揺させる。皆な鎮将が明らかでなく、綏撫禁令を治めないことによるものである。卿は機に応じて赴き撃ち、この凶醜を殄滅せよ。隴右の地は険しく、民も剛悍である。もし徳をもって導かず、刑をもって斉えなければ、寇賊を止める由もなく、百姓を静める術もない。朕は治道に心を垂れ、遠近を清穆ならしめんと欲する。卿は豪右を召集し、その事の宜しきを択び、民を利することを先とし、国を益することを本とし、その風俗に随って、威恵を施すべし。安土楽業し、公に奉じ私に勤むる者あれば、善く勧督を加え、時の利を奪うことなかれ。明らかに相告げ示し、朕の意に称えよ」。

原文出為鎮西將軍、秦益二州刺史。時仇池氐羌反,攻逼駱谷,鎮將吳保元走登百頃,請援於羅漢。羅漢帥步騎隨長孫觀掩擊氐羌,大破之,斬其渠帥,賊眾退散。詔羅漢曰:「卿以勞勤獲敍,才能致用,內總禁旅,外臨方岳,褒寵之隆,可謂備矣。自非盡節竭誠,將何以垂名竹帛?仇池接近邊境,兵革屢興,既勞士卒,亦動民庶,皆由鎮將不明,綏禁不理之所致也。卿應機赴擊,殄此兇醜。隴右土險,民亦剛悍,若不導之以德,齊之以刑,寇賊莫由可息,百姓無以得靜。朕垂心治道,欲使遠近清穆,卿可召集豪右,擇其事宜,以利民為先,益國為本,隨其風俗,以施威惠。其有安土樂業、奉公勤私者,善加勸督,無奪時利。明相宣告,稱朕意焉。」

涇州の民の張羌郎が隴東を扇動惑乱し、千余人の衆を聚めた。州軍はこれを討つも制することができなかった。羅漢は歩騎一千を率いて羌郎を撃ち、これを擒らえた。仇池の氐羌の叛逆はますます甚だしく、所在に蜂起し、道路は断絶した。その賊帥の蛩廉、符祈らは皆な劉昱より官爵・鉄券を受けた。略陽公の伏阿奴を都将とし、羅漢とともに赴いて討ち、所在でこれを破り、廉、祈らを生け捕りにした。秦益は阻遠にして、南は仇池に連なり、西は赤水に接し、諸羌は険阻を恃み、数たび叛逆をなした。羅漢が州に莅んで以来、威恵をもって撫でると、西戎は徳を懐き、土境は平穏となった。高祖は詔して羅漢に曰く、「朕は万機を総摂し、四海を統臨し、古道を隆んにし、風教を光顕せんと想う。故に内には群司に委ね、外には方牧を任ずる。まさに志士が節を建てる秋、忠臣が功を立てる会である。然るに赤水の羌民は、遠く辺土に居り、卿の善き誘いがなければ、どうして招集できようか。卿が得た口(人)と馬を、表して貢奉を求める。朕は乃ちの誠を嘉し、直ちに領納を命ずる。その馬は印を付して都牧に渡し、口は卿に賜う」。

原文涇州民張羌郎扇惑隴東,聚眾千餘人,州軍討之不能制。羅漢率步騎一千擊羌郎,擒之。仇池氐羌叛逆遂甚,所在蜂起,道路斷絕。其賊帥蛩廉、符祈等皆受劉昱官爵、鐵券。略陽公伏阿奴為都將,與羅漢赴討,所在破之,生擒廉、祈等。秦益阻遠,南連仇池,西接赤水,諸羌恃險,數為叛逆。自羅漢莅州,撫以威惠,西戎懷德,土境帖然。高祖詔羅漢曰:「朕總攝萬幾,統臨四海,思隆古道,光顯風教,故內委羣司,外任方牧,正是志士建節之秋,忠臣立功之會。然赤水羌民,遠居邊土,非卿善誘,何以招輯?卿所得口馬,表求貢奉,朕嘉乃誠,便敕領納。其馬印付都牧,口以賜卿。」

内都大官に召し拝され、訴訟を聴き獄を察して、多くその実情を得た。太和六年、官にて卒した。高祖は深く悼み惜しみ、命服一襲を賜い、本官をもって贈り、諡して荘公といった。

原文徵拜內都大官,聽訟察獄,多得其情。太和六年,卒於官。高祖深悼惜之,賜命服一襲,贈以本官,諡曰莊公。

長子の興祖は、爵を山陽公として襲い、後に例により侯に降格された。景明元年に卒した。

原文長子興祖,襲爵山陽公,後例降為侯。景明元年卒。

興祖の弟の伯慶は、中散となり、咸陽王禧の郎中令となった。

原文興祖弟伯慶,為中散,咸陽王禧郎中令。

伯慶の弟の世興は、校書郎となった。

原文伯慶弟世興,校書郎。

羅漢の弟の大檀は、中散、恒農太守となった。

原文羅漢弟大檀,為中散、恒農太守。

大檀の弟の豹子は、東萊鎮将となった。後に鎮を州に改め、光州の事務を行った。

原文大檀弟豹子,東萊鎮將。後改鎮為州,行光州事。

豹子の弟の七宝は、侍御中散となった。少卿に遷り、仮節・龍驤将軍・東雍州刺史として出向した。

原文豹子弟七寶,侍御中散。遷少卿,出為假節、龍驤將軍、東雍州刺史。

孔伯恭

原文孔伯恭

孔伯恭は、魏郡鄴の人である。父の昭は、始光初年に、密皇后の縁戚として、爵を汝陰侯と賜り、安東将軍を加えられ、爵を魏県侯に移し、安南将軍に遷った。昭は性質が柔和で度量が広く、才用があった。趙郡太守として出向し、治績に能吏の名があった。召されて光禄大夫に拝され、転じて中都大官となり、獄訟をよく察し、政刑に明るかった。侍中・鎮東将軍・幽州刺史に遷り、爵を魯郡公に進めた。和平二年に卒し、諡して康公といった。長子の羅漢は、東宮洗馬となった。次子の伯恭は、父の任により給事中に拝された。後に爵を済陽男と賜り、鷹揚将軍を加えられた。安南将軍・済州刺史として出向し、爵を城陽公に進めた。入朝して散騎常侍となった。

原文孔伯恭,魏郡鄴人也。父昭,始光初,以密皇后親,賜爵汝陰侯,加安東將軍,徙爵魏縣侯,遷安南將軍。昭性柔曠,有才用。出為趙郡太守,治有能名。徵拜光祿大夫,轉中都大官,善察獄訟,明於政刑。遷侍中、鎮東將軍、幽州刺史,進爵魯郡公。和平二年卒,諡曰康公。長子羅漢,東宮洗馬。次伯恭,以父任拜給事中。後賜爵濟陽男,加鷹揚將軍。出為安南將軍、濟州刺史,進爵城陽公。入為散騎常侍。

顕祖の初め、劉彧の徐州刺史薛安都が彭城をもって内附し、彧は将の張永、沈攸之らを遣わして安都を撃たせた。安都は上表して援軍を請うた。顕祖は伯恭の号を鎮東将軍に進め、尚書の尉元の副としてこれを救援させた。軍は秺に駐屯した。賊将の周凱は伯恭らの軍の到着を聞き、衆を棄てて遁走した。張永はなお下磕に屯し、永の輜重は武原にあった。伯恭らはこれを攻めて陥落させた。永は計略なく、師を引いて退いた。

原文顯祖初,劉彧徐州刺史薛安都以彭城內附,彧遣將張永、沈攸之等擊安都,安都上表請援。顯祖進伯恭號鎮東將軍,副尚書尉元救之。軍次于秺,賊將周凱聞伯恭等軍至,棄眾遁走。張永仍屯下磕,永輜重在武原,伯恭等攻而克之。永計無所出,引師而退。

時に皇興元年正月、天は大いに寒く雪が降り、泗水は氷が合わさり、張永と沈攸之は船を棄てて逃走した。孔伯恭らは進撃し、斬首・捕虜および凍死者は甚だ多かった。八月、伯恭は書を下邳・宿豫の城内に送って告げて言う、「劉彧は逆を肆(ほしいまま)にして天に滔(みなぎ)り、霊命を鑑みず、なお絶えて復興すと謂い、長江を恃むべしとし、敢えて張永・周凱らを遣わしてこの蟻のごとき衆を率い、彭城に死を送らしむ。大軍未だ臨まずして、逆の首魁は奔潰す。今機に乗じて電のごとく挙げ、まさにこの城を屠り、遂に呉会を平らげ、民を弔い罪を伐たん。幸いに時に帰款し、自ら多福を求めよ」と。時に沈攸之・呉憘公らは衆数万を率いて下邳を救援し来たり、軍を焦墟曲に屯し、下邳より五十余里を去る。伯恭は子都將の侯汾らに騎兵五百を率いさせて水の南に、奚升らに五百余騎を率いさせて水の北に在らしめ、南北よりこれを邀撃せしむ。伯恭は密かに火車攻具を造り、水陸ともに進まんと欲す。攸之ら既にこれを聞き、戦わんとして、軍を引き退き樊階城を保つ。伯恭はまた子都將の孫天慶らに歩騎六千を率いさせて零中峡に向かわしめ、木を伐って清水の路を断たしむ。劉彧の寧朔將軍陳顯達は衆二千を領して清水を溯り上り、もって攸之を迎え、睢清の合口に屯す。伯恭は衆を率いて水を渡り、大いに顯達の軍を破り、俘斬すること十九。攸之は顯達の軍敗れたるを聞き、流れに順って退き下る。伯恭は諸将を分派し、清水の南北に俠(はさ)みて攸之の軍の後を尋ねしむ。伯恭は睢陵城より東に零中峡に向かい、軍を分かって二道と為し、司馬の范師子らを清水の南に遣わし、伯恭は清水の西より、攸之と合戦し、遂に大いにこれを破り、その将たる姜産之・高遵世および丘幼弼・丘隆先・沈榮宗・陸道景らの首を斬り、攸之・憘公らは軽騎にて遁走す。勝に乗じて奔るを追うこと八十余里、軍資器械、虜獲すること万を数う。宿豫を進攻す。劉彧の戍将魯僧遵は城を棄てて夜遁す。また将の孔太恒らに募騎一千を領させて南に淮陽を討たしむ。劉彧の太守崔武仲は城を焚きて南走す。遂に淮陽を拠す。

原文時皇興元年正月,天大寒雪,泗水冰合,永與攸之棄船而走,伯恭等進擊,首虜及凍死甚眾。八月,伯恭以書喻下邳、宿豫城內曰:「劉彧肆逆滔天,弗鑒靈命,猶謂絕而復興,長江可恃,敢遣張永、周凱等率此蟻眾,送死彭城。大軍未臨,逆首奔潰。今乘機電舉,當屠此城,遂平吳會,弔民伐罪。幸時歸款,自求多福。」時攸之、吳憘公等率眾數萬來援下邳,屯軍焦墟曲,去下邳五十餘里。伯恭遣子都將侯汾等率騎五百在水南,奚升等五百餘騎在水北,南北邀之。伯恭密造火車攻具,欲水陸俱進。攸之等既聞,將戰,引軍退保樊階城。伯恭又令子都將孫天慶等步騎六千向零中峽,斫木斷清水路。劉彧寧朔將軍陳顯達領眾二千溯清而上,以迎攸之,屯于睢清合口。伯恭率眾渡水,大破顯達軍,俘斬十九。攸之聞顯達軍敗,順流退下。伯恭部分諸將,俠清南北尋攸之軍後。伯恭從睢陵城東向零中峽,分軍為二道,遣司馬范師子等在清南,伯恭從清西,與攸之合戰,遂大破之,斬其將姜產之、高遵世及丘幼弼、丘隆先、沈榮宗、陸道景等首,攸之、憘公等輕騎遁走。乘勝追奔八十餘里,軍資器械,虜獲萬計。進攻宿豫,劉彧戍將魯僧遵棄城夜遁。又遣將孔太恒等領募騎一千南討淮陽,彧太守崔武仲焚城南走,遂據淮陽。

二年、伯恭を以て散騎常侍・都督徐南兗州諸軍事・鎮東將軍・彭城鎮将・東海公と為す。三年十月卒す。鎮東大将軍・東海王を贈り、諡して桓と曰う。

原文二年,以伯恭為散騎常侍、都督徐南兗州諸軍事、鎮東將軍、彭城鎮將、東海公。三年十月卒,贈鎮東大將軍、東海王,諡曰桓。

伯恭の弟伯孫は、中書□士となり、父の爵である魯郡公を襲ぐ。鎮東將軍・東萊鎮将に拝され、本將軍・東徐州刺史に転ず。事に坐して官を免ぜられ、家にて卒す。

原文伯恭弟伯孫,為中書□士,襲父爵魯郡公。拜鎮東將軍、東萊鎮將,轉本將軍、東徐州刺史。坐事免官,卒于家。