高允
高允、 字 は伯恭、勃海の人である。祖父の泰は、叔父の湖の伝に載っている。父の韜は、若くして英明で朗らかであることで知られ、同郡の封懿はひとかたならず敬慕した。 慕容 垂の 太尉 従事中郎となった。太祖が中山を平定すると、韜を丞相参軍とした。早くに死去した。
允は幼くして孤児となり、早熟で、非凡な器量があり、清河の崔玄伯はこれを見て異とし、嘆いて言うには、「高子は内に潤いを秘め、外に文采を輝かせ、必ずや一代の偉器となるであろう。ただ我がそれを見られぬことを恐れるのみ」と。十余歳の時、祖父の喪を奉じて本郡に帰り、財産を二人の弟に譲って沙門となり、名を法浄と称した。間もなくして還俗した。性来、文学を好み、笈を担ぎ書を背負って、千里を跋渉して師に就いた。経史・天文・術数に広く通じ、特に『春秋公羊伝』を好んだ。郡から功曹に召された。
神䴥三年、世祖の母方の叔父である陽平王杜超が征南大将軍として出鎮し、 鄴 に駐屯し、允を従事中郎とした。この時四十余歳であった。超は春の時期であるのに諸州の囚人が多く未決であることを以て、上表して允と中郎の呂熙らに諸州へ分かれて赴き、共に獄事を評議させた。熙らは皆、貪汚の罪を得たが、允のみは清廉公平によって賞賜を受けた。幕府が解散すると、家に帰って教授し、学業を受ける者は千余人に及んだ。四年、盧玄らと共に召され、 中書 博士に任じられた。侍郎に転じ、太原の張偉と共に本官のまま衛大将軍・楽安王範の従事中郎を兼ねた。範は世祖の寵愛する弟で、西の 長安 を鎮守したが、允は大いに補佐し益するところがあり、秦の人々はこれを称えた。間もなく召還された。允はかつて『塞上翁詩』を作り、喜びと憂いを混同し、得失を遺棄する趣があった。驃騎大将軍・楽平王丕が上邽を西討するに当たり、再び本官のまま丕の軍事に参じた。詳細は丕伝にある。涼州が平定されると、参謀の功により、汶陽子の爵を賜り、建武将軍を加えられた。
後に詔があり、允は 司徒 の崔浩と共に国史を完成させ、本官のまま著作郎を兼ねた。時に浩は諸術士を集め、漢の元年以来の、日月の薄蝕・五星の運行度数を考校し、併せて前史の誤りを指摘し、別に魏の暦を作り、允に見せた。允は言った。「天文暦数は空論すべきではない。遠きを善く言う者は必ずまず近きに験するものである。かつ漢の元年冬十月、五星が東井に集まったというが、これは暦術の浅はかなところである。今、漢史を譏りながら、この謬りに気づかぬのは、後人が今を譏ることが、今の古を譏るようなものとなることを恐れる」。浩が「どのような謬りか」と問うと、允は言った。「星伝を案ずるに、金・水の二星は常に日に附随して運行する。冬十月、日は尾・箕に在り、申の南に没する。一方、東井は寅の北に現れる。二星がどうして日に背いて運行できようか。これは史官がその事を神異化しようとして、もはや理をもって推究しなかったのである」。浩は言った。「変異を為そうとするならば、どこにでも起こり得る。君は独り三星の集まることを疑わず、二星の来ることを怪しむのか」。允は言った。「これは空言で争うべきではなく、更に審らかにすべきである」。時に座する者は皆怪しんだが、東宮少傅の游雅のみが言った。「高君は暦数に長じている。虚言ではあるまい」。後、一年余りして、浩は允に言った。「先に論じた件は、元々心に留めていなかったが、更に考究してみると、果たして君の言う通りで、以前の三月に東井に集まったのであり、十月ではなかった」。また雅に言った。「高允の術は、陽元の射のようだ」。衆はようやく嘆服した。允は暦数に明るかったが、初めから推歩を行い、論説することはなかった。ただ游雅がたびたび災異について允に問うた。允は言った。「昔の人が言うように、知ることは甚だ難しい。既に知ってまた漏洩を恐れるならば、知らぬに如かぬ。天下の妙理は極めて多い。どうして急いでこれを問うのか」。雅はやめた。
間もなく本官のまま秦王翰の傅となった。後に詔があり、経書を恭宗(皇太子)に教授し、甚だ礼遇された。また詔があり、允は侍郎の公孫質・李虚・胡方回と共に律令を制定した。世祖は允を引見して刑政を論じさせ、その言は甚だ旨にかなった。そこで允に問うて言った。「万機の務めの中で、何を先とすべきか」。この時、良田の封禁が多く、また京師には遊食の者が多かった。允はこれに因んで言った。「臣は幼少より賤しく、知る所は田のみです。農事について申し上げます。古人が云うには、一里四方で田三頃七十畝、百里四方で田三万七千頃となる。もし勤めれば、一畝当たり三斗増え、勤めなければ一畝当たり三斗減る。百里四方での損益の率は、粟にして二百二十二万斛となる。まして天下の広さにおいてはどうか。もし公私に蓄えがあれば、たとえ飢饉の年に遇っても、また何を憂えましょうか」。世祖はこれを良しとした。遂に田禁を廃し、悉く民に授けた。
初め、崔浩は冀・定・相・幽・ 并 の五州の士人数十人を推薦し、各々郡守として起家させた。恭宗は浩に言った。「先に召された者たちも、州郡の選抜によるものであり、在職已久しく、勤労に報いていない。今は先に前の召しによる者を外任の郡県に補し、新たに召された者で郎吏の代わりとすべきである。また守令は民を宰るもの、経験を積ませるべきである」。浩は固く争って彼らを派遣した。允はこれを聞き、東宮博士の管恬に言った。「崔公は免れられぬであろう!苟くもその非を逞しくし、上と勝負を争うようでは、どうしてうまく収められようか」。
遼東公の翟黒子は世祖に寵愛されていたが、 并州 に使いして、布千匹を受け取り、事は間もなく発覚した。黒子は允に計を請うて言った。「主上が私に問うた場合、自白すべきか、隠蔽すべきか」。允は言った。「公は帷幄の寵臣である。詔に答えるには実を述べるべきである。また自ら忠誠を告げれば、罪は必ずや慮るに足りない」。中書侍郎の崔覧・公孫質らは皆、自白すれば罪は測り知れず、隠蔽すべきだと述べた。黒子は覧らを己に親しいと思い、却って允に怒って言った。「君の言う通りなら、私を死に誘うことになる。なんと不正直なことか!」遂に允と絶交した。黒子は事実でないと答えたため、ついに世祖に疎まれ、終に罪を得て誅殺された。
この時、著作令史の閔湛・郄𢷋は性来、巧みで諂うことを好み、浩に信任された。浩の注した『詩』『論語』『 尚書 』『易』を見て、上疏し、馬融・鄭玄・王粛・賈逵らは六経を注述したが、皆多く疏漏と誤謬があり、浩の精微には及ばないと述べた。国中の諸書を収めて秘府に蔵め、浩の注したものを頒布し、天下に習業させよと請うた。併せて浩に『礼伝』を注するよう勅を求め、後生が正義を観ることを得させよとした。浩もまた上表して湛に著述の才があると推薦した。その後、浩にその撰した国史を石に刻んで不朽に伝えるよう勧め、浩の直筆の跡を顕彰しようとした。允はこれを聞き、著作郎の宗欽に言った。「閔湛の企てることは、分寸の間のことであろうが、崔氏一門の万世の禍となることを恐れる。我々も類を残さぬであろう」。間もなくして難が起こった。
初めに、崔浩が捕らえられた時、高允は中書省に直宿していた。恭宗(太子 拓跋 晃)は東宮侍郎の呉延を遣わして高允を召し、そのまま宮中に宿泊させた。翌日、恭宗は世祖(太武帝 拓跋燾 )に参内して奏上し、高允に驂乗を命じた。宮門に至り、恭宗は高允に言った。「入内して至尊(皇帝)にお目にかかるが、私が自ら卿を導こう。もし至尊が何か尋ねられたら、ただ私の言葉に従え。」高允が請うて言うには、「どのような事でございますか。」恭宗は言った。「入れば自ずと分かる。」既に入内して帝に拝謁した。恭宗は言った。「中書侍郎の高允は、臣(私)の宮(東宮)におりまして、長年共に過ごし、細心で秘密を慎み、臣が委ねてよく知っております。崔浩と共に事に当たってはいましたが、しかし高允は微賤の身であり、制することは崔浩によるものでした。どうかその命をお赦しください。」世祖が高允を召して言うには、「国史(『国書』)は全て崔浩が作ったのではないか。」高允は答えて言うには、「太祖記は、前著作郎の鄧淵が撰しました。先帝記および今記は、臣が崔浩と共に作りました。しかし崔浩は総合的な事務を多く担当し、総裁に過ぎません。注疏に至っては、臣の方が崔浩より多くしております。」世祖は大いに怒って言った。「これは崔浩よりも甚だしい。どうして生きる道があろうか!」恭宗は言った。「天威は厳重であり、高允は小臣です。迷乱して順序を失っただけです。臣が先ほど詳しく尋ねましたが、皆、崔浩が作ったと言っておりました。」世祖が問うには、「東宮の言う通りか。」高允は言った。「臣は下らぬ才能で、誤って著作に参与し、天威に逆らい、罪は滅族に値します。今や死を分かつ覚悟でございます。虚妄を申し上げることはできません。殿下(恭宗)は、臣が侍講として長く仕えたことを哀れみ、命乞いをなさっただけです。実際には臣にお尋ねにはなっておらず、臣はそのような言葉は申しておりません。臣は実情をもってお答えし、迷乱することを敢えて致しません。」世祖は恭宗に言った。「実に正直であるな!これも人情として難しいことであるのに、死に臨んでも志を移さない。これまた難いことではないか。かつ君に対して実を以てするのは、貞臣である。この言葉の通りなら、寧ろ一人の有罪者を見逃すとも、赦すべきである。」高允はついに免罪を得た。そこで崔浩を前に召し、人をして崔浩を詰問させた。崔浩は惶惑して答えることができなかった。高允は事々に申し明かし、全て条理があった。時に世祖の怒りは甚だしく、高允に詔を草するよう命じ、崔浩以下、僮吏以上百二十八人を皆、五族にわたって誅滅せよとのことであった。高允は疑いを持って草さず、詔を頻りに催促された。高允はもう一度拝謁することを乞うて、その後で詔を草すると言った。詔により前に引き出され、高允は言った。「崔浩の坐した罪状に、もし他に余罪があるならば、臣の知るところではございません。ただ犯触しただけでは、罪は死に至りません。」世祖は怒り、衛士に命じて高允を捕らえさせた。恭宗が拝礼して請うた。世祖は言った。「この人物がいなければ、朕の怒りによって数千の者が死んでいたであろう。」崔浩はついに族滅され、その他は皆、身死した。宗欽は刑に臨んで嘆いて言った。「高允はまさに聖人であろうか。」
恭宗は後に高允を責めて言った。「人は機を知るべきである。機を知らなければ、学問をしても何の益があろう。あの時、私が卿に端緒を導いたのに、なぜ人の言葉に従わず、帝をあのように怒らせたのか。そのことを思い出す度に、人心を悸がせる。」高允は言った。「臣は東野の凡生にて、元より官に就く意志はございませんでした。休明な時世の会に属し、旌弓の挙(招聘)に応じ、布衣を脱いで鳳池(中書省)に仕え、なお麟閣(著作局)に参与し、尸位素餐して官栄にあり、賢者を妨げて久しゅうございます。そもそも史籍とは、帝王の実録であり、将来への炯戒であり、今が以て往時を観るもの、後世が以て今を知るものです。それ故に言行挙動は、ことごとく備え記載されるので、人君は慎むのです。しかし崔浩は代々殊遇を受け、栄耀は当時に輝きながら、聖恩に背き、自ら灰滅を招きました。即ち崔浩の事跡には、時に論ずべきところがあります。崔浩は蓬蒿の才を持ちながら、棟梁の重責を担い、朝廷にあっては謇諤の節がなく、私的に退いては委蛇の称がなく、私欲がその公廉を没し、愛憎がその直理を蔽いました。これが崔浩の責めです。至りて朝廷の起居の跡を書き、国家の得失の事を言うことは、これまた史を為すの大体であり、多く違っているとは申せません。しかし臣は崔浩と実際に同じ事に当たりました。死生栄辱、義として独り異なることはありません。誠に殿下の大造の慈しみを蒙り、心に背いて苟くも免れようとすることは、臣の本意ではございません。」恭宗は顔色を動かして称歎した。高允は後年、人に言うには、自分が東宮の導く旨に奉じなかったのは、翟黒子のようになることを恐れたからだ、と。
恭宗の末年、左右の者を頗る親近し、田園を営み立てて、その利を取っていた。高允が諫めて言うには、「天地は私無きが故に、覆い載せることを能くし、王者は私無きが故に、包み養うことを能くします。昔の明王は、至公を以て物を宰り、故に金を山に蔵し、珠を淵に蔵し、天下に私無きことを示し、天下に至儉を訓えました。故に美声は盈ち溢れ、千載衰えません。今、殿下は国の儲貳(皇太子)であり、四海の心が属し、言行挙動は、万方の則る所です。それなのに私田を営み立て、鶏犬を畜養し、乃至は販酤や市鄽(市場での売買)に至り、民と利を争い、非難の声が流布し、追い掩うことができません。そもそも天下は、殿下の天下であり、四海の富を有しておられます。何を求めて獲られず、何を欲して従わないことがありましょうに、販夫販婦とこの尺寸を競うのです。昔、虢の将に亡ぼんとする時、神が乃ち下降し、土田を賜ったが、ついにその国を喪いました。漢の霊帝は、人君の重みを修めず、宮人と列肆して販売することを好み、私的に府蔵を立て、小利を営み、ついに顛覆傾乱の禍いがありました。前の鑑がこのようで、甚だ畏懼すべきです。そもそも人君たる者は、必ず人を択ぶことに審でなければなりません。故に人を知れば則ち哲(聡明)と称し、惟れ帝と雖えども之を難しとします。商書に『小人に 邇 づく無かれ』とあり、孔父(孔子)も言われます、小人はこれに近づけば則ち不遜となり、遠ざければ則ち怨む、と。武王は周(周公旦)・邵(召公奭)・齊(太公望)・畢(畢公高)を愛したので、以て天下を王としました。殷の紂は飛廉・悪来を愛したので、以てその国を喪いました。古今の存亡の際を歴観すれば、これによらぬものはありません。今、東宮は誠に人材が乏しいとおっしゃいますが、儁乂(才徳優れた者)は少なくありません。近頃、侍御左右する者は、朝廷における選びでは恐らくありません。故に願わくは殿下、少しばかり愚言を察し、佞邪を斥け出だし、忠良に親近し、所在の田園は貧しい者に分け与え、畜産販売は時を以て収散なさいますように。このようにすれば、美声は日々至り、謗議は除くことができましょう。」恭宗は受け入れなかった。
恭宗が 崩御 した時、高允は久しく進見しなかった。後、世祖が召されると、高允は階を昇りて歔欷し、悲しみを止めることができなかった。世祖は涙を流し、高允に退出を命じた。左右の者はその理由を知らず、互いに言った。「高允は何の理由もなく悲泣し、至尊を哀傷させている。どうしたことか。」世祖はこれを聞き、召して言った。「汝らは高允が悲しむ理由を知らないのか。」左右は言った。「臣らは高允が言葉もなく泣くのを見、陛下がそのために悲傷なさるので、ひそかに言っただけです。」世祖は言った。「崔浩が誅された時、高允もまた応に死すべきであったが、東宮が苦諫したので、以て免れることができた。今、東宮がいない。高允は朕を見て、それ故に悲しんでいるのだ。」
允が上表して言うには、「往年、勅命を蒙り、臣に天文災異を集めさせ、事類を相従わせ、簡約にして観るに足るものとせよと仰せられました。臣は聞く、箕子が謨を陳べて洪範が作られ、宣尼が史を述べて春秋が著されたと。これらは皆、列辟を章明し、皇天を景測するためのものであります。故に先ずその善悪を明らかにし災異をもって験し、その失得に随って禍福をもって効す。天と人は誠に遠いけれども、報いは響くが如く速やかで、甚だ懼るべきものです。古より帝王、その道を尊崇しその法数を稽え、以て自ら修飭せざるはありません。その後、史官は並びにその事を載せ、以て鑑戒と為しました。漢の成帝の時、光禄大夫劉向は漢の祚が将に危うからんとするを見、権が外戚に帰するを憂え、屡々妖眚を陳べたが納れられず。遂に洪範・春秋の災異報応の説に因ってその伝を作り、以て人主を感悟させんと望んだが、終に聴察されず、卒に危亡に至りました。豈に哀しまざらんや。伏して惟うに、陛下は神武天に則り、叡鑒自ら遠く、古を欽若し、旧章に率由され、前言往行、究鑒せざるはなく、前皇の逮ばざる所であります。臣は学び洽聞に及ばず、識見寡薄にして、聖聴を裨広し、明旨に仰酬する無からんことを懼れます。今謹んで洪範伝・天文志に依りその事要を撮り、その文辞を略し、凡そ八篇と為します」。世祖はこれを見て善しとし、言うには、「高允の災異を明らかにするは、豈に崔浩に減じようか」と。高宗が即位すると、允は頗る謀議に与った。 司徒 陸麗らは皆重賞を受けたが、允は褒異を蒙らぬばかりか、終身言わなかった。その忠にして伐らざるは、皆この類である。
給事中郭善明は、性来機巧多く、その才能を逞しくせんと欲し、高宗に大いに宮室を造営するよう勧めた。允が諫めて言うには、「臣は聞く、太祖道武皇帝は天下を定めた後、初めて都邑を建てられたと。その営立する所は、農隙に因らざれば興さずと。今建国已久しく、宮室は既に備わり、永安前殿は以て万国を朝会するに足り、西堂温室は以て聖躬を安御するに足り、紫楼は臨望して遠近を観望するを得ます。もし壮麗を広く修めて異観と為さんとするならば、宜しく漸くこれを致すべく、倉卒にすべからず。材を伐り運び、及び諸雑役を計れば二万人を須い、丁夫は充作し、老小は供餉し、合わせて四万人、半年にして完了し得ましょう。古人に言う、一夫耕さざれば或いは飢えを受け、一婦織さざれば或いは寒さを受く、と。況んや数万の衆においてをや、その損費すること亦以て多し。これを古に推し、今に験すれば、必然の効であります。誠に聖主の思量すべき所であります」。高宗はこれを納れた。
允は、高宗が平の業を纂承したのに、風俗が旧に仍り、婚娶喪葬、古式に依らぬのを以て、乃ち諫めて言うには、
允のこのような言は一つに止まらず、高宗は従容としてこれを聴いた。或いは触迕する所があって、帝の聴くに忍びざる所は、左右に命じて扶け出させた。事に不便あれば、允は輒ち求見し、高宗は允の意を知り、予め左右を屏いてこれを待った。礼敬甚だ重く、朝に入り暮れに出で、或いは日を積んで中に居り、朝臣その論ずる所を知らなかった。
或いは上事して得失を陳ぶる者あり、高宗はこれを省みて群臣に謂って言うには、「君父は一つなり。父に是非あれば、子何ぞ人中に書を作りてこれを諫め、人をして悪を知らしめ、而して家内の隠れたる処に於いてせざるや。豈に父が親しく、悪の外に彰るるを恐るるに非ずや。今国家の善悪を、面して陳ぶること能わずして上表し顕かに諫むるは、これ豈に君の短を彰し、己の美を明らかにするに非ずや。高允の如きに至っては、真の忠臣である。朕に是非あれば、常に正言を以て面して論じ、朕の聴くを楽しまざる所に至るまで、皆侃侃として言説し、避就する所なし。朕はその過ちを聞くも、天下はその諫めを知らず。豈に忠ならざらんや。汝ら左右に在りて、曾て一つの正言を聞かず、ただ朕の喜ぶ時を伺って官を求め職を乞う。汝らは弓刀を把って朕の左右に侍り、徒らに労を立つるのみで、皆公王に至る。この人は筆を把って我が国家を匡し、郎を作るに過ぎず。汝ら自ら愧じざるか」。ここにおいて允を中書令に拝し、著作は旧の如し。 司徒 陸麗が言うには、「高允は寵待を蒙るといえども、家貧しく布衣、妻子立たず」。高宗怒って言うには、「何ぞ先に言わざる。今朕の用いるを見て、方にその貧しきを言う」。この日允の邸に幸し、ただ草屋数間、布被縕袍、厨中に塩菜あるのみ。高宗歎息して言うには、「古人の清貧も豈にこれあらんや」。即ち帛五百匹・粟千斛を賜い、長子忱を綏遠将軍・長楽太守に拝した。允は頻りに表して固く譲るも、高宗は許さず。初め允と同徴の游雅ら多くは通官封侯に至り、及び允の部下の吏百数十人も亦 刺史 二千石に至ったが、允は郎として二十七年官を徙めず。時に百官禄無く、允は常に諸子に樵采させて自給した。
初め、尚書竇瑾が事に坐して誅せられ、瑾の子遵は山沢に逃亡し、遵の母焦は県官に没入された。後、焦は老いを以て免を得たが、瑾の親故、恤う者無し。允は焦の年老いを愍み、保護して家に在らしめた。六年を積みて、遵初めて赦を蒙る。その篤行この如し。太常卿に転じ、本官は旧の如し。允は代都賦を上り、因りて以て規諷す。亦二京の流なり。文多く載せず。時に中書博士索敞と侍郎傅默・梁祚が名字の貴賤を論じ、議を著して紛紜す。允は遂に名字論を著してその惑いを釈し、甚だ典証有り。復た本官を以て秘書監を領し、太常卿を解き、爵を進めて梁城侯とし、左将軍を加えられた。
初め、允は游雅及び太原の張偉と同業相友たり。雅嘗て允を論じて言うには、「喜怒は、生ある者の能く無くすべからざる所なり。而るに前史は卓公の寛中、文饒の洪量を載す。褊心の者は或いはこれを信ぜず。余、高子と遊処すること四十年、未だ嘗てその是非慍喜の色を見ず。亦信ずべきではないか。高子は内に文明にして外は柔弱、その言吶吶として口より出でず。余常に『文子』と呼ぶ。崔公余に謂う云く、『高生は才豊かに学博く、一代の佳士、乏しき所は矯矯たる風節のみ』と。余も亦これを然りとす。 司徒 の譴、繊微より起こり、詔責に及び、崔公は声嘶ぎ股戦いて言う能わず、宗欽以下は地に伏して流汗し、都えて人色無し。高子は事理を敷陳し、是非を申釈し、辞義清弁、音韻高亮なり。明主之が為に容を動かし、聴者称善せざる無し。仁は僚友に及び、茲の元吉を保つ。向の所謂矯矯たるは、更に斯に在るか。宗愛の勢に任ずるや、威四海に振う。嘗て百司を都坐に召し、王公以下、庭を望みて畢く拝す。高子独り階を昇り長揖す。これより観るに、汲長孺は臥して衛青を見る可く、何ぞ抗礼の有らんや。向の所謂風節は、これを謂わざるを得んや。人を知るは固より易からず、人も亦た知り難し。余既に之を心内に失い、崔も亦た之を形外に漏らす。鍾期は伯牙に止めて聴き、夷吾は鮑叔に明らかに見らる。良く以て有り」。その人物に推されることこの如し。
高宗(文成帝)は高允を重んじ、常に名を呼ばず、恒に「令公」と呼んだ。「令公」の号は、四方遠方にまで広まった。高宗が崩御し、顕祖(献文帝)が諒闇(喪に服す期間)に居ると、乙渾が朝命を専断し、 社稷 を危うくしようと謀った。文明太后がこれを誅し、高允を禁中に引き入れ、大政の参決に与からしめた。また詔して允に曰く、「頃年以来、学校が建てられず、久しい時が経っている。道が衰え、学業は遂に廃れ、『子衿』の嘆きが、今また見られる。朕は大業を継ぎ、天下は安寧である。旧典に照らし、郡国に学官を置き、進修の業に寄るべき所を設けたい。卿は儒宗の元老、朝望の旧徳である。宜しく中書・秘書の二省と参議して聞かせよ」。允は上表して曰く、「臣聞く、大業を経綸するには、必ず教養を以て先とし、九疇を秩序立てるも、亦文徳によって事を成す。故に辟雍は周詩に光り、泮宮は魯頌に顕わる。永嘉以来、旧章は滅び、郷里には雅頌の声が絶え、京邑には釈奠の礼が絶えた。道業は衰え、百五十年になる。仰ぎ惟うに先朝は毎に昔の典を憲章し、素風を経闡しようとされたが、軍事多忙で、復興に 遑 がなかった。陛下は欽明文思(徳を敬い明らかにし、文を思う)を以て、洪烈(大業)を継ぎ、万国は皆寧らぎ、百官の政務は時に叙(秩序立)っている。祖宗の遺志を申べ、周礼の絶えた業を興し、徳音を発し、文教を惟新(新た)にされる。搢紳(官僚)と黎献(民の賢者)は、皆幸甚である。臣は旨を承り、二省を集め、史籍を披覧し、典紀を備え究めて、儒を敦(厚)くしてその業を勧め、学を貴んでその道を篤くするに至らぬはなかった。伏して明詔を思うに、古義に玄同(深く合致)する。宜しく聖旨の如く、学校を崇建して風俗を励ますべし。先王の道を明時に光演(輝かせ広め)し、郁郁たる音(礼楽の声)を四海に流聞せしめよ。大郡には博士二人、助教四人、学生百人を立て、次郡には博士二人、助教二人、学生八十人を立て、中郡には博士一人、助教二人、学生六十人を立て、下郡には博士一人、助教一人、学生四十人を立てる制を請う。その博士は、経典に博く通じ、世に忠清を履み、人師となるに堪える者を取り、年限は四十以上とする。助教も博士と同様とし、年限は三十以上とする。若し道業が夙(早)く成り、才が教授に任ずる者は、年齢に拘わらない。学生は郡中の清望(清い声望ある家柄)で、行い修め謹み、名教に循うに堪える者を取り、先ず高門を尽くし、次に中第に及ぶ」。顕祖はこれに従った。郡国に学が立つのは、ここに始まる。
後に高允は老病のため、頻りに上表して骸骨を乞うたが、詔して許さなかった。ここにおいて乃ち告老の詩を著した。また、昔歳同徴(共に召された者)が零落して将に尽きんとするを以て、逝く者を感し人を懐い、徴士頌を作った。蓋し応命した者に止まり、命有りて至らざる者は、則ち闕(欠)く。群賢の行状を、その梗概を挙げた。今これを左に著す。
中書侍郎・固安伯范陽の盧玄(字は子真)
郡功曹史博陵の崔綽(字は茂祖)
河内太守・下楽侯広寧の燕崇(字は玄略)
上党太守・高邑侯広寧の常陟(字は公山)
征南大将軍従事中郎勃海の高毗(字は子翼)
征南大将軍従事中郎勃海の李欽(字は道賜)
河西太守・饒陽子博陵の許堪(字は祖根)
中書郎・新豊侯京兆の杜銓(字は士衡)
征西大将軍従事中郎京兆の韋閬(字は友規)
京兆太守趙郡の李詵(字は令孫)
太常博士・鉅鹿公趙郡の李霊(字は虎符)
中書郎中・即丘子趙郡の李遐(字は仲熙)
営州刺史・建安公太原の張偉(字は仲業)
輔国大将軍從事中郎、范陽の祖邁
征東大将軍從事中郎、范陽の祖侃(字は士倫)
東郡太守、蒲県子、中山の劉策
濮陽太守、真定子、常山の許琛
行司隸 校尉 、中都侯、西河の宋宣(字は道茂)
中書郎、燕郡の劉遐(字は彦鑒)
中書郎、武恒子、河間の邢穎(字は宗敬)
滄水太守、浮陽侯、勃海の高濟(字は叔民)
太平太守、平原子、雁門の李熙(字は士元)
秘書監、梁郡公、広平の游雅(字は伯度)
廷尉正、安平子、博陵の崔建(字は興祖)
広平太守、列人侯、西河の宋愔
州主簿、長楽の潘天符
郡功曹、長楽の杜熙
征東大将軍從事中郎、中山の張綱
中書郎上谷の張誕(字は叔術)、
祕書郎雁門の王道雅、
祕書郎雁門の閔弼、
衞 大將軍從事中郎中山の郎苗、
大司馬從事中郎上谷の侯辯、
陳留郡太守、高邑子趙郡の呂季才。
皇興年間(467-471)、詔により高允は太常を兼ね、兗州に至り孔子廟を祭った。帝は允に言った、「これは徳を簡びて行うものであり、辞することなかれ」。後に允は顕祖に従って北伐し、大勝して帰還した。武川鎮に至り、『北伐頌』を上奏した。その詞に曰く、「皇なるかな上天、降鑒するは惟れ徳にあり、眷命有魏、萬國を照臨す。禮化丕に融け、王猷允に塞がり、亂を靜むるに威を以てし、民を穆くするに則を以てす。北虜舊隸、政を稟くるは蕃に在り、往くに時に因り、命を逃れて北轅す。世を襲いて凶軌をなし、忠に背き言を食らう。亡を招き盜を聚め、醜類實に繁し。敢へて犬羊を率い、圖りて猖蹶せんとす。乃ち師を訓へ詔し、戈を興して北伐す。馬を躍らせ糧を裹み、星馳電發す。虔劉を撲討し、肆に斧鉞を陳ぶ。斧鉞暫く陳ぶるに、厥の旅を馘翦し、骸を積みて谷を填し、血を流して浦を成す。元兇狐奔し、假息して窮墅にす。爪牙既に摧け、腹心亦阻まる。周の忠厚、存ふるに行葦に及び、翼翼たる聖明、斯の美を兼ね有つ。澤は京觀に被り、此の仁旨を垂る。尸を封じ野に獲、惠を生死に加ふ。生死惠を蒙り、人欣びて覆育す。理は幽冥に貫き、澤は殊域に漸く。物は其の誠に歸し、神は其の福を獻ず。遐邇斯に懷き、服はざるを思はざるなり。古に善兵を稱ふるも、歷時して始めて捷つ。今も師を用ふるに、辰浹に及ばず。六軍克く合し、萬邦以て協す。義は春秋に著しく、功は玉牒に銘ず。載せて頌聲を興し、之を來葉に播く」。顕祖はこれを見て善しとした。
また顕祖の時、帝の御不 豫 があり、高祖が幼沖であるため、京兆王の子推を立てようとし、諸大臣を集めて順に召し問うた。允は進み出て御前に跪き、涕泣して言った、「臣敢えて多く言わず、以て神聽を勞わす。願わくは陛下、上は宗廟託付の重きを思い、周公が成王を抱いた故事を追念せられんことを」。顕祖はここに於いて高祖に位を伝え、帛千匹を賜い、以て忠亮を標した。また 中書監 に遷り、 散騎常侍 を加えられた。久しく史事を典めていたが、しかし専ら勤めて著述に属することができず、時に校書郎の劉模とともに緝綴することがあり、おおむね崔浩の故事を継ぎ、春秋の体を準拠としたが、時に刊正するところがあった。高宗より顕祖に至るまで、軍国の書檄は多くが允の文であった。末年になって高閭を薦めて自らに代えさせた。定議の勲により、爵を進めて咸陽公とし、鎮東將軍を加えられた。
まもなく使持節・ 散騎常侍 ・征西將軍・懷州刺史を授けられた。允は秋月に境を巡り、民の疾苦を問うた。邵縣に至り、邵公廟が廃毀して立たないのを見て、言った、「邵公の徳、闕けて禮せず、善を為す者は何を望まん」。そこで上表して修繕することを聞かせた。允は当時年九十に近く、民に學業を勧め、風化は頗る行われた。しかし儒者は優遊し、断決を事としなかった。後に正光年間(520-525)、中散大夫・中書舍人河内の常景が允を追思し、郡中の故老を帥いて、允のために野王の南に祠を立て、碑を樹てて徳を紀した。
太和二年(478)、また老齢を理由に郷里への還還を乞うた。十餘章上奏したが、帝はついに聽許せず、遂に病気を理由に帰還を告げた。その年、詔により安車で允を徴し、州郡に発遣を命じた。都に至り、鎮軍大將軍に拝され、 中書監 を領した。固く辞したが許されなかった。また扶き引いて内に入れられ、皇誥を改定した。允は『酒訓』を上奏した。曰く、
高祖はこれを悅び、常に左右に置いた。
詔して允に車に乗って殿に入ることを許し、朝賀に拝礼をしなくてよかった。翌年、詔して允に律令の議定を命じた。年は次第に期頤に近づいたが、志識は損なわれず、なお旧職を心に存し、史書を披考した。また詔して曰く、「允は年危境に涉り、而して家貧しく養薄し。樂部の絲竹十人をして、五日毎に允の許に詣らしめ、以て其の志を娛しむべし」。特に允に蜀牛一頭、四望蜀車一乗、素の几・杖各一つ、蜀刀一口を賜うた。また珍味を賜い、毎年春秋常にこれを致した。まもなく詔して朝晡に膳を給し、朔望に牛酒を致し、衣服綿絹を毎月送給した。允は皆これを親故に分け与えた。この時、貴臣の門には皆顕官が羅列していたが、允の子弟は皆官爵が無かった。その廉退この如しであった。尚書・ 散騎常侍 に遷り、時に延き入れられ、几杖を備え、政治について問われた。十年(486)、光祿大夫・金章紫綬を加えられた。朝の大議は皆彼に諮問された。
魏の初めは法が厳しく、朝士は多く杖罰を受けた。允は五帝に歴事し、三省に出入し、五十餘年の間、初めから譴咎が無かった。初め、真君年間(440-451)に獄訟が留滞したため、始めて中書に経義を以て諸疑事を断じさせた。允は律に拠り刑を評し、三十餘年、内外平らかであると称された。允は獄は民の命であるとして、常に歎じて言った、「臯陶は至徳であるが、その後英・蓼は先に亡び、劉項の際には、英布は黥されて王となった。世を経ること久しといえども、なお刑の餘釁有り。況んや凡人にして咎無からんや」。
その年四月、西郊に事有り、詔して御馬車を以て允を迎え、郊所の板殿に就かせて観矚させた。馬が忽ち驚き奔り、車が覆り、眉に三箇所傷を負った。高祖・文明太后は醫藥を遣わして護治し、存問相望んだ。司駕の者を重く坐せんとしたが、允は啓陳して無恙であるとし、その罪を免じるよう乞うた。先に、中黄門の蘇興壽に命じて允を扶持させていたが、曾て雪中で犬に遇い驚いて倒れ、扶けた者が大いに懼れた。允はこれを慰め励まし、聞こえさせなかった。興壽は、允と共に事に接すること三年、未だ曾て其の忿色を見たことがないと称した。恂恂として善く誘い、人を誨いて倦まず。晝夜手に常に書を執り、吟詠尋覽した。親を篤くし故を念い、己を虚しくして人を存納した。貴重なる処に在りながらも、志は貧素と同じであった。性音楽を好み、伶人の弦歌鼓舞する毎に、常に節を撃って善しと称した。また雅に佛道を信じ、時に齋講を設け、生を好み殺を惡んだ。性また簡至で、妄りに交遊しなかった。顕祖が青齊を平定した時、その族望を代に徙した。時に諸士人は流移して遠く至り、率ね飢寒にあった。徙人の内、多くは允の姻媾であり、皆徒步で門を造った。允は財を散じ産を竭くして、以て相贍賑し、慰問周至であった。其の仁厚に感じざる者は無かった。其の才能を収め、表奏して申し用いた。時に議者は皆新附の故に異を致すとしていたが、允は材を取り能に任ずるに、抑屈すべからずと謂った。先に、允は方山に召されて頌を作ったが、志気は猶多く損ずることなく、旧事を談説して、了て遺すところ無かった。十一年(487)正月、卒す。年九十八。
初めに、高允は常に人に言うことには、「私が中書に在った時には陰徳があり、民の命を救済した。もし陽報に誤りがなければ、我が寿命は百年を享けるはずである」と。先だって卒する十日余り前、少し体調が優れなかった。それでも臥せず、医者を呼んで薬を請い、出入りし行い立ち、吟詠すること平常の如しであった。高祖(孝文帝)と文明太后はこれを聞いて医者の李脩を遣わして脈を見させたが、無事であると告げた。李脩が入り、密かに高允の栄衛に異状があることを陳べ、その余命長からぬことを恐れた。そこで使者を遣わして御膳の珍味を賜ること備え、酒や米から塩や醤に至るまで百余品、皆その時節の味を尽くし、及び寝台の帳、衣服、茵(敷物)や被、机や杖を、庭に羅列した。王や官人の往来は絶えず、慰問が相次いだ。高允は喜びを顔色に表し、人に語って言うには、「天恩が我が篤老なるを以て、大いに賜るところあり、これをもって賓客を養うことができる」と。表を奉って感謝しただけで、他の慮いはなかった。このように数日、夜中に卒去し、家人は気づかなかった。詔して絹一千匹、布二千匹、綿五百斤、錦五十匹、雑綵百匹、穀千斛を給して喪の用に充てしめた。魏初以来、存命・死亡を問わず恩賜を受けた者で彼に及ぶ者はなく、朝廷はこれを栄誉とした。葬送に際し、 侍中 ・ 司空 公・冀州刺史を追贈し、将軍・公の位は元の如く、 諡 して文と曰い、命服一襲を賜った。高允の作った詩・賦・誄・頌・箴・論・表・賛、左氏伝・公羊伝の釈、毛詩拾遺、論雑解、何休・鄭玄の膏肓事を議するもの、凡そ百余篇、別に集が世に行われた。高允は算法に明るく、算術三巻を著した。子の高忱が爵を襲った。
高忱は、字を士和という。父の任により綏遠将軍・長楽太守に除された。政は寛恵であり、民衆は安んじた。後に例により爵を降格されて侯となった。まもなく卒した。
孫の高貴賓が襲った。州治中に除され、官にて卒した。
高忱の弟の高懐は、字を士仁という。任城王元雲の郎中令・大将軍従事中郎となり、中散に授けられた。恬淡として退静、世の利を競わず、散官の輩の中で十八年官を変えなかった。太和年中、太尉東陽王諮議参軍に除されて卒した。
子の高綽は、字を僧裕という。幼くして孤となり、恭順で機敏に自立した。身長八尺、腰帯十囲、沈着雅量で度量があり、広く経史に渉った。太和十五年、奉朝請・太尉法曹行参軍に拝され、まもなく尚書祠部郎を兼ねた。母の喪により職を去った。久しくして、治書侍御史に除され、転じて 洛陽 令となった。高綽は政を行うに強直で、豪族貴族を避けず、邑人はこれを畏れた。また詔により律令の参議を命じられた。長兼国子博士に遷り、潁川郡の事を行った。詔して仮節を与え、涇州刺史の事を行った。延昌初年、尚書右丞に遷り、壬子暦の参議をした。粛宗(孝明帝)の初め、 司徒 清河王元懌の司馬・冠軍将軍となり、また元懌に随って太尉司馬に遷った。その年の秋、大乗の賊が冀州で起こり、 都督 元遙が衆を率いて討伐し、詔して高綽に 散騎常侍 を兼ねさせ、節を持ち、白虎幡を以て軍前に赴き招慰させた。高綽の信義は州里に著しく、降伏する者が相次いだ。軍が還ると、汲郡太守に除されたが、固辞して拝さなかった。御史中尉元匡が高聡及び高綽らが高肇に朋党し附いたと上奏したが、詔して併せて罪を赦した。まもなく 滎陽 郡の事を行い、本将軍のまま出向して 豫 州刺史に除された。政は清平で、強きを抑え弱きを扶け、百姓はこれを愛し、流民で帰附する者二千余戸あった。後将軍・ 并 州刺史に遷った。正光三年冬、暴疾にて卒し、年四十八。四年九月、詔して安東将軍・冀州刺史を追贈し、諡して簡と曰った。
子の高炳は、字を仲彰という。太尉行参軍となり、次第に征虜将軍・開府掾に遷った。早世した。
高允の弟の高推は、字を仲譲といい、小名は檀越、早くから名声があった。太延年中、前後の南朝への使者が称職でないため、行人を精選した。游雅が高推を推薦して応選させた。詔して 散騎常侍 を兼ねて劉義隆(宋の文帝)に使わした。南人はその才弁を称えた。病に遇い建業にて卒した。朝廷はこれを悼み惜しんだ。喪が還ると、輔国将軍・臨邑子を追贈し、諡して恭と曰い、命服衣冠を賜った。高允がこれのために誄を作った。
高推の弟の高燮は、字を季和といい、小字は淳于、文才もあった。世祖(太武帝)がたびたび詔して召し出したが、病気を理由に応じなかった。常に高允が長く官に屈折し、京邑に栖泊するのを譏笑した。常に家で従容としていた。州より主簿に辟召された。卒した。
孫の高市賓は、奉朝請・冀州京兆王元愉の城局参軍となった。元愉が逆を構えると、高市賓は逃れて京に帰った。後に青州安南府司馬に除された。永熙年中、冠軍将軍・開府従事中郎となった。
初め神䴥年中、高允は従叔の高済、族兄の高毗及び同郡の李金と共に召し出された。
高済は、字を叔民という。初め中書博士に補され、また楚王(太武帝の子)の傅となった。真君年中、仮の員外常侍となり、浮陽子の爵を賜り、劉義隆に使わされた。世祖が江に臨んだ時、行在所において盱眙太守に除され、後に游撃将軍を超授された。まもなく出向して滄水太守に除された。卒し、年六十七。鎮遠将軍・冀州刺史を追贈し、諡して宣と曰った。
子の高矯が襲った。卒し、子の高師が襲った。
高師は、字を孝則といい、学識があった。詹事丞・太子舎人・尚書主客郎を歴任した。通直散騎侍郎・従事正員郎に転じた。累遷して光禄少卿となり、涇州の事を行った。卒し、龍驤将軍・河州刺史を追贈した。
子の高和仁は、字を徳舒といい、爵を襲った。員外散騎侍郎に初任し、殿中御史を領した。若い頃から清簡で、文才があり、かつて五言詩を作って太尉属の盧仲宣に贈り、仲宣は大いにこれを歎重した。常に高尚の志があった。後に洛州録事参軍となったが赴任せず、汲郡白鹿山で服餌(仙薬を服する)した。まもなく卒し、当時の人はこれを悼み惜しんだ。
高和仁の弟の高徳偉は、武定末年に、東宮斎帥となった。
矯の弟の遵は、独自に伝がある。
毗は、字を子翼といい、郷里では長者と称された。官は従事中郎に至った。
孫の當は、尚書郎であった。卒し、楽陵太守を追贈され、諡して恭といった。
初め、允が引き立てた劉模という者は、長楽信都の人である。若い頃ひそかに黄河の外を遊歴し、ついに河南に至り、まもなくまたひそかに帰還した。経籍に広く通じ、注疏を作る用をわずかに果たした。允が秘書を領し、著作を典拠すると、校書郎に選ばれた。允が国記を修撰するにあたり、模とともに編纂に従事した。常に模に鍵を持たせ、毎日ともに史閣に入り、膝を接して席を向かい合わせ、時事を叙述させた。允はすでに九十歳で、目と手がやや衰え、多くは模に筆を執らせて指図し裁断させた。このようにして五、六年を経た。允が成した篇巻、上下の論の著述には、模が功績に関与した。太和の初め、模は中書博士に遷り、李彪と同僚となり、互いに親愛した。ただし、国冑を訓導し、風範を明らかにすることについては、彪には遠く及ばなかった。潁州刺史として出向した。王肅が帰朝する際、懸瓠を経由したが、旅に窮し憔悴しており、当時の人々は誰も彼を知らなかった。模だけが彼の必要とするものを供給し、礼をもってもてなした。肅は深くその心遣いに感じ入った。後に肅が 豫 州を治めることになった時、模はなお郡に在任しており、ひそかに恩返しをしたため、これによって新蔡太守となった。二郡で十年を積み、寛厳を相い合わせ、治績の称えられることが多かった。正始元年、再び出て陳留太守となった。時に七十余歳であったが、老いを飾り年齢を隠し、禁令を無視して自ら務めた。ついに南潁川に家を構え、再び旧郷には帰らなかった。
子の懐恕は、聡明で率直で多才であった。潁川の人情を大いに和合させた。襄威将軍、本州冠軍府功曹参軍に至った。
懐恕の弟の懐遜は、医術をかなり理解していた。給事中を歴任した。左軍将軍、鎮遠将軍の任で卒した。
【論】
史臣が曰く、仁に依り芸に遊び、義を執り哲を守る、それは 司空 高允であろうか。危禍の機に踏み込み、雷電の気に抗し、死に臨んで平然とし、身を忘れて物を済し、ついに明主を悟らせ、己を保ち身を全うした。自ら 天命 を知る境地に近くなく、窮達を照らし見通す鑑がなければ、どうしてこのようでありえようか。四代に光寵を及ぼし、ついに百歳を享けたのは、まことに相応しく、魏が建国されて以来、この人物のみである。僧裕は学問と治績で聞こえ、聿修の義を体現した。
校勘記