魏書

卷47 盧玄

卷47 盧玄

盧玄

原文盧玄

盧玄、字は子真、范陽郡涿県の人である。曾祖父の諶は、晋の司空劉琨の従事中郎であった。祖父の偃、父の邈は、ともに慕容氏に仕えて郡太守となり、いずれも儒雅をもって称された。神䴥四年、儒俊を召し辟すに当たり、玄を首として、中書博士を授けられた。司徒崔浩は玄の外兄であり、しばしば玄と語るごとに嘆じて言うには、「子真に対すると、我が懐古の情を一層深からしむ」と。浩は大いに人倫を斉整し、姓族を分明にせんと欲した。玄これを諫めて言うには、「制を創り事を立つるは、各々其の時有り、此れを為すを楽む者は、詎んぞ幾人か有らん。宜しく三思すべし」と。浩は当時異言無かりしも、遂に納れず、浩の敗は頗る亦此れに由る。後に寧朔将軍・兼散騎常侍に転じ、劉義隆に使す。義隆之を見て、語ること良久く、嘆じて言うには、「中郎は卿の曾祖父なり」と。既に還りて、病にて卒す。

原文盧玄,字子真,范陽涿人也。曾袓諶,晉司空劉琨從事中郎。袓偃,父邈,並仕慕容氏為郡太守,皆以儒雅稱。神䴥四年,辟召儒儁,以玄為首,授中書博士。司徒崔浩,玄之外兄,每與玄言,輒歎曰:「對子真,使我懷古之情更深。」浩大欲齊整人倫,分明姓族。玄勸之曰:「夫創制立事,各有其時,樂為此者,詎幾人也?宜其三思。」浩當時雖無異言,竟不納,浩敗頗亦由此。後轉寧朔將軍、兼散騎常侍,使劉義隆。義隆見之,與語良久,歎曰:「中郎,卿曾袓也。」既還,病卒。

子 度世

原文子 度世

子の度世、字は子遷。幼くして聡明にして物事に通じ、計数に長ず。中書学生となり、東宮に応選す。弱冠にして、従兄の遐とともに学行を以て時流に重んぜらる。

原文子度世,字子遷。幼而聰達,有計數。為中書學生,應選東宮。弱冠,與從兄遐俱以學行為時流所重。

度世は後に崔浩の事に坐し、官を棄てて高陽の鄭羆の家に逃げ、羆之を匿う。使者は羆の長子を囚え、将に捶楚を加えんとす。羆之を戒めて言うには、「君子は身を殺して以て人を成す、汝は死すと雖も言う勿れ」と。子は父の命を奉じ、遂に考掠せられ、乃ち火を以て其の体を爇くに至るも、因って物故し、卒に言う所無し。度世は後に弟をして羆の妹を娶らしめ、以て其の恩に報ゆ。世祖江に臨むに当たり、劉義隆其の殿中將軍黄延年をして朝貢せしむ。世祖延年に問うて曰く、「范陽の盧度世は崔浩と親通するに坐し、命を逃れて江表に至る、応に已に彼に至るべしや」と。延対えて曰く、「都下に聞こえず、当に必ず至らず」と。世祖詔して東宮に度世の宗族の逃亡及び籍没せられたる者を赦す。度世乃ち出づ。京に赴き、中書侍郎に拝し、爵を襲ぐ。

原文度世後以崔浩事,棄官逃於高陽鄭羆家,羆匿之。使者囚羆長子,將加捶楚。羆戒之曰:「君子殺身以成人,汝雖死勿言。」子奉父命,遂被考掠,至乃火爇其體,因以物故,卒無所言。度世後令弟娶羆妹,以報其恩。世袓臨江,劉義隆使其殿中將軍黃延年朝貢。世袓問延年曰:「范陽盧度世坐與崔浩親通,逃命江表,應已至彼?」延對曰:「都下無聞,當必不至。」世袓詔東宮赦度世宗族逃亡及籍沒者。度世乃出。赴京,拜中書侍郎,襲爵。

興安中、太常卿を兼ね、保太后の父遼西献王の廟を立て、鎮遠将軍を加えられ、爵を侯に進む。後に散騎侍郎を除かれ、劉駿に使す。其の侍中柳元景を遣わして度世と対接せしむるに、度世応対衷を失う。還りて、禁劾せられ、経年にして乃ち釈かる。仮節・鎮遠将軍・齊州刺史を除く。州は辺境に接し、将士数相侵掠す。度世乃ち統ぶる所を禁勒し、其の俘虜を還し、二境以て寧し。後に事に坐して囚繫せられ、久しくして、郷里に還る。尋いで徴されて京に赴き、平東将軍・青州刺史を除かるるも、拝せず、患に遇う。延興元年卒す、年五十三。諡して惠侯と曰う。四子、淵・敏・昶・尚。

原文興安中,兼太常卿,立保太后父遼西獻王廟,加鎮遠將軍,進爵為侯。後除散騎侍郎,使劉駿。遣其侍中柳元景與度世對接,度世應對失衷。還,被禁劾,經年乃釋。除假節、鎮遠將軍、齊州刺史。州接邊境,將士數相侵掠。度世乃禁勒所統,還其俘虜,二境以寧。後坐事囚繫,久之,還鄉里。尋徵赴京,除平東將軍、青州刺史,未拜,遇患。延興元年卒,年五十三。諡曰惠侯。四子,淵、敏、昶、尚。

初め、玄に五子有り、嫡は唯だ度世のみ、余は皆別生なり。崔浩の事難に当たり、其の庶兄弟常に危害を加えんと欲す、度世常に深く忿恨す。度世に子有るに及び、毎に誡約して妾孽を絶たしめ、長ずるを得ざらしめ、以て後患を防ぐ。淵兄弟に至りては、婢賤の生む子は、形貌相類うと雖も、皆挙げ接せず。識者の非とするところとなる。

原文初,玄有五子,嫡唯度世,餘皆別生。崔浩事難,其庶兄弟常欲危害之,度世常深忿恨。及度世有子,每誡約令絕妾孽,不得使長,以防後患。至淵兄弟,婢賤生子,雖形貌相類,皆不舉接。為識者所非。

孫 淵

原文孫 淵

淵、字は伯源、小名は陽烏。性質温雅にして寡欲、祖父の風有り、学業を敦尚し、閨門和睦す。侯爵を襲ぎ、主客令に拝し、属国を典む。秘書令・始平王師に遷る。例に以て爵を降して伯と為す。給事黄門侍郎、兼散騎常侍・秘書監・本州大中正に遷る。是の時、高祖将に馮后を立んとし、方に朝臣を集めて之を議す。高祖先ず淵に謂いて曰く、「卿の意以為らく如何」と。対えて曰く、「此れ古より慎む所、臣が愚意の如きは、宜しく更に簡卜すべし」と。高祖曰く、「先后の姪を以てす、朕が意已に定まれり」と。淵曰く、「勅を奉ずること此の如きと雖も、然れども臣が心に於いて実に未だ尽きざる有り」と。朝臣集議に及び、意を執ること前に如し。馮誕盛んなる寵有り、深く以て恨みと為すも、淵は以て介懷せず。

原文淵,字伯源,小名陽烏。性溫雅寡欲,有袓父之風,敦尚學業,閨門和睦。襲侯爵,拜主客令,典屬國。遷祕書令、始平王師。以例降爵為伯。給事黃門侍郎,遷兼散騎常侍、祕書監、本州大中正。是時,高祖將立馮后,方集朝臣議之。高祖先謂淵曰:「卿意以為何如?」對曰:「此自古所慎,如臣愚意,宜更簡卜。」高祖曰:「以先后之姪,朕意已定。」淵曰:「雖奉敕如此,然於臣心實有未盡。」及朝臣集議,執意如前。馮誕有盛寵,深以為恨,淵不以介懷。

高祖蕭賾を伐たんと議するに及び、淵表して曰く。

原文及高祖議伐蕭賾,淵表曰:

詔して曰く。

原文詔曰:

車駕南伐するに及び、趙郡王幹関右諸軍事を督し、詔して淵に使持節・安南将軍を加えて副と為し、衆七万を勒して将に子午より出でんとす。尋いで蕭賾の死を以て、師を停む。是の時涇州の羌叛き、城邑を残破す、淵歩騎六千の衆を以て号すること三万、徐行して進む。未だ三旬を経ず、賊衆逃散し、降する者数万口、唯だ首悪を梟すのみ、余は悉く問わず。詔して侍中を兼ぬ。初め、淵年十四、嘗て長安に詣る。将に還らんとす、諸相餞送する者五十余人、別るるに渭北に於いてす。相者有り扶風の人王伯達曰く、「諸君皆此の盧郎の如からず、位は実に副わざると雖も、然れども徳声甚だ盛ん、望み公輔を踰ゆ。後二十余年、当に関右を制命せん。願わくは相忘れざらん」と。此の行なり、相者年八十を過ぎ、軍門に詣りて請い見え、平生を言敍す。未だ幾ばくもあらず、儀曹尚書に拝す。高祖在位を考課し、淵を降して以て王師常侍・尚書を守らしめ、常侍の禄一周を奪う。尋いで豫州刺史を除くも、母老ゆるを以て固く辞す。

原文及車駕南伐,趙郡王幹督關右諸軍事,詔加淵使持節、安南將軍為副,勒眾七萬將出子午。尋以蕭賾死,停師。是時涇州羌叛,殘破城邑,淵以步騎六千眾號三萬,徐行而進。未經三旬,賊眾逃散,降者數萬口,唯梟首惡,餘悉不問。詔兼侍中。初,淵年十四,嘗詣長安。將還,諸相餞送者五十餘人,別於渭北。有相者扶風人王伯達曰:「諸君皆不如此盧郎,雖位不副實,然德聲甚盛,望踰公輔。後二十餘年,當制命關右。願不相忘。」此行也,相者年過八十,詣軍門請見,言敍平生。未幾,拜儀曹尚書。高祖考課在位,降淵以王師守常侍、尚書,奪常侍祿一周。尋除豫州刺史,以母老固辭。

会うに蕭昭業の雍州刺史曹虎使いを遣わして降を請うに、乃ち淵を以て使持節・安南将軍と為し、前鋒諸軍を督して径ち樊鄧に赴かしむ。淵面して辞して曰く、「臣本より儒生、頗る俎豆を聞く、軍旅の事は、未だ之を学ばず。惟だ陛下之を裁せられんことを」と。軍期已に逼るも、高祖許さず。淵曰く、「但だ曹虎の周魴たるを恐るるのみ、陛下宜しく之を審にすべし」と。虎果たして偽り降る。淵葉に至り、曹虎の譎詐なるを具に問い、兼ねて其の利害を陳ぶ。詔して淵に南陽を進取りしむ。淵兵少なく糧乏しきを以て、表して先ず赭陽を攻めんことを求む、葉倉に近き故なり。高祖之を許す、乃ち赭陽を進攻す。蕭鸞将の垣歴生を遣わして来り救う、淵素より将略無く、賊に敗れられるに坐し、官爵を免ぜられ民と為る。

原文會蕭昭業雍州刺史曹虎遣使請降,乃以淵為使持節、安南將軍,督前鋒諸軍徑赴樊鄧。淵面辭曰:「臣本儒生,頗聞俎豆,軍旅之事,未之學也。惟陛下裁之。」軍期已逼,高祖不許。淵曰:「但恐曹虎為周魴耳,陛下宜審之。」虎果偽降。淵至葉,具曹虎譎詐之問,兼陳其利害。詔淵進取南陽。淵以兵少糧乏,表求先攻赭陽,以近葉倉故也。高祖許焉,乃進攻赭陽。蕭鸞遣將垣歷生來救,淵素無將略,為賊所敗,坐免官爵為民。

尋いで母憂に遭う、高祖謁者を遣わして宅に詣り宣慰す。服闋け、太尉長史を兼ぬ。高祖南討するに及び、又た彭城王中軍府長史を兼ぬ。尋いで徐州・京兆王愉の長史を兼ね、絹百匹を賜う。愉既に年少、事の巨細無く、多く淵に決す。淵誠信を以て物に御し、甚だ東南の民和を得たり。南徐州刺史沈陵密かに外叛を謀る、淵其の萌漸を覚り、潜かに諸戍を敕し、微かに之が備えを為す。屡に表して聞かす有り、朝廷納れず。陵果たして将佐を殺し、宿豫の衆を勒して逃叛す。淮に濱き諸戍、備えに由りて全きを得。陵辺に歴年し、陰に結ぶこと既に廣く、二州の人情的に咸く相扇惑す。陵の余党、頗る執り送らるるを見る、淵皆撫でて之を赦し、惟だ罪を陵に帰す、是に由りて衆心乃ち安んず。

原文尋遭母憂,高祖遣謁者詣宅宣慰。服闋,兼太尉長史。高祖南討,又兼彭城王中軍府長史。尋為徐州、京兆王愉兼長史,賜絹百匹。愉既年少,事無巨細,多決於淵。淵以誠信御物,甚得東南民和。南徐州刺史沈陵密謀外叛,淵覺其萌漸,潛敕諸戍,微為之備。屢有表聞,朝廷不納。陵果殺將佐,勒宿豫之眾逃叛。濱淮諸戍,由備得全。陵在邊歷年,陰結既廣,二州人情,咸相扇惑。陵之餘黨,頗見執送,淵皆撫而赦之,惟歸罪於陵,由是眾心乃安。

景明初、秘書監を除く。二年官に卒す、年四十八。安北将軍・幽州刺史を贈られ、本爵固安伯を復し、諡して懿と曰う。

原文景明初,除祕書監。二年卒官,年四十八。贈安北將軍、幽州刺史,復本爵固安伯,諡曰懿。

初めに、盧諶の父の盧志は鍾繇の書法を学び、その業を累世に伝え、世に能名があった。盧邈より以上は、兼ねて草書を善くした。盧淵は家法を習い、代京の宮殿の多くは盧淵の題したものであった。白馬公の崔玄伯もまた書を善くし、世に衛瓘の体を伝えた。魏の初めに書を工みする者は、崔・盧の二門である。盧淵は僕射の李沖と特に相善くした。李沖は盧淵の門風を重んじ、盧淵は李沖の才官を敬ったので、婚姻を結び、往来親密であった。盧淵が高祖の意遇を荷うに至っては、頗る李沖による所もあった。盧淵には八人の子があった。

原文初,諶父志法鍾繇書,傳業累世,世有能名。至邈以上,兼善草迹。淵習家法,代京宮殿多淵所題。白馬公崔玄伯亦善書,世傳衞瓘體。魏初工書者,崔盧二門。淵與僕射李沖特相友善。沖重淵門風,而淵祗沖才官,故結為婚姻,往來親密。至於淵荷高祖意遇,頗亦由沖。淵有八子。

曾孫 盧道将

原文曾孫 道將

長子の盧道将は、字を祖業といい、父の爵を襲うべきであったが、その第八弟の盧道舒に譲った。有司が奏聞すると、詔して曰く、「長嫡が重きを承くるは、礼の大経なり、何ぞ輒く授くべけんや」と。しかし盧道将は、清河王国常侍の韓子熙が弟の韓仲穆に魯陽男を譲った例を引き、尚書の李平が重ねて奏したので、詔は遂に聴許した。盧道将は経史に渉猟し、気風は謇諤として、頗る文才があり、一家の後来の冠たり、諸父は皆これを敬憚した。彭城王の元勰、任城王の元澄は皆虚襟して相待した。元勰が中軍大将軍となると、行参軍に辟した。司徒東閤祭酒、尚書左外兵郎中に遷り、転じて秘書丞となった。出て燕郡太守となった。盧道将が下車すると、楽毅・霍原の墓を表し、その祠を立てた。儒生を優礼し、学業を励まし勧め、農桑を敦め課し、墾田は歳ごとに倍した。入って司徒司馬となった。卒し、龍驤将軍・太常少卿を贈られ、諡して献といった。文筆数十篇を作った。

原文長子道將,字祖業,應襲父爵,而讓其第八弟道舒。有司奏聞,詔曰:「長嫡承重,禮之大經,何得輒授也。」而道將引清河王國常侍韓子熙讓弟仲穆魯陽男之例,尚書李平重申奏,詔乃聽許。道將涉獵經史,風氣謇諤,頗有文才,為一家後來之冠,諸父並敬憚之。彭城王勰、任城王澄皆虛襟相待。勰為中軍大將軍,辟行參軍。遷司徒東閤祭酒、尚書左外兵郎中,轉祕書丞。出為燕郡太守。道將下車,表樂毅、霍原之墓,而為之立祠。優禮儒生,勵勸學業,敦課農桑,墾田歲倍。入為司徒司馬。卒,贈龍驤將軍、太常少卿,諡曰獻。所為文筆數十篇。

子の盧懐祖は、太学博士・員外散騎侍郎となった。卒した。

原文子懷祖,太學博士、員外散騎侍郎。卒。

懐祖の弟の盧懐仁は、武定年中、太尉鎧曹参軍となった。

原文懷祖弟懷仁,武定中,太尉鎧曹參軍。

曾孫 盧亮

原文曾孫 亮

道将の弟の盧亮は、字を仁業という。仕えずして終わった。子に盧思道がある。

原文道將弟亮,字仁業。不仕而終。子思道。

曾孫 盧道裕

原文曾孫 道裕

盧亮の弟の盧道裕は、字を寧祖といい、少にして学尚をもって知名となり、風儀兼ねて美しかった。顕祖の女の楽浪長公主を尚し、駙馬都尉・太子舎人に拝され、尋いで洗馬に転じた。散騎侍郎に遷り、転じて安遠将軍・中書侍郎・兼秘書丞となった。尋いで母憂のため官を去った。服終わり、復た中書侍郎に拝された。龍驤将軍・太子中庶子、幽州大中正に遷った。長兼散騎侍郎に転じ、左将軍を加えられた。神亀二年、左将軍・涇州刺史を除かれた。その年七月、官に卒し、年四十四であった。撫軍将軍・青州刺史を贈られ、帛三百匹を賜り、諡して文侯といった。

原文亮弟道裕,字寧祖,少以學尚知名,風儀兼美。尚顯祖女樂浪長公主,拜駙馬都尉、太子舍人,尋轉洗馬。遷散騎侍郎,轉安遠將軍、中書侍郎、兼祕書丞。尋以母憂去官。服終,復拜中書侍郎。遷龍驤將軍、太子中庶子,幽州大中正。轉長兼散騎侍郎,加左將軍。神龜二年,除左將軍、涇州刺史。其年七月卒官,年四十四。贈撫軍將軍、青州刺史,賜帛三百匹,諡曰文侯。

子の盧景緒は、武定年中、儀同開府録事参軍となった。

原文子景緒,武定中,儀同開府錄事參軍。

曾孫 盧道虔

原文曾孫 道虔

道裕の弟の盧道虔は、字を慶祖といい、粗く経史に閑(なら)い、兼ねて算術に通じた。高祖の女の済南長公主を尚した。公主は驕淫で、声穢は遐邇に及び、先だって疹患なく、倉卒に暴薨した。時に盧道虔の害した所と云う。世宗はその醜悪を秘し、苦しく窮治しなかった。尚書嘗て盧道虔を国子博士に奏した。霊太后が主の薨事を追うと、乃ち盧道虔を黜して民とし、終身仕えなかった。孝昌末、臨淮王の元彧が将に出征せんとするに因り、盧道虔を奉車都尉に除くことを啓した。盧道虔の外生の李彧が荘帝の姉の豊亭公主を尚したので、相藉託した。永安年中、輔国将軍・通直常侍を除かれ、尋いで征虜将軍を加えられた。議暦の勲により、爵を臨淄伯に賜り、散騎常侍に遷った。天平初、征南将軍となり、転じて都官尚書・本州大中正となった。出て驃騎将軍・幽州刺史を除かれ、尋いで衛大将軍を加えられ、官に卒した。都督幽瀛二州諸軍事・驃騎大将軍・尚書右僕射・司空公・瀛州刺史を贈られ、諡して恭文公といった。公主に二子あり、昌宇・昌仁。昌宇は慧(さと)らず、昌仁は早卒した。盧道虔はまた司馬氏を娶り、子の昌裕があった。司馬が出された後、更に元氏を娉し、二子の昌期・昌衡を生んだ。兄弟は父の爵を競い、今に至るまで襲わず。

原文道裕弟道虔,字慶祖,粗閑經史,兼通算術。尚高祖女濟南長公主。公主驕淫,聲穢遐邇,先無疹患,倉卒暴薨。時云道虔所害。世宗祕其醜惡,不苦窮治。尚書嘗奏道虔為國子博士。靈太后追主薨事,乃黜道虔為民,終身不仕。孝昌末。臨淮王彧因將出征,啟除道虔奉車都尉。道虔外生李彧尚莊帝姊豐亭公主,因相藉託。永安中,除輔國將軍、通直常侍,尋加征虜將軍。以議曆勳,賜爵臨淄伯,遷散騎常侍。天平初,征南將軍,轉都官尚書、本州大中正。出除驃騎將軍、幽州刺史,尋加衞大將軍,卒於官。贈都督幽瀛二州諸軍事、驃騎大將軍、尚書右僕射、司空公、瀛州刺史,諡曰恭文公。主二子,昌宇、昌仁。昌宇不慧,昌仁早卒。道虔又娶司馬氏,有子昌裕。及司馬見出之後,更娉元氏,生二子昌期、昌衡。兄弟競父爵,至今未襲。

曾孫 盧道侃

原文曾孫 道侃

道虔の弟の盧道侃は、字を希祖という。州主簿となり、沈雅にして学尚があった。孝昌末に卒した。二子は早夭し、弟の盧道約の子の正達を後とした。武定年中、征虜将軍・太尉記室参軍となった。

原文道虔弟道侃,字希祖。州主簿,沉雅有學尚。孝昌末卒。二子早夭,以弟道約子正達為後。武定中,征虜將軍、太尉記室參軍。

曾孫 盧道和

原文曾孫 道和

道侃の弟、道和、字は叔維。兄弟の中では、人望が最も低い。冀州中軍府中兵参軍。卒す。

原文道侃弟道和,字叔維。兄弟之中,人望最下。冀州中軍府中兵參軍。卒。

子は景豫。景豫の弟は景熙、武定年間、儀同開府諮議。

原文子景豫。景豫弟景熙,武定中,儀同開府諮議。

曾孫 道約

原文曾孫 道約

道和の弟、道約、字は季恭。員外郎として官途につき、累遷して司空録事参軍・司徒属・幽州大中正・輔国将軍・光禄大夫となる。司徒右長史に転ずる。太傅李延寔が青州刺史として出向することになった。延寔は先に病にかかっており、道約は延寔の妻の弟であったので、詔により道約を延寔の長史とし、散騎常侍を加え、補佐させることとした。永熙年間、車騎将軍・左光禄大夫となり、広平王元賛の儀同開府長史を兼ねる。天平年間、開府儀同三司の高岳が長史に請うた。高岳が青州・冀州二州刺史に転任すると、道約は引き続き長史となり、高岳に従って二州を治め、補佐の名声があった。興和末年、衛大将軍・兗州刺史に任じられ、州では民衆の和を得た。武定元年に卒す。享年五十八。使持節・驃騎大将軍・儀同三司・幽州刺史を追贈される。

原文道和弟道約,字季恭。起家員外郎,累遷司空錄事參軍、司徒屬、幽州大中正、輔國將軍、光祿大夫。轉司徒右長史。太傅李延寔出除青州。延寔先被病,道約,延寔之妻弟,詔以道約為延寔長史,加散騎常侍,寄以匡維也。永熙中,車騎將軍、左光祿大夫,領廣平王贊儀同開府長史。天平中,開府儀同高岳請為長史。岳轉除青冀二州,道約仍為長史,隨岳兩藩,有毗佐之稱。興和末,除衞大將軍、兗州刺史,在州頗得民和。武定元年卒,年五十八。贈使持節、驃騎大將軍、儀同三司、幽州刺史。

子の正通は、開府諮議。若くして良い評判があり、晋陽に召し出されたが、病にかかり卒した。妻の鄭氏は、正通の弟の正思と淫乱の関係にあり、武定年間、御史に弾劾され、人々に憎まれた。

原文子正通,開府諮議。少有令譽,徵赴晉陽,遇患卒。妻鄭氏,與正通弟正思淫亂,武定中,為御史所劾,人士疾之。

曾孫 道舒

原文曾孫 道舒

道約の弟、道舒、字は幼安、父の爵位を継ぐ。尚書左主客郎中から冠軍将軍・中書侍郎となる。卒す。

原文道約弟道舒,字幼安,襲父爵。自尚書左主客郎中為冠軍將軍、中書侍郎。卒。

孫 敏

原文孫 敏

淵の弟、敏、字は仲通、小字は紅崖、若くして度量が大きい。太和初年、議郎に任じられるが、早世する。威遠将軍・范陽太守を追贈され、諡は靖。高祖(孝文帝)はその娘を嬪に納れる。敏には五人の子がいた。

原文淵弟敏,字仲通,小字紅崖,少有大量。太和初,拜議郎,早卒。贈威遠將軍、范陽太守,諡曰靖。高祖納其女為嬪。敏五子。

曾孫 義僖

原文曾孫 義僖

義僖、字は遠慶、早くから学問と志操があり、識見と度量は沈着で優雅であった。九歳の時、父を喪い、至孝の性分を示した。若い頃、僕射の李沖に賞賛された。秘書郎として官途につき、太子舎人・司徒中郎を歴任する。神亀初年、任城王元澄が義僖を推挙し、散騎侍郎に任じられ、冠軍将軍・中散大夫に転ずる。母の喪により職を去る。幽州刺史の王誦は義僖と親交があり、旧友の李神儁らに手紙を送って言うには、「盧冠軍(義僖)がここにおり、時折親しく交わり、いつも数日間滞在し、政道について諮問することができる」と。そのように重んじられたのである。斉王蕭宝夤が開府諮議参軍に起用しようとしたが、病気を理由に辞して赴任しなかった。まもなく司空長史を兼ね、征虜将軍・太中大夫に任じられる。閑職に長年あり、淡々として自ら満足していた。李神儁が権勢のある者に取り入るよう勧めたが、義僖は言った、「先王の道を学ぶ者は、先王の志を行うことを貴ぶのであって、どうして苟(いやしく)も富貴を求めることができようか」と。

原文義僖,字遠慶,早有學尚,識度沉雅。年九歲,喪父,便有至性。少為僕射李沖所歎美。起家祕書郎,歷太子舍人、司徒中郎。神龜初,任城王澄奏舉義僖,除散騎侍郎,轉冠軍將軍、中散大夫。以母憂去職。幽州刺史王誦與義僖交款,每與舊故李神儁等書曰:「盧冠軍在此,時復惠好,輒留連數日,得諮詢政道。」其見重若此。齊王蕭寶夤啟為開府諮議參軍,辭疾不赴。尋兼司空長史,拜征虜將軍、太中大夫。散秩多年,澹然自得。李神儁勸其干謁當途。義僖曰:「學先王之道,貴行先王之志,何能苟求富貴也。」

孝昌年間、散騎常侍に任じられる。当時、霊太后が臨朝しており、黄門侍郎の李神軌は朝野に勢力を傾け、婚姻を結ぼうと求めた。義僖は彼が必ず失敗すると考え、拒絶して許さなかった。王誦が義僖に言うには、「昔の人は一人の娘で五人の男子を失わなかったが、卿はそれを失おうとするのか」と。義僖は言った、「従わないのは、まさにそのためである。従えば禍いが大きく早まることを恐れる」と。王誦は堅く義僖の手を握って言った、「私は天命を聞いたが、人に告げることはできない」と。そこで義僖の娘は他の家に嫁いだ。婚礼の前夜、霊太后が中常侍の服景を遣わし、家に赴いて詔を下し、婚礼を中止させた。内外は恐れおののいたが、義僖は平然として自若としていた。建義初年、都官尚書を兼ね、まもなく安東将軍・衛尉卿に任じられる。普泰年間、都官尚書となり、驃騎大将軍・左光禄大夫を加えられる。

原文孝昌中,除散騎常侍。時靈太后臨朝,黃門侍郎李神軌勢傾朝野,求結婚姻。義僖慮其必敗,拒而不許。王誦謂義僖曰:「昔人不以一女易五男,卿豈易之也?」義僖曰:「所以不從,正為此耳。從之恐禍大而速。」誦乃堅握義僖之手曰:「我聞有命,不敢以告人。」遂適他族。臨婚之夕,靈太后遣中常侍服景就家敕停。內外惶怖,義僖夷然自若。建義初,兼都官尚書,尋除安東將軍、衞尉卿。普泰中,除都官尚書,加驃騎大將軍、左光祿大夫。

義僖が若い頃、幽州は頻繁に水害・旱害に遭い、先に数万石の穀物を民に貸し出していたが、義僖はその年の収穫が良くないのを見て、その借用証書を焼き捨てた。州里の人々はその恩徳を喜んだ。性格は寛大で温和、慎重であり、軽々しく親交を結ばず、魏子建とは特に情誼が厚く、言うことに隠し事がなかった。義僖の性質は清廉で倹約し、財利を営まず、顕位にあっても、困窮に陥ることがあり、麦飯や粗食であっても、喜んで甘んじて食べた。永熙年間、風疾が突然発症した。興和年間に卒す。享年六十四。本将軍・儀同三司・瀛州刺史を追贈され、諡は孝簡。

原文義僖少時,幽州頻遭水旱,先有穀數萬石貸民,義僖以年穀不熟,乃燔其契。州閭悅其恩德。性寬和畏慎,不妄交款,與魏子建情好尤篤,言無所隱。義僖性清儉,不營財利,雖居顯位,每至困乏,麥飯蔬食,忻然甘之。永熙中,風疾頓發。興和中卒,年六十四。贈本將軍、儀同三司、瀛州刺史,諡孝簡。

子の遜之は、武定年間、太尉記室参軍。

原文子遜之,武定中,太尉記室參軍。

遜之の弟、世猷は、斉王の開府集曹参軍。

原文遜之弟世猷,齊王開府集曹參軍。

曾孫 義悰

原文曾孫 義悰

義僖の弟義悰、字は叔預。司空行参軍、本州治中、散騎侍郎、司徒諮議参軍を歴任した。

原文義僖弟義悰,字叔預。司空行參軍、本州治中、散騎侍郎、司徒諮議參軍。

子の孝章は、儀同開府行参軍であったが、早世した。

原文子孝章,儀同開府行參軍,早亡。

曾孫 義敦

原文曾孫 義敦

義悰の弟義敦、字は季和。征北府默曹参軍を務めた。

原文義悰弟義敦,字季和。征北府默曹參軍。

子の景開、字は子達。武定年間、儀同開府屬であった。

原文子景開,字子達。武定中,儀同開府屬。

義敦の弟義安、字は幼仁、仕官しなかった。義僖の諸弟は皆、兄には遠く及ばなかった。

原文義敦弟義安,字幼仁,不仕。義僖諸弟並遠不逮兄也。

孫 昶

原文孫 昶

盧敏の弟の盧昶、字は叔達、小字は師顔、経史に学識を広げ、早くから時誉があった。太和初年、太子中舎人・兼員外散騎常侍となり、蕭昭業のもとに使者として赴いた。高祖(孝文帝)は盧昶に詔して言った、「卿はすぐに彼の地に至るが、彼我の区別を心に留めるな。江揚の地は近く、早晩、必ず朕のものとなるであろう。卿らが言いたいことがあれば、遠慮なく疑わずに言え」。また副使の王清石に勅して言った、「卿は元来が南人であることをもって、言葉について気にかけるな。もし向こうに先に知り合いや知人がいて、会いたがれば会い、論じる必要があれば論じよ。盧昶はまさに寛柔の君子であるが、文才は多くない。あるいは主客が卿に詩を作るよう命じたならば、卿の知るままに率直に作るがよい。盧昶が作らないからといって、やめてはならない。およそ使者の体は、和を貴び、互いに誇り高ぶり、それを顔色に表して、使命の体を失ってはならない。卿らはそれぞれ己の知るところに従い、互いに戒め諭せよ」。盧昶がその地に至ると、蕭鸞が僭立していた。この時、高祖は南征を企て、盧昶の兄の盧淵は別道の将となった。蕭鸞は朝廷が兵を加えたことを知り、盧昶らを酷く扱った。盧昶はもともと剛直な人物ではなく、南人から「兄は将となり、弟は使者となった」と聞いて、大いに恐怖し、涙と汗が交わって流れた。蕭鸞は腐った米と臭い魚、刍豆(飼料)を供給した。しかし謁者の張思寧は言辞が剛直で、一度も屈服せず、ついに壮烈に館中で死んだ。盧昶が帰還すると、高祖は彼を責めて言った、「使命を帯びる礼儀は、死すとも辱めを受けることなく、たとえ海の果てに流されようとも、なお節を抱いて死すべきである。卿が長い縄で首を繋がれることができなかったのは、すでに恨むべきことである。ましてやどうして眉を伏せて飲み食いし、犬馬と同じように振る舞ったのか。生きるものは必ず死ぬ、寿命の長短などどれほどのものか。卿がもし身を殺して名を成し、それを竹帛(史書)に遺すことができたならば、どうしてあの飼い葉を甘んじて受け、君父を辱しめるようなことをしたのか。遠く蘇武を慚じることはなくとも、近く張思寧を恥じることはないのか」。盧昶は答えて言った、「臣は陸賈や随何のような器量に乏しく、閩越の地に使者として辱くも赴きました。時に蕭鸞は昏狂で、無道の誅戮を行っておりました。明時(朝廷)に奉じ、老母を養うために帰ることが叶わぬことを恐れ、尺蠖のように身を屈して伸びるを求めました。朝命に辱めを負い、罪は万死に値します。司寇(刑官)に帰参し、斧鉞の刑に伏して謹んでお聞きください」。かくして罷免された。久しくして、また彭城王友に任じられ、転じて秘書丞となった。景明初年、中書侍郎に任じられ、給事黄門侍郎・本州大中正に遷った。盧昶は外任を請うたが、世宗(宣武帝)は許さなかった。散騎常侍に遷り、尚書を兼ねた。

原文敏弟昶,字叔達,小字師顏,學涉經史,早有時譽。太和初,為太子中舍人、兼員外散騎常侍,使於蕭昭業。高祖詔昶曰:「卿便至彼,勿存彼我。密邇江揚,不早當晚,會是朕物。卿等欲言,便無相疑難。」又敕副使王清石曰:「卿莫以本是南人,言語致慮。若彼先有所知所識,欲見便見,須論即論。盧昶正是寬柔君子,無多文才,或主客命卿作詩,可率卿所知,莫以昶不作,便復罷也。凡使人之體,以和為貴,勿遞相矜誇,見於色貌,失將命之體。卿等各率所知,以相規誨。」及昶至彼,值蕭鸞僭立,於是高祖南討之,昶兄淵為別道將。而蕭鸞以朝廷加兵,遂酷遇昶等。昶本非骨鯁,聞南人云兄既作將,弟為使者。乃大恐怖,淚汗交橫。鸞以腐米臭魚莝豆供之。而謁者張思寧辭氣謇諤,曾不屈撓,遂以壯烈死於館中。昶還,高祖責之曰:「銜命之禮,有死無辱,雖流放海隅,猶宜抱節致殞。卿不能長纓羇首,已是可恨。何乃俛眉飲啄,自同犬馬。有生必死,修短幾何。卿若殺身成名,貽之竹素,何如甘彼芻菽,以辱君父乎?縱不遠慚蘇武,寧不近愧思寧!」昶對曰:「臣器乏陸、隨,忝使閩越。屬蕭鸞昏狂,誅戮無道。恐不得仰奉明時,歸養老母,苟存尺蠖,屈以求伸。負辱朝命,罪宜萬死,乞歸司寇,伏聽斧鉞。」遂見罷黜。久之,復除彭城王友,轉祕書丞。景明初,除中書侍郎,遷給事黃門侍郎、本州大中正。昶請外祿,世宗不許。遷散騎常侍,兼尚書。

時に洛陽県で白鼠が捕らえられた。盧昶は上奏して言った。

原文時洛陽縣獲白鼠。昶奏曰:

詔して言った、「朕は大業を継承し、宝暦を敬って受け、八方を安んじ、四海に恵みを施さんことを思う。必世の期に当たりて麟鳳は降らず、勝残の会に属して白鼠が咎を告げる。万邦に罪あれば、実に朕が身にある。尚書は機謀を敷き納れ、献替(良策を献じ、悪政を廃すこと)を寄せられ、正しい言論が聞こえ、朕は実にこれを嘉し美とする」。侍中に転じ、また吏部尚書を兼ね、まもなく正任となり、なお侍中であった。盧昶は職務を守るだけで、何ら激揚するところがなかった。侍中の元暉らと互いに朋党を結び、世宗に寵愛されたが、時の論は彼を卑しんだ。

原文詔曰:「朕纂承鴻緒,伏膺寶曆,思靖八方,惠康四海。當必世之期,麟鳳不降;屬勝殘之會,白鼠告咎。萬邦有罪,實唯朕躬。尚書敷納機猷,獻替是寄,讜言有聞,朕實嘉美。」轉侍中,又兼吏部尚書,尋即正,仍侍中。昶守職而已,無所激揚也。與侍中元暉等更相朋附,為世宗所寵,時論鄙之。

鎮東将軍・徐州刺史として出向した。永平四年の夏、盧昶は上表して言った、「蕭衍の琅邪郡の民である王万寿らが内々に誠意を結び、密かに臣のもとに来詣し、朐山の戍が今や交代するので、攻略の機会があると申しました。臣はすぐに旌賞を約束し、彼らを還して潜入させました。三月二十四日の夜、万寿らは同盟を率いて朐城を急襲し、蕭衍の輔国将軍、琅邪・東莞二郡太守、朐山戍主を兼ねる劉晣と将士四十余人を斬り、その首を州まで伝えました。臣はすぐに郯城戍副を兼ねる張天惠に驍勇二百を率いさせ、直ちに赴かせました。琅邪の諸戍は続々と援軍を送りましたが、蕭衍の郁洲はすでに二軍を派遣して天惠を拒もうとしていました。天惠は万寿らと内外から同時に撃ち、数百を俘斬し、すぐに城を占拠しました」。詔して盧昶に言った、「彭宋の地は辺疆に接し、勢い淮海に連なり、威を以て防ぐ術は、その功を得ることが容易ではない。朐山は険塞で、寇の要防たる地、水陸の交わる湊、揚州・郁洲への路の衝であり、凶徒を蓄え聚め、辺鄙を虔劉(殺害略奪)し、青・光・齊・兗の州はしばしばその患いに罹った。卿の妙算はすでに敷かれ、城を克ち衆を殄(ほろぼ)し、疆を展げ土を闢いた。これに勝る善きこと何があろうか。功勲を酬いることは、朕が嘉し止むところである。故に左右直長の閻遵業を遣わし、往時の思いを詳しく宣べしむ。この戍は郁洲の根本であり、存亡の繫がるところである。今や既にこれを失守し、存続の心なきものあり。彼らは喉を扼されるを見て、救援の計を図らんとす。今、水雨が盛んに行われる。宜しく防守すべきである。卿は深く考えて防禦の規、敵を攘うの略を案じ、使いの者が帰ったら詳しく聞かせよ」。

原文出除鎮東將軍、徐州刺史。永平四年夏,昶表曰:「蕭衍琅邪郡民王萬壽等款誠內結,潛來詣臣,云朐山戍今將交換,有可圖之機。臣即許以旌賞,遣其還入。至三月二十四夜,萬壽等奬率同盟,攻掩朐城,斬衍輔國將軍,琅邪、東莞二郡太守,帶朐山戍主劉晣并將士四十餘人,傳首至州。臣即遣兼郯城戍副張天惠率驍勇二百,徑往赴之。琅邪諸戍絡繹繼援,而衍郁洲已遣二軍以拒天惠。天惠與萬壽等內外齊擊,俘斬數百,便即據城。」詔昶曰:「彭宋地接邊疆,勢連淮海,威禦之術,功在不易。朐山險塞,寇之要防,水陸交湊,揚、郁路衝,畜聚凶徒,虔劉邊鄙,青、光、齊、兗每罹其患。卿妙算既敷,克城殄眾,展疆闢土,何善如之。庸勳之懋,朕用嘉止。故遣左右直長閻遵業具宣往懷。此戍郁洲之本,存亡所繫。今既失守,有不存之心;彼見扼喉,將圖救援之計。今水雨盛行,宜須防守。卿可深思擬捍之規,攘敵之略,使還具聞。」

盧昶はまた上表した、「蕭衍の将である張稷・馬仙琕・陰虔和らがそれぞれ精兵を率い、諸堰に分屯しております。昌義之・張惠紹・王神念・王茂光は彼らの伝信を受け、続いて建鄴より出発しました。自存の計は、すべてここに帰しております。力を量り寇を準えるに、事態は軽からざる恐れがあります。何となれば、この兵九千に対し、賊の衆は四万、名将健士は遠近より畢集し、雨熱に乗じて決死来戦し、衆を藉り凶に乗じ、巣穴を固めんと希っています。傾国を挙げて来る所以は、朐山のためではなく、王師が六里を固め、湖衝を占拠し、南は淮浦を遮断する勢いが、崩壊して測り難いことを恐れ、海の利たる塩物が、常の貢ぎ物と交わって欠けることを恐れるからです。慮る所は大きく、必ず争う心があります。もし皇家が経略し、まさに討伐せんとするならば、必ずや将を簡び兵を増やし、糧食と兵器を加益し、これと対抗し擬する必要があります。相持して秋に至り、天の麾(指揮)一たび動けば、開拓すること容易です。南を図る計略は、事の根本は今にあります。兵六千、米十万石の増派を請います。もしそれが叶わぬならば、謹んで朝議をお聞きします」。盧昶はまた上表した、「賊徒は大いに集まり、衆旅は強盛で、柵を朐山に置き、門井に屯守し、固城を包囲し、昼夜連戦しております。恐らくは狡悪な勢いが既に強く、後には除揃(討伐)することが難しくなりましょう。直ちに征虜将軍趙遐に現有の兵を率いさせ、これと決勝させたいと存じます。趙遐は衆が少なく敵わぬことを慮り、もし一挙に失利すれば、衆心が挫けて怯えるとし、大衆が俱に至るのを待ち、鋭気を奮ってこれを撃つことを求めております。窃かにこの謀は、孟浪(軽率)なものではないと考えます。かつ臣はもとより朝規を奉じ、相拒んで守り、涼月を待つよう命じられておりました。今年は既に秋となり、高風が次第に挙がり、経算の大図、時事が既に至っております。かつ鮑口より以東は、陸運に障りなく、朐・固の間は、もとより停潦(水溜り)もなく、時に応じて辺陲を掩撃すべきです。しかるに賊は夏以来、甲を貫いて休まず、六里以北からは、城柵が相連なり、兵人を使役して、既に疲弊しております。もし大衆がこれに臨めば、必ずや擒え勝利を得ることができます。一城が退潰すれば、衆塁は土崩し、勝に乗じてこれを図ることは、朽ちたものを振るうよりも容易です。もし兵が速やかに至らなければ、彼らの熾んなる心を長じさせ、軍士は憂い恐れ、自ら異議を生じましょう。速やかに兵を簡配され、事機に及ばれますよう請います」。詔して言った、「朐山を克ち獲た計略は、元より盧昶にあり、乗勝の規は、終には宜しく委ねるべきところがある。これをもって起兵の始めより、即ち処分を委ね、前機の経略は、一にこれを任せた。今や既に兵を請う、理として速やかに遂げるべきである。冀・定・瀛・相の四州の中品羽林・虎賁四千人を派遣してこれに赴かせよ」。

原文昶又表:「蕭衍將張稷、馬仙琕、陰虔和等各領精兵,分屯諸堰;昌義之、張惠紹、王神念、王茂光承彼傳信,續發建鄴。自存之計,并歸於此。量力準寇,事恐不輕。何者?此兵九千,賊眾四萬,名將健士,遠近畢集,邀憑雨熱,決死來戰,藉眾乘凶,希固巢穴。所以傾國而舉,非為朐山,將恐王師固六里,據湖衝,南截淮浦,勢崩難測,海利鹽物,交闕常貢。所慮在大,有必爭之心。若皇家經略,方有所討,必須簡將增兵,加益糧仗,與之亢擬。相持至秋,天麾一動,開拓為易。圖南之計,事本在今,請增兵六千、米十萬石;如其不也,伏聽朝議。」昶又表:「賊徒大集,眾旅強盛,置柵朐山,屯守門井,并圍固城,晝夜連戰。恐狡勢既強,後難除揃。輒欲令征虜將軍趙遐率勒見兵,與之決勝。遐慮眾少不敵,若一舉失利,則眾心挫怯,求待大眾俱至,奮銳擊之。竊謂此謀,非為孟浪。且臣本奉朝規,令相拒守,以待涼月。今歲已云秋,高風漸舉,經算大圖,時事既至。且鮑口以東,陸運無閡,朐、固之間,本無停潦,宜時掩擊邊陲。而賊自夏以來,貫甲不歇,從六里以北,城柵相連,役使兵人,便已疲殆。若大眾臨之,必可禽捷。一城退潰,眾壘土崩,乘勝圖之,易於振朽。脫兵不速至,長彼熾心,軍士憂惶,自生異議。請速簡配,以及事機。」詔曰:「克獲朐山,計本於昶,乘勝之規,終宜有寄。是以起兵之始,即委處分,前機經略,一以任之。今既請兵,理宜速遂。可遣冀、定、瀛、相四州中品羽林、虎賁四千人赴之。」

また詔を下して昶に言う、「朐山の攻略は、実に卿によるものであり、疆土を開拓することは、実に長策である。然るに経討して未だ服せざるものあり、卿に非ずして誰かあらん。而して蟻の徒が死を送り、王略を侵さんと規る。天、小賊を亡ぼす、その数は遠からず。故に前者は卿に命じて親臨し指授せしめんとし、尋ねて卿の疾未だ瘳えず、且つ消息を待つ。今既に痊え復す、宜しく前旨に遵い、戈を秉り鋭を揮い、寇を殄するを懐とすべし。已に虎旅五万を発し、機に応じて電赴し、辰を指して至らん、遂に卿の本請に従う。彼の東南を截ち、亮かに高算を委ぬ」と。また詔を下して昶に言う、「朐山を取り戍を置くは、並びに是れ卿の計にして、始終の成敗は、悉く卿に帰す。卿は兵少なきを以て益すを請う、今已に卿の本意に遂う。聞く所に依れば、東唐の陸道は甚だ狭く、一軌の外は、皆大水なりと。彼必ず之を拠りて、以て軍路を断たんとす。若し已に此の如くならば、更に何の策を設けん。其の軍の奇兵変を、遽かに以て表聞せよ。又聞く、衍の軍の将帥、毎に流言有り、云う、魏は淮陽・宿豫を博くす、乃ち是れ両宜なりと。若し実に此れ有らば、卿は朐山の薪水の幾時を支うるを得るかを量るべし。脱び事容れて往復するあらば、馳驛して速やかに聞かしめよ。如し薪水少しく急なれば、即ち量計すべし。若し理以て此れ爾る可からざれば、亦た将軍の裁決に任す」と。

原文又詔昶曰:「朐山之克,實由於卿,開疆拓土,實為長策。然經討未服,非卿而誰?而蟻徒送死,規侵王略,天亡小賊,數在無遠。故前者命卿親臨指授,尋以卿疾未瘳,且待消息。今既痊復,宜遵前旨,秉戈揮銳,殄寇為懷。已發虎旅五萬,應機電赴,指辰而至,遂卿本請。截彼東南,亮委高算。」又詔昶曰:「取朐置戍,並是卿計,始終成敗,悉歸於卿。卿以兵少請益,今已遂卿本意。如聞東唐陸道甚狹,一軌之外,皆是大水。彼必據之,以斷軍路。若已如此,更設何策?其軍奇兵變,遽以表聞。又聞衍軍將帥,每有流言,云魏博淮陽、宿豫,乃是兩宜。若實有此,卿可量朐山薪水得支幾時。脫事容往返,馳驛速聞。如薪水少急,即可量計。若理不可爾,亦將軍裁決。」

昶は儒生たるを以て、元来将略に乏しく、又羊祉の子燮が昶の司馬となり、専ら戎事を任じ、昶の耳目を掩い、将士之を怨みたる。朐山の戍主傅文驥、糧樵俱に罄き、城を以て衍に降る。昶、城の降るを見て、ここに先ず走り退く。諸軍相尋いで奔遁し、大寒雪に遇い、軍人の凍死し及び手足を落とすもの三分にして二なり。国家江左を経略するより以来、唯だ中山王英の鍾離に敗れ、昶の朐山に利を失う、最も甚だしきものと為す。世宗、黄門甄琛を遣わし馳驛して昶を鎖し、其の敗状を窮む。詔して曰く、「朐山の敗は、傷損実に深し、始を推し末を究むれば、罪は元帥に鍾る。大宥を経ると雖も、軽重宜しく別つべく、昶一人は以て官を免し論坐すべし、自余の将統以下は悉く赦に依り復任を聴くべし」と。

原文昶既儒生,本少將略,又羊祉子燮為昶司馬,專任戎事,掩昶耳目,將士怨之。朐山戍主傅文驥糧樵俱罄,以城降衍。昶見城降,於是先走退。諸軍相尋奔遁,遇大寒雪,軍人凍死及落手足者三分而二。自國家經略江左,唯有中山王英敗於鍾離,昶於朐山失利,最為甚焉。世宗遣黃門甄琛馳驛鎖昶,窮其敗狀。詔曰:「朐山之敗,傷損實深,推始究末,罪鍾元帥。雖經大宥,輕重宜別,昶一人可以免官論坐,自餘將統以下悉聽依赦復任。」

未だ幾ばくもせず、太常卿を拝し、仍として安西将軍・雍州刺史を除き、又鎮西将軍の号を進め、散騎常侍を加う。熙平元年、官に卒す。征北将軍・冀州刺史を贈られ、諡して穆と曰う。

原文未幾,拜太常卿,仍除安西將軍、雍州刺史,又進號鎮西將軍,加散騎常侍。熙平元年卒於官。贈征北將軍、冀州刺史,諡曰穆。

昶は寛和にして矜恕、綏撫に善く、其の徐州に在りし時、戍兵疾あれば、親しく検恤す。番兵の年満ちて帰らざるに至りては、容れて後役に充つるを許し、昶の一政を終え、然る後に始めて還る。人庶之を称す。

原文昶寬和矜恕,善於綏撫,其在徐州,戍兵疾,親自檢恤。至番兵年滿不歸,容充後役,終昶一政,然後始還。人庶稱之。

曾孫 元聿

原文曾孫 元聿

子元聿、字は仲訓、他に才能無し。高祖の女義陽長公主に尚し、駙馬都尉を拝す。位は太尉司馬・光禄大夫に至る。卒し、中書監を贈られる。

原文子元聿,字仲訓,無他才能。尚高祖女義陽長公主,拜駙馬都尉。位太尉司馬、光祿大夫。卒,贈中書監。

曾孫 元明

原文曾孫 元明

元聿の第五弟元明、字は幼章。群書に渉歴し、兼ねて文義有り、風彩閑潤にして、進退観るべし。永安の初め、長兼尚書令・臨淮王彧之を欽愛す。彧の開府するに及び、引いて兼属と為し、仍として部曲を領す。出帝の阼に登るや、郎任を以て礼を行い、城陽県子に封ぜられ、中書侍郎に遷る。永熙の末、洛東の緱山に居り、乃ち幽居賦を作る。時に元明の友人王由潁川に居る、忽ち夢に由が酒を携えて就き言別し、詩を賦して贈る有り。明くるに及び、其の詩の十字を憶う、「茲より一去して後は、市朝復た遊ばず」と。元明歎じて曰く、「由の性俗に狎れず、旅寄人間す、乃ち今夢有り、又復た此の如し、必ず他故有らん」と。三日を経て、果たして由の乱兵の害する所と為るを聞く。其の亡日を尋ぬれば、乃ち是れ夢を得しの夜なり。天平の中、吏部郎中を兼ね、李諧に副えて蕭衍に使いしに、南人之を称す。還りて、尚書右丞を拝し、散騎常侍に転じ、起居を監す。積年史館に在りて、了て意を厝さず。又黄門郎・本州大中正を兼ぬ。元明は善く自ら標置し、妄りに交遊せず、酒を飲み詩を賦し、興に遇いては返るを忘る。性玄理を好み、史子新論数十篇を作り、文筆は別に集録有り。少時常に郷より還り洛す、途に相州刺史・中山王熙に遇う。熙は博識の士、見て歎じて曰く、「盧郎かくの如き風神有り、唯だ離騷を誦し、美酒を飲み、自ら佳器と為すを須つ」と。遂に之を数日留め、帛及び馬を贈りて別る。元明凡そ三たび娶る、次妻鄭氏は元明の兄の子士啓と淫汙す、元明離絶する能わず。又世地を以て自ら矜るを好み、時論此を以て之を貶す。

原文元聿第五弟元明,字幼章。涉歷羣書,兼有文義,風彩閒潤,進退可觀。永安初,長兼尚書令、臨淮王彧欽愛之。及彧開府,引為兼屬,仍領部曲。出帝登阼,以郎任行禮,封城陽縣子,遷中書侍郎。永熙末,居洛東緱山,乃作幽居賦焉。於時元明友人王由居潁川,忽夢由攜酒就之言別,賦詩為贈。及明,憶其詩十字云:「自茲一去後,市朝不復遊。」元明歎曰:「由性不狎俗,旅寄人間,乃今有夢,又復如此,必有他故。」經三日,果聞由為亂兵所害。尋其亡日,乃是得夢之夜。天平中,兼吏部郎中,副李諧使蕭衍,南人稱之。還,拜尚書右丞,轉散騎常侍,監起居。積年在史館,了不厝意。又兼黃門郎、本州大中正。元明善自標置,不妄交遊,飲酒賦詩,遇興忘返。性好玄理,作史子新論數十篇,文筆別有集錄。少時常從鄉還洛,途遇相州刺史、中山王熙。熙博識之士,見而歎曰:「盧郎有如此風神,唯須誦離騷,飲美酒,自為佳器。」遂留之數日,贈帛及馬而別。元明凡三娶,次妻鄭氏與元明兄子士啟淫汙,元明不能離絕。又好以世地自矜,時論以此貶之。

曾孫 元緝

原文曾孫 元緝

元明の弟元緝、字は幼緒。凶率にして酒を好み、曾て婦氏に飲宴し、小しく不平有り、手を以て其の客を刃す。起家して秘書郎、転じて司徒祭酒。稍く遷りて輔国将軍・司徒司馬、官に卒す。散騎常侍・都督幽瀛二州諸軍事・驃騎大将軍・吏部尚書・幽州刺史を贈られ、諡して宣と曰う。

原文元明弟元緝,字幼緒。凶率好酒,曾於婦氏飲宴,小有不平,手刃其客。起家祕書郎,轉司徒祭酒。稍遷輔國將軍、司徒司馬,卒於官。贈散騎常侍、都督幽瀛二州諸軍事、驃騎大將軍、吏部尚書、幽州刺史,諡曰宣。

孫 尚之

原文孫 尚之

昶の弟尚之、字は季儒、小字は羨夏、亦た儒素を以て重んぜらる。太和の中、議郎を拝し、転じて趙郡王征東諮議参軍。母憂にて官を去る。後に太尉主簿・司徒属・范陽太守・章武内史・兼司徒右長史と為り、冠軍将軍を加え、左長史に転ず。出でて前将軍・済州刺史と為る。入りて光禄大夫を除く。正光五年卒す、年六十二。散騎常侍・安東将軍・青州刺史を贈られる。

原文昶弟尚之,字季儒,小字羨夏,亦以儒素見重。太和中,拜議郎,轉趙郡王征東諮議參軍。母憂去官。後為太尉主簿、司徒屬、范陽太守、章武內史、兼司徒右長史,加冠軍將軍,轉左長史。出為前將軍、濟州刺史。入除光祿大夫。正光五年卒,年六十二。贈散騎常侍、安東將軍、青州刺史。

曾孫 文甫

原文曾孫 文甫

長子の文甫は、字を元祐という。若くして器量と志操があり、文史に広く通じ、当時に誉れがあった。司空参軍の位に至り、四十九歳で卒した。

原文長子文甫,字元祐。少有器尚,涉歷文史,有譽於時。位司空參軍,年四十九卒。

子の敬舒は、文学の才があり、早くに亡くなった。

原文子敬舒,有文學,早亡。

曾孫に文翼あり。

原文曾孫 文翼

文甫の弟の文翼は、字を仲祐という。若い頃は甚だ軽薄で落ち着きがなかったが、晩年にはかなり節操を改めた。員外郎となり、郷里に帰った。永安年間、都督となり、范陽三城を守って賊帥の韓婁を防ぎ功績があり、范陽子の爵位を賜った。永熙年間、右将軍・太中大夫に任ぜられた。郷里に閑居して卒し、六十歳であった。

原文文甫弟文翼,字仲祐。少甚輕躁,晚頗改節。為員外郎,因歸鄉里。永安中,為都督,守范陽三城,拒賊帥韓婁有功,賜爵范陽子。永熙中,除右將軍、太中大夫。栖遲桑井而卒,年六十。

子の士偉は、興和年間、中散大夫となった。

原文子士偉,興和中,中散大夫。

文翼の弟の文符は、字を叔僖といい、性質は率直で物事にこだわらなかった。員外郎・羽林監・尚書主客郎中を歴任し、通直散騎侍郎に遷った。永安年間に卒し、四十歳であった。

原文子翼弟文符,字叔僖,性通率。位員外郎、羽林監、尚書主客郎中,遷通直散騎侍郎。永安中卒,年四十。

子の子潛は、武定年間、斉の文襄王の中外府中兵参軍となった。

原文子子潛,武定中,齊文襄王中外府中兵參軍。

度世は、李氏の甥である。彼が済州刺史であった時、国家は升城を平定したばかりであった。無塩の房崇吉の母傅氏は、度世の継外祖母の兄の子の妻である。兗州刺史申纂の妻賈氏は、崇吉の父方の叔母の娘であり、共に戦乱で敗れ、老病で憔悴していた。度世は中表の親族関係を推し量り、恭しく思いやりを示した。傅氏に拝謁するたびに跪いて起居を問い、時宜に応じて衣類や食物を贈り、また賈氏を救済し、衣服や食事を供給した。青州が陥落すると、諸崔は零落したが、多くを収容し贖い出した。淵や昶らもまた父の風に従い、遠い親族や疎遠な縁者にも、尊属としての礼を尽くし、年長者には皆拝礼して敬意を示した。家門の礼法は、世に推賞された。謙虚で控えめ、質素で、世と競わなかった。父母が亡くなった後も、同居して財産を共有し、祖父から孫に至るまで、家内は百口を数えた。洛陽にいた時、飢饉の年があり、自らを養う術がなかったが、尊卑仲良く和やかで、豊かさも質素さも共にした。親族の従兄弟たちは、常に朝に諸父に挨拶し、別室に出て座り、夕方になってから入った。公務以外では、むやみに交際しなかった。このように礼をもって互いに励まし合った。また一門から三人の公主(皇女)を娶り、当時栄誉とされた。淵兄弟が亡くなり、道将が卒した後、家風は衰え損なわれ、子孫は多く法に外れ、閨房の内が乱れ穢れ、論者に軽蔑された。

原文度世,李氏之甥。其為濟州也,國家初平升城。無鹽房崇吉母傅氏,度世繼外祖母兄之子婦也。兗州刺史申纂妻賈氏,崇吉之姑女也,皆亡破軍途,老病憔悴。而度世推計中表,致其恭恤。每覲見傅氏,跪問起居,隨時奉送衣被食物,亦存賑賈氏,供其服膳。青州既陷,諸崔墜落,多所收贖。及淵、昶等並循父風,遠親疏屬,敍為尊行,長者莫不畢拜致敬。閨門之禮,為世所推。謙退簡約,不與世競。父母亡,然同居共財,自祖至孫,家內百口。在洛時有飢年,無以自贍,然尊卑怡穆,豐儉同之。親從昆弟,常旦省謁諸父,出坐別室,至暮乃入。朝府之外,不妄交遊。其相勗以禮如此。又一門三主,當世以為榮。淵兄弟亡,及道將卒後,家風衰損,子孫多非法,帷薄混穢,為論者所鄙。

従祖弟に神宝あり。

原文從祖弟 神寶

度世の従祖弟の神宝は、中書博士であった。太和年間、高祖(孝文帝)が高陽王元雍のためにその娘を妃に迎えた。

原文度世從祖弟神寶,中書博士。太和中,高祖為高陽王雍納其女為妃。

初め、玄の従祖兄の溥は、慕容宝の末年、郷里の部衆を統率し、海辺に駐屯し、遂に郷里の姻戚である諸祖十余人を殺害し、征北大将軍・幽州刺史を称し、郡県を攻撃略奪した。天興年間に討伐され捕らえられ、事績は帝紀にある。

原文初,玄從祖兄溥,慕容寶之末,總攝鄉部,屯於海濱,遂殺其鄉姻諸祖十餘人,稱征北大將軍、幽州刺史,攻掠郡縣。天興中討禽之,事在帝紀。

溥の玄孫の洪は、字を曾孫という。太和年間、中書博士を歴任し、次第に高陽王元雍の鎮北府諮議参軍・幽州中正・楽陵・陽平二郡太守に遷った。洪に三子あり。

原文溥玄孫洪,字曾孫。太和中,歷中書博士,稍遷高陽王雍鎮北府諮議參軍、幽州中正、樂陵陽平二郡太守。洪三子。

長子の崇は、字を元礼という。若くして美名を立て、識者は遠大な将来を約束するものと認めた。景明年間、驃騎府法曹参軍となった。早世した。

原文長子崇,字元禮。少立美名,有識者許之以遠大。景明中,驃騎府法曹參軍。早卒。

子の子剛は、司空行参軍・荊州驃騎府主簿となった。関中で没した。

原文子子剛,司空行參軍、荊州驃騎府主簿。沒於關中。

崇の弟の仲義は、小名を黒といい、世に知られた。高陽王元雍の司空行参軍・員外散騎侍郎・幽州別駕となった。

原文崇弟仲義,小名黑,知名於世。高陽王雍司空行參軍、員外散騎侍郎、幽州別駕。

弟の三男は叔矩、字は子規。武定年間に尚書郎となった。

原文弟三子叔矩,字子規。武定中,尚書郎。

子規の弟の子は子正、司徒法曹参軍となった。崇兄弟は官位こそ達しなかったが、婚姻においては常に玄の家と同等であった。

原文子規弟子正,司徒法曹參軍。崇兄弟官雖不達,至於婚姻,常與玄家齊等。

仲義の弟は幹、字は幼禎。州主簿となった。

原文仲義弟幹,字幼禎。州主簿。

子は譲、儀同開府参軍となった。

原文子讓,儀同開府參軍。

洪の弟は光宗、子は観、観の弟は仲宣、事績は文苑伝にある。

原文洪弟光宗,子觀,觀弟仲宣,事在文苑傳。

仲宣の弟は叔虎、武定初年に司徒諮議参軍となった。

原文仲宣弟叔虎,武定初,司徒諮議參軍。

洪の従弟は附伯、附伯の弟は侍伯、ともに学識があった。附伯は位は滄州平東府長史に至った。侍伯は、永熙年間に衛大将軍・南岐州刺史となった。

原文洪從弟附伯,附伯弟侍伯,並有學識。附伯位至滄州平東府長史。侍伯,永熙中衞大將軍、南岐州刺史。

侍伯の従弟は文偉、興和年間に驃騎大将軍・青州刺史・大夏県開国男となった。

原文侍伯從弟文偉,興和中,驃騎大將軍、青州刺史、大夏縣開國男。