盧玄
盧玄、 字 は子真、范陽郡涿県の人である。曾祖父の諶は、晋の 司空 劉琨の従事中郎であった。祖父の偃、父の邈は、ともに 慕容 氏に仕えて郡太守となり、いずれも儒雅をもって称された。神䴥四年、儒俊を召し辟すに当たり、玄を首として、 中書 博士を授けられた。 司徒 崔浩は玄の外兄であり、しばしば玄と語るごとに嘆じて言うには、「子真に対すると、我が懐古の情を一層深からしむ」と。浩は大いに人倫を斉整し、姓族を分明にせんと欲した。玄これを諫めて言うには、「制を創り事を立つるは、各々其の時有り、此れを為すを楽む者は、詎んぞ幾人か有らん。宜しく三思すべし」と。浩は当時異言無かりしも、遂に納れず、浩の敗は頗る亦此れに由る。後に寧朔将軍・兼 散騎常侍 に転じ、劉義隆に使す。義隆之を見て、語ること良久く、嘆じて言うには、「中郎は卿の曾祖父なり」と。既に還りて、病にて卒す。
子 度世
子の度世、字は子遷。幼くして聡明にして物事に通じ、計数に長ず。中書学生となり、東宮に応選す。弱冠にして、従兄の遐とともに学行を以て時流に重んぜらる。
度世は後に崔浩の事に坐し、官を棄てて高陽の鄭羆の家に逃げ、羆之を匿う。使者は羆の長子を囚え、将に捶楚を加えんとす。羆之を戒めて言うには、「君子は身を殺して以て人を成す、汝は死すと雖も言う勿れ」と。子は父の命を奉じ、遂に考掠せられ、乃ち火を以て其の体を爇くに至るも、因って物故し、卒に言う所無し。度世は後に弟をして羆の妹を娶らしめ、以て其の恩に報ゆ。世祖江に臨むに当たり、劉義隆其の殿中將軍黄延年をして朝貢せしむ。世祖延年に問うて曰く、「范陽の盧度世は崔浩と親通するに坐し、命を逃れて江表に至る、応に已に彼に至るべしや」と。延対えて曰く、「都下に聞こえず、当に必ず至らず」と。世祖詔して東宮に度世の宗族の逃亡及び籍没せられたる者を赦す。度世乃ち出づ。京に赴き、中書侍郎に拝し、爵を襲ぐ。
興安中、太常卿を兼ね、保太后の父遼西献王の廟を立て、鎮遠将軍を加えられ、爵を侯に進む。後に散騎侍郎を除かれ、劉駿に使す。其の 侍中 柳元景を遣わして度世と対接せしむるに、度世応対衷を失う。還りて、禁劾せられ、経年にして乃ち釈かる。仮節・鎮遠将軍・齊州 刺史 を除く。州は辺境に接し、将士数相侵掠す。度世乃ち統ぶる所を禁勒し、其の俘虜を還し、二境以て寧し。後に事に坐して囚繫せられ、久しくして、郷里に還る。尋いで徴されて京に赴き、平東将軍・青州刺史を除かるるも、拝せず、患に遇う。延興元年卒す、年五十三。 諡 して惠侯と曰う。四子、淵・敏・昶・尚。
初め、玄に五子有り、嫡は唯だ度世のみ、余は皆別生なり。崔浩の事難に当たり、其の庶兄弟常に危害を加えんと欲す、度世常に深く忿恨す。度世に子有るに及び、毎に誡約して妾孽を絶たしめ、長ずるを得ざらしめ、以て後患を防ぐ。淵兄弟に至りては、婢賤の生む子は、形貌相類うと雖も、皆挙げ接せず。識者の非とするところとなる。
孫 淵
淵、字は伯源、小名は陽烏。性質温雅にして寡欲、祖父の風有り、学業を敦尚し、閨門和睦す。侯爵を襲ぎ、主客令に拝し、属国を典む。秘書令・始平王師に遷る。例に以て爵を降して伯と為す。給事黄門侍郎、兼 散騎常侍 ・秘書監・本州大中正に遷る。是の時、高祖将に馮后を立んとし、方に朝臣を集めて之を議す。高祖先ず淵に謂いて曰く、「卿の意以為らく如何」と。対えて曰く、「此れ古より慎む所、臣が愚意の如きは、宜しく更に簡卜すべし」と。高祖曰く、「先后の姪を以てす、朕が意已に定まれり」と。淵曰く、「勅を奉ずること此の如きと雖も、然れども臣が心に於いて実に未だ尽きざる有り」と。朝臣集議に及び、意を執ること前に如し。馮誕盛んなる寵有り、深く以て恨みと為すも、淵は以て介懷せず。
高祖蕭賾を伐たんと議するに及び、淵表して曰く。
詔して曰く。
車駕南伐するに及び、趙郡王幹関右諸軍事を督し、詔して淵に使持節・安南将軍を加えて副と為し、衆七万を勒して将に子午より出でんとす。尋いで蕭賾の死を以て、師を停む。是の時涇州の 羌 叛き、城邑を残破す、淵歩騎六千の衆を以て号すること三万、徐行して進む。未だ三旬を経ず、賊衆逃散し、降する者数万口、唯だ首悪を梟すのみ、余は悉く問わず。詔して侍中を兼ぬ。初め、淵年十四、嘗て 長安 に詣る。将に還らんとす、諸相餞送する者五十余人、別るるに渭北に於いてす。相者有り扶風の人王伯達曰く、「諸君皆此の盧郎の如からず、位は実に副わざると雖も、然れども徳声甚だ盛ん、望み公輔を踰ゆ。後二十余年、当に関右を制命せん。願わくは相忘れざらん」と。此の行なり、相者年八十を過ぎ、軍門に詣りて請い見え、平生を言敍す。未だ幾ばくもあらず、儀曹 尚書 に拝す。高祖在位を考課し、淵を降して以て王師常侍・尚書を守らしめ、常侍の禄一周を奪う。尋いで 豫 州刺史を除くも、母老ゆるを以て固く辞す。
会うに蕭昭業の雍州刺史曹虎使いを遣わして降を請うに、乃ち淵を以て使持節・安南将軍と為し、前鋒諸軍を督して径ち樊鄧に赴かしむ。淵面して辞して曰く、「臣本より儒生、頗る俎豆を聞く、軍旅の事は、未だ之を学ばず。惟だ陛下之を裁せられんことを」と。軍期已に逼るも、高祖許さず。淵曰く、「但だ曹虎の周魴たるを恐るるのみ、陛下宜しく之を審にすべし」と。虎果たして偽り降る。淵葉に至り、曹虎の譎詐なるを具に問い、兼ねて其の利害を陳ぶ。詔して淵に南陽を進取りしむ。淵兵少なく糧乏しきを以て、表して先ず赭陽を攻めんことを求む、葉倉に近き故なり。高祖之を許す、乃ち赭陽を進攻す。蕭鸞将の垣歴生を遣わして来り救う、淵素より将略無く、賊に敗れられるに坐し、官爵を免ぜられ民と為る。
尋いで母憂に遭う、高祖謁者を遣わして宅に詣り宣慰す。服闋け、 太尉 長史を兼ぬ。高祖南討するに及び、又た彭城王中軍府長史を兼ぬ。尋いで徐州・京兆王愉の長史を兼ね、絹百匹を賜う。愉既に年少、事の巨細無く、多く淵に決す。淵誠信を以て物に御し、甚だ東南の民和を得たり。南徐州刺史沈陵密かに外叛を謀る、淵其の萌漸を覚り、潜かに諸戍を敕し、微かに之が備えを為す。屡に表して聞かす有り、朝廷納れず。陵果たして将佐を殺し、宿 豫 の衆を勒して逃叛す。淮に濱き諸戍、備えに由りて全きを得。陵辺に歴年し、陰に結ぶこと既に廣く、二州の人情的に咸く相扇惑す。陵の余党、頗る執り送らるるを見る、淵皆撫でて之を赦し、惟だ罪を陵に帰す、是に由りて衆心乃ち安んず。
景明初、秘書監を除く。二年官に卒す、年四十八。安北将軍・幽州刺史を贈られ、本爵固安伯を復し、諡して懿と曰う。
初めに、盧諶の父の盧志は鍾繇の書法を学び、その業を累世に伝え、世に能名があった。盧邈より以上は、兼ねて草書を善くした。盧淵は家法を習い、代京の宮殿の多くは盧淵の題したものであった。白馬公の崔玄伯もまた書を善くし、世に衛瓘の体を伝えた。魏の初めに書を工みする者は、崔・盧の二門である。盧淵は 僕射 の李沖と特に相善くした。李沖は盧淵の門風を重んじ、盧淵は李沖の才官を敬ったので、婚姻を結び、往来親密であった。盧淵が高祖の意遇を荷うに至っては、頗る李沖による所もあった。盧淵には八人の子があった。
曾孫 盧道将
長子の盧道将は、字を祖業といい、父の爵を襲うべきであったが、その第八弟の盧道舒に譲った。有司が奏聞すると、詔して曰く、「長嫡が重きを承くるは、礼の大経なり、何ぞ輒く授くべけんや」と。しかし盧道将は、清河王国常侍の韓子熙が弟の韓仲穆に魯陽男を譲った例を引き、尚書の李平が重ねて奏したので、詔は遂に聴許した。盧道将は経史に渉猟し、気風は謇諤として、頗る文才があり、一家の後来の冠たり、諸父は皆これを敬憚した。彭城王の元勰、任城王の元澄は皆虚襟して相待した。元勰が中軍大将軍となると、行参軍に辟した。 司徒 東閤祭酒、尚書左外兵郎中に遷り、転じて秘書丞となった。出て燕郡太守となった。盧道将が下車すると、楽毅・霍原の墓を表し、その祠を立てた。儒生を優礼し、学業を励まし勧め、農桑を敦め課し、墾田は歳ごとに倍した。入って 司徒 司馬となった。卒し、龍驤将軍・太常少卿を贈られ、諡して献といった。文筆数十篇を作った。
子の盧懐祖は、太学博士・員外散騎侍郎となった。卒した。
懐祖の弟の盧懐仁は、武定年中、太尉鎧曹参軍となった。
曾孫 盧亮
道将の弟の盧亮は、字を仁業という。仕えずして終わった。子に盧思道がある。
曾孫 盧道裕
盧亮の弟の盧道裕は、字を寧祖といい、少にして学尚をもって知名となり、風儀兼ねて美しかった。顕祖の女の楽浪長公主を尚し、駙馬都尉・太子舎人に拝され、尋いで洗馬に転じた。散騎侍郎に遷り、転じて安遠将軍・中書侍郎・兼秘書丞となった。尋いで母憂のため官を去った。服終わり、復た中書侍郎に拝された。龍驤将軍・太子中庶子、幽州大中正に遷った。長兼散騎侍郎に転じ、左将軍を加えられた。神亀二年、左将軍・涇州刺史を除かれた。その年七月、官に卒し、年四十四であった。撫軍将軍・青州刺史を贈られ、帛三百匹を賜り、諡して文侯といった。
子の盧景緒は、武定年中、儀同開府録事参軍となった。
曾孫 盧道虔
道裕の弟の盧道虔は、字を慶祖といい、粗く経史に 閑 い、兼ねて算術に通じた。高祖の女の済南長公主を尚した。公主は驕淫で、声穢は遐邇に及び、先だって疹患なく、倉卒に暴薨した。時に盧道虔の害した所と云う。世宗はその醜悪を秘し、苦しく窮治しなかった。尚書嘗て盧道虔を国子博士に奏した。霊太后が主の薨事を追うと、乃ち盧道虔を黜して民とし、終身仕えなかった。孝昌末、臨淮王の元彧が将に出征せんとするに因り、盧道虔を奉車都尉に除くことを啓した。盧道虔の外生の李彧が荘帝の姉の豊亭公主を尚したので、相藉託した。永安年中、輔国将軍・通直常侍を除かれ、尋いで征虜将軍を加えられた。議暦の勲により、爵を臨淄伯に賜り、 散騎常侍 に遷った。天平初、征南将軍となり、転じて都官尚書・本州大中正となった。出て驃騎将軍・幽州刺史を除かれ、尋いで衛大将軍を加えられ、官に卒した。 都督 幽瀛二州諸軍事・驃騎大将軍・尚書右僕射・ 司空 公・瀛州刺史を贈られ、諡して恭文公といった。公主に二子あり、昌宇・昌仁。昌宇は 慧 らず、昌仁は早卒した。盧道虔はまた司馬氏を娶り、子の昌裕があった。司馬が出された後、更に元氏を娉し、二子の昌期・昌衡を生んだ。兄弟は父の爵を競い、今に至るまで襲わず。
曾孫 盧道侃
道虔の弟の盧道侃は、字を希祖という。州主簿となり、沈雅にして学尚があった。孝昌末に卒した。二子は早夭し、弟の盧道約の子の正達を後とした。武定年中、征虜将軍・太尉記室参軍となった。
曾孫 盧道和
道侃の弟、道和、字は叔維。兄弟の中では、人望が最も低い。冀州中軍府中兵参軍。卒す。
子は景 豫 。景 豫 の弟は景熙、武定年間、儀同開府諮議。
曾孫 道約
道和の弟、道約、字は季恭。員外郎として官途につき、累遷して 司空 録事参軍・ 司徒 属・幽州大中正・輔国将軍・光禄大夫となる。 司徒 右長史に転ずる。 太傅 李延寔が青州刺史として出向することになった。延寔は先に病にかかっており、道約は延寔の妻の弟であったので、詔により道約を延寔の長史とし、 散騎常侍 を加え、補佐させることとした。永熙年間、車騎将軍・左光禄大夫となり、広平王元賛の儀同開府長史を兼ねる。天平年間、開府儀同三司の高岳が長史に請うた。高岳が青州・冀州二州刺史に転任すると、道約は引き続き長史となり、高岳に従って二州を治め、補佐の名声があった。興和末年、衛大将軍・兗州刺史に任じられ、州では民衆の和を得た。武定元年に卒す。享年五十八。使持節・驃騎大将軍・儀同三司・幽州刺史を追贈される。
子の正通は、開府諮議。若くして良い評判があり、 晋陽 に召し出されたが、病にかかり卒した。妻の鄭氏は、正通の弟の正思と淫乱の関係にあり、武定年間、御史に弾劾され、人々に憎まれた。
曾孫 道舒
道約の弟、道舒、字は幼安、父の爵位を継ぐ。尚書左主客郎中から冠軍将軍・中書侍郎となる。卒す。
孫 敏
淵の弟、敏、字は仲通、小字は紅崖、若くして度量が大きい。太和初年、議郎に任じられるが、早世する。威遠将軍・范陽太守を追贈され、諡は靖。高祖(孝文帝)はその娘を嬪に納れる。敏には五人の子がいた。
曾孫 義僖
義僖、字は遠慶、早くから学問と志操があり、識見と度量は沈着で優雅であった。九歳の時、父を喪い、至孝の性分を示した。若い頃、僕射の李沖に賞賛された。秘書郎として官途につき、太子舎人・ 司徒 中郎を歴任する。神亀初年、任城王元澄が義僖を推挙し、散騎侍郎に任じられ、冠軍将軍・中散大夫に転ずる。母の喪により職を去る。幽州刺史の王誦は義僖と親交があり、旧友の李神儁らに手紙を送って言うには、「盧冠軍(義僖)がここにおり、時折親しく交わり、いつも数日間滞在し、政道について諮問することができる」と。そのように重んじられたのである。斉王蕭宝夤が開府諮議参軍に起用しようとしたが、病気を理由に辞して赴任しなかった。まもなく 司空 長史を兼ね、征虜将軍・太中大夫に任じられる。閑職に長年あり、淡々として自ら満足していた。李神儁が権勢のある者に取り入るよう勧めたが、義僖は言った、「先王の道を学ぶ者は、先王の志を行うことを貴ぶのであって、どうして 苟 も富貴を求めることができようか」と。
孝昌年間、 散騎常侍 に任じられる。当時、霊太后が臨朝しており、黄門侍郎の李神軌は朝野に勢力を傾け、婚姻を結ぼうと求めた。義僖は彼が必ず失敗すると考え、拒絶して許さなかった。王誦が義僖に言うには、「昔の人は一人の娘で五人の男子を失わなかったが、卿はそれを失おうとするのか」と。義僖は言った、「従わないのは、まさにそのためである。従えば禍いが大きく早まることを恐れる」と。王誦は堅く義僖の手を握って言った、「私は 天命 を聞いたが、人に告げることはできない」と。そこで義僖の娘は他の家に嫁いだ。婚礼の前夜、霊太后が中常侍の服景を遣わし、家に赴いて詔を下し、婚礼を中止させた。内外は恐れおののいたが、義僖は平然として自若としていた。建義初年、都官尚書を兼ね、まもなく安東将軍・衛尉卿に任じられる。普泰年間、都官尚書となり、驃騎大将軍・左光禄大夫を加えられる。
義僖が若い頃、幽州は頻繁に水害・旱害に遭い、先に数万石の穀物を民に貸し出していたが、義僖はその年の収穫が良くないのを見て、その借用証書を焼き捨てた。州里の人々はその恩徳を喜んだ。性格は寛大で温和、慎重であり、軽々しく親交を結ばず、魏子建とは特に情誼が厚く、言うことに隠し事がなかった。義僖の性質は清廉で倹約し、財利を営まず、顕位にあっても、困窮に陥ることがあり、麦飯や粗食であっても、喜んで甘んじて食べた。永熙年間、風疾が突然発症した。興和年間に卒す。享年六十四。本将軍・儀同三司・瀛州刺史を追贈され、諡は孝簡。
子の遜之は、武定年間、太尉記室参軍。
遜之の弟、世猷は、斉王の開府集曹参軍。
曾孫 義悰
義僖の弟義悰、字は叔預。 司空 行参軍、本州治中、散騎侍郎、 司徒 諮議参軍を歴任した。
子の孝章は、儀同開府行参軍であったが、早世した。
曾孫 義敦
義悰の弟義敦、字は季和。征北府默曹参軍を務めた。
子の景開、字は子達。武定年間、儀同開府屬であった。
義敦の弟義安、字は幼仁、仕官しなかった。義僖の諸弟は皆、兄には遠く及ばなかった。
孫 昶
盧敏の弟の盧昶、字は叔達、小字は師顔、経史に学識を広げ、早くから時誉があった。太和初年、太子中舎人・兼員外 散騎常侍 となり、蕭昭業のもとに使者として赴いた。高祖(孝文帝)は盧昶に詔して言った、「卿はすぐに彼の地に至るが、彼我の区別を心に留めるな。江揚の地は近く、早晩、必ず朕のものとなるであろう。卿らが言いたいことがあれば、遠慮なく疑わずに言え」。また副使の王清石に勅して言った、「卿は元来が南人であることをもって、言葉について気にかけるな。もし向こうに先に知り合いや知人がいて、会いたがれば会い、論じる必要があれば論じよ。盧昶はまさに寛柔の君子であるが、文才は多くない。あるいは主客が卿に詩を作るよう命じたならば、卿の知るままに率直に作るがよい。盧昶が作らないからといって、やめてはならない。およそ使者の体は、和を貴び、互いに誇り高ぶり、それを顔色に表して、使命の体を失ってはならない。卿らはそれぞれ己の知るところに従い、互いに戒め諭せよ」。盧昶がその地に至ると、蕭鸞が僭立していた。この時、高祖は南征を企て、盧昶の兄の盧淵は別道の将となった。蕭鸞は朝廷が兵を加えたことを知り、盧昶らを酷く扱った。盧昶はもともと剛直な人物ではなく、南人から「兄は将となり、弟は使者となった」と聞いて、大いに恐怖し、涙と汗が交わって流れた。蕭鸞は腐った米と臭い魚、刍豆(飼料)を供給した。しかし謁者の張思寧は言辞が剛直で、一度も屈服せず、ついに壮烈に館中で死んだ。盧昶が帰還すると、高祖は彼を責めて言った、「使命を帯びる礼儀は、死すとも辱めを受けることなく、たとえ海の果てに流されようとも、なお節を抱いて死すべきである。卿が長い縄で首を繋がれることができなかったのは、すでに恨むべきことである。ましてやどうして眉を伏せて飲み食いし、犬馬と同じように振る舞ったのか。生きるものは必ず死ぬ、寿命の長短などどれほどのものか。卿がもし身を殺して名を成し、それを竹帛(史書)に遺すことができたならば、どうしてあの飼い葉を甘んじて受け、君父を辱しめるようなことをしたのか。遠く蘇武を慚じることはなくとも、近く張思寧を恥じることはないのか」。盧昶は答えて言った、「臣は陸賈や随何のような器量に乏しく、閩越の地に使者として辱くも赴きました。時に蕭鸞は昏狂で、無道の誅戮を行っておりました。明時(朝廷)に奉じ、老母を養うために帰ることが叶わぬことを恐れ、尺蠖のように身を屈して伸びるを求めました。朝命に辱めを負い、罪は万死に値します。司寇(刑官)に帰参し、斧鉞の刑に伏して謹んでお聞きください」。かくして罷免された。久しくして、また彭城王友に任じられ、転じて秘書丞となった。景明初年、中書侍郎に任じられ、給事黄門侍郎・本州大中正に遷った。盧昶は外任を請うたが、世宗(宣武帝)は許さなかった。 散騎常侍 に遷り、尚書を兼ねた。
時に 洛陽 県で白鼠が捕らえられた。盧昶は上奏して言った。
詔して言った、「朕は大業を継承し、 宝暦 を敬って受け、八方を安んじ、四海に恵みを施さんことを思う。必世の期に当たりて麟鳳は降らず、勝残の会に属して白鼠が咎を告げる。万邦に罪あれば、実に朕が身にある。尚書は機謀を敷き納れ、献替(良策を献じ、悪政を廃すこと)を寄せられ、正しい言論が聞こえ、朕は実にこれを嘉し美とする」。侍中に転じ、また吏部尚書を兼ね、まもなく正任となり、なお侍中であった。盧昶は職務を守るだけで、何ら激揚するところがなかった。侍中の元暉らと互いに朋党を結び、世宗に寵愛されたが、時の論は彼を卑しんだ。
鎮東将軍・徐州刺史として出向した。永平四年の夏、盧昶は上表して言った、「蕭衍の琅邪郡の民である王万寿らが内々に誠意を結び、密かに臣のもとに来詣し、朐山の戍が今や交代するので、攻略の機会があると申しました。臣はすぐに旌賞を約束し、彼らを還して潜入させました。三月二十四日の夜、万寿らは同盟を率いて朐城を急襲し、蕭衍の輔国将軍、琅邪・東莞二郡太守、朐山戍主を兼ねる劉晣と将士四十余人を斬り、その首を州まで伝えました。臣はすぐに郯城戍副を兼ねる張天惠に 驍 勇二百を率いさせ、直ちに赴かせました。琅邪の諸戍は続々と援軍を送りましたが、蕭衍の郁洲はすでに二軍を派遣して天惠を拒もうとしていました。天惠は万寿らと内外から同時に撃ち、数百を俘斬し、すぐに城を占拠しました」。詔して盧昶に言った、「彭宋の地は辺疆に接し、勢い淮海に連なり、威を以て防ぐ術は、その功を得ることが容易ではない。朐山は険塞で、寇の要防たる地、水陸の交わる湊、揚州・郁洲への路の衝であり、凶徒を蓄え聚め、辺鄙を虔劉(殺害略奪)し、青・光・齊・兗の州はしばしばその患いに罹った。卿の妙算はすでに敷かれ、城を克ち衆を 殄 し、疆を展げ土を闢いた。これに勝る善きこと何があろうか。功勲を酬いることは、朕が嘉し止むところである。故に左右直長の閻遵業を遣わし、往時の思いを詳しく宣べしむ。この戍は郁洲の根本であり、存亡の繫がるところである。今や既にこれを失守し、存続の心なきものあり。彼らは喉を扼されるを見て、救援の計を図らんとす。今、水雨が盛んに行われる。宜しく防守すべきである。卿は深く考えて防禦の規、敵を攘うの略を案じ、使いの者が帰ったら詳しく聞かせよ」。
盧昶はまた上表した、「蕭衍の将である張稷・馬仙琕・陰虔和らがそれぞれ精兵を率い、諸堰に分屯しております。昌義之・張惠紹・王神念・王茂光は彼らの伝信を受け、続いて建 鄴 より出発しました。自存の計は、すべてここに帰しております。力を量り寇を準えるに、事態は軽からざる恐れがあります。何となれば、この兵九千に対し、賊の衆は四万、名将健士は遠近より畢集し、雨熱に乗じて決死来戦し、衆を藉り凶に乗じ、巣穴を固めんと希っています。傾国を挙げて来る所以は、朐山のためではなく、王師が六里を固め、湖衝を占拠し、南は淮浦を遮断する勢いが、崩壊して測り難いことを恐れ、海の利たる塩物が、常の貢ぎ物と交わって欠けることを恐れるからです。慮る所は大きく、必ず争う心があります。もし皇家が経略し、まさに討伐せんとするならば、必ずや将を簡び兵を増やし、糧食と兵器を加益し、これと対抗し擬する必要があります。相持して秋に至り、天の麾(指揮)一たび動けば、開拓すること容易です。南を図る計略は、事の根本は今にあります。兵六千、米十万石の増派を請います。もしそれが叶わぬならば、謹んで朝議をお聞きします」。盧昶はまた上表した、「賊徒は大いに集まり、衆旅は強盛で、柵を朐山に置き、門井に屯守し、固城を包囲し、昼夜連戦しております。恐らくは狡悪な勢いが既に強く、後には除揃(討伐)することが難しくなりましょう。直ちに征虜将軍趙遐に現有の兵を率いさせ、これと決勝させたいと存じます。趙遐は衆が少なく敵わぬことを慮り、もし一挙に失利すれば、衆心が挫けて怯えるとし、大衆が俱に至るのを待ち、鋭気を奮ってこれを撃つことを求めております。窃かにこの謀は、孟浪(軽率)なものではないと考えます。かつ臣はもとより朝規を奉じ、相拒んで守り、涼月を待つよう命じられておりました。今年は既に秋となり、高風が次第に挙がり、経算の大図、時事が既に至っております。かつ鮑口より以東は、陸運に障りなく、朐・固の間は、もとより停潦(水溜り)もなく、時に応じて辺陲を掩撃すべきです。しかるに賊は夏以来、甲を貫いて休まず、六里以北からは、城柵が相連なり、兵人を使役して、既に疲弊しております。もし大衆がこれに臨めば、必ずや擒え勝利を得ることができます。一城が退潰すれば、衆塁は土崩し、勝に乗じてこれを図ることは、朽ちたものを振るうよりも容易です。もし兵が速やかに至らなければ、彼らの熾んなる心を長じさせ、軍士は憂い恐れ、自ら異議を生じましょう。速やかに兵を簡配され、事機に及ばれますよう請います」。詔して言った、「朐山を克ち獲た計略は、元より盧昶にあり、乗勝の規は、終には宜しく委ねるべきところがある。これをもって起兵の始めより、即ち処分を委ね、前機の経略は、一にこれを任せた。今や既に兵を請う、理として速やかに遂げるべきである。冀・定・瀛・相の四州の中品羽林・虎賁四千人を派遣してこれに赴かせよ」。
また詔を下して昶に言う、「朐山の攻略は、実に卿によるものであり、疆土を開拓することは、実に長策である。然るに経討して未だ服せざるものあり、卿に非ずして誰かあらん。而して蟻の徒が死を送り、王略を侵さんと規る。天、小賊を亡ぼす、その数は遠からず。故に前者は卿に命じて親臨し指授せしめんとし、尋ねて卿の疾未だ瘳えず、且つ消息を待つ。今既に痊え復す、宜しく前旨に遵い、戈を秉り鋭を揮い、寇を殄するを懐とすべし。已に虎旅五万を発し、機に応じて電赴し、辰を指して至らん、遂に卿の本請に従う。彼の東南を截ち、亮かに高算を委ぬ」と。また詔を下して昶に言う、「朐山を取り戍を置くは、並びに是れ卿の計にして、始終の成敗は、悉く卿に帰す。卿は兵少なきを以て益すを請う、今已に卿の本意に遂う。聞く所に依れば、東唐の陸道は甚だ狭く、一軌の外は、皆大水なりと。彼必ず之を拠りて、以て軍路を断たんとす。若し已に此の如くならば、更に何の策を設けん。其の軍の奇兵変を、遽かに以て表聞せよ。又聞く、衍の軍の将帥、毎に流言有り、云う、魏は淮陽・宿 豫 を博くす、乃ち是れ両宜なりと。若し実に此れ有らば、卿は朐山の薪水の幾時を支うるを得るかを量るべし。脱び事容れて往復するあらば、馳驛して速やかに聞かしめよ。如し薪水少しく急なれば、即ち量計すべし。若し理以て此れ爾る可からざれば、亦た将軍の裁決に任す」と。
昶は儒生たるを以て、元来将略に乏しく、又羊祉の子燮が昶の司馬となり、専ら戎事を任じ、昶の耳目を掩い、将士之を怨みたる。朐山の戍主傅文驥、糧樵俱に罄き、城を以て衍に降る。昶、城の降るを見て、ここに先ず走り退く。諸軍相尋いで奔遁し、大寒雪に遇い、軍人の凍死し及び手足を落とすもの三分にして二なり。国家江左を経略するより以来、唯だ中山王英の鍾離に敗れ、昶の朐山に利を失う、最も甚だしきものと為す。世宗、黄門甄琛を遣わし馳驛して昶を鎖し、其の敗状を窮む。詔して曰く、「朐山の敗は、傷損実に深し、始を推し末を究むれば、罪は元帥に鍾る。大宥を経ると雖も、軽重宜しく別つべく、昶一人は以て官を免し論坐すべし、自余の将統以下は悉く赦に依り復任を聴くべし」と。
未だ幾ばくもせず、太常卿を拝し、仍として安西将軍・雍州刺史を除き、又鎮西将軍の号を進め、 散騎常侍 を加う。熙平元年、官に卒す。征北将軍・冀州刺史を贈られ、諡して穆と曰う。
昶は寛和にして矜恕、綏撫に善く、其の徐州に在りし時、戍兵疾あれば、親しく検恤す。番兵の年満ちて帰らざるに至りては、容れて後役に充つるを許し、昶の一政を終え、然る後に始めて還る。人庶之を称す。
曾孫 元聿
子元聿、字は仲訓、他に才能無し。高祖の女義陽長公主に尚し、駙馬都尉を拝す。位は太尉司馬・光禄大夫に至る。卒し、 中書監 を贈られる。
子士晟、儀同開府掾。
曾孫 元明
元聿の第五弟元明、字は幼章。群書に渉歴し、兼ねて文義有り、風彩閑潤にして、進退観るべし。永安の初め、長兼 尚書令 ・臨淮王彧之を欽愛す。彧の開府するに及び、引いて兼属と為し、仍として部曲を領す。出帝の阼に登るや、郎任を以て礼を行い、城陽県子に封ぜられ、中書侍郎に遷る。永熙の末、洛東の緱山に居り、乃ち幽居賦を作る。時に元明の友人王由潁川に居る、忽ち夢に由が酒を携えて就き言別し、詩を賦して贈る有り。明くるに及び、其の詩の十字を憶う、「茲より一去して後は、市朝復た遊ばず」と。元明歎じて曰く、「由の性俗に狎れず、旅寄人間す、乃ち今夢有り、又復た此の如し、必ず他故有らん」と。三日を経て、果たして由の乱兵の害する所と為るを聞く。其の亡日を尋ぬれば、乃ち是れ夢を得しの夜なり。天平の中、吏部郎中を兼ね、李諧に副えて蕭衍に使いしに、南人之を称す。還りて、尚書右丞を拝し、 散騎常侍 に転じ、起居を監す。積年史館に在りて、了て意を厝さず。又黄門郎・本州大中正を兼ぬ。元明は善く自ら標置し、妄りに交遊せず、酒を飲み詩を賦し、興に遇いては返るを忘る。性玄理を好み、史子新論数十篇を作り、文筆は別に集録有り。少時常に郷より還り洛す、途に相州刺史・中山王熙に遇う。熙は博識の士、見て歎じて曰く、「盧郎かくの如き風神有り、唯だ離騷を誦し、美酒を飲み、自ら佳器と為すを須つ」と。遂に之を数日留め、帛及び馬を贈りて別る。元明凡そ三たび娶る、次妻鄭氏は元明の兄の子士啓と淫汙す、元明離絶する能わず。又世地を以て自ら矜るを好み、時論此を以て之を貶す。
曾孫 元緝
元明の弟元緝、字は幼緒。凶率にして酒を好み、曾て婦氏に飲宴し、小しく不平有り、手を以て其の客を刃す。起家して秘書郎、転じて 司徒 祭酒。稍く遷りて輔国将軍・ 司徒 司馬、官に卒す。 散騎常侍 ・ 都督 幽瀛二州諸軍事・驃騎大将軍・吏部尚書・幽州刺史を贈られ、諡して宣と曰う。
子士深、開府行参軍。
孫 尚之
昶の弟尚之、字は季儒、小字は羨夏、亦た儒素を以て重んぜらる。太和の中、議郎を拝し、転じて趙郡王征東諮議参軍。母憂にて官を去る。後に太尉主簿・ 司徒 属・范陽太守・章武内史・兼 司徒 右長史と為り、冠軍将軍を加え、左長史に転ず。出でて前将軍・済州刺史と為る。入りて光禄大夫を除く。正光五年卒す、年六十二。 散騎常侍 ・安東将軍・青州刺史を贈られる。
曾孫 文甫
長子の文甫は、字を元祐という。若くして器量と志操があり、文史に広く通じ、当時に誉れがあった。 司空 参軍の位に至り、四十九歳で卒した。
子の敬舒は、文学の才があり、早くに亡くなった。
曾孫に文翼あり。
文甫の弟の文翼は、字を仲祐という。若い頃は甚だ軽薄で落ち着きがなかったが、晩年にはかなり節操を改めた。員外郎となり、郷里に帰った。永安年間、 都督 となり、范陽三城を守って賊帥の韓婁を防ぎ功績があり、范陽子の爵位を賜った。永熙年間、右将軍・太中大夫に任ぜられた。郷里に閑居して卒し、六十歳であった。
子の士偉は、興和年間、中散大夫となった。
文翼の弟の文符は、字を叔僖といい、性質は率直で物事にこだわらなかった。員外郎・羽林監・尚書主客郎中を歴任し、通直散騎侍郎に遷った。永安年間に卒し、四十歳であった。
子の子潛は、武定年間、斉の文襄王の中外府中兵参軍となった。
度世は、李氏の甥である。彼が済州刺史であった時、国家は升城を平定したばかりであった。無塩の房崇吉の母傅氏は、度世の継外祖母の兄の子の妻である。兗州刺史申纂の妻賈氏は、崇吉の父方の叔母の娘であり、共に戦乱で敗れ、老病で憔悴していた。度世は中表の親族関係を推し量り、恭しく思いやりを示した。傅氏に拝謁するたびに跪いて起居を問い、時宜に応じて衣類や食物を贈り、また賈氏を救済し、衣服や食事を供給した。青州が陥落すると、諸崔は零落したが、多くを収容し贖い出した。淵や昶らもまた父の風に従い、遠い親族や疎遠な縁者にも、尊属としての礼を尽くし、年長者には皆拝礼して敬意を示した。家門の礼法は、世に推賞された。謙虚で控えめ、質素で、世と競わなかった。父母が亡くなった後も、同居して財産を共有し、祖父から孫に至るまで、家内は百口を数えた。洛陽にいた時、飢饉の年があり、自らを養う術がなかったが、尊卑仲良く和やかで、豊かさも質素さも共にした。親族の従兄弟たちは、常に朝に諸父に挨拶し、別室に出て座り、夕方になってから入った。公務以外では、むやみに交際しなかった。このように礼をもって互いに励まし合った。また一門から三人の公主(皇女)を娶り、当時栄誉とされた。淵兄弟が亡くなり、道将が卒した後、家風は衰え損なわれ、子孫は多く法に外れ、閨房の内が乱れ穢れ、論者に軽蔑された。
従祖弟に神宝あり。
度世の従祖弟の神宝は、中書博士であった。太和年間、高祖(孝文帝)が高陽王元雍のためにその娘を妃に迎えた。
初め、玄の従祖兄の溥は、慕容宝の末年、郷里の部衆を統率し、海辺に駐屯し、遂に郷里の姻戚である諸祖十余人を殺害し、征北大将軍・幽州刺史を称し、郡県を攻撃略奪した。天興年間に討伐され捕らえられ、事績は帝紀にある。
溥の玄孫の洪は、字を曾孫という。太和年間、中書博士を歴任し、次第に高陽王元雍の鎮北府諮議参軍・幽州中正・楽陵・陽平二郡太守に遷った。洪に三子あり。
長子の崇は、字を元礼という。若くして美名を立て、識者は遠大な将来を約束するものと認めた。景明年間、驃騎府法曹参軍となった。早世した。
子の子剛は、 司空 行参軍・荊州驃騎府主簿となった。関中で没した。
崇の弟の仲義は、小名を黒といい、世に知られた。高陽王元雍の 司空 行参軍・員外散騎侍郎・幽州別駕となった。
弟の三男は叔矩、字は子規。武定年間に尚書郎となった。
子規の弟の子は子正、 司徒 法曹参軍となった。崇兄弟は官位こそ達しなかったが、婚姻においては常に玄の家と同等であった。
仲義の弟は幹、字は幼禎。州主簿となった。
子は譲、儀同開府参軍となった。
洪の弟は光宗、子は観、観の弟は仲宣、事績は文苑伝にある。
仲宣の弟は叔虎、武定初年に 司徒 諮議参軍となった。
洪の従弟は附伯、附伯の弟は侍伯、ともに学識があった。附伯は位は滄州平東府長史に至った。侍伯は、永熙年間に衛大将軍・南岐州刺史となった。
侍伯の従弟は文偉、興和年間に驃騎大将軍・青州刺史・大夏県開国男となった。
【史評】
史臣が曰く、盧玄は緒業を著わし聞こえ、まず旌命に応じ、子孫は跡を継ぎ、世の盛んな門閥となった。その文武功烈は、ほとんど記すに足るものはないが、時に重んぜられ、声高く冠帯に優り、およそ徳業儒素において人に過ぐるものがあった。淵の兄弟もまた二方の風流があった。雅道家声は、諸子も及ばず、余烈の及ぶところ、満たされざるものがあろうか。
校勘