魏書

卷49 李靈 崔鑒

卷49 李靈 崔鑒

李霊

原文李靈

李霊、字は虎符、趙郡の人、高平公李順の従父兄である。父の勰、字は小同、恬静にして学を好み、趙魏に名声があった。太祖が中原を平定した時、勰が既に亡くなったと聞き、哀惜して、宣威将軍・蘭陵太守を追贈した。神䴥年間、世祖が天下の才俊を徴し、霊が至ると、中書博士に拝し、侍郎に転じた。駕に従って江に臨み、淮陽太守を除かれた。霊は学優れて温謹なるをもって、高宗の経を授けるよう選ばれた。後に建威将軍・中散・内博士を加えられ、爵を高邑子と賜う。高宗が践祚すると、平南将軍・洛州刺史を除かれたが卒し、時に年六十三。帝はこれを追悼し、散騎常侍・平東将軍・定州刺史・鉅鹿公を追贈し、諡して簡といった。

原文李靈,字虎符,趙郡人,高平公順從父兄也。父勰,字小同,恬靜好學,有聲趙魏。太祖平中原,聞勰已亡,哀惜之,贈宣威將軍、蘭陵太守。神䴥中,世祖徵天下才儁,靈至,拜中書博士,轉侍郎。從駕臨江,除淮陽太守。靈以學優溫謹,選授高宗經。後加建威將軍、中散、內博士,賜爵高邑子。高宗踐受,除平南將軍、洛州刺史而卒,時年六十三。帝追悼之,贈散騎常侍、平東將軍、定州刺史,鉅鹿公,諡曰簡。

子の恢、子爵を襲う。高宗は恢が師傅の子であることをもって、員外散騎常侍・安西将軍・長安鎮副将に拝し、爵を侯に進め、仮に鉅鹿公とした。皇興元年、鎮軍大将軍・東平王の道符が謀反し、恢及び雍州刺史の魚玄明・雍州別駕の李允らを殺した。恢は時に年四十八。顕祖はこれを哀れみ、恢に散騎常侍・鎮西将軍・定州刺史・鉅鹿公を追贈し、諡して貞といった。

原文子恢,襲子爵。高宗以恢師傅之子,拜員外散騎常侍、安西將軍、長安鎮副將,進爵為侯,假鉅鹿公。皇興元年,鎮軍大將軍、東平王道符謀反,殺恢及雍州刺史魚玄明、雍州別駕李允等。恢時年四十八。顯祖愍之,追贈恢散騎常侍、鎮西將軍、定州刺史、鉅鹿公,諡曰貞。

恢の長子の悦祖、爵を高邑侯として襲い、例により伯に降せられた。卒す。

原文恢長子悅祖,襲爵高邑侯,例降為伯。卒。

子の瑾、字は伯瓊。太和年間、奉朝請に拝し、後に爵を襲う。司徒・広陽王元嘉の集曹参軍、太尉・高陽王元雍の長流参軍、太尉・清河王元懌の記室参軍に転じる。後に中堅将軍・歩兵校尉を除かれる。葛栄が河北で反し、所在で残害をなすと、詔して瑾に節を持たせ、吏部郎中・東北道弔慰大使を兼ねさせた。冀州に至り、葛栄の囲逼に値し、勅して瑾に防城都督を授けた。時に瑾は二子を自らに従わせ、次子は戦死したが、瑾は人情を動かすことを恐れ、哀しみを忍び泣くことを止めた。城は陥ち賊に没し、やがて走って免れた。永安初年、左将軍・太中大夫・殷州大中正に拝し、累遷して衛将軍・右光禄大夫・太尉諮議参軍となる。天平初年、車騎将軍・大司農卿を除かれ、中正はもとの如し。瑾は淳謹にして学を好み、老いて倦まず。元象元年秋に卒し、年六十五。使持節・都督定瀛殷三州諸軍事・驃騎大将軍・司徒公・定州刺史を追贈された。

原文子瑾,字伯瓊。太和中,拜奉朝請,後襲爵。轉司徒、廣陽王嘉集曹參軍,太尉、高陽王雍長流參軍,太尉、清河王懌記室參軍。後除中堅將軍、步兵校尉。葛榮反於河北,所在殘害,詔瑾持節兼吏部郎中、東北道弔慰大使。至冀州,值葛榮圍逼,敕授瑾防城都督。時瑾以二子自隨,次子戰死,瑾恐動人情,忍哀輟哭。城陷沒賊,既而走免。永安初,拜左將軍、太中大夫、殷州大中正,累遷衞將軍、右光祿大夫、太尉諮議參軍。天平初,除車騎將軍、大司農卿,中正如故。瑾淳謹好學,老而不倦。元象元年秋卒,年六十五。贈使持節、都督定瀛殷三州諸軍事、驃騎大將軍、司徒公、定州刺史。

子の景威、襲う。武定末、西汝陰太守。斉が禅を受けると、爵は例により降せられた。

原文子景威,襲。武定末,西汝陰太守。齊受禪,爵例降。

悦祖の弟の顕甫、本州の別駕、歩兵校尉に遷る。駕に従って南討し、功により爵を平棘子と賜い、并州の事を行なう。まもなく河北太守を除かれる。卒し、顕武将軍・安州刺史を追贈され、諡して威といった。

原文悅祖弟顯甫,本州別駕,遷步兵校尉。從駕南討,以功賜爵平棘子,行并州事。尋除河北太守。卒,贈顯武將軍、安州刺史,諡曰威。

子の元忠、武定年間、驃騎大将軍・儀同三司・晋陽県開国伯。

原文子元忠,武定中,驃騎大將軍、儀同三司、晉陽縣開國伯。

子の搔、武定末、河内太守。

原文子搔,武定末,河內太守。

顕甫の次弟の華、字は寧夏。初め羽林中郎・武騎侍郎・歩兵校尉となり、直閤将軍・武衛将軍に転じる。華は膂力人に過ぎ、頗る将略あり、征伐に従うごとに、頻りに軍功を著す。爵を欒城子と賜い、定州驃騎長史・輔国将軍・中山太守となる。卒し、前将軍・幽州刺史を追贈された。八子あり。

原文顯甫次弟華,字寧夏。初為羽林中郎、武騎侍郎、步兵校尉,轉直閤將軍、武衞將軍。華膂力過人,頗有將略,每從征伐,頻著軍功。賜爵欒城子,定州驃騎長史、輔國將軍、中山太守。卒,贈前將軍、幽州刺史。有八子。

長子の構、爵を襲い、通直散騎常侍に至る。卒し、殷州刺史を追贈される。

原文長子構,襲爵,至通直散騎常侍。卒,贈殷州刺史。

次ぎの敬義、司徒長流参軍・兼光禄少卿・平北将軍・光禄大夫。卒し、本将軍・殷州刺史を追贈される。

原文次敬義,司徒長流參軍、兼光祿少卿、平北將軍、光祿大夫。卒,贈本將軍、殷州刺史。

次ぎの叔向、徐州鎧曹参軍となり、郭浦戍主を帯びる。刺史の元法僧が叛するに値し、蕭衍に逼入される。

原文次叔向,為徐州鎧曹參軍,帶郭浦戍主。值刺史元法僧叛,逼入蕭衍。

次ぎの幼緒、早く亡くなる。

原文次幼緒,早亡。

次ぎの季脩、博陵・常山二郡太守。

原文次季脩,博陵、常山二郡太守。

次に世幹、次に稚明、兄弟ともに名行を修めず、険暴で礼を欠き、当時の人々に賤しめられた。

原文次世幹,次稚明,兄弟並不修名行,險暴無禮,為時所賤。

華の弟の憑は、字を青龍という。秘書主文中散となり、累進して冀州征東長史・太子中舎人となった。趙脩に阿附し、超遷して司空長史・給事黄門侍郎・武衛将軍・定州大中正となった。脩の党与に連座して免官された。後に趙郡太守に任じられた。卒去した。

原文華弟憑,字青龍。祕書主文中散,累遷冀州征東長史、太子中舍人。阿附趙脩,超遷司空長史、給事黃門侍郎、武衞將軍、定州大中正。坐脩黨免官。後除趙郡太守。卒。

子の道嘉は、字を同吉という。豫州外兵参軍・汝陽太守となった。

原文子道嘉,字同吉。豫州外兵參軍、汝陽太守。

同吉の弟の文衡は、開府行参軍となった。

原文同吉弟文衡,開府行參軍。

恢の弟の綜は、河間郡を行い、早世した。

原文恢弟綜,行河間郡,早卒。

綜の子の遵は、字を良軌といい、業尚があった。初め奉朝請・尚書度支郎に拝された。遷都に際し、営構将となった。高祖の南伐に際し、行台郎となった。車駕が還ると、太子歩兵校尉に拝された。世宗の初め、歩兵校尉に転じ、散騎侍郎を兼ねて盧昶の東北道使の副となった。司空諮議に拝され、中壘将軍を加えられた。京兆王愉が征東将軍として冀州刺史となると、遵は愉の府司馬となった。愉が反乱を起こし、州府の者を召集して告げたが、遵は従わず、愉に害せられた。時に四十四歳であった。事が平定されると、詔により帛二百匹を賜り、征虜将軍・幽州刺史を追贈され、諡を簡といった。子の渾に給事中を拝させた。

原文綜子遵,字良軌,有業尚。初拜奉朝請、尚書度支郎。遷洛,為營構將。高祖南伐,為行臺郎。車駕還,拜太子步兵校尉。世宗初,轉步兵校尉,兼散騎侍郎副盧昶東北道使。拜司空諮議,加中壘將軍。京兆王愉以征東將軍為冀州刺史,遵為愉府司馬。愉反,召集州府以告之,遵不從,為愉所害。時年四十四。事平,詔賜帛二百匹,贈征虜將軍、幽州刺史,諡曰簡,拜子渾給事中。

渾は、字を季初という。武定の末、大司農卿となった。

原文渾,字季初。武定末,大司農卿。

渾の弟の絵は、字を敬文という。斉王丞相府司馬となった。

原文渾弟繪,字敬文。齊王丞相府司馬。

絵の弟の系は、字を乾経という。幼少より聡明で才学があり、舅の子の河間の邢昕と年少時は互角であったが、後には及ばなかった。初め征東法曹参軍となり、後に奉車都尉に任じられ、寧遠将軍を加えられた。まもなく大司馬広陵王録事参軍に拝された。府が解かれると、郷里に帰った。冠軍将軍・中散大夫に徴されて拝された。斉の献武王の従子の永楽が済州刺史となった時、これを聞いて面会を請い、賓客の礼をもって遇した。永楽が薨じると、系は葬送して都に還った。蕭衍が使者を遣わして朝貢すると、侍中の李神儁が系を推挙して尚書南主客郎とした。系は前後十八人の使者に対応し、よく職務を果たした。斉の文襄王が選挙を摂ると、系を司徒諮議参軍とし、これに対して言った、「郎署よりここに至るは、いわゆる次を超えたもので、卿の人才によるゆえにこの挙があるのだ」。まもなく征虜将軍を加えられた。武定五年、散騎常侍を兼ねて蕭衍に使いし、二人の兄に前後して命を奉じたので、当時の人々はこれを称えた。太尉の高岳が出討するに際し、系を大都督司馬とした。軍が還ると、太子家令に拝された。七年八月に卒去し、時に四十六歳、当時の人々はこれを傷み惜しんだ。斉の初め、平東将軍・北徐州刺史を追贈され、諡を文といった。

原文繪弟系,字乾經。少聰惠,有才學,與舅子河間邢昕少相倫輩,晚不逮之。初為征東法曹參軍,後除奉車都尉,加寧遠將軍。尋拜大司馬廣陵王錄事參軍。府解,還鄉里。徵拜冠軍將軍、中散大夫。齊獻武王從子永樂為濟州刺史,聞而請與相見,待以賓交之禮。及永樂薨,系送葬還都。蕭衍遣使朝貢,侍中李神儁舉系為尚書南主客郎。系前後接對凡十八人,頗為稱職。齊文襄王攝選,以系為司徒諮議參軍,因謂之曰:「自郎署至此,所謂不次,以卿人才,故有此舉耳。」尋加征虜將軍。武定五年,兼散騎常侍使蕭衍,與其二兄前後將命,時人稱之。太尉高岳出討,以系為大都督司馬。師還,拜太子家令。七年八月卒,時年四十六,時人傷惜之。齊初,贈平東將軍、北徐州刺史,諡曰文。

霊の弟の均は、趙郡太守となった。

原文靈弟均,趙郡太守。

均の子の璨は、字を世顕という。身長八尺五寸、容姿魁偉であった。梁祚に学んだ。興安年間、秘書中散・本州別駕となり、趙郡・常山二郡太守に転じた。中書郎に遷り、高允に大いに知られた。天安の初め、劉彧の徐州刺史薛安都が彭城を挙げて降ったので、詔により鎮南大将軍・博陵公の尉元、鎮東将軍・城陽公の孔伯恭らに命じて軍を率いてこれを迎えさせた。顕祖はまた璨を二府の軍事に参じさせた。軍が九里山に達すると、安都は文武を率いて出迎えたが、元は礼遇しなかった。安都は城に戻り、使者を遂に遣わさなかった。時に劉彧の将の張永・沈攸之らが軍を率いて先に下礚に屯しており、元は璨と中書郎の高閭に命じて彭城に入り安都を説得させた。安都は即座にともに車に乗って軍に赴いた。元らは城に入り、管籥を収めた。その夜、永が南門を攻めたが陥とせず、退却した。時に永の輜重は武原にあり、璨は元に勧めて永の拠り所を失った隙に乗じ、永の米船を攻撃させ、これを大破し、数千級を斬首した。時に大雪が降り寒く、永の軍で凍死する者は万を数え、ここに淮北を平定した。璨に寧朔将軍を加え、張讜と対となって兗州刺史とし、初めて帰附した者を綏安した。徐州平定の功に参じたことにより、始豊侯の爵を賜り、建武将軍を加えられた。延興元年、四十歳で卒去し、諡を懿といった。

原文均子璨,字世顯。身長八尺五寸,衣貌魁偉。受學於梁祚。興安中,為祕書中散、本州別駕,轉趙郡、常山二郡太守。遷中書郎,雅為高允所知。天安初,劉彧徐州刺史薛安都舉彭城降,詔鎮南大將軍、博陵公尉元,鎮東將軍、城陽公孔伯恭等率眾迎之。顯祖復以璨參二府軍事。軍達九里山,安都率文武出迎,元不加禮接。安都還城,使遂不至。時劉彧將張永、沈攸之等率眾先屯下礚,元令璨與中書郎高閭入彭城說安都,安都即與俱載赴軍。元等入城,收管籥。其夜,永攻南門不克,退還。時永輜重在武原,璨勸元乘永之失據,攻永米船,大破之,斬首數千級。時大雪寒,永軍凍死者萬計,於是遂定淮北。加璨寧朔將軍,與張讜對為兗州刺史,綏安初附。以參定徐州之功,賜爵始豐侯,加建武將軍。延興元年,年四十,卒,諡曰懿。

子の元茂は、太和八年に爵を襲った。建武将軍を加えられた。寛雅をもって著称した。(欠文)また例により降格された。司徒司馬に拝され、まもなく振威将軍・南征別将・彭城鎮副将に任じられ、民吏はこれを安んじた。帛百匹・穀二百斛を賞された。太和二十年、四十四歳で卒去し、顕武将軍・徐州刺史を追贈され、諡を順といった。

原文子元茂,太和八年襲爵。加建武將軍。以寬雅著稱。〈闕〉又例降。拜司徒司馬,尋除振威將軍、南征別將、彭城鎮副將,民吏安之。賞帛百匹、穀二百斛。太和二十年,年四十四,卒,贈顯武將軍、徐州刺史,諡曰順。

子の秀之は、字を鳳起という。初め京兆王参軍に任じられ、員外散騎侍郎に転じた。爵を襲い、尚書都官郎に拝された。

原文子秀之,字鳳起。初除京兆王參軍,轉員外散騎侍郎。襲爵,拜尚書都官郎。

秀之の弟の子雲は、字を鳳昇という。司空参軍となり、外兵参軍・本州治中に転じた。

原文秀之弟子雲,字鳳昇。司空參軍,轉外兵參軍、本州治中。

子雲の弟の子羽は、字を鳳降という。征南法曹参軍となった。

原文子雲弟子羽,字鳳降。征南法曹參軍。

子羽の弟の子岳、字は鳳跱。員外郎・大司馬祭酒を歴任した。秀之らは早く孤児となり、母に仕えて孝行で慎み深く、兄弟ともに容貌魁偉で、風度は審らかで正しく、しかし皆早世した。

原文子羽弟子岳,字鳳跱。員外郎、大司馬祭酒。秀之等早孤,事母孝謹,兄弟並容貌魁偉,風度審正,而皆早卒。

鳳昇の子道宗、武定の末年に直閤将軍となった。

原文鳳昇子道宗,武定末,直閤將軍。

道宗の弟道林、司徒中兵参軍となった。

原文道宗弟道林,司徒中兵參軍。

元茂の弟宣茂、太和の初年に中書博士に任ぜられた。やがて司空諮議に遷り、司馬に転じ、営構事を監督した。出て寧朔将軍となり、試みに正平郡を守ったが、拝命しなかった。定州大中正を兼ねた。郷人の財貨を受け取った罪で、御史に弾劾され、除名されて民とされた。従駕して新野を征し、また樊鄧を討つに従った。持節・兼散騎常侍・東南二道使となった。景明年間に平陽太守に任ぜられ、罪により左遷されて歩兵校尉となった。正始の初年に太中大夫に任ぜられ、光禄大夫に遷った。宣茂は明堂の制について議論し、五室を良しとし、游肇と往復して論じたが、肇はこれを善しとした。平東将軍・幽州刺史に遷った。延昌二年に卒し、五十九歳であった。遺言して薄葬を命じた。本将軍・齊州刺史を追贈され、諡して惠といった。

原文元茂弟宣茂,太和初,拜中書博士。稍遷司空諮議,轉司馬,監營構事。出除寧朔將軍,試守正平郡,不拜。兼定州大中正。坐受鄉人財貨,為御史所劾,除名為民。從駕征新野,又從討樊鄧。持節、兼散騎常侍、東南二道使。景明中,除平陽太守,以罪左遷步兵校尉。正始初,除太中大夫,遷光祿大夫。宣茂議明堂之制,以五室為長,與游肇往復,肇善之。遷平東將軍、幽州刺史。延昌二年卒,年五十九。遺言薄葬。贈本將軍、齊州刺史,諡曰惠。

子の藉之、字は脩遠。性質は謹厳で正しく、書史に粗く通じた。員外郎・給事中・司徒諮議参軍・前将軍・太中大夫を歴任した。忠誥一篇を著したが、文は多く載せない。永熙の初年に卒し、五十四歳であった。中軍将軍・定州刺史を追贈された。

原文子藉之,字脩遠。性謹正,粗涉書史。歷員外郎、給事中、司徒諮議參軍、前將軍、太中大夫。著忠誥一篇,文多不載。永熙初卒,年五十四。贈中軍將軍、定州刺史。

子の徹、字は伯倫。武定の末年に司空主簿となった。

原文子徹,字伯倫。武定末,司空主簿。

藉之の弟の志、字は敬遠、気概と節操があった。州主簿となった。

原文藉之弟志,字敬遠,有氣尚。州主簿。

子の長瑜、郡功曹となった。

原文子長瑜,郡功曹。

敬遠の弟の幼遠、性質は粗暴で、しばしば劫盗を働き、刺史が捕らえてこれを殺した。

原文敬遠弟幼遠,性粗暴,每為劫盜,刺史錄殺之。

宣茂の弟の叔胤、秀才に挙げられ、著作佐郎となった。広陵王諮議・南趙郡太守を歴任した。在位九年、政績があった。景明三年に卒し、三十六歳であった。諡して惠といった。

原文宣茂弟叔胤,舉秀才,著作佐郎。歷廣陵王諮議、南趙郡太守。在位九載,有政績。景明三年卒,年三十六。諡曰惠。

子の弼、字は延軌。位は相州録事参軍に至った。

原文子弼,字延軌。位至相州錄事參軍。

弼の弟の翼、字は景業。初め盪寇将軍・斎帥となった。また員外郎に任ぜられ、尚書郎に遷り、引き続き斎帥を務めた。建義の初め、河陰で害に遇った。平北将軍・定州刺史を追贈された。

原文弼弟翼,字景業。初為盪寇將軍、齋帥。又除員外郎,遷尚書郎,仍齋帥。建義初,遇害河陰。贈平北將軍、定州刺史。

叔胤の弟の仲胤、中書学生より出て、公府主簿・従事中郎・諫議大夫・尚書左丞を歴任した。卒し、帛百匹・布五十匹・綿五十斤を賜り、鎮遠将軍・光州刺史を追贈され、諡して恭といった。

原文叔胤弟仲胤,自中書學生,歷公府主簿、從事中郎、諫議大夫、尚書左丞。卒,賜帛一百匹、布五十匹、綿五十斤,贈鎮遠將軍、光州刺史,諡曰恭。

末子の子仁、尚書主客郎となった。

原文少子子仁,尚書主客郎。

崔鑒

原文崔鑒

崔鑒は、字を神具といい、博陵郡安平県の人である。父の綽は、幼くして孤児となり、学問と行いを修め明らかにし、世に名を知られた。盧玄・高允・李霊らとともに召し出され、その話は允伝にある。まもなく母が年老いていることを理由に固辞し、後に郡の功曹となって卒した。鑒は文学に優れ、中書博士から侍郎に転じた。延興年間に詔を受けて斉州に使いし、風俗を観察し、兗州の事務を行った。功により桐廬県子の爵位を賜った。奮威将軍・東徐州刺史として出向した。鑒は新たに帰附した者を安んじ喜ばせようとし、民の中に年老いた者がいれば、守・令の官職を仮に授けるよう上表し、詔はこれに従った。また州内で銅を鋳造して農具とし、兵民に利益を得させた。卒し、冠軍将軍・青州刺史・安平侯を追贈され、諡を康といった。

原文崔鑒,字神具,博陵安平人。父綽,少孤,學行修明,有名於世。與盧玄、高允、李靈等俱被徵,語在允傳。尋以母老固辭,後為郡功曹而卒。鑒頗有文學,自中書博士轉侍郎。延興中受詔使齊州,觀省風俗,行兗州事。以功賜爵桐廬縣子。出為奮威將軍、東徐州刺史。鑒欲安悅新附,民有年老者,表求假以守、令,詔從之。又於州內冶銅以為農具,兵民獲利。卒,贈冠軍將軍、青州刺史、安平侯,諡曰康。

子の合は、字を貴和といい、若くして時誉があった。桐廬子の爵位を襲い、中書学生・主文中散・太尉諮議参軍・本州大中正となった。常山太守として出向し、郡において卒した。時に二十七歳。

原文子合,字貴和,少有時譽。襲爵桐廬子,為中書學生、主文中散、太尉諮議參軍、本州大中正。出為常山太守,卒於郡,時年二十七。

長子の脩義は、風望があり、爵位を襲いだ。司徒默曹参軍から再び寧遠将軍・新野太守に昇進した。都に戻り、太尉掾に任ぜられ、冀州征東府長史として出向した。卒し、四十五歳。

原文長子脩義,有風望,襲爵。自司徒默曹參軍再遷寧遠將軍、新野太守。還,除太尉掾,出為冀州征東府長史。卒,年四十五。

長子の放寬は、爵位を襲いだ。斉が禅譲を受けると、例により降格された。

原文長子放寬,襲爵。齊受禪,例降。

合の弟の秉は、若くして志気があった。太和年間、中書学生となり、奉朝請に任ぜられ、徐州安東府録事参軍に転じた。陽平王頤が定州となると、秉は再び衛軍府録事参軍となり、毋極県令を兼ねた。時に甄琛が長史であり、公事の議論の間に、秉は拳で琛を殴り、床下に墜落させた。琛は彼が本県の長であるため、笑って論じなかった。その豪放な率直さはこのようなものであった。

原文合弟秉,少有志氣。太和中,為中書學生,拜奉朝請,轉徐州安東府錄事參軍。陽平王頤之為定州,秉復為衞軍府錄事參軍,帶毋極令。時甄琛為長史,因公事言競之間,秉以拳擊琛,墜於牀下。琛以本縣長,笑而不論。其豪率若此。

彭城王勰が寿春を征討した時、秉は従軍し、壮侠を招き寄せ、部卒とした。勰は彼を見て、左右に言った、「我は胆気をこの人に託そう」。後に司空主簿となり、掾・城門校尉・長兼司空司馬に転じた。長史に昇進し、輔国将軍を加えられた。左将軍・広平内史として出向し、多額の財貨を受け取り、清論に蔑まれた。都に入り司徒左長史となった。間もなく平東将軍・光禄大夫に任ぜられた。まもなく安西将軍を加えられ、燕州刺史として出向した。時に天下は多事であり、ついに杜洛周に攻囲された。秉は一年余り堅守し、朝廷は都督元譚と秉の第二子仲哲を派遣して救援に向かわせた。譚は敗れ、仲哲は戦死した。秉はついに城民を率いて定州に奔り、官を免ぜられた。まもなく撫軍将軍に任ぜられ、相州の事務を行い、征東将軍・金紫光禄大夫に転じた。

原文彭城王勰征壽春,秉從行,招致壯俠,以為部卒。勰目之,謂左右曰:「吾當寄膽氣於此人。」後為司空主簿,轉掾、城門校尉、長兼司空司馬。遷長史,加輔國將軍。出除左將軍、廣平內史,大納財貨,為清論所鄙。入為司徒左長史。未幾,除平東將軍、光祿大夫。尋加安西將軍,出除燕州刺史。時天下多事,遂為杜洛周攻圍。秉堅守歷年,朝庭遣都督元譚與秉第二子仲哲赴救。譚敗,仲哲死之。秉遂率城民奔定州,坐免官。尋除撫軍將軍,行相州事,轉征東將軍、金紫光祿大夫。

孝昌末年、冀州の流民が黄河の外に集まり、それにより東冀州が立てられ、秉が刺史に任ぜられ、征東将軍を加えられた。赴任しなかった。永安二年、衛将軍・右光禄大夫に転じた。秉は年老いて病に罹り、上表して職務を辞したが、詔は許さなかった。元顥が洛陽に入ると、秉は陽武に避居した。二年、散騎常侍・車騎将軍・左光禄大夫に任ぜられた。太昌年間、驃騎大将軍・儀同三司に任ぜられ、常侍・左光禄はもとのままとした。たびたび老病を理由に解任を乞うた。永熙三年に職を去った。天平四年に薨去、七十八歳。使持節・侍中・都督定瀛滄三州諸軍事・本将軍・尚書令・司徒公・定州刺史を追贈され、諡を靖穆といった。

原文孝昌末,冀州流民聚於河外,因立東冀州,除秉為刺史,加征東將軍。不之任。永安二年,遷衞將軍、右光祿大夫。秉年老被疾,上表辭事,詔不許。元顥入洛,秉避居陽武。二年,除散騎常侍、車騎將軍、左光祿大夫。太昌中,除驃騎大將軍、儀同三司,常侍、左光祿如故。頻以老病乞解。永熙三年去職。天平四年薨,年七十八。贈使持節、侍中、都督定瀛滄三州諸軍事、本將軍、尚書令、司徒公、定州刺史,諡曰靖穆。

長子の忻は、字を伯悅といい、世務の才幹があった。荊州平南府外兵参軍となった。北道行臺常景が行臺郎に引き抜き、また上啓して員外郎に任ぜられ、さらに安遠将軍・尚書左中兵郎中となった。鄭儼の甥であるため、尚書左丞を兼ねた。荊帝の初め、河陰において害に遭い、四十二歳。鎮軍将軍・殿中尚書・冀州刺史を追贈された。

原文長子忻,字伯悅,有世幹。為荊州平南府外兵參軍。北道行臺常景引為行臺郎,又啟除員外郎,復為安遠將軍、尚書左中兵郎中。以鄭儼之甥,兼尚書左丞。莊帝初,遇害於河陰,年四十二。贈鎮軍將軍、殿中尚書、冀州刺史。

忻の弟の仲哲。生まれて祖母の宋氏に養われ、早くから物事を理解し、六歳で宋が亡くなると、泣き慕って止まず、見る者を悲しませた。性格は寛大で、常に将帥の謀略を自任した。司徒行参軍に辟召された。仮の寧朔将軍・統軍となり、広陽王淵に従って北討し、柔玄の賊を撃ち破り、安平県男の爵位を賜った。父の秉が燕州で包囲された時、朝廷に泣き訴え、ついに別将に任ぜられ、都督元譚とともに救援に向かった。下口に到着し、賊と遭遇し、仲哲は戦死した。時に三十五歳。

原文忻弟仲哲。生為祖母宋氏所養,早有知識,六歲宋亡,啼慕不止,見者悲之。性恢達,常以將略自許。辟司徒行參軍。假寧朔將軍、統軍,從廣陽王淵北討,擊柔玄賊,破之,賜爵安平縣男。及父秉於燕州被圍,泣訴朝庭,遂除別將,與都督元譚赴援。到下口,遇賊,仲哲戰歿,時年三十五。

長子の長瑜、武定年間、儀同開府中兵参軍。

原文長子長瑜,武定中,儀同開府中兵參軍。

長瑜の弟の叔瓚、司徒田曹参軍。

原文長瑜弟叔瓚,司徒田曹參軍。

仲哲の弟の叔彦、撫軍将軍。

原文仲哲弟叔彥,撫軍將軍。

叔彦の弟の季通、武定年間、司農少卿を兼ねた。

原文叔彥弟季通,武定中,兼司農少卿。

季通の末弟の季良、風望は閑雅であった。太学博士から都督李神軌に従って征討し功があり、蒲陰県男の爵位を賜った。まもなく著作佐郎・通直散騎侍郎に任ぜられ、征虜将軍・員外散騎常侍・太尉長史に転じた。秉が郷里に帰ると、季良もまた職を去り帰養した。後に中軍将軍・光禄大夫に任ぜられた。秉に先立って家で卒し、時に三十六歳。車騎将軍・尚書右僕射・定州刺史を追贈され、諡を簡といった。

原文季通小弟季良,風望閑雅。自太學博士從都督李神軌征討有功,賜爵蒲陰縣男。尋除著作佐郎、通直散騎侍郎,轉征虜將軍、員外散騎常侍、太尉長史。及秉還鄉,季良亦去職歸養。後除中軍將軍、光祿大夫。先秉卒於家,時年三十六。贈車騎將軍、尚書右僕射、定州刺史,諡曰簡。

秉の弟の習は、字を貴礼といい、世の称誉があった。司徒主簿・彭城王勰開府属を歴任した。幽州長史・博陵太守に昇進し、吏民に愛敬された。郡に九年在任し、河東太守に転じ、郡において卒した。五十一歳。中山太守を追贈された。孝昌三年、後将軍・并州刺史を重ねて追贈された。

原文秉弟習,字貴禮,有世譽。歷司徒主簿、彭城王勰開府屬。遷幽州長史、博陵太守,吏民愛敬之。在郡九年,轉河東太守,卒於郡,年五十一。贈中山太守。孝昌三年,重贈後將軍、并州刺史。

長子の世儒は、字を希業という。大司馬従事中郎の任に在る時に卒した。

原文長子世儒,字希業。卒於大司馬從事中郎。

世儒の三番目の弟の叔業は、武定年間に南兗州別駕となった。

原文世儒第三弟叔業,武定中,南兗州別駕。

秉の従父弟の広は、字を仲慶といい、議論の才幹があった。初め中書学生となった。高祖の時、殿中郎中となり、通直散騎侍郎・太子歩兵校尉を歴任した。詔により尚書左丞を守り、父の喪により職を去った。後に任城王澄が揚州刺史となった時、広を鎮南府長史に引き立てようとしたが、母が老齢であることを理由に辞退した。景明の末、家で卒した。安遠将軍・光州刺史を追贈された。

原文秉從父弟廣,字仲慶,有議幹。初為中書學生。高祖時,殿中郎中,歷通直散騎侍郎、太子步兵校尉。詔守尚書左丞,父憂去職。後任城王澄為揚州,引廣為鎮南府長史,以母老辭。景明末,卒於家。贈安遠將軍、光州刺史。

子の元献は、字を世儁といい、かなり学識があった。秀才に挙げられたが、応じなかった。後に郷里で卒した。

原文子元獻,字世儁,頗有學識。舉秀才,不行。後卒於鄉里。

広の弟の文業は、中書博士となり、司徒主簿に転じた。城陽王鸞が定州刺史となった時、治中に引き立てた。四十九歳で卒した。子の伯謙は、武定の末、司空諮議参軍となった。

原文廣弟文業,為中書博士,轉司徒主簿。城陽王鸞為定州刺史,引為治中。年四十九卒。子伯謙,武定末,司空諮議參軍。