巻49

李霊

李霊、 あざな は虎符、趙郡の人、高平公李順の従父兄である。父の勰、字は小同、恬静にして学を好み、趙魏に名声があった。太祖が 中原 ちゅうげん を平定した時、勰が既に亡くなったと聞き、哀惜して、宣威将軍・蘭陵太守を追贈した。神䴥年間、世祖が天下の才俊を徴し、霊が至ると、 中書 ちゅうしょ 博士に拝し、侍郎に転じた。駕に従って江に臨み、淮陽太守を除かれた。霊は学優れて温謹なるをもって、高宗の経を授けるよう選ばれた。後に建威将軍・中散・内博士を加えられ、爵を高邑子と賜う。高宗が 践祚 せんそ すると、平南将軍・洛州 刺史 しし を除かれたが卒し、時に年六十三。帝はこれを追悼し、 散騎常侍 さんきじょうじ ・平東将軍・定州刺史・鉅鹿公を追贈し、 おくりな して簡といった。

子の恢、子爵を襲う。高宗は恢が師傅の子であることをもって、員外 散騎常侍 さんきじょうじ ・安西将軍・ 長安 ちょうあん 鎮副将に拝し、爵を侯に進め、仮に鉅鹿公とした。皇興元年、鎮軍大将軍・東平王の道符が謀反し、恢及び雍州刺史の魚玄明・雍州別駕の李允らを殺した。恢は時に年四十八。顕祖はこれを哀れみ、恢に 散騎常侍 さんきじょうじ ・鎮西将軍・定州刺史・鉅鹿公を追贈し、諡して貞といった。

恢の長子の悦祖、爵を高邑侯として襲い、例により伯に降せられた。卒す。

子の瑾、字は伯瓊。太和年間、奉朝請に拝し、後に爵を襲う。 司徒 しと ・広陽王元嘉の集曹参軍、 太尉 たいい ・高陽王元雍の長流参軍、太尉・清河王元懌の記室参軍に転じる。後に中堅将軍・歩兵 校尉 こうい を除かれる。葛栄が河北で反し、所在で残害をなすと、詔して瑾に節を持たせ、吏部郎中・東北道弔慰大使を兼ねさせた。冀州に至り、葛栄の囲逼に値し、勅して瑾に防城 都督 ととく を授けた。時に瑾は二子を自らに従わせ、次子は戦死したが、瑾は人情を動かすことを恐れ、哀しみを忍び泣くことを止めた。城は陥ち賊に没し、やがて走って免れた。永安初年、左将軍・太中大夫・殷州大中正に拝し、累遷して衛将軍・右光禄大夫・太尉諮議参軍となる。天平初年、車騎将軍・大司農卿を除かれ、中正はもとの如し。瑾は淳謹にして学を好み、老いて倦まず。元象元年秋に卒し、年六十五。使持節・ 都督 ととく 定瀛殷三州諸軍事・驃騎大将軍・ 司徒 しと 公・定州刺史を追贈された。

子の景威、襲う。武定末、西汝陰太守。斉が禅を受けると、爵は例により降せられた。

悦祖の弟の顕甫、本州の別駕、歩兵 校尉 こうい に遷る。駕に従って南討し、功により爵を平棘子と賜い、 并州 へいしゅう の事を行なう。まもなく河北太守を除かれる。卒し、顕武将軍・安州刺史を追贈され、諡して威といった。

子の元忠、武定年間、驃騎大将軍・儀同三司・ 晋陽 しんよう 県開国伯。

子の搔、武定末、河内太守。

顕甫の次弟の華、字は寧夏。初め羽林中郎・武騎侍郎・歩兵 校尉 こうい となり、直閤将軍・武衛将軍に転じる。華は膂力人に過ぎ、頗る将略あり、征伐に従うごとに、頻りに軍功を著す。爵を欒城子と賜い、定州驃騎長史・輔国将軍・中山太守となる。卒し、前将軍・幽州刺史を追贈された。八子あり。

長子の構、爵を襲い、通直 散騎常侍 さんきじょうじ に至る。卒し、殷州刺史を追贈される。

次ぎの敬義、 司徒 しと 長流参軍・兼光禄少卿・平北将軍・光禄大夫。卒し、本将軍・殷州刺史を追贈される。

次ぎの叔向、徐州鎧曹参軍となり、郭浦戍主を帯びる。刺史の元法僧が叛するに値し、蕭衍に逼入される。

次ぎの幼緒、早く亡くなる。

次ぎの季脩、博陵・常山二郡太守。

次に世幹、次に稚明、兄弟ともに名行を修めず、険暴で礼を欠き、当時の人々に賤しめられた。

華の弟の憑は、字を青龍という。秘書主文中散となり、累進して冀州征東長史・太子中舎人となった。趙脩に阿附し、超遷して 司空 しくう 長史・給事黄門侍郎・武衛将軍・定州大中正となった。脩の党与に連座して免官された。後に趙郡太守に任じられた。卒去した。

子の道嘉は、字を同吉という。 州外兵参軍・汝陽太守となった。

同吉の弟の文衡は、開府行参軍となった。

恢の弟の綜は、河間郡を行い、早世した。

綜の子の遵は、字を良軌といい、業尚があった。初め奉朝請・ 尚書 しょうしょ 度支郎に拝された。遷都に際し、営構将となった。高祖の南伐に際し、行台郎となった。車駕が還ると、太子歩兵 校尉 こうい に拝された。世宗の初め、歩兵 校尉 こうい に転じ、散騎侍郎を兼ねて盧昶の東北道使の副となった。 司空 しくう 諮議に拝され、中壘将軍を加えられた。京兆王愉が征東将軍として冀州刺史となると、遵は愉の府司馬となった。愉が反乱を起こし、州府の者を召集して告げたが、遵は従わず、愉に害せられた。時に四十四歳であった。事が平定されると、詔により帛二百匹を賜り、征虜将軍・幽州刺史を追贈され、諡を簡といった。子の渾に給事中を拝させた。

渾は、字を季初という。武定の末、大司農卿となった。

渾の弟の絵は、字を敬文という。斉王丞相府司馬となった。

絵の弟の系は、字を乾経という。幼少より聡明で才学があり、舅の子の河間の邢昕と年少時は互角であったが、後には及ばなかった。初め征東法曹参軍となり、後に奉車都尉に任じられ、寧遠将軍を加えられた。まもなく大司馬広陵王録事参軍に拝された。府が解かれると、郷里に帰った。冠軍将軍・中散大夫に徴されて拝された。斉の献武王の従子の永楽が済州刺史となった時、これを聞いて面会を請い、賓客の礼をもって遇した。永楽が薨じると、系は葬送して都に還った。蕭衍が使者を遣わして朝貢すると、 侍中 じちゅう の李神儁が系を推挙して尚書南主客郎とした。系は前後十八人の使者に対応し、よく職務を果たした。斉の文襄王が選挙を摂ると、系を 司徒 しと 諮議参軍とし、これに対して言った、「郎署よりここに至るは、いわゆる次を超えたもので、卿の人才によるゆえにこの挙があるのだ」。まもなく征虜将軍を加えられた。武定五年、 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ねて蕭衍に使いし、二人の兄に前後して命を奉じたので、当時の人々はこれを称えた。太尉の高岳が出討するに際し、系を大 都督 ととく 司馬とした。軍が還ると、太子家令に拝された。七年八月に卒去し、時に四十六歳、当時の人々はこれを傷み惜しんだ。斉の初め、平東将軍・北徐州刺史を追贈され、諡を文といった。

霊の弟の均は、趙郡太守となった。

均の子の璨は、字を世顕という。身長八尺五寸、容姿魁偉であった。梁祚に学んだ。興安年間、秘書中散・本州別駕となり、趙郡・常山二郡太守に転じた。中書郎に遷り、高允に大いに知られた。天安の初め、劉彧の徐州刺史薛安都が彭城を挙げて降ったので、詔により鎮南大将軍・博陵公の尉元、鎮東将軍・城陽公の孔伯恭らに命じて軍を率いてこれを迎えさせた。顕祖はまた璨を二府の軍事に参じさせた。軍が九里山に達すると、安都は文武を率いて出迎えたが、元は礼遇しなかった。安都は城に戻り、使者を遂に遣わさなかった。時に劉彧の将の張永・沈攸之らが軍を率いて先に下礚に屯しており、元は璨と中書郎の高閭に命じて彭城に入り安都を説得させた。安都は即座にともに車に乗って軍に赴いた。元らは城に入り、管籥を収めた。その夜、永が南門を攻めたが陥とせず、退却した。時に永の輜重は武原にあり、璨は元に勧めて永の拠り所を失った隙に乗じ、永の米船を攻撃させ、これを大破し、数千級を斬首した。時に大雪が降り寒く、永の軍で凍死する者は万を数え、ここに淮北を平定した。璨に寧朔将軍を加え、張讜と対となって兗州刺史とし、初めて帰附した者を綏安した。徐州平定の功に参じたことにより、始豊侯の爵を賜り、建武将軍を加えられた。延興元年、四十歳で卒去し、諡を懿といった。

子の元茂は、太和八年に爵を襲った。建武将軍を加えられた。寛雅をもって著称した。(欠文)また例により降格された。 司徒 しと 司馬に拝され、まもなく振威将軍・南征別将・彭城鎮副将に任じられ、民吏はこれを安んじた。帛百匹・穀二百斛を賞された。太和二十年、四十四歳で卒去し、顕武将軍・徐州刺史を追贈され、諡を順といった。

子の秀之は、字を鳳起という。初め京兆王参軍に任じられ、員外散騎侍郎に転じた。爵を襲い、尚書都官郎に拝された。

秀之の弟の子雲は、字を鳳昇という。 司空 しくう 参軍となり、外兵参軍・本州治中に転じた。

子雲の弟の子羽は、字を鳳降という。征南法曹参軍となった。

子羽の弟の子岳、字は鳳跱。員外郎・大司馬祭酒を歴任した。秀之らは早く孤児となり、母に仕えて孝行で慎み深く、兄弟ともに容貌魁偉で、風度は審らかで正しく、しかし皆早世した。

鳳昇の子道宗、武定の末年に直閤将軍となった。

道宗の弟道林、 司徒 しと 中兵参軍となった。

元茂の弟宣茂、太和の初年に中書博士に任ぜられた。やがて 司空 しくう 諮議に遷り、司馬に転じ、営構事を監督した。出て寧朔将軍となり、試みに正平郡を守ったが、拝命しなかった。定州大中正を兼ねた。郷人の財貨を受け取った罪で、御史に弾劾され、除名されて民とされた。従駕して新野を征し、また樊鄧を討つに従った。持節・兼 散騎常侍 さんきじょうじ ・東南二道使となった。景明年間に平陽太守に任ぜられ、罪により左遷されて歩兵 校尉 こうい となった。正始の初年に太中大夫に任ぜられ、光禄大夫に遷った。宣茂は明堂の制について議論し、五室を良しとし、游肇と往復して論じたが、肇はこれを善しとした。平東将軍・幽州刺史に遷った。延昌二年に卒し、五十九歳であった。遺言して薄葬を命じた。本将軍・齊州刺史を追贈され、諡して惠といった。

子の藉之、字は脩遠。性質は謹厳で正しく、書史に粗く通じた。員外郎・給事中・ 司徒 しと 諮議参軍・前将軍・太中大夫を歴任した。忠誥一篇を著したが、文は多く載せない。永熙の初年に卒し、五十四歳であった。中軍将軍・定州刺史を追贈された。

子の徹、字は伯倫。武定の末年に 司空 しくう 主簿となった。

藉之の弟の志、字は敬遠、気概と節操があった。州主簿となった。

子の長瑜、郡功曹となった。

敬遠の弟の幼遠、性質は粗暴で、しばしば劫盗を働き、刺史が捕らえてこれを殺した。

宣茂の弟の叔胤、秀才に挙げられ、著作佐郎となった。広陵王諮議・南趙郡太守を歴任した。在位九年、政績があった。景明三年に卒し、三十六歳であった。諡して惠といった。

子の弼、字は延軌。位は相州録事参軍に至った。

弼の弟の翼、字は景業。初め盪寇将軍・斎帥となった。また員外郎に任ぜられ、尚書郎に遷り、引き続き斎帥を務めた。建義の初め、河陰で害に遇った。平北将軍・定州刺史を追贈された。

叔胤の弟の仲胤、中書学生より出て、公府主簿・従事中郎・諫議大夫・尚書左丞を歴任した。卒し、帛百匹・布五十匹・綿五十斤を賜り、鎮遠将軍・光州刺史を追贈され、諡して恭といった。

末子の子仁、尚書主客郎となった。

崔鑒

崔鑒は、字を神具といい、博陵郡安平県の人である。父の綽は、幼くして孤児となり、学問と行いを修め明らかにし、世に名を知られた。盧玄・高允・李霊らとともに召し出され、その話は允伝にある。まもなく母が年老いていることを理由に固辞し、後に郡の功曹となって卒した。鑒は文学に優れ、中書博士から侍郎に転じた。延興年間に詔を受けて斉州に使いし、風俗を観察し、兗州の事務を行った。功により桐廬県子の爵位を賜った。奮威将軍・東徐州刺史として出向した。鑒は新たに帰附した者を安んじ喜ばせようとし、民の中に年老いた者がいれば、守・令の官職を仮に授けるよう上表し、詔はこれに従った。また州内で銅を鋳造して農具とし、兵民に利益を得させた。卒し、冠軍将軍・青州刺史・安平侯を追贈され、諡を康といった。

子の合は、字を貴和といい、若くして時誉があった。桐廬子の爵位を襲い、中書学生・主文中散・太尉諮議参軍・本州大中正となった。常山太守として出向し、郡において卒した。時に二十七歳。

長子の脩義は、風望があり、爵位を襲いだ。 司徒 しと 默曹参軍から再び寧遠将軍・新野太守に昇進した。都に戻り、太尉掾に任ぜられ、冀州征東府長史として出向した。卒し、四十五歳。

長子の放寬は、爵位を襲いだ。斉が禅譲を受けると、例により降格された。

合の弟の秉は、若くして志気があった。太和年間、中書学生となり、奉朝請に任ぜられ、徐州安東府録事参軍に転じた。陽平王頤が定州となると、秉は再び衛軍府録事参軍となり、毋極県令を兼ねた。時に甄琛が長史であり、公事の議論の間に、秉は拳で琛を殴り、床下に墜落させた。琛は彼が本県の長であるため、笑って論じなかった。その豪放な率直さはこのようなものであった。

彭城王勰が寿春を征討した時、秉は従軍し、壮侠を招き寄せ、部卒とした。勰は彼を見て、左右に言った、「我は胆気をこの人に託そう」。後に 司空 しくう 主簿となり、掾・城門 校尉 こうい ・長兼 司空 しくう 司馬に転じた。長史に昇進し、輔国将軍を加えられた。左将軍・広平内史として出向し、多額の財貨を受け取り、清論に蔑まれた。都に入り 司徒 しと 左長史となった。間もなく平東将軍・光禄大夫に任ぜられた。まもなく安西将軍を加えられ、燕州刺史として出向した。時に天下は多事であり、ついに杜洛周に攻囲された。秉は一年余り堅守し、朝廷は 都督 ととく 元譚と秉の第二子仲哲を派遣して救援に向かわせた。譚は敗れ、仲哲は戦死した。秉はついに城民を率いて定州に奔り、官を免ぜられた。まもなく撫軍将軍に任ぜられ、相州の事務を行い、征東将軍・金紫光禄大夫に転じた。

孝昌末年、冀州の流民が黄河の外に集まり、それにより東冀州が立てられ、秉が刺史に任ぜられ、征東将軍を加えられた。赴任しなかった。永安二年、衛将軍・右光禄大夫に転じた。秉は年老いて病に罹り、上表して職務を辞したが、詔は許さなかった。元顥が 洛陽 らくよう に入ると、秉は陽武に避居した。二年、 散騎常侍 さんきじょうじ ・車騎将軍・左光禄大夫に任ぜられた。太昌年間、驃騎大将軍・儀同三司に任ぜられ、常侍・左光禄はもとのままとした。たびたび老病を理由に解任を乞うた。永熙三年に職を去った。天平四年に 薨去 こうきょ 、七十八歳。使持節・侍中・ 都督 ととく 定瀛滄三州諸軍事・本将軍・ 尚書令 しょうしょれい 司徒 しと 公・定州刺史を追贈され、諡を靖穆といった。

長子の忻は、字を伯悅といい、世務の才幹があった。荊州平南府外兵参軍となった。北道行臺常景が行臺郎に引き抜き、また上啓して員外郎に任ぜられ、さらに安遠将軍・尚書左中兵郎中となった。鄭儼の甥であるため、尚書左丞を兼ねた。荊帝の初め、河陰において害に遭い、四十二歳。鎮軍将軍・殿中尚書・冀州刺史を追贈された。

忻の弟の仲哲。生まれて祖母の宋氏に養われ、早くから物事を理解し、六歳で宋が亡くなると、泣き慕って止まず、見る者を悲しませた。性格は寛大で、常に将帥の謀略を自任した。 司徒 しと 行参軍に辟召された。仮の寧朔将軍・統軍となり、広陽王淵に従って北討し、柔玄の賊を撃ち破り、安平県男の爵位を賜った。父の秉が燕州で包囲された時、朝廷に泣き訴え、ついに別将に任ぜられ、 都督 ととく 元譚とともに救援に向かった。下口に到着し、賊と遭遇し、仲哲は戦死した。時に三十五歳。

長子の長瑜、武定年間、儀同開府中兵参軍。

長瑜の弟の叔瓚、 司徒 しと 田曹参軍。

仲哲の弟の叔彦、撫軍将軍。

叔彦の弟の季通、武定年間、司農少卿を兼ねた。

季通の末弟の季良、風望は閑雅であった。太学博士から 都督 ととく 李神軌に従って征討し功があり、蒲陰県男の爵位を賜った。まもなく著作佐郎・通直散騎侍郎に任ぜられ、征虜将軍・員外 散騎常侍 さんきじょうじ ・太尉長史に転じた。秉が郷里に帰ると、季良もまた職を去り帰養した。後に中軍将軍・光禄大夫に任ぜられた。秉に先立って家で卒し、時に三十六歳。車騎将軍・尚書右 僕射 ぼくや ・定州刺史を追贈され、諡を簡といった。

秉の弟の習は、字を貴礼といい、世の称誉があった。 司徒 しと 主簿・彭城王勰開府属を歴任した。幽州長史・博陵太守に昇進し、吏民に愛敬された。郡に九年在任し、河東太守に転じ、郡において卒した。五十一歳。中山太守を追贈された。孝昌三年、後将軍・ へい 州刺史を重ねて追贈された。

長子の世儒は、字を希業という。大司馬従事中郎の任に在る時に卒した。

世儒の三番目の弟の叔業は、武定年間に南兗州別駕となった。

秉の従父弟の広は、字を仲慶といい、議論の才幹があった。初め中書学生となった。高祖の時、殿中郎中となり、通直散騎侍郎・太子歩兵 校尉 こうい を歴任した。詔により尚書左丞を守り、父の喪により職を去った。後に任城王澄が揚州刺史となった時、広を鎮南府長史に引き立てようとしたが、母が老齢であることを理由に辞退した。景明の末、家で卒した。安遠将軍・光州刺史を追贈された。

子の元献は、字を世儁といい、かなり学識があった。秀才に挙げられたが、応じなかった。後に郷里で卒した。

広の弟の文業は、中書博士となり、 司徒 しと 主簿に転じた。城陽王鸞が定州刺史となった時、治中に引き立てた。四十九歳で卒した。子の伯謙は、武定の末、 司空 しくう 諮議参軍となった。

【史評】

史臣が曰く、李は儒俊の風をもって旌帛の挙に当たり、崔は文雅の烈をもって利用の科に応じた。世家には業があり、余慶は已まず、人位は軌を継ぎ、また盛んなることかな。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻49