巻50

尉元

尉元、 あざな は苟仁、代の人である。代々豪族として栄えた。父の目斤は勇略が当時に聞こえた。泰常年間、前将軍となり、虎牢平定に従い、軍功多く、中山太守に任じられた。元は十九歳の時、善射を以て称された。神䴥年間、虎賁中郎将となり、転じて羽林中郎となり、小心恭粛、怠りなきを以て知られた。世祖はその寛雅にして風貌あるを嘉し、次第に駕部給事中に遷った。海隅に幸するに従い、富城男の爵を賜り、寧遠将軍を加えられた。和平年間、北部 尚書 しょうしょ に遷り、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、太昌侯に爵を進められ、冠軍将軍に任じられた。

天安元年、薛安都が徐州を以て内附し、救援の師を請うた。顕祖は元を使持節・ 都督 ととく 東道諸軍事・鎮南大将軍・博陵公とし、城陽公孔伯恭と共にこれに赴かせた。劉彧の東平太守・無塩戍主申纂が詐降した。元は誠意なきを知り、外には容納を示し、密かに備えた。劉彧の兗州 刺史 しし 畢衆敬が東平太守章仇𢷋を遣わし軍に詣で帰款せしめ、元はともにこれを納れた。遂に長駆して進み、賊将周凱は声を聞き遁走した。彧は将張永・沈攸之らを遣わし衆を率いて安都を討たせ、下磕に屯した。永は分かち遣わし羽林監王穆之に卒五千を領せしめ、輜重を武原に守らせ、龍驤将軍謝善居に卒二千を領せしめ呂梁を拠らせ、散騎侍郎張引に卒二千を領せしめ茱萸を守らせ、上租糧を督し、その軍実を供せしめた。安都は城を出て元に会い、元は朝旨に依り、その徐州刺史を授けた。 中書 ちゅうしょ 侍郎高閭・李璨らを遣わし安都とともに還り入城せしめ、別に孔伯恭に精甲二千を以て内外を撫安せしめ、然る後に元は彭城に入った。

元は張永がなお険要を占め、攻守の勢倍するを以て、士卒を傷つけるを懼れた。乃ち安都と璨らに固守せしめ、身みずから精鋭を率い、兵を外に揚げ、分かち呂梁を撃ち、その糧運を絶った。善居は遁走し茱萸に奔り、なお張引とともに東走して武原に向かった。馳騎して追撃し、首級八百余を斬った。武原の窮寇八千余人は、拒戦して下らざりき。元みずから甲冑を擐ぎ、四面よりこれを攻め、穆之の外営を破り、殺傷太半に及び、その輜重五百余乗を獲て、以て彭城の諸軍に給した。然る後に師を収め戦を緩め、その走路を開いた。穆之は余燼を率いて永の軍に奔った。永は勢挫け力屈し、元は勝に乗じてこれを囲み、その南門を攻め、永は遂に城を棄て夜遁した。伯恭・安都は勢に乗じて追撃し、時に大雨雪、泗水氷結し、永は船を棄てて走った。元は予め測りて永必ずや奔亡すべしとし、身みずから衆軍を率い、その走路を邀え、南北より奮撃し、呂梁の東にて大破した。首級数万を斬り、北に六十余里を追い、死者相枕し、手足凍断する者十に八九を占めた。劉彧の使持節・ 都督 ととく 梁南北秦三州諸軍事・梁秦二州刺史・寧朔将軍・益陽県開国侯垣恭祖、龍驤将軍・羽林監沈承伯らを生擒した。永・攸之は軽騎にて走り免れた。その船車軍資器械を収むること勝えず。劉彧の東徐州刺史張讜は団城を拠り、徐州刺史王玄載は下邳を守り、輔国将軍・兗州刺史樊昌侯王整、龍驤将軍・蘭陵太守桓忻は近民を駆掠し、険を保ち自ら固めた。元は慰諭を遣わし、張讜及び青州刺史沈文秀らは皆使を遣わし誠を通じ、王整・桓忻は相い帰命した。

元は表して曰く、「彭城の倉廩虚罄し、人に飢色あり、冀・相・済・兗四州の粟を運び、張永の棄つる所の船九百艘を取り、清に沿いて運致し、以て新民を済救すべし」と。顕祖これに従う。又表して兵を分かち戍を置き、進みて青冀を定むべしとす。また表して曰く、「彭城は賊の要蕃にして、積粟強守なきは、以て固くすべからず。若し糧を儲え戍を広くせば、仮令劉彧の師徒悉く動くも、敢えて淮北の地を窺わざるべし。これ自然の勢いなり」と。詔して曰く、「後軍の到るを待ち、量り宜しく守防すべし。その青冀は已に軍を遣わし援け、克定を待ち須い、更に軍糧を運ぶべし」と。元また表して曰く、「臣命を受けて出疆し、再び寒暑を離れ、進んでは鄧艾一挙の功無く、退いては羊祜保境の略無し。雖も淮岱は振るうことを獲たれど、民情未だ安からず。臣愚智を以て、偏任に当たり、苟くも事宣徹すべきは、敢えて聞かざらんや。臣前表に下邳は水陸の湊する所、先ず殄滅を規り、兵を遣わし屡々討つも、猶未だ擒定せず。然れども彭城・下邳の信命断たれず、而してこの城の人は、元より賊界に居り、心尚お土を恋う。輒ち相い誑惑し、非望を希幸し、南来の息耗、壅塞して達せず、窮迫に至るも、仍お肯て降らざりき。彭城の民任玄朗、淮南より鎮に到り、劉彧の将任農夫・陳顕達が兵三千を領し、来たりて宿 を循うと称す。臣はその日を以て、密かに覘使を遣わし、その虚実を験すに、朗の言う如し。臣自ら出でてこれを撃たんと欲すれど、運糧未だ接せず、又た新民の変を生ずるを恐れ、子都の将于沓千・劉龍駒らに歩騎五千を以て、将に往きて赴撃せしめんとす。但だ征人淹久し、逃亡する者多く、迭相い扇動し、固き志ある莫く、器仗敗毀し、一として用うべき無し。臣聞く、国を伐つ事重し、古人の難くする所、功は立つべしと雖も、須らく経略して挙ぐべし。若し賊彭城に向かわば、必ず清泗より宿 を過ぎ、下邳を歴、青州に趨かば、路も亦た下邳より沂水に入り、東安を経ん。即ち賊の師を用うるの要なり。今若し先ず下邳を定め、宿 を平らげ、淮陽を鎮め、東安を戍らば、則ち青冀の諸鎮は攻めずして克つべし。若し四処服せざれば、青冀は抜くると雖も、百姓狼顧し、猶お僥倖の心を懐かん。臣愚かに以為う、宜しく青冀の師を釈き、先ず東南の地を定め、劉彧の北顧の意を断ち、愚民の南望の心を絶つべし。夏水盛んなりと雖も、津途因るべき無く、冬路通ずと雖も、高城固むべき無し。此くの如くすれば、則ち淮北自ら挙がり、暫く労して永く逸す。今向熱と雖も、猶お師を行うべく、兵は尚お神速、久しければ則ち変を生ず。若し天雨既に降り、或いは水通に因り、運糧益々衆く、規りて進取を為さんことを恐る。近淮の民庶、翻然として図を改め、青冀二州、卒に抜くべからざるを。臣輒ち僚佐と共に議し、咸く然るべしと謂う。若し隠して陳せざれば、損敗の責あるを懼れ、陳して験無ければ、誣罔の罪を成すを恐る。惟れ天鑒懸量し、臣が愚款を照らさんことを」と。

彧はまた沈攸之・呉憘公に数万の兵卒を率いさせ、沂清に沿って進軍し、下邳を救援せんとした。元は孔伯恭に歩騎一万を率いさせてこれを防がせた。また攸之の前に敗れた軍人で手足を傷つけ、膝を凍傷にした者をことごとく送り返し、その軍勢を沮喪させた。さらに援軍を求める上表をした。詔により征南大将軍 慕容 ぼよう 白曜がこれに赴いた。白曜が瑕丘に到着したとき、病に罹った。ちょうど泗水が急に枯れ、賊軍は前進できず、白曜はついに進軍しなかった。伯恭は賊軍を大破し、攸之・憘公らは軽騎で遁走した。元は劉彧の徐州刺史王玄載に書を送り、禍福を示した。玄載は狼狽して夜に逃げ、宿 ・淮陽は皆城を棄てて遁走した。ここにおいて南中郎将・中書侍郎高閭に騎兵一千を率いさせ、張讜と対にして東徐州刺史とし、中書侍郎李璨に畢衆敬と対にして東兗州刺史とした。新たに帰附した者を安んずるためである。元を 都督 ととく 徐・南・北兗州諸軍事、鎮東大将軍、開府、徐州刺史、淮陽公に拝し、持節・ 散騎常侍 さんきじょうじ ・尚書はもとのままとした。詔して元に曰く、「賊将沈攸之・呉憘公らは蟻のごとき群れを駆り率い、進んで下邳を寇す。卿は戎を昭らかにし果毅にして、智勇奮発し、水陸邀絶して、時に応じて摧殄し、淮以北は蕩然として清定す。これ皆、元帥の経略、将士の効力の致すところなり。朕これを用いて嘉す。獲たる諸城の要害のところは、兵を分かち戍を置き、もって民情を帖せしめよ。今まさに呉会を清蕩し、旌を秣陵に懸けんとす。用兵の宜しきところ、形勢の進止については、善く量度を加え、動静を以て聞かせよ」。

このとき徐州の妖人が司馬の姓を仮り、字を休符と称し、自ら晋王と称して百姓を扇動惑乱した。元は将を遣わして追い斬らせた。四年、詔して元を召し還し京師に赴かせ西郊に詣わしめ、まもなく鎮所に還した。延興元年五月、元に淮陽王を仮授した。三年、劉昱の将蕭順之・王勑懃らが衆三万を率い、淮北の諸城を寇す。元は諸将を分遣し、逆撃してこれを走らせた。元が上表して言う、「淮陽郡上党県令韓念祖が初めて臨んだとき、旧民は南に叛き、一人もいなかった。令は撫綏招集し、民を子のごとく愛し、南より来たる民費係先ら前後帰附し、戸数二百有余に至った。南済陰郡睢陵県の人趙憐らが言上するには、念祖は綏撫に善くし、身を清くし己を潔くすと。念祖を睢陵県令に乞う。もしその人を得れば、必ずや離叛を招集し、一県を成立せしめん」。顕祖詔して曰く、「君を立てるは民のためなり。民情かくのごとし。請うところを聴くべし」。元はよく下人の善を申し述べることを好み、皆この類である。太和初め、内都大官に徴された。やがて出て使持節・鎮西大将軍・開府・統万鎮都将となり、夷民の心を甚だ得た。三年、爵を進めて淮陽王とし、旧老として礼せられ、歩輦に乗り、朝に杖つくことを聴された。

蕭道成が既に自立すると、多く間諜を遣わし、新民を扇動し、不逞の徒、所在に蜂起した。元の威名夙に振るうをもって、使持節・ 侍中 じちゅう 都督 ととく 南征諸軍事・征西大将軍・大都将に徴し、その余の官はもとのままとし、諸軍を総率してこれを討たしめた。元は五固の賊桓和らを討ち、皆これを平定した。東南清晏し、遠近帖然たり。入って侍中・都曹尚書となり、 尚書令 しょうしょれい に遷った。十三年、位を進めて 司徒 しと となった。十六年、例により庶姓の王爵を降格し、山陽郡開国公に封ぜられ、食邑六百戸。元が上表して言う、「臣は天安の初め、律を奉じて総戎し、淮右を廓寧し、海内既に平らぎ、なお徐岳を忝くす。素餐尸祿、年歳を積む。彼の地の安危は、窃かに具に悉くす。惟うに、彭城は水陸の要にして、江南兵を用うるに、これに因らずして諸夏を威陵するは莫し。夫れ国の大計は、 備を先とす。かつ臣初め徐方を克つとき、青斉未だ定まらず、河以南よりは、なお彼此を懐く。時に劉彧は張永・沈攸之・陳顕達・蕭順之らを遣わし前後数度、彭城を規取せんとし、勢は青兗に連なる。ただ彭城既に固きをもって、永ら摧屈す。今彼の戍兵を計るに、多くは胡人なり。臣前に徐州を鎮めたる日のこと、胡人の子都将呼延籠達は負罪に因り、便爾叛乱し、胡類を鳩引し、一時に扇動す。威霊遐く被うに頼り、罪人これ戮せらる。また団城子都将胡人王勑懃は釁を負いて南に叛き、毎に姦図を懼れ、狡く同党を誘う。愚誠の見る所、宜しく彭城の胡軍を以て南 州の徙民の兵と換え取り、転じて彭城を戍らしめ、また中州の 鮮卑 せんび を以て兵数を増実すべし。事において宜しきなり」。詔して曰く、「公の陳ぶる所、甚だ事機に合う」。

その年、尉元はたびたび上表して老齢を理由に致仕を願い出た。八月、詔して曰く、「元は年高く識見遠大にして、しばしば上表して退任を願い出る。朕は公が清く控えめな徳を保ち、心穏やかで落ち着いた人柄、仁愛に富み識見が広く、謀略に優れているのを頼りとし、まさに民政を委ねて億兆の民を安んじようとしていたので、たびたび文書を下してその志を留めようとした。しかしその謙虚な態度はますます固く、三度の請願は一層切実である。もしこの高邁な考えを屈して従わなければ、どうしてその美徳を成し遂げさせることができようか。すでにその致仕を許す。主務の者は表を外朝に下付し、礼に従って遂行せよ。」と。尉元は宮廷に赴き老齢を謝し、庭で引見され、殿上に昇ることを命じられて慰労の宴に与り、玄冠と素服を賜った。また詔して曰く、「そもそも大道は虚に凝り、至高の徳は控えめである。故に後の王は玄遠な道をもって世を治め、聖人は謙虚な光輝を尊んで美を降す。それゆえ天子は三老を父として仕え、五更を兄として仕える。これは孝悌の道を万国に明らかにし、教えの根本を天下に垂れるためである。道が高く識見が博くでなければ、誰がその任に当たることができようか。それゆえ五帝は徳を尊び、三王は言葉を乞うた。もし一人に全てを備えさせ、古代の哲人と同じにしようとすれば、末世の老人で、誰がその任に堪えられようか。上聖を師とすればその人選は難しく、中庸を傅とすればその選出は易しい。朕はすでに徳が薄く、過去の哲人には及ばないが、五更・三老の選びは、ほぼこれを持つことができる。前 司徒 しと ・山陽郡開国公の尉元、前大鴻臚卿・新泰伯の游明根は、ともに元亨利貞の徳を備え、明らかで誠実な素質を持ち、若い時から英風を顕わし、老いては雅やかな行跡を示し、台宿の高位に顕れ、私第に帰って終えた。始めを知り終わりを知る者と言え、世に稀な賢者である。公は八十の年齢をもって、三老の重責に就くにふさわしい。卿は七十の齢をもって、五更の選に充てることができる。」と。ここに明堂で三老五更を養い、階下で国老と庶老を養った。高祖は再拝して三老に礼し、自ら衣を脱いで牲を切り分け、爵を執って饋した。五更に対しては肅拜の礼を行い、国老・庶老には衣服を差等を付けて賜った。やがて尉元は言った、「天地が分かれて以来、五行の法則が行われ、人の崇めるものは、孝順より重いものはない。しかし五孝六順は、天下が先んずるべきことである。願わくは陛下がこれを重んじ、四方を教化されますように。臣はすでに衰老し、遠大な趣きを究めることはできないが、心と耳に及ぶ限り、誠を尽くさないことがあろうか。」と。高祖は言った、「孝順の道は天地の常道である。今三老の明言を承り、心に銘記する。」と。游明根は言った、「至孝は霊に通じ、至順は幽に感ずる。故に詩に云う、孝悌の至りは、神明に通じ、四海に光る、と。このように孝順の道は、至らぬところがない。願わくは陛下がこれを心に留め、黎民を救済されますように。臣は年も志も朽ち果て、識見は暗く、心に慮うところではあるが、敢えて尽くさないことはない。」と。高祖は言った、「五更は三老を助けて至極の模範を言葉で示し、徳の音を広く述べられた。自らを克己復礼し、授けられた教えを行わねばならない。」と。礼が終わると、歩輓車一乗を賜った。詔して曰く、「老人を尊び五更を尚ぶことは、歴代の聖王が同じく行うところである。年を敬い徳を尊ぶことは、遠い昔の哲人も同じ軌跡をたどる。朕は道において玄風には及ばず、識見は叡智の則りに暗いが、先人の教えを仰ぎ、その旨に従おうと企てる。故に徳をもって三老を推し、元老をもって五更を立て、父としてこれを顕彰し、兄としてこれを顕わすのである。前 司徒 しと 公の尉元、前鴻臚卿の游明根はともに控えめな徳をもって懸車し、優れた器量をもって老いに帰った。故に公を三老として尊び、卿を五更として仕える。五更・三老は官職ではないし、高齢であっても俸禄はないが、しかしその職事はすでに高いので、殊更の待遇を加えるべきである。三老には上公の禄を給し、五更には元卿の俸を食わせ、供される食事の品も同じ例とせよ。」と。

太和十七年七月、尉元の病が重篤となると、高祖は自ら見舞いに行った。八月、尉元は 薨去 こうきょ した。時に八十一歳であった。詔して曰く、「尉元は至高の行いで寛大純朴、仁風は美しく豊かであり、内には群を抜く武勇を備え、外には温和で美しい容姿を挺していた。少時から長じるまで、勲功と勤勉は極めて備わり、五朝に歴仕し、その美誉は四代に隆盛であった。南には河淮の功を輝かせ、北には燕然の効を光らせ、魯宋はその仁を懐き、中鉉(朝廷)にはその徳が載せられた。いわゆる立身は本末に備わり、行道は終始に著しい者であり、勲功は玉牒に記され、恵みは民の志に結ばれた者である。五福が集い、懸車して老いに帰った。謙虚で控えめな態度はすでに顕われ、遠近に詠われ、この父事の任に就き、我が万方の儀範となった。眉寿を極め、ますます王業を補佐するものと期待していた。天は老いた賢者を留めず、たちまちにして薨逝させた。功を思い善を惟うと、心を引き裂かれる思いである。しかしながら軍事のため礼を奪われ、礼を尽くせないことを恨む。布帛・綵物二千匹、温明祕器、朝衣一襲を賜うべく、あわせて墳域を営造せよ。」と。 おくりな して景桓公といった。殊礼をもって葬り、羽葆鼓吹・仮の黄鉞・班剣四十人を給し、帛一千匹を賜った。

子の尉羽は、名が粛宗の廟 いみな に触れるため、かなりの器量と声望があった。秘書中散から起家し、駕部令に転じ、主客給事を経て、通直 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、守殿中尚書を兼ね、侍中を兼ねた。父の喪により職を去った。また本官に復帰し、詔によって爵を襲い、平南将軍を加えられた。高祖が自ら百官を考課した際、尉羽が怠惰であったため、常侍を長兼に降格し、なお尚書を守らせ、一年分の俸禄を奪った。 洛陽 らくよう 遷都の際、山陽が畿内に入ったため、博陵郡開国公に改封された。後に征虜将軍・恒州刺史となった。死去すると、生前の官を追贈され、諡を順といった。

子の景興が爵を襲った。正始元年に卒去し、兗州刺史を追贈された。子がなかった。

景興の弟の景儁が爵を襲った。員外 散騎常侍 さんきじょうじ となった。延昌年間、国吏を杖罰して死なせた罪により、深沢県開国公に降封された。

子の伯永が爵を襲った。子がなく、爵は除かれた。

尉羽の弟の尉静は、寛大で雅やかで才識があった。世宗の時、尚書左民郎中となった。卒去すると、博陵太守を追贈され、重ねて鎮軍将軍・洛州刺史を追贈され、諡を敬といった。

子の祐之は、通直 散騎常侍 さんきじょうじ ・護軍長史となった。卒去した。

慕容白曜

慕容白曜は、慕容元真の玄孫である。父の慕容琚は、歴官して廉潔で清らかであると称され、高都侯の爵を賜った。冠軍将軍・尚書左丞の任で卒去し、安南将軍・ 并州 へいしゅう 刺史・高都公を追贈され、諡を簡といった。白曜は若くして中書吏となり、篤実で正直なため東宮に給事した。高宗が即位すると、北部下大夫に拝された。爵を襲い、北部尚書に遷った。在職中、法を執行するにあたり諂うことも曲げることもなく、高宗は厚く遇した。高宗が 崩御 ほうぎょ すると、乙渾とともに朝政を執り、尚書右 僕射 ぼくや に遷り、南郷公に爵を進め、安南将軍を加えられた。

劉彧の徐州刺史薛安都と兗州刺史畢眾敬はともに城を挙げて内附したので、詔により鎮南大將軍尉元と鎮東將軍孔伯恭に師を率いて赴かせた。しかし劉彧の東平太守申纂は無塩に駐屯し、 へい 州刺史房崇吉は升城に駐屯して、王の使者を遮断した。皇興の初め、白曜に使持節・ 都督 ととく 諸軍事・征南大將軍・上黨公を加え、碻磝に駐屯させて諸軍の後継とした。白曜は無塩城で申纂を攻め、その東郭を陥落させた。その夜、申纂は逃げたが、兵を遣わして追捕し、その男女数千口を捕らえた。先に、劉彧の青州刺史沈文秀と冀州刺史崔道固はともに使者を遣わして内附したが、その後劉彧が招慰を遣わしたので、再び劉彧に帰した。白曜は無塩を陥落させた後、引き返して升城を攻めた。肥城の戍主は軍の到来を聞き、城を棄てて逃げ、粟三十万斛を獲得した。升城に至ると、垣苗と麋溝の二つの戍が守りを固めて降らなかった。白曜は千余騎で麋溝を襲い、麋溝は潰走し、自ら済水に投身して死んだ者は千余人に及んだ。垣苗を撃ち、またこれを破り、粟十余万斛を得たので、これにより軍糧は充足した。先に、淮陽公皮豹子らが再び垣苗を征討したが勝てなかったが、白曜は一句の内に、頻りに四城を陥落させ、その威は斉の地を震動させた。顕祖はこれを嘉し、詔して言った、「卿は戎旅を総率し、不賓を討除し、霜戈の向かう所、摧靡せざるはなく、旬日の内に、四城を克抜した。韓信・白起の功も、どうしてこれに加えられようか。升城の戍将房崇吉は遠くを守って順わず、危亡の形は既に現れ、潰えるは旦夕にある。宜しく威略を崇め勉め、長轡を存することを務め、必ずしも兵を窮くし武を極めて、労頓と為すことなかれ。かつ罪を伐ち民を弔うは、国の令典なり。徳を以て招懐し、来蘇の沢を百姓に加うべきである」。升城は降らなかったので、白曜はこれを憤り、兵を放って城を陵ぎ、数百人を殺した。崇吉は夜逃げた。白曜はその民を撫慰し、殺戮することなく、百姓はこれを懐いた。崇吉の母と妻を捕らえ、礼を以てこれに接した。

劉彧はその将吳憘公に数万の衆を率いさせ、彭城を寇掠しようとした。鎮南大將軍尉元が表を上って援軍を請うた。顕祖は詔して白曜に赴かせた。白曜は瑕丘に到り、病に罹った。時に泗水が暴に涸れ、船は進むことができなかった。憘公が退いたので、白曜は瑕丘に留まった。時に崇吉が従弟の法寿とともに劉彧の盤陽城を盗んで母と妻を贖おうとした。白曜は瑕丘から将軍長孫観らに騎兵を率いさせ、馬耳関から入って赴かせた。観が盤陽に至ると、諸県は悉く降った。

平東將軍長孫陵と寧東將軍尉眷が青州を東討し、白曜は瑕丘から歴城を進攻した。白曜は書を為してこれを諭して言った、「天は劉彧を見棄て、禍難が滋え興り、骨肉の兄弟は自ら相誅戮し、君臣上下は再び紀綱無し。徐州刺史薛安都・ 州刺史常珍奇・兗州刺史畢眾敬らは深く存亡を覩て、翻然として義に帰した。故に朝廷はその誠欵を納れ、南蕃に委ねた。これらは皆目前に見る事実であり、東西に備聞する所である。かの無塩の戍主申纂は敢えて姦慝を恣にし、行人を劫奪したが、官軍が始めて臨むや、一時に首を授けた。房崇吉は升城を固守したが、尋いで即ち潰散した。襄陽より東は、淮海に至るまで、風靡せざるはなく、正化に服従している。東陽・歴城の識ある士は、上は安都の栄顕を思い、下は申纂の死亡を念い、前の惑いを追悔し、後の悟りに図を改めるべきである。然るに愚迷を執守して、自ら革めることができない。猥りに戎旅を総べ、北方を掃定す。黄河を済って十二の虚説を知り、斉の境に臨んで一変の清風を想い、踟躕して周覧すれば、依然として何の極みかあらん。故に先ず書を馳せて、成敗を諭す。機を見て動くは、周易の称する所なり。危きを去り安きに就くは、人事の常理なり。若し一介を以て高しと為し、悛めざるを美と為すならば、則ち微子は時に嫌いを負い、紀季は世に譏りを受く。我が皇魏は重光累葉、徳は外無きを懐き、軍威の拂う所、披靡せざるはない。固より三呉の弱卒の擬抗し能う所ではない。況んや今者においては、勢は既に土崩している。劉彧の威は秣陵を制せず、政は閫外に出でず、豈に復た江を浮かび海を越え、危きに赴き急ぎを救うことができようか。これを恃んで援けと為すは、蹄涔の魚が江海を拯わんと冀むに何ぞ異ならん。夫れ蝮蛇手を螫せば則ち手を断ち、足を螫せば則ち足を断つは、誠に肌体を忍んで性命を救うなり。若し義を推してこれを行えば、身を割くの痛み無くして、家を保ち宗を寧んじ、長く安楽を守ることができる。これは智士の宜しく深く思い重ねて慮り、自ら多福を求むべき所である」。

道固は固守して降らなかったので、白曜は長囲を築いてこれを攻めた。長孫陵らが既に青州に至ると、沈文秀は使者を遣わして降伏を請うた。軍人がその西郭に入ると、頗る掠奪があったので、文秀はこれを悔い、遂に城を嬰ねて守りを拒んだ。二年、崔道固及び兗州刺史梁鄒の守将劉休賓はともに面縛して降った。白曜は皆これを釈放して礼を以て接した。道固・休賓及びその僚属を京師に送った。後に乃ち二城の民望を下館に徙し、朝廷は平斉郡を置き、懐寧・帰安の二県を以てこれらを居住させた。その余は悉く奴婢と為し、百官に分け賜った。白曜は軍旅に在りながらも、人物を接待するに寛和で礼有り。崇吉の母と妻、申纂の婦女を捕らえ、皆別営に安置し、士卒に諠雑させなかった。

乃ち東陽を進討した。冬、その西郭に入った。三年春、東陽を攻克し、沈文秀を擒らえた。凡そ倉粟八十五万斛、米三千斛、弓九千張、箭十八万八千、刀二万二千四百、甲冑各三千三百、銅五千斤、錢十五万を獲得した。城内の戸八千六百、口四万一千、呉蛮の戸三百余り。始めから終わりまで三年、囲みを築き攻撃し、日々兵を交え、士卒に死傷有りと雖も、怨叛する者は多くなかった。上土人の租絹を督して軍資と為し、侵苦に至らなかった。三斉は欣然として、安堵して楽業した。城を克した日、沈文秀が抗倨して拝礼しなかったので、忿って箠撻したが、ただこれをもって譏りを受けたのみである。功により使持節・ 都督 ととく 青斉東徐州諸軍事・開府儀同三司・青州刺史・済南王に拝され、将軍は元の如し。

四年冬、誅殺された。初め乙渾が権を専らにした時、白曜は頗るこれに侠附したので、この縁により追って責めと為された。誅殺されんとする時、謀反の罪を云われたが、時の論はこれを冤とした。

白曜の少子真安、年十一、父が捕らえられたと聞き、自殺しようとした。家人がこれを止めて言った、「軽重未だ知るべからず」。真安は言った、「王は位高く功重し、若し小罪有らば、終にここに至ることはない。我何ぞ父の死を見るに忍びん」。遂に自縊した。

白曜の弟如意もまた白曜に従って歴下を平定し、白曜とともに誅殺された。

太和の中、著作佐郎成淹が表を上って白曜の理を訴えた。

高祖は表を覧て、これを嘉み愍れんだ。

白曜の弟の子の契は、軽薄で行いを慎まぬ者であった。太和の初め、名家の子として抜擢されて中散となり、宰官に転じた。南安王楨に貪暴の評判があったため、中散の閭文祖を 長安 ちょうあん に派遣してこれを察させた。文祖は楨から金宝の賄賂を受け、楨のために隠して言わなかった。事が発覚し、これに連座した。文明太后が群臣を引見し、彼らに言うには、「以前に貪欲と清廉について論じた時、皆がよく修めていると言ったが、文祖もその時中にいた。後に結局法を犯した。これによって言えば、人の心は確かに知りがたいものである。」高祖は言った、「古には待放の臣もあり、また俗を離れた士もいた。卿ら自ら審らかにして貪心に勝てない者は、辞職して邸に帰ることを聴許する。」契が進み出て言った、「臣は卑微な小人、聞き識る所も遠からず、過分に曲がりなりにも照覧を受け、空しく令職を忝くしている。小人の心は定まるところなく、帝王の法は常なるものがある。恒なき心をもって、常なる法を奉ずることは、臣の克く堪えうる所ではありません。退免を垂れ賜わらんことを乞う。」高祖は言った、「昔、鄭の相は魚を好み、人が魚を献じた時、相は『もしこの魚を取れば、名と禄を削がれる恐れがある』と言い、遂に受けなかった。契がもし心が常ならざるを知るなら、即ち貪りの悪を知るはずである。何故退くことを求めるのか。」宰官令に転じ、微かに細事を好み、工作をよく知り、主司厨宰を務め、次第に知られるようになった。洛陽の基構を営み、新野・南陽を征して諸々の攻具を起こすに及んで、契は皆これに参与し典掌した。太和の末、功により太中大夫・光禄少卿・営州大中正に転じ、爵を定陶男に賜う。正始の初め、征虜将軍・営州刺史に除される。 都督 ととく 沃野・薄骨律二鎮諸軍事、沃野鎮将に転じ、さらに 都督 ととく 禦夷・懷荒二鎮諸軍事、 平城 へいじょう 鎮将に転じ、将軍は並びに元の如し。 都督 ととく 朔州・沃野懷朔武川三鎮三道諸軍事、後将軍、朔州刺史に転ずる。熙平元年に卒す。鎮北将軍・ へい 州刺史を追贈され、諡して克という。

初め、慕容氏が滅んだ後、その種族はなお繁栄していた。天賜の末、大いに忌み嫌ってこれを誅殺した。時に遺免された者があり、敢えて再び姓を名乗らず、皆「輿」を氏とした。延昌の末、詔して旧姓に復させたが、その子女で先に掖庭に入った者は、なお慕容と号し、特に他族より多かった。

契の長子の昇は、字を僧度という。建興太守となり、鎮遠将軍・沃野鎮将に転じ、征虜将軍の号を進められる。辺境の民情を大いに得た。

和の第二子の僧済は、奉朝請より次第に転じて五校に至る。酒色に耽溺し、名声と行いを事としなかった。

契の弟の暉は、涇州長史・新平太守を歴任し、恵みある政績があった。景明の中、大使の于忠が粟二百石を賞賜した。卒し、幽州刺史を追贈された。

孫の善は、儀同開府主簿であった。

【論】

史臣が言う。魏の諸将の中で、方面の功を立てた者は稀である。尉元は寛雅の風をもって将帥の任を受け、瑕丘を取ること掌を覆すが如く、彭城を克つこと遺物を拾うが如く、将を擒え敵を斬り、威名は遠くに及んだ。位は公老に極まり、聖主は言を乞うた。まさに近世の一人と言うべきではなかろうか。白曜には敦正の風があり、出でて征伐に当たり、三斉を席卷すること風の草を靡かすが如く、物に接するに礼をもってし、海辺は欣び慰んだ。その労苦は固より小さからざるものであった。功名は処し難く、追って猜疑を受け、戮に嬰る。賢を宥し勤を議するは、この日に聞こえなかった。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻50